父が残してくれた

 今日、9月28日は私の父の命日です。
昭和4年に警察官だった私の祖父の長男として生まれ、3人の妹と岡山で激動の時代を生きた父。
終戦を学徒出陣の直前に迎え、京都大学経済学部から富士銀行に入社。
 母はいわゆる「良家のお嬢様」で長女でもあった母との結婚は、相当な(笑)プッシュがあったものと思われます。銀行員の定めで、全国の支店に転勤。兄と私が生まれたのは渋谷区に住んでいたころの事。健康だった兄と比べ、心臓に穴が開いていたり、病弱ですぐに高熱を出したり、目の病気が見つかったりと「心配のの巣窟」(笑)だった私。心臓の病気が心配で、当時の富士銀行では異例の「飛行機移動」が許され北海道の札幌に転勤。札幌支店長に当時の「最年少記録」で昇進し、今度は代々木上原の団地=社宅に引っ越し。私は幼稚園と小学校入学をこの代々木上原で過ごしました。
ちなみに当時の幼稚園「シオン幼稚園」は未だにあるようです。上原小学校もきっとありますね。
 治療法がなく、失明するまで進行する目の病「網膜色素変性症」が見つかったのがこの時期。
両親のショックは私が想像できるものではなかったはずです。当時、診察を受けていた国立小児病院の眼科医とやり取りしていた手紙が、のちに私の障碍者年金受給の「証拠」になるとはだれも思っていなかったでしょう。
 その後、両親の故郷でもある岡山県に転勤。倉敷市の田んぼのなかに建つ社宅に引っ越し。
小学校2年生の私は、父を送迎する銀行の車を不思議に見ていましたが、今思えばバブリー!(笑)
 その倉敷で母型の祖父がくれた、ひびの入った分数ヴァイオリンが私の音楽人生の始まり。
いやいや?だったのかさえ、あまり記憶になく、記憶に残っているのは「スズキメソード」の楽譜を、母が大きなスケッチブックに手書きで拡大して書いてくれていたこと。楽譜が小さくて見えなったんですね。その頃母と「いつか、楽譜を機械で大きくできるようなものが出来たらいいね~」と話していました。それ、今でいう拡大コポー(笑)夢はかなっていた。
 父は相変わらずの「企業戦士」で、毎年お正月になると銀行の店員さんたちが我が家(社宅)に大挙しました。おそらく20人くらいいた記憶。応接間は煙草とお酒の匂いで充満。
私も時々、熱燗やら母が作る料理を運ぶお手伝い。挙句、酔っ払った行員差たちが「バイオリンひいてくれたお年玉げるよ~!」で、否応なく弾かされた記憶あり。
 その後、一家はは杉並区荻窪の社宅に引っ越します。小学校2年から4年ごろ←すでに怪しい。
荻窪小学校に通っていたころに、ヴァイオリンを習っていた記憶も「証拠」もないのです。
つまりこの時、私のヴァイオリン人生は一度終わっていたことになります。衝撃の真実。
 でもなぜか?その当時の社宅で、父が私にアップライトのピアノを買ってくれています。
なんなんだろう?私はと言えば、機械好きが目を覚まし「テープレコーダー」をねだり、父はどこから借りてきた、巨大なオープンリールのテープレコーダーを持ち帰りました(笑)それで何か聴いたりした記憶もなく。だってマイクもスピーカーもなかったし。父も母も兄も「機械音痴」です。
 終わりかけていた音楽人生に再び火をつけたのも「父」でした。
武蔵語金委に父の念願だった「マイホーム」が建ったのは、私が小学校5年生の10月。
当時父は富士銀行の三鷹支店長。夜遅く、帰宅していました。この頃も毎年「新年会」は自宅で開かれいました(笑)が、父がどこから情報を得たのか?「久保田良作先生」という、高名な先生のご自宅に母と私が伺ったのです。何を考えていたんでしょう?この家族。私は「くぼたせんせー」を知るはずもなく、ヴァイオリンもすでに手元になく。そんな親子を久保田良作先生は「では、しばらく家内がレッスンをしましょう」と!なんてこった(笑)
 由美子先生(奥様)のレッスンは、ご自宅の2階で行われていました。
母と毎週、東中野のご自宅に通いました。楽器は先生がご紹介くださった楽器でした。
そのお部屋に、大きなスペースで「ジオラマ」があり小さな電車がたくさんおいてありました。
「こんなものを、子供みたいに喜んで買ってくるんですよ!」と由美子先生が笑いながら話してくださったのを思い出します。
 こうなると、ヴァイオリンを「やめたい」と言い出せなくなったものの(笑)、やる気もなく毎日母に「バイオリン練習しなさい!」と叱られながら、母の目の届く場所でちょろちょろ(笑)
 あまりに練習が少ないと、夜遅く帰ってくる父が「練習しないならやめろ!」と私を叱ります。
めっちゃ悔しかった記憶だけ。
 中学生になり、由美子先生から「良作先生」のレッスンになりました。
一階のレッスン室で、ひたすら「ラシドレミレドシ」と姿勢と手の形のレッスンが延々と続きました。
 中学1年生の終わりごろに「もう少し良いヴァイオリンに替えた方がいいですね」と先生からお話を頂き、父は先生の仰る通りに「田中さん」という職人さんに楽器を依頼。数週間後に田中さんから「良い楽器が輸入できたので」とお電話がありました。値段を聞いた父が何度も聞き返していました(笑)
 結局、楽器を見ることも確かめることもなく「久保端先生が大丈夫と仰るのだから」と、購入を決断した父。銀行員でも当時「楽器の購入」でお金を貸してもらえず、親戚…母方の父にお金を借りたり、趣味で集めていた骨董を売ったりして工面したようです。その楽器は今も私の「相棒」です。
 やる気の感じられない次男に、借金をしてまでヴァイオリンを買い与えた父の「心境」を考えると、ますます理解に苦しみます。まさか「これでやる気になるだろう」と思ったはずもなく。
 中学3年生になってから「くにたちでも受けてみますか?」という先生の軽い言葉に、まんまとのっかった私達家族。そもそも「くにたち」が何なのか?さえ知らない一家でした。
 そこから突然の「桐朋受験モード」に。黒柳先生に聴音・ソルフェージュ・楽典のレッスンを週に2回。千歳船橋まで明るいうちに伺って、帰りは真っ暗なので父が迎えに来てくれていました。今考えるといつの間に?(笑)
 国立を受験した日は大雪。そして桐朋の受験初日に伴奏合わせの帰りの電車で、猛烈な腹痛に建っていられなくなり母に抱えられながら帰宅。倒れこむように寝て2時間ほど、死んだように眠っていたそうです。起きた私は「なに?なんかあった?」とけろっとしていました。胃痙攣。
菌t尿したんですね。で、しべての試験が終わって「せーせー」していた私。中学校の厳しいお達し
で都立高校も受験していました。そんなある日、学校から帰ると家から母が出かけるタイミング。
「これから、国立の入学金を払ってくる」と母。「やめなよ。いいよ。桐朋、落ちてたら都立いくから」と大見えを切った謙介(笑)その前の晩に、国治達から電話があり「締め切りをすぎましたが、一日だけ待ちます」との話。それは私も知っていましたが、まさか?本当に30万円も「バクチ」に使うとは思っていませんでした。
 母がすぐに父に電話。「本当にいいのか?落ちていたら都立しかなくなるんだぞ!」と電話の向こうで父が私に。「いいよ」と絶賛反抗期中の私(笑)結局、母はそのまま、自宅にいました。
 数日後の発表で、なぜか?富士銀行調布支店から「合格しています」って電話で速報。なんで?(笑)心配でたまらなった父が、仙川に一番近い富士銀行支店「調布」に指示を出していたと推測。
なんともおおらかな時代。公私混同も甚だしい。
 そんな父との関係は「似たもの親子」なのか「反面教師」なのかわかりませんが、父が亡くなる直前まで変わりませんでした。浩子姫はずいぶんと心を痛めていた益田が、親子は案外普通でした(笑)


 父親と喧嘩ばかりしていた私です。当たり前ですが、いつも本気で喧嘩できたのは「親子」だからです。私の生活を気にかけ、病気を気にかけていながら、口に出さなかった父です。
父に何かをプレゼントしても「いらん」という父でした。シャイで頑固。一番、面倒くさい人種でした。私がその父に似ていることは、自分で否定しても無駄でしょう(笑)
なんに対しても大げさな性格。言い出したら聞かない性格。人前で「いいカッコ」する見栄。
自分でも認めます。上の他rあ「あきらめろ。おれの子だ」と笑われている気がします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

  

音楽を「習う」「教える」ことの意味

 上の演奏は、今は亡き恩師「久保田良作先生」の門下生(中学生以上)と桐朋学園大学のチェリストとコントラバス奏者が加わっての「夏合宿」最終日におこなわれる「どるちえ合奏団」のコンサートです。1978年夏の軽井沢、合宿地でもあった清山プリンスホテルになるガラス張りのホール。時々、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下や浩宮殿下(現天皇陛下)が私服で聴きにいらしていたと言う夏のイベントでした。
 合宿前に東京で、主に中学生の生徒たちを集めての合奏練習も行われていました。門下生は中学生になるとこの合宿に参加することができます。高校生になると時にはヴィオラを演奏しながら参加。大学1年生まで暗黙の「必修(笑)」参加でした。お手伝いのチェロ、コントラバスにはそうそうたるメンバーが顔をそろえておられました。私の記憶しているだけでも、北本さん、秋津さん、桜庭さん、小川さん、山村さん、同期の金木君。コントラバスに大友直人さんや北本さんも来ておられました。豪華すぎ(笑)
 この弦セレはこの年のプログラムで最後の曲でした。アンコールにはいつも「夏の思い出」を演奏。前半のプログラムには中学生の初々しい「アイネク」や「ディベルティメント」。私が初めて参加した年には、ロッシーニの弦楽のためのソナタ(GDur)を演奏会の才女に演奏しました。合宿が清山プリンって(笑)あり得ない「セレブ」なお話で、当時10万円近い合宿費になってしまいこの数年後に、北軽井沢の「農園ホテル」に(笑)そこから先生がお亡くなりになる前まで、箱根仙石原のホテルへと変わっていきました。私が撮影のお手伝いで最後に「合宿」にお邪魔したときの映像があります。1985年8月20日の映像です。

 加藤知子さんも元は久保田良作先生の門下生でした。私の3学年大先輩。
さて、本題は「音楽を習う・教える」と言うテーマです。
今更私が言うまでもなく、久保田良作先生は数えきれないほどのヴァイオリニストを世界に送り出された指導者である前に、日本のトップヴァイオリニストでいらっしゃいました。毎年、上野文化会館での「ジュピタートリオ」での演奏は私にとってどんな演奏会より刺激的でした。さらに、桐朋学園大学音楽学部で弦楽器主任教授、学部長も務められると言う激務をこなしながら小学生の子供たちも数多くレッスンされておられました。

 そもそも、音楽は「教えられる」ものでしょうか?演奏技術の「一部」は教えられるものだと思います。それは表面的なもので、内容も限られています。
 「師匠・弟子」の菅駅は、親子以上の信頼関係があって初めて成立するものだと私は考えています。「先生と生徒」とはまったく異次元の関係です。師匠を心から信じることが自然にできなければ、得られるものは表面的なもの…それも怪しいと思います。「そうかな?本当かな?違う気がする」と思いながらレッスンを受けて、何か意味があるでしょうか?もちろん、師匠も人間です。神でも仏でもありません。間違いはあるはずです。その間違いを含めて、どこまで師匠の言葉を信じられるか?だと思います。

 話が「ぶっ飛び」升が(笑)、仏教の教えを説いた「釈迦」が、悟りを開き「弟子」たちにそれを解こうとしたとき、あまりに悟りが深く、当時の人間には理解不能だったことから多くの出来が「間違った解釈」をして現在、数多くの仏教が存在していると言う話があります。つまり現在の仏教は、すべて「釈迦の教え」のはずなのですが、それぞれ異なった「教え」を伝える人が生まれているという事です。

 音楽も本来、教える人の「悟り」まで行かなくても「信念」「理論」があります。それを「弟子」に伝えることは、可能なのでしょうか?理論を言語化することも、演奏家が自分の演奏をするだけならば、全く不要なことです。そんな時間があったら練習して演奏したい!と思う演奏家の気持ちも「そりゃそうだよね」(笑)
 それでも!自分が十て来た道と、師匠が伝えてくださった「であろう」理論や技術を次の世代に伝えようとする「指導者」がいます。
 指導者がいても「弟子」がいなければ?話は進みません(笑)「習いたい」と思っても弟子に慣れないケースもある一方で、弟子になる人の「絶対数」が減っている気がします。音楽大学で「習う」学生にも、先述の「先生と生徒(学生)」の信頼関係を超えられない人が増えている気がするのは老婆心でしょうか?レッスンを受ければ「うまくなる」と思う学生。うまくなる「秘訣」を直接聞きだそうとする学生。なにか間違っている気がします。
 指導する人も生活があります。生きていくために生徒・学生を選べないと言う現実t問題があります。少子化と不景気は国民の責任ではありません。「国家」の罪です。そのために、音楽科を目指す人が激減し、ますます指導者の存在すら危うくなっています。
 どんなに優れた指導者だっとしても、習いたいと思える「環境」がなければ習えないのが現代社会の定めです。「理想」と「現実」が日々乖離していきます。
このまま後、10年もしたら日本には「指導者」がいなくなる日が来ます。日本から音楽を学ぶ環境が消えることになります。悲しいことです。
 せめて「先生」が「師匠」に変化=深化することを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

思い出と紐づく音楽

 映像は今から20年ほど前、みなとみらいホールでの演奏です。当時勤務していた中学・高校部活オケの定期演奏会風景。ハープは桐朋時代の先輩にお願いしましたが、パイプオルガン演奏者も高校生。
週に1回の合奏以外「自主練習」の部活オケ。ここまで弾ければ十分かと(笑)
 さて、この音楽はエドワード・エルガー作曲「威風堂々第1行進曲」です。
イギリスの第2国歌とも呼ばれ、戴冠式で演奏される曲でもあります。イギリスの「プロムス」で聴衆が全員でこの演奏に合わせて歌う姿は、見ているだけで感動します。
 日本でも様々な「儀式」でこの曲が使われます。入学式、卒業式など学校での儀式で生徒が演奏したりすることも多い音楽です。儀式で演奏した人でなくても、儀式に「参加」した人の思い出に、この音楽が結び付いている人も多いようですね。音楽の曲名を知らなくても、この曲を聴くと思い出がよみがえる…そんな経験はありませんか?

 演奏を聴いた人の「記憶に残る」演奏に共通点があるでしょうか?
テレビCMで使われる音楽や、番組中の「ジングル」店舗で流れる「テーマ音楽」はまさに「記憶に残すための音楽」です。
また映画やドラマで使用される音楽は、見ている人の心情・感情に大きく関わります。
不安や恐怖心を「あおる」音楽もあれば、感動的な「涙を誘う」音楽もあります。
 音楽が人間の「感情の記憶」に紐づき、さらに共感する人が多ければ多いほど音楽が人々に広まり「定着」するのかも知れません。クラシック音楽は「大衆音楽」の対極にあるように思われがちですが、実際にはクラシック音楽も大衆の中に溶け込める音楽であることは事実です。むしろ、日常の生活にクラシックの音楽が広まれば演奏会に足を運ぶ人も増えるはずですよね。
 演奏会で「良い記憶」に残ってもらえる演奏をすること。これも演奏家にとって大切なことだと考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲家の個性を考える

村松崇継作曲

 私たちが演奏する音楽を「作曲」した人がいます。歌であれば「作詞」した人も。その人が作った作品を音楽にするのが演奏者であり、その作品と演奏を楽しむのが聴衆=聴く人です。演奏する時、作曲家の思い・心情を創造することは出来ますが、あくまで演奏者の勝手な解釈や思い込みでしかありません。作曲家であれ演奏家であれ「真実の心情」を他人が理解することは不可能です。「作曲家の精神に触れた」と言う演奏家の言葉に違和感を感じています。演奏家の思いを聴衆が完全に理解してもらうことを望んで演奏しても、すべての人に理解してもらうのは無理なのと同じことです。作曲者自身が演奏しても、聴衆が自由に感じることが音楽の良さだと思っています。

 さて、そう思いながら「作曲家の個性」を考えるのは何か矛盾してい様に感じるかも知れませんが、演奏者として作品ごとに感じること・浮かぶ情景があるのは当たり前です。理論的な分析=和声の進行や旋律の特徴などを感じることもあります。言い換えれば、理論を無視して音楽を「作曲」したとすれば、それは音の「羅列」でしかなく、聴く人の感情を揺さぶる音楽にはなり得ないはずです。現代音楽の領域で、掃除機の音や「雑音」と呼ばれる音を並べる「現代音楽」があります。私には音楽として感じることは出来ないのが正直な気持ちです。
 ただ、音楽の歴史の中で「聴きなれない」という理由で評価されなかった音楽が、その後「良い作品」と言われた例は数限りなくあります。「前衛的」なのか「無作為な音の羅列」なのか?一般の人に理解不能なのは当然のことです。
 ラベルやドビュッシーの音楽を聴いて「不快」と感じる人がいても当然のことです。「良さを理解できないのは感性が足りない」とマニアぶる人こそ滑稽だと思います。絵画の世界でも同じです。ピカソの絵を見て「素晴らしい」と思う人がどれだけいるのでしょうか?料理でも伝統を重んじる料理もあれば、創作料理もあります。つまり、私たちが「なじんだ=知っている」ものは許容しやすく「初めて=知らない」ものへの拒絶や不安があるのは、生物の本能ではないでしょうか?
 猫や犬でも「初めて」のものには警戒しますよね?人間も同じです。

 村松崇継さんの作品に出合ったのは、ごく数年前の事です。いのちの歌を歌う玉置浩二さんと小野リサさん、ピアノを演奏している作曲者自身の映像を見て素直に魅了されました。それからと言うもの、村松氏の作品に出合うたびに「これ、弾いたらどうなるかな?」という好奇心が先に立ちます(笑)
 作曲の素人が偉そうに書いてはいけないのですが、村松氏の作品に共感するのは「奇をてらわないが特徴的な和声進行」と「記憶に残る旋律で跳躍が個性的」なことです。作曲者ごとの「特徴」を感じることは珍しくありません。例えば「ジョン・ウイリアムス」の映画音楽の中で、スーパーマンとスターウォーズの似ていること(笑)は有名です。でもシンドラーのリストが彼の作品と言われて「へー」と思うのも事実です。
 作品の好き・嫌いは誰にでもあります。演奏する人にも聴く人にも。演奏者が自分の好きな作品を選んでコンサートで演奏する時、聴衆が好きになってくれる…とは限りません。演奏者の作品への「愛情・思い入れ」と聴衆の「好感度」は必ずしも比例しないのが現実です。それでも!演奏したいという気持ちが演奏者にあってこそ、コンサートは成り立つものだと思います。自分が聴く側になったときのことを考えることも、演奏者の「優しさ」だと思います。曲間のMCやプログラムノートに、演奏者の「暑苦しいほどの思い入れ」があると…(笑)私は正直に「引いて」しまう人間です。と言いながら自分のコンサートはどうよ?!(涙)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴィブラートを考える

ふるさと(ヴァイオリン・ピアノ)

 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの「ヴィブラート」
多くのアマチュアヴァイオリニストが自分の好きなヴィブラートに行きつかない…思ったようにヴィブラートをを「かけられない」というお悩みを持っています。
 これまでに多くの人たちにヴァイオリンで演奏する楽しさを伝えてきた経験の中から見えてきた「できる・できない」の違いを書いてみます。
 中学・高校の部活オーケストラでヴィブラートをすぐに出来るようになる子供と、なかなか思ったようにできない子供がいます。音楽経験の長さや体格的なものとは無関係です。練習時間にも比例しません。「なんとなく」できる子供と「頑張ってもできない」こども。どこが違うのでしょう?
 なんとなくヴィブラートができる子供に共通することを考えてみます。
・観察する集中力が強い
・呑気な性格=焦らない性格
・固執しない性格=作業容認性が高い
・スポーツが苦手=筋力が強くない
こうしてみるとなんとなく「ひ弱なタイプ」(笑)です。
スポーツも勉強もバリバリにこなす!人でも「のん気」な人はヴィブラートがすぐにてきるようです。
 ヴィブラートに限らず、楽器の演奏は「運動能力」が必要不可欠です。
吹奏楽部の「間違った腹筋強化トレーニング」があるように、スポーツでも音楽でも指導者が無知な故に、無駄な時間と労力を生徒にさせて、最悪筋肉を傷める結果になります。
 ヴァイオリンの演奏に必要な「運動能力」は、前回書いた「瞬発力」と「柔軟性」です。
ちなみに私自身、異常なほどに身体が「硬い」(笑)ので参考になるかどうか不安です。

 ヴィブラートが苦手な人に見られることは?
・手の動きに集中しすぎて「音」に集中できない
・動かそうとして指・手首・前腕・肘に力を入れすぎる
・ピッチの微細で連続的な変化に反応しない
・右手の動き=ボウイングが安定していない
ヴィブラートは「波」をイメージするとわかりやすくなります。
・浅い波と大きな波
・速い(細かい)波とゆったりした(長さの長い)波
上記の組みあ合わせは4通りあります。
1.浅く遅い
2.浅く速い
3.深く遅い
4.深く速い
この4つをさらに少しずつ変化させることもできます。
演奏する「音」によって、どんなヴィブラートを選ぶのか?正解はありません。
あくまでも演奏者の「好み」です。1種類しかヴィブラートの選択肢がない場合「ノンヴィブラート・ヴィブラート」の2択になります。いくら右手で音量と音色をコントロールできても、ヴィブラートが1種類と言うのは寂しいと思います。

 腕の筋肉の緊張と弛緩=緩んだ状態は、見た目ではわかりません。実際にその人の腕や手首、掌に触れてみると非常によくわかります。また、自分の腕の緊張と弛緩も意識しにくいものです。
できれば、家族に腕を触ってもらいながらヴィブラートをしてみると、必要以上に緊張していることを教えてもらえます。
 左手を不自然な向きに「ひねる」のがヴァイオリン・ヴィオラの定めです。多くの楽器がある中で、腕の筋肉=自然な身体の位置と逆に擦る楽器はほかに見当たりません。
 左手の「手のひらを下」に向けて、手首を「縦方向=上下」にブラブラさせることは簡単にできます。
 左手の「手のひらを右」に向けて、手首を「横方向=左右」に振ることも難しくありません。むしろ、この掌の向きが人間にとって一番「自然な向き」です。
 左手の「手のひらを上」向けて、さらに「左にひねる=小指を上・親指が下」になる方向にひねるのが、ヴァイオリン・ヴィオラの構え方になります。最も不自然な向きです。上腕=二の腕に「力こぶ」が盛り上がるはずです。また前腕の「手の甲側」の筋が盛り上がり硬く緊張するはずです。この状態で「手のひらをブラブラ」させるのがヴィブラートなのです(笑)無理がありますよね~。
さらに!その左腕を「前方に伸ばす」状態にすると?「いてててて!」じゃ、ありませんか?
左ひじを曲げると楽に「ひねる」ことができます。左ひじを伸ばすと肩の筋肉まで「引っ張られる」感覚があるはずです。
 少しでも左腕と左手の緊張を和らげるために「ストレッチ」をしてみることをお勧めします。
無理やり左手の力で「ひねる」のではなく、右手で左手の掌を「ねじる」助けをしてあげましょう。
始めは左ひじを曲げて「ねじる」ことからスタートし、徐々に左ひじを伸ばしてねじることに慣れていくのが楽にストレッチする方法です。

 見た目と違うのがヴィブラートです。小さな力で、大きな運動と、大きなピッチの変化を生み出す「柔らかさと最小限の力」を見つけるために、まず「音を聴く」ことに集中しましょう。
焦ると逆効果です。力を「加えて」できたと思うのは間違いです。ゆったりした波の海でゴムボートに寝ている「イメージ」で練習してみてください。酔わない程度に(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

瞬間的な動きを身に着ける

 以前書いたブログのなかで書いた「瞬間的な動き」について。
視覚に頼って動こうとすると、反応が遅れるのが人間です。
 五感の中で「嗅覚」「味覚」は運動に関わりませんが
「触覚」「聴覚」を忘れないことです。
 さらに「速く動く」ためには「速く力を抜く」ことが不可欠です。
ヴァイオリンの演奏中に必要な「力=筋肉の動き」は、三つに分類されると思います。
1.脱力しているときの「保持する力」
2.瞬間的に力を、すぐに1.に戻る力
3.意識的に力を持続したり、徐々に変化させる力
 一番大切なのは1.の「自然体で楽器と弓を持つ」時の最小限の力を見極めることです。
 2.の力は「瞬発力」とも呼ばれます。一瞬で最大の力を入れ、直後に1.の状態に戻す技術が演奏には不可欠です。リラックスしている時に、不意に肩を叩かれたら「びくっ」とする感覚。気を抜いていて、熱いものに触った時の「あちっ」という感覚。それを意識的に行うのが「瞬間的な運動」です。
 3.は左手で弦を押さえ続ける力や、弓を動かすときの力です。徐々に力をいれたり、反対に少し実力を抜いたりすることもあります。

 瞬間的な運動を身に着けるためには、自分の体で「今、どこに、どのくらいの力が入っているか?」を観察することです。日常生活を何気なく過ごしていると、自分の筋肉の動きや力を意識していません。ヴァイオリンを演奏するとき「無意識」に有害な力=不要な力をいれていることがよくあります。
自分では意識していないので、それが「当たり前」になってしまいます。
 弓を「持つ」と思い込むと、弦の上に弓の毛が「乗っている」ことを忘れます。その逆に弓の圧力を減らす=弓の毛を弦から浮かせる運動は、右手の親指を支点にして、一番遠い「小指」が力を加えることが「てこの原理」で理解できますが、小指を「つまようじ」のように突っ張っていたり、小指を常に浮かせて演奏することは「瞬間的な運動」を阻害する原因になります。
 左手も同じように「ネックを握りしめる」癖が見受けられます。
楽器が落ちるような「不安」がいつまでも抜け切れていないことが原因です。さらに、弦を指で押さえるための「力」に反発する「力」は、上下=床と天井方向の力であるのに「左右=ネックをはさむ力」を使ってしまうこともよくあります。開放弦の時に、左手の親指と人差し指の「間」にネックが落ちる状態が、本来の「力」です。
 ヴィブラートも同じです。左腕のどこに?どのくらい?力を入れるのか?を見切ることが必要です。連続した動きなので、上記3.に近い運動ですが、1.の状態=必要最小限の自然体を見つけないと「見切る」ことは不可能です。

 反応する時間を短くする「筋肉の瞬間的な運動」を身に着けるためには、「必要最小限の力を見つける」ことからです。そこにほんの少しの力を、ほんの一瞬だけ入れて、すぐに元のリラックスした状態に戻すトレーニングが必要です。冒頭に書いたように「視覚」に頼らず、指や掌の「触覚」と、音を聴く「聴覚」を優先して練習することをお勧めします。
 見なくても=見えなくても良い音を出せるヴァイオリン奏者がたくさんいます。目を閉じて自分の音を聴いてみると、様々な問題が出てきます。ぜひ、試してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プログラムを考える楽しさ

 今回のテーマ「プログラム」は、演奏会でお客様に聴いていただき曲を選び、演奏順を考える楽しさについてです。
 コンサートには「主催者」がいます。誰も主宰しないコンサートはあり得ません。どんなコンサートで、どんな人に楽しんで=聴いていただきたいのか?
 主催者が演奏者本人の場合もあります。演奏者とは別の人やプロダクションや団体が「企画立案」し実施する場合もあります。
 私の場合、ほとんどが前者=自分で立案し自分で演奏するコンサートですが、時に依頼を受けて演奏させて頂くことがあります。ボランティアとしてお引き受けする場合と、仕事として演奏させていただく場合があります。どちらにしても、聴いてくださる方の年齢層やコンサートの「タイトル」も含めて演奏する曲を決めます。

 クラシックを聴くために、コンサートに何度も足を運んだことのある人を「クラシック好き」と仮に呼ばせていただきます。一方でコンサートに行ったことがない方や、過去に数回言った古賀あると言う人もたくさんおられます。後者の割がが圧倒的に多いと思います。
 コンサートに「行かない」理由を考えてみます。
1.音楽に興味がない。
2.料金が高い。
3.時間がもったいない。
1.に関して言えば「音楽の種類」にもよります。ハードロックの好きな人なrあ「ライブ」には関心があって「クラシックコンサート」には関心が無いかもしれませんし、その逆のケースもあり得ます。もちろん、譜d何から音楽を聴かない…あるいは積極的には機内という人も多くおられます。
2.の前提は1.である音楽に「興味・関心はある」人か、その人に誘われてお付き合いでコンサートに行く人が該当します。無料のコンサートと有料のコンサートがあります。主催者が無料でコンサートを開く場合、つまりお客様からお金を受けたらない場合ですが通常、コンサートに係る経費があるのは当然です。お客様からの乳液が「1円もない」場合、
・スポンサーが経費を出してくれる
・主謝意者が負担する
・経費が円もかからないコンサートにする
以外に選択肢がありません。主催者が知恵気を求めるのであれば、入場無料のコンサートは考えられません。プロの演奏者が無報酬=ノーギャラで演奏する場合にも、交通費だけは支払ってもらうこともあります。ただ、会場までの往復時間。演奏会の時間。練習する時間の「対価」がないという事は、業務とは言えません。「ボランティア」を「無償」だと決めつける人がいますが、間違っています。ボランティアとは「精神」であって、有償・無償の差ではありません。
 コンサートの料金が高いと感じるか?は価値観の問題です。1,000円を安いと感じるか?高いと感じるか?は人によって違うのです。
3.の「時間」については、開催される場所と自宅からの「距離」によりますし、完済される時期や曜日、時間にもよります。聴く人によって、コンサートに行ける「時間」は違います。土日に働く人もたくさんいます。夜間に働く人がたくさんいます。それらの人が「クラシック好き」であることもあります。
コンサートに行きたくても時間の都合がつかない人も多いのが現状です。
一昔前のヨーロッパのように、夜こどもを寝かせてから夫婦でコンサートにドレスアップしていく「文化」があるのは、まさに芸術を楽しむことが「日常」であることの証だと思います。

 私と浩子さんのコンサートで演奏する「プログラム」に特徴があるように、演奏する曲を考えることは「聴く人へのおもてなし」だと思います。
 あ~締め、演奏する曲を公開して「その曲が聴きたい」と思う人がチケットを購入する場合もあります。料理に例えれば「コースのメニュー」を先に示すケースです。聴く人は好きな音楽を探して選ぶことができます。ただ、その「演奏」が耳に「合う」(笑)かどうかは別問題です。コース料理に「〇〇のプロバンス風」があったとしても、食べてみたら「期待外れ」かも知れないのと同じです。
 演奏者に期待してコンサートに行く場合もあります。「料理人に期待する」のと同じです。いわゆる「リピーター」ですね。音楽の場合には「ファン」とも言えます。
 演奏者を知らない&曲が公開されていない・公開されていも聴いたことのない曲ばかり…こなると、集客力が低くなります。どんな料理人が、どんな料理をだすのかわからないレストランで食事をするのと似ています。勇気がいりますが「当たればラッキー!」とも言えます(笑)
 私たちは「有名ではない演奏家」夫婦です。権威のあるコンクールで入賞した「音楽歴」はありません。言ってしまえば「ただ長く音楽に関わって生きている」ことは事実です。そして、二人が共感できる「優しくて心地よい音楽」を選んで演奏しています。聴いてくださった方の期待に応えるのは、とても難しいことです。完璧に…は不可能です。一人も出多くの方に「安らぎの時間」を感じて頂ければと願ってプログラムを考えています。10月の木曽おもちゃ美術館での演奏も、響きの豊かな会場で「気持ちよく」感じて頂ければ嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽福島「木曽おもちゃ美術館」で演奏します

2022年撮影「瑠璃色の地球」ヴィオラ・ピアノ

2023年10月7日(土)夕方6時30分と翌日10月8日(日)11時に、長野県木曽町に建つ「木曽おもちゃ美術館」で演奏します。
 主催は木木曽町(教育委員会)です。
おもちゃ美術館は20年前に廃校になった小学校を減築した施設。
演奏するのは「元」体育館で高い天井と木造の建物が、信じられないほど豊かで心地よい響きを、演奏者もお客様も楽しめる「ホール」です。

 演奏に適した会場…日本にある多くのホールは、実は「多目的ホール」です。
講演会や落語などを「聴く」時には、残響が少なく「聞き取りやすい」音響がホールに求められます。
 打楽器の演奏の場合「音の切れ」が求めmられます。余韻が長いと「切れの悪い」印象になります。これは吹奏楽にも言えます。
 一方で弦楽器の演奏には「余韻」があってこそ!だと私は確信しています。
伝統的な日本家屋の多くは「土壁」や「ふすま」「畳」「低い木製天井」で、基本的には「吸音材」に囲まれている状態です。狭い部屋で音が響かないことは、長屋が多かった日本では「必須条件」だったのかも知れません。
 ヨーロッパの古い家屋は「石」「レンガ」の外壁が多く、天井も高く(身長が高いせい?)日本の「吸音」とは真逆に「音を反射する」部屋がほとんどです。
 こうした文化の違いもあり、日本のホールでは残響の短いホールが圧倒的に多いのが現状です。残響時間をコントロールできるホールも昔からあります。
 電気的な残響ではなく、ホールの天井や壁面に、残響の長さを変えるための構造物を作り、演奏内容や好みに応じて「ある程度」残響時間を変えられるホールです。
 当然のことですが、同じホールでも満席の場合には残響時間が短くなります。
演奏者の「位置」でも音響は変わります。ステージで聴こえる残響と、客席で聴こえる残響時間も違います。特に「大ホール」と呼ばれる大きな会場の場合、楽器の「直接音」を楽しむことは不可能です。壁・天井で何度も反射した「間接音」をステージから遠く離れた客席で聴くことになります。

 木曽おもちゃ美術館は、昔の体育館を改装した会場ですが「木の響き」」を楽しむことができる、とても希少なホールだと思います。ピアノも当時子供たちが使っていたであろう「アップライト」ですが、そんなことは気にならないほど、癒される響きがあります。
 今回も「聴いて疲れない」「初めて聴いても懐かしい」「口ずさめる」曲を選んで演奏します。陳昌鉉さんが木曽町でヴァイオリン制作を「独学」で始めたこともあり、木曽町の名誉帳面です。陳さんが亡くなられてからも陳さんの作られたヴィオラで演奏し続けている私が、木曽町が陳さんから譲り受けたヴァイオリン「木曽号」を使って演奏します。
 詳しくは、下のチラシをご覧ください。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽は技術だけで評価する芸術じゃないよ!

今回のテーマは音楽を演奏する・音楽を聴いて楽しむすべての人たちが共通に感じる「音楽の喜び」を言語化するものです。

 演奏の「うまい・へた」を点数化したり序列化したがる人がいます。私は「人の好み」こそが重要だと考えるので、機械的に技術=テクニックを競い合ったり、序列化することに疑問を持っています。むしろ、この序列化が音楽を純粋に・率直に「好き」と感ずる気持ちを阻害している気がしなりません。少なくとも先入観をあたえる「コンクールの順位」や「他人の評価」が音楽ファンを減らしていることは間違いないと思います。
 例えて言うなら、テレビが視聴率を優先して番組を組み立てることに似ています。人によって「見たい」と思う番組は違います。当然です。すべての人が満足する番組構成は不可能です。スポンサーがあっての放送です。一人でも多くの人が「見てくれる番組」を並べたいと思うのは仕方のないことです。それが「視聴率至上主義」を生みました。ある番組…例えば「旅もの」の視聴率が高ければ真似をする。「食レポもの」の人気があれば真似をする。「芸能人コメンテーター」が当たり前になったのもその一つです。どの放送局も「似たり寄ったり」個性のない番組ばかり。若者のテレビ離れの原因は?これではないでしょうか?

 他人の評価や流行を気にする民族性や文化は、国や時代によって大きく変わります。日本で考えれば「国民的ヒット曲」が消えてからすでに何十年経ったでしょう?
「流行」は他人の評価に影響される「集団心理」と、毎日いつもどこかで耳にする「刷り込み現象」によって、流行の度合いが決まります。ファッションも音楽も「個性を大切にする」より「誰かの真似」が圧倒的に簡単です。
 現代の日本では「誰かの真似」をする人が激減しました。ただ内心では「右に倣(なら)え」というのも日本人の気質です。偉い人の言う事・この大きな人に「従っていれば無難」と言うのも日本字的な考え方です。

 演奏の技術は「自分らしい音楽を表現するため」に高めるものです。人の真似をする技術も「技術」です。清水ミチコさんや、コロッケさんのような「特殊技術」は一朝一夕に身につけられる技術ではありません。観察力が並外れていなければ「本物」と「自分」を比較できません。ただ「真似」であることは事実です。「本物」があるから「真似」ができるのであって、本物が個性的だから「真似」を見ていて面白いのです。個性のない「本物」は誰も真似しないのです。
 個性的な演奏をするための「技術」は、まさに「個性的な技術」であり誰かと比較するものではありません。自分流の演奏方法、自分にしか出来ない技術を身に着けることこそが「技術の習得・修得」だと思います。

 音楽を聴く人にとって「うまいかへたか」を判断する能力や技術・経験は必要でしょうか?コンクールの審査員なら演奏技術を「比較する能力」は不可欠です。先述の通り「好み」を点数化したり序列化することは「脱個性」極論すれば「クローン化」することに近いものです。
コンクールで「いくつの音を失敗したか?」は機械でも数値化できます。人間が審査する必要はありません。
一曲で演奏する「何千」「何万」と言う音を、一度も失敗しないで演奏すると「満点」です。何回演奏しても、満点を出す「ロボット」が世界最高の演奏者ですね(笑)

 間違えない技術より、音楽を知らない人の心をつかむ演奏の方が大切だと思います。音楽評論家の「よいしょ」がなくても「好き」「良い」と感じる演奏があります。聴く人によって違うのです。それが「音楽」です。誰かが良いと言った音楽が「良い音楽」ではないのです。
 幼い子供が「間違えない演奏」をすると「神童」「天才」と呼ばれます。確かに指導者=大人の言った通りに、すべての音を演奏する「記憶力」と「労力」には脱帽します。それが「最高の演奏家」だとは思いません。指導者の考えた「表現と技術」を「真似」している子供を「天才演奏家」と言うのはどこか間違っている気がします。
 子供の純粋な「感覚」を引き出し、素材の美しさ=子供にしか出来ない演奏に「大人の穢れ(けがれ)」を加えないことが「大人の仕事」だと信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

インボイス制度に反対します。

  2023年10月から多くの国民が反対するなかで、強引に実施される「消費税増税」
インボイスというカタカナでごまかそうとする政府の姑息な手法に騙されている人が多くいます。
「消費税は消費者が事業者に預けている税金」だと間違っている人がたくさんいます。
消費税の条文には「消費者」の文字は一か所も書かれていないのが事実です。
国会でも「消費税は預かり金ではない」「消費税は益税でhない」ことを財務省が明言しています。
司法=裁判所の判例でも「消費税は対価の一部である」ことが示され確定しています。
 さらに「年間の総売り上げが1,000万円以下の事業者は消費税の納税を免除する」ことが、法律で定められています。ちなみに、現時点で「課税事業者」の場合には、消費税を除いた売れ上げ金額が「1,000円以下」なら2年後に「免税事業者」になりますが、現在が「免税事業者」の場合にはなぜか?「税込みの売り上げが1,000万円を超えると2年後から課税事業者になる」という意味不明な基準が合法とされています。これだけでも大きな矛盾を抱えているのは事実です。
 さらに「免税事業者」がどうして?消費税を納めなくてもよいのか?という理由を知らずに「ネコババしている」とか「不幸名だ!」と騒ぎ立てる無知な芸能人やなんちゃって法律家がテレビとネットで大声をあげています。
 日本の税金は「応能負担の原則」があります。わかりやすく言えば「金持ちはたくさん税金を長寝ることで、貧しい人の生活を支える」ことが日本の税金の考え方です。ところが、その原則を無視して「貧しい人にも高い税金を」という制度が消費税という悪税です。
 日本全体が好景気で、多くの人の給与が上がっている状態なら、当然物価も上がります。そんな時にブレーキになるのが「付加価値税」つまり日本で言う消費税です。
 不景気で人々の賃金が下がり、お金が「動かない」状態になった時には「付加価値税」を下げるのが常識です。現実に正解中の先進国では、日本で言う「消費税」を大きく下げています。
不況の中で税金を高くすれば?益々不況になるのは小学生でも理解できることです。
 インボイスは「免税事業者を課税事業者にさせる」制度です。つまり、生活することがやっと…という人たちに対して「もっと税金を払え」「命がけで税金を払え!」という増税です。
「消費者に寒けない」と政府が嘘をPRしています。大須尾です。
 実際に「電気料金値上げ」は「インボイス制度の為」だと明言し政府も認めています。
先述の通り、消費者は消費税を納税していません。支払った「対価=代金」の中から、事業者=お金を受け取った側が「納税」する税金です。
 では、物を売る側=サービスを提供する側=お金を受け取る側は?
お客様からいくら?貰えるかという金額は、売る側が決めます。高く売るほど「儲かる」のですが、お客様に買ってもらえなければ「収入ゼロ」ですよね?だから、買ってもらえる=払ってもらえる金額にするしかありません。そして手西下「代金=売上」の中から、消費税を納めろちうのが消費税です。
 切り詰めてぎりぎりの生活をしている「事業者」が日本中にいます。
その人が地に消費税を払う「お金」があると思いますか?なくても「払え!」って応能負担じゃないですよね。
 消費税がないと「税金がたりない」って大ウソを言う政治家やおばかちゃんがいます。
少なくとも40才を過ぎた人なら、昔の日本を知っているはずです。消費税なんてありませんでした。
「高度成長」つまり日本人みんなが「豊かに暮らせていた」時代がありました。
その頃「贅沢品」には高い「物品税」がかけられていました。
お金持ちほど、高い税金を納めていました。大企業が納める税金にも「当然」高い税率がありました。
だから日本は豊かになれました。
 消費税は日本には不要です。外国が~と騒ぐ人ほど「外国時Hんは非本から出ていけ」と、自分の言っている言葉の意味を理解していません。はっきり言って天然記念物です。
 インボイスに登録しなくても大丈夫です。
動画をよくご覧になってください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

差別する人を軽蔑します

 映像はヴァイオリン製作者陳昌鉉さんが長野県木曽町に贈呈された「木曽号」を使って一昨年秋に木曽町文化交流センターで演奏したときの「鳳仙花」です。
 陳さんは日本が「強制的に統治」していた韓国で生まれ育ち、戦後日本に渡り、独学でヴァイオリン制作者を志した私の尊敬する方です。
 「ヘイト」と言う言葉が明確に何を指し示すのか?について専門家ではないので私には書けません。しかし、私たち一人一人の人間には、必ず「母と父」と言う人間が存在しているのです。仮に会ったことがない「両親」だっとしても、生物学的に考えれば、どんな人にも何代にも遡れる「祖先」がいるのです。祖先のいない人間は誰もいないのです。地球上に「人類」が誕生したときまでさかのぼって考えると、私たち一人一人の「祖先」はその時代にまで遡らなければ、私たちは今生きていないことになります。
 間違いなく言えるのは、自分の「一番古い祖先」を知っている人は、地球上に誰もいないという事です。「日本の天皇家が!」と食いつく人がいそうですね(笑)系譜と言う意味で天皇の家系には「記録が多く残っている…ただし、その記録は「文字」でしかありません。「DNAだ!」へ~。神武天皇の「DNA」ってどこかで調べられるんですか?(笑)
 その話はここまで。要するに私たちは「人種」や「国籍」「肌の色」で人を自分と違う「人種」だと決めつけています。そんな「決まり事」ができたのは、たかだか数百年前からですよね。自分の「祖先」が今、隣にいる人と同じかもしれない…それが真実です。私たちの「差別意識」は「自分が優れている」という傲慢な思い上がりが生んだ不幸な「勘違い」でしかありません。
 音楽家の中にも、情けないことに「〇〇国民は最低だ!」とか「●●人は日本人よりバカだ!」と口にする人がいるのは事実です。よほど自分が優れた生き物だと確信している人だとしか思えません。実際にはかなり頭の弱い方だと思いますがご自分では「俺は賢い」と思っているから差別ができるんですよね。
 音楽は「国境」がまったくいらない「音の芸術」です。
楽譜と言う記号を理解できれば、言葉を交わせない人とでも一緒に音楽を演奏できます。聴くことに至っては、まさに「誰でも」一緒に楽しむことができます。
 争うことが「正義」だと勘違いしている人がいます。正義にも様々あります。
自分を守ることも正義。他人を守ることも正義。安直な考えで人を「見下げる」のは間違っています。
 人間は「考えることができる」のです。
音楽を通して、他人を思いやる思考が大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「仕事」を音楽的に考える 

 映像は「悲しみのクラウン」2台のカメラで撮影した映像を動画編集ソフトを使って編集したものです。音声も音声加工ソフトで音色や残響を編集しています。
 さて今回のテーマは社会人として生活する人の「仕事」を音楽を演奏する作業・日常に置き換えて考えるものです。
 どんな業種であれ「仕事」は誰かのために働くことです。
対価をお金でもらう場合も、そうでない場合…例えば家事全般を日常的にこなす人にとって、家事は立派な仕事です。
 それらの仕事を行う私たちは、その仕事が好きな場合・理想に近い場合もあれば「苦手な内容」だったり「我慢して」仕事をする場合もあります。
人によって価値観も違います。体力も能力も違います。その人にあった仕事が出来ない場合も珍しくないのが現実なのです。
 私自身の場合、音楽大学で教員免許を取得し卒業後に20年、私立中学校・高等学校で「音楽の先生」として働きました。当初2~3年で辞めて演奏活動を始めるつもりでしたが「生活のため」にやめるにやめられなくなっていました。
 そんな20年間で多くの事を学べました。特に「組織の中で働く」意味を知り、さらに「仕事のスキル」がどれほど重要なものかを学びました。
 組織で働く…これは「家族」という単位であっても大企業であっても基本は同じです。自分一人だけで仕事をする場合との違いです。一緒に働いたり生活した生活宇する「他人」との共同作業が不可欠です。自分だけの価値観や好みより「集団」で求められる価値観と目的を優先させなければ社会人として生活できません。自分の得意なことであれ苦手なことであれ、組織が求める仕事をするのが組織人としての最低限の仕事です。
 スキルの重要性。これは組織であれ個人であれ、仕事をする人にとって欠かすことのできないことです。如何に仕事を正確に、円滑に、能率的に行うか?それがスキルです。この「正確性」「適応性」「能率性」のどれかが下がれば結果としてスキルは下がります。自己評価だけが許されるのは「趣味の世界」です。仕事として何かをする場合、自己評価だけで「仕事をした」とは言えないのが社会のルールです。一緒に仕事をする人に対しても、あるいは取引先・納品先・対面するお客様が納得できるスキルがなければ「仕事をした」とは言えません。

 これらの「仕事」を音楽を演奏するための「練習・本番」に置き換えてみます。演奏は「趣味」であっても「プロ」であっても同じです。
 上記の「組織」「スキル」という点で考えた場合、組織は「アンサンブル」に当てはまります。「スキル」は個人の演奏技術・能力です。
誰かと一緒に音楽を演奏することは、ピアノ以外の楽器を演奏する場合には「当たり前」の事です。ピアノと一緒に演奏する。何人かで演奏する。一人で音楽が完成するピアノが特殊な楽器だと言えます。相手に「会わせる」事は単に演奏技術だけでは事足りません。思いやりや優しさ、寛容性。言ってみれば「人間性」が重要になります。
 ピアノ一台で演奏したとしても、演奏会でスタッフやお客様への「配慮」がない人は、演奏する資格を問われます。
 演奏のスキルアップ。これは「練習」に尽きます。仕事で考えればひとつの業務が「完了」するまでのすべての作業が練習に当てはまります。
 演奏の練習は楽譜を読むことから始まり、少しずつ・一歩ずつ、自分の目指す音楽を演奏できるように時間をかけて作り上げることです。
 妥協すれば、どこまでもスキルは下がります。逆に求める気持ちがあれば、スキルは無限に上がるものです。自己評価と「聴いてくれる人の評価」が近づくことを目標にすることが練習の「成果」を確かめる方法です。
 自分で「うまくいった」「失敗した」と評価する面と、聴いてくれた人が感じた内容を並べて「考える」ことが次のスキルアップにつながります。
 仕事でのスキルアップも同じです。仕事の相手が満足してくれているか?自分の仕事に問題はないか?を両立できなければ、スキルアップは望めません。

 音楽大学で真剣に音楽を学んだ学生を、一般企業がこぞって採用するようになってからずいぶん年月が流れました。昔は「音大卒はつぶしがきかない」と言われました。むしろ音大を出て一般企業で働くことが「恥ずかしい」と感じていた時代でもありました。そのプライドが災いし、企業側は「つかえない人材」と決めつけていたのだと思います。
 現実に音大で楽器の練習スキルを身に着けた学生は、一般企業で新しい仕事、業務内容に対しても短期間でスキルアップできる「テクニック」を持っています。それは一般の大学卒業生に比べて、はるかに高いスキルです。
 仕事をしながら楽器を演奏して楽しむ「趣味の演奏家」にとって、仕事は辛いもの・演奏は楽しいもの(笑)になりがちですが、両立させることで「いいとこどり」できるはずです。仕事のスキルと楽器の練習内容は、多くの人の場合「比例」するように思います。練習のうまい人は、どんな仕事でもスキルアップが早い。当然、個人差があります。その人なりの「生き方」があるように、許されるボーダーラインの中であれば、仕事は成立します。音楽も仕事も「楽しみながらこなせる」ことが何よりも重要だと思っています。
 命を懸けて…仕事をするのは間違っています(笑)命あっての仕事ですから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人・弾く人・作る人

 映像は「悲しみのクラウン」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
オリジナルの楽譜に手を加えて演奏しています。
 今回のテーマは音楽に関わる「お金」の話が中心です。
「芸術をお金に置き換えるな」と思われるかもしれませんが、古今東西「音楽」を含めて絵画もその他の美術品も「お金」が関わらないことはありません。
 聴く人・昼人の立場で考えれば「楽しめればただ=無料が理想」です。
また演奏を単に楽しむ=自分で聴いて楽しむだけの場合、楽譜を手に入れるお金がかかることも「覚えた音楽を思い出して演奏する」こともあります。
 演奏する人が「生活するために演奏する」場合、対価として誰かからお金をもらうことが生活の糧になります。聴いた人がお金を払う場合もあれば、演奏会を主催した「人」や「組織」が演奏者にお金を払う場合もあります。
 演奏家が自分で演奏会を企画・開催するときには、広告宣伝にもお金がかかります。宣伝しなくても、自宅で演奏する場合でなければ「会場費」を支払います。その他にもピアノの調律費が必要になるケースもあります。
ホールで働く人、調律をする人たちも「お金」が必要なのです。
 楽譜を書く=作曲をする人の収入は?楽譜を買ってくれる「出版社」や「演奏家」からお金を受け取るのが一般的です。演奏したと人からお金を貰える作曲家はほとんどいないのが現実です。作曲者自身が演奏する場合には、上記の「演奏家」としての収入や支払いが必要になります。
 言うまでもなく「作曲家」がいなければ、演奏する楽譜がないことになります。演奏家が居なければ、音楽を聴くことは出来ません。聴く人が居なければ、演奏家の収入がなくなります。この三者の関係は「音楽」がある限りお互いに必要不可欠な存在なのです。
 現代、音楽を聴く方法は昔と大きく変わりました。
・録音する方法がなかった時代
・放送がなかった時代
・コピーがなかった時代
バッハやモーツァルト,ベートーヴェンが生きていた時代には上記のすべてがありませんでしたが、作曲家も演奏かも「お金」を貰って生活できていました。
 音楽を聴いて楽しめる人が限られていた時代でもあります。当時は「クラシック音楽」と言う概念はありませんでした。当たり前ですね(笑)
 音楽を聴くためには「演奏家が目の前で演奏してくれる」ことが前提でした。
演奏する音楽の楽譜は、作曲家が手書きしたものを「写譜屋」という専門職業の人が書き写して、オーケストラのパート譜を書いていました。
 印刷技術が発達してからも、コピー機はありませんでしたから楽譜は「買うもの」でした。

 作曲家が時間をかけて作曲した楽譜が「コピー」と「パソコン」で無尽蔵に、無制限に無秩序に拡散しているのが現代です。一度手にしてしまった「利便」を人々から取り上げることは非常に難しいことです。「コピーガード」をいくら開発しても、それを乗り越える技術がいたちごっこtで現れます。
 作曲で生計を立てる人を守るための「根本的な方策」を議論しなければ、今後、新しい楽は誕生しなくなります。
 「作曲者の権利」をいくら叫んでも、時代に合った新しい方策を考えなければ無意味です。
 同じことは「演奏家の生活」も今の法律と支払い・受け取りのシステムでは守れません。むしろ、現在の日本では演奏家の権利が最も低く扱われています。
 ほとんどの演奏家がフリーランス。生活保障がなにもありません。
「利益目的」つまり、入場料金を頂いて開催するコンサートの場合、作曲家ではなく「権利管理団体」がお金を「かすめとる」ことが許されているのが現状です。作曲者へ支払われるのであれば納得できます。当たり前のことです。しかし、ほとんどの作曲者は誰かが…自分が作った曲を自分が演奏した場合でも、手元にはお金が届きません。演奏者は作曲者自身が演奏した場合も含め「金払え」と言われます。権利を管理するための「手数料」であって「作曲者への支払い」ではないのです。
 さらに言えば、入場料を頂いたとしても先述の通り「経費」が掛かるのが当たり前で、赤字になる場合も珍しくありません。「赤字になるなら開催するな」と言うのは簡単です。演奏家が生活できず、演奏の機会がなくなればホールも存続できません。調律師も舞台スタッフいなくなります。
 当然、演奏会もなくなり演奏を聴くことができなくなります。

 とても難しい問題に思えますが、実は「原理を考える」ことで答えはすぐに見つかります。
1.演奏者が作曲者が求める会化を「直接支払う」
2.聴く人は演奏者が求める対価を「直接支払う」
たったそれだけの事なのです。「非現実的だ」と思われるかもしれませんが、ネットの発達した現代、支払いを求める側も支払う側も「ネット上で直接」取引ができるのです。演奏会のチケットでさえ、ネットで購入できるのに作曲者への使用料金が「支払えない」理由があるでしょうか?
 そもそも演奏する場合に「作曲者への許可申請」が必要なのか?不必要なのか?不透明なのです。「管理団体」は現代の世界では不要なはずです。
「作曲者が自分で演奏会を調べるのは不可能だ」と吠える人がいますが、作曲者がネットで演奏許可の申請を受け、対価を支払ってもらい許可を出せば「必ずお金が入る」のです。管理団体に「任せる」からお金が入らないのです。要するに「手間を惜しんで稼げるはずがない」とも言えます。
ましてや管理団体が利益を上げること自体が無駄な中間マージンです。
 時代にあった音楽家の「生活を守る活動」を法律の整備と共に考えなければ、未来が先細くなってしまうばかりです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

気持ち=意思と身体=運動

 映像は「私を泣かせてください」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは演奏する時に「考えること」と「身体を動かすこと」の両立について考えるものです。
 結論から言えば、意識と無意識を「融合」させることだと考えています。
具体的に言えば、考えて何かをしようとする時、同時に考えなくても何かを出来るようにすることです。
 例えば、車を運転する時に、目で前方やサイドミラー、バックにらー、スピードメーターを見ながら、無意識にハンドルやウインカーを動かし、足てアクセルやブレーキを操作しています。考えているのは「見ているもの」についての情報処理…前方の信号や前の車の動き、歩行者などを見ながら次の行動を「無意識」におこなっています。これが「意識と無意識の融合」です。
 楽器を演奏する場合はどうでしょうか?
楽譜を見て演奏している場合、書かれている情報…音符や休符、弓や指、記号などを「読み取って」無意識に右手や左手を動かしているはずです。
さらに細かく言えば、左手の指番号を考えている時にでも右手の弓を動かす運動は「同時に」行われています。この場合の右手は無意識に動いています。
 人間は同時に二つの事に「集中」することは出来ません。
聖徳太子のように何人もの話を一度に理解する場合、実は頭の中では一人ずつの「声と言葉」を分離して、個別に記憶しています。そんなバカな!と思われますが、音楽の専門技術の中に「和声聴音」があります。同時にいくつも演奏される「音=和音」を楽譜に書きとるものです。これがまさに「聖徳太子」なのです。同時になっていても「いくつ鳴ったか」「なんの音だったか」「何分音符だったか」を聴きながら頭の中で処理=記憶していきます。訓練すれば誰にでも身に着けられる技術です。
 この場合は音に「意識」を集中させています。楽譜を書くと言う行動は無意識に近いものです。
 もっと身近なことで言えば「音読」がまさにそうです。
目では文字を読みながら、声では「読んで記憶したものを思い出しながら」さらに「目では先を読んでいる」ことの繰り返しが音読です。この場合、声に出していることが「主目的」なのですが、実際の脳は「読む」事に使われています。
 演奏しながら「何かを考える」のは当たり前のことです。
その時、考えていないことも「同時に無意識に」運動していることを忘れてはいけません。一つの事を考えている「だけ」のつもりでも、無意識にほかの事をしているのです。それができるのは「慣れ」以外にないのです。
 歩く時に両手・両足を動かすのも「慣れ=学習」の成果です。息をする・心臓を動かす・食べたものを消化する…これらは「本能」です。
 何も考えずに演奏することができたとしても、音楽を「創る」ためには考える力が絶対に必要です。自分の意志で音楽を創造することが、もっとも大切な「技術」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色を変える技術

 映像はサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」10年前の演奏です。
ヴァイオリンを演奏する…一言で演奏と言っても、楽譜に書いてある音符を音にするという意味もあれば、演奏者が楽器を使って「イメージを表現する」ことでもあります。
 ヴァイオリンは弓の毛で弦を擦って音を出すことが通常の演奏です。
音の高さは弦の太さ・張りの強さ・弦の長さで変わります。
音のと良さは、弦の振動の幅と筐体=ボディーの反響と残響で決まります。
音色は?どうやって変えるのでしょうか?
前提として「現状の楽器」で音色を変えることにします。
弦を張り替えたり、弓の毛や松脂を変えたり、楽器の調整をすれば音色は近Pんから変わります。それらに手を加えず「技術」だけで音色を変えることが、ヴァイオリン演奏の楽しみだと思っています。

 簡単に言ってしまえば「右手と左手」の技術の組み合わせです。
★右手…弓を扱う右手の使い方。弓を弦に押し付ける力のコントロール・弓の傾け方=弦にあたる弓の毛の量・弦に弓を当てる駒からの距離と力の方向・弓の場所による毛の張りの強弱の活用・前述の技術の組み合わせ
★左手…弦を押さえる指の場所・抑える力の強さ・ヴィブラートを始めるタイミング・ヴィブラートの深さ・ヴィブラートの深さ・これらの組み合わせ
★右手と左手の組み合わせ…上記の技術を組み合わせて音色の変化を作る

 厳密にはもっと細かい「技術」がありますが、おおざっぱに言っても上記のような「音色を変える技術」があるわけです。
 楽譜で支持されている弦の指定、音量の指示はあくまでも「指示を書き込んだ人の意図」であり必ずしも作曲家の意図=指定とは限りません。出版社によって指示が違うのは日常茶飯事です。
 自分で音色を変える楽しさを「発見」することがヴァイオリンの演奏の醍醐味だと思っています。
 ぜひ!楽譜に書かれていない音色の世界を楽しんでみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の弾きこなす意味

 映像はピアソラの作曲したアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏したものです。陳昌鉉さんのヴィオラ、私にはとても魅力的に感じています。
 今回のテーマは前回のブログに引き続くものです。
演奏者が楽器の個性を引き出すこと。違う言い方をすれば、楽器の弾きこなすことでもあります。先日、会社で税理士さんと「なぜ?ヴァイオリンだけ特別に高いのか」と言う話題になりました。皆さんはどう?考えますか?
 ピアノの「最高峰」と言われるフルコンサートグランドピアノで約2500万円。
パイプオルガンは建物と一体化していることが多く、単純に楽器だけの金額を評価することは不可能です。
 フルート、トランペット、ティンパニなどなど多くの楽器がある中で、ヴァイオリンだけが「10億円以上」のがっきがあります。はてな?素朴な疑問ですよね。結論は「楽器の性能・ポテンシャルとは無関係に資産取引の対象」なのです。ゴッホやピカの絵画、人間国宝の作った焼き物などが本人の意思や、「物としての価値」ではなく「金儲け=ビジネス」の道具になっています。
 ヴァイオリンは300年以上前に「完成された楽器」とされています。その頃から現在まで、壊れずに=修理を続けながら演奏し続けてきた楽器に「プレミア的な価値」があるのは自然なことです。ただそれは、楽器の音色とは無関係です。

 さて、楽器を弾きこなす技術とは、いったいどんな技術でしょうか。
一般に「うまい」とされる演奏は「正確性」「再現性」が判断の基準です。
 この二つの技術は、楽器がどんなヴァイオリンであっても不変です。
ストラディヴァリならうまく弾ける?魔法か!(笑)初心者にとって「正確に何度でも演奏できる」事は大きな課題になります。どんなに上達したとしても、それはゴールのないものです。単純に「ミスの数」だけで点数化することもできます。フィギアスケートの審査と似ていますね。
 ではうまければ楽器を弾きこなしていると言えるでしょうか?
楽器はすべて、音色も音量も違います。「木材」を主材料にする以上、当たり前の事であり、それはストラディヴァリの楽器であろうと、大量生産のヴァイオリンだろうと「差」があることには変わりありません。
★楽器による個性を知るこための技術
1.演奏方法のバリエーションを持つこと
2.弾き方による音色や音量の小さな違いを聞き取る耳
3他人の意見を聞き入れる心の広さ
★個性を引き出すための技術
1.楽器との対話=自分の技術と楽器の個性を常に客観視する気持ち
2.楽器の変化と自分の聴こえ方の変化を並行的に観察する力
3.自分の好きな音色・音量を維持する根気
4.時間をかけて楽器と対話する「一途な気持ち」
 多くのヴァイオリニストが自分の楽器に不満を持つようです。それは初心者、アマチュアよりも「プロのヴァイオリニスト」に強く表れるようです。
 アマチュアから考えれば「それだけの技術があるからきっとわかるんだろう」と推測します。楽器の違いが判り、自分には物足りないと「買い替える」事がヴァイオリニストのステイタスなのでしょうか?そうしなと満足できるヴァイオリンに巡り合えないのでしょうか?
 楽器を「人間」として考えてみると答えはすぐに分かります。
完璧な人間はいません。自分が「パートナー」として選んだ相手に完璧を求めるでしょうか?パートナーのために自分を完璧にできるでしょうか?
 欠点があり長所があり、変化するのが人間です。長く付き合えばさらにその変化は大きくなります。相手の変化、自分の短所をお互いに「受け入れながら」いるのが人間同士のパートナーですよね?どちらかが、我慢できなくなれば「コンビ解消」(笑)になるのは仕方ないと思います。一方だけが我慢することはお互いのためになりません。
 楽器は自分で変わることは出来ません。演奏する人が「変える」事はできます。人間に例えるなら「言葉を話せない乳児(あかちゃん)」にも似ています。
親の思う通りにならないのがあかちゃんです。それでも「愛情」があるから受け入れられる。
ヴァイオリンを「買い替える」ことは「道具なんだから」と思えばできることです。それを「自分の子供」だと考えたら「気に入らないから買い替える」って…出来ないと思います。自分が育てる。自分も成長する。それが楽器を育て、自分を成長させることだと思います。
 赤ちゃんが、言葉にならない意思表示をするとき、親は子供のすべてを観察して「もしかして?」と子供の意思を探りますよね。ヴァイオリンにそれをしているでしょうか?
 楽器の個性は人間の個性と同じだと思います。相手によって変わるものです。
人間はヴァイオリンを選べます。ヴァイオリンは演奏者を選べません。
 どんな楽器だろうと、その個性を最大限に引き出すために何年かかろうと、一生かかろうと私は厭いません。私にとって今のヴァイオリンとヴィオラは「大切な家族」なのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦楽器の価値は楽器で決まるのか?演奏者で決まるのか?

 映像は陳昌鉉さんが2010年に作られたヴィオラで演奏した赤とんぼです。

 上の画像はそのヴィオラの写真とラベルです。一般に新作の楽器はオールド(製作から100年以上経過した楽器)より「価値が低い」とされているのが弦楽器の不思議な「定説」ですが、私はこの固定観念は間違っていると確信しています。
 誤解のないように言葉を足せば「古い楽器が新しい楽器より価値があるとは限らない」と言うことです。
「ストラディヴァリはどうだ!」「グヮルネリは?」「アマティはどうだ」
必ず食いつく人がいますが(笑)「名作」と言われている楽器を、初心者が演奏して良い音が出ると思いますか?「プロが弾かなければ価値がわからないんだ!」と仰る方が、プロの演奏するストラディヴァリの作った楽器と新作のヴァイオリンを聴き比べて「当たる確率」は50パーセントと言う世界的なデータを否定できるでしょうか?「聴く人の耳が悪いだけだ!」いいえ。それも違います。
プロのヴァイオリニスト、ヴァイオリンの製作者が聴いても結果は同じです。50パーセントの確率です。つまり?
 演奏する人の技術の差の方が、楽器の違いよりも大きい
事は紛れまない事実です。演奏する技術が足りなければ、どんな楽器を演奏しても「それなり」の音しか出せません。言い換えれば、その人が安い楽器を演奏しようが高い楽器を演奏しようが「大差はない」のです。
 楽器を買えれば音色も音量も変わります。それは事実です。
演奏技術が高いほど、楽器の個性を見つけられ、固有の音色を引き出せます。
楽器固有の音と演奏者の「相性」がすべてです。要するに好みの音を持っている楽器に根巡り合うことが、演奏者の喜びであり「運命」なのです。
 高い楽器を手に出来ないから、演奏技術が低い。
論理的に間違っていますよね。
 高い技術があれば、どんな楽器でも良い音が出せる。
これ、間違っていませんよね?
つまり、演奏技術を高めることが楽器の価値をあげることになるのです。
 陳昌鉉さんの作られた楽器を「オールドには劣る」と決めつける人を見かけます。自分の好みではない音…だと言われれば否定は出来ませんが、それは「好み」の問題であり客観的な基準・事実ではありません。
「日本で一番おいしいラーメン屋さん」
ありえないですよね(笑)それと同じことです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「音楽を演奏する」という目的を見失わない!

 映像はチャイコフスキー作曲「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 さて今回のテーマは楽器の練習をする人…楽器に限りませんが(笑)、自分が何を目的に?楽器を練習しているのかと言う「目的」を再確認するテーマです。
「楽器を弾くのが好きだから」だけで十分!と言われればそれまで(笑)
多くの演奏家が様々な「壁」にぶつかります。自分の技術や知識の少なさに心が折れることもあります。もうやめよう…無理だ…向いていない…才能がない…
私だけではないようで、生徒さんたちも同じように「挫折」するのが当たり前のようです。
 多くの人は先述のように「楽器を弾くのが面白い・面白そう」と思っていた時期があるはずです。ところがいつの間にか「うまく弾けないからつまらない」と言う気持ちが自分のやる気を焼失させます。それでも楽器を弾くことが好き!と言う人は少数のようです。
 楽器を「上手に弾こう!・弾きたい!」と思う気持ちは大切です。間違えずに、正確に何度でも思ったように演奏で着たら「さぞかし!」気持ちいでしょうね(笑)それが「目的」になってしまうと「出来ないからつまらない」になるのでは?つまり「音楽を演奏したい」と言う目的意識を忘れないことが何よりも大切だと考えるのです。
楽器を演奏することと音楽を演奏することは、明確に違います。
音楽を「上手に」演奏することは不可能ですし、日本語としても不可解です。
楽器を「上手に」演奏できるか「へたくそ」かの「違い」は確かにあります。
速く・正確に・何度でも演奏できれば「上手」で、それが出来ないと「へたくそ」に近づきます。
 へたくそでも音楽は演奏できますし、楽しむこともできます。
「それじゃ自己満足じゃん!」他人の技術について「偉そうに」語る人に限って、自分の演奏にケチを付けられると火が付いたように怒り狂います(笑)それこそが「自己満足」だと本人が気付いていないだけです。
 他人の技術についてどう思おうと、それは人の自由ですが、自分の中だけに収める問題です。他人に公言することではないはずです。
 技術を点数化することが大好きな人もいます。優劣を競うことが好きな人もいます。それも自分の中だけで楽しむべきです。他人の技術に序列をつけられるほどの技術があるなら、自分がその中で一番にならなければ無意味ですよね?(笑)できもしないことに「あの人は下手だ」と言える自信は、いったいどこから生まれるのやら理解ができません(笑)
 自分の音楽に誇りを持ちましょう。誰からも批判されるものではありません。
自分だけの音楽を演奏することが、楽器を演奏する楽しさのはずです。
じょうずに演奏するより、自分だけの音楽を楽しんでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プロだとかアマチュアだとか、どうでもいいでしょ(笑)

 映像はポーランドの初代大統領でもあったピアニスト・作曲家の「パデレフスキー」作曲のメロディー。オリジナルはピアノ曲ですがヴァイオリンとピアノで演奏できる楽譜があります。
 さて、今回のテーマは「プロ」「アマチュア」という「区別」について。
以前にも書いたことですが、この千匹にいったいどれほどの?意味があるのでしょうか。
 「プロなら●●」「プロなのに××」「アマチュアだから★★」「アマチュアの割に△△」という枕詞。単なる先入観と固定観念で話しているとしか感じません。そもそも誰が?どんな基準でプロとアマの「基準」を作れるのでしょうか?
「職業音楽家」がプロだと言う定義を使う場合でも、演奏だけで生活できない・生活していない演奏家は「プロ」ですか?「アマチュア」ですか?
「趣味で演奏する人がアマチュア」だと言う定義の場合にも疑問があります。先述の通り「金銭目当てではなく趣味で」演奏する人はすべてアマチュア?あれれ?
最悪な線引きは「うまければプロ」「うまくなければアマチュア」これ小学生でも間違っていることがわかるレベルですよね。技術の違いだけで区別されるものでもありません。
 結論を言えば、日本語で言われる「プロ・アマチュア」の違いに明確な定義がないと言うことです。職業として「音楽家」でも決まった組織(法人)で給与を受け取れば「会社員」ですから明確な「音楽家」と言う職業さえ存在しないことにもなります。「音楽家」「演奏家」が「プロ」でも「アマチュア」でも
呼び方はど~でも良いと思うのです。
 誰がなんと言おうが、自分が音楽を演奏することが好きなら加賀滝や呼称にこだわる必要はありません。プライドのために「プロ」と言いたい人はそれで良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト…なのか?(笑) 野村謙介

高級レストランやレトルトもいいけど家庭の味が好き

 映像はアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したもの。撮影と録音「コンデジ」(笑)場所駅前教室
 さて、今回のテーマも音楽を「食事」に例えたお話。
家庭の味…おふくろの味とも呼ばれます。それぞれの人に「懐かしい味」があります。家庭でなくても昔の記憶が蘇る「味」「香り」「料理」があるものです。
 私の場合…母の作ってくれた料理が「家庭の味」でした。
・作る時によって違う色のコロッケ(笑)
・最後に焼かずに食卓に出るマカロニグラタン(笑)
・水炊きと言う名の鍋
・まったく辛くないカレー
・バナナケーキ(これはいつも美味しかった!)
・お腹を壊すと食べさせられた南瓜(かぼちゃ)←明らかに逆効果
・鶏肉ご飯と言う名の炊き込みごはん
・コロッケに小麦粉・卵を付ける「前」の具を玉子でくるんだ謎のコロッケ
・あまったマカロニグラタンをケチャップで炒めた「あれ」
思い出してもきりがないほど(笑)
 高級フランス料理店や高級すし店、高級←やたらこだわる(笑)中華料理店には縁のない生活で育ち今でも(笑)
 音楽にも「コース料理」に似たものもあれば「家庭料理」に似たものもあります。ジャンルとは無関係に「音楽を聴く楽しみ方」の問題です。
 形式を重んじるコンサートもあります。ポピュラーのライブでも初めて行くと周りに圧倒される「決まり事」があったりして(笑)
 いつ、だれが聴いても「懐かしい」と感じたり「癒される」と感じるコンサートが私の理想です。聴いたことのない音楽を知らない人が演奏していても「おいしい」と感じる演奏。
 おいしいチャーハンを作りたい!のです。
一見「ただのチャーハン」でも食べ終わって「また食べたい」と感じる「あれ」です。もちろん「非日常」を求めてコンサートに行く方もおられます。
「格式を楽しみたい」方もおられます。それを演奏する人も。
 私は「見栄えより雰囲気」を楽しんでもらいたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

出来る・出来ないは2進法。音楽は無限の創作活動。

 映像はモリコーネの「愛を奏でて」
演奏の合間のトークもカットしないでいてみました。
 今日のレッスンで「決めたことを出来るように練習しているうちに、音楽が詰まらなくなってしまった」と言うテーマで生徒さんと話しました。
 自分で考えるにしても、レッスンで先生のアドヴァイスを受けるにしても、誰かの演奏に刺激されて技術を習得しようと練習する場合でも「できるまで」練習する気持ちは大切です。
 しかし、それがいつの間にか「できるまで」と言う有限のもの…出来ないものが「だめ」でできれうば「まる」になってしまうものです。
 本来、なぜ?そうするのか?そうしたいのか?と言う「音楽の根っこ」があるはずです。ヴィブラートにしても音色にしても、弓の場所にしても…すべてが「試み」なのです。正解ではないのです。
 例えていうなら料理の「レシピ」です。
素材が楽譜です。その楽譜をどう?調理するとどんな料理になるのかを「誰かの好み」で書いたものがレシピです。そのレシピ通りに作ったとしても、自分が美味しいと思えるかどうかは別の次元の問題です。誰かほかの人が食べても、その人の味覚に合うか?合わないか?はレシピとは無関係です。
 突き詰めて言えば、音楽を「こう演奏しよう」と決めた時点と、次に演奏したときで「良い」と思うものが変わって当然なのです。ましてやおきゃ客様の反応もまったく違うものです。自分で試した「技術」「解釈」を何度も繰り返し演奏し、人に聴いてもらうことで「こう弾くとあぁ聴こえる」と言う結果の蓄積ができます。その積み重ねっこ曽我「プロの技術」だと思います。
 失敗することを恐れ、決めた通りに演奏しようとすれば、その音楽を始めて演奏したときの「感動」「喜び」「驚き」が薄れていきます。毎日、同じレトルト食品を食べているのと似た感覚です。
 失敗するリスクは「新しい発見」につながります。それこそが創作活動です。
指示通りに作る音楽は「創作」ではなく「無機質な音の連続」でしかありません。
 自分の感覚を研ぎ澄ますことが練習の目的です。出来るようになることが目的ではありません。テストで100点を取って「合格」する事とは違うのです。
 失敗を恐れずに音楽を「料理のように」楽しんでください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

大きな小品(笑)

 映像はサン・サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」
10年ほど前の演奏です。この曲はソロヴァイオリンとオーケストラで演奏するのがオリジナルの楽譜です。ピアノとヴァイオリンで演奏することも多いの楽曲の一つです。サン・サーンスはヴァイオリン協奏曲も作曲していますが、この「ロンカプ」はヴァイオリンコンチェルト…とは呼ばれません。
 単一楽章で完結する楽曲は「小品」として分類されます。が…この曲、かんり大曲です(笑)

 オーケストラと共演する場合とピアノと共演する場合の違い。
・オーケストラは楽器の種類が多い(弦・木管・金管・打楽器)
・オーケストラの音量差=一人~全員演奏のが大きい
・オーケストラは音色の違う楽器とヴァイオリンの共演
・オーケストラで演奏する楽器はほとんどが「純正調」ピアノは「平均律」
・オーケストラとの練習は大がかり(笑)
などなど違いは様々です。ヴァイオリンコンチェルトをピアノとヴァイオリンで演奏する場合、オリジナルの演奏とは全く違う「音」になるのは当然です。
作曲家が意図した音色や音量のバランスも、オーケストラとピアノでは違います。
 作品によって、オリジナル=オーケストラとソロヴァイオリンがあっても、ピアノとヴァイオリンの「楽譜=音楽」を聴いて素晴らしい!美しい!と感じる曲も多くありますが、残念!な楽譜も多くあります。
 この序奏とロンド・カプリチオーソの「オリジナル」をご存知の方にとって、ピアノとの演奏は「物足りない」と感じる人もおられますよね?
 もちろん「好み」の問題がありますが、ピアノとヴァイオリンで演奏するロンカプ「も」好きな人もいます。
 ピアノは「オーケストラの代用楽器」ではないのです。フォルテ・ピアノと言う一つの楽器です。そのピアノで演奏して美しい曲もあれば、「?」と言う楽譜もあります。ヴァイオリンでも同じことが言えます。
 クラシック「おたく様」の中には「オリジナルの楽譜=編成でなければ良さがない!」と言い切る方もおられますが、私はそう思いません。音楽の「好み」は人によって違うのです。作曲家の「狙い」とは別に演奏する人・聴く人の好みがあります。それが音楽だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏で優先されることの違い

 映像はNPO法人メリーオーケストラが演奏した「ダッタン人の踊り」
オーケストラを立ち上げてから21年間、毎年2回の定期演奏会と毎月一回の公開練習を続けて今日も活動を続けています。「継続は力なり」まさに私たちのオーケストラを表している言葉だと思っています。
 どんな演奏であっても「演奏家の魂」があります。魂のない演奏は「音」だと思っています。「魂とは?」哲学ですね(笑)頭の弱い私が表現できるとは思えませんが、少なくとも「目に見えないもの」であり「感情の一部」であることは言えると思います。

 演奏する人・人たちにとって優先するものがあるはずです。
それが「お金」であっても間違ってはいません。「楽しみ」であっても良いと思います。楽しみ方も「自分の楽しみ」だったり「聴く人の楽しみ」だったりしますよね。聴く人の意志とは無関係に、演奏する人の「意思」があることになります。いくつもの意思=狙いがあるコンサートも存在足ます。お金=入場料も必要・演奏者の喜び・聴く人の笑顔・社旗への貢献などなど。
 そんな中で「何を優先するのか?」が大切だと考えています。
優先するものがあれば「我慢する」ことも必然として生まれます。我慢に勝る価値があるから優先するわけです。

 私がメリーオーケストラを立ち上げてから今日まで優先し続けていること。
「誰からの束縛も受けずに好きな音楽だけを演奏する喜び」を得ることです。
音楽性や演奏技術よりも、音楽を演奏すること・できることの「本質」がそこにあると思っています。
 言うまでもなく「自由」を優先することは多くの「壁」を作ることになります。経済的な問題もありますが、一番大きな壁は「継続性」なのです。
 自由に演奏することを、一度だけ実行するなら誰にでもできます。
それを継続して実行することは本来「優先事項」ではないのですが、自分たちの意思で演奏活動できることが、演奏家にとって最も大切なことだと信じている私にとって「やめる」ことは「敗北」を意味します。立ち上げた人間の責任として、自分が指揮をできる間は…期間限定?(笑)続ける意地があります。

 浩子さんとのリサイタルにも同じ「魂」があります。違いがあるとすれば、演奏者の人数だけです。メリーオーケストラの演奏者は、ここ数年70~80名です。
アマチュアもいればプロもいます。プロの方には当日の交通費だけで演奏に参加していただいています。会場の費用や開催に必要な金額は会員と賛助会員の「会費」と会員の参加費で賄います。規模が大きいメリーオーケストラに比べ、夫婦二人で毎年2回の演奏活動を15年間続けて来られたのは、紛れもなく「魂」だと思っています。好きな音楽を演奏したいという気持ちだけです。

 最後になぜ?私が自由を優先する気持ちになったのか…
20年間、学校と言う組織の中で子供たちに「音楽の楽しさ」を伝える仕事をした時の経験が「自由」の大切さを教えてくれた気がします。
 学校でオーケストラ…なんて理解のある学校!外部から見れば間違いなくそう見えたはずです。事実、何度も取材を受けるたびにその言葉を耳にしました。
 現実は?日々、管理職を含めた他の教員との闘いでした。大げさな話や誇張ではなく事実です。当然、教務の仕事など「校務分掌」を当たり前にこなしたうえで、部活動オーケストラの指導をしていましたが、99パーセントの教職員は「音楽活動」を教育活動とは考えていませんでした。管理職に至っては「私立学としての広報」と言う発想さえできない無能ぶりでした。
 簡単に言えば「潰したい部活」がオーケストラで「排除したい教員」が私だったわけです。その中で20年間、最終的には150名のオーケストラを引っ張るための戦いは「自由を得るための闘い」でした。父の介護で退職しましたが、辞めた後も執拗に私への攻撃は続きました。それが「学校」という組織であり、自由と真逆にある組織だったことを学べました。

 演奏する人が何を優先しても良いと思います。
何かを得ようとすることが「煩悩」だとしても、演奏自体が人間の欲求で行うものですから否定されるものではないはずです。堂々と自分の「欲」を表に出す勇気も必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の速度をコントロールする

 映像は私の地元、相模原市橋本駅前にある「杜のホールはしもと」での演奏風景。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」の演奏です。
 このホール、残響が美しい!演奏していて気持ちのよいホールです。
さて今回のテーマは「弓の速度」です。ヴォカリーズの演奏を見て頂くとよくお分かりいただけると思いますが、弓の速度は常に一定…とは限りません。
 もちろん、基礎技術として「同じ音色」「同じ音量」でダウン・アップがそれぞれに演奏できるように練習することは、日々欠かさずに練習します。
一方で曲の中で「一音」の中でも音色や音量を変えることが音楽的に求められる場合もあります。逆に言えば、すべての「一音」を「べた塗」すれば全体が平面的なな音楽になります。音の立体感=奥行を表現するために、ヴィブラートや弓の速度・圧力をコントロールする技術が不可欠です。
 同じ長さの音符でも、意図的に弓の速さ=弓の量を変えることで、音色が大きく変わります。音の大きさをコントロールするのは、むしろ「圧力」と「音の立ち上がり」が大きく影響します。弓を速く動かせば音が大きくなると「勘違い」している人も見かけます。弓の速度を遅くすれば「詰まった音=芯のある音」に近づき、逆に速くすれば「空気の含まれた音=軽い響きの音」が出せます。圧力との組み合わせでさらに大きな変化量が生まれます。
 また、演奏する弓の「場所」も本来は音色に影響します。}弓先と弓元は「硬い音」を出すのに適しています。一方で弓中は「ソフトな音」「軽い音」を出すのに適しています。
 これらの要素を考えながら弓を決めることが大切になります。ホールの響きや曲によって弓の速さも変わります。
 ぜひ、自分の好きな曲で試してみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦を押さえる力加減

 映像は代々木上原ムジカーザで演奏したドボルザーク作曲「4つのロマンティックピース」よりロマンスです。この曲でも途中にオクターブの重音が連続する部分があります。重音の中でもオクターブや10度の重音の場合、高い方の音は4=小指または3=薬指で押さえることになり、さらにハイポジションの場合には、その指を指板に「押し付ける」力の加減が極めて微妙です。
 1本の弦を1本の指で押さえる場合でも、弦を指板に「押し付ける力」は感覚的なものなので他人に教えることは困難です。また、自分以外の人が都の程度の力で弦を押さえているか?は判別できません。
 言うまでもなく人によって、指先の硬さが違います。また指の強さも違います。「握力」ではなく、指1本の「握る力と速さ」と「指を話す力と速さ」です。この力と速度は計測の方法がありません。親指の力は弦を押さえる力に反発する力です。弦を強く押さえようとすれば、親指の上方向への力も強くすることになります。その状態でポジション移動をする…矛盾する力の関係です。
 強く押さえればピッチも安定し音色も明るくなります。余韻も長くなります。ただ、ポジションを移動する瞬間に「緩める」事が必要になります。この運動は本来なら少ないのが理想です。一定の「押さえる力」が1本ずつの指にあることが求められます。小指の「弱さ」がオクターブ重音の障害になっている私にとって、未だに解決できない課題です。皆さん、どうしてますか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「何年経っても…」の嘘と本当

 映像は40年前の私の演奏です。この時から今日までに、どれほど?私の演奏技術は進歩したのでしょうか?演奏は進化したのでしょうか?40年…昔なら人間の一生の時間でした。しかも、この演奏をした時に23歳という事は、立派な「おとな」だったはずです(笑)今?お爺さんになりかけております。
 さて、生徒さんの「いつまで経っても上達しない」と言う声を時々耳にします。生徒さんで40年、私に習っている人は今のところいませんが少なくとも、何カ月・何年と言ったスパンでの「いつまで経っても」なのですが。
 私自身も同じように思うことがあります。ヴァイオリンを習い始めて50年以上。音楽の学校で学び始めてからでも15歳からとして48年という年月が経ちました。人間に限らず生物は「退化」するものです。その速度も内容も
千差万別ですから一概に「何歳になったら」と言う概念はありません。私の場合でも、筋力や体力は明らかに退化していますが「気力」だけはさほど衰えていない気がします。
 いつまて…の嘘の部分。
これは人間の「欲」が基準になっている話であり、客観的な上達の内容とは寒けないという事です。他人…例えば自分のことどもに対して「いつまで経っても」と言うのも結局は自分の価値判断=欲で測っているから言えることです。
 現実には演奏の技術は少しでも練習すれば必ず上達するのです。それは紛れもない事実です。仮に楽器を演奏しない=練習しない時にでも、ふとした時に感じる感覚が自分の演奏に結び付くことも「上達」には必須のy増件です。荷物をもって「重たいなぁ」と感じることも楽器の演奏には必要な感覚です。音楽の解釈にも「重たい」と言う感覚を知ることが重要です。
 いつまで…の本当の部分
これは私の話ですが、うまく出来ないことを「いつまで経ってもできない」と思うのが人間だと思います。「いつまで経ってもできる」ことが実はたくさんあるのです。もちろん老化や病気、自粉でそれまで出来ていたことができなくなることもあります。それでも「子供の頃から今でもできること」はたくさんあるのです。
 では若いころから(40年前から下手=苦手なことはどうなのでしょうか?
私なりの結論で申し訳ありません。苦手なことがあって「当たり前」だと思うようになりました。「開き直りか!」とか「努力=練習から逃げているだけだ!」というお叱りは甘んじて受けます。ただ、現実に自分の中で、他の「できること」と比較して明らかに「できない」ことは、誰にでもあるはずなのです。
 演奏に限ったことではなく、あるレベルまでは努力で到達できても、それ以上のレベルになるために「死に物狂い」で努力しなければ到達できない人と、本人にはそれほど?努力しなくても到達できる=演奏できる人がいても、当たり前だと思います。出来る人が「天才」なのではなく、それが「個性=生物の個体差」だと思うのです。
 多くの人ができるから自分もできる…レッスンではつい、生徒さんに言ってしまいがちな言葉です。ただ現実にはできるようになるまでの「努力の時間と内容」は人によって大きな差があるのも事実です。

 時間をかけて出来るようにすることを「学習」と言います。多くの生物は学習能力を持っています。長く時間をかければ「学習内容」が常に上書きされていきます。
 一方で「好きなこと・嫌いなこと」は誰にでもあります。その原因やシステムは未だに証明されていません。出来ないことにコンプレックスを感じるのは「欲」の副産物です。欲がなければ楽になるとはいえ、生きる楽しみは「欲」そのものです。生きたいと言う欲、うまくなりたいと言う欲、それが私たちのエネルギーの源なのです。出来ないと言うストレスも、見方を変えれば「生きるために必要な壁=抵抗」なのかも知れません。出来ないことを受け入れながら、考えて出来るようにすることが「楽しみ」に感じられれば良いですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

G線上の「無言歌」

 G線上…と言えば「アリア」が思い浮かびますが、実際には他にもG線だけで演奏するように指示された曲があります。
 たとえばその一つが、このメンデルスゾーン作曲クライスラー編曲の「無言歌・五月のそよ風」です。
 過去にヴァイオリンで演奏したこととヴィオラで演奏したことがありますが、ヴァイオリンでは指示通り、すべてG線だけで演奏しました。
 ヴィオラで演奏したときにはその「効果」より楽器の構造上の「無理」があるためにD線も使って演奏しました。それが下のものです。
聴き比べて頂くと楽しいかな?

 再度までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自分に合った指使いを科学する

 映像はチャイコフスキー作曲「ノクターン」
多くのヴァイオリン用の「楽譜」がある中で、楽譜に「指番号」「弦」「ダウンアップ」が記入されていますが、出版社によってそれぞれ違うことが多々あります。中には明らかな「ミスプリント」もあります。
 アマチュアヴァイオリニストにとって、指使いを自分で考えるのはとても難しいことです。初心者向けの教本には指使いが「指定」されている場合がほとんどです。むしろ自分で「選択」する箇所は開放弦「0」か隣の弦で「4」の指を押さえるかのどちらか…位ですよね。また、少し上達してきた人向けの教本には「セオリーと違う」指番号が書いてある場合が出てきます。例えば多くの場合なら「A線のド♯」は2=中指で押さえるのがセオリーですが、すぐ後に「E線のソ」を演奏するならド♯を3=薬指で押さえるのが「効率的」な指使いになります。
 ヴァイオリンの指使いは、ピアノの指使いより「ある意味で」複雑です。
ピアノの鍵盤88の中で「ひとつ」の鍵盤に対して、考えられる「指」は全部いくつ?答えは「10種類」です。右手・左手の指の「どれか」で「ひとつの音の高さ」を演奏します。
 一方ヴァイオリンの場合、押さえるために使う指は左手の「4本」加えて「開放弦=0」で出せる4種類の音。「なんだ!ヴァイオリンの方が全然少ないだろ!」と思われがちですが…
 ヴァイオリンのD・A・Eの3本の弦で出せる音は、それぞれ「その弦より低い=左側にある弦」でも演奏できる!わかりにくい!(笑)
 ここでは説明を省きますが、要するに「同じ高さの音を違う弦でも演奏できる」わけです。
 さらに「フラジオレット=ハーモニクス」と言う倍音を使った演奏技法でさらに「指使いの選択し」が増えます。

指使いは「個人の好み」が許される範囲がほとんどです。作曲者が「指定」するとしても「弦の種類」または「ハーモニクス」までで、どの指で押さえるか?またどの弦で演奏するか?は演奏するヴァイオリニストの「好み」で決まるものです。人によって指の動きは微妙に違います。単に鍛え方の問題だけではありません。指の長さ・指の太さ・てのひらの大きさ・てのひらの厚さ・腕の長さも人によって違います。
 さらに言えば「音色の好み」が違います。その「どれが正しい」と言うものではありません。まさに自分で考えた結果として指使いが決まるものです。
 特にポジションの移動や弦の移動=移弦しなければ演奏できないような部分では、どんな指使いが選択肢として考えられるのか?考えることが必要になります。ポジションを移動する場合でも、どの指で移動するのか?と言う選択肢も加わります。同じ音を連続して演奏する場合にでも、意図的に指を「替える」ことも技術の一つです。

 最後に私が自分で考えて指使いを決めた「ふるさと」の動画をご覧ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

F=自由 A=だが E=孤独

 映像はFAEソナタの一部。ブラームス作曲部分です。
FAEは「ファ・ラ・ミ」のドイツ音名でもあります。
 今回のテーマは「自由と孤独」について。
音楽を学ぶ人にとって「自由」は何よりも大切なことです。
音楽家を「自由人」と称することもありますが必ずしもその限りではありません。演奏の対価として、指導の対価として金銭を受け取ることで生計を立てている音楽は社会人としてのコミュニケーション能力が必須です。
 自由だから孤独とは限りませんし、孤独だから自由とも言えません。
社会で言いる上である程度の「束縛」を受けることも事実です。
また退任との付き合いが必要になる場合にもあります。
音楽は「精神」の面と「経済的=現実的」な面の二面を持っています。
自由が嫌いな人はいなくても、孤独を好む人と嫌う人がいます。
考え方、性格の違いです。他人の価値観を否定するのは愚かな行為です。
演奏家でも孤独が好きな人もいます。それを「変人」扱いするのは間違っています。群れることが正しいと信じている人もいます。その集団になじめない人にとって、その場にいなければいけないことは「苦痛」です。社会性の問題ではなく、価値観の問題だと思います。
音楽は常に「自由」な気持ちで演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

テクニカルな曲の演奏を楽しむ

 映像はサン・サーンスさ曲「序奏とロンドカプリチオーソ」
そして、下の映像はサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」言わずと知れた「技巧的な」な曲です。私はこの手の音楽で速さと正確さを競い合うヴァイオリニストたちに「近づきたい」と思えません。負け犬の遠吠えと言われても受け入れます。技巧の裏に「音楽」がある演奏をする人を尊敬します。自分もそうありたいと思っています。

 どんな音楽であっても「機械のように」ではなく「人間らしく」演奏することが理想です。人より優れた技術を身に着けようとするより、自分の音楽を好きになれる努力をすべきです。他人と比較する自分ではなく、自分を観察する気持ちを持ち続けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

若気の至り?(笑)

 今年で63歳になる私が20歳の頃に何を思ったのか試験で弾いたサラサーテのカルメンファンタジー。前年にシベリウスのコンチェルトを試験で弾いて、どうして?こんな曲を選んだのか覚えていません(笑)
 さらに大学5年生の時(笑)師匠の「発表会で何か弾きなさい」というむちゃぶりに(涙)演奏したのがヴィラーリのシャコンヌ。


 どちらの演奏も今の自分に「残っているもの」と「変わったもの」があります。音楽大学と言う環境の中で自分が育っていることを実感していなかったのもこの時期です。結果として今の自分がヴァイオリンとヴィオラを演奏していることを考えると、やはり「若いころの経験」が如何に大切かを痛感します。
 自分がどんなにへたくそだと思っても、無駄だと思わずに続けることが将来の自分の「根っこ」になります。ぜひ!若い皆様。焦らずに自分の好きな音楽を掘り下げてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

感性は鍛えられる?

 映像はデュオリサイタル10で演奏したメンデルスゾーン作曲「歌の翼に」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 音楽を演奏する人の「感性」は技術や知識のように増やしたり、強くしたりできるものでしょうか?それとも…
 そもそも感性と言う言葉は心理学辞典によると「美しさや快さなどの認知や評価はもとより,味覚や嗅覚のように感情を伴う感覚,質感・速度感・広がり感といった知覚的印象の認知も,感性の範疇に含まれる。感性は,感覚から感情までを含む多様な「知覚」を意味する古代ギリシア語のアイステーシスaisthesisとも関連する。」とあります。感覚も感情も完成の一部なのですね。
 感覚はトレーニングよって「敏感・精細」にできます。聴覚で言えば単に「音が聞こえる」と言う意味もあれば「音の高さを答えられる」事も聴覚の一部です。動体視力も資格の一部です。ボクシングの選手やF1パイロット、プロ野球の選手のように高速で動くものを、瞬間的に「見る」能力が求められることもあります。
 一方で「感情」は鍛えたり強くしたりできるでしょうか?
感情を抑える「理性」簡単に言えば「我慢すること」はある程度強くすることももできますが限界がありますよね(笑)「堪忍袋の緒が切れる」「我慢の限界」と言われる状態です。
 音楽は「音」を「音楽=作品」として感じることで初めて音楽になります。
自分と同じ「人間が作った作品=楽譜」を音にして、その音から「感情」や「感覚」を湧き上がらせることが「演奏」だと思います。つまり、ただ音を出すだけの段階では特定の感情…悲しい・楽しいなどや、感覚のイメージ…暖かい・冷たい・軽い・柔らかいなどのイメージは感じられず、「サウンド・ノート」ではなく「ノイズ=聞き取れる空気の神童」でしかありません。
 感性をより「敏感」に「精細」にしたいと思うのであれば、何よりも自分の記憶を呼び覚ますことです。感情の記憶は日々、無意識のうちに積み重なるものです。多くの記憶は長く覚えていられないものですが、強く印象に残った「感情の記憶」は誰にでもあるものです。私たちの年齢で「昔…」と言えば大体10年以上前の話ですが、小学生が「昔ね~…」と言うと思わず吹き出します。感情を伴う記憶が多いほど、音楽のイメージを作りやすいはずです。
 感性はずばり「その人の経験」から膨らむものだと思います。
もし、今までに一度も悲しい経験をしたことのない人がいたら「悲しい」と言う感情は理解できません。楽譜を「音楽」にする時に、ぜひ自分の記憶の扉を開いてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

知っている曲が知らない曲に 

 演奏はデュオリサイタル15で演奏した「ふるさと」
ジャズピアニスト小曽根真さんと奥様で女優さんの菅野美鈴さんがアップされていた演奏があまりに素敵だったので。耳コピさせていただいたものです。
 ふるさと…NPO法人メリーオーケストラで演奏し続けている日本の情景と日本人の心情を表した素晴らしい曲ですね。

 上の映像はメリーオーケストラ「ふるさとロングバージョン」(笑)
下の映像は毎回演奏している「ふるさとアンコールバージョン」です。

 知っている音楽を聴いた時に「あれ?どこか違う」と感じることがあります。
いわゆる「カヴァー」が流行している現代ですがこれも「知っている曲が生まれ変わる」ことの一つです。
 クラシック音楽の世界でも、珍しい事ではありません。過去に作曲された音楽を「素材」にして新たなアレンジを施し「新しい音楽」にすることは当たり前に行われています。ブラームスの「ハイドンバリエーション」のようにタイトルに表されているものもあります。フリッツ・クライスラーのようにオーケストラのための音楽をヴァイオリンとピアノで演奏する「楽譜」を書き自分で演奏していた人もたくさんいます。ハイフェッツもその一人です。
 演奏家が作曲をする…曲をゼロから作るのではなく「手を加える」事で新しい音楽になります。「盗作だ!」(笑)意味が違います。お間違いなく。
 もとより、以前にも書いた通り作曲された「楽譜」は演奏者の自由な表現と解釈によって演奏されるのが「本質」です。楽譜の通りに演奏する…楽譜に書いていないことは「してはいけない」と言う楽譜は存在しません。現実的に考えてください。楽譜のすべての音に作曲家が「音色」「ヴィブラート」「音量のデシベル」を書き込めるでしょうか?不可能です。作曲した本人が「他の人に演奏されたくない!」と考える場合もあります。パガニーニは当初、自分で作曲し自分で演奏した曲の楽譜を人に見せなかったそうです。
 逸話として有名な「神童モーツァルト」が一度聞いただけの曲を自宅でチェンバロで演奏した…この能力は「聴音+暗譜」の技術で音楽の学校で多くの人が学ぶ技術です。前述の「小曽根真さんの演奏耳コピ」はまさに「聴音書き取り」の技術です。話がそれましたが「楽譜は自由な演奏の素材」です。
 演奏する人の「こだわり」が個性になります。こだわりのない演奏は「個性のない音楽」だと感じます。音色であれ、テンポの微妙な揺れであれ、演奏する人の「考え」があって初めて音楽になるものです。
 自分の知っている曲でも演奏したとき、それは「新しい音楽」になることを意識するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽による演奏者の「温度」

 映像はバッハ作曲の「あなたがそばいにいてくれたなら」
ゆったりしたテンポの曲ですが決して「涼しい=冷めた音楽」ではありません。
演奏する音楽によって「適温」があると思っています。
 下の映像はエルガー作曲のマズルカです。演奏当時はこれが「適温」だと感じていましたが今、聴いてみるともう少し「軽やかに」演奏したほうが良かったのかな?とも反省しています。

 一つの音楽の中で温度が変わる者もたくさんあります。
たとえば、チャイコフスキーの「メディテーション=瞑想曲」

 ぜひ!演奏する音楽の「適温」を探してみて下さい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの音色の特徴は

 映像はシューマン作曲の3つのロマンスより第2番。
上の演奏は私と浩子さんがヴァイオリンとピアノで演奏したときのもの。
下は原曲であるオーボエで演奏している動画です。
 単純に比較するのもおかしいのですが、オーボエの特性・特徴を感じやすい旋律でヴァイオリンで演奏した場合との違いがはっきり分かります。
 下の映像はカヴァレリルスティカーナ間奏曲をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。

 この曲のオリジナルである弦楽合奏とハープ・パイプオルガン・木管楽器での演奏を私が指揮したときのものが下の動画です。

 ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロがユニゾンで演奏する分厚い音色を、ヴァイオリン一丁で再現することは不可能です。ただ旋律の美しさは変わりません。
 原曲のイメージは作曲者のイメージでもあります。演奏する楽器が変われば雰囲気も変わります。出来る限りオリジナルの印象を残しながら、新しい音楽として正留津させられればと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量と音色

 映像はデュオリサイタル12で演奏したモーツァルト作曲アヴェヴェルムコルプスです。この演奏会では手の指が何度も攣ってしまうアクシデントに見舞われました。年齢的なものと心臓の不調に気づかなかったことが原因です。
 さて音量と音色。あなたはどちらを優先しますか?
良く「ストラディバリウスの楽器は音量が豊かだ」と言われます。
実際に計測機器で測るとデシベル的には他の楽器と変わらない事実は有名です。
「高音の倍音が多い!」と言う人もいますが、これまたオシロスコープで計測すると実際には他の楽器と大差ありません。
 つまりは演奏する人の「好み」の問題でしかないのです。
明るく感じる音色は高音の成分が多い迷路です。
柔らかっく感じる音色は逆に高音の成分が少ない音です。
音量は「音圧=デシベル」で表しますが先述の通り、ヴァイオリンの音量はピアノや金管楽器に比べて小さな音です。
 音量を大きくしようと弓に圧力をかけて、弓を早く動かせば最大の音量が出せますが…そもそもヴァイオリンの音量差=ダイナミックレンジはピアノに比べて小さな差しかありません。
 音量の変化と音色の変化を「組み合わせる」ことで、実際の音圧より音量差を感じるのが人間です。明るい音と深いヴィブラートで聴覚的に大きな音に感じます。その逆をすればより小さく感じます。
 ぜひ音色をt音量を組み合わせてみてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの発音(アタック)をコントロールする

 映像は10年前。デュオリサイタル5で演奏したチャイコフスキー作曲の懐かしい土地の思い出より「スケルツォ」です。
 今回のテーマは弦を弓の毛でこすって音を出すヴァイオリン・ヴィオラなどの、発音について考えます、
 言葉で言えば「子音」を考えると理解できます。
例えば「あ」は発音した瞬間も伸ばした「あー」も同じです。
一方で「か」は喉の奥で[K」の子音を作り口の形を「あ」にすることで「か」に聴こえます。伸ばせば「あー」になります。
同様に「た」「だ」「ば」「ぱ」「さ」「ざ」など同じ母音でも子音が変われば発音する言葉が変わります。
 ヴァイオリンの子音は「アタック」とも呼ばれます。管楽器の場合には「タンギング」つまり舌の使い方でコントロールすることが一般的だと思います。
 発音する前の「準備」が最も大切です。
腹話術の得意な人は「ま」と言う音を唇を閉じることなく言えるようですが…
普通は唇を閉じなければ「ま」と言えません。
 ヴァイオリンの場合、弓の毛を弦にあてる=押し付ける「圧力」と、弓が動き出す「瞬間」の弓の速度でアタックが決まります。
 言い換えれば音が出た後でどんなに頑張っても「アタック」はつかないのは当たり前です。音が出る前に弓をコントロールできなければ子音をコントロールできません。
 さらに細かく言えば、右手指の柔らかさもアタックの強さをコントロールする要因です。アタックの強い「硬い音」「立ち上がりのはっきりした音」を出そうとして、指を固くしてしまう生徒さんを見かけますが逆効果です。
 指の関節を緩めることでアタックがコントロールできますのでお試しください。
 最後までお読みいただき。ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピアノとヴァイオリン

 シューマン作曲の3つのロマンスより第2番。原曲はオーボエとピアノのために作曲されています。ピアノは色々な楽器と一緒に演奏される楽器です。
 ヴァイオリンを演奏する立場でピアノの演奏する「音楽」と融合する=溶け合うためには、楽器の特質=音色や構造の違いを理解するだけでは足りません。
 ピアニストとヴァイオリニストがそれおぞに「お互いを共有する」ことです。
自分だけではなく、相手だけでもなく。自分と相手を「一人の演奏者」として認めある事です。音楽の中ではある部分でどちらかが「主導的」で一方が「受動的」になることも必要です。音楽=楽曲をお互いが理解して初めて一つの演奏が成立します。
 演奏の「傷」を恐れるよりも、一緒に演奏しなければ完成しない音楽に喜びを感じることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

左手の親指を考える

 映像はデュオリサイタル14で演奏したピアソラのカフェ・ナイトクラブをリメイクしたものです。
 今回考えるのは左手の親指について。
演奏するヴァイオリニストの体形・指の長さ・掌の大きさはすべて違います。さらに筋肉量も人によって違います。楽器の大きさは基本的にミリ単位の違いしかありません。楽器の重さや厚みも大きな違いはありません。
 つまりヴァイオリニストごとに演奏する際に使う関節・筋肉が違うことになります。自分に合った楽器の構え方や弦の押さえ方、弓の持ち方を探すことがとても大切です。その際に左手の親指は、実際に弦を押さえる4本の指以上に大きな役割を持っています。
①弦を押さえる力に反発する力
②楽器の揺れを抑える役割
この二つが親指の役割になります。
A.親指のどの部分をネックにあてるか
B.親指をあてるネックの場所
C.力の方向
この3点を意識します。
親指の指先に近い部分をネックに充てた場合、指の付け根からの「距離」が長くなるために1~4の指先を開く幅を大きくできますが、反面1~4の指先が下方向に力を加えにくくなります。言うまでもなく弦を押さえるためには、指板の「丸み」の中心に向かって力をかけるのが原則です。

一方で親指の「下=手のひら側」例えば親指の第1関節と第2関節の「中間」にネックを当てた場合、弦を押さえる1~4の指は理想的な向きで弦に置くことができます。ただし指を開くこと=1~4の指の間隔をあけることが難しくなります。
 掌が小さい人や指が比較的短い人の場合には、弦を押さえるために「開く力」を強くする必要があります。

 親指の役割は左手の5本の指の中で、実は最も重要なものです。
ネックに触れる指の場所、指の触れるネックの場所を、自分の手の大きさや筋力に合わせて探して決める必要があります。さらに親指の柔軟性は年齢と共に変わります。無理のない親指の位置を探すことは常に必要な事だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の音を決めるのは演奏者でしょ!

 映像は14年前のデュオリサイタル2で演奏したエルガーの夜の歌。ヴィオラで演奏することを念頭に書かれた曲ですがこの時はまだ陳昌鉉さんのヴィオラと出会っていないのでヴァイオリンで演奏しています。
 さて今回取り上げるテーマは、楽器の音を決めるのは演奏者という至って当たり前の話です。今更なぜそんな当たり前のことを書くのか?
 楽器や弓・弦が音を決めているのではないことを言いたいのです。
当然楽器でも弓でも弦でも松脂でも変えれば音は変わります。ただ最終的にそれらを使って「音」を出すのは演奏者なのです。どんな楽器であっても演奏者が違えば音が変わります。演奏している本人が聴こえる音だけではなく、客観的に演奏者=楽器から離れて聴いた時に明らかに「違う」ことが何故か軽視されています。楽器や弓の「違い」が大切なのではなく、演奏する人の違いこそが「音の違い」を決めているのです。
 楽器や弓を変えることは演奏者にとって「違う身体で歌う」ことになるのです。ピアニストは常にその現実を克服する技術を持っています。
会場ごとに違うピアノで演奏するのですから。
ヴァイオリンは?自分とめぐり合った楽器や弓となぜ?真剣にお付き合いしないのでしょうか?(笑)相手を変えようとするばかりで自分が変わろうとしない人を好きになれますか?ヴァイオリンや弓に「ケチ」を付けて自分の演奏技術は神棚に挙げる演奏者が多いように感じます。どんな楽器であっても、すべての演奏者にとって「最高」なんて楽器は存在しません。さらに言えば、楽器の音が気に入らないからと楽器や弓・弦のせいにする前に、自分の耳を疑う事をなぜ?しないのでしょうか。人間の「聴覚」は日々刻々と変化します。気圧でも変わります。血圧が変われば聴こえ方は全く違います。それを考えず「楽器の調子が悪い」と言うのは間違っているケースがほとんどだと思います。
 楽器を大切にすることと、楽器そのものに手を入れることは意味が違います。
楽器は自分の意志で変わることはできません。楽器に合わせるべきなのは演奏する人間です。
 ぜひ自分の楽器の音を「自分の声=声帯」だと考えてみてください。いじくりまわすよりも。声の出し方を考えるのが先だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの「小技」

 映像はフリッツ・クライスラー作曲のウィーン奇想曲。デュオリサイタル5、杜のホールはしもとでの演奏です。
 ヴァイオリン演奏技法の中で「少し変わった」とでもいうべき技法がいくつかあります。代表的なものでピチカート、スピッカートなどのように弓の毛で弦を擦って音を出すヴァイオリン奏法とは異なる方法で音を出す技法です。その他にフラジオレット=ハーモニクスと呼ばれる倍音を利用して演奏する奏法があります。また2本の弦を連続して演奏する奏法もある意味では特殊なものです。
 本来の奏法でヴァイオリンを演奏することが最も大切な基本技術だと思います。ヴィブラートも基本的な技術の一つです。
 作曲家の狙いがなんであっても、楽譜に書いてあればその指示に従って演奏するのが演奏者の役割です。中には「これ(技法)効果あるのかな」と疑問に思う指示もあります。特に重音の連続でメロディーを演奏する楽譜は「一人で二人分の演奏をする」とも考えられます。
ヴァイオリニストが二人いれば済む話(笑)もちろん、重音の良さはあります。ただその部分を単音で演奏しても…むしろ単音の方が聴いている人に美しく聴こえると感じる場合も少なくありません。
 重音やフラジオレット、サルタートなどの「小技」を速い速度で演奏すると「超絶技巧だ!」と言う方もいますが私には甚だ疑問に感じます。ヴァイオリンの本来の演奏技法で美しい音・美しい旋律を演奏することこそが超絶技巧だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜に書かれていないこと

 映像はデュオリサイタル14で演奏したピアソラの「タンゴの歴史」からカフェとナイトクラブ。
 楽譜に書かれていないことって?ダウンやアップ?指使い?
もちろん、楽譜によって指使いの指定やボウイングの指定があるものと無い楽譜があります。今回はそれ以外に書かれていないこと…例えば音色やグリッサンド・ポルタメントの有無、微妙な音量の変化や音符の長さの変化についてです。
 楽譜の通りに演奏することがクラシック音楽ん基本でもありますが、他方で演奏者の個性は楽譜に書かれていない「演奏技術」で決まります。極論すれば演奏者の感性とこだわりが発揮されるのが「楽譜に書かれていないこと」です。
 特にクラシック以外の演奏になるとやたらとグリッサンドやポルタメントを多用するヴァイオリニストが増えます。大いなる勘違い(笑)だと思います。グリッサンドすれば「色っぽい」と思い込んでいるのかもしれません。ポピュラー音楽の中で「演歌」でもこのポルタメントは「肝=きも」でしか使いませんよね。ロックギターのチョーキングやアーム奏法でも効果を考えて使います。
 楽譜に書かKれていないからこそ、演奏者の「品」が問われます。下品にならず、かと言って淡白でもない演奏はグリッサンドだけで表現できるはずがないのです。
 バッハの音楽を演奏する時に「しない」事は基本ポピュラーでもしないのが当たり前です。意図的に色を付けるために一種の「効果音」として考えるべきだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

小品の定番曲?

 映像は今から14年前!デュオリサイタル2杜のホールはしもとでの演奏動画です、二人とも…若いと言うか(笑)当たり前ですが14年年月が経てば見た目も中身(笑)も変わるのが人間です。変わっていないのは使っている楽器ぐらい。
 変わらないものの一つに「曲=楽譜」があります。演奏は言うまでもなく毎回違うものです。今回のテーマ「小品の定番曲」ですが、私たちが演奏する曲は主に「小品」と呼ばれる曲です。厳密な定義はありませんが、小品とは呼ばないものに「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」や「ヴァイオリン協奏曲」があります。編成=演奏人数の問題ではなく、1曲の演奏時間が短い物や、楽章が複数「ない曲」が小品と呼ばれるようですね。
 愛の挨拶はエドワード・エルガーの作品です。エルガーは愛の挨拶の他にも多くのヴァイオリン小品を残しています。またヴィオラのための小品も書いています。ヴァイオリンの小品が演奏されるのは、なぜか?小品ではない曲のコンサートで「アンコール」と言うケースが多いのは事実です。ヴァイオリンの小品は「デザート」的な扱いなのでしょうか?

 多くのヴァイオリンとピアノで演奏する小品を書いたフリッツ・クライスラー。自身が演奏するための曲を作曲し、数多くの作品を残しました。代表作の一つ、愛の悲しみの演奏動画。

 こうした小品を文学に例えるなら短編小説や詩などに近いものがあります。
また食事に例えるならソナタや協奏曲がコース料理で、小品は「一品料理」かも知れません。いずれにしても読む人や食べる人がその時々に選べるものです。
 コンサートで小品だけを演奏するのは、いわゆるクラシック音楽マニアからすれば本来の楽しみ方ではないと言われるかもしれません。演奏する人と聴く人が同じ楽曲構成=プログラムを求めていれば他の人が口を挟む意味はありません。バッハの無伴奏ヴァイオリン曲6曲をすべて演奏するコンサートを「聴きたい」と思う人がいても不思議ではありません。同様に小品だけのコンサートで楽しみたいと言う人もいるはずなのです。
 短い音楽が軽薄で、長い演奏時間の曲が崇高だとは限りません。
小品を組み合わせる難しさもあります。言ってみれば色々な料理を少しずつ楽しめることに似ています。フルコースの料理もあれば、飲茶のような料理もあります。要は食べる人・聴く人のニーズに応えながら期待を超える完成度にすることが何よりも大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとヴィオラの聴き比べ

 今回のテーマは同じ曲を音じ人間がほぼ同じ時期に、同じ音域で演奏したヴァイオリンとヴィオラの音色の違いです。
 上の映像はデュオリサイタル7で演奏したロベルト・シューマンの歌曲「リーダークライス作品39」を前半はヴァイオリンとピアノ。後半の背景が赤くなっている動画はヴィオラとピアノで演奏しています。
 好みの問題が分かれるのは当然ですが、一般的にヴィオラはアンサンブルやオーケストラで「影の存在」と思われがちです。
 ヴァイオリンより低くチェロより高い音(笑)
そんな印象を受けるヴィオラですがただ単に音域の違いだけではありません。
ヴァイオリンに比べてボディーのサイズが大きく、低音の響きの量と質がヴァイオリンとは全く異なる楽器です。
 同じ演奏者が同じ曲を演奏するとより違いが明確になります。
ピアノと一緒に演奏することで音の熔け具合がわかります。
 ヴィオラ特有の音色は管楽器で言えばホルン・トランペット・コルネット・トロンボーン・チューバ・ユーフォニウムなどとの音色や音域の違いに似ています。サキソフォンでもソプラノ・アルト・テノール・バリトンなどの違いがあることはご存知の方も多いかと思います。
 私は原曲が歌曲の場合にヴィオラで演奏するのが好きです。
ぜひお聞き比べください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌声と楽器の音

 上の映像はヴィオラとピアノで演奏したレイナルド・アーン作曲の「恍惚の時」下はカウンターテノールで歌っている映像です。
 音楽の演奏は「歌」と「器楽」に大別できます。
自然界の音や楽器の音ではない音…例えば金属をハンマーでたたく音を音楽の中に用いたりサイレンの音を用いることもありますが、一種の楽器として考えることもできます。
 歌声=人間の声と器楽=楽器の音に優劣をつけることは不可能です。
それぞれに「できること・できないこと」があって、人間が出せない高さ・低さの音を器楽では出せますが、楽器は言葉を話すことが出来ません。
 よく「〇△は人間の声に一番近い!」と楽器の音を例える人がいますが、根本的に人間の身体を音源にする声楽と、楽器が出す音を比較すること自体が無意味です。人の身体は「生命体」であり楽器はあくまでも「人工物」ですし、身体は部品を交換できません。
 人間の声は音楽の起源でもあります。どんなに古い楽器も人間の声より古くから存在した楽器はあり得ません。
 人間の声は人によってみんな違い、私たちは人の声を聴いて育ちました。
生まれつき聴覚が不自由な人たちにとって「音」は想像でしかありませんが、健常者にとって人間の声は生涯で一番たくさん聴く「音」なのです。無人島で一人生活していたり、独房で誰とも会わず生きている場合は別ですが。
 その声が音楽を奏でることが一番自然な音楽に感じるのは、考えてみれば当たり前のことです。どんな楽器より一番親しみのある音=歌声は唯一無二の存在です。歌う人によってすべて違う声…これは楽器でも同じことが言えますが「好きな声」と「嫌いな声」は不思議なことですが生理的にあるように思います。
 話し方…とは違い、声の質の問題です。その意味では声楽家の場合、持って生まれた「声」で音楽を奏でる宿命ですから、器楽とは全く違いますね。
 楽器の演奏で最も大切なことは「聴く人にとって心地よい音であること」だと確信しています。人によって好みがあって当たり前です。聴く人すべてが心地良く感じる音は存在しません。それも現実です。歌声でも同じです。
 人間らしい器楽の演奏
先述の通り器楽は声楽=声では出せない高さや速いパッセージを演奏できます。
ただそれは単に楽器の特質であり演奏者の技術とは無関係です。
速く正確に高い音や低い音を演奏できる「だけ」の演奏にならないように常に気を付けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習の前に

 ヴァイオリンを練習しようと楽器と弓を手に取って、調弦をして…
その次に何を?練習しますか?スケール=音階・エチュード・曲
 長い時間をかけて練習することができない環境の人も多い上に、何を最初に練習するのか回も決まっていない人が圧倒的に多いのが現実です。
 これが正しいと言うものはありませんが、ヴァイオリンの演奏で最も大きな運動をする右腕の筋肉をストレッチする「ウォームアップ」をお勧めします。
 上の楽譜の1番は♩=60でメトロノームを鳴らしながら、一つの音を弓の元から先まで残さずに使いながら(先が届かなければ無理をせず)一つの音符に4秒ずつかけて同じ音量・同じ音色で演奏します。
 4秒×2(ダウン・アップ)×7種類で56秒×2(上行と下降)で約2分です。
2番は2本の弦を弾きながら一方の弦だけを0→1→2→3→4→3→2→1→0と押さえていく練習です。この練習で約3分。二つの練習で5分です。
 ぜひ!お試しください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

思い出の曲

 中学生の頃に学校のクラブ活動オーケストラで演奏した記憶の消えない「ミスターロンリー」当時はレターメンの歌が大好きでした。
 人間の記憶は最後まで残るのが嗅覚=香りの記憶だそうですが音楽と結びつく記憶もありますよね?
 人によって記憶はすべて違います。その人の「人生」が音楽によって蘇ることも素敵な事だと思います。
 単に懐かしい…と言う以上に当時の光景や人の顔が走馬灯のように思い浮かぶ瞬間があります。

 こちらは松田聖子さんの歌っていたスイートメモリーズ。ペンギンが(笑)
そんな音楽を自分で演奏する時「自己満足」にならないように、聴いてくださる方が初めて聴いて印象に残るような演奏をしよう!と心掛けています。
 同じ世代の方には懐かしい音楽ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

美しいメロディは枯渇したの?

 映像は1960年(偶然私の生まれた年)のフランスとイタリアの犯罪映画「太陽がいっぱい」のテーマ音楽をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 作曲は巨匠ニーノ・ロータ。この他にもたくさんの映画音楽を手掛けた大作曲家です。
 今回のテーマであるメロディの枯渇は60代の私が感じる「オジサンネタ」ですのでお許しください。
 映画音楽といわゆる流行歌の違いがあるとすれば「お金のかけ方」かも知れません。1970年代のようなアイドル全盛期にはひとりのアイドルを世に売り出すために、億単位のお金をかけていました。当然元手が取れたからです。
 バブルが始めた後から2023年に至るまで、日本の流行歌文化は低迷したままだと言って過言ではないと思います。大きな要因はビジネスとしてアイドル歌手を売り出すメリットがなくなったことです。その他の要因として「覚えやすいメロディの枯渇」があげられます。
 DAW(デジタルオーディオワークス)の普及で音楽を学んだ経験が全くなくても自宅で音楽を作って「それらしい」音楽が作れる時代です。
 中にはコード進行の知識もなく、ただ思いついた和音=コードで曲を作っている人も珍しくありません。それが当たり前になれば「1度→4度→5度→1度」の和声進行は忘れ去られるのでしょうか?
 一つの時代に生きている人の世代は年々広がっています。少子高齢化が進み昔よりも、高齢者の割合が増えている現代で「脈略のない和声進行」や「音域の狭いメロディ」が受け入れられるとは思いません。
 実際に現代の若い人たちの間でも1970年代のポップスを愛好する人が増えています。ファッションの復刻も含めて「メロディの覚えやすさ・美しさ」を求めている気がします。
 私たちのデュオリサイタルで演奏する曲を探す作業も年々難しくなっています。何よりも昔の美しいメロディの「アレンジ楽譜」が少ないことです。
 メロディだけならすぐにでも演奏できますが肝心のピアノアレンジが…楽譜としてあまりにも少ないのです。
 私たちの記憶にある美しいメロディを、もう一度素敵なアレンジで演奏してみたい!聴いてみたい!と願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ

 映像はデュオリサイタル1で演奏したブラームス作曲ヴァイオリンソナタ第1番第1楽章。今から15年前、私たちの初めてのデュオリサイタルでの演奏です。
 この曲は私が20歳の時に初めてリサイタルを開かせてもらった時のプログラムに居れた曲です。当時は全楽章演奏し、ほかにバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番を演奏しました。学生時代からこの曲「だけ」は(笑)室内楽のレッスンを受けていました。
 一般にピアノソナタは星の数ほど(笑)あるのに対して、ヴァイオリンとピアノのためのソナタは演奏される機会のあるものが限られています。
 一方でなぜか?ヴァイオリンは協奏曲に人気があります。
ピアノ協奏曲をアマチュアの人が練習することはあまり多い事ではないのですが、ヴァイオリンの場合にはソナタをレッスンで演奏することの方が少ないのが実状です。
 音楽大学の実技支点の場合で考えても、ピアノの場合はソナタが課題曲になることが多く、ヴァイオリンの場合は協奏曲が課題曲になります。
 理由を考えると、ピアノとヴァイオリンの為のソナタ=ヴァイオリンソナタの場合にはピアニストとヴァイオリニストが対等な関係で演奏するため、二人のアンサンブル=室内楽的技術が不可欠になります。ヴァイオリンの実技試験でピアニストと合わせる技術を評価するのは、ヴァイオリンの演奏技術以上のものを評価することになってしまう事がその原因だと思います。
 もちろん協奏曲=コンチェルトであっても「伴奏」に合わせる技術は不可欠です。ヴァイオリンソナタのピアニストは「伴奏」ではありません。あくまでもヴァイオリンと対等な関係の「ピアノ演奏者」として扱われます。本来コンチェルトでもソリストと共演する・協演するのが正しいオーケストラ(代わりのピアノ)であるべきです。ただコンチェルトでは「独奏」と言う言葉が用いられるために「伴奏」と言う表現になるのだと思っています。
 ヴァイオリンソナタは、ヴァイオリニストとピアニストが相手の演奏する音楽を自分の音楽の一部として考える能力・技術が不可欠です。一人だけで練習しても二人でソナタを演奏することは出来ません。それがソナタの美しさであり難しさでもあります。
 このブラームスのソナタは私の中で一番好きなヴァイオリンソナタです。
ちなみに動画の中で大傷が(笑)あるのですが…実はこの第1回のデュオリサイタルだけ、私は「楽譜を見ながら=譜面台を立てて」演奏しました。
 そして!譜めくりに失敗したのでした(涙)1小節休符の間に譜めくりする場所で見事に失敗したのには「深いわけ」がありまして、実は暗譜で弾こうか迷っていたのです。暗譜で弾けなくもなかったのになぜ?見栄なのか?譜面台を立てたばかりに演奏しながら「このまま暗譜で弾く!」と言う私と「いや!最後の曲だから譜面を見る!」と言う気弱な私が戦い、手を出す=譜めくりするタイミングを逃したのでした。とほほ・・・・
 教訓「見るなら迷わずに見る!」です。
いつかまた、二人でこの曲を演奏することもあるかも知れません。
今度は暗譜で演奏します!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

好きな音楽を感じるままに…

 映像はヴィオラとピアノで演奏したエンニ・モリコーネ作曲の「ガブリエルのオーボエ」です。
 ヴァイオリンを習う人の多くが先生に指定された「教本」を使って技術を身に着けていきます。先生や教室によって指定される教本や内容が違うものです。
 どの教本を使って何を練習して、どんな技術を身に着けるべきなのか?
習う人の年齢や楽譜を読む技術、練習できる環境や本人の性格、目的によっても使う教本や内容を選んでいます。
 音楽の学校に進むことやコンクールで入賞することを「目の前の目標」にする人の場合には「身につけなければならない」最低限?の技術があります。
 最低限に「?」を付けたのは音楽の学校やコンクールのレベルによって最低限のレベルが大きく違うからです。簡単に言えば「どんなレベルの音楽学校でもいい」場合に必要な技術はさほど多くありません。
 趣味でヴァイオリン演奏を楽しみたい人にとって必要な技術ってなんでしょう?

 習う人、教える人によって違うのですが私は「好きな音楽を感じるままに演奏できるように」してあげたい、なって欲しいと持っています。
 年齢に関わらず人によって到達できる技術レベルは違います。それは才能などではなく環境や考え方の違いによるものです。限られた「練習できる時間」の中で「やる気=モチベーション」を維持しながら上達できる練習方法をアドヴァイスするのがレッスンだと思っています。
 生徒さん自身が感じる「足りない技術」や「身に着けたい技術」は時として段階を飛び越えている場合があります。逆に「この曲は自分には演奏できない」とか「あんな風に演奏できるはずがない」と思い込んでいる場合もあります。
 どちらの場合も生徒さんにとっては「未知の世界」のことですから仕方のない当たり前のことです。

 例えばヴィブラートを出来るようになりたいと「思わなければ」何年楽器を演奏してもできるようにはなりません。またヴァイオリン演奏に必要な技術の多さをまだ知らない段階で「演奏できないのは才能がないから」とか「自分に(我が子に)向いていない」と決めつけるのも間違いです。

 弦楽器は管楽器より難しいと言うのは大嘘(笑)
私に言わせれば管楽器の方がはるかに難しいと感じますが、それも正しい事ではないのです。なぜならすべての楽器は、それぞれ難しさが違うのですから。比較できません。

 自分の好きな楽器で、好きな曲を演奏して楽しいと感じられることが、楽器演奏の究極の楽しみだと思います。
 音階の練習やポジション移動の練習、ロングトーンの練習など練習方法は無限にあります。それらの中で何を練習すれば自分の好きな曲を「生きている間に」演奏できるようになるか?その問いに正面から答えてくれる指導者に出会えること・探すことが何よりも大切な事なのかもしれません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「ながら族」は演奏家向き♡

 映像はデュオリサイタル08で演奏したシェルブールの雨傘です。
BGMにどうぞ(笑)
 さて中学生や高校生の頃に、勉強机に向かいながら←勉強しているとは言えなかったので(笑)ラジオ番組を聞いたりカセットで音楽を聴いたりしていたのは私だけ?違いますよね!きっと多くの人が「ながら勉強」していたのではないでしょうか?もちろん人によっては「集中できないから」と静かにお勉強した人もいますよね。
 ヴァイオリンの練習をしながら音楽を聴くことはかなり難しい(笑)のですが実は楽器の演奏は「〇〇しながら△△する」ことがほとんどです。
・音色を考えながらリズムを考える。
・音程を気にしながら音量を考える。
・自分の演奏を気にしながら他の楽器の演奏を気にする。
などなど「ながら演奏」できることが必要不可欠です。

 二兎を追う者は一兎をも得ず
このことわざから様々な考え方ができます。
一度に多くを得ようとすることで自分のキャパシティを超えてしまう場合もありますが、逆に目先の利益や安直さを優先してしまえば失うものも多くなります。
 一つの考え方…例えば自分の価値観だけを大切にする人は、一兎を得るためなら迷惑を顧みない人…とも言えます。
 一つの目標を達成するために様々な「寄り道」や「回り道」をする事も大切なことです。
 楽器の演奏は同時にいくつものことを考える作業です。
何かひとつを犠牲にすれば全体が崩れます。どうすればよいのでしょう?
一つの事に完璧を目指すより、二つ三つの事に興味を持つことの方が楽しいと思うのです。出来なくても失敗しても、より多くの事を体験することが私は重要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの価格について

 映像は陳昌鉉氏の製作した木曽号を木曽町で演奏したものです。
前回のブログでストラディヴァリ信仰について疑問を呈しました。
ヴァイオリンの価格はいったいどうやって決まるのでしょうか?
ヴァイオリンを購入したい人にとって「代金」として妥当な金額と納得できる金額について考えます。

 ヴァイオリンの価値を「骨董品」として考えるべきなのでしょうか?
絵画の場合にも億単位の金額で取引されなす。美術品としての価値は取引価格で決まるのでしょうか?絵画を描いた作者がすでに他界している場合、どんな工学取引だったとしても作者の利益にはなりません。ヴァイオリンの場合も同じことが言えます。生尺者が生きている場合、自作のヴァイオリンを高く売れれば利益が出ます。いくらで買ってもらえるか?買う側の評価で決まります。
 ヴァイオリンを作るために係る材料費を差し引いて利益が出なければ、ヴァイオリン制作者として生活できませんよね。
 ヴァイオリンを一人で製作した場合の「最低限の価格」が公開されていません。弦楽器展示会で見た経験で言えば一丁80~100万円で「売りたい」のが製作者の立場のようです。恐らく年間に作れる本数と材料費を考えての金額だと思います。作為者によってはこの金額では赤字になる場合も十分にあり得ます。逆に生活に困っていない製作者の場合にはもっと安くても困らないことに(笑)
 工房で分業すれば単価が安くできます。いわゆる「アトリエ楽器」です。国や地域によって差がありますが一般的に一丁20~50万円で作れるように感じます。
 工場でさらに機械作業の高低を増やして製作時間をT何宿した場合に「ヴァイオリンとして演奏できるレベル」の楽器は7万円ぐらいが最低価格のようですが、多少のばらつきはあるようです。
「安物のヴァイオリンは良い音がしない」と言う根拠はありません。
100万円以上?500万円以上?いくらなら良い楽器があると言うのでしょうか?その根拠はどこにあるのでしょうか。

 ヴァイオリンの価値は誰が決めるものっでしょう?
結論は演奏する人=購入する人が決めるべきものです。それ以外に答えがあるでしょうか?先述の通り、作る側が「〇〇万円で売りたい」と思っても買う側が妥当だと思わなければ売買は成り立ちません。
 では妥当な金額でヴァイオリンが取引されるように「正常化」するにはどうすればよいのか?
 簡単なことです。少しでも安いヴァイオリンを選べばよいのです。
高いヴァイオリンを多くの人が買わなければ?高く売って金儲けすることができません。製作者が生活できなくては困ります。ただ工場で作ることのできるヴァイオリンより良いヴァイオリンでないなら誰も買う人はいません。当たり前のことです。
 高いヴァイオリンと安いヴァイオリンがあって選ぶなら?
安い楽器が明らかに「悪い」と感じるなら買わないことです。
「それでは。いつまでたっても買えないじゃないか!」いえいえ(笑)
同じ安さのヴァイオリンで比較してみ下さい。どちらかが良く感じるはずです。
 ヴァイオリンの違いは「比較」しなければわかりませんし、比較してもどちらが良いと言う答えはないのです。むしろ同じように聴こえてもそれが正しいのです。決して耳が悪いわけでもなく初心者だからでもないのです。
 楽器による音の違いは演奏している本人が感じるものと、聴いている人で違って当たり前です。さらに同じ楽器でも演奏する人が変われば音が変わるのです。
 自分で弾いて気に入ったヴァイオリンがいくらなら妥当なのか?
結論は「個人のお財布次第」なのです。それはどんな楽器でもスポーツ用品でも同じことです。無理をしても買えないものは「論外」なのです。
ましてや100万円以上するヴァイオリンは.原価より高い金額を「誰かに払っている」のです。それが製作者本人に支払われるなら納得もできますよね。
それ以外の場合で誰が?いつ?作ったのか?鑑定を職業にし信頼されているは世界中にごくわずかしかいません。鑑定書そのものが「偽物」であることは当たり前です。

 定価のないものにいくら支払う価値があるのか?
高ければ良い楽器だと言う嘘や、オールド=政策から00年以上経っている楽器は良い楽器と言う嘘、ラベルも嘘がほとんど、そんな嘘だらけの世界にしてしまったのは「価値もわからないのに高い楽器を買う」人たちと、売買で儲ける人たちの積み上げた「黒歴史」だと思っています。
 まっとうな金額でヴァイオリンを変える時代が来ることを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

「ストラディヴァリ信仰」の弊害

 映像は陳昌鉉さんの製作されたヴァイオリンで演奏した「ふるさと」
木曽福島でのコンサートをビデオカメラのマイクで録音された音声です。
この映像をお聴きになる環境=イヤホンやパソコンのスピーカーなどによって、お聴きになる方たち全員違う音を聴いていることになります。さらに音の好みがあります。
 陳昌鉉さんは「ストラディヴァリのヴァイオリンの謎」に挑戦したいと言う弓を持って楽器を作り続けられました。
 ヴァイオリンに限らず過去に作られた「物」の素晴らしさを探求し再現しようとする試みは、人類の英知だと思います。人間以外の動物が生きるための知恵や阿曽儀を「学習」することはパンダや子猫を見ればわかります。ただ「物を真似して作る」知恵は人間にしか出来ません。
 今回もテーマにするストラディヴァリ信仰の「害悪」ですが、音楽やヴァイオリンに関心のない人に対しても「嘘」を公言するメディアと一部演奏家に怒りを感じます。

 以前にも述べた通り、ストラディヴァリのヴァイオリンを貶す意図はまったくありません。ストラディヴァリのヴァイオリンが「最高のヴァイオリン」でそうでないヴァイオリンは「ストラディヴァリ以下」と言う考え方が間違っているのです。
 さらに言えば、ストラディヴァリのヴァイオリンが10億円以上の金額で取引されている事をもって「最高のヴァイオリンである」と言う嘘を知って頂く必要があります。このバカげた金額は演奏家が評価した結果ではありません。「投資目的」で売買されるうちにこの金額になっただけのことです。言ってしまえば金儲けの道具にされているだけのことです。投資家に責任はありません。彼らは一円でも稼げるならなんにでも投資します。ヴァイオリンの価値など関係ありません。
「土地ころがし」ならぬ「ストラディヴァリころがし」の結果なのです。

 先日ある日本人ヴァイオリニストが新作のヴァイオリンとストラディヴァリを比較してどんな違いがあるか?リポーターに問われ「ぬいぐるみと生きている犬ほど違う」とおっしゃっていました。耳を疑いましたそしてこのヴァイオリニストの人格を疑いました。自分以外の人間が作った「ヴァイオリン」の例えとしてあまりに知性がなく下品なものでした。ましてやご自身がヴァイオリニストであり演奏活動をしている立場で、ストラディヴァリ以外のヴァイオリンをぬいぐるみ扱いする神経はいったいどこから生まれるのでしょう。
 新作ヴァイオリンが「悪い」ストラディヴァリが「良い」と言う科学的根拠もなく、多くの実験結果で聴き比べてストラディヴァリを言い当てられない現実をすべて否定したとしても、生き物とぬいぐるみに例える演奏家の知的レベルの低さをメディアで露呈することになりました。

 地球上に「最高のヴァイオリン」は過去にも未来にも存在しません。
ある人にとって「最高」はあって当たり前です。他人の楽器を悪く言うヴァイオリニストの知性の低さは明らかです。ヴァイオリンを神格化し他のヴァイオリンを蔑(さげす)む考え方は新興宗教と変わりません。信じるのは個人の自由ですがそのことによって多くの人が「騙される」ことに耐えられません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「じょうずな演奏」―「素人っぽい演奏」=?

 映像は「MISTY」のヴィオラとピアノの演奏に、雪景色の写真を重ねた映像です。
 今日のテーマは一言で言えば「うまく聴こえる演奏とは?」です。
特にアマチュアで演奏を楽しんでいる方たちにとって、演奏を職業としている「プロ」の演奏と自分の演奏の「違い」が理解できないのは当然のことです。
「えらそうに!」と勘違いしないでくださいね(笑)私もアマチュア演奏家だと思っている一人なので。
 音を出すこと・曲を弾くこと+α
この「α」こそがじょうずに=プロっぽく聴こえる演奏の特徴です。
演奏するのがどんな音楽でも同じことが言えます。
 もう少し違う言い方をするなら「意図的に音色や音量、音符や休符の長さを変えられる」とじょうずに聴こえます。偶然に=無意識に変わってしまう演奏とは違います。ある人のある1曲の演奏を聴いているだけでも感じるものです。
「言葉のように音楽が聴こえる」とも言えます。
パソコンで読み上げるロボット音声のような楽器の演奏は、素人っぽく聴こえます。音楽を言葉のように感じて演奏している人の演奏が上手に聴こえます。 

 演奏しながら「何もしない=ただ音を出す」時間の差も「α」になります。
曲の中なの一つずつの音、さらにその音の中発音から音が終わるまでの時間。ただ音を出すだけで終わらないことがじょうずに聴こえる演奏の最大の要因です。
楽譜には書いていないことを自分で「試す」ことです。その積み重ね=経験が演奏するうえで何よりも大切なことだと思います。
 小さなことの積み重ねを「ジェンガ」に例えるとイメージしやすいですね。
ヴィブラートの速さや深さ・弓の圧力と速度・音楽の揺れ戻しなどを一つのパッセージに丁寧に積み上げて高くするのが演奏のジェンガです。一つ一つの技術はそれほど難しい事ではありません。ただバランスを忘れればすべてが崩れてしまうのもジェンガと似ています。

焦らずに・諦めずに・怖がらずに積み重ねてみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アンサンブルを録音する

 皆さんは音楽をどんな時に?どんなモノで聴きますか?
もちろん時々で違った聴き方をするのは当たり前ですが、たとえば移動する時に音楽を聴くことがあるでしょうか?一昔前に大流行した「ウォークマン」は外を歩いたり電車やバスで移動しながらカセットテープの音楽を聴くことのできる画期的なステレオ再生機械でした。それまではラジオしか外で音楽を聴く方法がなかった時代に電池で動きヘッドフォンで自分だけが音楽を楽しむことができて「自分の世界」に浸ることができました。
 オーディオ…一言で言えば専用のスピーカーで音楽を再生して音楽を聴く人は一時激減しましたがここ数年、復活してるようです。
 スピーカーで聴くのか?ヘッドホン・イヤホンで聞くのか?によって全く聞こえ方が違います。以前はレコードにしてもCDでもスピーカーで聴くことを前提にして音を創っていました。独奏でもアンサンブルでもシンフォニーでも同じオーディオで聴いていました。

 動画と共に音楽を聴くことが多くなった現代、パソコンやスマホ、テレビで「見ながら聴く」ことが多くなりました。むしろ音楽「だけ」を聴く人が減ってきたのは事実です。
 一方で自分一人で音楽を創る趣味が目立つようになりました。
以前はDTM=デスクトップミュージックと呼ばれていましたが現代ではDAW=デジタルオーディオワークスと呼ばれています。
 パソコンの音と人間の声や生楽器をパソコン上で「ミキシング」して音楽を作成する楽しみ方です。ドラムの音をパソコンで打ち込み、ギターやベース、キーボードなど自分が何も演奏できなければそれもパソコンで打ち込み、歌だけを「かぶせる」方法で音楽を簡単に作れるようになりました。
ダウソフト=DAWSoftが数多くDされています。私も色々試したり調べたりしましたが、クラシックの演奏を録音するのに適したソフトはほとんどありません。
 アドビのソフト「Audition」がラジオ局などでも使われているという情報もあり実際に使って見ましたが、現実的には使いにくいものでした。
 昔のように「マイク」+「アナログミキサー」+「ステレオテープデッキ」が一番シンプルなのですが当然録音するときには演奏者以外に録音スタッフが必要です。テープデッキの代わりになるものとして「PCMレコーダー」が主流になりましたがこれもやたらと操作が複雑です。
 録音した「素材」が良ければどんな加工も可能です。素材が悪いほど加工に手間がかかります。
 録音する基本の機械「マイク+ミキサー+デッキ」が以前のように増えてくれることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

手首のヴィブラート

 映像はデュオリサイタル15で演奏したラフマニノフ・クライスラーの祈り。
今回のテーマはヴィブラートのかけ方について。以前のブログでもヴァイオリン・ヴィオラのヴィブラートについて書きましたが今回は「手首のヴィブラート」に絞って考えてみます。

 そもそもヴィブラートは音の高さを曲線的に連続して変化させることです。
・弦を押さえる指先の適度な硬さ
・指の関節の柔軟性と可動範囲の大きさ
。弦は押さえない親指の柔軟性と力の方向
。てのひらの筋肉の柔軟性と強さ
・手首の関節の可動範囲と柔軟性
・前腕の角度と手首の角度=てのひらの向き
・前腕の筋肉の強さと柔らかさ
・上腕と胸筋の脱力
言うまでもなく最終的には「音を聞きわける耳」が一番大切です。
動画を見て頂くと手首を「支点」に掌が「回転運動=倒れたり起きたり」していることがわかると思います。掌を動かしているのは前腕の筋肉です。さらに左手の親指はネックに触れた状態で付け根の関節が自由に動かせることが大切です。手首を支点にしながら親指は上方向への力を発生します。
 弦を押さえている指は腕=肘のヴィブラートと大きく違い、ネック=弦に対して平行な運動にはなりません。腕・肘のヴィブラートは基本的にポジション移動と同じ運動です。ネック・弦と平行に動きますが手首のヴィブラートは「指が倒れたり起きたりする」運動になります。指の関節の「伸び縮み」は腕のヴィブラートより少なくなります。
 手首のヴィブラートはポジション移動と全く違う運動で使う筋肉も違います。
腕のヴィブラートは上腕の筋肉と肩の付け根の筋肉を使います。
手首のヴィブラートは前腕の筋肉なのでより小さなエネルギーで運動できます。
 指を曲げたままでヴィブラートできるメリットもあります。
どんな方法であっても、角のない曲線的なピッチの変化に加え、速さと深さをコントロールできることが大切です。
 自分の音を録音して聴いてみると「ヴィブラートの波」を冷静に観察できます。自分の演奏をぜひ!聞き直して頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の毛の張り方=張り過ぎない

 映像はデュオリサイタル14代々木上原ムジカーザで演奏した、アザラシヴィリ作曲のノクターンを音声リマスターしたものです。
 さて今回のテーマは弓の毛の張り方について。
生徒さんの多くが弓の毛を強く張り過ぎています。
多くの動画を見ていても若いヴァイオリニストたちがスティックがまっすぐに近くなるまで弓の毛を張って演奏している動画を目にします。
 演奏する曲によって多少の違いは必要です。ただ音量を出すため・強い音を演奏するために弓の毛を強く張ることは正しいとは思いません。
 そもそも弓の木=スティックは弾力を持たせるために様々な工夫がなされています。太さと硬さ=弾力と重さの三つの要素を職人が経験と技術で、最も良い音が出る弓を作っています。固ければ良いのであれば木で作る必要もありません。
また弓の毛にも弾力があります。現にも弾力があります。
最も弱い弾力は「弓の毛」です。弦の弾力と弓の木の弾力を比較すると、駒からの距離が近ければ弦の方が硬くなり指板に近くなれば弓の木の方が硬くなります。つまり弓の木には弾力が絶対に不可欠なのです。
 弓の毛を強く張れば弓の毛の段弾力は固くなり同時に弓の木の弾力性も少なく=硬くなります。さらに弓の中央部分の柔らかさが損なわれます。
練習後に弓の毛を緩めずに放置して「腰の抜けたふにゃふにゃの弓」はいくら弓毛を張っても弓の木の弾力は弱いままです。
 弓の中央部分で演奏する時に圧力をかけすぎればどんな「剛弓」でもスティックと弦が接触します。また弓のスティックを指板側に倒しすぎれば同じように接触します。
 弓の毛を弱く張ることで弓の「反り」が最大に活かされます。必要最小限の張りで演奏することで柔らかい音色が出せると私は確信しています。
 ぜひ!普段の張り具合から90度…できれば180度弓のスクリューを緩めて演奏してみてください。弓の中央部で圧力をかけずにフォルテを演奏する技術を身に付ければ弓元と弓先の張りの強さを使ってフォルティッシモも演奏できるはずです。お試しあれ!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

新しい知識を求めること

 映像はデュオリサイタル11で演奏したロンドンデリーの歌。音声を新しいソフトを使って作り直した映像です。
 昨日我が家に大学時代の先輩ご夫妻が遊びに来てくださいました。
ご主人は高校大学時代に毎日のようにお世話になった事務職員だった方です。
お二人とも優しく気さくで私たち夫婦にとってかけがえのない存在です。
 何よりも多くの知識と情報をお持ちです。私の知らないことばかり!4人で過ごす時間は学生時代に戻ります。まさに「温故知新」です。
 同じ時代に60年生きていながら、いまさら(笑)初めて知ることがあるのは本当に嬉しいことです。
 楽器の事、音楽業界の事、演奏技術の事、などなどいくつになっても昔の儘の関係です。もちろんお二人は私たちにとって人生の先輩でもあり、音楽の師匠でもあります。
 新しい知識を得ようとすることは人間の欲です。様々な欲望のある中で「知ろうとする欲」は成長の源です。自分の知っていることの多さを人にひけらかすのは「自己顕示欲」であり知識を得る欲とは逆に成長を邪魔するものだと思います。自分の知らないことを敢えて探すことも必要なことです。
 人に聴くこと・教わることを恥ずかしがったり「格好悪い」と思う人もいるようですが人間はいつも新しい事を学んで生きる生物です。そうしなければ原始人のままの生活をするしかありません。
 新しもの好きは悪い事ではないのであります!←新発売の3文字に弱い私です…
 一方で古いものを大切にする気持ちが何よりも大切です。古くなったからいらない=新しいものに取り換える…一見すると進歩しているように見えますが進化ではなくただの「物欲」だと思っています。古くなった建物をすぐに壊し、古くなったお店を潰し、古くなった車をすぐに廃車にするのが「日本人の悪い癖」だと感じています。古いものの良さを感じられない人間に、古いものより良い新しいものを創造する能力も資格もないと思います。懐古主義ではなく本当に良いものを見極めるために必要な「時間とお知識」が必要だと考えています。人間の良さも10代より20代。30代と時間をかけて良くなっていくものだと思います。
 新しい知識の積み重ねは結局、古いものの良さを見つける能力を身に着けることなのだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

CD第4弾をを作る!

 決意表明(笑)がテーマみたいですが、映像は私たちのCDシリーズ「Tenderness」第1弾のベルガモットに収録したパラディス作曲のシシリエンヌ。
 過去の3作とも自宅で演奏しながら録音したものです。基本二人だけでマイクや機材のセッティングから演奏した録音ごとに確認して、トラックダウン・マスタリングまで自分で行い、パッケージのデザインから印刷・作成も自作です。
 何よりも費用がかけられないと言う現実問題があります。
録音するためにホールやスタジオを借りて、録音御者にお願いすれば自分たちは演奏に専念できますが当然、コストは自作に比べ10倍以上…もっとかかります。
 さらに自分たちが納得のいく演奏が出来るかどうか、確信のない状態で場所や人を使えないのも事実です。
 3作を録音した際に使っていた機材のうち、主役であるMTR(録音する機械)が経年劣化で使用できなくなり…かれこれ30年ほど使った機械ですから無理もありませんが。ど~しよ~ど~しよ~♪なのです。
 このところよく使う機材はビデオの撮影を中心にしたものなので録音を主に考えるとかなり使いにくい。
 昔の社名「TEAC」現在は「TASCAM」のMTR…昔より安くなったとはいえ金額的に考えると3時間録音業者に頼む金額2回分(笑)つまりこれから3作のCDを作るならMTRを購入したほうが安く上がる計算です。ど~しよ~ど~しよ~(笑)
 どっちにしても!演奏がメインなのであります。そこんとこ大事にします!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンを楽しむ

 今回は私の愛する、ヴァイオリンと言う楽器を演奏して楽しむことをテーマに考えます。
 ことさら「ヴァイオリンが一番」なんて話をする気は1ミリもありません(笑)
色々な楽器の良さがありピアノが一番好きな人もいて当然です。またそれぞれの楽器によって演奏できる「音域=音の幅」や同時に演奏できる音の数、音を出す仕組みが違いますから、必然的に演奏できる音楽も違います。その違いを並べ立ててもあまり意味はありませんので今回はヴァイオリン演奏を楽しむ人の参考になりそうなことだけに絞って書いてみます。

 ヴァイオリンを練習してどんな音楽を、どんな風に演奏したいのか?多くの人があまり考えない…答えられない質問です。むしろ「ヴァイオリンを弾くことが面白い・楽しい」と言う答えが一般的です、
 初めてヴァイオリンを手にしてからの上達の過程で、たくさんの「難しさ」に直面します。音の高さが定まらない難しさ・1本の弦だけを演奏する難しさ・2本の弦を重音で演奏する難しさ・弓が弾まないように動かす難しさ・同じ場所を直角に弾き続ける難しさ・ヴィブラートの難しさ・ポジション移動の難しさ・短い音を速く連続して弾く難しさ…数えきれないほどの「壁」がありますよね?
 それらをすべて克服して思ったようにヴァイオリンを演奏できる日がいつか来るのでしょうか?(笑)頑張って練習してもできる気がしないのがヴァイオリンの演奏でもあります。
 やめます?ヴァイオリン(笑)
ヴァイオリンで音を出して初めて曲を演奏できた時に「できた!」と喜んだはずですが…覚えていますか?その後の「苦悩の日々」が最初に曲を弾けたときの感動を忘れさせています。楽器で音楽を演奏すること。それが原点であり頂上でもあると思います。ヴァイオリンで音楽を演奏することが楽しくなければ、練習する大義がなくなります。「練習することが趣味」と言うのであれば別です。音楽にならなくても音を出せれば楽しいと言う人もいるでしょう。テニスの壁打ちだけ出来れば楽しいと言う人もいます。バッティングセンターやゴルフの打ちっぱなしだけで満足する人もいます。楽器の音を出すだけで満足する人がいても不思議ではありません。
 人によって楽しみ方は様々です。ヴァイオリンを演奏して楽しいのであれば何も問題はありません。面白くなくなった時に飽きたのか?出来ないから面白くないのか?きっと理由があります。それを考えることさえ面倒くさいのが普通です(笑)
 ヴァイオリンの演奏・練習に飽きた人の多くは、演奏する色々な楽しさを知る前に飽きています。スポーツで例えるなら試合=ゲームを知らないままで終わることに似ています。
 ヴァイオリンの演奏を長く楽しむ上でまず「演奏できる曲探し」をすることです。初心者のレベルでどんな曲が自分で演奏できるのかを知ることは不可能です。「ヴァイオリンと言えば●●太郎」と思う人も多いのですが(笑)もっと現実的に初心者でも楽しめる曲がたくさんあります。ヴァイオリンの為に作曲されたクラシック音楽は得てして難易度が高いものです。かと言って「チューリップ」や「蝶々」を演奏して楽しいとも思えませんよね。販売されている初心者が演奏できる曲の楽譜は非常に少なく、かと言って楽譜なしに演奏できる技術もありません。これがヴァイオリンを習い始めてドロップアウト=やめてしまう一番多い原因です。教本を練習することも上達のためのひとつの方法ですが、必ずしもすべての初心者に好まれる曲…とはいいがたいのも事実です。
 習う側=初心者の方が「曲探し」をすることです。その際のポイントは…
①ゆっくりした音楽
②自分が声で歌える音楽
③ヴァイオリンとピアノで演奏している音楽
上記の3点に絞って音楽を探してみてください。
③についてはヴァイオリンでなくても歌やフルートなどとピアノの演奏でも構いません。
 弾いてみたいと思う曲を見つけたら誰かに楽譜を書いてもらう事をお勧めします。楽譜をかけないヴァイオリニストが初心者を教えているとしたら問題です。
覚えられる長さの短い曲であれば、すぐに初心者ヴァイオリニストのための楽譜はかけて当たり前です。指使いや弓のダウン・アップなども書き込んでもらえば一層短期間で演奏できるようになります。
 とにかく「演奏したい曲」を見つけ「好きなように演奏できる」ことを目標にして練習することが何よりも大切です。
 ぜひ!ヴァイオリンで音楽を演奏する楽しさを感じられまで、短く覚えやすい音楽から練習してみ下さい。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽のダイナミックレンジと雑音の関係

 映像はNPO法人メリーオーケストラが演奏したラヴェル作曲のボレロです、
今回のテーマである「ダイナミックレンジ」とは一言で言えば、一番小さな音と一番多く青戸との「差」をdb=デシベルと言う単位であらわすものです。
 ボレロの冒頭武運はスネアドラムの独奏とヴィオラとチェロのピチカートで始まります。一般的に考えれば小太鼓の音が「小さい」と言う感覚はないかもしれませんが実際にホールの客席聴こえる音は極めて小さな音です、
 その最小の音量からボレロ終結部の最大の音量との差がこの曲の「ダイナミック」となります。
 人間の耳は約120dbのダイナミックレンジを持っていると言われています。
聴力検査で色々な音の高さの音が聞こえるか?検査しますが約30dbです。
小さな音は静かな場所でなければ聞き取れませんよね?
逆に言えば静かな場所では小さな音を大きく感じるのが人間の聴覚です。
 録音する番委に雑音の事をノイズと言い、記録したい音の事をシグナル=信号であらわします。の二つの割合をS/N比という言葉で表し単位はdb=デシベルになります。このS/N比の数字が大きいほど雑音が少ないということを表わします。
 昔のカセットテープレコーダーでラジオや音楽を録音すると、音楽屋人の声以外に「サー」と言うノイズが聞こえてしまうものでした。その雑音を小さくして録音・再生するための圧縮と復元をする機能を考え出したのが「DOLBY」ドルビーという会社です。今でも映画の最後に見かけるロゴがありますよね?
 カセットデッキに「ノイズリダクションシステム」として搭載されて機能です。
 カセットテープのサーノイズはデジタル録音になって亡くなりました。
飛躍的にノイズが減り、16bit録音だと96dbという素晴らしいダイナミックレンジで録音再生できるようになりました。24bitになると144db…人間の貯力を超える幅の音量差ですので意味はありません(笑)

 ここまで録音・再生する機会による音量差を書きましたが、音楽によってその音量差が全く違います。再生して音楽を楽しむ方法もヘッドホンやイヤホンになりました。ポップスの場合には一曲の音量差が小さいのが得量です。
「ロックって大音量でしょ?」はい、その通りですが小さい音は演奏されませんから音量差は少ないのです。
 クラシック音楽でもピアノ1台のダイナミックレンジとヴァイオリン1丁のダイナミックレンジは違いますしオーケストラの演奏となればさらに大きな音量差があるのです。
 その音量の幅こそがオーケストラの魅力でもあります。
ちなみに下の映像はボレロの冒頭部分を電気的に大きくしたものです。

 音量を「平均化」することで聴きやすくなりますが音楽の魅力は逆に少なくなります。どちらが良い…と言うことではなく、音楽によって本来あるべき音量差を楽しむことも理解してもらえればと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

初心者から上達する速度とレベルの個人差は…

 映像は20年ほど前に勤めていた中学校・高等学校の部活動オーケストラ定期演奏会。みなとみらいホールでの演奏です。演奏しているのは紛れもなく(笑)中学生と高校生。例外はハープの演奏者(プロの方です)だけでパイプオルガンも当時高校生だった「元部員」が演奏しています。
 1985年から約20年間の部活動指導経験とその後の指導経験から「初心者の上達」について私が思う事をテーマにしてみます。

 結論から先に言えば
「子供からでも大人からでも到達レベルは」
「上達速度=時間は練習の密度次第」
「到達レベルの違いは練習時間と内容に比例する」
と言う2点です。
小さい頃から始めても大人から始めても、「密度の薄い練習」を「5年間」続けた場合に到達するレベルは「密度の濃い練習」を「1年間」練習した人の到達レベルは「同じ程度」です。
一方で内容の濃い練習を5年間続けた場合の到達レベルは、内容の薄い練習を何年続けても到達できないレベルです。
 つまり初心者から初めて「密度の濃い練習」を続けていればどんなに人でも動画で演奏しているレベルまでは到達できるという意味になります。
この動画内で演奏している生徒のほとんど全員が中学に入学するまで、触ったことのない楽器を演奏しています。中には小さい時からヴァイオリンを習っていた生徒もいますが、動画内でヴァイオリンの演奏を見て「習っていた子」を判別できません。それほどに部活動で目標を持って練習することによる上達レベルは高くなるという証明です。
 以前にも書きましたが私の指導方針は
「月曜から金曜の練習参加を強制しない=練習場所を提供する」
「土曜日の合奏には参加する=午後1時から3時ごろまで」
それだけです(笑)生徒個人が上手になりたいと感じ、自分の生活スケジュールを優先し=部活を優先させない、間違った練習をしないことで。入部したすべての生徒がこうして演奏しています。

 この演奏レベルは「アマチュアレベル」としては十分だと思います。
この生徒たちの中でさらに外部の先生にレッスンを受け、音楽大学に進学した生徒もいます。プロになって活動している人もいますが多くの「元部員」はその後もアマチュアで音楽を楽しんでいます。素敵なことですし私の理想とすることです。燃え尽き症候群の生徒もいなかったと思います。なにせ練習スケジュール自体は「ゆるい」部活でしたから燃え尽きるまで疲れていないはず(笑)
 このレベルに到達するまでに子供によって差があります。その原因は「性格の違い=集中力の違い」によるものです。言い換えれば「こだわることの違い」であり能力や才能の違いではありません!
 たとえばヴァイオリンの生徒がヴィブラートをかけられるになるまでの期間は、1~3カ月ほどの幅があります。「1カ月でヴィブラートがかかるの?」あと思われますが実際にかけられます。それでも3倍ほどの時間差があります。
 またスピッカートが出来るようになるまでには1年から2年かかります。なかにはもっと時間のかかる生徒もいます。難易度が高いためです。
 リズムを正確に演奏する技術や楽譜を音にする技術は、部活動の場合は「誰かの真似をする」ことで覚えられるために実際にはあまり上達していません。不思議に感じるかも知れませんが音楽を「丸ごと覚えて演奏する」ことで演奏していると言っても過言ではありません。当然プロになるのであれば「読譜技術=初見能力」は必須条件ですがアマチュアには求められません。

 部活ではなく個人レッスンの場合には、密度の濃さに天と地ほどの個人差があります。生活の中で楽器の練習に集中できる時間が違いすぎるからです、
 音楽の学校を受験しようとする場合には、生活の中心が楽器の練習になるわけで密度の濃い練習が出来て=練習して当たり前です。そうでない場合には「できるy時に」練習するのですから密度が薄くなるのは仕方ありません。
 前述の通り密度が薄ければあるレベルより「上」にはいくら長く時間をかけても到達しません。アマチュアならそれで十分だと思います。自分が楽しければレベルが低くても満足できるはずなのです。もしも、さらに上達しいのであれば練習の密度を刻すればよいのです。忠雄?レだけのことです。時間・期間だけではありません。
 楽しめなければ音楽ではない。
私の持論です、プロでもアマチュアでも演奏を楽しめれば立派な「演奏家」です、
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

録音される楽器の音へのこだわり

 映像はヴァイオリニスト、レイ・チェンのVLOGです。
今回のテーマである「録音」について考える時に一つの参考になる動画です。
「クラシック音楽は生の音が最高」であることは事実だと思います。むしろクラシック音楽はそもそもが生身の人間が演奏している音を楽しむことを前提にして作られた音楽でもあります。
 現代、音楽を聴く人の楽しみ方はクラシックに限らず、50年前と比べて次元が変わったと言えるほどに大きく変わりました。
①レコードを買って音楽を聴く。
②FMラジオを録音して楽しむ。
③会場で生の演奏を楽しむ。
やがてレコードはCDに代わりテープレコーダーはMDに変わりました。
そして、配信と言う音楽の取り入れ方とパソコンや携帯を使って音楽を聴くことが当たり前になりました。
 ポップスもクラシックも「生演奏」が難しくなったのは新型コロナの影響も大きく、ますます音楽を個人で楽しむことが主流になりました。

 今も昔も「演奏を録音する」そして「録音された演奏を再生して楽しむ」場合に録音の技術・方法が関わります。演奏の技術や音楽性をどのように記録し、再生するのか=再生されるのかについて、案外関心のない人が多いのも事実です。
 「私はオーディオマニアではないから知らない」と思われるかもしれませんが現実に録音・再生は演奏者も聴く人も無関心ではいられないことなのです。
 巷で言われる「アナログオーディオの復活」もその一つですがクラシック音楽のレコーディングと再生には「機械」が使われるのは誰でも知っていることです。デジタルでもアナログでも結局「音を記録し再生する」事には変わりまりません。

 コンサート会場で聴く生の演奏=音を、自宅で再現することは可能なのでしょうか?
 結論から言えば現実的には不可能です。私たちの耳に入ってくる音の「聴こえ方」が違うのです。ホールの場合、耳の周りの空間はホール全体の空気です。つまりホール全体に空気の振動である音が広がり、自分の耳に到達した音を聴くのが「生演奏の音」です。
 かたや録音した音を聴く場合には「録音の方法=録音された音」がどんな音なのか?によって聴く方法も変わります。
・演奏者の間近=楽器のすぐ近くで聴こえる音で録音する方法
・会場の客席で聴いているような音で録音する方法
大別すればこのどちらかなのです。
前者の場合には細かい=小さい音まで録音できることと、録音時にも録音後にも個別の楽器の音量を変えることもできます。コンチェルトの録音でソリストの近くにマイクを立てれば実際に客席で聴く音量バランスとは違うバランス…ソリストの音を大きく録音することが可能になります。実際にホールで聴くソリストの音よりも大きく聴こえることになります。
 後者の場合、客席で聴いているような広がりを模擬的に作りだすことで生演奏を聴いているような「疑似体験」ができますが音量のバランスなどは変えられません。
 実際に観客がいる状態で録音する方法が「ライブ録音」です。ショパンコンクールのライブ中継などもその一つです。当然、観客の目障りになるようなマイクロフォンは好ましくありません。演奏者にしても不快に感じる場合もあります。
 多くのライブ録音では観客の目障りにならない場所にマイクを設置しますので、先ほどの説明で言えば後者の部類になります。ただ「超指向性」と言われるマイクを使うと狙った部分の音だけを収録することが可能になります。これも一つの「機械の進歩」です。

 どんなに録音技術や再生機器が進化しても人間の耳が聞き取れる音の範囲や感性は変わりません。聴く人が心地よいと思う音が「良い音」であり数値が表すデータではありません。聴く人が求める音を作り提供するのが私たち「演奏者」の役割です。録音する方法も聴く人のニーズに合わせる必要があります。大きなスピーカーで音楽を聴く人はほとんどいなくなりました。イヤホンやヘッドホンで音楽を聴き、現実にホールで聴こえる音よりも聴きやすく感じる音を求めています。とは言えクラシック音楽の「本当の音」を大切にするためにも作為的な音や現実離れしたバランスの録音にならないように心がけることも必要です。
「暖かい音」が見直されている現代だからこそ録音にも気を遣うべきだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人が感じる音楽の風景

 映像は一昨年2021年12月のデュオリサイタル14で演奏したピアゾラ作曲のグランタンゴです。チェリストのロストロ・ポービッチのために作られた曲でR素がヴィオラ用の楽譜も書かれている珍しいものです。
 ヴィオラのパート譜10ページほどを暗譜するのはかなり大変でしたが(笑)この前年に初めて演奏し再度練り直して演奏しました。
 さて音楽を聴いて感じる風景や感情は、当然ですがすべての人が違うものです。曲のタイトルで先入観を持つこともあります。また歌詞のある歌の場合には、歌詞の内容も重要なものです。言葉によって心情や風景を表している場合には演奏者=歌手は詩から感じるものを表現します。聴く人がその歌詞を理解できる場合と理解できない場合がありますよね?例えばロシア語で歌われている歌を日本人…ロシア語を知らない人が聴いて何を歌っているのか?わかるはずがありません。曲のタイトルだけが手がかりになる場合もあります。
 器楽の場合には演奏する人も聴く人も、自由に音楽から感じるものを想像します。作曲者の意図したものとは違う事も自然なことです、
 演奏者が思い描いている情景や心情・風景が聴く人に伝わらないことも自然なことです。むしろ、聴く側は演奏者が感じているものよりも、自分が想像することが重要なのです。演奏者が「押し売り」するのは間違いだと思っています。
 「これから演奏する音楽は●●を表したものですから、その通りに感じてください」って押し付けがましくないですか?(笑)と言うより大きなお世話だと思うのです。演奏者の解釈はあってよいことですし、それをお客様に予め伝えることも間違っていません。しかしそのことで聴く人の自由な創造を「邪魔」してしまうリスクもあると思うのです。演奏しようとする音楽に関心を持ってもらうために、自分の解釈を伝える場合もありますがそれを他人に押し付ける気持ちがなくても、結果的に聴く人や見る人の想像力を狭めてしまう場合があると思います。
 絵画を説明なしに見た時の「印象」があります。人によって違います。
同じ作品でも感じ方は自由です。ピカソの絵画を「落書きだ」と思う人がいてもピカソは怒りませんでした。作曲した音楽を「駄作だ」と言われて書き直した作曲家もいれば、そのままで後世になって「素晴らしい作品だ」と評価される場合もあります。
 見る人・聴く人に伝わることが、作り手・演奏者の思いと違っても恐れたり不安に思う必要はないと思うのです。得てしてクラシックの演奏家は「この作品はこう!演奏しなくてはいけない」と自分を縛りがちです。自由な感性で演奏することを「形式に反する」とか「おかしい」と言う人がいますが、どんなものでしょうね(笑)レッスンで生徒に「そこは●●のように演奏しなさい」と教えるのは簡単です。生徒の想像力を育てることを大切にするなら、まず教える人が自分で演奏して生徒が感じとったものを尊重するべきです。
 すべては演奏する人・聴く人の「人間性=感性」に委ねられるのが芸術だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アルバイトで一人カラオケカルテットしてました

 メリーミュージックの歴史は2004年の夏から始まりました。
来年は20周年を迎える時間の中で本当に苦しい時期がありました。
今が楽…ではありませんが精神的にも経営的にも苦しい時期が何年か。
そんな時に「通信カラオケ」に生演奏を組み入れることが流行していて、アルバイトとして教室でひとりMTR=マルチトラックレコーダーを使って録音、納品していました。この映像の明日も納品したうちの一つ。偶然パソコンに残っていました。
 仕事の依頼は「楽譜データ」と「オリジナル演奏音源」と「テンポ指定のためのMIDIデータ」がデータで送信されてきます。それをすべて指定通りの形式で録音してWAVデータにして納品する…というものでした。
 一軒のお仕事でいくら?頂いていたのか全く記憶がありません。
この頃には近くの結婚式場で演奏するお仕事もしていました。
精神の病…うつ病の酷い頃で治療薬の副作用の中、もうろうとしながら演奏してい様に思います。良く生き残った!(笑)と言うのが正直な気持ちです。
 ちなみにチェロの音もヴィオラで演奏したものを一オクターブ下げるエフェクトを使って作っています。聴いていて心地よいものではないですが、こんなことをして生き抜いたから今がある…そう思うと捨てがたい音源でもあります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜を覚えるためのプロセス

 映像はショスタコービッチ作曲「二つのヴァイオリンとピアノのための5つの小品」の4番「ワルツ」と5番「ポルカ」をヴァイオリン・ヴィオラ・ピアノで演奏しているものです。この楽譜は手に入りませんでした。
 ヴァイオリンのセカンドの楽譜は…

すごいでしょ!浩子さん天才!ありがとう!
で、それを私がパソコンソフトを使って「音」にします。

すごいでしょ!浩子さん天才!ありがとう!
で、それを私がパソコンソフトを使って「音」にします。

さらにここに先ほどの楽譜を画像にして音楽に合わせて動画を作ります。
それがこちら。

これを頭に覚えて演奏するのです。覚えながら指使いや弓も覚えます。
「動画が見えるなら紙の楽譜も見えるでしょ?」と思われますが私たち弱視の人間にとっては画面の明るさとコントラストの強さは、紙よりもずっとみやすいのです。ただ音符の位置などは苦しいですが(笑)音を聴きながら覚える方法は「スズキメソード」の母国語方式に似ていますが、正確には意味が違います。このパソコンの音源をそのまま真似して弾きたくないし(笑)そもそも楽譜を見ることが難しくなった分を補うための音源です。
 楽譜を見ながら演奏できることが当たり前だった頃には「暗譜」することの意味や難しさを考えたことはあまりありませんでした。なんとなく?何度も練習している間に覚えるのが暗譜だと思っていました。
 楽譜を見ないで演奏する(できる)こと
それだけでは暗譜とは思わなくなりました。演奏しようとする音楽のあらゆる要素…音の長さ・高さ・大きさ・音色などを演奏する弦や弓の位置をひとつのパッケージ=イメージとして一曲分「思い出せる」ことが暗譜だと思うようになりました。少しずつ…一音ずつ・1小節ずつ・1フレーズずつ覚えます。
 能率が悪く思われますが実際にやってみると案外!短時間で演奏できるようになるものです。ぜひ、皆さんも一度お試しください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

シンプルな美しさ

 映像はデュオリサイタル8で演奏したバッハ作曲チェンバロ協奏曲第5番の中から「アリオーソ」ヴィオラとピアノで演奏したものです。ビデオの撮影は人手不足で(笑)ありませんでした。
 音楽にはそれぞれに個性がありますよね。言葉にすると安っぽい気もしますが、シンプルな音楽は絵で例えるなら…水墨画やクレパスで書かれたようなイメージ。食べ物に例えるなら…素材の味が際立つ料理。もちろん、複雑な色遣いの絵画も多くの素材を組み合わせた料理も素晴らしいものですがシンプルなもので人を感動させるために、作り手のこだわりと技術が最大限発揮されるとも思います。
 演奏の形態も、使われる楽器の種類が少なくなればなるほど、一つ一つの楽器の音が際立ちます。
 楽曲の旋律が、順次進行と分散和音を中心にした覚えやすい旋律で、リズムも規則的な繰り返しが多いアリオーソ。和声進行も奇をてらわず聴く人の期待通りの進行です。
 余計な飾りを極限まで削り必要不可欠なものだけが残ったもの
それこそがシンプルな美しさだと思います。「簡単」とは意味が違うのです。
「素朴」とでもいうべきです。アリオーソを演奏する際に、装飾音符をたくさんつける人もいますが私は「素=すのまま」が好きです。「バロックとは!」と言うお話は大切ですが料理の仕方は、人それぞれに違って良いと思います。
 もっと純粋な美しさを求めて、この曲に再挑戦したいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

新作ヴァイオリンに難癖付ける人に物申す

 映像はデュオリサイタル05ムジカーザでの演奏です。
滝廉太郎作曲の荒城の月をアンコールで演奏しました。
このリサイタルを実施したのが2013年1月です。前年2012年の5月に陳昌鉉氏が逝去されました。ご病気で亡くなられる直前に私の生徒さんが陳さんから直接購入させていただいたヴァイオリンが、この動画で私が演奏しているヴァイオリンです。生徒さんからお借りして演奏しました。陳さんが大好きだった「荒城の月」を陳さんに捧げました。

 新作のヴァイオリンを殊の外に悪く言うヴァイオリニストが見受けられます。
オールドの楽器と比べ、音に豊かさがないとか中には「ストラディバリウスの音とは比較にならない」と言い切る人もいます。
 言うまでもなくヴァイオリンはどれひとつ、同じ音のするものは存在しません。それがストラディバリウスのヴァイオリンであっても一丁ずつ個性があります。オールド偏重主義ともいえる人たちにとって、新作のヴァイオリンは「良い音がしないヴァイオリン」と言う完全な先入観に凝り固まっています。
 ピアノの世界でも「スタインウェイだけがピアノ」のように思われていた時代は終わりました。新しいピアノメーカーが世界的に注目され評価査定ます。
 ヴァイオリンや弦楽器の世界だけが「非科学的な神話」に未だに縛られています。新作ヴァイオリンにも150年以上経ったヴァイオリンにも「鳴りにくい楽器」「バランスの悪い楽器」「演奏しにくい楽器」は存在します。製作者の技術も様々なら、製作者が理想とする音も様々です。それが当たり前なのです。
 陳昌鉉さんの作られた楽器に「金銭的な価値」を付けたがる人がいます。
いくらで取引されているか?それで楽器の価値が決まるでしょうか?
私には自分が良いと思った楽器が新作であれオールドであれ、全く関係ありません。
 新作が嫌いならその根拠を科学的に語るべきです。
少なくても人間の聴覚で判別できるものではありません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓と右手の一体化

 映像はチャイコフスキー作曲の歌曲「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏したデュオリサイタル15ムジカーザでの演奏です。
 以前のブログで紹介した弓の持ち方を変えるというテーマに関連する話題です。
 恩師久保田良作先生に教えて頂いた右手の「形=型」は、一言で言えば右手の甲(こう)を平らにするものです。もう少し詳しく言えば、右手の掌に一番近い関節(拳の骨)が出っ張らないように持つイメージです。言葉にするのは難しいですが(笑)机の上に右手の甲を下にして=手のひらを上に向けて置いてみます。
その状態で右手中指・薬指・小指を「指先からゆっくり上に向ける」曲げ方をします。その時に指の第2関節を机から離さないように曲げるのがポイントです。
その状態で親指の指先=爪の先端を、中指の指先=肉球部分に触れるように親指を移動します。必然的に親指と掌の隙間は、ほとんどなくなります。その状態のまま掌が下になるように180度回転させます。人差し指は、ほぼまっすぐに伸びた状態で、中指・薬指・小指の指先が机にあたるはずです。
 この状態を弓先でも維持することを久保田先生は繰り返し言われ、私はその指示に従って約50年間継続してきました。生徒さんの中でも数名に、この持ち方を伝承してきました。多くの生徒さんはこの「形=型」になる以前に、それ以外の修得するべき腕の動きができなくなり、強いて教えることはしてきませんでした。
 この持ち方の良い一面は、弓のどの部分でも一定の圧力を弓の毛に加えやすいと言う利点と、不用意な「指弓」を使わずに腕の柔らかさを使って、ダウンからアップ・アップからダウンの際の衝撃を吸収する習慣が身に付くことです。
 簡単に言ってしまえば「指のクッションではなく腕と肩のクッションを使う」奏法です。
 ただ物理的に右手首を左右に曲げる運動が必要になるという難点もあります。
手首は掌と手の甲の方向=上下方向に曲げる運動可動域が大きく。その運動対して90度方向=左右に動かす可動域は狭いのが普通です。この運動を腕を立てて掌を前にして行うと、一昔前に流行した「まこさまのおてふり」ができますのでお試しください(笑)
 弓先に行った時は前腕の骨に対して左側に手首を曲げます。弓元ではまず右手肘を上方に挙げることで弦と弓の毛の「直角」を維持します。それでも右手ー弓元が前方に出すぎる場合=弦と弓が直角にならない場合は、弓先の場合とは逆に手首を右方向に曲げることで直角を維持します。

かなり難しいことを書きましたが(笑)この奏法で必要になる作用方向への手首の柔軟性と、右撃て全体で衝撃を吸収する弓の返しが年齢と共に苦しくなってきました。今思えば恩師もまだ若かった!のです。いえいえ、久保田先生は健康をとても大切にされておられ、特に全身運動の重要性を説いておられましたので、年齢よりも若い肉体を維持されていたことは事実です。見習うべきですね(涙)
 とは言えやはり弓元での運動が苦しくなってきたので、手の甲を平らにする持ち方から掌全体を「楕円」にする形に変えました。円ではなく楕円です。
円のイメージはピンポン玉を掌で包み込む形です。つまり右手5本の指で球体を作る形です。弓を「つまんで持つ」形になりますが、私はこの持ち方には様々な違和感を感じています。
 最も大きな問題は、親指と人差し指のてこの原理による、弓の毛と弦の接点への圧力をかける「向き」がずれてしまう事です。演奏中の理想的な圧力の方向は、表板方向に向かう力が9割以上で、手前方向への力は1割以下だと考えています。弓をつまんで持てば圧力は?手前方向に多くかかります。下向きの力を得るためには弓を強く「挟む」事が必要になります。この力は本来不要な力です。
 楕円にすることで、下向きの力を保ったまま(多少はロスしますが)指の柔軟性を作り、腕の負担を下げられることになります。

 実際に持ち方を変えてみて感じたこと。
弓の圧力方向と下限をコントロールしやすくなりました。
出したい音色によって、数ミリ単位で弓を置く場所を変えています。その際に手前に引き寄せる運動と緩める運動で、音色の変化量が増えました。
 さらにこのことで客席に響く音量も変わりました。言い換えれば「楽に音が出せるようになった」のかもしれません。
 まだまだ改善途上です。さらに研究して自分の身体に会った演奏方法を模索したいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラ指揮者と打楽器奏者の信頼関係

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会で演奏した「エビータ」メドレー。メリオケでは今回が初めての演奏です。その昔(笑)教員時代にみなとみらいホールで指揮をして以来の指揮です。
 私が思う指揮者とオーケストラメンバーとの演奏における信頼関係の要=かなめは、打楽器奏者を信頼できるか否か?以外にないと思っています。
 もちろん、すべての演奏メンバーとの信頼関係が重要ですが、多くの楽器の中で打楽器はオーケストラ演奏の「核=コア」だと考えています。
 打楽器演奏を学んだわけでもないのに偉そうに!(笑)
どんな音楽のジャンルでも、どんな演奏形態でも、音楽の基本は?リズムだと思っています。旋律と和声の美しさや個性を際立たせるのもリズムがあってのことです。
 そもそも「リズム」ってなんでしょうね?
ウィキで調べてみると…
古代ギリシャに生まれた概念で、ῥυθμός – rhythmos(リュトモス)を語源とする。リュトモスは古代ギリシャ語では物の姿、形を示すのに一般的に用いられた語で、たとえば「αという文字とβという文字ではリュトモス(形)が違う」というように用いられた。やがて、音楽におけるひとつのまとまりの形をリュトモスと言うようになった[
 だそうです。なるほど~
物の姿や形を表すのが「リズム」の語源だと解釈すると音楽の形を表すのが「リズム」だと置き換えると納得できます。

 二人以上の演奏者でひとつの音楽を演奏する時に「時を共感する」ことが何よりも大切だと思っています。リズムは目に見えない「時の流れ」を表す言葉でもあります。一般に「時」を表す単位は?
秒・分・時・日・週・月・年
音楽の中で使う「時」を表す単位は?
四分音符・二分音符など音符と休符の種類。
小節・楽章の単位も演奏時間の長さ。
テンポの指定 ♩=62など。
テンポの変化を指示するイタリア語。
様々ですが重要なことは、音楽は「一つの音を演奏する時間の長さ」と「音を出さない時間の長さ」の組み合わせで表現されていることです。
 メトロノームは「拍の始まる瞬間」に音を出す道具です。メトロノームの音は拍の長さを表していません。つまり拍と拍の「間隔=時間の距離」を表す道具なのです。本来の拍の長さを表すには一拍分の時間、音だ出し続けることが必要です。ずーっと音が鳴り続けるメトロノームってうるさいですよね?(笑)
だから最初だけ音を出すようにしたんですね。
 打楽器は?様々なオーケストラ楽器の中でも「瞬間=点」で音を出す楽器だと言えます。残響はありますが弦楽器や管楽器のように音を伸ばしながら強弱をつけることは出来ません。ピアノもその意味では打楽器の仲間になります。
 一曲の演奏=音楽の時間の中で、点を強く表す打楽器は音楽の流れを支配する楽器でもあります。どんなに弦楽器や管楽器が強いアタックで音の出だしを強調しても、打楽器を叩いて音が出る瞬間のエネルギーには遠く及びません。

 指揮者として音楽の流れの速さや変化を決める時に、打楽器奏者の出す「音」が指揮者の糸と違えば致命的だと思っています。私が思う「音楽の流れの速さ」を感じ取ってくれる打楽器う奏者がいることで、指揮者の精神的な負担と点を強調する動きを減らすことで肉体的な負担も圧倒的に軽くなります。
 アマチュアオーケストラだからこそ、打楽器奏者と指揮者の信頼関係はなによりも重要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習できない期間(ブランク)なんて怖くない!

 今回のテーマは「ブランク」について。
多くの生徒さんが「忙しくてあまり練習できませんでした」とおっしゃいます。
中には生徒さんが幼いころ習っていて、何年・十何年・何十年ぶりでレッスンを再開されるケースも珍しくありません。その「楽器を練習していなった期間」をブランクと呼びます。ブランクをあたかも「悪いこと」のように語る人がいますが、プロであれアマチュアであれ「ブランク」はあって当たり前だと思っています。むしろあった方が良いとさえ思っています。

 上の映像は15年前のデュオリサイタル「1」で演奏したドボルザークのロマンティックピースです。決して上手なヴァイオリンではありませんが、このリサイタルを開くまでの私の「ブランク」をご紹介することでブランク恐怖症(笑)を克服して明るく練習できることに繋がれば…と思います。

 音楽大学を卒業するまで、師匠に言われ続けていた言葉「一日練習を休むと元の状態に戻るまで二日間かかる。二日休めば四日。わかった?」なるほど!と素直に受け入れ、今でも間違ったお話ではないと思っています。
 問題は元の状態って何?と言うことと、練習を休むことへの背徳感や恐怖心、延いては無理をして義務的に練習することで悪影響をもたらすことにもなります。
 教員生活20年間…私の場合25歳の年に普通科中学・高校の教員となりました。
それまで約20年間、ヴァイオリンを「ほぼ」毎日、練習していましたが教員になったその日からヴァイオリンケースの蓋を開けることは「一年に数回」もしかすると一年間一度も自分のヴァイオリンに触れなかったこともあったかもしれません。ヴァイオリンが嫌になったわけではなく、現実的にその時間がなかったのです。まさしく「20年間のブランク」ですよね。退職時のパワハラで精神を患い、処方されたお薬で命をつなぎながらレッスンをする日が数年間続きました。
 生徒さんに朝10時から夜9時まで、30分刻みで定休日も休憩もなくレッスンをし続けられたのは恐らく間違いなく数々の「お薬」で眠気や疲労感を感じなくなっていたからだと思います。今考えても恐ろしい経験でしたが当時は「普通」に感じていました。ヴァイオリンを教えながら自分が練習することは、それまでの20年間とほとんど変わりませんでした。
 練習する目的を失った日々でした。
その長いブランクから浩子さんとリサイタル…考えられないギャップです(笑)
 リサイタルで演奏する曲を二人で考え、練習をスタートし約1年間をかけて第一回デュオリサイタルを開きました。その時の演奏のひとつが上のロマンティックピースです

 ブランクを「休憩」あるいは「睡眠」と置き換えて考えるべきだと思います。人間は睡眠せずに起き続けると「死」に至ります。最も残酷な拷問方法のひとつです。つまり「休むこと」は人間にとって不可欠な事なのです。
 練習を休むと「へたになる」ことはあり得ないのです。なぜなら「休む」という言葉は、休む前にしていたことを「新しく始める」時に使う言葉だからです。「やめる」とは全く意味が違うのです。もっと言えば休みが死ぬまで続いた場合に「やめた」と言い切れるでしょうか?練習したくても、舞台に上がりたくても「できない」状態になり、その思いを持ったままいのちの火が消えた人…たくさんいますよね?落語家・俳優・音楽家など職業は様々ですが最後の最後まで、本人が思っていた気持ちを「現実にはやめたんだ」と表現するのは人として間違っています。休んでいただけ…なのです。

 ブランクが終わって練習や演奏を再開したときに「リハビリ」から始めるのが一般的です。では楽器演奏の「リハビリ」ってなんでしょう?
 実は私たちが毎日、最初に練習する内容こそが「前日からのリハビリ」なのです。人間は「忘れる生き物」です。生まれてから今までに「見たもの」「聴いたこと」「感じたこと」をすべて記憶することは不可能です。忘れるように出来ています。
 楽器を演奏することと曲を演奏することには「記憶する」と言う共通点があります。「暗譜しなければ記憶はしない」と思うかもしれませんね。初見で演奏する時に記憶していないじゃないか!って?それ勘違いです(笑)
 初見の楽譜を見ながら演奏する時に演奏しながら、次に続けて演奏する音符を「記憶」しつづけながら演奏しています。原稿を読みながらすスピーチする場合も同じです。記憶するのが1行でも原稿すべてでも覚えると言う行為では同じです、長期間記憶する場合と短時間の場合は、使う脳の部分が違う事も科学的に証明されています。
 楽器の音を出す方法は、長期間記憶する脳に記憶されます。
曲=楽譜を演奏する場合の脳は「短時間記憶」が働きますが、何度も記憶を繰り返すうちに「長期間記憶脳」にも記憶が残ります。

 ブランクを開けることの「意義」「利点」は他にもあります。
大きな利点は「自分の演奏する音」つまり聴こえている音を、ブランクの間にリセット出来ることです。「もったいない!」ですか?(笑)
ブランク明けには、自分の音を客観的・冷静に聴くことができます。
 さらにブランクを挟むと、それまで記憶していた、1曲で演奏する一音ずつの演奏方法を再確認できることです。「それこそ!もったいない」と思いがちですが、実際には記憶が薄い「場所」や「身体の使い方」を何度も再確認することは、練習する回数と時間に関わる大切なことです。

 練習できない期間を悪い方に考えないことが大切です。
確かに練習には多くの時間が必要です。ただ楽器に向かって音を出すことだけが練習ではないのです。身体と脳を休めることも練習の一部です。それができなければ、いずれ筋肉が疲労で疲れを感じなくなる現象「マラソンハイ」の状態になり最悪の場合は身体を壊します。脳を休めないと、自分の演奏を客観的に聴いたり、運動が無意識になって再生性が極端に下がる結果になります。同じ場所を何度も練習するうちに「出来るように案った!」と喜んでいたのに、一休みしたり翌日にはまた!ひけなくなっているのは、これが原因の場合がほとんどです。
 ゆったりした気持ちで楽器の演奏を楽しみましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アマチュアオーケストラの理想と現実

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会より、チャイコフスキー作曲ピアノコンチェルト第1番より第1楽章。ソリストは高校時代・大学時代の同期で現在フェリス女学院大学で教授を務めている落合敦氏。
 昨年夏の定期演奏会後に、この曲のソリストを引き受けてくれない?と相談したところ快諾してくれた恩人でもあります。
 言うまでもなく、ピアニストとしてこの曲が体力的にも精神的にも難易度の高い曲であり、オーケストラとのアンサンブルも極めて高度でち密なものが求められる曲です。多くのクラシックファンにとってもアマチュアピアニストにとっても、あまりにも有名すぎる子の曲をメリーオーケストラが演奏してしまいました(笑)

 さて今回のテーマは、アマチュアオーケストラが演奏会に臨むまでの練習や演奏会で「理想」とされる事と「現実」のギャップを考えるものです。
 アマチュアオーケストラの演奏技術レベルは様々です。それこそがアマチュアであることの証でもあります。どんなに簡単そうな曲でもお客様に満足してもらえる演奏をするために、可能な限り練習するのは当然のことです。
 ましてやこのコンチェルトやボレロを演奏するとなると、演奏者に求められる技術は相当に高いものになります。演奏したことのある人にしか理解できない「難しさ」でもあります。少なくともオーケストラで演奏会に参加したことのある人であれば、どんなレベルの演奏に対しても「下手だ」とは口にしません。当たり前ですね(笑)例えるなら、箱根の山を走って登ったことのない人がお正月の箱根駅伝を走る選手を「遅い!なんだこいつ!」と言えるはずがないのと同じです。

 オーケストラの演奏会までに必要な「時間」「費用」「労力」があります。
それがプロであれ、アマチュアであれ最低限必要なものがあり、逆に言えば現実的にできる範囲でしかオーケストラの演奏会は開けないのです。
 オーケストラで演奏しようとする曲に必要な「楽器ごとの演奏者の数」は違います。その人員を確保するために人件費がかかる場合がほとんどです。アマチュアオーケストラの場合はそのオーケストラメンバーの中に必要な楽器の演奏者がいないことが多くあります。ファゴット演奏メンバーがいなかったり、ヴィオラ奏者が一人しかいなかったりと様々です。足りない楽器の演奏者を外部から呼び演奏してもらう場合には謝礼を支払うのが通常です。それはプロのオーケストラ演奏会でもおこなわれています。「エキストラ」と言われる人たちの存在です。
 エキストラを練習時に何回呼べるのか?は人件費を払う資金力で決まります。
二日呼べば二日分の謝礼が必要になります。当然ですよね。
 ソリストを外部の人にお願いする場合も同様です。何回リハーサルを行えるか?はほとんどの場合はお金の問題になります。
 アマチュアオーケストラの運営費用はメンバーが負担するのが通常です。
演奏会時のプログラムに広告を掲載し広告料をもらう…それも一つの方法ですがこの不景気な現代にそんな余裕のあるお店や企業は少なくなりました。
 入場料収入を運営に充てるアマチュアオーケストラもあります。アマチュアオーケストラだから入場料を取ってはいけない!なんて大嘘ですよ(笑)むしろ頂けるならそれが理想ですが、現実には入場料が500円でも!来場者は減ります。
以前にも書きましたがメリーオーケストラは入場無料で演奏会を開いています。
広告収入はNPO法人の定款に書かれていない事業収入になるため基本的には受け取れません。

 半年に一回、定期演奏会を開いています。毎月1日だけ公開練習を実施しています。エキストラ演奏者に参加してもらえるのは演奏会当日、午前中の舞台リハーサルと演奏会の本番だけです。ソリストと一緒にリハーサルを行えるのは本番当日以外、1回が限界です。常にその状況です。練習が少なすぎる!
 会員は全員がアマチュア演奏者です。月に一度の公開練習時に指導者を数人呼ぶのが資金的に限界です。練習会場費、演奏会の会場費や舞台上で使用するすべての機器備品に係る設備使用料もあります。それらの費用を賛助会員の方々からの賛助会費(年会費2,000円)と会員たちの月々の会費3,000円、演奏会参加費を会員たちがさらに拠出して運営しています。それが現実です。
 もっと何回もソリストを呼んでリハーサルをすれば、オーケストラとずれることも避けられます。エキストラ演奏者を何回も呼べれば演奏のクオリティが格段に上がることは誰でも知っています。それは「理想」です。現実の世界で行われる演奏会なのです。出来る範囲で出来ることをするのが現実です。
 メリーオーケストラがいつまで?活動できるのかは誰にも分りません。
今、出来ることを頑張っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供も高齢者も初心者もプロも…みんなで作るオーケストラ

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会のエンドロール。
出演者をテロップで流しました。73名の演奏者。
小学生もいれば80代の高齢者も。初心者がいると思えばプロオーケストラで主席を担当していた人も。みんなが垣根を越えれば、音楽の仲間です、
 肩書やプライド、経験より大切なことがあります。
音楽が好き・演奏が好き
たったそれだけの理由で充分なんです。
うまくなければ入れないアマチュアオーケストラってなに?
年齢制限があるアマチュアオーケストラってなに?
初心者が肩を狭めるアマチュアオーケストラってなに?
 そんな疑問から自分で立ち上げたメリーオーケストラです。
学校の部活オーケストラは常に人が入れ替わります。
多くの市民オーケストラは演奏レベルの低い人を拒みます。
プロの演奏家はギャランティをもらって帰るだけのアマチュアオーケストラが当たり前の中で、プロの演奏家たちが、子供たちを暖かく育てるアマチュアオーケストラが欲し型のです。
聴いてくださる方が喜んで聴いてくれるプログラム。
普段、クラシックを全く聞かない人でも楽しめるプログラム。
どんなジャンルの音楽にも、分け隔てなく真剣に練習する姿勢。
様々な挑戦をし続けて22年間、年に2回の演奏会を同じホールで開き続けることの難しさと意義。
Youtubeにアップしたメリオケの演奏に「へたくそ」とコメントを書き込む人もいます。当然「虫」(笑)あ・無視か!構って欲しい寂しい人や、人の嫌がることをして自己主張する頭の弱い人たちは、いつの時代にも世界中にいるものです。そんな人たちがメリオケの素晴らしさに気付くことができたら、きっと日本はもっともっと良い国になると思います。
 下手くそ?じょうとう!(笑)やれるもんなら、やってみなっての!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ひとつの夢を叶えた37年目のボレロ

 NPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会が無事に終わりました。
演奏者総数73名、スタッフ11名。そして!来場者450名!!
コロナの影響で落ち込んだ来場者数が続いていました。98名と言うメリーオーケストラ創設以来最小人数を経験したのも、記憶に新しい数年前の事です。
 昨年の夏(8月)におこなった第41回定期演奏会には210名ほどの来場者が戻ってきてくれました。それまで毎回300~400名の来場者だった頃を思いながら、少しずつ明るい兆しを感じていた矢先に450名のお客様が足を運んでくださることを予想できませんでした。
 杜のホールはしもとの定員は520名なので、体感的には「満席」の状態でした。受付を手伝ってくれているスタッフと、主謝意者控室から無線で「開場しました!」「了解です!」のやりとりをいつものように交わし、約15分後に「プログラムが足りません!」との緊急事態。まさか?何かの勘違いかな?
 過去に記憶のない速度でお客様が入場され、当初1階席だけで十分かと高をくくっていた私。慌ただしく2階席を開放し開演直前には416名。その後も増え続け最終的に450名のカウントになりました。

 私がオーケストラの育成に関わり始めたのは、学生の頃でした。
もちろん学生なので指導と言うより「お手伝い」でしかありませんでしたが、各地のアマチュアオーケストラに参加させていただくうちに、アンサンブルの楽しさと運営の難しを体で感じていました。
 大学卒業後に新設された中・高等学校にただ一人の音楽教諭として奉職しました。男子校で中学生高校生が1学園ずつで始まった学校。そこにオーケストラを立ち上げる「夢」を持ちました。授業も会議も初めての経験。それでもなぜか?男子生徒11名と始めたオーケストラ!言うまでもなく(笑)全員が初心者。不思議なことに何も違和感を感じず、焦りもなく、明るき考えていました。
 3年後に6学年の男子生徒が揃った時に、総勢60名を超える立派なオーケストラが出来ていました。まるでマジックですよね(笑)
 4年目に突然「男女共学」になり、中学1年に初めての女子生徒が。
それまで廊下で素っ裸同然で転がって過ごしていた男子生徒たちは?
身の置き場を無くし、オーケストラに20名以上入ってきた中1女子生徒たちがキャピキャピ(笑)と遊び、編み物にいそしみ、読書にふける光景。
 硬派一色だったオーケストラの部員たちは扱いがわからず(笑)
それでも開校5年目に第1回定期う演奏会を開催。以後管理職の悪質な嫌がらせを受けながら、全校生徒数1200名の学校に150名のオーケストラ。8~9人に一人はオーケストラメンバー。みなとみらいホールで演奏会を開きましたが…
「ボレロ」にだけは手が出せませんでした。自分の中では「憧れ」でもあり、「叶わぬ夢」でもありました。
 なぜ?(笑)

 私はモーリス・ラヴェルを「オーケストレーションの鬼才」だと思っています。その象徴たる作品がボレロなのだと感じています。
一曲を通してたった二つの旋律と最後に一度だけ出てくる旋律だけのシンプルさ。さらに二回同じ組み合わせを使わないち密さ。最後に向かって常にクレッシェンドする聴感的なドラマチックな構成と言い、聴く人も弾く人も音楽を楽しめます。
 多くの楽器…サキソフォン2種類・オーボエダモーレ・Esクラリネット・チェレスタ・ハープ・コントラファゴット・バスクラリネット・銅鑼などをすべてそろえて演奏することは現実的に不可能です。何よりも演奏できる人をそろえることが一番むずかいいのです。
 今回の演奏会で私のアマチュアオーケストラ指導人生、25歳から62歳になる今年までの37年間をかけて成し遂げられた夢実現でもありました。
 演奏のレベルはアマチュアオーケストラとしての自己満足に足りるレベルだと思います。何よりもアマチュアとプロが一緒に演奏するオーケストラであり、子供も初心者も参加できるオーケストラは恐らく世界中を見回しても数多くないはずです。その活動が22年間や図まずに毎年2回の定期演奏会を実施し続けて来られたことも、当初私が抱いていた小さな夢…数人の子供たちとプロが一緒に演奏できるオーケストラを作りたいという夢が、大きな花になった気がしています。
 ボレロを演奏で着たら、次は?(笑)
きっとこれからも何か夢を探して。音楽を広めていくんだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏のスキルと事務仕事のスキル

 明日に迫ったNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会。
もう20年以上、このオーケストラを創り育てることに関わってきました。
演奏をするためのスキルを身に着ける努力は、自分の為にやっていることなので自分なりに納得も行きます。
 他方で「組織」を動かしていく仕事は、演奏以上に多くのスキルを求められます。オーケストラに限ったことではなく一般の会社や学校、団体でも同じことが言えます。組織を動かす…一言で言えば「自分以外の人を動かす」ことです。
 メリーオーケストラの場合、会員約30名の居住地域も年齢も様々です。
演奏の練習や演奏会自体は会員たちが楽しめることが何よりも大切です。
活動を維持継続するための仕事は決して「裏方」ではありません。
演奏は表に出る氷山の一角です。通常なら組織の人たちが手分けをして準備などの活動を日々行うものですが、当オーケストラの場合は、そういかない現実があります。
・ホールの利用申請
・楽譜の準備
・賛助出演者の手配
・ホールとの打ち合わせ
・タイムテーブルや舞台配置図、席順の決定。
・当日のリハーサルまでに済ませる作業の把握と指示伝達。
・ポスターやプログラムの作成と印刷
・交通費の準備
・もろもろもろもろ(笑)
それらを「誰か」にお願いすれば?結局は確認作業のために統括する人間がさらに忙しくなる結果は目に見えています。
 現実問としてメリーオーケストラは私と浩子さんの「事務作業」で成り立っているオーケストラです。一緒に作業をする人も結局は「お仕事」としてお願いする社員しかいません。お金の問題は大きいことは事実ですが、何よりもこれらの作業の重要性をみんなが理解できないことです。
 学校で20年間、部活動オーケストラを運営し指導してきた時には、ある程度を他の教員である「顧問」に振り分けることもできました。子供たちに作業もさせられました。
 プロのオーケストラの場合や学校などの場合、事務職員がいます。その中に責任者もいます。メリーオーケストラには?
 指揮をする・演奏をする
そこまでに誰かのスキルと時間と膨大なエネルギーが必要です。
う~ん。何とも悩ましい(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽仲間との時間

 映像はNPO法人メリーオーケストラ定期演奏会での「楽器紹介コーナー」
ドボルザークの交響曲第9番を「ネタ」にして、普段オーケストラのコンサートに関心のないお客様にも楽しんで聴いてもらえるように考えたコーナー、
 無茶ぶりにも応えてくれる音楽仲間、アマチュアならいざ知らずプロの演奏家も協力してくれるのが本当に幸せです。小難しい(笑)講釈より楽しいかな?
 こんな素敵な音楽仲間と一緒に舞台で音楽を演奏し、聴いてくれる方に楽しんでもらうことがこのオーケストラを作った理由の一つです。演奏技術をうんぬんするのはプロのオーケストラだけで十分!そもそも入場料無料のコンサート。
 今回で42回目の定期演奏会が日曜日に実施されます。
高校時代の同期ピアニスト、落合敦氏をソリストに迎えてチャイコフスキーピアノコンチェルト第1番 第1楽章で始まり、エビータのメドレー、ラデツキー行進曲。幼稚園の頃からメリオケで演奏してきた兄弟をヴァイオリンとヴィオラのソリストにしたモーツァルトのシンフォニアコンチェルタンテ第2楽章、懐かしいテレビ番組の北の国から。そしてラヴェルのボレロ。
「笑いあり涙あり」とはよく言われますが
「ミュージカルありテレビドラマありコンチェルトありボレロあり」
これを「雑多」とか「邪道」と言うならどーぞ(笑)
私の中ではリサイタルもメリオケも「大人が食べても美味しいお子様ランチ」なのです。美味しいものを、ちょっとずつ食べる「快感」は高級レストランでは味わえません。
 20年以上続けてきたこの活動を継続するために、一人でも多くの方に賛助会員になって支援をお願いします!詳しくは、メリーオーケストラホームページで。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました!

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介

なぜ?練習するのか?

 映像はアンコールで演奏したシューベルト作曲の「セレナーデ」
今まで二人でたくさんの小品を演奏してきた中で実は今回が初めての演奏でした。なんだか不思議(笑)こんなにみんなの知っている曲を忘れていたなんて!

 さて今回のテーマは「練習の目的」を考えるものです。
「うまくなる為以外になにがあるよ!」と突っ込まれそうですが、
うまくなってどうしたいの?どうしてうまくなりたいの?と言う本質です。
個人差の大きな「考え方の違い」はあります。ただ趣味であれ職業であれ。音楽を演奏することは、人間にだけ与えられた能力であり、何よりも自由に音楽を演奏できることは多くの人にとって「楽しみ」なのです。競技スポーツのように、誰かと競い合って楽しむ場合、当たり前ですが相手の人間が必要です。
 スポーツでも芸術でも「他人からの評価」で優劣をつける場合があります。
自己評価ではなく他人の感覚・感性・価値観で評価されることを望む人と嫌う人がいて当たり前です。それも評価される人の「価値観」の違いです。
 私は音楽に優劣や序列をつけることについて否定的な考えの人間です。
人それぞれに好きな演奏や憧れる演奏者がいて当たり前です。食べ物に好みがあり、ファッションにも好みがありますよね?
「多様性」と言う言葉をここ数年よく耳にします。人それぞれに、生き物すべてに個体差があります。それこそが本来の多様性…言い換えれば生物が存在する意味でもあります。多様性を認めない人や否定する人は、そもそもが自分の考え方祖物が「多様性の一部」だという事を理解できない知能の低い人です。

 さてさて、練習してうまくなったら?何が楽しい・嬉しいのでしょうか?
「競争に勝てたから」と言う人もいますが、私はちょっと違う気がします。
「誰かに喜んでもらえるから」それも十分に考えられる要素ですが他人の評価「だけ」を期待するのも練習の目的としては違う気がします。
 私の持論は「自己満足のため」に練習し、「自己評価」が高くなることが嬉しいのだと考えています。つまり練習は自分のためにだけするもので、練習してうまくなったと「思えれば良い」と思うのです。それだけ?(笑)はい、それだけです。
 どんな練習をしても良いのです。自分が満足できる練習こそが練習です。
もちろん!誰かに「じょうずになったね!」と褒められるのは、どんな人でも嬉しいことです。自分ではうまくなった気がしなくても、そういわれることもあります。それはそれで大切な事なのです。自分が自分に問いただすための一つの「違った基準」を聴くことはとても大切なことだからです。

 今回のリサイタルで、弓の持ち方を根本から変えました。右腕の使い方は以前に師匠から習った動きに戻しました。ヴィブラートも腕を使う方法を使わず、手首のヴィブラートに絞りました。理由は様々あります。ただすべては「自分の思う音が出したい」という一心です。自分で良いと思える音が出れば満足です。
 自分の基準を自分にだけ当てはめること。他人は他人なのです(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

初めて聴く人にも楽しめる演奏を

 映像はデュオリサイタル15ムジカーザでの一コマです。
アルヴォ・ペルト作曲の「シュピーゲルインシュピーゲル」日本語訳で「鏡の中の鏡」をヴィオラで演奏する前のMC=トークです。思い付きですべてアドリブなのでカミカミ(笑)なのはご愛敬。演奏する曲に関心を持ってもらう事も、演奏する側の役割だと思っています。そして…

 こちらが演奏シーンです。どんな音楽でも、どんな人でも「初めて聴く音楽」があります。初めて出会う音楽を「紹介する」役割です。
自分の家族やパートナ^を、誰かに初めて紹介するのと同じです、
身近に感じてもらいたい…それが普通の紹介の仕方だと思います。
 実はこのMCの前にも(笑)「燃えよ!ドラゴン」のラストシーンを話題にしました。映画を見たことのある方ならピン!とくるかな?(笑)鏡張りの部屋で悪党のドンとブルース・リーとの対決シーン!およそクラシックコンサートのソリストが話す内容ではない?でも知っている人にはイメージが浮かんだはずです(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

15年目の…

 無事に?やっと?(笑)デュオリサイタル15を終えることができました。
何よりも浩子さんに感謝です、「夫婦なんだから」とか逆yに「夫婦なのに」と言う考え方もあるかも知れませんが、私自身の中で「伴侶」とでも言う言葉で表される人に支えられた15年間です。音楽を一緒に演奏する…それだけの存在なら誰とでも演奏は可能です。ただどんな状況でもひとつの事を続けていくために不可欠なのは信頼できる人との関りだと思っています。
 今回の演奏会で得られた多くの経験は自分、自身の今まで感じてきた多くの出来事をすべて…記憶から来てたものも含めて経験してきたことの集大成だと思います。
 演奏自体は満足のいくものではありません。それはきっと、これからも変わりません。ただ、今までのリサイタルで感じなかった「やればできる」と言う明日への希望を強く感じました。未熟な自分の演奏技術のひとつひとつを、変えていく勇気を得た気がします。「これでいい」と思っていた道の進み方を「これもいい」と思える新しい道を進むことでもありました。
 生徒さんに対して少しでも「道案内」ができる指導者になりたいと、改めて感じたリサイタルでした。
 演奏会後に多くの方に書いていただいたメッセージの中に、私たちの演奏でほんの少しでも癒された方がいらっしゃったこと。暖かい言葉の数々が何よりもご褒美でした。
 30年前に高校生だった生徒さんお二人が「覚えてますか?」と演奏会後に話しかけてくれたことも、時の流れと音楽の持つ不思議な力を感じさせてくれました。
 学生時代同門だった先輩ヴァイオリニストと演奏会後に「弓の持ち方」「ヴィブラート」「指が攣る」話で盛り上がったこと。
 すべてが新鮮な時間でした。これから何年?このリサイタルができるのか誰にもわかりません。信頼できるパートナーと一緒に出来ることを出来る限り続けます。
 応援してくださったすべての肩に、心から感謝を申し上げます。
ありがとうございました!そして、これからも見捨てずに(笑)お願いします!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

本番前日だけどね

 はい。明日が本番のヴァイオリニスト・ヴィオリストです(笑)
右手の人差し指を弓に当てる位置を変えます。
本番、明日だけど。
ヴァイオリンを久保田良作先生に師事して以来、約50年間変えて来なかったことを本番前に替えます。
 リスクがゼロではないのは承知の上です。それでも!弾きながら気になったことなので、思い切って。
 細かく言うと?今まで右手人差し指の「第2関節」に弓を当てていました。
指には明らかにその部分に出っ張り=弓だこがありますが、それを約5ミリから1センチ指先よりに弓を当てる変更です。
 今までの位置は右手人差し指の中で、固く強い場所です。移動した場所は。そこよりも少し柔らかい場所になります。
大きな変化は「弓と掌の角度」が変わることと「人差し指=弓の毛への圧力のかけ方が弱くなる」こと。さらに右手親指の曲がり方が少し減ることになります。

 弓先では力=弓への圧力をかけにくくなりますが、弓元では圧力のコントロールが容易になります。先日のブログで書いた「弓元での癖」を矯正する中で試行錯誤した結果にたどり着いた変更です。
 たった1センチの差ですが、掌から弓が遠くなった感覚です。そのことで悪影響が出るのかな?と心配しながら試していますが今のところ、良い影響だけを感じています。写真はデュオリサイタル15もみじホール城山での私の写真と、恐れ多くもミシェル・オークレール女史の写真。どちらも映像から切り抜いたためブレブレですが(笑)自分にしか感じない「大きな変化」です。
 吉と出ようが凶と出ようが、これも修行です!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

一か月の間に進化・成長すること

 映像はデュオリサイタル15もみじホール城山での演奏です。昨年12月18日(日)に演奏したプログラムを今年1月7日(土)に代々木上原ムジカーザで演奏します。会場が違い使用するピアノも全く違います。
 たった20日ほどの愛第二何が変わるのか?
 同じなのは?演奏者とプログラムとヴァイオリン・ヴィオラ。
で?何が変わるのでしょうか?(笑)答え「演奏の内容が全く違います」
 そのことを「同じ演奏をする技術がない」と思われる方もいるかも知れません。そのことに敢えて反論はしませんが、私たちは常に自分たちの演奏を成長させたいと思っています。どんなに短い期間であっても、成長できることもあると信じています。まったく同じ演奏をすることに「意義」や「技術の高さ」を感じる人もいて当然です。ただ何となく「前と違う事をやる」のは無意味だと思っています。

 過去のリサイタルで演奏したことのある曲もあれば、今回のリサイタルで初めて取り組んだ曲もあります。どちらにしても、自分の演奏を少しでも満足できるものに近付けたいと言う気持ちは変わりません。
 たとえばレッスンに通う生徒の立場でも、次のレッスンまでに少しでも上達したいと願って練習するわけです。日々の練習がすぐに結果を出せるものではありませんが、紙一枚の薄さでも成長したいから練習するのはアマチュアもプロも同じだと思います。自分が演奏した音と映像を何度となく聞き返し、みなして気付いた課題は解決したいと感じるのは自然な気持ちです。「悪あがき」でも足掻かないより前に進める気がします。 

 もとより技術の足りない自分が人前で演奏すること自体、おこがましいことです。そんな演奏を何度も聴いてくださる方に、少しでも満足してもらえる演奏を目指します。あと一日あります。筋肉を休めながら適度な疲労感を維持しながら、演奏会に臨みたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術の継承

 映像は1924年、パリ生まれのヴァイオリニストでパリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリに師事し、1943年、ロン=ティボー国際コンクールで優勝し、コンセルバトワールで長年ヴァイオリンを指導した「Michele Auclair~ミシェル・」オークレール」女史の演奏動画。
 学生時代、同門の優秀なヴァイオリン奏者たちが久保田先生の薦めて留学し師事した指導者でもあります。不出来の私にはそんなお話は一度もなく(笑)指をくわえて眺めていたのを覚えています。

 こちらはシャンドール・ベーグ氏の二重奏演奏動画です。ベーグ氏の公開レッスンも印象的でした。
 桐朋でヴァイオリニストの公開レッスンが頻繁に行われていました。
オークレール、ベーグなど偉大な指導者たちのレッスンがあるたびに、久保田門下生からもレッスンんを受けている人が多く、そのレッスンが終わると久保田先生は印象に残った「演奏技術」を他の生徒…私にも伝えてくださいました。


 ヴァイオリンの演奏技術に明確な「流儀」はありません。ただ指導者によって大きく違うのも事実です。それぞれに姿勢・右手(弓の持ち方やボウイング)・左手(親指の位置や指の置き方)などに個性がありました。
 音楽の解釈や細かい奏法を指示する指導者もいれば、生徒の個性を尊重する指導者もおられました。現代のヴァイオリニストたちを見ると。どうも姿勢やボウイングなどに個性が感じられなくなりました。それも時代の流れなのかもしれません。特に右腕・右手の使い方について、指導者の関りを感じられなくなった気がします。ヴァイオリニストが音を出す基本は、弓の使い方に大きなウエイトがあると感じている私にとって、演奏家の個性が薄くなってきた気がしてなりません。
 ヴィブラートの個性も指導者の「歌い方」が無意識のうちに弟子に伝承されるものです。それさえも「速くて鋭いヴィブラートが良い」とも感じられる現代のヴァイオリニストの演奏に、指導者が演奏技法を伝承する意味が薄れていく気がしてなりません。
 演奏家の個性は「基礎」の上に出来上がるものだと思います。ヴァイオリン演奏の基本をどこに置くのか?と言う問題でもあります。ヴァイオリンと言う楽器が300年以上前から変わっていないことを考えると、演奏方法を後継者に継承することも大きな意義があると思うのは老婆心なのかもしれません。
 せめて自分だけでも、師匠から習った多くの事を理解し、実行し、次の世代に継承できればと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

無くて七癖 無意識の修正

 自分の演奏に嫌気がさすお正月を過ごしております。(笑)
右手一生。私の場合、左手は2~3回生まれ変わらないと人並みになりません。
右手の小指。たかが小指。されど小指なのです。
恩師久保田良作先生に、何億回も指摘され続けたのが「右手の形」
特に、親指と小指の使い方。、今自分の演奏を見返すと、元弓で小指が使えていません。その結果がどれだけの悪影響を無意識に与えているか…、恐ろしや久保田先生であります。

 簡単に言ってしまえば、右手の親指・小指・人差し指の三点で弓の傾斜と圧力をコントロールしているわけです。その三点に加えて弓の毛と弦が振れる場所が4点目になります。理科で習った「てこの原理」を思い出しましょう。
支点・力点・作用点
弓の毛と弦が振れている状態、つまり弦に弓の毛を置いている状態の場合には、作用点が弓の毛と弦の接触点。支点が右手親指。そこまでは弓のどの部分でも変わりませんが、弓のバランスの中心点より先を弦に置いた場合には、小指は力の作用をしていません。極論すればなくても演奏は出来ます。
しかし弓の重さの中心より元に弦を当てた場合には、小指の仕事が急激に増えます。弓の傾斜を保つ力・人差し指と共に弦に対して直角方向の力が必要になります。
 特に私の「癖」が最も感じられるのが元弓で弓をアップからダウンに返す瞬間です。この部分では弓の音さのほとんどが、自分から見て左側=弓先方向にあります。最も不安定な場所でもあり同時に、最も弦に圧力をかけやすい場所でもあります。この場所で最大の仕事をするのが「右手の小指」です。」
 弓を元で返す一瞬前に弓先を下方向に下げ=小指側が上がり、弓を返した直後に弓先が上方向に上がる=小指側が下がるという「無意識の運動」
 恐らく学生の頃からこの癖はあったと思われます。ただ昔は映像で確認する方法が学生にはなかったので、本番中の癖までは自分では発見できませんでした。
現代、自分の弓の動きをこうして確認することができる有難さと同時に
「いい加減に直せよ!」とも思うのです。
 1月7日までに修正するべ!やってやる!
再度までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

一年の計は…

 2023年になりました。兎年。私?年ですが(笑)
一年の計は元旦にあり?あるのかな~?今までも元旦に「よし!今年こそはっ!」と誓ったものですが、年末にはそれさえ忘れてたような人生。とほほほ。
 今年の目標!「来年のお正月も平穏に迎えられること」って駄目ですか?
穏やかに一年を暮らせるなら、それが一番の事です。昨年末に「今年の10大ニュースってなんだろうね?」と二人で考えて、10個もないから3大ニュース(笑)
第一位! 浩子さんが電子楽譜「グイド」を使い始めたこと
第二位! お風呂の換気扇が壊れて新しくなった
第三位! 特になし(笑)
その位に穏やかな一年でした。つまらない?いえいえ。これぞ平穏!

 今までの62年間に、やり残してきたことは山ほどあります。
でもそれを悔やんでもいません。受け入れることができる年齢になって、それを共感できるパートナーと暮らせることが一番です。
 今年も一年、屁理屈ブログにお付き合い下さい!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ムジカーザでどこに立つか?

 今回は代々木上原ムジカーザでピアノとヴァイオリン・ヴィオラでリサイタルを開かせて頂いていながら、未だに立ち遺体が決まらない悲しい(笑)お話です。
 最初の動画は5回目のリサイタルの映像。下は14回目(2022年1月)の映像。
ピアニストの右横で少しだけピアニストの背中側になった5回の場合、私は上手側(客席から見て右側)にヴァイオリンのスクロールを向けて立ちます。
ピアニストから私の気配を感じられるぎりぎりの位置です。
 問題は私の視覚障碍「暗所が見えない」ということです。
この立ち位置ならピアニストを視認できるので方向が安定します。
 一方で下の動画のようにピアノの蓋を支える「柱」の辺りに立つとピアニストは視線をあげるだけで私の動きを確認できます。ヴァイオリン・ヴィオラを演奏する私はピアノの音を背中で聴くことができ、客席に届くピアノの音と私の音が「同時に溶けて聴こえる」と言う大きなメリットがあります。が!(笑)
 この位置からだと私の目で視認できるものが「何もない」状態になるので、どちらを向いているのか?わからなくなると言う問題が起こります。さらに、この立ち位置の正面だけでなく左右のすぐ近くにも客席があるため、楽器の向きを変えると極端に聴こえ方が変わってしまうと言うデメリットがあります。

 自分で演奏して自分で聴くことは「分身の述」を身に着けた人か「幽体離脱」ができる人にしか出来ません。演奏しやすさと、お客様への音の届き方。この両立が大切です!さて、どこに立つのでしょうか?当日のお楽しみ!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

テンポで変わること

 今回のテーマ、演奏するテンポ=速度によって聴く人、演奏する人それぞれにどんな違いがあるのか?というお話です。
 映像はメンデルスゾーン作曲の五月のそよ風。
私はヴィオラで演奏してみました。下の映像はヴァイオリンでえんそうされているものです。楽器による違いはありますが音域は全く同じです。

 テンポを速めることで音楽の流れと、2小節や4小節と言ったある程度の長さの「音楽の塊=フレーズ」を感じやすくなります。その一方である瞬間の和声の為害性や意図的に半音下げられた旋律の印象が薄くなりがちです。
 人間の感じる時間の長さは、多くの場合脈拍に関係しています。いわゆる体内時計も人間の心拍数に影響を受けているという学説もあります。人によって歩く速さは様々ですが脈拍の速さは、大きな違いはありません。
 むしろ演奏を聴いて感じる「速さ」よりも、なにが?印象に残るか?という事の方が大切だと思っています。ゆったり演奏することで、音色の美しさや和声の美しさが印象に残ります。前に進む流れを優先すれば、一つ一つの文字ではなく内容=意味を強く感じられます。どちらが良い…というものではありません。
音楽によっても、楽器によっても違ってきます。聴く人の好みもあります。
 どんなテンポで演奏するか?は演奏者の伝えたい内容によって変わるものだと持っています。次回1月に演奏するこの局を、どんな速度で演奏するか…
 ぜひ会場でお楽しみください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と共に生きること

 今回のテーマはすべての音楽愛好者に向けて。
楽器を演奏することも、誰かの演奏を聴くことも「音楽と共に生きる」と言う意味では何も変わりません。音楽が好き…と言う気持ちがある人たちに心から共感します。
 好きな音楽を、好きなときに、好きなように、好きなだけ
これこそが音楽を楽しむことだと思っています。これ以外に音楽を楽しむ方法はありませんよね?楽器を演奏する人が「練習」する場合、必ずしもこれらの「楽しみ」を感じられないことがあります。好きではない練習曲やスケールを練習したり、解放弦やハノンを「好きな音楽」とは誰も思いません。なぜ楽しくもない、好きでもないことを繰り返すのか?答えは簡単「楽しんで演奏できるようになるために」なのです。つまらない・好きではない(笑)練習をすれば必ず音楽を楽しみえるようになるか?と尋ねられたら「そうとは限りません」と正直に答えます。矛盾しているように感じますが、一番大切なのは「楽しんで演奏するために」と言う目的なのです。つまり、ただ練習をしていても目的がなければ、音楽を楽しんで演奏することは出来ないのです。では、つまらない・好きではない練習をすることは無意味なのか?いいえ。つまらないと思ったり、好きではないと思うのは「必要性を感じていない」からなのです。楽しみながら演奏できるようになるまでの「プロセス=道程」を知らないのが初心者です。当たり前ですよね?例えば、ヴァイオリンを練習し始めて1か月の人にとって、経験した練習時間は1か月「分」です。1年練習すれば1年「分」5年練習すれば…楽しんでひけるようになるまでの「期間」に体験したことだけが「知識と技術」なのです。
 どんなに長く演奏を練習しても…私の場合には55年ほど…まだ「道半ば」だと感じています。「55年かかるならやらない」と思わないで(笑)
 演奏して自分が心の底から満足できる演奏には、おそらく誰も到達できません。それでも「楽しい」と思えるのはなぜ?なにが?楽しいのでしょうか?

 演奏する立場で、誰かが聴いて喜んでくれることは、どんなことよりもうれしいことです。自分で「へたくそ」だと思っている演奏でも、聴いてくれた人が「素敵だった」「きれいだった」「昔の風景を思い出した」そんな感想を言ってくれる瞬間に、演奏して良かった。もっと練習してもっとたくさんの人に喜んでもらいたい…と思うのです。それこそが、演奏する楽しみだと思うのです。
 自分の演奏を自分にだけ聴かせる…これは「練習」です。どんなに1曲を通して演奏しても、仮に伴奏があったとしても、聴いてくれる人のいない演奏は「練習」でしかないのです。練習はなんのためにするのか?上にも書いた通り、自分が音楽を楽しむためですよね。その楽しみは?誰かに聴いてもらって、喜んでもらうことです。下手でも良い…とは言っていません。ただ自分が思う「へた」を基準にしてはいけないということなのです。自分より「うまい」と思う人だけが、演奏する楽しみを感じて良い=人前で演奏して良いと、勝手に決めつけているのは自分だけなのです。
 私自身、自分が本当に「へた」だと思い続けています。真実です。
「ならばなぜ?人に自分の演奏を公開するのか?」と思いますよね?
聴いてくれる人の中に、喜んでくれる人が「少しでも」いることを経験で知ったからです。これこそが演奏の経験だと思います。誰もいない部屋やホールで演奏してもそれは「演奏経験」とは言わず「練習経験」なのです。
 純真な子供たちや、見ず知らずの高齢者を前にして演奏させてもらった経験で、本当に喜んでくれている反応を体験しました。1歳児でも認知症の人でも、言葉を失った高齢者でも、自分の好きな音楽を聴くと「無意識に」反応するのです。幼児の場合、首を振って身体全体を動かして喜んだり、じーっと私を見つめ続けたり…。高齢者が音楽を聴きながら涙を流していたり…。
 言葉ではなく人間の一番素直な「感情」が感じられるのが、音楽だと思っています。自分の演奏で、誰かが喜ぶ姿を想像することです。
「私の演奏なんかで喜ぶ人はいない」そう思った人(笑)
それこそが「自己満足」だと思います。
うまくないから人前で演奏しない
もしも、その考えを世界中の人がもってしまったら?
間違いなく世界中で誰も人前で演奏できなくなります。
「私はうまい」と思っている人が世界中に何人?いるか私は知りませんが(笑)少なくとも私の知っている演奏家の中で「自分はうまい」と言っている・思っている人を誰一人として知りません。私が「神のようだ!」と思う人もです。
その人が「自分はうまくないと思うから」人前で演奏しなくなったら聴く楽しみは?なくなります。音楽と共に生きる人も、地球から消えてしまいます。

 演奏すること、音楽を聴くこと。それが生きるために不可欠…だとは言い切れません。人間にとって水や空気、食料のような存在とは違います。
生きている…ということの意味を「心臓が動いている」ことだとする考え方には、様々な異論があります。人間の「意思」「思考」「感覚」がない状態で生命活動がある「生物」を生きている人…と言えるのか?と言う問題です。
その意味でも、音楽を演奏したり聴いたりして「感じる」ことは人間として生きていると実感できる、とても簡単でとても有意義なことだと信じています。
生きることは、感情を感じることだと思います。音楽はその「喜び」を与えてくれる存在だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使いと弓使いを考える

 

今回のテーマはヴァイオリンやヴィオラを演奏する時に不可欠な「指使いと弓使い」について、持論を書かせていただきます。
 楽譜に印刷されている「指番号」「ダウン・アップ・スラー」の指示に従って演奏するのは「基本」です。以前にも書きましたが、この指示は作曲者が書いたものより、圧倒的に「減収者の指示」である場合が多いのは事実です。
 指示通りに演奏することで、自分なりの指使いと弓付けを考えられるようになるまでの「学習」ができます。言い換えれば「セオリー」おを学ぶことがまず大切です。ただ単に「弾きやすいから」という理由だけで考えるのは最も良くないことです。人によって、多少の得意不得意は許されますが、セオリーを無視して何も考えずに指使いや弓使いを決めるのは「個性」とは言いません。単なる「我流」でしかありません。

 上の動画はラフマニノフ作曲、クライスラー編曲の「祈り」原曲はピアノ協奏曲第2番の第2楽章です。この楽譜を含めて楽譜に書かれている指使いや弓使いは、すべての音に対して書かれてはいません。つまり「自分で考える」事が出来なければ、演奏はできないことになります。
 ヴァイオリン教本の場合には、ほとんどの場合指示がされていますから、見落とさなければ指示通りに演奏できます。そこが大きな違いです。
 指使いには、どんなこだわりが必要でしょうか?

 最も大切にしているのは「演奏する弦の選択」です。次に「音のつなぎ方=グリッサンドやスライドなど」そして当然のことですが「ふさわしい音色と音量を出せること」です。演奏する速さにもよります。それらをすべて考えて、最適な指使いを選びます。これも当たり前ですが「前後関係」を考慮します。
 ヴァイオリン・ヴィオラは4本の指と開放弦しか使えません。チェロやこんっトラバスの場合には親指も使えます。限られた指の数で4本の弦を「使いこなす」ために、考えられるすべての指使いを試してみることが大切だと思っています。初めは「この指使いはないかな?」と思っていても、実はそれが最適な場合も良くあります。選択肢は本当にたくさんあります。どんな指使いが「正しいか」よりも音楽として適しているのはどれか?を考えることです。

 弓使いについては。ダウンアップよりも「弓のどこで演奏するか?」が重要です。それぞれの場所で個性が違います。向き不向きがあります。
それを理解して初めて自分なりの弓使いが決まります。
 私は「レガート」で必ず一弓で弾くとは決めていませ。
弓を返してもレガートで演奏できる技術を身に着けることが大切です。
 どんな弓使いであって、演奏者のこだわりがなければ「行き当たりばったり」になります。自分で考えることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の立体感=奥行・広がり

 映像はチャイコフスキー作曲のノクターン。ヴァイオリンとピアノで演奏したものです。今回のテーマは「立体感」です。
音楽は目に見えるものではありませんが、奥行や広がりを感じる演奏と平坦で窮屈な感じを受ける演奏があります。その違いはどこから生まれるのでしょうか? 

 一つには「演奏する音色と音量の変化量」が関係します。
どんなに正確に演奏したとしても、一定の音量と変わらない音色で演奏すれば聴いている人にとって平面的な音楽に感じます。
 一つの音の中でも音量と音色を変化させられる弦楽器の場合と、それが出来ないピアノの場合では少し違います。どんな楽器でも共通するのは、一つ一つの音の「個性」を意識することです。言い換えれば全く同じ個性の音が二つ並んで存在することは確率的にゼロに等しいという事です。

 視覚障碍者の私にとって「コントラスト」の弱いものは見つけにくいものです。また、遠くにある者は輪郭がはっきりしません。音楽に例えて考えると、一つ一つの音の「輪郭」と前後の音との「コントラスト」です。さらに具体的に言えば、同じように「小さく聴こえる音」でも、遠くで鳴っていて小さく聴こえる音のイメージと、耳の近くで鳴っている小さな音は明らかに違うものです。
 広がりについて考えます。これは先述の「遠近」と違い「上下左右の空間」です。例えていうなら狭い部屋で楽器を弾いた時の響きと、残響の長い大きなホールで響きわたる音の違いです。一般的に残響の少ない音を「ドライ」「デッド」と表し、逆に豊かな残響のある音を「ウェット」「ワイド」などと表します。
 演奏する場所の問題だけではなく、演奏に余韻や適度な「間=ま」のある演奏で広がりを感じられます。押し付けた音色や揺らぎのない演奏を聴いていると、窮屈なイメージ・閉鎖的なイメージを感じます。

 オーケストラのように多くの種類の音色が同時になる音楽と、ピアノとヴァイオリンだけで演奏する場合では特に「立体感」が異なります。音の大きさにしても、50人以上が演奏するオーケストラの「音量差」はピアノ・ヴァイオリンとは比較になりません。二人だけで演奏する場合の繊細な音量差と、微妙な音色の違い、一音ごとの輪郭の付け方が、音楽の奥行と広がりを決定します。

 手に触れられないもの。例えば空に浮かぶ雲にも色々な形や色、大きさがあります。雲を絵に描こうとすると難しいですよね?コントラストや輪郭、微妙な色の変化などを表現することの難しさがあります。音楽も似ています。
 手で触ることができるリンゴや草花を描く時にも、実際の大きさを見る人に感じてもらうために他のものを一緒に書き入れることもあります。
 写真で背景や周りのものを意図的に「ぼかす」ことで、奥行や広がりを表現できます。音楽でも際立たせて、近くに感じさせる音と、背景のように感じる音の違いを作ることが重要です。

 難しそうな技術に感じますが、私たちが会話をするとき無意識におこなっていることでもあります。伝えたい言葉を強く、はっきり話すはずです。小声で話をするときには、普段よりゆっくり、はっきりと話すはずです。遠くにいる人に大声で何かを伝える時なら、一言一言をはっきり叫ぶはずです。
 楽器の演奏を誰かに語り掛ける「言葉」だと思えば、きっと誰にでもできることです。文字をただ音にしても意味が通じないこともありますよね?
 あげたてのてんぷら
 きょうふのみそしる
アクセントや間のとり方で意味が変わります。音楽で特定の意味を伝えることはできますぇんが、弾き方を変えることで聴く人の印象が変わることは言葉と同じです。大切に語り掛けるように、楽譜を音にすることを心が得たいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

ちゃんとコンチェルトを弾いていたから今がある!

 今回は何とも「いかがわしい」タイトルのブログです。
動画は私が大学4年生当時に、恩師久保田良作先生門下生の発表会で演奏したときの録音です。銀座のヤマハホール、ピアノは当時アンサンブルを一緒に学んでいたピアニスト林(現在は同銀)絵里さん。私の大学卒業試験直前の発表会で、試験で演奏する時間までの部分しか練習していないという(笑)
 今聞いてみて感じること。「さらえばそれなりに弾けるんじゃん」という笑える感想です。当たり前ですが、桐朋学園大学音楽学部卒業試験でチャラけて演奏するする奴はいませんよね。この発表会では何か所か「大傷」がありますが恐らく卒業試験の時には、これよりもまともに演奏した…はずです。
 荒っぽい弾き方が耳障りな部分もたくさんありますが、今の自分の課題と同じ課題が多いことに驚きます。ん?つまり、成長がとまっている?(笑)

 高校大学時代に学んだ「クラシック音楽の演奏」が今の自分にとって、なくてはならないものだったことを感じます。
 クラシック音楽は長い伝統に支えられ、今もそれは継承されています。
さらに言えば。多くのポピュラー音楽はクラシック音楽の基礎の上に成り立っています。「俺にはクラシック音楽なんて必要ない!」と思い込んでいる人は、悲しい勘違いをしています。演歌もロックもジャズも、バッハの時代に作られた音楽を土台にして作られているのです。もし、あの時代の音楽=楽譜が、一枚も残っていなかったら、ポピュラー音楽は今、当たり前に聴いている音楽とは全く違う種類の音楽だったはずなのです。
 ドボルザークヴァイオリン協奏曲を、ひたむきに練習していた20代の自分がいたから、色々な音楽を演奏するための「土台」ができました。
 もしも、これからこの曲を練習したとしたら?
きっと、22歳の自分とは違うドボルザークヴァイオリン協奏曲が演奏できると思います。それが「成長」なのかもしれません。でも…この時のような筋力と体力が今、あるか?は、はなはだ疑問です(笑)
 どんな音楽にしても、真剣に向き合って練習することが、必ずその後の自分にとって「骨格」になるのだと思います。
 無駄な勉強や、無駄な練習はない。無理だと口にする前に、やってみること。
生きている限り「欲」があります。実現するための時間こそが、生きている証=あかしだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

丸い音楽を目指して

 映像はデュオリサイタル15で演奏したヴァイオリンとピアノによる「ふるさと」小曽根真さんが演奏した折られたピアノパートを浩子さんが「耳コピ」したものです。前回のリサイタルではヴィオラで演奏したのですが、多くの生徒さんにも演奏してもらえるようにヴァイオリンで演奏してみました。

 「丸い音楽」の意味は?
旋律は音の高さと音の長さの組み合わせで作られます。
その旋律を平坦に演奏すると聴いていて違和感を感じます。
かと言って「角張った音の連続になれば音楽全体が凸凹に感じます。
 音の角を丸くする…イメージですが、ただ単に音の発音をぼかすだけでは丸く感じません。音の高さの変化と、音量の変化を「真似らかに」することがたいせつです。さらにヴィブラートを滑らかにすることで、丸さが際立ちます。
 音楽によっては「角」があった方が良いと感じるものもあります。
どうすれば?音楽の角を丸くできるのか?考えながら演奏すると、自然に音も柔らかくなります。ぜひ試してみてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

Earthをヴィオラで演奏すると

 映像はデュオリサイタル15もみじホール城山で演奏した、村松崇継氏の作曲された「Earth」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 原曲はフルートとピアノのために書かれているものです。
さらにその曲を作曲者のライブでチェリスト宮田大氏が素敵な演奏をしている動画を見て、どうしても二人で演奏してみたくなり、ヴィオラで演奏できるように、自分たちでアレンジしたものです。
 演奏は未熟ですが、この曲の持つ「守るべき地球」「人間の強さと優しさ」を感じながら演奏しました。村松崇継さんの楽曲は、いのちの歌、彼方の光も演奏させて頂いています。本当に素敵な曲を作られる邦人作曲家だと尊敬しています。
 本来フルートで演奏するために書かれた曲を、ヴィオラやチェロで演奏することを「邪道」と言う人もいます。ただ、演奏する人が「素敵な曲だから弾きたい」と思う気持ちに嘘はないと思います。それを聴く人の感性もまた、楽器にとらわれるものではありません。
 これからもたくさんの曲と出会えるのを楽しみにしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

線対象の音楽

 アルヴォ・ペルトが作曲した「シュピーゲル イン シュピーゲル」日本語に訳せば「鏡の中の鏡」というタイトルの曲です。映像は、ヴィオラとピアノで演奏したものです。
 この曲は「ラ=A」の音を中心にして「上下対象」に音楽が作られています。
「ソ↑ラ」に続き「シ↓ラ」
「ファ↑ソ↑ラ」「ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↑ラ」「シ↑ド↑レ↓ラ」
と段々にラの音からの「距離」が上下に広がります。
「レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↑ラ」「シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↓ラ」
「シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ↑ラ」「シ↑ドレ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ↓ラ」
「ソ↑ラ↑シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「シ↓ラ↓ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
ただそれだけ(笑)しかもすべての音符が付点2分音符(3拍伸ばす音)かその2倍の長さの音符。子供でも初心者でも弾けそうな感じですよね。
 実際に演奏する場合、楽譜を見ながらなら恐らく問題なく?演奏できると思います。
 私は視力が悪く楽譜を見ながら演奏できなくなって「暗譜」ですべての曲を演奏しています。当然、この曲も。演奏しながら、自分が今、どこを弾いているのか?迷子になってしまいます。
 色々な「覚え方」を組み合わせて記憶しています。さらに長く伸ばす「ラ」をダウンで演奏したいので、弓順も併せて記憶します。
 こんな面白い音楽を考え付いたアルヴォ・ペルトさんてすごいです!
ちなみに、向かい合わせた二つの鏡に映った鏡の中には、また鏡が映り、その中にさらに鏡が…
そんな光景を想像すると不思議な世界を感じます。永遠に続く「鏡」の画像…
ただし、演奏しながらや、譜めくりしながらそれを考えると、まず間違いなく「おちます」のでご注意を!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

15年目の挑戦

 2022年12月18日(日)相模原市緑区のもみじホール城山で、私と妻浩子のデュオリサイタル15を無事に開催することができました。
 ここ数週間、自分が慣れ親しんだ構え方を見直し、大きな(自分としては)改革をしました。結果がどうであれ、自分にとって正しいと思ってきたものに手を入れることには勇気が必要でした。リスクも考えました。「いまさら」と言う気持ちが心を支配しそうになりながら、「いまだから」と言う気持ちで取り組んでみました。
 リサイタル当日までに、自分の筋力の疲れをコントロールしながら、出来るところまで…と言うのが正解ですが、やれることをやった気持ちでいます。
 当然のことですが、楽器の構え方=持ち方=姿勢を変えることは、自分の音の聴こえ方もピアノの聴こえ方も大きく変わります。これが「良い選択」だったのか?は誰にも判断できません。むしろ、自分自身で冷静に観察し続けるしかありません。少なくとも、今まで使って来なかった筋肉がパンパンに(笑)張っていることを考えると、自分の考えていた演奏方法に近かったことは事実です。

 プログラム中の7曲目に演奏したゴダール作曲「ジョスランの子守歌」
ホールの空調(暖房)が弱く、この1曲前が終わったときに、温度を上げてもらうようにお願いした直後の演奏で、まだ左手指が攣りかけています(笑)
 練習で思ったようにはひけていませんが、「目指していたこと」には少し近づいた気がします。特に演奏しながら自分を観察する「引き出し」を増やせたことは、演奏しながら感じていました。おあまりに多すぎて(笑)すべては書けませんが、右手の親指、小指の位置、重心、左手の親指、手首の力、左ひじの位置、楽器と首の接触部、鎖骨下筋と肩当ての接触、背中の筋肉の使い方、膝の関節などなど…。最終的に「音楽」については、自分の記憶にあるボウイング、フィンガリング、テンポ、音色、音量を「その場」で考えながら演奏しました。
 まだ、完全に自分の身体に音楽が入っていない曲でもあり、不安な要素は多々あります。傷もたくさんあります。それでも「やりたかったこと」の一部は達成していました。

 こちらは、ヴィオラで演奏したメンデルスゾーン作曲の無言歌。以前、ヴァイオリンで演奏したことのある曲ですが、ヴィオラで挑戦しました。構え方を変えれば、ヴィオラの音色も以前とは変わります。これも依然と比べ、どちらが良い?とは今の段階で判断できません。陳昌鉉さんの楽器特有の「甘さ・柔らかさ」はそのままに活かしつつ、強さと明るさ、音色のヴァリエーションを増やすことを意識しています。まだまだ練習が足りないのは否めません。

 こちらはアンコールで演奏したシューベルト作曲のセレナーデ。ヴァイオリンで演奏してみました。いつもの私なら迷わず「ヴィオラ!」な曲ですが、今回敢えてヴァイオリンで低音の響きにこだわりました。大好きな曲なのに、実は今回二人が初めて演奏した曲です。歌曲ならではの「フレーズ」を壊さずに演奏することの難しさを感じます。

 来年1月7日(土)代々木上原ムジカーザでのリサイタルでは、同じプログラムをサロンの豊かな響きとベーゼンドルファーの太く柔らかい音色で演奏します。
 それまでに私たちが出来ることを「できる範囲で」やってみます。
お聴きになる方にとって、演奏者の「努力」は関係のないことです。
演奏者のどんな言い訳も通用しません。ただひたすらに「楽しめる演奏」を目指したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

デュオリサイタルに思う

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 写真は「昔々あるところに…」(笑)古い写真でごめんなさい。
今回のリサイタルで15年目。その年月の長さを考える時に、自分たちの生きてきた「年月」との比較して約4分の一という「割合」になることに、ちょっとびっくりします。私がヴァイオリンを習い始めてから約55年。浩子さんは…ご想像にお任せします(笑)。とは言え、二人ともそのすべての年月、楽器に向き合えたわけではありません。確かに幼いころから楽器を習っていた…ことは間違いありませんが、だからと言って音楽だけに向き合えたとも言えません。ほとんどすべての「音楽家」がそうだと思います。

 二人でリサイタルを…と思い立ってから今日までも、様々な経験を重ねてきました。もちろん、それ以前の「音楽」への向き合い方もそれぞれに違いました。
 その時が私にとって、何度目かの「スタート」になることを、当時はぼんやりとしか考えていませんでした。ヴァイオリンから否応なく離れていた長い年月から「リサイタル」と言う演奏活動に復帰するまでに、実に28年年の年月が経っていました。20歳の時に初めてのリサイタルを、上野学園エオリアンホールで開かせてもらいました。

  デュオリサイタルをスタートして、二人で新しい人生のスタートも切りました。多くの友人や生徒さん、先輩や家族に支えられて生きることになりました

  演奏活動を続けることは、生徒さんたちに私たちが師匠や友人たちから感じとってきた「音楽」を伝えるためにも、必要不可欠なことになりました。
 演奏活動を生活の中心にされる友人も多い中で、年に1度のデュオリサイタルが「少ない」と思われるかもしれません。ただ、私たちにとって「身の丈」にあった回数で演奏活動を継続することが、永く音楽とかかわる人生を送るためにも大切なことだと思っています。
 来週のリサイタルに向けて、最後の調整です。無理のきかない年齢になりました。自分たちのできる範囲の努力と準備をして、お客様をお迎えしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌を弾く

 映像は友人の作曲家、Ikuya Machida君がアレンジしてくれた「ビリーヴ」を陳昌鉉さんのヴィオラを使って、浩子さんと自宅で撮影したものです。
 ヴァイオリンなど楽器を使って「歌」を演奏する場合、特にクラシック歌曲ではなくポップス系の音楽を演奏すると「安っぽく」聴こえてしまうことがあります。演奏技術の不足と、アレンジの稚拙さが原因の場合がほとんどです。
旋律は美しいのに、ピアノのアレンジが…いま百(笑)と言う楽譜がほとんど。
かと思えば、ヴァイオリンが旋律を演奏していたと思ったら、ピアノが旋律を演奏し始めて、ヴァイオリンは「ひゃらひゃらら~♪ぴろりろり♪」もしかしたら?オブリガードのつもり?なのか意味不明な「別物」をひかされると言う「あるある」なアレンジ。ヴァイオリンにメロディー弾かせてくれ!(笑)
 綺麗に弾けば、綺麗な曲がたくさんあります。
もっと「現代ポップス」に光を当てましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリス 野村謙介

撮影編集技術者兼コメンテーター兼演奏者=私の職業は?

 映像は、陳昌鉉さんのヴィオラで演奏した「イムジン河」
木曽福島の小学校「福島小学校」4年生の社会・人権教育の授業で、陳昌鉉さんのお話を取り上げている事を、小学校の先生から伺い協力できることがあれば!と名乗り出ました。子供dたちから、陳昌鉉さんにまつわる質問を頂き、それにお答えする動画を自宅で撮影しました。おまけ…に、陳昌鉉さんの作られたヴィオラで韓国の歌「イムジン河」を浩子さんのピアノと演奏しておきました。もう一曲「ビリーブ」も衆力。撮影のための2台のカメラ、3本のマイクなどの設営>そして、質問への答えを「アドリブ」でしゃべり、ヴィオラの演奏。その後、データを編集して、データで小学校の先生に送信。
 なにをやってるんでしょう?私(笑)
60過ぎたお爺さんが、しかも視覚障碍のある私っていったい何屋さんなのでしょうか。いや、なんでもいいのです。結局、音楽を楽しんでくれる人のために、出来ることなら何でもやるわけです。ただし。お金にはならない…と言う(笑)
 撮影も編集も業者に出して、お金を払えばやってくれます。日数もかかります。自分でやれば…手間だけで済みます。演奏したその日に、データを送れます。そう思ってもいずれ、見えなくなったらできません。今だからできる。
 それも、私の音楽家としての「与えられた使命」なのかも。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

職業不詳 野村謙介

上質の「とろけるプリン」か「しっかり羊羹」か

 上の動画は、オイストラフ。下の映像はムターの演奏です。
どちらも大好きな演奏家なのですが…弓の「使い方」音の「出し方」がまったく違う二人に感じます。
・オイストラフは「口に入れると溶ける、究極のなめらかプリン」のイメージ。
・ムターを例えるなら「きめ細かいずっしり身の詰まった羊羹」のイメージ。
当然、お二人ともに曲によって、音色を使い分けられる技術をおもちです。
むしろ「好み」と言うか「デフォルトの音色」とでもいえる音の出し方が違うように感じます。
 リサイタルで演奏するヴァイオリン・ヴィオラの音色を考えていて、どちらの「食感」が似合うのか?さらに言えば、その音の出し方で、客席にどう?響くのか?結局、どちらのひき方もできるようにして、会場で誰かに聞いてもらって確かめるしかないのですが…。
 特にヴィオラで「羊羹」的な演奏をすると、チェロの音色に似せようと「足掻いている」「無理をしている」ようにも聞こえてしまいます。一方でヴァイオリン特有の「弓の圧力と速度」は、実際に使っている楽器と弓とのお付き合いが長いので、客席への音の広がり方も想像ができます。
 好みが分かれます。「プリン」を「軽すぎる」「弱い」と感じる人もいます。「羊羹」を「息が詰まる」「潰れている」と感じる人もいます。
どちらおも「美味しい」のです。食感が違うのです。甘さの問題ではありません。さぁ困った(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

肩甲骨の位置と鎖骨下筋

 さて、今回のテーマはヴァイオリン演奏時の肩の位置を考えるお話です。
私は中学生の頃から大学を卒業するまで、演奏中の肩の位置を「前方=胸側・下」にすることを心掛けてきました。もう少しわかりやすく言えば、背中にある「肩甲骨」を開いた状態…まだわかりにくい(笑)。「大きなドラム缶を両手で抱えて持つときのイメージ」です!…だめ?
・背中が「たいら」になるイメージ。
・両肘を出来るだけ前に出した時の肩甲骨と肩の位置
如何でしょうか?少しイメージできました?
この肩の位置で演奏することで、両腕が身体から前方に離れ、自由度が増えることを優先した「背中と肩の使い方」です。
この場合、身体の前方…つまり胸側は「狭く」「窮屈な」状態になります。
鎖骨が両方の肩より「後ろ」にあるイメージです。逆から言えば、両肩が鎖骨より前にある感じです。

 鎖骨の下にある筋肉が「鎖骨下筋」と言われる筋肉で、その下には「大胸筋」があります。
 話を背中側に戻しますが、肩甲骨の位置と肩の位置は連動しています。さらに、肩の位置と身体の前の鎖骨下筋も連動しています。つまり「背中と肩と鎖骨」のつながりなのです。

 私は「肩当て」を使いますが、鎖骨の少し下に肩当てを当てています。左肩=鎖骨の終端が、楽器の裏板に直接当たるような肩当ての「向き」にしています。
 この構え方で先述の「肩甲骨・肩・鎖骨下筋」の関係を思い切って変えてみました。
・肩甲骨の間隔をやや狭める。
・両肩をやや後ろ・下方に下げる。
・鎖骨下筋を上方・前方に持ち上げる。
簡単に言うと「胸を張った立ち方」のイメージです。
子の場合、両腕・両肘は今までよりも体に近づきます。それでも、自由度は大きく損なわれないことに改めて気が付きました。
 さらに、首を後方・上方向に持っていくことで、楽器の安定感が大幅に増します。
 背中から首にかけての筋肉がゆるみ、自然な位置に肩がある感覚です。
さらに背中に「有害な緊張」がある時にすぐに気が付きます。
背中の緊張を緩めることで、肩の周りの筋肉の緊張がゆるみます。
肩の緊張が緩めば、上腕・前腕の緊張も緩められます。

 楽器の構え方、肩の位置などはヴァイオリニストそれぞれに違います。なぜなら、筋肉量も違い、肩関節の柔らかさも人によって大きく違うからです。
首の長さ…と言うよりも、鎖骨の微妙な位置や筋肉の付き方、形状も人によって違います。
それらの「個人差」がある中で、自分の身体に合った構え方や、肩の位置を見つけることの重要性は言うまでもありません。
 師匠から習ったことの「本質」を考える年齢になって、改めて自分の身体を観察できるようになった気がします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者と聴衆の「距離感」

 映像は8年前に駅前教室で開いたコンサート。アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したものです。完全に「普段着」で演奏している私と、最前列のお客様との距離は1メートル以内(笑)
 今回テーマにした「距離感」は実際の距離とは少し違う「感覚的な距離」についてです。物理的な距離は、演奏者と聴く人の距離=メートルで表せます。近ければ「良く見える」「演奏する楽器の音をダイレクトに聴くことができる」し、離れれば「全体が見える=演奏する人は良く見えない」「会場に響く音の広がりを楽しめる」と言う違いがあります。行きなれたコンサート会場だと、どの場所=どの席で聴くのが一番好きか?までわかっていることもあります。
 演奏者から考えると、お客様との物理的な距離は、真正面で最前列の人を対象に考えるのか?最後列で左右のどちらかによっている人の聴こえ方を優先するのか?あるいは、ホール中央を基準にして考えるのか?演奏差によって考え方は様々です。可能な限り、どの場所で聴いても「心地よく聴こえる」方法で演奏するのが「おもてなし」の心です。真正面で最前列の人が「気になって気が散る」と言う演奏者もいれば、まったく気にしない(私(笑))人もいます。これも人それぞれです。

 本題の「距離感」は、演奏者と聴衆の「親しみ」や「人間同士の関係」で変わってきます。一般的に聴衆が演奏者のことを良く知っている(例えば昔の友人)場合と、まったく知らない場合に大別されます。前者の場合には、聴く側も演奏する側もお互いに親しみを持っています。演奏する人の話し方や、普段の姿を知っている聴衆の「親しみ」は、演奏に「プラス」される部分があります。
一方、まったく知らない演奏者の演奏を聴く場合、特に初めてその演奏者のコンサートを聴く時には「興味」の対象は演奏そのものが最大で、次に演奏する姿や表情、さらには演奏者の「話す声」にも初めて接することになります。
 音楽だけ=演奏だけを純粋に楽しみたい…そのほかの要素は「いらない」と言う人は、演奏者を「人」として感じていないように思います。
少なくとも私は、初めて誰かの演奏を見たり聞いたりするときに、その「人」に興味が行きます。演奏する表情や市政、動き、衣装にも好奇心が動きます。
 さらに、演奏者の「言葉=話す姿」に一番の関心があります。日本語で話してくれる演奏者の場合、その内容と話し方で演奏者の「人としての魅力」を感じる場合と感じない場合があります。私だけなのかも知れませんが、演奏者を「人」として近くに感じる人の演奏に共感します。話す内容が「自慢話」「うちわネタ」「ありきたりのテンプレートご挨拶」の場合、正直「だめだこりゃ」と思います。演奏者が舞台でマイクを持って話をすることに対して「不要だ」「邪道だ」と言うご意見も耳にします。その方の「好み」です。演奏者は演奏だけすればよい。と言う考え方ですが、私は演奏しているのが「人」だから音楽を聴きたいのです。ましてやコンサートでCDと同じ演奏をするだけなら、CDの方が気楽に楽しめます。ポップスのコンサート=ライブに行く「ファン」が期待するのは?CDでは感じられない「生身のアーディスト」を感じることだと思います。
むしろそれが「ライブ」だと思うのです。クラシックは?同じだと思います。
 話下手でも構わないのです。照れ屋でうまく話せないのも、聴く人にとって「なるほど!そういう人なんだ!」と受け入れられるものだと思います。演奏中に下手な役者のような表情を「作る」よりも、1分間でも話をすれば、その演奏者の「素顔」が伝わると思います。
 知らなかった人同士が、コンサートで「知り合い」になれるのです。
演奏者と聴衆が気持ちを交わすことができれば、きっとまた演奏会に行ってみたくなるはずなのです。聴く側も、演奏する側も「人とのふれ合い」をもっと大切にすることが、クラシック音楽の発展につながると考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏方法の「原点」に立ち戻る

 写真は恩師久保田良作先生が、箱根で行われた門下生の夏合宿で合奏を指揮されているお姿です。日本を代表する素晴らしいヴァイオリニストとして、演奏活動も続けられながら、多くの弟子たちに熱く、そして優しく「音楽」を伝えられた指導者でもありました。桐朋学園大学の弦楽器主任教授としても、多忙な日々を送られていました。レッスンを離れると、人を気遣い優しい言葉で語り掛けてくださる「憧れの人」でした。

 「久保田門下」で最も不出来の弟子だった私が、今「デュオリサイタル」を開き大学を卒業して40年近く経っても、音楽に関わっています。
演奏技術を身に着けることは、その人の生涯をかけた行為です。「すべて身に着けた」と思える日は来ないものでしょう。それでも、あきらめずに練習することが演奏家の日常だと信じています。
 練習をする中で、新しい「課題」を見つけることも演奏家にとって日常の事です。その課題に向き合いながら考えることは?
 「原点に帰る」事だと思っています。
何を持って原点と言うのか?自分が習ったヴァイオリンの演奏技術を、思い起こせる限り思い出して、師匠に言われたことを「時系列」で並べてみることです。
 その意味で、私は幸運なことに久保田良作先生に弟子入りしたのが「中学1年生」と言う年齢ですので、当時の記憶が駆るかに(笑)残っています。
 「立ち方」「左手の形」「弓の持ち方」「右腕の使い方」
教えて頂いたすべての事を記憶していない…それが「不出来な弟子」たる所以です。それでも、レッスンで注意され発表会で指摘される「課題」を素直にひたすら練習していました。「できない」と思った記憶がないのは、出来たからではなく、いつも(本当にいつも)言われることができなかったからです。要するに、出来ていないことを指摘されているので「出来るようになった」と思う前に、次の「出来ていないこと」を指摘される繰り返しだったのです。それがどれほど、素晴らしいレッスンだったのか…今更ながら久保田先生の偉大さに敬服しています。
 教えて頂いた演奏技術の中に、私が未熟だった(今もですが…)ために、本質を理解できずに、間違った「技術」として思い込んでいたもの=恐らく先生の糸とは違う事も、何点かあります。それをこの年になって「本当は?」と言う推測を交えて考え真押すこともあります。

 自分が習ったことのすべてが「原点」です。師匠に教えて頂いたことを「できるようになっていない」自分を考えれば、新しい解決策が見えてきます。
 自分にとってどんな「課題」も、習ったことを思い出して「復習」すれば必ず解決できる…できるようにはならなくても、「改善する」ことはタイ?かです。
信頼する師匠から受けた「御恩」に感謝することは、いつになっても自分の演奏技術、音楽を進化させてくれるものだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の「揺らぎ」とは?

 映像は木曽福島でのコンサートで演奏した瑠璃色の地球。ヴィオラとピアノで演奏しました。
 クラシック音楽とポピュラー音楽の「違い」は様々あります。例外も含めて考えれば厳密に「違い」を言葉にすることは不可能かもしれません。
 クラシック音楽を学ぶ時、テンポを「維持する」事と「揺らす=変える」事を多く学びます。一定の速さで音楽を演奏する技術と、その真逆に意図的に速さを変える技術はクラシック音楽のほとんど全てで用いられる技術です。一人だけで演奏している時にも、アンサンブルやオーケストラで誰かと一緒に演奏する場合にも必要不可欠な技術です。トレーニングの仕方も様々あります。メトロノームを使った練習や、時計の秒針を使ってトレーニングすることもできます。
 一方、ポピュラー音楽の場合に「一定の速さ」で演奏することは、多くの曲で「当たり前」の事です。その昔、レコーディングスタジオでヴァイオリンを演奏するお仕事をしていた際に、演奏者がモニター(ヘッドフォン)で聴く音を選べました。「ドンカマ」と呼ばれる電子メトロノーム音を選ぶこともできました。また、ヴァイオリンより先に録音されたドラムの音やベースの音を選択することもできました。要するに「指揮者不要」だったわけです。この方法で色々な楽器を順番に録音していく方法を「重ね録り」「マルチトラック」などと呼びます。一度に「せ~の!」で録音する方法しかなかった時代には、当然考え付かなかった録音方式です。この方法なら、それぞれの楽器を別々に録音するので「録り直し」の回数が格段に減る上に、あとからヴァイオリンパートだけをやり直すことも、音量のバランスを変えることも自由自在になります。すべての楽器の録音が終わって出来上がったもの=メインボーカルが入っていないものが「カラオケ」と呼ばれるものです。現在のカラオケと言う言葉は、この録音方式で生まれた言葉なのです。
 言うまでもなく、この方式で録音サウル場合、途中でテンポが「揺れる」のは編集する人にとっても、演奏する私たちにとっても「煩わしいことでしかありませんでした。現代は録音がすべて「データ」つまり電気信号としてコンピューターに記録される方式です。昔は「テープ」を使って録音するのが当たり前でした。一秒間に38センチの速度で録音ヘッドを通過する「テープ速度」で録音していました。巨大な10インチのリールに巻き付いたテープでも、約45分しか録音出来ません。録音するのも大変は事だったのです。
 その限られた条件での録音を効率化するためにも、テンポの揺れは「御法度」だったのポピュラー音楽です。

 クラシック音楽の場合、テンポの揺らぎ=揺れは演奏家の「こだわり」で生まれます。テンポを変えずに演奏する時にも「意図」があります。
なんとなく、テンポが変わってしまう…駈け出したように速くなったり、いつの間にか遅くなったり…無意識に変化することは「ダメ」とされています。だからと言って、先述のポピュラー音楽のようにテンポをキープさえしていればよいか?と言うと、それも「ダメ」なのです。難しいですね~(笑)
 音楽の揺らぎは、楽譜に書き表される「リタルダンド」や「アッチェレランド」とは根本的に違います。作曲家が指示している速度の変化は、作曲家の感じた「揺らぎ」だと考えています。もちろん、それはとても重要なことですが、どのくらい?「だんだん遅く」「だんだん速く」するのかは、演奏者の「感じ方」で決まります。さらに、楽譜に作曲家が書かなかった「揺らぎ」を演奏者が感じ、表現することは演奏者に許された表現の自由(笑)だと思います。
 指導者によっては「そこで遅くしてはいけない!」とか「もっと速くしなきゃ!」と生徒に自分の感じ方を押し付ける人がいます。正しく伝えるのなら「…私なら」という接頭語を付けるか「例えば」として違う選択肢の速さを生徒に示して、好きなように演奏させるのが正しい指導だと思います。合奏ではそうもいきませんが(笑)みんなが好き勝手なアッチェレランドをしたら、収拾がつかなくなります。二人だけのアンサンブルでも、それぞれに違った「揺らし方」の好みがあります。どちらが正しい…という答えは存在しません。歩み寄るしかありません。
揺らすことが常に心地よい…のではありません。それも大切なことです。
揺れると気持ち悪く感じる場合もあります。逆に、常に同じテンポで揺れずに演奏していると「不自然」に感じることもあります。多くの生徒さんは「揺らす」ことを怖がります。むしろ揺れていることに気付かない場合が多いのですが(笑)意図的に、ある「拍」だけを少しだけ長くすれば、次の拍が始まる時間は後ろにずれる=遅れます。この一拍の「揺らぎ」も立派な揺れなのです。
聴いている人が「自然に感じ」「揺れに気付かない」ことが最も自然は揺らぎだと思います。心地よい揺らぎは、例えれば不規則に吹く「そよ風」の中で感じる感覚です。あるいは、静かな湖面にぷかぷかと浮かんでいる時に感じる「静かなさざ波」にも感じられます。決して「暴風」や「大波」ではないのです(笑)
 怖がらずに実験することです。注意するのは「癖になる」ことです。例えば、小節の1拍目を「いつも遅く入る」癖は無意識にやってしまいます。また、音型に気を取られすぎる場合も「癖」が出ます。上行系クレッシェンドで「いつも遅くなる」のも癖。3連符なのに「1.5:1.5:1」でいつも演奏するのも癖です。
 何度も試してからひとつを選ぶこと。正解はありません。自分の「個性」を違和感なく表現するために、必要な努力だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

デュオリサイタル15迫る

 動画はデュオリサイタル15のご案内動画です。
2022年12月18日(日)午後2時開演 相模原市緑区もみじホール
2023年1月7日(土)午後5時開演 代々木上原ムジカーザで
同じプログラムをホールとサロン、ベヒシュタインのピアノとベーゼンドルファーのピアノで聴き比べが出来ます。
予定している演奏曲
・懐かしい土地の思い出より「メロディー」(チャイコフスキー)
・ノクターン(チャイコフスキー)
・ただ憧れを知る者だけが(チャイコフスキー)
・シュピーゲル・イン・シュピーゲル(アルヴォ・ペルト)
・祈り(ラフマニノフ)
・彼方の光(村松崇継)
・ジョスランの子守歌(ゴダール)
・無言歌(メンデルスゾーン/クライスラー)
・明日(アンドレ・ギャニオン)
・Earth(村松崇継) 他
どの曲も私たちにとって、愛すべき曲たちです。
多くの演奏家と比べて、私たちはすぐに音楽に出来るような技術を持ち合わせていないことを自分でも、互いにも認めています。だからこそ、昨年のデュオリサイタルから1年間と言う時間をかけて、これらの曲に取り組んできました。
 それでも自分たちで完全に満足できる演奏にまで、到達できるかどうか自信はありません。出来ることを出来る限りしています。その努力も他のかたから見れば足りないものかも知れません。自分を甘やかす気持ちではなく「受け入れる」ことも大切なことだと思っています。
 生徒さんに「妥協」と言う言葉の意味をレッスンでお伝えしています。悪い意味で考えれば自分を追い詰めてしまいます。諦めることとも違います。今の自分の力を認め、足りないことを知った上で演奏をする以外に、方法はないと思っています。「完全に満足できるようなってから」と言う考え方こそが、諦めであり現実からの逃避だと思います。そもそも完全な演奏は人間にはできないと思っています。不完全で当たり前だと考えています。
 リサイタルで一人でも多くのかたに、自分たちの音楽を楽しんでもらいたいと願いながら、現実に来場されるかたの人数は、著名な演奏家の方々が開くコンサートとは比較になりません。当然だとも思います。広告にかけるお金もなく、知っている方の数も限られています。「お友達」「先輩」「先生」「生徒」以外の一般のお客様は、有名な演奏家のコンサートや、クラシックファンの喜ぶプログラムのコンサートに足を運ばれるのは当然のことです。来ていただいた方たちに「これだけしかお客さん、いないの?」と思われてしまうことが申し訳ない気持ちです。それが現実なのでお許しください。
 こんな私たちですが、ぜひ生の演奏をお聴きいただき、ご感想を頂ければと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
ピアニスト 野村浩子

ガット弦で演奏する意味

 映像は前回のデュオリサイタル14、代々木上原ムジカーザでの「ラベンダーの咲く庭で」です。この演奏でも、今回のリサイタル15でも私のヴァイオリンに使用する「弦」はいわゆる「ガット弦」です。現在世界で唯一ガット弦を作っている、ピラストロ社の「オリーブ」その「ストレート弦」を使用しています。現在、多くのヴァイオリニストがナイロン弦を使用して演奏しています。「好み」の問題ですから、どちらが正しいと言う答えはありません。私がガットの弦を使用する「意味」について、ナイロン弦との違いを書いてみます。

 私の感じる最も大きな違いは「音色の豊富さ」です。ヴァイオリンの音色は、楽器そのものの個性と、演奏者の技術と好みによって大きく違います。弦の種類によっても音色が大きく変わります。同じメーカーの弦でも、ブランド=商品によって音色が違います。実際に、多くのナイロン弦を自分のヴァイオリンに張って試してきました。実際にリサイタルで使用してみたことも過去にあります。
 メーカーのホームページを見ると、弦の種類ごとに特徴が掛かれています。当たり前のこととして「良いこと」しか書かれていませんが(笑)その特徴が「間違っている」とか「信用するな」とは申しません。ただ現実には音色の「判断」や「評価」は聴く人の個人差があります。さらに演奏する楽器の個体差、演奏するヴァイオリニストの技術・好みによって、同じ弦でも音色が変わるのは当然のことです。すべての楽器の音色が違い、演奏者によって違う音色なのに、弦による「特徴」「評価」がひとつになることは、物理的にあり得ません。あくまでも、メーカーの評価やブログ、楽器店が書いているのは「ある楽器を誰かが演奏したとき」のものです。同じ楽器に違う弦を張って、同じ演奏者が演奏したとしても、その特徴が他の楽器、他の演奏者でも現れるかと言えば?答えは「みんな違う」のです。自分の楽器に張って、自分で演奏比較したときの「感じ方」で好みを判断するのが一番です。むしろ、それが唯一の選択方法・比較方法です。自分の耳で判断することができなければ、どんな弦を使用しても結果は「??」で終わります。

 ガット弦の音色は、弓の圧力、弓の速度、演奏する駒からの距離、左手の押さえ方、弦の長さ=ポジションの位置によって、本当に大きく変わります。ナイロン弦と比較した場合に、その「差の大きさ」が全く違います。
 つまり、演奏中に出せる音色の種類が多いのがガット弦の特徴だと言えます。
言い換えると、演奏の仕方が微妙に変わるだけで、大きく音色が「変わってしまう」とも言えます。指使い、弓の速さによって音色が変わることを「迷惑」と考えるのであれば、ガット弦は使わないことです。微妙なコントロールが必要になります。そのコントロールを「技術」と捉えるか、「無駄な労力」と捉えるかによって、ガット弦の価値観が変わります。
 ガット弦の音色の変化量が少なくなった時が、弦の寿命です。使い方と管理の方法、季節によって差がありますが私の場合、約3~4カ月はガット弦で演奏し続けても不満はありません。「ん?音色が変わらなくなったぞ?」と思うのが3~4カ月経ったころなのです。

 ガット弦を「嫌う」人が良く仰ることをいくつか挙げてみます。
・弦の伸びが安定するまでに時間がかかる=調弦が面倒くさい
・切れやすい←これは明らかに間違いです。
・音量がナイロン弦より小さい
・価格が高い
・種類=選択しが少ない
比較するナイロン弦やスチール弦にもよりますが、結局「コストパフォーマンス」と「価値観」の問題です。
ナイロン弦にしかない「良い特徴」は?私には見当たりません。
スチール弦には「安い」「音が大きい」という特徴が明確にあります。
ガット弦のデメリットと言われている上記のようなことは「間違っている」ものがほとんどです。なぜ?事実と違う情報が実しやかに言われているのでしょうか?おそらく「ガット弦を使ったことのないアマチュアの思い込み」が最大の原因です。さらに考えられ原因は、ガット弦を製作販売しているメーカーが一社しかないのに比べ、多くのメーカーがナイロン弦を作っているという「絶対数」の違いです。
 私は学生時代からガット弦を使用してきました。「ごく当たり前に」ガット弦で演奏して、ナイロン弦を試した感想としてガット弦の良さを再認識した一人です。これからも、ガット弦を愛用していきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

客席で聴こえるヴィオラとピアノ

 映像は11月23日(祝日・水曜)に木曽町文化交流センターで開催されたコンサートよりヴィオラとピアノで演奏した村松崇継さん作曲の「Earth」
撮影してくださったの福島小学校の教職員。客席の片隅からビデオカメラで圧営してくださったものです。カメラに付いたマイクで録音されているので、客席に聴こえているバランスに近いものです。

 この曲について以前のブログでも書きましたが、村松崇継さんがフルートとピアノのために作曲され、ご自身のライブコンサートでチェリスト宮田大さんと共演されている動画に触発されて(笑)ヴィオラで演奏できるようオリジナルでアレンジして者です。宮田さんはご自身のコンサートツァーで演奏されているようです。ピアノの「楽譜」がとても音符の多い(笑)、かなり派手目な曲なので、弦楽器でメロディーを演奏すると、二つの楽器のバランスが心配でした。
 この動画をご提供いただき、改めて聴いてみると「思ったよりヴィオラが聴こえてる!」ことにやや驚きました。頑張らなくても大丈夫なのかも!って今更思う(笑)リサイタルでも演奏する予定なので、とっても有意義な動画になりました。
 うーん。それいにしても、私だけを撮影すれたのは辛い…。カメラのアングル的にピアニストが映りこまなかったようですが、鑑賞には堪えません。見ないで聴いてください(笑)

 こちらも同じコンサートアンドレ=ギャニオンの「明日」をヴィオラとピアノで演奏したものです。以前、ヴァイオリンで演奏したものですが、ヴィオラの太さ、暖かさ、柔らかさも好きです。間奏で私は何をしたものやら(笑)
 今回、リハーサル時にホールの響きを確認してくれる人がいなかったため、とても不安でした。残響が短い多目的ホールだったこともあり、客席に届く音がどうなのか…録音されたものを聴くことで初めてわかるというのも辛いものです。
 来年は「木曽おもちゃ美術館」の残響豊かなホールで演奏予定で、今から楽しみにしています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

●●記念オーケストラに物申す

 映像は1992年松本のキッセイ文化ホールでの「サイトウキネンオーケストラ」の演奏。このホールが出来たばかりのこの年、私の母校でもある桐朋学園創始者の斎藤 秀雄氏を偲んで開催された演奏会。1974年に逝去された斎藤 秀雄氏を私は直接存じ上げません。指導を受けたこともありません。ちなみに私は桐朋学園の第25期生です。小澤征爾氏が第1期生なので私の25歳「大先輩」でもあります。この演奏会が行われた30年前、私は32歳。小澤征爾氏は57歳。
高校大学生の頃に「小澤先生」として学生オーケストラの指導をされていた当時の事を今でも鮮明に覚えています。高校入学当時15歳の私、小澤先生は39歳。思えばまだ若い先生でした。出来の悪い学生だった私にとって、小澤先生の活躍は憧れでもあり雲の上の存在でもありました。尊敬する気持ちは今も変わりません。
 ただ、今現在もこの「サイトウキネン」が演奏を行っていることに、大きな違和感を持っています。私はサイトウキネンに「呼ばれる」ような技術ではないので「部外者」です。それを「ひがみ」と思われても私は構いません。桐朋学園の一人の卒業生として、また今も多くのアマチュア演奏家と共に音楽を愛好する人間として、私立学校の創始者をオーケストラの冠に付けて、演奏していることが果たして純粋な「恩師への感謝」と言えるのか疑問に感じます。
 桐朋の高校(桐朋女子高等学校音楽科)に入学する以前に、子供のための音楽教室などで斎藤 秀雄氏の指導を受けていた人もいるとは思います。とは言え、その人たちは当時13歳以下の子供だったことになります。つまり、斎藤 秀雄氏に指導を受けた「生徒」たちの最年少が現在(2022年)63歳もしくは64歳のはずです。一期生は現在、86歳もしくは87歳です。この第一回「サイトウキネン」が行われた当時から30年間という年月が経って、諸先輩が演奏されていることは素晴らしいことだと思います。その反面、現在演奏しているメンバーの中には多くの「斎藤 秀雄を知らない人」がいるのも事実です。第一回の演奏会の時から数名はそうした演奏者もいましたが、現在は?そして今後は?
 さらに、誰がこのオーケストラに参加する「お許し」を与えているのかという素朴な疑問です。「上手な人を集めているだけ」と言われればそれまでです。それが何故?「サイトウキネン」なのか意味不明です。一言で言ってしまえば「誰かのお気に入りが集まっているオーケストラ」にしか思えないのです。それでも演奏技術が高ければ良い…それならそれで「サイトウキネン」と言う学校名を連想させる名前を使うのはいかがなものでしょうか?
 桐朋学園同窓会の幹事として、意見を一度だけ発言したことがあります。
「卒業生の中で一部の人だけの活躍を称賛し、応援するのは同窓会として正しいのか?」という意見です。私を含めて、多くの桐朋学園卒業生が「サイトウキネン」や「●●周年記念コンサート」とは無縁の生活をしています。それが「能力が低いから」「努力が足りないから」と同窓会が片づけて良いとは思いません。
 学校は学ぶ生徒・学生と教える教員、支える職員で成り立つ「学びの場」です。そこで学んだ人たち、教えた人たち、働いた人たちすべてが「同じ立場」であるはずです。卒業し有名になった人を「優秀な卒業生」「卒業生の代表」とする発想を斎藤 秀雄氏は望んでいたのでしょうか?少なくとも私の知る斎藤 秀雄先生は「できの良い子は放っておいてもうまくなる。出来の悪い子を上手にすることこそが教育の本質」と考えていた教育者だと思っています。一期生である小澤征爾氏の世界的な活躍を強く望まれた気持ちは理解できます。そして、日本に世界で通用する演奏家を増やしたいと言う熱意も素晴らしいことだと思います。
 私には●●記念オーケストラや●●フェスティバルに「個人」を崇め奉るのは「尊敬」とは意味が違うように感じます。収益事業として利益を、母校の後進の育成に充てるのであれば「桐朋学園卒業生オーケストラ」として学校法人の管理下に置くべきです。メンバーの人選や基準、報酬も明確にすれば個人名を頭に付ける必要もなく、演奏者が入れ替わっても何も問題はないのです。
 まさかこれから先も、同じメンバーで演奏活動を続けるとは思えませんが、いずれ斎藤 秀雄氏に指導を受けた人は誰もいなくなる日が近くやってきます。「サイトウ」が「オザワ」になっても結果は同じです。
 音楽家は生前に、どんなに素晴らしい業績を残したとしても、いずれ世を去るのです。その後に、音楽家の名前を使った「コンクール」が多くあります。特に作曲家の場合には、残された作品を演奏することが大きな意義になります。
他方で演奏家の死後に「●●記念」や「●●管弦楽団」は世界的に考えても、ほとんど受け入れられていません。演奏家の「業績」は生きて演奏している間に評価されるものです。教育者の業績は多くの場合「学校」として継承されるものです。福沢諭吉の慶應義塾もその例です。桐朋学園もその一つです。斎藤 秀雄氏が自分の名前を学校名にしていたのなら、また話は少し違いますが少なくとも「オーケストラ」に個人…それが故人でも、現役の人でも「人を記念する」こと自体が間違っていると私は感じています。
 卒業生の癖に!母校愛がない!とお叱りを受けても、ひがみ根性だ!と言われても私は自分の考えでこれからも生きていきます。そして卒業した母校から、さらに新しい音楽家が生まれることを切に願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまくなるってどんな意味?

 映像はもう8年も前の演奏動画です。ヴィオラで演奏したシンドラーのリスト。自分の演奏を客観的に観察することは、演奏者にとって必要なことです。
自分以外の人の演奏を聴く時と何が違うのでしょうか。

 自分の演奏が何年練習しても「うまくならない」と感じるのは私だけではないと思います。多くの生徒さんが感じていることのようです。
 生徒さんより長く演奏をしている自分が、なぜ?うまくなっていく実感がないのでしょうか。練習不足もあります。練習方法に問題があることも。意欲が足りないことも。「原因」はいくらでも考えられますが、50年以上ヴァイオリンを演奏しても「この程度」と思ってしまうのが現実なのです。うまくなりたい!と思う自分と、あきらめている自分が葛藤しています。生徒さんには「あきらめないこと!」と言いながら自分が上達していないと感じる矛盾。
 そもそも「うまくなる」ってどんな事を表す言葉なのでしょうか。
「できなかったことができるようになる」うまく弾けなかった小節を、練習して演奏できるようになった…と思っても、本番でうまく弾けていないことを感じる時に感じる挫折感。練習が足りない…ことは事実です。でもね…。
 自分の演奏を昔と今と聴き比べて、どこか?なにか?うまくなったのか、考えることがあります。生徒さんの演奏ならいくらでも見つけられるのに、自分の演奏は「ダメ」なことばかり気になります。昔の演奏の「ダメ」もすぐにわかります。つまり「良くなったこと」が見つからないのです。練習している時には「これか?」「うん、きっとこれだ!」と思っているのに、あとで聴いてみると「違う」気がすることの繰り返しです。一体、自分はなにを目的に練習しているのか…うまくならないなら、練習しても意味がない。練習しないなら人前で演奏することを望んではいけない。音楽に向き合う資格がない。負のスパイラルに飲み込まれます。そんな経験、ありませんか?

 自分の演奏に満足できないから、練習をやめることは誰にでもできることです。一番、簡単に現実から逃避する方法です。
 自分がうまくなったと思える日は、最後まで来ないのが当たり前なのかもしれません。うまくない…のは、他人と比較するからなのです。自分自身の容姿に、100パーセント満足する人はいないと思います。性格にしても、健康にしても同じです。他人と比べるから満足できないのです。
 今日一日、過ごすことができた夜に「満足」することがすべてですね。
「欲」は消せません。生きるために必要なことです。本能でもあります。
欲を認めながら、自分の能力を認めることが生きること。それを、もう一度思い返して練習を繰り返していきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノの音量

 映像はデュオリサイタル10代々木上原ムジカーザで演奏した、エンニオ=モリコーネ作曲「ニューシネマパラダイス」です。私がかけているメガネは「網膜色素変性症」という私の持つ病気の症状のひとつ「暗所で見えない」ことを解決するために開発された特殊なメガネです。
 さて、今回のテーマを選んだ理由は?

 練習を含めて、ヴァイオリンとピアノで演奏する時に、それぞれの演奏者に聴こえる「自分の音」「相手の音」のバランスと、客席で聴こえる両者=ヴァイオリンとピアノの音量のバランスの違いについて。以前にも書きましたが、私の場合練習していると自分の音の大きさに不安を感じることが増えた気がしています。聴力の問題ではなく、感覚的な変化です。演奏する曲によって、ピアノもヴァイオリンも音量が変わることは当然です。特に「聴こえやすい音域」さらに「同時になるピアノの音の数」は演奏者が考える以前に、楽譜に書かれていることです。それを音にした時、客席にどう聴こえるか?までを考えて楽譜が書かれているのかどうかは、ケースバイケース。どう演奏してもヴァイオリンの音がピアノの音に「埋没=マスキング」される楽譜の場合もあります。いくら楽譜上にダイナミクス=音の大きさの指示が書いてあったとしても、ピアノが和音を連続して速く弾いた時の「ピアニッシモ」の下限=最小限の音の大きさと、ヴァイオリンが低い音で演奏した「ピアニッシモ」のバランスを取ることは、物理的に不可能です。言ってしまえば「楽譜を書いた人の責任」でもあります。
 演奏すれ側にしてみれば、自分の音と相手の音の「バランス」を常に考えながら演奏することは、思いのほかに大きな負担になります。オーケストラの場合には指揮者がバランスを「聴いて」指示し修正できます。弦楽四重奏の場合、同じ弦楽器での演奏なので、音量のバランスは比較的容易にとれます。
 ピアニストに聴こえる「バランス」とヴァイオリニストに聴こえる「バランス」は当然に違います。経験で自分と相手の音量の「バランス」を考えます。
そもそもピアノとヴァイオリンの「音色」は音の出る仕組みから違いますから、聴く人には「違う種類の音」として聴こえています。ただ同時に聴こえてくるわけで、どちらかの音が大きすぎれば、片方の音は聞き取りにくくなります。
ピアノとヴァイオリンは「音源=弦の長さと筐体の大きさ」が圧倒的に違います。さらにピアノは「和音」を演奏し続けることがほとんどなのに対し、ヴァイオリンは「単音」を長く・短く演奏する楽器です。構造も音色も違う2種類の楽器が「一つの音楽」を演奏することの難しさと同時に「組み合わせの美しさ」が生まれます。それは味覚に似ています。甘さと同時に「しょっぱさ」を加えると、より強く甘みを感じます。コーヒーは苦みと酸味のバランスで味が決まります。ピアノとヴァイオリンの「溶けた音」を楽しんで頂くための「バランス」が問題なのです。

 物理的に音圧の小さいヴァイオリンを担当する(笑)私として、ピアニストの演奏する音の中に溶け込みながら、かつ「消えない」音量と音色を手探りで探します。それはピアニストも同じ事だと思います。お互いが手探りをしながらの「バランス」なのです。ただ、それぞれの楽器が演奏する中での「変化」も必要です。音色の変化、音量の変化。ヴァイオリンは音域が高くなるほど、聴感的に大きく聴こえる楽器です。逆にヴァイオリンの最低音はピアノの音域の中で、ほぼ中央部分の「G」ですから、音域のバランス的にもピアノの和音にマスキングされ聴感的に弱く聴こえてしまいます。
 練習の段階でヴァイオリン「単独」での音色と音量の変化を考えます。
ピアノと一緒に演奏してみて、その変化が効果的な場合もあれば、消えてしまう場合もあります。ピアニストの技術以前に「楽譜」の問題の場合がほとんどです。ピアノの「和音」と「音域」を、ピアノ単独で考えた場合に最善の「楽譜=最も美しく聴こえる楽譜があります。それがヴァイオリンと一緒に演奏したときにも「最善」か?と言えば必ずしもそうではないと思います。
 ヴァイオリニストの我がまま!(笑)と言われることを覚悟のうえで書けば、ヴァイオリンとピアノの「音圧の違い」を踏まえたアレンジ=楽譜を演奏する時の自由度=バランスを考えなくても演奏できる場合と、常に「これ、ヴァイオリン聴こえてるのかな?」と不安に感じ、弓の圧力を限界まで高くし、ヴィブラートをめいっぱい(笑)かけ、弓を頻繁に返す演奏の場合があります。どちらも「楽譜通り」に演奏したとしても、お客様が感じる「音の溶け方=混ざり方」の問題です。演奏者に聴こえるバランスではないのです。
 自分の音と、相手の音のバランスはホールによっても変わりますから、神経質になってもよくないと思います。ある程度の「当てずっぽ=勘」で演奏するしかありません。ただ自分の演奏が「平坦」になってしまわないように気を付けて演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

慣れ親しんだ自分の楽器が一番!

 映像はパラディスが作曲した(と言われる)シシリエンヌ。デュオリサイタル11代々木上原ムジカーザでの演奏です。ヴァイオリンの音色は演奏者によって大きく変わります。それ以前に楽器固有の音色には、すべての楽器に個体差があります。その個体差を「バラツキ」と言う負のイメージで考えることは間違っています。すべての楽器には本来、個体差があって当たり前なのです。特に電子部品を一切使わない楽器の場合、素材の個体差、組み立てる際の違い、調性による違いがあって当たり前なのです。まったく同じ楽器が二つ、存在しないのは人間や動物、植物と同じです。どの人間が一番優れているか?と言う議論は現代世界では愚かな人間の浅はかな考えです。その意味でも、ヴァイオリンの中で「どれが一番良い」と言う発想そのものが根本的に間違っています。むしろ、その評価をする人間の「感覚」そのものが「個人差」そのものなのです。
 私にも「一番好きな楽器」があります。それが自分が今使用している楽器です。このヴァイオリンとの出会いは以前のブログにも書きましたが、私が13歳の時にさかのぼります。それ以来、約50年間この楽器と一緒に音楽を奏でています。ヴィオラは陳昌鉉さんの作った楽器で2010年にめぐり逢い、現在12年目となりました。このヴィオラも私にとって、唯一無二の存在です。
 生徒さんたちに新しいヴァイオリンを紹介、斡旋する時にお話しすることがあります。「楽器との出会いは一期一会」つまり、出会いがすべてだという事です。いくつかの楽器の中から「ひとつ」を選ぶ作業を「選定」と呼びます。それぞれの楽器に個性があります。差が大きい場合も、小さい場合もあります。違いが音量の場合も音色の場合も、ネックの太さやボディのふくらみの違いの場合もあります。ニスの色も違い、形も違う場合もあります。当然価格も違います。
 同じ価格の楽器でも当然、個体差があります。生徒さん個人にとって「一番」を選ぶのは、勧める側にとっても選ぶ生徒さんにとっても、とても難しいことです。「好み」だからです。良い・悪いの問題ではないのです。価格の安い・高いは明らかに存在します。見た目の「好み」も重要な要素の一つです。それらすべてが「出会い」なのです。ひとつの楽器を選べば、その他の楽器とは「別れ」をすることになります。それが辛い気持ちも当然です。かと言っていくつも買うものではありません。最終的にどれか一つを選ぶ作業は、「酷」とも思えます。

 先日、長野県木曽町の依頼で、木曽町の所有する陳昌鉉さんが作成したヴァイオリン「木曽号」を使ってコンサートを開かせていただきました。素晴らしい楽器でした。それはお聴きになったお客様からの感想と、演奏後の反応からも伝わってきました。そのコンサートで演奏した「ヴァイオリンの音色」はその場で最高のものなのです。どんな演奏であっても、演奏の際の「音」は他の音と比較されるものではないのです。記憶に残ったとしても、まったく同じ条件で演奏されることは2度とないのですから。その「最高の演奏」に使ったヴァイオリンですが、私にとっては「一番好きな楽器」とは言い切れないのが正直な気持ちです。「それならその依頼を断れば?」と思われるかもしれません。確かにお断りすることも選択肢の一つかも知れません。ただ、陳昌鉉さんが初めてヴァイオリンを製作し始めた場所である「木曽福島」に感謝の気持ちを込めて贈呈されたヴァイオリンを「誰かが演奏する」事は、楽器にとっても木曽町の方々にとっても「必要不可欠」な事なのです。木曽町が所有する以上、個人の演奏家が常に演奏するべきものではありません。それが偶然、私だったのですからお引き受けさせて頂くのは光栄なことだと思います。その楽器に「ケチ」をつけるつもりは1ミリもありません。私の楽器のほうが優れているとも思いません。単純に「好き嫌い」の問題です。嫌い…ではないので、「好み」です。

 どんな違いあるのか?一つは「弦高」の違いです。
糸枕=ナットと駒の高さ、ネックと指板のボディとの「向き・位置」によって、弦と指板との距離、さらにはボディと指板の距離が変わります。そのことによる「押さえた時のピッチ」が全く変わります。
 さらに「ネックの太さ・丸さ」の違いがあります。ほんの数ミリの違いが、演奏者には大きな違いになります。開放弦を演奏するだけなら、なにも変わりません。弦を押さえ、弓で弾いた時に出る「音」の問題です。
 当たり前ですが、弦楽器は自分で音の高さを「決める」楽器です。楽器によって、押さえる弦の場所が微妙に違います。同じ高さの音でも、楽器によって音色が違います。自分の「耳」で探すピッチが、見つからない…見つけにくいのです。
 一番、違うのは「弦ごとの音色の差」です。仮に同じ弦を張ったとしても、二つの楽器があれば、4本の弦ごとの「音色の差」が、楽器のよって違います。
それも個体差なので、どれが一番良いというものではありません。
それに慣れることが演奏者の技術です。弦ごとの音色の違いを「利用する」場合と「極力抑える」場合があります。その楽器ごとの「個性」を掴むことがとても難しいのです。ポジションによっても音色が変わります。それらの組み合わせで、最良の指使いと弓の圧力を考えることが求められます。

 どんなに素晴らしい楽器だたとしても、演奏する人間がその楽器を愛することができなければ、楽器も演奏家も音楽を奏でることはできません。
 人を愛する心と同じだと思っています。楽器を愛でることができない人に、音楽を演奏することは出きないと信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽町コンサート終了

 2022年11月23日(祝日)長野県木曽町「木曽福島」でのコンサートを無事に終えました。主宰された木曽福島町生涯学習課の皆様、会場にお越し頂いた多くのお客様に心から感謝を申し上げます。昨年11月に長野県「キッセイ文化ホール」主催で実施された同じ会場でのコンサートを今年は木曽町が引き継いで開催してくださいました。来年もまた、開催していただけることになりました。

 昨年は相模原と木曽福島を「日帰り」と言う強行スケジュールでしたが、今年は前泊することにして11月22日昼間、八王子から特急あずさに乗って塩尻~中央本線特急しなので現地に向かいました。

 木曽町が予約してくださった宿「御宿蔦屋」伝統と風情を感じる中に、新しい設備とおもてなしの心、素晴らしいお料理の旅館でした。駅にお迎えに来てくださった木曽町生涯学習課のかたに、この宿に行く前に是非!見て欲しい施設があるのでご案内したいとのお話で、11月19日にオープンしたばかりの施設「木曽おもちゃ美術館」へ。廃校になった小学校を使った、木曽ヒノキをふんだんに使った「木のおもちゃ」で子供も大人も心から楽しめる素晴らしい美術館。
到着したときにはすでに閉館していましたが、反省会をされているスタッフの皆様に出迎えられ案内された、「元体育館」の天井を取り外し、階段状の木のベンチを客席にしたホール。足を踏み入れた瞬間に感じた「木の残響」は、国内のどのコンサートホールにも勝る、物凄く自然で豊かな響き!あまりの興奮を抑えきれず、持っていたヴィオラとヴァイオリンでステージに置かれていた「小学校で20年前まで使われていた」アップライトピアノを使って数曲、演奏させて頂くことになりました。施設で働くスタッフが全員(笑)をお客様にしてのコンサート。演奏中からあちこちで聴こえるすすり泣きの声。皆さんが開館に向けて日々疲れ聴いておられたらしく、こんなホールだったんだ!という感動もあっての涙。「写真とっても良いですか?」「どーぞ!」「動画とっても良いですか?」「どーぞ!」「SNSにアップしても良いですか?」(笑)「どーぞどーぞ!」という事で、アップされた動画がこちら。

https://www.instagram.com/reel/ClR3P_OBj1a/?utm_source=ig_web_copy_link&fbclid=IwAR2T76JIaUQ-5GmJpRrv-tpzZv5Jo5S6KUZ-zVnOKkWlldO9DlZotnVDJLg

 見学と演奏を終えて旅館で休み、翌日は朝から雨。おいしい朝食を頂き、歩いても2分ほどの演奏会場「文化交流センター」に木曽町の車で(笑)移動。
 ホールには大昔のスタインウエイが私たちを迎えてくれました。このピアノも廃校になった小学校の体育館に眠っていたもの。昨年私たちが気付くまで、木曽町長、教育長も誰もその価値を知らなかったと言う事実(笑)
 リハーサルを終えて、浩子さんが居残りリハの動画。

・パガニーニの主題によるラプソディ
・椰子の実
・彼方の光
・Earth
・明日
・アニーローリー
・瑠璃色の地球
・美しきロスマリン
・アリオーソ
・ハンガリー舞曲第5番
アンコールに応えて
・我が母の教え給いし歌
・ふるさと
12曲を木曽町所有の陳昌鉉さん製作のヴァイオリンと、愛用のヴィオラこれも陳昌鉉さんの2010年製作の楽器…で演奏しました。
 木曽福島では「木曽音楽祭」と言う伝統的なクラシック音楽フェスティヴァルが介されていますが、私たちのコンサートは「身近に感じるコンサート」として、クラシック以外の音楽も町民の方々に「無料」で楽しんで頂くイベントです。
 来年、先述の木曽おもちゃ美術館でもぜひ!コンサートをと言う話も進んでいます。また楽しみが増えました。
 最後にコンサートに来てくださった皆様、木曽町の皆様に心よりお礼を申し上げます。
 お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

二刀流って二硫か?(笑)

 写真はどちらも陳昌鉉さんの 製作された楽器です。
木曽福島で開催されるコンサートでこのヴァイオリンとヴィオラを使用します。
ヴァイオリンは陳昌鉉さんが名誉町民である木曽福島町に寄贈された楽器です。
縁があって昨年に続き2度目の演奏になります。

 なぜ?わざわざヴィオラの演奏もするの?ヴァイオリンだけじゃダメなの?
そう思われても当たり前ですね。
 ヴァイオリンの音色とヴィオラの音色を、一回のコンサートで楽しめる…これも「あり」だと思うのです。もちろん、違う演奏者が演奏するケースもあります。ただ、同じ演奏者が「持ち替え」て弾き比べ=聴き比べすることで、楽器による「違い」が明確になります。
 私自身から考えれば、同じ曲でもヴァイオリンで演奏した「音楽」とヴィオラで演奏した「音楽」が違う事を感じています。単に音色や音量の違いだけではありません。それほどに違う2種類の楽器であることを、聴いてくださるお客様に体感していただくことで、アンサンブルやオーケストラでなぜ?ヴィオラという楽器が必要なのかも理解されるのでは?とも思っています。
 ヴィオラはヴァイオリンよりも個体差の大きい楽器です。自分の気に入ったヴィオラに出会う確率は、ヴァイオリンよりも低いかも知れません。そもそも製作される本数が違います。ヴィオラの「良さ」を知ってもらうことで、ヴァイオリンの良さも再発見されるかな?と思っています。
 ヴァイオリンとヴィオラの演奏方法が「違う」のは当然です。「似て非なるもの」なのです。ヴィオラは「ヴァイオリンがうまくない人が演奏する楽器」と言う大昔の定説があります。演奏方法が似ていて、弾き手が少ないから…確かにそんな時代もありました。でも本当に美しいヴィオラの音色を聴いてもらえれば、その間違った説が覆せると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽ファンを増やすために

 映像は昨年11月に実施された木曽福島でのコンサートの模様。この時はキッセイ文化ホールの主催によるコンサートでした。今年は同じ会場で、木曽福島町主催によるコンサートとなります。入場無料で100名のお客様が来場されます。
「クラシックコンサート」の明確な基準はありませんが、クラシックの音楽も演奏します。それが「つまらない」と思うかたは元より聴きに来られることは無いかもしれません。私たち夫婦のコンサートは「音楽ファンを増やす」事をコンセプトにしています。「お子様向けコンサート」ではありません。「音楽鑑賞教室」でもありません。ポップスだけのコンサートでもない「聴いて楽しめる」コンサートを目指しています。

 メリーオーケストラの演奏会も、デュオリサイタルも基本的には同じ考え方をもとにしています。メリーオーケストラはアマチュアとプロが「一緒に演奏する」と言う変わった形態の演奏です。私たち夫婦が「プロ」としての能力・技術があるのかないのか…それは私たちが決めることではありません。お客様の「満足度」がすべてだと思っています。コンサートを聴いて「楽しめた」と思える時間だったか?それが私たちへの評価だと思っています。クラシックだけを演奏するコンサートが好きな人にとっての「音楽」と、そうでない人が初めて体験する「音楽」は同じ演奏でもまったく違う価値のものになります。期待するものが違うのです。クラシック音楽のコンサートを楽しみにする人にも「初めて聴くクラシック」があったはずです。また「好きになったきっかけ」もあったはずです。
その出会いがまだ、ないという人が大多数です。まして「クラシック」と言う言葉に「古い」「つまらない」「長い」「マニアの好きな」と言うネガティブなイメージが付きまとう人も多くいます。「懐石料理」と聴くと「高級」「お金持ちの食べるもの」と言うイメージがあるのと似ています。
 コンサートのイメージを身近なものにする「コンサート」ですそ野を広げます。その後は、他のかたにお任せします!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な想像力と協調性

 映像は台湾生まれでオーストラリア国籍のヴァイオリニスト、レイ=チェンが演奏するシベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト。何度聴いても素敵な演奏だと思います。他の同世代のヴァイオリニストと比べて「インパクト」が圧倒的に強い!1楽章が終わって拍手をしたくなる観客の気持ちがよくわかります。
 彼の演奏を冷静に聴いていると「自由」と「共生」を感じます。そして自分の演奏に対して他人からの評価を基準にしない「強さ」も感じます。
 20歳の時、エリザベートコンクール優勝したチャイコフスキーのコンチェルトにも感じられる「想像力の豊かさ」は彼特有の世界観を表現しているように思います。
「誰かがこう弾いたから」や「普通はこう弾くから」と言った固定概念よりも、音楽を演奏する自分の「想像力」を最大限に引き出す努力と技術は、本来演奏する人間に追って一番大切なことです。ただ単に「人と違う事をする」のとは違います。自分の想像するものを具現化する力です。これを「自由」と言う言葉に置き換えてみます。

「共生」と表したのは、彼がオーケストラと一緒に音楽を演奏しようとする気持ちです。よく聴くとオーケストラが旋律を演奏している時に、レイ=チェンは完全にオーケストラの演奏したい「テンポ」「リズム」を優先していることがわかります。むしろオーケストラの1パートとして、一体になっています。これは、彼が他人=他の演奏者を思う気持ちの表れだと思います。自由に演奏してもオーケストラが影響を受けない部分、範囲では楽譜に書かれていないリズムで演奏しても、オーケストラと絡み合う部分では決して自分勝手にリズムを崩さない上に、オーケストラ演奏者に拍が聞き取りやすい弾き方で演奏する余裕があります。だからこそ、オーケストラも思い切り、一番良い音で演奏しよう!と感じるのではないでしょうか。ソリストに「合わせにくい」と感じればオーケストラは抑え気味に演奏することになります。ソリストの独りよがりではないことが、音楽全体のエネルギーを増幅させています。

 想像力を具現化する技術は、自分の演奏技術を発展させることに直結します。
楽譜を音に、音を音楽にしていく過程で「想像」することは、演奏家にとってそれまでの経験をすべて使う作業です。体験し記憶している「感情」「風景」「人」「物語」を音楽の中に落とし込むことです。もし、悲しい経験しか、記憶にない人が音楽を演奏すれば、悲しい感情しか想像できないことになります。記憶は「思い出」でもあります。自分だけの思い出を、音楽で表現する。まさに「自由な創作行為」ですよね。多くの思い出こそが、多くの物語を想像できます。10代より20代、30代と年齢を重ねる中で嫌な経験も増えます。子供の頃の楽しかった思い出を忘れてしまいがちです。多感な幼児期に部屋にこもって、音楽だけを練習するよりも、友達と遊び・喧嘩をし・仲直りし…それらの思い出を大切に忘れないで育てることが親の役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートの中で子音を作る

 映像はデュオリサイタル13。エンニオ=モリコーネ作曲「ガブリエルのオーボエ」をヴィオラとピアノで演奏したものです。演奏はともかく…素敵な曲ですね。こうした「レガート=滑らかな音のつながり」で演奏する曲の場合に、音の切れ目=発音がはっきりしない(輪郭がぼやける)音になってしまいがちです。レガートだから…と言って「ピンぼけ写真」のような印象になってしまえば、滑らかと言うよりも「もやもやした」音楽に聴こえます。
 演奏するホールの残響時間にも影響を受けますが、まずは演奏自体が「クリアな変わり目」であることが第一です。ポルタメントやグリッサンド、スライドなどで、音の変わり目を意図的に「点」ではなく「曲線」にする演奏技法もありますが、多用しすぎれば「気持ち悪い」「いやらしい」「えげつない」印象に聴こえてしまいます。
 歌の場合、特に日本語の歌詞の場合に「子音」が多く音の変わり目=言葉の切れ目を、聴く側が想像も加えながら聞き取れます。逆に子音が少ない歌の場合や、意図的に子音を弱く歌う歌手の「歌詞」は滑らかですが音の変わり目を、感じにくく、言葉の意味が聞き取れないこともあります。

 移弦を伴うレガートや、1本の弦で大きな跳躍を伴うレガートの場合には、それ以外の場合=同じ弦で2度、3度の進行との「違い」が生じます。
 同じ弦の中でのレガートでも、左手の指で弦を「強く・勢いよく」押さえることでクリアな音の変わり目を出そうとすると、固い音になりがちな上、弦を叩く指の音が大きくなりすぎる場合があります。むしろ、弓の速度・圧力を制御しながら、左手の指の力を抜いて「落とす」ことの方が柔らかくクリアな音の変わり目を作れるように思っています。
 移弦を伴うレガートの場合には、一般的な演奏方法なら「先に二つ目の音を指を押さえて移弦する」のがセオリーです。ただ、この場合に弓の毛が二つ目の弦に「触れる=音が出始める」瞬間に発音しにくくなります。音が裏返ることや、かすれることもあります。だからと言って、弓の「傾斜の変化」を速くすれば、一つ目の音との間に「ギャップ」が生まれます。レガートに聴こえなくなります。
移弦の時、弓の傾斜を変えるスピードは演奏者によって大きく違います。
例えて言えば次の弦に「静かに着地」する移弦の方法と「飛び降りる」ような速度で「着弦」する違いです。どちらにも一長一短があります。
 そこで考えられる方法が移弦する瞬間に、二つ目の音の指を「同時に抑える」方法です。弓の毛が二つ目の音を発音するタイミングと、左手の指が二つ目の音を押さえるタイミングを合わせる特殊な方法です。ずれてしまえば終わり(笑)
左手指で音の変わり目を「作る」ことで、レガートで且つクリアな移弦ができます。とっても微妙なタイミングですが、無意識に移弦するよりも何億倍も(笑)美しく移弦できると思います。お試しあれ!
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンらしい音色と音楽

 映像は、ミルシテインの演奏するショパン作曲ノクターン。
古い録音でレコードのスクラッチノイズ(パチパチという音)の中から聴こえる音色と音楽に、現代のヴァイオリニストの演奏には感じられない「暖かさ」と「柔らかさ」「深み」を感じます。録音技術の発達とともに、より微細な音も録音・再生できるようになった現代ですが、私にはこのレコードに含まれているヴァイオリンの「音色」で十分すぎるほどに、演奏者のこだわりを感じます。
コンサートで聴くヴァイオリンの音色は、演奏者が聴く自分の音とは違います。
ましてや、演奏者から10メートル以上も離れた場所で聴く音と、現代のデジタル録音したものとでは「違う楽器の音」と言えるほどの違いがあります。
 その違いはさておいて、ミルシテインの奏でる「音色」と「音楽」について、演奏する立場から考えてみたいと思います。

 音の柔らかさを表現することは、ヴァイオリンの演奏技術の中で、最も難しい技術だと思っています。「楽器と弦で決まる」と思い込んでいる人も多い現代ですが、何よりもヴァイオリニスト本人が「どんな音色でひきたいか?」と言うこだわりの強さによって変わるものです。柔らかい音色を「弱い音」とか「こもった音」と勘違いする人がいます。私たちの「触感」に置き換えて考えればわかります。
柔らかいもの…例えば羽毛布団やシフォンケーキ。
柔らかい触感と「小さい」や「輪郭のはっきりしない」ものとは違います。
私達は柔らかいものに「包み込まれる」感覚を心地よく感じます。
固いものに強く締め付けられることは、不快に感じます。
そして「暖かい」ものにも似たような交換を持ちます。熱いもの、冷たいものに長く触れていたいとは思いません。
 現実には音に温度はありません。固さもありません。ただ、聴いていてそう感じるのは「心地よさ」の表現が当てはまる音だから「柔らかい」「暖かい」と感じるのだと思います。

 では具体的にどうすれば、柔らかい・暖かい音色が出せるのでしょうか?
・弓の圧力
・弓を置く駒からの距離
・弦押さえるを指の部位
・押さえる力の強さ
・ヴィブラートの「丸さ=角の無い変化」
・ヴィブラートの速さと深さ
・ヴィブラートをかけ始めるタイミング
ざっと考えてもこれ位はあります。
演奏する弦E・A・D・Gによっても、押さえるポジションによっても条件は変わります。当然、楽器の個性もあります。それらをすべて組み合わせることで、初めて「柔らかい」と感じる音が出せると思っています。

 最後に「音楽」としての暖かさと優しさについて考えます。
ミルシテインの演奏を聴くと、一つ一つの音に対して「長さ」「大きさ」「音色」の変化を感じます。言い換えると「同じ弾き方で弾き続けない」とも言えます。これは私たちの会話に例えて考えてみます。
以前にも書きましたが、プロの「朗読」はまさに音楽と似通った「言葉の芸術」だと思います。同じ文字を棒読みしても、意味は通じます。ただ、読み手の「こだわり」と「技術」によって、同じ文字にさらに深い「意味」もしくは「感情」が生まれてきます。朗読には視覚的な要素はありません。動きや表情も使って表現する「俳優」とは別のジャンルの芸術です。
 文字=原稿には、強弱や声の「高さ」「声色」は指定されていません。それを読む人の「感性」が問われます。まさに楽譜を音楽にする演奏家と同じことです。
 一つ一つの音の「相対」つまり前後の音との違いを、音色と長さと音量を組み合わせた「変化」によって表現することで「揺らぎ」が生まれます。
楽譜に書かれてない「ゆらぎ」はともすれば「不安定」に聴こえたり「不自然」に聴こえたりします。そのギリギリの線を見切ることで、初めて個性的な演奏が生まれます。簡単に言ってしまえば「違うリズム・違う音に感じない範囲」で一音ずつを変化させることです。さらに、一つの音の中にも「ゆらぎ」があります。ヴィブラートや弓の速さ・圧力による響きの違いを長い音の中に、自然に組み入れることで、さらに深い音楽が生まれます。
 音楽を創ることが演奏者の技術です。それは演奏者の「感性」を表現することに他なりません。楽譜の通りに演奏するだけなら、機械の方が正確です。
人間が感じる「心地よさ」を追及することが、私たちに求められた役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦と弓の毛のエイジングと良い音の寿命

 映像は3年前、代々木上原ムジカーザでのデュオリサイタルで演奏したドヴォルザーク作曲「ロマンティックピース」の一曲。
今回のテーマは、ヴァイオリン・ヴィオラの「弦」について。
以前にも弦の種類についてのブログは書きましたが、ちょうど来週、長野県でのコンサートと12月18日、来年1月7日のリサイタルに備えて弦の張替えや弓の毛替えを進めています。
 弓の毛替えは先日、いつもお世話になっている櫻井樹一さんの工房でヴァイオリンの弓2本、ヴィオラの弓1本の毛替えをして頂きました。
 木曽福島で使用する、陳昌鉉さん製作のヴァイオリンには数日前に生前、陳さんが一番好きだった弦の音色に近い弦のセットを張り替えました。こちらは、ナイロンの弦で張った直後は「キンキン」「バリバリ」と言う表現の音がうるさく聴こえます。毎日、時間の経過とともに音色が落ち着いていきます。
 経験上、およそ1週間ぐらい経った状態が、このヴァイオリンに一番合った音色になる「と感じる」ので、少し早め10日前に張り替えました。
 この弦に限らず、ナイロンの弦の「良い音がする寿命」は約2週間。それ以後は、余韻が極端に短くなりこもった音になります。その後は1年経ってもあまり変化しません。さらに言えば、弦が落ち着くまでに1週間から10日間かかるので、実際に「最高の音」が出る状態は約一週間…私の個人的な感想です。
 一方、ヴィオラと私のヴァイオリンに張るのは「ガット弦」です。
こちらの「エイジング=弦が楽器になじむまで」の期間は、弦の太さによって差があります。最も太いD線よりもA線が落ち着くまでの期間が一番長いのは、恐らく構造上の問題です。ヴィオラの場合はまた違います。
 ガット弦は音質が急激に落ちることがありません。むしろ、完全にガットが「伸びきった状態」言い換えると、湿度や温度の変化に、全く反応しなくなった時点でガット弦の寿命が終わったとも言えます。調弦が大変!と言うアマチュアヴァイオリニストのガット弦への不満を聴くことがありますが、ナイロン弦の場合でも「良い音の出る期間」には小まめに調弦が必要であり、むしろその変動幅はガット弦よりも大きい場合がほとんどです。価格の面で考えても、ガット弦の方が、良い音の期間が長く一概に「ガット弦は高い」とは言い切れません。

 
 最後に弓の毛のエイジングと寿命について。
職人の技術と使用する馬のしっぽの毛によって、大きな差があります。
櫻井さんに張り替えてもらった弓の毛は、張り替えて数日で松脂が毛に馴染み、伸びも収まるので演奏会に使用できます。さらに、張り方の技術差は弓のスティックの強さと曲がりによって、職人が針の強さを左右で調整できるか?と言う職人の経験が問われます。「すぐ切れるのは悪い毛」と言う考え方には疑問を感じます。何よりも「演奏の仕方」と「演奏する曲」で弓の毛が切れる頻度は大きく変わります。むしろ演奏する曲によって、主に使う弓の場所が違うため、摩耗する部分が変わります。張り過ぎの状態で演奏すれば、スティックの弾力を最大限に使えません。逆に毛の張りが弱すぎれば、毛を痛める原因にもなります。
 何よりも松脂を塗りすぎる人が多いように感じています。弓の毛と弦が音を出すための「摩擦」は松脂だけで作られているのではありません。毛の表面の「凹凸=おうとつ」で削られた松脂が「こぶ」になり、さらに摩擦の熱で「溶ける」ことで粘度が増えます。毛の表面の凹凸は、次第に減っていきます。さらに、経年劣化で、弾力を失い細くなります。寿命は「●●時間」と書かれているものもありますが、何よりも松脂を普段から「必要最小限」で使っていれば、摩擦が減ってきた…滑りやすくなったことを感じるはずです。その時が「弓の毛の寿命」です。
 どんな弦でも、弓の毛でも「なじむまでの時間」と「良い音の出る期間」と「寿命を迎えた時期」があります。それぞれのタイミングを見極めるのも演奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうとgざいました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

何気ない曲の何気ない難しさ

 もう15年も前になる初めてのデュオリサイタルで演奏した、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」よりメロディー。あまりにも多くのヴァイオリニストが演奏されているこの曲、実は自分の中で「何かが難しい」…何が難しいのかが自分でもよくわからないのですが(笑)そんなこともあって、今までにあまり演奏してこなかった曲の一つです。次回のリサイタルでリベンジ!と思い立ち、ユーチューブを聞きまくってみました。皆さん、じょうずに演奏されているのですが、自分の好みに合う演奏が見つからない。明らかに他の演奏者と違う解釈で演奏されている「ヤッシャ様」(笑)の演奏がこちらです。

 ハイフェッツ様だから許される?(笑)大好きな演奏なのですが、個性的過ぎて「猿真似」になりそうで近づけません。いや…近付けるはずもないのですが。
 曲の好みで言えば、大好きな曲の中に入るのに自分で演奏すると「どこが好きなんだよっ!」と自分に突っ込みを入れたくなるほど。
 聴くことが好きな曲と、演奏したい曲が違うのはごく普通の事です。
でも、よく考えると聴くのが好きなら「ひいてみたい」と思うのが自然な流れのはずです。弾けない…という事でもないのですが、自分の演奏が好きになれません。「それ以外の曲は満足してるのか?」と言われれば、冷や汗ものです。
 趣味の領域で「楽しむ」事と、お客様に聴いていただく立場で自分が「楽しむ」ことの違いなのかもしれません。好きだから怖くて弾けない?(笑)
ぶつぶつ言っていないで、なぜ納得できる演奏が出来ないのかを言語化してみます。

 調性はEs dur=変ホ長調。特に苦手とか嫌いとかはありません(笑)
4分の3拍子。問題なし。重音の「嵐」も吹かない。特別に出しにくい音域でもありません。むしろ「普通に弾ける」言い換えれば、弾きやすい曲でもあります。
モチーフも覚えやすく、リズムもシンプル。
 中間部の軽い動きが「苦手」なのは否めない事実です。
気持ちが先走って、冷静に弾けていないことが一番の原因と分かりました。
とにかく、一音ずつ練習しなおし!
好きな曲を、気持ちよく弾けたら最高に気持ちいいですよね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ファンになりました。

 映像は2年前、かてぃんこと角野隼人さんのラジオ番組にゲスト出演していた、ピアニスト亀井聖矢さん。先日のロンディボー国際コンクールで同率1位。
20歳(今年21歳)で桐朋学大学4年生…って計算が合わないぞ?それもそのはず、17歳で高校から「飛び級制度」で桐朋学園大学に特待生で入学。桐朋学園では「初の飛び級入学」
 正直、かてぃんのチャンネルで共演していたりする動画は見ていましたが、名前を知ったのは今日が初めてです。そして、彼のいくつもの動画を見て、あっさり「ファン」になってしまいました。
 私はピアノの演奏技術の「優劣」がわかる人間ではありません。ただ感じるのは、「純粋に素敵なピアニストだ」という感想なのです。彼の「素顔」も知りません。性格だって知りません(笑)彼の演奏を見て、聴いて感じることを書いてみます。

 何よりも強く感じるのは、深刻さ・悲壮感を感じないという事です。
子供の頃の演奏動画もアップしています。10歳の頃の「ラ・カンパネラ」をご紹介します。

 「愛知の神童」だったかどうかは知りません(笑)が、これが10歳の演奏か…。素直に「この曲がひいてみたい」と言う少年の素直な気持ちがそのまま音楽になっている気がします。演奏活動をコロナで阻まれながらも、国内の主要オーケストラとの共演も既に終わっている(笑)日本音楽コンクールとピティナを同じ年に「一位取り」すると言う経歴にも納得です。
 普段、コンクールで何等賞…と言うニュースにほぼ無関心な私です。そして、話題になった人の演奏動画は一通り見ていますが、正直「感動しない」という感想で今まで過ごしてきました。それは「好み」の問題でしかありません。
 亀井さんの演奏に共感する理由をもう一つ。
「自然なアクションと表現」に感じることです。私はオーバーアクションに見える演奏家が好みではありません。演奏中の表情もそのひとつです。自然に表に出る「感情」や「動き」は理解できるつもりです。それ以上の表情は「作っている」としか思えないのです。もしもその「表情」がパフォーマンス…だとしたら、余計なこと(笑)だと思ってしまいます。
 彼の活動を見ると、「やりたいことを、やりたい時にやっているだけ」に感じます。それが素敵なんです。先を考えて…とか、日本の音楽界のために…とか、作曲家の精神に触れた…とかと言う話を20代の演奏家が話しているのを聞くと「そのセリフは40年後に言いたまへ(笑)」と思うのです。
 純粋に今、やりたいことに没頭する美しさ。評価よりも自分の「価値観」を優先した生き方に、年齢は関係ありません。若いからできること、若いとできないこと。高齢になってできないこと。高齢になって初めてできること。それを素直に受け入れられる「ひと」の演奏が好きです。彼がこの先、どんなピアニストになるのか?とても楽しみですが、何よりも今の彼の演奏が楽しくて好きです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

だめだこりゃ…になった時

 今月23日に長野県木曽福島で開かれるコンサートで、久しぶりに演奏することにした、ラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」
映像はマキシム=ヴェンゲロフさまによる「憧れの演奏」です。
 こんな演奏をしてみたいのですが、現実には…

 過去に自分が演奏したこの曲の動画、3本のどれを見ても「逆」なんです。
なにが?(笑)アウフタクトに感じるパッセージを「アップ」、その後の重さのある1拍目を「ダウン」という運動…これ自体は間違っていないのですが、長い音をアップで膨らませたい!となると、アウフタクトを「ダウン」にして1拍目を弓先から「アップ」にしたい!のに…体と脳が「忘れてくれない」現象が起きています(泣)
 そもそも、楽譜と音楽と動きを頭の中で一つの「イメージ」にして記憶するようになってから、特に弓のダウン・アップの優先順位は「下位」になっています。むしろ「音楽」が先頭に来ているので、運動はあまり意識せずに演奏する習慣がついてしまっています。
 意図的に、弓の動き=ダウン・アップを優先しようとすると、音楽が引き算されると言う最悪の状態になります。だめだこりゃ!…と長さんの声が聞こえます(笑)しかも、楽器が「借り物」なので思ったところに思った音がない(笑)という現実。

 自分が「できない」と思う壁に直面することは、楽器を演奏する人には避けて通れない「運命的」なことです。しかも、それまである程度「出来ている」と思っていたこと、「なんとかかんとか弾けている」と思っていた曲に対して、自分自身が「ダメ出し」をして出来ていない・ひけていないことを発見したときの悲壮感…それまで見えていなかった部屋中の「ゴミ」が一気に見えてしまって、まるで五味屋敷の中に突然いるような恐ろしさと挫折感(笑)。
 どこから?手を付けても綺麗になる気がしない・できる気がしない…その気持ちに負けない「精神力」「気力」を生み出せるのは、結局自分自身だけです。
 誰かに助けてもらったとしても、きっとまた「汚れる・できなくなる」という不安が付きまといます。自分の手でゴミを一つずつ・できないことを一つずつ拾って片づけることの繰り返しをするのが一番です。
 自分にとって「苦に感じない」ことのつもりで片づけるのが有効な方法です。
私の場合、単純作業で「いつか終わる」…例えば教員時代にテストの採点を、1学年200人分を一晩で終わらせることには、ほとんど苦痛を感じないでやっていました。今でも、発表会やメリオケの動画編集を、その日のうちに終わらせる(笑)ことにも「大変だ!嫌だ!」と感じたことはありません。嫌なことはしない主義なので(笑)人によって「苦にならない」事は違います。他人から見れば「変なの」と笑われたり驚かれたりするのが、実はその人の「特技」かも知れません。ぼーっとするのが好きなひとなら、それが一番の特技です。本を読みだしたらいつまででも読みたい人なら「読書が特技」だし、どこでも寝られる人なら、それが特技です。その特技を「できない」と思う事に利用する方法を考えます。何も考えずにいることが「特技」なら、なにも考えずに演奏してみるのが一番の解決方法です。寝るのが特技の場合には?寝ている時の「快感」を感じながら演奏してみる…のかな(笑)
 私の場合には、日常が出来ないことだらけなので「できないこと」への耐性ががある程度(笑)ついていますが、今回の「だめだこりゃ」は結構しんどいです。まずは、頭の中で音楽と「腕の動き」を一致させるイメージトレーニングと、物理的にどうすれば「長い音が弓先から始まるか」を考えて、長い音の前の音、さらにその前の音からの「連続」で、どうやっても=考えなくても、長い音が弓先から始まるように「身体に覚えさせる」繰り返ししかなさそうです。
 身体が慣れるまで、頭を使う。これが鉄則です。身体の動き=運動が、意識しなくても理想の運動になるまでは、常に運動の前に「意識」する習慣をつけます。その意識があるうちは、他の事は意識できません。なので、出来るだけ、「エアーヴァイオリン」で練習するのが私流です(笑)「ラファソラレ~」「シドレラ~」右腕を動かす…変なおじさんになるので、人のいない場所で(笑)
 壁を超える→また壁にぶつかる→壁を超える
この繰り返しを楽しめるようになりたい!ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

チェロとヴィオラ・ヴァイオリンのヴィブラートを比較する

 映像は、チャイコフスキー作曲の「ノクターン」
チェロで演奏されることの多いこの曲を次回のデュオリサイタルで「ヴァイオリンとピアノ」で演奏してみます。そこで、参考までにヴァイオリンでの演奏を探してみました。

え  

 演奏の好みは別の問題として、今回はヴィブラートの違い…特に、チェロとヴァイオリン・ヴィオラの違いについて考察してみます。
 私自身、ヴァイオリンのヴィブラートよりもチェロのヴィブラートが好きです(笑)「言い切るか!」と思われそうですが、高校時代の親友がチェリストだったこともあり、自分のヴィブラートに不満のあった(今もある笑)私が、観察の対象にしていたのが「チェロのヴィブラート」なのです。
 特徴として「動きの可動範囲が大きく速い」「波=音の高低が滑らか」であることがヴァイオリンとの違いです。演奏技術によって差はあります。ただ、多くのチェリストのヴィブラートを聴いても、やはりこの「違い」は明らかです。
 ヴィオラでチェロの「真似」をしようと足掻いてみたことがあります。
サン=サーンスの白鳥やシューベルトのアルペジオーネソナタ、他にも多数。
ただ…どう頑張ってもなにか不自然に感じます。それは「音域」の違いと「筐体=ボディーサイズ」の違いだけではなく、ヴィブラートそのものに違いがることに気が付きました。

 「逆手」と「順手」と言う言葉をご存知でしょうか?
鉄棒や「ぶら下がり健康機」を手でつかむ時の「向き」のことです。
順手は手の甲が自分の方を向き、逆手は掌=てのひらが自分の方を向きます。
二つの握り方によって、使われる筋肉が変わります。特に「懸垂」で筋肉を鍛える場合には、に切り方によって鍛えられる筋肉が違います。
 マッチョを目指さない私にとって(笑)、懸垂は出来なくても良いのですが、ヴァイオリンやヴィオラを演奏する「左手」は実は逆手になっています。
一方、チェロやコントラバスの場合、左手は「順手と逆手の中間」つまり、腕を体に沿わせて「だらん」と下げた状態の時の、手の向きになります。掌が「身体の内側」に向き、手の甲が「外側」に向きます。この状態で普段、私たちは歩行しています。日常生活の中でも、掌を下に向けて作業することは、ごく自然にできます。何かにつまずいて、前のめりになった時に「手をつく」のは「順手」です。尻もちを付いて手を付く時にも、掌を下にします。つまり、私たちの祖先に近い「猿」が両手を使って「歩く」こともあるように、掌は下に向いた状態「順手」が自然な状態なのです。進化した私たちは「両手を内側に向ける」ことも、自然な「手の向き」になりました。

 逆手「以上」に掌をひねりながら演奏する楽器は、ヴァイオリンとヴィオラしかありません。管楽器…フルートの場合でも左手が「逆手」ですが、あくまでも掌が自分の方に向く角度までで演奏できます。クラリネット、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバ、打楽器、ピアノ、ギター、ハープ…どの楽器も掌の向きは「順手」もしくは、順手に近い向きで楽器を構え演奏します。逆手であるがゆえに、ヴァイオリン・ヴィオラは、楽器の「肩」部分に左手が当たって、ハイポジションでの演奏がさらに困難になります。当然この掌の角度でヴィブラートは極めて「不自然」な動きになります。
 その点、チェロとコントラバスは、ハイポジションになっても、左手の親指を指板の上に出すことで、掌と手の甲の「向き」は変えずに弦を押さえられます。
「理にかなった弦の押さえ方」です。ヴァイオリンを最初に演奏し始めた「誰か」がいるはずなのですが、恐らく「チェロの原型」や「胡弓」「二胡」「馬頭琴」のように、弦が「縦方向」に張られているのが弦楽器の「ご先祖」だと思います。それを「首に当てて=弦を水平方向に張る向きで演奏する」という「業虚?荒わざ」を試して、「だめだこりゃ」にならず「うん!これだ!」って感じたんでしょうか?(笑)
高い音を出したくて「小さくした」のか?それとも、持ち運びを考えて「小さく」したのか?どっちにしても、チェロの構え方のままで演奏すればよかったのに…。ぶつぶつ…。

 ヴァイオリン、ヴィオラのヴィブラートは、手首と肘関節の運動でかけます。
一方でチェロ、コントラバスのヴィブラートはもっと自然に「左腕全体」を利用してかけられます。どの弦楽器も「指で弦を押さえる」事に違いはありません。
ギターのようにフレットのないヴァイオリンやチェロの場合、押さえ方を少し変えるだけで、音の高さが変わってヴィブラートがかけられます。左手「指関節の柔軟性=可動範囲の大きさ」でヴィブラートの幅が決まります。
 ヴィブラートは「自然に聴こえるための技法」だと思っています。
ただ速く動かすだけを意識したヴィブラートは、聴いていて不自然に感じます。
「痙攣ヴィブラート」「縮緬=ちりめんヴィブラート」と呼ばれる「細かいヴィブラート」」を好むヴァイオリニストもおられますが、私にはヒステリックに感じてしまいます。
 遅すぎず、深すぎないヴィブラートを理想にしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


フラットが5つ付くと何が起こる?

 映像は6年ほど前に演奏したラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」です。
日本語の表記で書くと「変ニ長調」英語表記なら「D flat Najor」ドイツ語表記なら「Des dur」です(笑)

 ヴァイオリンの為に作曲されたヴァイオリン協奏曲は「D dur」ニ長調のものが多い理由はご存知の方も多いと思いますが、ヴァイオリンの開放弦が低い方から「G・D・A・E」ソレラミで、D durの「主音」がD=レ、「下属音」がG=ソ、「属音」がA=ラ、加えて言えばE線の開放弦である「E=ミ」の音は、「属和音=A・Cis・E」の第5音でもあり、結果としてすべての開放弦の音がD durの「核となる音」になります。このことで、ヴァイオリンの持つ「倍音」が最も響きやすく、かつ演奏しやすいのがシャープが二つの音「ファ・ド」に付く調性「ニ長調=D dur」で、ヴァイオリンの持つ最大限の「ポテンシャル」を発揮できることになります。チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルト、ブラームスのヴァイオリンコンチェルト、ベートヴェンのヴァイオリンコンチェルトはすべて「ニ長調」で書かれています。
 では、それ以外の「調性」だとヴァイオリンの音色は「悪くなる」のでしょうか?結論は「いいえ」です。それを説明します。

 冒頭のラプソディは「シ・ミ・ラ・レ・ソ」にフラットが付く調性なので、開放弦の音は「音階固有の音ではなくなる」つまり、臨時記号が出てこない限り、開放弦の音は使われずに演奏される曲になります。音楽全体が「柔らかい音」になる…あるいは「すべての音が均一な響きになる」とも言えます。
 シャープ系の調性の場合、たとえば先述のニ長調の場合で考えると、音階固有の音は「レ=D・ミ=E・ファ♯=Fis・ソ=G・ラ=A・シ=H・ド♯=Cis・レ=D」になりますので、7種類の音の中で4つは「開放弦にある音」で残りの3つが「開放弦にない音」になります。当然、この2種類で大きな違いがあります。
作曲家はそれを逆に利用して音楽の「色付け」を考えます。
 有名な曲でフラットいっぱい!の曲をもう一曲。

 先日のブログでピアノがうまい!とピアノ演奏をご紹介した名ヴァイオリニスト「フリッツ=クライスラー」が演奏するドヴォルザーク作曲の「ユーモレスク」フラット6つ!の調性「変ト長調=Ges dur」がオリジナルの曲です。ヴァイオリン教本などでは、半音高く移調して「ト長調=G dur」シャープ1つの調性で弾きやすくしてあるものが見かけられますが、ご本家はこちらです(笑)演奏を聴いていただくと、すべての音が「均一」という意味が伝わるかと思います。かと思えば「それ、やりすぎちゃん(笑)」と思えるものもおまけに。

 このお方も先日の「ピアノがうますぎ!」に登場していただいた、ヤッシャ=ハイフェッツ大先生が「編曲」し「ヴァイオリンを演奏」されている、サン=サーンス作曲の動物の謝肉祭より「白鳥」ですが…オリジナルは「ト長調=G dur」なのに、わざわざ!半音下げた「変ト長調=Ges dur=フラット6つ」に移調して、ピアノの楽譜も「やりすぎ~」な感が否めません(笑)移調するだけでは気が済まなかったのか…。ヴァイオリンらしさを出したかったのか…。

 最後にもう一曲。こちらは以前にも紹介したジャズピアニスト小曽根真さんのアレンジされた「ふるさと」を採譜=楽譜に起こして、ヴィオラとピアノで演奏したものです。これも「フラット5つ」の、Des dur=変ニ長調で演奏されていたのでそのままの調性で演奏しています。歌の場合、歌いやすい高さに移調することが一般的です。恐らく歌われていた神野美鈴さんが一番歌いやすい調性だったのでそうね。

 今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまく弾くより、大切に弾きたい。

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した、村松崇継さん作曲MIYABIこと竹内まりあさん作詞の「いのちの歌」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 自分で聴いて演奏は「傷」だらけです。この演奏で自分がなにを伝えたかったのか…。演奏できることへの「感謝」です。歌詞の最後「この命に ありがとう」にすべてが込められた音楽に感じながら。「生まれてきたこと 育ててもらえたこと 出会ったこと 笑ったこと その すべてに ありがとう」という詩から続く「いのち」への感謝。演奏できることは「命がある」ことです。私たちは生きていることが「当たり前」で、今生きていることに感謝する意識を持っていません。「生きていてよかった!」と言う言葉は、九死に一生を得た人の言葉だと思っています。「死ななくてよかった」と思うのに、普段は生きていて当たり前って矛盾していますよね。それ以外の場面で「今までの人生で最高に幸せ!」と感じる時にも、このセリフが出ますが(笑)それまで生きていて感謝してこなかったのか!と突っ込みたくなりませんか?(笑)

 さて、テーマは「大切に弾く」ことの「大切さ」…かぶってます。
少しでもうまく弾きたいとか、うまく弾けないとか、自分はうまくないとか…自分の演奏に納得できない人は(私もです)「上手な演奏」を理想にしています。そのくせ、何が上手なのか?について、じっくり考えもしないで「自分はへただ」と思い込む謎(笑)このテーマは過去にもブログで書きましたが、演奏する人にとって最大の「命題」です。
 音楽を大切にすることは、自分の考え方を大切にすることです。
もっと言えば、自分が生きること、生きていることを大切にすることだと思います。「けっ。安っぽい説教か」と思う皆様。ごめんなさい(笑)あくまで私自身の「懺悔」です。お許しを。
 ヴァイオリンを演奏して生活するための「学校」を卒業し、ヴァイオリンから20年間離れて生活したのは「生きるため」に他なりません。その長い時間を終えて「再スタート」してから18年と言う時間が経ちました。まだまだ演奏したい気持ちもあります。ヴァイオリンに「蓋」をした20年間がなければ今、ブログを書いている私も存在していません。
 楽器を演奏するひとは「じょうずに弾きたい」という一種の「麻薬」にはまります。楽器に限らず、スピードの出せる車に乗ると「もっと速く走りたい」という欲望=麻薬に駆られます。パソコンの性能も同じです。「もっと」と言う欲の根源が自分自身の力ではなく、他人の作った「比較」の世界から始まっていることに気付かないのが最も恐ろしいことです。
 楽器も音楽も「誰か」が造り出したものです。それをただ、演奏して楽しんでいるのが「演奏者」です。さらに他人が自分よりじょうずか?自分の方がじょうずか?は「他人の技術」の問題をただ自分と比較しているだけです。自分の技術とは無関係なことに、イライラしたり「負けない!」と思うのは考えてみれば「アホらしい」ことだと思うのです。
 自分の出している音を、練習中も大切に思う事。楽譜に書かれている音を、大切に思う事。楽器を大切に思う事。
大切にすることを「怯える」と同義語にしないことです。むしろ反意語「雑に扱う」「無視する」に注意すべきです。演奏することに怯えていては、大切にできません。テキトーに「チャラビキ」するのが最も「雑な演奏」です。
 いくら言葉や外見を装って「大切にしているの!風演技」をしても、聴く人には嘘がばれてしまいます。その違いは、時間が経てばたつほど、明確になります。偽物は時間と共に「劣化」します。本物は時間と共に「深化」します。絵画にしても文学にしても建築物にしても、時間が経っても人々に愛され続ける「本物」と、「中古」として価値が下がり続けるものに分かれます。
 演奏はその場だけの芸術です。録音は「時間を切り取ったもの」です。
私たちが演奏する「音楽」は、無意識にしている「呼吸」と同じです。
じょうずな「呼吸」を目指すより、呼吸できることに「感謝」するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の重さと軽さ

 映像はクライスラーの「美しきロスマリン」を代々木上原ムジカーザで演奏したときのものです。同じ曲を杜のホールはしもとで演奏した動画が下の映像です。

 テンポの違い、弾き方の違いで音楽のイメージが大きく変わることがお分かりいただけるかと思います。好みは人によって違います。今回のテーマである「音楽の重さ・軽さ」は音楽を演奏する人の「技術」に関わるお話です。

 そもそも、音楽=音には物理的な「質量=重さ」は存在しません。人間の感覚的なものです。音楽以外にも「重苦しい雰囲気」「重たい話」と言う言葉や、「軽い食感」など実際の「重さ」とは違う表現で「思い・軽い」と言う言葉を使います。音楽の場合の重さ・軽さとは?どんな感覚の時に使うのでしょうか?
「重く感じる音楽や音」
・遅い・長い音・大きい・芯のある音色
「軽く感じる音楽屋音」
・速い・短い音・大きくない・高い音
例外もあります。さらに前後との「相対=比較」でも重さは変わります。
当然、組み合わせられて、より「重く・軽く」感じるものです。
これは推論ですが、私たちが実際に感じる「重たい物・軽い物」を持った時の「感覚」と関係があるようです。
 重たい荷物を手に持って歩く時、遅くなりますよね?腕や肩、腰、背中、足にも「力」を入れます。長い時間や距離を歩くと息切れします。速く「下に置きたい」気持ちになります(笑)
 軽い荷物なら?何も持っていない時と同じ速度で歩けます。走ることもできます。もしそれまで、重たい荷物を持っていたら「軽くてらくちん!」と思うはずです。
 ところが!「重厚」と言う言葉と「軽薄」と言う言葉を考えると、どうも…重たい方が「偉いらしい」(笑)気もしますね。「重みのある言葉」とか「軽率な行動」とか。「重たいことはいいことだ」あれ?どこかで似たような歌を聞いた覚えが…(笑)重鎮…まさに偉そう過ぎて嫌われる人の事。

 音楽で重たく感じることが「良い」とは限りません。ちなみに「軽音楽」と言う表現でポピュラー音楽をまさに「軽蔑」するひとを私は「軽蔑」します(笑)
ブルースやジャズが「軽い」とは思いません。クラシックが「重たい」と言うのもただの先入観にすぎません。
 曲によって、重たく聴こえるように演奏したほうが「ふさわしい」と思える曲もあります。逆に軽く聴こえるように演奏「したい」と思う場合もあります。

 映像はフォーレの「シシリエンヌ」をデュオリサイタル12で演奏している映像と、デュオリサイタル9の演奏にぷりんの写真をつけたものです。
 一般にこの曲は、下の演奏のテンポで演奏されることが多いのですが、ゆったりしたシシリエンヌの場合「安らぎ」や「落ち着き」を感じる気がしてあえて、テンポを遅くして演奏してみました。これも好みが分かれますが「このテンポで弾かなければいけない」という音楽はあり得ません。弾く人の「自由」があります。それを聞いた人が「これもいい」と思ってくれるかも知れません。

 最後に、演奏を意図的に重くしたり、軽くしたりする技術について。
前述の通り重たく弾きたいのであれば、実際に「重たい荷物を持って歩く」時の筋肉の使い方を演奏中に感じてみることです。速くは出来ないはずです。力を抜いてしまえば荷物を落としてしまいます。常に「一定の力」を維持することが必要です。さらに坂道を上るとしたら…音楽で言えば「クレッシェンド」と「音の上行」が同時にあれば、ますます「遅く・苦しく」なるはずです。
 軽く演奏したいなら、身体の力を「外」に向かって開放するイメージで演奏してみます。楽器を「中心=コア」に感じて、楽器から外に向かって「広がる」イメージを持つと、筋肉の使い方が「外側」に向く力になります。脱力するだけでは、まだ「重さ」が残っているのが人間の身体です。重力には逆らえませんから(笑)、浮上することは出来ません。力を身体の外に「放出」する方向に力を使えば、軽くなるイメージがつかめるはずです。
 一曲の中にはもちろん、ひとつの「音」にも重さの変化が付けられます。
軽く弾き始めてから、徐々に重くできるのが弦楽器や管楽器、声楽です。
その「特徴」を最大限生かすことも、弦楽器奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

もしもピアノが弾けたなら♪

 映像は、ゲーテの詩にチャイコフスキーが曲を作った「ただ、憧れを知る者だけが」を、「ソ連」を代表する歌手「ヴィシネフスカヤ」が歌い、夫であるチェリスト「ロストロポーヴィチ」がピアノを演奏しているものです。
 次回のリサイタルで演奏するための「予習」で色々な演奏者の演奏を聴いています。そんな中でロストロポーヴィチのピアノが「うますぎる!」(笑)
 私自身、ピアニストの演奏技術については無知なので、この演奏が本当に「うまい」のか?ピアニストの方から見たものとは違うと思います。
 学生時代、ロストロポーヴィチが桐朋学園に来られた際、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを指揮し、ハイドンのチェロコンチェルト第1番を演奏して「実地訓練」(笑)をしてくださったことを懐かしく思い出します。
 指揮にしてもソロにしても「音楽の静と動」特に「前に進む音楽」を強く指示されていました。かと思えば弦セレの1楽章中にある「リタルダンド」部分で「アイシテル!アイシテル!ア・イ・・シ・・テ・・・ル~♪」と日本語で歌いながら「流れを止める」技術(笑)も見せてくれました。
 そんな偉大なチェリストが演奏する「声楽の伴奏ピアノ」を聴いて思い起こすのは、世界的なヴァイオリニスト「ヤッシャ=ハイフェッツ」のピアノ演奏です。実際に演奏している動画がこちらです。

 うますぎる(笑)「天は二物を与えず」って嘘だべ。
ここまで来たらこの人のピアノも(笑)フリッツ=クライスラーの演奏するドボルザークのユーモレスク。

 なんだなんだ!みんなピアノうますぎるぞ。
音楽高校入学試験に「ピアノ副科」があります。私も受けました。
高校・大学で副科のピアノは必修で試験も受けました。高校3年のピアノ副科試験でベートヴェンの「悲愴」1楽章を弾きました。スケール全調…その場で試験官の先生から指定される音階を私も弾きました。
 さらにさらに!20年間、中学校・高校の音楽教諭として合唱の指導で「音取り」のピアノも「伴奏ピアノ」も弾いていました。校歌も20年間、事あるごとに弾いてました。なのに。あーそれなのに(笑)どーして、私にはピアノがうまく弾けないのでしょうか。
 答えは簡単「うまくなる気がない」それだけです(笑)練習しないのに、うまく弾けるはずがありません。当然です。
 …ん?そうすると,ロストロポーヴィチもハイフェッツもクライスラーも「ピアノを練習した」のです。それ以外ありえません。あんなにチェロやヴァイオリンがうまい方たちが「ピアノもうまい」わけです。
仮説(笑)
「ピアノが楽器演奏の基本だからピアノもうまくなった」
「彼らはピアノを演奏するのが好きだった」
「チェロもヴァイオリンもうまい人はピアノもうまい」
「野村謙介は特にピアノがへたである」
恐らくすべて正解です。
ピアノを上手に弾ける方々を、心から尊敬しております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ジャンルを超えた「感性」

 八神純子さんの「パープルタウン」です。
ウィキペディアによれば…
[1958年1月5日、八神製作所創業家出身で後に同社第4代会長となる八神良三の長女として、名古屋市千種区で生まれる。
3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習う。幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を歌い続け、両親を呆れさせたという。
一方で、八神は自分の少女時代について「小学校の頃はすごく不器用でぎこちなくて、自分のことが好きではなかった。運動が得意な子はもてはやされ目立っていましたが、私は内気でまったく目立たない存在でした」とインタビューで語っている。
愛知淑徳高等学校に入学すると、フォークギターのサークルを作り、ギターを持って他校の文化祭へ行ったこともあった。ヤマハのボーカルタレントスクールにも通い始め、歌の練習に明け暮れていた。また高校在学中に曲を作り始め、1974年の16歳のときに初めて「雨の日のひとりごと」を作詞・作曲した。」
だそうです(笑)

 私と同世代の八神純子さんの歌う声に、学生時代から不思議な魅力を感じ、レコードを買い「オーディオチェック」にも使わせてもらっていました。ちなみに、当時オーディオチェックには「岩崎宏美」さんのレコードも良く使われていました。人間の「声」を美しく再生できることが良いオーディオの基準でしたので、この二人の声はジャンルに関係なく、多くのオーディオファンが聴いていました。

 ただ「高い声を出せる」とか「声域が広い」と言う歌手は他にもたくさんいます。また、その事を売りにしている歌手もいます。それはそれですごいと思います。私が「感性」と書いたのは、音の高さ…では表せない「歌い方」の個性を強く感じているからです。
 ヴァイオリンに置き換えるなら「音程の正確さ」「音量」よりも「演奏の仕方」です。
 歌は人間の声を使って音楽を演奏します。当然、一人一人の「声」は違います。楽器の個体差よりも、はるかに大きな個人差があります。聴く人の好みが大きく分かれるのも「声=歌」です。八神純子さんの「声」が好きなだけ?と問われれば…否定は出来ません(笑)
 八神さんの「歌い方の個性=技術」を考えてみます。

「ヴィブラートの使い方」
「長い母音の歌い分け」
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」
「音域ごとの声質の使い分け」
どれも「プロの歌手ならやってる」のでしょうね(笑)
もう一度、このポイントを覚えてから、映像の歌声を聞いてみてください。
「普通じゃない」ことに気付いてもらえると思います。
これらのポイントはすべて「ヴァイオリンの演奏」に置き換えられます。
「ヴィブラートの使い方」←そのまんま(笑)ヴァイオリンに言えます。
「長い母音の歌い分け」←長いボウイングでの音色・音量のコントロールです。
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」←弓を返してもフレーズを切らない。
「音域ごとの声質の使い分け」←弦ごとの音色の使い分けです。
ヴァイオリンでこれらのすべてが「個性」につながることは、以前のブログでも紹介しました。
 しかも八神純子さんの「正確さ」についても、述べておきます。
ピッチの正確さは、どの歌手にも劣りません。しかもピアノを弾きながら歌うことがほとんどの彼女が、バックバンドのドラムやペースのライブ音量=大音量の中でも正確に歌っている姿を見ると、ピアノの「音」を聴きながら同時に自分の声を聞き取ろうとしている…と推測できます。

 歌手の「うまさ」をどんな基準で測るのか?と言う問題には様々な意見があります。それはヴァイオリンやピアノの演奏技術、フィギアスケートの評価などにも言えることです。
「間違えないこと」が「うまい」ことは確かです。
では「間違えないだけ」がうまいことの「基準」かと言えば違います。
「他の人が出来ないことをする」のも、うまいの一つです。
言い換えれば、「まちがえない人」が、できないこと…これは「相対比較」なので無限にあります…をできるのも「うまい」ことの基準だと思います。
 たとえば「高い音にヴィブラートをかける」ことや「短い音にヴィブラートをかける」こと、ヴァイオリンなら「重音にヴィブラートをかける」←ヴィブラートの話ばっかり(笑)その他にも「音色の豊富さ」「音量の変化量」など、「正確」以外の要素も聴く人に感動を与える要素だと考えています。
 世界中に「歌のうまい歌手」はたくさんおられます。
それぞれの歌手が「個性的」で、聴く人の心に訴えかける「なにか」を持っています。その「なにか」を「人間性」と言う人もいますが、私はそれこそが「技術」だと思っています。
 自分の演奏を聴いて「いい演奏だ」と思える日が来るまで、人の演奏を聴いて感動することも大切な「貯金」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由に演奏する技術と知識

 映像はステファン=グラッペリさんのライブ映像。
ジャズ‥素人の私が勝たれるものは何もありません。
クラシック音楽の何を学んだのか?と問われて即答できるほど、学んでもいません。中途半端な知識と経験、貧弱な技術で音楽の「真髄」などに近づくことなどできない自分にとって、どうしてもグラッペリの演奏に「憧れ」を感じてしまいます。
 彼の演奏スタイルの、正しい名称が何であろうと、ただ彼の演奏を聴いていると「楽しい」「すごい」「素敵」と思えるのはなぜなのでしょうか?クラシックヴァイオリンの演奏技法との違いや共通点を「演奏から」推測してみます。

 テファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli、1908年1月26日 – 1997年12月1日)は、フランスジャズヴァイオリニスト

 彼の「音楽歴」について書かれているページはあまりありません。
幼い頃から庭や路上でヴァイオリンを演奏し、15歳頃にはプロとして活動していたようです。いわゆる「独学」「自己流」だと言えます。
音楽大学やレッスンで「習った」音楽ではなく、「自分の力で身に着けた音楽」です。習うことが上達の「近道」だと言われますが、それがすべての方法でもなく、最善の方法でもないことをグラッペリさんの演奏は物語っている気がします。

 

 上の映像はメニューインとグラッペリの共演映像です。
メニューイン…と言えば、今もクラシックヴァイオリン演奏技法を理論化した名ヴァイオリニストとしてあまりにも有名な演奏家です。そのメニューインが明らかにグラッペリに「引き寄せられている」のを感じます。深読みすれば、グラッペリさんの演奏技術が「自己流」だとしても、メニューインをもってして「まいりました!」な確かなテクニックをグラッペリさんが持っていることの証だと言えます。

 クラシック音楽は、楽譜に忠実に演奏することが基本中の基本です。
一方でジャズは、その場で即興演奏すること・できることが基本です。
明らかに両者の「基本」が違います。クラシック音楽を学ぶ人はまず「楽譜を正確に音にする」技術を学びます。一方でジャズを学ぶ…演奏しようとする人は「楽譜」ではない「演奏のルール・セオリー」を経験と知識で学びます。
ひとつの例で言えば、クラシック音楽のヴァイオリニストは「和音」だけを与えられれば「和音」で弾くことしかできません。良くて「アルペジオ」(笑)
一方でジャズヴァイオリニストはそこから「音階」や「旋律=メロディー」を即興で演奏します。それはクラシック音楽の世界で言えば「作曲」の分野です。
作曲し奈がが演奏することは、クラシックヴァイオリニストには求められません。
似たようなこと・それっぽい演奏をいかにも「即興でひいているのよ!すごいでしょ!」←なぜか女性の言葉遣い(笑)な人を見かけると、原チャリのマフラーを外して「おいら、世界一はやいぜ!」といきっているお兄ちゃんを思い起こします。あ、ごめんなさい(笑)

 クラシック音楽の世界で「カデンツァ」と呼ばれる「楽譜」があります。
本来、カデンツァは「即興演奏」で演奏者の好きなように演奏することを指す言葉です。現在、完全に演奏者オリジナルの「カデンツァ」を演奏するヴァイオリニストを見かけることはありません。楽譜の「一部分」を自分流に替えて演奏すれば「オリジナル」だとも言えますが、大部分は誰かほかの人が書いた楽譜をそのまま、演奏しているのが現実です。それでもカデンツァはカデンツァと呼ばれています(笑)
 カデンツァではありませんが、私と浩子さんがある曲を演奏しようとする時、参考にする「楽譜」がいくつもあります。それらの中で「いいとこどり」をすることも珍しくありません。その意味では「クラシック演奏とは言えない」とのお叱りはごもっともです。また「誰かのアレンジした楽譜を違う人のアレンジと混ぜるのは問題だ!」と言われれば、それも甘んじてお受けいたします(笑)
「盗作だ!」は違います。私たちが「作った」とは一度も言ったことはございません。
 私たちの演奏する「曲」は、旋律と和声を作曲した「作曲家」と、その曲をアレンジ=編曲した「編曲者」が別にいる場合があります。前者の楽譜をそのまま、忠実に演奏することもできます。また、その曲の一部(和声やリズムなど)を「アレンジ=編曲」して演奏することもできます。そういった楽譜が手に入ることも事実です。さらに言えば、クラシック音楽でも「リアレンジ」された楽譜はいくらでも手に入ります。ポピュラーだけではありません。「そんな楽譜はクラシックではない!」そうでしょうか?楽譜を書いた作曲家が「本当にそう楽譜に書いたのか?」という議論はクラシック音楽でもよくあることです。事実、作曲途中で作曲家が死去した場合、友人や弟子が残りの部分を「作曲」して完成させたクラシック音楽もたくさんありますよね?ダッタン人の踊りもその一つです。「楽譜の通りに演奏する」ことに異論はありませんが、「そうしなければクラシック音楽ではない」という考え方は間違っていると思います。

 最後に、演奏家がグラッペリさんのように「自由に」演奏するために釣ようなことを考えます。ひとつには「知識・セオリー」を覚えるための学習と練習が必要です。これは楽譜の通りに演奏している場合でも言えます。なぜなら、楽譜はランダム=無作為に音符や休符を並べたものではなく、聴く人が聴き馴染んだ「リズム」や「旋律」「和声」になるように書かれている「曲」だからです。
その曲をなんの知識もなく「音楽」にすることは不可能です。さらに、あるリズムがあったときに、それをどう?演奏すれば自然に聴こえるのか?と言うセオリーも覚える必要があります。それらを経験で覚えていくことが、自由な演奏につながる第一歩だと考えています。
 さらに、演奏者が演奏中に好きなように=思ったように「音を見つけ・作る」技術が不可欠です。これもクラシック音楽に当てはまります。「楽譜の通りに間違わなければ必要ない!」と思いがちですが、実際に音楽は「その場で生まれる芸術」ですよね?これから演奏しようとしている「音」は、その瞬間だけの命を与えられた音です。過去のどんな音とも違うはずです。その「新しい音」を出す時に、どんな音で演奏するかを考えることは、演奏家の責任ではないでしょうか?楽譜は「音」ではありません!
 「自由な発想」は「抑制・規制された発想」から生まれると考えています。
無人島でひとり暮らすことになって「自由でありがたい」とは思わないはずです。私たちの日常は、「しなくてはいけない・やってはいけない」ことの中でおこなわれます。その中で「してもよい・しなくてもよい」が自由に感じるのです。
音楽を演奏する時の「自由」は「何を弾いても良い」という意味ではありません。演奏者同士、あるいは聴く人との間の「調和の限界」を考えることができなえければ、本人以外が楽しむことはできません。それを学べるのは「経験」だけです。自分以外の人と演奏する経験、知らない人の前で演奏する経験、知らない音楽を演奏する経験…演奏は練習も含めて「経験」で作られているものです。
 自由な演奏が出来るように…地道に頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量(音圧)より大切なもの

 今回のテーマは、ヴァイオリンなどの弦楽器演奏に「より大きな音量」を求める傾向に物申す!です(笑)
映像は「手嶌葵」さんの歌声と[ロッド・スチュアート」の歌声です。
クラシックの「声楽」とは明らかに違う「歌声」です。好き嫌い…あって当たり前です。特に人間の「声」への好みは、楽器ごとの個体差とは違い、本能的に持っている「母親の声」への反応を含めて好き嫌いが明確にあります。
 大学時代に副科の声楽で「発声方法の基本」をほんの少しだけ学びました。
印象を一言で言えば「難しすぎてなんもできん」(笑)中学時代、合唱好きだったのに…。声楽専攻学生を尊敬しました。
 ポピュラーの世界で「歌う声」には、何よりも「個性」が求められます。
過去に流行った歌手の歌い方を「真似る」人が多い現代。個性的な「歌声」の人が少なくなってきた気がします。
 それはヴァイオリンの世界にも感じられます。
特に「音量」を優先した演奏方法で、より大きく聴こえる音で演奏しようとするヴァイオリニストが増えているように感じています。
 楽曲が「ヴァイオリンコンチェルト」の場合と「ヴァイオリンソナタ」の場合で、ソリストに求められる「音」にどんな違いがあるでしょう?

 まず「レコーディング」の場合には、ソリストの大きな音量は必要ありません。それが「コンチェルト」でも「演歌」でも、技術者がソリストと伴奏のバランスを後から変えることができることには何も違いはありません。
 一方で、生演奏の場合は?どんなに優れたヴァイオリニスト(ソリスト)が頑張っても、物理的に他の楽器との「音量バランス」は変えられません。むしろ、他の演奏者が意図的に「小さく」演奏するしかありません。さらに言えば、ヴァイオリンコンチェルトの場合、オーケストラのヴァイオリニストが10~20人以上演奏しています。その「音量」とソリスト一人の「音量」を比べた場合、誰が考えてもソリストの音量が小さくて当たり前ですよね?20人分の音量よりも大きな音の出るヴァイオリンは「電気バイオリン」だけです(笑)
仮にオーケストラメンバーが「安い楽器」で演奏して、ソリストが「ストラディバリウス」で演奏しても結果は同じです。むしろ逆にオーケストラメンバーが全員ストラディバリウスで演奏し、ソリストがスチール弦を張った量産ヴァイオリンで演奏したほうが「目立つ」と思います。
 ヴァイオリンソナタで、ピアノと演奏する場合でも「音圧」を考えればピアノがヴァイオリンよりも「大きな音を出せる」ことは科学的な事実です。
ヴァイオリンがどんなに頑張って「大音量」で演奏しても、ピアノの「大音量」には遠く及びません。
 音量をあげる技術は、小さい音との「音量差=ダイナミックレンジ」を大きくするために必要なものです。ただ「ピアノより大きく!」は物理的に無理なのです。ピアノ=ピアノフォルテの「音量差」はヴァイオリンよりもはるかに大きく、ヴァイオリンとピアノの「最小音」は同じでも、最大音量が全く違います。
 ピアニストがソロ演奏で「クレッシェンド」する音量差を、ヴァイオリン1丁で絵実現することは不可能です。つまりピアニストは、ヴァイオリニストに「配慮」しながら「フォルテ」や「フォルティッシモ」の音量で演奏してくれているのです。ありがとうございます!(笑)

 ヴァイオリンやヴィオラで大切なのは、より繊細な「音量の変化」「音色の変化」を表現することだと思っています。そもそも、ヴァイオリンなどの弦楽器は作られた時代から現代に至るまでに、弦の素材が変わり、基準になるピッチが高くなったこと以外、構造的な変化はしていません。今よりも小さな音で演奏することが「当たり前」に作られた楽器です。レコーディング技術が発達し、音楽を楽しむ方法が「録音」になった今、録音された「ソリストの音量=他の楽器とのバラ数」を生演奏に求めるのは間違っていると思います。そもそもヴァイオリンの音色や音量を分析して「音の方向性」「低音高音の成分」を分析してストラディバリウスを「過大評価」しても、現実に聞いた人の多くが聞きわけられない現実を考えた時、聴く人間が求めているのは「演奏者の奏でる音楽」であり「大きな音」や「イタリアの名器の音」ではないはずです。ヴァイオリンの音量を大きく「聞かせる」技術より、多彩な音色で音楽を表現できるヴァイオリニストになりたいと思うのは私だけでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弾く側・聴く側のホール選び

映像はヘンデルのオンブラ・マイ・フを私と浩子さんが演奏したものです。上の演奏は5回目ののデュオリサイタルで客席数520名「杜のホールはしもと」で、下の映像は同じデュオリサイタル5で最大定員200名ほどのサロンホール「代々木上原ムジカーザ」での演奏です。
 今回のテーマは、演奏者と聴衆がそれぞれの立場で「演奏会場の大きさ」「響き」の違いをどうのように感じているのか?というものです。

 以前のブログで会場ごとの「残響」や「響き」の違いがあることを書きました。一般的に「音楽ホール」は余韻が長く「多目的ホール」は逆に余韻が短い特徴があります。その理由も以前書きましたが、スピーチやら億語など「言葉の聞き取りやすさ」を考えれば余韻は短い方が適しています。
 さて、演奏する側で考えた場合「演奏しやすい」「気持ち良く演奏できる」ホールがあります。ひとつの要因は「演奏した音の演奏者への戻り方=聴こえ方」です。ポップスコンサートの場合「モニター=跳ね返り・返し」と呼ばれる演奏者に向けたスピーカーを設置することが多くあります。特にボーカル(歌手)が自分の歌っている声が自分に聴こえるようにするための工夫です。
 クラシックコンサートで、演奏者が自分の出している音が「聴こえない」という事は通常あり得ません。ピアノの音が大きく聴こえすぎて、自分のヴァイオリンの音が良く聴こえない…とすれば、立ち位置を考えれば解決します。
 自分の楽器の「直接音」ではなく、会場内の空間に広がった音が、舞台に「戻ってくる」音が聴こえるホールが「演奏しやすい」ことに繋がります。
ただその「戻ってくる音」は直接音より遅れて=後から聞こえてきます。その時間差が大きすぎれば逆に演奏しにくい環境になります。また山彦のように「重なって戻ってくる音」も気持ちの良い音ではありません。
リハーサル時、ステージ上で手を「ぱんっ」と叩いてみると、会場の残響がステージにどのように?どのくらい?返ってくるのかを確かめられます。本番で客席が満席の場合、残響時間は明らかに短くなります。音の戻り方も変わります。
 サロンホールの場合、基本的に残響時間は短くなります。それでもムジカーザは演奏者にも聴衆にも「気持ちよい残響時間」がある希少なホールです。
演奏者に1番近い位置で聴いても、残響を感じられます。もちろん、ヴァイオリンやピアノの「直接音」も楽しめます。これは「聴く側」がサロンホールで楽しめる「独特の響き」です。

 演奏する会場の大きさと客席数は比例します。ただ「残響」は必ずしも一定には変化しません。
1.小さいスペースで残響が短い(一般の日本家屋の室内・お寺の構内など)
2.小さいスペースで残響が長い(天井が高く壁や床が石造り)
3.広いスペースで残響が短い(野外での演奏)
4.広いスペースで残響が長い(教会や音楽専用ホール)
少人数のアンサンブルなら上記「2」か「4」が理想ですよね。
ただ広く・大きい会場の場合「使用料金」が比例して高くなります(笑)
使用料に見合う「収入」をあげるための「集客力」が求められます。

 大編成のオーケストラ演奏を聴くなら「大ホール」で残響時間の長い「響き」で楽しめます。一方、小編成の室内楽は、直接音と残響を楽しめる「小ホール」「サロン」で聴きたいと思っています。コンサートを企画し開催する「主催者」の収益を考えるなら、大ホールで集客する方が効率的に高い収入を得られます。
 杜のホールを満席にする集客力のない私たちの場合は、ホール使用料金を考えれば、サロンや小ホールでの開催しかありえません(笑)
ムジカーザのような「響きの良いサロン・小ホール」がもっと増えることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「なんとなく…」の少ない演奏や演技が大好き!

 映像は、私たち夫婦が大好きな「パトリック・チャン」のスケートによる「演技」です。フィギアスケートが「競技スポーツ」である場合、やれ「何回転ジャンプ」が成功しただの、着氷がどうしただので「減点」されて順位が決まるのは、音楽のコンクールでの「順位付け」と似ています。。ただ、私たちは同じ競技スケートでも、彼の「技術の高さ」が他の選手たちと根本的に違って感じます。それが何故?なのかを考えていきます。

「なんとなく滑っているだけ・動いているだけに見える時間が少ない」のが彼のスケートの魅力です。通常の「振付」だと、なんとなく音楽に合わせた「ようにに見える」動きなのに対し、彼は「動きに合わせた音楽」を選び、時にはつなぎ合わせて作り、さらにその音楽を動きで表現しているように見えます。この違いです。手をあげる…運動一つでも、なんとなく挙げているようには見えません。
 以前、スケート選手だった織田さんが「彼のコンパルソリー技術(昔の規定演技)はものすごいんです。一蹴りで恐ろしい速度で恐ろしい距離を滑るんです。スケーティングの時、エッジで氷を掴む音がものすごく大きい!」という話をされていました。何が違うのか?素人にはわかりませんが、オリンピック選手でさえ驚く「特定の技術」があることは確かです。

 「なんとなく音を出しているだけ・弾いているだけに聴こえる音が少ない」
これが私たちの好きな演奏・目指す演奏の一つの「理想」です。
何も考えずに・何も感じないで演奏している「演奏家」はいないと思います。
ただ聴いていて、なにも感じない「音=時間」が多い演奏と少ない演奏があるように感じます。聴く側の感性…好みの問題もあります。演奏者の表現が「内に秘めた表現」なのかも知れません。大げさなら良いとは思いません。
分かりやすい別の例えをしてみます。
以下の動画はある韓国ドラマの「日本語字幕版」と同じ場面を「日本語吹き替え版」で比較したものです。韓国語がわからなくても、「役者さんの話し方=演技」と日本人声優さんの「声の演技」の違いです。みなさんにはどちらが「自然」に感じるでしょうか?

 日本語に吹き替えてあることで、字幕を見なくても「話している内容」が理解できますが、実際に演じている韓国人の役者さんが話す「台詞(セリフ)」を声優さんが聴いて「それらしく」声で演技をしています。
 吹き替えは、実際のセリフを訳した台本を、元の音声の「タイミング」に合わせて声優さんが話して「合成」したものです。見ていて「不自然」に感じることは仕方ありませんが、楽譜を音にする私たち演奏家は、聴く人が「自然に聴こえる」演奏技術が必要だと思います。「棒読み」と言う表現は、
・文章の内容を理解していない
・「強弱」「緩急」「抑揚」がない
・「平坦で無表情な音読」
を言います。演奏を聴く人が「棒読み=棒弾き」に聴こえないように「こだわる」演奏が好きです。
 得点を競う「競技」と違い「芸術性」は点数化できません。
何かを感じる演奏…聴く人が専門家でなくても、クラシック音楽を普段聞かない人でも「なにか感じる」演奏を意識して表現したいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

ヴァイオリンで弾くか、ヴィオラで弾くか。

 上の映像は、私と浩子さんがヴィオラで演奏したドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」下の映像は、チェリスト長谷川陽子さんの同曲。
この曲をヴァイオリンで演奏してみよう!と思い立ちました。
…って今更(笑)、元よりクライスラーが編曲している時点でヴァイオリンで演奏するのが「先」かも。

 同じ人間(私)が同じ曲を演奏しても、違う音楽になる不思議。
しかも、11月に木曽町で開かれるコンサートでは、私のヴァイオリンではなく木曽町が所有する陳昌鉉氏製作のヴァイオリンを使って演奏する企画です。
ヴィオラはいつも愛用している陳昌鉉氏が2010年に製作された楽器です。
 同じヴァイオリン製作者の作られたヴァイオリンとヴィオラを、一人の演奏者が持ち替えながら演奏するコンサートです。ヴァイオリンとヴィオラで「大きさ」が違うのは当然ですが、ヴァイオリンにも微妙な大きさ、長さ、太さ、重さ、厚みの違いがあります。日頃使い慣れているヴァイオリンとは、かれこれ45年以上の「相棒」ですが、ヴィオラはまだ12年の「お友達」。木曽町のヴァイオリンは昨年も演奏しましたが、まだ「顔見知り」程度の関係です。

 ヴィオラとヴァイオリンを演奏できる友人、知人がたくさんおられる中で偉そうに書いて申し訳ありません。恐らく私だけではないと思うのですが、ヴィオラを手にして演奏しようとすると「ト音記号がすぐに読めない」と言う現象が起こります。正確に言えば「どの高さのド?なのか考えてしまう」のです。ヴィオラを持つと頭の中で「アルト譜表」と「ヴィオラの音=弦と場所」が、自動的にリンクします。色々な譜表が入れ替わるチェロやコントラバスを演奏する方々を心から尊敬します(笑)

 楽譜を見ないで演奏するようになってから、ヴィオラで演奏していた曲をヴァイオリンに持ち替えて演奏したり、その逆に持ち替えて演奏することが時々あります。ヴィオラで「しか」演奏したことのない曲を、ヴァイオリンの生徒さんにレッスンで伝える時、まず浩子さんに「ト音記号」の楽譜を作ってもらうことから始まります(笑)それは良いとして、楽器を持ち替えて演奏する時の「恐ろしい落とし穴」がありまして…。ヴィオラで演奏している曲を、ヴァイオリンで弾く時、音域が!(笑)ヴァイオリンの最低音「G=ソ」なのを忘れて弾いてしまう恐怖。同じ調=キーで演奏する場合に一番「恐ろしい」ことなのです。
ヴィオラの「中・高音」はヴァイオリンでも当然演奏できますが、音色がまったく違います。筐体=ボディの容積も、弦の長さ、太さも違うので、倍音も変わります。つい「ヴィオラのつもり」でヴァイオリンを弾いてしまうと「…ファ…!」になることもあるので、オクターブを考えて弾き始めることが「要=かなめ」です。
 ヴィブラートの深さ、速さもヴァイオリンとヴィオラでは変えています。
弓の圧力、速度も違います。「慣れる」ことが何よりも重要です。
母の教え給いし歌を、ヴァイオリンで演奏している動画はたくさんあります。
私にとってこの曲は今まで「ヴィオラ」で演奏する曲でしたので、どこまで?どの程度?ヴァイオリンらしく作り直すか…陳昌鉉さんのヴァイオリンにも慣れながら、さらにその3週間後のリサイタルでは、自分のヴァイオリンで違うプログラムを演奏する練習も同時進行です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上達の個人差はなぜ?生まれるのか。

 今回のテーマは「個人差」について考えるものです。
人はそれぞれに違う「個体」です。育つ環境も違います。当然、性格も容姿も違います。それらの「人」が他の人と同じようなことができることと、出来ない(と感じる)ことがあります。
 二本の足で歩くことが難しい人も、たくさんいます。多くの歩ける人たちの中で、走れる人がいます。これも多くの人間が出来ることです。その走る行為の「速さ」を比較したとき「個人差」が現れます。100メートルを何秒で走ることができるか?たった数十年の間に「10秒以下」で走る人が次々に現れました。これは人間が進化したのでしょうか?それとも科学の進歩で、人間の筋力を増強する「技術」の成果なのでしょうか?
 同じ時代を生きる人たちの中で「能力差」があります。演奏にも「個人差」があります。「感性の違い」「解釈の違い」もあれば、「演奏技術の違い」もあります。たとえば、同じ年齢の何人かの子供たちに対して、意図的に同じようなレッスンをしたとしても、演奏技術の上達速度には必ず「個人差」が生まれます。
当然、評価も「同じ基準」で行う必要があります。例えば、リズムを正確に演奏する能力・ピッチを正確に演奏する能力・音名や用語を覚える能力などの違いです。練習環境・練習時間の違いが最大の要因であることは間違いありませんが、それ以外にどんな「違い」があるのでしょうか?

 「知識」「聴覚」「運動」の三つの観点から考えます。
 まず、知識を覚える「能力」と「好奇心」の個人差です。単純に楽器で音を出すというレベルでも、弦の名前やダウン・アップの違い、指番号など「覚える」ことがいくつもあります。それらを覚えることは「学習能力」とも呼ばれます。
同じ月例・年齢の子供でも、大人でもその能力や好奇心に大きな差があります。
教え方による違いもありますが、習う側の「個人差」が顕著に現れます。

 次に音を聴き、音の高さを聞きわける「聴覚」の個人差です。
いわゆる「聴力」とは違います。二つの違う高さの音を「どっちが高い?」と答える感覚の問題です。幼児の場合、言語化する能力の違いはありますが、大人の場合は「聴覚の違い」が明らかにあります。この感覚はトレーニングによって精度が上がります。幼児の時期から「音の高低」を聞きわける習慣のある・なしで、大人になってからスタートする楽器演奏技術に影響します。
音の高さを判別する力を判断する実験方法があります。試してみてください!
日本語…できれば標準語で(笑)以下の言葉で「音の高低」を答えられますか?
「かっぱ、ラッパ、かっぱらった。」
まず、「かっぱ」の「か」が高いか?「ぱ」の方が高いか考えてください。
両方を同じ高さで発音すること「も」できますが、あえて大げさに発音する時、どちらかが高くなり、もう一方が低くなります。さぁ!どちらでしょうか?
高い王の音をドレミファソの「ソ」で、低いと思う方の音を「ド」で弾いてみるとわかりますか?
「ド・ソ」か「ソ・ド」のどちらが「かっぱ」に聴こえますか?
童謡に「ラッパ」も「ド」と「ソ」の組み合わせで「ラッパ=トランペット」に聴こえるのは?
最後の「かっぱらった」の「か」「ぱ」「ら」「た」に「ド」を二つ、「ソ」を二つ当てはめて答えてください。正解は次回ののブログに(笑)うそです。

正解
かっぱ=ド・ソ
ラッパ=ド・ソ
かっばらった=ド・ソ・ソ・ド
です。当たってました?
方言によって違っていたらごめんなさい。
例えば「顎=あご」を岡山弁では「あご=ソド」あを高く言います。標準語では「あご=ドソ」ごを高く発音します。子供の頃、両親の岡山弁を聴いて育った私は、東京の小学校で「ソド」であごの事を普通に言っているつもりで、笑われた記憶があります。これらが「音の高低」を判断する聴覚です。皆様はいかがでしたか?
 ヴァイオリンで、ほんの少しだけ高すぎたり、低すぎたりして、先生から「音程!」と言われ続けたのは私です(笑)いわゆる「ピッチ」に対するセンサーの制度を高めるトレーニングが大切です。チューナーを有効に正しく活用することを強くお勧めします。
 ピッチだけではなく、音色を聞きわけるのも聴覚です。
高音の成分が多い音と少ない音の「音色の違い」を聞きわける技術。
たとえば、駒の近くを演奏したときの音色と、指板の近くを演奏したときの音色の違いです。駒の近くの音は「硬く」感じます。高音の成分が多いのが原因です。弓が少しだけ「跳ねている音」だったり、隣の弦に弓の毛が振れている「雑音」だったり、弓を返す瞬間の「アタック」だったり。聴かなければわからないこと=聴いて判別することがたくさんありますね。

 最後の個人差が「運動能力」です。足が遅いとか、球技が苦手…というお話ではありません(笑)楽器を演奏するために、指や腕を動かします。それが「運動」です。ヴァイオリンを演奏する大人の生徒さんが、弓やネックを「ちからいっぱい」握りしめている…一番多く見られる問題の一つです。
そもそも、4歳の子供でもヴァイオリンを演奏できるのに「大の大人」の握力・筋力が必要だと思いますか?(笑)4歳児と手をつないだ時の「弱さ=柔らかさ」で十分なのです。大人は身体がかたい・子供は柔らかい…とは限りませんよね。子供でも屈伸が出来ない子供もたくさんいます。大人でも180度開脚できる人はたくさんいます。思い込み=大人の言い訳を捨てましょう(笑)
 子供の筋力が大人より弱いのに、子供がヴァイオリンコンチェルトをバリバリ演奏できるのは?
「あれは子供用のヴァイオリンだから」いいえ(笑)普通のグランドピアノでショパンやリストを演奏する子供の場合、オクターブ届かないのにちゃんと弾いている動画を見かけます。ヴァイオリンだけは、子供の身体の大きさに合わせた楽器がありますが、大人用のヴァイオリンと構造も材質も全く同じです。つまり、子供の運動能力でヴァイオリンは演奏できる!ということです。
「私は運動神経ガ鈍いから」「体育の成績が悪かったから」大人の言い訳ですね(笑)これも無関係です。楽器の演奏に必要な「運動能力」は特殊なものです。
「瞬間的な運動」と「持続する運動」を使い分けることです。
さらに「脱力」も瞬間的な脱力と、徐々に脱力する運動があります。
難しいのは前者「瞬間的な力」を入れたり、抜いたりする運動を体得することです。以前のブログで、何度か書いていますので参考になさってください。
 力の「量」は少なくて良いのです。4歳児の「筋力」で良いのです。
プロの演奏を見ていると、物凄く筋力を使っているように見えるのは「外見的」なものです。ちなみにオーケストラの演奏中に一番、筋力を使う人は?
たぶん指揮者だと思います。え?まさか?と思う方、ぜひオーケストラの演奏動画で「引き画面=全体が映っている映像」をしばらく見てください。一番運動しているのは、指揮者だと思います(笑)

 最後に上記の「個人差」で演奏家の優劣が決まるか?というお話です。
結論から言えば「優劣ではなく個性になる」ということです。
大人になってから楽器を始めて、プロになる人は珍しくありませんし、むしろそれが自然だと思います。子供が大人のような演奏をすることの方が「異常=普通ではない」なのです。子供のころから習っていないからうまくならない…それも大人の言い訳です。むしろ、楽器の演奏以外の職業のほとんどは、大人になってから技術を学ぶものですよね?
 楽器の演奏練習で、子供と大人の違いは?
「自由に使える時間の量」だけです。
厳密に言えば「言葉の読解能力」や「集中力の長さ」「筋力」で言えば、大人の方が優れています。国や地域、家庭環境によっては、子供の頃から働かなくてはいけない=自由な時間がない子供もいます。多くの大人は自分で生活する「お金」を稼ぐために仕事をしなければなりません。自由な時間が少ないのは事実です。それぞれに「練習できる時間」に差があります。ただ、それだけ=時間の多さが「演奏家になる=上手に演奏めの条件」ではありません。
 プロの演奏家に求められる「技術」を趣味で演奏を楽しむ人が求めたい気持ちは理解できますし、憧れの演奏を真似することも楽しいものです。趣味の演奏と「プロ=職業演奏家」の演奏に、明確な違いや基準はありません。プロになれる練習方法や最低限の練習時間も、明確なものはありません。
どんな人でもじょうずになれます。到達レベル、目標レベルは人によって違います。上達速度に個人差があるように、あるレベルに到達するための「期間」も個人差がります。年齢に制限はありません。大人だからできない…と思い込むのは大人だけです(笑)逆に言えば、小さいときから練習すれば必ずじょうずになるとも言い切れません。「継続は力なり」です。やめないこと、あきらめないことで得られる「上達」を自分個人のものとして受け入れ、楽しむことが最も大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

19歳の自分を観察する62歳のおじさん

 映像は、1980年の窪田良作先生門下生発表会で演奏した、シベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。ピアノは大先輩の高橋せいたさん。
まぁヴァイオリンの演奏、傷だらけだこと(笑)きっとこの後の「点の声」メモは「音程!肘!」とか先生の怒りが込められていたと思われます。
 当時19歳。大学1年生の年度末実技試験の直前だったはず。
前年にハチャトリアンのコンチェルトを高校卒業試験で弾いて、何か成長しているのか?と思い返しながら聴いてみました。

 久保田先生のレッスンで、新しい曲を始める時には、直前に演奏した門下生から弓と指を写させてもらうのが慣例でした。レッスンではスケール、エチュード、曲を見て頂きます。曲の歌い方や解釈について、生徒の感性を優先してくださり、細かいニュアンスを「こうしなさい」と言うお話をされた記憶はありません。もしかすると諦められていた私だけ?(笑)でも、時折素晴らしい声で歌ってくださることが、何よりも記憶に残っています。
 それにしても…このシベリウスは…(笑)
さらっていない?わけではなさそうですが、「練習が足りない」の一言に尽きます。当時も卒業時も久保田先生に「他の先生方からも言われるんだよ。野村くん、もっと練習すればもっとひけるのにねぇって。」
私「心を入れ替えます」
先生「その言葉、毎回聴いてるよ」
撃沈…
実際、なんでもっと練習しなかったのかな~と今更思って見ます。
一言で言えば「欲が足りない」のだと思います。それは現在の私の生徒さんたちに「しっかりちゃっかり」引き継がれています。まずいぞ…
 さらに言えば、高校大学時代の友人が「うますぎた」という「他人のせい」にしてみます。←さいてー。高校時代の同級生、金木(チェロ現在棟フィル首席)と木全(ヴァイオリン現在N響)は、そりゃまぁうまかったわけで。
大学に進んで。木全はN響に入団が決まり入学後すぐに退学。大学から同期になったヴァイオリン専攻の人とは交流がない。なんとなく?過ごしていた気もします。ダメだろ(笑)
 今聴いてみると、シベリウスの音楽に「何か」を感じているらしい…のですが、技術が追い付いていないわけで、今私がこの学生に言うなら「このままだと、ただの石ころで終わるよ」かな?言えるかな(笑)

 音楽高校音楽大学で、たくさんの人たち色々なアンサンブルをさせてもらいました。高校時代は、弦楽カルテットを同期の友人と。大学に入って、先輩に声をかけてもらって、ピアノカルテットのヴァイオリンやヴィオラ。ピアノトリオ。ピアノとと二重奏。ホルンカルテットとフルートカルテットでBヴィオラ。なんやかんやと毎日のように夜9時まで、なにかの「合わせ」をしていたような記憶。自宅に帰るのが億劫になり始め、両角寮=男子寮に転がり込んで寝たこともしばしば。
 大学1年でなぜか?学生会の役員に「やって」と先輩に言われて(笑)、とうほ際の前後夜祭担当のお仕事をもらい、プレハブの学生会室に入り浸り、「小澤まめ兄」と出会いました。レパートリーオーケストラに昇進(笑)させてもらって、初めてのオケ合宿で北軽井沢。定期演奏会デビューのはずの「ハイドンバリエーション」で張り切っていたのに、直前に「盲腸=虫垂炎」で手術入院。忘れもしない9月4日。パンダのランランかカンカンが死亡したというニュース速報を、手術待ちの病院テレビで聴いていました。どーでもいいことを覚えている…
 大学1年からは「桐朋祭の鬼」と化し(笑)、毎日学生会室で過ごす日々。
さらっていた記憶が…ほぼない。


 

 

なんか…青春しているなぁ(笑)大学時代、一番長くいた場所がもしかすると学生会室、次が学生ホール、その次が事務実(笑)、さらっていたんだろうか…。
でも室内楽のレッスンは色々受けてました。浩子さんと当時「彼氏」だったチェリストとピアノトリオで、原田幸一郎先生と田崎悦子先生が帰国されたばかりで、まだ桐朋の先生ではなかったのに希望を出したらレッスンをしてくれた思い出。大学2年でマスターオーケストラに昇進させてもらって、演奏旅行にも連れて行ってもらいました。春の祭典、第九は印象深いです。でも…さらってなかった(笑)なんででしょうねぇ。プロオケの「トラ」にも行かせてもらうようになって、勉強になりました。アマチュアオケのトラもたくさん行かせてもらって、当時一番ギャラの良かった「スタジオ」もたくさんやりました。夜の9時から深夜までレコーディングスタジオで、演歌やら童謡やら歌謡曲の録音。キティスタジオで熱海?に泊りがけのお仕事があったり。横浜の「ホテル ザ・横浜=通称ザヨコ」で毎週披露宴でヴァイオリンを演奏するお仕事もしてました。栗原小巻さん主演「桜の園」のお芝居を下北沢の劇団「東演」が上演したときには、東京公演一か月と地方公演一か月、ずーっと「ユダヤ人の楽士」役で衣装を着て参加してました。練習するより楽しい」ことがたくさんあったような気もしますが、練習から逃げていたことも事実です。

 練習嫌いだった私が言うので説得力はありませんが(笑)、音楽を演奏するために必要な「技術=テクニック」は練習で身に着ける以外、方法はありません。
ただ…音楽を感じる「センサー」や「アンテナ」は練習では得られません。
さらに、友人の練習や演奏を観察することで得られる「情報」もひとりで練習していても得られません。レッスンで師匠から学べること「以外」に、学ぶべきこと、磨くべきものはたくさんあると思います。友人との会話や音楽以外の生活からも、「人として」学ぶべき時期に学ぶものがあります。
 技術と共に「人としての魅力」を若い時に学べるか?年をとっても「人間らしい音楽家」でありたいと思っています。そして、もし!40年前の自分に会えるなら「さらいなさい!」…言っても聞かないだろうけど(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

音楽の印象を変える演奏方法

 映像はデュオリサイタル10で演奏したピアソラのリベルタンゴです。
すべての音楽は演奏者によって異なります。仮にまったく同じ楽譜を演奏したとしても演奏者が違えば、テンポも音色も音量も違って当たり前です。
 同じメンバーで同じ楽譜を演奏しても、弾き方を変えれば印象は変わります。
リベルタンゴは過去に何度も演奏してきました。また11月の木曽町でも演奏しようかな?と思って過去の自分の演奏を見直しています。

 こちらのリベルタンゴはデュオリサイタル4で演奏したときのものです。
冒頭の演奏と聴き比べて頂くと、違いを感じて頂けるかと思います。
楽譜はデュオリサイタル4で演奏したときのものがベースです。このアレンジに手を加えたのがデュオリサイタル10の演奏です。楽譜が違うだけ?ではありません。アクセントの強さ、音色も変えた「つもり」ですが(笑)
 好みが分かれることはどんな音楽を演奏しても、聴いてもあって当然です。
演奏者が演奏の「スタイル」を変えることは、リスクを伴うものです。YOUTUBEでもCDでも、同じ演奏が気に入れば何度も繰り返して聴いたり見たりするものです。演奏の細かい部分までが聴こえるようになることも珍しくありません。その演奏の「個性」として感じるようになります。言い換えれば「特定の演奏が好き」になることです。そのお気に入りの演奏に期待して、ライブ=コンサートでの生演奏を聴きに行ったひとが「違和感」を感じることもあります。「ライブあるある」なのですが、ポピュラー音楽でもこの話題は耳にします。歌手、演奏者によっては「ライブだからこそCDと違う演奏を聴いてほしい」と考える人と、逆に「CD=以前の演奏とと同じ演奏を心掛ける」人に大別されます。演奏者の「考え方」の違いです。クラシック音楽でも珍しい話ではありません。演奏するたびに「変化」するのが自然だと思っています。それが仮に「一か月」という短い時間経過であっても、演奏は変わるものだと思います。
ましてや何年も経てば、演奏者自身の成長と変化があります。成長は年齢とは無関係ですが、肉体的な衰えがあるのも極めて当たり前のことです。衰えた筋力や運動能力を「経験」で補い成長することもあります。

 弾き方を変える「理由」にはどんなことがあるでしょう。
ただ思い付きで「行き当たりばったり」に代わるのはむしろ練習不足だと言えます。練習の段階で、今までのひき方に疑問を感じる場合もあります。さらに年齢を重ねて「感じ方」が変わる場合もあります。若いころには魅力を感じていなかった曲の「良さ」を感じたりします。逆の場合もあります。単に「飽きた」という事ではなく、魅力が薄れて感じられる場合も珍しくありません。
 演奏方法がいつも変わらない人を「悟りを開いた」(笑)ある領域に到達した人だと見ることもできます。聴く側にすればそれでも問題ありません。好きな演奏をいつでもしてくれるのですから(笑)つまり「特定の演奏」が好きになるのは「録音された音楽」でしかありえないのです。それを演奏者が生演奏で再現する必要があるでしょうか?録音と同じ「音」を生の演奏会場で完全に再現することは、物理的に不可能です。CDとまったく同じ「音」の演奏をライブ=生演奏に期待すること自体が間違っています。ライブの「良さ」は、その瞬間の良さです。再現は出来ないのがライブです。私自身が、自分たちのライブ映像をたくさんアップしている理由の一つはそこにあります。
 クラシック音楽は「生演奏」こそが楽しめるものだと思うようになりました。
その自分が演奏会で、どんな演奏をするのか?を自問自答しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

演奏家の「in put=入力」と「out put=出力」

 映像はヴィヴァルディの二つのヴァイオリンのための協奏曲 第2楽章。
久しぶりに生徒さんのレッスンに採用(笑)です。
 今回のテーマは、音楽を「読み込み」「解釈・練習」「演奏」までの流れを考えるものです。オーディオ好きの人なら「in put・out put」が何を意味するか想像できますね。一昔前の「レコード針とカートリッジ」がオーディオの「入口」でした。そこから「神経」でもあるケーブル=コードを通って、「プリアンプ」に到達。そこで音作りが「処理」されます。さらにケーブルで「メイン暗譜=パワーアンプ」に到達し電気信号が「増幅=大きく」されます。さらにスピーカーケーブルを通った信号は出口である「スピーカー」に到達し、コーン紙を振動させ筐体=箱の中でさらに響いて、最終的に「音」として私たちの耳に伝わります。長い道のりです(笑)

 今でも行われる「録音」でも、入口と出口があります。
演奏される「音」は空気の振動です。それを「マイクロフォン」が電気信号に変えます。これが「入口」。そこからケーブルを通って「ミキサー」…料理用ではない…に到達し「増幅」されます。そこで処理され、昔なら「オープンリールテープデッキ」今ならPCMレコーダーに到達し電気信号として「出力」され記録されます。宇宙語が並びましたが、ここから演奏の話です(笑)

 生徒さんの中で「出力方法がわからない」タイプの人が多く見られます。
 演奏の場合「入力」は「楽譜を読む」「音源を聴く」ことです。それらを自分の感性と身体を使って練習して「出力=演奏」するプロセスがあります。
 もちろん、楽譜を読むことが苦手な生徒さんもいます。時間をかけて自分の脳に「入力」します。その時点では、まだ自分がどんな風に?演奏したいのかという「目標」が見えないことがほとんどです。練習を「処理」と例えると味気ない気がしますが(笑)事実、入力した情報を自分なりに解釈したり、考えたりすることは「処理=演算や計算に近い作業」です。
 考えた結果、目指す演奏が少しずつ見えてきます。それを実際に音にするのが「出力=演奏」です。どうすれば?自分の出したい「音色」や「テンポ」で演奏できるのか?その方法がわからない生徒さんが、たくさんいます。

 原因の一つが「伝達の不具合」がある場合です。
先述のオーディオに例えれば、雑音が入っていたり音が出ない原因が「ケーブル」の不具合である場合です。
 人間の運動は「脳」から、からだの各部位に「信号」が伝達されます。この信号がうまく制御=コントロール出来ていない場合、思ったように演奏できません。さらに「処理=CPU」がパンクすれば信号は伝達できないのです。
同時にいくつもの筋肉、両手に違う「命令」を出し続ける楽器の演奏は、脳にとってかなりの重労働です(笑)右手は左脳、左手は右脳からの信号で動いています。同時に両手を使えば、脳は「パニック」を避けるために「無意識」になります。つまりどちらか片手の運動だけを「意識」しようとするのです。
 どうすれば?両手を同時に制御できるのでしょうか?パソコンのように「マルチコア」で複数の作業を同時にこなす方法はないのでしょうか?
 実際に実験しますので、以下の通りに両手を動かしてみてください。
1.両手を軽く「ぐー」にします。
2.右手の「人差し指・中指・薬指」の3本を「伸ばすイメージ」を持ちます。まだ動かさないで下さい(笑)
3.左手の「親指・小指」を「伸ばすイメージ」を頭に思い浮かべます。まだですよ(笑)
4.まだ両手は「ぐー」です。そのまま、両手のそれぞれの指が「伸びている」イメージを頭に一生懸命、描いてください。まだ動かさないで(笑)
5.ぐーになっている両手を見ながら「一気に」イメージ通りに「パッ」と力を入れずに動かします!パッ!(笑)
 できましたか?どれか違う指が動いたとしても、結構近くありません?
一度に両手に違う動きを「命令」しようとするなら、一つのイメージにして脱力することが最大のコツです。右手の3本の指だけを意識しながら、左手の親指と小指を無意識に一度に動かすことはできないのです。それが私たちの「脳」です。

 思ったように出力=演奏できるように、自分に足りない「知識」と「技術」を新しく追加で「入力」する必要がある場合について。
 切れない包丁でいくら頑張っても、綺麗にトマトやお魚は切れませんよね?
包丁を「研ぐ」知識と技術を入力する必要があります。
 オートマ限定免許の人が、マニュアル車を突然、運転しなければならなくなったら?「クラッチペダル」の存在と使い方を入力しないと始まりません。
 演奏家が今現在、持っている技術・知識だけでは、思ったように演奏できない場合、困ったことに「なにが足りないのかわからない」ことが多いのです。できない原因がわからないと、対処のしようがありません。
 私たちの「病気」に例えるなら、頭が痛い症状がある時、原因を見つけることが大切です。やみくもに痛み止めを飲むことが逆効果の場合もあります。病院で検査をして「原因」を見つけて、治療が始まります。それと同じです。
 うまく演奏できない原因を、自分だけで見つけようとするよりも、誰かの意見を聞くことが最も効率的な対策です。新しい知識や技術を「入力」し、自分のものにできるまで「処理」と「出力」を確認することです。

 私たちは日常生活でも、知らないことや初めてのことに出会って、その都度対処しています。その積み重ねこそが「生きる術=すべ」です。演奏家が自分のできないことを見つけ、出来るようにするプロセスを「入力→処理→出力」という3段階で考えて、冷静に観察することが上達への「ガイド」になると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「予習と復習」

 映像はアンドレギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。次回リサイタルではヴィオラで演奏する予定ですが、今回敢えてヴァイオリンで演奏してみました。
 さて今回のテーマは、予習と復習。「学校か!」と突っ込まれそう(笑)
プロでもアマチュアでも「練習」する時に、自分がなにを?練習しているのかをあまり考えずに「ただ練習している」ことがあります。練習の中身をカテゴライズ=分類することも、効率的に練習することに役立つかも…とテーマにしました。

 初めて演奏する曲を練習する時、あなたは何から始めますか?
その人の楽譜を音にする技術「読譜力」によって大きな違いがあります。
すぐに楽譜を音に出来る人なら、手元に楽器がなくても、楽譜を見て「曲」が頭に浮かびます。
それが出来ない多くの生徒さんの場合、まず「音源」を聴くことからスタートするのではないでしょうか?私は、初めからヴァイオリンを使って「音」にすることはお勧めしません。ヴァイオリンで音の高さを探しながら、リズムを考え、指使いを考えながら演奏すれば、音が汚くなったり姿勢が崩れるのは当たり前です。さらに演奏に気を取られ、間違った高さやリズムで覚えこんでしまう危険性も高くなります。ぜひ、初めは音源を聴きながら楽譜とにらめっこ!してください。これらの練習が「予習」にあたります。
 さらに、作曲家について、作品について「ググる」事も予習です。他にどんな曲があるのか?この楽譜を他の楽器で演奏している
動画や音源はないか?などなど情報を集めることも立派な練習=予習です。

 予習はそのまま「復習」につながります。え?すぐに復習?(笑)
自分の演奏技術を再確認しながら練習することは「復習」ですよね?前に演奏した音楽を練習すること「だけ」が復習ではありません。譜読みや音源を聴く「予習」が終わったら、実際に楽器を使って音を「創る」作業に入ります。演奏の癖の確認、修正したい持ち方や弦の押さえ方の確認、なによりも「音」を出すことへの復讐が必要です。
 今までに知らない演奏方法がある場合には「予習」が必要です。自分の知っている演奏方法を確認しながらの作業です。例えば「重音の連続」だったり「フラジオレットの連続」だったり「左手のピチカート」だったり…。どうやるのかな?を学びます。
 常に予習と復習が「入り混じった練習」になりますが、曲を完全に「飲み込む=消化する」までの期間は、どうしても技術の復讐よりも予習が優先します。
 自分の身体に曲が「しみ込んで」身体が「自然に反応する」まで繰り返すうちに、次第に「復習」の要素が強くなります。つまり「思い出す」ことが増えてくるのです。

 生徒さんの多くは「自分の演奏動画・録音を聴くのが一番イヤ!無理!」と仰います(笑)気持ちはよく理解です。ただ自分の演奏を「何度も聴く・見る」つまり「復習」をしなければ、上達は望めません。何が出来ていなくて、何ができているのか。。「思っていた=できると思っていた」演奏と現実の具体的な違いはなにか?出来なかった「原因」はどこにありそうか?などの推察など、演奏からでしか得られない「復習課題」を失敗を見るのが嫌だから見ない・聴かないのでは、子供が点数の悪いテスト解答用紙を、破り捨てるのと同じことです。反省こそが最大の復習です。
 さらに自分の演奏を他人に聞いてもらう・見てもらう事も重要です。その感想が良くても悪くても、自分の「感想」と違うはずなのです。自分で気づかない「良さ」や「課題」を見つけられる貴重な機会です。
 練習がただの「運動の反復」にならないように、子供の頃の「予習と復習」を思い出して、自分の演奏技術を高めましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習・本番の「コツ」ってなに?

 発表会を明日に控え、生徒さんたちの「緊張と焦りと不安」が目に浮かびます。私も含め、楽器を演奏するひとにとって「本番」でうまく弾きたい!どんな「練習をすれば本番でうまくいくの?と言う自問自答を繰り返します。
 今回は主に「メンタル=気持ち」を考えます。「うまくひきたいなら、練習だろ!」というごもっともなご意見はありますが、まぁお読みいただければ(笑)

 「人間の潜在能力」「平常心」と言う言葉を耳にします。
人間の「脳」の働きは未だに完全には解明されていません。脳の一部分だけを使って活動している…と言うことも諸説あります。眠っている能力=潜在能力を発揮するには!という解説動画が山ほどあって、ほとんど皆さんが違う方法を説いておられることから、その方法も定かでないことも事実です。
 一方で不安や緊張、安らぎや眠りについての「脳の働き」はかなり立証されています。さらに多くのアスリートからの経験談で「メンタルトレーニング」に関する実証もされています。
 前回のブログで紹介した「仏教」や「禅」の世界で「心」を考えることも、長い歴史に裏付けられている点でとても興味があります。
 それらの「情報」と少ないながら私の経験も併せて考えて、私たちの演奏に役立てられないか?考えてみます。

 「努力=練習は一気にやらないこと」
人間の脳の集中力は90分が限界と言うことが多く言われています。疲労を我慢して続ける練習や勉強は「記憶されない」ことも実証されています。少しずつ…の繰り返しが最も効果的です。
 「運動のイメージを最小限の力で行う」
人間は「考えながら運動する」と運動速度が遅くなります。
だからといって何も考えなければ、運動はおきません(笑)
自分がこれから行う「成功した運動」をイメージし、筋肉を緩めておくことで最速の運動ができます。
 「常に成功する自己暗示をする」
これも脳科学で実証されています。ボクシングで「自分が勝つ」と思っていないひとが買ったことはないそうです。当たり前ですよね?本番だけではなく、練習の時に「自分にはできる」ことを思い続けることです。ただし休みながら!
 「緊張している自分をもう一人の自分が見る」
これは仏教の教えですが、私たちの言う平常心は仏教では「揺れない」「動かない」ことではなく、それを「受け流せる」「柔軟性」のようです。知らない人が緊張している姿を見ても自分は緊張しませんよね?自分の緊張していることを自分で冷静に見ることです。そしてそれを無理やり排除=なくそうとせずに、まず受け入れて力を抜いて穏やかに考えることです。固いコンクリートで壊れないようにするよりも、柔らかく軽いスポンジで力を「受け流す」ことです。
特に本番前や演奏中に「緊張している」ことを意識するのは、いたって当たり前の心理です。それを無くそう!減らそう!とあがけばあがくほど(笑)自分を失います。「あ…緊張してきた…そりゃそうだ…でもできるから大丈夫」という自分との会話と暗示をしてみましょう。

 最後は自分が今できる演奏を、自分自身で認めることです。
出来ていないことを、今すぐに出来るようにすることは誰にもできません。
時間をかけて出来るようにすれば、いつか!できると考えることです。
どんなにたくさんある作業でも、少しずつやればいつか終わります。
どんな分厚い本でも、少しずつ読めば最後の1ページになります。
一度に全部を終わらせる必要もないし、かき氷のように急いで食べる必要もありません。

自分が演奏している音楽を「自分の言葉・動き・感情」にすることです。
「楽譜の通りにひこう」「まちがえないようにひこう」と思うのは、指示されて動いていることと同じです。自分の意志で次にすべきこと・ひく音を感じながら演奏数事です。
本番「だけでも」うまくひこうと思うのはやめて、「できる」イメージをもち続けて最後まで弾くことだけを考えるべきです。音楽はひく人も、聴く人も「その演奏時間」を楽しむためにあります。苦痛や焦りを感じるよりも、今、舞台で演奏できる「うれしさ」と「期待」を感じることが大切です。
 今の自分の演奏は、今の自分にしかできない!
それがすべてだと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

演奏家の「欲」を考える

 映像は仏教の「知足=ちそく」を説いた動画です。
カルト宗教ではございませんので(笑)、安心して一度ゆっくり最後までご覧ください。
・「欲」を持つことは悪い事ではなく必要なこと
・他人と比較し、他人から得られる「満足」とは違う「知足」
・自分がすでに持っているもの=自分の「足る」を「知る」ことが知足
聞いていて素直に「あ…」と気づかされるお話です。
私は仏教信仰もなく「物欲の塊」「歩く煩悩」「屁理屈ヴァイオリニスト」ですので、およそ悟りの境地に近づくこともできませんが(笑)それでも、ひとりの人間として「欲」があるのは自然なことだと思います。赤ちゃんが母乳を求めて泣くのも「本能」と言う「生きようとする欲」です。

 演奏家が持つ「べき」欲があると思います。自分の演奏技術・表現力を高めたい、もっと上手になりたいと言う「欲」のない人もレッスンに来られます。その生徒さんにも演奏技術や表現方法を伝えようとします。ただ、ご本人が自分の力を「通う評価」する人ほど、「無理」とか「できません」と言う言葉を口にされます。過大評価が良いわけではなく、まさに「自分の持っているものを知る」気持ちが大切です。自分の持っているものをさらに高めようとする「欲」がなければ「楽」かも知れません。それはそれで正しいので、お金を払ってレッスンを受ける必要はない…と言ってしまうと私は生活できません(笑)
 他人と比較して「隣の芝生」にあこがれている限り、本当の自分の演奏にはたどり着けないことは動画でも話されています。他人と「競争」するのは、単純に「意欲」を高められます。負けたくない!よく思われたい!下手だなぁと思われたくない!と言う欲望は、自分以外の「他人」を意識しているだけで、自分自身を観察していないのです。
 昨日のブログで取り上げた「コンクール」や、音楽学校の「入学試験」は、基本が「相対比較」で序列をつけることです。ある程度の「絶対条件」が含まれている部分もあります。例えば年齢の上限や居住地域などです。自分と「誰か」を「審査員」が比較し序列をつけた結果が「優勝」「入賞」だったり「合格」「不合格」です。優勝したい!合格したい!という「欲望」があることを悪いとは言えません。その過程で「他人と比較する」気持ちをゼロにすることは不可能だし、「自己評価」だけで優勝・合格を得ることは現実的には厳しいことです。それでも「自分の持っている良さを知る努力」「自分を高める努力」を大切にする指導も必要です。
得てして指導者は「そのレベルでは受からないよ」と生徒に言います。悪意はないでしょう。生徒の立場にすれば「他人より下手なんだ」と思い込みます。
生徒個人が持つ「良さ」よりも「他人と比較して足りない技術」を指摘しがちです。

 練習する時、自分の「欲」を意図的に抑えることも必要です。
その欲は「低く=できそうなこと」で「長期間」で実現する気持ちが必要です。
「え?高い欲を速く実現した方がいいでしょ?」と思いがちですが、自分に足りない技術・表現に気付いたのなら、一気にすべてを実現しようとすることを「欲張り」と言います。常に欲を持ち、短期間に出来るようになる「小さな目標=欲」を積み上げるべきです。「ローマは一日にして成らず」です(笑)
出来ない!と熱くなる時(笑)、やろうとしている=練習している内容の「量を減らす」ことと「ハードルを下げる」ことが大切な「コツ」です。熱くなったままで頑張るのは、身体に悪い(笑)

 欲を失う=意欲を無くす原因の多くは「気持ちが折れる」場合です。
折れやすい生徒さんの性格(笑)
・短気である
・好きな事へのこだわり=負けん気が強い
・なぜか?女性が圧倒的に多い
・折れやすいが、立ち直りも速い
・他人(親にも)思っていることを言葉にしない
・自分を責める
はい。上記で二つ以上「はい」と思ったあなたは、かなりの「ポッキー」(笑)です(笑)これら、すべてが「性格」ですので変える必要もなく、変えることは不可能ですから受け入れるべきです。自分を知る…と言う意味でも、それが自分なのですから、さらに足りない「何か」を探すことが大切なのです。
 今回も「屁理屈」だらけのブログを最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

どこで音楽を学ぶべきか?

 映像は1993年第61回の日本音楽コンクールヴァイオリン部門第1位の方の演奏です。今年が第91回のコンクールでした。今から30年ほど前の演奏になります。
ちなみに、今年のヴァイオリン部門本選出場者は?
(1) 栗原 壱成
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(2) 青山 暖
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(3) 若生麻理奈
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
(4) 渡邊 紗蘭
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
共演:高関健指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
 中学生、高校生も含め4名が競い合うようです。
中学生?高校生?学生コンクールじゃないですよね?(笑)
今朝、偶然ラジオで最終予選(3次予選)のダイジェストを聞きました。
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタとイザイの無伴奏。みんなすごい!
中には筑波大付属駒場高校の生徒もいました。あれ?どこかで聞いた学校の名前。私のお弟子さんで現在東大に通っている子の後輩ですね。ひょえー。
 審査員のお名前も聞き覚えのある方々。「なかむらしずか」って聴いた瞬間、高校生の頃の彼女が思い浮かび「高校生が審査員?」(笑)
 そんな日本国内のヴァイオリン事情を考えます。

 私(昭和35年1960年生まれ)よりも先輩方が日本で音楽を学ぶことは、様々な面で大変なことだったようです。1945年に戦争が終わってからの時代と、それ以前の日本ではさらに違います。クラシック音楽を学びたいと思う「人口」も違いました。国内で学ぶことのできる環境に至っては「皆無」に近い状況だったようです。私が「音楽高校」に入学したのが1976年なので、戦後31年「しか」経っていなかったと思うと…なんだかなぁ(笑)ですが、東京にある音楽大学は、現在と変わっていなかったと記憶しています。
 クラシック音楽を学ぶ人は、「音楽学校」を受験する…ものだったようです。
自分自身が「なんとなく」音楽学校を選んだ人間なので、周囲の熱心な人の考えを知らずに音楽高校に入ってしまいました。ちなみに、浩子さんは、小学校1年生の時から「桐朋学園 子供のための音楽教室」に通っていたエリート(笑)ですが、小学校1年生=7歳から音楽家を目指して学んでいた人がいた時代であることは確かです。クラシック音楽…私の場合、ヴァイオリンを習い始めた当時、小学校でヴァイオリンを習っている子供は、学年に一人いれば多かった…時代です。時は「高度成長期」でした。家庭に「ピアノ」があるとお金持ちの証(笑)カラーテレビと同じステイタスだったかも知れません。

 さて、現在の日本でクラシック音楽を学ぼうと思う人が、音楽学校に入学することの「意義」「価値」が昔と同じなのでしょうか?これは以前のブログでも書いたことですが、なによりも本人の意思が一番大切なのは間違いありません。昔も今も変わらないことです。そのうえで、音楽高校、音楽大学を受験し入学金と授業料を払い「学ぶ」ことが、必ずしも賢い…言い方を変えれば必須条件ではない時代であることも以前のブログで書きました。
 演奏レベルの高さと、学ぶ環境を考えるひとつの「目安」として、日本音楽コンクールを考えることができます。今年の本選出場者に限って考えるのは「狭い」考えですが、低年齢化と音楽学校「以外」で学ぶ人が入賞している現実は間違いありません。若い…中学生や高校生が音楽大学卒業生と対等、あるいはそれ以上の演奏技術を有しています。当然「個人差」があるのは今も昔も変わりません。それでも確かに「音大以外」で学んでいる人の演奏技術が年々高くなっていることは明らかです。その昔、千住真理子さんが音大ではなく、慶應義塾大学で学んだ事がニュースになりました。今は?「かてぃん」こと角野隼人さんが東大を卒業しショパンコンクールで注目されましたが、いまや世界的にも珍しい事ではありません。五嶋龍さんにしてもいわゆる「音大」で学んではいません。

 音楽学校「以外」で演奏技術を学ぶことを考えます。
音楽高校、音楽大学に入学したい人の多くは、その学校で教えている「先生」に弟子入りするのが一般的なことでした。現在もそうなのか?正確にはわかりません。その学校で実際に教えている先生なら、入学試験を受ける他の受験生のレベルを知ることができます。合格できる「レベル」を知っています。そのレベルを知っているからこそ、習う側は自分の技術を入試前に知ることができました。
 音楽学校で教えていない「演奏家」が増えているのも事実です。さらに言えば、演奏家が母校=出身校で教えず、他校で教えているケースが顕著です。
 音楽高校、音楽大学で「しか」学べないことも以前書きました。他の生徒・学生との交流や刺激が得られます。多くの知識を効率的に「学ぶ気があれば」学べます。学ぶ気がなくても卒業できる音大が増えているのは…如何なものかと思いますが。言ってみれば音楽学校の「特典」ですね。
 ただ、音大で教えている先生が、学外で弟子を持つことは可能です。つまり、習う側が音楽学校に入らなくても、師匠が指導してくれる環境があれば、音楽学校に行って得られる「特典」がなくても構わないと言う考え方もできます。あくまでも、音大・音高の先生が「学外で教えれば」と言う話です。
 公立中学に通う中学生が日本音楽コンクール本選に進んでいる現実の陰に、この生徒=若い演奏家を育ている「指導者」が必ずいるという事実があります。その指導者が誰なのか?よりも気になるのが、この若い演奏家を今後さらに、どんな指導方針で育てたいのか?そして、この若い演奏家が数年後、どんな「環境」で音楽を学んでいるのか?が気になりませんか?

 音楽を学ぶ環境が多様化しています。音楽学校でなくても、専門技術を学べる時代です。さらに国外の指導者に弟子入りするための「費用」を考えても、日本の音大で学ぶための費用と比較される時代です。現実には「言語」を学ぶ必要なありますが生活費と授業料は、国と学校によって大きな差があります。
 プロの演奏家として認知される「実力」を得ることは、環境に関係なく必須要件です。肩書…●●音大卒業は既に「肩書」にすらならないことは以前にも書きました。演奏者個人の「技術」「能力」「人間性」が問われる時代です。
さらにその傾向は進むと思います。コンクールで優勝…という肩書も近い将来、形骸化されると思います。毎年のように生まれる「一等賞」演奏家よりも、個性的な演奏家が求められる時代だと思います。
 みんな「うまい」「すごい」技術の現代、それだけ?では生き残れないとも言えます。専門家=審査員にしか判別できない技術の違い」は、一般の人に理解できませんし必要もありません。むしろ「人として」魅力のある人の演奏が好まれる時代かもしれません。実力があっての話です←くどい(笑)

 演奏家として必要なのが「技術」だけではないと確信しています。
技術は自分の音楽を表現するための「表面的」なものです。音楽「だけ」を耳で聴くひとにとって、演奏者がどんな人だろうと関心は無いかもしれません。
仮にその人が「殺人犯」だったとしても「お笑い芸人」だったとしても、小学生だったとしても、演奏が好きなら演奏している人が誰だろうと「どうでもいい」かも知れません。その意味では「演奏家は技術がすべて」だと言えます。
 演奏家…プロのヴァイオリニストが世界中に何百人、何千人と存在する現代で「うまい」と言われるだけで満足するのか?それともさらに違う「評価」を得たりの科?で学ぶことが違います。すぐに「お金」を得たいと思うなら、技術だけを磨きコンクールで優勝することです。おそらく数年は演奏の仕事がもらえます。その後は?どうでも良いかもしれません(笑)
 演奏家としての技術…以外の事を学び体験することを若い人に期待しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

同期=シンクロと独立=分離

 映像は日本人ドラマーの「むらた たむ」さん」1992年生まれ、15歳からドラムを演奏し始めたそうです。
 いつも感じるのは、ドラムを演奏する人が「両手両足」をすべて同時に使いながら、それぞれの手足が時に「同期=シンクロ」したり、全く違う動き「独立ー=分離」したりできる能力です。しかも、その運動の速さが半端ない(笑)
マニュアルシフトの自動車を運転する時、両手両足がそれぞれに違う「役割」をして違う動きを「連携」させることはできますが、この速さ…同じ人間に思えない。

 さて凡人の私がヴァイオリンを演奏している時に、右手と左手を使います。
少なくとも足を使わなくても演奏できることは、イツァーク=パールマン大先生が実証してくださっています。たかが!二本の手!それも自分の手なのに、思うように動かせないジレンマってありませんか?わたしだけ…?
 ヴァイオリン初心者の方に多く見られる現象を列挙します。
・右手=弓と左手=指が合わない。
・移弦とダウン・アップが合わない。
・短い音がかすれる。
・重音が途中で単音になる。
・単音のはずが隣の弦の音が出てしまう。
・スピッカートをすると指と弓が合わない。
きっとどれか一つや二つや三つ(笑)思い当たるのでは。
今回は、ヴァイオリン演奏で右手と左手を、どうすれば同期できるのか?どうすれば独立できるのか?について考えます。

 推論になりますが「音」に集中することが唯一の解決方法だと思います。

具体的に説明します。そもそも、左手は「音の高さを変える」役割がほとんどです。左手指のピチカートを使うのは特殊な場合です。ヴィブラートも音の高さを連続的に変えているだけです。弦の押さえ方が弱すぎると、弓で演奏した場合、音が裏返って「かすれた音」が出るので「音色」にも影響しますが、役割の大部分は「高さの変化」です。
 一方で右手は「音を出す」役割がほとんどです。弾く弦によって「高さ」が違い、駒に近過ぎる場所を弾けば音が裏返って高い音が出ますが、役割としては「音を出す」のが右手です。

 ヴァイオリンの練習で、右手だけの練習をすることが基本の練習です。
一方で左手だけの練習は?押さえただけでも小さな音は出ますが、正確なピッチやヴィブラートなど「弓で音を出す」か「右手で弦をはじく=ピチカート」で音を出して練習することがほとんどです。つまり、左手の練習をするためには、右手も使うことになるのです。このことが、いつの間にか「右手より左手が難しい」と勘違いする原因であり、右手と左手が「ずれる」原因でもあります。
 ピアノの場合、左右10本の指が「音」を出す役割であり、発音は「指」が鍵盤に触れていることが前提です。その点でヴァイオリンの左手の役割とは明らかに違います。

 「音」を優先して考えることが同期と独立をさせることが可能になる…その説明を書きます。
 楽器を演奏すると「音」が出ます。当たり前ですが(笑)ひとつひとつの「音」は、「準備」してから発音に至ります。これも当たり前ですよね。
曲の一番最初の音であれ、スラーの途中の音であれ、新しく「音」を演奏する前に必ず準備をします。
・右手=弓で演奏する「弦」を選ぶ。
・ダウン・アップを考える。
・左手でどの弦のどこを、何の指で押さえるか準備する。
上記の順序は時々で変わります。ただこの三つを意識しなければ「無意識」で演奏することになります。無意識の「落とし穴」として、
・違う弦をひいてしまう
・ダウンとアップを間違える
・指を間違えたりピッチがはずれる
ことになります。つまり、一音ずつ準備していれば「事故」は最小限に防げるのです。それでは、運動を「同期」させたり「意図的に独立=分離」するには?
・準備する「順序」をゆっくりとスローモーションにして考える
・実際に演奏したい「速さ」にしていきながら、さらに順序を考える。
・準備した結果、発音する「音」に注目する
つまり、左手・右手のそれぞれの運動を「個別に順序だてる」練習から始め、それを連続し速度を速めながら、発音した「音」の高さ・音色・タイミング=時間・大きさを確認していくことです。ゴールは常に「音」です。
短い時間=速く連続して音を出す時に、一音ずつ準備を意識することが「できなくなる速さ」が必ずあります。ゆっくり演奏する時に「一音ずつ準備」して出せた「音」と、準備できない速さになったときの「音」が同じであれば「無意識に準備」出来ていたことになります。音が連続することは、準備が連続することなのです。その準備をスムーズに行うために必要なのが右手と左手の「同期と独立」です。

・無駄な力を抜くこと。
・連続した運動=準備をパッケージとしてイメージすること。
・ひとつの運動=片手やダウンアップや移弦など…にだけ注目しないこと。
・常に自分の身体の「静止」と「運動」を確認すること。
これが、同期させたり独立させたりするための「コツ」だと思っています。
冒頭のドラマーの動きを見ると、上の三つを感じられると思います。
スポーツや格闘技でも同じ事が言われています。自分の身体のすべての筋肉をコントロールするためには、「結果」を意識するしかないと思います。楽器の演奏なら「音」です。格闘技なら相手を倒す「技」「伝わる力の強さ」です。自然体=楽な状態で、音を確認しながら、左右の手を自由に動かす練習…時間がかかりますが、必ず出来るようになります!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

文字を音読するように楽譜を音にする

 映像はファリャ作曲の「スペイン舞曲」をデュオリサイタルで演奏したときのものです。テンポの速い曲を演奏する際、違う言い方をすれば「速く演奏しようとする場合にうまく演奏できない!という生徒さんがたくさんおられます。
 今回の例えは、文字=文章を声に出して読むことと、楽譜を音にすることを比較して考えてみます。それが「速く弾く」ことの一助になればと思います。

 原稿を覚えてから声にすることができる場合と、原稿を読みながら話をする場合があります。前者は例えば役者さんの「せりふ」です。後者の例えは、臨時ニュースの原稿を読むアナウンサーや、披露宴でスピーチする時に忘れたり間違ったりしないように「原稿」を読む場合などです。
 覚えている言葉を、思い出しながら声にする時でも、原稿をその場で読んで声にするときでも「次に話す文や単語」を考えながら、声にしているまずです。
つまり「声にしている文字」と「読んでいる(思い出している)文字」の関係は、常に「時間差」があることになります。しかも、読んだり思い出しているのは「文字」ではなく意味のある「単語」やもう少し長い「文」のはずなのです。
一文字ずつ目で見ながら声にするのは、文字を覚えたての幼児です。

 私たちが楽譜を見て演奏したり、覚えた音楽を思い出しながら演奏する時に話を変えます。初めて見る楽譜を音にすることを「初見演奏」と言います。この能力がないとプロの演奏家として認められないのがクラシック音楽業界です。ジャズやポピュラー音楽の場合には楽譜が読めない「プロ」がいても珍しくありません。初見で演奏する練習は、ソルフェージュの練習が最も効果的です。
ソルフェージュ能力がなければ初見演奏は不可能です。
「先を読みながら演奏する」そして「止まらないで正確に読む」ことが初見の能力です。美しい声や音で演奏することよりも、まず「正確に止まらずに」演奏することを優先します。この能力は、プロのアナウンサーにも求められます。楽譜ではなく「原稿」ですが(笑)
 どれだけ先を読めるか?当然のことですが、先を読むと言うことは「記憶する」ことです。つまり短時間、多くの場合数秒から10秒程度の時間に、どれだけの楽譜=文字を頭に記憶していられるか?と言う能力です。長時間の記憶とは「脳」の使われる場所が違います。その短時間の記憶を「思い出して声=音にしながら」さらに「次の楽譜・原稿を記憶する」ことを同時に行っています。
 「できるわけがない!」と思いがちですが、日本語の文書を音読している時に、私たちが無意識に行っていることです。

 これはある情報ですが、字幕は、1秒4文字、1行16文字で2行まで。つまり1枚の字幕に収める字数は最大32文字だそうです。字幕映画や、動画の説明テロップで文字が読み切れないことって経験、ありますよね?1秒間に4文字より早く読む技術を「速読」と言います。。速読力(1万字/分以上)だそうです。え?10,000文字÷60秒=約166.667文字!一秒間に166文字読めるのが速読…特殊なトレーニングで得られる能力だそうです。通常が4文字だとそれば、40倍の文字数を呼んでいることになります。
 楽譜を見ながら演奏している時、音符の数を数えながら演奏する人はいません(笑)あなたは「どのくらい」先を読めますか?

 ピアニストの浩子さんに聞きました(笑)
「和音を見る時、漢字を読むのと同じように見ている」
つまり、重なって書かれている和音を「一つの塊」として認識しているという意味です。それができない私がピアノで和音をひこうとすると…低い音から順番に「ド…ソ…ド…ミ・ソ」(笑)この違いを「漢字」に例えると理解できます。
とは言え、和音が連続している楽譜の初見と、単音の初見では読み込める速さには多少の差はあるようです。実際、1小節くらい先を読んでいる…あまりどこまで読んでいるかの指揮はないのですが、速い曲の場合には当然「どんどん読む」ことが必要っです。
 整地すると次のようになります。
・一度=短時間に読み込める音符を増やす
・記憶できる容量=音符の数・時間を増やす
ことが重要です。その「コツ」は?
・楽譜を「かたまり」として読み込む
・予測できる音を増やす=音階(順次進行)やアルペジオなど
・臨時記号やリズムを記憶する
そして、楽譜特有の「壁」もあります。
・どの弦のどの指で弾くのかを瞬間的に判断する能力
・スラーやスタッカートを読み込めるか?
これらば「正確に弾く」に加えた情報です。文字で言うなら漢字の「読み方」を前後関係の意味を考えて「声」にする能力です。「一期一会」を「いっきいっかい」とアナウンサーが読め放送事故ですよね?(笑)

 最後に「処理速度」の話です。
私たちは、楽譜を見ながら演奏する時も、覚えたものを思い出しながら演奏する時も、常に「次に演奏する音たち」を予め考え準備する「処理」をする必要があります。音の高さ=音名だけではなく、音量や音色、弓を使う場所やダウン・アップ、使う弦と指、ビブラートなどの「情報」も同時に処理しなければなりません。「音読」に置き換えれば、アクセントや言葉の切れ目、漢字の読み方などに似ています。それらの情報を処理する時、一度にどれだけの音符=時間を予め処理できるか?が、「速く演奏する」ための必須要件になります。
 速く演奏することは「処理の速度と量を増やす」ことです。一音ずつ処理できる速度には限界があります。
 例えば、16分音符が4つずつ、4つのかたまりで書かれている曲の場合です。
・一つずつ音符を読みながら=思い出して演奏するのが一番「遅い」
・4つの音符を一度に処理できれば、速い
・かたまりを一度に2つ、あるいはそれ以上処理できればもっと速く演奏できる
演奏しながら、どこまで?先を思出せるか…にかかっています。
F1のパイロット=ドライバーは、時速300キロで走行しながら、次にいつ?どんな?カーブがあるのかを、事前に知っているから走れるのです。彼らはコースを「暗譜」しています。イメージだけでコースを走れます。眼をつむっていても、頭の中でコースを走れます。ただ、同時に走る車の動きや、雨などでイメージ通りにいかない「変化」に対応することが「処理」なのです。運動神経や動体視力が優れているのは「当然」のことだそうです。記憶力と処理速度が求められます。
 先を読みながら、今演奏している音に集中する「マルチタスク=同時並行処理」が必要なのです。だからこそ、私たちは演奏中の集中力が必要なのです。ひとつの事だけを考えることではありません。「無意識」に運動できる能力=予め思い出した内容の処理と、次に演奏する楽譜を処理する「意識」を両立させることです。
 意識と無意識の「使い分け」でもあります。頭を空っぽにして演奏できるようになるまで、意識しながら演奏することを繰り返す…それしかありません。それでも、アクシデントはあるものです。間違うのが人間です。間違えた時にでも対応できる「フェールセーフ・多重安全性」があれば、大丈夫です!
 移管をかけて、頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

知る・知らない・できる・できない

 映像は、ムターさんの演奏するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。
私も含め多くのヴァイオリンを「もっとじょうずにひきたい」と思う人にとって、じょうずな人の演奏に近づくことは、道順もわからずただ漠然とした「目的地」に向かって歩くことに似ています。どんな上手な人も、みんな違う道順で現在の「到達地点」にいるはずです。道順を真似しても同じ場所に着かないのが演奏です。でも、迷える私には「道順」だけでも知りたいと感じます。
 今回のテーマは、知識=考えることで「知る」ことと、身体と知識を使って「できる」ことにつていお案が得るものです。

 知っていることとできることの関係について、考えてみます。
演奏以外で例えると例えば「料理」もその一つです。レシピを見て材料を買って調理する…簡単そうですが、レシピがおおざっぱだと、出来上がるものに大きな差が出来ます。材料の選び方を「知る」ことができるか?調味料の種類や量を「知る」こと、調理途中の確認の仕方を「知る」、火をとめるタイミングを「知る」ことが出来なければ、レシピの意味はありません。
 違う例えで「ゲーム」を考えます。カードゲームや囲碁、将棋、テレビゲームなど多くのゲームがあります。それぞれに「必勝法」や「負けにくい方法」があります。それらを「知る」ことで強くなることが可能です。知らなければ、知っている人にいつも負けます。
 楽器の演奏に話を戻します。自分よりじょうずな人の演奏を「知る」ことと、自分の演奏との違いを「知る」ことから始まります。
 自分の演奏にすでに満足している人なら、自分以外の演奏を知る必要もありません。新しい曲を知る必要もありません。それが悪いとは思いません。
 一方で、自分以外の演奏をたくさん聴き、好きな演奏、あこがれる演奏、ひいてみたい曲を探す「楽しみ」を持つ人がいます。私もその一人です。
 あこがれる演奏を知ったからすぐにできる…と言うものではありません。当たり前です(笑)
どうやったら?あこがれる演奏が出来るようになるのかを「知る」ことが始まります。その方法こそが先述の「道順」です。つまり、道順が全員違い「この方法=道順で出来る」という正解がありません。それでも「知りたい」のです。
 まず自分の演奏の欠点を「知る」ことです。自分の演奏=音と音楽を客観的に「聴くこと」ができなければ始まりません。まずは音を聴くことです。
 音のほとんどは、自分の「技術」で作られた結果です。楽器に問題がある場合もありえます。その雑音の原因を「知る」ことも必要な知識です。弦がさびている場合、はじいた時に濁った音が出ます。E線などのアジャスターが緩んでいる場合の「雑音」、顎当てとテールピースが当たって起こる「雑音」、駒が低く指板が高すぎて弦と指板が当たって起こる「雑音」、自分の洋服のボタンが裏板にあたって起こる「雑音」などなど。雑音の原因を知ることも大切ですね。
 自分の演奏する音をどうすれば客観的に聴くことができるでしょうか?
一番手近な方法が「録音」して聴き直すことです。「録音した音は音色が変わる」のは事実ですが、ひいていて気付かない「癖」や「雑音」を、演奏した後で何度でも確かめられる「録音」は上達のために欠かせない手段だと言えます。

 できる…と言う感覚について考えます。知ることと比べ、出来ているか否かの判断はとても難しい点があります。自分の「基準」と「妥協」の問題です。
理想=憧れの演奏と自分の演奏を比較して、100パーセント完全に同じに「できる」…人はきっと誰もいません(笑)それが現実です。近づくことさえ難しいのです。だからと言って「無理」の一言で諦めるのも寂しいですよね?
 自分の演奏が少しでも良くなったと感じることを「出来るようになってきた」と認めることも上達のために必要だと思います。
 できないことを知る→それを、出来るようにする方法を知る→練習し少しでもできるようになる→まだ出来ていないことと新しくできなくなっていることがないかを知る→練習する
 常に「知る」ことと「出来るようにする」ことの繰り返しです。
その途中で陥りやすい「落とし穴」もあります。無意識に「引き算」をしてしまうことです。何かを出来るようにしようとすればするほど、その他のことへの集中力が下がります。
 具体的な例で言えば、ある音をうまく演奏「できない」から練習している時、その音に至るまでの「音」が汚くなっていたり、ピッチがくるっていることに「気付かない」状態です。また、できない内容が「ピッチ」の場合、音色や音量への集中力が「引き算」されている場合もあります。練習は常に「足し算」であるべきです。ひとつのことを練習している時に、その他のことを「犠牲」にしないことです。それを「妥協」とは言いません。妥協が必要なのは「練習内容のバランス」を考える時です。曲全体を止まらずに演奏するための「練習」と、少しでも疑問を感じた時に止まって確認する「練習」は区別しバランスを考える必要があります。それぞれに「妥協」が必要になります。特に止まらない練習では、疑問を感じても次の音に集中するため、どこで失敗したのか?覚えていられないことがほとんどですから、録音して確認することが有意義になります。止まって確認する練習には「時間をかけすぎる」場合が多く、結果的に曲全体の練習にならない危険性もあります。

 最後に「知らないことは出来ない」事を書きます。
言い換えれば、出来るようになるためには、知ることが不可欠だという事です。
 知ることを「知識」、できることを「運動」と置き換えてみます。
知識と運動を「比例するもの」として考えることが大切です。
頭でっかち…は知識ばかりのひとを言います。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…は運動だけで偶然うまく出来るのを待つ人です。
ふたつが比例していることが何よりも大切なことです。
成功することをただ祈っても無駄です。考えているだけでは出来るようになりません。自分の練習が、知識・運動のどちらかに偏っていないか?確認しながら練習するために、誰かに自分の練習をみてもらうのも良い練習方法です。ただ、練習は見られたくないのが人間です(笑)子供でもそれは同じです。親が「良かれと思って」練習中のこどもに声をかけても「わかってるよ!うるさいなー!」と言われるのは(笑)子供なりに「みられたくない」と言う気持ちがあるからです。それを理解した上で子供と接することが大切です。
 大人になればなるほど、練習に行き詰るものです。その時にアドヴァイスをくれる人こそが「師匠」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学ぶためのお金と生きるためのお金

 今回のテーマは「お金」と言う俗っぽい(笑)お話なので、せめて夢を感じられる映像を…と、アザラシヴィリのノクターンを選びました。
 私を含めた「音楽家」と言われる職業で生活している立場から、現代社会で必要になる「お金」について考えてみます。

 音楽家になりたい…と言う希望を持つ人に、あなたならどんな言葉をかけるでしょうか?
「頑張ってね!」「応援してるよ!」「素敵な夢だね!」と言う励ましの言葉でしょうか?それとも…
「やめときなよ、生活するの大変だよ」「もっと安定した仕事を選んだら?」と苦言ともとれる言葉をかけますか?
どちらの場合にしても、音楽家と言う職業について自分が知っている範囲でしか考えられないはずです。実際に自分が音楽家として生活している人の場合と音楽家以外の職業で生活している人が、親しい人の中に音楽家がいない場合では、真実味が違いますね。さらに言えば、どんなに統計データを集めてみても、実際に音楽家として生きている人の実感は理解できません。収入の平均金額を見ただけでは、その職業についている人の「充実感」まではわかりません。知らない・わからないのに「やめておいたら」と言う言葉はアドヴァイスになるでしょうか?心配する優しさは大切ですが、思い込みで他人の生き方の「基準」を創っているとしたら?良いことだとは思えません。

 現実的に音楽を学ぶために必要な「お金」の話をします。
当然のことですが、時代や国によって大きな違いがあります。前提となる「音楽家」の定義さえ人によって差があります。今、日本でヴァイオリンを学ぶ人の話として書いていきます。
 学ぶための楽器に係るお金に、下限も上限も平均もありません。
どんな楽器であっても、学ぶことはできます。楽器ごとの個性、ポテンシャルは値段と比例していません。極論すれば、1万円の楽器でも10億円の楽器でも学べることに差はありません。本人の意思が問題です。
 レッスンに通って技術を学ぶためのお金は、教える側の「言い値」です。決して「いいね!」ではありませんが(笑)それが現実です。交渉して決まることはありません。習う側が支払える金額と、教えてもらえる内容で選ぶしかありません。1レッスンが仮に60分だとして単価が5,000円の場合も30,000円の場合もあります。これも金額と内容が比例しているとは限りません。もっとも難しい選択になります。
 最も安いケースで考えて、一回60分のレッスンを月に4回程度受け、20,000円のお金が必要になります。1年間で24万円かかることになります。このっ金額でレッスンを受けられるケースは非常に少ないですが。
 ヴァイオリン以外にピアノや聴音、ソルフェージュ、楽典などの基礎技術を学ぶ方法として「独学」もありますが、現実的にはレッスンを受けるのが一般的です。月に1回だとしても、年間で60,000円はかかります。
 ヴァイオリンの弦を張替えたり、弓の毛を張り替える頻度は人によりますが、仮に毎日2時間程度練習するなら、半年に一度は張替えが必要だと思います。一般的なドミナントの弦をセットで張り替えて2セットで約10,000円ほど。弓の毛替えは一回6,000円ほどなので12,000円。それ以外に問題があれば費用がかさみます。
 何年かけて「音楽家」になれるのでしょうか?これが最大の問題であり、必要なお金が一番大きく変わる部分です。

 音楽高校や音楽大学に通ううことで、音楽家になれるとは限りません。
ただ音楽家になるための「時間」を効率化する意味はあります。
ヴァイオリンの実技レッスン、友人や先輩たちとのアンサンブルやオーケストラ、ピアノ副科、音楽理論や聴音・ソルフェージュなど多くのことを効率的に学べますが、問題は入学金と授業料です。
 国公立音楽大学にめでたく入学できた場合、入学金は30~50万円ほど。
私立音楽大学の場合は、150~250万円ほどの入学金が必要です。
授業料は、国公立で年間約90万円ほど。それ以外にも様々な名目でお金がかかります。
私立音大の授業料年額は、およそ3倍の200~250万円必要になります。
4年間在学したら、単純に4倍の授業料が必要です。
国公立の場合特に問題視されているのが、「個人レッスン」と名を付けて受領料以外にレッスン代金を取る先生が現実にいることです。私立の場合にはあまり耳にしませんが、いない!とは断言できません。その昔は、東京芸大に通う学生が、年間に支払う「レッスン代」が桐朋の授業料より高くなる!という悲鳴をい実際に聴きました。今はどうだか?知りませんが(笑)
 不届きな先生は別にしても、卒業するまでに国公立音大で、最低でも350~400万円はかかります。私立の場合には、入学金も含めれば、ゆうに1千万円を超えるお金が必要になります。「学費免除の特待生」になれるのは、何年かにひとり…と言うのが現実です。多くの学生が「借金」になる奨学金で通います。借金ですから当然、卒業後に全額返済する義務が本人にあります。稼げます?返せると思います?(笑)

 これらのお金を支払っても、音楽家になれないとしたら=実際になんの保証もありません。音楽大学を選びますか?4年間でかかる1千万円以上のお金があれば、プライベートレッスンに毎週通い、短期で留学したり、好きな楽器を購入できる金額です。4年間という「縛り」もありません。言い換えれば、4年制音楽大学の学部で4年間、学んで身に着けられる技術や知識、能力に1千万円の価値があるか?という疑問です。4年間、同じ内容の授業で学んでも、人によって身に着けられる技術が違うのも事実です。一人一人に適した学び方を選択できるほど、大学には自由度はありません。大学で教えてもらっていた実技の先生が、在学中に、定年前でも退職することも珍しい事ではありません。他大学の教員になるケースも当たり前にあります。違う先生に習えば単位は修得でき卒業できますが、学生にしてみれば納得できるものではありません。先述の通り、実技レッスンだけが音大で受けられる教育ではありませんが、主たる目的は「実技」を習うことのはずです。

 ここからは「生きるためのお金」について。
音楽家として生きていくために、収入となる仕事の内容は?
・演奏をして得られる演奏料金
・レッスンをして得られる指導料金
これ以外に音楽・演奏による収入はありません。
 演奏を依頼してもらうことは、簡単なことではありません。
どんな広告を出せばよいのか?いくらかかるのか?費用対効果は?
何よりも「どんな経歴=肩書がるか?」を第一に問われます。
●●音楽大学卒業…で演奏の仕事をもらえる時代は終わりました。
かと言って、音大を卒業していない人の場合には「●●コンクールで▲▲入賞」などの経歴を求められます。いくらプロフィールを書き連ねても、演奏を依頼する側はいろいろな候補者を比較して、より信頼できる人に演奏を依頼します。
 仮に個人的な交友のある知人から依頼される仕事があったとしても、単発の仕事では生活できません。毎週、友人が結婚式を挙げてくれるなら別ですが(笑)
 教える=レッスンをする仕事の場合、以前書いた通り「教室に雇用される」場合と自宅で生徒を集める場合があります。当然、後者の方が歩合・手取りは多くなりますが、生徒を集められなければ一円にもなりません。大手の音楽教室で雇われて、週に二日、5人教えたとしても手取りは月に3~4万円程度です。実家であれば暮らせますが…食費にもなりません。自宅で生徒を集めるための「宣伝」にいくらお金をかけても、簡単に生徒が集まるわけではありません。現実問題として、一人で生活できる金額を、レッスンだけで得られる人は極わずかです。多くの「音楽家」がアルバイトをしながら音楽家をしているのが現状なのです。

 学ぶためにかかったお金と、音楽家として得られるお金の「差」が大きすぎますね。どんな大学の学部で学ぶにしても「お金」はかかります。卒業後、学んだことを活かして生活する人は、大学卒業生の極一部です。大多数の卒業生は、学んだ事と無関係な職業で収入を得て生計を立てています。つまり「大学で学んだ事は生活とは関係ない」人がほとんだという事です。それが日本の社会全体で当たり前なのです。はっきり言ってしまえば、大学がなくても=大学にいかなくても、日本の企業は困らないのです。大学を卒業しなくても就職できます。中学を卒業してすぐに就職することが、実は一番コスパが良いことをマスコミが言わないのは「学歴」を否定されたくないという考えの人がマスコミの上層部に多いからです。中小企業で働く人口が8割の日本で、人手不足が深刻な2022年現在、大学で意味のない時間を過ごした22歳より、やる気のある15歳を雇い、手に職を付けてもらう事の方が、はるかに日本経済を立て直せることは間違いのないことです。「せめて高校」だった時代から「せめて大学」の時代になり、今は?「誰でも大学に行ける」時代です。大学卒業の「価値」はすでに1ミリもありません。
それなのに塾に通い高い授業料を払い「そこそこの高校」に合格し、「誰でも入れる大学」に入学し、「なにも学ばずに卒業」して「それまでと無関係の仕事」をする日本人。私には理解できませんが、それが「標準」なのだとしたら、音楽家は違います。学んで努力したひとだけが「お金」を得られます。それが嫌なら、音楽家を夢見るよりも、就職を考えるべきです。お金をたくさん稼いで、音楽を「趣味」にする方が、ず~っと楽しいのです。
音楽家と言う「肩書」にあこがれるより、音楽を演奏する楽しさを優先したいのなら、音楽大学に1千万円払わず、出来るだけ早く社会位に出て働き、お金を貯めながら好きな楽器を演奏することをお勧めします。
 現実的な話で申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

運動を正確に再現する技術

https://youtube.com/watch?v=UJB3Hmu_Tas

 思ったように演奏できない!
間違えずに=正確に 思った速さで 思った大きさで 思った音色で
自分の身体を使って、使い慣れた楽器なのに、思ったように演奏できないと感じることは、楽器を演奏したことのある人ならきっと全員が感じたことのある「ストレス」です。
 自分が出来ないことを他の人が「できている」演奏を聴いたこともありますよね?誰もできないことなら諦めもつきます(笑)出来ている人は「簡単そうに」演奏していることも珍しくありません。その人が「すごい人」だからできる…と言うのも間違ってはいません。では「できない自分」は?なにが「できる人」と違うのでしょう?指の数?(笑)
思いつく「言い訳」を書き並べてみます。
・自分に才能がない
・手が小さい=指が短い
・楽器を練習し始めた時期が遅い
・親に音楽の才能がなかった
・楽器が悪い=良い楽器を買えない
・練習する時間が足りない
・先生の教え方が悪い
・うまい人は特殊な人間、もしくは神
 他にも色々思いつきます。すべてが「言い訳」ですが(笑)
実際に上記のいくつかに当てはまる場合も十分に考えられますが、「できる人」でも同様に当てはまっているかもしれません。知らないだけです。
 できない理由…できる人がいるのに自分にできない理由が必ずあります。
すべての「できない」に言えることではなくても、原因はいくつかに絞られます。

 ここでは「運動」に限った話をします。音楽的な表現能力や、独特な解釈など運動能力とは違う「できる・できない」話は時を改めて。
 スポーツに例えて考えてみます。
・同じ体格の人でも、100メートルを走る時間が違います。
・バスケットボールでフリースロー成功率の高い人と低い人がいます。
・野球のバッターで打率が3割を超える人と2割台の人がいます。
・ボクシングで強い人と弱い人がいます。
当たり前ですが、人それぞれに骨格も筋力も違います。育った環境も違います。
昔と今ではトレーニング方法も変わっています。同じ「人間」の運動能力の違いこそが、演奏の技術の違いに現れます。楽器を演奏する時の運動を制御=コントロールする能力を高める練習は「質と量」によって結果が大きく違います。
 スポーツの場合、練習の結果が数値化できる教具種目と、対戦する相手との「相対比較」で結果が出る種目があります。演奏の場合には、音量と音色を正確にコントロールできているか?という「自分の中での比較」と他人の演奏技術との「違い」の両面を考える必要があります。
 自分の練習方法に対して見直すことを忘れがちです。出来ないと思えば思うほど、冷静さを失いがちです。出来るようになるまでの「回数=時間」は、一回ごとの「質」で決まります。ただやみくもに運動だけを「意地」になって繰り返すのは能率が良くありません。
 ある小節で思ったように演奏できない「確率」が高い場合=正確さに欠ける場合、原因を考えることが先決です。それが「力の加減」だったり「手や指の形」だったり、「無意識の運動=癖」だったりします。「これかな?」と試しても成功する確率が劇的に増える=改善するとは限りません。
 一曲を演奏する間、あるいは一回のコンサートで演奏するすべての曲の中で「傷」になりそうな場所が複数か所、あるのが普通です。それら以外にも普段は何気なく演奏できる箇所で、思いがけない「傷」になることもあり得ます。
 そうしたアクシデントの確立を減らすためにも、演奏中に使う自分の身体を観察する練習が重要です。運動と演奏は「意思」によって関連づきます。無意識の運動は、常に不安定要素を伴い音楽も不安定になります。「行き当たりばったり」の連続は再現性がありません。偶然、傷が目立たなかったとしても演奏者自身の納得できる演奏ではないはずです。
 記録や勝敗を「競う」スポーツと違う音楽は、自分の納得できる演奏を目指し練習し、より安定した演奏を楽しむものです。自分自身との自問自答を繰り返し、焦らず客観的に完成度を高めていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「A」である前に、ひとりの「B人」として。

 今回のテーマ、どこかの学習塾の問題っぽい(笑)ですが、
Aに当てはまる言葉、Bに何も入れなくても「人」でも意味は通じます。
あなたならどんな言葉を入れますか?
・A=音楽家 B=社会・日本
・A=政治家
・A=大統領
などなど。色々考えられます。
 モラルは時代や国・地域によって違います。
たとえばヨーロッパでは昔、道路の真ん中を下水が流れていました。
日本の歴史の中でも、「仇討ち」が合法だった時代や、召集令状一枚でお国のために(謎)命を捨てることが美しいとされた悲しい時代もありました。
 2022年の日本に生きる私たち日本人が、最低限守るべき「モラル」があります。言い換えれば、許されない一線があります。
 「変わった人」と感じる人と、「変人・変質者」と感じる人の差はどこにあるでしょうか?この差こそがモラルハザードです。例えていうなら、誰にも迷惑をかけないコレクター=収集家は「変わった人」と言われるかもしれませんが、何も問題はありません。誰が考えても「ゴミ」にしか思えないものを拾い集めて自宅の敷地に積み上げる「ゴミや指揮」が他人に迷惑をかければ「変人」と言われても仕方ありません。
 日本の政治家で例えるなら、公務員としての責務を果たしながら自分の主義を持つ人は許されます。納税者=市民を苦しめる行動や言動は許されません。
 音楽の場合…

 「音楽家は変わった人が多い」と思われているようです(笑)
音楽家に限らず「芸術家」と呼ばれる人の中にかなりの割合で一般の人の考え方・生活スタイルと「少し」違う人もいるように感じます(笑)
ひとつの原因として、自分の好きなこと=芸術を優先している人が多いことが考えられます。経済的に貧しくても好きな事をできる「喜び」を感じる人でもあります。
 また別の要因として「●●バカ」と言われる人が多い=一般常識が欠如している人が多いのも事実かも知れません。「音楽家の常識=世間の非常識」とか。
 「音楽バカ」であっても他人に迷惑をかけない・不快な思いをさせないのであれば、何も問題はありません。ただ…残念ながら、他人への思いやりも考えられない「真正のバカ」になってしまう音楽家も中にはいるように感じます。
 自分が打ち込んできた…人生をかけてきた芸術に「誇り」を持つことは素晴らしいことですよね。ただそれは、本人だけの誇りであって他人に理解してもらえることではないことを理解できない人もいます。世間一般では「自惚れ屋・じこまん野郎」と呼ばれる人種です。周囲にいる友人も若いころなら「それ思いあがりだろ?」と釘をさしてあげますが、ある年齢を過ぎれば「放置」しますよね(笑)放置されていることに気付かないのも哀れな「裸の王様」の姿です。

 テーマにある「人として」が何よりも大切です。ひとりひとり、その考え方に差があるのは否めません。「ここまでなら許される」と感じるボーダーラインが違います。「みんなも守っていないから」と速度違反をする場合が、まさにそれです。人として「法を守る」ことについての意識には差があります。
 法には触れなくても「それって、どう?」と思う事があります。
言葉遣いと態度。これ、法律には書かれてません(笑)が、相手に不快な印象を与える「かも知れない」言葉遣いや態度を、平然としている人っていますよね?
元総理大臣にも心当たりが…。ま、それは老いて老いて←楽しい誤変換。

 音楽家の日常「あるある」
・他人との待ち合わせの約束を平気ですっぽかす奴
・他人との練習予定をキャンセルするのに見え見えの嘘をつく奴
・自分の責任にされないように巧妙に他人のせいにする奴
・相手によって言葉遣いと態度を使い分ける最低な奴
・金銭感覚の麻痺した奴
・常に自分が一番偉いと思って行動するイタイ奴
・さらってないのに人前で演奏して「ばれなきゃいい」と心でつぶやく奴
・ギャラの金額でさらう量を変える糞な奴

 え~っと。そんな音楽家にならないように気を付けましょう(笑)
少なくとも、お天道様が見ています!人の道に外れない生き方をしてこそ、「●●家」と呼ばれるに値する「人間」だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

曲が好き?音が好き?

 映像はチェリスト宮田大さんと作曲者である村松崇継さんのピアノによる「Earth」
 今回のテーマは主に「聴く側」に立って考えるものです。もちろん、演奏する立場の人にとって、最も重要なことでもあります。

 どんな曲でも、どんな演奏でも「音=サウンド」と「曲=旋律・ハーモニー・テンポ」が統合された「音楽」が作られています。
 音だけでは音楽とは言えません。音のない音楽もありません。
私は「曲」が好きな音楽と、演奏された「音」が好きな音楽が明確に異なっています。
 前者の「曲が好き」と言うひとつの例えが、以前のブログにも登場した「お気に入り」の曲たちです。

 誰の演奏?と言うよりも曲が好きなんです(笑)聴いていてゾクゾクする感じ。これらの「好きな曲」を「好きな音」で聴くことが最高の幸せでもあります。

 次に「好きな音」について。こちらは音楽のジャンルに関わらず、自分の好きな「サウンド」とも言えます。音楽以外でも例えば、浜辺で聴く波が打ち寄せる音…木立の中で聴く枝と葉がざわめく音…焚火で木がはじける音…など、自然界にも自分の好きなサウンドはあります。心が休まる「音」です。嫌な音もありますよね?黒板を爪でひっかく音…歯医者さんのあの!音…ガラス同士がこすれあう音…バイクの排気音←私は好きですが(笑)など、生理的な「好き嫌い」でもあります。
 音楽の中で使われる「音」には、様々な楽器の音と人間の歌声が含まれている場合があります。複数の違った「音」例えば人間の声とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、エレキギターやドラムと歌声の「混ざった音」にも、好きな音と嫌いな音があります。演奏の技術という一面もあります。特に、前述のように複数の音が混ざっている場合に「この音は嫌い」と言う音が含まれている場合も珍しくありません。
 わかりやすい例で言えば、歌手の歌声は好きだがバックのバンドの音が大きすぎて嫌い!とか、ヴァイオリンの独奏の音は好き!でも共演するオーケストラの中のチェロの音がうるさくて嫌い!などなど。

 好みの問題であることは当然のことです。人によって違います。
演奏する人が好きな曲を好きな音で「音楽」にしていることが、まず前提です。
思ったように演奏できなかったとしても、最大限の努力をして好きな「音」にするのが演奏者の仕事だと思います。曲を指定される場合もあります。特にプロの場合、主催する側から「この曲を演奏してください」と言われれば、断るのはとても難しいことです。「その曲、ひけません」と言えば「では違う演奏者にお願いするので結構です」になり、以後演奏以来は来ません。演奏者自身が嫌いな「曲」だったとしても、主催者からのオファーがあれば演奏するしかありません。断ることができるのは、「断ってもその後の仕事に困らない地位」を確立したソリストに限定されるのではないでしょうか?
 話がそれましたが、自分(たち)で選んだ好きな曲を、好きな音で演奏する努力=練習を積み重ねる過程で、その音を聴く人にどう?聴こえるか、どんな印象の音に聴こえるか?を確かめる作業が必要だと思っています。得てして、自分の好きな音を目指して練習すると、自分の好きな音を「みんなも好き」と思い込みがちです。とても危険なことだと思います。
 ラーメン屋さんを開こうとするひとが、自分の好きなラーメンを作り上げる努力をする過程で、絶対!?誰かに食べてもらって感想を求めるのではないでしょうか?どんなに自信家であっても、自分の舌だけを100パーセント信じてラーメン屋をオープンすることはあり得ないと思うのです。
 演奏者が自分(たち)の演奏を演奏会で多くのお客様に聴いてもらう前に、信頼できる複数の人の「感想」を謙虚に聞き入れて、修正することは必要なことだと思っています。仮にある人が自分の好みの真逆だったとしても、それも現実として受け入れることができなければ、ただの自己満足にしか過ぎないと思います。
 一人だけで演奏する場合と違い、複数の演奏者で演奏する場合の「音」は混ざり合ってお客様に届きます。その混ざり具合を演奏者がリアルタイムに確かめることは不可能です。録音して確かめるか、誰かに聞いてもらうしか方法はありません。バランス、客席の位置による聴こえ方の違いを確かめるには、演奏会場で確かめるしかありません。会場が変わればすべてが変わります。厳密に言ってしまえば、リハーサル時と満席になった時点での残響=響き方は全く違います。さらに空調によっても音の「流れ」が生まれます。少なくとも、リハーサル時に自分の耳で客席で聴こえる音を確かめ、自分の演奏を誰かに聞いてもらうことが必要だと思っています。

 聴く側にすれば、自分の好きな曲=プログラムの演奏会を選びます。
わざわざ嫌いな曲の演奏を聴こうとは思いません。知らない曲の場合には、期待と不安があります。
 聴いた音が自分の好みの音であれば、幸せな時間を過ごせます。自分の予想していなかった「嫌な音」だったとすれば、途中で席を立てない「苦痛」を耐える時間になってしまいます。
 演奏する人の「限界」があります。それはすべての人の好みに応えることは不可能だという事です。だからこそ、一人でも多くの自分以外の「感想」を予め聴くことが大切だと思うのです。出来れば正直な感想を言ってくれる人が理想です。「うん。きれいきれい」とか「問題ないと思う」と言われるのが普通です。
「こう弾いたらどう?」と音量のバランスを意図的に変えてみたり、立ち位置を変えてみたりすれば、「前のだと●●だな~」とか「それだとヴァイオリン頑張りすぎ」などの率直な感想をもらえるものです。そんな工夫も大切だと思います。
 演奏者と聴く人が「幸せ」な気持ちで最後まで過ごせるコンサート、
私たちの理想のコンサートです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏を自己評価すること

 映像はデュオリサイタル5、代々木上原ムジカーザでのサン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」です。
生徒さんが発表会で緊張して「失敗した」と感じる話を毎回のようにお聞きします。「今度こそは」という決意表明も「あるある」です(笑)
 そんな生徒さんたちに私がお話するのは
・緊張することは自然なことで悪い事では決してないこと。
・自分の評価の「ボーダーライン」は自分だけにしかわからない。
・失敗の記憶が強く残るもの。演奏を後で見返すと違う「良さ」もある。
・「成功」と「失敗」は相対=比率の問題。
・失敗しない演奏を目標にしてはいけないこと。
これ以外にも生徒さんの性格によっては、もっといろいろなアドヴァイスをすることも珍しくありません。要するに、一人一人が自分の演奏について「自分なりの評価」があって、多くの場合「傷」や「失敗」を減らすことにばかりに気持ちが向いてしまう事です。自分の演奏の「良さ」を見つけることを例えれば…
・草原で四つ葉のクローバーを見つける難しさ。
・壊れた部品に紛れている、使える部品を探す難しさ。
・苦手な相手の良いところを見つける難しさ。
・悪い点数のテストの答案用紙を見返して出来ている問題を見直すこと。
自分が「ダメだ」「できない」と思うこと・認めることが「上達・成長」のスタート地点です。すべてが出来ていると思い込めば、それ以上の上達や成長はないのです。
 同時に「良い部分」を見逃してしまえば、成長の妨げになります。
言い換えればできないことと、出来ていることの「違い」を見つけることが何よりも大切だと思うのです。自分の演奏に「良いところなどない!」と思う人にも共感できる私です(笑)自分の演奏の動画に自分で点数を付ければ「不合格」しかありません。それでも自分で見返すこと。他人の素晴らしい演奏と見比べること。まるで「ガマの油」ですが、上達するために必要な「試練」だと思っています。

 演奏する曲の長さ、曲数によって練習時間=量も変わります。
演奏する曲が増えると何よりも「集中力」を持続することが難しくなります。
もっと正確に言えば、演奏する瞬間=一音ごとの「イメージ=注意書き」が増えることで、頭の中の記憶と運動の記憶を呼び戻すことが難しくなっていきます。
極端に言えば「一音だけ」演奏する場合と、1曲3ページの小品を演奏する場合の「音符の数」の違いです。一音で終わる曲はありませんが、単純にページ数が増えれば演奏する音符は増えます。時間も長くなります。楽譜を見ながら演奏したとしても、瞬間的に思い出せる情報に「濃淡」が生まれる可能性が増えます。
 練習する時に「本番」のつもりで演奏する練習と、少しずつ演奏しては繰り返す練習のバランスも重要です。当然、本番では「止まらない・ひき直さない」ことを優先します。さらに傷=失敗に自分で気づいても動揺を最小限にとどめ「先に進む」ことが大切です。
 練習でも「完璧」を求め続ける練習が良いとは限りません。
一か所だけ=数小節を何時間・何日もかけて練習して、他の小節を練習しないのは間違った練習です。その「バランス」が一番難しいことです。
 違う見方をすれば「妥協」が必要になることでもあります。
妥協して、やり残したことは、時間=日数をかけて練習します。
「出来るようになった」感じ方もひとそれぞれです。
一回うまくひけて「できた」と思う人もいれば、同じ個所を数回続けてひけて「できた」と思う人もいます。さらに、その部分より前から何回でもひけて「できた」と思う人も。出来るようにする「方法」も含めて覚えても、運動が安定しないために「失敗」することもあります。
 「成功の確率」を高める練習を、効率的に行うことが重要です。
がむしゃらに、失敗する連続を繰り返して「いつか出来るようになれ!」という繰り返しても時間と体力の無駄になります。「根性」だけでは成功の確率は上がらないのです。失敗の原因を見つけて「修正」成功する感覚を覚える繰り返しが必要な練習です。

 最後に自己評価と「他人からの評価」の受け入れ方について考えます。
先述の通り、自己評価の基準は自分だけのものです。自分以外の人を評価する場合でも「自分なりの基準」でしかありません。誰かから自分の演奏を評価してもらうことは必要なことです。音大生やプロを目指す人が師匠や他の先生から「改善すべきこと」を指摘してもらえるケースもありますが、多くの場合は「良かった」主旨の評価を受けます。社交辞令・リップサービスだと思うより、自分で気づかない自分の演奏の「良い印象」を素直に受け止めることも成長には必要です。
 専門家=演奏家の評価とは別に、一般のかたの「感想」を聴くことも大切です。自分の感覚とは違う「音楽の印象」が大きな参考になることもあります。
これも「バランス」が大切で、褒められてうぬぼれてもダメ、お世辞だからと自分を責めてもダメ。常に両方があることを認めることがポイントです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 脳ら謙介

日本語と音楽

 映像はヴァイオラとピアノで演奏したドビュッシーの「美しい夕暮れ」
原曲は歌詞のある「歌曲」です。フランス語の詩と旋律と和声。
私たち日本人が使っている言語「日本語」は世界の言語の中でも最も複雑だと言われています。日本で生まれ育った私にとって、英語の方がはるかに難しく感じるのですが(笑)
 中学校で習い始めた英語。高校で第二外国語が必修だったのでドイツ語を選択。大学でもドイツ語を選択しました。外国語を学ぶことが好きなひとを心から尊敬します!中学時代「日本で暮らすのに英語がいるんかい!」と逆切れしていた記憶があります。海外に留学する友人たちの多くが、中学前に語学の学校に通っていました。「あの!●●がドイツ語?」と笑ったこともありました。
それでも彼らは外国の音大での授業や、外人の先生のレッスンをちゃんと受けて学んでいたのですから、やはり素晴らしいことだと尊敬します。

 さて、音楽は「世界共通の言語」と言われることがあります。
楽譜を記号として考えれば、どんな国で音楽を学んだ人でも、同じように楽譜を「音楽」にできます。言葉を交わせない外国の人とでも、同じ楽譜を見ながら一緒に演奏できることがその証明です。演奏しながら考えている「言語」は人それぞれに違っても、出てくる音は同じなのです。例えば音名を「ドレミ」で考えながら演奏する人もいれば、英語音名の「シーディーイー」で考えている人、ドイツ音名「ツェーデーエー」で考えている人もいます。それでも出てくる音は「同じ高さの音」ですよね。

 ルールが世界で共通のスポーツの場合はどうでしょうか?
お互いの意思疎通を専門用語でかわすことは出来ますが、その言葉がどこかの組の言葉であることがほとんどです。例えば、柔道の場合「まて!」「はじめ!」「いっぽん!」などの日本語が用いられています。
 囲碁やチェスの対戦には、言葉がなくても可能ですね。
絵画や美術品の場合、製作の過程で言葉や記号は必要なものではないかも知れません。
 世界で様々な「単位」があることは以前のブログでも書きました。
センチ・インチ・メートル・フィート・尺などの長さの単位。
グラム・ポンド・貫などの重さの単位。これも国や地域によって様々です。
 こうして考えると「楽譜」は確かに世界で共通の「記号」であることはとても希少なことかもしれません。

 音楽に文法がある…という話を音楽大学で学びました。
日本語の文法の場合、主語・述語・名詞・動詞・形容詞・副詞・助詞・仮定・命令・過去形など様々な文法がありますね。「かろかっくいいけれ」って覚えてませんか?(笑)英語やドイツ語の「文法」については、あまりに暗い過去があるので触れないことにします。申し訳ありません。
 音楽の場合、「句読点」「文節」「起承転結」など、文や文章を分析したり、実際に手紙や文章を書いたりするときに私たちが使っている「日本語」に例えて考えられます。
 日本語は英語やドイツ語と、明らかに文法が違いますよね?
つまり私たち日本人が使い慣れている「日本語」の文法は日本語特有のものなのです。それを音楽に当てはめて考えるのは、日本語で音楽を考えていることになります。

 言葉が理解できない人同士でも、自分の感情を笑顔や動作で伝えることができますよね。相手の感情を言葉ではなく表情で感じることもあります。
 音楽は「音」だけで作曲家と演奏家の「意図」を伝えます。聴く人もまた、自分の感じるものが別にあります。「言葉」のように明確に何かを示すことはできません。絵画や美術品と似ています。
演奏者が楽器で音楽を演奏する時に、歌詞のある「歌」のように聴く人に言葉を伝えられません。楽器の音だけを聴いて、伝えられることが歌よりも少ないのは事実です。しかし「言葉」も人によって感じ方が違います。時には人を傷つけるのも言葉です。日本語のように、言い方がたくさんある言語の場合には特に難しい面もあります。敬語などの使い方も難しいですよね?
相手に何かを頼まれた時の「返事」ひとつをとっても様々な言い方があります。
「うん」だけで良い場合もあれば、
「承知いたしました」だったり「あいよ!」だったり「はーい」だったり。
断る時にはもっと難しいですね。
「いや」で済む友達もあれば「大変申し訳ありませんが」と前置きをして断る場合、「お引き受けしたいのですがあいにく別の要件が決まっていて」と「嘘」をついて断る倍など様々です。
 言葉の難しさのない音楽。伝えたい「気持ち」「風景」が、聴く人の勝手な「気持ち」「風景」になったとしても、聴いた人が嫌な気持ちにはなりません。自分の好きなように「解釈」するだけです。たとえ、演奏者の思いと違っても、誰も気づかず、誰も困らず、みんなが気持ちよく演奏を楽しめます。
 演奏者が自分の感情を表情に出す場合がありますが、自然に出てしまうのは良いとして「演技」で表情をつけるアマチュア合唱団や部活吹奏楽は「いかがなものか」と思っています。
 難しい日本語・美しい日本語を日常会話に使う私たちが、音楽をより豊かな表現で伝えられるように思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

62歳の誕生日に思う

上の写真は、愛する妻浩子さんからの誕生日プレゼントです。ケーキとコーチの香水です。

 本日2022年9月30日、わたくし62歳になりました。パチパチ(笑)
映像は中学2年生の冬、恩師久保田良作先生の門下生発表会に初めて出させていただいた時の演奏です。ハイドンのヴァイオリン協奏曲第1番、第1楽章をただただ!一生懸命に演奏しています。へたッ!(笑)でも、良い音、してるんです。
この発表会の直前に、今使っているヴァイオリンを手にしたばかりの演奏。
1808年、サンタジュリアーナ製作のヴァイオリンをメニックから輸入したヴァイオリン職人の田中さんから購入したものです。

 今思う事は、よくもまぁ62年間も生きて来られたなぁ!と言う感慨です。
実際、62年と言う年月が長く感じるものか?は62年間生きてみないとわからないわけです。50歳の人が62歳の自分を想像できるはずがないわけです。
 その昔(笑)父も母も62歳だったことがありました。私は当時30歳前後の「おじさんになりたて」で父親になったばかりの頃でした。
 私が生まれた頃…昭和35年のことはテレビで見るだけで、記憶はありません。
断片的な記憶は幼稚園の頃からです。代々木上原の富士銀行社宅団地に暮らしていて、シオン幼稚園に病弱ながら通っていました。担任は「やまだ先生」でした。「ふじぐみ」だったような(笑)
 病弱った私が今日まで生きて来られたことは、自分の「生命力」だけの問題ではなく、出会ったひとたちのお陰だったと信じています。
 これから何年?生き続けられるのか心配するよりも、今日を迎えられたことに感謝し、あしたの朝、目覚められたならまた、感謝をしながら日々を大事にしたいと思っています。
 これからも、どうぞよろしくお願い致します。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を3D(3次元化)する

 映像は村松崇継さんの「アース」をヴィオラで演奏した冒頭部分です。
最初の映像は演奏動画、その次に「楽譜」、その後にある謎の映像(笑)
眼の悪い私が手探りで作った「なんちゃってアニメーション」です。
精度の低さはお許しくださいませ。
 さて今回のテーマですが、音は「聴覚」で楽しむもの…ですが、演奏する立場で考える時、楽譜を読み、音にする過程で「音の高さ=音名」や「リズム」「テンポ」と言った時間の感覚、音の大きさと音色、さらには腕や指の動きをすべて「同時」に処理しています。単に「聴覚」だけを使っていないことは確かです。
同時に起こることを「時間」で考えると、ある一瞬に私たち演奏者が考えていることが複数あります。例えば「音の高さ」「音の大きさ」「音の長さ」…本来、長さは音の大きさの概念に含まれますが、音楽では「リズム・テンポ」と言うひとつのカテゴリーがあるので敢えて「長さ「」「大きさ」を別のものとして考えます。
 映像の最期の「●」が上下に動きながら、大きくなったり小さくなったりしていることが、何を表しているか?アニメーションがうまく出来ていないのでわかりにくいですが(涙)、垂直方向に「音の高さ」、●の大きさが「音の大きさ」で、その変化の様子が「時間」を表します。
 言語化することが難しいのですが←結局説明できていない(笑)
演奏する「音」が、演奏者に向かって前方から流れるように、連続的に近づきさらに次の音が近づく「連続」です。
その音の「高さ」が演奏者の「上下」だとイメージします。
大きさは近づいてくる「●」の大きさです。
さらに今回は作れませんでしたが「色」も感じることができます。
たとえば「重たいイメージ」を赤色、「冷たいイメージ」を「青色」などで色付けすることも映像として可能です。
 音が自分に近づいてくる感覚と、自分が止まっている「音」の中を進んでいく感覚は、視覚的には同じ感覚に慣れます。
 歩きながら撮影した映像は、止まっている自分に周りの景色が近づいてくる「錯覚」を利用しています。実際に自分が歩く時に見える景色は、実際には自分が動き景色は止まっていることになります。
 連続した「音」が前方から近づいてくるイメージは、次に演奏する音を予測することができます。その「音」を演奏するために必要な「高さ」や「音色」「指・腕の動き」も想像することができます。

 楽譜や映像は「2次元」の世界で表されています。ご存知のように現代の科学で「上下・左右・奥行」の三つが私たちの感じられる「次元」だとされています。「点」しかないのが「1次元」です。「線」になれば「前や後ろや左や右」があるので「2次元」です。さらに「上と下」が加わって「3次元」になります
難しいアインシュタインの相対性理論は理解できなくても、日常私たちが生活する「3次元」の世界ですが、音楽は目に見えず、触れることもできない存在です。奥行や高さ、幅と言った概念が「音」にはありません。
なのに「もっと奥行のある音で」とか「幅広いイメージで」と生徒さんに伝えることがあります。つまり「聴覚」で感じる音を「視覚」や「触覚」に置き換えることを私たちは何気なく行っているのだと思います。
 前から自分に吹いてくる「風」が身体の「どこか」に吹いてくるイメージを持ってみます。
・「弱く」「長い時間」「暖かく」「おでこ辺り」に感じる風
・「強く」「短い時間」「冷たく」「首辺り」に感じる風
この二つの違いを「音」に置き換えることもできますよね?
これが「音」を私たちの「触覚」に置き換えた場合です。
 音楽を「楽譜」や「音」だけに限定して考えるのは、私たちが持って生まれた「五感」の一部だけを使っていることになります。しかも楽譜は記号の羅列でしかありません。それを音にして、さらに音楽に作り上げていく演奏者が五感のすべてを使って、音楽を感じることは有意義だと思っています。
 わかりにくいテーマで申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

命あるもの…

 

今日は私の父の命日なので…
この世に命あるものは、必ずいつか死を迎えます。命に大きい小さいはありません。
「死」の受け止め方、考え方は様々です。
私たちは自分以外の命によって生かされています。
自分の「死後」を知る人はいません。だから怖くも感じます。
自分以外の「命の終わり=死」に接したときに悲しみを感じるのはなぜでしょうか?なた、悲しみを感じない「死」もあるのはなぜでしょうか?

 父は6年前の今日、母は3年前に生涯を終えました。
両親への感謝を言葉にできるとは思っていません。心の中で感じるものだと思っています。その両親に愛されて育った(と勝手に思っています(笑))自分は、世にいうところの「恵まれた人間」だと思います。当然、その事だけが「恵まれた」と言う基準ではありません。
 両親との「別れ」に私は悲しみより、安堵感を感じたのです。
「冷たい」と思われるかも知れませんが素直に書きます。父は自分の死を恐れていました。その父が眠るように…まさに寝たまま生涯を終えられたことは、私にとって何よりも「父にとって良かった」と思えたのです。
 その父の死を、認知症で受け入れられない母を見るのがつらく、悲しかったのは事実です。若いころは気丈な母でした。父に文句を言いながら、いつも父の言う通りに従っていた母でした。その母がどんな思いで父の「死」を感じていたのかと思うと、認知症を治療できない現代医療への「憤り」と同時にどこかに「これで良かったのかもしれない…」と言う気持ちもありました。
 その母が次第に父の話をしなくなってから、静かに眠るように息を引き取るまでの時間は短いものでした。それまで母は父との別れを、思い出しては悲しみ、すぐに忘れ…忘れては思い出す繰り返しでした。母にしかわからない苦悩だったと思います。その母との別れも父と同様の安堵感を感じました。

 私のこれまで61年間の人生で、最もつらい別れは愛犬との死別でした。
「親よりワンコかいっ!」怒らないでください(涙)
今、ブログを書いている机の上、南向きの窓辺、我が家で一番日当たりの良い場所に「彼」の遺骨があります。彼の名は、今や国王となられた「ちゃーるず君」でした、これ本当の話です。イギリスが原種のビーグル犬でしたので当時「皇太子」だった方のお名前を勝手に頂いた次第です(笑)
 彼の死が突然…本当に思ってもいない別れでした…やってきたとき、
ただ「ごめんね」と「ありがとう」しか言えず、涙がとめどなく…何日も。
自分がもっと「してあげられたこと」だろうことが、頭の中を埋め尽くしました。それまでの彼との、すべての光景が「悲しみ」に感じました。
私が「死」を悲しいと感じたのはこの時です。おそらく、自分が許せなかったのだと思います。我儘な話だと自分で思いますが、それが正直な思いです。
「死」は生きている人との別れでもあります。別れが悲しく感じるのは、それまでの「愛情」「感謝」があるからです。その感情を持たない場合「別れ」には感じないのが人間です。食べ物…ベジタリアンでも人間は命を栄養源にして生きています。仏教の世界で「業=ごう」は単に「行為」を表すそうです。善悪ではなく人間が生きて行うことが「業」で、生き物を殺生して食べることもその一つです。植物を「いのち」ではないとは言えません。だからこそ、食べ物に感謝をする気持ちが大切である事を習ったのだと思います。
 私たちが意識していない「時間」「場所」で常に死はあります。
それが「人の死」の場合もあります。命を二つ持った人間はいません。
残された人にとって、その人の死が悲しいものか?そうではないのか?と言うことは、あって当たり前です。悲しまないから「冷たい人間」だと決めつけるのは間違っています。愛情も感謝も感じない人の死を「悲しむ」感情は人間にはありません。
他人と他人の「関係性」は絶対に理解できません。
「誕生」は祝福されるべきものです。
「死」への感情はひとそれぞれに違うものです。
私は、両親への感謝を感じながら生きています。
いつか自分の命の終わりを迎える時まで、その感謝を持っていたいと願っています。
 空の上にいる両親に向けて…

ひでやさんとしずこさんの息子 野村謙介

聴く楽しさと弾く楽しさ

 映像は、ミルシテイン演奏のヴィターリ作曲「シャコンヌ」
昔FMを録音したカセットテープが擦り切れそうになるまで聴いた演奏です。
なにが?どこが?好きなのか言葉にするのが「鬱陶しい」(笑)ですが、
強いて言うなら「聴いていて美しい」と感じるのです。
演奏がじょうずか?じょうずでないか?って問題ではないし、誰かと比べてどちらが好きか?と言う話でもないのです。自分の記憶の中にある、この演奏との「出会い」もきっと好きな要因の一つなのかもしれません。
いつも食べ物の例えばかりですが(笑)、昔に食べたものの美味しさを、忘れられないことってありませんか?それが「駄菓子」や「おふくろの味」だったりすることもあります。旅先で偶然立ち寄ったお店の「美味しさ」の風景を思い出すこともあります。グルメ評論家の「点数」より、懐かしい味が恋しいこともあります。明治のカールとか(笑)

 クラシック音楽は基本的に聴いて楽しむものです。見て「も」楽しめるオペラは特殊なものです。ポピュラー音楽の中でも「聴く楽しみ」が強い音楽もあります。ライブの演出が「見て楽しい」ものもあります。客席の連帯感が楽しかったり、演奏中の「掛け声」が楽しい場合もありますよね。
 多くのクラシック音楽は、演奏される「音」を楽しむ芸術です。
その楽しみを味わうために、時間をかけてコンサートホールに行って、チケットにお金を払うクラシックコンサート。聴く人が、聴くことに集中できる環境も大切ですよね。固くて座り心地の悪い椅子に、長時間じっと座って「心地良い」人はいません。それでも「聴きたい」と思う人もいるのは事実です。
立ち見でもホール客席の階段に座ってでも!演奏を聴きたいと思ったことも実際にあります。むしろ極別な「クラシックファン」だと思います。
 自宅で好きなクラシック音楽を聴いて楽しむ時を想像してください。
リラックスできる雰囲気で、好きな物美濃を飲みながらくつろいで聴く時間。
オーディオにこだわる人もそうでない人も「安らぎ」を感じるはずです。
自分だけの時間を満喫する「趣味」とも言えます。好きな音楽を好きな演奏で、好きな部分だけ聴くのが自然ですよね。

 映画を映画館で見る人もいれば、自宅で楽しむ人もいます。それぞれに楽しみ方があります。自分流の楽しみかたが、ますます多様化しているのが現代です。
手軽に自宅で楽しめる「良さ」もあり、映画館で見る「良さ」もあります。
音楽の聴き方も変わってきました。ウォークマンが発売された当時、屋外で歩きながら音楽を聴くことは「斬新」なことでした。「マイカー」で「カーステレオ」のカセットテープで音楽を楽しんだ時代もありました。オーディオ全盛期には大きなスピーカーが憧れの的でした。椅子が振動する「ボディソニック」が流行った時期もありました。次第に「簡単」が優先される時代になり、音楽を聴くことにかける「手間」も惜しまれるようになりました。
 最近、ビデオテープやLPレコード、カセットテープが見直される傾向が強くなってきました。「手間」の面白さが再認識されている時代です。
 クラシックの音楽を演奏する楽しさも「手間」の楽しさです。生活が「簡単」になって自分で作る楽しさや、出来た時の嬉しさが「懐かしく」感じられるようになった今、ヴァイオリンやピアノ、アコースティックギターなどの「自分で音を出す楽器」の良さが再発見される日が来たように思います。
 音楽は「聴く」楽しさと「演奏する」楽しさがあります。まったく違う楽しみ方のものです。少なくとも演奏してみると、聴く楽しさが何倍にも増えます。
言うまでもなく演奏するのは簡単な事ではなく、聴いたように演奏するためには、長い時間がかかります。それでも音が出せる楽しさがあります。難しさを知ることで聴く時の楽しみ方も変わります。
 プロの演奏者が「聴く楽しさ」を意識せずに演奏するのは傲慢と言うものです。どんな曲であっても、聴く人のための演奏であるべきです。演奏者のための演奏なら他人の前で演奏する意義はないはずです。客席で聴いてくださるひとが、初めて聴く音楽「かも知れない」と思って演奏することも必要だと思います。いつ終わるとも知れない音楽に感じるかも…と言う思いやりもあって良いと思います。クラシックマニアのかたには「勉強してから聴きに行け」と怒られそうですが、生まれながらのクラシックマニアはいません(笑)「初めてのクラシック」の印象も大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

音楽を頭と体に刷り込む作業

 今回のテーマは音楽を自分の「言葉」にするテーマです。
年末、年始のデュオリサイタルで演奏予定の曲立ちは…

「無言歌」 クライスラー/チャイコフスキー
「ノクターン」 チャイコフスキー
「ただ、憧れを知る者だけが」 チャイコフスキー
「シュピーゲル イン シュピーゲル」 アルヴォ・ペルト
「祈り」 ラフマニノフ「
「彼方の光」 村松崇継
「無言歌」 メンデルスゾーン/クライスラー
「アリオーソ」 バッハ
「明日」 アンドレ・ギャニオン
「Earth」 村松崇継
とりあえず10曲の小品たち。どの曲も浩子さんと選んで練った(笑)愛すべき音楽たちです。ヴァイオリンで演奏する曲とヴィオラで演奏する曲があります。
今回も、購入したり手に入れた楽譜を、そのまま演奏する曲は1曲もありません。多くは浩子さんのピアノ楽譜をアレンジするケースですが、旋律のオクターブ、装飾音符、リズムなどもオリジナル?にしています。
 言うまでもなく、楽譜に書かれていないことの方が多いわけで、言ってみれば毎回の演奏で少しずつ変化していきます。「再現性」を大切にするのがクラシック演奏の基本かも知れません。確かに自分のこだわる演奏が、演奏ごとに変わることは矛盾するかもしれません。そのことを否定しませんが、音楽を生き物として考えるなら、演奏する人間との会話が変化するのは自然なことに感じています。

 音楽を誰かに聞いてもらう演奏者の心のどこかに「傲り(おごり)」があるように感じられる場合があります。いくら隠しても、演奏の合間の言葉に「得意げな自慢話」があれば、聴く人にとって不愉快なだけです。「特別に聞かせてあげます」と言えばお客様がありがたがる?(笑)思いあがりでしかありません。
そんな気持ちを感じてしまうと、演奏を聴いて楽しめるはずがありません。
 演奏を誰かに「聴いてもらう」気持ちは「聞かせてあげる」とは全く違うのです。自分(たち)の演奏に誇りを持つことは必要不可欠です。ただそれは「自分の中にしまっておくべき」ことです。決して人に見せるものではありません。
 自分(たち)の演奏を作り上げるプロセスは、人によって違います。
私たち二人が音楽を自分から自然に出てくる「言葉」にするために、何度も繰り返して頭と体に刷り込みます。楽譜を覚える…ことではないと思っています。
 ひとつの音楽を演奏する時間は、親しい友人や家族と過ごす時間のようにありたいと思っています。特別な事を考えなくても、相手が今なにを考えているのかを、お互いが自然に感じられる関係。音楽が自分に語りかけてくることもあります。「もう少し速く歩きたいな」とか「静かにリラックスしたい」と感じるのは、音楽から演奏者へのメッセージです。その演奏を聴いてくださる方が、演奏者と音楽の「会話」を楽しんでもらえればと願っています。
 さぁ!もう少し!がんばるべ!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「好きなように弾けない」理由

 映像は、ポンセ作曲、ハイフェッツ編曲「エストレリータ」英語に訳すと「Little star」小さな星と言うタイトルの、メキシカンラブソングです。
シャープが6つ付く調性「Fis dur」の楽譜で書かれています。
原曲の「歌」も色々な歌手が歌っています。

 大人の生徒さんにレッスンをしていて、生徒さんが「好きなように演奏するのが一番難しい」と言われることがあります。。以前ブログに書いたことがありますが、指導者の好みの演奏を、生徒さんにそのまま「完コピ」させることには否定的に思っています。生徒がんが大人でも子供でも、その人にしか感じられない「気持ちよい演奏」が必ずあるはずです。仮に指導者の演奏を「そのまま真似したい」と光栄なリクエストを生徒さんから頂いたら、指導者はどうするでしょう?
一音ずつの詳細な演奏技法をそのまま、伝えることより生徒さん自身が自分の好きな演奏を考えることが「指導」だと思っています。

 自分の好きなように…
・料理を作って食べる
・自分の洋服を選ぶ
・絵をかいて楽しむ
・草花を育てる
などなど、趣味でも職業でも考えられる話です。
「自己流」で初志貫徹(笑)するひとも多くいます。
誰かに基本を教えてもらって、あとは自分の好きなように…と言うひとも。
誰かの真似をしてみる…イチローの真似をするとか、昔は王貞治さんの「一本足打法」の真似をしたひとも多いのでは?←私、しました(笑)
 楽器演奏の場合、プロの演奏を真似したいと思うのは、なぜかプロを目指す人「音大生」に多く、アマチュア演奏家には少ないのが現実です。
スポーツでも音楽でも「憧れ」を感じたひとの「真似」をしてみたい気持ちは、純粋な憧れの表れです。子供が忍者になり切ったりしますが、大人の場合は?
 「コスプレ」特に日本のアニメに登場する人物にあこがれる、外国人がセーラームーンのコスプレをしている映像、見たことありませんか?
 ロックバンド全盛だった頃に、女の子バンドにあこがれた「昔女子高生、今△△△△」もいれば、未だに「布袋モデル」のギターが押し入れにある男性諸氏もいたりします。多くは「形から入る!」のが鉄則でした(笑)

 クラシック演奏の特徴を考えた場合「カラオケ」のように歌い方を「真似る」ように、演奏の仕方を真似る事が難しいですよね?
原因を考えます。
・一曲が長いので真似しきれない=覚えきれない。
・楽譜の通りに演奏すること「さえ」難しくそれ以上なにもできない。
・ただ「うまい」「すごい」と感じるだけで「なにが?」を言語化できない。
・自分にはできないと思い込んでいる。
今更のそもそも論ですが(笑)たとえば「もっと速いテンポで演奏したいのにできない」という気持ちも自分の好きなようにひけない!のひとつです。
曲の中である音を「少しだけ長く大きく」演奏したり、「少しだけ短く弱く」演奏したりすること、つまり「楽譜には書かれていないこと」があります。
「そんな経験をしたことがない!」と思い込むのがアマチュア演奏家です。
いやいや!(笑)実は毎日、誰でもやっています。

 誰かと会話することは珍しい事ではありません。
多くの日常会話は、その場で原稿を読まずに思いついたままに話しますよね?
相手によって、またはその場のシチュエーションによって、話し方も使う言葉も変わってきませんか?
 初めて会う人に、道を尋ねる時に「あのさ~、●●ってどこ?」って聞きます?小学1年生までなら許せます(笑)
 毎日、顔を合わせる家族同士や友人との会話もあれば、仕事で相手に不快な思いをさせないように配慮する時の話し方もあります。これが「話し方のTPO」です。他方で、同じ文章でも「言い方」が変われば印象が変わることも、みなさんご存知のはずです。
「ありがとう」あるいは「ありがとうございます」
これを誰かに話す時を例にとってみればすぐに分かります。
文字にすれば「ありがとう」でも、本当に相手に対して感謝があふれるような場合の「ありがとう」と、本当は嬉しくないけれど「社交辞令」で相手に言う「ありがとう」は、芝居をしない限り全然違う「ありがとう」の言い方になるはずです。
 楽譜は言語に例えれば「文字」です。文字を並べて意味のある「言葉」にしてさらに助詞などを使って「文」ができます。その文を連ねて「文章」ができます。会話をそのまま文字にすることもできますし、「詩」のように読む人がそれぞれに違ったイメージを持つ文章もあります。それらを読む能力が「楽譜を音にする能力」です。楽器がなにも演奏出来なくても「声」で歌うことができる楽譜もあります。要するに文字も楽譜も「音にできる記号」なのです。
 その楽譜を音にして演奏すると音楽になります。一言で音楽と言っても、一度聞いて耳になじむ=覚えられる音楽もあれば、メロディーを記憶さえてきないような音楽もあります。そのことを文字に置き換えると「意味を知らない単語」や「読めない漢字」が該当します。仮にカタカナで書いてある言葉でも意味が分からない場合は多くあります。
 「これはファクトです」とか「インバウンドが」などニュースでさえ聴いていて意味が分からない「横文字」?」を耳にする事、ありますよね?
楽譜を音にして「なんだ?これであってるのか?」と思う場合がそれです。

 正しく楽譜を音にできたとします。その音楽を聴いて感じる「感情」が部分的、あるいはもっと全体的に、きっとあります。何も気にせずに音楽を聴く場合にそれぞれの音は「聞こえている」だけで終わります。
並みの音を聴いて、海岸や浜辺の風景を想像する…という聴き方と、ただ「音」として聴く場合があります。後者の場合、頭の中で想像するものはなにもありません。同じ音でも感情が絡めば「連想」が出来ます。音楽を演奏しようとする時、ある1小節を演奏して悲しい感情を感じる場合もあります。楽しく感じる音楽もあります。音の高低、リズム、和音を聴いて感じる感情です。

 自分の好きな演奏を見つけるために、必要なのは?
・観察力
・音の長さ・強さ・音色を大胆に変えて実験すること
・他人の演奏に縛られない自由さ
・〇〇しなければいけないという発想から離れる勇気
・ミクロとマクロ←以前のブログ参照を考えながら試す
・音は常に時間経過と共に変化し続けることを忘れない
平坦な音楽は、一昔前のコンピューター「読み上げ音声」のようなものです。
言葉を語り掛けるように演奏することが「歌う事」です。
思った表現を可能な限り大げさに試すことが大切です。
自分に感じられる程度の変化は、他人には伝わりません。
絵画に例えるなら、少しずつ色を足す技法より、まず原色ではっきりしたコントラストを確認してから色を薄めていく方法です。
味つけは少しずつ、足していくのが原則ですが音楽は逆に、まずはっきりした味を付けてから薄めていくことが「好きな演奏」に近付けます。
 個性的な演奏を目指して、実験をする気持ちで音楽を描きましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

音大オーケストラの歴史

 映像は1975年(だと思います)桐朋学園大学オーケストラの定期演奏会を客席で録音したウィニアウスキー作曲、ヴァイオリンコンチェルト第1番、第1楽章です。当時中学3年生だった私が師事していた久保田良作先生門下の兄弟子…大先輩で、受験のための「下見レッスン」をしてくださっていた安良岡ゆう先生の独奏です。小柄で長い髪の見合う、明るく優しい憧れの先生でした。
ご自宅に毎週通って受験まで親身になってに指導をしてくださったおかげで桐朋に合格できました。

 カセットデンスケ…知っている方は私世代です(笑)と、ソニーのステレオマイクをバッグに入れて録音しました。もちろん、独奏の安良岡先生からのご指示で録音したもので、悪意のある隠し録音ではありません。この録音を留学のためのテープに使用されるとのことでした。
 音は現代の録音に比べると「回転ムラ」が感じられます。でも、演奏の「質」はしっかり伝わってくる気がします。
 この翌年から、私が高校生として通い、大学を卒業するまで通った当時の桐朋。高校生と大学生、研究生、ディプロマ生、聴講生、子供のための音楽教室に通うう子供たちが、同じ建物で学びました。
当時、3階建ての旧館と4階建ての新館、新館の地下に高校生の学ぶ10の教室がありました。
 オーケストラはすべての弦楽器・管楽器・打楽器の高校生と大学生が、高校・大学の枠を設けず全員が必修の「授業」でした。
 高校・大学の新入生は「ベーシック・オーケストラ」で学びます。
弦楽器と管楽器がそれぞれの合奏を学び、合奏の前に「ベーシックスタディ」と呼ばれる基礎練習を学びます。裏打ちの練習、2対3で演奏する練習など。
 実技試験の成績と全員が受けるオーケストラオーディションの成績で、学年が上がるときに「レパートリー・オーケストラ」の一員になれます。定期演奏会で「前プロ」を演奏することができますが、演奏旅行はありません。合宿は当時、北軽井沢の「ノスタルジック=ボロボロ」合宿所でした。
 さらに学年が変わり成績が良ければ「マスター・オーケストラ」で演奏できます。金曜日の夕方に行われていました。合宿先も豪華になり、当初は志賀高原「天狗の湯」、その語習志野市の施設「ホテル・アルカディア」だった…気がします。演奏旅行があれば学生は無料で参加できました。大阪、仙台、沖縄に行った記憶があります。昔はニューヨークの国連本部で演奏したこともあったようですが、私の在学中には一度も海外演奏は行われませんでした。

 どのオーケストラでも、合奏の前に「分奏」がありました。弦楽器は、ファースト・セカンド・ヴィオラ・チェロ・コントラバスがそれぞれ別の部屋で「分奏韻」と呼ばれる指揮科の学生が合奏で指揮をする先生の指示を受けて、パート別の練習を行います。実技指導の先生も立ち会われていました。
 ちなみに、ファースト・セカンド・ヴィオラのどのパートになるか?は、曲ごとに変わります。先生たちが考えてパートと席順を掲示板に張り出します。学生はそれを見て初めて、自分が次になんの曲でどのパートを演奏するのか知らされます。ヴァイオリン選考の高校生・大学生は、全員ヴィオラも担当しました。ヴィオラ選考のひとは、当然ヴィオラを演奏しますが、人数が足りないのは当たり前です。ヴィオラは学校から無料で貸し出されました。そのヴィオラにもランクがあり、一番上級のものが「特室-1」などの番号がついたヴィオラ。A-1~10?、B-1~10、C-1~10、D-1~10などが、一部屋の楽器棚に保管されていました。
 大きさも暑さも重さも「様々」ですが、割り当てられたヴィオラで演奏するしかありませんでした。

 文藻が終わると、楽器と楽譜を持って「403」という大きな部屋に移動します。ここは入学試験、実技試験にも使われる教室で、当時の校舎では最も広い教室でした。多くの打楽器もおこ荒れていて、合奏前に平台を並べ、譜面台やチェロ用の板を並べるのも学生たちで行っていました。
 合奏で指揮をされる先生は、時によって様々でした。森正先生だったり、小澤先生だったり、秋山先生だったり、小泉ひろし先生、山本七雄先生などなど。
時々、学生指揮者が演奏会の前プロを指揮することもありました。覚えているのは、デリック井上さん。
 桐朋のオーケストラでは、先述の通り高校生も大学生も関係ありません。
レパートリーオーケストラに高校2年時に上がれる人もいれば、大学4年生でレパートリーオーケストラにいる人も普通にたくさんいましたので、年齢差も様々でした。年功序列はなく、完全に「能力別」でした。評価する基準や歩法に、興味はありませんでした。あれ?私だけ?(笑)

 そんな当時でさえ、卒業された先輩方からは「甘っちょろくなった」と言われていたようです。創設者の斎藤先生が亡くなられた翌年からのことですから、言われても仕方のないことだったように思います。
 「弦の桐朋」と呼ばれていた時代です。東京芸大や国立音大、武蔵野音大、東京音大との「違い」も報じられたた時代でした。私自身は高校入試で、国立音大付属高校と豆桐朋女子高等学校音楽科を受験しましたが、当時の入試の難易度はまさに「天と地」ほどの違いがありました。生意気に聴こえてしまうのはお許しください。一度きりの受験経験で感じた難易度の違いです。聴音のレベルは、比較に値しない差がありました。実技試験でも、国立は無伴奏でコンチェルトを演奏するのに対し、桐朋は一日だけの伴奏合わせで試験当日、伴奏の先生とコンチェルトを演奏します。
 他大学との「差」は他大学のレベルを知る機会がなかったので私にはわかりません。ただ、冒頭の録音を聴いて感じるように、プロオーケストラの演奏技術と比べ、弦楽器のレベルは「学生」のレベルではないように感じます。

 ヴァイオリンの「教授陣」は今考えても、ぞっ!とするほど(笑)高名な指導者の先生方が揃っていました。それぞれの先生方が、個性的な指導をされ、門下生も個性的でした。先生方同士も試験の合間に、とても和やかでした。
当然ですが、桐朋の卒業生で先生をされている方はまだ少ない時代でした。
 私が入学した当時「25期生」でした。つまり、桐朋が出来て25年目に高校生になったわけですが、それまで多くの「桐朋生」を育て卒業させてきた指導者が、まだ現役だった時代だったのかも知れません。
 一人の「先生」で考えると、たとえば30代で指導者になったとすれば、25年間経てば50代後半の年齢です。その間に、さらに新しい「若手指導者」が入れば、指導者の連携ができます。
 私が学生だった当時、あまり若い指導者がいらっしゃらなかったように記憶しています。言い換えれば「教授陣が同世代」だったように感じます。

 現代、桐朋に限らず「母校=出身大学」で教えていない先生方が、あまりに多いように感じます。それぞれの先生方の「価値観」があって当然ですが、部外者の目からすると、違和感を感じます。経営者と教授陣が「別」の考え方になることは珍しくありません。多くの大学で「経営陣の権限>教授陣の意見」です。
 桐朋が仮に「全盛期」を過ぎたとすれば、全盛期には「経営=教授」に近かったのかもしれません。現実、桐朋は「お金儲けの下手な音大」でした。
学生一人に対する教授の数が多すぎる=指導者の人数が多大よりも多いことを学生としても感じていました。だからこそ、学生に対するレッスンの質と時間が担保されていたのかも知れません。人件費にほとんどの授業料を使う音大が、ホールを持てなくても当然です。ホールがなくても、素晴らしい先生がたくさんいる方が魅力ある音大だと思うのは私だけでしょうか?
 箱モノより中身です。
学生を集めるための「おしゃれな学内カフェ」よりも「習いたい先生がたくさんいる」ことが大切だと思います。これからの音楽大学に不安を感じる「音大卒業生」のボヤキでした。老婆心、お許しください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

やわらかいもの な~に?

 今回のテーマ、なぞなぞか!(笑)
あなたは「やわらかいもの」と言われてどんなものを連想しますか?
羽毛布団?わたがし?マシュマロ?お豆腐?
では、やわらかくて、おおきいものは?
空に浮かぶ雲?ふかふかのベッド?エアーマット?そよ風?
現実の「硬さ」を数値で表す方法が何種類もあります。
1.「ショア硬さ」はダイヤモンドのついた小さなハンマーを測定物に落として、そのはね上がり高さで硬さを測定します。はね上がりの高いものほど硬いことになります。
2.「ロックウェル硬さ」
ロックウェルC硬さは、頂角120°のダイヤモンド円錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、その押し込み深さで硬さを測定します。深さの浅いものほど硬いことになります。
3.「ブリネル硬さ」
ブリネル硬さは鋼球を測定物に一定加重で押し込み、その時に出来るくぼみの大きさで硬さを測定します。くぼみが小さいほど硬いことになります。
4.「ビッカース硬さ」
ビッカース硬さは対面角136°のダイヤモンド四角錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、ブリネルと同様に出来たくぼみの大きさで硬さを測定します。これもくぼみが小さいほど硬いことになります。
う~ん。物理の授業だわ(笑)
 楽器を演奏するひとにとって、実際に「硬い・柔らかい」ものがあります。
・指の表面=皮膚の柔らかさ
・皮膚の下の「脂肪・筋肉」の柔らかさ
・さらに奥にある「骨」の硬さ
・弓のスティックの硬さ
・弓の毛の柔らかさ
・弦の表面の硬さ
・弦全体の張力の柔らかさ
・指板の硬さ
など多くの「もの」にそれぞれに硬さ・柔らかさがあります。
・柔らかいもの同士が「触れ合う」場合には?お互いが、へこみますね。
・柔らかいものが硬いものに押しあてられると?柔らかいものが、へこみます。
・硬いもの同士が押し合わされると?少しでも柔らかい方が、へこみます。
これをヴァイオリン演奏に当てはめると…
1.右手側
指(柔):弓のスティック(硬)
弓の毛(柔):弦(硬)
弦(柔):駒(硬)
2.左手側
指(柔):弦(硬)
首・顎(柔):顎当て(硬)
鎖骨(硬):楽器・肩当て(硬)
さて、問題は人間の「触覚」です。
右手指も左手指・首・肩などに触れる部分で感じる「強さ」です。
強い力で振れていても、鳴れてしまうと感覚が麻痺します。
弱い力で「触れた」触覚と、強い力で「押し付けられた」触覚の違いです。
無意識に強く握ったり、強く挟み込んでしまうことに注意が必要です。

 「硬い」「柔らかい」と言う表現は必ずしも「現実に触れるもの」以外にも使われています。映像はオイストラフの演奏するサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソです。音色の柔らかさを感じる演奏だと思います。

 音色や演奏の硬さは計測できません。単位も基準もありません。主観的なものです。それなのに何故か?この表現は頻繁に使われます。では、「音楽」の硬さと柔らかさについて考察します。
1.硬く感じる演奏
・音の立ち上がり=発音に、強いアタックが続く演奏
・高音が強く響き低音の少ない音色が続く
・ビブラートが常に速く深い
2.柔らかく感じる演奏
・アタックのコントロール=強弱がある
・低音の響きが強く、高音の倍音が適度に含まれた音
・音楽に溶けあうビブラートの速さと深さ
これらの違いをコントロールする技術は、何よりも「聴覚」と「触覚」がすべてです。もちろん、弦の種類、楽器と弓の特性によって音色は大きく変わります。
それらを「ハードウエア」と考え、技術・感覚を「ソフトウエア」と考えることもできます。言うまでもなく、使いこなすのは人間です。ハードウエアの個性を判断し理解するのも演奏する人間です。数値・種類で表すことができるのは「材質」や「弦の太さ・硬さ」など数点だけです。演奏する楽器と弓の「特色」の好みがなければ、どんな楽器で演奏しても良いことになります。「イタリアの楽器は良い」とか「古い楽器は良い」とか「鑑定書のある楽器は良い」、さらには「値段の高い楽器は良い」すべてに言えることは…
「そうとは限らない」つまり自分の好きな音が出る楽器か?を判断できないひとにとって「良い楽器」は存在しえないのです。その「耳」を鍛えることが軽んじられている気がしてなりません。とても悲しく、恐ろしい気がしています。

 最後に関節や筋肉の「柔軟性」と、音の柔らかさについて。
他人の身体の「硬さ・柔らかさ」は演奏を見ているだけでは判断できない部分がほとんどです。体操選手やフィギアスケート選手のように「身体の柔らかさ」をアピールする競技もあります。ヴァイオリン演奏で、見るからに「ぐにゃぐにゃ動く」演奏者を見かけますが、それは「柔らかい」とは違います。むしろ体幹が支えられていないから「ぐにゃぐにゃ」なケースが多く、必要な柔軟性とは異質のものです。身体には「硬い骨」もあり「強く太い筋肉」も必要なのです。その硬さを軸にして周囲に「柔らかい筋肉・関節」があるのです。
 右手指には「握らずに=ぐー!せずに」「しっかりやさしく包み込む」力が必要です。左手指にも同じ同じことが言えます。
 脱力したときの強さ…矛盾しているように聞こえますが、力を抜いた時の適度な「硬さ=弾力性」の事です。赤ちゃんの指は、触るとふにゃふにゃ(笑)です。その赤ちゃんは本能的に「つかまって自分の体重を支えられる指」を持っています。つまり「強い」のに「柔らかい」のです。理想の力でもあります。
 必要な力を「見切る」ための練習が必要なのです。
弱すぎれば安定しません。だからと言って強すぎれば硬直します。
「ちょうどよい力加減=硬さ」がそれぞれの部位にあります。
それを見つけることと、常に観察することが練習の要=かなめになります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の「ミクロ」と「マクロ」

 映像はエルガー作曲の「カントポポラーレ」第2回のデュオリサイタルで演奏したときのものです。あまり演奏される機会のない曲ですが、どこか懐かしさを感じられる素敵な曲です。

 どんな曲でも1曲を仕上げるために練習する過程で、陥りやすいことがあります。きっと多くの楽器演奏者が感じることだと思います。
 「ミクロ=微小な」という言葉に対して「マクロ=巨大・巨視的(全体的に観察すること)」という言葉があります。
 曲を練習する時で考えれば「一音」ごと、さらに「発音」「アタック」などを、虫眼鏡で観察するように注意して練習することが「ミクロ」で、
曲全体、あるいは「フレーズ」や「楽章」などの広い視野で音楽を考えることが「マクロ」だと言えます。
 演奏を「時間」を軸にして考えるなら、音が出始める「瞬間=短い時間の単位」から音を伸ばす「少し長い時間」、さらに「リズム=音の長さと休符の組み合わせ」で徐々に長い時間の単位になっていきますね。仮に3楽章で書かれている曲であれば、それらを弾き始めてから最後の音が消えるまでの「時間」が最大長になります。
 虫眼鏡や顕微鏡で、小さなものを大きくして見ることを「音」に例えるなら、ひとつの「音」が無音の状態から出始める=聴こえ始める瞬間を「拡大」して練習することになります。さらにその次の瞬間にも音は連続しているので、また新しい拡大が必要です。当然それぞれに違った「拡大図」があります。弓が動き始める瞬間の「音量」と「音色」を観察することが大切ですが、これだけを練習していても「音楽・曲」にはなりません。だからと言って、虫眼鏡で観察していた音楽を、突然「3楽章」で考えることは不可能ですよね(笑)
1.虫眼鏡で見る部分を少しずつ移動する。
2.少し倍率を下げ、広い部分を観察する。
3.次の新しい「音」を虫眼鏡で観察し…移動し…倍率を下げて
4.前の部分と今、練習している部分を見比べられる「倍率」に広げる。
という練習を繰り返した場合に、頭を悩ませる問題があります。
 それは、次第に大きな部分を考えるようになってきて、練習してきた過程で「良い」と思っていた「ミクロ」の部分に疑問がわき始める場合です。

 これを「家を建てる」と言う家庭に置き換えて考えるとわかりやすいかもしれません。基礎ができた土地の上に「建物」を造ろうとするとき、適当に木材を切り始めるひとは?いませんよね?まず「設計図」を書く、もしくはきちんと完成したイメージを考え、必要な材料の大きさ、量を考えるはずです。
 どんなに手先が器用で、まっすぐに木材をカットしたり、美しく表面を削り磨き上げられたとしても、その部品を他の部品と「組み合わせ」られなければ、技術も時間も無駄になります。
 「手抜き工事」は設計図があっても、部品の大きさや取り付け方=ミクロがいい加減で、傾いた家になったり、壁に隙間が出来たりします。つまり、いくら正確な設計図=マクロがあっても、ミクロの部分が雑なら家全体も雑になる…ということです。

 音楽も家を建てるのと似ています。
まず、設計図を楽譜を見ながら頭に描くことです。これから演奏・練習しようとする音楽の「完成図=未来予想」をする時間が必要です。それから、ミクロ=一音ずつの練習と観察に取り掛かかることが、効率的な練習になります。
 完成図、言い換えれば自分の理想の演奏をその曲に思い浮かべることは、とても難しいことです。そもそも楽譜は「音」ではありません。頭の中で音楽にする技術と能力、あるいは誰かの演奏を聴きながら楽譜を読み進む技術がなければ、設計図は作れません。「覚えればいい」と思われがちですが、音楽を「音」の高低・リズムだけで覚えて「設計する」のは、家を建てる際に「言葉」だけでイメージを伝えることと同じです。紙の上に2次元で描かれた「設計図」を、壁や床・天井・窓・屋根にしていくのと同じように、紙の上の曲=楽譜を、音・音楽にしていくプロセスを省略するのは、非効率的です。

 1曲の演奏時間が「5分」だとすれば、「1秒以下」へのこだわりを、5分間維持することになります。その時間の中で、静かな部分・悲しい部分・動きの少ない部分も、大きな音の部分・明るい部分・動きの多い部分もあり得ます。
 5分間に凝縮された「変化」を楽しむのが音楽です。音が出始めた瞬間から、最後の音が消えるまでの「時間の芸術」です。だからこそ、ミクロとマクロのバランスを考えた練習が必要になると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノのコンサートに求められるものは?

 映像は私のヴィオラと浩子さんのピアノで演奏した「はるの子守歌」渋谷牧人さんの作品です。過去、色々な場所で演奏させてもらっている素敵な曲です。
 今回のテーマは「ヴァイオリンとピアノ」と書きましたが、ヴァイオリンに限らず、ピアニストと「もうひとり」の演奏者が開くコンサート…多くはクラシック音楽のコンサートですが、お客様が期待するものってなに?と言うテーマです。

 日本中、世界中で毎日のように、にどこかで開かれているクラシックコンサート。
演奏する人数も楽器も様々です。演奏者「1名」ですべての曲を演奏するコンサートもあれば、100名にもなる大オーケストラの演奏会もあります。
 私たち夫婦の「デュオリサイタル」も含めて、演奏者「2名」のクラシックコンサートの場合、多くは「ピアノ」ともう一人の演奏者による演奏です。
 ピアノは「一人だけで楽曲を完成できる楽器」でもあります。現実に、ピアノ1台だけで演奏する曲は、多くの演奏形態の中で、もっとも作曲された数の多い「演奏スタイル」です。
 ピアノと比べて、ヴァイオリン「1丁」だけで演奏できる楽曲は、バッハやイザイなどの作曲家によるものがありますがピアノの曲数に比べると、桁が二つは違います(笑)

 ヴァイオリンとピアノ、ヴィオラとピアノで演奏される「音楽」にお客様が期待する「楽しさ」や「美しさ」「安らぎ」「喜び」がきっとあります。
もちろん、ピアノ一台だけでもオーケストラの演奏でも同じ「期待」があります。
 ピアノだけで演奏する音楽に、ピアノ以外の「音色」は交わりません。
オーケストラの演奏には、数多くの異なった音色が複雑に交わります。
ヴァイオリンとピアノで演奏する場合は2種類の楽器の音色を同時に、時には別々に聴いて楽しむことができます。
 ヴァイオリン・ヴィオラの演奏は、ピアノとどのように溶けるのでしょうか?
言い換えれば、お客様の耳にはどんな「音=サウンド」として聴こえているのでしょうか?
 クラシック音楽は「楽譜に書かれた音」を音楽にする場合がほとんどです。
演奏者が変わると、聴く人にとって「音楽」は変わるものなのでしょうか?

 コンサートで聴く音楽は、CDや動画と違い生きた演奏者が目の前で演奏しています。つまり「一度だけの演奏」です。その生演奏を聴くお客様が、これから演奏される「音楽」を他の演奏者の演奏で聴いたことがある場合と、初めて聴く場合の両方があり得ます。前者の場合、今日の演奏は自分の知っている演奏と「何かが違う」事に期待があるはずです。もちろん「楽譜=曲」が好きで楽しみにしている人もいらっしゃるでしょう。
 後者の場合、どんな音楽に出会えるのか?という期待があります。中には作曲家の名前に期待する人、曲のタイトルで音楽を創造する人もおられるでしょう。演奏者の「ファン」でどんな音楽であっても「その人の演奏が楽しみ」と言う人がおられる場合もあります。

 ヴァイオリンとピアノで演奏する音楽の「個性」について考えます。
・演奏のテンポと音量の変化
・二つの楽器の音量のバランス
・そぞぞれの楽器の音色
・ふたりの演奏者の「一体感」
始めの点亜、すべての演奏に共通する項目でもあります。
ピアノとヴァイオリンは「音色の種類」が全く違います。
 ピアノは「打弦楽器」ヴァイオリンは「擦弦楽器」
この音色の違いは、例えるなら「食感の違い」です。
ピアノでもヴァイオリンでもそれぞれに「微妙な音色の変化」もありますし、楽器固有の音色=個体差もありますが、構造的に音を出す原理が違うので、全く同じ高さで同時に演奏しても「聞き分け」が容易にできる組み合わせです。
 ピアノが「口に入れてすぐに溶ける食感」だとすれば、ヴァイオリンは「長い時間口で溶けない食感」に例えられます。
 ヴァイオリンtおチェロの演奏なら、両方の音色が容易に溶けます。
音色のまったく違う楽器の組み合わせで演奏する「二重奏」の場合には、聴く人にとって2種類の異なった食感を同時に味わっている感覚に似ています。

 先述のように同じ楽譜を演奏した場合の「違い」が必ずあります。
その「違いの分かる人」は他の演奏と比較できる人ですよね?
演奏者(たち)が、他の人の演奏を全く知らないケースも十分にあり得ます。
他人の演奏を知らなくても自分(たち)で音楽を考えながら、造り出せます。
敢えて個性を出そう・人と違う演奏をしようと思わなくても良いのです。
自分が演奏する楽曲を初めて聴いた人の心に残る演奏を目指すことが何よりも大切です。
他方でひとりでも多くの人に喜んでもらえる演奏をしたいと思う気持ちも大切です。自分(たち)の解釈と演奏が突飛で違和感のあるものか?それともえ多くの人に受け入れてもらえる解釈・演奏なのか?を知るためには、演奏者自身が多くの演奏を聴き比べることも重要だと言えますが、自分(たち)が好きだからと言って、多くの人が好きだとは限りません。
 楽譜を素材として考えれば、料理にもたとえられます。
同じ場所で同じ時に釣られた「鯛(たい)」を、
和食・中華(この中でも様々)・フレンチ・イタリアンなどの専門料理人が溶離したら?まったく違う食べ物が出来そうです。さらにその中でも「独創的」な料理法や味つけをするひともいるでしょう。「伝統的な調理法」と「革新的な調理法」があることになります。音楽と似ていますよね。
他人の作るものと同じものを真似て「そっくり」に作れる人って存在するでしょうか?。多くの人に支持される「味=演奏」の特徴を見抜き、再現するためには、真似しようとする味や音楽「以外」の方法も身に着けていなければ再現できないのです。
 ヴァイオリンで「ハイフェッツ風」「シェリング風」「オイストラフ風」「スターン風」「クレーメル風」「ギトリス風(笑)」多くの個性的な演奏解釈・奏法があります。その「特徴」と「技術」を完全に模倣できる人は恐らくいないでしょう。それぞれのヴァイオリニストがいくらお弟子さんに教えたとしても、その人「間隔」「聴こえ方」はどうやっても伝えられないものです。
 職人と呼ばれるひとたちが口にする「最後は勘」と言う言葉からもわかります。ストラディバリウスのヴァイオリンと同じ音色の楽器を完全に再現できないように、最先端の科学技術で解析しても「答えが出ない」ことこそが個性だと思います。言い換えれば、「マネできること」「再現できること」は「個性」ではないのです。

 最後にお客様が期待する「ふたりの演奏」について。
価値観の違いでまったく違う結論が出ますが、私は初めてその曲を聴くお客様にも何度も聴いたことのあるかたにも「満足」してもらえる演奏をしたいと願っています。突飛でもなく、ありきたりでもない演奏です。抽象的(笑)
 もう少し具体的に言えば、短調でも長調でも、速い曲でもゆったりした曲でも、静かな音楽でも気持ちが高揚する音楽でも、「心地よく聴ける」音楽を目指します。料理で言えば、バランスの取れた味つけで、辛すぎず甘すぎず、様々な料理の食感、温度、味つけに飽きさせない組み立てをすることです。
・クラシックマニア(ファン)でなくても、リラックスして楽しめる演奏。
・すべてのプログラムを聴き終えて、「腹八分目」で後味の良い量と内容
・ヴァイオリンやヴィオラ、ピアノの微妙な音色の変化を楽しめる曲
などなど…出来たら良いのですが(涙)一生かけても実現は難しいことです。
 コンサートが始まる前から、演奏が終わって会場を後にするまでの「時間」がお客様にとって快適で幸せな時間なら、帰り道に鼻歌の一つも(笑)でそうですよね。それらをすべて含めたものが「魅力」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

力の「向き」「速さ」「大きさ」をコントロールする

 映像はユーディ=メニューインの語るヴァイオリンボウイング。
昔、日本語に訳された本を一生懸命読みました。
メニューインもカール=フレッシュの本も、とにかく理論を言語化した本に共通するのは「一回呼んでも理解できない」という共通点(笑)私だけ?
 演奏家はとかく「理屈じゃない。感覚が大事だ」と言いたがります。
感覚を言語化するのは難しいことです。とは言え、自分の技術を高めるためにも、お弟子さんに継承するためにも客観的に理解できる言葉にすることも必要です。
 力学や物理が苦手な音楽家が多いのは、多くの人が「音楽学校」で学び一般教養への関心が低かったことも原因の一つです。私もそのひとりです。(笑)

 今回は特に右手に絞って考えます。
弓に触れる「五本の指」それぞれに、力をかける方向と速さ:時間、さらに力の強さが違います。
右手首、右肘、右肩の関節につながる筋肉があります。関節を動かさなくても筋肉に力を入れること、逆に力を抜くことが可能です。腕を曲げる運動の速さ、強さを鍛える場合と、反対にゆっくりと腕を伸ばす運動=ブレーキをかけながら伸ばす運動をトレーニングする方法がスポーツ医学の世界では当たり前にあります。
 弦楽器の弓を動かす運動「ボウイング」は腕の曲げ伸ばしだけではなく、右肩を始点にした回転の運動や、筋肉の緊張と弛緩(ゆるめる)を使って、力の速度と強さをコントロールする必要があります。
 これらの「方向」「速さ=時間」「強さ」の中で、もっとも難しいのはどれでしょうか?

 初心者に限らず、人間は「無意識」に力を入れたり抜いたりしています。
緊張すると筋肉に力が入ります。リラックスすると力は抜けています。
それを意識的に行うのはとても難しいことです。特に「弛緩=筋肉を緩める」意識は日常生活で感じることがありません。逆に力が必要な時には、すぐに筋肉に力を入れられます。
 力を入れるためにかかる時間、緩めるのにかかる時間を速くすることが一番難しいことです。つまり「一瞬」で力を入れてすぐに「脱力」する運動です。
その「速さ」で筋肉にかける力の「強さ」を変えることはさらに難しいことです。
 腕の重さと弓の重さは、その人の腕と使う弓で決まり、演奏中に変わることはあり得ません。
 力の速さが早くなれば生まれる力の量は増えます。大きい力で速く動かせば、大きな動きになります。小さな力で速く動かせば小さな動きになります。
 みぎての親指と人差し指で、瞬間的に力を入れられ、すぐに脱力できれば、自由にアタックを付けることが可能です。ダウンの途中でこの運動を擦れば、弓はバウンドします。バウンドを利用してスピッカートを連続させられます。
 次に、力を「長く」かければ大きな力量になります。例えれば「全弓を使って、出来るだけ長く大きな音でひく」場合です。これは比較的わかりやすく、初心者でも身に着けられます。

 力の方向が一番重要なのは、右手の場合「指」になります。
親指の力の方向が、右手人差し指の力の方向の「真逆」になっているでしょうか?多くの生徒さんが、親指の力の向きが人差し指の力の方向に対して「90度」自分から見て「前方」に押す力になっています。その向きの反対の力は?中指を自分に向かって「引き寄せる」力になってしまっています。この「反作用」は演奏に不必要な力です。指が付かれるだけではなく、弓の毛を現に押し付ける圧力をコントロールできません。弓を親指と中指で挟んで持つ仕事をしているだけです。
 親指と人差し指の「力の向き」と「速さ」と「強さ」を意識することは、もっとも重要な技術の一つです。

 最後に右手の各関節に「弾力」を持たせるための、筋肉の使い方です。
指の関節を固めてしまえば、弓のコントロールは無可能です。小指をまっすぐにのばしたままで演奏する人は、右手小指の「弾力」を捨てていることになります。関節を曲げたり伸ばしたりする「弾力」は、力の強さで買えられます。
自動車で言う「ショックアブソ-バー」と「ダンパー」です(車好きな人に聴いてね(笑))
 言うまでもなく、右手の筋肉で一番小さい=可動範囲の狭いのが「指」です。
次が「手首」です。手首は手のひらに対して上下には大きく動かせますが、左右の可動範囲は狭いものです。少しでもこの可動範囲を広げるストレッチも必要です。さらに大きな運動は「肘」の関節です。ゆっくり伸ばす=ダウンの運動を練習することが必要です。一番大きな運動をするのが「肩」の関節です。
首とつながった筋肉、背中、脇とつながった大きな筋肉によって動かされます。
この一番大きな運動で、重心が揺れないようにする「腰」と「股関節」「膝」の関節の弾力も必要です。
 弓の運動は、右半身すべての筋肉と関節を使っておこなわれます。
意識するのは「向き「速さ」「強さ」です。デフォルト=ニュートラルの状態で、いかに無駄な力を入れず、必要な力を最小限に使って、効率よく弓を安定して動かせるか?常に、力を意識することが大切です。
 最後まで読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

他人の評価より自分の判断に自信を持つ!

 映像は角野隼人さん=Cateen=かてぃんの「Cateen’s Piano Live – Summer ’22」です。ショパンコンクールでの活躍、ユーチューバーとしての活躍、ジャズピアニストとしての活躍、ストリートピアニスト、フランスパリでの「社会人」としての一面など、本当に多くの顔をがあることは皆さんもご存知だと思います。
 今回の辛口テーマは、特に現代日本人に多く見られる現象を考えるものです。

 自分の感覚、考えよりも「他人の評価」に流される日本人が多いのはなぜでしょうか?
・他人との関りを避けたがる
・付和雷同が良いとされる風潮
・出るくぎは打たれるという風潮
・考えて選ぶことを面倒くさがる風潮
他にも色々考えられます。日本人特有の「内面的」な性格も根底にある気がします。自分の意思を相手に表現することを「失礼」だと感じる国民性なのかも知れません。

 誰かが美味しいと評価したお店に行きたがる「気持ち」は誰にでもあります。
知らないお店に入って、料金に見合わない「まずい」と感じる料理を食べるのは誰でも嫌ですから。誰かが食べた「感想・評価」を参考にしたくなるのは無理もありません。ただ…その感想や評価を「信じられるか?」と言う疑問もありますよね。いわゆる「クチコミ」が怪しいのは誰でも知っています。良い評価も悪い評価もあって当たり前ですが、悪意を持って悪く書く人、お店に言われて良く書く人も多くいるのは否めません。完全に信じられる情報は、恐らくどこにも存在しません。それでも参考にしたくなるのが人間ですよね。

 自分が作った料理を自分だけが食べるとします。味付けに失敗したり、多少焦がしてしまっても「まぁ、食べられるからいいや」と思いませんか?
 でもその料理を、自分が大切に思う人に「どうぞ!」って出せるでしょうか?(笑)笑いのネタにするなら別ですが、普通は…作り直しますよね。
 自分が美味しいと思った料理でも「お口にあえば良いのですが…」と、謙遜するのが日本人です。相手への手土産も「つまらないものですが…」と渡す人が未だに多い日本です。「口に合わないと思うものを出すのか?」「つまらないものを相手に渡すのか?」と考えるのが欧米人の考え方です。むしろ自然な気がします。「謙遜」の気持ちが相手に伝わらない場合もあるのです。
自分の感覚に自信を持って、相手にも喜んでもらえると信じること。
日本人に一番足りない、できないことかもしれません。

 それは「思い込み」にも通じています。
自分で考えて判断したことは、初めに思っていた「正しいこと」でも、違う情報を知ってさらに考え直し「間違っていた」と考えを改めることができます。
ところが自分で考えず「誰かが言っていた」「周りの人が話していた」ことだけで判断した人の多くは、違う判断をする考えを聴いても、やはり考えるのが嫌なので最初の判断に固執します。これも日本人特有の「人を疑うのは悪いこと」という伝統化も知れません。でも「人を見たら泥棒と思え」というコトワザがありますね(笑)
 言うまでもなく、自分で考えて判断することが最善策です。どうしても判断が付かない場合もあります。その時「どちらが正しいかわからない」と言う結論を出せる人と「どっちか!」に決めたがる人に二分されます。
 判断できない原因は「頭が悪いから」では決してありません。情報が足りないからなのです。その情報を積極的に知ろうとしない人は、いつまでたっても判断できないか、鉛筆を転がして(笑)どちらかを無理やり選ぶタイプの人です。

 自分の考えで判断する能力は、音楽を演奏する人にとって、絶対に必要な能力です。他人が「良い」と言ったものだけを選ぶのは簡単です。「これにしなさい」と言われて疑わず・考えずに従うのも簡単でらくちんです。その繰り返して「自分らしい演奏」や「自分が満足できる演奏」ができるはずがありません。なぜなら「他人の価値観」で音楽を考えてしまうからです。
 話は少し逸れますが、昔母校の桐朋で高校生を教えている作曲家の先生と、仙川の喫茶店でお話している時の事です。
「音楽高校で制服がある学校、あるだろう?あれ、最低だよ!」
と言うお話でした。その先生のお考えに同感しました。要するに、これから自分の演奏が自分に「似合うか?似合わないか?」を判断すべき音楽高校生に「これを着なさい」と言う制服を着させることはナンセンスだという事です。
制服の「意味」はあります。ただそれ以上に大切にすべきこともあります。
 高校生にもなって、自分が毎日着て歩く「服装」「容姿」を考えられない人間が音楽家になれるとは思えないのです。高校生が過ごす多くの時間を「制服」で過ごさせるよりも、自分で選んだ服装や髪形、装飾が似合っているか?を知ることがどれだけ有意義な事かを、音楽家を育てる学校と教員が理解できないとしたら、ラーメン屋の修行で、ひたすら冷凍ラーメンを「レンチン」して過ごさせているのと何も変わらないと思うのです。すし職人を目指す人が、毎日スシローのお寿司だけ食べて作ったお寿司、食べたいですか?(笑)
若い時から自分で考えて、自分の感覚を試す経験が必要です。大人になっても同じですよね。年齢相応の「いでたち」が出来てない高齢者って、悲しくないですか?私は「チョイワル爺」にあこがれてます(笑)

 自分の価値観を大切にすることと「わがまま」や「唯我独尊」とは違います。他人の考えを「情報」として取り入れる能力がなければ、そもそも自分で考えることはできません。日本人政治家で「妖怪」もどきの高齢者が、記者の問いに応えない姿を見ると、その政治家の家族がご苦労していることを想像します(笑)
ただの「く●じ●い」を「政治家先生」と呼ぶ日本人の情けなさも痛いです。
 「老いては子に従え」というコトワザは、現代の日本に最も当てはまる言葉だと思います。若い人たちの元気がないのは、高齢者に責任があります。
音楽家を育てるのは?音楽家です。決して「年長者」ではありません。
自分の音楽に確信を持つことは、生活のすべてに関わることです。
「言われなければできない」「自分で考えて動けない」面を自分で改めることが、自分の音楽を見つけるために必須なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピチカート修行(笑)

 映像は「ピチカートポルカ」をヴァイオリンひとつで演奏する離れ業。
メリーオーケストラ第42回定期演奏会でラヴェル作曲「ボレロ」を演奏することになっています。先日、オーケストラで初練習を行った際に「ピチカートの和音が連続してる~涙」と言う弦楽器メンバーからの悲鳴に似た(笑)助けてコール。
 ご存知のように、ボレロの冒頭部分ではヴァイオリン・ヴィオラが楽器をギターのように構えて「ピチカート」で演奏します。途中からは通常の「アルコ=弓を使った演奏」になることもあり、通常の構え方でピチカートを演奏する部分があります。そんな中で「ピチカートで和音の6連符」と言う「おいおい、ラヴェルさん」と言いたくなる部分があります。上の映像の最後の方で行われている「ピチカートの往復連打」しか方法がありません。それが何回も続く…

うえの

上の映像はNHK交響楽団の演奏するボレロの一部。ヴィオラが和音ピチカートを「往復運動」しながら演奏している部分をデジタルズーム(ボケます)してみました。忙しそうで痛そう!(笑) 
そもそも、この双方でどの程度オーケストラの「響き」として効果があるのか?と言う素朴な疑問もありますが(笑)少なくとも音は出ます。