うまくなるってどんな意味?

 映像はもう8年も前の演奏動画です。ヴィオラで演奏したシンドラーのリスト。自分の演奏を客観的に観察することは、演奏者にとって必要なことです。
自分以外の人の演奏を聴く時と何が違うのでしょうか。

 自分の演奏が何年練習しても「うまくならない」と感じるのは私だけではないと思います。多くの生徒さんが感じていることのようです。
 生徒さんより長く演奏をしている自分が、なぜ?うまくなっていく実感がないのでしょうか。練習不足もあります。練習方法に問題があることも。意欲が足りないことも。「原因」はいくらでも考えられますが、50年以上ヴァイオリンを演奏しても「この程度」と思ってしまうのが現実なのです。うまくなりたい!と思う自分と、あきらめている自分が葛藤しています。生徒さんには「あきらめないこと!」と言いながら自分が上達していないと感じる矛盾。
 そもそも「うまくなる」ってどんな事を表す言葉なのでしょうか。
「できなかったことができるようになる」うまく弾けなかった小節を、練習して演奏できるようになった…と思っても、本番でうまく弾けていないことを感じる時に感じる挫折感。練習が足りない…ことは事実です。でもね…。
 自分の演奏を昔と今と聴き比べて、どこか?なにか?うまくなったのか、考えることがあります。生徒さんの演奏ならいくらでも見つけられるのに、自分の演奏は「ダメ」なことばかり気になります。昔の演奏の「ダメ」もすぐにわかります。つまり「良くなったこと」が見つからないのです。練習している時には「これか?」「うん、きっとこれだ!」と思っているのに、あとで聴いてみると「違う」気がすることの繰り返しです。一体、自分はなにを目的に練習しているのか…うまくならないなら、練習しても意味がない。練習しないなら人前で演奏することを望んではいけない。音楽に向き合う資格がない。負のスパイラルに飲み込まれます。そんな経験、ありませんか?

 自分の演奏に満足できないから、練習をやめることは誰にでもできることです。一番、簡単に現実から逃避する方法です。
 自分がうまくなったと思える日は、最後まで来ないのが当たり前なのかもしれません。うまくない…のは、他人と比較するからなのです。自分自身の容姿に、100パーセント満足する人はいないと思います。性格にしても、健康にしても尾内zです。他人と比べるから満足できないのです。
 今日一日、過ごすことができた夜に「満足」することがすべてですね。
「欲」は消せません。生きるために必要なことです。本能でもあります。
欲を認めながら、自分の能力を認めることが生きること。それを、もう一度思い返して練習を繰り返していきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノの音量

 映像はデュオリサイタル10代々木上原ムジカーザで演奏した、エンニオ=モリコーネ作曲「ニューシネマパラダイス」です。私がかけているメガネは「網膜色素変性症」という私の持つ病気の症状のひとつ「暗所で見えない」ことを解決するために開発された特殊なメガネです。
 さて、今回のテーマを選んだ理由は?

 練習を含めて、ヴァイオリンとピアノで演奏する時に、それぞれの演奏者に聴こえる「自分の音」「相手の音」のバランスと、客席で聴こえる両者=ヴァイオリンとピアノの音量のバランスの違いについて。以前にも書きましたが、私の場合練習していると自分の音の大きさに不安を感じることが増えた気がしています。聴力の問題ではなく、感覚的な変化です。演奏する曲によって、ピアノもヴァイオリンも音量が変わることは当然です。特に「聴こえやすい音域」さらに「同時になるピアノの音の数」は演奏者が考える以前に、楽譜に書かれていることです。それを音にした時、客席にどう聴こえるか?までを考えて楽譜が書かれているのかどうかは、ケースバイケース。どう演奏してもヴァイオリンの音がピアノの音に「埋没=マスキング」される楽譜の場合もあります。いくら楽譜上にダイナミクス=音の大きさの指示が書いてあったとしても、ピアノが和音を連続して速く弾いた時の「ピアニッシモ」の下限=最小限の音の大きさと、ヴァイオリンが低い音で演奏した「ピアニッシモ」のバランスを取ることは、物理的に不可能です。言ってしまえば「楽譜を書いた人の責任」でもあります。
 演奏すれ側にしてみれば、自分の音と相手の音の「バランス」を常に考えながら演奏することは、思いのほかに大きな負担になります。オーケストラの場合には指揮者がバランスを「聴いて」指示し修正できます。弦楽四重奏の場合、同じ弦楽器での演奏なので、音量のバランスは比較的容易にとれます。
 ピアニストに聴こえる「バランス」とヴァイオリニストに聴こえる「バランス」は当然に違います。経験で自分と相手の音量の「バランス」を考えます。
そもそもピアノとヴァイオリンの「音色」は音の出る仕組みから違いますから、聴く人には「違う種類の音」として聴こえています。ただ同時に聴こえてくるわけで、どちらかの音が大きすぎれば、片方の音は聞き取りにくくなります。
ピアノとヴァイオリンは「音源=弦の長さと筐体の大きさ」が圧倒的に違います。さらにピアノは「和音」を演奏し続けることがほとんどなのに対し、ヴァイオリンは「単音」を長く・短く演奏する楽器です。構造も音色も違う2種類の楽器が「一つの音楽」を演奏することの難しさと同時に「組み合わせの美しさ」が生まれます。それは味覚に似ています。甘さと同時に「しょっぱさ」を加えると、より強く甘みを感じます。コーヒーは苦みと酸味のバランスで味が決まります。ピアノとヴァイオリンの「溶けた音」を楽しんで頂くための「バランス」が問題なのです。

 物理的に音圧の小さいヴァイオリンを担当する(笑)私として、ピアニストの演奏する音の中に溶け込みながら、かつ「消えない」音量と音色を手探りで探します。それはピアニストも同じ事だと思います。お互いが手探りをしながらの「バランス」なのです。ただ、それぞれの楽器が演奏する中での「変化」も必要です。音色の変化、音量の変化。ヴァイオリンは音域が高くなるほど、聴感的に大きく聴こえる楽器です。逆にヴァイオリンの最低音はピアノの音域の中で、ほぼ中央部分の「G」ですから、音域のバランス的にもピアノの和音にマスキングされ聴感的に弱く聴こえてしまいます。
 練習の段階でヴァイオリン「単独」での音色と音量の変化を考えます。
ピアノと一緒に演奏してみて、その変化が効果的な場合もあれば、消えてしまう場合もあります。ピアニストの技術以前に「楽譜」の問題の場合がほとんどです。ピアノの「和音」と「音域」を、ピアノ単独で考えた場合に最善の「楽譜=最も美しく聴こえる楽譜があります。それがヴァイオリンと一緒に演奏したときにも「最善」か?と言えば必ずしもそうではないと思います。
 ヴァイオリニストの我がまま!(笑)と言われることを覚悟のうえで書けば、ヴァイオリンとピアノの「音圧の違い」を踏まえたアレンジ=楽譜を演奏する時の自由度=バランスを考えなくても演奏できる場合と、常に「これ、ヴァイオリン聴こえてるのかな?」と不安に感じ、弓の圧力を限界まで高くし、ヴィブラートをめいっぱい(笑)かけ、弓を頻繁に返す演奏の場合があります。どちらも「楽譜通り」に演奏したとしても、お客様が感じる「音の溶け方=混ざり方」の問題です。演奏者に聴こえるバランスではないのです。
 自分の音と、相手の音のバランスはホールによっても変わりますから、神経質になってもよくないと思います。ある程度の「当てずっぽ=勘」で演奏するしかありません。ただ自分の演奏が「平坦」になってしまわないように気を付けて演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

慣れ親しんだ自分の楽器が一番!

 映像はパラディスが作曲した(と言われる)シシリエンヌ。デュオリサイタル11代々木上原ムジカーザでの演奏です。ヴァイオリンの音色は演奏者によって大きく変わります。それ以前に楽器固有の音色には、すべての楽器に個体差があります。その個体差を「バラツキ」と言う負のイメージで考えることは間違っています。すべての楽器には本来、個体差があって当たり前なのです。特に電子部品を一切使わない楽器の場合、素材の個体差、組み立てる際の違い、調性による違いがあって当たり前なのです。まったく同じ楽器が二つ、存在しないのは人間や動物、植物と同じです。どの人間が一番優れているか?と言う議論は現代世界では愚かな人間の浅はかな考えです。その意味でも、ヴァイオリンの中で「どれが一番良い」と言う発想そのものが根本的に間違っています。むしろ、その評価をする人間の「感覚」そのものが「個人差」そのものなのです。
 私にも「一番好きな楽器」があります。それが自分が今使用している楽器です。このヴァイオリンとの出会いは以前のブログにも書きましたが、私が13歳の時にさかのぼります。それ以来、約50年間この楽器と一緒に音楽を奏でています。ヴィオラは陳昌鉉さんの作った楽器で2010年にめぐり逢い、現在12年目となりました。このヴィオラも私にとって、唯一無二の存在です。
 生徒さんたちに新しいヴァイオリンを紹介、斡旋する時にお話しすることがあります。「楽器との出会いは一期一会」つまり、出会いがすべてだという事です。いくつかの楽器の中から「ひとつ」を選ぶ作業を「選定」と呼びます。それぞれの楽器に個性があります。差が大きい場合も、小さい場合もあります。違いが音量の場合も音色の場合も、ネックの太さやボディのふくらみの違いの場合もあります。ニスの色も違い、形も違う場合もあります。当然価格も違います。
 同じ価格の楽器でも当然、個体差があります。生徒さん個人にとって「一番」を選ぶのは、勧める側にとっても選ぶ生徒さんにとっても、とても難しいことです。「好み」だからです。良い・悪いの問題ではないのです。価格の安い・高いは明らかに存在します。見た目の「好み」も重要な要素の一つです。それらすべてが「出会い」なのです。ひとつの楽器を選べば、その他の楽器とは「別れ」をすることになります。それが辛い気持ちも当然です。かと言っていくつも買うものではありません。最終的にどれか一つを選ぶ作業は、「酷」とも思えます。

 先日、長野県木曽町の依頼で、木曽町の所有する陳昌鉉さんが作成したヴァイオリン「木曽号」を使ってコンサートを開かせていただきました。素晴らしい楽器でした。それはお聴きになったお客様からの感想と、演奏後の反応からも伝わってきました。そのコンサートで演奏した「ヴァイオリンの音色」はその場で最高のものなのです。どんな演奏であっても、演奏の際の「音」は他の音と比較されるものではないのです。記憶に残ったとしても、まったく同じ条件で演奏されることは2度とないのですから。その「最高の演奏」に使ったヴァイオリンですが、私にとっては「一番好きな楽器」とは言い切れないのが正直な気持ちです。「それならその依頼を断れば?」と思われるかもしれません。確かにお断りすることも選択肢の一つかも知れません。ただ、陳昌鉉さんが初めてヴァイオリンを製作し始めた場所である「木曽福島」に感謝の気持ちを込めて贈呈されたヴァイオリンを「誰かが演奏する」事は、楽器にとっても木曽町の方々にとっても「必要不可欠」な事なのです。木曽町が所有する以上、個人の演奏家が常に演奏するべきものではありません。それが偶然、私だったのですからお引き受けさせて頂くのは光栄なことだと思います。その楽器に「ケチ」をつけるつもりは1ミリもありません。私の楽器のほうが優れているとも思いません。単純に「好き嫌い」の問題です。嫌い…ではないので、「好み」です。

 どんな違いあるのか?一つは「弦高」の違いです。
糸枕=ナットと駒の高さ、ネックと指板のボディとの「向き・位置」によって、弦と指板との距離、さらにはボディと指板の距離が変わります。そのことによる「押さえた時のピッチ」が全く変わります。
 さらに「ネックの太さ・丸さ」の違いがあります。ほんの数ミリの違いが、演奏者には大きな違いになります。開放弦を演奏するだけなら、なにも変わりません。弦を押さえ、弓で弾いた時に出る「音」の問題です。
 当たり前ですが、弦楽器は自分で音の高さを「決める」楽器です。楽器によって、押さえる弦の場所が微妙に違います。同じ高さの音でも、楽器によって音色が違います。自分の「耳」で探すピッチが、見つからない…見つけにくいのです。
 一番、違うのは「弦ごとの音色の差」です。仮に同じ弦を張ったとしても、二つの楽器があれば、4本の弦ごとの「音色の差」が、楽器のよって違います。
それも個体差なので、どれが一番良いというものではありません。
それに慣れることが演奏者の技術です。弦ごとの音色の違いを「利用する」場合と「極力抑える」場合があります。その楽器ごとの「個性」を掴むことがとても難しいのです。ポジションによっても音色が変わります。それらの組み合わせで、最良の指使いと弓の圧力を考えることが求められます。

 どんなに素晴らしい楽器だたとしても、演奏する人間がその楽器を愛することができなければ、楽器も演奏家も音楽を奏でることはできません。
 人を愛する心と同じだと思っています。楽器を愛でることができない人に、音楽を演奏することは出きないと信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽町コンサート終了

 2022年11月23日(祝日)長野県木曽町「木曽福島」でのコンサートを無事に終えました。主宰された木曽福島町生涯学習課の皆様、会場にお越し頂いた多くのお客様に心から感謝を申し上げます。昨年11月に長野県「キッセイ文化ホール」主催で実施された同じ会場でのコンサートを今年は木曽町が引き継いで開催してくださいました。来年もまた、開催していただけることになりました。

 昨年は相模原と木曽福島を「日帰り」と言う強行スケジュールでしたが、今年は前泊することにして11月22日昼間、八王子から特急あずさに乗って塩尻~中央本線特急しなので現地に向かいました。

 木曽町が予約してくださった宿「御宿蔦屋」伝統と風情を感じる中に、新しい設備とおもてなしの心、素晴らしいお料理の旅館でした。駅にお迎えに来てくださった木曽町生涯学習課のかたに、この宿に行く前に是非!見て欲しい施設があるのでご案内したいとのお話で、11月19日にオープンしたばかりの施設「木曽おもちゃ美術館」へ。廃校になった小学校を使った、木曽ヒノキをふんだんに使った「木のおもちゃ」で子供も大人も心から楽しめる素晴らしい美術館。
到着したときにはすでに閉館していましたが、反省会をされているスタッフの皆様に出迎えられ案内された、「元体育館」の天井を取り外し、階段状の木のベンチを客席にしたホール。足を踏み入れた瞬間に感じた「木の残響」は、国内のどのコンサートホールにも勝る、物凄く自然で豊かな響き!あまりの興奮を抑えきれず、持っていたヴィオラとヴァイオリンでステージに置かれていた「小学校で20年前まで使われていた」アップライトピアノを使って数曲、演奏させて頂くことになりました。施設で働くスタッフが全員(笑)をお客様にしてのコンサート。演奏中からあちこちで聴こえるすすり泣きの声。皆さんが開館に向けて日々疲れ聴いておられたらしく、こんなホールだったんだ!という感動もあっての涙。「写真とっても良いですか?」「どーぞ!」「動画とっても良いですか?」「どーぞ!」「SNSにアップしても良いですか?」(笑)「どーぞどーぞ!」という事で、アップされた動画がこちら。

https://www.instagram.com/reel/ClR3P_OBj1a/?utm_source=ig_web_copy_link&fbclid=IwAR2T76JIaUQ-5GmJpRrv-tpzZv5Jo5S6KUZ-zVnOKkWlldO9DlZotnVDJLg

 見学と演奏を終えて旅館で休み、翌日は朝から雨。おいしい朝食を頂き、歩いても2分ほどの演奏会場「文化交流センター」に木曽町の車で(笑)移動。
 ホールには大昔のスタインウエイが私たちを迎えてくれました。このピアノも廃校になった小学校の体育館に眠っていたもの。昨年私たちが気付くまで、木曽町長、教育長も誰もその価値を知らなかったと言う事実(笑)
 リハーサルを終えて、浩子さんが居残りリハの動画。

・パガニーニの主題によるラプソディ
・椰子の実
・彼方の光
・Earth
・明日
・アニーローリー
・瑠璃色の地球
・美しきロスマリン
・アリオーソ
・ハンガリー舞曲第5番
アンコールに応えて
・我が母の教え給いし歌
・ふるさと
12曲を木曽町所有の陳昌鉉さん製作のヴァイオリンと、愛用のヴィオラこれも陳昌鉉さんの2010年製作の楽器…で演奏しました。
 木曽福島では「木曽音楽祭」と言う伝統的なクラシック音楽フェスティヴァルが介されていますが、私たちのコンサートは「身近に感じるコンサート」として、クラシック以外の音楽も町民の方々に「無料」で楽しんで頂くイベントです。
 来年、先述の木曽おもちゃ美術館でもぜひ!コンサートをと言う話も進んでいます。また楽しみが増えました。
 最後にコンサートに来てくださった皆様、木曽町の皆様に心よりお礼を申し上げます。
 お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

二刀流って二硫か?(笑)

 写真はどちらも陳昌鉉さんの 製作された楽器です。
木曽福島で開催されるコンサートでこのヴァイオリンとヴィオラを使用します。
ヴァイオリンは陳昌鉉さんが名誉町民である木曽福島町に寄贈された楽器です。
縁があって昨年に続き2度目の演奏になります。

 なぜ?わざわざヴィオラの演奏もするの?ヴァイオリンだけじゃダメなの?
そう思われても当たり前ですね。
 ヴァイオリンの音色とヴィオラの音色を、一回のコンサートで楽しめる…これも「あり」だと思うのです。もちろん、違う演奏者が演奏するケースもあります。ただ、同じ演奏者が「持ち替え」て弾き比べ=聴き比べすることで、楽器による「違い」が明確になります。
 私自身から考えれば、同じ曲でもヴァイオリンで演奏した「音楽」とヴィオラで演奏した「音楽」が違う事を感じています。単に音色や音量の違いだけではありません。それほどに違う2種類の楽器であることを、聴いてくださるお客様に体感していただくことで、アンサンブルやオーケストラでなぜ?ヴィオラという楽器が必要なのかも理解されるのでは?とも思っています。
 ヴィオラはヴァイオリンよりも個体差の大きい楽器です。自分の気に入ったヴィオラに出会う確率は、ヴァイオリンよりも低いかも知れません。そもそも製作される本数が違います。ヴィオラの「良さ」を知ってもらうことで、ヴァイオリンの良さも再発見されるかな?と思っています。
 ヴァイオリンとヴィオラの演奏方法が「違う」のは当然です。「似て非なるもの」なのです。ヴィオラは「ヴァイオリンがうまくない人が演奏する楽器」と言う大昔の定説があります。演奏方法が似ていて、弾き手が少ないから…確かにそんな時代もありました。でも本当に美しいヴィオラの音色を聴いてもらえれば、その間違った説が覆せると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽ファンを増やすために

 映像は昨年11月に実施された木曽福島でのコンサートの模様。この時はキッセイ文化ホールの主催によるコンサートでした。今年は同じ会場で、木曽福島町主催によるコンサートとなります。入場無料で100名のお客様が来場されます。
「クラシックコンサート」の明確な基準はありませんが、クラシックの音楽も演奏します。それが「つまらない」と思うかたは元より聴きに来られることは無いかもしれません。私たち夫婦のコンサートは「音楽ファンを増やす」事をコンセプトにしています。「お子様向けコンサート」ではありません。「音楽鑑賞教室」でもありません。ポップスだけのコンサートでもない「聴いて楽しめる」コンサートを目指しています。

 メリーオーケストラの演奏会も、デュオリサイタルも基本的には同じ考え方をもとにしています。メリーオーケストラはアマチュアとプロが「一緒に演奏する」と言う変わった形態の演奏です。私たち夫婦が「プロ」としての能力・技術があるのかないのか…それは私たちが決めることではありません。お客様の「満足度」がすべてだと思っています。コンサートを聴いて「楽しめた」と思える時間だったか?それが私たちへの評価だと思っています。クラシックだけを演奏するコンサートが好きな人にとっての「音楽」と、そうでない人が初めて体験する「音楽」は同じ演奏でもまったく違う価値のものになります。期待するものが違うのです。クラシック音楽のコンサートを楽しみにする人にも「初めて聴くクラシック」があったはずです。また「好きになったきっかけ」もあったはずです。
その出会いがまだ、ないという人が大多数です。まして「クラシック」と言う言葉に「古い」「つまらない」「長い」「マニアの好きな」と言うネガティブなイメージが付きまとう人も多くいます。「懐石料理」と聴くと「高級」「お金持ちの食べるもの」と言うイメージがあるのと似ています。
 コンサートのイメージを身近なものにする「コンサート」ですそ野を広げます。その後は、他のかたにお任せします!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な想像力と協調性

 映像は台湾生まれでオーストラリア国籍のヴァイオリニスト、レイ=チェンが演奏するシベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト。何度聴いても素敵な演奏だと思います。他の同世代のヴァイオリニストと比べて「インパクト」が圧倒的に強い!1楽章が終わって拍手をしたくなる観客の気持ちがよくわかります。
 彼の演奏を冷静に聴いていると「自由」と「共生」を感じます。そして自分の演奏に対して他人からの評価を基準にしない「強さ」も感じます。
 20歳の時、エリザベートコンクール優勝したチャイコフスキーのコンチェルトにも感じられる「想像力の豊かさ」は彼特有の世界観を表現しているように思います。
「誰かがこう弾いたから」や「普通はこう弾くから」と言った固定概念よりも、音楽を演奏する自分の「想像力」を最大限に引き出す努力と技術は、本来演奏する人間に追って一番大切なことです。ただ単に「人と違う事をする」のとは違います。自分の想像するものを具現化する力です。これを「自由」と言う言葉に置き換えてみます。

「共生」と表したのは、彼がオーケストラと一緒に音楽を演奏しようとする気持ちです。よく聴くとオーケストラが旋律を演奏している時に、レイ=チェンは完全にオーケストラの演奏したい「テンポ」「リズム」を優先していることがわかります。むしろオーケストラの1パートとして、一体になっています。これは、彼が他人=他の演奏者を思う気持ちの表れだと思います。自由に演奏してもオーケストラが影響を受けない部分、範囲では楽譜に書かれていないリズムで演奏しても、オーケストラと絡み合う部分では決して自分勝手にリズムを崩さない上に、オーケストラ演奏者に拍が聞き取りやすい弾き方で演奏する余裕があります。だからこそ、オーケストラも思い切り、一番良い音で演奏しよう!と感じるのではないでしょうか。ソリストに「合わせにくい」と感じればオーケストラは抑え気味に演奏することになります。ソリストの独りよがりではないことが、音楽全体のエネルギーを増幅させています。

 想像力を具現化する技術は、自分の演奏技術を発展させることに直結します。
楽譜を音に、音を音楽にしていく過程で「想像」することは、演奏家にとってそれまでの経験をすべて使う作業です。体験し記憶している「感情」「風景」「人」「物語」を音楽の中に落とし込むことです。もし、悲しい経験しか、記憶にない人が音楽を演奏すれば、悲しい感情しか想像できないことになります。記憶は「思い出」でもあります。自分だけの思い出を、音楽で表現する。まさに「自由な創作行為」ですよね。多くの思い出こそが、多くの物語を想像できます。10代より20代、30代と年齢を重ねる中で嫌な経験も増えます。子供の頃の楽しかった思い出を忘れてしまいがちです。多感な幼児期に部屋にこもって、音楽だけを練習するよりも、友達と遊び・喧嘩をし・仲直りし…それらの思い出を大切に忘れないで育てることが親の役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートの中で子音を作る

 映像はデュオリサイタル13。エンニオ=モリコーネ作曲「ガブリエルのオーボエ」をヴィオラとピアノで演奏したものです。演奏はともかく…素敵な曲ですね。こうした「レガート=滑らかな音のつながり」で演奏する曲の場合に、音の切れ目=発音がはっきりしない(輪郭がぼやける)音になってしまいがちです。レガートだから…と言って「ピンぼけ写真」のような印象になってしまえば、滑らかと言うよりも「もやもやした」音楽に聴こえます。
 演奏するホールの残響時間にも影響を受けますが、まずは演奏自体が「クリアな変わり目」であることが第一です。ポルタメントやグリッサンド、スライドなどで、音の変わり目を意図的に「点」ではなく「曲線」にする演奏技法もありますが、多用しすぎれば「気持ち悪い」「いやらしい」「えげつない」印象に聴こえてしまいます。
 歌の場合、特に日本語の歌詞の場合に「子音」が多く音の変わり目=言葉の切れ目を、聴く側が想像も加えながら聞き取れます。逆に子音が少ない歌の場合や、意図的に子音を弱く歌う歌手の「歌詞」は滑らかですが音の変わり目を、感じにくく、言葉の意味が聞き取れないこともあります。

 移弦を伴うレガートや、1本の弦で大きな跳躍を伴うレガートの場合には、それ以外の場合=同じ弦で2度、3度の進行との「違い」が生じます。
 同じ弦の中でのレガートでも、左手の指で弦を「強く・勢いよく」押さえることでクリアな音の変わり目を出そうとすると、固い音になりがちな上、弦を叩く指の音が大きくなりすぎる場合があります。むしろ、弓の速度・圧力を制御しながら、左手の指の力を抜いて「落とす」ことの方が柔らかくクリアな音の変わり目を作れるように思っています。
 移弦を伴うレガートの場合には、一般的な演奏方法なら「先に二つ目の音を指を押さえて移弦する」のがセオリーです。ただ、この場合に弓の毛が二つ目の弦に「触れる=音が出始める」瞬間に発音しにくくなります。音が裏返ることや、かすれることもあります。だからと言って、弓の「傾斜の変化」を速くすれば、一つ目の音との間に「ギャップ」が生まれます。レガートに聴こえなくなります。
移弦の時、弓の傾斜を変えるスピードは演奏者によって大きく違います。
例えて言えば次の弦に「静かに着地」する移弦の方法と「飛び降りる」ような速度で「着弦」する違いです。どちらにも一長一短があります。
 そこで考えられる方法が移弦する瞬間に、二つ目の音の指を「同時に抑える」方法です。弓の毛が二つ目の音を発音するタイミングと、左手の指が二つ目の音を押さえるタイミングを合わせる特殊な方法です。ずれてしまえば終わり(笑)
左手指で音の変わり目を「作る」ことで、レガートで且つクリアな移弦ができます。とっても微妙なタイミングですが、無意識に移弦するよりも何億倍も(笑)美しく移弦できると思います。お試しあれ!
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンらしい音色と音楽

 映像は、ミルシテインの演奏するショパン作曲ノクターン。
古い録音でレコードのスクラッチノイズ(パチパチという音)の中から聴こえる音色と音楽に、現代のヴァイオリニストの演奏には感じられない「暖かさ」と「柔らかさ」「深み」を感じます。録音技術の発達とともに、より微細な音も録音・再生できるようになった現代ですが、私にはこのレコードに含まれているヴァイオリンの「音色」で十分すぎるほどに、演奏者のこだわりを感じます。
コンサートで聴くヴァイオリンの音色は、演奏者が聴く自分の音とは違います。
ましてや、演奏者から10メートル以上も離れた場所で聴く音と、現代のデジタル録音したものとでは「違う楽器の音」と言えるほどの違いがあります。
 その違いはさておいて、ミルシテインの奏でる「音色」と「音楽」について、演奏する立場から考えてみたいと思います。

 音の柔らかさを表現することは、ヴァイオリンの演奏技術の中で、最も難しい技術だと思っています。「楽器と弦で決まる」と思い込んでいる人も多い現代ですが、何よりもヴァイオリニスト本人が「どんな音色でひきたいか?」と言うこだわりの強さによって変わるものです。柔らかい音色を「弱い音」とか「こもった音」と勘違いする人がいます。私たちの「触感」に置き換えて考えればわかります。
柔らかいもの…例えば羽毛布団やシフォンケーキ。
柔らかい触感と「小さい」や「輪郭のはっきりしない」ものとは違います。
私達は柔らかいものに「包み込まれる」感覚を心地よく感じます。
固いものに強く締め付けられることは、不快に感じます。
そして「暖かい」ものにも似たような交換を持ちます。熱いもの、冷たいものに長く触れていたいとは思いません。
 現実には音に温度はありません。固さもありません。ただ、聴いていてそう感じるのは「心地よさ」の表現が当てはまる音だから「柔らかい」「暖かい」と感じるのだと思います。

 では具体的にどうすれば、柔らかい・暖かい音色が出せるのでしょうか?
・弓の圧力
・弓を置く駒からの距離
・弦押さえるを指の部位
・押さえる力の強さ
・ヴィブラートの「丸さ=角の無い変化」
・ヴィブラートの速さと深さ
・ヴィブラートをかけ始めるタイミング
ざっと考えてもこれ位はあります。
演奏する弦E・A・D・Gによっても、押さえるポジションによっても条件は変わります。当然、楽器の個性もあります。それらをすべて組み合わせることで、初めて「柔らかい」と感じる音が出せると思っています。

 最後に「音楽」としての暖かさと優しさについて考えます。
ミルシテインの演奏を聴くと、一つ一つの音に対して「長さ」「大きさ」「音色」の変化を感じます。言い換えると「同じ弾き方で弾き続けない」とも言えます。これは私たちの会話に例えて考えてみます。
以前にも書きましたが、プロの「朗読」はまさに音楽と似通った「言葉の芸術」だと思います。同じ文字を棒読みしても、意味は通じます。ただ、読み手の「こだわり」と「技術」によって、同じ文字にさらに深い「意味」もしくは「感情」が生まれてきます。朗読には視覚的な要素はありません。動きや表情も使って表現する「俳優」とは別のジャンルの芸術です。
 文字=原稿には、強弱や声の「高さ」「声色」は指定されていません。それを読む人の「感性」が問われます。まさに楽譜を音楽にする演奏家と同じことです。
 一つ一つの音の「相対」つまり前後の音との違いを、音色と長さと音量を組み合わせた「変化」によって表現することで「揺らぎ」が生まれます。
楽譜に書かれてない「ゆらぎ」はともすれば「不安定」に聴こえたり「不自然」に聴こえたりします。そのギリギリの線を見切ることで、初めて個性的な演奏が生まれます。簡単に言ってしまえば「違うリズム・違う音に感じない範囲」で一音ずつを変化させることです。さらに、一つの音の中にも「ゆらぎ」があります。ヴィブラートや弓の速さ・圧力による響きの違いを長い音の中に、自然に組み入れることで、さらに深い音楽が生まれます。
 音楽を創ることが演奏者の技術です。それは演奏者の「感性」を表現することに他なりません。楽譜の通りに演奏するだけなら、機械の方が正確です。
人間が感じる「心地よさ」を追及することが、私たちに求められた役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦と弓の毛のエイジングと良い音の寿命

 映像は3年前、代々木上原ムジカーザでのデュオリサイタルで演奏したドヴォルザーク作曲「ロマンティックピース」の一曲。
今回のテーマは、ヴァイオリン・ヴィオラの「弦」について。
以前にも弦の種類についてのブログは書きましたが、ちょうど来週、長野県でのコンサートと12月18日、来年1月7日のリサイタルに備えて弦の張替えや弓の毛替えを進めています。
 弓の毛替えは先日、いつもお世話になっている櫻井樹一さんの工房でヴァイオリンの弓2本、ヴィオラの弓1本の毛替えをして頂きました。
 木曽福島で使用する、陳昌鉉さん製作のヴァイオリンには数日前に生前、陳さんが一番好きだった弦の音色に近い弦のセットを張り替えました。こちらは、ナイロンの弦で張った直後は「キンキン」「バリバリ」と言う表現の音がうるさく聴こえます。毎日、時間の経過とともに音色が落ち着いていきます。
 経験上、およそ1週間ぐらい経った状態が、このヴァイオリンに一番合った音色になる「と感じる」ので、少し早め10日前に張り替えました。
 この弦に限らず、ナイロンの弦の「良い音がする寿命」は約2週間。それ以後は、余韻が極端に短くなりこもった音になります。その後は1年経ってもあまり変化しません。さらに言えば、弦が落ち着くまでに1週間から10日間かかるので、実際に「最高の音」が出る状態は約一週間…私の個人的な感想です。
 一方、ヴィオラと私のヴァイオリンに張るのは「ガット弦」です。
こちらの「エイジング=弦が楽器になじむまで」の期間は、弦の太さによって差があります。最も太いD線よりもA線が落ち着くまでの期間が一番長いのは、恐らく構造上の問題です。ヴィオラの場合はまた違います。
 ガット弦は音質が急激に落ちることがありません。むしろ、完全にガットが「伸びきった状態」言い換えると、湿度や温度の変化に、全く反応しなくなった時点でガット弦の寿命が終わったとも言えます。調弦が大変!と言うアマチュアヴァイオリニストのガット弦への不満を聴くことがありますが、ナイロン弦の場合でも「良い音の出る期間」には小まめに調弦が必要であり、むしろその変動幅はガット弦よりも大きい場合がほとんどです。価格の面で考えても、ガット弦の方が、良い音の期間が長く一概に「ガット弦は高い」とは言い切れません。

 
 最後に弓の毛のエイジングと寿命について。
職人の技術と使用する馬のしっぽの毛によって、大きな差があります。
櫻井さんに張り替えてもらった弓の毛は、張り替えて数日で松脂が毛に馴染み、伸びも収まるので演奏会に使用できます。さらに、張り方の技術差は弓のスティックの強さと曲がりによって、職人が針の強さを左右で調整できるか?と言う職人の経験が問われます。「すぐ切れるのは悪い毛」と言う考え方には疑問を感じます。何よりも「演奏の仕方」と「演奏する曲」で弓の毛が切れる頻度は大きく変わります。むしろ演奏する曲によって、主に使う弓の場所が違うため、摩耗する部分が変わります。張り過ぎの状態で演奏すれば、スティックの弾力を最大限に使えません。逆に毛の張りが弱すぎれば、毛を痛める原因にもなります。
 何よりも松脂を塗りすぎる人が多いように感じています。弓の毛と弦が音を出すための「摩擦」は松脂だけで作られているのではありません。毛の表面の「凹凸=おうとつ」で削られた松脂が「こぶ」になり、さらに摩擦の熱で「溶ける」ことで粘度が増えます。毛の表面の凹凸は、次第に減っていきます。さらに、経年劣化で、弾力を失い細くなります。寿命は「●●時間」と書かれているものもありますが、何よりも松脂を普段から「必要最小限」で使っていれば、摩擦が減ってきた…滑りやすくなったことを感じるはずです。その時が「弓の毛の寿命」です。
 どんな弦でも、弓の毛でも「なじむまでの時間」と「良い音の出る期間」と「寿命を迎えた時期」があります。それぞれのタイミングを見極めるのも演奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうとgざいました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

何気ない曲の何気ない難しさ

 もう15年も前になる初めてのデュオリサイタルで演奏した、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」よりメロディー。あまりにも多くのヴァイオリニストが演奏されているこの曲、実は自分の中で「何かが難しい」…何が難しいのかが自分でもよくわからないのですが(笑)そんなこともあって、今までにあまり演奏してこなかった曲の一つです。次回のリサイタルでリベンジ!と思い立ち、ユーチューブを聞きまくってみました。皆さん、じょうずに演奏されているのですが、自分の好みに合う演奏が見つからない。明らかに他の演奏者と違う解釈で演奏されている「ヤッシャ様」(笑)の演奏がこちらです。

 ハイフェッツ様だから許される?(笑)大好きな演奏なのですが、個性的過ぎて「猿真似」になりそうで近づけません。いや…近付けるはずもないのですが。
 曲の好みで言えば、大好きな曲の中に入るのに自分で演奏すると「どこが好きなんだよっ!」と自分に突っ込みを入れたくなるほど。
 聴くことが好きな曲と、演奏したい曲が違うのはごく普通の事です。
でも、よく考えると聴くのが好きなら「ひいてみたい」と思うのが自然な流れのはずです。弾けない…という事でもないのですが、自分の演奏が好きになれません。「それ以外の曲は満足してるのか?」と言われれば、冷や汗ものです。
 趣味の領域で「楽しむ」事と、お客様に聴いていただく立場で自分が「楽しむ」ことの違いなのかもしれません。好きだから怖くて弾けない?(笑)
ぶつぶつ言っていないで、なぜ納得できる演奏が出来ないのかを言語化してみます。

 調性はEs dur=変ホ長調。特に苦手とか嫌いとかはありません(笑)
4分の3拍子。問題なし。重音の「嵐」も吹かない。特別に出しにくい音域でもありません。むしろ「普通に弾ける」言い換えれば、弾きやすい曲でもあります。
モチーフも覚えやすく、リズムもシンプル。
 中間部の軽い動きが「苦手」なのは否めない事実です。
気持ちが先走って、冷静に弾けていないことが一番の原因と分かりました。
とにかく、一音ずつ練習しなおし!
好きな曲を、気持ちよく弾けたら最高に気持ちいいですよね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ファンになりました。

 映像は2年前、かてぃんこと角野隼人さんのラジオ番組にゲスト出演していた、ピアニスト亀井聖矢さん。先日のロンディボー国際コンクールで同率1位。
20歳(今年21歳)で桐朋学大学4年生…って計算が合わないぞ?それもそのはず、17歳で高校から「飛び級制度」で桐朋学園大学に特待生で入学。桐朋学園では「初の飛び級入学」
 正直、かてぃんのチャンネルで共演していたりする動画は見ていましたが、名前を知ったのは今日が初めてです。そして、彼のいくつもの動画を見て、あっさり「ファン」になってしまいました。
 私はピアノの演奏技術の「優劣」がわかる人間ではありません。ただ感じるのは、「純粋に素敵なピアニストだ」という感想なのです。彼の「素顔」も知りません。性格だって知りません(笑)彼の演奏を見て、聴いて感じることを書いてみます。

 何よりも強く感じるのは、深刻さ・悲壮感を感じないという事です。
子供の頃の演奏動画もアップしています。10歳の頃の「ラ・カンパネラ」をご紹介します。

 「愛知の神童」だったかどうかは知りません(笑)が、これが10歳の演奏か…。素直に「この曲がひいてみたい」と言う少年の素直な気持ちがそのまま音楽になっている気がします。演奏活動をコロナで阻まれながらも、国内の主要オーケストラとの共演も既に終わっている(笑)日本音楽コンクールとピティナを同じ年に「一位取り」すると言う経歴にも納得です。
 普段、コンクールで何等賞…と言うニュースにほぼ無関心な私です。そして、話題になった人の演奏動画は一通り見ていますが、正直「感動しない」という感想で今まで過ごしてきました。それは「好み」の問題でしかありません。
 亀井さんの演奏に共感する理由をもう一つ。
「自然なアクションと表現」に感じることです。私はオーバーアクションに見える演奏家が好みではありません。演奏中の表情もそのひとつです。自然に表に出る「感情」や「動き」は理解できるつもりです。それ以上の表情は「作っている」としか思えないのです。もしもその「表情」がパフォーマンス…だとしたら、余計なこと(笑)だと思ってしまいます。
 彼の活動を見ると、「やりたいことを、やりたい時にやっているだけ」に感じます。それが素敵なんです。先を考えて…とか、日本の音楽界のために…とか、作曲家の精神に触れた…とかと言う話を20代の演奏家が話しているのを聞くと「そのセリフは40年後に言いたまへ(笑)」と思うのです。
 純粋に今、やりたいことに没頭する美しさ。評価よりも自分の「価値観」を優先した生き方に、年齢は関係ありません。若いからできること、若いとできないこと。高齢になってできないこと。高齢になって初めてできること。それを素直に受け入れられる「ひと」の演奏が好きです。彼がこの先、どんなピアニストになるのか?とても楽しみですが、何よりも今の彼の演奏が楽しくて好きです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

だめだこりゃ…になった時

 今月23日に長野県木曽福島で開かれるコンサートで、久しぶりに演奏することにした、ラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」
映像はマキシム=ヴェンゲロフさまによる「憧れの演奏」です。
 こんな演奏をしてみたいのですが、現実には…

 過去に自分が演奏したこの曲の動画、3本のどれを見ても「逆」なんです。
なにが?(笑)アウフタクトに感じるパッセージを「アップ」、その後の重さのある1拍目を「ダウン」という運動…これ自体は間違っていないのですが、長い音をアップで膨らませたい!となると、アウフタクトを「ダウン」にして1拍目を弓先から「アップ」にしたい!のに…体と脳が「忘れてくれない」現象が起きています(泣)
 そもそも、楽譜と音楽と動きを頭の中で一つの「イメージ」にして記憶するようになってから、特に弓のダウン・アップの優先順位は「下位」になっています。むしろ「音楽」が先頭に来ているので、運動はあまり意識せずに演奏する習慣がついてしまっています。
 意図的に、弓の動き=ダウン・アップを優先しようとすると、音楽が引き算されると言う最悪の状態になります。だめだこりゃ!…と長さんの声が聞こえます(笑)しかも、楽器が「借り物」なので思ったところに思った音がない(笑)という現実。

 自分が「できない」と思う壁に直面することは、楽器を演奏する人には避けて通れない「運命的」なことです。しかも、それまである程度「出来ている」と思っていたこと、「なんとかかんとか弾けている」と思っていた曲に対して、自分自身が「ダメ出し」をして出来ていない・ひけていないことを発見したときの悲壮感…それまで見えていなかった部屋中の「ゴミ」が一気に見えてしまって、まるで五味屋敷の中に突然いるような恐ろしさと挫折感(笑)。
 どこから?手を付けても綺麗になる気がしない・できる気がしない…その気持ちに負けない「精神力」「気力」を生み出せるのは、結局自分自身だけです。
 誰かに助けてもらったとしても、きっとまた「汚れる・できなくなる」という不安が付きまといます。自分の手でゴミを一つずつ・できないことを一つずつ拾って片づけることの繰り返しをするのが一番です。
 自分にとって「苦に感じない」ことのつもりで片づけるのが有効な方法です。
私の場合、単純作業で「いつか終わる」…例えば教員時代にテストの採点を、1学年200人分を一晩で終わらせることには、ほとんど苦痛を感じないでやっていました。今でも、発表会やメリオケの動画編集を、その日のうちに終わらせる(笑)ことにも「大変だ!嫌だ!」と感じたことはありません。嫌なことはしない主義なので(笑)人によって「苦にならない」事は違います。他人から見れば「変なの」と笑われたり驚かれたりするのが、実はその人の「特技」かも知れません。ぼーっとするのが好きなひとなら、それが一番の特技です。本を読みだしたらいつまででも読みたい人なら「読書が特技」だし、どこでも寝られる人なら、それが特技です。その特技を「できない」と思う事に利用する方法を考えます。何も考えずにいることが「特技」なら、なにも考えずに演奏してみるのが一番の解決方法です。寝るのが特技の場合には?寝ている時の「快感」を感じながら演奏してみる…のかな(笑)
 私の場合には、日常が出来ないことだらけなので「できないこと」への耐性ががある程度(笑)ついていますが、今回の「だめだこりゃ」は結構しんどいです。まずは、頭の中で音楽と「腕の動き」を一致させるイメージトレーニングと、物理的にどうすれば「長い音が弓先から始まるか」を考えて、長い音の前の音、さらにその前の音からの「連続」で、どうやっても=考えなくても、長い音が弓先から始まるように「身体に覚えさせる」繰り返ししかなさそうです。
 身体が慣れるまで、頭を使う。これが鉄則です。身体の動き=運動が、意識しなくても理想の運動になるまでは、常に運動の前に「意識」する習慣をつけます。その意識があるうちは、他の事は意識できません。なので、出来るだけ、「エアーヴァイオリン」で練習するのが私流です(笑)「ラファソラレ~」「シドレラ~」右腕を動かす…変なおじさんになるので、人のいない場所で(笑)
 壁を超える→また壁にぶつかる→壁を超える
この繰り返しを楽しめるようになりたい!ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

チェロとヴィオラ・ヴァイオリンのヴィブラートを比較する

 映像は、チャイコフスキー作曲の「ノクターン」
チェロで演奏されることの多いこの曲を次回のデュオリサイタルで「ヴァイオリンとピアノ」で演奏してみます。そこで、参考までにヴァイオリンでの演奏を探してみました。

え  

 演奏の好みは別の問題として、今回はヴィブラートの違い…特に、チェロとヴァイオリン・ヴィオラの違いについて考察してみます。
 私自身、ヴァイオリンのヴィブラートよりもチェロのヴィブラートが好きです(笑)「言い切るか!」と思われそうですが、高校時代の親友がチェリストだったこともあり、自分のヴィブラートに不満のあった(今もある笑)私が、観察の対象にしていたのが「チェロのヴィブラート」なのです。
 特徴として「動きの可動範囲が大きく速い」「波=音の高低が滑らか」であることがヴァイオリンとの違いです。演奏技術によって差はあります。ただ、多くのチェリストのヴィブラートを聴いても、やはりこの「違い」は明らかです。
 ヴィオラでチェロの「真似」をしようと足掻いてみたことがあります。
サン=サーンスの白鳥やシューベルトのアルペジオーネソナタ、他にも多数。
ただ…どう頑張ってもなにか不自然に感じます。それは「音域」の違いと「筐体=ボディーサイズ」の違いだけではなく、ヴィブラートそのものに違いがることに気が付きました。

 「逆手」と「順手」と言う言葉をご存知でしょうか?
鉄棒や「ぶら下がり健康機」を手でつかむ時の「向き」のことです。
順手は手の甲が自分の方を向き、逆手は掌=てのひらが自分の方を向きます。
二つの握り方によって、使われる筋肉が変わります。特に「懸垂」で筋肉を鍛える場合には、に切り方によって鍛えられる筋肉が違います。
 マッチョを目指さない私にとって(笑)、懸垂は出来なくても良いのですが、ヴァイオリンやヴィオラを演奏する「左手」は実は逆手になっています。
一方、チェロやコントラバスの場合、左手は「順手と逆手の中間」つまり、腕を体に沿わせて「だらん」と下げた状態の時の、手の向きになります。掌が「身体の内側」に向き、手の甲が「外側」に向きます。この状態で普段、私たちは歩行しています。日常生活の中でも、掌を下に向けて作業することは、ごく自然にできます。何かにつまずいて、前のめりになった時に「手をつく」のは「順手」です。尻もちを付いて手を付く時にも、掌を下にします。つまり、私たちの祖先に近い「猿」が両手を使って「歩く」こともあるように、掌は下に向いた状態「順手」が自然な状態なのです。進化した私たちは「両手を内側に向ける」ことも、自然な「手の向き」になりました。

 逆手「以上」に掌をひねりながら演奏する楽器は、ヴァイオリンとヴィオラしかありません。管楽器…フルートの場合でも左手が「逆手」ですが、あくまでも掌が自分の方に向く角度までで演奏できます。クラリネット、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバ、打楽器、ピアノ、ギター、ハープ…どの楽器も掌の向きは「順手」もしくは、順手に近い向きで楽器を構え演奏します。逆手であるがゆえに、ヴァイオリン・ヴィオラは、楽器の「肩」部分に左手が当たって、ハイポジションでの演奏がさらに困難になります。当然この掌の角度でヴィブラートは極めて「不自然」な動きになります。
 その点、チェロとコントラバスは、ハイポジションになっても、左手の親指を指板の上に出すことで、掌と手の甲の「向き」は変えずに弦を押さえられます。
「理にかなった弦の押さえ方」です。ヴァイオリンを最初に演奏し始めた「誰か」がいるはずなのですが、恐らく「チェロの原型」や「胡弓」「二胡」「馬頭琴」のように、弦が「縦方向」に張られているのが弦楽器の「ご先祖」だと思います。それを「首に当てて=弦を水平方向に張る向きで演奏する」という「業虚?荒わざ」を試して、「だめだこりゃ」にならず「うん!これだ!」って感じたんでしょうか?(笑)
高い音を出したくて「小さくした」のか?それとも、持ち運びを考えて「小さく」したのか?どっちにしても、チェロの構え方のままで演奏すればよかったのに…。ぶつぶつ…。

 ヴァイオリン、ヴィオラのヴィブラートは、手首と肘関節の運動でかけます。
一方でチェロ、コントラバスのヴィブラートはもっと自然に「左腕全体」を利用してかけられます。どの弦楽器も「指で弦を押さえる」事に違いはありません。
ギターのようにフレットのないヴァイオリンやチェロの場合、押さえ方を少し変えるだけで、音の高さが変わってヴィブラートがかけられます。左手「指関節の柔軟性=可動範囲の大きさ」でヴィブラートの幅が決まります。
 ヴィブラートは「自然に聴こえるための技法」だと思っています。
ただ速く動かすだけを意識したヴィブラートは、聴いていて不自然に感じます。
「痙攣ヴィブラート」「縮緬=ちりめんヴィブラート」と呼ばれる「細かいヴィブラート」」を好むヴァイオリニストもおられますが、私にはヒステリックに感じてしまいます。
 遅すぎず、深すぎないヴィブラートを理想にしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


フラットが5つ付くと何が起こる?

 映像は6年ほど前に演奏したラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」です。
日本語の表記で書くと「変ニ長調」英語表記なら「D flat Najor」ドイツ語表記なら「Des dur」です(笑)

 ヴァイオリンの為に作曲されたヴァイオリン協奏曲は「D dur」ニ長調のものが多い理由はご存知の方も多いと思いますが、ヴァイオリンの開放弦が低い方から「G・D・A・E」ソレラミで、D durの「主音」がD=レ、「下属音」がG=ソ、「属音」がA=ラ、加えて言えばE線の開放弦である「E=ミ」の音は、「属和音=A・Cis・E」の第5音でもあり、結果としてすべての開放弦の音がD durの「核となる音」になります。このことで、ヴァイオリンの持つ「倍音」が最も響きやすく、かつ演奏しやすいのがシャープが二つの音「ファ・ド」に付く調性「ニ長調=D dur」で、ヴァイオリンの持つ最大限の「ポテンシャル」を発揮できることになります。チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルト、ブラームスのヴァイオリンコンチェルト、ベートヴェンのヴァイオリンコンチェルトはすべて「ニ長調」で書かれています。
 では、それ以外の「調性」だとヴァイオリンの音色は「悪くなる」のでしょうか?結論は「いいえ」です。それを説明します。

 冒頭のラプソディは「シ・ミ・ラ・レ・ソ」にフラットが付く調性なので、開放弦の音は「音階固有の音ではなくなる」つまり、臨時記号が出てこない限り、開放弦の音は使われずに演奏される曲になります。音楽全体が「柔らかい音」になる…あるいは「すべての音が均一な響きになる」とも言えます。
 シャープ系の調性の場合、たとえば先述のニ長調の場合で考えると、音階固有の音は「レ=D・ミ=E・ファ♯=Fis・ソ=G・ラ=A・シ=H・ド♯=Cis・レ=D」になりますので、7種類の音の中で4つは「開放弦にある音」で残りの3つが「開放弦にない音」になります。当然、この2種類で大きな違いがあります。
作曲家はそれを逆に利用して音楽の「色付け」を考えます。
 有名な曲でフラットいっぱい!の曲をもう一曲。

 先日のブログでピアノがうまい!とピアノ演奏をご紹介した名ヴァイオリニスト「フリッツ=クライスラー」が演奏するドヴォルザーク作曲の「ユーモレスク」フラット6つ!の調性「変ト長調=Ges dur」がオリジナルの曲です。ヴァイオリン教本などでは、半音高く移調して「ト長調=G dur」シャープ1つの調性で弾きやすくしてあるものが見かけられますが、ご本家はこちらです(笑)演奏を聴いていただくと、すべての音が「均一」という意味が伝わるかと思います。かと思えば「それ、やりすぎちゃん(笑)」と思えるものもおまけに。

 このお方も先日の「ピアノがうますぎ!」に登場していただいた、ヤッシャ=ハイフェッツ大先生が「編曲」し「ヴァイオリンを演奏」されている、サン=サーンス作曲の動物の謝肉祭より「白鳥」ですが…オリジナルは「ト長調=G dur」なのに、わざわざ!半音下げた「変ト長調=Ges dur=フラット6つ」に移調して、ピアノの楽譜も「やりすぎ~」な感が否めません(笑)移調するだけでは気が済まなかったのか…。ヴァイオリンらしさを出したかったのか…。

 最後にもう一曲。こちらは以前にも紹介したジャズピアニスト小曽根真さんのアレンジされた「ふるさと」を採譜=楽譜に起こして、ヴィオラとピアノで演奏したものです。これも「フラット5つ」の、Des dur=変ニ長調で演奏されていたのでそのままの調性で演奏しています。歌の場合、歌いやすい高さに移調することが一般的です。恐らく歌われていた神野美鈴さんが一番歌いやすい調性だったのでそうね。

 今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまく弾くより、大切に弾きたい。

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した、村松崇継さん作曲MIYABIこと竹内まりあさん作詞の「いのちの歌」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 自分で聴いて演奏は「傷」だらけです。この演奏で自分がなにを伝えたかったのか…。演奏できることへの「感謝」です。歌詞の最後「この命に ありがとう」にすべてが込められた音楽に感じながら。「生まれてきたこと 育ててもらえたこと 出会ったこと 笑ったこと その すべてに ありがとう」という詩から続く「いのち」への感謝。演奏できることは「命がある」ことです。私たちは生きていることが「当たり前」で、今生きていることに感謝する意識を持っていません。「生きていてよかった!」と言う言葉は、九死に一生を得た人の言葉だと思っています。「死ななくてよかった」と思うのに、普段は生きていて当たり前って矛盾していますよね。それ以外の場面で「今までの人生で最高に幸せ!」と感じる時にも、このセリフが出ますが(笑)それまで生きていて感謝してこなかったのか!と突っ込みたくなりませんか?(笑)

 さて、テーマは「大切に弾く」ことの「大切さ」…かぶってます。
少しでもうまく弾きたいとか、うまく弾けないとか、自分はうまくないとか…自分の演奏に納得できない人は(私もです)「上手な演奏」を理想にしています。そのくせ、何が上手なのか?について、じっくり考えもしないで「自分はへただ」と思い込む謎(笑)このテーマは過去にもブログで書きましたが、演奏する人にとって最大の「命題」です。
 音楽を大切にすることは、自分の考え方を大切にすることです。
もっと言えば、自分が生きること、生きていることを大切にすることだと思います。「けっ。安っぽい説教か」と思う皆様。ごめんなさい(笑)あくまで私自身の「懺悔」です。お許しを。
 ヴァイオリンを演奏して生活するための「学校」を卒業し、ヴァイオリンから20年間離れて生活したのは「生きるため」に他なりません。その長い時間を終えて「再スタート」してから18年と言う時間が経ちました。まだまだ演奏したい気持ちもあります。ヴァイオリンに「蓋」をした20年間がなければ今、ブログを書いている私も存在していません。
 楽器を演奏するひとは「じょうずに弾きたい」という一種の「麻薬」にはまります。楽器に限らず、スピードの出せる車に乗ると「もっと速く走りたい」という欲望=麻薬に駆られます。パソコンの性能も同じです。「もっと」と言う欲の根源が自分自身の力ではなく、他人の作った「比較」の世界から始まっていることに気付かないのが最も恐ろしいことです。
 楽器も音楽も「誰か」が造り出したものです。それをただ、演奏して楽しんでいるのが「演奏者」です。さらに他人が自分よりじょうずか?自分の方がじょうずか?は「他人の技術」の問題をただ自分と比較しているだけです。自分の技術とは無関係なことに、イライラしたり「負けない!」と思うのは考えてみれば「アホらしい」ことだと思うのです。
 自分の出している音を、練習中も大切に思う事。楽譜に書かれている音を、大切に思う事。楽器を大切に思う事。
大切にすることを「怯える」と同義語にしないことです。むしろ反意語「雑に扱う」「無視する」に注意すべきです。演奏することに怯えていては、大切にできません。テキトーに「チャラビキ」するのが最も「雑な演奏」です。
 いくら言葉や外見を装って「大切にしているの!風演技」をしても、聴く人には嘘がばれてしまいます。その違いは、時間が経てばたつほど、明確になります。偽物は時間と共に「劣化」します。本物は時間と共に「深化」します。絵画にしても文学にしても建築物にしても、時間が経っても人々に愛され続ける「本物」と、「中古」として価値が下がり続けるものに分かれます。
 演奏はその場だけの芸術です。録音は「時間を切り取ったもの」です。
私たちが演奏する「音楽」は、無意識にしている「呼吸」と同じです。
じょうずな「呼吸」を目指すより、呼吸できることに「感謝」するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の重さと軽さ

 映像はクライスラーの「美しきロスマリン」を代々木上原ムジカーザで演奏したときのものです。同じ曲を杜のホールはしもとで演奏した動画が下の映像です。

 テンポの違い、弾き方の違いで音楽のイメージが大きく変わることがお分かりいただけるかと思います。好みは人によって違います。今回のテーマである「音楽の重さ・軽さ」は音楽を演奏する人の「技術」に関わるお話です。

 そもそも、音楽=音には物理的な「質量=重さ」は存在しません。人間の感覚的なものです。音楽以外にも「重苦しい雰囲気」「重たい話」と言う言葉や、「軽い食感」など実際の「重さ」とは違う表現で「思い・軽い」と言う言葉を使います。音楽の場合の重さ・軽さとは?どんな感覚の時に使うのでしょうか?
「重く感じる音楽や音」
・遅い・長い音・大きい・芯のある音色
「軽く感じる音楽屋音」
・速い・短い音・大きくない・高い音
例外もあります。さらに前後との「相対=比較」でも重さは変わります。
当然、組み合わせられて、より「重く・軽く」感じるものです。
これは推論ですが、私たちが実際に感じる「重たい物・軽い物」を持った時の「感覚」と関係があるようです。
 重たい荷物を手に持って歩く時、遅くなりますよね?腕や肩、腰、背中、足にも「力」を入れます。長い時間や距離を歩くと息切れします。速く「下に置きたい」気持ちになります(笑)
 軽い荷物なら?何も持っていない時と同じ速度で歩けます。走ることもできます。もしそれまで、重たい荷物を持っていたら「軽くてらくちん!」と思うはずです。
 ところが!「重厚」と言う言葉と「軽薄」と言う言葉を考えると、どうも…重たい方が「偉いらしい」(笑)気もしますね。「重みのある言葉」とか「軽率な行動」とか。「重たいことはいいことだ」あれ?どこかで似たような歌を聞いた覚えが…(笑)重鎮…まさに偉そう過ぎて嫌われる人の事。

 音楽で重たく感じることが「良い」とは限りません。ちなみに「軽音楽」と言う表現でポピュラー音楽をまさに「軽蔑」するひとを私は「軽蔑」します(笑)
ブルースやジャズが「軽い」とは思いません。クラシックが「重たい」と言うのもただの先入観にすぎません。
 曲によって、重たく聴こえるように演奏したほうが「ふさわしい」と思える曲もあります。逆に軽く聴こえるように演奏「したい」と思う場合もあります。

 映像はフォーレの「シシリエンヌ」をデュオリサイタル12で演奏している映像と、デュオリサイタル9の演奏にぷりんの写真をつけたものです。
 一般にこの曲は、下の演奏のテンポで演奏されることが多いのですが、ゆったりしたシシリエンヌの場合「安らぎ」や「落ち着き」を感じる気がしてあえて、テンポを遅くして演奏してみました。これも好みが分かれますが「このテンポで弾かなければいけない」という音楽はあり得ません。弾く人の「自由」があります。それを聞いた人が「これもいい」と思ってくれるかも知れません。

 最後に、演奏を意図的に重くしたり、軽くしたりする技術について。
前述の通り重たく弾きたいのであれば、実際に「重たい荷物を持って歩く」時の筋肉の使い方を演奏中に感じてみることです。速くは出来ないはずです。力を抜いてしまえば荷物を落としてしまいます。常に「一定の力」を維持することが必要です。さらに坂道を上るとしたら…音楽で言えば「クレッシェンド」と「音の上行」が同時にあれば、ますます「遅く・苦しく」なるはずです。
 軽く演奏したいなら、身体の力を「外」に向かって開放するイメージで演奏してみます。楽器を「中心=コア」に感じて、楽器から外に向かって「広がる」イメージを持つと、筋肉の使い方が「外側」に向く力になります。脱力するだけでは、まだ「重さ」が残っているのが人間の身体です。重力には逆らえませんから(笑)、浮上することは出来ません。力を身体の外に「放出」する方向に力を使えば、軽くなるイメージがつかめるはずです。
 一曲の中にはもちろん、ひとつの「音」にも重さの変化が付けられます。
軽く弾き始めてから、徐々に重くできるのが弦楽器や管楽器、声楽です。
その「特徴」を最大限生かすことも、弦楽器奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

もしもピアノが弾けたなら♪

 映像は、ゲーテの詩にチャイコフスキーが曲を作った「ただ、憧れを知る者だけが」を、「ソ連」を代表する歌手「ヴィシネフスカヤ」が歌い、夫であるチェリスト「ロストロポーヴィチ」がピアノを演奏しているものです。
 次回のリサイタルで演奏するための「予習」で色々な演奏者の演奏を聴いています。そんな中でロストロポーヴィチのピアノが「うますぎる!」(笑)
 私自身、ピアニストの演奏技術については無知なので、この演奏が本当に「うまい」のか?ピアニストの方から見たものとは違うと思います。
 学生時代、ロストロポーヴィチが桐朋学園に来られた際、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを指揮し、ハイドンのチェロコンチェルト第1番を演奏して「実地訓練」(笑)をしてくださったことを懐かしく思い出します。
 指揮にしてもソロにしても「音楽の静と動」特に「前に進む音楽」を強く指示されていました。かと思えば弦セレの1楽章中にある「リタルダンド」部分で「アイシテル!アイシテル!ア・イ・・シ・・テ・・・ル~♪」と日本語で歌いながら「流れを止める」技術(笑)も見せてくれました。
 そんな偉大なチェリストが演奏する「声楽の伴奏ピアノ」を聴いて思い起こすのは、世界的なヴァイオリニスト「ヤッシャ=ハイフェッツ」のピアノ演奏です。実際に演奏している動画がこちらです。

 うますぎる(笑)「天は二物を与えず」って嘘だべ。
ここまで来たらこの人のピアノも(笑)フリッツ=クライスラーの演奏するドボルザークのユーモレスク。

 なんだなんだ!みんなピアノうますぎるぞ。
音楽高校入学試験に「ピアノ副科」があります。私も受けました。
高校・大学で副科のピアノは必修で試験も受けました。高校3年のピアノ副科試験でベートヴェンの「悲愴」1楽章を弾きました。スケール全調…その場で試験官の先生から指定される音階を私も弾きました。
 さらにさらに!20年間、中学校・高校の音楽教諭として合唱の指導で「音取り」のピアノも「伴奏ピアノ」も弾いていました。校歌も20年間、事あるごとに弾いてました。なのに。あーそれなのに(笑)どーして、私にはピアノがうまく弾けないのでしょうか。
 答えは簡単「うまくなる気がない」それだけです(笑)練習しないのに、うまく弾けるはずがありません。当然です。
 …ん?そうすると,ロストロポーヴィチもハイフェッツもクライスラーも「ピアノを練習した」のです。それ以外ありえません。あんなにチェロやヴァイオリンがうまい方たちが「ピアノもうまい」わけです。
仮説(笑)
「ピアノが楽器演奏の基本だからピアノもうまくなった」
「彼らはピアノを演奏するのが好きだった」
「チェロもヴァイオリンもうまい人はピアノもうまい」
「野村謙介は特にピアノがへたである」
恐らくすべて正解です。
ピアノを上手に弾ける方々を、心から尊敬しております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ジャンルを超えた「感性」

 八神純子さんの「パープルタウン」です。
ウィキペディアによれば…
[1958年1月5日、八神製作所創業家出身で後に同社第4代会長となる八神良三の長女として、名古屋市千種区で生まれる。
3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習う。幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を歌い続け、両親を呆れさせたという。
一方で、八神は自分の少女時代について「小学校の頃はすごく不器用でぎこちなくて、自分のことが好きではなかった。運動が得意な子はもてはやされ目立っていましたが、私は内気でまったく目立たない存在でした」とインタビューで語っている。
愛知淑徳高等学校に入学すると、フォークギターのサークルを作り、ギターを持って他校の文化祭へ行ったこともあった。ヤマハのボーカルタレントスクールにも通い始め、歌の練習に明け暮れていた。また高校在学中に曲を作り始め、1974年の16歳のときに初めて「雨の日のひとりごと」を作詞・作曲した。」
だそうです(笑)

 私と同世代の八神純子さんの歌う声に、学生時代から不思議な魅力を感じ、レコードを買い「オーディオチェック」にも使わせてもらっていました。ちなみに、当時オーディオチェックには「岩崎宏美」さんのレコードも良く使われていました。人間の「声」を美しく再生できることが良いオーディオの基準でしたので、この二人の声はジャンルに関係なく、多くのオーディオファンが聴いていました。

 ただ「高い声を出せる」とか「声域が広い」と言う歌手は他にもたくさんいます。また、その事を売りにしている歌手もいます。それはそれですごいと思います。私が「感性」と書いたのは、音の高さ…では表せない「歌い方」の個性を強く感じているからです。
 ヴァイオリンに置き換えるなら「音程の正確さ」「音量」よりも「演奏の仕方」です。
 歌は人間の声を使って音楽を演奏します。当然、一人一人の「声」は違います。楽器の個体差よりも、はるかに大きな個人差があります。聴く人の好みが大きく分かれるのも「声=歌」です。八神純子さんの「声」が好きなだけ?と問われれば…否定は出来ません(笑)
 八神さんの「歌い方の個性=技術」を考えてみます。

「ヴィブラートの使い方」
「長い母音の歌い分け」
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」
「音域ごとの声質の使い分け」
どれも「プロの歌手ならやってる」のでしょうね(笑)
もう一度、このポイントを覚えてから、映像の歌声を聞いてみてください。
「普通じゃない」ことに気付いてもらえると思います。
これらのポイントはすべて「ヴァイオリンの演奏」に置き換えられます。
「ヴィブラートの使い方」←そのまんま(笑)ヴァイオリンに言えます。
「長い母音の歌い分け」←長いボウイングでの音色・音量のコントロールです。
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」←弓を返してもフレーズを切らない。
「音域ごとの声質の使い分け」←弦ごとの音色の使い分けです。
ヴァイオリンでこれらのすべてが「個性」につながることは、以前のブログでも紹介しました。
 しかも八神純子さんの「正確さ」についても、述べておきます。
ピッチの正確さは、どの歌手にも劣りません。しかもピアノを弾きながら歌うことがほとんどの彼女が、バックバンドのドラムやペースのライブ音量=大音量の中でも正確に歌っている姿を見ると、ピアノの「音」を聴きながら同時に自分の声を聞き取ろうとしている…と推測できます。

 歌手の「うまさ」をどんな基準で測るのか?と言う問題には様々な意見があります。それはヴァイオリンやピアノの演奏技術、フィギアスケートの評価などにも言えることです。
「間違えないこと」が「うまい」ことは確かです。
では「間違えないだけ」がうまいことの「基準」かと言えば違います。
「他の人が出来ないことをする」のも、うまいの一つです。
言い換えれば、「まちがえない人」が、できないこと…これは「相対比較」なので無限にあります…をできるのも「うまい」ことの基準だと思います。
 たとえば「高い音にヴィブラートをかける」ことや「短い音にヴィブラートをかける」こと、ヴァイオリンなら「重音にヴィブラートをかける」←ヴィブラートの話ばっかり(笑)その他にも「音色の豊富さ」「音量の変化量」など、「正確」以外の要素も聴く人に感動を与える要素だと考えています。
 世界中に「歌のうまい歌手」はたくさんおられます。
それぞれの歌手が「個性的」で、聴く人の心に訴えかける「なにか」を持っています。その「なにか」を「人間性」と言う人もいますが、私はそれこそが「技術」だと思っています。
 自分の演奏を聴いて「いい演奏だ」と思える日が来るまで、人の演奏を聴いて感動することも大切な「貯金」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由に演奏する技術と知識

 映像はステファン=グラッペリさんのライブ映像。
ジャズ‥素人の私が勝たれるものは何もありません。
クラシック音楽の何を学んだのか?と問われて即答できるほど、学んでもいません。中途半端な知識と経験、貧弱な技術で音楽の「真髄」などに近づくことなどできない自分にとって、どうしてもグラッペリの演奏に「憧れ」を感じてしまいます。
 彼の演奏スタイルの、正しい名称が何であろうと、ただ彼の演奏を聴いていると「楽しい」「すごい」「素敵」と思えるのはなぜなのでしょうか?クラシックヴァイオリンの演奏技法との違いや共通点を「演奏から」推測してみます。

 テファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli、1908年1月26日 – 1997年12月1日)は、フランスジャズヴァイオリニスト

 彼の「音楽歴」について書かれているページはあまりありません。
幼い頃から庭や路上でヴァイオリンを演奏し、15歳頃にはプロとして活動していたようです。いわゆる「独学」「自己流」だと言えます。
音楽大学やレッスンで「習った」音楽ではなく、「自分の力で身に着けた音楽」です。習うことが上達の「近道」だと言われますが、それがすべての方法でもなく、最善の方法でもないことをグラッペリさんの演奏は物語っている気がします。

 

 上の映像はメニューインとグラッペリの共演映像です。
メニューイン…と言えば、今もクラシックヴァイオリン演奏技法を理論化した名ヴァイオリニストとしてあまりにも有名な演奏家です。そのメニューインが明らかにグラッペリに「引き寄せられている」のを感じます。深読みすれば、グラッペリさんの演奏技術が「自己流」だとしても、メニューインをもってして「まいりました!」な確かなテクニックをグラッペリさんが持っていることの証だと言えます。

 クラシック音楽は、楽譜に忠実に演奏することが基本中の基本です。
一方でジャズは、その場で即興演奏すること・できることが基本です。
明らかに両者の「基本」が違います。クラシック音楽を学ぶ人はまず「楽譜を正確に音にする」技術を学びます。一方でジャズを学ぶ…演奏しようとする人は「楽譜」ではない「演奏のルール・セオリー」を経験と知識で学びます。
ひとつの例で言えば、クラシック音楽のヴァイオリニストは「和音」だけを与えられれば「和音」で弾くことしかできません。良くて「アルペジオ」(笑)
一方でジャズヴァイオリニストはそこから「音階」や「旋律=メロディー」を即興で演奏します。それはクラシック音楽の世界で言えば「作曲」の分野です。
作曲し奈がが演奏することは、クラシックヴァイオリニストには求められません。
似たようなこと・それっぽい演奏をいかにも「即興でひいているのよ!すごいでしょ!」←なぜか女性の言葉遣い(笑)な人を見かけると、原チャリのマフラーを外して「おいら、世界一はやいぜ!」といきっているお兄ちゃんを思い起こします。あ、ごめんなさい(笑)

 クラシック音楽の世界で「カデンツァ」と呼ばれる「楽譜」があります。
本来、カデンツァは「即興演奏」で演奏者の好きなように演奏することを指す言葉です。現在、完全に演奏者オリジナルの「カデンツァ」を演奏するヴァイオリニストを見かけることはありません。楽譜の「一部分」を自分流に替えて演奏すれば「オリジナル」だとも言えますが、大部分は誰かほかの人が書いた楽譜をそのまま、演奏しているのが現実です。それでもカデンツァはカデンツァと呼ばれています(笑)
 カデンツァではありませんが、私と浩子さんがある曲を演奏しようとする時、参考にする「楽譜」がいくつもあります。それらの中で「いいとこどり」をすることも珍しくありません。その意味では「クラシック演奏とは言えない」とのお叱りはごもっともです。また「誰かのアレンジした楽譜を違う人のアレンジと混ぜるのは問題だ!」と言われれば、それも甘んじてお受けいたします(笑)
「盗作だ!」は違います。私たちが「作った」とは一度も言ったことはございません。
 私たちの演奏する「曲」は、旋律と和声を作曲した「作曲家」と、その曲をアレンジ=編曲した「編曲者」が別にいる場合があります。前者の楽譜をそのまま、忠実に演奏することもできます。また、その曲の一部(和声やリズムなど)を「アレンジ=編曲」して演奏することもできます。そういった楽譜が手に入ることも事実です。さらに言えば、クラシック音楽でも「リアレンジ」された楽譜はいくらでも手に入ります。ポピュラーだけではありません。「そんな楽譜はクラシックではない!」そうでしょうか?楽譜を書いた作曲家が「本当にそう楽譜に書いたのか?」という議論はクラシック音楽でもよくあることです。事実、作曲途中で作曲家が死去した場合、友人や弟子が残りの部分を「作曲」して完成させたクラシック音楽もたくさんありますよね?ダッタン人の踊りもその一つです。「楽譜の通りに演奏する」ことに異論はありませんが、「そうしなければクラシック音楽ではない」という考え方は間違っていると思います。

 最後に、演奏家がグラッペリさんのように「自由に」演奏するために釣ようなことを考えます。ひとつには「知識・セオリー」を覚えるための学習と練習が必要です。これは楽譜の通りに演奏している場合でも言えます。なぜなら、楽譜はランダム=無作為に音符や休符を並べたものではなく、聴く人が聴き馴染んだ「リズム」や「旋律」「和声」になるように書かれている「曲」だからです。
その曲をなんの知識もなく「音楽」にすることは不可能です。さらに、あるリズムがあったときに、それをどう?演奏すれば自然に聴こえるのか?と言うセオリーも覚える必要があります。それらを経験で覚えていくことが、自由な演奏につながる第一歩だと考えています。
 さらに、演奏者が演奏中に好きなように=思ったように「音を見つけ・作る」技術が不可欠です。これもクラシック音楽に当てはまります。「楽譜の通りに間違わなければ必要ない!」と思いがちですが、実際に音楽は「その場で生まれる芸術」ですよね?これから演奏しようとしている「音」は、その瞬間だけの命を与えられた音です。過去のどんな音とも違うはずです。その「新しい音」を出す時に、どんな音で演奏するかを考えることは、演奏家の責任ではないでしょうか?楽譜は「音」ではありません!
 「自由な発想」は「抑制・規制された発想」から生まれると考えています。
無人島でひとり暮らすことになって「自由でありがたい」とは思わないはずです。私たちの日常は、「しなくてはいけない・やってはいけない」ことの中でおこなわれます。その中で「してもよい・しなくてもよい」が自由に感じるのです。
音楽を演奏する時の「自由」は「何を弾いても良い」という意味ではありません。演奏者同士、あるいは聴く人との間の「調和の限界」を考えることができなえければ、本人以外が楽しむことはできません。それを学べるのは「経験」だけです。自分以外の人と演奏する経験、知らない人の前で演奏する経験、知らない音楽を演奏する経験…演奏は練習も含めて「経験」で作られているものです。
 自由な演奏が出来るように…地道に頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量(音圧)より大切なもの

 今回のテーマは、ヴァイオリンなどの弦楽器演奏に「より大きな音量」を求める傾向に物申す!です(笑)
映像は「手嶌葵」さんの歌声と[ロッド・スチュアート」の歌声です。
クラシックの「声楽」とは明らかに違う「歌声」です。好き嫌い…あって当たり前です。特に人間の「声」への好みは、楽器ごとの個体差とは違い、本能的に持っている「母親の声」への反応を含めて好き嫌いが明確にあります。
 大学時代に副科の声楽で「発声方法の基本」をほんの少しだけ学びました。
印象を一言で言えば「難しすぎてなんもできん」(笑)中学時代、合唱好きだったのに…。声楽専攻学生を尊敬しました。
 ポピュラーの世界で「歌う声」には、何よりも「個性」が求められます。
過去に流行った歌手の歌い方を「真似る」人が多い現代。個性的な「歌声」の人が少なくなってきた気がします。
 それはヴァイオリンの世界にも感じられます。
特に「音量」を優先した演奏方法で、より大きく聴こえる音で演奏しようとするヴァイオリニストが増えているように感じています。
 楽曲が「ヴァイオリンコンチェルト」の場合と「ヴァイオリンソナタ」の場合で、ソリストに求められる「音」にどんな違いがあるでしょう?

 まず「レコーディング」の場合には、ソリストの大きな音量は必要ありません。それが「コンチェルト」でも「演歌」でも、技術者がソリストと伴奏のバランスを後から変えることができることには何も違いはありません。
 一方で、生演奏の場合は?どんなに優れたヴァイオリニスト(ソリスト)が頑張っても、物理的に他の楽器との「音量バランス」は変えられません。むしろ、他の演奏者が意図的に「小さく」演奏するしかありません。さらに言えば、ヴァイオリンコンチェルトの場合、オーケストラのヴァイオリニストが10~20人以上演奏しています。その「音量」とソリスト一人の「音量」を比べた場合、誰が考えてもソリストの音量が小さくて当たり前ですよね?20人分の音量よりも大きな音の出るヴァイオリンは「電気バイオリン」だけです(笑)
仮にオーケストラメンバーが「安い楽器」で演奏して、ソリストが「ストラディバリウス」で演奏しても結果は同じです。むしろ逆にオーケストラメンバーが全員ストラディバリウスで演奏し、ソリストがスチール弦を張った量産ヴァイオリンで演奏したほうが「目立つ」と思います。
 ヴァイオリンソナタで、ピアノと演奏する場合でも「音圧」を考えればピアノがヴァイオリンよりも「大きな音を出せる」ことは科学的な事実です。
ヴァイオリンがどんなに頑張って「大音量」で演奏しても、ピアノの「大音量」には遠く及びません。
 音量をあげる技術は、小さい音との「音量差=ダイナミックレンジ」を大きくするために必要なものです。ただ「ピアノより大きく!」は物理的に無理なのです。ピアノ=ピアノフォルテの「音量差」はヴァイオリンよりもはるかに大きく、ヴァイオリンとピアノの「最小音」は同じでも、最大音量が全く違います。
 ピアニストがソロ演奏で「クレッシェンド」する音量差を、ヴァイオリン1丁で絵実現することは不可能です。つまりピアニストは、ヴァイオリニストに「配慮」しながら「フォルテ」や「フォルティッシモ」の音量で演奏してくれているのです。ありがとうございます!(笑)

 ヴァイオリンやヴィオラで大切なのは、より繊細な「音量の変化」「音色の変化」を表現することだと思っています。そもそも、ヴァイオリンなどの弦楽器は作られた時代から現代に至るまでに、弦の素材が変わり、基準になるピッチが高くなったこと以外、構造的な変化はしていません。今よりも小さな音で演奏することが「当たり前」に作られた楽器です。レコーディング技術が発達し、音楽を楽しむ方法が「録音」になった今、録音された「ソリストの音量=他の楽器とのバラ数」を生演奏に求めるのは間違っていると思います。そもそもヴァイオリンの音色や音量を分析して「音の方向性」「低音高音の成分」を分析してストラディバリウスを「過大評価」しても、現実に聞いた人の多くが聞きわけられない現実を考えた時、聴く人間が求めているのは「演奏者の奏でる音楽」であり「大きな音」や「イタリアの名器の音」ではないはずです。ヴァイオリンの音量を大きく「聞かせる」技術より、多彩な音色で音楽を表現できるヴァイオリニストになりたいと思うのは私だけでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弾く側・聴く側のホール選び

映像はヘンデルのオンブラ・マイ・フを私と浩子さんが演奏したものです。上の演奏は5回目ののデュオリサイタルで客席数520名「杜のホールはしもと」で、下の映像は同じデュオリサイタル5で最大定員200名ほどのサロンホール「代々木上原ムジカーザ」での演奏です。
 今回のテーマは、演奏者と聴衆がそれぞれの立場で「演奏会場の大きさ」「響き」の違いをどうのように感じているのか?というものです。

 以前のブログで会場ごとの「残響」や「響き」の違いがあることを書きました。一般的に「音楽ホール」は余韻が長く「多目的ホール」は逆に余韻が短い特徴があります。その理由も以前書きましたが、スピーチやら億語など「言葉の聞き取りやすさ」を考えれば余韻は短い方が適しています。
 さて、演奏する側で考えた場合「演奏しやすい」「気持ち良く演奏できる」ホールがあります。ひとつの要因は「演奏した音の演奏者への戻り方=聴こえ方」です。ポップスコンサートの場合「モニター=跳ね返り・返し」と呼ばれる演奏者に向けたスピーカーを設置することが多くあります。特にボーカル(歌手)が自分の歌っている声が自分に聴こえるようにするための工夫です。
 クラシックコンサートで、演奏者が自分の出している音が「聴こえない」という事は通常あり得ません。ピアノの音が大きく聴こえすぎて、自分のヴァイオリンの音が良く聴こえない…とすれば、立ち位置を考えれば解決します。
 自分の楽器の「直接音」ではなく、会場内の空間に広がった音が、舞台に「戻ってくる」音が聴こえるホールが「演奏しやすい」ことに繋がります。
ただその「戻ってくる音」は直接音より遅れて=後から聞こえてきます。その時間差が大きすぎれば逆に演奏しにくい環境になります。また山彦のように「重なって戻ってくる音」も気持ちの良い音ではありません。
リハーサル時、ステージ上で手を「ぱんっ」と叩いてみると、会場の残響がステージにどのように?どのくらい?返ってくるのかを確かめられます。本番で客席が満席の場合、残響時間は明らかに短くなります。音の戻り方も変わります。
 サロンホールの場合、基本的に残響時間は短くなります。それでもムジカーザは演奏者にも聴衆にも「気持ちよい残響時間」がある希少なホールです。
演奏者に1番近い位置で聴いても、残響を感じられます。もちろん、ヴァイオリンやピアノの「直接音」も楽しめます。これは「聴く側」がサロンホールで楽しめる「独特の響き」です。

 演奏する会場の大きさと客席数は比例します。ただ「残響」は必ずしも一定には変化しません。
1.小さいスペースで残響が短い(一般の日本家屋の室内・お寺の構内など)
2.小さいスペースで残響が長い(天井が高く壁や床が石造り)
3.広いスペースで残響が短い(野外での演奏)
4.広いスペースで残響が長い(教会や音楽専用ホール)
少人数のアンサンブルなら上記「2」か「4」が理想ですよね。
ただ広く・大きい会場の場合「使用料金」が比例して高くなります(笑)
使用料に見合う「収入」をあげるための「集客力」が求められます。

 大編成のオーケストラ演奏を聴くなら「大ホール」で残響時間の長い「響き」で楽しめます。一方、小編成の室内楽は、直接音と残響を楽しめる「小ホール」「サロン」で聴きたいと思っています。コンサートを企画し開催する「主催者」の収益を考えるなら、大ホールで集客する方が効率的に高い収入を得られます。
 杜のホールを満席にする集客力のない私たちの場合は、ホール使用料金を考えれば、サロンや小ホールでの開催しかありえません(笑)
ムジカーザのような「響きの良いサロン・小ホール」がもっと増えることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「なんとなく…」の少ない演奏や演技が大好き!

 映像は、私たち夫婦が大好きな「パトリック・チャン」のスケートによる「演技」です。フィギアスケートが「競技スポーツ」である場合、やれ「何回転ジャンプ」が成功しただの、着氷がどうしただので「減点」されて順位が決まるのは、音楽のコンクールでの「順位付け」と似ています。。ただ、私たちは同じ競技スケートでも、彼の「技術の高さ」が他の選手たちと根本的に違って感じます。それが何故?なのかを考えていきます。

「なんとなく滑っているだけ・動いているだけに見える時間が少ない」のが彼のスケートの魅力です。通常の「振付」だと、なんとなく音楽に合わせた「ようにに見える」動きなのに対し、彼は「動きに合わせた音楽」を選び、時にはつなぎ合わせて作り、さらにその音楽を動きで表現しているように見えます。この違いです。手をあげる…運動一つでも、なんとなく挙げているようには見えません。
 以前、スケート選手だった織田さんが「彼のコンパルソリー技術(昔の規定演技)はものすごいんです。一蹴りで恐ろしい速度で恐ろしい距離を滑るんです。スケーティングの時、エッジで氷を掴む音がものすごく大きい!」という話をされていました。何が違うのか?素人にはわかりませんが、オリンピック選手でさえ驚く「特定の技術」があることは確かです。

 「なんとなく音を出しているだけ・弾いているだけに聴こえる音が少ない」
これが私たちの好きな演奏・目指す演奏の一つの「理想」です。
何も考えずに・何も感じないで演奏している「演奏家」はいないと思います。
ただ聴いていて、なにも感じない「音=時間」が多い演奏と少ない演奏があるように感じます。聴く側の感性…好みの問題もあります。演奏者の表現が「内に秘めた表現」なのかも知れません。大げさなら良いとは思いません。
分かりやすい別の例えをしてみます。
以下の動画はある韓国ドラマの「日本語字幕版」と同じ場面を「日本語吹き替え版」で比較したものです。韓国語がわからなくても、「役者さんの話し方=演技」と日本人声優さんの「声の演技」の違いです。みなさんにはどちらが「自然」に感じるでしょうか?

 日本語に吹き替えてあることで、字幕を見なくても「話している内容」が理解できますが、実際に演じている韓国人の役者さんが話す「台詞(セリフ)」を声優さんが聴いて「それらしく」声で演技をしています。
 吹き替えは、実際のセリフを訳した台本を、元の音声の「タイミング」に合わせて声優さんが話して「合成」したものです。見ていて「不自然」に感じることは仕方ありませんが、楽譜を音にする私たち演奏家は、聴く人が「自然に聴こえる」演奏技術が必要だと思います。「棒読み」と言う表現は、
・文章の内容を理解していない
・「強弱」「緩急」「抑揚」がない
・「平坦で無表情な音読」
を言います。演奏を聴く人が「棒読み=棒弾き」に聴こえないように「こだわる」演奏が好きです。
 得点を競う「競技」と違い「芸術性」は点数化できません。
何かを感じる演奏…聴く人が専門家でなくても、クラシック音楽を普段聞かない人でも「なにか感じる」演奏を意識して表現したいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

ヴァイオリンで弾くか、ヴィオラで弾くか。

 上の映像は、私と浩子さんがヴィオラで演奏したドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」下の映像は、チェリスト長谷川陽子さんの同曲。
この曲をヴァイオリンで演奏してみよう!と思い立ちました。
…って今更(笑)、元よりクライスラーが編曲している時点でヴァイオリンで演奏するのが「先」かも。

 同じ人間(私)が同じ曲を演奏しても、違う音楽になる不思議。
しかも、11月に木曽町で開かれるコンサートでは、私のヴァイオリンではなく木曽町が所有する陳昌鉉氏製作のヴァイオリンを使って演奏する企画です。
ヴィオラはいつも愛用している陳昌鉉氏が2010年に製作された楽器です。
 同じヴァイオリン製作者の作られたヴァイオリンとヴィオラを、一人の演奏者が持ち替えながら演奏するコンサートです。ヴァイオリンとヴィオラで「大きさ」が違うのは当然ですが、ヴァイオリンにも微妙な大きさ、長さ、太さ、重さ、厚みの違いがあります。日頃使い慣れているヴァイオリンとは、かれこれ45年以上の「相棒」ですが、ヴィオラはまだ12年の「お友達」。木曽町のヴァイオリンは昨年も演奏しましたが、まだ「顔見知り」程度の関係です。

 ヴィオラとヴァイオリンを演奏できる友人、知人がたくさんおられる中で偉そうに書いて申し訳ありません。恐らく私だけではないと思うのですが、ヴィオラを手にして演奏しようとすると「ト音記号がすぐに読めない」と言う現象が起こります。正確に言えば「どの高さのド?なのか考えてしまう」のです。ヴィオラを持つと頭の中で「アルト譜表」と「ヴィオラの音=弦と場所」が、自動的にリンクします。色々な譜表が入れ替わるチェロやコントラバスを演奏する方々を心から尊敬します(笑)

 楽譜を見ないで演奏するようになってから、ヴィオラで演奏していた曲をヴァイオリンに持ち替えて演奏したり、その逆に持ち替えて演奏することが時々あります。ヴィオラで「しか」演奏したことのない曲を、ヴァイオリンの生徒さんにレッスンで伝える時、まず浩子さんに「ト音記号」の楽譜を作ってもらうことから始まります(笑)それは良いとして、楽器を持ち替えて演奏する時の「恐ろしい落とし穴」がありまして…。ヴィオラで演奏している曲を、ヴァイオリンで弾く時、音域が!(笑)ヴァイオリンの最低音「G=ソ」なのを忘れて弾いてしまう恐怖。同じ調=キーで演奏する場合に一番「恐ろしい」ことなのです。
ヴィオラの「中・高音」はヴァイオリンでも当然演奏できますが、音色がまったく違います。筐体=ボディの容積も、弦の長さ、太さも違うので、倍音も変わります。つい「ヴィオラのつもり」でヴァイオリンを弾いてしまうと「…ファ…!」になることもあるので、オクターブを考えて弾き始めることが「要=かなめ」です。
 ヴィブラートの深さ、速さもヴァイオリンとヴィオラでは変えています。
弓の圧力、速度も違います。「慣れる」ことが何よりも重要です。
母の教え給いし歌を、ヴァイオリンで演奏している動画はたくさんあります。
私にとってこの曲は今まで「ヴィオラ」で演奏する曲でしたので、どこまで?どの程度?ヴァイオリンらしく作り直すか…陳昌鉉さんのヴァイオリンにも慣れながら、さらにその3週間後のリサイタルでは、自分のヴァイオリンで違うプログラムを演奏する練習も同時進行です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上達の個人差はなぜ?生まれるのか。

 今回のテーマは「個人差」について考えるものです。
人はそれぞれに違う「個体」です。育つ環境も違います。当然、性格も容姿も違います。それらの「人」が他の人と同じようなことができることと、出来ない(と感じる)ことがあります。
 二本の足で歩くことが難しい人も、たくさんいます。多くの歩ける人たちの中で、走れる人がいます。これも多くの人間が出来ることです。その走る行為の「速さ」を比較したとき「個人差」が現れます。100メートルを何秒で走ることができるか?たった数十年の間に「10秒以下」で走る人が次々に現れました。これは人間が進化したのでしょうか?それとも科学の進歩で、人間の筋力を増強する「技術」の成果なのでしょうか?
 同じ時代を生きる人たちの中で「能力差」があります。演奏にも「個人差」があります。「感性の違い」「解釈の違い」もあれば、「演奏技術の違い」もあります。たとえば、同じ年齢の何人かの子供たちに対して、意図的に同じようなレッスンをしたとしても、演奏技術の上達速度には必ず「個人差」が生まれます。
当然、評価も「同じ基準」で行う必要があります。例えば、リズムを正確に演奏する能力・ピッチを正確に演奏する能力・音名や用語を覚える能力などの違いです。練習環境・練習時間の違いが最大の要因であることは間違いありませんが、それ以外にどんな「違い」があるのでしょうか?

 「知識」「聴覚」「運動」の三つの観点から考えます。
 まず、知識を覚える「能力」と「好奇心」の個人差です。単純に楽器で音を出すというレベルでも、弦の名前やダウン・アップの違い、指番号など「覚える」ことがいくつもあります。それらを覚えることは「学習能力」とも呼ばれます。
同じ月例・年齢の子供でも、大人でもその能力や好奇心に大きな差があります。
教え方による違いもありますが、習う側の「個人差」が顕著に現れます。

 次に音を聴き、音の高さを聞きわける「聴覚」の個人差です。
いわゆる「聴力」とは違います。二つの違う高さの音を「どっちが高い?」と答える感覚の問題です。幼児の場合、言語化する能力の違いはありますが、大人の場合は「聴覚の違い」が明らかにあります。この感覚はトレーニングによって精度が上がります。幼児の時期から「音の高低」を聞きわける習慣のある・なしで、大人になってからスタートする楽器演奏技術に影響します。
音の高さを判別する力を判断する実験方法があります。試してみてください!
日本語…できれば標準語で(笑)以下の言葉で「音の高低」を答えられますか?
「かっぱ、ラッパ、かっぱらった。」
まず、「かっぱ」の「か」が高いか?「ぱ」の方が高いか考えてください。
両方を同じ高さで発音すること「も」できますが、あえて大げさに発音する時、どちらかが高くなり、もう一方が低くなります。さぁ!どちらでしょうか?
高い王の音をドレミファソの「ソ」で、低いと思う方の音を「ド」で弾いてみるとわかりますか?
「ド・ソ」か「ソ・ド」のどちらが「かっぱ」に聴こえますか?
童謡に「ラッパ」も「ド」と「ソ」の組み合わせで「ラッパ=トランペット」に聴こえるのは?
最後の「かっぱらった」の「か」「ぱ」「ら」「た」に「ド」を二つ、「ソ」を二つ当てはめて答えてください。正解は次回ののブログに(笑)うそです。

正解
かっぱ=ド・ソ
ラッパ=ド・ソ
かっばらった=ド・ソ・ソ・ド
です。当たってました?
方言によって違っていたらごめんなさい。
例えば「顎=あご」を岡山弁では「あご=ソド」あを高く言います。標準語では「あご=ドソ」ごを高く発音します。子供の頃、両親の岡山弁を聴いて育った私は、東京の小学校で「ソド」であごの事を普通に言っているつもりで、笑われた記憶があります。これらが「音の高低」を判断する聴覚です。皆様はいかがでしたか?
 ヴァイオリンで、ほんの少しだけ高すぎたり、低すぎたりして、先生から「音程!」と言われ続けたのは私です(笑)いわゆる「ピッチ」に対するセンサーの制度を高めるトレーニングが大切です。チューナーを有効に正しく活用することを強くお勧めします。
 ピッチだけではなく、音色を聞きわけるのも聴覚です。
高音の成分が多い音と少ない音の「音色の違い」を聞きわける技術。
たとえば、駒の近くを演奏したときの音色と、指板の近くを演奏したときの音色の違いです。駒の近くの音は「硬く」感じます。高音の成分が多いのが原因です。弓が少しだけ「跳ねている音」だったり、隣の弦に弓の毛が振れている「雑音」だったり、弓を返す瞬間の「アタック」だったり。聴かなければわからないこと=聴いて判別することがたくさんありますね。

 最後の個人差が「運動能力」です。足が遅いとか、球技が苦手…というお話ではありません(笑)楽器を演奏するために、指や腕を動かします。それが「運動」です。ヴァイオリンを演奏する大人の生徒さんが、弓やネックを「ちからいっぱい」握りしめている…一番多く見られる問題の一つです。
そもそも、4歳の子供でもヴァイオリンを演奏できるのに「大の大人」の握力・筋力が必要だと思いますか?(笑)4歳児と手をつないだ時の「弱さ=柔らかさ」で十分なのです。大人は身体がかたい・子供は柔らかい…とは限りませんよね。子供でも屈伸が出来ない子供もたくさんいます。大人でも180度開脚できる人はたくさんいます。思い込み=大人の言い訳を捨てましょう(笑)
 子供の筋力が大人より弱いのに、子供がヴァイオリンコンチェルトをバリバリ演奏できるのは?
「あれは子供用のヴァイオリンだから」いいえ(笑)普通のグランドピアノでショパンやリストを演奏する子供の場合、オクターブ届かないのにちゃんと弾いている動画を見かけます。ヴァイオリンだけは、子供の身体の大きさに合わせた楽器がありますが、大人用のヴァイオリンと構造も材質も全く同じです。つまり、子供の運動能力でヴァイオリンは演奏できる!ということです。
「私は運動神経ガ鈍いから」「体育の成績が悪かったから」大人の言い訳ですね(笑)これも無関係です。楽器の演奏に必要な「運動能力」は特殊なものです。
「瞬間的な運動」と「持続する運動」を使い分けることです。
さらに「脱力」も瞬間的な脱力と、徐々に脱力する運動があります。
難しいのは前者「瞬間的な力」を入れたり、抜いたりする運動を体得することです。以前のブログで、何度か書いていますので参考になさってください。
 力の「量」は少なくて良いのです。4歳児の「筋力」で良いのです。
プロの演奏を見ていると、物凄く筋力を使っているように見えるのは「外見的」なものです。ちなみにオーケストラの演奏中に一番、筋力を使う人は?
たぶん指揮者だと思います。え?まさか?と思う方、ぜひオーケストラの演奏動画で「引き画面=全体が映っている映像」をしばらく見てください。一番運動しているのは、指揮者だと思います(笑)

 最後に上記の「個人差」で演奏家の優劣が決まるか?というお話です。
結論から言えば「優劣ではなく個性になる」ということです。
大人になってから楽器を始めて、プロになる人は珍しくありませんし、むしろそれが自然だと思います。子供が大人のような演奏をすることの方が「異常=普通ではない」なのです。子供のころから習っていないからうまくならない…それも大人の言い訳です。むしろ、楽器の演奏以外の職業のほとんどは、大人になってから技術を学ぶものですよね?
 楽器の演奏練習で、子供と大人の違いは?
「自由に使える時間の量」だけです。
厳密に言えば「言葉の読解能力」や「集中力の長さ」「筋力」で言えば、大人の方が優れています。国や地域、家庭環境によっては、子供の頃から働かなくてはいけない=自由な時間がない子供もいます。多くの大人は自分で生活する「お金」を稼ぐために仕事をしなければなりません。自由な時間が少ないのは事実です。それぞれに「練習できる時間」に差があります。ただ、それだけ=時間の多さが「演奏家になる=上手に演奏めの条件」ではありません。
 プロの演奏家に求められる「技術」を趣味で演奏を楽しむ人が求めたい気持ちは理解できますし、憧れの演奏を真似することも楽しいものです。趣味の演奏と「プロ=職業演奏家」の演奏に、明確な違いや基準はありません。プロになれる練習方法や最低限の練習時間も、明確なものはありません。
どんな人でもじょうずになれます。到達レベル、目標レベルは人によって違います。上達速度に個人差があるように、あるレベルに到達するための「期間」も個人差がります。年齢に制限はありません。大人だからできない…と思い込むのは大人だけです(笑)逆に言えば、小さいときから練習すれば必ずじょうずになるとも言い切れません。「継続は力なり」です。やめないこと、あきらめないことで得られる「上達」を自分個人のものとして受け入れ、楽しむことが最も大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

19歳の自分を観察する62歳のおじさん

 映像は、1980年の窪田良作先生門下生発表会で演奏した、シベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。ピアノは大先輩の高橋せいたさん。
まぁヴァイオリンの演奏、傷だらけだこと(笑)きっとこの後の「点の声」メモは「音程!肘!」とか先生の怒りが込められていたと思われます。
 当時19歳。大学1年生の年度末実技試験の直前だったはず。
前年にハチャトリアンのコンチェルトを高校卒業試験で弾いて、何か成長しているのか?と思い返しながら聴いてみました。

 久保田先生のレッスンで、新しい曲を始める時には、直前に演奏した門下生から弓と指を写させてもらうのが慣例でした。レッスンではスケール、エチュード、曲を見て頂きます。曲の歌い方や解釈について、生徒の感性を優先してくださり、細かいニュアンスを「こうしなさい」と言うお話をされた記憶はありません。もしかすると諦められていた私だけ?(笑)でも、時折素晴らしい声で歌ってくださることが、何よりも記憶に残っています。
 それにしても…このシベリウスは…(笑)
さらっていない?わけではなさそうですが、「練習が足りない」の一言に尽きます。当時も卒業時も久保田先生に「他の先生方からも言われるんだよ。野村くん、もっと練習すればもっとひけるのにねぇって。」
私「心を入れ替えます」
先生「その言葉、毎回聴いてるよ」
撃沈…
実際、なんでもっと練習しなかったのかな~と今更思って見ます。
一言で言えば「欲が足りない」のだと思います。それは現在の私の生徒さんたちに「しっかりちゃっかり」引き継がれています。まずいぞ…
 さらに言えば、高校大学時代の友人が「うますぎた」という「他人のせい」にしてみます。←さいてー。高校時代の同級生、金木(チェロ現在棟フィル首席)と木全(ヴァイオリン現在N響)は、そりゃまぁうまかったわけで。
大学に進んで。木全はN響に入団が決まり入学後すぐに退学。大学から同期になったヴァイオリン専攻の人とは交流がない。なんとなく?過ごしていた気もします。ダメだろ(笑)
 今聴いてみると、シベリウスの音楽に「何か」を感じているらしい…のですが、技術が追い付いていないわけで、今私がこの学生に言うなら「このままだと、ただの石ころで終わるよ」かな?言えるかな(笑)

 音楽高校音楽大学で、たくさんの人たち色々なアンサンブルをさせてもらいました。高校時代は、弦楽カルテットを同期の友人と。大学に入って、先輩に声をかけてもらって、ピアノカルテットのヴァイオリンやヴィオラ。ピアノトリオ。ピアノとと二重奏。ホルンカルテットとフルートカルテットでBヴィオラ。なんやかんやと毎日のように夜9時まで、なにかの「合わせ」をしていたような記憶。自宅に帰るのが億劫になり始め、両角寮=男子寮に転がり込んで寝たこともしばしば。
 大学1年でなぜか?学生会の役員に「やって」と先輩に言われて(笑)、とうほ際の前後夜祭担当のお仕事をもらい、プレハブの学生会室に入り浸り、「小澤まめ兄」と出会いました。レパートリーオーケストラに昇進(笑)させてもらって、初めてのオケ合宿で北軽井沢。定期演奏会デビューのはずの「ハイドンバリエーション」で張り切っていたのに、直前に「盲腸=虫垂炎」で手術入院。忘れもしない9月4日。パンダのランランかカンカンが死亡したというニュース速報を、手術待ちの病院テレビで聴いていました。どーでもいいことを覚えている…
 大学1年からは「桐朋祭の鬼」と化し(笑)、毎日学生会室で過ごす日々。
さらっていた記憶が…ほぼない。


 

 

なんか…青春しているなぁ(笑)大学時代、一番長くいた場所がもしかすると学生会室、次が学生ホール、その次が事務実(笑)、さらっていたんだろうか…。
でも室内楽のレッスンは色々受けてました。浩子さんと当時「彼氏」だったチェリストとピアノトリオで、原田幸一郎先生と田崎悦子先生が帰国されたばかりで、まだ桐朋の先生ではなかったのに希望を出したらレッスンをしてくれた思い出。大学2年でマスターオーケストラに昇進させてもらって、演奏旅行にも連れて行ってもらいました。春の祭典、第九は印象深いです。でも…さらってなかった(笑)なんででしょうねぇ。プロオケの「トラ」にも行かせてもらうようになって、勉強になりました。アマチュアオケのトラもたくさん行かせてもらって、当時一番ギャラの良かった「スタジオ」もたくさんやりました。夜の9時から深夜までレコーディングスタジオで、演歌やら童謡やら歌謡曲の録音。キティスタジオで熱海?に泊りがけのお仕事があったり。横浜の「ホテル ザ・横浜=通称ザヨコ」で毎週披露宴でヴァイオリンを演奏するお仕事もしてました。栗原小巻さん主演「桜の園」のお芝居を下北沢の劇団「東演」が上演したときには、東京公演一か月と地方公演一か月、ずーっと「ユダヤ人の楽士」役で衣装を着て参加してました。練習するより楽しい」ことがたくさんあったような気もしますが、練習から逃げていたことも事実です。

 練習嫌いだった私が言うので説得力はありませんが(笑)、音楽を演奏するために必要な「技術=テクニック」は練習で身に着ける以外、方法はありません。
ただ…音楽を感じる「センサー」や「アンテナ」は練習では得られません。
さらに、友人の練習や演奏を観察することで得られる「情報」もひとりで練習していても得られません。レッスンで師匠から学べること「以外」に、学ぶべきこと、磨くべきものはたくさんあると思います。友人との会話や音楽以外の生活からも、「人として」学ぶべき時期に学ぶものがあります。
 技術と共に「人としての魅力」を若い時に学べるか?年をとっても「人間らしい音楽家」でありたいと思っています。そして、もし!40年前の自分に会えるなら「さらいなさい!」…言っても聞かないだろうけど(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

音楽の印象を変える演奏方法

 映像はデュオリサイタル10で演奏したピアソラのリベルタンゴです。
すべての音楽は演奏者によって異なります。仮にまったく同じ楽譜を演奏したとしても演奏者が違えば、テンポも音色も音量も違って当たり前です。
 同じメンバーで同じ楽譜を演奏しても、弾き方を変えれば印象は変わります。
リベルタンゴは過去に何度も演奏してきました。また11月の木曽町でも演奏しようかな?と思って過去の自分の演奏を見直しています。

 こちらのリベルタンゴはデュオリサイタル4で演奏したときのものです。
冒頭の演奏と聴き比べて頂くと、違いを感じて頂けるかと思います。
楽譜はデュオリサイタル4で演奏したときのものがベースです。このアレンジに手を加えたのがデュオリサイタル10の演奏です。楽譜が違うだけ?ではありません。アクセントの強さ、音色も変えた「つもり」ですが(笑)
 好みが分かれることはどんな音楽を演奏しても、聴いてもあって当然です。
演奏者が演奏の「スタイル」を変えることは、リスクを伴うものです。YOUTUBEでもCDでも、同じ演奏が気に入れば何度も繰り返して聴いたり見たりするものです。演奏の細かい部分までが聴こえるようになることも珍しくありません。その演奏の「個性」として感じるようになります。言い換えれば「特定の演奏が好き」になることです。そのお気に入りの演奏に期待して、ライブ=コンサートでの生演奏を聴きに行ったひとが「違和感」を感じることもあります。「ライブあるある」なのですが、ポピュラー音楽でもこの話題は耳にします。歌手、演奏者によっては「ライブだからこそCDと違う演奏を聴いてほしい」と考える人と、逆に「CD=以前の演奏とと同じ演奏を心掛ける」人に大別されます。演奏者の「考え方」の違いです。クラシック音楽でも珍しい話ではありません。演奏するたびに「変化」するのが自然だと思っています。それが仮に「一か月」という短い時間経過であっても、演奏は変わるものだと思います。
ましてや何年も経てば、演奏者自身の成長と変化があります。成長は年齢とは無関係ですが、肉体的な衰えがあるのも極めて当たり前のことです。衰えた筋力や運動能力を「経験」で補い成長することもあります。

 弾き方を変える「理由」にはどんなことがあるでしょう。
ただ思い付きで「行き当たりばったり」に代わるのはむしろ練習不足だと言えます。練習の段階で、今までのひき方に疑問を感じる場合もあります。さらに年齢を重ねて「感じ方」が変わる場合もあります。若いころには魅力を感じていなかった曲の「良さ」を感じたりします。逆の場合もあります。単に「飽きた」という事ではなく、魅力が薄れて感じられる場合も珍しくありません。
 演奏方法がいつも変わらない人を「悟りを開いた」(笑)ある領域に到達した人だと見ることもできます。聴く側にすればそれでも問題ありません。好きな演奏をいつでもしてくれるのですから(笑)つまり「特定の演奏」が好きになるのは「録音された音楽」でしかありえないのです。それを演奏者が生演奏で再現する必要があるでしょうか?録音と同じ「音」を生の演奏会場で完全に再現することは、物理的に不可能です。CDとまったく同じ「音」の演奏をライブ=生演奏に期待すること自体が間違っています。ライブの「良さ」は、その瞬間の良さです。再現は出来ないのがライブです。私自身が、自分たちのライブ映像をたくさんアップしている理由の一つはそこにあります。
 クラシック音楽は「生演奏」こそが楽しめるものだと思うようになりました。
その自分が演奏会で、どんな演奏をするのか?を自問自答しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

演奏家の「in put=入力」と「out put=出力」

 映像はヴィヴァルディの二つのヴァイオリンのための協奏曲 第2楽章。
久しぶりに生徒さんのレッスンに採用(笑)です。
 今回のテーマは、音楽を「読み込み」「解釈・練習」「演奏」までの流れを考えるものです。オーディオ好きの人なら「in put・out put」が何を意味するか想像できますね。一昔前の「レコード針とカートリッジ」がオーディオの「入口」でした。そこから「神経」でもあるケーブル=コードを通って、「プリアンプ」に到達。そこで音作りが「処理」されます。さらにケーブルで「メイン暗譜=パワーアンプ」に到達し電気信号が「増幅=大きく」されます。さらにスピーカーケーブルを通った信号は出口である「スピーカー」に到達し、コーン紙を振動させ筐体=箱の中でさらに響いて、最終的に「音」として私たちの耳に伝わります。長い道のりです(笑)

 今でも行われる「録音」でも、入口と出口があります。
演奏される「音」は空気の振動です。それを「マイクロフォン」が電気信号に変えます。これが「入口」。そこからケーブルを通って「ミキサー」…料理用ではない…に到達し「増幅」されます。そこで処理され、昔なら「オープンリールテープデッキ」今ならPCMレコーダーに到達し電気信号として「出力」され記録されます。宇宙語が並びましたが、ここから演奏の話です(笑)

 生徒さんの中で「出力方法がわからない」タイプの人が多く見られます。
 演奏の場合「入力」は「楽譜を読む」「音源を聴く」ことです。それらを自分の感性と身体を使って練習して「出力=演奏」するプロセスがあります。
 もちろん、楽譜を読むことが苦手な生徒さんもいます。時間をかけて自分の脳に「入力」します。その時点では、まだ自分がどんな風に?演奏したいのかという「目標」が見えないことがほとんどです。練習を「処理」と例えると味気ない気がしますが(笑)事実、入力した情報を自分なりに解釈したり、考えたりすることは「処理=演算や計算に近い作業」です。
 考えた結果、目指す演奏が少しずつ見えてきます。それを実際に音にするのが「出力=演奏」です。どうすれば?自分の出したい「音色」や「テンポ」で演奏できるのか?その方法がわからない生徒さんが、たくさんいます。

 原因の一つが「伝達の不具合」がある場合です。
先述のオーディオに例えれば、雑音が入っていたり音が出ない原因が「ケーブル」の不具合である場合です。
 人間の運動は「脳」から、からだの各部位に「信号」が伝達されます。この信号がうまく制御=コントロール出来ていない場合、思ったように演奏できません。さらに「処理=CPU」がパンクすれば信号は伝達できないのです。
同時にいくつもの筋肉、両手に違う「命令」を出し続ける楽器の演奏は、脳にとってかなりの重労働です(笑)右手は左脳、左手は右脳からの信号で動いています。同時に両手を使えば、脳は「パニック」を避けるために「無意識」になります。つまりどちらか片手の運動だけを「意識」しようとするのです。
 どうすれば?両手を同時に制御できるのでしょうか?パソコンのように「マルチコア」で複数の作業を同時にこなす方法はないのでしょうか?
 実際に実験しますので、以下の通りに両手を動かしてみてください。
1.両手を軽く「ぐー」にします。
2.右手の「人差し指・中指・薬指」の3本を「伸ばすイメージ」を持ちます。まだ動かさないで下さい(笑)
3.左手の「親指・小指」を「伸ばすイメージ」を頭に思い浮かべます。まだですよ(笑)
4.まだ両手は「ぐー」です。そのまま、両手のそれぞれの指が「伸びている」イメージを頭に一生懸命、描いてください。まだ動かさないで(笑)
5.ぐーになっている両手を見ながら「一気に」イメージ通りに「パッ」と力を入れずに動かします!パッ!(笑)
 できましたか?どれか違う指が動いたとしても、結構近くありません?
一度に両手に違う動きを「命令」しようとするなら、一つのイメージにして脱力することが最大のコツです。右手の3本の指だけを意識しながら、左手の親指と小指を無意識に一度に動かすことはできないのです。それが私たちの「脳」です。

 思ったように出力=演奏できるように、自分に足りない「知識」と「技術」を新しく追加で「入力」する必要がある場合について。
 切れない包丁でいくら頑張っても、綺麗にトマトやお魚は切れませんよね?
包丁を「研ぐ」知識と技術を入力する必要があります。
 オートマ限定免許の人が、マニュアル車を突然、運転しなければならなくなったら?「クラッチペダル」の存在と使い方を入力しないと始まりません。
 演奏家が今現在、持っている技術・知識だけでは、思ったように演奏できない場合、困ったことに「なにが足りないのかわからない」ことが多いのです。できない原因がわからないと、対処のしようがありません。
 私たちの「病気」に例えるなら、頭が痛い症状がある時、原因を見つけることが大切です。やみくもに痛み止めを飲むことが逆効果の場合もあります。病院で検査をして「原因」を見つけて、治療が始まります。それと同じです。
 うまく演奏できない原因を、自分だけで見つけようとするよりも、誰かの意見を聞くことが最も効率的な対策です。新しい知識や技術を「入力」し、自分のものにできるまで「処理」と「出力」を確認することです。

 私たちは日常生活でも、知らないことや初めてのことに出会って、その都度対処しています。その積み重ねこそが「生きる術=すべ」です。演奏家が自分のできないことを見つけ、出来るようにするプロセスを「入力→処理→出力」という3段階で考えて、冷静に観察することが上達への「ガイド」になると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「予習と復習」

 映像はアンドレギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。次回リサイタルではヴィオラで演奏する予定ですが、今回敢えてヴァイオリンで演奏してみました。
 さて今回のテーマは、予習と復習。「学校か!」と突っ込まれそう(笑)
プロでもアマチュアでも「練習」する時に、自分がなにを?練習しているのかをあまり考えずに「ただ練習している」ことがあります。練習の中身をカテゴライズ=分類することも、効率的に練習することに役立つかも…とテーマにしました。

 初めて演奏する曲を練習する時、あなたは何から始めますか?
その人の楽譜を音にする技術「読譜力」によって大きな違いがあります。
すぐに楽譜を音に出来る人なら、手元に楽器がなくても、楽譜を見て「曲」が頭に浮かびます。
それが出来ない多くの生徒さんの場合、まず「音源」を聴くことからスタートするのではないでしょうか?私は、初めからヴァイオリンを使って「音」にすることはお勧めしません。ヴァイオリンで音の高さを探しながら、リズムを考え、指使いを考えながら演奏すれば、音が汚くなったり姿勢が崩れるのは当たり前です。さらに演奏に気を取られ、間違った高さやリズムで覚えこんでしまう危険性も高くなります。ぜひ、初めは音源を聴きながら楽譜とにらめっこ!してください。これらの練習が「予習」にあたります。
 さらに、作曲家について、作品について「ググる」事も予習です。他にどんな曲があるのか?この楽譜を他の楽器で演奏している
動画や音源はないか?などなど情報を集めることも立派な練習=予習です。

 予習はそのまま「復習」につながります。え?すぐに復習?(笑)
自分の演奏技術を再確認しながら練習することは「復習」ですよね?前に演奏した音楽を練習すること「だけ」が復習ではありません。譜読みや音源を聴く「予習」が終わったら、実際に楽器を使って音を「創る」作業に入ります。演奏の癖の確認、修正したい持ち方や弦の押さえ方の確認、なによりも「音」を出すことへの復讐が必要です。
 今までに知らない演奏方法がある場合には「予習」が必要です。自分の知っている演奏方法を確認しながらの作業です。例えば「重音の連続」だったり「フラジオレットの連続」だったり「左手のピチカート」だったり…。どうやるのかな?を学びます。
 常に予習と復習が「入り混じった練習」になりますが、曲を完全に「飲み込む=消化する」までの期間は、どうしても技術の復讐よりも予習が優先します。
 自分の身体に曲が「しみ込んで」身体が「自然に反応する」まで繰り返すうちに、次第に「復習」の要素が強くなります。つまり「思い出す」ことが増えてくるのです。

 生徒さんの多くは「自分の演奏動画・録音を聴くのが一番イヤ!無理!」と仰います(笑)気持ちはよく理解です。ただ自分の演奏を「何度も聴く・見る」つまり「復習」をしなければ、上達は望めません。何が出来ていなくて、何ができているのか。。「思っていた=できると思っていた」演奏と現実の具体的な違いはなにか?出来なかった「原因」はどこにありそうか?などの推察など、演奏からでしか得られない「復習課題」を失敗を見るのが嫌だから見ない・聴かないのでは、子供が点数の悪いテスト解答用紙を、破り捨てるのと同じことです。反省こそが最大の復習です。
 さらに自分の演奏を他人に聞いてもらう・見てもらう事も重要です。その感想が良くても悪くても、自分の「感想」と違うはずなのです。自分で気づかない「良さ」や「課題」を見つけられる貴重な機会です。
 練習がただの「運動の反復」にならないように、子供の頃の「予習と復習」を思い出して、自分の演奏技術を高めましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習・本番の「コツ」ってなに?

 発表会を明日に控え、生徒さんたちの「緊張と焦りと不安」が目に浮かびます。私も含め、楽器を演奏するひとにとって「本番」でうまく弾きたい!どんな「練習をすれば本番でうまくいくの?と言う自問自答を繰り返します。
 今回は主に「メンタル=気持ち」を考えます。「うまくひきたいなら、練習だろ!」というごもっともなご意見はありますが、まぁお読みいただければ(笑)

 「人間の潜在能力」「平常心」と言う言葉を耳にします。
人間の「脳」の働きは未だに完全には解明されていません。脳の一部分だけを使って活動している…と言うことも諸説あります。眠っている能力=潜在能力を発揮するには!という解説動画が山ほどあって、ほとんど皆さんが違う方法を説いておられることから、その方法も定かでないことも事実です。
 一方で不安や緊張、安らぎや眠りについての「脳の働き」はかなり立証されています。さらに多くのアスリートからの経験談で「メンタルトレーニング」に関する実証もされています。
 前回のブログで紹介した「仏教」や「禅」の世界で「心」を考えることも、長い歴史に裏付けられている点でとても興味があります。
 それらの「情報」と少ないながら私の経験も併せて考えて、私たちの演奏に役立てられないか?考えてみます。

 「努力=練習は一気にやらないこと」
人間の脳の集中力は90分が限界と言うことが多く言われています。疲労を我慢して続ける練習や勉強は「記憶されない」ことも実証されています。少しずつ…の繰り返しが最も効果的です。
 「運動のイメージを最小限の力で行う」
人間は「考えながら運動する」と運動速度が遅くなります。
だからといって何も考えなければ、運動はおきません(笑)
自分がこれから行う「成功した運動」をイメージし、筋肉を緩めておくことで最速の運動ができます。
 「常に成功する自己暗示をする」
これも脳科学で実証されています。ボクシングで「自分が勝つ」と思っていないひとが買ったことはないそうです。当たり前ですよね?本番だけではなく、練習の時に「自分にはできる」ことを思い続けることです。ただし休みながら!
 「緊張している自分をもう一人の自分が見る」
これは仏教の教えですが、私たちの言う平常心は仏教では「揺れない」「動かない」ことではなく、それを「受け流せる」「柔軟性」のようです。知らない人が緊張している姿を見ても自分は緊張しませんよね?自分の緊張していることを自分で冷静に見ることです。そしてそれを無理やり排除=なくそうとせずに、まず受け入れて力を抜いて穏やかに考えることです。固いコンクリートで壊れないようにするよりも、柔らかく軽いスポンジで力を「受け流す」ことです。
特に本番前や演奏中に「緊張している」ことを意識するのは、いたって当たり前の心理です。それを無くそう!減らそう!とあがけばあがくほど(笑)自分を失います。「あ…緊張してきた…そりゃそうだ…でもできるから大丈夫」という自分との会話と暗示をしてみましょう。

 最後は自分が今できる演奏を、自分自身で認めることです。
出来ていないことを、今すぐに出来るようにすることは誰にもできません。
時間をかけて出来るようにすれば、いつか!できると考えることです。
どんなにたくさんある作業でも、少しずつやればいつか終わります。
どんな分厚い本でも、少しずつ読めば最後の1ページになります。
一度に全部を終わらせる必要もないし、かき氷のように急いで食べる必要もありません。

自分が演奏している音楽を「自分の言葉・動き・感情」にすることです。
「楽譜の通りにひこう」「まちがえないようにひこう」と思うのは、指示されて動いていることと同じです。自分の意志で次にすべきこと・ひく音を感じながら演奏数事です。
本番「だけでも」うまくひこうと思うのはやめて、「できる」イメージをもち続けて最後まで弾くことだけを考えるべきです。音楽はひく人も、聴く人も「その演奏時間」を楽しむためにあります。苦痛や焦りを感じるよりも、今、舞台で演奏できる「うれしさ」と「期待」を感じることが大切です。
 今の自分の演奏は、今の自分にしかできない!
それがすべてだと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

演奏家の「欲」を考える

 映像は仏教の「知足=ちそく」を説いた動画です。
カルト宗教ではございませんので(笑)、安心して一度ゆっくり最後までご覧ください。
・「欲」を持つことは悪い事ではなく必要なこと
・他人と比較し、他人から得られる「満足」とは違う「知足」
・自分がすでに持っているもの=自分の「足る」を「知る」ことが知足
聞いていて素直に「あ…」と気づかされるお話です。
私は仏教信仰もなく「物欲の塊」「歩く煩悩」「屁理屈ヴァイオリニスト」ですので、およそ悟りの境地に近づくこともできませんが(笑)それでも、ひとりの人間として「欲」があるのは自然なことだと思います。赤ちゃんが母乳を求めて泣くのも「本能」と言う「生きようとする欲」です。

 演奏家が持つ「べき」欲があると思います。自分の演奏技術・表現力を高めたい、もっと上手になりたいと言う「欲」のない人もレッスンに来られます。その生徒さんにも演奏技術や表現方法を伝えようとします。ただ、ご本人が自分の力を「通う評価」する人ほど、「無理」とか「できません」と言う言葉を口にされます。過大評価が良いわけではなく、まさに「自分の持っているものを知る」気持ちが大切です。自分の持っているものをさらに高めようとする「欲」がなければ「楽」かも知れません。それはそれで正しいので、お金を払ってレッスンを受ける必要はない…と言ってしまうと私は生活できません(笑)
 他人と比較して「隣の芝生」にあこがれている限り、本当の自分の演奏にはたどり着けないことは動画でも話されています。他人と「競争」するのは、単純に「意欲」を高められます。負けたくない!よく思われたい!下手だなぁと思われたくない!と言う欲望は、自分以外の「他人」を意識しているだけで、自分自身を観察していないのです。
 昨日のブログで取り上げた「コンクール」や、音楽学校の「入学試験」は、基本が「相対比較」で序列をつけることです。ある程度の「絶対条件」が含まれている部分もあります。例えば年齢の上限や居住地域などです。自分と「誰か」を「審査員」が比較し序列をつけた結果が「優勝」「入賞」だったり「合格」「不合格」です。優勝したい!合格したい!という「欲望」があることを悪いとは言えません。その過程で「他人と比較する」気持ちをゼロにすることは不可能だし、「自己評価」だけで優勝・合格を得ることは現実的には厳しいことです。それでも「自分の持っている良さを知る努力」「自分を高める努力」を大切にする指導も必要です。
得てして指導者は「そのレベルでは受からないよ」と生徒に言います。悪意はないでしょう。生徒の立場にすれば「他人より下手なんだ」と思い込みます。
生徒個人が持つ「良さ」よりも「他人と比較して足りない技術」を指摘しがちです。

 練習する時、自分の「欲」を意図的に抑えることも必要です。
その欲は「低く=できそうなこと」で「長期間」で実現する気持ちが必要です。
「え?高い欲を速く実現した方がいいでしょ?」と思いがちですが、自分に足りない技術・表現に気付いたのなら、一気にすべてを実現しようとすることを「欲張り」と言います。常に欲を持ち、短期間に出来るようになる「小さな目標=欲」を積み上げるべきです。「ローマは一日にして成らず」です(笑)
出来ない!と熱くなる時(笑)、やろうとしている=練習している内容の「量を減らす」ことと「ハードルを下げる」ことが大切な「コツ」です。熱くなったままで頑張るのは、身体に悪い(笑)

 欲を失う=意欲を無くす原因の多くは「気持ちが折れる」場合です。
折れやすい生徒さんの性格(笑)
・短気である
・好きな事へのこだわり=負けん気が強い
・なぜか?女性が圧倒的に多い
・折れやすいが、立ち直りも速い
・他人(親にも)思っていることを言葉にしない
・自分を責める
はい。上記で二つ以上「はい」と思ったあなたは、かなりの「ポッキー」(笑)です(笑)これら、すべてが「性格」ですので変える必要もなく、変えることは不可能ですから受け入れるべきです。自分を知る…と言う意味でも、それが自分なのですから、さらに足りない「何か」を探すことが大切なのです。
 今回も「屁理屈」だらけのブログを最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

どこで音楽を学ぶべきか?

 映像は1993年第61回の日本音楽コンクールヴァイオリン部門第1位の方の演奏です。今年が第91回のコンクールでした。今から30年ほど前の演奏になります。
ちなみに、今年のヴァイオリン部門本選出場者は?
(1) 栗原 壱成
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(2) 青山 暖
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(3) 若生麻理奈
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
(4) 渡邊 紗蘭
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
共演:高関健指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
 中学生、高校生も含め4名が競い合うようです。
中学生?高校生?学生コンクールじゃないですよね?(笑)
今朝、偶然ラジオで最終予選(3次予選)のダイジェストを聞きました。
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタとイザイの無伴奏。みんなすごい!
中には筑波大付属駒場高校の生徒もいました。あれ?どこかで聞いた学校の名前。私のお弟子さんで現在東大に通っている子の後輩ですね。ひょえー。
 審査員のお名前も聞き覚えのある方々。「なかむらしずか」って聴いた瞬間、高校生の頃の彼女が思い浮かび「高校生が審査員?」(笑)
 そんな日本国内のヴァイオリン事情を考えます。

 私(昭和35年1960年生まれ)よりも先輩方が日本で音楽を学ぶことは、様々な面で大変なことだったようです。1945年に戦争が終わってからの時代と、それ以前の日本ではさらに違います。クラシック音楽を学びたいと思う「人口」も違いました。国内で学ぶことのできる環境に至っては「皆無」に近い状況だったようです。私が「音楽高校」に入学したのが1976年なので、戦後31年「しか」経っていなかったと思うと…なんだかなぁ(笑)ですが、東京にある音楽大学は、現在と変わっていなかったと記憶しています。
 クラシック音楽を学ぶ人は、「音楽学校」を受験する…ものだったようです。
自分自身が「なんとなく」音楽学校を選んだ人間なので、周囲の熱心な人の考えを知らずに音楽高校に入ってしまいました。ちなみに、浩子さんは、小学校1年生の時から「桐朋学園 子供のための音楽教室」に通っていたエリート(笑)ですが、小学校1年生=7歳から音楽家を目指して学んでいた人がいた時代であることは確かです。クラシック音楽…私の場合、ヴァイオリンを習い始めた当時、小学校でヴァイオリンを習っている子供は、学年に一人いれば多かった…時代です。時は「高度成長期」でした。家庭に「ピアノ」があるとお金持ちの証(笑)カラーテレビと同じステイタスだったかも知れません。

 さて、現在の日本でクラシック音楽を学ぼうと思う人が、音楽学校に入学することの「意義」「価値」が昔と同じなのでしょうか?これは以前のブログでも書いたことですが、なによりも本人の意思が一番大切なのは間違いありません。昔も今も変わらないことです。そのうえで、音楽高校、音楽大学を受験し入学金と授業料を払い「学ぶ」ことが、必ずしも賢い…言い方を変えれば必須条件ではない時代であることも以前のブログで書きました。
 演奏レベルの高さと、学ぶ環境を考えるひとつの「目安」として、日本音楽コンクールを考えることができます。今年の本選出場者に限って考えるのは「狭い」考えですが、低年齢化と音楽学校「以外」で学ぶ人が入賞している現実は間違いありません。若い…中学生や高校生が音楽大学卒業生と対等、あるいはそれ以上の演奏技術を有しています。当然「個人差」があるのは今も昔も変わりません。それでも確かに「音大以外」で学んでいる人の演奏技術が年々高くなっていることは明らかです。その昔、千住真理子さんが音大ではなく、慶應義塾大学で学んだ事がニュースになりました。今は?「かてぃん」こと角野隼人さんが東大を卒業しショパンコンクールで注目されましたが、いまや世界的にも珍しい事ではありません。五嶋龍さんにしてもいわゆる「音大」で学んではいません。

 音楽学校「以外」で演奏技術を学ぶことを考えます。
音楽高校、音楽大学に入学したい人の多くは、その学校で教えている「先生」に弟子入りするのが一般的なことでした。現在もそうなのか?正確にはわかりません。その学校で実際に教えている先生なら、入学試験を受ける他の受験生のレベルを知ることができます。合格できる「レベル」を知っています。そのレベルを知っているからこそ、習う側は自分の技術を入試前に知ることができました。
 音楽学校で教えていない「演奏家」が増えているのも事実です。さらに言えば、演奏家が母校=出身校で教えず、他校で教えているケースが顕著です。
 音楽高校、音楽大学で「しか」学べないことも以前書きました。他の生徒・学生との交流や刺激が得られます。多くの知識を効率的に「学ぶ気があれば」学べます。学ぶ気がなくても卒業できる音大が増えているのは…如何なものかと思いますが。言ってみれば音楽学校の「特典」ですね。
 ただ、音大で教えている先生が、学外で弟子を持つことは可能です。つまり、習う側が音楽学校に入らなくても、師匠が指導してくれる環境があれば、音楽学校に行って得られる「特典」がなくても構わないと言う考え方もできます。あくまでも、音大・音高の先生が「学外で教えれば」と言う話です。
 公立中学に通う中学生が日本音楽コンクール本選に進んでいる現実の陰に、この生徒=若い演奏家を育ている「指導者」が必ずいるという事実があります。その指導者が誰なのか?よりも気になるのが、この若い演奏家を今後さらに、どんな指導方針で育てたいのか?そして、この若い演奏家が数年後、どんな「環境」で音楽を学んでいるのか?が気になりませんか?

 音楽を学ぶ環境が多様化しています。音楽学校でなくても、専門技術を学べる時代です。さらに国外の指導者に弟子入りするための「費用」を考えても、日本の音大で学ぶための費用と比較される時代です。現実には「言語」を学ぶ必要なありますが生活費と授業料は、国と学校によって大きな差があります。
 プロの演奏家として認知される「実力」を得ることは、環境に関係なく必須要件です。肩書…●●音大卒業は既に「肩書」にすらならないことは以前にも書きました。演奏者個人の「技術」「能力」「人間性」が問われる時代です。
さらにその傾向は進むと思います。コンクールで優勝…という肩書も近い将来、形骸化されると思います。毎年のように生まれる「一等賞」演奏家よりも、個性的な演奏家が求められる時代だと思います。
 みんな「うまい」「すごい」技術の現代、それだけ?では生き残れないとも言えます。専門家=審査員にしか判別できない技術の違い」は、一般の人に理解できませんし必要もありません。むしろ「人として」魅力のある人の演奏が好まれる時代かもしれません。実力があっての話です←くどい(笑)

 演奏家として必要なのが「技術」だけではないと確信しています。
技術は自分の音楽を表現するための「表面的」なものです。音楽「だけ」を耳で聴くひとにとって、演奏者がどんな人だろうと関心は無いかもしれません。
仮にその人が「殺人犯」だったとしても「お笑い芸人」だったとしても、小学生だったとしても、演奏が好きなら演奏している人が誰だろうと「どうでもいい」かも知れません。その意味では「演奏家は技術がすべて」だと言えます。
 演奏家…プロのヴァイオリニストが世界中に何百人、何千人と存在する現代で「うまい」と言われるだけで満足するのか?それともさらに違う「評価」を得たりの科?で学ぶことが違います。すぐに「お金」を得たいと思うなら、技術だけを磨きコンクールで優勝することです。おそらく数年は演奏の仕事がもらえます。その後は?どうでも良いかもしれません(笑)
 演奏家としての技術…以外の事を学び体験することを若い人に期待しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

同期=シンクロと独立=分離

 映像は日本人ドラマーの「むらた たむ」さん」1992年生まれ、15歳からドラムを演奏し始めたそうです。
 いつも感じるのは、ドラムを演奏する人が「両手両足」をすべて同時に使いながら、それぞれの手足が時に「同期=シンクロ」したり、全く違う動き「独立ー=分離」したりできる能力です。しかも、その運動の速さが半端ない(笑)
マニュアルシフトの自動車を運転する時、両手両足がそれぞれに違う「役割」をして違う動きを「連携」させることはできますが、この速さ…同じ人間に思えない。

 さて凡人の私がヴァイオリンを演奏している時に、右手と左手を使います。
少なくとも足を使わなくても演奏できることは、イツァーク=パールマン大先生が実証してくださっています。たかが!二本の手!それも自分の手なのに、思うように動かせないジレンマってありませんか?わたしだけ…?
 ヴァイオリン初心者の方に多く見られる現象を列挙します。
・右手=弓と左手=指が合わない。
・移弦とダウン・アップが合わない。
・短い音がかすれる。
・重音が途中で単音になる。
・単音のはずが隣の弦の音が出てしまう。
・スピッカートをすると指と弓が合わない。
きっとどれか一つや二つや三つ(笑)思い当たるのでは。
今回は、ヴァイオリン演奏で右手と左手を、どうすれば同期できるのか?どうすれば独立できるのか?について考えます。

 推論になりますが「音」に集中することが唯一の解決方法だと思います。

具体的に説明します。そもそも、左手は「音の高さを変える」役割がほとんどです。左手指のピチカートを使うのは特殊な場合です。ヴィブラートも音の高さを連続的に変えているだけです。弦の押さえ方が弱すぎると、弓で演奏した場合、音が裏返って「かすれた音」が出るので「音色」にも影響しますが、役割の大部分は「高さの変化」です。
 一方で右手は「音を出す」役割がほとんどです。弾く弦によって「高さ」が違い、駒に近過ぎる場所を弾けば音が裏返って高い音が出ますが、役割としては「音を出す」のが右手です。

 ヴァイオリンの練習で、右手だけの練習をすることが基本の練習です。
一方で左手だけの練習は?押さえただけでも小さな音は出ますが、正確なピッチやヴィブラートなど「弓で音を出す」か「右手で弦をはじく=ピチカート」で音を出して練習することがほとんどです。つまり、左手の練習をするためには、右手も使うことになるのです。このことが、いつの間にか「右手より左手が難しい」と勘違いする原因であり、右手と左手が「ずれる」原因でもあります。
 ピアノの場合、左右10本の指が「音」を出す役割であり、発音は「指」が鍵盤に触れていることが前提です。その点でヴァイオリンの左手の役割とは明らかに違います。

 「音」を優先して考えることが同期と独立をさせることが可能になる…その説明を書きます。
 楽器を演奏すると「音」が出ます。当たり前ですが(笑)ひとつひとつの「音」は、「準備」してから発音に至ります。これも当たり前ですよね。
曲の一番最初の音であれ、スラーの途中の音であれ、新しく「音」を演奏する前に必ず準備をします。
・右手=弓で演奏する「弦」を選ぶ。
・ダウン・アップを考える。
・左手でどの弦のどこを、何の指で押さえるか準備する。
上記の順序は時々で変わります。ただこの三つを意識しなければ「無意識」で演奏することになります。無意識の「落とし穴」として、
・違う弦をひいてしまう
・ダウンとアップを間違える
・指を間違えたりピッチがはずれる
ことになります。つまり、一音ずつ準備していれば「事故」は最小限に防げるのです。それでは、運動を「同期」させたり「意図的に独立=分離」するには?
・準備する「順序」をゆっくりとスローモーションにして考える
・実際に演奏したい「速さ」にしていきながら、さらに順序を考える。
・準備した結果、発音する「音」に注目する
つまり、左手・右手のそれぞれの運動を「個別に順序だてる」練習から始め、それを連続し速度を速めながら、発音した「音」の高さ・音色・タイミング=時間・大きさを確認していくことです。ゴールは常に「音」です。
短い時間=速く連続して音を出す時に、一音ずつ準備を意識することが「できなくなる速さ」が必ずあります。ゆっくり演奏する時に「一音ずつ準備」して出せた「音」と、準備できない速さになったときの「音」が同じであれば「無意識に準備」出来ていたことになります。音が連続することは、準備が連続することなのです。その準備をスムーズに行うために必要なのが右手と左手の「同期と独立」です。

・無駄な力を抜くこと。
・連続した運動=準備をパッケージとしてイメージすること。
・ひとつの運動=片手やダウンアップや移弦など…にだけ注目しないこと。
・常に自分の身体の「静止」と「運動」を確認すること。
これが、同期させたり独立させたりするための「コツ」だと思っています。
冒頭のドラマーの動きを見ると、上の三つを感じられると思います。
スポーツや格闘技でも同じ事が言われています。自分の身体のすべての筋肉をコントロールするためには、「結果」を意識するしかないと思います。楽器の演奏なら「音」です。格闘技なら相手を倒す「技」「伝わる力の強さ」です。自然体=楽な状態で、音を確認しながら、左右の手を自由に動かす練習…時間がかかりますが、必ず出来るようになります!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

文字を音読するように楽譜を音にする

 映像はファリャ作曲の「スペイン舞曲」をデュオリサイタルで演奏したときのものです。テンポの速い曲を演奏する際、違う言い方をすれば「速く演奏しようとする場合にうまく演奏できない!という生徒さんがたくさんおられます。
 今回の例えは、文字=文章を声に出して読むことと、楽譜を音にすることを比較して考えてみます。それが「速く弾く」ことの一助になればと思います。

 原稿を覚えてから声にすることができる場合と、原稿を読みながら話をする場合があります。前者は例えば役者さんの「せりふ」です。後者の例えは、臨時ニュースの原稿を読むアナウンサーや、披露宴でスピーチする時に忘れたり間違ったりしないように「原稿」を読む場合などです。
 覚えている言葉を、思い出しながら声にする時でも、原稿をその場で読んで声にするときでも「次に話す文や単語」を考えながら、声にしているまずです。
つまり「声にしている文字」と「読んでいる(思い出している)文字」の関係は、常に「時間差」があることになります。しかも、読んだり思い出しているのは「文字」ではなく意味のある「単語」やもう少し長い「文」のはずなのです。
一文字ずつ目で見ながら声にするのは、文字を覚えたての幼児です。

 私たちが楽譜を見て演奏したり、覚えた音楽を思い出しながら演奏する時に話を変えます。初めて見る楽譜を音にすることを「初見演奏」と言います。この能力がないとプロの演奏家として認められないのがクラシック音楽業界です。ジャズやポピュラー音楽の場合には楽譜が読めない「プロ」がいても珍しくありません。初見で演奏する練習は、ソルフェージュの練習が最も効果的です。
ソルフェージュ能力がなければ初見演奏は不可能です。
「先を読みながら演奏する」そして「止まらないで正確に読む」ことが初見の能力です。美しい声や音で演奏することよりも、まず「正確に止まらずに」演奏することを優先します。この能力は、プロのアナウンサーにも求められます。楽譜ではなく「原稿」ですが(笑)
 どれだけ先を読めるか?当然のことですが、先を読むと言うことは「記憶する」ことです。つまり短時間、多くの場合数秒から10秒程度の時間に、どれだけの楽譜=文字を頭に記憶していられるか?と言う能力です。長時間の記憶とは「脳」の使われる場所が違います。その短時間の記憶を「思い出して声=音にしながら」さらに「次の楽譜・原稿を記憶する」ことを同時に行っています。
 「できるわけがない!」と思いがちですが、日本語の文書を音読している時に、私たちが無意識に行っていることです。

 これはある情報ですが、字幕は、1秒4文字、1行16文字で2行まで。つまり1枚の字幕に収める字数は最大32文字だそうです。字幕映画や、動画の説明テロップで文字が読み切れないことって経験、ありますよね?1秒間に4文字より早く読む技術を「速読」と言います。。速読力(1万字/分以上)だそうです。え?10,000文字÷60秒=約166.667文字!一秒間に166文字読めるのが速読…特殊なトレーニングで得られる能力だそうです。通常が4文字だとそれば、40倍の文字数を呼んでいることになります。
 楽譜を見ながら演奏している時、音符の数を数えながら演奏する人はいません(笑)あなたは「どのくらい」先を読めますか?

 ピアニストの浩子さんに聞きました(笑)
「和音を見る時、漢字を読むのと同じように見ている」
つまり、重なって書かれている和音を「一つの塊」として認識しているという意味です。それができない私がピアノで和音をひこうとすると…低い音から順番に「ド…ソ…ド…ミ・ソ」(笑)この違いを「漢字」に例えると理解できます。
とは言え、和音が連続している楽譜の初見と、単音の初見では読み込める速さには多少の差はあるようです。実際、1小節くらい先を読んでいる…あまりどこまで読んでいるかの指揮はないのですが、速い曲の場合には当然「どんどん読む」ことが必要っです。
 整地すると次のようになります。
・一度=短時間に読み込める音符を増やす
・記憶できる容量=音符の数・時間を増やす
ことが重要です。その「コツ」は?
・楽譜を「かたまり」として読み込む
・予測できる音を増やす=音階(順次進行)やアルペジオなど
・臨時記号やリズムを記憶する
そして、楽譜特有の「壁」もあります。
・どの弦のどの指で弾くのかを瞬間的に判断する能力
・スラーやスタッカートを読み込めるか?
これらば「正確に弾く」に加えた情報です。文字で言うなら漢字の「読み方」を前後関係の意味を考えて「声」にする能力です。「一期一会」を「いっきいっかい」とアナウンサーが読め放送事故ですよね?(笑)

 最後に「処理速度」の話です。
私たちは、楽譜を見ながら演奏する時も、覚えたものを思い出しながら演奏する時も、常に「次に演奏する音たち」を予め考え準備する「処理」をする必要があります。音の高さ=音名だけではなく、音量や音色、弓を使う場所やダウン・アップ、使う弦と指、ビブラートなどの「情報」も同時に処理しなければなりません。「音読」に置き換えれば、アクセントや言葉の切れ目、漢字の読み方などに似ています。それらの情報を処理する時、一度にどれだけの音符=時間を予め処理できるか?が、「速く演奏する」ための必須要件になります。
 速く演奏することは「処理の速度と量を増やす」ことです。一音ずつ処理できる速度には限界があります。
 例えば、16分音符が4つずつ、4つのかたまりで書かれている曲の場合です。
・一つずつ音符を読みながら=思い出して演奏するのが一番「遅い」
・4つの音符を一度に処理できれば、速い
・かたまりを一度に2つ、あるいはそれ以上処理できればもっと速く演奏できる
演奏しながら、どこまで?先を思出せるか…にかかっています。
F1のパイロット=ドライバーは、時速300キロで走行しながら、次にいつ?どんな?カーブがあるのかを、事前に知っているから走れるのです。彼らはコースを「暗譜」しています。イメージだけでコースを走れます。眼をつむっていても、頭の中でコースを走れます。ただ、同時に走る車の動きや、雨などでイメージ通りにいかない「変化」に対応することが「処理」なのです。運動神経や動体視力が優れているのは「当然」のことだそうです。記憶力と処理速度が求められます。
 先を読みながら、今演奏している音に集中する「マルチタスク=同時並行処理」が必要なのです。だからこそ、私たちは演奏中の集中力が必要なのです。ひとつの事だけを考えることではありません。「無意識」に運動できる能力=予め思い出した内容の処理と、次に演奏する楽譜を処理する「意識」を両立させることです。
 意識と無意識の「使い分け」でもあります。頭を空っぽにして演奏できるようになるまで、意識しながら演奏することを繰り返す…それしかありません。それでも、アクシデントはあるものです。間違うのが人間です。間違えた時にでも対応できる「フェールセーフ・多重安全性」があれば、大丈夫です!
 移管をかけて、頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

知る・知らない・できる・できない

 映像は、ムターさんの演奏するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。
私も含め多くのヴァイオリンを「もっとじょうずにひきたい」と思う人にとって、じょうずな人の演奏に近づくことは、道順もわからずただ漠然とした「目的地」に向かって歩くことに似ています。どんな上手な人も、みんな違う道順で現在の「到達地点」にいるはずです。道順を真似しても同じ場所に着かないのが演奏です。でも、迷える私には「道順」だけでも知りたいと感じます。
 今回のテーマは、知識=考えることで「知る」ことと、身体と知識を使って「できる」ことにつていお案が得るものです。

 知っていることとできることの関係について、考えてみます。
演奏以外で例えると例えば「料理」もその一つです。レシピを見て材料を買って調理する…簡単そうですが、レシピがおおざっぱだと、出来上がるものに大きな差が出来ます。材料の選び方を「知る」ことができるか?調味料の種類や量を「知る」こと、調理途中の確認の仕方を「知る」、火をとめるタイミングを「知る」ことが出来なければ、レシピの意味はありません。
 違う例えで「ゲーム」を考えます。カードゲームや囲碁、将棋、テレビゲームなど多くのゲームがあります。それぞれに「必勝法」や「負けにくい方法」があります。それらを「知る」ことで強くなることが可能です。知らなければ、知っている人にいつも負けます。
 楽器の演奏に話を戻します。自分よりじょうずな人の演奏を「知る」ことと、自分の演奏との違いを「知る」ことから始まります。
 自分の演奏にすでに満足している人なら、自分以外の演奏を知る必要もありません。新しい曲を知る必要もありません。それが悪いとは思いません。
 一方で、自分以外の演奏をたくさん聴き、好きな演奏、あこがれる演奏、ひいてみたい曲を探す「楽しみ」を持つ人がいます。私もその一人です。
 あこがれる演奏を知ったからすぐにできる…と言うものではありません。当たり前です(笑)
どうやったら?あこがれる演奏が出来るようになるのかを「知る」ことが始まります。その方法こそが先述の「道順」です。つまり、道順が全員違い「この方法=道順で出来る」という正解がありません。それでも「知りたい」のです。
 まず自分の演奏の欠点を「知る」ことです。自分の演奏=音と音楽を客観的に「聴くこと」ができなければ始まりません。まずは音を聴くことです。
 音のほとんどは、自分の「技術」で作られた結果です。楽器に問題がある場合もありえます。その雑音の原因を「知る」ことも必要な知識です。弦がさびている場合、はじいた時に濁った音が出ます。E線などのアジャスターが緩んでいる場合の「雑音」、顎当てとテールピースが当たって起こる「雑音」、駒が低く指板が高すぎて弦と指板が当たって起こる「雑音」、自分の洋服のボタンが裏板にあたって起こる「雑音」などなど。雑音の原因を知ることも大切ですね。
 自分の演奏する音をどうすれば客観的に聴くことができるでしょうか?
一番手近な方法が「録音」して聴き直すことです。「録音した音は音色が変わる」のは事実ですが、ひいていて気付かない「癖」や「雑音」を、演奏した後で何度でも確かめられる「録音」は上達のために欠かせない手段だと言えます。

 できる…と言う感覚について考えます。知ることと比べ、出来ているか否かの判断はとても難しい点があります。自分の「基準」と「妥協」の問題です。
理想=憧れの演奏と自分の演奏を比較して、100パーセント完全に同じに「できる」…人はきっと誰もいません(笑)それが現実です。近づくことさえ難しいのです。だからと言って「無理」の一言で諦めるのも寂しいですよね?
 自分の演奏が少しでも良くなったと感じることを「出来るようになってきた」と認めることも上達のために必要だと思います。
 できないことを知る→それを、出来るようにする方法を知る→練習し少しでもできるようになる→まだ出来ていないことと新しくできなくなっていることがないかを知る→練習する
 常に「知る」ことと「出来るようにする」ことの繰り返しです。
その途中で陥りやすい「落とし穴」もあります。無意識に「引き算」をしてしまうことです。何かを出来るようにしようとすればするほど、その他のことへの集中力が下がります。
 具体的な例で言えば、ある音をうまく演奏「できない」から練習している時、その音に至るまでの「音」が汚くなっていたり、ピッチがくるっていることに「気付かない」状態です。また、できない内容が「ピッチ」の場合、音色や音量への集中力が「引き算」されている場合もあります。練習は常に「足し算」であるべきです。ひとつのことを練習している時に、その他のことを「犠牲」にしないことです。それを「妥協」とは言いません。妥協が必要なのは「練習内容のバランス」を考える時です。曲全体を止まらずに演奏するための「練習」と、少しでも疑問を感じた時に止まって確認する「練習」は区別しバランスを考える必要があります。それぞれに「妥協」が必要になります。特に止まらない練習では、疑問を感じても次の音に集中するため、どこで失敗したのか?覚えていられないことがほとんどですから、録音して確認することが有意義になります。止まって確認する練習には「時間をかけすぎる」場合が多く、結果的に曲全体の練習にならない危険性もあります。

 最後に「知らないことは出来ない」事を書きます。
言い換えれば、出来るようになるためには、知ることが不可欠だという事です。
 知ることを「知識」、できることを「運動」と置き換えてみます。
知識と運動を「比例するもの」として考えることが大切です。
頭でっかち…は知識ばかりのひとを言います。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…は運動だけで偶然うまく出来るのを待つ人です。
ふたつが比例していることが何よりも大切なことです。
成功することをただ祈っても無駄です。考えているだけでは出来るようになりません。自分の練習が、知識・運動のどちらかに偏っていないか?確認しながら練習するために、誰かに自分の練習をみてもらうのも良い練習方法です。ただ、練習は見られたくないのが人間です(笑)子供でもそれは同じです。親が「良かれと思って」練習中のこどもに声をかけても「わかってるよ!うるさいなー!」と言われるのは(笑)子供なりに「みられたくない」と言う気持ちがあるからです。それを理解した上で子供と接することが大切です。
 大人になればなるほど、練習に行き詰るものです。その時にアドヴァイスをくれる人こそが「師匠」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学ぶためのお金と生きるためのお金

 今回のテーマは「お金」と言う俗っぽい(笑)お話なので、せめて夢を感じられる映像を…と、アザラシヴィリのノクターンを選びました。
 私を含めた「音楽家」と言われる職業で生活している立場から、現代社会で必要になる「お金」について考えてみます。

 音楽家になりたい…と言う希望を持つ人に、あなたならどんな言葉をかけるでしょうか?
「頑張ってね!」「応援してるよ!」「素敵な夢だね!」と言う励ましの言葉でしょうか?それとも…
「やめときなよ、生活するの大変だよ」「もっと安定した仕事を選んだら?」と苦言ともとれる言葉をかけますか?
どちらの場合にしても、音楽家と言う職業について自分が知っている範囲でしか考えられないはずです。実際に自分が音楽家として生活している人の場合と音楽家以外の職業で生活している人が、親しい人の中に音楽家がいない場合では、真実味が違いますね。さらに言えば、どんなに統計データを集めてみても、実際に音楽家として生きている人の実感は理解できません。収入の平均金額を見ただけでは、その職業についている人の「充実感」まではわかりません。知らない・わからないのに「やめておいたら」と言う言葉はアドヴァイスになるでしょうか?心配する優しさは大切ですが、思い込みで他人の生き方の「基準」を創っているとしたら?良いことだとは思えません。

 現実的に音楽を学ぶために必要な「お金」の話をします。
当然のことですが、時代や国によって大きな違いがあります。前提となる「音楽家」の定義さえ人によって差があります。今、日本でヴァイオリンを学ぶ人の話として書いていきます。
 学ぶための楽器に係るお金に、下限も上限も平均もありません。
どんな楽器であっても、学ぶことはできます。楽器ごとの個性、ポテンシャルは値段と比例していません。極論すれば、1万円の楽器でも10億円の楽器でも学べることに差はありません。本人の意思が問題です。
 レッスンに通って技術を学ぶためのお金は、教える側の「言い値」です。決して「いいね!」ではありませんが(笑)それが現実です。交渉して決まることはありません。習う側が支払える金額と、教えてもらえる内容で選ぶしかありません。1レッスンが仮に60分だとして単価が5,000円の場合も30,000円の場合もあります。これも金額と内容が比例しているとは限りません。もっとも難しい選択になります。
 最も安いケースで考えて、一回60分のレッスンを月に4回程度受け、20,000円のお金が必要になります。1年間で24万円かかることになります。このっ金額でレッスンを受けられるケースは非常に少ないですが。
 ヴァイオリン以外にピアノや聴音、ソルフェージュ、楽典などの基礎技術を学ぶ方法として「独学」もありますが、現実的にはレッスンを受けるのが一般的です。月に1回だとしても、年間で60,000円はかかります。
 ヴァイオリンの弦を張替えたり、弓の毛を張り替える頻度は人によりますが、仮に毎日2時間程度練習するなら、半年に一度は張替えが必要だと思います。一般的なドミナントの弦をセットで張り替えて2セットで約10,000円ほど。弓の毛替えは一回6,000円ほどなので12,000円。それ以外に問題があれば費用がかさみます。
 何年かけて「音楽家」になれるのでしょうか?これが最大の問題であり、必要なお金が一番大きく変わる部分です。

 音楽高校や音楽大学に通ううことで、音楽家になれるとは限りません。
ただ音楽家になるための「時間」を効率化する意味はあります。
ヴァイオリンの実技レッスン、友人や先輩たちとのアンサンブルやオーケストラ、ピアノ副科、音楽理論や聴音・ソルフェージュなど多くのことを効率的に学べますが、問題は入学金と授業料です。
 国公立音楽大学にめでたく入学できた場合、入学金は30~50万円ほど。
私立音楽大学の場合は、150~250万円ほどの入学金が必要です。
授業料は、国公立で年間約90万円ほど。それ以外にも様々な名目でお金がかかります。
私立音大の授業料年額は、およそ3倍の200~250万円必要になります。
4年間在学したら、単純に4倍の授業料が必要です。
国公立の場合特に問題視されているのが、「個人レッスン」と名を付けて受領料以外にレッスン代金を取る先生が現実にいることです。私立の場合にはあまり耳にしませんが、いない!とは断言できません。その昔は、東京芸大に通う学生が、年間に支払う「レッスン代」が桐朋の授業料より高くなる!という悲鳴をい実際に聴きました。今はどうだか?知りませんが(笑)
 不届きな先生は別にしても、卒業するまでに国公立音大で、最低でも350~400万円はかかります。私立の場合には、入学金も含めれば、ゆうに1千万円を超えるお金が必要になります。「学費免除の特待生」になれるのは、何年かにひとり…と言うのが現実です。多くの学生が「借金」になる奨学金で通います。借金ですから当然、卒業後に全額返済する義務が本人にあります。稼げます?返せると思います?(笑)

 これらのお金を支払っても、音楽家になれないとしたら=実際になんの保証もありません。音楽大学を選びますか?4年間でかかる1千万円以上のお金があれば、プライベートレッスンに毎週通い、短期で留学したり、好きな楽器を購入できる金額です。4年間という「縛り」もありません。言い換えれば、4年制音楽大学の学部で4年間、学んで身に着けられる技術や知識、能力に1千万円の価値があるか?という疑問です。4年間、同じ内容の授業で学んでも、人によって身に着けられる技術が違うのも事実です。一人一人に適した学び方を選択できるほど、大学には自由度はありません。大学で教えてもらっていた実技の先生が、在学中に、定年前でも退職することも珍しい事ではありません。他大学の教員になるケースも当たり前にあります。違う先生に習えば単位は修得でき卒業できますが、学生にしてみれば納得できるものではありません。先述の通り、実技レッスンだけが音大で受けられる教育ではありませんが、主たる目的は「実技」を習うことのはずです。

 ここからは「生きるためのお金」について。
音楽家として生きていくために、収入となる仕事の内容は?
・演奏をして得られる演奏料金
・レッスンをして得られる指導料金
これ以外に音楽・演奏による収入はありません。
 演奏を依頼してもらうことは、簡単なことではありません。
どんな広告を出せばよいのか?いくらかかるのか?費用対効果は?
何よりも「どんな経歴=肩書がるか?」を第一に問われます。
●●音楽大学卒業…で演奏の仕事をもらえる時代は終わりました。
かと言って、音大を卒業していない人の場合には「●●コンクールで▲▲入賞」などの経歴を求められます。いくらプロフィールを書き連ねても、演奏を依頼する側はいろいろな候補者を比較して、より信頼できる人に演奏を依頼します。
 仮に個人的な交友のある知人から依頼される仕事があったとしても、単発の仕事では生活できません。毎週、友人が結婚式を挙げてくれるなら別ですが(笑)
 教える=レッスンをする仕事の場合、以前書いた通り「教室に雇用される」場合と自宅で生徒を集める場合があります。当然、後者の方が歩合・手取りは多くなりますが、生徒を集められなければ一円にもなりません。大手の音楽教室で雇われて、週に二日、5人教えたとしても手取りは月に3~4万円程度です。実家であれば暮らせますが…食費にもなりません。自宅で生徒を集めるための「宣伝」にいくらお金をかけても、簡単に生徒が集まるわけではありません。現実問題として、一人で生活できる金額を、レッスンだけで得られる人は極わずかです。多くの「音楽家」がアルバイトをしながら音楽家をしているのが現状なのです。

 学ぶためにかかったお金と、音楽家として得られるお金の「差」が大きすぎますね。どんな大学の学部で学ぶにしても「お金」はかかります。卒業後、学んだことを活かして生活する人は、大学卒業生の極一部です。大多数の卒業生は、学んだ事と無関係な職業で収入を得て生計を立てています。つまり「大学で学んだ事は生活とは関係ない」人がほとんだという事です。それが日本の社会全体で当たり前なのです。はっきり言ってしまえば、大学がなくても=大学にいかなくても、日本の企業は困らないのです。大学を卒業しなくても就職できます。中学を卒業してすぐに就職することが、実は一番コスパが良いことをマスコミが言わないのは「学歴」を否定されたくないという考えの人がマスコミの上層部に多いからです。中小企業で働く人口が8割の日本で、人手不足が深刻な2022年現在、大学で意味のない時間を過ごした22歳より、やる気のある15歳を雇い、手に職を付けてもらう事の方が、はるかに日本経済を立て直せることは間違いのないことです。「せめて高校」だった時代から「せめて大学」の時代になり、今は?「誰でも大学に行ける」時代です。大学卒業の「価値」はすでに1ミリもありません。
それなのに塾に通い高い授業料を払い「そこそこの高校」に合格し、「誰でも入れる大学」に入学し、「なにも学ばずに卒業」して「それまでと無関係の仕事」をする日本人。私には理解できませんが、それが「標準」なのだとしたら、音楽家は違います。学んで努力したひとだけが「お金」を得られます。それが嫌なら、音楽家を夢見るよりも、就職を考えるべきです。お金をたくさん稼いで、音楽を「趣味」にする方が、ず~っと楽しいのです。
音楽家と言う「肩書」にあこがれるより、音楽を演奏する楽しさを優先したいのなら、音楽大学に1千万円払わず、出来るだけ早く社会位に出て働き、お金を貯めながら好きな楽器を演奏することをお勧めします。
 現実的な話で申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

運動を正確に再現する技術

https://youtube.com/watch?v=UJB3Hmu_Tas

 思ったように演奏できない!
間違えずに=正確に 思った速さで 思った大きさで 思った音色で
自分の身体を使って、使い慣れた楽器なのに、思ったように演奏できないと感じることは、楽器を演奏したことのある人ならきっと全員が感じたことのある「ストレス」です。
 自分が出来ないことを他の人が「できている」演奏を聴いたこともありますよね?誰もできないことなら諦めもつきます(笑)出来ている人は「簡単そうに」演奏していることも珍しくありません。その人が「すごい人」だからできる…と言うのも間違ってはいません。では「できない自分」は?なにが「できる人」と違うのでしょう?指の数?(笑)
思いつく「言い訳」を書き並べてみます。
・自分に才能がない
・手が小さい=指が短い
・楽器を練習し始めた時期が遅い
・親に音楽の才能がなかった
・楽器が悪い=良い楽器を買えない
・練習する時間が足りない
・先生の教え方が悪い
・うまい人は特殊な人間、もしくは神
 他にも色々思いつきます。すべてが「言い訳」ですが(笑)
実際に上記のいくつかに当てはまる場合も十分に考えられますが、「できる人」でも同様に当てはまっているかもしれません。知らないだけです。
 できない理由…できる人がいるのに自分にできない理由が必ずあります。
すべての「できない」に言えることではなくても、原因はいくつかに絞られます。

 ここでは「運動」に限った話をします。音楽的な表現能力や、独特な解釈など運動能力とは違う「できる・できない」話は時を改めて。
 スポーツに例えて考えてみます。
・同じ体格の人でも、100メートルを走る時間が違います。
・バスケットボールでフリースロー成功率の高い人と低い人がいます。
・野球のバッターで打率が3割を超える人と2割台の人がいます。
・ボクシングで強い人と弱い人がいます。
当たり前ですが、人それぞれに骨格も筋力も違います。育った環境も違います。
昔と今ではトレーニング方法も変わっています。同じ「人間」の運動能力の違いこそが、演奏の技術の違いに現れます。楽器を演奏する時の運動を制御=コントロールする能力を高める練習は「質と量」によって結果が大きく違います。
 スポーツの場合、練習の結果が数値化できる教具種目と、対戦する相手との「相対比較」で結果が出る種目があります。演奏の場合には、音量と音色を正確にコントロールできているか?という「自分の中での比較」と他人の演奏技術との「違い」の両面を考える必要があります。
 自分の練習方法に対して見直すことを忘れがちです。出来ないと思えば思うほど、冷静さを失いがちです。出来るようになるまでの「回数=時間」は、一回ごとの「質」で決まります。ただやみくもに運動だけを「意地」になって繰り返すのは能率が良くありません。
 ある小節で思ったように演奏できない「確率」が高い場合=正確さに欠ける場合、原因を考えることが先決です。それが「力の加減」だったり「手や指の形」だったり、「無意識の運動=癖」だったりします。「これかな?」と試しても成功する確率が劇的に増える=改善するとは限りません。
 一曲を演奏する間、あるいは一回のコンサートで演奏するすべての曲の中で「傷」になりそうな場所が複数か所、あるのが普通です。それら以外にも普段は何気なく演奏できる箇所で、思いがけない「傷」になることもあり得ます。
 そうしたアクシデントの確立を減らすためにも、演奏中に使う自分の身体を観察する練習が重要です。運動と演奏は「意思」によって関連づきます。無意識の運動は、常に不安定要素を伴い音楽も不安定になります。「行き当たりばったり」の連続は再現性がありません。偶然、傷が目立たなかったとしても演奏者自身の納得できる演奏ではないはずです。
 記録や勝敗を「競う」スポーツと違う音楽は、自分の納得できる演奏を目指し練習し、より安定した演奏を楽しむものです。自分自身との自問自答を繰り返し、焦らず客観的に完成度を高めていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「A」である前に、ひとりの「B人」として。

 今回のテーマ、どこかの学習塾の問題っぽい(笑)ですが、
Aに当てはまる言葉、Bに何も入れなくても「人」でも意味は通じます。
あなたならどんな言葉を入れますか?
・A=音楽家 B=社会・日本
・A=政治家
・A=大統領
などなど。色々考えられます。
 モラルは時代や国・地域によって違います。
たとえばヨーロッパでは昔、道路の真ん中を下水が流れていました。
日本の歴史の中でも、「仇討ち」が合法だった時代や、召集令状一枚でお国のために(謎)命を捨てることが美しいとされた悲しい時代もありました。
 2022年の日本に生きる私たち日本人が、最低限守るべき「モラル」があります。言い換えれば、許されない一線があります。
 「変わった人」と感じる人と、「変人・変質者」と感じる人の差はどこにあるでしょうか?この差こそがモラルハザードです。例えていうなら、誰にも迷惑をかけないコレクター=収集家は「変わった人」と言われるかもしれませんが、何も問題はありません。誰が考えても「ゴミ」にしか思えないものを拾い集めて自宅の敷地に積み上げる「ゴミや指揮」が他人に迷惑をかければ「変人」と言われても仕方ありません。
 日本の政治家で例えるなら、公務員としての責務を果たしながら自分の主義を持つ人は許されます。納税者=市民を苦しめる行動や言動は許されません。
 音楽の場合…

 「音楽家は変わった人が多い」と思われているようです(笑)
音楽家に限らず「芸術家」と呼ばれる人の中にかなりの割合で一般の人の考え方・生活スタイルと「少し」違う人もいるように感じます(笑)
ひとつの原因として、自分の好きなこと=芸術を優先している人が多いことが考えられます。経済的に貧しくても好きな事をできる「喜び」を感じる人でもあります。
 また別の要因として「●●バカ」と言われる人が多い=一般常識が欠如している人が多いのも事実かも知れません。「音楽家の常識=世間の非常識」とか。
 「音楽バカ」であっても他人に迷惑をかけない・不快な思いをさせないのであれば、何も問題はありません。ただ…残念ながら、他人への思いやりも考えられない「真正のバカ」になってしまう音楽家も中にはいるように感じます。
 自分が打ち込んできた…人生をかけてきた芸術に「誇り」を持つことは素晴らしいことですよね。ただそれは、本人だけの誇りであって他人に理解してもらえることではないことを理解できない人もいます。世間一般では「自惚れ屋・じこまん野郎」と呼ばれる人種です。周囲にいる友人も若いころなら「それ思いあがりだろ?」と釘をさしてあげますが、ある年齢を過ぎれば「放置」しますよね(笑)放置されていることに気付かないのも哀れな「裸の王様」の姿です。

 テーマにある「人として」が何よりも大切です。ひとりひとり、その考え方に差があるのは否めません。「ここまでなら許される」と感じるボーダーラインが違います。「みんなも守っていないから」と速度違反をする場合が、まさにそれです。人として「法を守る」ことについての意識には差があります。
 法には触れなくても「それって、どう?」と思う事があります。
言葉遣いと態度。これ、法律には書かれてません(笑)が、相手に不快な印象を与える「かも知れない」言葉遣いや態度を、平然としている人っていますよね?
元総理大臣にも心当たりが…。ま、それは老いて老いて←楽しい誤変換。

 音楽家の日常「あるある」
・他人との待ち合わせの約束を平気ですっぽかす奴
・他人との練習予定をキャンセルするのに見え見えの嘘をつく奴
・自分の責任にされないように巧妙に他人のせいにする奴
・相手によって言葉遣いと態度を使い分ける最低な奴
・金銭感覚の麻痺した奴
・常に自分が一番偉いと思って行動するイタイ奴
・さらってないのに人前で演奏して「ばれなきゃいい」と心でつぶやく奴
・ギャラの金額でさらう量を変える糞な奴

 え~っと。そんな音楽家にならないように気を付けましょう(笑)
少なくとも、お天道様が見ています!人の道に外れない生き方をしてこそ、「●●家」と呼ばれるに値する「人間」だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

曲が好き?音が好き?

 映像はチェリスト宮田大さんと作曲者である村松崇継さんのピアノによる「Earth」
 今回のテーマは主に「聴く側」に立って考えるものです。もちろん、演奏する立場の人にとって、最も重要なことでもあります。

 どんな曲でも、どんな演奏でも「音=サウンド」と「曲=旋律・ハーモニー・テンポ」が統合された「音楽」が作られています。
 音だけでは音楽とは言えません。音のない音楽もありません。
私は「曲」が好きな音楽と、演奏された「音」が好きな音楽が明確に異なっています。
 前者の「曲が好き」と言うひとつの例えが、以前のブログにも登場した「お気に入り」の曲たちです。

 誰の演奏?と言うよりも曲が好きなんです(笑)聴いていてゾクゾクする感じ。これらの「好きな曲」を「好きな音」で聴くことが最高の幸せでもあります。

 次に「好きな音」について。こちらは音楽のジャンルに関わらず、自分の好きな「サウンド」とも言えます。音楽以外でも例えば、浜辺で聴く波が打ち寄せる音…木立の中で聴く枝と葉がざわめく音…焚火で木がはじける音…など、自然界にも自分の好きなサウンドはあります。心が休まる「音」です。嫌な音もありますよね?黒板を爪でひっかく音…歯医者さんのあの!音…ガラス同士がこすれあう音…バイクの排気音←私は好きですが(笑)など、生理的な「好き嫌い」でもあります。
 音楽の中で使われる「音」には、様々な楽器の音と人間の歌声が含まれている場合があります。複数の違った「音」例えば人間の声とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、エレキギターやドラムと歌声の「混ざった音」にも、好きな音と嫌いな音があります。演奏の技術という一面もあります。特に、前述のように複数の音が混ざっている場合に「この音は嫌い」と言う音が含まれている場合も珍しくありません。
 わかりやすい例で言えば、歌手の歌声は好きだがバックのバンドの音が大きすぎて嫌い!とか、ヴァイオリンの独奏の音は好き!でも共演するオーケストラの中のチェロの音がうるさくて嫌い!などなど。

 好みの問題であることは当然のことです。人によって違います。
演奏する人が好きな曲を好きな音で「音楽」にしていることが、まず前提です。
思ったように演奏できなかったとしても、最大限の努力をして好きな「音」にするのが演奏者の仕事だと思います。曲を指定される場合もあります。特にプロの場合、主催する側から「この曲を演奏してください」と言われれば、断るのはとても難しいことです。「その曲、ひけません」と言えば「では違う演奏者にお願いするので結構です」になり、以後演奏以来は来ません。演奏者自身が嫌いな「曲」だったとしても、主催者からのオファーがあれば演奏するしかありません。断ることができるのは、「断ってもその後の仕事に困らない地位」を確立したソリストに限定されるのではないでしょうか?
 話がそれましたが、自分(たち)で選んだ好きな曲を、好きな音で演奏する努力=練習を積み重ねる過程で、その音を聴く人にどう?聴こえるか、どんな印象の音に聴こえるか?を確かめる作業が必要だと思っています。得てして、自分の好きな音を目指して練習すると、自分の好きな音を「みんなも好き」と思い込みがちです。とても危険なことだと思います。
 ラーメン屋さんを開こうとするひとが、自分の好きなラーメンを作り上げる努力をする過程で、絶対!?誰かに食べてもらって感想を求めるのではないでしょうか?どんなに自信家であっても、自分の舌だけを100パーセント信じてラーメン屋をオープンすることはあり得ないと思うのです。
 演奏者が自分(たち)の演奏を演奏会で多くのお客様に聴いてもらう前に、信頼できる複数の人の「感想」を謙虚に聞き入れて、修正することは必要なことだと思っています。仮にある人が自分の好みの真逆だったとしても、それも現実として受け入れることができなければ、ただの自己満足にしか過ぎないと思います。
 一人だけで演奏する場合と違い、複数の演奏者で演奏する場合の「音」は混ざり合ってお客様に届きます。その混ざり具合を演奏者がリアルタイムに確かめることは不可能です。録音して確かめるか、誰かに聞いてもらうしか方法はありません。バランス、客席の位置による聴こえ方の違いを確かめるには、演奏会場で確かめるしかありません。会場が変わればすべてが変わります。厳密に言ってしまえば、リハーサル時と満席になった時点での残響=響き方は全く違います。さらに空調によっても音の「流れ」が生まれます。少なくとも、リハーサル時に自分の耳で客席で聴こえる音を確かめ、自分の演奏を誰かに聞いてもらうことが必要だと思っています。

 聴く側にすれば、自分の好きな曲=プログラムの演奏会を選びます。
わざわざ嫌いな曲の演奏を聴こうとは思いません。知らない曲の場合には、期待と不安があります。
 聴いた音が自分の好みの音であれば、幸せな時間を過ごせます。自分の予想していなかった「嫌な音」だったとすれば、途中で席を立てない「苦痛」を耐える時間になってしまいます。
 演奏する人の「限界」があります。それはすべての人の好みに応えることは不可能だという事です。だからこそ、一人でも多くの自分以外の「感想」を予め聴くことが大切だと思うのです。出来れば正直な感想を言ってくれる人が理想です。「うん。きれいきれい」とか「問題ないと思う」と言われるのが普通です。
「こう弾いたらどう?」と音量のバランスを意図的に変えてみたり、立ち位置を変えてみたりすれば、「前のだと●●だな~」とか「それだとヴァイオリン頑張りすぎ」などの率直な感想をもらえるものです。そんな工夫も大切だと思います。
 演奏者と聴く人が「幸せ」な気持ちで最後まで過ごせるコンサート、
私たちの理想のコンサートです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏を自己評価すること

 映像はデュオリサイタル5、代々木上原ムジカーザでのサン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」です。
生徒さんが発表会で緊張して「失敗した」と感じる話を毎回のようにお聞きします。「今度こそは」という決意表明も「あるある」です(笑)
 そんな生徒さんたちに私がお話するのは
・緊張することは自然なことで悪い事では決してないこと。
・自分の評価の「ボーダーライン」は自分だけにしかわからない。
・失敗の記憶が強く残るもの。演奏を後で見返すと違う「良さ」もある。
・「成功」と「失敗」は相対=比率の問題。
・失敗しない演奏を目標にしてはいけないこと。
これ以外にも生徒さんの性格によっては、もっといろいろなアドヴァイスをすることも珍しくありません。要するに、一人一人が自分の演奏について「自分なりの評価」があって、多くの場合「傷」や「失敗」を減らすことにばかりに気持ちが向いてしまう事です。自分の演奏の「良さ」を見つけることを例えれば…
・草原で四つ葉のクローバーを見つける難しさ。
・壊れた部品に紛れている、使える部品を探す難しさ。
・苦手な相手の良いところを見つける難しさ。
・悪い点数のテストの答案用紙を見返して出来ている問題を見直すこと。
自分が「ダメだ」「できない」と思うこと・認めることが「上達・成長」のスタート地点です。すべてが出来ていると思い込めば、それ以上の上達や成長はないのです。
 同時に「良い部分」を見逃してしまえば、成長の妨げになります。
言い換えればできないことと、出来ていることの「違い」を見つけることが何よりも大切だと思うのです。自分の演奏に「良いところなどない!」と思う人にも共感できる私です(笑)自分の演奏の動画に自分で点数を付ければ「不合格」しかありません。それでも自分で見返すこと。他人の素晴らしい演奏と見比べること。まるで「ガマの油」ですが、上達するために必要な「試練」だと思っています。

 演奏する曲の長さ、曲数によって練習時間=量も変わります。
演奏する曲が増えると何よりも「集中力」を持続することが難しくなります。
もっと正確に言えば、演奏する瞬間=一音ごとの「イメージ=注意書き」が増えることで、頭の中の記憶と運動の記憶を呼び戻すことが難しくなっていきます。
極端に言えば「一音だけ」演奏する場合と、1曲3ページの小品を演奏する場合の「音符の数」の違いです。一音で終わる曲はありませんが、単純にページ数が増えれば演奏する音符は増えます。時間も長くなります。楽譜を見ながら演奏したとしても、瞬間的に思い出せる情報に「濃淡」が生まれる可能性が増えます。
 練習する時に「本番」のつもりで演奏する練習と、少しずつ演奏しては繰り返す練習のバランスも重要です。当然、本番では「止まらない・ひき直さない」ことを優先します。さらに傷=失敗に自分で気づいても動揺を最小限にとどめ「先に進む」ことが大切です。
 練習でも「完璧」を求め続ける練習が良いとは限りません。
一か所だけ=数小節を何時間・何日もかけて練習して、他の小節を練習しないのは間違った練習です。その「バランス」が一番難しいことです。
 違う見方をすれば「妥協」が必要になることでもあります。
妥協して、やり残したことは、時間=日数をかけて練習します。
「出来るようになった」感じ方もひとそれぞれです。
一回うまくひけて「できた」と思う人もいれば、同じ個所を数回続けてひけて「できた」と思う人もいます。さらに、その部分より前から何回でもひけて「できた」と思う人も。出来るようにする「方法」も含めて覚えても、運動が安定しないために「失敗」することもあります。
 「成功の確率」を高める練習を、効率的に行うことが重要です。
がむしゃらに、失敗する連続を繰り返して「いつか出来るようになれ!」という繰り返しても時間と体力の無駄になります。「根性」だけでは成功の確率は上がらないのです。失敗の原因を見つけて「修正」成功する感覚を覚える繰り返しが必要な練習です。

 最後に自己評価と「他人からの評価」の受け入れ方について考えます。
先述の通り、自己評価の基準は自分だけのものです。自分以外の人を評価する場合でも「自分なりの基準」でしかありません。誰かから自分の演奏を評価してもらうことは必要なことです。音大生やプロを目指す人が師匠や他の先生から「改善すべきこと」を指摘してもらえるケースもありますが、多くの場合は「良かった」主旨の評価を受けます。社交辞令・リップサービスだと思うより、自分で気づかない自分の演奏の「良い印象」を素直に受け止めることも成長には必要です。
 専門家=演奏家の評価とは別に、一般のかたの「感想」を聴くことも大切です。自分の感覚とは違う「音楽の印象」が大きな参考になることもあります。
これも「バランス」が大切で、褒められてうぬぼれてもダメ、お世辞だからと自分を責めてもダメ。常に両方があることを認めることがポイントです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 脳ら謙介

日本語と音楽

 映像はヴァイオラとピアノで演奏したドビュッシーの「美しい夕暮れ」
原曲は歌詞のある「歌曲」です。フランス語の詩と旋律と和声。
私たち日本人が使っている言語「日本語」は世界の言語の中でも最も複雑だと言われています。日本で生まれ育った私にとって、英語の方がはるかに難しく感じるのですが(笑)
 中学校で習い始めた英語。高校で第二外国語が必修だったのでドイツ語を選択。大学でもドイツ語を選択しました。外国語を学ぶことが好きなひとを心から尊敬します!中学時代「日本で暮らすのに英語がいるんかい!」と逆切れしていた記憶があります。海外に留学する友人たちの多くが、中学前に語学の学校に通っていました。「あの!●●がドイツ語?」と笑ったこともありました。
それでも彼らは外国の音大での授業や、外人の先生のレッスンをちゃんと受けて学んでいたのですから、やはり素晴らしいことだと尊敬します。

 さて、音楽は「世界共通の言語」と言われることがあります。
楽譜を記号として考えれば、どんな国で音楽を学んだ人でも、同じように楽譜を「音楽」にできます。言葉を交わせない外国の人とでも、同じ楽譜を見ながら一緒に演奏できることがその証明です。演奏しながら考えている「言語」は人それぞれに違っても、出てくる音は同じなのです。例えば音名を「ドレミ」で考えながら演奏する人もいれば、英語音名の「シーディーイー」で考えている人、ドイツ音名「ツェーデーエー」で考えている人もいます。それでも出てくる音は「同じ高さの音」ですよね。

 ルールが世界で共通のスポーツの場合はどうでしょうか?
お互いの意思疎通を専門用語でかわすことは出来ますが、その言葉がどこかの組の言葉であることがほとんどです。例えば、柔道の場合「まて!」「はじめ!」「いっぽん!」などの日本語が用いられています。
 囲碁やチェスの対戦には、言葉がなくても可能ですね。
絵画や美術品の場合、製作の過程で言葉や記号は必要なものではないかも知れません。
 世界で様々な「単位」があることは以前のブログでも書きました。
センチ・インチ・メートル・フィート・尺などの長さの単位。
グラム・ポンド・貫などの重さの単位。これも国や地域によって様々です。
 こうして考えると「楽譜」は確かに世界で共通の「記号」であることはとても希少なことかもしれません。

 音楽に文法がある…という話を音楽大学で学びました。
日本語の文法の場合、主語・述語・名詞・動詞・形容詞・副詞・助詞・仮定・命令・過去形など様々な文法がありますね。「かろかっくいいけれ」って覚えてませんか?(笑)英語やドイツ語の「文法」については、あまりに暗い過去があるので触れないことにします。申し訳ありません。
 音楽の場合、「句読点」「文節」「起承転結」など、文や文章を分析したり、実際に手紙や文章を書いたりするときに私たちが使っている「日本語」に例えて考えられます。
 日本語は英語やドイツ語と、明らかに文法が違いますよね?
つまり私たち日本人が使い慣れている「日本語」の文法は日本語特有のものなのです。それを音楽に当てはめて考えるのは、日本語で音楽を考えていることになります。

 言葉が理解できない人同士でも、自分の感情を笑顔や動作で伝えることができますよね。相手の感情を言葉ではなく表情で感じることもあります。
 音楽は「音」だけで作曲家と演奏家の「意図」を伝えます。聴く人もまた、自分の感じるものが別にあります。「言葉」のように明確に何かを示すことはできません。絵画や美術品と似ています。
演奏者が楽器で音楽を演奏する時に、歌詞のある「歌」のように聴く人に言葉を伝えられません。楽器の音だけを聴いて、伝えられることが歌よりも少ないのは事実です。しかし「言葉」も人によって感じ方が違います。時には人を傷つけるのも言葉です。日本語のように、言い方がたくさんある言語の場合には特に難しい面もあります。敬語などの使い方も難しいですよね?
相手に何かを頼まれた時の「返事」ひとつをとっても様々な言い方があります。
「うん」だけで良い場合もあれば、
「承知いたしました」だったり「あいよ!」だったり「はーい」だったり。
断る時にはもっと難しいですね。
「いや」で済む友達もあれば「大変申し訳ありませんが」と前置きをして断る場合、「お引き受けしたいのですがあいにく別の要件が決まっていて」と「嘘」をついて断る倍など様々です。
 言葉の難しさのない音楽。伝えたい「気持ち」「風景」が、聴く人の勝手な「気持ち」「風景」になったとしても、聴いた人が嫌な気持ちにはなりません。自分の好きなように「解釈」するだけです。たとえ、演奏者の思いと違っても、誰も気づかず、誰も困らず、みんなが気持ちよく演奏を楽しめます。
 演奏者が自分の感情を表情に出す場合がありますが、自然に出てしまうのは良いとして「演技」で表情をつけるアマチュア合唱団や部活吹奏楽は「いかがなものか」と思っています。
 難しい日本語・美しい日本語を日常会話に使う私たちが、音楽をより豊かな表現で伝えられるように思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

62歳の誕生日に思う

上の写真は、愛する妻浩子さんからの誕生日プレゼントです。ケーキとコーチの香水です。

 本日2022年9月30日、わたくし62歳になりました。パチパチ(笑)
映像は中学2年生の冬、恩師久保田良作先生の門下生発表会に初めて出させていただいた時の演奏です。ハイドンのヴァイオリン協奏曲第1番、第1楽章をただただ!一生懸命に演奏しています。へたッ!(笑)でも、良い音、してるんです。
この発表会の直前に、今使っているヴァイオリンを手にしたばかりの演奏。
1808年、サンタジュリアーナ製作のヴァイオリンをメニックから輸入したヴァイオリン職人の田中さんから購入したものです。

 今思う事は、よくもまぁ62年間も生きて来られたなぁ!と言う感慨です。
実際、62年と言う年月が長く感じるものか?は62年間生きてみないとわからないわけです。50歳の人が62歳の自分を想像できるはずがないわけです。
 その昔(笑)父も母も62歳だったことがありました。私は当時30歳前後の「おじさんになりたて」で父親になったばかりの頃でした。
 私が生まれた頃…昭和35年のことはテレビで見るだけで、記憶はありません。
断片的な記憶は幼稚園の頃からです。代々木上原の富士銀行社宅団地に暮らしていて、シオン幼稚園に病弱ながら通っていました。担任は「やまだ先生」でした。「ふじぐみ」だったような(笑)
 病弱った私が今日まで生きて来られたことは、自分の「生命力」だけの問題ではなく、出会ったひとたちのお陰だったと信じています。
 これから何年?生き続けられるのか心配するよりも、今日を迎えられたことに感謝し、あしたの朝、目覚められたならまた、感謝をしながら日々を大事にしたいと思っています。
 これからも、どうぞよろしくお願い致します。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を3D(3次元化)する

 映像は村松崇継さんの「アース」をヴィオラで演奏した冒頭部分です。
最初の映像は演奏動画、その次に「楽譜」、その後にある謎の映像(笑)
眼の悪い私が手探りで作った「なんちゃってアニメーション」です。
精度の低さはお許しくださいませ。
 さて今回のテーマですが、音は「聴覚」で楽しむもの…ですが、演奏する立場で考える時、楽譜を読み、音にする過程で「音の高さ=音名」や「リズム」「テンポ」と言った時間の感覚、音の大きさと音色、さらには腕や指の動きをすべて「同時」に処理しています。単に「聴覚」だけを使っていないことは確かです。
同時に起こることを「時間」で考えると、ある一瞬に私たち演奏者が考えていることが複数あります。例えば「音の高さ」「音の大きさ」「音の長さ」…本来、長さは音の大きさの概念に含まれますが、音楽では「リズム・テンポ」と言うひとつのカテゴリーがあるので敢えて「長さ「」「大きさ」を別のものとして考えます。
 映像の最期の「●」が上下に動きながら、大きくなったり小さくなったりしていることが、何を表しているか?アニメーションがうまく出来ていないのでわかりにくいですが(涙)、垂直方向に「音の高さ」、●の大きさが「音の大きさ」で、その変化の様子が「時間」を表します。
 言語化することが難しいのですが←結局説明できていない(笑)
演奏する「音」が、演奏者に向かって前方から流れるように、連続的に近づきさらに次の音が近づく「連続」です。
その音の「高さ」が演奏者の「上下」だとイメージします。
大きさは近づいてくる「●」の大きさです。
さらに今回は作れませんでしたが「色」も感じることができます。
たとえば「重たいイメージ」を赤色、「冷たいイメージ」を「青色」などで色付けすることも映像として可能です。
 音が自分に近づいてくる感覚と、自分が止まっている「音」の中を進んでいく感覚は、視覚的には同じ感覚に慣れます。
 歩きながら撮影した映像は、止まっている自分に周りの景色が近づいてくる「錯覚」を利用しています。実際に自分が歩く時に見える景色は、実際には自分が動き景色は止まっていることになります。
 連続した「音」が前方から近づいてくるイメージは、次に演奏する音を予測することができます。その「音」を演奏するために必要な「高さ」や「音色」「指・腕の動き」も想像することができます。

 楽譜や映像は「2次元」の世界で表されています。ご存知のように現代の科学で「上下・左右・奥行」の三つが私たちの感じられる「次元」だとされています。「点」しかないのが「1次元」です。「線」になれば「前や後ろや左や右」があるので「2次元」です。さらに「上と下」が加わって「3次元」になります
難しいアインシュタインの相対性理論は理解できなくても、日常私たちが生活する「3次元」の世界ですが、音楽は目に見えず、触れることもできない存在です。奥行や高さ、幅と言った概念が「音」にはありません。
なのに「もっと奥行のある音で」とか「幅広いイメージで」と生徒さんに伝えることがあります。つまり「聴覚」で感じる音を「視覚」や「触覚」に置き換えることを私たちは何気なく行っているのだと思います。
 前から自分に吹いてくる「風」が身体の「どこか」に吹いてくるイメージを持ってみます。
・「弱く」「長い時間」「暖かく」「おでこ辺り」に感じる風
・「強く」「短い時間」「冷たく」「首辺り」に感じる風
この二つの違いを「音」に置き換えることもできますよね?
これが「音」を私たちの「触覚」に置き換えた場合です。
 音楽を「楽譜」や「音」だけに限定して考えるのは、私たちが持って生まれた「五感」の一部だけを使っていることになります。しかも楽譜は記号の羅列でしかありません。それを音にして、さらに音楽に作り上げていく演奏者が五感のすべてを使って、音楽を感じることは有意義だと思っています。
 わかりにくいテーマで申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

命あるもの…

 

今日は私の父の命日なので…
この世に命あるものは、必ずいつか死を迎えます。命に大きい小さいはありません。
「死」の受け止め方、考え方は様々です。
私たちは自分以外の命によって生かされています。
自分の「死後」を知る人はいません。だから怖くも感じます。
自分以外の「命の終わり=死」に接したときに悲しみを感じるのはなぜでしょうか?なた、悲しみを感じない「死」もあるのはなぜでしょうか?

 父は6年前の今日、母は3年前に生涯を終えました。
両親への感謝を言葉にできるとは思っていません。心の中で感じるものだと思っています。その両親に愛されて育った(と勝手に思っています(笑))自分は、世にいうところの「恵まれた人間」だと思います。当然、その事だけが「恵まれた」と言う基準ではありません。
 両親との「別れ」に私は悲しみより、安堵感を感じたのです。
「冷たい」と思われるかも知れませんが素直に書きます。父は自分の死を恐れていました。その父が眠るように…まさに寝たまま生涯を終えられたことは、私にとって何よりも「父にとって良かった」と思えたのです。
 その父の死を、認知症で受け入れられない母を見るのがつらく、悲しかったのは事実です。若いころは気丈な母でした。父に文句を言いながら、いつも父の言う通りに従っていた母でした。その母がどんな思いで父の「死」を感じていたのかと思うと、認知症を治療できない現代医療への「憤り」と同時にどこかに「これで良かったのかもしれない…」と言う気持ちもありました。
 その母が次第に父の話をしなくなってから、静かに眠るように息を引き取るまでの時間は短いものでした。それまで母は父との別れを、思い出しては悲しみ、すぐに忘れ…忘れては思い出す繰り返しでした。母にしかわからない苦悩だったと思います。その母との別れも父と同様の安堵感を感じました。

 私のこれまで61年間の人生で、最もつらい別れは愛犬との死別でした。
「親よりワンコかいっ!」怒らないでください(涙)
今、ブログを書いている机の上、南向きの窓辺、我が家で一番日当たりの良い場所に「彼」の遺骨があります。彼の名は、今や国王となられた「ちゃーるず君」でした、これ本当の話です。イギリスが原種のビーグル犬でしたので当時「皇太子」だった方のお名前を勝手に頂いた次第です(笑)
 彼の死が突然…本当に思ってもいない別れでした…やってきたとき、
ただ「ごめんね」と「ありがとう」しか言えず、涙がとめどなく…何日も。
自分がもっと「してあげられたこと」だろうことが、頭の中を埋め尽くしました。それまでの彼との、すべての光景が「悲しみ」に感じました。
私が「死」を悲しいと感じたのはこの時です。おそらく、自分が許せなかったのだと思います。我儘な話だと自分で思いますが、それが正直な思いです。
「死」は生きている人との別れでもあります。別れが悲しく感じるのは、それまでの「愛情」「感謝」があるからです。その感情を持たない場合「別れ」には感じないのが人間です。食べ物…ベジタリアンでも人間は命を栄養源にして生きています。仏教の世界で「業=ごう」は単に「行為」を表すそうです。善悪ではなく人間が生きて行うことが「業」で、生き物を殺生して食べることもその一つです。植物を「いのち」ではないとは言えません。だからこそ、食べ物に感謝をする気持ちが大切である事を習ったのだと思います。
 私たちが意識していない「時間」「場所」で常に死はあります。
それが「人の死」の場合もあります。命を二つ持った人間はいません。
残された人にとって、その人の死が悲しいものか?そうではないのか?と言うことは、あって当たり前です。悲しまないから「冷たい人間」だと決めつけるのは間違っています。愛情も感謝も感じない人の死を「悲しむ」感情は人間にはありません。
他人と他人の「関係性」は絶対に理解できません。
「誕生」は祝福されるべきものです。
「死」への感情はひとそれぞれに違うものです。
私は、両親への感謝を感じながら生きています。
いつか自分の命の終わりを迎える時まで、その感謝を持っていたいと願っています。
 空の上にいる両親に向けて…

ひでやさんとしずこさんの息子 野村謙介

聴く楽しさと弾く楽しさ

 映像は、ミルシテイン演奏のヴィターリ作曲「シャコンヌ」
昔FMを録音したカセットテープが擦り切れそうになるまで聴いた演奏です。
なにが?どこが?好きなのか言葉にするのが「鬱陶しい」(笑)ですが、
強いて言うなら「聴いていて美しい」と感じるのです。
演奏がじょうずか?じょうずでないか?って問題ではないし、誰かと比べてどちらが好きか?と言う話でもないのです。自分の記憶の中にある、この演奏との「出会い」もきっと好きな要因の一つなのかもしれません。
いつも食べ物の例えばかりですが(笑)、昔に食べたものの美味しさを、忘れられないことってありませんか?それが「駄菓子」や「おふくろの味」だったりすることもあります。旅先で偶然立ち寄ったお店の「美味しさ」の風景を思い出すこともあります。グルメ評論家の「点数」より、懐かしい味が恋しいこともあります。明治のカールとか(笑)

 クラシック音楽は基本的に聴いて楽しむものです。見て「も」楽しめるオペラは特殊なものです。ポピュラー音楽の中でも「聴く楽しみ」が強い音楽もあります。ライブの演出が「見て楽しい」ものもあります。客席の連帯感が楽しかったり、演奏中の「掛け声」が楽しい場合もありますよね。
 多くのクラシック音楽は、演奏される「音」を楽しむ芸術です。
その楽しみを味わうために、時間をかけてコンサートホールに行って、チケットにお金を払うクラシックコンサート。聴く人が、聴くことに集中できる環境も大切ですよね。固くて座り心地の悪い椅子に、長時間じっと座って「心地良い」人はいません。それでも「聴きたい」と思う人もいるのは事実です。
立ち見でもホール客席の階段に座ってでも!演奏を聴きたいと思ったことも実際にあります。むしろ極別な「クラシックファン」だと思います。
 自宅で好きなクラシック音楽を聴いて楽しむ時を想像してください。
リラックスできる雰囲気で、好きな物美濃を飲みながらくつろいで聴く時間。
オーディオにこだわる人もそうでない人も「安らぎ」を感じるはずです。
自分だけの時間を満喫する「趣味」とも言えます。好きな音楽を好きな演奏で、好きな部分だけ聴くのが自然ですよね。

 映画を映画館で見る人もいれば、自宅で楽しむ人もいます。それぞれに楽しみ方があります。自分流の楽しみかたが、ますます多様化しているのが現代です。
手軽に自宅で楽しめる「良さ」もあり、映画館で見る「良さ」もあります。
音楽の聴き方も変わってきました。ウォークマンが発売された当時、屋外で歩きながら音楽を聴くことは「斬新」なことでした。「マイカー」で「カーステレオ」のカセットテープで音楽を楽しんだ時代もありました。オーディオ全盛期には大きなスピーカーが憧れの的でした。椅子が振動する「ボディソニック」が流行った時期もありました。次第に「簡単」が優先される時代になり、音楽を聴くことにかける「手間」も惜しまれるようになりました。
 最近、ビデオテープやLPレコード、カセットテープが見直される傾向が強くなってきました。「手間」の面白さが再認識されている時代です。
 クラシックの音楽を演奏する楽しさも「手間」の楽しさです。生活が「簡単」になって自分で作る楽しさや、出来た時の嬉しさが「懐かしく」感じられるようになった今、ヴァイオリンやピアノ、アコースティックギターなどの「自分で音を出す楽器」の良さが再発見される日が来たように思います。
 音楽は「聴く」楽しさと「演奏する」楽しさがあります。まったく違う楽しみ方のものです。少なくとも演奏してみると、聴く楽しさが何倍にも増えます。
言うまでもなく演奏するのは簡単な事ではなく、聴いたように演奏するためには、長い時間がかかります。それでも音が出せる楽しさがあります。難しさを知ることで聴く時の楽しみ方も変わります。
 プロの演奏者が「聴く楽しさ」を意識せずに演奏するのは傲慢と言うものです。どんな曲であっても、聴く人のための演奏であるべきです。演奏者のための演奏なら他人の前で演奏する意義はないはずです。客席で聴いてくださるひとが、初めて聴く音楽「かも知れない」と思って演奏することも必要だと思います。いつ終わるとも知れない音楽に感じるかも…と言う思いやりもあって良いと思います。クラシックマニアのかたには「勉強してから聴きに行け」と怒られそうですが、生まれながらのクラシックマニアはいません(笑)「初めてのクラシック」の印象も大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

音楽を頭と体に刷り込む作業

 今回のテーマは音楽を自分の「言葉」にするテーマです。
年末、年始のデュオリサイタルで演奏予定の曲立ちは…

「無言歌」 クライスラー/チャイコフスキー
「ノクターン」 チャイコフスキー
「ただ、憧れを知る者だけが」 チャイコフスキー
「シュピーゲル イン シュピーゲル」 アルヴォ・ペルト
「祈り」 ラフマニノフ「
「彼方の光」 村松崇継
「無言歌」 メンデルスゾーン/クライスラー
「アリオーソ」 バッハ
「明日」 アンドレ・ギャニオン
「Earth」 村松崇継
とりあえず10曲の小品たち。どの曲も浩子さんと選んで練った(笑)愛すべき音楽たちです。ヴァイオリンで演奏する曲とヴィオラで演奏する曲があります。
今回も、購入したり手に入れた楽譜を、そのまま演奏する曲は1曲もありません。多くは浩子さんのピアノ楽譜をアレンジするケースですが、旋律のオクターブ、装飾音符、リズムなどもオリジナル?にしています。
 言うまでもなく、楽譜に書かれていないことの方が多いわけで、言ってみれば毎回の演奏で少しずつ変化していきます。「再現性」を大切にするのがクラシック演奏の基本かも知れません。確かに自分のこだわる演奏が、演奏ごとに変わることは矛盾するかもしれません。そのことを否定しませんが、音楽を生き物として考えるなら、演奏する人間との会話が変化するのは自然なことに感じています。

 音楽を誰かに聞いてもらう演奏者の心のどこかに「傲り(おごり)」があるように感じられる場合があります。いくら隠しても、演奏の合間の言葉に「得意げな自慢話」があれば、聴く人にとって不愉快なだけです。「特別に聞かせてあげます」と言えばお客様がありがたがる?(笑)思いあがりでしかありません。
そんな気持ちを感じてしまうと、演奏を聴いて楽しめるはずがありません。
 演奏を誰かに「聴いてもらう」気持ちは「聞かせてあげる」とは全く違うのです。自分(たち)の演奏に誇りを持つことは必要不可欠です。ただそれは「自分の中にしまっておくべき」ことです。決して人に見せるものではありません。
 自分(たち)の演奏を作り上げるプロセスは、人によって違います。
私たち二人が音楽を自分から自然に出てくる「言葉」にするために、何度も繰り返して頭と体に刷り込みます。楽譜を覚える…ことではないと思っています。
 ひとつの音楽を演奏する時間は、親しい友人や家族と過ごす時間のようにありたいと思っています。特別な事を考えなくても、相手が今なにを考えているのかを、お互いが自然に感じられる関係。音楽が自分に語りかけてくることもあります。「もう少し速く歩きたいな」とか「静かにリラックスしたい」と感じるのは、音楽から演奏者へのメッセージです。その演奏を聴いてくださる方が、演奏者と音楽の「会話」を楽しんでもらえればと願っています。
 さぁ!もう少し!がんばるべ!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「好きなように弾けない」理由

 映像は、ポンセ作曲、ハイフェッツ編曲「エストレリータ」英語に訳すと「Little star」小さな星と言うタイトルの、メキシカンラブソングです。
シャープが6つ付く調性「Fis dur」の楽譜で書かれています。
原曲の「歌」も色々な歌手が歌っています。

 大人の生徒さんにレッスンをしていて、生徒さんが「好きなように演奏するのが一番難しい」と言われることがあります。。以前ブログに書いたことがありますが、指導者の好みの演奏を、生徒さんにそのまま「完コピ」させることには否定的に思っています。生徒がんが大人でも子供でも、その人にしか感じられない「気持ちよい演奏」が必ずあるはずです。仮に指導者の演奏を「そのまま真似したい」と光栄なリクエストを生徒さんから頂いたら、指導者はどうするでしょう?
一音ずつの詳細な演奏技法をそのまま、伝えることより生徒さん自身が自分の好きな演奏を考えることが「指導」だと思っています。

 自分の好きなように…
・料理を作って食べる
・自分の洋服を選ぶ
・絵をかいて楽しむ
・草花を育てる
などなど、趣味でも職業でも考えられる話です。
「自己流」で初志貫徹(笑)するひとも多くいます。
誰かに基本を教えてもらって、あとは自分の好きなように…と言うひとも。
誰かの真似をしてみる…イチローの真似をするとか、昔は王貞治さんの「一本足打法」の真似をしたひとも多いのでは?←私、しました(笑)
 楽器演奏の場合、プロの演奏を真似したいと思うのは、なぜかプロを目指す人「音大生」に多く、アマチュア演奏家には少ないのが現実です。
スポーツでも音楽でも「憧れ」を感じたひとの「真似」をしてみたい気持ちは、純粋な憧れの表れです。子供が忍者になり切ったりしますが、大人の場合は?
 「コスプレ」特に日本のアニメに登場する人物にあこがれる、外国人がセーラームーンのコスプレをしている映像、見たことありませんか?
 ロックバンド全盛だった頃に、女の子バンドにあこがれた「昔女子高生、今△△△△」もいれば、未だに「布袋モデル」のギターが押し入れにある男性諸氏もいたりします。多くは「形から入る!」のが鉄則でした(笑)

 クラシック演奏の特徴を考えた場合「カラオケ」のように歌い方を「真似る」ように、演奏の仕方を真似る事が難しいですよね?
原因を考えます。
・一曲が長いので真似しきれない=覚えきれない。
・楽譜の通りに演奏すること「さえ」難しくそれ以上なにもできない。
・ただ「うまい」「すごい」と感じるだけで「なにが?」を言語化できない。
・自分にはできないと思い込んでいる。
今更のそもそも論ですが(笑)たとえば「もっと速いテンポで演奏したいのにできない」という気持ちも自分の好きなようにひけない!のひとつです。
曲の中である音を「少しだけ長く大きく」演奏したり、「少しだけ短く弱く」演奏したりすること、つまり「楽譜には書かれていないこと」があります。
「そんな経験をしたことがない!」と思い込むのがアマチュア演奏家です。
いやいや!(笑)実は毎日、誰でもやっています。

 誰かと会話することは珍しい事ではありません。
多くの日常会話は、その場で原稿を読まずに思いついたままに話しますよね?
相手によって、またはその場のシチュエーションによって、話し方も使う言葉も変わってきませんか?
 初めて会う人に、道を尋ねる時に「あのさ~、●●ってどこ?」って聞きます?小学1年生までなら許せます(笑)
 毎日、顔を合わせる家族同士や友人との会話もあれば、仕事で相手に不快な思いをさせないように配慮する時の話し方もあります。これが「話し方のTPO」です。他方で、同じ文章でも「言い方」が変われば印象が変わることも、みなさんご存知のはずです。
「ありがとう」あるいは「ありがとうございます」
これを誰かに話す時を例にとってみればすぐに分かります。
文字にすれば「ありがとう」でも、本当に相手に対して感謝があふれるような場合の「ありがとう」と、本当は嬉しくないけれど「社交辞令」で相手に言う「ありがとう」は、芝居をしない限り全然違う「ありがとう」の言い方になるはずです。
 楽譜は言語に例えれば「文字」です。文字を並べて意味のある「言葉」にしてさらに助詞などを使って「文」ができます。その文を連ねて「文章」ができます。会話をそのまま文字にすることもできますし、「詩」のように読む人がそれぞれに違ったイメージを持つ文章もあります。それらを読む能力が「楽譜を音にする能力」です。楽器がなにも演奏出来なくても「声」で歌うことができる楽譜もあります。要するに文字も楽譜も「音にできる記号」なのです。
 その楽譜を音にして演奏すると音楽になります。一言で音楽と言っても、一度聞いて耳になじむ=覚えられる音楽もあれば、メロディーを記憶さえてきないような音楽もあります。そのことを文字に置き換えると「意味を知らない単語」や「読めない漢字」が該当します。仮にカタカナで書いてある言葉でも意味が分からない場合は多くあります。
 「これはファクトです」とか「インバウンドが」などニュースでさえ聴いていて意味が分からない「横文字」?」を耳にする事、ありますよね?
楽譜を音にして「なんだ?これであってるのか?」と思う場合がそれです。

 正しく楽譜を音にできたとします。その音楽を聴いて感じる「感情」が部分的、あるいはもっと全体的に、きっとあります。何も気にせずに音楽を聴く場合にそれぞれの音は「聞こえている」だけで終わります。
並みの音を聴いて、海岸や浜辺の風景を想像する…という聴き方と、ただ「音」として聴く場合があります。後者の場合、頭の中で想像するものはなにもありません。同じ音でも感情が絡めば「連想」が出来ます。音楽を演奏しようとする時、ある1小節を演奏して悲しい感情を感じる場合もあります。楽しく感じる音楽もあります。音の高低、リズム、和音を聴いて感じる感情です。

 自分の好きな演奏を見つけるために、必要なのは?
・観察力
・音の長さ・強さ・音色を大胆に変えて実験すること
・他人の演奏に縛られない自由さ
・〇〇しなければいけないという発想から離れる勇気
・ミクロとマクロ←以前のブログ参照を考えながら試す
・音は常に時間経過と共に変化し続けることを忘れない
平坦な音楽は、一昔前のコンピューター「読み上げ音声」のようなものです。
言葉を語り掛けるように演奏することが「歌う事」です。
思った表現を可能な限り大げさに試すことが大切です。
自分に感じられる程度の変化は、他人には伝わりません。
絵画に例えるなら、少しずつ色を足す技法より、まず原色ではっきりしたコントラストを確認してから色を薄めていく方法です。
味つけは少しずつ、足していくのが原則ですが音楽は逆に、まずはっきりした味を付けてから薄めていくことが「好きな演奏」に近付けます。
 個性的な演奏を目指して、実験をする気持ちで音楽を描きましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

音大オーケストラの歴史

 映像は1975年(だと思います)桐朋学園大学オーケストラの定期演奏会を客席で録音したウィニアウスキー作曲、ヴァイオリンコンチェルト第1番、第1楽章です。当時中学3年生だった私が師事していた久保田良作先生門下の兄弟子…大先輩で、受験のための「下見レッスン」をしてくださっていた安良岡ゆう先生の独奏です。小柄で長い髪の見合う、明るく優しい憧れの先生でした。
ご自宅に毎週通って受験まで親身になってに指導をしてくださったおかげで桐朋に合格できました。

 カセットデンスケ…知っている方は私世代です(笑)と、ソニーのステレオマイクをバッグに入れて録音しました。もちろん、独奏の安良岡先生からのご指示で録音したもので、悪意のある隠し録音ではありません。この録音を留学のためのテープに使用されるとのことでした。
 音は現代の録音に比べると「回転ムラ」が感じられます。でも、演奏の「質」はしっかり伝わってくる気がします。
 この翌年から、私が高校生として通い、大学を卒業するまで通った当時の桐朋。高校生と大学生、研究生、ディプロマ生、聴講生、子供のための音楽教室に通うう子供たちが、同じ建物で学びました。
当時、3階建ての旧館と4階建ての新館、新館の地下に高校生の学ぶ10の教室がありました。
 オーケストラはすべての弦楽器・管楽器・打楽器の高校生と大学生が、高校・大学の枠を設けず全員が必修の「授業」でした。
 高校・大学の新入生は「ベーシック・オーケストラ」で学びます。
弦楽器と管楽器がそれぞれの合奏を学び、合奏の前に「ベーシックスタディ」と呼ばれる基礎練習を学びます。裏打ちの練習、2対3で演奏する練習など。
 実技試験の成績と全員が受けるオーケストラオーディションの成績で、学年が上がるときに「レパートリー・オーケストラ」の一員になれます。定期演奏会で「前プロ」を演奏することができますが、演奏旅行はありません。合宿は当時、北軽井沢の「ノスタルジック=ボロボロ」合宿所でした。
 さらに学年が変わり成績が良ければ「マスター・オーケストラ」で演奏できます。金曜日の夕方に行われていました。合宿先も豪華になり、当初は志賀高原「天狗の湯」、その語習志野市の施設「ホテル・アルカディア」だった…気がします。演奏旅行があれば学生は無料で参加できました。大阪、仙台、沖縄に行った記憶があります。昔はニューヨークの国連本部で演奏したこともあったようですが、私の在学中には一度も海外演奏は行われませんでした。

 どのオーケストラでも、合奏の前に「分奏」がありました。弦楽器は、ファースト・セカンド・ヴィオラ・チェロ・コントラバスがそれぞれ別の部屋で「分奏韻」と呼ばれる指揮科の学生が合奏で指揮をする先生の指示を受けて、パート別の練習を行います。実技指導の先生も立ち会われていました。
 ちなみに、ファースト・セカンド・ヴィオラのどのパートになるか?は、曲ごとに変わります。先生たちが考えてパートと席順を掲示板に張り出します。学生はそれを見て初めて、自分が次になんの曲でどのパートを演奏するのか知らされます。ヴァイオリン選考の高校生・大学生は、全員ヴィオラも担当しました。ヴィオラ選考のひとは、当然ヴィオラを演奏しますが、人数が足りないのは当たり前です。ヴィオラは学校から無料で貸し出されました。そのヴィオラにもランクがあり、一番上級のものが「特室-1」などの番号がついたヴィオラ。A-1~10?、B-1~10、C-1~10、D-1~10などが、一部屋の楽器棚に保管されていました。
 大きさも暑さも重さも「様々」ですが、割り当てられたヴィオラで演奏するしかありませんでした。

 文藻が終わると、楽器と楽譜を持って「403」という大きな部屋に移動します。ここは入学試験、実技試験にも使われる教室で、当時の校舎では最も広い教室でした。多くの打楽器もおこ荒れていて、合奏前に平台を並べ、譜面台やチェロ用の板を並べるのも学生たちで行っていました。
 合奏で指揮をされる先生は、時によって様々でした。森正先生だったり、小澤先生だったり、秋山先生だったり、小泉ひろし先生、山本七雄先生などなど。
時々、学生指揮者が演奏会の前プロを指揮することもありました。覚えているのは、デリック井上さん。
 桐朋のオーケストラでは、先述の通り高校生も大学生も関係ありません。
レパートリーオーケストラに高校2年時に上がれる人もいれば、大学4年生でレパートリーオーケストラにいる人も普通にたくさんいましたので、年齢差も様々でした。年功序列はなく、完全に「能力別」でした。評価する基準や歩法に、興味はありませんでした。あれ?私だけ?(笑)

 そんな当時でさえ、卒業された先輩方からは「甘っちょろくなった」と言われていたようです。創設者の斎藤先生が亡くなられた翌年からのことですから、言われても仕方のないことだったように思います。
 「弦の桐朋」と呼ばれていた時代です。東京芸大や国立音大、武蔵野音大、東京音大との「違い」も報じられたた時代でした。私自身は高校入試で、国立音大付属高校と豆桐朋女子高等学校音楽科を受験しましたが、当時の入試の難易度はまさに「天と地」ほどの違いがありました。生意気に聴こえてしまうのはお許しください。一度きりの受験経験で感じた難易度の違いです。聴音のレベルは、比較に値しない差がありました。実技試験でも、国立は無伴奏でコンチェルトを演奏するのに対し、桐朋は一日だけの伴奏合わせで試験当日、伴奏の先生とコンチェルトを演奏します。
 他大学との「差」は他大学のレベルを知る機会がなかったので私にはわかりません。ただ、冒頭の録音を聴いて感じるように、プロオーケストラの演奏技術と比べ、弦楽器のレベルは「学生」のレベルではないように感じます。

 ヴァイオリンの「教授陣」は今考えても、ぞっ!とするほど(笑)高名な指導者の先生方が揃っていました。それぞれの先生方が、個性的な指導をされ、門下生も個性的でした。先生方同士も試験の合間に、とても和やかでした。
当然ですが、桐朋の卒業生で先生をされている方はまだ少ない時代でした。
 私が入学した当時「25期生」でした。つまり、桐朋が出来て25年目に高校生になったわけですが、それまで多くの「桐朋生」を育て卒業させてきた指導者が、まだ現役だった時代だったのかも知れません。
 一人の「先生」で考えると、たとえば30代で指導者になったとすれば、25年間経てば50代後半の年齢です。その間に、さらに新しい「若手指導者」が入れば、指導者の連携ができます。
 私が学生だった当時、あまり若い指導者がいらっしゃらなかったように記憶しています。言い換えれば「教授陣が同世代」だったように感じます。

 現代、桐朋に限らず「母校=出身大学」で教えていない先生方が、あまりに多いように感じます。それぞれの先生方の「価値観」があって当然ですが、部外者の目からすると、違和感を感じます。経営者と教授陣が「別」の考え方になることは珍しくありません。多くの大学で「経営陣の権限>教授陣の意見」です。
 桐朋が仮に「全盛期」を過ぎたとすれば、全盛期には「経営=教授」に近かったのかもしれません。現実、桐朋は「お金儲けの下手な音大」でした。
学生一人に対する教授の数が多すぎる=指導者の人数が多大よりも多いことを学生としても感じていました。だからこそ、学生に対するレッスンの質と時間が担保されていたのかも知れません。人件費にほとんどの授業料を使う音大が、ホールを持てなくても当然です。ホールがなくても、素晴らしい先生がたくさんいる方が魅力ある音大だと思うのは私だけでしょうか?
 箱モノより中身です。
学生を集めるための「おしゃれな学内カフェ」よりも「習いたい先生がたくさんいる」ことが大切だと思います。これからの音楽大学に不安を感じる「音大卒業生」のボヤキでした。老婆心、お許しください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

やわらかいもの な~に?

 今回のテーマ、なぞなぞか!(笑)
あなたは「やわらかいもの」と言われてどんなものを連想しますか?
羽毛布団?わたがし?マシュマロ?お豆腐?
では、やわらかくて、おおきいものは?
空に浮かぶ雲?ふかふかのベッド?エアーマット?そよ風?
現実の「硬さ」を数値で表す方法が何種類もあります。
1.「ショア硬さ」はダイヤモンドのついた小さなハンマーを測定物に落として、そのはね上がり高さで硬さを測定します。はね上がりの高いものほど硬いことになります。
2.「ロックウェル硬さ」
ロックウェルC硬さは、頂角120°のダイヤモンド円錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、その押し込み深さで硬さを測定します。深さの浅いものほど硬いことになります。
3.「ブリネル硬さ」
ブリネル硬さは鋼球を測定物に一定加重で押し込み、その時に出来るくぼみの大きさで硬さを測定します。くぼみが小さいほど硬いことになります。
4.「ビッカース硬さ」
ビッカース硬さは対面角136°のダイヤモンド四角錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、ブリネルと同様に出来たくぼみの大きさで硬さを測定します。これもくぼみが小さいほど硬いことになります。
う~ん。物理の授業だわ(笑)
 楽器を演奏するひとにとって、実際に「硬い・柔らかい」ものがあります。
・指の表面=皮膚の柔らかさ
・皮膚の下の「脂肪・筋肉」の柔らかさ
・さらに奥にある「骨」の硬さ
・弓のスティックの硬さ
・弓の毛の柔らかさ
・弦の表面の硬さ
・弦全体の張力の柔らかさ
・指板の硬さ
など多くの「もの」にそれぞれに硬さ・柔らかさがあります。
・柔らかいもの同士が「触れ合う」場合には?お互いが、へこみますね。
・柔らかいものが硬いものに押しあてられると?柔らかいものが、へこみます。
・硬いもの同士が押し合わされると?少しでも柔らかい方が、へこみます。
これをヴァイオリン演奏に当てはめると…
1.右手側
指(柔):弓のスティック(硬)
弓の毛(柔):弦(硬)
弦(柔):駒(硬)
2.左手側
指(柔):弦(硬)
首・顎(柔):顎当て(硬)
鎖骨(硬):楽器・肩当て(硬)
さて、問題は人間の「触覚」です。
右手指も左手指・首・肩などに触れる部分で感じる「強さ」です。
強い力で振れていても、鳴れてしまうと感覚が麻痺します。
弱い力で「触れた」触覚と、強い力で「押し付けられた」触覚の違いです。
無意識に強く握ったり、強く挟み込んでしまうことに注意が必要です。

 「硬い」「柔らかい」と言う表現は必ずしも「現実に触れるもの」以外にも使われています。映像はオイストラフの演奏するサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソです。音色の柔らかさを感じる演奏だと思います。

 音色や演奏の硬さは計測できません。単位も基準もありません。主観的なものです。それなのに何故か?この表現は頻繁に使われます。では、「音楽」の硬さと柔らかさについて考察します。
1.硬く感じる演奏
・音の立ち上がり=発音に、強いアタックが続く演奏
・高音が強く響き低音の少ない音色が続く
・ビブラートが常に速く深い
2.柔らかく感じる演奏
・アタックのコントロール=強弱がある
・低音の響きが強く、高音の倍音が適度に含まれた音
・音楽に溶けあうビブラートの速さと深さ
これらの違いをコントロールする技術は、何よりも「聴覚」と「触覚」がすべてです。もちろん、弦の種類、楽器と弓の特性によって音色は大きく変わります。
それらを「ハードウエア」と考え、技術・感覚を「ソフトウエア」と考えることもできます。言うまでもなく、使いこなすのは人間です。ハードウエアの個性を判断し理解するのも演奏する人間です。数値・種類で表すことができるのは「材質」や「弦の太さ・硬さ」など数点だけです。演奏する楽器と弓の「特色」の好みがなければ、どんな楽器で演奏しても良いことになります。「イタリアの楽器は良い」とか「古い楽器は良い」とか「鑑定書のある楽器は良い」、さらには「値段の高い楽器は良い」すべてに言えることは…
「そうとは限らない」つまり自分の好きな音が出る楽器か?を判断できないひとにとって「良い楽器」は存在しえないのです。その「耳」を鍛えることが軽んじられている気がしてなりません。とても悲しく、恐ろしい気がしています。

 最後に関節や筋肉の「柔軟性」と、音の柔らかさについて。
他人の身体の「硬さ・柔らかさ」は演奏を見ているだけでは判断できない部分がほとんどです。体操選手やフィギアスケート選手のように「身体の柔らかさ」をアピールする競技もあります。ヴァイオリン演奏で、見るからに「ぐにゃぐにゃ動く」演奏者を見かけますが、それは「柔らかい」とは違います。むしろ体幹が支えられていないから「ぐにゃぐにゃ」なケースが多く、必要な柔軟性とは異質のものです。身体には「硬い骨」もあり「強く太い筋肉」も必要なのです。その硬さを軸にして周囲に「柔らかい筋肉・関節」があるのです。
 右手指には「握らずに=ぐー!せずに」「しっかりやさしく包み込む」力が必要です。左手指にも同じ同じことが言えます。
 脱力したときの強さ…矛盾しているように聞こえますが、力を抜いた時の適度な「硬さ=弾力性」の事です。赤ちゃんの指は、触るとふにゃふにゃ(笑)です。その赤ちゃんは本能的に「つかまって自分の体重を支えられる指」を持っています。つまり「強い」のに「柔らかい」のです。理想の力でもあります。
 必要な力を「見切る」ための練習が必要なのです。
弱すぎれば安定しません。だからと言って強すぎれば硬直します。
「ちょうどよい力加減=硬さ」がそれぞれの部位にあります。
それを見つけることと、常に観察することが練習の要=かなめになります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の「ミクロ」と「マクロ」

 映像はエルガー作曲の「カントポポラーレ」第2回のデュオリサイタルで演奏したときのものです。あまり演奏される機会のない曲ですが、どこか懐かしさを感じられる素敵な曲です。

 どんな曲でも1曲を仕上げるために練習する過程で、陥りやすいことがあります。きっと多くの楽器演奏者が感じることだと思います。
 「ミクロ=微小な」という言葉に対して「マクロ=巨大・巨視的(全体的に観察すること)」という言葉があります。
 曲を練習する時で考えれば「一音」ごと、さらに「発音」「アタック」などを、虫眼鏡で観察するように注意して練習することが「ミクロ」で、
曲全体、あるいは「フレーズ」や「楽章」などの広い視野で音楽を考えることが「マクロ」だと言えます。
 演奏を「時間」を軸にして考えるなら、音が出始める「瞬間=短い時間の単位」から音を伸ばす「少し長い時間」、さらに「リズム=音の長さと休符の組み合わせ」で徐々に長い時間の単位になっていきますね。仮に3楽章で書かれている曲であれば、それらを弾き始めてから最後の音が消えるまでの「時間」が最大長になります。
 虫眼鏡や顕微鏡で、小さなものを大きくして見ることを「音」に例えるなら、ひとつの「音」が無音の状態から出始める=聴こえ始める瞬間を「拡大」して練習することになります。さらにその次の瞬間にも音は連続しているので、また新しい拡大が必要です。当然それぞれに違った「拡大図」があります。弓が動き始める瞬間の「音量」と「音色」を観察することが大切ですが、これだけを練習していても「音楽・曲」にはなりません。だからと言って、虫眼鏡で観察していた音楽を、突然「3楽章」で考えることは不可能ですよね(笑)
1.虫眼鏡で見る部分を少しずつ移動する。
2.少し倍率を下げ、広い部分を観察する。
3.次の新しい「音」を虫眼鏡で観察し…移動し…倍率を下げて
4.前の部分と今、練習している部分を見比べられる「倍率」に広げる。
という練習を繰り返した場合に、頭を悩ませる問題があります。
 それは、次第に大きな部分を考えるようになってきて、練習してきた過程で「良い」と思っていた「ミクロ」の部分に疑問がわき始める場合です。

 これを「家を建てる」と言う家庭に置き換えて考えるとわかりやすいかもしれません。基礎ができた土地の上に「建物」を造ろうとするとき、適当に木材を切り始めるひとは?いませんよね?まず「設計図」を書く、もしくはきちんと完成したイメージを考え、必要な材料の大きさ、量を考えるはずです。
 どんなに手先が器用で、まっすぐに木材をカットしたり、美しく表面を削り磨き上げられたとしても、その部品を他の部品と「組み合わせ」られなければ、技術も時間も無駄になります。
 「手抜き工事」は設計図があっても、部品の大きさや取り付け方=ミクロがいい加減で、傾いた家になったり、壁に隙間が出来たりします。つまり、いくら正確な設計図=マクロがあっても、ミクロの部分が雑なら家全体も雑になる…ということです。

 音楽も家を建てるのと似ています。
まず、設計図を楽譜を見ながら頭に描くことです。これから演奏・練習しようとする音楽の「完成図=未来予想」をする時間が必要です。それから、ミクロ=一音ずつの練習と観察に取り掛かかることが、効率的な練習になります。
 完成図、言い換えれば自分の理想の演奏をその曲に思い浮かべることは、とても難しいことです。そもそも楽譜は「音」ではありません。頭の中で音楽にする技術と能力、あるいは誰かの演奏を聴きながら楽譜を読み進む技術がなければ、設計図は作れません。「覚えればいい」と思われがちですが、音楽を「音」の高低・リズムだけで覚えて「設計する」のは、家を建てる際に「言葉」だけでイメージを伝えることと同じです。紙の上に2次元で描かれた「設計図」を、壁や床・天井・窓・屋根にしていくのと同じように、紙の上の曲=楽譜を、音・音楽にしていくプロセスを省略するのは、非効率的です。

 1曲の演奏時間が「5分」だとすれば、「1秒以下」へのこだわりを、5分間維持することになります。その時間の中で、静かな部分・悲しい部分・動きの少ない部分も、大きな音の部分・明るい部分・動きの多い部分もあり得ます。
 5分間に凝縮された「変化」を楽しむのが音楽です。音が出始めた瞬間から、最後の音が消えるまでの「時間の芸術」です。だからこそ、ミクロとマクロのバランスを考えた練習が必要になると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノのコンサートに求められるものは?

 映像は私のヴィオラと浩子さんのピアノで演奏した「はるの子守歌」渋谷牧人さんの作品です。過去、色々な場所で演奏させてもらっている素敵な曲です。
 今回のテーマは「ヴァイオリンとピアノ」と書きましたが、ヴァイオリンに限らず、ピアニストと「もうひとり」の演奏者が開くコンサート…多くはクラシック音楽のコンサートですが、お客様が期待するものってなに?と言うテーマです。

 日本中、世界中で毎日のように、にどこかで開かれているクラシックコンサート。
演奏する人数も楽器も様々です。演奏者「1名」ですべての曲を演奏するコンサートもあれば、100名にもなる大オーケストラの演奏会もあります。
 私たち夫婦の「デュオリサイタル」も含めて、演奏者「2名」のクラシックコンサートの場合、多くは「ピアノ」ともう一人の演奏者による演奏です。
 ピアノは「一人だけで楽曲を完成できる楽器」でもあります。現実に、ピアノ1台だけで演奏する曲は、多くの演奏形態の中で、もっとも作曲された数の多い「演奏スタイル」です。
 ピアノと比べて、ヴァイオリン「1丁」だけで演奏できる楽曲は、バッハやイザイなどの作曲家によるものがありますがピアノの曲数に比べると、桁が二つは違います(笑)

 ヴァイオリンとピアノ、ヴィオラとピアノで演奏される「音楽」にお客様が期待する「楽しさ」や「美しさ」「安らぎ」「喜び」がきっとあります。
もちろん、ピアノ一台だけでもオーケストラの演奏でも同じ「期待」があります。
 ピアノだけで演奏する音楽に、ピアノ以外の「音色」は交わりません。
オーケストラの演奏には、数多くの異なった音色が複雑に交わります。
ヴァイオリンとピアノで演奏する場合は2種類の楽器の音色を同時に、時には別々に聴いて楽しむことができます。
 ヴァイオリン・ヴィオラの演奏は、ピアノとどのように溶けるのでしょうか?
言い換えれば、お客様の耳にはどんな「音=サウンド」として聴こえているのでしょうか?
 クラシック音楽は「楽譜に書かれた音」を音楽にする場合がほとんどです。
演奏者が変わると、聴く人にとって「音楽」は変わるものなのでしょうか?

 コンサートで聴く音楽は、CDや動画と違い生きた演奏者が目の前で演奏しています。つまり「一度だけの演奏」です。その生演奏を聴くお客様が、これから演奏される「音楽」を他の演奏者の演奏で聴いたことがある場合と、初めて聴く場合の両方があり得ます。前者の場合、今日の演奏は自分の知っている演奏と「何かが違う」事に期待があるはずです。もちろん「楽譜=曲」が好きで楽しみにしている人もいらっしゃるでしょう。
 後者の場合、どんな音楽に出会えるのか?という期待があります。中には作曲家の名前に期待する人、曲のタイトルで音楽を創造する人もおられるでしょう。演奏者の「ファン」でどんな音楽であっても「その人の演奏が楽しみ」と言う人がおられる場合もあります。

 ヴァイオリンとピアノで演奏する音楽の「個性」について考えます。
・演奏のテンポと音量の変化
・二つの楽器の音量のバランス
・そぞぞれの楽器の音色
・ふたりの演奏者の「一体感」
始めの点亜、すべての演奏に共通する項目でもあります。
ピアノとヴァイオリンは「音色の種類」が全く違います。
 ピアノは「打弦楽器」ヴァイオリンは「擦弦楽器」
この音色の違いは、例えるなら「食感の違い」です。
ピアノでもヴァイオリンでもそれぞれに「微妙な音色の変化」もありますし、楽器固有の音色=個体差もありますが、構造的に音を出す原理が違うので、全く同じ高さで同時に演奏しても「聞き分け」が容易にできる組み合わせです。
 ピアノが「口に入れてすぐに溶ける食感」だとすれば、ヴァイオリンは「長い時間口で溶けない食感」に例えられます。
 ヴァイオリンtおチェロの演奏なら、両方の音色が容易に溶けます。
音色のまったく違う楽器の組み合わせで演奏する「二重奏」の場合には、聴く人にとって2種類の異なった食感を同時に味わっている感覚に似ています。

 先述のように同じ楽譜を演奏した場合の「違い」が必ずあります。
その「違いの分かる人」は他の演奏と比較できる人ですよね?
演奏者(たち)が、他の人の演奏を全く知らないケースも十分にあり得ます。
他人の演奏を知らなくても自分(たち)で音楽を考えながら、造り出せます。
敢えて個性を出そう・人と違う演奏をしようと思わなくても良いのです。
自分が演奏する楽曲を初めて聴いた人の心に残る演奏を目指すことが何よりも大切です。
他方でひとりでも多くの人に喜んでもらえる演奏をしたいと思う気持ちも大切です。自分(たち)の解釈と演奏が突飛で違和感のあるものか?それともえ多くの人に受け入れてもらえる解釈・演奏なのか?を知るためには、演奏者自身が多くの演奏を聴き比べることも重要だと言えますが、自分(たち)が好きだからと言って、多くの人が好きだとは限りません。
 楽譜を素材として考えれば、料理にもたとえられます。
同じ場所で同じ時に釣られた「鯛(たい)」を、
和食・中華(この中でも様々)・フレンチ・イタリアンなどの専門料理人が溶離したら?まったく違う食べ物が出来そうです。さらにその中でも「独創的」な料理法や味つけをするひともいるでしょう。「伝統的な調理法」と「革新的な調理法」があることになります。音楽と似ていますよね。
他人の作るものと同じものを真似て「そっくり」に作れる人って存在するでしょうか?。多くの人に支持される「味=演奏」の特徴を見抜き、再現するためには、真似しようとする味や音楽「以外」の方法も身に着けていなければ再現できないのです。
 ヴァイオリンで「ハイフェッツ風」「シェリング風」「オイストラフ風」「スターン風」「クレーメル風」「ギトリス風(笑)」多くの個性的な演奏解釈・奏法があります。その「特徴」と「技術」を完全に模倣できる人は恐らくいないでしょう。それぞれのヴァイオリニストがいくらお弟子さんに教えたとしても、その人「間隔」「聴こえ方」はどうやっても伝えられないものです。
 職人と呼ばれるひとたちが口にする「最後は勘」と言う言葉からもわかります。ストラディバリウスのヴァイオリンと同じ音色の楽器を完全に再現できないように、最先端の科学技術で解析しても「答えが出ない」ことこそが個性だと思います。言い換えれば、「マネできること」「再現できること」は「個性」ではないのです。

 最後にお客様が期待する「ふたりの演奏」について。
価値観の違いでまったく違う結論が出ますが、私は初めてその曲を聴くお客様にも何度も聴いたことのあるかたにも「満足」してもらえる演奏をしたいと願っています。突飛でもなく、ありきたりでもない演奏です。抽象的(笑)
 もう少し具体的に言えば、短調でも長調でも、速い曲でもゆったりした曲でも、静かな音楽でも気持ちが高揚する音楽でも、「心地よく聴ける」音楽を目指します。料理で言えば、バランスの取れた味つけで、辛すぎず甘すぎず、様々な料理の食感、温度、味つけに飽きさせない組み立てをすることです。
・クラシックマニア(ファン)でなくても、リラックスして楽しめる演奏。
・すべてのプログラムを聴き終えて、「腹八分目」で後味の良い量と内容
・ヴァイオリンやヴィオラ、ピアノの微妙な音色の変化を楽しめる曲
などなど…出来たら良いのですが(涙)一生かけても実現は難しいことです。
 コンサートが始まる前から、演奏が終わって会場を後にするまでの「時間」がお客様にとって快適で幸せな時間なら、帰り道に鼻歌の一つも(笑)でそうですよね。それらをすべて含めたものが「魅力」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

力の「向き」「速さ」「大きさ」をコントロールする

 映像はユーディ=メニューインの語るヴァイオリンボウイング。
昔、日本語に訳された本を一生懸命読みました。
メニューインもカール=フレッシュの本も、とにかく理論を言語化した本に共通するのは「一回呼んでも理解できない」という共通点(笑)私だけ?
 演奏家はとかく「理屈じゃない。感覚が大事だ」と言いたがります。
感覚を言語化するのは難しいことです。とは言え、自分の技術を高めるためにも、お弟子さんに継承するためにも客観的に理解できる言葉にすることも必要です。
 力学や物理が苦手な音楽家が多いのは、多くの人が「音楽学校」で学び一般教養への関心が低かったことも原因の一つです。私もそのひとりです。(笑)

 今回は特に右手に絞って考えます。
弓に触れる「五本の指」それぞれに、力をかける方向と速さ:時間、さらに力の強さが違います。
右手首、右肘、右肩の関節につながる筋肉があります。関節を動かさなくても筋肉に力を入れること、逆に力を抜くことが可能です。腕を曲げる運動の速さ、強さを鍛える場合と、反対にゆっくりと腕を伸ばす運動=ブレーキをかけながら伸ばす運動をトレーニングする方法がスポーツ医学の世界では当たり前にあります。
 弦楽器の弓を動かす運動「ボウイング」は腕の曲げ伸ばしだけではなく、右肩を始点にした回転の運動や、筋肉の緊張と弛緩(ゆるめる)を使って、力の速度と強さをコントロールする必要があります。
 これらの「方向」「速さ=時間」「強さ」の中で、もっとも難しいのはどれでしょうか?

 初心者に限らず、人間は「無意識」に力を入れたり抜いたりしています。
緊張すると筋肉に力が入ります。リラックスすると力は抜けています。
それを意識的に行うのはとても難しいことです。特に「弛緩=筋肉を緩める」意識は日常生活で感じることがありません。逆に力が必要な時には、すぐに筋肉に力を入れられます。
 力を入れるためにかかる時間、緩めるのにかかる時間を速くすることが一番難しいことです。つまり「一瞬」で力を入れてすぐに「脱力」する運動です。
その「速さ」で筋肉にかける力の「強さ」を変えることはさらに難しいことです。
 腕の重さと弓の重さは、その人の腕と使う弓で決まり、演奏中に変わることはあり得ません。
 力の速さが早くなれば生まれる力の量は増えます。大きい力で速く動かせば、大きな動きになります。小さな力で速く動かせば小さな動きになります。
 みぎての親指と人差し指で、瞬間的に力を入れられ、すぐに脱力できれば、自由にアタックを付けることが可能です。ダウンの途中でこの運動を擦れば、弓はバウンドします。バウンドを利用してスピッカートを連続させられます。
 次に、力を「長く」かければ大きな力量になります。例えれば「全弓を使って、出来るだけ長く大きな音でひく」場合です。これは比較的わかりやすく、初心者でも身に着けられます。

 力の方向が一番重要なのは、右手の場合「指」になります。
親指の力の方向が、右手人差し指の力の方向の「真逆」になっているでしょうか?多くの生徒さんが、親指の力の向きが人差し指の力の方向に対して「90度」自分から見て「前方」に押す力になっています。その向きの反対の力は?中指を自分に向かって「引き寄せる」力になってしまっています。この「反作用」は演奏に不必要な力です。指が付かれるだけではなく、弓の毛を現に押し付ける圧力をコントロールできません。弓を親指と中指で挟んで持つ仕事をしているだけです。
 親指と人差し指の「力の向き」と「速さ」と「強さ」を意識することは、もっとも重要な技術の一つです。

 最後に右手の各関節に「弾力」を持たせるための、筋肉の使い方です。
指の関節を固めてしまえば、弓のコントロールは無可能です。小指をまっすぐにのばしたままで演奏する人は、右手小指の「弾力」を捨てていることになります。関節を曲げたり伸ばしたりする「弾力」は、力の強さで買えられます。
自動車で言う「ショックアブソ-バー」と「ダンパー」です(車好きな人に聴いてね(笑))
 言うまでもなく、右手の筋肉で一番小さい=可動範囲の狭いのが「指」です。
次が「手首」です。手首は手のひらに対して上下には大きく動かせますが、左右の可動範囲は狭いものです。少しでもこの可動範囲を広げるストレッチも必要です。さらに大きな運動は「肘」の関節です。ゆっくり伸ばす=ダウンの運動を練習することが必要です。一番大きな運動をするのが「肩」の関節です。
首とつながった筋肉、背中、脇とつながった大きな筋肉によって動かされます。
この一番大きな運動で、重心が揺れないようにする「腰」と「股関節」「膝」の関節の弾力も必要です。
 弓の運動は、右半身すべての筋肉と関節を使っておこなわれます。
意識するのは「向き「速さ」「強さ」です。デフォルト=ニュートラルの状態で、いかに無駄な力を入れず、必要な力を最小限に使って、効率よく弓を安定して動かせるか?常に、力を意識することが大切です。
 最後まで読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

他人の評価より自分の判断に自信を持つ!

 映像は角野隼人さん=Cateen=かてぃんの「Cateen’s Piano Live – Summer ’22」です。ショパンコンクールでの活躍、ユーチューバーとしての活躍、ジャズピアニストとしての活躍、ストリートピアニスト、フランスパリでの「社会人」としての一面など、本当に多くの顔をがあることは皆さんもご存知だと思います。
 今回の辛口テーマは、特に現代日本人に多く見られる現象を考えるものです。

 自分の感覚、考えよりも「他人の評価」に流される日本人が多いのはなぜでしょうか?
・他人との関りを避けたがる
・付和雷同が良いとされる風潮
・出るくぎは打たれるという風潮
・考えて選ぶことを面倒くさがる風潮
他にも色々考えられます。日本人特有の「内面的」な性格も根底にある気がします。自分の意思を相手に表現することを「失礼」だと感じる国民性なのかも知れません。

 誰かが美味しいと評価したお店に行きたがる「気持ち」は誰にでもあります。
知らないお店に入って、料金に見合わない「まずい」と感じる料理を食べるのは誰でも嫌ですから。誰かが食べた「感想・評価」を参考にしたくなるのは無理もありません。ただ…その感想や評価を「信じられるか?」と言う疑問もありますよね。いわゆる「クチコミ」が怪しいのは誰でも知っています。良い評価も悪い評価もあって当たり前ですが、悪意を持って悪く書く人、お店に言われて良く書く人も多くいるのは否めません。完全に信じられる情報は、恐らくどこにも存在しません。それでも参考にしたくなるのが人間ですよね。

 自分が作った料理を自分だけが食べるとします。味付けに失敗したり、多少焦がしてしまっても「まぁ、食べられるからいいや」と思いませんか?
 でもその料理を、自分が大切に思う人に「どうぞ!」って出せるでしょうか?(笑)笑いのネタにするなら別ですが、普通は…作り直しますよね。
 自分が美味しいと思った料理でも「お口にあえば良いのですが…」と、謙遜するのが日本人です。相手への手土産も「つまらないものですが…」と渡す人が未だに多い日本です。「口に合わないと思うものを出すのか?」「つまらないものを相手に渡すのか?」と考えるのが欧米人の考え方です。むしろ自然な気がします。「謙遜」の気持ちが相手に伝わらない場合もあるのです。
自分の感覚に自信を持って、相手にも喜んでもらえると信じること。
日本人に一番足りない、できないことかもしれません。

 それは「思い込み」にも通じています。
自分で考えて判断したことは、初めに思っていた「正しいこと」でも、違う情報を知ってさらに考え直し「間違っていた」と考えを改めることができます。
ところが自分で考えず「誰かが言っていた」「周りの人が話していた」ことだけで判断した人の多くは、違う判断をする考えを聴いても、やはり考えるのが嫌なので最初の判断に固執します。これも日本人特有の「人を疑うのは悪いこと」という伝統化も知れません。でも「人を見たら泥棒と思え」というコトワザがありますね(笑)
 言うまでもなく、自分で考えて判断することが最善策です。どうしても判断が付かない場合もあります。その時「どちらが正しいかわからない」と言う結論を出せる人と「どっちか!」に決めたがる人に二分されます。
 判断できない原因は「頭が悪いから」では決してありません。情報が足りないからなのです。その情報を積極的に知ろうとしない人は、いつまでたっても判断できないか、鉛筆を転がして(笑)どちらかを無理やり選ぶタイプの人です。

 自分の考えで判断する能力は、音楽を演奏する人にとって、絶対に必要な能力です。他人が「良い」と言ったものだけを選ぶのは簡単です。「これにしなさい」と言われて疑わず・考えずに従うのも簡単でらくちんです。その繰り返して「自分らしい演奏」や「自分が満足できる演奏」ができるはずがありません。なぜなら「他人の価値観」で音楽を考えてしまうからです。
 話は少し逸れますが、昔母校の桐朋で高校生を教えている作曲家の先生と、仙川の喫茶店でお話している時の事です。
「音楽高校で制服がある学校、あるだろう?あれ、最低だよ!」
と言うお話でした。その先生のお考えに同感しました。要するに、これから自分の演奏が自分に「似合うか?似合わないか?」を判断すべき音楽高校生に「これを着なさい」と言う制服を着させることはナンセンスだという事です。
制服の「意味」はあります。ただそれ以上に大切にすべきこともあります。
 高校生にもなって、自分が毎日着て歩く「服装」「容姿」を考えられない人間が音楽家になれるとは思えないのです。高校生が過ごす多くの時間を「制服」で過ごさせるよりも、自分で選んだ服装や髪形、装飾が似合っているか?を知ることがどれだけ有意義な事かを、音楽家を育てる学校と教員が理解できないとしたら、ラーメン屋の修行で、ひたすら冷凍ラーメンを「レンチン」して過ごさせているのと何も変わらないと思うのです。すし職人を目指す人が、毎日スシローのお寿司だけ食べて作ったお寿司、食べたいですか?(笑)
若い時から自分で考えて、自分の感覚を試す経験が必要です。大人になっても同じですよね。年齢相応の「いでたち」が出来てない高齢者って、悲しくないですか?私は「チョイワル爺」にあこがれてます(笑)

 自分の価値観を大切にすることと「わがまま」や「唯我独尊」とは違います。他人の考えを「情報」として取り入れる能力がなければ、そもそも自分で考えることはできません。日本人政治家で「妖怪」もどきの高齢者が、記者の問いに応えない姿を見ると、その政治家の家族がご苦労していることを想像します(笑)
ただの「く●じ●い」を「政治家先生」と呼ぶ日本人の情けなさも痛いです。
 「老いては子に従え」というコトワザは、現代の日本に最も当てはまる言葉だと思います。若い人たちの元気がないのは、高齢者に責任があります。
音楽家を育てるのは?音楽家です。決して「年長者」ではありません。
自分の音楽に確信を持つことは、生活のすべてに関わることです。
「言われなければできない」「自分で考えて動けない」面を自分で改めることが、自分の音楽を見つけるために必須なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピチカート修行(笑)

 映像は「ピチカートポルカ」をヴァイオリンひとつで演奏する離れ業。
メリーオーケストラ第42回定期演奏会でラヴェル作曲「ボレロ」を演奏することになっています。先日、オーケストラで初練習を行った際に「ピチカートの和音が連続してる~涙」と言う弦楽器メンバーからの悲鳴に似た(笑)助けてコール。
 ご存知のように、ボレロの冒頭部分ではヴァイオリン・ヴィオラが楽器をギターのように構えて「ピチカート」で演奏します。途中からは通常の「アルコ=弓を使った演奏」になることもあり、通常の構え方でピチカートを演奏する部分があります。そんな中で「ピチカートで和音の6連符」と言う「おいおい、ラヴェルさん」と言いたくなる部分があります。上の映像の最後の方で行われている「ピチカートの往復連打」しか方法がありません。それが何回も続く…

うえの

上の映像はNHK交響楽団の演奏するボレロの一部。ヴィオラが和音ピチカートを「往復運動」しながら演奏している部分をデジタルズーム(ボケます)してみました。忙しそうで痛そう!(笑) 
そもそも、この双方でどの程度オーケストラの「響き」として効果があるのか?と言う素朴な疑問もありますが(笑)少なくとも音は出ます。
ラヴェルのオーケストレーションが大好きな私にとって、きっとこのピチカートの効果も大きい…と思いたいのです。
 弦を指ではじく奏法「ピチカート」をある種の「効果音」として考えれば、多くの作曲家がこの演奏補法を使うように楽譜を書いたことも納得できます。
 バルトークは弦を指板の「上方向」に右手指で引っ張り上げて、弦を指板にぶつける「バルトークピチカート」を考えつきました。まさしく効果音です。
 ピチカート以外にも、弓のスティック=木を弦にぶつける奏法や、わざと駒の上を弓でこすって裏返った音をだす奏法など、特殊な演奏補法があります。
 ヴァイオリン双方の「可能性」かもしれませんが、これ以上新しい奏法は出てきてほしくない!笑と思っています。
 クラシックギターも様々な演奏方法があり、それらを組み合わせた演奏もあります。

 ギターでここまで!できるのもすごいことです。
演奏しているマーシン氏は元々クラシックギターを子供の頃から学んでいました。有名なオーディション番組でデビューし脚光を浴びました。
 いわゆる「エレキギター」とも違うテクニックとサウンドで、ギター音楽の可能性を広げています。
 ヴァイオリンにも「エレキヴァイオリン」がありますが、電気的に音色を変えることが主な目的で、演奏方法としては目新しいものではありません。
 ラヴェルの創作意欲、好奇心に敬意を払いながらピチカートの「修行」で右手の指が「ズルむけ」にならないように、合奏練習の配分を考えたいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

理想の演奏とは?

https://youtube.com/watch?v=YsbrRAgv1b4

 映像はマキシム=ヴェンゲーロフの演奏するシベリウス作曲ヴァイオリンコンチェルト。
 今回のテーマは人それぞれに違う「理想」を考えるものなので、正解を探すものではありません。考え方を変えれば「理想の演奏は存在しない」とも言えます。常に自分にとって「理想」が同じものだとは限りません。それは演奏に限ったことでもありません。生き方だって、時によって理想は変わるものです。
 「理想と現実」と言う言葉も良く使われます。この言葉を使うとき、多くは「できないと感じた時」に使われます。自分の思った通りに事が進まない時、たとえばテストで100点を取りたくて毎日毎日勉強したのに…それが90点だったとしても「理想は100点」で「現実は90点」だったことになります。
 テストの点数のように、目標が客観的で達成できたか?出来なかったかを判断できる場合もありますが、目標=理想がイメージだったり抽象的な場合には、達成できたかどうかを判断することは困難です。基準=ボーダーラインが明確でない目標は、達成できたと言う感動も薄いものです。

 自分にとって理想の演奏と出会えることは、とても幸せな事でもあります。
ヴァイオリンの演奏に絞って考えた時、世界中に多くのヴァイオリニストが過去にも現在にも存在します。これからも新しいヴァイオリニストが誕生し続けます。その中のひとりに自分がいます。アマチュアでもプロでも「ヴァイオリンを演奏する人」であることに何も変わりはありません。
 自分が知る限りのヴァイオリン演奏者の「演奏」を、すべて生で聴くことは現実的に不可能です。昔ならレコードやFMラジオで聴く。現代ならCDや動画、配信で音楽を「見たり聞いたり」できますが、生の演奏を聴くことができない演奏も当然あります。自分の「理想」とする演奏を言語化すると、どうなるのでしょうか?

 一言で「じょうずな演奏」とまとめてしまうのは簡単ですが(笑)、どんなことが「じょうず」なのかが問題ですよね。少なくとも、自分よりじょうずだと思える演奏に限られます。つまり自分のできないことが「できている」演奏がじょうずに思えることになります。
・正確に演奏できる
・速く演奏できる
これ以外は「じょうず」と言うよりも「好き」と言う概念に含まれます。
たとえば…
・綺麗(と感じる)音が出せる
・強弱の変化、テンポの設定が「好き」
・演奏する姿が美しい(と感じる)
などなど。あくまでも主観的な好みの問題です。
 自分に足りない技術が「現実」にあり、出来るようになりたいと思う演奏が「理想」だと言えます。当たり前ですね(笑)だとすれば、練習して「できるようになる」事は、常に理想を現実にしようと努力していることになります。
 つまり、自分の演奏に足りないことを探し続けることが、理想の演奏に近づくために絶対に必要なことだと言えます。

 演奏しない人の「理想」と、同じ楽器を演奏する人が感じる「理想」は根本的に違います。
 演奏しない人にとって、何が難しいのか?さえ知らないのですから、ただ単に「好み」を基準にしているだけの理想です。それはそれで良いのです。
 難しさを知っている分野の「理想」があります。その分野が演奏でもスポーツでも、物造りでも同じことが言えます。知らない人が簡単そうに思うことが、実は難しい…良くありますよね?ヴァイオリンを演奏したことのある人が体感する「難しさ」があります。自分の知らない難しさも当然あります。その難しさを見つけることが上達に直結します。「簡単だ」「できた」と思った時点で成長は止まります。「上には上がある」のです。それが現実なのです。

 自分の演奏に自分で満足できない…いたって当たり前のことです。
だからこそ、自分よりじょうずと思う人の演奏に「理想」を重ねるのです。
自分の演奏と、じょうずな人の演奏の「違い」を具体的に見つけることができなければ、理想に近づくことは出来ません。先述の通り、自分に足りない技術を見つけるのはとても難しいことです。ただ「うまくひけない」と悩むだけでは解決しません。自分が気付かない無意識の癖を探し、思い込みで正しいと思っていることを意図的に変える試みをしながら、意識していなかったことを意識する…
 自分にとって「理想の演奏」は自分にしか実現できません。
常に現実を見つめながら「改善」を繰り返すことが、理想への道なのかな?と思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指揮者って?

 映像は2010年8月のメリーオーケストラ第18回定期演奏会での「モーツァルト ピアノコンチェルト」を浩子さんのソロで演奏したときの「レア」な映像です。

 メリーオーケストラで現在「指揮者」を務めておりますが、わたくし「専門」はヴァイオリンとヴィオラの演奏でございます。そんな私ごときが「指揮」をできるのか?と言う自問自答?根本的な疑問?について考えながら、私の考える「指揮者とは」と言うお話です。

 「指揮者ってなにをする人?」と言うお話から。
様々な見方、考え方があると思います。指揮を専門にお仕事をされているかたにとっての考え方も色々だと思います。
 子供たちが小学校や中学校で、合唱や合奏の「指揮」をする光景は珍しいものではありません。ブログを読まれている方の中にも「指揮経験者」がおられると思います。中学校・高等学校での教員経験も踏まえて「指揮って?」を考えてみます。

 「指揮者体験コーナー」はメリーオーケストラ定期演奏会の定番でした。コロナでここ数年、実施していませんが。オーケストラを指揮することは、音楽の指揮の中で色々な楽器、たくさんの演奏者を「指揮」するという意味で最も難しい一面があります。合唱の指揮が簡単だとは思いません。吹奏楽の指揮や少人数オーケストラの指揮も違った難しさがあります。
 いずれにしても「音楽」の世界で考える指揮と、「指揮官」で連想される軍隊や集団競技で使われる指揮と、共通していることがあります。
 「集団をまとめる役割」「集団でひとつの目的を達成するための司令塔」
戦いで言えば「軍司」「策士」と呼ばれる、作戦や戦術を考える役割でもあります。
 演奏者を「まとめ」音楽を「まとめ」るための計画を立て、実践するのが指揮者だと思います。野球で例えるなら「コーチ」と「監督」を兼任する「プレーヤー」に似ています。
 演奏するひとたちが「プロ」の場合と「アマチュア」の場合で、指揮者の果たす役割が大きく違います。プロの演奏者を指揮する場合、演奏者の「技量」についての指示をすることは、演奏者のプライドを傷つける場合もあり喜ばれませんし、必要もありません。一方で、学生やアマチュア演奏者を指揮する場合には、演奏技術を伸ばしながら音楽を作る「指導」が必要です。
 アマチュア演奏者に足りない技術を具体的に指摘し、解決方法と練習方法を示すことができなければ、指揮者の注文はただの「絵に描いた餅」にすぎません。
 どう演奏すれば、どんな音・音楽になるのかを説明する能力です。
つまり「アマチュア演奏者の指揮をアマチュア指揮者が指導できるか?」ということです。「それこそ!アマチュア精神だ」と考えるのはあまりに浅はかです。
 その昔、高校オーケストラの全国規模イベントに参加した際、当時の文部省の「おえらいさん」がリハーサルを終えた夜のレセプションで挨拶されました。
「演奏が子供たちなら、指揮も子供がしたほうが良い」との仰せでした(笑)
 聴こえるかもしれない声で「だったら授業も生徒がやれば?」と独り言を言ったのは。私です(笑)音楽を知らない、指揮者の役割を知らない人にとって、ただ腕を動かして「踊っている」のが指揮者に思えるのでしょう。さすが!文部省!

 私はヴァイオリン・ヴィオラと言う楽器しか演奏できません。
チェロもコントラバスも、フルートも…数あるオーケストラの楽器の中で、演奏できるのはたった2種類。その他の楽器の中には、音も出せない楽器があります。それでもアマチュアオーケストラの「指揮・指導」ができるのか?
 演奏できなくても「上達のための正しい演奏方法」は学びました。
本で読むのではなく、実際にプロの演奏家の指導する言葉、演奏を観察し覚えました。どうすれば?どうなるのか?と言う「引き出し」をたくさん作ることが指揮者の仕事です。アマチュアの演奏技術は、個人差がプロの比較にならないほど大きいのです。練習できる環境も違います。そのひとりひとりのプレーヤー「できること」を教えなければ、いつまでたっても上達しません。
 20年間、ゼロから始めて150人の大オーケストラを育てた中で、本当に貴重な体験をしました。多くの子供たちと共に学びました。
 指揮法について最後に書きます。
世界中に様々な「指揮法」があります。どれが正しいとは誰も言えません。
演奏者が「わかりやすい指揮」もあれば「引き込まれる指揮」もあり、一方で「どこに点があるのかわからない」指揮や「音楽と無関係な動きで邪魔」な指揮もあります。それでも指揮は指揮です。
 音楽高校、音楽大学時代に数多くの「指揮者」の指揮でオーケストラを学びました。その先生方の多くは「斎藤指揮法」と呼ばれる指揮法で指揮をされていました。中には違う指揮法で振られる指揮者も当時はおられました。
 指揮者は「指揮の技術」で、自分の表現したい音楽を演奏者に伝えるもの?でしょうか。どんなに優れた指揮の技術を持っていたとしても、その「指揮法」を演奏者全員がすぐに理解できるとは思えません。人によって違うのが指揮法です。指揮者によって違う「音を出してほしい点」の出し方が違います。指揮者によって、その点と音がずれたことを許容する人と全く許容しない人がいます。
演奏者が指揮者の「個性」を知り、演奏者に「指揮者の意思を伝える」のが練習であり「信頼関係の構築」です。
 カリスマ性の高い人が指揮者に向言えていると言われます。演奏者に対して「低姿勢」な指揮者は演奏者に「なめられる」とも言います。私も若いころ、そう思っていました。事実、子供たちを指揮する時に「お山の大将」になりきることを第一に優先していました。それは必要なことでもありました。特に大人に対して反抗的な年齢の思春期世代を相手に「指揮」をするという事は、大人相手とは違った「動物的な上下関係」も必要でした。
 もっと小さな子供や、自分より年上のアマチュア、音大生、プロの前で指揮をするようになってから「笑顔で練習できる」指揮者になりました。たまに切れますが(笑)以前のような「威圧」は出来ないし、不要になりました。

 どんなオーケストラであっても、演奏者がひとつの音楽を奏でることに変わりありません。アンサンブルと同じです。ふたりで演奏するのなら「相手」を相互に理解するだけです。それが80人になれば、お互いを完全に理解することは理論的に不可能です。「誰か」の考えにみんなが合わせるしか方法はありません。ある意味では「独裁的」でもありますが、人間関係がなければだれも演奏しませんから「独裁者」は指揮者になれません(笑)オーケストラと指揮者の理想的な関係は「対等」であるべきです。人数比率で言えば「指揮者:オーケストラプレーヤー=1:80~100」です。指揮者はプレーヤーの一人一人を「理解」する努力をし、演奏者は指揮者をより深く理解しようとする努力をするべきです。
 指揮者は演奏者のために指揮をします。演奏者は?聴衆のために指揮者に合わせます。それが「対等」な関係を生み出すための「関係性」だと思っています。
 私は、指揮者の名前をつけたオーケストラが嫌いです。それを提案した人の「思い」があったとしても、受け入れて指揮をする指揮者には寒気がします。そこまで?崇め立てられたいのかな…と思います。断れば済むのに。
 最後にネガティブな内容で申し訳ありませんでした。
お読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ターニングポイント

 上の演奏は、私が高校3年生当時に銀座ヤマハホールで行われていた恩師「久保田良作先生」門下生による発表会での録音です。
 卒業試験前の発表会は「試験のリハーサル」でもありました。
演奏している曲は、ハチャトゥリアン作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。ピアノを演奏してくれているのは「あの!笑」清水和音君。
 今聞いて思うのは「練習したね~」

 人それぞれに、それまでの自分の生き方や価値観、感じ方が変わる瞬間があります。後から「あの時」と思い返すこともあります。その「ターニングポイント」は一生のうちに何度も訪れるものかもしれません。
 楽器を演奏することが「趣味」だったり「習い事」の時期がありました。きっと今現在がその段階の人がほとんどだと思います。それはそれで、人生のアクセントとして素敵なことです。大切にしてほしいと心から願います。
 本人の「やる気」とは別に親の思いや周囲の人の期待があります。特に子供の場合には本人の意思より、親の気持ちが先行することの方が圧倒的に多いですね。「いやいや練習する」時期を超えた先にあるものは?自発的に練習する「意思・意欲」を持つことです。学ぶ環境によって、大きく変わるのも事実です。
 学校の友達と遊ぶのは、ごく自然なことです。その友達がたとえば「不良」だったら(笑)不良の仲間になることも十分にあり得ます。友達に影響されることも成長過程で必要な体験です。

 私は中学3年生の夏休み頃まで、クラスの友達同様に都立高校を受験するのかな?程度に自分の進路を考えていました。両親は兄への期待と希望に、見事に応えてくれた「兄の進学先」で十分に満足していたのか(笑)私の進学には、ほとんど一言も「期待」を示しませんでしたので、私がそう思っていたのも自然なことだと思います。久保田先生のレッスンで音楽高校の受験を「お試し」程度に勧められたのが、まず大きな「ターニングポイント」でした。それから受験までの期間はひたすら「受験のための」時間でした。
 桐朋女子高等学校音楽科(共学)に入学してからの2年間。私にはただ「場違い」な学校に間違って?来てしまったという思いしかなかった気がします。友達と音楽で「遊ぶ」ことを覚えもしました。年に2回の実技試験もなんとか乗り越えました。自分のヴァイオリンに「自信」のかけらもなく、当然「目標」もありませんでした。一種の「燃え尽き症候群」だったのかもしれません。

 高校2年の終わりに、同門の先輩である小森谷巧(こもりや たくみ)先輩の卒業演奏会で演奏されたハチャトゥリアンに素直に憧れを感じたのを覚えています。ピアノは先輩にとって後輩である(私と同期)清水和音君が演奏していました。自分が高校3年の「卒業試験」を迎えた時期、師匠である久保田先生にハチャトゥリアンに挑戦したいと恐る恐るお伺いを立てました。てっきり「無理だからやめておきなさい」と言われると思いながら。お返事は「やってみなさい。小森谷君に楽譜、写させてもらいなさい」と言う思ってもいなかったお返事を頂きました。
 今現在でも進歩はありませんが(涙)、当時このハチャトゥリアンのような調性が判断しにくく、臨時記号の多い曲は「超」が100個以上つくほど苦手でした。そんな私がこの曲を選んだ理由はただ一つ「先輩の演奏へのあこがれ」だったとしか思えません。自宅で練習しながら、カセットテープに録音しては聞き返し、また練習しては録音し聞き返し。それまで「適当」に練習していた自分とは、まったく違う練習の質と量でした。自分の音に大声でダメ出しをすることに、母親が心配になったのか(笑)私の部屋をのぞき見していたのを覚えています。

 ピアノを和音君に快諾してもらい、卒業試験を終えました。
試験後に和音君が学生ホールで、同期の友人たちに「謙介、うまくなったよ!」と話しているのを聴いて、正直にうれしく感じました。
 試験の結果(成績)には、まったく興味がありませんでした。
それまでの自分の「演奏」と「練習」を考えれば当然のことです。
卒業試験の成績上位者数名が「卒用演奏会」に出演できることは、もちろん前年から知っていましたが自分には無関係の事でした。
 成績が手元に知らされるより先に、久保田先生のレッスン時「よく頑張ったね。卒業演奏会にあと、0.いくつだったんだよ。惜しかったね」と伝えられて驚きました。誰が?と(笑)久保田先生に褒めて頂いたのは、これが最初(で最後?)だったかもしれません。
 自分が出られるとも、出たいとも思っていなかった「卒演=卒業演奏会」当日、当時なんでも話せていた後輩女子君(彼女ではないところがミソ)と都市センターホールに…。途中で引き返したくなった私に、その後輩から「ちゃんと聴いて帰りなよ!」と叱られた記憶があります(笑)
 初めて自分の演奏と他人の演奏を「比較」して、悔しいと思ったのがこの時でした。これが第二の「ターニングポイント」だったような気がします。
 それまで、誰よりもへたな自分を安直に認め、対等どころか上を目指すこともなかった「価値観」が大きく変わりました。俗にいう言葉で言えば「やればできるかも」←かもがつく(笑)

 その後の大学での音楽生活は、自分の演奏に「自信を持つため」の練習だったように思います。そう簡単に感じられるはずもなく、常に挫折感を感じながら。
それでも高校1年生の時のような「無気力」ではなかったように思います。
 成果の出ないような練習ばかり(笑)していたような気もします。
大学4年の卒業試験で、ドボルザーク作曲のヴァイオリンコンチェルトを選びました。誰にあこがれるでもなく(笑)自分の意志で選び挑戦しました。
 卒業試験の結果は、めでたく卒演に選ばれるものでした。
という結果を知ったのが「留年決定!=卒演の出演取り消し!」が決まった卒業認定会議直後、恩師の怒鳴り声で聴いてしまうという「ドラマチック」なオチでした。
 サイテー(笑)
この留年も結果的には私が教員になる布石になりました。もし、あのまま卒業出来て卒演に出られていたら←なにを今更。教員にはならずプロオケにアシスタントコンサートマスターとして入団していたはずです。そのお話も留年と共に立ち消えました←当然(笑)結果、翌年に偶然張り出された「教員公募」に応募し、なんの間違いが?採用される運命になるわけですから、今の生活は留年がなければなかったのです!
 …と、胸を張って言えることでもなく。むしろ恥じるべきことですし、親に迷惑をかけたことを悔やみます。
 そんなわけで、生徒の皆様も「いつか」ターニングポイントがあるかもしれません。その時に「やっておけばよかった」と後悔しないためには、今練習するしかないのです。頑張れ!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜には書かれていないこと

 映像は2014年のデュオリサイタル6、代々木上原ムジカーザで演奏した、ピアソラの「オブリビオン」ヴィオラとピアノによる演奏です。
 今回のテーマは「楽譜に書かれていること・書かれていないこと」につていです。
楽譜を良く見えなくなってから書くのもいかがなものかと(笑)思いましたが、お許しください。

 ヴァイオリンやピアノのレッスンで、楽譜に書かれている記号や指示を見落としたり、その指示通りに演奏していないことを先生に注意される…という経験はきっと誰にでもあることだと思います。それが「間違い」だと判断される場合と、間違いではないが「指示に従わなかった」と言う問題の場合があります。
 楽譜に書かれているのは?「音符・休符」以外にたくさんの情報があります。
・ト音記号・ハ音記号などの「音部記号」
・音部記号の右に書かれている「調性記号」
・その左に書かれている「拍子記号」
・音符の左側に書かれている「臨時記号」
・音符の上か下に書かれている「スタッカート」「テヌート」
・音符の上や下にある「アクセント」
・複数の運否を「弧=曲線」でつないだ「レガート=スラー・タイ」
・弦楽器の場合「ダウン・アップ」の記号
・指番号
・弦楽器の場合「弦」の指定
・音量や速度に関する記号(指示)
・表現方法などの記号
書き出したら終わらない(笑)
これらの「指示」の意味を理解できるための「知識」は必要です。
問題はここからです。
先述の「間違い」と判断されるのは、上記のすべて?なのかという事です。

 楽譜に書かれていることが、すべて作曲家の意図したもの=作曲家が書いた指示なのか?
と言う根本的な問題があります。言うまでもなく、現代使用される楽譜のほとんどは「印刷」されています。さらにその多くは「コンピューター」をワープロのように使って作られた楽譜です。
 大昔、楽譜は作曲家が「ペン」を使って手書きで書きました。スコアを書き上げた後、作曲家自身が「パート譜」を手書きした人もいるでしょうし、弟子や他人にお金を払って「代筆」してもらったものもあるはずです。
 人間が手書きで楽譜の一枚ずつを書いていた時代には「書き間違い」「写し間違い」があっても不思議ではありません。ちょっとしたインクの「にじみ」で音符が大きくなりすぎた…なんてざらにあったはずです。
 その時代に作曲された「楽譜」が現代に至るまでに「コンピューター」に入力されて印刷されるようになりました。一度、データ化された楽譜は写し間違えることなく、書き間違えることもなく複製されます。
 データを打ち込んだ人の楽譜
に生まれ変わります。つまり、私たちの使っている楽譜に書かれている情報は、誰かがコンピューターに打ち込んだ「楽譜」です。それは誰?(笑)
 楽譜に書かれているから「作曲家の指示」だと思い込みます。
手書きの時代でも、コンピューターの現代でも同じことです。
演奏者は「楽譜を信じる」しかないのです。作曲家自身が演奏するなら楽譜より「演奏した音」が正しい事にもなりますが、そうでない限りは楽譜を信じるしかありません。
 楽譜の通りに演奏していて「演奏不可能」な音が掛かれている場合も、極稀にありますが、売られている楽譜には少ないですね。
 ただ、様々な出版社の「同じ曲の楽譜」を見比べると、まったく違う音やリズムが掛かれていることは「ザラ」にあります。弓付け(ダウン・アップ)やスラー、指づかいに至っては「同じものはない」と言えるほどに違うのが当たり前です。ピアノの楽譜でも当たり前にあることです。
 間違いと判断されるのは?「音の高さとリズム」…それさえ、楽譜によって違う事もあるのです。装飾音に至っては「正解はない」のが「正解」です(笑)
 では、楽譜の指示は無視して練習するべきでしょうか?
ダウン・アップを間違って先生に「違う!」と言われたら「逆切れ」しましょうか?(笑)

 演奏者が自分で「もっとも良いと思う」指使い、弓使いを考えられるようになるまでには「書かれている通りに演奏する」練習を積み重ねるしかありません。
むちゃくちゃな指遣い・弓使いで、無理やり練習しても無駄な練習です。
むしろ「有害」な場合があります。レッスンで先生が支持する「音」「リズム」「指」「弓」で演奏できる技術を身に着けることが、先決です。
 そのあとで!楽譜の指示と異なった「弓」「指」で試すことができるようになります。
 音の高さやリズムを、楽譜と違う音・リズムで演奏する場合にはその根拠を説明できるだけの「演奏技術」と「知識」が必要です。そうでなければ、ただ単に「間違った」と言われるだけではなく、作曲家の意図を無視することになりかねません。

 楽譜に書かれていない情報とは?
私は楽譜の「コア」をまず考えます。装飾音やスタッカート、レガートなどをはぎ取り」音の高さと長さ(リズム)=メロディー」だけの状態にしてみます。
 その「骨格=輪郭」を練習するうちに「肉付け=色付け」をしたくなります。
少しずつ…試してはまた削り、違う色を付けてみる。
 具体的な演奏方法で言えば
・弓の場所(弓先・中央・弓元など)
・弓の圧力(アタックなど)
・弓の場所(駒の近くなど)
・弓の速さ
・ビブラートの深さ・速さ・かけ始める時間
・ポジション(使用する弦の選択)
・ひとつの音の中での「音量変化」
などです。楽譜に「フォルテ」が書いてあるから「大きく」とはずいぶん違うことがお分かりいただけるかと思います。
 最初の動画で演奏した「オブリビオン」も今演奏したら、きっと違う弓、指・音色で演奏したくなると確信しています(笑)自分では「よしっ」とその時に思ったはずなのに、あとで聴くと「ちがうなぁ」が正直なお話です。

 以前にも書きましたが、演奏家が演奏する「音楽」は作曲家の意図した音楽と違って当然です。作曲家自身が自分の作った曲=音楽を、自分の解釈だけで演奏したければ楽譜は残さないはずです。事実パガニーニはそうしていました。
 楽譜として世に出た「音楽」は演奏者の手によって「音」になります。
料理で言えば楽譜が「素材」で料理する料理人」が演奏者です。素材をどう?活かすかが演奏家の技量だと思っています。
 その演奏を聴く人が「いいなぁ=おいしいなぁ」と思ってもらえるように、研究し努力するのが演奏者=料理人です。聴く人・食べる人の好みは、全員違います。全員が「おいしい」と思う料理は存在しません。音楽も同じです。誰かが「おいしい」と言ったからおいしいと思い込んで食べるのではなく、自分にとっておいしいかどうかは「自分の感覚」がすべてです。
 楽譜を音にする「楽しさ」を感じられるようになるまで、まず楽譜の通りに演奏する練習をしましょう!「料理学校」で基礎を学ぶことは大切です。
「我流」の前に先人の考えてくれた「ひとつの方法」を出来るようにしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜を見ながら演奏できない視力になって変わった暗譜の方法

 映像は前回のデュオリサイタル14で演奏したピアソラ作曲の「グランタンゴ」ヴィオラとピアノによる演奏です。ヴィオラのパート譜10ページを暗譜して演奏しました。実際には前年のリサイタル時に暗譜して演奏したものを練り直して演奏しました。
 ご存知のかたも多いと思いますが、私が生まれつき持っている「網膜色素変性症」と言う目の病気は、治療方法が現在なく進行性のために、中途失明する患者が最も多い「特定疾患=難病」のひとつです。4歳頃に病気に両親が気付いて以来、50数年間と言う驚異的な「遅さ」で進行を続けています。進行の速さや発症の時期は患者それぞれに全く違います。症状のひとつが「夜盲=やもう」と呼ばれる症状で薄暗い場所で物が見えないというものがあります。健常者=多くの人は、映画館に入ってしばらくすると座席が見えたりするんですよね?私たちには「真っ暗なまま」で照明が光っている事しか見えません。
 もう一つの症状は「視野狭窄=視野が欠ける」症状です。見える部分=見えなくなっていく部分は患者によって違います。「中心視野」と呼ばれる部分がかけ始めると、次第に明るさを感じにくくなります。この視野狭窄が進行することで「視力」もなくなります。今現在、私の右目は中心視野の多くが欠けています。それでも、なんとか日常生活を妻の浩子さんの介助を受けながら送れています。

 さて、今回のテーマは「暗譜の方法」です。
視力をメガネやコンタクトレンズで「矯正」して両目で0.7程度あった40歳頃までは、楽譜を見ながら演奏できました。オーケストラで「ふたりで1冊」の譜面を見ながらの演奏もかろうじて出来ていたほどです。つまり、通常のひとと同じように「楽譜を覚える」方法だったと言えます。
 そのころの私を含め、多くのひとは楽譜を「見ながら」演奏できます。
読譜=楽譜をすぐに音にする能力を身に着け「初見」でほとんどの曲を弾ける技術を音楽高校・音楽大学で身に付けます。私もできました。その技術がないと「プロ」とは認められない時代でした。
 ・初見で楽譜を見ながら「譜読み」する。
 ・難しい箇所の指使いや注意すべきことを楽譜に書きこむ。
 ・次第に楽譜を見なくても暗譜で演奏できるようになる。
これが多くの場合「暗譜のプロセス」ですよね。
 今現在、私の練習方法は…
 ・音源があれば、とにかく覚えられるまで聴く。

 ・ヴァイオリンやチェロで演奏している音源であれば、指・弓使いなども覚える。
 ・楽譜を拡大し、パソコンのモニター(27インチ)横いっぱいに表示する。
 ・B4の用紙横向きで幅いっぱいに数小節拡大コピーする。
 ・楽譜を数小節ずつ覚える際に「指・弓・音色」も考え同時に覚える。
 ・覚えたものを楽器で演奏する。
この繰り返しです。生まれつき全盲の演奏家の場合は「点字楽譜」で覚えながら演奏されます。それと大差ありません。ただ、点字楽譜の方が早く読めるような気がします(笑)私はその点字をまだ読めません。

 この暗譜方法を「物造り」に例えると、始めの段階から完成した=出来上がった状態に近いものを造り、少しずつそれを組み合わせていく方法になります。この方法では作れないものもたくさんあります。一つの例で言えば、大型ジェット機を作る方法として「エアバス社」が用いている方法です。翼、胴体、エンジンなどを違う国々で作り、出来上がった部分を集めて「組み立てる」方法です。
家で例えるなら「プレハブ工法」が近いかもしれません。現場で柱を立て、壁を作り窓やドアを付けていく在来工法と違い、短期間に現場で組みあがります。

 さて、この暗譜方法で演奏するようになってから数年経ちますが、なんといっても1曲を通して演奏できるまでに長い時間がかかることは、どうしても避けられません。楽譜を見て演奏できれば「初見」で弾ける曲を、何時間・何日・何週間もかけないと演奏できない「苛立ち」はついて回ります。「みえてりゃすぐひけるのに!」と叫びたくなる(笑)思い出せない音があれば、止まるしかありません。そのストレスは想像以上でした。
 グランタンゴを最後まで通して演奏できるまでに、2週間程度かかった気がします。10ページを数小節ずつ…かなり気が長いですよね(笑)さらに、記憶を「効率化」するために、いわゆる再現部や似たようなパッセージが出てきたときには「前と同じ」で覚えるのですが、微妙に違うことが多く。山手線状態になることも良くあります。「今、なんどきだい?」(笑)です。
 これも、浩子さんの助けと協力があって初めてできることです。
ただ不思議なことに、頭の中にある「音楽」はヴァイオリン、またはヴィオラの「音色」でつながっているらしく、ピアノで音を出してくれてもなぜか?それまでの部分と連結しないのです。おそらく音名で覚えている部分より「音色」で記憶している要素が大きいのだと思います。困ったものです。
 覚えてしまえば、かなり安定して記憶を呼び出せます。それは今までよりも良いことだと思っています。楽譜ではなく「音楽」の演奏を記憶しているのかも知れません。

 できないわけではないはずですが、現在の私に浩子さん以外の人との「アンサンブル」は考えられません。迷惑をかけたくないという気持ちが先に立つからです。学生時代、オーケストラでストラビンスキーの「春の祭典」も暗譜して演奏していました。ただ、大学4年の時に「第九」でヴィオラのトップにしていただいた時、とにかく「弓」が覚えられずに2プルト目以後の方々に、多大なご迷惑をおかけした苦い記憶は消えません(笑)私の隣、トップサイドに山縣さゆりちゃんがいて、困った顔をしていたのも忘れられません。すみませんでした(笑)

 そんなわけで、音楽を覚える=演奏を覚えることが、演奏の手段になってから演奏中に考えることも変わったような気がします。少なくとも「楽譜」は頭にありません。昔なら今、何ページ目のどの辺りを演奏しているかを思い起こせました。それがなくなってから、音楽を「時間軸」で考えるようになったのかも知れません。視覚的な「場所」「楽譜」ではなく、一曲の中の「時間」を考えている気がします。それが良いのか?悪いのか?わかりませんが、それしかできない(笑)ので、自分の暗譜方法をさらに進化させることを考えていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラメンバーのソロ演奏

 動画は、桐朋女子高等学校音楽科(共学)で3年間同級生だった、元男子現おぢさん(笑)チェリストの金木博幸(かなきひろゆき)君の演奏動画です。
 高校入学当時、彼は札幌から単身上京し「男子寮」とは思えない「豪邸」に暮らしていました。4人部屋、古い民家の2階部分。トイレは1階にある一か所のみ。台所健洗面所が2階に一か所。窓の外には、美しいどぶ川。夜中にうるさくしていると、一階の大家さんが電気のブレーカーを落とす。この男子寮に私は入りびたり、3年間を過ごしました。この男子寮からは、多くのソリスト、音楽家が巣立ったことも書き添えておきます。

 高校在学中から学年唯一のチェロ専攻でもあった金木君の演奏は、いやがうえにも注目されていました。当時、桐朋は「チェロの学校」と思えるほど、チェロ専攻のレベルが高く、金木君もご多分に漏れない技術でした。
 高校2年でベーシックオーケストラからレパートリーオーケストラに「昇格」し、3年であっという間にマスターオーケストラに上り詰めました。
 高校時代からカルテット(弦楽四重奏)やピアノトリオを一緒に演奏して遊んでいました。同学年の仲間、後輩ともアンサンブルを楽しみました。高校生ながらお仕事を頂き、八ヶ岳などで演奏もさせてもらいました。
 卒業後、ピアノトリオを札幌で…と言う計画が、諸々あって流れてしまって以来、一時(かなり長い期間)交友が途絶えました。
 その後、彼が留学し帰国した際に現在の東京フィルハーモニーに入団しました。主席チェリストとなってからも、ソリストとしての活動を継続していることも素晴らしいことです。

 さて、多くのプロオーケストラが国内外に存在します。
2015年現在のプロオーケストラ(室内楽団)一覧です。

【日本オーケストラ連盟加盟のプロオーケストラ】
NHK交響楽団
大阪交響楽団
日本センチュリー交響楽団
大阪フィルハーモニー交響楽団
オーケストラ・アンサンブル金沢
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
関西フィルハーモニー管弦楽団
九州交響楽団
京都市交響楽団
群馬交響楽団
札幌交響楽団
新日本フィルハーモニー交響楽団
仙台フィルハーモニー管弦楽団
セントラル愛知交響楽団
東京交響楽団
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
東京都交響楽団
東京ニューシティ管弦楽団
東京フィルハーモニー交響楽団
名古屋フィルハーモニー交響楽団
日本フィルハーモニー交響楽団
広島交響楽団
兵庫芸術文化センター管弦楽団
山形交響楽団
読売日本交響楽団

【日本オーケストラ連盟(準会員)のプロオーケストラ】
京都フィルハーモニー室内合奏団
静岡交響楽団
東京ユニバーサルフィルハーモニー管弦楽団
テレマン室内オーケストラ
中部フィルハーモニー交響楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
奈良フィルハーモニー管弦楽団
ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉
藝大フィルハーモニア管弦楽団
岡山フィルハーモニック管弦楽団
瀬戸フィルハーモニー交響楽団

【室内プロオーケストラ】 
いずみシンフォニエッタ大阪
紀尾井シンフォニエッタ東京
神戸市室内合奏団

 2022年現在、統合合併したオーケストラもありますが、ずいぶんたくさんありますよね!ただ…これだけのプロオーケストラがあっても、毎年音楽大学を卒業する弦楽器・管楽器・打楽器専攻の卒業生を受け入れられる「受け皿」にはなりません。演奏家の供給過多の状況が長く続いています。卒業生のほとんど一部、卒業後にさらに何年も「アルバイト」をしながら練習し続けても入団できない人の方が圧倒的に多いのが現実です。その意味では「選び抜かれたひとの集団」であるはずですよね?現実は?

 楽器を演奏して生活する人を「プロ」と定義するならば、クラシック音楽の世界で「オーケストラプレーヤー」と「ソリスト」が代表的なプロです。
それ以外に数人の「アンサンブル=室内楽」で生活できる人も少数います。
ソリストが一番少ないのは言うまでもありません。多くの場合、ソリストは「音楽事務所」に所属しています。事務所がコンサートを企画することもありますし、事務所が演奏の依頼を受ける窓口になりソリストを派遣する場合もあります。いずれにしても、ソリストと呼ばれる演奏家は、明らかに演奏家の「頂点」だと言えます。

 聴く人の好みとは別に、プロの世界では「集客力」が演奏者の実力になります。それはオーケストラでもソリストの場合でも同じです。有料のコンサートに、どれだけの観客を集められ、どれだけの収益をあげられるか?が問われるのがプロの世界です。広告に使う費用も含め、すべての経費よりも「収益」が多くなければ、演奏家への方種は払えません。当たり前です。
 プロオーケストラの場合、正規団員には「給与」が支払われ、エキストラには「日当+交通費」が支払われます。正規団員になれば、定年までの終身雇用をするプロオーケストラがほとんどです。その「給与」だけで生活できない額しか支払われないオーケストラも存在します。さらに正規団員数を減らし、エキストラの人数を増やすことで人件費を抑えることがプロオーケストラでは「日常的」におこなわれます。
 一言で言ってしまえば「オーケストラの多くは赤字経営」です。
演奏会に来てくれる人が年々減っています。定期会員になってくれる観客の平均年齢が上がり続けています。若い人の「クラシック離れ」が止まりません。
 それでも国内に「どんだけ~」な数のプロオーケストラが存在するのはなぜ?
需要があるのならわかりますが…。

 クラシック以外のポピュラー音楽の「ライブ」や「ドームコンサート」に、何千人、1万人規模の観客が集まる現状があります。ライブチケットの料金は安いものではありません。それでも人が集まります。アイドに特別な「個性」があるとは言い切れません。日本のオーケストラにも「個性」は感じられません。単純な話、オーケストラが多すぎることが最大の問題だと思います。
 また音楽大学も多すぎると感じています。音楽大学の質も問題です。卒業後にプロの演奏家として、十分な能力を身に着けていない若者を毎年輩出し続ける音楽大学の責任も問われるべきです。
 クラシック音楽の「プロ」を育てるために、需要=観客数に見合った数のオーケストラと卒業生を考えなければ、「プロになれない卒業生」が増え続け、観客の取り合いを続けることは変わらないと思います。
 

 最後に日本のプロオーケストラメンバーの「演奏技術」について。
正直に書けば「格差が大きすぎる」気がします。金木君のようにソリストとして通用する演奏魏zy通を持っている人が、どれだけいるでしょうか。特に「高齢の団員」に疑問を持っています。終身雇用のデメリットが表れている気がします。
 能力よりも年功序列。前回のブログ「音大教授の世代交代」と同様に、オーケストラ団員の平均年齢を下げ、定年年齢を下げ、給与をあげること。
「非正規雇用」のエキストラを減らしてやっていけるオーケストラが生き残ることが、残酷なようですがこれからのクラシック音楽業界には必要なことだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽の演奏と音楽理論

 ピアノやヴァイオリンを趣味で楽しむ人たちの多くが「音楽理論」と言う言葉に聞きなじみがありません。むしろ「知らない」かたが圧倒的です。
理論と言うと「学問」とか「相対性理論」が連想されるからでしょうね。
 たとえば「ドレミファソラシド」と聴いて、あなたはどれくらいの「説明」が出来るでしょうか?それが「音楽理論」のひとつです。
 ・イタリア語の音名
 ・長音階のひとつ
 ・ハ長調(C dur・C major)の音階
 ・幹音(かんおん)のイタリア音名
他にも関連することはいくらでもあります。
あれ?小学校課中学校で習ったような気がする?
はい正解。義務教育の音楽授業で教えるべき内容は、ごく限られています。
少ない授業時間のなかの多くの時間を「歌唱」と「鑑賞」と「器楽」に費やす内容が指定されています。
音楽理論を「楽典」と言う言葉で表すこともあります。言ってみれば「音楽の知識」です。それらを子供たちに教える「時間」が足りないのが一番の理由ですが、知識より実技!と言う現場教師の意向が反映されています。
 もう一つ、例題です。
 ・四分音符と八分音符を見分けができるか五線に書けるか
 ・長さの違いを説明できるか
「そんなの習ってない」?習ったはずですが(笑)
覚えていなくても小夕学校で「合唱」や「アルトリコーダー」って、やりません弟子か?四分音符の出てこない「楽譜」はなかったはずなんです。
「聴いて覚えたから楽譜は見ていない」人がほとんどですよね?
 つまり「知識」は習っていなくても、歌ったり楽器の演奏はできる!のです。
ん?それでは、音楽理論は「不必要」なのでしょうか?
 

 ユーチューブで「音楽理論」を検索すると、大半はジャズピアノを演奏するひとのための「参考動画」です。クラシック音楽を演奏して楽しむ人を対象にしている動画はなかなか見当たりません。
 ピアノやヴァイオリンを演奏している時、「音」と「運動」だけで演奏しようとする生徒さんがたくさんおられます。気持ちは理解で済ます。
 頭から「理論を覚えなさい」とは言いません。少なくとも私たちのレッスンでは(笑)
 趣味で楽しむ人ならいざ知らず、プロの演奏家を目指す音大生が「音楽理論」を学ばずに卒業している現実があります。すべての音大ではありませんが、実技のレッスン以外は「選択」で卒業単位を修得すれば良い音大が存在します。
 何をかいわんや(涙)
楽器を演奏する人に「音楽への好奇心」がないとしたら?
そのひとの楽器演奏技術が向上することはないと断言します。
好奇心は少しずつ「膨らむ」ものです。自分の好きなことに置き換えれば、すぐに理解できます。
 ゲーム好きな子供は「攻略方法」を探します。これが好奇心です。
お酒が好きなひとは、銘柄の産地、一番合う「あて」にも好奇心を持ちます。
好奇心は言い換えれば「こだわり」です。
音楽理論=知識は、「上達の土台」になるものです。
 ただ、土台だけあっても「うわもの」である演奏技術がなければ、ただの頭でっかちですし、基礎だけで家の立っていない状態です。
 

 楽器に関する知識も好奇心が膨らめば、自然に知りたくなるはずです。
先述の通り、音楽理論は特別に難しいことばかりではありません。
たとえば、物の長さを測る単位があります。重さをはかる単位があります。
それぞれに多くの単位があります。国や職種によって変わるもの「センチ・インチ」「メートル・フィート」「グラム・ポンド」「センチ・尺間」など多くあります。
 音の長さを表す単位は「秒」ではありません。比率で表されます。
四分音符:八分音符=1:2
ご理解いただけましたか?これも音楽理論です。
「♯=シャープが付くと半音高くなる」
小学校で習ったはずです。多くのアマチュア演奏家も答えられます。
では「半音を説明して」と問われたら?
・鍵盤で一番近い「隣同士の鍵盤」との「音の高さの差」
・いオクターブを12等分したうちの、一つ分の「幅」
・全音の半分の幅
などなど。「めんどくせぇ」(笑)と主輪うかもしれませんが、これを理解しないで楽器を演奏している人は、野球のルールを知らずにボールを投げ、バットでボールを打つことを野球と言うのと大差ありません。

 音楽の知識を学ぶことは、楽器の練習とは違います。むしろ言葉や文字で、音楽の「ルール」を理解することです。音楽理論の多くは、数学的な考え方が主になります。先ほどの「比率」もそうですし、「音の高さ」「高さの差」にしても理科で習った知識が大いに役立ちます。音楽を分析する時には「文法」に近い考え方も必要です。音楽の速さを表す言葉の多くはイタリア語です。フェルマータを「程よく伸ばす」と中学で教えますが、本来の意味は「停車場」です。その意味を理解したほうが、フェルマータの「感覚」を掴めますよね。
 知識は覚えただけで使わなければ「机上の空論」です。宝の持ち腐れです。演奏に役立てるか?はその人の考え方一つです。
 ぜひ、冒頭に掲載した「楽典」を一度、読んでみてください。「専門家になるつもりはない!」と言うひとも、きっと演奏しながら「これか!」と思うことになります。「好奇心」こそが上達の秘訣です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

大学教授に世代交代を!

 今回のテーマは、大学教授の高齢化に物申す!という固いお話です。
私は現在61歳です。自分の「高齢化」を感じるか?と聞かれれば身体的な面での「老化」は素直に認めます。一方で気力の衰えは感じませんし「まだまだ現役」と言う気持ちもあります。
 その私が感じる音楽大学教授の高齢化について、大きな危機感を感じています。ここで言う「高齢」は衰えを指すものではなく単純に「年齢が高い」と言う相対的な意味です。

 教師と言う職業に限らず、日本では「年功序列」制度が長く尊重されてきました。
また「老いては子に従え」という言葉もあります。
「職場」と言う閉鎖された社会の中で、組織の中で生き残ることは「目的」ではなく「生活のための必然」です。上司の能力が誰の目から見ても足りない時にでも、部下が声に出せないのが「普通」です。ましてや経営者の能力や、経営者に「近い存在」の上司には逆らえないのが組織です。
 とは言え、度を過ごした「上からの命令・指示」は、こんにち「パワーハラスメント」として扱われ許されない行為となりました。逆の場合でも度を過ぎれば「ハラスメント」として問題になります。
 いずれにしても「序列」がある組織の中で問題なのは「上に立つ人間の数と質」なのです。

 教員と言う職業は「指導」が中心であり、教員の能力は「指導力」を指すものです。指導能力が評価されるのは「指導の結果」です。
人間(学生や生徒)に指導する「領域=分野」があります。
音楽大学で学生を指導する教員にも「専門分野」が様々あります。
「専門」が「演奏」「作曲」「音楽学」の教員に求められる「指導結果」は、卒業後の学生が発揮する「能力」です。
 若い演奏家と高齢の演奏家で、どちらが演奏技術が優れているか?
当然、個人差で決まるもので年齢に関係はありません。
 指導力と言う面で考えると「経験」が重要という、ひとつの考え方もあります。それも「結果」によって評価が分かれます。
 つまり高齢なら良いレッスンをして良い演奏家が育つとは限らないはずです。
逆に言えば若い演奏家のレッスンで良い演奏家が育つことも、十分に考えられることです。
 結論を言えば「高齢の指導者が良い」とは限らないという事です。

 社会全体の高齢化は、医学と科学の進歩による「良い結果」です。
人間の平均寿命は、すでにピークを過ぎていると言う学説があります。
ひとりの人間が「生きられる時間」が、今までのように伸びることはないそうです。問題は「少子化」なのです。
 出生する人口が減り、寿命が今のままでも間違いなく「高齢化が進行することになります。その結果、何が起きているか?
 「働く人間の高齢化=人件費の高騰」と同時に「働かないと暮らせない年金額」と言う相反する問題を抱えてしまいました。
 雇用する側=大学にしてみれば本来、若い人を多く迎える方が人件費を抑えられることは、小学生の知識でも理解できるはずです。
 音楽家に限らず、これからの高齢者は年金だけでは生活できません。
現代80代の高齢者とは、まったく違う老後の人生なのです。
 年金で十分に生活できるなら、若者に働き口を確保するのは「高齢者のマナー」です。それが今、出来ない現実は、私たちの責任ではありません。
 まぁ今回はその「犯罪者」をあげるのはやめておきます(笑)
 音楽大学で「まだ働きたい」と考える高齢教授、さらには高齢者予備軍にとって、若い指導者に自分の椅子を渡したくない!と思うのも理解できますが…
 少なくても」若く能力のある指導者」を教授に迎えることを「邪魔するな!」と言いたいのです。若ければ良いとは一言も書いていません。
年齢に関わらず、能力の高い人を増やすことが音楽大学に求められているはずです。

 習う側の立場を考えれば、高齢教授が椅子を離れるべきか?誰にでもわかるはずです。多くの高齢教授は「ずっと教えている人」ですよね。定年を過ぎても働いているおばあちゃん教授が、おととい雇用されたって話は聞きませんから(笑)その、おばあちゃんに指導を受けたいと思う若者の理由を考えてみてください。その先生に習いたいと思う理由は「自分をうまくしてくれる」と思うから。それ以外にあり得ませんよね?「優しそうだから」「なにを弾いてもおこられなさそうだから」って理由?(笑)ないです。
 一番上の一覧表、グラフを見返して頂くと、定年年齢が高い大学も多い一面と、「教授平均年齢」が63~66歳って、異常だと思いませんか?定年と平均寿命が100歳ならわかりますけど(笑)
 若い教授が増えない理由はただ一つ。高齢教授たちがやめないからです。
能力を評価する「能力」が大学内部に必要なのに、それが出来ない。
もっとも客観的な「能力評価」は卒業生が音楽家として生活できているか?だけで十分把握できるはずです。
 私立大学の教授平均年齢が高いことにも疑問があります。
良い指導を行うために…と言う考えに私立公立の違いはないはずです。
私立音楽大学の経営者が音楽を知らないことにも一因があると思います。
さらに、高齢教授が「幅を利かせる」ことが当たり前になっている気がします。
 せねても教授平均年齢を50台に下げること、定年後は教授職を解くことが必要だと思っています。
 大学教員経験のない私の考えが、間違っていることもあるのは承知しています。自分をしどうしてくださった大学の指導者たちに敬意を持つからこそ、若く能力のある教授をひとりも多く、増やしてほしいと願います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

年齢で変わること変わらないこと

 写真は2022年9月1日に撮影したものです。
右側に座っている男性3名と左奥に座る私たち、
「桐朋女子高等学校音楽科(共学)25期生」つまり高校の同期生です。
浩子さんは、私たちの「後輩」でございます(今更詳細は伏せる(笑))
 当時の高校は1学年3クラス、一クラス30名。学年全体で90名。そのうち男子は11名。さらにその男子の中で、ピアノ専攻5名がA組に固められ、ヴァイオリン専攻2名(内1名が私)とチェロ専攻1名の合計3名がB組、作曲専攻2名とフルート専攻1名合計3名がC組に「ばらまかれ」ました。
 写真の右側に写っている「元男子」は、奥からフルート奏者の一戸敦、ピアニストの清水和音、手前がピアニスト落合敦の3名。61歳もしくは62歳の「おじ(ぃ)さん」たちです。

 この3人がちょくちょく「飲み会」をしていることは最近、知っていました。
一戸君は前回のメリーオーケスト定期演奏会で指導と演奏を快く引き受けてくれて、私が大学を卒業してから約40年ぶりにご縁が出来ました。
 落合君は次回(来年1月15日)の定期演奏会で、チャイコフスキーピアノコンチェルトの独奏をお願いし快諾してくれたり、私と浩子さんのデュオリサイタルにひょっこり!顔を出してくれたり、3年前には心不全で入院していた私の病室に、これまたひょっこりとお見舞いに来てくれたりのお付き合いです。
 和音君との再会は同期チェリスト結婚式で顔尾を合わせて以来、約30年ぶりです。
 3人ともそれぞれに、演奏家として指導者としての日々を送っています。
それぞれに家庭を持つ「お父さん」だったり「お爺さん」だったりもします。
親の年齢も近いわけで、見送ったり介護現在進行中だったりも私と同じです。
さて、この3人。高校時代つまり「15歳頃」と何か変わったでしょうか?(笑)

 1975年の話です(昔話)
私の印象で言えば、和音君は「異常にピアノがうまいが、同じかそれ以上にやんちゃ」な男子。一戸君は「聴音ソルフェージュが私と同じ底辺クラスで(笑)でもフルートはすげぇうまい。やんちゃは和音と同レベルで大食い」な男子。落合君は「妙にイラストがうまく、妙にポピュラーが好きな病弱ぶる(笑)仲良し」な男子。
 ちなみに、高校3年時に私の高校卒業実技試験のピアノ伴奏を和音君がしてくれました。大学2年時と3年時の実技試験で落合君がピアノ伴奏を引き受けてくれた記憶があります。
 高校卒業後、和音君は大学には進学せず、一戸君はディプロマコースに進み、落合君と私は大学に進みました。浩子さんも同じ高校を卒業後、大学に進学しました。

 和音君が20歳の時にロン=ティボー国際コンクールで優勝し、その後国内外で日本を代表するソリストとして演奏活動を行っていることは、ご存知の方が多いと思います。現在、桐朋学園大学で教授をされています。
 一戸君は、東京交響楽団を経て読売日本交響楽団の首席フルート奏者として長年活躍。
 落合君はドイツのビュルツブルグに留学。私が教職に就く直前に彼の留学先を根城にしてヨーロッパに留学していた同期の家々を渡り歩いた思い出の「中核」になってくれました(笑)その後、フェリス女子学院大学音楽学部教授として、またソリストとして活躍。
 みんな「すご~い!」と率直に思います。

 そんな私たちが「おじ(ぃ)さん」になって、屈託なく笑いあい話す内容は?
およそ、文字にすることは不可能としか思えない(笑)ような「やんちゃ」な話が95パーセント。残りの5パーセントには、音楽大学の問題・経済の話・カラヤンの話題・高級車や高級時計の価格高騰・ヴァイオリン価格の高騰など、きわめて一般的と思われる内容がごく一部。ただ、和音君が語った「昔さぁ、東欧の演奏家がね弓を日本に持ってきてさぁ…」のその弓が、今も使っている私の弓ですけどっていう「とんでもない偶然」もあったりしました。
 とにかく「昔のまんま」な彼ら(あれ?)
ですが、年齢相応に体形や姿も変わりました。頭の中身=性格はそのまんまなのです。変わったのは「優しさ」「思いやり」が自然に見え隠れする大人になっていることです。
 三人とも、1ミリも驕る態度がないのです。自分の演奏の話は、4時間の間(長い(笑))一度も出ませんでした。謙虚。なのです。それが何よりもすごいことです。
 いつまで元気でいられるかわからない年齢になりました。それでも昔の「友達」のままで話せて、お互いを気遣う事もできるおとなになれたこと。
 人との絆が人間の「宝物」であることを実感した一日でした。
最後に、和音君の昨年の演奏動画をご紹介しておきます。
お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


ヴァイオリン演奏に必要な「能力」

 映像は、斎藤秀雄氏が桐朋学園を立ち上げた頃の話を紹介している番組です。
私は斎藤秀雄氏が亡くなった翌年に桐朋に入学し、直接お会いしたことはありません。情熱を持って指導をされた音楽家だったことは感じていました。

 さて、今回はヴァイオリンを演奏しようとする人、あるいは実際に演奏している人にとって「必要な能力」について考えてみます。
 楽器の演奏に限らず、スポーツでも学問でも日常生活でも「身につける」ために必要な個別の能力があります。
 たとえばサッカーであれば、「走る」「ボールを扱う」「ルールを覚える」能力が必要ですよね。
車の運転なら「運転技術」「交通ルールを覚える」能力。
料理をするなら「調理の技術」「素材を選ぶ」「味を判断する」能力。
お医者さんなら「症状から原因を見つける」「治療する」能力が求められます。
 ヴァイオリンを演奏する時に「必要」な能力とは?

優先順位の高い順に考えます。
1.音を聴いて高さ・音色・音量を判断する能力
2.弓を使って音を出す能力(右手)
3.弦を押さえて音の高さを変える能力(左手)
4.楽譜を音にする能力
たったこれだけ!(笑)です。。どれが苦手ですか?

上記の1.の能力はヴァイオリン演奏で最も重要な「基礎」になります。
単に楽器を演奏する技術だけを身に着けようとする人がいますが、自分の音を聴いて判断する能力を「鍛える」練習が必要です。
ソルフェージュ・聴音で「耳を鍛える」ことが可能です。
生の演奏をたくさん聴くことも大切な練習の一つです。

2.と3.の能力は、弦楽器(ヴァイオリン族)特有のものです。
特に2.の弓を使う技術は「音を出す」と言う技術、そのものです。
いくら3.の左手を練習したくても「音」が出せなければ練習にもなりません。
弓を動かす運動の「大きさ」と「動かす部位」は左手に比べてはるかに大きく、複雑です。右上半身のほとんどすべての筋肉に影響されます。「右手一生」と言う人も多くいるほどです。観察する部位も多く、演奏中にまず優先的に考えるべき能力です。言うまでもなく、1.の能力「聴く」技術が不可欠です。
3.の左手をコントロールする能力は、上記の1.と2.の能力に「掛け算」されるものです。足し算ではない?音を聴く力、安定した音をだす右手の能力が少なければ、左手「だけ」の能力はありえないのです。上記の1.2.のどちらかが「0」なら左手の能力も「0」なのです。ビブラートも左手の技術ですが、これも1.2.の能力があって初めて身につく能力です。

4.の楽譜を音にする能力は、極論すればなくても上記の1.2.3.の能力があれば、ヴァイオリンをじょうずに演奏できます。事実、フィドラーと呼ばれるヴァイオリン奏者の中には楽譜を読めない人もたくさんいると聞きます。誰かと演奏するときでも、言葉と楽器で打ち合わせをすれば合奏できる「特殊な能力」です。
 楽譜を音にする能力は、ヴァイオリンを使うよりもピアノやソルフェージュで身に着ける方が短期間で効率的に練習できます。
 楽譜を音にする能力があれば、短時間で効率的に音楽を練習できます。「耳コピ」で音楽を覚えることができるのは、ある「長さ=小節数」までです。もし上記の1.の技術の中に「絶対音感」があるのであれば、この4.の能力よりも効率的です。それでも楽譜が読めた方が能率的に上達できることは事実です。

 ざっと(笑)書きましたが、これらの能力の中で、自分に足りない能力を考えることがヴァイオリン演奏技術を上達させることにつながります。
 実際、プロのヴァイオリニストであっても上記の中の「どれか」を練習していることに変わりありません。
 ヴァイオリンン以外の楽器を演奏する場合には、それぞれに違った「能力」が必要になりますが、上記の1.の能力はどんな楽器においても「不可欠」です。
すぐには身につかない能力ですが、今現在楽器を演奏している人ならだれにでも平等に身につけられる能力でもあります。あきらめずに!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ音楽を楽しむ文化が根付かないの?

 映像は「鏡の中の鏡」と言う曲名の音楽です。曲名だけ聴いても想像できる光景があります。音楽自体も、メロディーが「裏返し」に映っているように感じます。

 今回のテーマは音楽家にとって、共通の「命題」かも知れません。
音楽家だけの努力で解決できる問題ではない部分も多くありますが、まずは私たち音楽に関わって生活している人間が考えることはたくさんあると思います。
 クラシックに限らず、音楽を聴くことが生活の中にない人が殆どです。
ヴァイオリンやピアノを習いに来ている生徒さんでさえ、普段は音楽を聴かない…好きな音楽も特にないという人が大多数です。「そんな人はコンサートに来ないんだから関係ない」では済まされない問題だと思います。

 演奏する人間にとって、聴いてくれる人がいなければ職業として成立しません。当たり前のことです。
 演奏家の多くは、幼いころから長い時間をかけて練習し、時には折れそうになる気持ちに耐えながら「勝ち残った」と言う自負がどこかにあるものです。そのこと自体は素晴らしい事でも、誰かに聞いてもらわなければ努力も報われません。評価を受けることさえ出来ません。

 私たちが生きるために必要な「衣食住」とは別の「趣味」があります。言ってしまえば「なくても生活できる」事、物です。
 「車」を例に考えてみます。興味・関心のない方も、ちょっと我慢して読んでください(笑)
移動手段としての「自家用車」は、人によって必要度が違います。都心の駅近くに住んでいるひとにとって必要度は低いはずです。家族の介護に必要なひともいます。高齢でも自家用車がなければ、生活が困難な場所に住んでいるひともいます。それらの「必要度」が低くても高くても「車が好き」な人とそうではない人がいます。
 運転することが好きなひと。磨き上げて眺めるのが好きなひと。カスタマイズして個性化することが好きなひと。オフロードを走るのが好きなひと。速い車にエクスタシーを感じるひと…などなど様々です。

 登山やキャンプが好きなひとも多いですよね。健康維持のためにというひとも含めて、アウトドアで何かをすることが趣味の人もたくさんいます。
テニスやスキー、野球やサッカーを趣味で楽しむひとたち。
囲碁や将棋を趣味にするひとたち。旅行や食べ歩きが好きなひとたち。
読書や美術館で静かに過ごすのが好きなひとたち、写真を撮影するのが好きなひと、お酒を飲むのが大好きなひとたち…
 趣味の世界は本当に幅広く存在します。それらを「職業」にする人もいます。
プロのスポーツ選手、プロの登山家、プロの棋士、プロカメラマン、旅行評論家、料理研究家、ソムリエ、美術品の鑑定士など「趣味」で楽しむ人とは明らかに一線を画す「専門家」でもあります。

 趣味にもブームがあるのは事実です。話題になったスポーツが流行るのは昔にもありました。古くはテレビで「赤胴鈴之助」が放送されると、剣道ブームが起こりました。「柔道一直線」で柔道ブーム、「アタックナンバーワン」と「サインはV」が放送されるとバレーボールがブームになりました。「巨人の星」で野球、「キャプテン翼」でサッカー。「のだめカンタービレ」で一瞬!(笑)オーケストラに注目が集まりました。

 今はテレビ離れが進み、映画も「大ヒット」が少なくなりました。
大衆音楽の業界で考えても、テレビ文化の影響が大きかった昭和の時代には「国民的アイドル」と言う言葉がありました。今やアイドルは「オタク」のひとたちの専門分野となりました。世代を超えてに流行する音楽も消えました。

 プロとして認められる「視覚」のある将棋を除き、ほとんどはプロの死角は明確ではありません。音楽で言えば演奏したり指導をして「報酬」を受け取れれば「プロ」と言えることになります。支払う側にしても基準のない演奏や指導にお金を払っていることになります。もっと厳密に言えば「演奏」だけで生計を立てられれば「演奏家」、「指導」だけで暮らせれば「指導者」だとも言えます。

 最後に上記の色々な「趣味」を分類してみます。
「屋外で楽しむ趣味」
・各種のスポーツ・登山・キャンプ・旅行・美術鑑賞・写真撮影…
「室内で楽しむ趣味」
・楽器の演奏・読書・カラオケ・囲碁将棋…

「ひとりでも楽しめる趣味」
・登山・キャンプ・旅行・楽器の演奏・読書・美術鑑賞・写真撮影…
「誰かと一緒に楽しむ趣味」
・各種競技スポーツ・登山・キャンプ・旅行・楽器の演奏・囲碁将棋…

「独学で楽しめる趣味」
・旅行・キャンプ・読書・囲碁将棋・写真撮影・美術鑑賞…
「習って楽しむ趣味」
・楽器の演奏・各種スポーツ・登山…

「初期の投資金額」
美術鑑賞<読書<旅行<囲碁将棋<スポーツ・登山・写真撮影・楽器の演奏

「楽しむ度に係る費用」
インドアの趣味<アウトドアの趣味

もちろん、上記には例外が多くあります。購入する用具や機材・楽器の金額はピンからキリ(笑)ですし、旅行先(近隣・海外)や方法(豪華客船・ヒッチハイク)でも違います。
 楽器の演奏に注目して考えると、
「室内で楽しめる」
「ひとりでも誰かとでも楽しめる」
「初期投資は必要(金額は様々)」
「習うための費用が必要(レベルによる)」
「子供でも高齢者でも楽しめる」
など、他の趣味と比較しても、多くの面で「誰でもいつでもどこでも長く楽しめる」趣味だと言えます。「楽器が高い」と言う先入観、さらに習うのにお金がかかり、習いに行くのが大変…がマイナスイメージですね。
 多くの人が自分の趣味にかける「お金」には寛容です(笑)
家族のことになると突然厳しくなったりもします。
高額な車・カメラ・スポーツ用品・キャンプ用品などに係る金額は、楽器より高いものも珍しくありません。
国内旅行で3拍4日…飛行機とホテル・食費だけでも、一人あたり5万円では厳しいですよね?年に2回旅行すれば単純に10万円。
それぞれの「価値観」です。一概に「高い・安い」は決められません。
 楽器の演奏を趣味にする人が増えることを願う人間のひとりとして、
1.「楽器は高い」イメージの払しょく。
2.「趣味で演奏できる音楽」をプロが浸透させる。
3.習ってひける「レベル=難易度」を明確にする。
4.合奏する「受け皿=環境」を用意する。
5.親しみと憧れを感じられる「プロの演奏家」であること。
「音楽は楽しい」ことを広め、浸透させたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

合同演奏会(複数団体演奏)で感じること

 映像は、その昔神奈川県内の私立公立高校からの融資メンバーによる弦楽+打楽器による演奏です。毎年夏に行われている「全国高等学校文化連盟総合文化祭」…長い(笑)と言うイベントでのものです。この時は徳島県だったかな…。
多くの団体が出演する演奏会。演奏する側も見る側も、運営する側も通常の演奏会とは違う「面白さ」「大変さ」と同時に「留意点」があると思っています。
 何よりも「自分たちだけ」ではないことを、すべての出演者が同じ感覚で理解することが絶対に必要です。演奏技術の優劣、演奏人数の多い少ない、人気のあるなし(笑)などを一切排除して、すべての出演団体が「平等」でなければ合同演奏会の本質を失います。

 教員として働いていた横浜市緑区で、近隣の高校の吹奏楽・管弦楽の合同演奏会絵画行われていたころの話です。その演奏会に初めて参加した当時、私の勤務していた学校オーケストラは、まだ出来て数年目。人数も50人ほどだったと思います。生徒たちを引率し、楽器トラックを私が運転して会場入り(笑)。
決められた時間通りに、各学校が舞台でリハーサルを行い、また決められた演奏時間内で本番の演奏を行う「約束」がありました。
 そんな中で、近隣で「うまい」とされていた公立高校吹奏楽部の「顧問」が、その約束を「ガン無視」して悠然と延々とリハーサルを長時間行い、そのため開演時間は遅れ、挙句本番でもプログラムに書いていない曲まで演奏する始末。
 私の勤めていた学校以外の高校生徒たちは、「あの学校だから…何も言えない」他の顧問教員たちも「あの顧問は●●連盟のおえらいですからね…」とだんまり。許せなかった若僧の私は、公然と抗議しました。予想通り「なに?文句あるの?へ~」聴く耳持たずの変人に、それ以上話す気もなく、それ以後の演奏会では打ち合わせ時に「リハーサル・演奏時間の平等厳守」を会議に提案し以後、その学校もぶつぶつ言いながら従っていました。。ちなみにその学校吹奏楽部は、顧問が定年退職した翌年、コンクールで地区予選落ちして部員数が10名ほどに激減し舞台から消えました。

 さすがに全国でのイベントとなると…と思いきやそうでもなく(笑)
意図的にではない「アクシデント」や「運営のトラブル」でスケジュールが遅れることは仕方のないことです。一度きりのぶっつけ本番ですから当然です。
 それを考慮して自分たちのリハーサルを、短時間で終える気持ちが「マナー」だと思っていましたので、どんなに大人数で参加する時でも(確か徳島でも)私が指揮する団体のリハーサルは、前の出演団体からの「入れ替え確認」と「座る位置の確認」「演奏できるスペースがあるか確認」が終われば「次の団体との入れ替え確認」つまり、演奏はしませんでした。
 今のメリーオーケストラと「真逆」(笑)の超高速リハーサル。
回りの関係者や他校・他県の先生たちから「良いんですか?」「申し訳ない」「ありがとう」と言う言葉をかけられました。
 本番でも予定時間内ではありましたが、動画の「ヘアースプレー」を演奏する前に、チャイコフスキー弦楽セレナーデの終楽章を演奏しましたので、その曲間を1秒でも短くすることを、予め演奏する生徒たちに伝えていました。
動画の冒頭部分を見て頂くと、前曲に演奏した弦セレの拍手が鳴っている時にすでに私は演奏者の方に向き直っているのがわかります。そして、生徒たちもすぐに楽譜を入れ替えています。ヘアースプレーの出だし、チェロとコンバス、ドラムとティンパニーなので、そこだけ確認し「じゃーん」(笑)
ドラムの池上君、そのあと座り直してます(笑)

 演奏している本人たち同士が「譲り合う」気持ちは客席で聴いている人にも伝わるものです。当然のこととして、どこかの団体だけが長く演奏すれば「どうして?」と言う疑問を持つ人もいます。「うまいと思っているから?」「人数が多いから?」後味の悪い印象を残してしまいます。アマチュアのコンサートにうまいもへたもありません。人数が多ければ「すごい」と言うものではありません。
色々な演奏を楽しく「聴き比べられる」ことを第一に考えて演奏するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

世代交代しても変わらないもの

 映像はチェリスト宮田大さんのレッスン風景。
現在36歳の宮田さん。こうしてレッスンをしている内容や話し方に「世代交代」を感じます。
 習う人に「年齢」や「演奏技術」の線引きありません。習いたいと思う気持ちは、他人からの評価とは無関係です。常にだれかから「習いいたい」と思う気持ちは演奏家にとっての生命線かもしれません。
 それらの人に「教える人」にも資格や基準はありません。伝えたい、残したいと思う気持ちがある人=指導者と、その人から何かを学びたい、吸収したいと思う人=弟子の「信頼関係」がなければ、なにも伝わることはありません。

 私たち60代が若い頃に受けたレッスンと、現代のレッスンは何が変わり、何が変わらないのか。
 当然のこととして、ある時代に「生きる人たち」は色々な世代・立場です。
社会全体、あるいは国内での人々が求める物も違います。
音楽以外の例で言えば、日本国内で美無教育を受ける子供たちへの「教育・しつけ」に対する大人の考え方の「変化」です。いわゆる「ブラック校則」が当たり前だった時代がありました。教師と児童・生徒とのかかわり方も変わり、学校と保護者の関係も変わりました。それこそが社会の変化だと思います。
 何が正しいのか?という基準も変わります。大きな変化は少子化と学校の増加です。音楽教育の世界にもその波と無関係ではありません。
「サマーキャンプ・音楽祭」と呼ばれるイベントは昔からありました。
公開レッスンも私が学生時代から頻繁に行われています。
 海外の演奏家や指導者が来日し演奏するのも、当たり前のことになりましたし、著名な演奏家が在京の音楽大学で「常勤」していることも珍しくなくなりました。
 海外の音楽学校に留学するのが、大変だった時代もありました。その当時の為替を考えても、1ドル=360円だったわけでどれほど大変だったかを考える参考になります。

 音楽教育もグローバル化しています。どこにいても、世界的な演奏者の指導が受けられます。海外のオーケストラの日本公演も「希少価値」はなくなりました。そんな現代のレッスンです。指導する人間の「質=内容」も変わってきました。
 演奏家自身が自分のファンを増やすためにも、レッスンの場を増やすことは有意義です。「人間」としての魅力が第一に酔われる時代ともいえます。
ただ演奏がうまい…だけでは、人としての無力とは言えません。レッスンを受けた人の「印象」が悪ければ、指導者としてだけでなく演奏家としても嫌われる時代でもあります。
 椅子にふんぞり返ってレッスンをするのが裕rされた時代から、本気で弟子に向きあえる指導者が求められている時代になりました。
 これからの日本音楽界を支えるのは、宮田大さんの世代の人たちです。
暖かく見守りたいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 
 

アマチュアオーケストラの席順って何?

 上の表は「メリーオーケストラ極秘文書」(笑)冗談です。
お名前は「かりのおなまえ」です。その横にある数字(小数点)は、ヴァイオリンのバートと席順=座る位置を表しています。
たとえば「1.03」の最初の」1」はヴァイオリンのパート=1がファーストヴァイオリンで2がせKんどヴァイオリンを示しています。
その右の「.03」は3番目の席順を表します。
一番上の行の「前半1曲目」からアンコールまでの一覧表です。
じっくり見ていいると…目がチカチカしますよ。いや、一人ずつ見てみると気づくことがありますか?(テストみたい(笑))
たとえば、一番上にいる「ゆかさん」は、前半がファースト、公判がセカンドです。さらに、前半の1曲目は「1.01」なのでファーストヴァイオリンのトップに座ります。いわゆる「コンサートマスター」の位置です。前半2曲目になると、ゆかさんは「1.10」に移動します。おお!大移動(笑)
 おや?気が付いた人がいるかな?
「えりかさん」「みずきさん」「くららさん」「あやさん」
ずっと同じ数字!「ひいきだ!」(笑)この4名が、メリーオーケストラのヴァイオリン指導スタッフなんです。「野村謙介はさぼるのか!」はい。私、一応指揮などをしている手前、ヴァイオリンだけの面倒は見られません。
なぜ?4人も?実際、毎月4名の方が来られるわけではないのです。皆さんお忙しいので、誰か一人でも来てもらえるようにとの配慮です。本番で演奏して頂く席順は決めてありますが練習時はどのパートも指導してもらいます。

 この席順を決めているのは?
すべて私の独断です。誰にも相談もしませんし突然、会員にお伝えします。
「独裁者だ!」「ぷーさ(ち)んだ!」なんとでも行ってくださいませ(笑)
目的があります。ヴァイオリンのメンバーに、1回の演奏会で、出来るだけ色々な「体験」をしてもらうためです。
プロのオーケストラの場合に席順は「演奏技術の序列」を表します。
ファーストヴァイオリン>セカンドヴァイオリン
席順の2番>3番
ちなみに、コンサートマスターは「契約団員」です。他の団員と違い「1年(あるいは2年)契約」で更新をしなければ他のコンサートマスターに変わります。給料も一般の団員と比べはるかに高額です。休みも多い。さらに数名のコンサートマスターの中でも「序列」があります。それがプロの世界です。

 アマチュアオーケストラの中で、序列を決めることについて、私の考えを書きます。
20年間、中学・高校のオーケストラを作り育てた経験でわかったことでもあります。
「メンバーの向上心を高めるために序列は必要か?
これは、テストの成績を貼り出す方法についてと同じ問題です。
テストの「上位者」だけを貼り出す場合、それがやりがい=向上心につながる一面は確かにあります。全員の成績序列を貼り出すとしたら?向上心を高める効果より「みせしめ」の意味になります。成績が悪かった生徒にとっては、まるで公開処刑です。
 オーケストラのパート分け、席順をプロのように演奏技術の序列で決めたら?
これも、公開処刑になります。なぜなら、前の方で演奏していメンバーは「きっと上手」で後方のセカンドの人は「へたくそだから、あそこなのか」と客席に示していることと変わりありません。
 これでメンバーの向上心が高くなる?いいえ。ありえません。20年間の教員生活の間に、試したこともあります。逆効果です。人間関係を壊す結果以外になにも生まれません。

 以前書いたかもしれませんが、部活オーケストラで私が実践した「向上心を竹mる」手法を一つご紹介します。
 1.パートと席順を、学年や経験に関係なく「抽選」で決める。
 2.その結果、自分のパートや席順より「前=ファーストの1番など」で演奏したい場合は、その位置にいるメンバーに「公開オーディション」を申し込む
 3.申し込めるのは「同学年」または「上級生」に限り、下級生に対しては申し込めない。
 4.自分の位置から「後方=セカンドの一番後ろなど」への申し込みはできない。
 5.公開オーディションの判定は、指揮者(私)一人の判断で行う。
 6.オーディションの結果によって、二人のパート・席順は「そのまま」か「入れ替え」のどちらかになる。
 7.一人のメンバーは同じメンバーに複数回、挑戦できない。
どうですか?試してみませんか?(笑)特許申請はしていませんので、ご自由にお使いください。

 最後にアマチュアオーケストラにおけるコンサートマスターの役割と席順について考えを書きます。
 結論から言えば、「演奏前のチューニングの仕切り」をすることさえ、アマチュアには難しいことだということです。
アマチュアオーケストラのコンサートマスターをプロの演奏家に移植する方法もありますが、私は否定的です。むしろアマチュアのできる範囲のことで良いと思っています。ちなみに、メリーオーケストラの演奏会で「コンサートマスター」の場所に座る会員のチューニングは(実は全メンバー)ステージに出る直前に、私やプロの指導者がチューニングしています。ステージでは「A」を出しているだけです。(笑)それでも役目は果たせます。
 セカンドを演奏する方が難しい場合も多くあります。逆の場合もあります。
前方で演奏すると後ろからも音が聞こえます。その代わり、自分のパートの「弓」を見る「前の人」がいませんから怖いのです。後方で演奏するヴァイオリンは、前の人の弓を見ることができるので、アップ・ダウンの間違いは減らせますが、後ろから音がしないので不安になります。
 どこで演奏数か?によって、色々な違いがあるのです。難しさの種類も違います。それを体験することも、アマチュアの楽しみ方の一つです。
 単純に演奏のクオリティを高めるだけがアマチュアオーケストラの目指すものではありません。それを前提にして、パートや席順を考えるのが「指導者」の責任だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・指揮者 野村謙介

ヴァイオリンはクラシック音楽を弾く楽器?

 映像は私が、ぼかしを全体に入れました。お許しください。
演奏しているのは典型的な「ロックバンド」にヴァイオリンソロの女性が加わっているものです。偶然に見つけた動画です。
 今回のテーマである「ヴァイオリン」という楽器は、いわゆる「クラシック音楽」だけに使用する楽器なのか?と言うお話です。

 先に申し上げておきますが、私はクラシック音楽を学んできた人間の一人としても、また音楽を聴くことを趣味としている人間としても、クラシック音楽というジャンルについて「つまらない」とか「古臭い」とは1ミリも思っていません。当然、ロックやポップスを「軽い音楽」とも思っていません。
 ヴァイオリンと言う楽器が、400年近い歴史を持つ古典的な楽器でもあり、その楽器のために多くの先人たちが音楽を作ってきた「歴史」を否定することは、誰にもできません。それを前提としてお読みください。

 この動画の演奏は、明らかにヴァイオリンに「収音」するための装置を付け、電気的に音量を増幅=大きくした上に、音色にも電気的な加工が加えられています。ただ、元のちゃんとした(笑)映像を見る限り、ヴァイオリンを演奏している女性は、クラシックの演奏技法を学び、相当の技術レベルに達している奏者であることは間違いありません。おそらく「クラシック音楽のヴァイオリン演奏を専門的に学び、全く違うジャンルの音楽を演奏している人」です。
 日本人のヴァイオリニストでも、何人もこの系統の演奏者がおられます。
私の良く存じ上げている先輩にもいらっしゃいます。
 間違った先入観を持たれないために付け加えますが、「この手」の演奏者が全員、クラシック音楽で「食えない=プロとして技術不足」で、この道に進んでいるとは「限りません。」限らない…と書いた裏に、正直に申し上げて私が「そう」感じる人も少なくないことも書いておきます。
 「クラシックの演奏で生活できる技術レベルにないから」ポピュラー音楽の演奏家に転身することを、悪いとは思いません。その人の考え方の問題です。クラシック音楽を演奏することや聴くことが好きな人が、それらの人を悪く言うのは「優越感」に浸りたいからだと思います。

 ピアノの演奏で考えれば、クラシックに限らず多くのジャンルで使用される楽器であり、電気的なピアノは常に進化しています。
 打楽器でも、管楽器でも、声楽でもクラシック音楽の演奏技法を学んだ人が、違うジャンルの音楽で活躍している姿は珍しくありません。
同じ楽器を使って、まったく違う「種類」の音楽を演奏することを、否定するのは間違っています。単純に「好き嫌い」の問題でしかありません。
クラシック音楽とハードロックの、音楽的な違いがあります。その違いを演奏者自身が理解していることと、本人が本当に「ハードロック」を好きなのか?という根本的なことが「プロ」としての前提だと思っています。
 趣味でヴァイオリンを演奏する人が、ハードロックを好きでも不思議でもなく、なんの問題もありません。その人が、好きなハードロックをヴァイオリンで弾きたいとも宇野は、いたって自然なことです。
 単純に考えて、電気的に音量を増幅しないヴァイオリンでドラムやエレキギターと一緒に演奏しても、ヴァイオリンの音はまったく!聞こえません(笑)
 クラシックの演奏スタイルと違う「音響空間」でヴァイオリンやピアノ、管楽器を演奏する場合の特別な知識と、特殊な技術をもった「スタッフ」がいなければ演奏は成り立ちません。違う「芸術」だと言えます。

 常に音楽の演奏取り巻く環境は変化しています。クラシック音楽を演奏する「ホール」も昔とは違います。クラシックでも聴く楽しみ方は変わり続けます。
伝統的な演奏スタイルを継承することも、文化や芸術を後世に伝える意義があります。
他方で実験的な試みや社会のニーズに合わせた変化に対応する能力・考え方も大切です。
時代によって上記のどちらかに偏ることもあります。
新しいスタイルや文化は「古い=伝統的な」ものがあってこそ新しいのであり、古いものを捨ててしまえば、新しいものも生まれ育ちません。
 クラシック音楽のヴァイオリン演奏方法を伝承しつつ、新しいスタイルに挑戦すること、それを許容することが延いてはクラシック音楽の演奏を残すことにもつながると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ※ぼかし加工のない元動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=E2hZDzJp9Pc

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プロと一緒に演奏するとアマチュアはうまくなる原因

 映像は、今月7日に行ったメリーオーケストラ第41回定期演奏会より「ダッタン人の踊り」の動画です。
 手前みそが多分に入りますが、純粋に「あれ?うまいなぁ」と思います。
メリーオーケストラ「らしくない」と言うか「そんなバカな」と言うか(笑)
 いや、アマチュアオーケストラの演奏レベルとしては、十分「じょうず」だと客観的に思います。「もしかして、アマチュアの人が演奏した振りをしてる?」(笑)いいえ!小学生の会員も中学生の会員も私より年上の会員も「みんな」必死で演奏しています。
 確かに会員以外の「仲間」たちの演奏技術が尋常でなく高いことは事実です。
プロのオーケストラで主席フルートを演奏していた人、現役のプロオケ団員。最近の日本音楽コンクールで入賞した人などなど、一人ずつの経歴の「合計値」はアマチュアオーケストラに数人、エキストラが入っている演奏とは比較になりません。
 それは「ずるい」ことでしょうか?
もしこれが録音でコンクールに参加するとしたら「インチキ」です。
お客様を「だましている」ことになるでしょうか?
私は指揮者として、このオーケストラの創設者として、NPO法人の理事長として、何一つ間違っていないと確信しています。

 アマチュアの演奏者=会員が演奏を楽しみながら、上達する事がアマチュアオーケストラの「原点」です。そのための手段として、プロの演奏家と一緒に演奏することは、最高の環境です。しかも、お客様にしてもよりレベルの高い演奏を「無料」で聴くことができるのですから、「音楽の普及」と言うNPO法人の目的に合致しています。
 さらに言えば、プロの演奏者たちが「無報酬」で演奏してくれているのは、紛れもなくこのオーケストラの趣旨に賛同してくれているからに相違ありません。
 多くの仲間たち=友情出演者たちは、演奏会当日の午前中に行うステージリハーサルだけで午後2時からの本番を迎えます。通常ならもっと「バラバラ」になって当たり前です。アマチュア会員たちは六か月練習しているとはいえ、当日にプロの人たちに合わせる技術はありません。プロの人たちがアマチュアに「合わせて」くれているのです。そのことを会員たちも体感しています。

 プロの演奏技術を吸収することは容易なことではありません。動画やCDでどんなに勉強しても、自分に合わせてくれることは不可能です。しかも、すぐ隣の席でプロの演奏を聴きながら演奏できる「贅沢な感動」を味わえるのです。
 私自身、学生時代からいくつものアマチュアオーケストラに「賛助出演者=エキストラ」として演奏に参加させてもらった経験があります。多くの場合、初めてお邪魔して、演奏だけして挨拶をしてから演奏料=謝礼を受け取って「さようなら」のお付き合いになあってしまいます。アマチュアメンバーとお互いに会話をすることもなく、エキスtら同志も交流はほとんどありません。
 それと違いメリーオーケストラの場合には、賛助出演者は全員が私自身と、何らかのご縁がある人たちばかりです。毎回のように参加してくださる方もいれば、都合がつかず他のお友達や後輩を紹介してもらう場合もあります。そうした「きずな」がメリーオーケストラの中には自然と感じられるのが最大の魅力であり、通常のアマチュアオーケストラにありがちな「冷たさ」を感じない理由です。

 どんなにプロの演奏者が加わってもオーケストラとしては「アマチュア」なのです。それは演奏技術の問題と言うよりも「アマチュアならでは「のものです。
 自分たちのできる練習を、それぞれのメンバーがそれぞれの環境の中で行なった「結果」がすべてなのです。プロの演奏に求められる物とは根本的に違います。
そのアマチュア演奏者がプロの奏者と交流し、その「音」に感動しながら自分も一緒に同じ曲をえんそうする経験。これこそが上達の秘訣です。
 先ほども書きましたが「コンクール」のように技術の優劣を競うのはアマチュアオーケストラにとっては無意味だと思っています。もっと大事なことは、演奏を楽しみながら「もっとうまくなりたい!」と感じられる演奏を目指すことです。これからも、メリーオーケストラの演奏にご期待ください。
 最後まで読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習中と本番中の「頭の中」

 映像は、アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したときのものです。なぜか…再生回数が多くて驚いています。

 今回のテーマは「頭の中」つまり、演奏者が「考えていること」について。
人によって違うのは当然ですが、多くのアマチュアヴァイオリニストの人たちとレッスンを通して、演奏しながら考えていることを確かめてきた経験と、自分の練習中と本番中に考えていることの「違い」を基に書いていきます。

 練習をしている時に考えていることは?
・リズムや音程(ピッチ)が正しいか?
・音色と音量が思った通りに弾けているか?
・間違ったり納得できない箇所の原因は何か?
・無意識のうちに姿勢や構え方が崩れていないか?
色々と考えていますが、自分を「観察」することがメインです。
いかに自分の音、音楽、演奏姿勢を「他人の耳と目」になって観察できるか?がポイントです。現実にはできないことですが、自分の音と姿を離れた場所から冷静に観察する「もう一人の自分」を作ることです。
 練習は「できるまで」続けることですが、何を?どのように?出来るようにしたいのかを、手探りしながら繰り返す「根気」が不可欠です。もう一人の自分=練習中の先生は、興奮せず・妥協せず・結果を焦らない先生が理想ですよね。
「ダメ!」「ダメ!」だけで熱くなっても効率は下がるだけ(笑)
「もうその辺でいいんじゃない?」と言うアマアマな先生も困りもの。
「できないならやめたら?」と言う短気な先生には習いたくないでしょ?
練習中に考える時には、冷静さと根気が必要です。

 では、演奏会やレッスンの時に考えることは?
多くの生徒さんが「家で練習していると、時々すごくうまくひける」とおっしゃいます。また、発表会などでは「全然、普段通りにひけなかった!」ともいわれます。どちらも「ごもtっとも!」だと感じます。むしろ、それが当たり前です。
 練習している時には、観察し修正することを繰り返しています。
レッスンや演奏会では、修正も繰り返すこともできないのです。観察だけは「出来てしまう」のですから、ストレスになるのは仕方ありません。
 緊張するなと言っても無理です。良い緊張は必要です。演奏中に「おなかがすいた…」と思った瞬間に暗譜が消えた経験のある私が言うので、たぶん緊張は必要です(涙)
 普段練習している時と、環境が違う場所で「一度でうまく弾こう」と思うのですから、冷静さがなくなるのは自然なことです。それをいかに?コントロールするかが一番重要です。

 何も考えずに演奏することは不可能です。普段、考えてもいない「作曲家の魂」をいくら思い浮かべようとしても無意味です(笑)では、なにを?頭で考えるべきなのでしょうか?
 私の経験で言えるのは「いつもより優しい先生がアドヴァイスをくれている」イメージを持つことです。演奏し始める時も演奏中も、いつもと同じ「もう一人の自分」が自分を助けてくれる・演奏をほめてくれる・失敗をしても優しく励ましてくれる「イメージ」です。
 自分の意識の「中と外」の両方が存在します。考えている「つもり」の事が意識の中です。考えなくても身体が動くのが意識の「外」です。
 私たちは日々の生活の中で、この中と外を実に頻繁に使い分けています。
 ついさっき、外したメガネを「どこに置いたっけ?」と探す私は、意識の外でメガネをどこかで外して置いています。
 意識の中で行動することを繰り返して初めて「意識の外」つまり無意識に動けるのが人間です。
 練習中にはできる限り、運動を意識の中に入れて繰り返すことです。考えながら演奏することです。
 本番やレッスンの時に、無意識でも指や手が動く「時間」もあります。日常生活ならば仮に思っていない運動があったとしても困らないでしょう。でも、車を運転している時、完全に無意識になれば事故の確率は間違いなく高くなりますよね。
 演奏は楽しむものです。本番で間違えないことだけを意識するよりも、もう一人の自分が、自分の演奏を楽しむ姿を想像する方が音楽に集中できるように私は思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

無信仰でも演奏します

 映像はカッチーニ作曲の亜アヴェ・マリア。
私自身、神様や仏様を信仰する人間ではありません。だからと言って、信仰する人を変だとは思いません。何かを信じる気持ちは、人間が想像する力を持っていることの証だと思っています。あ。「想像」なんて言ったら怒られるのかな(笑)
 通っていた幼稚園はキリスト教系の幼稚園でしたが、両親ともに無宗教でしたし、家にはお仏壇もありませんでした。そんな私が演奏する「アヴェ・マリア」がインチキ(笑)だと信者の方に言われるのかもしれませんが(言わない?)楽譜として手に入る音楽や、普通に耳にすることのある音楽は、誰のものでもないと思うのです。所有権の問題ではありませんからね(笑)

 宗教的な音楽に限らず、世界中に多数存在する民族の「伝統的な音楽」があります。時間的に何十年、何百年経過したら「伝統」になるのか定義は知りません。音楽の場合、人から人に「歌い継がれて」現代も演奏される音楽と、「作曲者が楽譜に残した」音楽があります。さらに「録音が現存する」音楽も、歴史としては短いながらも、あります。
 日本でも「雅楽」「民謡」など伝統的な音楽があります。演歌を「日本固有の音楽」と言えるかどうかは意見の分かれるところだと思います。
 地球が一つの大陸だった頃から始まり、恐竜がそこら中にいた時代を経て、巨大な隕石の衝突などで地球上に氷河期があって…とにかく、恐ろしく長い年月をかけて人類が誕生した「歴史」があります。
 音楽がいつ?始まったのかを答えられる人はいません。
そもそも、どんな音を「音楽」に感じるのか?音楽と言える音とは?
なんて考えだすと、良く寝られそうです(笑)

 一人の人間が、生まれてから物心がつくまでの期間に、聴いて育った音楽のほとんどは、覚えていないのが普通です。「胎教」とか「英才教育」をどこまで?科学的に証明できているのか知りませんが、まだ解明されていない「遺伝子」の中には、自分のご先祖様が聴いていた音楽に反応する「能力」が…ないのか、あるのか(笑)
 私たちが演奏する音楽は、いわゆる「西洋音楽」です。西洋って…じぶんんおおざっぱですね。いいんですけど、別に。
 少なくとも、私のように日本で生まれ日本で育った両親の愛第二、同じように日本で生まれ育った「日本製」の人間にとって、日本の音楽もヨーロッパの音楽も「音楽」であって、特別な違いを感じないのですが?
 それは私が生まれた1960年当時にはすでに、西洋で作曲された音楽が、日本中で流れていたはずですから、当たり前だと思います。生まれてからずっと、民謡以外の音楽を聴かずに育った人が大人になって、ある日ベートーヴェンの運命を生で聴いたら?「うるせぇな!」と思うかも。

 ヨーロッパに留学した音楽家の皆さんが「作曲家の暮らしていた土地に行ってみると、何か感じる」とおっしゃるのを度々耳にします。私は、留学経験が一日もない人間ですので、その「感覚」は想像できないのかもしれません。
 ひがみっぽく感じるかもしれませんが、留学した人たちの「感じる」ものは、先述の「想像力」だと言えます。確かに、写真や映像、音を聴いただけでは感じられない「香り」と「肌に触れる空気」は、その場でしか感じられない五感の一つです。それは外国に限らず、海辺、山道、雪道などでも感じられる感覚です。
 信仰する人は、神様や仏様を感じると言います。また、愛を感じると言う言葉もあります。それらは、人間の五感ではなく「想像力」で生まれるものだと私は思っています。現実に存在するものではないのです。ちなみに「空気」は目に見えないし触った感覚がないだけで、現実に存在しています。その証拠に、空気のないところに行けば…苦しくなって気付いた時には、違う世界にいます(笑)
 音楽は「音」です。空気の振動です。確かに存在します。
音を聴いて、何かを感じるのは人間の想像力です。そこに「民族の血」や「作曲家の魂」やら「思い」を感じようとするのは、人間の欲望です。それが悪いとは思いません。人間は欲の塊ですから(笑)
 感じる人が優れているような伝え方には、不快感を感じます。
自分の想像したものを、他人に求めるのは、ただの押し売りです。何も優れてい入ません。ショパンの心に触れた!とか、聴くと「こいつ大丈夫か?」と思うのは失礼でしょうか(笑)とは言え、想像するのは自由です。敢えて言うなら、それを「想像できたから●●が出来た」と他人に言うのも、ご本人の自由ですが、信じない人からすると「変な人」にしか思われないと思います。

 想像したことを、言語化するのが逃げてな人はたくさんいます。
現実には存在しない「もの・こと」を言葉にするためには、言葉のボキャブラリーが必要です。人間の「五感」をすべて使って、イメージを言語化すると、案外簡単に言葉に出来ます。
・触った感覚=やわらかい・冷たい・つるつるなど
・見える感覚=明るい・まぶしい・立ちはだかる・落ちていくようななど
・聴こえる感覚=ささやきのような・遠くの雷鳴・せせらぎなど
・味の感覚=甘い・からい・酸っぱい・舌の上でで溶けるなど
・香りの感覚=自分の好きな花の香り・ご飯前の台所の香りなど
音楽から想像する「もの・こと」は、なんでも良いのです。
正解も間違いもありません。人によって違って当たり前です。
想像「できない」のではなく、「していない」のです。
子供でも大人でも、記憶にある「五感」があれば何かを想像できるはずです。
出来るなら、自分の好きな「五感」を寄せ集めて想像しながら演奏したほうが、演奏していても気持ちいいはずです。わざわざ「苦しい」「悲しい」「辛い」「痛い」「臭い(笑)」五感を想像しながら演奏する必要はありません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 
 

出来ない!と出来た!の繰り返し

映像は、メリーオーケストラ第2回定期演奏会の様子です。
2002年の夏。場所は杜のホールはしもと。ちょうど20年前の映像です。
当時10歳だった子供たちが、今30歳になり私は…(笑)
出来ないと思うことにぶつかることは、日々の生活でもありますよね?
出来ないと思う内容も様々です。現実的に「不可能」なことも確かにあります。
ある日突然、病気が治ってそれまで「できない」だったことが急に「できる」ことは、残念ですがほとんど不可能です。生き物の命も、蘇らせることは出来ません。
 一方で、出来ないと思っているだけで「できるかもしれない」こともたくさんあります。さらに「急には=すぐには」できなくても、時間をかければ「できるかもしれない」ことはもっともっと!あると思いませんか?
 できないと決めてしまえば、出来るようになる「努力」もしません。
つまり「時間をかけること」から逃げている場合がほとんどです。
「できないかもしれない」「できる気がしない」これも同じことです。
少なくてもできる可能性があることを「できない」と言うのは、現実逃避とできない自分を見たくないという「保身」の現れです。
 「もう年だから」「才能がないから」「やったけどできなかったから」
言い訳を見つけるのは人間の特技ですね(笑)特に「やっらのに…」という言い訳を使う時、「どれだけやった?」と言う肝心の言葉が抜け落ちています。
出来るまでやる!
子供でも大人でも変わりません。
出来ていないのは、まだ努力が足りないだけです。才能?年齢?全然無関係です。山登りの「途中」で引き返せば登頂できないのは当たり前です。途中で「登れなくなる」ことも実際にあるでしょう。でもそこで「次こそは!」と思う気持ちがあるか?ないか?の問題です。

 できるように…の「できる」を誰が決めるのかと言う根本的な問題もあります。習っている先生が「合格」と言えば「できた」と思う人もいるでしょう。
 自分の基準で「できた」「できていない」と判断するのが日常的な練習です。スポーツでも似たようなプロセスはあると思います。ただ山登りや、勝敗が決まる協議の場合は「できた=勝てた」か「できなかった=負けた」と言う二進法で判断できます。「少し負けた」はありませんよね(笑)
 楽器の練習の場合には、この二進法は無意味です。当てはまりません。
仮に先生が「できた」と言っても自分自身が「できていない」と思うこともあるはずです。逆のケースもあり得ます。自分の「基準」が優先するのは、誰でも同じことです。
 音楽の「できた基準」に客観的な基準は存在しません。すべてが聴く人、弾く人の「主観」でしかありません。だからこそ、自分以外の誰かの「基準=意見」を聴くことが重要だと思います。もちろん、一番大切なのは自分の基準です。
 他人が「じょうず」と言ってくれようが「まだまだへただね」と言われようが、自分の気持ちが一番優先されるのが「アマチュア」なのです。プロの場合は違います。自分の基準だけで「じょうず」は通用しません。当たり前です(笑)
 プロであっても、自分の演奏に対する「できている?できていない?」と言う判断は常に必要です。アマチュアと違うのは、その「線引き」のレベルが決定的に違うことです。アマチュア演奏者の場合には、どんなレベルであっても自分が満足できれば「できた!」なのです。それで良いのです!
 「まだまだ」と向上心を持つことは悪いことではありません。ただ、人によって「基準」をやたらと高くするアマチュア演奏家がおられて、見ていて気の毒でもあります(笑)もっと言えば、プロの演奏を基準にするなら、その時点でアマチュアではなくなります。
 演奏を楽しむことが、本来の音楽です。その意味で考えれば、プロの演奏家の場合、心から自分の演奏を楽しめていない人もいる気がします。
 アマチュアの人が、じょうずに演奏できるようになりたい気持ちを持ち続け、出来なかったこと=つらさやストレスが、「できた!」と自分で思えた瞬間に、それまでの練習が報われる喜びが何よりも大切です。
 できないままで終わらない。少しでもできるようになったら、自分をほめてあげる。自分の基準を大切にする。時には人の基準も参考にする。
 時間をかけて、音楽を楽しみましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートに演奏するには?

 映像は、ジョン・ウィリアムズ作曲の「シンドラーのリスト」を10年ほど前に演奏した動画です。スーパーマンのテーマやスターウォーズ、インディジョーンズ、AI、ジョーズなど多くの映画音楽を手掛けたジョン・ウィリアムズの悲しいメロディー。シンプルなリズムと覚えやすい旋律の素敵な曲ですね。

 ヴァイオリンでレガート=滑らかに演奏する時の「難しさ」について考えてみます。
 一般的に楽譜に書かれている「スラー」と「タイ」の記号が同じであることは、誰でもが知っています。ところがこの記号の本来の「奏法=意味」がレガートであることを知らない生徒さんが多くいます。legato=レガートというイタリア語で、音を切らずになめらかに演奏することを指しています。
 弦楽器の場合には、この記号が付いていると「同じ方向に弓を動かし続ける」と言う運動も意味しています。例えば、下の楽譜をご覧ください。

クライスラー作曲の「美しきロスマリン」の1ページ目です。
スラー=レガートの書かれている間にある音符に、スタカート=音を短く切る記号が書かれています。この「レガート」と「スタカート」は奏法として真逆の意味になります。印刷ミス?(笑)いえいえ。
 ピアノの楽譜などにもこの二つの相反する意味の記号が同じ場所に書かれていることはよくあります。
 レガートの記号を「フレーズ」として考えることもできますが、例外的な書き方ですす。
 弦楽器の場合には、先述の通り「同じ方向に弓を動かし続け」ながら「音を短く切る」事を示しています。アップで演奏擦り場合は「アップスタカート」ダウンでいくつもの短い音を続けて演奏する「ダウンスタカート」とも呼ばれます。
 同じような動きでも違う「奏法」を示す書き方があります。

クライスラー作曲「序奏とアレグロ」の一部。ダウンのマークが重音に連続している部分がご覧いただけます。重音に限らず、スラーとは別に同じ方向に連続して弓を動かす「指示」もあります。

 さて、レガートで音楽を演奏する場合、声楽=歌や管楽器の場合には、息を出し続けながら「切れないように」演奏することになります。管楽器なら「タンギング」は入れないはずです。言い換えれば「息が続く時間」がレガートの限界の長さでもあります。弦楽器の場合は「弓の長さ」と言うことになります。
弦楽器の場合、弓を遅く動かす時と速く動かす時で出せる音量が違います。
遅くなればなるほど、弓の圧力を弱くする必要があります。逆に言えば、遅くして弓の圧力が大きすぎれば、弦が振動できずつぶれた=汚い音になります。
 長いレガートを「フォルテ」で演奏しようとすると、圧力と弓の速度の「ぎりぎりのバランス」で弓を動かす技術が必要になります。レガートよりも音量を優先するなら「弓を頻繁に返す=反対に動かす」しか方法はありません。
 レガート=小さな音とは限りません。ピアノと一緒に演奏する場合には特に、ピアノの聴感的な音量とヴァイオリンの音量のバランスを考慮する必要があります。全弓を使いながら、元・中・先で均一な音量と音色を保つことは、弓を軽く速く動かすこと以上に高い技術を要します。スラーの中のひとつひとつの「音」に効果的なビブラートをかけることも重要なテクニックです。聴いていて不自然に感じない深さと速さのビブラートを考えながら、安定した弓の動きを保つために背中・肩・首・上腕・前腕・手首・指の連動を意識しながら、さらに滑らかな移弦に注意する。本当に難しいことだと思います。
 ゆっくりした音楽は「簡単」だと思い込まず、地道な練習を心掛けいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラで楽しむ趣味

 映像はメリーオーケストラ第41回定期演奏会で演奏した「いのちの歌」
村松崇継さんが作曲された曲を、メリーオーケストラのために田中大地さんにアレンジをお願いしました。リサイタルではヴィオラとピアノで演奏したこの曲、オーケストラで演奏すると違った感動が伝わってきます。

 オーケストラはクラシックを演奏するという「既成概念」があります。
一方で吹奏楽は「ポピュラーを演奏する」イメージが先行しています。
演奏形態=スタイルは、一人の人間だけで演奏するものから、オーケストラと合唱などが加わった「大人数」のものまでたくさんあります。楽器の組み合わせも様々です。吹奏楽…管楽器だけの演奏に読めますが、打楽器やコントラバス=弦楽器も通常含まれます。管弦楽…あれ?打楽器は?(笑)もちろん含まれます。
文字・言葉が思い違いを生んでいることもありますね。

 趣味で弦楽器、管楽器、打楽器を演奏する人にとって「合奏」は究極の楽しみだと私は思っています。もちろん、一人で楽しむことが一番!と言うかたもおられます。他人との人間関係が煩わしい…と思う気持ちも理解できます。
 ブームは去りましたが「カラオケ」は一人で楽しめる趣味でもあります。気持ちよく誰にも聞かれず、大声で歌うことが楽しいのでしょうね(笑)
 ピアノやギター、エレクトーンなどの楽器は、ひとりで演奏を十分に楽しめる楽器です。かたや、ヴァイオリンやチェロ、フルート、トランペットなどの場合hはひとりで演奏できる曲はごくわずかです。多くは「誰か」と一緒に演奏して初めて音楽として完成します。オーケストラは言うまでもなく、合奏の集大成です。
「初心者」だからこそ、誰かと一緒に演奏する楽しさが必要だと思います。

 オーケストラの「楽譜」の多くはクラシックと呼ばれる作曲家の曲です。
ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームス、チャイコフスキーなど「有名」なクラシック作曲家のほとんどが、交響曲を書いています。ただ、これも当然ですが「聴いたことがない」交響曲の方が多く、演奏の難易度も高いのは事実です。
動画にあるような「ポピュラー」をオーケストラで演奏するのは「邪道」なのでしょうか?私はそうは思いません。どんな楽器で演奏したとしても音楽は音楽です。逆にどんな音楽でも、オーケストラで演奏できるはずです。
 ただし、ポピュラーをオーケストラで演奏するための「楽譜」が少ないのです。お金を出して購入できるのも、ほとんど海外のサイトからです。日本では需要が少ないのです。いのちの歌の楽譜は?当然、販売されていません。オーケストラの楽譜を書くためには、ただ音符や休符が書けるだけでは無理です。それぞれの楽器の「音域」と「音色」「音量」を理解していないと、書けません。作曲の技術と変わりません。
木管楽器=ピッコロ・フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット
金管楽器=ホルン・トランペット・トロンボーン・チューバ
打楽器=ティンパニ・バスドラム・シンバル・グロッケンシュピール他
弦楽器=ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス・ハープ
これらの以外にも、色々な種類の管楽器・打楽器がオーケストラには加わります。それぞれの楽器が2~3つのパートに分かれていることが多く、スコアは大変な段数の楽譜になります。下の楽譜はいのちの歌のスコア1ページ目です。

 当然、それぞれの楽器の演奏者は自分のパートの楽譜=パート譜を見ながら演奏します。指揮者はこのスコアを見ながら指揮をし、練習で音の間違いを正すこともします。いかがですか?スコアは演劇の「台本」のようなものです。全員のセリフが書いてあります。演劇と違うとすれば、同時に何十人もの人、25種類以上のパートが一斉に演奏します。演劇では…(笑)ないですね。
 このスコアに書かれているすべてを「編曲者」が考えて書きます。出てくる音を頭の中で想像しながら。素晴らしい技術・能力です。
 紙の上の音符が、数十名の人間、様々な音色の楽器で「音」になるのがオーケストラです。ひとりで演奏を楽しむこととの違いがここにあります。
一人ずつの責任は、ひとりで楽器を演奏するよりもはるかに大きくなります。
「たくさんいるから、一人の責任は軽くなるんじゃないの?」と思われますか?
逆なのです。ひとりが間違った音や、間違った場所で音を出した場合、聴いている人は「誰が間違えた?」かわからないものです。つまりオーケストラ全体としての「失敗」になるのです。100人のオーケストラで99人が正しい音を出していても、一人が「半音」違った音を出したことで、音は明らかに濁ります。プロオーケストラの録音現場であれば「録り直し」です。全員がもう一度初めから演奏しなおします。それがオーケストラの怖さでもあります。
 アマチュアオーケストラメンバーに、それを求めたら?誰も演奏できないばかりか、誰も演奏したくないですよね?プロではないのです。間違っても仕方ありません。それでも!演奏する楽しみを優先するのが「アマチュアオーケストラ」です。

 ぜひ!あなたもアマチュアオーケストラのメンバーになって、楽器の演奏を楽しんでみてください。日本中にたくさんのアマチュアオーケストラがあります。規模もコンセプトも様々です。練習の頻度、内容も違います。何よりも「人」が集まるのですから世界中に、同じオーケストラは二つ存在しません。
 そのオーケストラの一員として演奏する「喜び」を体験してみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・指揮者 野村謙介

半音・全音の聴感的な修正と間違ったチューナーの使い方

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 映像は「カール・フレッシュ音階教本」の1番最初に出てくる音階をピアノでゆっくり演奏している動画です。音階教本の中で「バイブル」とも考えられるこの教本、音階とアルペジオ、半音階などを徹底的に練習することが可能です。

 多くのアマチュアヴァイオリン奏者にとって「音程」「ピッチ」を正確に演奏することは大きな課題になります。当然、プロを目指す人や実際にプロになれた人間でもそれは同じことです。たくさんの生徒さんを見てきた中で、陥りやすい落とし穴とでもいうべき間違った練習方法と、本人の気付きにくい「音程感」について書きます。

 もっともよく目にするアマチュア弦楽器奏者の間違いは「チューナー」の使い方を間違っていることです。操作方法の事ではありません(笑)
 スマホのアプリにも多くの「チューナー」があります。測定精度や反応速度の優劣もありますが、使い方の問題です。
 「音を出す→チューナーを見る→修正する→次の音を出す→チューナーを見る…」を繰り返していませんか?「一音ずつ確かめている!」そんな満足感がありますが、ちょっと待った(笑)自分の耳で正しいピッチを「判断する」練習になっていませんよね?「いつか、正しいピッチを覚えられる!」いいえ(笑)それは無理です。正しいピッチや正しい音程を、自分で判断=記憶しようと思わなければ、いつまでも補助輪をつけた自転車で走っているのと同じです。いつも誰かに「修正」してもらわなければ、自分で正しいピッチを見つけられないままです。
 では正しいチューナーの使い方は?
 「開放弦の音を聴く→最初の音を出す→開放弦からの音程を耳で測る→チューナーを見る→修正する→もう一度開放弦から最初の音を探す→あっていると思ったらチューナーで確認し次の音を出す→前の音からの音程を自分で測る…」
 文章にすると長いですが要するに「自分の耳で開放弦=あっている音からの音程を測る習慣をつけ、あっていると思ってからチューナーで確かめる」繰り返しです。

 もう一つの方法です。チューナーでA=ラの音を出し続けます。
その音を聴きながら自分の音を聴いて「音程」を確かめる方法があります。

なんで?こんな面倒くさいことをお勧めするのでしょうか?
 「相対音感」の人がほとんどだからです。

 以前のブログでも書きましたが、絶対音感を持っている人はごくわずかです。
Youtubeの中に「怪しげな絶対音感」のことを「絶対音感」と紹介している人がいますが、私の言う絶対音感は「442ヘルツと440ヘルツを聞きわけられる・言われた音名の音を正確に歌える」音感です。この音感があれば、弦楽器の演奏で自分の出している音の高さに疑問を持つことはあり得ません。そんな便利な音感のない「私」を含めた多くの人は「相対音感」で音の高さを考えています。
 「ある音」からの「幅=高さの違い」で次の音の高さを見つる音感です。
チューナーは「絶対音感を持っている人」の耳と同じです。もうお分かりですよね?相対音感の人が、絶対音感を持つ人の「真似」をしても絶対音感は身につかないいのです。「そんなバカな」と言う人のために(笑)
たとえば「甘さ」の違う5種類の砂糖があったとします。どれも「甘い」砂糖です。絶対味覚(笑)がある人は、その一つ一つの甘さをすべて「記憶」しています。どんなに順番を入れ替えても、絶対味覚の人は、砂糖をなめた瞬間に「これは2番目に甘い砂糖です」と正解を言えます。
 相対味覚の人は?順番に二つの砂糖をなめていきながら「こっちのほうが甘い」、次にその次の砂糖を舐めて先ほどの二つの砂糖と「比較」するしか方法はありませんよね?これが「相対音感」です。正確に言えば「常に二つの違い=差を測る」ことです。一度に三つの違いを測ることは不可能です。音楽で言えば、「順番に二つの音の高さの差を測る」ことです。

 音階を練習する「目的」があります。一番大きな目的は「1番目と2番目、2番目と3番目…の高さの幅=音程を正確にする」ことです。もちろん綺麗で均一な音を出し続けるボウイングが求められます。音色と音量が揺れてしまえば正確な音程やピッチは測れません。2本の曲がった線同士の幅を測れないのと同じです。まっすぐな音を出しながら、音と音の「幅」を確かめる練習です。
 次の音名に変わることを「順次進行」と言います。上行も下降もあります。
隣同士の「ド→レ」も「レ→ド」も順次進行です。音階の場合、和声短音階の場合だけ「増二度=全音+半音の幅」がありますが、その他は「全音=長二度」か「半音=短二度」の順次進行です。まずはこの「目盛り」にあたる幅を正確に覚えることが「正確な相対音感」を身に着けるための必須練習です。
「簡単だよ」と思いますよね?(笑)いいえ。これが本当に正確にできるなら、その他の音程も正確に測れるはずなのです。嘘だと思ったら(笑)、あなたはゆっくり上記の音階を演奏し、誰かにチューナーで一音ずつ見ていてもらうか、そのチューナ-映像とあなたの音を同時に「撮影」してみてください。すべての順次進行「上行」「下降」がぴったり平均律で弾けるなら相当な相対音感の持ち主です。

 相対音感の人間は「音が上がる」と時と「音が下がる」時の「二音感の幅」が違って聞こえることがあります。それは「メロディー」として聴こえるからです。階段を上がる、下がるのと同じです。階段の幅が同じでも上がる時と下がる時で幅が違うように感じます。
 特に「半音=増一度・短二度」の幅はえてして「狭く」してしまいがちです。
相対音感の人にとって「少し高くなる」のと「少し低くなる」のが半音です。
この「少し」の感覚が決定的な問題なのです。一番狭い目盛りが狂っていたら?定規になりません。
 練習方法として、
A戦で「0→1→2→3→2→1→0」の指使いで以下の3通りをひいてみます。
①「ラ→シ→ド♮→レ→ド♮→シ→ラ」
②「ラ→シ→ド♯→レ→ド♯→シ→ラ」
③「ラ→シ→ド♯→レ♯→ド♯→シ→ラ」
できるだけゆっくり。特に次の音との「幅=高さの差」を意識して練習します。
これは、4の指を使う以前に半音と全音の正しい距離をつかむ練習になります。

 次に3度以上の音程=全音より広い幅を練習するときの注意です。
・1本の弦上で、1から4の指で4つの音が出せる原則を忘れない
・1と2、2と3、3と4の3か所をすべて「全音」にする「像4度」が最大の幅
例 1全音2全音3全音4=増4度 シ♭ド♮レ♮ミ♮など。
・上記3か所のうち、どこか1か所を半音にすると「完全4度」の音程になる
例1..1半音2全音3全音4=完全4度 (シ♮ド♮レ♮ミ♮など)
例2.1全音2半音3全音4=完全4度 (シ♮ド♯レ♮ミ♮など)
例3.1全音2全音3半音4=完全4度 (シ♮ド♯レ♯ミ♮など)
・上記3か所のうち、2か所を半音にすると「減4度」=「長3度」の音程になる。
例1.1半音2全音3半音4=減4度 シ♮ド♮レ♮ミ♭など。
例2.1半音2半音3全音4=長3度 シ♮ド♮ド♯レ♭など。

 次のステップで「移弦を伴う全音と半音」の練習をしましょう。
一番最初に、解放弦から全音下がって戻る練習
・E線0(ミ♮)→A線3(レ♮)→E線0(ミ♮)
・A線0(ラ♮)→D線3(ソ♮)→A線0(ラ♮)
・D線0(レ♮)→G線3(ド♮)→D線0(レ♮)
弦が変わると音色が変わるため、感覚的な「ずれ」が生じます。
もちろん、解放弦を使わず「4」の指を使えば、同じ弦ですがあえて「移弦」する練習も必要です。指の「トンネル」が出来なくても、まずはこの音程を覚えるべきです。

 最後はポジション移動を含む「全音・半音」です。
実は一番上のカール・フレッシュの画面は、G線だけで演奏する前提です。
つまり「ポジション移動ができる人」のための練習です。そうなると突然難易度が上がりますね(笑)ポジションで言えば、サードポジションから始まり、第5ポジションを経過して、第7ポジションまで上がりまた、戻ってきます。
 指使いで言えば、2→1で「レ→ミ」と全音上がります。ポジションが変わっても、弦が変わっても「音程=高さの差」は変わらないのです。それを耳で覚える練習が音階の練習です。

 半音のことを、短2度と言うほかに「増1度」とも言います。
ド♮→ド♯は「増1度」で「半音」です。短2度とは言いません。
ド♮→レ♭は「短2度」で「半音」です。増1度とは言いません。
…要するに(笑)音の名前と「半音・全音」の関係の両方を理解する必要があるのです。
 指使いで思い込むこともあります。例えばA線のド♯を見たら「2」の指で押さえたくなりますよね?同じA線のレ♭を見たら「3」の指が動きませんか?
どちらも同じ「高さ=ピッチ」の音です。もしもA線のド♮から弾けば、どちらも「半音」ですが使う指がきっと違います。おそらくド♮→ド♯は「狭く」なりすぎ、ド♮→レ♭は「広く」なりすぎる人が多いと思います。

 音階の練習はすべての練習の基本と考えられています。
言い換えれば、どんな音楽を演奏するのであっても、音階を正確に弾く技術が必要だということです。音階は下手で音程が正しいという人はいません。
音階を聴けばその人の「性格」が見えます。正確に美しく弾くことを大切にしているか?テキトーに演奏しているのか?判断できます。
 音を出して楽しむ「だけ」で終わるなら必要のない技術・能力です。
少しでも「うまくひきたい」と思うのであれば、半音と全音を正確にひけるように頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

集客とラーメン屋の関係

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した「ふるさと」ヴィオラとピアノバージョンです。このアレンジでヴィオラとピアノで演奏しているのは、恐らく私たちだけ。完全に「耳コピ」による演奏です。その意味ではオリジナルの「カバー」でもあり、演奏スタイルで言えば私たちのオリジナルです。

 さて、今回のテーマはちょっと大胆な(笑)考察です。
クラシックコンサートを開いても、お客様が来てくださらなければ、コンサートとして成立しないばかりか、主催者にすれば「大赤字」です。その状態が続けは次回のコンサートを開催する資金も、やがて底をつきます。演奏者へのギャランティも主催者が自腹で支払うことになります。演奏者自身も苦々しい思いをすることになります。仮に、200名収容できるホールに、来場者が数名だとしたら…
考えただけでもむなしい光景です。来場者も同じ気持ちになるでしょう。
 同じホールで満席の来場者があれば、演奏する人も嬉しいでしょうし、お客様にしてもどこかしら「満足感」を得られるものです。
 では、クラシックコンサートの集客は、どうすれば良いのか?どうするとダメなのか?考えてみます。

 前提になるのは以下の項目です。
・有料のコンサートである
・プロの演奏者が演奏する
・広報費・会場費などの経費が必要
・演奏者と主催者が利益を得られること
逆に考えれば、無料で利益を考えなくて開く場合は前提が変わってきます。
 上記の前提で考える場合、来場者が何を求めているのかを探る「マーケティングリサーチ」が不可欠です。入場者数は演奏者によって、恐ろしいほどの差があります。一言で言えば演奏者の「知名度」による差です。その知名度は?話題になっている演奏者かどうか?に尽きます。ただそれだけです。テレビに出ている人。最近のコンクールで入賞したニュースが流れた人。マスコミが取り上げた人…要は「有名人」なら人が集まると言ういたって幼稚な原理です。
 知名度に関係なく集客できるコンサートは開けないのでしょうか?

 さぁ!ここでラーメン屋さんの登場です(笑)
チェーン展開のラーメン屋さんと、そうでない「街のラーメン屋さん」がありますよね?チェーン店の場合、どの店で食べても同じレベルの味が提供されます。店による個性はほとんどありません。一方、街のラーメン屋さんの場合、そのお店でしか食べられない味があります。
 食べる人それぞれの、好みの問題があります。考え方も違います。
今回、チェーン店を「有名人のコンサート」に置き換え、個人経営のお店を「有名ではない人のコンサート」に例えてみます。
 強引と思うかもしれませんが、チェーン店の場合には店舗数と来店者数、さらには企業の規模が個人店とは比較にならない「大きさ」です。言ってみれば「知名度が高い」ラーメン屋なのです。一方、街のラーメン屋さんは、広告宣伝費もなく、来てくれた人の「口コミ」と「リピーター率」が生命線です。
 よほどのラーメンマニアでなければ、初めての街で知らないラーメン屋さんに入るのは、かなり勇気と決断が必要ですよね?「大丈夫か?」って思います。
チェーンラーメン屋さんがあれば「ま、ここでもいいか」って思いますよね?
 つまり、あまり関心のない人にとって「安心感」が優先するのです。リスクを避けたいのです。コンサートで言えば「あ、この人テレビで見たことがある」という人のコンサートの方が安心なのです。
 では、チェーン店のラーメンはすべて美味しいのか?と言われれば、答えは違ってきます。さらに言えば、個人経営のラーメン屋さんの方が、美味しい場合も当然あるのです。ここからが「勝負」です(笑)

 何よりも「個性」が大切です。個性とは「奇抜」と言う意味ではなく「コンセプトの独自性」です。他のラーメン屋さんにない「その店ならでは」がなければ、チェーン店に太刀打ちできるはずがありません。では何が?個性になるでしょうか?
1.はずは、食べて=聴いてもらうための独自性(工夫)
・他のコンサートにない選曲
・親しみのある曲を含んでいる
・演奏者の人柄を感じられる広告
・初めての人でも安心できそうな内容と価格
2.リピーターになってもらうための内容
・聴いていいて「負=マイナス」の要因を感じさせない
・もう少し=もっと聴きたいと思える内容と時間
・演奏者の人柄を感じられる内容
つまり「最初のきっかけ」と「その後の印象」を、一人でも多くの人に感じてもらう事しか方法がないと思うのです。当然、時間=繰り返す回数が必要です。
最初から多くのファンを集めることを望むのは間違いです。知らないのですから。どんな企画(業種)でも「最初は人が集まる」ものです。それは好奇心によるものです。北海道新幹線、然りです。珍しいから乗ってみる。でも飛行機の方が便利だから二度目はない(笑)
 ラーメン屋さんで言えば「メニュー」にあたるのが「演奏者と演奏曲」です。
あるお店の醤油ラーメンが大好きで、行くたびに食べていても、たまには!塩ラーメンも食べてみたいかな?(笑)
 通常、コンサートは、同じ演奏者の場合でも毎回のように曲目が変わりますよね?しかし、コンサートのコンセプトは変えるべきではありません。お店の「個性」を捨てるのと同じです。
 長く愛される街の飲食店には共通点がたくさんあります。
お客様と店主の「信頼関係」です。物=商品ではなく、人同士の絆があってこそ「名店」になれるのだと思います。
コンサートの場合も同じではないでしょうか?演奏そのものが大切なのは、ラーメンの味と同じです。ただ、コンサートに「人」を感じることが非常に少ない気がしませんか?特にクラシックコンサートの場合は顕著です。「ファン」を大切にしないコンサートに、お客様は二度と来ないのは当然です。どんなにラーメンが立派でも、店員の態度が悪ければ、二度と食べたくないですよね?
 「無名のコンサート」で良いと思います。何度も聴きに来てくれる人が増えれば、それで利益は生まれます。その人が友達を誘ってくれればさらにリピーターを増やせます。時間をかけて!無名万歳!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供の成長と演奏のクオリティ

 映像は小学4年生と中学1年生の姉妹が独奏をひいた、メリーオーケストラ第41回定期演奏会の映像です。バッハ作曲「二つのヴァイオリンの為の協奏曲」第1楽章。この曲は多くのアマチュアヴァイオリン奏者が演奏を楽しむ定番曲です。
 独奏を誰にするか?と言う難題を抱えます。じょうずな人が良いと言う安直な答えではありません。「子供の健全な育成・音楽の普及」を目的として活動するメリーオーケストラです。子供たちが精いっぱい練習し、多くのお客様の前・多くの大人演奏者の前で演奏する緊張感に耐え、弾き終えた達成感を感じてもらうことが一つの目的です。さらに、聴いてくださる方が満足できるクオリティも、音楽の普及という目的達成のためには不可欠です。この一見、相反する二つの目的を達成する補法とは?

 一つは演奏する子供たちに「演奏する責任と演奏する楽しさ」を体感させることです。この二つのバランスが取れていないと成長にはつながりません。
責任感だけでは子供が長く演奏を楽しむことになりません。
楽しいだけでは聴いてくださる方々に対して失礼です。
この両面を子供に体感させるためには、年単位の時間が必要です。
一度覚えれば一生忘れることのない感覚になります。
「できない」「ひけない」で諦めさせない練習。
「これでいい」「もうだいじょうぶ」という妥協をさせない。
「本番で失敗しても大丈夫」という具体的な解決策を示す。
「舞台では主役になる」準備と演出を行なう。
これらをすべて考えて子供の成長を見守ります。

 もう一つは演奏の完成度=クオリティの意地です。
聴いてくださる方々に「身内の発表会」と思われたら終わりです。
あくまでも「オーケストラの演奏会」を楽しんで頂くことを忘れません。
アマチュアだから…
「下手でもいい」と言う甘えの上に立って演奏するのは間違いです。
「うまくひきたい」「満足してもらいたい」気持ちが第一に必要です。
無料のコンサートなんだから、下手でも仕方ない…なんて絶対あり得ません。
コンサート会場に足を運ぶことだけでも大変な労力と時間が必要です。そのことを演奏者は忘れてはなりません。
 今回のように子供がソロを演奏する場合、当然ですが本番で失敗するリスクを伴います。たとえ練習よりうまく弾けたとしても、さらに高い満足感を感じてもらう気持ちが必要です。
 昔から私が用いる手法の一つに「独奏の二重化」と言う方法があります。
ヴァイオリンのソロに限らず、打楽器の目立つソロ部分、フルートやオーボエのソロ部分を「主役」となる演奏者と「アシスト」を担当する先輩演奏者のペアで演奏します。「それでは若手が育たない」と思いがちですが、先輩や上級者・指導者の「サポート」を感じることは問題ありません。むしろ、演奏の責任を強く感じさせるためにも有意義です。そのアシストがない場合、「失敗すればお客様が疑問に感じたり不満に感じる」ことを理解させることも必要なのです。
 今回の演奏会では、独奏の二人に加えてプロのヴァイオリニストお二人に、ファースト・セカンドヴァイオリンの2番(トップの隣)で演奏してもらいました。これも練習時に試し、独奏の子供たちにも確かめさせました。映像を見ると、子供ソリストの向こう側で同じ動きをしている演奏者が見えると思います。
 子供が演奏するピッチとプロのピッチが合わないのは仕方ありません。
それでも子供たちにとって「必要」なアシストです。

 「初めてのおつかい」と言う番組があります。幼児が自宅から初めての買い物をする様子をたくさんのカメラスタッフが追いかけながら撮影する番組です。「やらせ」の部分も見えますが、それでも子供にしてみれば不安な気持ち、怖い思いをしていることは本当です。さらに子供の安全を見守るテレビ局の責任もあります。これとメリーオーケストラの「仕掛け」が重なって見えます。
 アマチュアにプロのような演奏技術を求めるのは間違いです。
一方で、アマチュアをプロがアシストすることで演奏のクオリティが高まり、聴く人の満足感が格段に高くなることも事実です。さらに演奏するアマチュアも、プロの演奏者と一緒に演奏する感動を体感できます。

 演奏するアマチュアとプロの演奏を、聴く人も楽しめるなら、こんなに素敵な演奏会はないと思うのです。特にプロの演奏者は「交通費」だけで参加していることも特筆すべきです。利益のための演奏ではなく演奏することは、プロにとって「特別」なことです。いつもいつもこの演奏では生活できません。
しっかり演奏への対価を得る演奏会も絶対に必要なのです。
そのための「土台=地盤」である音楽のすそ野を広げることに従事してくれるプロの仲間に敬意を表したいと思います。。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

表情・動きと音楽表現

 映像は瀬水和音氏が独奏するチャイコフスキーピアノコンチェルト。
音楽高校時代、私はB組彼はA組、お隣のクラスでした。
当時から「超」が付くうまいピアニストでした。さらに言えば「ウルトラ級」にやんちゃな男子でした。詳細は言えません。普通の男子だった私は←しれっ。かずね君が怖くもあり、雲の上の存在でもありました。
 高校生が授業を主に受ける教室は「地下教室」で、それぞれの教室にアップライトが一台。そのピアノを友達とわいわい言いながら弾く和音くんの姿を思い出します。高校3年時、最後の実技試験で「ハチャトリアンの伴奏、頼んでいい?」と相談したら、二つ返事「いいよ」で、彼が伴奏してくれました。その当時、門下生発表会で演奏したつたない演奏録音がこれ。

 ピアノに助けられているのが良くわかる演奏です。ごめんなさい。
さて、今回のテーマである「表情・動き」ですが、言うまでもなく演奏中の演奏者の表情と動きの事です。あくまでも私の私見です。
・演奏者の演奏姿・表情は「見る」「見せる」必要があるのか?
・演奏者が感情を、表情や動きに出すことの「好き・嫌い」
・表情・動きを「パフォーマンス」に使うことは必要か
・表情や動きを抑制=表に出さないと演奏が無表情になるのか
・アンサンブルに必要な動きは「合図」として必要である
上記は演奏の形態=独奏・重奏などの違いで変わります。
また、録音された演奏を聴く場合には、聴く人には見えません。
大きな演奏会場の場合にも、客席の後方から演奏者の表情までは見えません。
 テレビや映像で演奏者が意図的に表情や動きを「作る」場合があります。
照明やカメラワーク、編集でも演奏者の「色っぽさ」「可愛らしさ」「派手さ」を強調した演出なども多く見られます。私はこれらの演出を「芸風」と呼んでいます。つまりは「演奏家」としてよりも「芸人・パフォーマー」として考えています。

 演奏者が感じる感情が、自然に表情や動きに出る場合で考えます。
先述の通り「音」だけを考えれば、表情や動きは無関係です。言い換えれば、演奏者は「見えない存在」で構わないことになります。
 では、演奏中の姿を動画や映像で見ることのできなかった時代を考えます。
録音であれば、動きやすい服装で見た目を気にせず演奏したはずです。
録音もなかった時代、演奏は人前で行なうしか方法がありませんでした。
宮殿や貴族のお屋敷、教会での演奏もあったはずです。演奏会場での演奏もありました。それらの場で演奏する「演奏者」にはドレスコードがありました。
いわゆる「楽士」の出で立ちです。近年で言えば、男性は燕尾服、女性ならドレスで演奏しました。演奏家の「見た目」も昔から注目されていたことは事実のようです。かのパガニーニ氏が演奏して女性ファンが失神したと言う伝説もあります。演奏者の「容姿」も切な要素だったことはうかがい知れます。

 私が不快に感じる演奏者の表情と動きについて。
・演奏と表情や動きが「違う」場合
・自己陶酔を感じる表情や動き
・演奏を表情や動きでカバーしようとする場合
これらは、演奏に必要なことだとは思えません。
演奏者にとって、演奏が結果です。そのプロセスや付随するものは結果である演奏とは別のものです。つまり、表情や動きが見えなくても、演奏を聴くことで聴衆が楽しめる=感じられるものでなければ、いくら「おまけ」をつけても演奏を超えるものではないはずです。
 清水和音くんの演奏する音楽には、多彩な表情を感じます。まさにピアノで歌っているように聞こえますが、見た目には出しません。
 今度、和音君に直接聞いてみたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌詞がなくても歌に聴こえる音楽

 映像はメリーオーケストラが演奏する「いのちの歌」
作曲は村松崇継さん、作詞はMIYABI=竹内まりあさん。
昨年末、今年年明けに実施した私と浩子さんのデュオリサイタルでは、ヴィオラとピアノで演奏しました。
 今回、メリーオーケストラ第41回定期演奏会で演奏しよう!と決めてから、ホルン奏者で編曲のお仕事もされている音楽仲間、田中大地さんにいつものように(笑)アレンジをお願いしました。演奏会当日まで、すべての楽器が揃う事がないので、毎月一度の練習時にその場にいる楽器メンバーで、リズムと音の確認作業をし続けました。原曲=オリジナルの演奏が多数あります。
様々な歌手が歌う動画をたくさん見つけられます。
それぞれの歌手が、それぞれのアレンジで演奏しています。
ピアノをひきながら歌う人、ピアノと弦楽アンサンブルで歌う人など。
ただ、歌のない状態=インストゥルメントで演奏している動画はあまり見受けません。歌詞のすばらしさが先行しているのかな?いやいや!メロディーとハーモニーが素晴らしい!間奏も素敵な転調をしています。
 こうした「歌もの」と呼ばれる楽曲を、歌なしで演奏すると歌詞を知らなくても「美しさ」を感じる音楽があります。このいのちの歌もそのひとつです。

 

 こちらは、昨年末にヴィオラとピアノで演奏した「いのちの歌」に歌詞を入れた動画です。同じ曲、同じキー=フラット5つの調性ですが、オーケストラの演奏と全く違う味わいがあると思います。どちらが良い?のではなく、個性が違ってきます。
 オーケストラの特色は…
・音色が多彩=楽器の種類が多い
・音量の幅=小さい音と大きい音の差が大きい
・パート数が多いため、複雑な副旋律・対旋律を作れる
・アンサンブル=調和を取るために指揮者が必要
 などです。では?ヴィオラとピアノだと?
・旋律楽器=ヴィオラの繊細な音色・音量の変化が浮き立つ
・ピアノとヴィオラ2種類の音色で聴きやすい
・指揮者が不要
どちらが簡単…とも言えません。

 いずれの演奏も歌詞はありませんが、音だけを聴いていて感じる「風景」が、歌詞の内容を見事に表しているように感じます。
 器楽の演奏で「歌う」と言う言葉を使うことが良くあります。「歌うように弾く」は、歌詞を感じてひくこととは違います。もちろん、歌詞のある楽曲を楽器で演奏する際に、歌詞を思いながら演奏することもありますが。
 楽器を使って歌うとは、自分が自分の声=言葉で、相手に自分の意思を伝えようとする「ような」器楽演奏だと思っています。感情のない言葉や、意味のない声でしゃべっても、誰も魅力を感じないと思うのです。それは楽器で演奏する時も同じです。
 語りかけるように歌う
 訴えるように歌う
 喜びを歌う
 悲しみをこらえて歌う
ただ「歌う」と言っても様々なシーンがありますね。
楽器を演奏している時に感じる感情を、表現するのがテクニックです。
間違えずに演奏するのがテクニックだと思い込んでいる人がいますが、それは「メカニカル」です。機械のように正確に演奏できると言うのは、現代で考えれば「いくらでも機械で速く間違えずに何度でも演奏できるよ」と言う結末に落ちます。
 歌がなくても、詩の内容を知らなくても、美しい音楽を演奏することは可能だと思います。難しい「分析」や「歴史」を知らなくても、聴いた瞬間に鳥肌が立つような=弾きこまれるような演奏は出来るはずです。演奏者が自分の「感じたもの」を表現するテクニックさえあれば。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日本に唯一のNPO法人オーケストラ

映像は、NPO(特定非営利活動)法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会での「ダッタンの踊り」です。今回、初めて挑戦したボロディンの作品。壮大なスケールと圧倒的なエネルギーに満ちた音楽を、アマチュアの会員と音楽家の仲間たち総勢68名で演奏しています。
 演奏の細かい傷はあります。多くの原因はアマチュア会員の技術の限界と、当日の午前中1回だけのリハーサルで、午後に演奏会と言う条件によります。
もっと何回もリハーサルをすれば、もっと演奏のレベルが高くなるのは当然です。しかし、営利を目的としない「NPO」として、演奏会に係る費用、練習に係る費用のすべてを会員と賛助会員の負担で行っているので、これが限界です。
毎月一度の練習に集まる会員が、約半年間練習して当日を迎えます。
リハーサルで初めて全員が揃うことにも慣れました。当日にすべてのプログラムを2回ずつ演奏するわけで、体力的な負担も大変なものです。
 これまで20年間、積み重ねてきたのは演奏技術だけではありません。
何よりも「人との絆=人の輪」です。このメリーオーケストラにしかない、個性があります。

 ジュニアオーケストラではありません。大人のメンバーもいます。
一般のアマチュアオーケストラと違い、目的と活動内容は定款によって決まっています。オーケストラの収支や活動内容を毎年、役所に提出します。法人ですから法人税の対象となりますが、減免申請することで免除されています。税務署への申告も必要です。それら多くの「事務」をこなしながらの活動になります。

子供も大人も高齢者も、初心者もプロも、クラシック好きもジャズ好きも。
演歌も、ミュージカルも,J-POPも、クラシックも。
演奏する人と聴く人が、誰一人取り残されないコンサートです。
それぞれに特化したオーケストラがあります。
演奏技術の高さで考えるなら、プロオケよりうまく演奏できるはずがありません。
子供だけに限定すれば、大人は参加できません。
継続しないオーケストラなら「寄せ集め」で事は終わります。
営利を目的としたオーケストラではない事を公的に認められたオーケストラです。入場料を頂かないコンサートを継続するために、会員の会費と賛助会員の賛助会費で運営します。会員でない「プロ」たちに、謝礼をお支払いできない事情があります。それでも参加してくれるプロがいるのは、彼らが本当に音楽を愛し、子供たちと市民に音楽の楽しさを伝える「魂」を持っているからに相違ありません。そんな音楽仲間を心から尊敬します。

 日本で唯一無二の「NPO法人オーケストラ」は音楽業界に取り上げられることもありません。非営利という言葉が「偽善」に聞こえるのは無理もありません。
株式会社としてオーケストラを立ち上げたと言うニュースは話題になりますが、
演奏家の営利をいくら前面に押し出しても、日本の音楽文化は変わらないと考えています。

演奏家が演奏して、多くの人が聴きにくれる環境を作ることが何よりも先決です。文化はお金で買えません。人々が欲することが「文化」になるのです。需要のない娯楽、一時的な流行は文化として根付きません。
 オーケストラって面白いねと、子供でもわかるものでなければ、本当の文化だとは思いません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ 理事長 野村謙介


アマチュアオーケストラの演奏技術とは?

 映像は、メリーオーケストラの演奏するオペラ座の怪人。
この音楽に限らず、ミュージカルや映画、ドラマなどのために作曲された音楽がたくさんあります。それらの映像を見たり、ストーリーを知っている人もいます。当然、見たことがない、ストーリーも知らないという人もいます。
 その人たちが同じ音楽を聴いて感じるものも違って当たり前です。
「この音楽はこんな場面の音楽」と言う関連を知らなくても音楽だけを聴いて、勝手に想像することができるのが「音楽」の楽しみでもあります。
 逆に言えば、音楽を聴く前にその音楽が使われたり、作られた「背景」を知ることで、新しいイメージが生まれて楽しめることもあります。
 どちらも「音楽の楽しみ方」として正しいと思っています。

 楽器を演奏する楽しさと難しさは、実際に演奏しなければ実感できないのは当たり前です。聴く楽しみとは違う次元の楽しさが体感できます。当然、演奏するための技術を身に着ける練習が必要です。練習して初めて、難しさと楽しさを実感できます。思っていたよりも難しいことを発見することもあります。
 独学で身に着けられる限界も、実際に練習してみなければわかりません。
練習して自分で納得できる演奏ができるまでの時間は、練習の質=内容で大きく変わります。練習方法は無限と言えるほど、たくさんあります。
 ある人が上達できた練習方法が、他の人にも効果的とは限りません。
一人一人の生活環境と目的によって、最適な練習方法を選んでくれる指導者が必要です。

 オーケストラで演奏するメンバーは、一人一人の演奏技術が違います。特に、アマチュアオーケストラの場合には、その差は「初心者」から「専門家レベル」まで様々です。プロオーケストラの場合は、オーディションに合格できる演奏技術を持っている人しか演奏していません。
 メリーオーケストラの場合、演奏会までの約6か月間、月に一度の合奏があるだけです。それ以外は各自が自分のペースで楽器の練習をします。言ってみれば「メンバー任せ」です。演奏技術が人によって違い、練習できる時間も千差万別、それでも一緒に演奏することに全員が「満足」できる充実感と達成感を維持する秘訣とは?

・演奏会での成功経験~達成感
・合奏練習で得られる連帯感~音楽仲間との交流
・必要で正しい演奏技術の指示~プロ演奏家による合奏指導
・お互いの環境を認めあう優しさ~練習意欲の喚起
・持続できる運営~資金面、指導体制の構築
これらは、私自身の経験に基づいています。
公立中学での穏やかで和やかな音楽部活動、師匠の門下生による合宿での合奏、音楽高校・音楽大学で学んだ専門的技術と合奏、プロのオーケストラででエキストラとして演奏した経験、20年間の中学・高校での教諭として勤務した経験、さらにメリーオーケストラを20年間育ててきた経験、自分が今も音楽に関わっていられる現実と過去、それらすべてが「アマチュアオーケストラの指導」につながっています。

 演奏している人が楽しんでいなければ、聴いている人が楽しいはずがありません。音楽は学ぶものではなく、感じるものです。だからこそ、演奏を楽しむための「スキル」が必要だと思っています。オーケストラは家族に例えられます。また、社会にもたとえられます。多くの楽器と、さらに多くの人が同じ音楽を演奏することは、一人で演奏することに比べて膨大な労力と準備が必要です。
家族が助け合うように、社会が支えあうように、オーケストラはお互いの演奏者を必要としています。誰か一人が書けただけでも、元気がなくなります。苦しみを共有できなければ、楽しみを共有することは出来ません。
 メリーオーケストラは、いつも新しい賛同者を待っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

手作りの味~退化する日本人

上の画像は2022年8月7日に実施する、NPO法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会で使用したチラシ=ポスターの素材と出来上がったものです。
毎回のように、会員が手書きで書いてくれる素敵な「書」で作っています。
一文字でコンサートへの思いを表すのも、ずいぶん長く続いています。
パソコンで「行書体」などの様々なフォントを使えるようになった現代ですが、人が書く味わいのある文字は、見る人を惹きつけますね。

 スマホ、クラウド、コンピューター、デジタル、AIなどなど、私たちの生活は年々「機械化」されて「便利」になっている反面、人が手で作る暖かさも消えていく気がします。私(昭和35年生まれ)の場合、小学生の頃の記憶にある「機械」は、現代の若い人からは想像もできない「不便」なものです。
洗濯機は、手でハンドルを回して洗濯物を絞る「機械」が付いていました。
お米はお釜かお鍋で炊いたものを「ジャー」に入れていました。
温めなおす時には「蒸し器」を使っていました。テレビは白黒で、チャンネルもボリュームもテレビの前面についていて「リモコン」なんてありませんでした。
電話は「黒電話」当然、ダイヤルを指で回していました。
コピー機が出来たのは恐らく中学生頃です。それまで、楽譜は買ったものか手書きで写したものでした。
 そんな生活に不便さを感じることはありませんでした。当たり前だったのです。私の親世代、さらにその親世代の人たちにすれば「なんて便利になったんだ!」と思っていたはずです。
 生活が便利になるのは、良いことです。それは間違いありません。
ただ、その陰で人が「退化」していることも事実です。
運動機能が退化するだけではない気がします。
「感覚」も退化している気がしています。特に「人に感謝する気持ち」が退化していることを悲しく感じます。
 自動的に機械がやっている…と思い込めば、ありがとう!と言う言葉が消えていきます。料理も、書類も、音楽も「人が作っていない」と思えば感謝の気持ちは生まれません。とても恐ろしい気がします。

 生活する中で、不便に感じたり不満に感じることがあったとき、それを解決してくれるのは「人」です。不便や不満を解決するために「機械」を作っているのは人間です。ただ、実際に動くのは機械なのです。
 テレビに映っている人、ヘッドフォンから聴こえる音楽を演奏している人は、確かに私たちの眼の前にはいません。「仮想」の世界です。
 冷凍食品を作っている人がいます。味付けや食感を研究している人がいます。
でも電子レンジに入れて「チン」で料理が出来上がります。
 いずれ、テレビに映る人、演奏する人、料理を作る人が「ロボット」になる時代が来ます。見る、聴く、食べるのが「人」になる時代です。それが進むと、その人さえ「ロボット=機械」になる時代が来ると思いませんか?
 機械が機械を作る技術は、すでにあります。今は人間が「指示」を出していますが、やがて機械が支持を出す時代が来るはずです。
 生物としての人が感じる、喜びや悲しみは機械には不要です。
感情が退化することが、人類の終わりを意味していると思います。
便利の陰に隠されている「ありがとう」の気持ち。
忘れたくないですね。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

10代のオーケストラと40歳の顧問・指揮者のエネルギー

 2001年3月、横浜みなちみらい大ホールでの演奏。
中学生・高校生のオーケストラ(ハープだけはプロ)の演奏です。
パイプオルガンも当時高校生。指揮をしている私が40歳。
 演奏の技術、オーケストラの完成度以前に「エネルギー」がハンパないです。
このホールで演奏会を開いて2回目でした。子供たちが生き生きと演奏している姿。指揮者がぐいぐい笑引っ張る「むちゃぶりしています。
 今、振ったら楽をすることを考えそうです。子供たちの「テンション」を上げ続けることが顧問としての第一の仕事。学校の反対を理論でねじ伏せ、客席を満席にすることを条件に開く演奏会なって、どこかおかしいですね(笑)会場には、紺離職はおろか、顧問以外の教員は一人も顔を見せず「そこまで嫌うか?」
 若い人の持つ「情熱」は、どんな技術にも勝ります。
今は今で「楽しむ」技を覚えた私です。この生徒たちも今は「おじさん・おばさん」の仲間です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日常生活と音楽と

 映像は我が家の姫「ぷりん」トンキニーズ、女の子、7歳です。
子供のころから{犬派」だったのですが、7年前に出会った瞬間から猫派に寝返りました。すみません。あ、でも、いまでも犬大好きです。

 と言うお話ではなく(笑)、今回のテーマは「音楽」と、生きているすべての人の生活とのかかわりです。
 まったく同じ生活を送る「日」はありません。また、自分とまったく同じ生活を送る人もいません。「似たような生活」になることがあります、たとえばケガや病気で入院したとき、同じ病室にいる患者さんの生活は、起きる時間から食べる時間、寝る時間までが同じです。その人でも、退院すればまた「日常生活」に戻るのです。
 人それぞれに、日々それぞれに、違った生活をするのが、私たち人間です。

 音楽を演奏することを職業とする人の「日常生活」とは?
その人の、音楽との関わり方と、生計の立て方によって大きく違います。
プロのオーケストラで演奏する「正規団員」の場合でも、給与だけで生活できる人とアルバイト=副収入がないと生活できない人がいるのが日本の現状です。多くは後者です。
 ソリストと呼ばれる、ごく一部の演奏家の場合の年収も人によって大きく違います。ただ、オーケストラの団員とは比べ物にならない年収です。
 オーケストラメンバーの場合、多くはほぼ毎日「出勤」して練習か演奏会で日々の生活を終えます。サラリーマンと変わりません。
 ソリストの場合、演奏会の頻度にもよりますが、世界中で演奏するソリストの場合、移動移動の繰り返しに多くの時間を割くようです。移動した先で、練習する時間も限られ、すぐに演奏会。終わればすぐに移動。体力勝負ですね。
 音楽大学で学生を指導する「先生」の場合、会議などの「校務」も含めて学校からの給与で生計を立てられる人と、その他の副収入がないと生活できない人がいますが、多くは後者です。「教授」であれば恐らく前者ですが、大学でレッスンをする人の多くは「講師」つまり教授と言う肩書ではない人がほとんどと言っても過言ではありません。
 

 私の場合は「会社経営」で生計を立てていますが、これを音楽家と言えるか?については自分なりに疑問も感じますが、気持ちとしては間違いなく「音楽」で生きているつもりです。
 フリーランスの演奏家の場合、収入は不安定になる人がほとんどです。コロナの影響で生活が苦しくなり、音楽以外の仕事で生計を立てているフリーの音楽家が日本中にいます。それを放置している「日本の政府」が世界の中で最低の政府であることは言うまでもありません。

 アマチュア、つまり趣味で楽器を演奏する人にとっての日常生活。
これもひとそれぞれ、全くと言っていいほどに違います。生活のために必要なお金を得るために「働く」人もいます。家庭で家族を支える「仕事」をする人もいます。働きたくても事情があり、働けずに家や施設で暮らす人もいます。
 そんな中で楽器を演奏する楽しみを持つ人を、私は心から尊敬しています。

 プロでもアマチュアでも、どんな生活にしてもその人が望んだ生活とは限りません。他人の生活がうらやましく感じられるのも珍しい事ではありません。他人の生活をすべて知っている人はいません。自分の生活「だけ」が基準になります。日々の生活に「満足感」「幸福感」「充実感」を感じられるか?と言うのも、自分だけの基準で感じるものなのです。他人と比べられるものでは絶対にありません。
 音楽と言う「楽しみ」を生活のコア=核にすることは、どんな生活をしていたとしてもできることです。
 生活の「時間の中心」つまり、一日24時間、一週間、一か月という単位の中で音楽に関われる「時間」だけを考えれば、ほとんどの人は、ごく一部のはずです。週に1日、1時間だけ楽器を演奏できる人にとって、その1時間の楽しみが「生活のコア」であっても不思議ではありません。
 その1時間以外の時間に楽器を演奏できないからこそ、楽しめる1時間。
それまでの時間を「楽しみ」のために使う時間だと考えられれば、音楽がその人にとって、何物にも代えられない「中心」になるはずですよね。
 時間だけが生活の中心ではないと思っています。先述の通り、生活の基準は人によって違います。どこにも「平均」はありませんし、幸福感の「ボーダーライン」もありません。すべては個人の「考え方」で決まります。

 現実に自分が少しでも、一時間でも楽器に触れていたい、音楽に関わっていたいと思う気持ちは、音楽家の誇りでもあり「証」でもあります。それができない生活だからと言って、自分が音楽から離れるのは「逃げ」だと思います。
私自身は20年間、ヴァイオリンから遠ざかりました。ほとんど楽器のケースも開けませんでした。日々の生活は「サラリーマン」として生き、家族を支えることに徹しました。その期間にもしも「ヴァイオリンを弾きたい!」と思っていたら退職していたか?おそらく生活のために、現実的には「住宅ローンのために」やめられなかったと思います。その20年間、自分の楽器から遠ざかっている間は「ただ家族のため」に生きました。そして今。
 ぷりんと浩子という、二人の姫と共に暮らす人生の「コア」には音楽があります。お金もない、時間も体力もない、健康に不安もある生活ですが「音楽」が人生の「ど真ん中」にあることだけは疑いません。それが他人からどう?見えるかは関係のないことです。音楽に関わって、家族と暮らせれば満足です!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンと弓を持って歩く時

 ヴァイオリンと弓をを手に持って、舞台に上がる時、あるいはホールの中で移動する時に、「楽器を守る持ち方」を教えてくれない先生が多すぎる!その先生に習った生徒が先生になって生徒に、正しい楽器の持ち方を教えられない!
 今日、レッスンに来た生徒が、通っている学校の部活オーケストラで、指導者に「どうやって、楽器を持ってステージに出るの?」と聞かれ、生徒が私が教えた「正しく楽器を保護する持ち方=上の写真」を示したところ「ずいぶん、えらそうな持ち方だね」と嫌味を言われ「間違ったアホの典型の持ち方」を指導されたと言います。下の写真がその「アホの持ち方」です。楽器と弓をぶら下げて歩く「アホの図。 

ヴァイオリン、ヴィオラと弓を持って「歩く」ことが、どれだけ危険な事か知らない人間は、ヴァイオリンなんぞ教える資格はありません!恥を知りなさい! 
 舞台に出る時に、他のメンバーが「悪気なく」楽器にぶつかったら?
ぶつかった人の責任は「ゼロ」です。ぶつかって壊れる持ち方をしていた人間の「過失」が100パーセントです。これ、保険の常識です。保険以前に「ヴァイオリン弾きの常識」です! 
 弓を「だらん」とぶら下げて歩いて、もしも自分の脚に絡んだら?折れるに決まってますよね?他人の脚にからんでも、折れます!弓は折れたら「全損」という事も知らない人間は、弓を持つ資格なし! 
 「知らなかった指導者」は、今日から生徒に正しい持ち歩き方を教えるべきです。。それが指導者の「責任」です。 現実にあった「事故」を紹介します。

 私が高校生の頃に、門下生発表会で銀座ヤマハホールで、出演前に、舞台裏で人が一人通れるほどの、幅の狭い階段を上がったところにある小さな部屋で音だしをしていました。その後、演奏の時間が近づいたので、その部屋から私は楽器と弓を持ち、階段を下りて踊り場で折り返し、さらに下りようとした、その瞬間に…
 同期の女の子が舞台で演奏を終えて、ヴァイオリンを身体の前に持つ形で、階段を上がってきていました。おそらくドレスで階段を上がりにくかったのでしょう。曲がり角で、お互いに「死角」でした。私の脚の「ヒザ」とその女の子のヴァイオリン表板が、不幸にして、まともに激突しました。その子のヴァイオリンは表板が割れ、駒も割れました。お互いに、どれだけショックだったか、想像していただけますか?いくら私が謝っても、澄む問題ではありません。その子の涙を一生、忘れることはできません。 
 もし、あの時に楽器を右手でかばって、上がってきてくれていたら…でも、それは現実に起きてしまいました。 

 私の生徒たちには、発表会で「数歩」歩くだけの時でも、正しい楽器の持ち方で歩かせます。それが習慣になり、当たり前にならなければ楽器を守れません。「えらそうな持ちか方」と言った人が、どのようなヴァイオリンをお持ちのかたか存じませんが、1万円のヴァイオリンでも右手の腕で駒の部分をかばって歩くのが「当たり前です。写真に「アホがヴァイオリンを持つ図」を2枚。正しい持ち方を一枚。その時の右腕と駒部分のアップを一枚、載せます。どうか!学校でもレッスンでも、生徒に楽器を守ることを第一に教えて下さい。私は、この持ち方を自分の楽器を手にした時に、職人さんに一度だけ言われました。それで覚えました。覚えられないなら、ヴァイオリンはやめるべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラ演奏会は準備の結晶

 上の図はNPO法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会の舞台設営図。
指揮者を含め、71名の演奏者が演奏に参加します。その他にも、受付・客席ドア係(非常誘導)・舞台ドア係などのスタッフが10名ほど、演奏会を支えてくれます。今回の配置は「対向配置」ファースト・セカンドのヴァイオリンが、舞台の左右に分かれ、向き合う形で演奏します。メリーオーケストラ定期演奏会を、第1回から20年間、使用し続けている「杜のホール はしもと」の舞台は、この編成で狭く感じるホールではないのですが、感染対策と「チェンバロ」「パイプオルガン」「ハープ」「ピアノ」の音を一台で演奏できる電子ピアノを背理する必要があり、ドラムセットも使用するため舞台上には、隅から隅まで(笑)演奏者と楽器があります。この舞台図は「イラストレーター」と言うソフトで自作したものです。

 アマチュアやプロのオーケストラがたくさんありますね。素晴らしいことだと思います。それぞれのオーケストラに個性があります。演奏する曲の「志向性」もあります。当然、規模も様々です。
 自分で立ち上げ育てた「スクールオーケストラ」のメンバーが150名になった頃、全員が演奏できる舞台を持つホールは、限定されていました。その巨大オーケストラの練習と運営、演奏会の準備をほぼ、一人で行なっていた経験が今に至っています。違うとすれば、学校と言う場所には印刷、製本、裁断などの「機械」が揃っていました。メンバーが多かったので、楽器の量も4トントラックにやっと積み込める量でした。さすがに運転は業者にお願いしました。楽器の移動は、生徒たちがテキパキと全員がスタッフになって動いていました。よほど、指揮者が怖い人だったか「聖人」だったかどちらかですね。←いまさら言うか。

 オーケストラの演奏は、弦楽器・木管楽器・金管楽器・打楽器・鍵盤楽器のすべてが含まれる「合奏形態」でおこなわれます。それらすべての種類の楽器を使う「曲」はあまり多くありません。
 例えば、トロンボーンが編成に含まれていない曲も多くあります。
チューバの場合、さらに少なくなります。ハープも編成に書かれていない曲の方が多いですね。ちなみに、かの有名な(笑)「ピアノ」はピアノコンチェルト以外で合奏に含まれる曲は、クラシックと呼ばれる音楽には数曲しかありませn。
映画音楽やポピュラーの場合には、意図的に作曲者がピアノを含める場合がよくあります。

 毎回、演奏する曲を考える際に必要になるメンバーと楽器を考えます。
決めた曲の楽譜が手に入らない場合には、プロの編曲者にメリーオーケストラの編成と技術レベルに合わせて編曲をお願いします。
賛助会員への案内はがきの作成、楽譜を印刷し、当日のリハーサルから参加される仲間の楽譜も用意します。
広報のためのポスターを手作り。前日の舞台設営の準備。
当日の打楽器移動の人員配置、タイムテーブルの作成、配布するプログラムをイラストレーターで作成し印刷、お弁当の手配、演奏会後の撤収の計画等々。
41回目の同じ会場でのコンサートとは言え、まったく同じメンバー・同じプログラムの演奏会は二度はありません。すべてが「初めて」の繰り返しです。
 リハーサルが無事に終わるまでが私の仕事です。この繰り返しにいつか?幕を下ろすとしたら、相当に前から計画することになるのか?それとも、突然「おしまい」になるのか?誰にもわかりません!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・事務員 野村謙介

1(単音)+1(単音)=∞(重音)

 映像は、ドボルザーク作曲、クライスラー編曲の「スラブ舞曲第2番」です。
和音の定義は「二つ以上の異なった高さの音が同時に鳴った時の響き」です。
「ドミソ」や「ドファラ」のようにきれいに響く和音に限らず、半音違う高さの音が二つの音が鳴っていれば「和音」です。同時に発音しなくても=途中から重なって二つになっても、和音です。
言い方を変えれば、同じ高さの音がいくつなっていても、和音ではありません。

 ヴァイオリンの演奏技法のひとつに、この和音を演奏する技法があります。
「重音」と言う言い方をすることがあるのですが、先述の通り「同じ高さの2音」を同時に演奏しても和音ではないので、ヴァイオリンの開放弦と同じ高さの音を「左側の弦」で、開放弦と一緒に演奏する場合「和音」ではなく「重音」と言うのがふさわしいのかな?と私は思っています。2本の弦で同じ高さの音を演奏すると、明らかに1本の時とは違った音色になります。
 さらに厳密な事を言えば、1本の弦を演奏している時にでも、他の3本の弦が共振していますから、音量の差が大きいものの、常に「和音」を演奏している事にもなります。

 さて、私も含め多くのヴァイオリンを練習する生徒さんがこの「重音」の演奏に苦労します。
ピアニストが同時に4つ、時には5つ以上の和音を連続して演奏する「超能力」は凡人のヴァイオリニスト・ヴィオリストにはありません。
 たかが!二つの音を続けて演奏するだけなのに、どうして?難しいのでしょうか?ピアニスト、管楽器奏者、指揮者にも知って頂ければ、救われる気がします笑。

・弓の毛が常に2本の弦に、同じ圧力で「触れる」傾斜と圧力を維持すること。
・左手の指が「隣の弦」に触れないように押さえること。
・2つの音の高さを聴き分ける技術と、和音の響き=音程を判断する技術。
・連続した和音の「横=旋律」と「縦=和音の音程」を同時に判断する技術。
・ピアノの「和音」とヴァイオリンのピッチを合わせること。
・指使い=同時に弾く2本の弦の選択を考えること。
・重音でのビブラートを美しく響かせる技術。
その他にも、片方の弦を鳴らし続け、もう一方の弦を「断続的に弾く」場合など、さらに難しい技術が必要になる場合もあります。

 特に私が難しいと感じるのは、2本の弦を同時に演奏したときの「和音の音色」が単音の時と、まったく違う音色になる「不安」です。
特に、一人で練習して「あっている」と思う音程=響きが、ピアノと一緒に演奏したときに「全然あっていない」と感じる落ち込み(涙)
 生徒さんの「和音のピッチ」を修正する時にも、「上の音が高い」とか「下の音を下げて」とか笑。生徒さんにしても頭がこんがらがります。
初めて重音を演奏する生徒さんの多くが、弓を強く弦に押し付けて=圧力を必要以上にかけて、2本の弦を演奏しようとします。理由は簡単です。そうすれば、多少弓の傾斜が「ずれても」かろうじて2本の弦に弓の毛が触る=音が出るからです。弓の毛は柔らかいので、曲がります。特に、弓の中央部分に近い場所は、弓の毛の張り=テンションが弱いので、すぐに曲がります。ただ、この部分は弓の毛と、弓の棒=スティックの「隙間」が最も少ないのが正しく、無理に圧力をかけられません。初心者の多くが「弓の毛を張り過ぎる」原因が、ここにもあります。張れば張るほど、弓の持つ「機能=良さ」が失われることを忘れてはいけません。弓を押し付けなくても=小さな音量でも、重音をひき続けられる技術を練習することが必須です。

・弓を張り過ぎず、2本の弦を全弓で同じ音量で演奏する練習。
・調弦を正確にする技術。
・右隣の開放弦と左側の「1」の指で完全4度を演奏する。
・右側の開放弦と同じ高さ=完全一度の音を左側の弦で探す。
・左側の開放弦と右隣「3」の指でオクターブを見つける。
・左側の弦を2、右側の弦を1で完全4度を見つける。
・左側の弦を3、右側の弦を2で完全4度を見つける。
・右開放弦と左0→1→2→3→4の重音を演奏する。

・左開放弦と右0→1→2→3→4の重音を演奏する。
上記の練習方法は、音階で重音を練習する前の段階で、「重音に慣れる」ためにお勧めする練習方法です。
ご存知のように、1度・8度、4度・5度の音程は「完全系」と呼ばれる音程=音と音の距離です。
・空気の振動数が「1:1」なら同じ高さの音=完全1度です。
・空気の振動数が「1:2」なら1オクターブ=完全8度です。
・空気の振動数が「2:3」なら完全5度=調弦の音程です。
・空気の振動数が「3:4」なら完全4度です。
それ以外の2度、3度、6度、7度の音程に関しては、何よりも「ピアノと溶ける和音」を目指して練習することをお勧めします。
厳密に言えば、ピアノと完全に同じ高さの音で演奏し続けようとするのなら、調弦の段階で、A戦以外の開放弦は「ピアノに合わせる」ことをすすめます。
特にAから一番近い開放弦「G」の開放弦を、ヴァイオリンが「完全5度」で調弦すればピアノより「低くなる」のは当たり前なのです。
 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第1楽章などで、全音符以上の長さで「G線の開放弦」を演奏する曲を、ピアノと一緒に演奏するのであれば、予め調弦の段階で、ピアノの「G」に合わせておくべきです。オーケストラと一緒に演奏するなら完全5度で調弦すべきです。

 偉そうに(笑)書き連ねましたが、実際に重音を演奏するのがへたくそな私です。もとより、絶対音感のない私が、2つの音のどちらか一方の高さを「見失う」状態になれば、両方の音が両方とも!ずれてしまうことになります。
単音で演奏している時には、その他の弦の開放弦の「共振」を聴きながら音色でピッチを判断できますが、2本の弦を演奏すると音色が変わり、その共振も変わる=少なくなるために、より正確なピッチを見つけにくくなります。
 ピアノと一緒に練習することで、少しずつ正確な「和音」に近付けるように、頑張って練習しましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴くのが好きなヴァイオリン曲

 映像は、アンアキコ=マイヤーズが演奏するラヴェルの「ツィガーヌ」です。
多くのソリストが演奏するこの曲。学生時代は「なんのこっちゃ」と不謹慎にも興味を持てませんでした。ただ難しいだけ…のように思いこんでいたことと、自分の音楽の引き出しが少なかったことが原因です。

 人によって好きな音楽が違うように、それまでに聴いた音楽の「数」も大きく違います。数が違えば当然、音楽の「スタイル」についても聴きなじみのあるスタイルの数も変わります。それは「食べたことのある料理や食材」に似ています。カレーとハンバーグと目玉焼きしか食べずに暮らせば、それ以外の食べ物は「食べたことがない」料理です。もしも、聴いていた音楽が「モーツァルトとバッハだけ」だとしたら?おそらくそんな人はいないと思いますが、少なくともツィガーヌを初めて聴く人の中には「なんかよくわからない音楽だなぁ」と感じる人がいても不思議ではありません。それが何故なのか?を説明するためには、ツィガーヌと、その人の聴いたことのある音楽との「違い」を説明する必要があります。その専門的な知識や説明より大切なことは、音楽にも料理のように「幅」があることを知ってもらう事だと思います。
 聴きなじみのない「様式」の音楽に違和感があるのは当たり前のことです。
実際、私は現代音楽と呼ばれる音楽の中で、未だに違和感のあるものがたくさんあります。その現代音楽が好きな人もいるのです。

 さて、私もヴァイオリン弾きの一人として、このツィガーヌを「演奏したいか?」と聞かれたら、迷わず「いいえ」と答えるでしょう笑。聴くのは大好きなのに、なぜ?
・自分の演奏技術に足りない技術が多用されていること。
・自分が演奏する「イメージ」が全然わいてこないこと。
・演奏することに必死になっている演奏を聴きたくないこと。
一言で言えば「逃げ」です。素直に認めます。演奏技術に「定年」も「期限」もありません。61歳の私が今日から練習して、身に着けられる技術が必ずあります。挑戦する「意欲」が不足していることが何より「ダメ」です。
強いて言い訳をひとつ増やすと「楽譜を覚えるためにかかる時間と労力が恐ろしい」2小節ずつ?画面に映し出して記憶してから楽器を持つ「暗譜方法」の今、この曲、いったい何ページ?と思うと逃げ出したくなります。でも、ただの言い訳です。すみません。

 生徒さんたちから、新しい曲の楽譜を見て「むずかしそう!」と言う悲鳴に似た言葉を聞きます。つい、「大丈夫!ほら、こことここは、こうやって練習すれば…」と元気づけるつもり言ってしまいますが、本人にしたら巨大な壁が立ちはだかっている気持ちですよね。子供の場合には、「むり(泣)できない(泣)」楽器が涙で濡れます。その生徒さんたちの「挑戦する心」に敬意を持ち続けたいと思います。
 自分ができるから、生徒もできると思い込むのは、指導者として最悪です。
一方で、自分が出来るようになった「道」を生徒に教えてあげることと、その道以外の道も教えてあげられることは、何よりも必要な指導技術です。
「なんで、そんな簡単なことができないの?」は最悪です。
同じシチュエーションで
「そこ、どう?むずかしいの?」と聞いて生徒に考えさせるのは良いことです。
生徒の「むずかしい」を解決する「答え」を持っていない人、あるいは難しいと思う生徒を教えたくない人は、生徒を指導する資質に欠けていると思います。
 自分ができない理由を、一番知らないのが、自分自身です。
死ぬまでに笑、ツィガーヌをひけたらいいなぁと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

平和と音楽と政治

 映像は中学生・高校生のオーケストラが演奏する「イムジン河」: 임진강(イムジンガン)です。北朝鮮で作られた楽曲です。1968年にフォーク・クルセダーズ版、日本語訳の歌としてカバーされましたが、当時「作詞作曲者不明」としていたことへの抗議もあり、発売は見送られました。確かに原曲を作った人が判明している以上、その人の名前を出すことを求めるのは間違っていないとも感じます。

 私個人の考えですが、地球上のすべての人類は、間違いなく同じ「種」の生き物であり、どんな理由があっても戦争と言う名の「殺し合い」は許せません。
「戦争は仕方がない」と言う考え方を、完全に否定します。
「許せないと言うのなら、お前が止めに行け」と言う論理もそもそも成り立っていません。「起こさない」事が先決なのです。戦争を起こしてしまった「人」や「集団」に対しての怒りは、「戦争を起こした責任」を問うべきです。
「きれいごと」ではありません。現実にどんなに完璧な法律があっても、破る人がいるのは事実です。交通法規を含め、すべての日本人が全員、すべての法律を守って暮らしている日は、法律が作られてから今日までに、一日もないはずです。それも事実です。その法律を犯した人が「罰」を受けるのも「法律」があるからできるのです。わかりますよね?「法を作っても破る人がいるから無意味だ!」と叫ぶ人の論理が間違っているのは、「法を破る人を裁くのも法」だという事を、意図的に「考えない」からです。
 戦争を起こすことは、国際法で「禁止」されているのにそれを破って、戦争を起こした人は「法で裁かれ、罪を償う」のが人類の知恵なのです。
 ぶたれたから、ぶちかえす。
 盗られたから、盗り返す。
それは幼稚園児の発想です。知恵のある人間は、それを許さない「決まり」を作り、破ったら「罰を受ける」決まりを作ることで、「決まりを守る」ことを考えます。殺人を犯した人が、自分の命で償うことを「悪い」と言う人がいます。
日本の法律が「重すぎる」と言う考え方の人です。
海外の法律で「終身刑」のある国もあります。日本にはありません。また、終身刑があっても、実際には20年ほどで「釈放」される法律がある国もあります。
日本で「二番目に重たい刑罰」は「無期懲役」ですが、実際にはいつか釈放されます。それを遺族が許せないと言う感情も、理解すべきです。
つまり「法」の中で「罰」の内容によって、犯罪者の数が変わることは、残念ですが事実なのです。
もしも、スピード違反20キロを超えたら「終身刑」と言う法律が出来たら、おそらく20キロを超えるスピード違反は激減します。それでも、破る人はきっといます。でも、間違いなくスピード違反で命を落とす人は減るのです。

 政治の役割は「法」を作ることです。そして、その法律を破った人を裁き、罰を与えることも政治の役割です。
 今の日本の政治家で、法を守らない人間が、毎日のように報道されています。
最低最悪な政治家は、「法の解釈」と言う逃げ道で自分に都合の良い法律を作ります。法を破っても、自分だけを無罪にする「法律」を作ってしまえば、その政治家は何をしても…人を殺しても、なんの罪にも問われない「法」を作れてしまいます。

 平和は人間が作るものです。正確に言えば、人間の「英知」で作り守るものです。知恵が人類を、地球上の生物を「存続」させてきました。今日までは。
 愚かな人間、異常な考えの人間はいつの時代にもいます。今もいます。
その人を「無力」にできるのも、人間の知恵です。
 人間以外の生物は、「無用な殺生」はしませんよね?
自分が生きるために必要な最低限の「他の命」で自分の命を守っています。
人間が「優れている」と威張る前に、虫たちに教えを乞うべきです。

 音楽も人類の「知恵」が生み出したものです。楽器を作る知恵も、楽譜を書く知恵も、人類だけが持っています。
私たちが音楽を演奏し、聴くことができるのは「平和」だからです。
平和を壊すのは誰ですか?「人間」ですよね?天災から命を守る知恵を持っている人類が、自らの命を無意味に消しあう姿から「音楽」は想像できません。
「悪知恵」と言う嫌な言葉があります。現代日本の与党政治家たちの「特技」ですね(笑)悪知恵に負けない「良い知恵」を持っている人は、たくさんいるはずです。
 音楽家って悪知恵が働かない=使えない生き物の代表格に思います。違います?もう少し、ずる賢く・あくどく知恵を働かせれば、もっとお金も稼げるのに。馬鹿正直だったり、クソ真面目だったり。「音楽バカ」だったり。
でも「平和」がなければ、音楽は演奏できないのですから、本当に音楽が好きな人は「戦争」を起こさせない、起こした人を許さないと言う「知恵」は持つべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽に救われる人間

 映像の音楽は、ヘンデル作曲「オンブラマイフ」をヴィオラとピアノで私と浩子さんが演奏したものです。音楽を演奏したり、聴いたりすることが好きな人は、時に音楽に救われる気がするものです。私だけかもしれませんが…。
 楽器を演奏しているときに、音楽の事だけを考えられる人を「音楽が好きな人」と言います。音楽を聴いているときに、聴こえてくる「音」に身を任せられる人も「音楽を好きな人」だと思います。
 好きなことに没頭できる人は、とても幸福な人だと思います。
ただ、それを「幸福」と感じないまま過ごしていることも珍しくありません。当たり前のことになっているから感じられない「健康」と同じです。
 「音楽が中心」の生活は単純に時間とお金の問題だけではないと思っています。音楽に関わる仕事をしているから「音楽が中心」の人生?とは限りません。一日の大半を家事や仕事、育児に費やす日々が続いたとしても「いつかきっとまた!」と思い続ける人は「音楽が中心」の生き方だと思います。
 生活の為に、音楽から遠ざかる「時間」が、ある人の方が多いのではないでしょうか。その時間に自分を失わないでいることは、口で言うほど簡単ではありません。その生活に「我慢」できなくなった時、改めて音楽に向き合えるうれしさを感じます。

 たかが音楽ですがが、音楽が好きな人にとって、音楽以外のことは…
「たかが」よりさらに「どーでもいいい」ことなのかも知れません。
・他人との関係
・仕事場のストレス
・お金のこと
・暮らしの事
・病気の事
いっぱいありますよ(笑)
音楽を大切にできることは、音楽を好きな人にしかできないことです。

 アマチュアもプロも関係ありません。
音楽が好きだという気持ちこそ「音楽家の証」だと思います。
音楽家である必要もありません。音楽が好きな気持ちがあれば。
「好き」と言う感情に勝るものはありません。
自分を救ってくれるのも音楽です。
形もない、目に見えない、触れられないのが音楽です。
その人にしか感じられないのが音楽です。
自分の音楽は、自分自身の感情だと思います。
いつまでも大切にしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介





音楽の「すそ野」を広げるのも音楽家

 映像は、メリーオーケストラのリハーサル風景です。
音楽はどんな人でも公平に得られる「楽しみ」です。ハードロックでもジャズでも演歌でもクラシックでも、音楽であることは変わりません。人それぞれに、好きな音楽があって当たり前です。音楽に関心のない人がたくさんいるのも、当たり前です。音楽が「つまらない」と思う人もいます。その理由も様々です。
 音楽を演奏して楽しむ人が、聴いてくれる人も楽しんでもらえたら、演奏する楽しさは何倍にも大きくなります。聴いてくれる人が減っていけば、いずれ演奏する人も減り続けていきます。
 クラシック音楽の演奏技術を学ぶ人にとって、目指すのは「一流の演奏家」です。少なくても「三流の演奏家」「へたくそ」と呼ばれたくて学ぶ人はいないのでは?と思います。演奏技術を高め、競争に勝ち抜き、演奏家としての「名誉と地位」を得た人が「一流の演奏家」なのでしょうか?

 演奏技術に「序列」を付けたがる人もいます。その人が思うだけなら、何も問題はありません。厳密には「○○さんが一番うまいと私は思う」と言うだけのことです。それを言葉や文字にするのも、その人の自由です。
 うまい・へたと感じるのは「個人の感性」であり、音楽を聴いて楽しいと思えるか?つまらないと思うか?も「個人の感性」です。先に述べたように、音楽は本来「楽しい」と感じられるもののはずです。技術を競い合うための物ではありません。どんなに演奏技術を高めたとしても、聴いてくれる人が「楽しそう」と思わなければ聞いてもらえないのです。

 音楽を聴くこと、演奏することに興味や関心のない人の方が多いのです。特にクラシックの演奏会、オーケストラの演奏会に行ったことのない人の方が、圧倒的に多いのが現実です。その現実を少しでも変えていくことが「音楽のすそ野を広げる」ことだと信じています。
 音楽を聴くことが楽しいと思ってもらえるために、何ができるでしょうか?
演奏会に「行ってみようかな?」と思えるコンサートを作ることです。
休日の昼間に、入場無料で子供連れでも赤ちゃんと一緒でも聴けるコンサート。
曲目の中に「タイトルを聴いたことがある」曲や「知っている」曲を含めること。
クラシックを知らなくても楽しめる「雰囲気」を感じられるプログラムにする。
これらを具現化したのが、メリーオーケストラの演奏会です。
 実施するために必要な「お金」を演奏するアマチュアメンバーの会費と演奏会参加費、さらに活動に賛同してくださる「賛助会員」からの賛助会費で賄っています。プロの演奏家には「交通費」しか支払えません。それが現実です。それでも毎回、多くのプロの演奏家が参加してくれています。
 彼らの協力がなければ、この活動は維持できません。アマチュアメンバーだけでも演奏会は開けますが、聴いてくださる人への「インパクト」がまったく違います。それこそが「演奏技術」なのです。アマチュアにはできない演奏をプロが出来るのです。その演奏を聴いた人が「楽しい」と思ってくれれば、プロの演奏会にも「行ってみようかな?」と思ってくれる信じています。
 演奏技術が高くても、演奏する場がなければ「宝の持ち腐れ」です。
未来の演奏会に、一人でも多くのお客様が聴きに行ってもらえるための活動を、誰かがしなければと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽大学は生き残れるのか?

 映像は、メリーオーケストラの演奏した「仮面舞踏会よりワルツ」です。
趣味で楽器を演奏する人と、音楽家を目指す音大生、さらに音楽大学を卒業したプロの演奏家が同じステージで音楽を楽しみ、お客様にも気軽にオーケストラの演奏を楽しんで頂いています。この空間に「プロ」「趣味」の垣根はありません。音楽は誰にとっても楽しいことを、その場の人たちが共有します

 さて、今回のテーマは以前にも少し触れた「音楽大学」についてです。
 不景気が25年間続く日本、さらにその影響で少子化がますます加速しています。そこに、コロナでさらに景気が落ち込み、ダメ押しでロシアが戦争を起こし原油や小麦の価格が激高し、一般家庭は生活苦に陥っています。
 その日本で、大学に通うための学費を「出世払い」と言う詐欺師まがいの言葉で学生に借金を負わせています。
 そんな社会情勢で、音楽大学は存続できるのでしょうか?
すでに新規学生を募集していない音楽大学も出ています。
これから、いったい幾つの音楽大学が消えていくのでしょうか?どこの音楽大学が生き残れるのでしょうか?推察します。

 学費の安さだけで考えれば、国公立大学は有利です。
もし、学費の安さだけが音楽大学の勝ちだとしたら、私立の音楽大学の高い学費でも受験し、通う学生がいることの説明がつきません。確かに、国公立大学に合格できずに「仕方なく」私立の音大に通う学生もいるのは事実です。ただ、実際には祖霊ガニの「魅力」があって私立を選ぶ「未来の音楽家」がいるのも事実です。
 音大の学費以来の「価値=魅力」はなんでしょか?

「社会が求める音楽を育てられる指導能力」に尽きろと思います。
特に大学で学生を指導する「教員」は本来、高校教員と違い「学問」を享受できる能力がなければなりません。大学を卒業して得られる学位である「学士」は単に4年間なにかを学んだというものとは違う意味を持っているはずです。
もし、大学が高校と同等の教育しかできないのであれば、それは高等専門学校「高専」です。今の音楽大学は事実上の「高専」以下の指導レベルでも「大学」と名乗っている気がします。
「学部」は何のために付けられた名称なのか?音楽学部は何を研究する場所なのか?音楽大学の必履修単位・必修得単位に音楽と無縁の科目が多すぎることに、いつ?誰が?気付くのでしょうか。

 職業として音楽を考えることさえ出来ない音大に、学生が通うはずがありません。卒業して「音楽家」になれないのは「本人=学生の力量」だから仕方ないで済ませている大学が生き残れるとは思えません。音楽家として必要な技術、能力、知識を身に着けさせることが大学の役割でなければ、ほかに何を?教えるのでしょうか。
 音大で指導している方が、演奏家・音楽家としての「技量や評価」がどうのこうのという、表面的な価値観の話ではなりません。指導者としての「資質」です。そしてそれを第一に据えた「大学経営」をする経営者が絶対に必要です。
 もとより、音楽で生計を立てることはとても難しいことです。音大を卒業して、一般大学を出た人と同じ程度の知識・技量で飯が食える…と思わせる方が間違っています。趣味で音楽を楽しむ人とは違う「技術・能力・知識」を持てなければ、音楽大学に通う意味・価値はまったくありません。
 

「レベルを上げると学生が集まらない」と言う音楽大学は、なくて構わないのです。消えて当たり前です。存在する意義がないのですから。
音楽大学のレベルは、指導者の「質」がすべてです。そしてその指導者と経営者が同じ方向を見ていない音楽大学は、遅かれ早かれ消えるでしょう。
指導者が「経営者が悪い」と言い、経営者が「指導者が悪い」と言い争う大学で、学生が音楽を学べるはずがありません。
 最期に、これからの社会が求める音楽家について書きます。
「コンクールで優勝した人」ではありません。
「音楽バカ」でもありません。
「迎合する芸人」でもありません。
音楽を知らない人が魅力を感じられる「人」であり、社会に溶け込める「人」ではないでしょうか?その人の造り出す音楽で、音楽を知らない人を幸せにできる音楽家ではないでしょうか?
 音楽は生活のエッセンスです。音楽がなくても生活はできます。音楽が加わることで、生活に潤い、ゆとり、安らぎ、リフレッシュ、笑顔が生まれる存在だと思います。クラシック音楽だから「崇高」だと勘違いするマニアは今後も生き残ると思いますが、そのごく少数の人に音楽家を支えるだけのお金もエネルギーも期待できません。高齢者でも子供でも、音楽は楽しめます。体力がなくても、病院で寝たきりになっても音楽は楽しめます。コンサートホールだけが、音楽を楽しむ場所ではないのです。
 もっと音楽を広い視野で考えるべきだと思っています。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

はじめてのボレロ

 映像は、NHK交響楽団が演奏するラヴェル作曲の「ボレロ」
これまで、なんちゃって指揮者として150名の部活オケ、神奈川県合同高校オーケストラ、清泉女子大学オーケストラ、信州大学オーケストラ、そしてメリーオーケストラで、多くの音楽と出会い、指揮をしてきました。
 そんな経験の中で、どうしても手を出せなかったのが、この「ボレロ」です。
考えてみると、それほど大きな理由はなかったはずなのに、なぜか?今日まで演奏の機会もなく、もちろん指揮も初めてです。
 ひたすら、同じテンポの3拍子。「幼稚園児でもふれるべ?」と思われそうです。スネアドラム=小太鼓が居れば、指揮者がいなくても最初から最後まで演奏できる曲ではあります。ではなぜ?

 特殊な楽器が編成に含まれているから…と言うのが「表向き」の理由でした。
通常、オーケストラで使われることの多い管楽器に加え、バスクラリネット・ピッコロ=Esクラリネット、バスファゴット・サキソフォーンなどに加え、独特の金属音が演奏できるチェレスタ、さらにハープ。演奏者がいなくても、楽器がなくても完全にオリジナル楽譜での演奏は不可能です。
 それよりも大きな一番の理由は、「私が最も好きな曲の一つだから」なのでした。私の中で「ラヴェル」は「オーケストレーション=アレンジの神様」だと勝手に思っています。ボレロに限らず、彼の書くオーケストラ楽譜には、他の作曲家にない「魔力」を感じるのです。
・異なる楽器の組み合わせかた
・楽器ごとの個性が一番魅力的に聴こえる音域の使い方
・思い切りの良い、「楽器の「き算」=無駄をそぎ落としたアレンジ
などなど、聴いていてぞくっとする「響き」が連続します。

 来年1月15日(日)に実施する、メリーオーケストラ第42回定期演奏会で、このボレロを演奏に加えます。
 会員と賛助会員からの「会費」と「参加費」、相模原市からの助成金で、一体どこまでオリジナルに近づけられるのか?まだわかりません。先述の通り、特殊管を持っておられる演奏者に、交通費だけで演奏をお願いできるのか?と言うネックがあります。もし、無理な場合はどこかを「カット」するか、代わりの楽器で演奏するかの二つに一つです。好きなだけに「切りたくない」気持ちがあります。ですが、無い袖は振れません。
 さらにこのボレロに加え、チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番、第1楽章を演奏予定です。ソリストは同期ピアニストの落合敦氏に依頼しています。彼の体調が悪くならないことを祈りつつ。
 と、心配する前に来月8月7日の演奏会が「始まらないと!」なのです。
「終わる?じゃないの?」私は、演奏会は「始まりさえすれば満足」なのです。
舞台の仕込みが終わり、リハーサルが終わり、本ベルが鳴った時には、舞台袖で「ここまで来られたら、もう大丈夫!」と言う安堵感で、全身の力が抜けます(笑)本当の事です。準備にかける時間と労力に比べれば、本番の2時間は一瞬の出来事です。
 まずは来月!そして来年!
その前に発表会とリサイタル!
●●暇なし
自転車操業
七転び八起き
●●にクチナシ←違う気がする
の清新で頑張ります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


NPO法人理事長の悩み

 映像は、NPO法人メリーオーケストラ第40回定期演奏会の時のダイジェストです。毎年2回の定期演奏会、毎月1回の公開練習を2001年から今日まで続けています。
 当初「子供のためのメリーオーケストラ」として発足した当時、私は私立学校音楽教諭として勤務していました。その後「特定非営利活動法人=NPO法人メリーオーケストラ」としての活動を始めました。NPO法人として「定款」があり、理事会や役員、総会など細かい規定があります。理事の代表である「理事長」としての仕事と、当然のことながら「指導責任者=指揮者」としての仕事、さらには「事務業務委託先メリーミュージック」の経営者としてのお仕事を掛け持ちしています。

 多くのアマチュアオーケストラの場合、技術指導はオーケストラから「委嘱」された指導者が行い、運営に必要な事務作業は、メンバーが行います。メンバーの中に「指揮者」がいる場合もあります。
 メリーオーケストラの場合、なぜ?私が「掛け持ち」しているのかと不思議に思われる方も多いと思います。
 一番大きな理由は「メンバー=会員の居住地域と年齢が広い」ことです。
もちろん、相模原市在住の会員が多いのですが、横浜市や町田市、さらに広い地域から集まってきます。年齢も幼稚園児から高齢者まで様々です。子供の場合、成長と共に進学し環境も変わります。大人の場合でも、職業も様々、家庭内での介護などの事情も変わります。そんな中で、一番変わらないのが「理事長」である私の居住地と職業なのです。さらに、多くの賛助出演者=音楽仲間との関係は、私個人からの「ご縁」でつながっているため、会員たちにそれを理解してもらうのはとても困難です。確かに一方では「会員以外の演奏者」なので、交通費をお支払いすれば良い「だけ」とも捉えられますが、私は何よりも「ご縁=絆」を大切にしていきたいと思っています。一度でも、メリーオーケストラの演奏会にご出演いただいた仲間には「ご縁」があるのです。
 私の中学時代の先輩、その先輩からのご紹介、高校・大学時代からの友人、その友人からのご紹介、教員時代の教え子、教え子の子供たちや友人などなど…。本当に音楽の「輪」が広がって今のメリーオーケストラがあります。

 私が毎日のように行なっているメリーオーケストラ絡みの仕事を簡単に箇条書きしてみます。
・毎月の練習と年に2回の演奏会の会場抽選とその資料作成
・練習時の計画と指導スタッフへの連絡
・演奏会(夏・冬)のプログラム決定
・同、賛助出演者の連絡と確定
・同、ヴァイオリンパートの振り分けと席順の決定
・同、楽譜の印刷と配布
・同、練習ごとの弓変更ページの作成
・同、タイムテーブルの作成・舞台配置決定
・同、ホールとの打ち合わせ
・同、賛助出演者への昼食の手配
以下同が延々と続きます(笑)
 自宅でパソコンに向かう作業もあれば、駅前教室で「印刷屋」になることもあれば、指揮台に立つことも時々あります。

 ここ数日、頭を悩ませていたのが次回、第42回の定期演奏会プログラム選曲です。通常、アマチュアオーケストラの選曲は会員が主体になって行いますが、私は「独断と偏見」で一人で決めています。なぜか?それが、私の仕事だと信じているからです(笑)
 メリーオーケストラにとって、選曲は一番難しい作業です。
・毎回その時々で演奏するメンバーの技術と人数が違います。会員が演奏できるか?考えます。
・過去に演奏した曲のデータをすべて見たうえで考えます。
・お客様の立場で、どんな曲を楽しみにされているか考えます。
・賛助出演者の協力を見極めて考えます。
・少ない予算の中で、会員の負担をできるだけ少なくする選曲を考えます。
・私の指揮の能力を考えます(これ、重要)
なので、結局は私が決めるしかないと思っています。
やっと、次回来年1月の演奏曲が「ほぼ」決まりました。
楽譜をすべて「PDF=アクロバットファイル」にして、契約しているサーバーに曲ごとに「アップロード」します。さらに、楽譜ダウンロード用のページ(インターネットの)を自作します。
 実は、この作業で一番「視力」が要求されます。
浩子姫は本当によく手伝ってくれますが、私のパソコン作業を横で見ていると、必ず「なにをしているのか?まったくわかりません!」と申されます。
 少しでも「手数」を減らしたいこともあり、また個人の癖もあるので、見ていて理解するのは無理だと思います。それに、それを誰かにやってもらうための時間と労力がありません。
 私の視力は明らかに落ちています。それは受け入れています。
スコアは読めないし、パソコンの画面は拡大と「ハイコントラスト」で、なんとかしのいでいます。読み上げソフトも使いまくります。それでも、考えながらの作業なので、誰かに頼めない現実があります。
 この作業が出来なくなった時に、メリーオーケストラがどうなるのか?
私にもわかりませんし、決めていません。それも受け入れる覚悟はできています。

 毎回の演奏会が「最後のメリーオーケストラ定期演奏会」になっても、私自身が悔いを残したくないという、わがままな思いがあります。
 学校を辞めたとき、オーケストラメンバーの生徒・顧問が誰一人として、最後の演奏後に声をかけてもらえませんでした。子供たちの「憤り」は理解できました。突然「辞める」と言われたのですから。ましてや中学生・高校生の子供たちです。
最後の演奏が、神奈川県の「上菅田養護学校」でのボランティアコンサートだったのも、私の教員生活の最後として、象徴的なものでした。
 養護学校の教員で、私と同じ「網膜色素変性症」の病気を持った先生から「辞められるんですか…、悲しいです…つらいです」と涙ながらに声をかけて頂いたのが何よりもうれしい思い出でした。その先生と二人で、ボランティアコンサートの実現の為に、勤めていた学校と横浜市に頭を下げ続けました。養護学校の生徒たちが毎年、楽しみに待ってくれていました。
 私が一番、大切にしていた指揮棒を、指揮者コーナーで指揮をした、養護学校の小学生に「あげるよ」と笑顔で差し出せたのも、我ながら偉い!と今更褒めてあげます。

 メリーオーケストラが多くの人にとって「楽しみ」になったことは、私の音楽人生の中で最も誇らしく、うれしいことです。
 「始めがあれば終わりがある」ことが、人間の宿命です。
オーケストラが生き物であると信じているので、いつかメリーオーケストラにも終わりがあると思います。きちんと、幕を下ろすことも私の仕事だと思っています。
 同じ嫌な思いを、二度繰り返さないためにも。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・メリーオーケストラ理事長 野村謙介


 
 

音楽仲間

 写真は2022年7月10日(日)に撮影したものです。
最初の一枚は、NPO法人メリーオーケストラの公開練習後に撮影した写真。
下の2枚は、その後我が家で撮影した写真です。
 今回のテーマは「音楽仲間」について。

 同じ学校で苦労した友人や、同じ職場で働いた友人を「同じ釜の飯を食った仲間」という言葉で表すことがあります。学校の友人や、趣味で知り合った知人とは「一味違う」仲間です。
 音楽を一緒に練習したり、人前で演奏するための準備をした仲間は、私にとって他のどんな友人とも違う「親しみ」を感じます。
 20年間、同じ職場で働いた「同僚」の中で、一人として今交流がない現実を考えると、あの「学校」と言う場で同じ教員だった人間とは、なにも関りがなかったのに等しい関係だったことを改めて面白く感じます。私が拒絶していたのかもしれません。退職してから一度として、学校からのはがき一枚も来ませんし、教員からの年賀状も退職して18年間で「数枚」と言う恐ろしい事実!まさに、佐多氏がそこに居たことを否定しようとする人たちなのです。私もそれで構いません(笑)ですから、教員時代の「仲間」は一人もいません。

 写真に写っている音楽仲間。ちなみに私の妻も「音楽仲間」の一人です。
中学時代に同じクラブ活動で演奏した音楽仲間と、未だに交友として毎年のように私のリサイタルに来てくれたり、メリーオーケストラ出演などでお付き合いしてもらっています。かれこれ、50年近い交友関係です。
 音楽高校、音楽大学時代の友人や先輩・後輩、職員の方とも未だに親しくしてもらっています。音楽を学ぶ学校ですから、当時の友人たちは「音楽家」になるために勉強していた「学友」であり「ライバル」でもありました。なによりも、音楽という共通の「言語・行動・感動・空間」を共有した不思議な連帯感を感じます。

 音楽に限ったことではないと思いますが、自分以外の人間と、好き嫌いを通り越す「付き合い」ができる関係を持てるのは、とても貴重なことです。
 しかも「我慢」して働いたり、団体の一員=部品の一つとして何かをする「人たち」とは、共感しあえるものはありません。「酒」と「愚痴」だけが共感しあえる関係は「友人」とは言えません。「飲み仲間」と言う仲間がありますが、これは「酒を飲む趣味を共有する仲間」で、職場の愚痴を酒の力で吐き出す「吐き出し口」とは違うと思います。

 上の3枚の写真すべてに映っているのが、高校時代「隣のクラス」だったフルート奏者、I君です。高校卒業後、彼はディプロマコースに進み私は大学に進みましたが、卒業後1度、同窓会で顔を合わせて以来、5月にメリーオーケストラ指導に力を貸してくれるまでの40年ほど、対面することはありませんでした。
 彼は、留学後に日本を代表するプロオーケストラの首席奏者として、長年演奏活動を続けてきました。数年前に退団し、現在は音楽大学や音楽教室で後進の指導をしています。高校時代、同じソルフェージュのクラスだったり、学年11名の男子(女子が89名)の体育の授業の思い出だったり…。
 何よりも、高校卒業してから今日までに、本当に色々な体験をしてきたことを、お互いに語りお互いの話に共感し、60歳を過ぎても昔のままの「関係」があることがとても嬉しいのです。
 音楽を「指導する」立場になった私たちが、今でも「音楽」でつながっていられるのは、ずっと音楽に関わってきたからです。私は20年間、楽器の演奏から離れましたが、その後再び音楽を中心にした生き方に戻れたのも、中学・高校・大学時代の「音楽仲間」がいたからだと思えるのです。
 一人で粋がって(笑)生きるのもその人の自由ですが、仲間と笑って話せることが私には「宝物」です。いつまでも、彼らとの関係を保っていられることを祈りつつ…
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ビブラートとボウイングの個性

 映像は、アンアキコ=マイヤーズの演奏する、エンニオ=モリコーネ作曲「シネマパラダイスより愛のテーマ」です。
 ドイツ人の父と日本人の母を持つアンアキコ=マイヤーズ。
多くのCDがありますが、私は「ボウイングの美しさ」と「ビブラートの柔らかさと深さ」に大きな魅力を感じています。
 演奏家にとって「個性」は演奏技術の高さと同等以上に大切なものだと思っています。ヴァイオリニストの個性は、どんな要素が考えられるのでしょうか>
 音楽の解釈という点で言えば、どんな楽器の演奏者にも共通の「個性」があります。テンポや音の大きさに対する好みでもあります。
 さらに詳細な点で考えると、楽器による違いがありますが、これは演奏者の個性とは言えないと思います。ちなみに彼女は、グヮルネリ=デルジェスの楽器を終身貸与されているそうです。彼女以前には、パールマンやメニューインも使っていた楽器だそうです。楽器の個性を引き出し、演奏者の好みの音色と音量で演奏する技術がなければ、どんな楽器を演奏しても変わりませんから、演奏者の個性だと言えないこともないですね。ただ、どんな楽器を演奏できるか?は演奏者の個性とは無関係です。

 まず第一に「ボウイング=弓の使い方」の個性があります。
楽器の弦を馬のしっぽの毛で擦るだけの「運動」ではありません。弓の使い方にこそ、演奏者の個性があります。つまり「うまい・へた」ではなく、まさしくヴァイオリニストの「声」を決定づけるのが、弓の使い方です。
音量と音色を変化させる技術を、単純に考えると
「弓を弦に押し付ける圧力」
「弓と弦の速度」
「弓を当てる弦の位置」
「弓の毛の量=倒し方」
「弓に対する圧力の方向と力の分配」
「演奏する弓の場所」
になります。たくさんありますね(笑)
まず右手の5本の指それぞれに役割を持たせることが必要です。
親指の位置、柔らかさと強さ、さらに力の角度も重要です。
人差し指の位置と場所によって、親指との「反作用」が大きく変わります。
さらに圧力の方向を、弦に対して直角にする力と駒方向に引き寄せる力の割合がとても大切です。一般に弓の「圧力」は弦に対して直角方向の力だけと思われがちですが、実際には弓の毛と弦の摩擦を利用して「駒方向への力」も必要です。
 弓を倒した状態で単純に弦に直角方向だけの力を加えれば、すぐにスティックと弦が当たってしまい雑音が出ます。しかし、倒した状態で、駒方向に引き寄せる力に分配することで、より強い摩擦を弦と弓の毛に生じさせることが可能になります。
 アンアキコ=マイヤーズが演奏中の弓を見ると、かなり倒れた状態で演奏しているのがわかります。それでも、太く柔らかいフォルテが出せるのは、彼女の「力の配分」が非常に巧妙だからだと思います。
 人差し指以外の中指・薬指・小指が、弓の細かい振動やバウンドを吸収できなければ、弦と弓の毛、スティックの「勝手な動き」をコントロールできません。
 手首、前腕、肘関節、上腕、肩関節、背中と首の筋肉が「連動」しなければ、ただ大きい、ただ小さいだけの音しか出せず、さらに「弦に弓の毛が吸い付いた音」は出せません。上記の要素をすべてコントロールするテクニックがあって、初めて「自分の好きな演奏=個性」が引き出されます。

 次に、ビブラートの個性です。
一般にヴァイオリニストのビブラートは、「あっている音=正しいピッチから低い方に向かって、滑らかに連続的に変化させる」という概念があります。
 以前のブログでも書きましたが、やたらと「細かいー速い」ビブラートで演奏するヴァイオリニストが多く、私は正直好きではありません。確かに「派手・目立つ」のは「高速ビブラート」ですが(笑)
 では遅ければ良いのか?と言うとそれも違います。アマチュアヴァイオリニストのビブラートは「うわんうわん」「よいよいよいよい」と言う表現ができる遅さで、さらに不安定です。「下がって止まる⇔上がって止まる」の繰り返し=階段状の変化もビブラートとしては「未完成」です。
 変化の量=ビブラートの深さも個性です。
演奏する場所=音によって変わりますが、いつも同じ深さのビブラートしかかけられないヴァイオリニストを多く見受けます。また、深く速いビブラートを連続するためには何よりも、手首と指の関節が「柔軟」で「可動範囲が大きい」ことが求められます。下の動画はアンアキコ=マイヤーズの演奏する、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトです。ビブラートの多彩さと柔らかさ、さらに手釘と指の動きが如何に滑らかかよくわかります。

 ヴァイオリニストの個性は、単にうまい?へた?と言う比較では表せません。
むしろ聴く人の「好み」が分かれるのが個性です。
 アマチュアヴァイオリニストでも、プロのヴァイオリニストでもいえることは、自分の演奏にこだわりを持つことと、常に自分の演奏の課題を修正する「努力」を続けることだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「引き出し」

 映像は、ピアソラの単語の歴史より「カフェ・ナイトクラブ」
タンゴに限らず、日本人には馴染みのない「海外の音楽」はたくさんあります。
ウインナーワルツも私たちが感じる「リズム感」は恐らく形だけのものです。
だからと言って、日本の「民謡」だけを演奏するわけにはいきませんよね。
 演奏する人にとって、技術や知識の一つ一つは「引き出し」だと思います。
その引き出しの数と中身が多いほど、演奏者の「ボキャブラリー=語彙」が増えるように感じます。

 一曲を演奏する時に、必要な引き出しはたくさんあります。
ヴァイオリンの場合、技術の引き出しは「右手」「左手」「身体の使い方」の分類があり、さらに「指」「手首」「関節」「筋肉」「力」「呼吸」などに細かく分かれます。それぞれにさらに細かい「仕分け」があります。
 また知識の引き出しは、「作曲家」「時代」「国や地域」「民族性」「音楽の理論」などの分類があります。さらに演奏しようとする曲と似ている音楽をどれだけ知っているかと言う「演奏した曲=レパートリー」の引き出しも必要です。
 演奏の仕方を考えるうえで、他の演奏家の演奏を知っていることも、大切な引き出しです。
 自分の演奏方法、たとえば音色の「引き出し」が一つしかなければ、どんな音楽を演奏しても、同じ音色の「べた塗り」にしかなりません。まさに「色」の種類の多さです。

 感情の引き出しも必要です。「喜怒哀楽」と言う4つの大きな引き出しの他に、怒りを感じる悲しさ、微妙な嬉しさなど、複雑な感情の引き出しがあります。音の大きさが無段階であるように、感情にも複雑で繊細な違いがあります。
 一つの音を演奏する間にも、音色・音量は変えられます。言葉にするなら「単語」にあたる音楽の「かたまり」を見つけられる技術の「引き出し」も必要です。
 人間をコンピューターに例えることは無謀なことですが、人間の記憶という面で考えれば、コンピューターにも同じ「記憶メディア・記憶容量」と言う考え方があります。
 また瞬間的に考えたり反応する速度は、コンピューターの世界では「処理速度」で表され、その速度が速いほど複雑な計算を短時間で処理できます。
 人間が手足を動かす「命令」を脳が出すことを、ロボットに置き換えると、なによりも「手足」にあたる「機械=アスチュエーターの性能がまず問題です。
そして、脳にあたる「CPU=中央演算装置」から部品に電気信号が送られます。
 速く演奏することは人間にとって難しいことですが、機械にとっては一番簡単なことの一つです。一方で、人間が無意識に行っている「なんとなく」と言う事こそが、コンピューターにとって最大の壁になります。多くの情報を基に、過去の失敗や成功の結果を「記憶」から検索し、最も良いと思われる「一つの方法」を見つけるためには、私たちが使っているような「パソコン」では不可能なのです。
 ご存知のように、将棋やチェスの「コンピューターと人間の対決」で、この頃はコンピューターが勝つことが増えてきました。これは膨大な「過去のデータ=引き出し」をものすごい速度で検索し、最善の手をコンピューターが選べるようになったからに他なりません。
 音楽をコンピューターが「選んで」演奏する時代が来るかもしれません。
感情と言う部分さえ、データ化されている時代です。「こんな音色と大きさで、こんな旋律・和声を演奏すると人間は悲しく感じる」という引き出しを、いくらでも記憶できるのがコンピューターです。しかも一度入力=記憶したデータは、人間と違いいつでも、最速の時間で呼び戻されます。
 人間の人間らしい演奏。その人にしかできない演奏。それこそが、最も大切な「引き出し」です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシックコンサートに演出は必要か?

 映像は、私の大好きなヴァイオリニスト「アンアキコ・マイヤーズ」」の演奏です。優しい音色なのに力強さを感じ、ビブラートの柔らかさにも惹かれます。
 さて、今回のテーマは「クラシックコンサートの演出」についてです。
 ポップスのライブでは演奏するアーティストの「動き」や曲間の「トーク」にもクラシックと違うこだわりが感じられます。また、舞台の照明、音響効果もクラシックとは大きく違います。もちろん、聴衆の聴き方=楽しみ方も違います。期待するものの違います。「どちらが良い」と言う比較ではありません。むしろ、クラシックのコンサートに「演出」は無くても良いのか?と言うお話です。

 「クラシックは演奏だけ聴ければ良い」と決めつけるのは簡単ですが、必ずしもそうではありません。
・プログラムが演奏前に配られる。
・演奏開始の前にベルやアナウンスがある。
・演奏が始まると客席の照明が暗くなり、舞台の照明が明るくなる。
・演奏者が出てくると、拍手が起こる。
・曲がどこで終わっているのか?わからなくても誰かが拍手してくれる。
・演奏中は、客席でじっと動かず、音をたてない。
・前半が終わると、演奏者が舞台から舞台袖に下がる際に拍手する。
・休憩になると照明が開演前の状態に戻る。
後半がお合わると、なぜか?演奏者は袖に下がるが、必ずアンコールがあることを聴衆が知っているにもかかわらず、何度も袖に下がる。
・アンコールがもうないことを、照明が戻ることで知らせる。
 もちろん、多少の違いはありますが、クラシックコンサートの多くは、およそ上記の「進行」です。これ、誰が決めたんでしょうね?なぜ?右に倣え!みたいに同じなんでしょう?違ってもいいのではないでしょうか?

 見る人、聴く人を引き付ける技は、演奏の姿と音にも含まれています。
「大道芸」「手品」など、人を驚かせたり笑わせたりする「芸=技」を極めた人たちは、ただ単に技を見せるだけではなく、言葉や音や動きを組み合わせてみている人を魅了します。舞台芸術は当然、演ずる人と裏方で舞台を支える人たちの「技=術」で人をひきつけます。落語や漫才も、歌舞伎や文楽もそうですね。
オペラやミュージカルは、まさに音楽と演技・演出の総合芸術です。

 クラシック音楽の中で、もっとも大きな編成のオーケストラから、無伴奏やピアノ独奏など「ひとり」だけで演奏するものまで、演奏形態は様々です。
 言うまでもなく「音楽を聴く」ことが主ですが、多くの場合客席からは「演奏者を見て楽しむ」一面もあります。演奏する人の「衣装」や「動き」演奏者が近ければ「表情」まで観客の興味は及びます。
 クラシック音楽で演奏者と聴衆の「衣装」は、時代や場所で変わります。
社交場としての意味のあった時代、ヨーロッパでは会場で演奏を聴く人にも「ドレスコード」がありました。男性はタキシード、燕尾服。女性はロングドレス。
当然演奏する人にも「礼装」が求められました。
 現代のクラシックコンサートを見ると、ソリストが形式にとらわれず自由な衣装で、演奏のしやすさも重視したものに変わりつつあります。それを良しとしない人もいるのも理解できます。
 音の面で考えても、音響装置=PAを使ったクラシックコンサートもあります。
屋外に巨大なテント=屋根と舞台を作って演奏するオーケストラコンサートもあります。また、屋内の会場でも広すぎたり、客席の後方で音が聞こえない場合などにも、補助的に音響=拡声装置を使うことも珍しくありません。
ヴァイオリニストがワイヤレスのピンマイクを衣装に「仕込んで」演奏することもあります。見た目には収音用のマイクがなくても、会場内のスピーカーから楽器の音が聞こえる時には、どこかにマイクがあって音が増幅されていることになります。
 照明で考えると、舞台全体を明るく照らす照明もあれば、演奏者の周辺だけを明るくする「エリア照明」も普通になりました。考えればその昔、クラシックの演奏会で「スポットライト」自体がなかった時代から続いている音楽です。
 クラシックのコンサートで「スモーク」や「ストロボ」を使うことは「まだ」ありませんが、そのうちに当たり前になるかも知れませんね。現実に、舞台上の巨大なスクリーンにプロジェクターで作曲家やソリストの画像、映像を映し出すコンサートは実施されています。

 演奏者の「音楽」を邪魔しない演出が大前提です。
ましてや、音楽より「表情=演技」「衣装=露出度」になれば、それは「コンサート」ではなく「ショー」もしくは「見世物」だとしか思えません。
自分が好きな衣装を身に着けて演奏する「演奏家」はあり得ても、「演奏より見た目」を重視するのは、演奏家ではなく「芸人」です。
 以前にも書いた「ヴァイオリンをひける芸人」は、演奏家ではなくあくまでも「芸人」です。
コンサートの演出も、音楽を気持ちよく聴くことを目的にした演出があって良いと思います。演奏時間、間のとり方、休憩時間のくつろぎ、適切な音響と照明などは、演奏者とスタッフの共同作業がなければ成り立ちません。
 最後に「撮影・録音」のために必要なセッティングは、客席で音楽を聴いている人が不快に感じないようにするのが鉄則だと思います。カメラもマイクも録画・録音には無くてはならない機器です。目的が何であっても、お客様側も演奏者側もお互いに「理解しあえるセッティング」が大切です。録音用のマイクを客席の身だたない場所に設置したのに、「邪魔だ!」とばかりに足で動かす来場者は、明らかにマナーに反しています。そんな権利はありません。
演奏者も来場者も「音楽を共感する」空間がコンサートだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

性格と音楽

 映像はメリーミュージック駅前教室で行った「ワンコインコンサート」で演奏した、カッチーニ作曲のアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏しています。
 さて、今回のテーマは人それぞれに違う「性格」と音楽の関りについて。
自分の性格が「どんな?」と考えたこと、ありますか?
他人の性格は、行動や表情、言動から感じるものです。その本人が感じている本人の性格とは違う場合もあります。一緒にいる時間が長い人ほど、その人の性格を感じる場面があります。家族や同じ職場の人、友人など。
 自分の感じる自分の性格は、他人と比較しない限り「普通」に感じているものです。たとえば、待ち合わせの時間に「5分」遅れることが、許せない人もいれば、そのくらいなら…と思う人もいます。「え?5分ぐらい仕方ないでしょ?」と思う人は、5分でも送れるのが嫌な人と自分の違いを初めて感じます。
 性格を表す時に使われる「分類」
1.ポジティブ(楽観的)⇔ネガティブ’(悲観的)
2.のん気⇔短期
3.おおざっぱ⇔几帳面
4.外交的⇔内向的
5.行動派⇔慎重派
6.積極的⇔消極的
7.寛容⇔厳格
8.強気⇔弱気
などなど、ほかにも考えられますが色々な「性格の違い」があります。
 上記の中で、いくつかを組み合わせるともっと性格がはっきりします。
試しに、左側だけを並べると以下のような「人」になります。
ポジティブでのん気、おおざっぱで外交的、行動派で積極的で強気
なんとなく、「元気で明るい人」に感じますね。
逆に右側だけ選んで並べると…
悲観的で短気で几帳面、内向的で慎重派、消極的で厳格で弱気
この人「ネクラで付き合いにくい人」に感じませんか?
(笑)

 では、性格と音楽はどんな関係があるでしょうか?
まず「練習」の段階で性格によって、何が違うでしょう。
自分の演奏に「こだわり」が強い人は、恐らく「几帳面」で「厳格」なタイプではないですか?その上に「悲観的」と「短気」が加わると、すぐにイライラします。できるまで繰り返す人は「積極的」「寛容」な面がありますよね。
逆に、なんとなくぼんやり音楽を楽しんで練習する人は
「ポジティブ」で「のん気」「おおざっぱ」で「寛容」なタイプ。
人によって性格は様々です。自分の練習方法を冷静に観察することが、まず第一です。練習方法も人それぞれですから「正解」はありません。
 日常生活で気付かない自分の性格が、練習の効率を下げている可能性もあります。特に練習時には「短気」は禁物です。「うまくならない」と思い込むのは「悲観的」で「短気」な人が多いようです。

 
 人前で演奏する時に、あがる=過緊張になる人は「悲観的」「消極的」で「厳格」「弱気」な人が多く見られます。
 演奏に個性があるのは素晴らしいのですが「癖」に感じる演奏をする人は、
「強気」で「厳格」「内向的」な人に感じます。
 音楽を聴いていると、その人の性格を感じることがあります。
自分の演奏にこだわりを持ちながら、聴いている人を楽しませ、謙虚な気持ちを感じる演奏家と、その「逆」の演奏をする人がいるように感じます。
それが「性格」でないとしたら、ほかに原因があるでしょうか?
「うまく弾きたい」と思う気持ちの強さは性格で変わります。
他人から評価された自分の演奏を、どう受け止めるかも性格次第です。
他の演奏者と協調できるか?も性格です。他人のせいにするのも性格です。
「性格が悪い」と言う悪口があります。実際には悪いのではなく、多くの人に嫌われる性格だったり、自分の嫌いな性格のことです。
性格を変えることは、本質的には無理かもしれません。でも、音楽を演奏するのであれば、自分の性格の「欠点」「改善点」を謙虚に見つめることが必要です。
 人の性格は、「話さず」「目立たず」「人に会わない」なら誰にも知られません。音楽を演奏する「行為」は、自分の感情を人に伝えることです。性格は隠せません。だからこそ、自分の性格を考えることが大切だと思うのです。
他人に言われると腹が立つ!のであれば、自分で考えるしかないのです。
「普通」「当たり前」「それしかできない」と思い込まずに、自分を改善する気持ちを持ちたいですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

音楽とコストパフォーマンス

 映像は「踊る人形」。デュオリサイタル14での演奏です。
25年間の長い不況が続く日本は今、国民の「貧富の差」がますます大きくなっています。大企業とお金持ちに貧しい人が収めるお金が流れ込む悪循環。
私たち音楽を仕事にする職業は、とかく「お金と縁遠い」と思われがちです。
その話は以前のブログでも書きましたが、今回は音楽=音楽家の「コスパ」について考えてみます。「芸術をなんと心得る!」とお怒りにならず(笑)最後までお読みくださいませ。

 日本で暮らす音楽家の中にも「貧富の差」はあるのが当たり前です。
それを否定する気はありません。自由に競争する社会です。「勝ち組と負け組」があるのも現実です。音楽を「商品」として考えることに抵抗があります。特にクラシック音楽は「伝統」を受け継ぐものでもあり、芸術・文化に「お金」と言う概念がそぐわないと言う考え方も理解できます。
 とは言え現実に、形のある美術作品・芸術作品には「価格」があります。
演奏に必要な楽器にも「20億円」という価格が付いています。スタインウェイのフルコンサートピアノと、国産のアップライトピアノの「価格差」も歴然としてあります。
 では目に見えない「無形」の芸術や文化に「価格」はあるのでしょうか?

 演奏したり人に演奏技術を教えたりする「職業」を考えると、サービス業と言う職種が最も近いと思います。「おいっ!」とここでもお怒りになられる方もおられますよね。では、演奏家だけは「特別な職業」で、同じように身に着けた技術で生活する「スーパーの店員さん」はサービス業ですか?それって差別だと思います。人に技術を教える人を「先生」と崇め奉る呼び方をしますが、なぜかお医者さんも「先生」で、人間のくずのような政治家も「先生」と呼ばれます。大変に光栄なことで、あの政治家と同じように呼ばれるくらいなら「くん」か「さん」で呼ばれたいと思っています。あれ?話がそれました。
 演奏やレッスンで「対価」を頂く職業でありながら、多くの演奏家や教室講師は「非正規雇用」なのが日本の現状です。「ひせいき?ってなに?」と言う演奏家が多いのも日本人、特に音楽家が如何に政治に興味関心がないかの象徴です。
 大学やオーケストラ(多くは社団法人)に「正規雇用」されている音楽家は、コストパフォーマンスについて考えないでも「給与」や手当てがもらえます。適当に手を抜いてもばれなきゃオッケー!一生懸命演奏しようが、テケトーにチャラビキしようが給与は同じで、定年まで働ける。給与が安くても、手を抜けるしバイトすりゃいいので文句も言わない音楽家、いませんか?(笑)

 私は20年間「正規雇用」の教育職員=学校の先生と言う職業に就いていました。同じ職場の教員の「能力」が違おうが「熱意」が0度と100度以上に違おうが、俸給は「年齢」で決まるので無関係。副校長は一等級、校長は徳一等級、「ヒラ教員」はみんな二等級。あとは手当が違うだけ。それが「先生」でした。
 今、自分の小さなメリーミュージックという「会社」を経営し、NPO法人メリーオーケストラの「理事長」と言う肩書ですが、なんと!どちらの法人からも、「役員報酬」を頂けない状況です。それが現実です。会社に貸していたお金を「返してもらう」ことで家のローンや生活費をひねり出すにも、もう限界です!って笑い事じゃないです。
 「じゃ、教員が良かった?」と聞かれれば、絶対に嫌です!と言うテーマも以前書いたような気がするのでストップ(笑)

 「演奏と指導の対価」について、標準的な演奏技術・時間や標準的な指導技術・時間、さらにその技術と時間に対する標準的な「価格」があるでしょうか?
 ●演奏技術が高いか低いか?標準的か?の「審査の基準」がそもそもありません。コンクールの結果は一時的なものでしかありません。
 ●レッスンの内容が標準的か?標準以上・以下?と言う基準もありません。
スマホを見続けてレッスンを終わる先生がいても、レッスン技術とは無関係とされます。
 ●演奏家・指導者の「標準的な労働時間」はありません。ましてや「準備=練習」に費やした時間と労力に対しての「評価」さえありません。当然「対価」も支払われません。

 1曲をコンサートで演奏するために、演奏者がかける時間は人によって違います。数時間で終わる人もいれば、何カ月もかける人もいます。それは聴く人には「関係ない」ことです。
 その部分だけを「演奏家の立場」で考えれば、練習=準備の時間を短くする方が「コストパフォーマンスが高い=良い」と言うことになります。
 一方、聴く人・習う人=お客様にとっての「コストパフォーマンス」は、支払ったお金に対して、演奏やレッスンの内容と時間が「納得できる」かどうかで決まります。極端に言えば、無料のコンサート、無料のレッスンであれば「全然納!納得できない!」ものでも我慢するしかありません。
 では、コンサートのチケット代金、レッスンの単価によって、コストパフォーマンスが決まるか?と言えば「人によって、まったく違う」のが現実です。

 先述の通り「基準」がありません。1時間、演奏を聴く・レッスンを受ける対価として「1,000円」が高いと思うか?安いと思うか?さえ人によって違います。
もちろん、その人が違う演奏やレッスンで、同じ「1時間=1,000円」を体験していれば、どちらのコスパが高い=良いか判断できます。条件をそろえて、比較するものがなければ、コストパフォーマンスが出せないのです。

 人によって大きく異なる「コスパ」は、比較の使用がありません。
だからと言って、生活するのに必要な「最低限の金額」は大きく変わらないのです。フリーランスや自営の音楽家が、月に1万円の収入で生活できるか?無理です。少しでも演奏の準備にかける練習=時間を少なくしてコスパを上げたい!と思っても、コンサート=お仕事がなければ、収入はゼロです。コスパ以前に、生活できません。では!コンサートのチケット代金を「無料」にすれば!会場費だけで、数万~数十万円のお金は誰が払うのでしょうか?無理です。
 路上ライブ!で生活できる人はいません。いたとしても数名です。
音楽家が生きていくための「お金=出費」が少なければ、収入が少なくても生きられます。物価がどんどん高くなり、税金がどんどん高くなる。「え?税金、あがったの?」毎日毎日払っている「消費税」って税金なんですよ(笑)ガソリンに至っては、ガソリン税に消費税がかかってますけど知ってます?
 給料「さえ」25年間、上がらない日本で「非正規雇用」「自営業者」の収入が増える?わけがありません。コンサートチケットを買える人が減りました。レッスンを受けられる人が減りました。楽器を買える人が減りました。当たり前です。国民のほとんどが「生活が苦しい」からです。私たちもその一人です。
 音楽家が生き残れるとしたら、日本の景気=消費活動を取り戻すしかないのです。原因は?はっきりしています。25年間、政治の失敗を「見てみぬふり」してきた国民が悪いのです。もちろん!今の政権を持っている「与党とその一味」が一番悪いのは言うまでもありません。でも、「野党はダメだ」「誰がやっても同じだ」「保守なら自△党だ」という間違った考えが、その政治家たちをのさばらせたのです。
 音楽家も「国民の一人」ですよ!18歳以上の「音楽家」が今すべきことは?
賢明な音楽家ならお判りでしょう。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

想像力をふくらませよう!

 映像はだいぶ前のデュオリサイタルで演奏した、ピアソラのリベルタンゴ。
アレンジがシンプルでカッコイイ!のに楽譜はすでに絶版です(涙)
この演奏に限りませんが、楽譜に書かれた音符と休符、強弱、速度などの指示「だけ」で演奏しても、楽器の個体差による音色と音量の違いしか「演奏による違い」は出せません。演奏するホールの響き、聴く人の感性によって生まれる「違い」は演奏とは別のことです。作曲者の「想像力」と演奏者の「想像力」、聴衆の「想像力」それぞれの人によって違う「イメージ」があります。
 演奏者が楽譜を音楽にしながら、想像する「イメージ」について考えます。

 まず「想像」と言う言葉から連想されること・もの←これも想像力です。
・空想・幻想・妄想・仮想・発想・着想・発明・創意工夫などなど
中には、ネガティブな印象を受ける言葉←これも想像…もありますよね。
「想」と言う文字が入る言葉には、人間の頭で考えると言う意味があるように感じます←これまた想像。私のブログでも「思う」という言葉が多いのは、断定できない・逃げの表現と言う意味合いもありますが、普段の会話の中で何気なく「想像」で相手に話していることの方が多いのではないでしょうか?

 音楽を演奏する時に働かせる想像力は、音楽表現の個性に繋がります。
具体的なものや風景・人物や出来事を創造するとは限りません。私の場合、ほとんどは抽象的で漠然とした「感情」のように思います。
 もちろん、演奏する場所や音楽によっては「母」を思ったり、勝手な登場人物を創造したり(笑)、風景を創造することもあります。
 たとえば、上の動画のリベルタンゴを演奏している時に想像していること…
「情熱的な…なにか」「瞬間的な動き」「い音的なズレ=重さ」「昇り詰める感情」「イレギュラーなアクセント」かな?
 楽譜に師事されていない「ポルタメント」は、その場所を何度も練習している時に試しにやってみて(笑)、自分の想像するものに近いと思えば「採用」しています。それが「邪魔!」と思う人もいらっしゃって当然です。

 以前にも書きましたが、私は「ラジオ」が好きです。テレビに比べて自分で勝手に想像できる「人物」「風景」「もの」「色」があるからです。音だけで表現できないことがあるのも事実ですが、逆に音は「視覚に頼らない」想像力が働きます。文学もラジオに近い想像力が働きますよね。人間の五感の中で、嗅覚」「味覚」「触覚」を伝えられないのがテレビ、ラジオ、文字です。もちろん電話も同じです。いつかこれらの感覚も伝えられるようになるのでしょうね。でも、私は自分の想像力で香りや味を想像する方が好きです。
 梅干を見ると唾液が出る現象を、「パブロフの犬」と言いますが人間の記憶で条件反射的に体が反応することを指しています。
同じように自分が「泣いた記憶のある音楽」を聴くとその時の記憶が呼び起こされます。おそらくその「記憶の繰り返し」はDNAとして遺伝しているのではないかと思います。動物の本能もその一つです。危険!と感じると反応する身体は、教わらなくてもできるのです。

 音楽を聴いて「悲しさ」「楽しさ」「激しさ」「穏やかさ」を感じる理由は、短調か長調かの違い、テンポの違い、同時に演奏される音・楽器の数、などが考えられます。
演奏する曲の楽譜を、指定された楽器で、指定されたテンポ・強弱で演奏した場合に、感じる印象は人によって多少の違いはあっても、それほど大きな差は無いかもしれません。つまり「想像されるイメージ」がそれほど大きな差がないことになります。その先にある想像力って、どんなものでしょうか?

「妖艶」「虚(うつ)ろ」「苦悩」「甘美」などの形容詞で表す感情があります。多くの場合、年齢経験を重ねる中で感じる感情かも知れません。
小学生に「妖艶」なイメージを理解しろと言ってもねぇ(笑)
 音楽を聴いて特定の「風景」「場面」を想像するのは、記憶とつながっている場合です。たとえば、スキー場で良く流れている「歌」があります。その歌を聴くと、スキーを連想する人もいます。サザンやチューブの音楽を聴くと夏の海岸を連想したり、聴いたことのない音楽でも、なんとなく想像する場所や風景があるのも不思議です。

 音楽から連想するイメージは、人それぞれに違います。演奏者の想像力が聴衆に伝わらなくても、それは表現力が低いからではありません。
 演奏する人が何も感じない音楽だとしても、聴いている人が勝手になにかを連想するかもしれませんが、演奏しながら自分の「イメージ」を持つことは大切だと思います。単に「音」としてではなく、演奏しながら感じる感情を「探す」能力も必要だと思います。教えてもらえることではありません。その人の体験や記憶は、その人にしかないのです。なにも感じない…「無色透明」「無味無臭」な音楽はないと思うのです。演奏しながら想像力を膨らませていく「感性」こそ、音楽の個性です。感情のない演奏は、香りのないコーヒー(クリープではない)です。自分の好きな風景や、香り、草花、絵画、手触り…なにを想像しても構わないのです。もとより、音楽は「聴覚」で感じるものです。それ以外の五感を連想することも、人間の想像力なのです。
 ぜひ、演奏しながら想像力をふくらませて、新しい魅力を探してください。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

ライブ演奏とスタジオレコーディングの違い

 映像は、ジョージア(昔のグルジア)の音楽家アザラシヴィリ作曲のノクターン。昨年、数か所のコンサートで演奏させて頂きました。その演奏動画を見比べると、なんとまぁ!弓も指も全部違う!(笑)「信用ならん」演奏家ですね、こいつ。生徒さんも、どの演奏を参考にしたものやら。ごめんなさい。

 私たちが作ったCDが3枚あります。
いずれも自宅をスタジオにして収録しました。
録音エンジニアも演奏者も同じ人です(人手不足か!)
言うまでもなく、レコーディングを目的とする場合、二人それぞれが納得できる(もしくは許せる)演奏ができるまで、何回か録りなおします。
ただ、回数が増えてくると集中力も下がり、疲れも出てくるため多くても、4回ぐらいのテイクの中で決めています。私たちが演奏する曲は、どの曲も短いのでむしろ「曲ごとの違い」が出ないように気を配って録音します。
 同じ日に収録曲すべてを録音することもありますが、数日に分ける場合、レッスンに使う場所でもあるため「撤収!」が必要になります。マイクのセッティングからやり直しのケースも珍しくなく、結構な手間です。
 そうやって作ったCDと、コンサートの録音を比べると…。

 CDは演奏の傷が少なく、ピアノとヴァイオリン・ヴィオラのバランスも後から編集で修正できます。もちろん、二人が同時に演奏して録音するのですが、ピアノから離れた場所で、ヴァイオリン・ヴィオラを演奏して録音します。
お客様の「目と耳」がないからできる演奏=録音方法ですが、コンサートとは違うプレッシャーがかかります。ふたりのどちらか(自分)が、演奏に傷=納得いかない音を出せば、相手がどんなに納得のいく音が出せていても「ボツ」になるプレッシャー。それはコンサートでも同じなのですが、録音の場合「傷の無い演奏」を優先するのも現実です。

 コンサート=ライブ演奏の場合には、会場で私たち演奏者と向かい合っておられる「お客様=聴衆」に演奏を楽しんでもらうことを何よりも優先します。
演奏の質はもちろん、曲の合間の「くつろぎ」に私たち演奏者の声で、私たちの言葉でお話しすることを心掛けています。「クラシックコンサートにはいらない」と思うかたもいらっしゃると思います。演奏だけで終始しても、なにも問題はありません。演奏をごまかしたり、時間稼ぎの「トーク」は絶対にダメです。
 そんなコンサートで私たちが感じる緊張感は、とても心地よいものです。
トークなしでひたすら演奏したほうが、もしかしたら演奏の傷が少し?減るかも知れませんが、多くのお客様が求める「楽しみ」は、傷のまったくない演奏よりも、演奏者の「人」を感じられ、その人の「音楽」を感じられることではないでしょうか?誰が演奏しても、音楽は音楽です。でも、コンサートは「目の前で人間が演奏する」空間です。一緒に客席で音楽を聴く、見ず知らずの人とも楽しみを共有できれば、さらに楽しみが増えると思っています。

 今年2022/12/18(日) 14:00開演 もみじホール城山(相模原市緑区)
来年2023/01/07(土) 17:00開演 ムジカーザ(代々木上原)で、15年目となるデュオリサイタル15を開催いたします。
「もみじホール城山」のチケット代金は、大学生以上、おひとり1500円、
小学生から高校生がおひとり1000円。幼児は無料です。
「代々木上原ムジカーザ」の、2500円のチケットをお求めになると、
上記12月のもみじホールでの演奏会にもご入場いただけます。幼児は無料です。
詳しくは「野村謙介・野村浩子 デュオリサイタル15ページ」でご確認ください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?なぜ?ヴァイオリンアレンジ「謎のオブリガート」&「重音の嵐」

 映像は、デュオリサイタル13での、ドボルザーク作曲「スラブ舞曲第2週より第2番」をクライスラーがアレンジしたものです。多少、アレンジをアレンジしてます。ご存知の通り、オーケストラで演奏される機会の多いこれらの音楽を「ヴァイオリンとピアノ」用にアレンジされると、どうして?なんで?と言いたくなるほど「重音だらけ」になったり、やたらめったら(笑)ヴァイオリンに「ヒャラヒャラ~」「ピロピロリ~」ってなオブリガートが出てきます。これ、嫌いなんです!(正直者)

 原曲がどうであっても、ヴァイオリンとピアノが演奏するための「楽譜」なら、それぞれの楽器の「良さ」だけ引き立てたアレンジで良いと思うのに、「こんなこと、できるんだよ!」とか「こんな技もあるんだよ!」挙句の果てに「すごいでしょ!」と言わんばかりのアレンジがやたら多いと思う私たち夫婦です。作曲家の書いた美しい旋律を、ヴァイオリンかピアノが演奏するしかないわけです。旋律をヴァイオリンが主演奏するのが自然だと思うのです。ピアノが主旋律を演奏するところで、ヴァイオリンを「休み」にしない理由が私たちには理解不能です。ず~っと二人とも、なにかひいていないと「死んでしまう」みたいな(笑)

さらに多いのが、このスラブ舞曲のような「重音の嵐」が吹き荒れるアレンジです。そもそも!ヴァイオリンって重音「も」演奏できる旋律楽器のはず。2パート分「ひけるよね?ね?」って強引に書かれてもなぁ…と思うのです。
 重音の良さは確かにありますが、2パート=2声部を演奏することで「失われる良さ=デメリット」があることをアレンジする人には考えて欲しいのです。
 私は少なくとも、一つの音=単音で演奏する弦楽器の音が好きです。二人の弦楽器奏者が演奏したときの「響き」と「重音」はまったく違うのです。
バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタや無伴奏パルティータのように、明らかにヴァイオリン1丁で「ポリフォニー」を演奏する試みをした曲には、美しさがあります。それと一緒にしないで欲しい!

「なんとなく重音ってカッコイイ」のでしょうか?「うまそう」なのか「むずかしそう」なのか。良くわかりませんが、派手ならいい!というのであれば、エレキヴァイオリンで演奏すると、めっちゃ派手な音にできます。乱暴に「ガシガシ」弾くと「情熱的」で「魂の演奏」なんですか?笑っちゃいますけど。
 ヴァイオリンの新しい可能性?のつもりなら、すでにバッハ大先生がやりつくされていますのでぜひ!弦楽器を「声楽」と同じように考えて頂き、アレンジをしてほしいと思っています。そして、聴く側も「もの珍しさ」ではなく、楽器の個性と演奏者が奏でる「楽器の声」を楽しんで頂きたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習の組み立て

 映像はパラティス作曲と言われている「シシリエンヌ」をデュオリサイタル11代々木上原ムジカーザで演奏したときの映像です。
 チェロで演奏されることが多いこの曲ですが、数ある「シシリエンヌ=シチリアーナ」のタイトル曲の中でも、私の好きな曲です。
 さて、今回のテーマ「練習の組み立て」は、楽器を演奏する人たち共通の「練習」についてを、練習嫌いだった私(涙)が考えるお話です

 練習と言うと、なんとなく「学校の宿題」をいやいややっているような…これ、私だけですか?「やらなきゃいけない」と言う義務感にさいなまれながら、見たいテレビを我慢して宿題をやった記憶と重なるのですが…。
 私のような練習嫌いではなくても、「練習好き」な人のことを「すごい!」って思いませんか?あ、思わない?(汗)確かに練習が好きな人って、きっとおられるんでしょうね。尊敬します。
 では、練習をしなくてもヴァイオリンは上達するのでしょうか?←いかにも練習嫌いの人間の発想
結論を言えば、練習しなければ上達はしません。経験に基づいています(涙)

 そもそも練習は何のためにするのか?と言うテーマです。
「自分が思ったように演奏できるようになるため」だと思います。
練習をしなければ、思ったようにひけないのですが、「思ったように」と言うのが肝心です。多くの初心者の場合、先生や親に言われた「課題の楽譜」を「ひく」ことが練習だと思っています。少なくとも私はそうでした(中学2年生ごろまで)
「ひいていれば練習」ではないのですが、家で「監視」している親は、とりあえずヴァイオリンの音が知れいれば、練習していると思ってくれました(笑)
「毎日30分」とか「最低1時間」とかって、練習時間の事を話す人がいますが、多くの場合「時間=練習」だと勘違いします。もちろん、これから述べる「練習」には時間が必要ですが、ただ音を出すだけの時間は、厳密には練習ではありません。

 練習の意味も仕方も、まだ知らない生徒さんに対して、「課題」を出すことが指導者の難しさです。レッスンで上手にひけたら「はなまる」を付けてあげるのは喜ばれます。
「止まらないで最後までひけるように頑張ってきてね!」や「ゆっくりで良いから間違わないようにがんばってきてね!」や「音がかすれないように気を付けて弾けるようにがんばってね!」などなど、具体的な「目標」を出すのが一般的です。悪い例で言うと「次、これをひいてきてね」ですね。これ、最悪だと思いませんか?もちろん、音大生に言うなら問題ありませんが、先述の条件「練習を知らない」生徒さんにしてみれば、なにをどう?ひくの?どうやってひくの?ってわかるはずがありません。悲しいことに、こんな指示をだすヴァイオリンの「せんせい」が街の音楽教室にたくさんいることを、生徒さんからお聞きします。

 指導者の役割は、生徒さん(お弟子さん)に対して自分の音楽を教えることではない…と言う話は前回のブログで書きました。自分の生徒が「自分の好きな演奏」を見つけるための、プロセスとテクニックをアドヴァイスすることが役目だと思っています。その二つでさえ、人によって違うのです。自分の通ってきた道=練習してきた方法が、すべての人に当てはまるとは限りません。そこにも選択肢があるのです。ただ、練習のプロセスや練習のテクニックにも「選択肢」を増やし過ぎれば、生徒は混乱します。だからこそ、生徒の状態を観察することが大切だと思っています。

 これから書くのは、私なりの練習方法です。これが絶対に正しいとも、ほかに方法がないとも考えていません。
①自分の出来ていない「課題」を見つける。
・先生に指摘されて気付く課題や、うまくひけない「音」
②その課題を乗り越えるために「原因」を見つける。
・原因は複数考えられます。
・思ってもいないこと…無意識に(勝手に)動く腕や指が原因かも。
・自分から見えない「死角」も要チェック。
③原因を取り除くためのテクニックを考える。
・医療で言えば「治療方法」を考えるのと同じ。
・すぐには直らない(治らない)のも医療と同じ。
・繰り返して弾く前に、自分の音と身体を観察すること。
・常に冷静に「考えながらひける速さ」で繰り返す。
・音と身体を観察しながら、考えなくてもひけるまで繰り返す。
 

 上記の練習方法は、初心者を含めどんなレベルの人にも共通していると思います。ここから先は、「自分の思うような」という段階の練習方法です。
①「音の高さ」「リズム」「汚い音を出さない」3つの点に絞って演奏する。
・音量や音色、ビブラートやテンポを揺らすなどを意図的に排除する。
・「音楽と演奏の骨格」を把握するためのプロセスです。
②曲全体(1楽章単位)の印象と「曲のスケッチ」を考える。
・自分で演奏せずに、楽譜を見ながらプロの演奏をいくつも聴いてみる。
②多用されるリズムと音型の「特徴」を考える。
③1小節目の最初の音から二つ目の音への「音楽」を考える。
④最初から音量や音色を決めずに、一音ずつ「行きつ戻りつ」しながら考える。
⑤いくつかの音を「かたまり=ブロック」として考える。
⑥句読点「、」と「、」を探しながら、接続詞の可能性も考える。
⑦ある程度進んだら、ヴァイオリン以外のパートから和声を考える。
⑧弓の場所、速度、圧力を考える。
⑨使用する弦と指を考える。
⑩ブロックごとのテンポ、音色、音量の違いを考える。
☆一度にたくさん=長時間練習しない!(覚えきれません)

 最後に、日々、毎回の練習を「積み上げる」テーマです。
私の場合、視力が下がり楽譜や文字を読みながら練習(演奏)できなくなったので、少しずつ覚えながら練習していく方法しかなくなりました。
以前は楽譜に書きこんだ情報も読みながら練習していましたが、今考えてみると本当にそれが良かったのか?正しい練習方法だったのか?と疑問に感じることがあります。「怪我の功名」なのか「棚から牡丹餅」なのか(笑)いずれにしても、少しずつ覚えながら練習すると、時間はかかりますが覚えていないこと=理解できていないことを、毎回確認できるので楽譜を見ながら練習するよりも、結果的に短期間で頭と体に「刷り込まれている」ように感じています。
 練習は「積み重ね」でしかありません。しかも、時によっては前回の練習でできた!と思っていたものが出来ない…積み重なっていないことが多々!しょっちゅう!あるのが当たり前です。 
 私たちの脳と肉体は「機械」や「もの」ではありません。むしろ目に見えない「イメージ」の積み重ねだと思っています。なぜ?指が速く正確に動かせるのか?という人間の素朴な疑問に対して、現代の科学と医学はまだ「答え」を持っていないのです。今言えることは、私たちは「考えたことを行動できる」と言うことです。無意識であっても、それは自分の脳から「動け」と言う命令が出ているのです。考えることで演奏が出来ます。ただし、考えただけでは演奏できません。身体の「動き」も考えて演奏することで、初めて思ったように演奏できるのです。「たましい」とか「せいしん」ではなく、物理的で科学的な「練習」が大切だと思っています。「きあいだ!」「こんじょーだ!」も無意味です。
 考えることが苦手!と威張るより(笑)、好きなことをしている時にも、自分は無意識に考えていることを知るべきです。
 感情も感覚も、私たちの肉体の持つ「能力」で引き起こされている現象です。
自分の能力を引き出すことが「練習」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介



ヴァイオリン初心者の苦悩

 動画は、エドワード=エルガー作曲の「6つのとてもやさしい小品」です。
ヴァイオリンを習い始めた生徒さんが演奏できる曲は?
明らかにピアノのそれに比べて、曲が少ない!ほとんど無い!のが実状です。
いわゆる「教則本」は数種類あります。それもピアノと比べれば、極わずかです。なぜ?そんな事が何十年も続いているのでしょうか?
 友人の作曲家に、初心者ヴァイオリン奏者のための曲を作ってもらったこともあります。高名な作曲家の先生が作られた作品を、私の生徒に初演させてもらったこともあります。そんな経験も踏まえて、「曲が少ない理由」を考えてみます。

 ヴァイオリンを演奏したい!と思い立った時点で「何ができて、何ができないか?」を考えます。
①楽譜の「ルール」
 ・音名=ドレミを読める速さは?

 ・ドレミファソラシドの高低を歌えるか?
 ・音符の種類=四分音符・二分音符の意味がわかるか?
 ・半音と全音の意味、臨時記号の働きをわかるか?
 ・調号の意味が分かるか? など
②音の高さの違いに対する「精度」
 ・音の高低の違いを、どの制度=半音高いなど理解できるか?
③練習に集中できる時間の長さ・期間
 ・一回の練習に集中できる時間
 ・飽きずに(飽きても)頑張れる時間
およそ、上記の違いが個人で大きく違うのは、どんな楽器を始める場合でも考えられる共通点です。

 次に、ヴァイオリン(弦楽器)特有の「むずかしさ」を考えます。
①弓を使わずに、開放弦をはじいて出せる音の高さを音名で理解できない
 ・絶対音感があればできます。なければできなくて当たり前です。
②弓を使わずに、弦を押さえて「ド」の音を見つけられない。
 ・上記①と同じ理由です。ドに限りません。
③弓で「一本の弦だけ」を弾き続けられない。
 ・簡単そうですが、ほぼ全員が「視覚」に頼ります。眼をつむると色々な弦を引いてしまうのが当たり前です。
③弓を「同じ場所」で動かせない。
 ・これも上記②と同じで「ガンミしていないと」弓が暴走します。
④弓と弦の「直角」が自分から理解できない。
 ・他人から見ればわかる「直角」が自分からはわかりません。視点の問題なので当然です。
⑤弓をたくさん使えない。
 ・全弓使おうとすると、弓の位置、角度を維持できません。特に「見ていないと」大変なズレが生じます。
⑥同じ音量・音色で弓を使って音が出せない。
 ・原理を知らないのですから当然です。
⑦演奏する構えで、自分の両手に「死角=見えない場所」が多い。
 ・ピアノの場合は両手の指が見えていますが、ヴァイオリンの場合左手の手首から肘までは楽器の死角になります。右手の親指も見えません。弓を動かして右手を見ていると、楽器が視野の外に出てしまいます。

 ピアノの初心者に、楽譜に書かれている「音符」の「音名」を教えて、鍵盤で演奏させることは、なんの予備知識がなくてもできますよね?
 ヴァイオリンではどうでしょうか?
開放弦を指ではじいて出た音を、楽譜で「ここ」と教えて、音名を教えられます。
まず弓を使って演奏することは、この時点では無理です。無理ではなくても、弦が4本あって、どこをはじいたら、なんの音が出るのか「覚える」ことになるため、「ソ・レ・ラ・ミ」が最初に出てくる音名になります。「ドレミ」さえあやふやな人が、始めから「ソ」とか「ラ」って大変ですよね。
 ピアノは「鍵盤の模様」で「ド」の場所を覚えるのが一般的です。
ヴァイオリンは…そもそも、開放弦の音を合わせる「調弦=チューニング」をするための技術が何種類も必要です。
① 音の高さを判断する「相対音感=制度」
 ・チューナーを使えばなんとかクリアできます。
②ペグを動かして正しい音で「止める」技術
 ・多くの場合、これで弦を切ります(笑)
 ・回せても=動かせても、ペグをとめる技術がなければ調弦はできません。
 ・アジャスターをすべての弦につければ、ペグを動かせなくても調弦はできますが、その前にペグで調弦してもらうことが必須条件です。

 ヴァイオリンの「はじめの一歩」に何を練習するのか?すべきなのか?は、指導者によって意見が違います。これは以前のブログでも書きましたが、習う人の「目指すレベル」がどうであっても、大差はないはずです。違うとすれば、今回のブログの冒頭で書いたスタート時点での「知識・技術」です。
 楽譜を読めない人がヴァイオリンを始める時には、指導者の手助けが相当に必要です。生徒が子供の場合には、親が自宅で繰り返し教えることも必要です。
 多くの場合には、開放弦「レ」か「ラ」を一定の長さで演奏することからヴァイオリンが始まります。
 が!レッスンが週に1回だとすれば、この「ラ」だけを7日間!
耐えられますか?(笑)大人でも無理だし子供に至っては、まず100パーセント飽きます。他に弾ける音がないのか?ひいちゃいけないの?なんで?
 1本の弦だけを演奏できるようにする「目標」や、弓を長く使って一定の音量・音色で演奏できる「目標」、メトロノームに合わせて弓を返す「目標」、眼をつむっても弾けるようにする「目標」などなど、次のレッスンまでの目標を示し、その「出来具合」を次のレッスンで指導者が確認し修正するのが「野村流」です。

 教則本だけで、ヴァイオリンは演奏できるようになるでしょうか?
本人の「やる気次第」だと思います。ただ、自分の演奏方法、出している音が正しいのか?なにか間違っているのか?は自分の力だけでは判断できないことがほとんどです。特に、それまでに楽練習の経験がない人の場合には、多くの「壁」が待ち構えているのがヴァイオリン演奏でもあります。

 教則本ではなく「音楽」の幅を感じられる初心者向けの曲とは?
エルガーの作品を参考にして、まとめてみます。
①開放弦から全音の幅を「1の指の位置」にした曲を作る。
・GdurとDdurなら開放から1の指が全音になります。
・さらにGdurならば、G線D線の指の並び方が一致し、A戦とE線の指の並び方が一致します。
②曲の最初の音を「0」「1」または「2」の指から始める。
③可能な限り「1」「2」「3」「4」の順で音の数が多い方が演奏しやすい。
④順次進行を多く使うことで、全音・半音の「音程」を覚える。
⑤上行系の音型と下降系の音型をバランスよく入れる。
⑥同じ弓の動き=リズムをある程度、反復させる。
⑦1曲の長さを16小節程度に抑え、ピアノの和声進行に多彩さを持たせる。
注文は限りなくありますが、初心者のためのピアノ曲集で感じられる「多彩な音楽」を弦楽器特有の「制約」の中で作って欲しいと思っています。
 ヴァイオリンはなぜか「コンチェルト」を初心者が演奏することになっています。ピアノでは考えられないことです。もっと、ピアノとの合奏で楽しみながら上達できる「練習曲集」があれば、無理をしてコンチェルトの練習に行き詰ってドロップアウトしてしまう生徒が減るはずです。
 才能教育と呼ばれる「Sメソード」の良さもありますが、系統だっていません。音を覚え、腕と指を動かして「楽器を弾いた」楽しさだけを味わえるより、始めから、必要不可欠な「相対音感の育成」と「調性感とリズム感の養成」「ボーイングの重要性に気付かせる内容」を考えたメソードが必要だと思っています。
 作曲家諸氏の研究に期待しています。
最後までお読みいただき、、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介



直線と曲線の美しさ

  上の映像は、レイナルド=アーン作曲の「クロリスに」をヴィオラとピアノで演奏した動画です。下の写真は、その演奏に使用している、陳昌鉉さん製作のヴィオラの写真です。
 今回のお話は「直線と曲線」というなんだか「算数」か「製図」に出てきそうなテーマです。
 ちなみに、①眼に見える「線」と、②眼には見えない「音の高さの変化・音色の変化」が「変化しない状態=直線」の場合と「丸く角のない連続的な変化=曲線」の両面で考えていきます。

 まず、①の目に見える線。ご存知の通り、弦楽器は柔らかい曲線の部分と、まっすぐな直線部分との対比が美しい楽器です。
 正面・背面から見た場合、肩や腰の部分と中央のくびれの部分、F字孔の曲線がそれおぞれに異なった「R=半径」の曲線で作られていることがわかります。
 R値は例えば、道路の「カーブ」の強さにも使われます。小さい半径のカーブを曲がる時には「急カーブ」になり、高速道路などの緩やかなカーブは「半径が大きい曲線」になります。

 駒をスクロール側やテールピース側から見れば、「アーチ=曲線」になっています。もしこれが「直線」だったら…両端の2本の弦は、1本ずつ弾けますが、中川の2本の弦を引こうとすれば、4本の弦が同時になってしまいます。
 直線部分は、ネックの両側、弦、正面から見た駒、などの部分です。
弦を上=スクロール側から見れば、直線なのは当たり前…と思いがちですが、駒を通過する弦が、上駒からテールピースまで「直線」でなければなりません。駒の位置や弦を乗せる場所がずれていれば、弦の駒部分が「折れた直線」になてしまいます。
 今回の写真にはありませんが、横や上下から撮影すると、表板、裏板が非常に緩やかな曲線に削られていることがわかります。駒の部分が高く、エッジの部分が低くなっています。この隆起の大きさで迷路と音量が変わります。

 写真にある楽器の頭にあたる部分「スクロール」の曲線美は女性の「髪」を模しているという説が有力です。弦楽器製作者にとって、この部分の美しさも求められる「美術品」としての装飾でもあります。もちろん、調弦の際に左手の指を「ひっかける」場所でもあり、触らずにいることは不可能です。
 これも、写真にはありませんが、スクロール側かテールピース側から見ると、「指板」は綺麗な曲線の「丸い面」になっています。指板を横から見た場合には、直線でなければなりません。定規を当てて、隙間がある場合には、職人さんに削り直してもらう必要があります。指板は固い「黒檀」で作られていますが、長年演奏していると、指で押さえる部分が削れます。また、ネック自体が弦の張力に負けて、表板側に沿ってしまう場合もあります。その話はまた今後に。

 今度は②の目に見えない、音の話です。
音の高さが一定で「揺れない」状態を私は「直線」に例えます。面であれば「平らな面」です。
 開放弦はピッチ=音の高さが変わらない…と思い込んでいる初心者が多いのですが、実は弓の速度と圧力が変わると、ピッチも変わってしまいます。揺れる状態です。他の弦が共振すると、やはり「揺れ」が上生じます。これはピアノでも同じです。平均律で調律すると、うねりが生じるのは以前のブログでも書きましたのでご参考になさってください。
 弦楽器がビブラートをかけて演奏する場合の話です。
ピッチを連続的に「角のない曲線」で変化させることが、私は最も美しいビブラートだと思っています。曲線ではなく「ギザギザ=折れ線グラフのような線」のビブラートは好きではありません。変化の量と速度で、曲線の「R値」が変わります。浅いゆっくりしたビブラートは、「ゆるやかな曲線」になり、深く速いビブラートは「急カーブの連続」になります。演奏する場所、音によってこの[R地」を変えることが必要だと思っています。優しく聴こえる音楽には「緩やかな曲線」激しく鋭い音が欲しければ「急カーブ」にすることが一般的です。
 他方で、「音色の連続的な変化」「音量の連続奥的な変化」でも、ビブラートに似た「波」を感じます、シンセサイザーの「モジュレーションホイール」を回すと、ビブラートに似た「波」が出ますが、ピッチは変わっていないことに気付くはずです。
 「クロリスに」で、浅くゆっくりしたビブラートと、直線=ノンビブラートの「ぎりぎりの変化」を模索しました。
 例えるなら、鏡のように平らな水面に、水を一滴垂らすと「小さな波」が広がります。水面がすでに真美だっているような状態に水滴を垂らしたが愛にも、同じ波が出来るのですが、その波は前者と違い、目立たなくなります。
 つまり「直線の後に曲線が始まる」瞬間こそ、一番波を感じる時だと思います。走っている電車や車に乗ていて地震を感じるのと、静かに寝そべっていて感じる地震の「感じ方」が違う事にも似ています。
 弦楽器のビブラートで、弦を押さえる左指の「強さ」を変える人がいます。「縦のビブラート」でもあります。この効果があるのは、ハイポジションで「弦と指板に隙間が大きい」場合です。弦を押さえる圧力でピッチが変わることも事実ですが、ハイポジションであっても「弦と平行なビブラート」は必要だと思っています。
ギターのビブラートは、弦と指板の隙間=弦高がほとんどない上に、フレットでピッチが固定されるために、弦を「横方向=弦に対して直角方向」に連続的に動かしてピッチを連続的に変えます。チョーキングと呼ばれる奏法もう同じ原理です。現を横方向に「引っ張る」ことでピッチが上がることを利用しています。

 弓のスティックは曲線です。弓を弦と直角にダウン・アップする運動は直線です。移弦をする際、弓を持っている右手の動きは「弧を描く=曲線」です。
 移弦をしながら、ダウン・アップを行うときにも、右手の動きは曲線です。
弓を持つ「右手の指」も「丸く=曲線」になっていることが大切です。
弦を押さえる左手の指も、原則は「アーチ形=曲線」です。

 二音間の高さの変化をなだらかにすると「グリッサンド」となります。
弦楽器の場合は「ポルタメント=無段階の音の変化」になります。ポルタメントの、音の高さの変化を「グラフ」として考えると、実は直線的にピッチが変わっているのですが、スタートする音から変化し始めて、ゴール=到達する音の高さに至るまでが「階段」ではなく「坂道」に感じるため、なだらかな印象になります。曲線ではないのですが、音の間を「なだらか=なめらか」な印象にしたい時に使うと、音楽が柔らかいイメージになります。やりすぎると「くどい・甘ったるい・いやらしい」印象になってしまうので、要所にだけ使うほうが無難です。

 最後になりますが、曲線だけで作られる3次元の物体「球」について書いておきます。
 球体は「どこから見ても丸い」物体です。ただそれは「外輪=枠線」が曲線だという「2次元」の話につながります。つまり紙の上に「球体」を書こうとすると、影を付けけないと「〇=丸」にしか見えません。
円錐は、横から見れば「△=三角」ですし、円柱を横から見れば「□=四角」です。上や下から見る時にだけ「○=丸」になっている物体です。
 この「3次元の曲線」に似た考え方が、「音の高さ・音の強さ・音色」の一つ、あるいは組み合わせを「曲線変化」すると、さらに複雑な「曲線の集まり」が生まれるのです。
 一つの音に、ビブラートを「丸く」かけながら、音色を「無段階」に変化させ、音量の変化をなだらかに行うことができるのが「弦楽器」なのです。
 もちろん、ノンビブラートで、音色も音量も変えないこともできます。
曲線と直線の組み合わせで、円錐や円柱が出来るように、音の「3次元性」を考えることも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「お味噌汁」な音楽

 映像は、中学生・高校生の部活動オーケストラによる、外山雄三作曲「管弦楽のためのラプソディー」です。私の教員生活、最後の定期演奏会指揮で「最後のアンコール」に選んだ曲です。
 自分が日本人であることを感じる瞬間って、ある時突然にやってくるのかもしれません。この音楽を指揮しながら、ソーラン節、炭坑節、串本節、八木節などの民謡に、なぜか?血の騒ぐような興奮を覚えました。
 演奏している楽器編成は、ハープを含む「西洋の楽器」と、締め太鼓、和太鼓(大太鼓を代用に巣買っています)などが融合されています。

 私たち日本人と外国人の「人類」としての違いは、生物学的にはほとんどないのだと思います。さらに言えば「祖先」「ご先祖」をたどれば、必ずしも日本で生まれ育った「血縁」とは限らないのは、どこの国の人でも同じです。
 生まれ育った環境に、ソーラン節や八木節が身近にあったわけではありません。お味噌汁にしても、もしかすると外国人の方が、たくさん飲んでいるかもしれません。生活自体がグローバル化している現代ですが、どこかに「DNA」を感じることがあっても不思議ではないと思います。
 日本固有の自然や風土、文化が消えていることに危機感を持っています。
親やその親が育った環境を、壊しt続けている私たちが、次の世代に残せる「文化」はあるのでしょうか?民謡にしても、郷土芸能にしても、自然の風景にしても、「なくても困らない」という理由と「新しいものが良い」と言う価値観で「死滅」させているのは私たち自身であり、お金持ちと政治家たちです。
 新しく作ったものは、いつか古くなるのです。古くからあるものの価値を知らない人間に、新しいものを作らせても、また壊して新しいものをつくrだけの繰り返しです。音楽もその一つです。
 時間をかけて育てられたものを、安直に壊す人たちに「文化」「芸術」の意味は理解できません。古いヴァイオリンに、なん10億円ものお金を使うより、一本でも多くの樹木を残し、一つでも多くの文化財を残し、少しでも海を汚さないことに、お金を使うことの方が有意義だと思っています。
 お金で買えない「時間」の価値を、もう一度考え直すべきだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

「できる人」に共通すること

 音楽に限らず、それぞれの「世界」で突出した技術や能力を持っていたり、成果を残す人がいますよね。その人たちを、ただうらやましく思ったり、自分とは違う生き物だ(笑)とスルーすることがほとんどです。
 音楽の世界で言えば「ソリスト」と呼ばれる演奏家。起業家の人たちの中で「大富豪」になる人。スポーツの世界で「レジェンド」と呼ばれる人。子供たちの「お勉強」で考えると、偏差値・難易度がずば抜けて高い「超難関校」に受かり「東大」に進む人。
 私のような「凡人」から考えると、まさに雲の上の人?たちですが、60年以上生きて、たくさんの人と出会う中で、それら「スーパー」な人たちにも出会うことがあります。その人たちの「共通点」を考えてみます。

 「上には上がいる」とも言います。客観的な比較ができる世界で言えば、「スポーツ」特に記録が数値化できる競技の場合です。陸上競技や水泳の「タイム」などはとても比較しやすいですね。一方で「音楽」の場合、誰がすごい?誰が一番うまい?と言う客観的な比較はできません。「コンクールがある!」と言う人がいますが、同じ国際コンクールで「1位=優勝」した人たちの「比較」ってできますか?ショパンコンクールで優勝した人だって、今までに何人もいますよね(笑)結局、音楽の世界では「世界記録」は存在しないのです。

 さて本題に戻ります。「できる人」に共通していることは、たくさんあるように感じます。とは言え「凡人」の私が感じることなので、本当は違っているかもしれませんがお許しください。
 ・覚えるより考えることが好きな人である。
 ・ひとつの事を極めるために、ほかの事にも打ち込む人である。
 ・他の人がやらないことを見つけるのが好きな人である。
 ・常に新しいことを見つけようとする好奇心が旺盛な人である。
 ・自分の能力を常に客観的=相対的に評価できる人である。
 ・他人と自分を同じ目線=同じ位置で考える人である。
他にも色々思いつきますが、少し「逆の場合=凡人」を考えます。
 ・覚えれば頭が良いと思い込む凡人
 ・ひとつの事だけに執着し、効率も能率も悪い凡人
 ・他人のやっていることを出来れば満足する凡人
 ・今の知識と常識から抜け出さない凡人
 ・自分の能力を冷静に見ようとしない凡人
 ・自分よりできる人ををひがみながら自分より出来ない人を探して喜ぶ凡人
いかがでしょうか?ちなみに私はすべて下の段の「凡人」です。

 例えて良いのか?自信がありませんが、私の考える「できる人たち」です。
・クラシックもジャズも音響学も作曲も動画編集も好きなんだろうなというピアニスト「Cateen」こと、角野隼人さん
・クラシックも新しいスタイルの演奏も武道もビジネスも社会活動も好きなんだろうなというヴァイオリニスト、五嶋龍さん
・演奏することも音楽を広めることも子供と過ごすのも好きなんだろうなというヴァイオリニスト、イツァーク=パールマン

・インターネットSNSを活用することでクラシック音楽を広めようとするヴァイオリニスト、レイ=チェン
・宇宙旅行もスーパーカーも子供たちに夢を与え続ける企業経営者、前澤友作氏
・ロボット「オリヒメ」で障がいのために孤独になる原因「移動・対話・役割」をテクノロジーで解決しようとする科学者「オリィ」氏

 勝手に挙げさせてもらいましたが、もちろん!ほかにもたくさんの「できる人」が世界中にいると思っています。そうでない人は「できない人」ではなく、「普通の人=凡人」だと思っています。凡人こそが人類だ!と言われればその通り!(笑)でも、私たちが思い込んでいる「できない自分」は、もしかしたらできる人たちの真似をしてみることで「できるようになる」とも思うのです。「できもしないのに」という考え方は、卑屈で私は好きではありません。
矛盾していると思われそうですが、「できているつもり」も違うと思います。
「一流の演奏家」と呼ばれる人たちの中には、悪い言葉で言えば「〇〇のひとつ覚え」に感じる演奏をする人がいます。誤解されそうですが、音楽に打ち込んでいる人のことではありません。「自分の音楽にしがみつく人」のことです。
 いろいろ書きましたが、「あきらめない」ことが私のような凡人には、何よりも大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

優しい演奏は易しいか?

 演奏は、私と浩子さんのCD「Tenderness」に収録した「ハルの子守歌」
渋谷牧人さんの作品を、ヴィオラとピアノで演奏したものです。
前回のブログ「レッスン」で私が書いた「指導者のコピー」についての私見にもつながりますが、2022年の世界で一番大切なキーワードは「優しさ」ではないでしょうか。

 国際コンクールで技術を競い合う事より、もっと大切なことがあると思うのです。もっとはっきり言うなら、音楽で競いあう時代はもう終わっていると思うのです。「ソリストの〇〇さんより上手に演奏する」ことを目指すことに、私は意義を感じません。演奏家に求められているのは、聴く人の心を和ませ、穏やかな心にしてくれる演奏ではないのでしょうか?怖い顔をしながら演奏する音楽に、人は癒されないと思うのです。「癒しだけが音楽ではない」ことはわかっています。人を勇気づける音楽もあります。故郷を思い出す音楽もあります。激しい音楽もあります。ただ、どんな音楽であっても、演奏している人の「暖かさ」を感じない演奏が増えている気がしてなりません。それは、習う人の問題ではないと思います。教える側の責任です。教える立場になったとき、自分の経験で得た技術を、生徒に伝えるのは大切なことです。技術は教えられても「音楽」はその人、固有のものです。神様でも仏様でもない人間が、他人に自分の「感覚」を伝えることは不可能です。自分の表現を、生徒に「真似させる」ことは実は難しい事ではありません。教えられた生徒は「うまくなった」と勘違いします。自分の感覚で作ったものではない「形=表面」をいくら練習しても、自分の音楽にはなりません。生徒に「安直にうまくなれた」と思わせるのは、生徒に喜ばれます。「上手ね」と言われているのと同じことです。

 人間の優しさは、その人の音楽に現れると確信しています。
一方で、人間の「強さ」は他人に見せびらかすものではありませんし、「強がる」人間は自分の弱さを隠しているだけだと思います。「誰かに負けない」と言う発想は強さではありません。それは他人が自分よりも弱いことを願っているだけなのです。戦争をしたがる人は、自分では決して血を流しませんよね?それと同じです。
 CDに書いた言葉です。
強くなくても
目立たなくても
すごくなくても
優しい音が(人が)

好きだから

  他人に優しくすることは、一番難しいことだと思います。
聴いている人を「優しい気持ち」にする演奏は、自分が他人に優しくなければできないと思っています。演奏の技術にしても、人を驚かせる演奏より、人を優しくさせる音楽の方がずっと難しいと思うのです。
「北風と太陽」のお話みたいですが、今の時代に「北風」を感じる演奏よりも、「太陽」を感じる暖かい演奏が必要だと思うのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レッスンに思う

 今回のテーマは、「レッスン」について。
偶然、ある日本の音楽大学でヴァイオリンを指導するヴァイオリニストの「レッスン」の一部をYoutubeで見ました。その先生のお名前、学校名は伏せさせて頂きます。とても高名なヴァイオリニストで、習う側もコンクールで優秀な結果を出している若者でした。非常に具体的に、一音ごとの演奏方法について「指導」している場面が多く、見ていて違和感を感じたので自分の経験を踏まえて、書きたいと思います。

 ちなみに動画は、マキシム・ヴェンゲーロフのマスタークラス(公開レッスン)の映像です。私はこのレッスンに共感します。
 私の恩師、久保田良作先生は優秀なヴァイオリニストを、本当にたくさん排出された桐朋学園大学「主任教授」でもいらっしゃいました。小学生から音大生、その卒業生までをご自宅と学校でレッスンされ、多忙な先生でした。
 私はその門下生の中で「一番へた」な生徒だったと自覚しています。
自分のレッスン以外にも、前の時間の同門生徒のレッスンを見ることができました。
私が不出来だったこともあるのですが、先生は決して「こう弾きなさい」と言う内容の事はおっしゃらないレッスンでした。生徒が自分で考えて演奏することを、何よりも大切になさっていたように感じていました。
 他方、学内で他の先生の中には、具体的に「この音はこう」「この音のビブラートはこう」と言う「指導」をされていた先生もおられたようです。実際、その先生の門下生の演奏は、「先生の演奏のような演奏」だったことをを記憶しています。私はその当時、そのことに何も感じていませんでした。

 今回、Youtubeでレッスンを見ながら、指導者が「自分の演奏をそのまま教える」ことが、果たしてレッスンと言えるのだろうか?と素朴に感じました。
生徒が師匠の「真似」をしようと研究するのとは、まったく問題が違います。
指導者が自分で考えたであろう、一音ごとの「演奏方法」をそのまま弟子に事細かに教えるのは、弟子にしてみれば「ありがたい」事かも知れません。考えたり研究したり、試したりしなくても「先生の演奏方法」を先生が直接教えてくれるのですから。
 先生と弟子が一緒に演奏している演奏動画もアップされていました。
見ていて正直「不気味」でした。ビブラートの速さ、深さ、固さまでが「そっくり」で、ボーイングの荒々しさ(良く言えば強さ)まで同じでした。「クローン」を見ているようでした。弟子にしてみれば「光栄なこと」だと感じるでしょうが、本当にそれで良いのでしょうか?

 何よりも、演奏方法や音楽の解釈に「正しい」と言うものはあり得ません。人それぞれに、求めるものが違うのが当たり前です。生徒が自分の好きな演奏を考え、その実現方法を模索し、試行錯誤を繰り返すことが「無駄」だとは思わないのです。さらに厳しいことを言えば、指導者が自分の演奏を弟子に「これが正しい」と教えるのが最も大きな間違いだと思います。私はその指導者の演奏を聴いていて「押しつけがましい」印象を受けます。違う言い方をすれば「冷たく、怖い演奏」に感じます。どんな優れたソリストであっても、聴いてくれる人、一緒に演奏する人への優しさがなければ、独りよがりの演奏になります。むしろ「技術だけ」のお披露目であり、演奏者の人間性や暖かさは、どこにも感じないのです。「うまけりゃ良いんだ」という考え方もあります。人間性より演奏技術だと言われれば、そうなのかも知れません。
 ただ、自分の弟子を大切に思うのであれば、目先の「コンクール」よりもその生徒の「考える力」を大切にし、自分よりも多様性のある演奏をしてほしいと、願うのが指導者ではないでしょうか?
 生徒がうまく弾けずに、悩んでいる時に、一緒に悩んであげるのが指導者だと思います。「自分の答え」を教えてあげるのが指導者ではないと確信しています。それは生徒にとっての答えにはなりません。
 私自身が不器用で、不真面目な生徒だったから、私の生徒には私より、もっと上手になって欲しいと常々思っています。私は久保田先生の指導に、心から感謝しています。自分に足りない技術を、自分で考えることを教えて頂きました。
安直な解決方法より、自分で解決することを学べた結果、自分で考えた音楽を、自分で考えて演奏する楽しさを知りました。
 音楽に正解はありません。だからこそ、自分で考える力が必要だと思います。
生徒に教えるべきことは「自分で考えること」以外にないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

愛のある「演奏」と後味の悪い「チャラ弾き」

 今回のテーマも、きわめて個人的な「私見」ですので、お許しください。
始めに書いておくと、これから書く内容はあくまで「演奏家」に対して思う事であって、趣味の演奏者=アマチュアの人への差し出がまし意見ではありません。特に、若い演奏家、あるいは演奏家を目指す学生たちへの「はなむけ」と、街中で繰り広げられる「ストリート△〇×」に感じることです。

 演奏に愛を持っているか?
大上段から切り込みましたが、プロの演奏家として演奏する人が、持つべきものはたくさんあると考えています。「誇り=プライド」も大切です。「責任感」がなければ職業とは言えません。「技術」は自分の出来る限りの努力で身に着けるものです。何よりも「人への感謝=愛」だと私は思います。自分への愛も含め、親、師匠、作曲者、聴いてくれる人、支えてくれるスタッフなど、演奏できることへの感謝があってこそ、聴いていて「心地よい」演奏、料理で言えば「おいしい=愛情のこもった手作り料理の味」だと思います。
 下の動画は私が好きな演奏家の動画を三つだけ選ばせてもらったものです。

 今回の動画はこれだけです。「チャラ弾き」だと感じる演奏については、ご本人のプライドもありますし、あくまで私見ですので「これ!」と言う具体的な指摘は致しません。
 上の演奏は単に「すごい」だけではなく、感じるものがあります。
直接、ご本人に伺ったわけではないので想像でしかありませんが、どの演奏にも演奏者の「こだわり」を感じるのです。速く演奏するためだけに練習したとは思えません。速く演奏すること以上に、その音楽への愛情を感じます。「好きなんだろうな~」と聞いていて感じるのです。

 一方で私の考える「チャラ弾き」の定義です。
・自分の演奏する音楽を、深く考えずに演奏している。
・聴いてくれる人への「敬意」を感じない。
・その場の「受け」を優先している。
 それが演奏者の本位でない場合も当然にあることです。
聴いていて・見ていてそう、感じるという意味です。
私自身が音楽を学び、ヴァイオリンやヴィオラを演奏し、生徒さんに演奏を教える「生活」をしているから感じる面もあります。
 つまり、一般の人=演奏家でない人や、私の先輩や師匠の皆様が感じられるものは、私と違って当然だと思うのです。
 演奏を聴いて後味の悪い印象を感じる演奏が「チャラ弾き」です。
料理で言えば、明らかな「手抜き」の「レンチン」「レトルト」料理を食べ終わった後の感覚に似ています。断っておきますが、私は近頃の「冷食」大好きです。屋台のラーメン、お好み焼き、たこ焼きも大好きです。
 母の作ってくれた料理は、決して見た目の綺麗な料理ではありませんでした。
「野村家」のカレーは、両親が辛いものが大嫌いだったので「辛くないカレー」でした。今思うと、もしかするとハヤシライスに近い食べ物を「カレー」だと思って育ちました。それでも、そのカレーが大好物でした。家族への「愛」が甘いカレーを作ったのだと思います。
 料理に「インスタント」はあってしかるべきだと思います。手軽に作れて、栄養もとれるのですから、むしろ素晴らしい食べ物です。
 ではプロの演奏家に「インスタント」は許されるのでしょうか?
・楽譜をただ、何も考えずに演奏するだけ。
・ただ速いだけや音量が大きいだけの演奏。
・聴く人によって演奏のレベルを変える=わからない人だと思えば適当にごまかして演奏する・試験になると減点されないだけの演奏をする。

 聴く人がだれであっても、自分の出来る限りの演奏をするのが「プロ」だと思います。自分の演奏技術の「ひけらかし」が通用する相手としない相手がいるのは事実です。通用しないと「つまらない演奏」でも減点されない=まちがえない演奏に終始するのは、根本的に間違っています。技術は、聴いてくれる人に自分を表現するための「手段」です。自分を表現しない演奏は、音楽ではなく「音=ノイズ」です。雑音でなくても「音」でしかありません。
 ストリートピアノにも様々な演奏があります。
演奏者の「愛」や「魂」を感じる演奏もあります。
アマチュアの人が、楽しんで演奏しているYoutube動画は、ほほえましく見られます。一方で「まさか…音大生?じゃないよね…」と思われる映像を見かけると、ぞっとするのは私だけでしょうか。だれか言ってあげないのでしょうか。それ、今後の仕事に差し支えるからやめたら?と。本人の価値観ですから良いのですが、プロの演奏家として生活することを「なめて」いるとしたら、大間違いですよね。はい。老婆心でした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器が変われば弾き方も変える

 上の二つの動画はどちらも「ラベンダーの咲く庭で」と言う映画のテーマ音楽です。演奏者は見ての通り(笑)私たち。演奏場所は、(上)代々木上原ムジカーザと(下)長野県木曽町のホールです。使用しているヴァイオリンは、(上)1808年サンタ=ジュリアーナ製作の愛用楽器、(下)2004年陳昌鉉氏の製作した「木曽号」。弓はどちらも私の愛用弓。浩子さんの演奏しているピアノは、(上)ベーゼンドルファーと(下)恐らく戦前に作られたスタインウェイ。
録音の方法が全く違うので、比較にはならないかも知れませんが、この二つのヴァイオリンを演奏した経験で「楽器による演奏の仕方の違い」を書いてみます。

 陳昌鉉さんのヴァイオリンを使って、陳さんゆかりの場所である木曽町でのコンサートを依頼されてから、この楽器で演奏に至るまでに、多くの問題がありました。まず、初めて手にした時に、およそ陳さんの作った楽器には思えない、見た目と音でした。調べた結果、アマチュアヴァイオリン奏者に貸し出した際に、その人が「指板」「駒」「魂柱」を別のものに付け替えていました。東京のヴァイオリン工房で作業した領収書がありましたので間違いありませんでした。当然、まったく違う楽器になってしまいました。駒と魂柱だけは、交換した「オリジナル」がヴァイオリンケースに無造作に入れてありましたが、指板はなし。陳さんの奥様に相談し、陳昌鉉さんが使用していた未使用の指板を頂き、信頼できる職人に依頼し、さらに陳昌鉉さんの制作した遺作ヴァイオリンを持ちこんで「復元作業」を施してもらいました。
 その後、その楽器でコンサートのための練習を開始することができました。

 陳昌鉉さんの木曽号は、新作であるにもかかわらず「枯れた音色」が特徴的な楽器です。陳昌鉉さんがご存命なら、私の「好み」に楽器を調整して頂くことも可能でしたが、それも叶わず、これ以上楽器に手を入れることも当然許されず…。出来ることと言えば、弦を選ぶことと「演奏方法を考える」ことです。
 木曽号は枯れた音色の「グヮルネリ・モデル」ですが、高音の成分が比較的少ない音色のために、「音の抜け=音の通り」に弱さがありました。
 普段、私はピラストロ社のガット弦「オリーブ」を使っていますが、音の明るさ=高音を足すには適さない弦です。同じピラストロ社のガット弦「パッシォーネ」も試しましたが、明るさは補えるものの弦の強さにヴァイオリンが負けて、音量が出し切れません。最後に選んだのが、トマステーク社の「ドミナント・プロ」でした。比較的新しく開発された弦で、テンション=張力は標準、高音の成分が多く明るい音色で、抜けの良さが特色の弦です。ただ、低音の太さが足りず、結果として音量をだすための演奏技術が必要になりました。

 まず楽器を自分の好みの音色で演奏するための「ひきかた」を楽器に問いました。弓の圧力・駒からの距離・弓の速度・ビブラートの速さと深さ・弦ごとのひき方など。そうやって、毎日少しずつ木曽号と「仲良く」なる時間を作りました。それが「正しい弾き方」かどうかは、私にはわかりませんが、少なくとも私の好きな音に近付けたことは事実です。

 映像を見比べて頂くと、指使いが違う事、ボーイング=弓のダウン・アップが違う事にも気づいていただけると思います。会場の響きも、一緒に演奏するピアノも違います。何よりもヴァイオリンが違います。指も弓も「同じ」で演奏できるはずがありません。仮に同じ指・弓で演奏すれば、もっと違う演奏になっていたはずです。
 演奏自体が満足のいくものだったか?と言われれば、いつもの事ながら反省しきりです。それでも、最善の準備と練習をして臨んだ演奏です。
ぜひ、ふたつの演奏を聴き比べて頂き、「演奏の傷の場所と回数」ではなく(涙)違いを感じて頂ければと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲家の「らしくない曲」

 映像の音楽は、私と浩子さんがデュオリサイタル1で演奏した、チャイコフスキーの懐かしい土地の思い出という曲集のひとつ「メロディー」です。
あと2曲は「瞑想曲」と「スケルツォ」ですが、懐かしい…で検索すると多くは「メロディー」がヒットします。言い換えれば、一番人気のあるのがメロディーということなのでしょうか?
 私個人の「好み」の問題でもありますが、この曲がなんとなく「チャイコフスキーの作品らしくない」気がするのです。チャイコフスキーが作曲したのはおそらく間違いのない事実です。
 矛盾するようですが、私はチャイコフスキーの作品が大好きです。
無謀にも、高校2年生後期実技試験でチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトに挑戦した「若気の至り」から始まります。
 弦楽セレナーデ、交響曲4番・5番・6番、くるみ割り人形、ロメオとジュリエットなどなど、私の「お気に入り」の中にチャイコフスキーの作品がたくさんあります。その中で、この懐かしい…の「メロディー」に、チャイコフスキーの「らしさ」を感じないのです。

 作曲家によって、作品に個性が感じられる場合があります。
それはクラシックに限りません。他の作曲あの曲と、似ている「要素」は当然たくさんあります。
「らしさ=個性」は、作曲家の「好み」でもあります。
同じ作曲家の作品でも、曲によって「テーマ」「和声進行」「リズム」「テンポ」などが違って当たり前です。作品ごとの「テーマ」「モチーフ」と呼ばれる音楽の印象を決定づける「要素」があります。また、主旋律とそのほかの楽器との「アレンジ」にも個性があります。

 チャイコフスキーの作品の「どんなところが好き?」を少し言語化してみます。
 「情熱的」「感情的」「しつこい(笑)」「ひとつのテーマが長い」「音楽の最後に繰り返しが多い」「テーマの旋律が美しく覚えやすい」「聴いていて拍子が分からなくなる」などなど。食べ物で言うと「スパイスの利いたおいしいカツカレー」って、違います?(笑)少なくとも「おそうめん」ではないですよね?

 この「メロディー」が美しい曲で、親しみやすさもあることには何も異論はありません。違う言い方をすれば「チャイコフスキーの一面」だとも感じます。
作曲家と言う「職業」であっても、人間としての「苦悩」はあるものだと思います。作曲家として高い評価を得られても、その評価が「重荷」に感じることもあるはずです。すでに誰かの作った旋律を使えば「盗作」と叩かれ、前衛的でも評価されない。演奏家は、うまければ評価されます。その意味でこの「演奏家よりも厳しい評価にさらされるのが作曲家です。
メロディー」が誰の作品かということより「美しい曲」として考えればよいだけなのでしょうね。
最後に、チャイコフスキーの「作品番号2-3」である「ハープサルの思い出=無言歌」をクライスラーが編曲した演奏動画をご覧ください。

チャイコフスキーが27歳の時の作品です。私の思っているチャイコフスキー「らしさ」は、あまり感じられません。どんな作曲家でも年を重ねるうちに、作品が変容するのが自然です。
これから先、演奏するであろう「音楽」たちを、先入観を持たずに演奏できるように、もっと知識を持ちたいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

チェロとヴィオラとヴァイオリン

 映像はデュオリサイタル8で演奏した、サン・サーンスの白鳥。チェロを演奏できない私がヴィオラで、浩子さんのピアノと演奏したものです。
作曲者が「特定の楽器」のために楽譜を書いた作品はたくさんあります。
この白鳥に限らず、私たちが耳にする演奏の多くは、オリジナルの楽器で演奏されたものです。オーケストラで演奏するための楽譜、声楽とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、弦楽四重奏などなど音楽のほとんどには「オリジナル」の楽譜があるものです。
中には作曲者自身が、異なった種類の楽器でも演奏できる楽譜を書き残した作品もあります。エルガーの愛の挨拶も、ヴァイオリン用の楽譜は「Edur」フルート・チェロで演奏するために「Ddur」のが区譜を書いています。そのほかにも、シューマンのアダージョとアレグロは、ヴァイオリン・ヴィオラ・ホルン・チェロの楽譜が掛かれています。サービス精神旺盛(笑)

 オリジナルの作品を、のちに違う楽器で演奏できる楽譜にする=演奏することも、珍しくありません。ポピュラーで言えば「カバー」と呼ばれるのもこの類です。
その場合、オリジナルの「演奏=音」に慣れ親しんでいる人にとって、時に違和感や不快感を感じるケースもあります。自分が好きな曲・演奏ほど、その傾向は強くなります。私の場合、オフコースが歌っていた「眠れない夜」と言う曲を、ある歌手がカバーして歌っているのを聴くのが、とても不快でした。その人がうまいとか下手とか言う問題ではなく、ある意味でその曲が「神聖な」ものに感じていたからです。皆さんも似たような経験はありませんか?私だけ?

 さて、白鳥に話を戻します。
この演奏は、オリジナルのチェロ演奏と、まったく同じ高さの音=同じ音域でヴィオラで演奏しています。ヴァイオリンでこの「実音」を出すことは不可能です。
だからと言って、チェロの音と「そっくりの音」になるかと言うと、残念ながら?当たり前のことながら、そうはなりません。音の高さは同じでも、楽器の構造が違いすぎるからです。4本の弦を「C・G・D・A」に調弦することはチェロとヴィオラは同じです。ただ音の高さが実音で1オクターブ違います。楽器の筐体=ボディの大きさがまるで違います。弦の長さ・太さがまるで違います。
 音域・音量・音色のすべてが違う楽器なのです。似ていることはいくつもありますが、「音」としては、まったく違うものです。
コントラバスやチェロで演奏できる「高音」は、ヴィオラやヴァイオリンと同じ音域を演奏できる上、とても近い音色」が出せます。単純に音域の広さの問題だけではなく、太い弦で弦の長さを短くして出せる「高音」は、ヴィオラとヴァイオリンに近い音色を出すことができるという「強味」があります。
 ヴィオラでチェロの「雰囲気」は醸し出せても、チェロの音色は出せません。
私たちがこの曲を演奏する時も、オリジナルの演奏「チェロの音」が好きな人にはもしかすると「嫌な感じ」に聴こえるかもしれないことを、演奏前に予めお話してから弾き始めます。

 先述の通り、楽器のよって演奏できる音域=最低音から最高音が違います。
特に「低音」の幅が大きい楽器、弦楽器で言えばコントラバスやチェロのために書かれている楽譜を、音域の狭いヴィオラ、ヴァイオリンで演奏すると単純に「高く書き換える=移調する」だけでは演奏できないか、できたとしても「途中で折り返す=低い音に下がって上がり直すしかありません。。
一つの例ですが、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」と言うチェロのために書かれた曲を、ヴィオラで演奏しようと挑戦したことがあります。
様々試してみましたが、どうしてもこの曲の最大の魅力でもある「アルペジオ=分三和音」を原曲の通りには演奏できない=ヴィオラの音域が狭いために、聴いていいて違和感が強すぎて諦めました。実際にヴィオラで演奏している動画もいくつか見かけますが、オリジナルを知っている人間には「無理してひかなきゃいいのに」と言う印象が残ってしまいます。

 前回のリサイタルで演奏した、カール・ボーム作曲の「アダージョ・レリジオーソ」と言う曲は、原曲=オリジナルはヴァイオリンの楽譜です。実際に以前のリサイタルではヴァイオリンで演奏しました。それを、ヴィオラで演奏するために、オリジナルとは違うオクターブにしたり、カデンツァを書き換えたりしました。あまり演奏されることのない(笑)曲なので、お聴きになったお客様方にも違和感がなかったようでした。

 最後になりますが、作曲者が考えた「楽器と音楽」を、違う楽器で演奏する場合に、原曲との違いを演奏者がどのように「処理」するかの問題だと思います。
聴いてくださる人の中には、嫌だと思われる人も少なからずいらっしゃるはずです。それでも、自分が演奏する楽器で、お客様に楽しんでもらえる「自信」と「覚悟」がないのなら、演奏すべきではないと思います。
ピアノ曲をヴァイオリンで演奏し他場合に「なんか変」と多くの人が思う曲もあると思います。「それ、ありかも」と思われるピアノ曲もあるでしょう。単に楽譜があったからという理由や、有名な曲だからと言う理由だけで、「異種楽器演奏」することには、私は賛成できません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピアノのアレンジで変わる音楽

 映像は、ドボルザークの「ロマンティック・ピース」第1回のデュオリサイタルで演奏したときの録音です。ふたりで開く初めてのリサイタルでした。

 今回のテーマは主にピアニストとの二重奏で感じる「ピアノアレンジ」について。アレンジと言うと、いかにも編曲したと言うイメージになりますが、要するに「ピアノパート」の楽譜について、ヴァイオリン演奏者として考える内容です。ピアノをまともに演奏できない私が「偉そうに!」と思われるのを覚悟で書かせてもらいます。

 今までに浩子さんとふたりで、本当にたくさんの「二重奏」を演奏してきました。
その中には作曲者自身が、「ピアノとヴァイオリン」の楽譜を書いた作品もありますし、原曲はオーケストラの楽譜だったり、ボーカルとバンドの楽譜だったり、ギターとヴァイオリンの楽譜だったりと様々な「楽譜」を、ピアノとヴァイオリン、ピアノとヴィオラで演奏できるように書かれた楽譜を使ったり、自分たちで楽譜を作ったりしたものもたくさんありました。
 その音楽の中で「ピアノパート」は、主旋律を変えずに音楽の印象を根底から変える重要性があると思います。その理由を考えていきます。

 何よりも、ピアノと言う楽器は旋律も和声も演奏できる楽器だと言う当たり前の事を考えないでは話ができません。言い換えれば、ピアニスト一人=ピアノ1台で「音楽を完成できる」楽器なのです。一方で、ヴァイオリン・ヴィオラは「単旋律楽器」の部類に属します。確かに重音=2声の和音を演奏できますが、管楽器と同様に主に旋律を演奏することに特化した楽器です。
 先にヴァイオリン・ヴィオラがピアノに「出来ない」こと=ヴァイオリン・ヴィオラに出来ることを挙げておきます(別に悔し紛れではありません笑)
・発音してから音の大きさを自由に変えられる。
・音の高さを半音より細かく変えられる=ビブラートがかけられる。
以上です(笑)あ。持ち歩ける…(悔し紛れ)
 では、ピアノに出来てヴァイオリン・ヴィオラに出来ないことです。
・3つ以上の音を同時に演奏できる。
・音域がすべての楽器の中でも特に広い(ヴァイオリンの3倍以上)
・ヴァイオリンより大きな音量で演奏できる。
細かいことは除いて考えて、上のような違いがあります。
その違いが二重奏で、どのように活かされているか?について考えます。

 ピアノで演奏する場合に、発音された音は必ず「減衰=だんだん小さくなる」のが打弦楽器の特性です。ゆっくりした音楽の長い音符を、ピアノで演奏した場合は、どんなに頑張っても音は次第に弱くなっていきます。同じ高さの音をヴァイオリンで演奏した場合、音の大きさを次第に大きくすることも、ピアノと同じ速度で弱くしていくこともできます。当然ですが音の高さが同じでも、ピアノとヴァイオリンは音色が決定的に違いますが、音量を二人(ピアノとヴァイオリン)がコントロールすることで、聴いている人に「ピアノとヴァイオリンの音が溶けて聴こえる」現象が起こります。簡単に言えば「新しい音色」が生まれることになります。音量のバランスは以前に書いた通り、演奏者自身が感じるバランスと客席で聴こえるバランスは全く違います。客席で聴いている「耳」にふたつの楽器の音量が同じように聴こえる時にしか生まれない「音色」です。

 ヴァイオリンが主旋律を演奏し、ピアノがその旋律とは違う旋律と和声を演奏する場合を考えます。
ピアノは同時に演奏できる音が多いだけではなく、連続して=短い音で演奏することもできる楽器です。和音の状態で連続して演奏もできる優れた楽器です。
 ヴァイオリンが「長い音」を演奏し、ピアノが「短い和音」を連続して演奏した場合に、ピアノの音量がヴァイオリンよりも大きく聞こえてしまうケースがあります。物理的な音量バランスよりも、感覚的にピアノの動きが耳に付きすぎる場合に、ヴァイオリンがより大きな音を出そうとすれば、前後の音との相対的な音量の変化が少なくなりがちです。簡単に言えば「弱く弾けない」ことになります。さらにピアノとヴァイオリン・ヴィオラの「音域」が、近い場合と開離している場合でも、聴感上のバランスに影響します。
ヴァイオリンの旋律と近い音域でのピアノは、混濁して=溶けて聞こえます。
音域が明らかに違う場合には、それぞれの音が独立して聞き取りやすくなりますが「溶けない」印象が残ります。

 ピアノが旋律を演奏し、ヴァイオリンがオブリガートを演奏する場合もあります。極端なたとえが、ベートーヴェンのスプリングソナタですね。
ピアノが冒頭部分で演奏している分散和音を、ヴァイオリンが演奏しピアノが主旋律を演奏する部分。正直に言えば私は、とても違和感を感じます。
先述の通り、ピアノは旋律と和声を一人で演奏できる楽器です。ピアノが主旋律を演奏している時のヴァイオリンの「立ち位置」の問題です。
私はヴァイオリンパートが、無くても良いと思うときにはピアノだけの演奏で良いと思う人間です。ピアノの「良さ」をあえて下げてまでヴァイオリンの音を上乗せする意味をあまり感じないからです。

 少し前のブログにも書いた通り、ピアノは伴奏楽器ではありません。
二重奏でも三重奏でも、それは変わりません。ピアノトリオ(三重奏)の曲は、どうしてあんなにピアノに頑張らせるのか(笑)、私には理解できません。
ピアノ・ヴァイオリン・チェロが「ソリスト」的に演奏すると言う意図は理解できますが、ピアノになにからなにまで(笑)押し付けているように感じるのは私だけでしょうか?もっと少ない音の数でも、ピアノの良さは感じられると思います。それこそ「オーケストラの代わり」をピアノに担当させているような気がしてなりません

 最後にピアノパート=アレンジに私が求めることを書きます。
ヴァイオリンが主旋律を演奏するのであれば、ピアノが対旋律と和声を組み合わせた音楽で、主旋律の音域、テンポと音の長さ、音量を考えたうえで、両者の音が「溶ける音」と「独立した音」が明確になっている「アレンジ」が好きです。
声楽曲に多く見られる「ピアノも主旋律を演奏する」安直なアレンジは好きではありません。ユニゾンを効果的に使い、主旋律の進行に、不自然さを感じさせない副旋律が好きです。
「それ書いてみろ」と言われてもできません。ごめんなさい。
楽譜が作曲家の「作品」だとしても、演奏者が違和感を感じる場合に、手を加えることが「タブー」だとは思っていません。聴く人が自然に聴こえる「楽譜」こそ、二重奏の楽譜だと感じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

モーツァルトと歌謡曲

上の映像は、モーツァルトのヴァイオリンソナタ 21番 e moll K.304
デュオリサイタルで私と浩子さんが演奏したものです。演奏中の映像は撮影していませんでした(笑)
下の映像は、中島みゆきの「糸」を同じくデュオリサイタルでヴィオラとピアノで演奏したものです。この2曲でなにを比較しようって?そこが音楽の楽しみ方です。

 「旋律と和声をヴァイオリン(ヴィオラ)とピアノで演奏している」
この点は、モーツァルトのソナタも、中島みゆきの糸も同じです。
「曲の中に短調と長調の部分がある」これも同じ。
「ソナタは2つの楽章で構成されているが、糸は同じ旋律で1番・2番がある」
この点で大きな違いがあります。言い方を変えると、モーツァルトのソナタは「2つの曲から出来ている」という事になります。

 モーツァルトの音楽は完成度が高く、糸は低いのでしょうか?
ソナタは高尚で、糸は低俗でしょうか?音楽として台頭に比較してはいけないのでしょうか?
 すべての音楽に共通することを考えます。
・曲を作った人がいる。
・演奏に関わった人がいる。=人が演奏するとは限らない。
それ以外について、たとえば旋律だけの音楽もあります。和声だけで主旋律がない「カラオケ」も音楽です。演奏が声でも楽器でも機械でも、音楽です。
美しい旋律だけが音楽でもありません。リズムが感じられなくても音楽です。
当たり前ですが「嫌い」でも音楽は音楽なのです。

作曲された時代が古ければ「クラシック音楽」の部類に分類されます。
クラシック音楽に用いられる「様式・形式」で、現在生きている人が作曲したら?それは、クラシック音楽ですか?おそらく「ダメ!」ですよね。
以前のブログでも書きましたが、ゲーム音楽や映画音楽を「音楽」としてだけ聴いた時に、その作曲年代や作曲者を正確に言い当てられる人間は、作曲者本人以外に存在しないはずです。それでは、クラシック音楽と現代の音楽に何も差はないのか?と言えば、歴然とあります。それは…

クラシック音楽と言われる音楽を作曲した人たちと、その曲を初めて演奏した演奏者たちの多くは「現代音楽」もしくは「前衛的な音楽」を作曲し演奏していた人たちです。私たちは、バッハやモーツァルトの時代を知りません。文献や絵画で想像するしかありません。その当時の「観客=聴衆」の感覚も知りません。当時の人たちの生活も知りません。音楽をどうやって聴いて楽しんでいたのかさえ、想像でしかありません。
 私たちが生きている間に作曲された音楽を、私たちが演奏する時の様子を、モーツァルトの時代の人がもしも見たら、どう?感じるでしょうね。
「この音、なんの楽器?」
「あれ?俺の作った曲に似てるぞ?」
「え!?人間がいないのに音楽が聴こえる!」
「かっちょえー!この和声と旋律、いただきっ!」(笑)
これ妄想でしょうか?大きなタイムトリップは現代の科学では不可能とされています。もし未来にタイムマシンが出来ていたとしたら、私たちは未来の人に会っているはずなので、それがないという意味では未来にもタイムマシンができていないと言う科学者もいます。「いや!それは!」と言うお話もあるでしょうね(笑)話がそれました。すみません。

 クラシック音楽の作曲者は、試行錯誤しながら当時の聴衆の反発と冷笑に耐えながら音楽を作り続けました。その音楽は楽譜として残され、今も演奏することができます。もしも楽譜と言う「記号」がなければ、当時の音楽を「正確に」再現=演奏することは不可能です。民謡のように「音楽」が伝わることはあったでしょうが、少なくともほとんどの「クラシック音楽」は演奏できなかったはずです 。
 その音楽の「様式・形式」に慣れた、現代の私たちが作る音楽「ポピュラー」を大切にすることも、クラシックの音楽を大切にすることに繋がっていると思います。そうでなければ、クラシックの作曲者が作った音楽は、いずれ歴史の中に埋没します。今も誰かが「似たような音楽」を作り続けることに大きな意味があると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プログラムは「献立」

 映像は、デュオリサイタル13(2021年1月)の後半部分をまとめたものです。長い&多い(笑)こんなプログラムのコンサートって、邪道?かもしれませんね。多くの「ヴァイオリンとピアノによる」クラシックコンサートの場合、
「ヴァイオリンソナタ」が必ずと言っていいほどプログラムに組み込まれています。「それでこそ!」と言われればその通りです。過去14回のデュオリサイタルで、ソナタを全楽章演奏したプログラムは一回しか!(笑)ありません。私たちには、それなりに理由があるのですが、それが「音楽の切り取りだ」とのご意見も甘んじて受け入れます。むしろ、そちらがスタンダードだと思いますが、ソナタの単一楽章を演奏することに、不満を感じる人ばかりではないと言うのも事実です。以前にも書きましたが、多くの人が知っている「クラシック音楽」は1曲の中の一部分であることがほとんどではないでしょうか?それは、単にクラシック音楽を知らないからだという理由だけではないと思います。楽しみ方の違いでもあります。
映画は2時間程度の長さの物が多く、テレビの番組は長くて1時間位ではないでしょうか?演劇や歌舞伎、オペラやミュージカル、落語、ロックやジャズ、ポップスのライブなどで、演目の時間や休憩時間は様々です。ライブの場合、飲み物を飲みながら演奏を楽しむこともあります。クラシック音楽を昔から楽しむ文化のあるヨーロッパでは、子供を寝かせた後に、正装してコンサートに出かける「伝統」がありました。日本では考えられないことです。歌舞伎では「幕」の合間に食事をする「幕の内弁当」が今でも伝統として残っています。
イベントの楽しみ方も時代と共に変化して当たり前だと思います。

 コンサートの内容を紙に書きだした「プログラム」に曲目解説などの「ノート」を書き込めば、お客様に情報は伝えられます。演奏者は演奏だけで終始してもお客様は満足するでしょう。「音楽を聴くだけならの話です。音楽を演奏している「人」や演奏者が曲を選んだ「理由」と「思い」について、お客様に隠す理由もないと思います。私たちのリサイタルでは、曲管にお客様にお話をすることで、私たちがそれぞれの曲に対して思うことや、エピソードを私たちの言葉で語ります。トークの専門家ではないので、うまく話せなくてもお客様に伝わるものがあると思っています。

 演奏会全体のプログラムを組み立てる時に、調性を重視します。そのほかにもテンポ、曲全体の強さと高さも考慮します。聴いている人が飽きずに楽しめる「構成・進行」を考えているつもりです。思った通りに伝わらなくても、私たちの「思い」だけは伝わると思います。ここでまた、ヴァイオリンとピアノによるコンサートで、多く目にする傾向を考えます。
・特にテーマやコンセプトのないコンサート
・作曲家や時代・地域などに「スポット」を当てたコンサート
・知名度の高さ・希少性を意識したコンサート
・難易度の高い曲を選んだコンサート
などが多く見受けられます。他方、私たちのリサイタルのような「お子様ランチ」もしくは「昔ながらの定食屋ランチ」にも似たプログラム構成はあまり見かけません。もしかすると「簡単すぎて集客力がない」と思われているのかもしれません。集客力だけで考えれば、クラシックマニアの喜びそうなプログラムは考えられます。そのコンサートで、普段クラシックを聴かない人が楽しめるかどうかは別の問題です。私はメリーオーケストラのプログラムでも、リサイタルのプログラムでも一貫して、できるだけ多くの人に一曲でも楽しんでもらえるコンサートを目指しています。料理で言えば、プログラムは献立だと思います。一つの料理でおなか一杯になる献立=プログラムもあります。色々な料理が少しずつ出てくる献立もあります。コース料理はまさにそれですよね。

私の考えるプログラムはクラシックファンには物足りないプログラムだと思います。でも私を含め、クラシック音楽が好きな人間が、それ以外の音楽を聴かない理由はありませんし、少なくとも演奏を聴いてから好き嫌いを感じてもらいたいと思っています。「ポピュラーだから」「映画音楽なんて」「歌曲をヴァイオリンでひくなんて」という固定観念を持たずに、演奏を楽しんでもらえるコンサートを開き続けたいと思っています。
 いろいろなコンサートがあって良いと思います。他の人と同じようにしなければいけない理由もありません。自分や自分たちが考える曲構成=プログラムに自信を持ってコンサートを開いてほしいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

眠れる演奏

 映像は横浜にあるイングリッシュガーデンで撮影した写真に、ヴィオラとピアノで演奏した「アニーローリー」「オンブラマイフ」「「ロンドンデリーの歌」「私を泣かせてください」を重ねたものです。
 皆さんはクラシックのコンサートで演奏を聴いていて「気持ちよくなってうとうと」って経験ありませんか?私はその時間が大好きです(笑)
「入場料払ってまで寝るなんて!」「演奏者に失礼だろ!」と言うお考えもごもっともです。私は逆に感じています。自分が安らげる時間の為に、チケットを買って何が悪い?演奏しているときに、静かに寝ていて演奏者が気づくのか?いびきかいていないぞと。

 音楽療法と言う医学療法があります。患者の好きな音楽を聴かせることで、精神を落ち着ける効果が認められています。興奮しているときや、同じことをぐるぐる考えてしまう時に、人間は「β=ベータ波」を脳が出しています。一方で安らいでいるときには「α=アルファ波」が出ています。心が休まると「副交感神経」が刺激され、興奮したりイライラすると「交感神経」が刺激されます。
音楽ならなんでもよいわけではありません。心地よく感じる「音」は人によって違います。音色、音量、音楽の内容、歌詞の有無など、多くの要素の中で、その人が最も心地よい「音楽」を聴きながら身体も心も休ませることが「治療」につながります。ハードロックを聴いているとα波が出る人も事実いるのです。モーツァルトやクラシック音楽だけが「心地よい」のではありません。

 私たちのリサイタルも演奏会までに、多くの時間をかけて準備します。練習もします。それは「お客様に聴いてほしい」と思うからです。だからと言って、自分の演奏を聴いて「つまらない」と思う人がいても不思議ではありません。
また、聴き方にしても人それぞれだと思うのです。目をつむって聴く人もいれば、演奏者を観察している人もいます。他に聴いている人が不快に感じる「聴き方」は誰からも認められません。演奏が気に入らなければ、静かに曲間で退席すればよいのです。元より演奏が気に入るかどうかは、聴いてみなければわからないのですから「つまらないから、お金を返せ」とは言えません。
演奏を聴いていて、どうしても咳を抑えられなくなることも人間なら当たり前です。障がいがあって、うれしくなると声を出してしまう人もいます。それを演奏者が我慢できないなら、無観客で演奏会を行えば良いだけです。観客が咳ばらいをしただけで、演奏を中断し以後、演奏をキャンセルした「有名なピアニスト様」の逸話があります。私はその場にいませんでしたので、どのような状況だったのか知りませんが、仮に咳払いだけで腹を立てたなら、演奏者の「懐が狭すぎる」と思います。映画のセリフではありませんが「殿さまだって、屁もすりゃ糞もする。偉そうなんだよ!」だと思います。生理現象を我慢してまで、命がけで音楽を聴く必要はありませんよね。

 聴いてくれるかたが、心地よいと感じる演奏をしたいと願っています。
会場でじっと座って聴いてくださっているのは、お客様です。「おもてなし」の気持ちと「感謝の気持ち」があって、さらに自分の演奏を聴きながら「寝てもらえる」くらいの心のゆとりが欲しいと思っています。録音された自分の演奏を聴くとイライラするものですが、それでも我慢して何度も聞いていると、やがて自分の演奏を聴きながら寝られるようになります(笑)自分が聴いて不快に感じる演奏を、人さまにお聞かせするのは演奏者の「傲慢」だとも言えます。自分の演奏を自分の「音楽療法」に使えるようになりたい!いや…その前に、もう二度と精神を病みたくないと思うのでした(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

梅雨を乗り切る楽器管理方法

 映像は、2020年に相模原北公園で撮影した紫陽花(アジサイ)の写真にヴィオラとピアノで演奏したビリーブを合わせたものです。

 日本の梅雨は草花にとっては恵みの雨が続くシーズンですが、ほとんどが木で出来ている弦楽器にとっては「地獄のシーズン」です。楽器に使われている木は、水分をほとんど含まない乾燥した木で出来ています。だからこそ、空気中の湿度をまるで除湿機のように吸い寄せてしまいます。
 楽器を組み合わせている「膠=にかわ」は、表板や裏板の木が、水分を含んで膨張したことによって割れてしまうことを防ぐために、意図的に弱い接着力で木材同士を張り合わせています。高温になると膠は柔らかくなります。ますます接着力が弱くなります。治癒時にこの膠で張り合わされた、表板い・横板・裏板の接合部が「剥がれる」場合があります。職人さんに膠を付けてもらい、圧着と感想をする数日間は、楽器を演奏できなくなります。
 剥がれなくても、板が水分を含むことで、楽器本来の響きを失います。湿気た木を叩いても「カンカン」という音ではなく「コツコツ」という鈍い音になります。こもった音色になり、余韻が少なくなるのが梅雨時の弦楽器の「異変」です。

 特に古い楽器ほど、楽器が水分を吸い寄せます。新しい楽器は、楽器表面のニスに水分が残っており、さらにニス自体も厚みがあるので簡単には水分をしみこませません。その点、100年以上たっている楽器は、ニスが乾ききり薄くなっています。そこに湿度が加われば、当然木材が湿気るのは自然現象です。
 この梅雨時を乗り切る方法を私なりに経験からまとめます。

1.自宅で管理する方法
練習していない時間は、ケースにしまわないことです。
出来る限り風通しの良い場所に、「立てた状態」で管理するのが理想です。
エアコンの風が直接当たる場所は避け、エアコンを切っている状態であればできれば弱い風で良いので、扇風機やサーキュレーターで楽器の周囲の空気を動かすことで楽器が結露したり、余分な湿気を含まずに管理できます。
 ケースに入れない理由は簡単です。ケースの中で、ケースの内張や楽器を包んでいる布に、楽器の表面が密着します。楽器表面に湿気が常に当たる状態になります。ましてやケースの内部は、高音になればますます湿度が高くなります。
湿気た布団にくるまって、暑い夜を過ごせますか?その状態がケースに入れられたヴァイオリンです。極力、板に何も接しない状態が理想です。

2.外に持ち歩く場合
当然、ケースに入れるのですがケースの内部を可能な限り「乾燥」させることが大切です。自宅でケースの中に入っているものをすべて出してから、ドライヤーの温風で内張の布を手でさわれる熱さまで加熱します。その熱さならケースを痛めることなく、水分を飛ばすことができます。その後、完全に冷めるまで待ってから楽器をしまいますが、その時に「からからにアイロンをかけたタオル」を一枚、楽器の上に「掛け布団」のようにでかけてあげます。当然ですが、タオルも冷めた状態でないと大変です。このタオルがケース内部で、楽器の表面に一番近い空気の湿度を吸い寄せてくれます。このタオルを頻繁に変えてあげることで、ケースの内部、特に楽器の周辺の湿度が下げられます。
 やってはいけないこと。「水をためる除湿剤を入れる」ことです。万一、この水が楽器ケース内で楽器に係ることがあれば、どんな事態になるか想像してください。押し入れに入れて湿度を「水」に替えるタイプの除湿剤です。水分が実際に「水」になるので効果が実感できますが、ケースの中ではまさに「自爆行為」です。
シリカゲルを使った除湿剤は、周囲の空気から湿度を吸い寄せます。が!
そもそもヴァイオリンケースの「密封度」は大した数値ではありません。雨の水がしみこむ程度の密封度で、シリカゲルを入れてもケースの外の湿度を一生懸命吸ってくれているだけです。ケースの中の湿度はほとんど下がりません。
 ケースに付いている「湿度計」は信じてはいけません。ご存知の方なら、正確な湿度計の仕組みはあの「丸い時計」では作れないことがわかるはずです。あれはあくまでも「飾り」です。嘘だと思うなら、楽器の入っていないケースをお風呂場に持って行ってみてください。針が動かないものがほとんどです。振動で動いていることはありますが(笑)

 楽器にとって、過剰な湿度は良くありませんが、だからと言って乾燥のし過ぎも危険です。「楽器が割れる」まで乾燥することは日本では考えにくいのですが、クラリネットやオーボエなどでは、乾燥しすぎて管体が割れることがあるようです。ヴァイオリン政策の「メッカ」でもあるイタリアのクレモナ地方は、意外なことに湿度の高い気候だそうです。適度な湿度は必要です。
 湿度計に頼るのは賢明ではありません。むしろ、楽器の手入れを擦れば、楽器表面が「重たい」感じなのか「軽く拭ける」のかで湿度がわかるはずです。
温度と湿度の関係も絡みますが、あまり神経質になるよりも、演奏者本人が「不快に感じる」場所は楽器にとっても不快なのです。楽器を自宅に置いて出かける時にこそ、赤ちゃんを部屋に置いて出かけるくらいの「慎重さ」が必要です。
 楽器が鳴らない梅雨の時にこそ、楽器の手入れを丁寧にしましょう!
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

同じ音楽を感じながら

 動画はフリッツ・クライスラー作曲「シンコペーション」
ピアニストと二人で演奏することが多いバイオリンやヴィオラの音楽は、どちらかが「主役」で片一方が「脇役」ではありません。以前にも「伴奏」と言う言葉について、疑問を呈しましたが、ピアノが「伴奏する」と言う言葉の裏に、ヴァイオリンが主役と言う意味が隠されているように感じます。
 ヴァイオリンソナタの場合に「ピアノ伴奏」と言う言葉は使われません。
ところが、ヴァイオリン協奏曲のオーケストラ部分をピアノで演奏するときに「ピアノ伴奏」と言うことが多く、動画のような「小品」を演奏する場合にも時々「伴奏」と言う言葉が使われます。伴奏とは「声楽や器楽の主奏部に合わせて、他の楽器で補助的に演奏すること。」だそうです。主奏部って要するに「主旋律を演奏する人」だと思われますが、ピアノが主旋律を演奏する部分があっても「伴奏」なんでしょうか?府に堕ちません。

 オーケストラの場合、指揮者が音楽の交通整理をします。具体的には「テンポ」や「音符休符付の長さ」「強弱」「バランス」について、演奏者=オーケストラの演奏者に指示を出し、実際に指揮棒や腕を使って、音楽を表現します。
 二人で演奏する場合、人によって違いますが私たちは、その場その場で「お互いに」合わせる=寄り添うことを目指して演奏しています。練習の最初の段階は、それぞれが自分の演奏するパートを一人で練習します。その後、二人で同じ音楽を演奏するときに、お互いがどう?演奏したいのかをお互いに探り合います。
言葉で確認することもあります。「こうするかも知れないし、しないかもしれない」ということも確認します。打ち合わせをしても、私が間違って演奏した場合に、臨機応変に対応してくれることが「たまに、よく、しょっちゅう」あります。
 どんなに事前に打ち合わせをしたとしても、会場で演奏する「本番」の時には、リハーサルと違う演奏になることもあります。それはお互い様です。
 お互いを意識しなくても、相手の演奏している音楽と自分の音楽が「一致」していることが実感できれば、それが「ひとつの音楽」だと思います。

息が合うと言う言葉は、同じ速度、同じ深さで呼吸することを指していると思います。相撲の立ち合いもそうです。また、逆に相手に自分の動きを「読ませない」ことが重要な武道や、ボクシングの場合は、自分の呼吸を相手と意図的にずらすことも必要です。
呼吸を合わせるとは言っても、二人で演奏する音楽のすべての時間、完全に同期=同じ息で演奏することは、物理的に不可能です。ただ、音楽を二人で同時に演奏している「意識」は常に保っています。
 ピアニストがヴァイオリニストを「視野に入れる」のは必要なことだと思います。なぜなら、ピアニストは両手でいくつもの声部を感じながら演奏し、さらにそこにヴァイオリンの声部が加わるのですから、楽譜と同時にヴァイオリニストの弓の動きが見えることで、安心して演奏できると思うからです。ヴァイオリンは「弓が動いていなければ音は出ていない」のですから。ヴァイオリニストがピアニストの指を見ながら演奏しても、効果は薄いと思います。ましてや、両手の動きが見える位置と向きでヴァイオリニストが立てば、客席にお尻を向けて演奏することになるからです。加えて、ピアニストの出す「音」が聞こえないヴァイオリニストはいないのです。その逆はあり得ます。どんな位置にヴァイオリニストが立って演奏しても、ピアノの音は聞こえますが、ピアニストにはヴァイオリニストの、音も聞こえない、弓も見えない状態で、合わせられるはずがないのです。

 どんなジャンルの音楽でも、演奏する人たちがお互いを認め合い、必要な意見のすり合わせをして、初めて「ひとつの音楽」になると思います。
「二人」という最小単位のアンサンブルは、聴く人にとってオーケストラとは違った面白さがあると思います。もとより、気の合わない二人の演奏は、どんなに演奏技術が高くても、二つの音楽が同時に鳴っているだけの「水と油」です。
時に溶け合い、時にどちらかを浮き立たせながら、音楽が広がることこそがアンサンブルだと思います。
 どうか!伴奏と言う言葉を使わずに、それぞれの演奏者を、対等な呼び方にしてください。簡単です。「ヴァイオリン△△、ピアノ〇〇」で良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

部活外注に物申す

 現在、日本政府は公立小学校・中学校の特別活動である、部活動の指導を「外注」することを検討しているようですが、元中学・高校の教員、音楽部顧問として20年間、部活動を指導した経験をもとに問題点を書かせてもらいます。

 「土曜日・日曜日のスポーツ系部活動を地域のスポーツ少年団などに順次置き換え文科系部活動も学校外に移行する」
というニュースを耳にしました。その理由として「顧問教員の働き方を考えなおす」という、もっともらしい事を政府は言いますが、そもそも間違っています。
 部活動は学校の教育活動です。したがって、その指導責任と安全管理、成績管理は学校にしかありません。単に働く教員の「休日出勤」だけの問題ではありません。学校で行う学習活動を学校外の組織・団体に「丸投げ」する発想です。
もしもそれが本当に正しい事なら、学校の授業は民間の学習塾と予備校に丸投げしても問題がないことになります。
「土曜日曜だから良い」と言う問題ではありません。
当然、生徒が保護者の同意のもとに、学校が休みの時間に、なにを学ぼうが遊ぼうが、それは学校の活動ではありません。まさに問題のすり替えです。
 さらに部活顧問の労働環境が問題なのは、部活動指導に限ったことではありません。多くの人が知らないことですが、教員には「時間外手当」がありません。
長い歴史を経て、教育職員には「教員調整手当」なるものが支給されます。額はまちまちですが、月額数千円です。「教員に時間外手当はそぐわない」という理由です。当たり前のことですが、教員にも「勤務時間」があります。休憩を除き8時間が一日の勤務時間です。その勤務時間を超えて生徒の指導を行うことが、あまりにも常態化してしまったために「一律の手当て」として考えられたのがこの調整手当です。しかも、定時に勤務を終えても、補習講習、教材準備や部活指導で何時間働いても同じ手当です。労働に対する対価が不平等です。部活顧問は業務命令です。教育現場では「校務分掌」と呼ばれます。土曜、日曜に出勤した場合に「休日出勤手当」が出る学校もあります。修学旅行の引率などの場合には別の手当てが出る学校もあります。ただ、宿泊を伴う引率の場合、生徒の安全管理・健康管理は24時間勤務となります。
 私学の場合は管理職や理事が人事権を持っているため、教諭はサラリーマンと何も変わりません。公立学校の場合、教諭の立場は公務員です。校長などの「管理職」は人事権を持っていない上、数年に一度人事異動があるので、それぞれの学校では「お飾り校長」として教諭たちから相手にもされていない場合が多いのも事実です。
「モンスターペアレンツ」は未だに学校の現場を委縮させ続けています。
私学の場合は「理事会」に、公立の場合は「教育委員会」に、児童生徒の保護者たちが直接「上申」することで、学校現場の問題を解決するのであれば良いのですが、「気に入らない」から、ありもしないことをでっちあげて、嘘でも「上申」できるのが現状です。現場の教員にも生活があります。悪いことをしていなくても、児童生徒から保護者にどう伝わるのかが気になりだすと、不安になるのは当然です。
「〇〇先生は、部活顧問なのに土日に部活をさせてくれない」と保護者が文句を言います。学校は託児所ではない!慈善団体でもない!そもそも、日曜日は学校が休みなのが当たり前!だと思うのです。

 生徒が学校で過ごすべき時間は、本来「国」が定めるものです。義務教育ならなおさらのことです。社会=一般の大人が、部活動と民間の活動を区別できていないことが諸悪の根源です。文科省が何を考えているのか?想像でしかありませんが「学校で生徒を預かる」時間を増やせば、親たちから支持されることを期待しているとしか思えません。
 私自身、NPO法人の理事長として「青少年の健全な育成」「音楽の普及」を目的としたオーケストラ活動をしています。例えば、この法人で「部活動の代わりをお願いします」と言われたら?絶対に断ります。部活動は学校の教育活動です。NPOの目的が何であれ、NPOは学校ではないのです。
「施設を使う使用料を補助するから」と言ってくるのが目に見えています。
足元を見て、児童生徒の学校教育を「売り払う」政策です。
被害者は子供です。国が子供を守る気持ちがない上に、「支持者を増やす」目的で考えた「姑息な悪法」です。
子供を家庭に返せ!
親なら子供を自分の手で育てろ!
そう思うのは間違いでしょうか?
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の標題やストーリーより大切な「聴く人の想像力」

 映像は、ドビュッシーの「美しい夕暮れ」と言う歌曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。歌ですから「言葉=詩」があります。詩を読んだ作曲家が「音楽」を付けた作品です。歌を聴いて歌っている言葉のわかる人なら、歌っている内容が同時に伝わります。一方で歌っている歌詞がわからない場合は、「詩」ではなく「声」として感じます。当たり前です。それでも「楽しめる」のは、聴く人の「自由な想像力」で音楽を楽しんでいるからです。
 作曲家の感じた「詩」の印象と違って当たり前だと思います。
歌詞があろうとなかろうと、聴く人の「想像力」があるから楽しいのではないでしょうか?

 言葉を含まない音楽を聴いて「ストーリー」を感じるものでしょうか?
予備知識として、作曲家のイメージしたストーリーを知っていたとしても、聴く人が同じストーリーが感じられるものでしょうか?演奏する人が感じるストーリー性は、演奏者によって違って当然です。その演奏を聴いた人が、さらに違ったストーリー性を感じても感じなくても、それが自然だと思うのです。
 感じる人が「感受性が高い」とは限りません。むしろ「予備知識」に無意識に引っ張られているケースもあるのではないでしょうか?
歌詞の無い「音楽」が多いクラシックです。音楽の標題も、作曲者本人がつけた曲と、のちに誰かが標題をつけた場合があります。標題を見て先入観で音楽をイメージする場合もあります。その標題が作曲者のつけたものではない場合、本来は「曲名」がなくても良いはずで、むしろ私は「有害」だとさえ思います。

 ジャズにしてもクラシックにしても、あるいは映画音楽などにしても「聞く人の想像力」が一番大切だと思っています。特に、クラシックの音楽をあまり聞かない人たちに「クラシックの音楽とは!」と言う「余計なおせっかい」こそが音楽の純粋な楽しみ方を阻害していると思っています。
クラシック「マニア」が自分の感じるものや「ストーリー」を言葉にするのは自由です。その人の感じ方なのですから。ただそれを、まだクラシック音楽を楽しめていない人たち・子供たちに「これが正しいクラシックの楽しみ方・学び方」だと思わせてしまうのは、間違っていると思います。それこそが「クラシック嫌い」を創っていると思います。頭でっかちな「予備知識」で音楽を聴くよりも、聴く人の「真っ白なキャンバス=先入観のない状態」で音楽を聴いて想像する方が何倍も大切だと思っています。
音楽は特定の「物・人・事」を表わさない芸術です。
演奏する人、聴く人の勝手な想像こそが、音楽の楽しみ方ではないでしょうか?
「好きなように感じる」ことを優先すれば、もっと音楽を聴く人・楽しむ人が増えると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

拍の速さと車窓の風景

 映像は、Youtubeで見つけた新幹線の運転席から見える風景です。
わたくし「ノリテツ」でも「てっちゃん」でもありません。悪しからず。
音楽の「拍」や「リズム」が苦手な生徒さん、さらにテンポの維持や変化に関する苦労は、プロの演奏家にも共通の悩みです。
 そこで今回は「時間と音」を「時間と風景」に置き換えて考えることで、拍やテンポについて考えてみたいと思います。

仮に、電車の車窓から見える「電柱」が一定の間隔て立っているとします。
音楽のテンポを変えずに一定の速さで演奏するとします。
電車の速度が速くなると、電柱を通過する時間がだんだん短くなります。
テンポが変わらなければ、楽譜の中で「1拍」にかかる時間、「1小節」にかかる時間は常に一定になりますが、テンポが速くなればその時間はだんだn短くなります。
つまり、「一定の時間を予測する能力」と「
下の動画はF1(フォーミュラー1)がレースコースを走っている時の映像です。酔う人は見ないほうが(笑)スタート時時速「0」から一気に200キロを超える速度までの風景と、同じような速度で走る他の車がまるで「止まっているように見える」ことにご注目ください。

いかがでしょうか?怖いですね~(笑)
速度が速くなると一定の時間に処理する情報が多くなります。
言い換えると、処理の速度を速くしないと間に合わないことになります。
さらに「常に次にやるげきことが読めている」ことが必要なのです。
F1パイロット(レーサー)は、走るコースのすべてのカーブ、直線の距離、傾斜を「完全に記憶=暗譜」して走っています。コースに出なくても、頭の中でコースを走る「イメージ」があります。そうでなければ、止まることさえできません。速いのは車の性能ですが、止まる・曲がれるのは操縦するレーサー=人間の運動能力なのです。これもすごすぎる!

 楽譜を「追いかける」速度は、どんなに速い音楽でも秒速「数センチです。
仮に秒速5センチなら、分速300センチ=3メートル、時速180メートル。
歩く速度は時速4キロ=4000メートル。楽譜を読む速度はそれほど速くない!
 他方で、1秒間に処理する音符の数で考えると、たとえば四分音符を1分間に120回演奏する速さ「♩=120」の場合、16分音符は1秒間に8つの音を演奏する=処理することになります。結構な処理速度が求められますね。すべての音符が16分音符なら、1分間に8×60=480個の音符を演奏することになります。
 ちなみに早口言葉で「なまむぎ なまごめ なまたまご」をメトロノーム120で鳴らしながら言ってみてください。それが先ほどの16分音符の速さと同じになります。楽譜を読む速さは、この処理速度によって決まります。演奏できるか?は、その処理速度に「運動」を加えることになるので、まずは読めなければ運動は出来ません。

 まとめて考えます。
1.予測する技術 
「次の拍の時間を予測する」ことが「テンポ」です。難しく聴こえますが、正確に「1秒」を感じることを練習することで時間の間隔は身に着けられます。音楽は常に「次の拍を演奏する時間」を予測しながら演奏する技術が必要なのです。
その「1拍」の時間的長さが一定の場合に初めて「リズム」が生まれます。拍の長さが不安定だとリズムは演奏している本人でさえ理解出来ません。
 次に来る=演奏する「拍」を予測する美術は、決して反射神経ではありません。

 長くなりましたが、リズムやテンポが苦手な人は、一定の時間で何かを繰り返したら、「時間を等分する」ことが苦手な人です。
ぜひ!日常生活の中から、リズムや拍を見つけてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ラから教える?ヴァイオリン「始めの一歩」

映像は正弦波=音叉の音で鳴り続ける442ヘルツのA=ラの音です。
チューナーの音より聞き取りやすいかもしれないですね。
さて、今回のお題は「初めてのヴァイオリン」を小さい子供に教える時の問題です。もちろん、大人の場合でも多くの人が音の名前「ドレミファソラシド」は知っていても、かなり怪しい(笑)ケースがほとんどです。
 中学校1年生に「ドレミファソラシドって覚えていて言える人」には、クラスのほとんど全員が手を挙げます。が、「反対からドから下がってすらすら言える人」になると激減します。「言えるぞ!」と言う人に、「ラから下がってラまですらすら言える?」あなたは、いかがでしょうか?多くの人が、「言ったことがない」のが現実です。単語として「ドレミ」や「ドシラ」は覚えていても、途中からの「並び」は言えないのが普通です。音楽家の皆さん。あなとも同じ脳みそです(笑)試しに「あかさたな…」はおしまいの「わ」まで言えますね?それでは、それを「わ」から反対に言えますか?どうぞ!
おそっ!(笑)
これが人間の脳みそです。

 さて、ヴァイオリンの「始めの一歩」は、開放弦で音を出す練習から始まることがほとんどです。左手で弦を押さえないで、出せる音は「ソ・レ・ラ・ミ」という4種類の音です。調弦してあれば、の話ですが。
 一方でピアノの「始めの一歩」では、多くの指導者が「ド」から教え始めるのではないでしょうか?両手で始めるにしても「真ん中のド」を境にして教えるのではないでしょうか?
 さらにソルフェージュの場合も、多くは「ド」から覚え始めます。
事実、子供のための音楽教室(編)のソルフェージュ1A=最初の本でも、ドから始まっています。次に「レ」さらに「ミ」と音が増えていきます。当たり前の話ですが、このドの音が「一番歌いやすい」と言う意味ではありません。子供の声の高さ、出しやすい声の高さは人によって違います。「ド」から覚える理由は、おそらく「ピアノ」を基準に考えられ始められたものと思います。

 小さい子供が、ヴァイオリンを手にして初めて開放弦の音を出せて、嬉しそうな表情をしているのを、見ているだけなら楽しいのですが(笑)
 そこから「音の名前」や「楽譜」に結びつける場合に、どうしても「ド」にたどり着くまでに長い道のりがあります。まして、ヴァイオリンの2弦=A線から練習していくと、多くの場合次に練習するのは、1の指=弦楽器では人差し指ですの「H=シ」です。そこまでは何とか出来ても、次に2の指を1の指から「離して押さえる」手の形が一般的なので「ド♯=Cis」の音になります。
「なんで?わざわざ♯で教えるの?」土木な疑問ですね。
当初、私自身は2(中指)と3(薬指)の間を開くことが難しいからだろうと思い込んでいました。ところが、実際にやってみると、1(人差し指)と2(中指)をくっつけることは、難しくないことに気付きました。さらにこの状態で、指を曲げても、別に違和感がないことにも気づきました。こうなると「はて?なぜ?ヴァイオリンは最初から1と2を開くのかな?」と言う疑問が解けなくなりました。ここからは推論です。

開放弦から始めて、1の指を「開放弦より全音高い音」が出せる場所に置かせることから始まります。そうすると、低い弦から順に「G→A」「D→E」「A→H」「E→Fis」になります。この時点でE戦で♯が付いてしまいます。
どうしても「F」を教えたければ、1の指を「下げる=上駒側に寄せる」ことを教えて、開放弦より「半音高い」位置を教えなければなりません。
1の場所を「変えること」を教えるか?それとも「開放弦より全音高い音の位置」を覚えさせるか?によって、FなのかFisなのかが決まります。これは「1の指」の問題です。

 A線の場合は1の指は通常、開放弦より全音高い「H=シ」の音を練習します。そして「2」を「1の指=H」に近付ければ半音高い「C=ド」が出せて、もう少し感覚を開いて2を押さえれば全音高い「Cis=ド♯」が出せます。
とりあえず先に進んで、「3の指」で「D=レ」の音を出すことが一般的なのですが、2の指からの「音程=距離」が半音なのか?全音なのか?によって、近づくか?離れるか?が分かれます。どちらにしても「D=レ」を教えたとします。
 すると2の指にを「C」にして、開放弦から順に演奏すると…
「AHCD=ラシドレ」と言う「短音階の最初の4音」になります。
一方で、2の指を「Cis」にすると開放弦から
「AHCisD=ラシド♯レ」と言う「長音階の最初の4音」が演奏できます。
要するに「2」の位置で「短調」か「長調」のどちらかになります。
「こら!嘘つくな!」と言う専門家のお声が聞こえそうです(笑)
はい。確かに「AHCD=ラシドレ」の前、後によっては、長調にもなります。
正解は「C dur=ハ長調」の第6音から演奏した場合「CDEFGAHC」と
「G dur=ト長調」の第2音から演奏した場合「GAHCDEFisG」が考えられます(難しい)
簡単に言えば「開放弦で出せる音から始まる=主音にする曲」を演奏しようとすると、短調か?長調か?が「2」の指の高さで決まると言う意味です。それでも難しい(笑)

 推論のまとめ。おそらく「長調の音楽から教えたい」と言う気持ちで2の指が3の指に近付く=1の指から全音分離れることが一般的になったものと思われます。もしも、ピアノと同じように「幹音=シャープやフラットのつかない音」から子供に教えたければ、それもあり!だと思います。その場合、指の位置は半音の単位で変わることになります。
 一方で、手の形=指と指の間隔を優先して教えたければ、どうしても幹音以外の音を教えることになります。
 小さい子供に「シャープってね?」と教えられるのか?そもそも近い出来るのか?と言われれば恐らく「無理」だと思います。
 ただ、音の高さを覚え、音の名前を覚える時期=絶対音感を身に着けられる限られた時期に「シャープ」という言葉まで覚えさせれば、一生の財産になることは事実です。現実に幹音だけの「絶対音感」はあり得ません。1オクターブ内の「12の音=すべての鍵盤の音」の高さを音名で答えられる=歌えることを「絶対音感」と言います。白い鍵盤の音名だけしか答えられないのは「絶対音感」とは言いません。ですから、シャープやフラットという言葉も覚えていく必要があるのです。細かいことを言えば「異名同音」が存在するのですが、どれか一つの言い方が=音名が答えられれば絶対音感があると言えます。ファのシャープとソのフラットは「同じ鍵盤=同じ高さ」の音ですから、どちらかの名前が言えれば「理解している」ことになります。

 ピアノの教本、ソルフェージュの教本、ヴァイオリンの教本を同時進行で教える場合に、ヴァイオリンだけが最初から「ラ」だとか「シ」が出てきます。
ピアノ・ソルフェージュで、ラやシが出てくるのはかなり後です。
「理想の順序」や「正しい順序」はないと思います。
結局のところ、ヴァイオリンとソルフェージュまたはピアノを「同時進行」で教えていくことが最も効率的な指導方法なのかな?と思うに至りました。
子供が「楽しみながら」音楽の基礎である「音名・音の高さ」と、楽器の演奏技術を学べるように教材を考えることが必要です。そうでなくても初心者用の教本や教材が少ないヴァイオリンです。自作も含め、複合的な「本当に新しいヴァイオリン教本1巻」が誕生することを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

耳に優しい音色と音楽

 映像は、フォーレのベルシューズ「子守歌」です。
ヴァイオリンの音色が「こもった」感じの音なのは、演奏用のミュート=弱音器を駒の上に付けて演奏しているせいです。練習用に使う「消音器=サイレンサー」とは意味合い・目的が違います。ちなみに金属製の消音器を付けると、音圧=音の大きさがテレビの音量程度まで小さくなります。一方で演奏用のミュートは、「音色を変える」ための道具です。

 さて、同じ音楽=楽譜でも、演奏の仕方で聴く人の印象が変わることは言うまでもありませんね。同じ材料と調味料を使って、違う人が同じ料理を作っても、同じ味にならないことと良く似ています。料理で言えば、材料の切り方、火加減、手順、味付けが違います。ヴァイオリンの演奏で言えば、何がどう?違うのでしょうか?

 もちろん、楽器と弓で音色が大きく変わるのは当然です。
ヴァイオリニストは自分の好きな音色の楽器を使って演奏できます。
ピアニストはそうはいきませんね。会場のピアノで演奏することがほとんどです。また、高額なヴァイオリンの場合、演奏者が借りて演奏する場合が良くあります。自分の好きな楽器かどうかの選択ではありません。
 自分の好きな音色を出すためのテクニックとは?

 前回のブログで書いた「弓の毛の張り具合」もその一つです。そのほかに
・弓の速度

・弓の角度
・弓の圧力
・弓を乗せる位置=駒からの距離
・ビブラートの深さ
・ビブラートの速さ
・ビブラートをかけ始める時間
・弦を押さえる力と指の場所
・ピッチ=楽器の倍音
・グリッサンドやポルタメント
・余韻の残し方=音の終わりの弓の処理
他にも考えられますが、これらを複数組み合わせることで、音色が大きく変えられます。
聴いている人が「優しい音(音楽)」と感じる場合と、「激しい音・強い音」と感じる場合があります。言葉で表すのはとても難しいことですが、少し「対比」を書いてみます。
・太い音⇔細い音
・固い音⇔柔らかい音
・明るい音⇔暗い音
・鋭い音⇔丸い音
・つるつるした光沢のある音⇔ざらざらした音
・力強い音⇔繊細な音
・重たい音⇔軽い音
・輪郭のはっきりした音⇔ベールのかかったような音
いくらでも思いつきますが、上記の左右は「どちらもアリ!」だと思います。
綺麗⇔汚いと言うような比較ではありません。
敢えて書かなかったのが「音の大きさ」に関するものです。
だんだん強くなるとか、だんだん消えていくなどの表現は「音の大きさ」で「音色」とは違います。
 また同様に音の長さについても書きませんでしたが、実は音の長さは「音の強さ」の概念に含まれます。「音の三要素」は「音の強さ」「音の高さ」「音色」です。いまは「音色」の話です。

 演奏者の好みで曲の解釈が変わります。
同じ楽譜でも、違って聞こえるのが当たり前です。「良い・悪い」「正しい・間違っている」の問題ではありません。フォーレの子守歌ひとつでも、人によってまったく違うのが当然です。大好きなヴァイオリニスト、五嶋みどりさんのえんそうです。


 世界的なヴァイオリニストの演奏と比較する「図々しさ」は私にはありません。
ただ、人によって音楽の解釈が違うと言う話です。お許しください。
 ヴァイオリニストの音色へのこだわりは、楽器選び、弓選び、弦選び、松脂選びなどの「ハード」と演奏方法「ソフト」の両面があります。
聴く人には「一度だけの演奏」です。演奏者が、自分の好きな音色に迷いがあったり、最悪「こだわりがない」場合、演奏のうまい・へた以前に「無責任な演奏」を人に聞かせていることになると思います。
 自分の好きな音を探し求めて、試行錯誤を繰り返すのが弦楽器奏者です。
一生かけて、楽しんでいきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

間違いだらけ「弓の毛の張り具合」

 映像は、ファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした作品です。だいぶ前の演奏で…若い(笑)
 今回の話題は「弓の毛」をどのくらい?張って演奏するのが良いのか?です。
多くの動画がYoutubeに上がっていますが、なにか間違っている気がしましたので、長年「弓」について考えながら演奏してきた演奏者として、考えをまとめてみます。

 高校時代まで使っていた弓は、フィンケル氏の作成した弓1本だけでした。
次第に「弓を変えたら音が変わるって本当かな?」と思うようになり、ヴァイオリン職人で私の楽器を斡旋紹介してくれた名工「田中ひろし」さんに相談しました。「自分で勉強してこい。」と一言。東京中のヴァイオリン専門店を回って、「これだ!」と感じた弓を数日間だけ貸してもらっては、表参道?南青山?の田中氏の工房に持っていきました。「おまえ、この弓のどこがいいんだ?返してこい!」の繰り返しを約1年間続けた頃、田中氏から「この弓でひいてみろ」と言われて渡された弓。それが今も私が使っている「ペカット」でした。その弓を師匠である久保田良作先生にお見せしました。「すごいね!今度の演奏会で使わせてもらっていいかな?」と実際に東京文化会館小ホールでの先生の演奏会で使用されました。その後返して頂いた際に「この弓、売ってもらえないかな?」さすがにそればかりは!とお許しいただいたのを忘れられません。
 そんな弓を使って演奏している私の「弓の毛」の張り方です。

 「弓の毛を強く張れば張るほどいい音が出る」と間違っている人がたくさんいます。また同じように「張れば張るほど、大きい音=フォルテが出せる」と間違っている人も多いのが現実です。なぜそれが間違いなのか?説明します。

 そもそも、弓の木は元来「まっすぐ」に削られたフェルナンブッコの木を、職人が熱を加えながら反りを付けて作ったものです。弓の木には弾力=しなりがあります。弓の元から先までの「しなり=強さのバランス」と「重さのバランス」が弓の命です。さらにしなりは「縦方向と横方向」のしなりがあります。
弓の毛に対して直角方向が「縦」で、弓の毛と平行方向が「横」のしなりです。
弓の一番先を左手で持って、右手でこの「縦と横」の弾力を感じる=調べることができなければ、弓の良し悪しは判断できません。しなりが弱い弓を「腰が抜けた弓」と表現します。一方で固すぎる弓は、柔らかい音色を演奏できません。
 弓の毛を張ったままで何日も放置すると、弓の腰が抜けて「ぐにゃぐにゃ」になります。この状態は先述の「左手で弓先を持って調べる」とすぐにわかります。縦にも横にも、ほんの少しの力でふらふらと曲がります。反りもほとんどなくなって、まっすぐの「棒」になってしまいます。
この状態で演奏しようとすると?当たり前ですが、弓の毛とスティック=弓の棒の部分がすぐに当たってしまいます。弓の毛を張れば張るほど、スティックは安定感を無くして、フォルテもピアノも演奏できなくなります。
 言い換えれば、張らなければ弾きにくい弓は、腰が抜けている弓です。
弓の弾力は、すべての弓で違います。弓の毛の本数が同じでも、弓の毛もやはり弾力が違います。演奏する前にその弓の「ベスト」な張り具合を見極める技術が絶対不可欠です。弓の弾力が最も大きく使えるのは「弓の毛を緩めた時=毛を張っていない時」です。弓の毛を「少しずつ張っていく」と、スティックの両端を弓の毛が、弓の元=毛箱に向かって引っ張る力が生まれ、少しずつ弓の反りが「逆方向=まっすぐにさせられる」ことになります。つまり、本来「弓の反りが少しだけ変わる」程度の張りの強さで、弓の毛はまっすぐにピンと張れているはずなのです。
 腰の抜けた弓だと、弓の毛がピンとなる前に、スティックがまっすぐになってしまいます。これでフォルテが弾けるはずもありません。
 この「ぎりぎりの弱さ」で、まず弓の中央部分と、先、元で演奏してみます。
弓のスティックを、演奏者から見て向こう側に倒しすぎれば、弓の毛が半分くらいしか弦に当たらず、当然毛のテンション=張力が半分になるので、すぐにスティックが弦に当たります。当たり前です。だからと言って弓の毛を張るのは間違いです。
 そもそも論ですが、弓の真ん中は弓の毛のテンションが弱くて当たり前です。むしろ弱いからこそ、元・先のテンションが強い部分との「違い」が出せるのです。
 弓の毛を「弦」に置き換えればすぐに理解できます。
弦の「端っこ」に当たる「上駒=ナット」近くと「駒」近くは、弦のテンション=張力が、強く=弦が固く感じますよね?つり橋の真ん中が揺れるのと同じ原理です。弦の固さ=橋の強さは本来端っこも真ん中も同じでも、駒=橋脚近くは固い=揺れないのに対して、真ん中は柔らかい=揺れることになります。弓の毛でもまったく同じです。

ちなみに「カーボン弓」は「曲がらない」と勘違いしている人もいますが、それも間違いです。曲がるように=フェルナンブッコ弓と同じように作る技術があるのです。ケースに使われるカーボンと「製造工程」が全く違うのです。
 弓の毛を張らないで、フォルテで演奏すると、初心者の場合は弓の毛とスティックと弦がすぐに「接触」してしまいます。その接触をぎりぎりで避ける「圧力」をコントロールできるのが上級者やプロの演奏技術です。

 弓の毛の張り具合は、演奏者によって好みが分かれます。
弓の中央部分でも、とにかく圧力をかけて演奏したいというヴァイオリニストはやたらと毛を強く張ります。一方で、弓の中央部分の柔らかさを使いたいヴァイオリニストは、ぎりぎりの弱さで張ります。
 少なくとも、弓へのダメージを考えるなら、私は張りすぎは避けるべきだと思います。私はペカットを使うのは、本番前の数日間と本番当日だけにしています。それまでは、違う元気な弓(私の場合フィンケル)で練習します。
 弓のスティックは、演奏していると次第に柔らかくなっていくのを感じるはずです。言い換えれば、木が疲れてきているのです。毛を強く張って長時間練習すれば、それだけスティックは疲労します。
 「弓は消耗品」という、とんでもない嘘を言う人が、たまにいます。
確かに疲労しやすい・壊れやすい「楽器」です。だからこそ労わって、大切に使わなければ、名弓と呼ばれる弓は世界からなくなってしまいます。すでに多くのペカット、トルテの弓が、折られたり、使い物にならなくされたりしています。
 弓はヴァイオリンの付属品でもありません。楽器です。
弓の扱いを知らないアマチュアが多すぎます。先日も、ある学校の部活オーケストラに入った私の生徒が、先輩に「弓の毛はいっぱいまではらないとダメなんだよ」と言われ、困って「私の先生に弓の毛は張らないほうがいいってならいました」と正直に答えたそうです。あろうことか、そう上級生は「そう?じゃ、貸して」と生徒の弓の毛を目いっぱいに張って「はい。これで大丈夫」と返されました。
実話です。これが現実なのです。恐ろしいと思います。
 私の生徒には、絶対に人に楽器も弓も触らせたり弾かせたりしないこと!
なぜなら、楽器を落としたり、ぶつけて壊しても「貸した人=持ち主の責任」なんだよと、教えました。どうしても先輩に言われたら「このヴァイオリンは私の先生に借りているものなので、貸せません」と嘘で良いから断るんだよと教えました。嘘をつかせたくはありませんが、そうするしか方法がありません。

 弓の毛の張り具合を決めるのも、演奏技術の一つです。ただ単に「適当に張りましょう」と本気で思っている人には、ぜひ弓のスクリューを90度緩めて演奏して見て欲しいと思っています。それでもまだ強すぎれば、さらに90度。
きっと音色の違いに気付けるはずです。そして、弓の反りをいつまでも保つことは、ヴァイオリン演奏者の「責任」だという事を忘れないで欲しいのです。
弓は買い替えればよい…という人は、ぜひピチカートだけで演奏してください。
弓は演奏者の「声」を出すものです。声楽家がのどを大切にするように、ヴァイオリニストは弓をもっと大切にするべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

初めての音との出逢い

 映像はThe Singers Unlimitedのア・カペラ。
高校3年生の頃に、初めてこの「音」に出逢いました。
仙川の「リセンヌ」という小さな喫茶店。マスターとお母さんがサイフォンで入れてくれるコーヒーと煙草の香りの中に、ジャズが流れていました。
いつからか、入り浸っていました。授業の無い時も、たまには…(笑)
当時、ジャズに興味の無かった私が、なぜ?このリセンヌに通い続けたのか、記憶が定かではありませんが、なにか落ち着ける場所でした。
 ある時に偶然かかっていたのがこの「The Singers Unlimited」のコーラスでした。背筋がぞくっとして、鳥肌が止まりませんでした。「なに」これ」
お聞きになってお分かりの通り、「多重録音」で作られた音楽で、実際には女性1名、男性3名のグループです。

 人間の声だけで作られる和音の響きは、楽器の和音の音色と別次元の多彩さがあります。声=歌の場合、母音によって響きが違います。また、男性の声と女性の声の「響きの違い」も明らかにあります。しかも「同じ人間の声」で多重録音されているこの音楽には独特の不思議さがあります。多くの歌手が自分の声を「重ねる」技術で録音しています。日本人の歌手で重ね録りと言えば、この音楽ですね。

 同じ人間=山下達郎さんおの声だけだと、また違った面白さもありますが少し違和感も感じますね。でも好きです。
 話が飛びましたが、和音の種類の中で「ドミソ」「ファラド」「ソシレ」と言った基本的な三和音=トライアド・コードと、「ドミソラ」や「ミファラドソ」のように、聴いていて「ん?」と感じる和音があります。
 クラシック音楽の多くは前者の和音を基準に作られています。もちろん、例外はたくさんあります。一方で、ジャズで多く使われる和音は、クラシック音楽よりもはるかに「7th」「9th」や半音意図的に下げた音を組み合わせるなどの和音が使われます。め