学校教育でオーケストラを指揮・指導する

中・高校部活オーケストラ

 映像は20年以上前のものですが、横浜みなとみらいでの中学生・高校生が演奏するカヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲。
 ハープの演奏者だけは「外注」(笑)パイプオルガンの演奏も高校生です。
 今回のテーマは、学校教育にある「特別活動」いわゆる部活動でのオーケストラを指導する際の「コツ」と「留意点」です。

 公立・私立を問わず「特別活動」の目的や主旨は国と地方自治体によって規定されています。好き勝手にできるものではありませんし、ましてや顧問や校長の意向で活動に制限を加えたり、逆に「無法地帯化」することも許されません。さらに、家庭=保護者の理解と同意も必要不可欠です。
 当然のことですが主役は「生徒」です。子供たちの健全な育成が目的です。中学は義務教育であり、高校は違います。さらに、思春期の子供たちです。その多感な時期の生徒に「オーケストラ」という特殊な環境を作るのは「大人」の仕事です。自然に生まれるものではないのです。

「オーケストラの指導は難しくてできません」と言う教員が殆どでした。そういいながら、吹奏楽の指導や合唱の指導は気軽に引き受ける教員が数限りなく(笑)いました。
 音楽への関心もなく、楽器演奏の経験が「ゼロ」でも顧問を引き受けなければいけない立場なのが「教諭」という職業です。「校務分掌」つまりは「業務」として顧問をすることも教諭の仕事なのです。

 オーケストラに限らず合唱や器楽演奏の部活動を指導・指揮するのであれば、最低限の知識と技術は身に着けるべきです。それが校務分掌であるなら、給与に含まれる業務なのですから。

 前提として、もし指導者自身が義務教育レベルの音楽知識・楽器演奏技術しかない=楽譜が読めない・リコーダーしか演奏できないのであれば、まずは生徒の安全管理だけしかできないと思ってください。「知った振り」で生徒に間違った指導をするのは「百害あって一利なし」です。練習内容・時間・運営・指揮。これらは「音楽」の基本です。「命にかかわらないから」という安直な考えで、音楽系の部活動指導は絶対にすべきではないのです。ラグビー部の顧問を命じられて、ルールも知らずに生徒に指導しますか?ワンダーフォーゲル部の顧問が、山の怖さを知らずに生徒を引率しますか?それと同じことです。

 本題です。
1.楽器の構造と扱いを学ぶ
2.楽器ごとの練習方法を学ぶ
3.合奏に必要な技術を学ぶ
4.指揮法の基本を学ぶ
5.楽譜の基礎知識を学ぶ
6.生徒のモチベーションを維持する方法を学ぶ
ざっと挙げれば上記のような「学習」「研究」が必要です。
 オーケストラには数多くの種類の楽器が含まれます。それらすべての楽器を「完璧に」演奏できる人間は恐らく地球上に一人もいません(笑)さらに言えば、指導者自身が「何の楽器も演奏できない」人であっても、知識を身に着け経験を積めば、オーケストラの指導は十分に出きるのです。「楽器ができない」からと言って、なにも学ばなければ指導は不可能です。

 上記の1~6の項目を同時進行で行います。
もちろん、段階があります。短時間に身につくものではありませんし、オーケストラ自体も「1」から大きくなっていくのです。
 私の経験を簡単に書いてみます。


1.私立新設校で男子校にただ一人の音楽教諭として採用されました。
2.開校準備の段階で「音楽部顧問」を任命され活動内容は一任されたので「オーケストラをつくる」ことにしました。
3.初年度購入備品を事務局に提出する段階で、通常授業以外の楽器=オーケストラの楽器購入について、3年計画で計上することになりました。(あまりに高額だったので)
4.初年度はコントラバス1・ティンパニ2・チューバ1・ヴィオラ1・チェロ1.ファゴット1・ピッコロ1・ドラムセットを購入しました。これらの楽器をまず優先して購入することで2年目に「吹奏楽にしろ」と言われることを回避できることと、生徒が購入しにくい楽器から揃えることが目的です。
5.開校時、部員は中学生5名高校生6名、合計11名でした。中にヴァイオリンを習ったことのある中学生1名、中学時代に吹奏楽部でフルート・サックス経験者が各1名。それ以外は「楽器初めて」の男子でした。
6.それぞれの生徒の希望を優先し楽器を貸し与えました。楽器が余る状態でしたが次年度も楽器の購入を計上しました。
7.開校から3年目に全学年(中1~高3)男子生徒が揃った時、オーケストラには60名ほどの男子部員がいました。3管編成オーケストラに必要な楽器はほぼ、買い揃えていました。
8.案の定、法人の理事長から呼び出しを受けました。横浜の高級料亭で「吹奏楽部に何故しないのか?」と迫られましたが、私には吹奏楽指導は出来ませんと伝え(クビか?と思いました)認めてもらいました。
9.学校の管理職と取り巻き教員からの嫌がらせ=音楽部排除計画に真っ向から戦う日々となります。外部からの指導者=コーチの採用は認められず、中学生の合宿も認められず、入学式・卒業式での演奏も認められないという不合理な方針と闘いました。
10.生徒の「やる気」を引き出すための工夫と、部員を確保するための「新入部員勧誘」、さらに定期演奏会の入場者数増加が毎年の頭痛の種となります。
11.全校生徒数、1200名の学校で、150名の部員を束ねながら、中・高授業と校務分掌を同時に行いながら常に「オーケストラ」を中心にした勤務でした。
12.学校から部活動への予算は「生徒会費」からの毎年1~2万円。楽器のメンテナンス費用のために「部費」を月に500円集めることにも学校はなかなか認めませんでした。
13.生徒の楽器は生徒に購入してもらうことを保護者会で理解を求めました。難しい生徒には学校の楽器を貸与しました。
14.全部員が揃う「合奏」は週に1日だけ。その他の日は「自由に練習」できる体制を続けました。
15.「対外的な結果を出せ」と言う嫌がらせ要求に応えるため、テープ審査のコンクールに参加し文句を言わせない結果を残しました。
16.高等学校文化連盟などに加盟することで対外的な活動を学校に認めさせました。
17.部員には「年功序列」を体感させるため、1学年下の部員を「先輩」が指導する体制を作りました。
18.一方で「やる気」があれば「下剋上」ができるよう「トップ」を希望する部員には、全員の前で指定された部分を演奏する「勝負」で席順を決めさせました。
19.選曲や当初の席順はすべて、指揮者が独断で行いました。
20.生徒が生徒を指揮する曲は演奏会の「1曲」だけで、開校5年目から毎年演奏し続けた「コーラスラインメドレー」だけに限定しました。生徒がオーケストラを指導することは不可能です。「指揮」は出来ても「指導」はできません。それを勘違いしないことが重要です。

 長々と「実話」を書きましたが(笑)、すべての学校で環境が違います。当然、生徒の個性もあり「地域の文化」も違います。
 そんな中でもオーケストラの活動は出来るはずです。大編成でなくても、10人いれば立派なアンサンブルです。その10人が卒業するまでに15人になり、やがて50人になるのです。それが顧問の仕事です。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンはどこまで進化するべきなのか

上野3枚の写真はすべて私が愛用しているヴァイオリンです。
1808 GIASINTOS SANTA GIULIANA
私が13歳の頃、50年前に父親が刈ってくれた楽器。ヴァイオリン職人として高名だった田中豁さんかが、メニック(フィラデルフィア)から取り寄せたものでした。
 さて、今回のテーマはヴァイオリンと言う楽器の「進化」について考えるものです。

 ピアノや多くの管楽器は、楽器が使用されるようになってから、長い時間をかけて「進化」してきました。素材や機構、作成譜お方も含めて「より演奏しやすく大きな音が出るように」変化してきました。
 演奏会場が大きくなり、一緒に演奏する楽器の音量が上がれば当然の変化かも知れません。
 ヴァイオリンは?どうでしょうか。

 この写真は1677年にニコロ・アマティが作成したというヴァイオリンだそうです。(笑)アマティはストラディヴァリの師匠にあたる製作者です。これ以前のヴァイオリンは様々な大きさ・形状だったようです。
 1680年と言えば?日本では江戸時代。五代将軍徳川綱吉が政治を行っていた時代です。
いくら「西洋」とは言えば現代との違いは想像しきれないほどです。
 演奏をする場面を想像しても「ホール」ではなく、宮廷や教会での演奏が主だった時代。金属の加工技術も低く、楽器に張る弦もガットをそのまま使っていた時代です。
当時に生まれ、活動していた作曲家は
パッヘルベ
コレッリ
パーセル
アルビノーニ
アルビノーニ
ヴィヴァルディ
テレマン
ラモー
J.S.バッハ
D.スカルラッティ
ヘンデルなどなど。

 さて、2024年の今を考えます。
「Ai」私世代なrあ「愛」と読みますが(笑)人工知能やら「量子コンピューター」やらが使われ始めている時代です。音楽で考えると何か大きな変革があったでしょうか?
 コロナ感染症で「音楽配信」が増えましたが、それ自体は新しい技術でもありません。
生で演奏を楽しむ機会が減ったことは事実です。それでも、クラシック・ポピュラー共に音楽の生演奏を聴いて楽しむ文化は10年前50年前と比較しても、あまり変わっていません。

 録音技術がデジタル化されて、すでに数十年経っています。逆に「アナログ」が見直される時代になりました。自宅や外出先で音楽を聴くことも「ウォークマン」が発売された40数年前前から続いていることです。
 電子楽器が「パソコン」にとってかわられたのはここ10年ほどのことかもしれませんが、それも「テクノ」が流行った昭和の時代に存在していた音楽です。シンセサイザーと呼ばれる電子楽器は40年以上前からありましたし、電子オルガンも50年以上前から普及していました。

 ヴァイオリンに求められる「進化」って何でしょうか?少なくとも演奏方法や演奏する楽曲が変わっていないことは事実です。
「より大きな音が出せる」ことでしょうか?「より演奏しやすく変える」事でしょうか?
「初心者でも演奏を楽しめる」ことでしょうか?例えば調弦=チューニングしやすくするtらめの「アジャスター」は既に60年以上前からありました。ペグ=糸巻そのものを「ギヤ」で力を入れなくてもペグを好きな位置で止められる機構「ファインチューン」というものも既に当たり前に使われています。
 一番「ちょこちょこ」変わるのは弦ですが、1700年当時の「生ガット弦」から「スチール弦」「金属巻きガット弦」が生まれ「ナイロン弦」が生まれてからあとは「これは!」という進化はありません。むしろパッケージを変えただけで「新製品」が発売されている状態です。

 演奏に求められうるのが「正確さ」「速さ」に偏っている現代、演奏者の音楽性や音色の美しさを求める人が段々減っている気がします。
 ヴァイオリンは300年前に「進化を止めた」楽器です。それを望んだのは演奏家であり聴衆です。70年以上前の録音されたレコードの演奏に、改めて感動するのは私だけではないと思います。個性を前面に出し、一つの楽曲に時間をかけて取り組んだ時代に「クラシック」の音楽の原点があるように思います。
 現代音がKとは次元の違う話です。進化より「深化」が必要だと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術になぜ?個人差があるのか?_

映像は国際コンクールで優勝し誰からもその技術の高さを認められている日本人ヴァイオリニスト三浦文彰氏の映像です。今回のテーマは「技術の差はどうして生まれるのか」という素朴な疑問について考えるものです。
 結論から言ってしまえば「努力の内容と量の違い」という当たり前のことになりますが(笑)、うまくなりたいという気持ちがある人にとって「超えられない山」なのかもしれません。

 演奏の好き嫌いとは別に「技術力」は様々な方法で科学的に比較できます。人間の聴覚は極めて曖昧なものです。
同じ人間が同じ大きさ、同じ高さの音を聴いても聞こえたり聴こえなかったりするのが普通です。パニック状態になれば、どんなに大きな音も「音」として認識できなくなるのが人間です。ですから、人間がいくら頑張っても「科学的な比較」としては演奏技術を比較することは出来ません。

 ヴァイオリンの演奏技術を「分析」する賭したら、どんな項目があるでしょうか?
・楽譜に係れている音の「高さ」
・楽譜に係れいる音・休符の「長さ」
・音量の幅=ダイナミクスの大きさ
・練尾の安定性とバリエーションの豊富さ
・正確に演奏できるテンポの速さ
上記の中で「音色」に関するものが最も分析の難しい項目になります。音色の分析には「含まれる音の周波数と波形」を分析することになります。何度も言いますが「好み」の問題ではありません。あくまでも「数値化できる項目と内容」の話です。

 大雑把に言ってしまえば
「速い曲を間違えずに演奏できる」
「汚い音=演奏者が意図しない音をださない」
「静かな曲もどんな曲も美しく(笑)演奏できる」
美しいという言葉が科学で証明できないのですが、違う言い方をすれば「誰からもケチの付けられない=減点されない演奏」だということです。

 さて本題です。どうして?これらの技術に差が生まれるのでしょうか?
「才能だ!」と切り捨てるのは簡単ですが「才能って何?」が結局のところ、今回のテーマになるわけです(笑)
「じゃ、環境だ!」はい。それは確かに大きな要因になります。両親が演奏家だったり、いくらでも練習できる環境だったりと「うらやましい」と思われる環境の人もいます。楽器の練習ができない環境で技術を身に着けることは不可能です。一方で音楽の学校に進学できた人の中で、練習できる環境が同じでも技術の習得に差が表れるのも事実です。「それまでの環境」人によって育つ環境が違うのは当然です。ただ音楽の学校に入学できる一定のレベルがある人たちが、その後に修得する技術が違うこととは直接関係ありません。

 趣味の楽器演奏でも、国際コンクールに出場する人でも「技術さ」が生まれる原因は「練習の質と量」以外の要因は獄わずかだと思います。
「練習の質=内容」と「練習量=毎日の連中時間・トータルの練習期間」を合わせたのが「練習」であり、sの結果が技術の主六の違いになるものだと考えます。
 先述の通り、練習時間が仮に「ゼロ」であれば、技術の習得も「ゼロ」ですが、内容が「ゼロ」であっても結果は「ゼロ」だと言えます。
 むしろ「練習量=時間」は時計があれば図れますが、内容を測ったり比較することは困難です。

 練習の質=内容は、先述の「技術」の項目で書いたようなことを「できるようにするための内容」です。
「速く正確に美しく演奏する」ために「聴く能力」と「体をコントロールする能力」の両方を高めることが必須になります。どちらも「正確な演奏」には不可欠です。いくら耳が良く反応が速くでも、運動能力が低ければ再現性は望めません。元より音を聞き分ける「耳」がなければ、正しいか?間違っているか?を判断できません。


音に対する反ぬお速度と制度・筋肉や関節を正確に動かす運動能力。どちらも「あるレベルまで」は多くの人が到達します。さらに厳密な「制度」と「再現性」を身に付いtた人たちと、何が違うのでしょうか?
 これはスポーツの記録でも言えることですが「小さな違いの積み重ねの違い」なのだと思います。
 同じ練習メニューで、一人一人の筋力に合わせた加賀的なトレーニングをした場合「結果・効果」を数値化することは出来ても、その人の「感覚」は数値化できません。
脳波を取ることで「苦痛」「痛み」などは検知できます。
瞬間的に「何を考え・どうしようとした」ことまではデータに現れまS年。「思考」つまり脳の働きは最も分析が難しいジャンルです。
 おそらく練習中の「思考」が技術の習得を左右していると推察できます。「何も考えない」で練習しても上達は望めないということです。
 練習中に考えていること=注意していることを、すべて言語化することは不可能です。むしろ「無意識に考えている」からです。その思考を集中できる時間の長さが長ければ、より高い技術に到達すると思われます。
 同じこと(例えばピッチ)に集中して練習したとしても、同時に注意する内容(音色や音量など)をどの割合で、どの位集中しているか?は人によって違います。
結果として「同時に集中できる項目」の制度を高め、集中を持続させることも「能力」の一つです。
 結局「脳の働き」に左右されていることになります。
持って生まれた身体的な特徴や、脳の働きもありますが「訓練・練習」によって伸ばされる能力の「差」こそが、技術の違いです。
 と、思っていてもうまくなれないのが現実ですね(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

政治・経済と音楽

 私達のように音楽に関わって生活する人たちの多くが「政治に関心がない」ことを痛感します。まして「経済」に関しては「学問」だと思い込んでいる音楽家がいます。
 どんな職業であれ「sy会」という集団組織の中で生きていく以上、その組織…例えば国の政治と経済活動の中で生きていることに違いはありません。
 分かりやすい例えで言うなら、国全体が「戦争」状態にある時には「生き残ること」が最も難しいことになります。政治家は国民一人一人の命を守ってくれる「スーパーマン」ではないわけで、むしろ国民の命より国としてのメンツや政治家個人の地位・権力を優先居ます。
そんな中で優雅にコンサートを開けるはずもありません。
 経済活動が息詰まれば、戦争中と同じように自分と自分の家族が「生き残る」ことを第一に考えるのは当たり前のことです。この位の事なら音画家でも理解できるはずです。

 音楽家は「自分の考え」を大切する職種です。他人の考えに口を挟まないことも「素敵な音楽」として評価されます。だからなのか?音楽家の多くは政治に対して声を挙げたがりません。もちろん、声を出すと生活できなくなる人も音楽家の中には多くいます。「サラリーマン」あるいは「仕事を受ける立場」で、雇い主やクライアントに「たてつく」声を挙げられないのが現実です。

 音楽を演奏することは「自由」を象徴する行為だと思っています。これも極端な例ですが、戦争になり強制的に軍隊に徴兵され「軍歌」を演奏しなければ銃殺される状たちなら心を無にして演奏して生き延びることも必要です。
その軍歌演奏に「自由」はありません。
 戦争でなくても、生活することがやっと…という社会の中で、音楽家が演奏して生き残れると思う人がいるでしょうか?すでに日本はその状態になりつつあります。
ほんの一部の富裕層だけが贅沢な暮らしをし、ほとんどの国民は5円でも安い食パンを買うために遠くまで買いに行く生活をするのが「今の日本」です。見栄を張って「私は普通に生活している」と思いたがるのも日本人の国民性です。私たちが幼い頃「ウサギ小屋」と海外から笑われる小さな団地でも、幸せに暮らしていたのも「国民性」の現れです。そこから成長し続けていた日本で私たちの世代は育ちました。ところが、30才を超えた頃から一気に日本は衰退し始めました。それが30年間、今も続いています。
「いつかよくなる」「誰のせいでもない」「我慢できる」
そんなお人よしばかりの日本人。
 音楽家が生きていける日本は、何も声を挙げなければぜったに戻ってきません。
 私たちは知っているはずです。一人dd出来ないことがオーケストラならできることを。アンサンブルは誰かと一緒に行動することだということを。他人に任せて自分の音楽が良くならないことも知っているはずです。

 政治が腐敗する原因はただ一つです。
国民が政治に無関心になった時です。まさに今の日本がそれです。「野党がだめだ」「投票しても無駄だ」「どうせ変わらない」それこそが自滅行為だということを知るべきです。世界で今、一番「沈んでいる国」が日本だと知っていますか?
 自分の自由を守るために、自由を奪う政治家を「選挙で落選させる」ことができるのは、私達だけです。
社会主義?共産主義?違います!
音楽を演奏できる主義です

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供の成長と音楽の関り

今回のテーマは私自身の経験をベースに考えるものなので「正論」とは言えないものです。その点を踏まえてお読みください。

 一言で「こども」と言っても幼児期もあれば思春期も「こども」です。一人一人、環境も違い体力、能力、個性も違います。
他人と比較してしまうのが、人間の「つまらない知恵」です。「他人と協調する」こととと混同する人が多いのも事実です。

幼児期は特に「成長速度の違い」が大きく表れます。また、同じ家族でも兄弟姉妹がそれぞれに異なった能力、性格を持っています。
ましてや、違う環境で育った幼児が同じような能力を持つことはあり得ないことです。
「できる・できない」や「はやい・おそい」で子供の成長を比較するのはあまりにも安直で、なんの意味もありません。
歩くこと、走ること、読み書き、計算など幼児期に「出来るようになる」事は誰にとtっても「通り道」かも知れません。ただ、それが遅いとか、どれかが出来ないという事で「劣っている」と考えることが間違いなのです。人間の「乳児」は誰かの手を借りなければ成長できない弱い生き物です。ハ虫類の生き物や昆虫のような生きものよりも「生存力が弱い」とも言えます。
 幼児期に大切なことは大人が「保護すること」と「知的な刺激を与えること」です。
その中に「音楽」と言うひとつの「刺激」もあります。音を感じることのできる子供であれば「人の声」を他の「音」と聞きわける本能を持っています。そして「音」と「音楽」の違いを感じるのも「知性」を持つ人間の子供ならではです。
 音楽を「演奏する」ことの面白さを意識できるようになるのは、言葉を発することで自分の意思を誰かに伝えることの「面白さ」を実感できる時期です。それより前の乳児では、痛みや空腹、不快感を感じて「泣く」ことと、快感を感じて「笑う」ことしかできません。音が連続して聴こえる「音楽」も恐らく感情を査収することはないようです。

 歌を歌う。音楽にあわせて動く(踊る)。この行為にも個人差があります。環境でも変わります。歌を歌う「環境」が多ければ歌うことが好きになる可能性も増えます。音楽に合わせて動いたり踊ったりすることも同じです。その環境を作れるのは、子供の周りにいる大人です。
 楽器で音を出し、音楽を演奏する「能力」は、幼児が言葉を理解し記憶する時期に最も効果的に「学習」できます。当然のこととして「個人差」があります。言葉を理解することも、文字を読んだり書いたりすること個人差がるように、音楽の学習能力にも個人差があります。

 この幼児期の「学習経験」はその後の段階「思春期」にも関わります。自我に目覚め、他人と自分を比較することを覚えます。「どうすれば他人に勝てるか」を考えるようになります。そのための「努力」が必要なことも理解するようになります。自分を高めること=自分の弱さを認めることができるようになるころに、やっと思春期が終わり「成人期」に入ります。
 中学生・高校生の頃を「思春期」だけだと思っている人もいますが、人によってはすでに「大人」の意識を持てる子供もいます。
言うまでもなく、自分を観察することが一番難しいことです。
「勉強ができない=成績が悪いから、塾に通う」子供を見ると、その向こうに親の考えが透けて見えます。塾に通えば学校の成績が良くなるでしょうか?そもそも、学校の成績が悪い原因を考えればわかることです。
学校に行くことが「嫌」な子供もたくさんいます。理由も様々あります。友達が嫌いだったり、先生が嫌いだったりと「嫌な場所」であれば、行きたくないのは自然なことです。理由も確かめず「とにかく学校へ」と言うのは子供の生命にさえ危険を及ぼします。
 学校で勉強しなくても勉強はできます。むしろ、学校以外で勉強したほうが「学習」できる子供もたくさんいます。塾に行けば成績があがると思うのは「迷信」です(笑)
 楽器の演奏技術を「楽しみながら高める」体験をした子供は、どうすれば勉学の成績を上げられるかを「無意識に」学びます。
 ただ楽器で音を出すだけでは曲を演奏できないことを「体験」します。さらに、考えて練習すれば上達することを「体験」します。まさに勉強法と同じです。

 演奏能力を高めたいと言う「意欲」を、他に転用することは簡単です。意欲がなければ上達や向上することは不可能です。
 意欲があっても「成功体験」がなければ、欲を実現=具現化することは不可能です。
 曲を間違えずに演奏できるようになる「練習」を積み重ねた経験が「成功体験」なのです。しかも音楽には「100点」はなく「終点」もありません。だから常に上を目指せるのです。テストで100点を取れば、どんな子供でも喜びます。ただ、その後も100点を取り続けることは「重荷・ストレス」になります。

 大人は自分の経験で子供を育てたがります。自らの成功体験と失敗体験を、子供にも当てはめたがります。そういう私自身もその一人です。だからこそ「子どもの個人差」をまず第一に優先することが重要です。たとえ自分の子供であっても、自分とは違うのです。一人の子供に当てはまったから、違う子供にも当てはまるとは限らないのです。自分の子供を育てるのは、すべての親にとって「初めての体験」なのです。だからこそ、自分の子供にだけは、他の子供とは違った「欲」を持つのです。

 子供の能力を信じることだけが、親の務めだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

あなただけの楽譜を作ります

 映像はアザラシヴィリのノクターンをヴィオラとピアノで演奏したものです。
 個人で演奏を楽しむ人たちにとって、楽譜の入手はとても難しいものです。自分の技術で演奏できるのか?と言う疑問があったり、YOUTUBEで視聴して「いいなぁ」と思っても楽譜が手に入らなかったり。
私たちも実際に演奏する楽譜を探すために多くの労力を使います。
 自分で演奏するための「楽譜」を自分で作りたくても、聴音の技術がなければ楽譜には出来ません。演奏しやすい楽譜を手書きで書くのはもっと難しいことです。
 そんな方のお力に慣れれば…と思います。
あくまでも「あなた自身が演奏して楽しむ」だけの楽譜です。自分で楽譜を書く代行をするだけですが、お役に立てるでしょうか?
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