好きな曲・好きな演奏

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 動画は、みなとみらい大ホールでの「アルビノーニ作曲 アダージョ」です。
1985年から教員になり、新設校にオーケストラを0から作り、開校6年目で初めて「定期演奏会」を大講堂で開いてから、学校近隣のさびれた公会堂での演奏会を学校に認めさせるために「闘争」。その後、川崎市宮前区の「宮前文化ホール」に会場を移し、さらに当時の「グリーンホール相模大野大ホール」に。そこでもお客様を収容できない。ステージに乗り切れず、生徒が転落ちたら学校は責任をとれるのか!と学校と「闘争」し、最終地点「みなとみらい大ホール」に到達して3回目の演奏会でした。前置き、長くてすみません。
 私の好きなホールをひとつだけ、と言われたら迷わずにこのホールを挙げます。響きの暖かさ、残響時間とその切れ方、舞台裏の広さ、楽屋の数、なによりもパイプオルガンの音色。すべてが私の好みです。収容人数2020人を満席にすることが開催の条件でした。全席無料、全席指定、事前予約で2020枚の予約券はすべてなくなりました。部員の家族だけではなく、一般の聴衆も多かった演奏会でした。
 その大ホールで退職するまでに、4回指揮台に立ちました。毎回、様々な曲を演奏していました。チャイコフスキーの第4番、第5番、第6番(もちろん単一楽章だけです)、シヘラザード、レ・ミゼラブルなどなど。そんな中でも、このアルビノーニのアダージョは私の好きな曲「トップ3」の一つでした。強いて言えば「1番好きな曲」です。

 高校2年生のヴァイオリンソロ、オルガンは中学を卒業し高校で桐朋の作曲科に進学していた元教え子高校2年生。演奏は「危なっかしい」ものです。傷もあります。この演奏に「ケチ」を付けるのは簡単ですが、私には「最高の演奏」に感じます。自分が好きなように音楽を作り、子供たちに「言葉」と「動き」でそれを伝えた、音楽の揺れと流れ。途中、前のめりになりすぎて、危うく指揮譜面台ごと前に倒れそうになってます(笑)なにが?どう?好きなのかを言語化するのはやめます。「やめるんかい!」と突っ込まれそうですが、実際書いても理解していただけるとも思いませんし、人それぞれ感じ方が違うのが当たり前です。

 旋律と和声。歌曲であればそこに詩が加わる音楽。
広い意味で音楽は、和声を持たなくても音楽だと思いますし、現代音楽の中でバッハやベートーヴェン時代の音楽の「和声感」とは異なる音楽も「音楽」です。
ただ、多くの人にとっての音楽と、音楽の専門家にとっての音楽が「乖離」している気がしてなりません。

 たとえば、知らない国の言語を聴いても、意味が分からないのは当然ですよね。意味が分からなくても、ゼスチャーや表情で伝わることも少しはありますが、「声」だけで伝えられるものは何もありません。
 音楽はどうでしょうか?何を伝えているのでしょうか?
絵画にも色々あります。風景、人物、抽象画など。そこに描かれているものが「なに?」なのか理解できない絵画もあります。それを「美しい」と感じる感性。理解できない人には、ただの落書きに見える作品もありますよね。
 クラシック音楽を学んだ人たちにとって(私も含め)、クラシック音楽は「聴きなれた音楽」です。作曲された時代、当時の文化や作曲者の人物像などを「学んだ」上で演奏したり聴いたりします。
 音楽は学ぶものなのでしょうか?学ばなければ、楽しめないものなのでしょうか?学べば楽しいものなのでしょうか?

 自分の好きな音、好きな曲、好きな演奏。
学ぶ必要は無いと思います。偶然に巡り合うものだと思います。探すこともありますが、「好きなものを探す」ことは、本来は不要なことです。
生きている時間に、耳に入ってきた音楽の中で「好きになる」のが自然な出会いだと思います。
 音楽に限らず、「つくる・提供する」人と「使う・受け取る」人がいます。
演奏することは、作る側。音楽を聴くのは受け取る側です。
作る側は、使う人の「喜び」のために作るのが本来の姿です。
使われない、喜ばれないものを作るのは、作る人間の「自己満足」でしかありません。
アマチュア演奏家の音楽は「自己満足」で十分なのです。なぜなら自分が楽しめればそれで良いからです。
人に喜んでもらうための演奏をして、対価としてお金を受け取る「作り手=演奏家」は、自分よりも聴いてくれる人の「喜び」のために試行錯誤と努力を重ねるべきです。自己満足で終わるのであれば、対価求めるのは「図々しい」と思います。聴いてくれる人の中に、その演奏・音楽を「好き」になってくれる人が、一人でもいてくれることを願うことを演奏する側は忘れてはいけないはずです。
 好きな演奏を演奏者自身が探します。そのひとつの「作品」が、上の動画です。
 聴いている人に伝えられるのは、演奏者自身が自分の演奏する音楽が「本当に好きなんだ」と思うことだけかもしれません。そこから先は、聴く人の感性なのです。「いい曲ですよね」「いい演奏ですよね」と、他人に自分の感性を押し売りするのは「無理」だし「うっとおしい」だけなのです。聴いてくれた人が「つまらない」「へたくそ」と感じるのは仕方のないことです。当たり前のことです。その人が悪いのではありません。感性が低いのでもありません。ただ、自分の感性と違うだけなのです。
 自分の演奏を喜んでくれる人に出会うために、コンサートを開きます。
聴く側は、自分の好きな演奏に出会える期待を持っています。
演奏する人間と聞く側の「好き」が一致する瞬間が「音楽」の本質だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

おまけの映像。みなとみらいでの最後の演奏会より、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」より第3楽章です。


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