音楽を「習う」「教える」ことの意味

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 上の演奏は、今は亡き恩師「久保田良作先生」の門下生(中学生以上)と桐朋学園大学のチェリストとコントラバス奏者が加わっての「夏合宿」最終日におこなわれる「どるちえ合奏団」のコンサートです。1978年夏の軽井沢、合宿地でもあった清山プリンスホテルになるガラス張りのホール。時々、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下や浩宮殿下(現天皇陛下)が私服で聴きにいらしていたと言う夏のイベントでした。
 合宿前に東京で、主に中学生の生徒たちを集めての合奏練習も行われていました。門下生は中学生になるとこの合宿に参加することができます。高校生になると時にはヴィオラを演奏しながら参加。大学1年生まで暗黙の「必修(笑)」参加でした。お手伝いのチェロ、コントラバスにはそうそうたるメンバーが顔をそろえておられました。私の記憶しているだけでも、北本さん、秋津さん、桜庭さん、小川さん、山村さん、同期の金木君。コントラバスに大友直人さんや北本さんも来ておられました。豪華すぎ(笑)
 この弦セレはこの年のプログラムで最後の曲でした。アンコールにはいつも「夏の思い出」を演奏。前半のプログラムには中学生の初々しい「アイネク」や「ディベルティメント」。私が初めて参加した年には、ロッシーニの弦楽のためのソナタ(GDur)を演奏会の才女に演奏しました。合宿が清山プリンって(笑)あり得ない「セレブ」なお話で、当時10万円近い合宿費になってしまいこの数年後に、北軽井沢の「農園ホテル」に(笑)そこから先生がお亡くなりになる前まで、箱根仙石原のホテルへと変わっていきました。私が撮影のお手伝いで最後に「合宿」にお邪魔したときの映像があります。1985年8月20日の映像です。

 加藤知子さんも元は久保田良作先生の門下生でした。私の3学年大先輩。
さて、本題は「音楽を習う・教える」と言うテーマです。
今更私が言うまでもなく、久保田良作先生は数えきれないほどのヴァイオリニストを世界に送り出された指導者である前に、日本のトップヴァイオリニストでいらっしゃいました。毎年、上野文化会館での「ジュピタートリオ」での演奏は私にとってどんな演奏会より刺激的でした。さらに、桐朋学園大学音楽学部で弦楽器主任教授、学部長も務められると言う激務をこなしながら小学生の子供たちも数多くレッスンされておられました。

 そもそも、音楽は「教えられる」ものでしょうか?演奏技術の「一部」は教えられるものだと思います。それは表面的なもので、内容も限られています。
 「師匠・弟子」の菅駅は、親子以上の信頼関係があって初めて成立するものだと私は考えています。「先生と生徒」とはまったく異次元の関係です。師匠を心から信じることが自然にできなければ、得られるものは表面的なもの…それも怪しいと思います。「そうかな?本当かな?違う気がする」と思いながらレッスンを受けて、何か意味があるでしょうか?もちろん、師匠も人間です。神でも仏でもありません。間違いはあるはずです。その間違いを含めて、どこまで師匠の言葉を信じられるか?だと思います。

 話が「ぶっ飛び」升が(笑)、仏教の教えを説いた「釈迦」が、悟りを開き「弟子」たちにそれを解こうとしたとき、あまりに悟りが深く、当時の人間には理解不能だったことから多くの出来が「間違った解釈」をして現在、数多くの仏教が存在していると言う話があります。つまり現在の仏教は、すべて「釈迦の教え」のはずなのですが、それぞれ異なった「教え」を伝える人が生まれているという事です。

 音楽も本来、教える人の「悟り」まで行かなくても「信念」「理論」があります。それを「弟子」に伝えることは、可能なのでしょうか?理論を言語化することも、演奏家が自分の演奏をするだけならば、全く不要なことです。そんな時間があったら練習して演奏したい!と思う演奏家の気持ちも「そりゃそうだよね」(笑)
 それでも!自分が十て来た道と、師匠が伝えてくださった「であろう」理論や技術を次の世代に伝えようとする「指導者」がいます。
 指導者がいても「弟子」がいなければ?話は進みません(笑)「習いたい」と思っても弟子に慣れないケースもある一方で、弟子になる人の「絶対数」が減っている気がします。音楽大学で「習う」学生にも、先述の「先生と生徒(学生)」の信頼関係を超えられない人が増えている気がするのは老婆心でしょうか?レッスンを受ければ「うまくなる」と思う学生。うまくなる「秘訣」を直接聞きだそうとする学生。なにか間違っている気がします。
 指導する人も生活があります。生きていくために生徒・学生を選べないと言う現実t問題があります。少子化と不景気は国民の責任ではありません。「国家」の罪です。そのために、音楽科を目指す人が激減し、ますます指導者の存在すら危うくなっています。
 どんなに優れた指導者だっとしても、習いたいと思える「環境」がなければ習えないのが現代社会の定めです。「理想」と「現実」が日々乖離していきます。
このまま後、10年もしたら日本には「指導者」がいなくなる日が来ます。日本から音楽を学ぶ環境が消えることになります。悲しいことです。
 せめて「先生」が「師匠」に変化=深化することを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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