音楽の標題やストーリーより大切な「聴く人の想像力」

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 映像は、ドビュッシーの「美しい夕暮れ」と言う歌曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。歌ですから「言葉=詩」があります。詩を読んだ作曲家が「音楽」を付けた作品です。歌を聴いて歌っている言葉のわかる人なら、歌っている内容が同時に伝わります。一方で歌っている歌詞がわからない場合は、「詩」ではなく「声」として感じます。当たり前です。それでも「楽しめる」のは、聴く人の「自由な想像力」で音楽を楽しんでいるからです。
 作曲家の感じた「詩」の印象と違って当たり前だと思います。
歌詞があろうとなかろうと、聴く人の「想像力」があるから楽しいのではないでしょうか?

 言葉を含まない音楽を聴いて「ストーリー」を感じるものでしょうか?
予備知識として、作曲家のイメージしたストーリーを知っていたとしても、聴く人が同じストーリーが感じられるものでしょうか?演奏する人が感じるストーリー性は、演奏者によって違って当然です。その演奏を聴いた人が、さらに違ったストーリー性を感じても感じなくても、それが自然だと思うのです。
 感じる人が「感受性が高い」とは限りません。むしろ「予備知識」に無意識に引っ張られているケースもあるのではないでしょうか?
歌詞の無い「音楽」が多いクラシックです。音楽の標題も、作曲者本人がつけた曲と、のちに誰かが標題をつけた場合があります。標題を見て先入観で音楽をイメージする場合もあります。その標題が作曲者のつけたものではない場合、本来は「曲名」がなくても良いはずで、むしろ私は「有害」だとさえ思います。

 ジャズにしてもクラシックにしても、あるいは映画音楽などにしても「聞く人の想像力」が一番大切だと思っています。特に、クラシックの音楽をあまり聞かない人たちに「クラシックの音楽とは!」と言う「余計なおせっかい」こそが音楽の純粋な楽しみ方を阻害していると思っています。
クラシック「マニア」が自分の感じるものや「ストーリー」を言葉にするのは自由です。その人の感じ方なのですから。ただそれを、まだクラシック音楽を楽しめていない人たち・子供たちに「これが正しいクラシックの楽しみ方・学び方」だと思わせてしまうのは、間違っていると思います。それこそが「クラシック嫌い」を創っていると思います。頭でっかちな「予備知識」で音楽を聴くよりも、聴く人の「真っ白なキャンバス=先入観のない状態」で音楽を聴いて想像する方が何倍も大切だと思っています。
音楽は特定の「物・人・事」を表わさない芸術です。
演奏する人、聴く人の勝手な想像こそが、音楽の楽しみ方ではないでしょうか?
「好きなように感じる」ことを優先すれば、もっと音楽を聴く人・楽しむ人が増えると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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