年齢と演奏

 映像は五嶋みどりさんのデビュー当時と今から数年前のものです。
「天才少女」は現在、なんと?評すれば良いのでしょうね。
今も幼いころも素晴らしいい演奏課であることは変わりません。

こちらは、イツァーク・パールマン。現在御年76歳の世界的ヴァイオリニストです。私が中学生の頃に、東京上の文化会館で初めて演奏を聴き、出待ちをしてサインと握手をしていただいた「憧れ」の演奏家。今、思えば当時まだ20代だったことになります。

 人間の理性=考える力は、13~14歳で成人と同じ能力を持つそうです。
一方肉体は、20~22歳頃がピークだと言われています。人間の細胞が再生できる限界があって、120歳までが生存できる限界だと言われています。日本人の平均寿命は年々長くなり、2019年現在84.36歳!アメリカが78.79歳だそうです。
そんな人類ですが、もちろん人によって一生の時間は違います。健康に活動できる年数も違います。一概に平均だけでは、人の一生を語れないのは当たり前です。

 演奏家として活動できる期間は、人によって大きな差があります。
たとえば2歳から楽器を演奏し始めた人と、20歳から始めた人を比較すれば、それぞれが21歳の時点で考えた時、方や19年間、方や1年間。その演奏技術に違いがあって当たり前です。しかし、その二人が40歳になった時点で考えるとどうでしょうか?もちろん2倍近い期間の違いがあります。ただ、当初は19倍だった差が2倍にに減ったことになります。それだけではありません。良く「小さい頃から楽始めないと上手になれない」という間違った説を唱える人がいます。絶対音感を身に着けるための年齢は、確かに言葉を覚える時期から始めることが絶対に有利だとは思います。しかしそれ以外の「能力」については、始める年齢の問題は大きな差ではないと思います。

 10歳に満たない子供が、大人と同じような演奏をするのを見かけます。
とても不自然に感じます。まず、考える力が成人と比較して、まだ未成熟な年齢です。楽譜を読む能力、分析する能力に差があるのが当たり前です。
記憶する力は成人と変わらないかも知れません。モーツァルトの「伝説」のように音楽を聴いて覚える力はこどもにもあります。音楽を聴いて感じる感情を、具現化する能力が大人と同じであるはずがないと思うのです。景色を見て感想文を書いたとしたら、7歳の子供が大人と同じような文章を書くでしょうか?
 運動能力はどうでしょうか?
筋力は20歳頃がピークになりますが、楽器の演奏に必要な筋力は恐らく10歳に満たない子供でも「演奏可能」だと思います。特にピアノを演奏する幼児を見ると、大人と同じ大きさ、重さの鍵盤を演奏する力に「近い」力に驚きます。
身体の大きさに合わせた「分数楽器」があるのは、ヴァイオリンとチェロです。それ以外の楽器は子供用の楽器は普通、使用されません。分数楽器の音量はフルサイズの楽器より小さい音になります。だから、コンクールなどで半ば無理やり、1サイズ大きい楽器を演奏する子供を見かけます。それって、必要なことでしょうか?間違った指導だと私は思います。
 幼児が大人のような演奏する「裏」には、大人の指導者が大人の「真似」をさせている姿が透けて見えます。子供が自分で考えた音楽ではなく、指導者が考えた音楽を「そのまま」演奏させているとしか思えません。
子供ならではの感受性があります。大人とは違います。当たり前です。子供が感想文で、音難が書いたような言葉遣い、表現をしたらすぐに「親が書いたな」とばれますよね?それを平然と音楽で子供にやらせる世界に、違和感を感じます。

 20歳を過ぎた私たち(過ぎたと言えるのか?w)は、どうでしょうか?
細胞は生まれ変わります。現実に80代になっても世界の山を登る登山家や、筋骨隆々な高齢者ボディビルダーもおられます。何よりも、演奏に必要な筋力は、10歳に満たない子供の筋力でも足りることを考えれば、60代の人間が「もうだめだ」と言うのは、まさに自虐です。パールマンしかり、ロストロポーヴィチしかり。演奏に必要な技術も、考える力もまだまだ現役だと思います。
さらに言えば「経験」は年齢を重ねた分だけ大きくなります。
演奏を聴く人の年齢に制限はありません。その人たちが感じることは、その人の経験から得た「記憶」に基づいています。20代より40代、60代、70代の方が人生の経験は豊かなのです。自分が毎日経験する小さな出来事が、すべて音楽に活かされているはずなのです。経験は人に伝えても「言葉」にしかなりません。ただ、音楽を演奏する時に感じる「イメージ」は一つでも多い方が良いはずです。
聴く人に伝わる演奏者の「人間性」があります。子供の演奏に人間性を感じるとしたら「かわいい」「がんばって練習したんだな」しかないはずです。子供の演奏が大人の感情を揺さぶったら、恐ろしいですよね?

 最後に、楽器の演奏に「もうだめだ」と言う考えは捨てるべきだと思うのです。聴力の低下で自分の音が正確なのか?判断が鈍ったとしても、演奏は出来るはずです。眼が見えなくなっても演奏は出来ます。私はそう信じています。
大人から楽器を演奏し始めたから「上手になれない」と決めつけるのは間違いです。たとえ、余命を宣告されたとしても本当に楽器を演奏することが好きなら、最後まで楽器を演奏することが楽しいはずなのです。
 子供に大人の真似をした演奏はさせて欲しくありません。曲がどんなものであっても、子供が演奏したいようにひかせてあげれば良いと思うのです。「そんな演奏では○○音楽学校に入学できませんよ!」とか「△△コンクールで上位に入りたいなら!」という「えさ」と「脅し」で子供を釣るのはやめて欲しいのです。親が最初に釣られます。そして子供をけしかけます。「子供の将来のために」と言うのは、子供の人権を侵害している事だと気づくべきです。子供にこそ、子供の時にしかできない経験をさせてあげることの方が、演奏家として活動する年齢になったとき、そして60代になって師匠も親もいなくなった時に感謝される大切な宝物だと思います。「ビジュアル系ヴァイオリニスト」なら演奏能力には関係ありません。顔とスタイルが良ければ「一時的」にファンが増えます。もっと若くてかわいい・かっこいい人が現れたら「さようなら」ですが。それを「演奏家」と呼ぶのは彼らに失礼です。「芸能人」と呼んであげるべきです。それを望んで仕事をしておられるのですから。彼ら・彼女らの演奏技術がどうのこうの、言う方が無粋だとも思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

人格と権威の違い

 映像は斎藤秀雄「先生」の動画です。
あえて「先生」とさせて頂いたのは、私自身が直接お会いしたことがなく、指導を受けたこともない偉大な音楽家であり、自分が学んだ「桐朋」という音楽学校の創設者でもある人物なので、敬意を込めて「先生」とお書きしました。
 直接指導を受けていない私が語れることは、学校と言う勉強の場で学びそこから巣立ち、自らすそ野で音楽を広げる活動の一端を担う仕事をする立場からの感謝と自戒の内容です。

 音楽家としての人格は、後世に残したもので評価されると思います。
当人の存命中に評価される言葉の中には、よいしょもあれば嫉妬もあります。
生きている間にどれだけの音楽を演奏したか?が演奏家の評価だとすれば、それはそれで受け入れます。ただ、音楽はその場で消える芸術です。聴いた人だけに伝わるのが音楽です。どんなに世界中で演奏したとしても、実際に聞くことのできる人の数は限られています。
 音楽が伝承の芸術であることは、以前のブログでも書きました。自分だけの力で音楽を演奏している勘違い。音楽を伝承するという役割が、音楽家だと思います。

 一方で「権威」は、人格とは別のものです。
1 他の者を服従させる威力。
2 ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー。
 ご存じの方も多いと思いますが、山崎豊子さんの原作「白い巨塔」という作品があります。医師に求められるものとは?という壮大なテーマを描いた長編ドラマになっています。
 権威を「名誉」と思う人がいます。他人から褒められ、崇められ、多くの人が自分の周りに集まることが「快感」になり、それを「権威」と思うのでしょう。
現代のクラシック音楽界で「権威」を持つ人、正確に言えば「権威者と呼ばれている人」が何人か「いらっしゃい」ます。敬語を使ったのは、多少の嫌味です。
私は権威と言うものが嫌いな人間です。確かに、狭い世界~業界の中で特出した能力や技術を持った人はいるものです。その人の努力と労力には心から敬意を持っています。それは、私自身の「気持ち」でしかなく、本人にも他人にも伝える必要のないことだと思います。「尊敬する」のは個人の感情なのです。
 マスコミや「お取り巻き」が、よいしょする人=される人に、まともな人がいないように思うのは、天邪鬼かもしれません。やっかみもあります。
 正当な評価は、後世にされるものだと思っています。権威が「お金」と無関係ではないことも事実です。学校を立ち上げるのに「お金」がかかります。それを成し遂げた斎藤秀雄という「権威者」がいなければ、私たち卒業生は今の生活を出来なかったのです。まさに形として残された「学校」が人を育て、音楽を伝承する後継者を輩出したのです。

 音楽家が名誉を求めるのか?後世に形として残せる学校や組織を作るお金を集めるべきなのか?名誉とお金は、リンクするものでしょうか?
お金は生きている間に人からもらうものです。名誉は生きていなくても受けられる形のない「評価」です。権威者として、他の音楽を従えることは伝承にはなりません。人格者として尊敬される人とは違うのです。
 敢えて名前を出すことは控えますが、先輩音楽家や友人の中には、前述の「権威者」として君臨する人もいます。個人的に存じ上げている人もいます。
その人たちが次世代の音楽家たちに何を残すのでしょうか?
先人の作った「学校」でふんぞり返る「先生」を気取る人。
自分の恩師を「看板」に使う人。
自分のお気に入りの音楽家だけを「侍らせる=はべらせる」人。
私を含め、60代を過ぎた音楽家が出来ることは、若い音楽家が出来ることとは、量も内容も違います。遅きに失したとも思いますが、若い間に出来ることを「伝える」ことができるのは、私たち世代ではないでしょうか?そして、若い世代がさらに次世代の音楽家に延焼する「環境」を残すことも私たちの役割ではないでしょうかか?演奏家として生涯を終える人も尊敬しますが、それだけでは、音楽は伝承されません。誰かが権威や名誉にとらわれず、「学ぶ場」を作ることが必要だと信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の幅と演奏能力

 上の動画は「ステファン・グラッペリ」さんの素敵なJAZZヴァイオリン演奏です。聴いていて、体に降り注ぐようなヴァイオリンの軽やかで、甘い音色が大好きです。
 今回のテーマである「音楽の幅」は、音楽のジャンルだけではなく、演奏する楽器の編成、演奏方法などの「種類」でもあります。
 ヴァイオリンを使って演奏する音楽にも、様々な音楽があります。
クラシック音楽と呼ばれる音楽でも「オーケストラ」「弦楽アンサンブル」「ピアノとの二重奏」「無伴奏」他にも色々な演奏形態があります。
音楽の種類にしても、バロック時代の音楽でのヴァイオリン、ベートーヴェンやブラームスの時代の音楽、現代作曲家の作品でもヴァイオリンは使用されます。
 オリジナル作品がオーケストラのための音楽でも、ピアノとヴァイオリンで演奏できるように「アレンジ」された音楽もあります。
動画のようなヴァイオリン演奏も、その一つです。
私は音楽の学校で「クラシック音楽のヴァイオリン演奏」を学びました。
だからと言って、クラシックと呼ばれる音楽の「すべて」を学んだわけでも演奏できるわけでもありません。学校で学べるのはほんの数年間。その間に学べる音楽の幅は、ごく限られた範囲の音楽です。

 時代と共に音楽の幅は広がります。音楽の「基礎」にあたる和声や形式は変わっていない面もあります。一番大きく変化しているのが、人間の手によらない「機会による音楽演奏」です。もはや「楽器」と「電子機器」の差が混然としてしまいました。コンピューターにデータを入力すれば、どんな音色の音も、どんな高さの音も、どんんなに短い音でも、間違えずに何度でも演奏するのが「電子楽器」です。それを「楽器ではない」と言い切るのであれば、ピアノと言う楽器でさえ、ピアノが出来る以前の人たちからすれば「それは楽器ではない」と言われるのと同じことです。エレクトーンという楽器はヤマハの作る「電子楽器」です。突き詰めればコンピューターも楽器なのです。

 ヴァイオリンを人間が演奏する楽器と限定してみます。
ヴァイオリンの音は人間が演奏する音だと定義してみます。
ヴァイオリンで演奏できる音楽に、向き・不向きがあると思います。
音楽の要素の中で「旋律」だけを演奏する場合、ほとんどの曲はヴァイオリンで演奏できます。演奏できても、ヴァイオリンの持つ特性を活かせない曲。

動画での演奏内容について、コメントするつもりはありません。
生徒さんが「次にやってみたい曲」として教えてくれた動画です。
その生徒さんが小学校の運動会で踊った曲らしく、「知っている曲をヴァイオリンで弾いている動画を見つけたから」という理由です。
 もし、クラシック音楽だけを教える先生であれば当然「却下」するケースです。「もっと他の曲を練習しなさい」と言うのでしょうね。
 趣味でヴァイオリンを演奏する人にとって、あるいはクラシック音楽になじみのない人にとって、この曲がヴァイオリンの為に作曲された音楽ではないと、気付くでしょうか?最初の動画、グラッペリの演奏はクラシック音楽ではありませんが、演奏技術も内容も素敵だと私は思います。
 実際問題、この「群青」なる曲をヴァイオリンで演奏して本人が楽しいと感じるのであれば、、思うように演奏できるようにレッスンしてあげるのが私の仕事です。クラシックではないから、ヴァイオリンのための曲ではないからという理由で「ダメ」というのは理由としてあまりに説得力に欠けると思います。

この動画は、メリーオーケストラ定期演奏会に、教員時代に顧問をしていた軽音楽同好会のメンバー「JIRO」くんがギターでゲスト出演しくれた時の演奏です。
ドラムセットとエレキギターの「サウンド」と弦楽器の音色。会場で聴くと感動モノでした。

こちらは「ガブリエルのオーボエ」という映画のテーマ曲です。
当然、オーボエで演奏するために作曲された音楽です。
それをヴィオラで演奏したのが上の動画です。下の動画はメリーオーケストラ定期演奏会にオーボエ奏者「沖響子」さんをお招きしての演奏。
メリーオーケストラの演奏技術には目をつぶってください(笑)
作曲科の「意図」した音楽とは違うかもしれませんが、初めて聴いた人にとって違和感のない演奏なのか、なんとなく変な感じがする演奏なのか?演奏技術もさることながら、旋律の「向き・不向き」はあるのかも知れません。

 最後に、演奏者がコンサートで、自分の好きな音楽「だけ」演奏する場合、お客様がそのコンサートで満足できるのか?ということも考慮するべきです。
予め当日の演奏曲をすべて、あるいは大部分公開して開催するのであれば、そのコンサートに来る人は「その曲」を楽しみに来る人でしょう。それが出来るのは「すでに誰かが演奏した音楽」だからです。もし、新作の音楽で初演だとしたら?プログラムを公開しても誰も知らない音楽ですよね?
 プログラムを公開していなくても、お客様が「どんな曲を聴けるのかな?」と期待しながら会場に向かうのも楽しいと思うのです。期待を裏切られることもあるかも知れません。でも、初めて見る映画のストーリーを知っていたら、面白さは半減しますよね(笑)
 一人でも多くのお客様が、一曲でも楽しんでもらえるプログラム=音楽の幅で、私はコンサートを企画しています。クラシック音楽が好きな人もいれば、ジャズが好きな人もいます。映画音楽が好きな人もいます。それらを、リサイタルならヴァイオリンとピアノ、もしくはヴィオラとピアノで演奏します。オーケストラでも同じです。
 「お子様ランチ」のようなプログラムかもしれません。ただ、美味しいお子様ランチは、懐石料理と同じだと思います。少しずつ、好きなものを聴ける=食べられるのも楽しいと思えるからです。
音楽に幅がある以上、演奏する私たちもその幅を知ることが必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指導者と演奏家

 動画はファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした曲です。
今回のテーマは、一般の人から見える指導者とプロの演奏家との共通点・相違点と、実際に両者を経験した立場での両面から考えてみたいと思います。

 楽器の演奏技術を教えて対価を受け取る人を指導者とします。
楽器を人前で演奏し対価を受け取る人を「演奏家」としてみます。
もっと広い定義も可能ですが、音楽の専門家でない人の目線で今回の定義を決めています。
 ・指導者がいなければ演奏家は生まれないのか?
多くの場合は指導者によって演奏家が育てられますが、必ずしも誰かから指導を受けなくても演奏家になることは可能です。
 ・指導者はプロの演奏家を育てることが使命なのか?
これも結論から言えば「そうとは限らない」と思います。
音楽大学に通う学生でさえ、プロの演奏家を目指していない人がいるのは事実です。ましてや、専門家を目出していないアマチュア演奏家にこそ、指導者が必要に思っています。
 ・優れた演奏家は優れた指導者か?
応えは「いいえ」だと思います。もちろん、優れた演奏家であり優れた指導者もたくさんいます。ですがこれも、イコールの関係ではありません。そもそも、人に教えることが好きではない演奏家も多くいます。実際、教える時間がない演奏家もいます。
 ・指導者は演奏家でなくても良いのか?
演奏のできない人が演奏を指導するのは「無理」です。
今回は、演奏家の定義を「対価をもらって演奏する演奏家」としていますので、演奏家としての演奏技術があれば、指導することは可能です。
演奏技術の低い指導者もいます。自戒を込めて書きますが、指導者自身が自らの演奏技術を高める意欲、努力をしていない人であったり、「○○音大卒業」とか「△△音楽祭に参加」などの肩書にうぬぼれる指導者が、生徒を教えられるとは思いません。
 ・指導者は演奏家より「下」なのか?
おおざっぱな言い方をしましたが、様々な意味があります。
たとえば「年収」「社会的信頼」だけで比較することもできます。
また音楽家としての「プライド」は本人が考えるもので違ってきます。
 日本において、演奏家として生計を立てられる人数は、極わずかです。
毎年多くの「演奏家の卵」が音楽大学や専門の学校から誕生しています。その数を分母として考えると、演奏することで生活できる人は、数パーセントにも満たない数です。それほどに、需要と供給のバランスが悪く供給過多なのです。
プロの演奏家の一つとして「プロオーケストラ」の「正団員=社員」がいます。
プロのオーケストラで演奏している人の中で、正団員ではない「短期アルバイト=エキストラ」がたくさんいます。その人たちもプロの演奏家ですが「雇用」の形態が違います。
正団員としての「給与」だけで生活できる人は、日本ではごく一部です。
指導者にも色々なケースがあります。自宅で教えている人、音楽教室に雇われて教える人、音楽高校や音楽大学で演奏を教えている人などです。
 こちらの場合も比較される内容は様々です。ちなみに、楽器演奏を指導するための公的な資格はありません。学校で教師として働く場合でも、場合によっては教員免許がなくても、演奏技術を教えて対価を得ている人もいます。ましてや、音楽教室や自宅で指導する場合には、なんの資格がなくても指導できるのが事実です。その意味では、演奏家の場合も「公的な資格」がない点では同じです。

演奏家になれない人が指導者なのか?
答えは「違います」私は確信しています。
先述の通り、指導者には演奏家としての技術が必要不可欠だと思います。
だからと言って、指導者の演奏技術が演奏家の技術より低いとは思いませんし、そうあってはいけないと思っています。
 では、指導者を目指す人はどうすれば良いのでしょうか?何を学ぶべきなのでしょうか?

 演奏家としての技術を身に着ける練習と勉強は、演奏家を目指す人と全く変わらないはずです。それを含めて必要なものは、以下の3点だと考えています。
1.演奏家として評価される演奏技術
2.演奏技術を言語化する能力
3.人に対する適応力
演奏家でも共通の「努力」や「経験」は言うまでもありませんが、何より指導は「対面」であり限られた時間内で、自分の教えたいことを伝える能力が求められます。適応する力は、迎合することではありません。常に自分と相手との考え方や生き方、価値観の違いを擦り合わせる能力です。

 最後に現在、演奏課や指導者を目指している人と、その指導者に伝えたいことです。
師弟関係は、両思いであることが何よりも大切です。双方が互いを認め合え、信頼できる関係がなければ伝えられるものは限られています。
習う側からすれば、師匠を尊敬できること。師匠は尊敬できる存在であること。
そして、常に次の世代に伝承することを考えることです。伝承は技術だけではありません。人の生き方、考え方こそが後世に伝えられるべきです。
優れた演奏技術があっても、人として魅力のない人や、他人を受け入れないわがままな性格の人は音楽家としての素養に足りません。演奏の評価だけを評価してくれるのは、容姿だけを評価されるのと同じです。音楽は自分で作った芸術ではありません。ラーメン屋の「秘伝のスープ」とは違うのです。先人が今に伝えた音楽があるからこそ、私たちが音楽を演奏できるのです。思い上がりは捨てるべきです。一流と言われて悪い気持ちになる人はいません。ただ、本当にその人の音楽が評価されるのは、次世代、さらにその次世代に「レジェンド」として評価される人かどうか?だと思うのです。
 これからも優れた指導者を育てたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

ステージで得られるもの

動画は先日の発表会での演奏です。
演奏者と家族だけの身内の演奏会。
不特定の人に聞かせる「コンサート」ではありません。
舞台の上で演奏することを目的として、練習してきた成果を実感する時間です。
4歳のこどもから、私よりも先輩の大人まで21プログラム。
今回初参加が5名。全員がステージで客席で、音楽を満喫しました。

 人前に出て演奏をするのは、ほとんどの人にとって「非日常」です。
人前で話したりサポートするお仕事をされている人でも「楽器の演奏」はまったく違う緊張感があると思います。
 緊張感があるから、開放感を味わえます。
演奏し終えた瞬間の「やり遂げた!」という表情がすべてを物語っています。
趣味なんだから、自宅の練習だけで充分だという考え方もありますが、せっかくの趣味だからこそ、楽しみは大きいほど良いと思っています。
 好きな事にかける時間と労力は惜しくないものです。それがスポーツでも音楽でも同じことが言えます。アマチュアスポーツでも勝敗の付く協議で「負けてもいい」と思って練習する人はいないと思うのです。負けるのが嫌だから、試合をしないで、素振りと壁打ちだけで満足できる人も、心の中では「うまくなりたい」と思っているから練習するのだと思います。

 自分の演奏が自分にとって、どのくらい満足のいくものだったのかは、他人からは想像もできません。自分の演奏に厳しい人は「ダメだった」と思い込みがちです。全然ダメじゃないのに(笑)
 自分の演奏が、本気で「じょうず」と思う人なんて、いないと思うのです。
もしそう思っていたら、楽器なんて弾かないはずです。自分が出来たと思えたら、その先に目指すものが何もないからです。
 欲を持つことです。子供は「無欲」でも上達します。それこそが生き物の「学習能力」だと思うのです。厳密に言えば、無欲なのではなく、本能で生き残るための「知恵と技術」を習得しているのだと思います。
 4歳の子供の演奏に、じょうずもへたもありません。それでも本番の直前に「ドキドキしてきた」とお母さんに言ったそうです。ステージでは、客席のお母さんをキョロキョロ探し始めてから、緊張感が切れました(笑)
 大人の趣味が楽器の演奏って、素敵だと思います。
一人でも楽しめる。誰かと一緒に演奏しても楽しめる。勝ち負けもなく、自分の好きな音楽を好きなように練習できる。失敗してもケガもしないし血も出ない(笑)聴いている人が笑顔になる。いくつになっても演奏できる。
 趣味の演奏に他人が「ケチ」を付けるのは、ナンセンスです。
本人が楽しめればそれだけで「趣味」なのですから。うるさいと思うのは仕方ないですが…。暴走族より静かです。

 これから楽器を始めて煮ようかな?と思う方。ぜひ!初めの一歩を踏み出してください。出来なくて当たり前です。だから面白いのです。
お子さんに楽器を習わせたい保護者の皆様。お子さんと一緒に音楽を楽しむ気持ちを持ち続けてください。学校の勉強とは違います。受験勉強とも違います。
親と子供が「二人三脚」で音楽に向かうことが、子供の上達を支えるただ一つの方法です。子供だけで楽器の上達は出来ません。楽器を買い与えただけでは、子供は楽器を弾けません。おもちゃではありません。ゲームでもありません。一生楽しみ続けられる「技術」なのです。それを忘れないでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を振り付ける

 一つ目の動画は、中高生の演奏する「カヴァレリアルスティカーナ間奏曲」です。本来、コントラバスはオリジナル編成にありませんが指揮者(私)の一存で参加させています。子供たちの「動き」に注目して頂けると、まるで振付をしたように同じ動きをしているのが見て取れます。実際に動きを教えました(笑)単に「感情を込めたように」とか「うまそうに」という無駄な動きではないはずです。たまに見かけるアマチュアの「謎のダンス」を伴う合奏や合唱とは、意味が違います。
 音楽の流れ、重さ、拍を演奏する子供たちが「共有」するための動きと、弦楽器を演奏するうえでの身体の使い方の両面から「必要な動き」を教えたつもりです。そのことで、弓の場所や弓の速度・重さ、さらには音楽の流れを体感し他の演奏者と共有できます。

 二つ目の映像は、私と浩子さんの「クロリスに」です。
言うまでもなく、何度も何度もお互いの音を聴きながら練習し、演奏会を経験している時間を経て、合図を打ち合わせすることも、ほとんどありません。
むしろ、私の「動き」に反応して自然に音が出るのを「わざとずらす」場面があります。下の動画をご覧ください。

 お気付きでしょうか?最後の「ソ」を私がヴィオラで演奏する「合図」と「ヴィオラが音を出す時間」がずれているのを確認できるように、最後の部分だけスローにしてあります。
 ピアノには先に進んでもらい、意図的に旋律を演奏している自分のヴィオラを「遅れて」発音させています。ポピュラー音楽では良く見かける奏法です。
合図を出しながら、自分は遅れて移弦し音を出すのは、特殊な「振付」ですが、これも音楽の「スパイス」になると思います。

 ここまで凝らなくても(笑)音楽を感じて動く。動くことで演奏に必要な「速度」と「重さ」を筋肉に伝え音にする。相乗効果があります。逆に言えば、音楽と関係のない動きで、その動きによって壊される音楽もあり得ます。この点は要注意です。なんでもかんでも動けばいいわけではありません。まず、音楽を感じることです。その音楽が動く「速さ」と「重さ」を感じて、それを自分の身体の動きに置き換えることです。動かない演奏を「最高」とする演奏家もいます。以前書きました。それもその人の価値観です。
 ぜひ、音楽を感じて演奏してみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習と本番

 生徒さんの発表会を明後日に控え「余興」で1曲だけ演奏する私たちです。
趣味で楽器の演奏を楽しむ人たちが、ステージでお客様の前で演奏する緊張感は、私を含め多くの演奏家も経験したことです。失敗した記憶もあります。音楽の学校での実技試験の記憶も少しはありますが、緊張する演奏経験を重ねるうちに、鳴れなのか?麻痺なのか?次第にその記憶が薄らいでいるようにも思えます。だからこそ、生徒さんたちの緊張感から学ぶことも多いのです。
 練習から一回の本番に至るまでの「道程」を考えてみます。

 演奏する曲が「初めての曲」の場合は、まずその音楽を知ることから始まります。楽譜に書いてあることを音にする。誰かの演奏を聴く。作曲した人や時代などを知る。練習する以前に、音楽を知ることです。
 次に自分が楽器で演奏する段階。ここからは、以前に演奏したことがある曲を演奏する場合でも同じです。
 自分の演奏している「音」と「音楽」を常に観察する集中力が不可欠です。
落とし穴があります。「繰り返せば演奏できるようになる」という「蟻地獄」のような落とし穴です。練習であっても、本番であっても「演奏」であることは同じです。自分の演奏を冷静に観察し続けることは、一度だけの本番のために絶対に必要な練習だと思っています。

 本番での演奏は、演奏している時間と空間での出来事です。完全に同じ演奏を再現することは、神様でなければできません。どんな演奏であっても、その音楽を聴くことのできる人は、その場にいた人だけです。録音された音楽は、真実ではありません。言ってみれば写真と同じです。
 演奏の瞬間に感じるものは、聴いた人の記憶に残ります。当然、演奏している人の記憶にも残ります。練習している時に、自分の演奏に感情を持っているでしょうか?ただ「うまく弾きたい」「間違えないで弾きたい」と思ってはいないでしょうか?たとえ、それが開放弦の練習であったとしても、どんな音色・音量なのか?聴いているはずです。スケールを練習しても、曲を練習しても「演奏を記憶し振り返る」ことの繰り返しを抄訳するのは「手抜き」です。
 思ったように演奏できないパッセージがあります。
私の場合、「思っていない」ことが原因です。つまり、どう?演奏したいのかという、具体的なことが一音一音に足りない場合です。思っていないくせに「思ったように」と感じているだけです。どんなに難しい、あるいは難しそうなパッセージでも「一音だけ」演奏することはできるのです。その一音を、どう?演奏すると次の音が、どう?演奏できるのか?という「連結」ができれば二つの音を連続して演奏できます。それを繰り返せば、「絶対に」演奏できるはずなのです。

 練習に時間は必要です。本番で演奏する時間を、自分も聴いてくださる人も楽しむための時間です。もちろん、ただ時間が経てばクオリティの高い演奏が出来るようになるわけではありません。先述したように、自分の演奏を振り返りながら「試行錯誤」を繰り返すことです。違う言い方をするなら「実験」を繰り返すことです。音楽に限らず、この実験は常に行われています。身の回りでも、何気なくやっているはずです。
 自分のやり方だけに固執するのは、あまり良いことではありません。事務作業にしても掃除にしても、自分が何気なくおこなっていることが、実はとても非効率で、時間と体力を無駄にしていることもあります。
 できないと思ったことに直面したときに、それを解決する方法を「実験」するはずなのです。「マニュアル」がないと、新しいことができないと思っている人もいます。子供は、まず「やってみる」のです。だから、スマホでもなんでも大人よりずっと早く使いこなせるのです。もちろん、失敗して壊すリスクもあります。化学の実験なら「爆発」するかも知れませんね。
 音楽の実験でケガをした人はいないはずです(笑)
実験をせずにただ何となく、繰り返してもケガはしません。ただ上達した人もいないと思うのです。新しい発見をすることがなければ、進歩はないのです。
 練習は単なる時間の浪費ではなく、「発見のための時間」だと思っています。

 最後に、本番で演奏する時間から、少しずつ遡る「逆算」をしてみます。
演奏直前、最初の音を出す直前です。あなたは何を考えますか?今日の晩御飯?それとも昨日の出来事?(笑)多くの生徒さんが、この瞬間に何も考えられなくなるか、逆に考えすぎます。どちらもあまり良いことではないように思います。
 練習で最初の音の弾き方を決めておくことです。ずいぶん戻ってしまいますが(笑)最初の音をどうやって演奏するのか?決まっていれば、まずそれを考えれば良いだけです。
 もう少し遡って、自分の演奏する前の「10分」
演奏に必要な「もの」と「こと」を確認します。これだけ時間があれば、絶対に大丈夫です。慌てない、焦らない、ゆっくり動く。
 さらに遡って、家から会場に移動する時。途中で走らないことと、立ち上がる時に必ず後ろを確かめて忘れ物がないか見ること。これ、聴音の黒柳先生から伝授された「奥義」です(笑)効果絶大です。
 家から出る前に。もしも、余裕があるなら一度だけ、演奏してゆっくり片づけて、すべての持ち物を確認する「余裕」が理想です。その時にうまく演奏できなくても「今日は弾いた」という安心感が得られます。本番前にうろたえることもなくなります。
 本番数日前。ケガをしないこと。病気にならないこと。楽器を壊さないこと。疲れないように練習のペースを落とすこと。この時期に一番うまく演奏できるように、その前の数日は「へたくそ」で良いのです。人間にはバイオリズムがあります。常に最高の状態に保つことは不可能です。本番の前に自分を高め、本番で最高の「頂点」にいる計画をイメージすることです。
 あまり「ルーティン化」しないことも大切です。「おまじない」を増やせば増やすほど、不安材料になります。お守りを10個、持ち歩く人っていないですよね?(笑)それと同じです。
 練習で本番通りのことをしていれば、本番も練習も同じです。
演奏は時間の芸術。その場で演奏している自分が「主人公」です。
演奏を楽しみましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由を阻害する「思い込み」

 この動画で私が装着しているのは「暗所視支援めがね」と呼ばれる、夜盲の患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を向上させるための眼鏡です。
決して「似合わないおしゃれ」で装着しているのではございません。
普通の人にとって「少し薄暗い」明るさが、私達「網膜色素変性症」の病気を持つ人間には真っ暗闇なのです。と言いつつ、普通の人の「真っ暗闇」を体感したことがないので微妙です(笑)

 さて、今回のテーマは「自由に演奏したいけれど…」と言う演奏者共通の悩みです。そもそも音楽は、作る人、演奏する人、聴く人の自由があってこその楽しみです。制約されたり、強要される感情を持ちながら「自由」は感じられません。つまり音楽自体が、人間の自由な感情があってこその芸術だと思います。
 自分が、ある曲を演奏しようと練習しているとき、いつの間にか自分で自分に「規制」をかけていることがあります。むしろ無意識に自分の演奏にある種の「枠」を作っている場合です。
 アマチュア演奏家の場合特に「自分にはできない。」「できもしないことをしている」「アマチュアだからこの程度で満足」などの思い込みがあります。
 プロの場合にも「この作曲者の意図は」「自分の解釈がまちがっているかも」「他の演奏者は…」「好きな曲じゃないのに頼まれたから」などなど、考えすぎと思い込みがあるように感じます。

 自分の演奏技術を自己評価することは大切です。
過少・過大にならずに客観的に評価することは一番難しいことです。
誰かに指摘してもらえる環境、たとえばレッスンや友人の率直な感想は何よりも大切にするべきです。素直にその言葉を受け入れられないほどの自己評価は、やはり思い込みでしかありません。「良かったよ」と言われても信じない。「もうちょっと音量があってもよかったかも」と言われて逆切れする。どちらも自分の思い込みで自分の演奏を評価しているからです。
 評価する人が「素人」の場合と「専門家」の場合があります。素人はまさに言葉の通り、特別な音楽的知識を持たない人やマニア的な聞き方をしない人、演奏技術のない「普通の人」です。この人たちの評価が、実は一番素直です。
 一方の「専門家」の評価が、間違った思い込みによる不幸な結果をもたらします。演奏する側が「アマチュア」で評価する側が、なんの?専門家なのか?によって、演奏者の自由な音楽をぶち壊します。ひとつの例を書きます。
 全国高等学校〇〇オーケストラフェスタ」なるただの合同演奏会で、とあるプロの指揮者(私的には5流ちんぴら)が演奏した生徒たちの講評で、子供たちの演奏を「えっっっっっっっっっらそうに」上から目線で「直せ!」口調で話します。言われた子供たちの中には涙を流す子供もいます。参加者全員がいる前での事です。ありえないことです。これが「プロの指揮者」だとしたら、メトロノーム様をマエストロと崇めたほうが1億倍、素敵な音楽ができると確信します。5流様は良かれと思って話しているから悪意はないのでしょう。
ただ「無知」で「無能」過ぎます。

 演奏者がプロ(専門家)の場合、周囲からの評価はある意味で「死活問題」でもあります。悪く言われれば、次の仕事=演奏の機会がなくなるかもしれないという「恐怖」があります。特に怖がるのは、なぜか?「評論家」の評価です。
 申し訳ありませんが私は「音楽評論家」と言う職業を、害悪としか思いません。なぜなら、彼らは自分で演奏しないからです。自分自身が演奏家であり、他の演奏家の演奏について評論するとしたら、それは評論ではなく演奏者本人に直接伝えるべき「感想」です。たとえそれが「よいしょ」な内容であったとしても、他人の演奏について一般の人に読まれ、聴かれる場で「評論」するのは、思い上がりも甚だしいと思っています。
プロの演奏について評価をする自由があるのは、聴衆と「主催者=雇用主」です。聴衆=素人が何を思おうが自由です。演奏会の主催者が「だめ」と言えばそれも受け入れるしかありません。
 だからと言って、演奏者が怯えながら演奏するのは、自由を阻害されることになります。私を含め、自主公演でコンサートを開く場合、お客様の反応と自分たちの評価を「すり合わせる」ことがすべての基準になります。
 演奏会後に集めさせてもらう「アンケート」用紙に書かれたお客様の、一文字一文字、行間から私たちの演奏への「評価」を読み取ります。次の演奏会に向けて、その評価を基に練習します。喜んでもらえたプログラム、表現など人によって違う自由な感想を、より多く集めることで自分の「思い込み」を正します。
 「絶対」に良い演奏は存在しません。あくまでも「主観」の世界です。
演奏する本人が、自分の思う通りに演奏した結果、ひとりでも喜んでもらえる人がいる演奏会なら、演奏した意味があります。評価を怖がることなく、聴いてくれる人の笑顔と演奏後の拍手を糧に、練習したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

好きな曲・好きな演奏

 動画は、みなとみらい大ホールでの「アルビノーニ作曲 アダージョ」です。
1985年から教員になり、新設校にオーケストラを0から作り、開校6年目で初めて「定期演奏会」を大講堂で開いてから、学校近隣のさびれた公会堂での演奏会を学校に認めさせるために「闘争」。その後、川崎市宮前区の「宮前文化ホール」に会場を移し、さらに当時の「グリーンホール相模大野大ホール」に。そこでもお客様を収容できない。ステージに乗り切れず、生徒が転落ちたら学校は責任をとれるのか!と学校と「闘争」し、最終地点「みなとみらい大ホール」に到達して3回目の演奏会でした。前置き、長くてすみません。
 私の好きなホールをひとつだけ、と言われたら迷わずにこのホールを挙げます。響きの暖かさ、残響時間とその切れ方、舞台裏の広さ、楽屋の数、なによりもパイプオルガンの音色。すべてが私の好みです。収容人数2020人を満席にすることが開催の条件でした。全席無料、全席指定、事前予約で2020枚の予約券はすべてなくなりました。部員の家族だけではなく、一般の聴衆も多かった演奏会でした。
 その大ホールで退職するまでに、4回指揮台に立ちました。毎回、様々な曲を演奏していました。チャイコフスキーの第4番、第5番、第6番(もちろん単一楽章だけです)、シヘラザード、レ・ミゼラブルなどなど。そんな中でも、このアルビノーニのアダージョは私の好きな曲「トップ3」の一つでした。強いて言えば「1番好きな曲」です。

 高校2年生のヴァイオリンソロ、オルガンは中学を卒業し高校で桐朋の作曲科に進学していた元教え子高校2年生。演奏は「危なっかしい」ものです。傷もあります。この演奏に「ケチ」を付けるのは簡単ですが、私には「最高の演奏」に感じます。自分が好きなように音楽を作り、子供たちに「言葉」と「動き」でそれを伝えた、音楽の揺れと流れ。途中、前のめりになりすぎて、危うく指揮譜面台ごと前に倒れそうになってます(笑)なにが?どう?好きなのかを言語化するのはやめます。「やめるんかい!」と突っ込まれそうですが、実際書いても理解していただけるとも思いませんし、人それぞれ感じ方が違うのが当たり前です。

 旋律と和声。歌曲であればそこに詩が加わる音楽。
広い意味で音楽は、和声を持たなくても音楽だと思いますし、現代音楽の中でバッハやベートーヴェン時代の音楽の「和声感」とは異なる音楽も「音楽」です。
ただ、多くの人にとっての音楽と、音楽の専門家にとっての音楽が「乖離」している気がしてなりません。

 たとえば、知らない国の言語を聴いても、意味が分からないのは当然ですよね。意味が分からなくても、ゼスチャーや表情で伝わることも少しはありますが、「声」だけで伝えられるものは何もありません。
 音楽はどうでしょうか?何を伝えているのでしょうか?
絵画にも色々あります。風景、人物、抽象画など。そこに描かれているものが「なに?」なのか理解できない絵画もあります。それを「美しい」と感じる感性。理解できない人には、ただの落書きに見える作品もありますよね。
 クラシック音楽を学んだ人たちにとって(私も含め)、クラシック音楽は「聴きなれた音楽」です。作曲された時代、当時の文化や作曲者の人物像などを「学んだ」上で演奏したり聴いたりします。
 音楽は学ぶものなのでしょうか?学ばなければ、楽しめないものなのでしょうか?学べば楽しいものなのでしょうか?

 自分の好きな音、好きな曲、好きな演奏。
学ぶ必要は無いと思います。偶然に巡り合うものだと思います。探すこともありますが、「好きなものを探す」ことは、本来は不要なことです。
生きている時間に、耳に入ってきた音楽の中で「好きになる」のが自然な出会いだと思います。
 音楽に限らず、「つくる・提供する」人と「使う・受け取る」人がいます。
演奏することは、作る側。音楽を聴くのは受け取る側です。
作る側は、使う人の「喜び」のために作るのが本来の姿です。
使われない、喜ばれないものを作るのは、作る人間の「自己満足」でしかありません。
アマチュア演奏家の音楽は「自己満足」で十分なのです。なぜなら自分が楽しめればそれで良いからです。
人に喜んでもらうための演奏をして、対価としてお金を受け取る「作り手=演奏家」は、自分よりも聴いてくれる人の「喜び」のために試行錯誤と努力を重ねるべきです。自己満足で終わるのであれば、対価求めるのは「図々しい」と思います。聴いてくれる人の中に、その演奏・音楽を「好き」になってくれる人が、一人でもいてくれることを願うことを演奏する側は忘れてはいけないはずです。
 好きな演奏を演奏者自身が探します。そのひとつの「作品」が、上の動画です。
 聴いている人に伝えられるのは、演奏者自身が自分の演奏する音楽が「本当に好きなんだ」と思うことだけかもしれません。そこから先は、聴く人の感性なのです。「いい曲ですよね」「いい演奏ですよね」と、他人に自分の感性を押し売りするのは「無理」だし「うっとおしい」だけなのです。聴いてくれた人が「つまらない」「へたくそ」と感じるのは仕方のないことです。当たり前のことです。その人が悪いのではありません。感性が低いのでもありません。ただ、自分の感性と違うだけなのです。
 自分の演奏を喜んでくれる人に出会うために、コンサートを開きます。
聴く側は、自分の好きな演奏に出会える期待を持っています。
演奏する人間と聞く側の「好き」が一致する瞬間が「音楽」の本質だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

おまけの映像。みなとみらいでの最後の演奏会より、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」より第3楽章です。


(自己主張+受容)×人数=ひとつの音楽=平和

 今回のテーマ、実は生徒さんたちが発表会に向けた「伴奏合わせ」を見ていて感じることでもあります。ヴァイオリンは多くの場合に、誰かと一緒に演奏する楽器です。ピアノやギターのように、ひとりで和声と旋律を演奏することのできる楽器との最も大きな違いです。音楽=曲そのものが、ヴァイオリニストと「誰か」の演奏によって完成されます。日常の練習は、一人で黙々と自分のパートを練習します。
 演劇や映画、オペラなどの世界で言えば、自分のセリフだけ、自分の演技だけを練習することに似ています。当然、他の役者さんのセリフや動きとの「からみ」があることを前提に練習するはずです。ひとつのセリフ、「やめてください」というセリフでも、どんな心理なのか?どんな場面なのか?によって、まったく違う「やめてください」の言い方になるはずです。
 高倉健さんのように、背中だけですべての感情を表現できる役者さんもいます。「言葉は少ない方がいいと思うんです」とは高倉健さんの言葉です。尊敬します。音楽で言えば「余計なことはしないほうがいいんです」違うかな(笑)

 上の動画は、中高生のオーケストラによる「カヴァレリアルスティカーナ間奏曲」の演奏です。子供たちの多くは、楽器に触れて「数カ月」から長くて「数年」の初心者です。その子供たちが演奏しているこの演奏は、「ひとつの音楽」になっているように感じないでしょうか?プロのような演奏技術はありません。それでも何か「一体感」を感じるのです。
 思春期の子供たちです。素直に大人の言う事を聴きたくない年齢です。その子供たち同士をひとつにまとめるために私がしたことは「子供たちの敵になり、お山の大将になる」ことでした。怖がられ、嫌がられ、でも従うとなぜか達成感がある。子供たちをひとつの音楽に向かわせるために、子供たちに自己主張を求めました。こっそり演奏しようとする子供に、合奏中に一人で演奏させたりもしました。すべての子供たちが主役だと思わせました。その中でも上下関係を感じさせました。学年による指導システムを考えました。中2が中1を教えます。中2を中3が教えます。中3を高1が、高1を高2が教えます。これを何年か続けるだけで、すべての責任は高2にあることを全員に理解させられます。どんなに先輩風を吹かせたくても、中学1年生がうまく演奏できなければ高2が全員の前で叱責されます。

 こちらは私たちの演奏したエルガー作曲のカント・ポポラーレです。
先ほどのオーケストラと違い「たったふたりだけ」の合奏です。人数が2人であっても、テーマの公式は当てはまります。二人それぞれが感じて考える表現とお互いを思い受け入れる受容が、ひとつの音楽となります。夫婦だからできる?もちろん、お互いを尊敬しあうことが前提です。憎しみ合う関係で受容することはできません。人数が少ないほど、それぞれの主張が大きく表に現れます。
二人のアンサンブルはオーケストラ以上にひとつの音楽を作り上げることが難しいと思います。自分の音と相手(ほかの演奏者)の音を頭の中で合成させる技術が必要です。自分の音だけに集中しすぎても、相手の音だけを聴いていても頭の中で「ひとつの音」になりません。
 そもそも音楽に限らず、日常生活の中で私たちが聞いている「音」はいろいろな音が混ざり合っていることを忘れがちです。電車やバスの中で、誰かと話している声だけが大きく聞こえるのは「心理」の問題です。音圧、つまり音の大きさで言えば電車やバスの騒音の方がはるかに大きいのに、会話の内容が耳に最初に入ってきます。
 静かな場所で演奏すれば、小さな音でも存在感は大きなものになります。
演奏している音楽を、聴いている人の「聴こえ方」として考える場合、電車の中の話し声のように「心理」を利用することも重要です。
 得てして演奏者は自分が演奏している音楽を、聴いている人も自分と同じようにその音楽を知っているような「錯覚」に陥ります。初めて聞くときの「期待」と「安心」と「驚き」があります。音楽を一つのストーリーとして考えると理解しやすいことです。映画やドラマの「冒頭」から始まり、見る人の緊張感や不安感、安心感や悲しみを誘い出す「台本・演出・脚色と演技」が「楽曲と演奏」です。
聞く人にどんな感情を残したいのかを考えるなら、自分の演奏を初めて聴く人の立場に立ちもどって考えることが、なによりも大切な練習になると思います。

 聴きながら演奏することは「慣れ」が必要です。
頭のなかで色々な事を考えれば考えるほど、体の動きは制約されます。
肉体の反応は、ぼーっと脱力している時が一番「俊敏」なのです。動かそうとすればするほど、遅く鈍くなります。

 自分と相手の音を聴き「ひとつの音」として聴くために、ひとりで練習する時に、自分の出している音を無意識に出せるようになるまで繰り返すことが不可欠です。自分の演奏に気を取られている限り、他人の音に反応することができないからです。ひとりずつの練習は、常に相手が何をしているのかを考えながら練習しなければ、先述の「やめてください」というセリフを、どのように演技するのか?決められないのと同じです。そして、常に「初めて聴く人」の耳で自分たちの演奏を客観的に聴く練習をしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介