ヴァイオリンのススメ

 動画はメリーミュージックに幼稚園の頃から通い続ける生徒さんへのインタビュー動画です。以前にも紹介しましたが、今年の3月からは東京大学大学院に進み、研究を続けるとのこと。素晴らしいですね。
 この生徒さんが初めて教室でレッスンを受けたころ、まさか!将来がこんな状況になるとは想像もしませんでした。
 インタビューの中でも彼が話していますが「ヴァイオリンを習い始めたことが」が今の状態につながっていることがわかります。
 ヴァイオリンを練習することと、学業(いわゆる勉強)とのか関連について、多くの人が文章や動画にしていますが、実際に「ヴァイオリンと勉強の両立」をする生徒さんの実話は、説得力が利害ます。

「勉強ができるような子供だから楽器も上手に弾ける」という話は、半分当たって半分は間違っています。勉強が出来ても音楽に興味のない子供もたくさんいます。楽器の演奏技術はずば抜けていても、学校の勉強はきらい!という人もも当然たくさんいます。
 中学・高校で音楽の教員をしていた時代にも、楽器の演奏と拓行を両立していた生徒をたくさん受け持ちました。学年の成績上位者のほぼ全員が、部活動でオーケストラ演奏していたことも事実です。もちろん、オーケストラに打ち込む生徒の中には「勉強嫌い」という生徒も多くいました。

 3才4歳の幼児期から「ヴァイオリンを毎日練習する」という習慣を身に着けることは、意外かもしれませんが「誰にでもできる」ことなのです。
 子供の才能?違います。「親子との共同作業」なのです。家庭環境の寄っては、子供が自宅でヴァイオリンの練習をする時間を、家で一緒に過ごせない場合も珍しくありません。幼児の毎日の練習は「短時間」で良いのです。
それが15分でも20分でも「毎日欠かさず練習する」だけです。
親が子供の「成績」を気にしだすのは、いつごろでしょうか?
恐らく小学校高学年、もしくは中学校になってからではないでしょうか?
 学校の授業は「学校にいる時間に学べる範囲」であることが原則です。ヴァイオリンは?自宅で練習することが上達の前提であり、レッスンだけで上達することはありません。つまり「自学」する習慣を幼いときから身についけるためにも、ヴァイオリンの練習は大いに役立ちます。
難関校を受験する子どもたちは、学校で習う内容以上のことを塾で学びますが、むしろ「自学の仕方」と「必要性」を体感することが塾の目的です。学習する「方法」と「意義」を子ども自身が理解すれば、意欲も向上します。

 私は高校から音楽学校に通った人間です。普通高校に通う人と違い、楽器の練習をする時間に一日、1年の殆どの時間を使います。数学や物理、英語などのの授業もありましたが「単位が取れればOK」でしたので、自宅で教科書を開いた記憶は一日もありません(笑)が、楽譜を見なかった日は一日もありませんでした。
 勉強もヴァイオリンも「自分の意志で学ぶ」ことしか向上しません。幼いときからその経験を積んだ人にとて「覚える」「考える」「再現する」ことは日常のことになります。それらが学業や仕事にも大きく関わります。
「趣味だから上達しなくていい」と言う考え方は、初めから上達することを目指していないことになります。
 楽器演奏の上達には「頭と身体」そして「内容と時間」が絶対に必要です。勉強も仕事も同じことが言えます。「東大を目指す!」と言いながら一日中ゲームをしていて叶うはずがありません。ただ机に向かっていても中身がなければ無駄な時間です。
ヴァイオリンを習う事で、学習の補法を体で覚えることができます。大人も子供も「学ぶこと」が生きる上で一番大切なはずです。
 ヴァイオリンを習ってみませんか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

40年経って変わること・変わらないこと

 ヴィタリ作曲「シャコンヌ」です。上の動画は今年1月に演奏したもの。下の動画は40年前の演奏。

 使っているがヴァイオリンは同じです。ヴァイオリンを弾いている人間も同じです。
 ピアニストと解錠は違います。
共通して「不安定」です(涙)
音楽から感じているものは変わっていないようです。テンポや音量、歌い方は微妙に違いますが「やろうとしていること」は変わっていません。
 40年経っても「好み」は同じだという事かも知れません。もっと技術的に成長していてほしかった(笑)
 音楽を「感じる」感覚は人によって違いますが、時が経っても変化しないことを実感しました。
 ただ演奏を聴いてくれる人にとって、この二つの演奏の「違い」は明らかにあるはずです。より「好き」な演奏もあると思います。
 自分の技術が足りないと感じることがあっても「感じること」だけには誇りを持つべきですね。
 あなたはどちらの演奏がお好きですか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を歌い分ける技術

 中森明菜さんの「駅」好きです(笑)理屈なくすごいと思います。
それを無理やり言語化します。←やめとけ(笑)
 歌手も演奏家も「役者」です。普段の生活、考え方、性格を「音楽」で包み込み、見る人、聴く人を「引き込む」のが仕事です。聴く二兎にとって、演奏する人は音楽の向こう側にいる「偶像」で良いと思います。
 音楽によって表現方法を変えるのが「技術」です。そんな意味でも中森明菜さんが様々な音楽を歌い分ける技術に、ただ驚くばかりです。
 「クラシックは違うんだ!」とは思いません。アレンジが変わるだけで音楽は変わります。楽器が変われば音楽が変わります。
 楽譜は音楽ではありません。「記号」であり「設計図」です。それを「音楽」にするのが演奏家です。楽譜がなくても、音楽は生まれます。
楽譜の通りに「音を出す」だけで音楽になるのではありません。
むしろ「音」を音楽にすること、そのものが「音楽」だと思います。
 言葉や音符を「音楽」にする技術は、前提として演奏者の「感情」があってのものです。「こんな音楽にしたい」という欲求や、自分が演奏する音楽で自分が感じる「感情」があっての技術です。
・技術が豊かであれば、感情の幅も大きくなります。
・感情が繊細であれば、技術も繊細になります。
感情のない演奏は「無機質」です。
 やっぱりあきなちゃんはすごい(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の基本は「点」

 私たちは3次元の世界に生きています。「縦・横・高さ」簡単に言えば「立体の世界」です。「1次元」は「点」だけの世界です。当然動きはありません。
 もう一つの「時間」という概念で考えると、秒・分・時間・日・週・月・年などの単位で表されますが、日常生活で「秒」よりも小さい単位の時間を意識することはありません。「一秒間に〇△回の動き」と言う言葉を機ことはあります。例えば、空気が一秒間に442回振動する音が「A」と言う使い方があります。メトロノーム記号で♩(四分音符)=120と書いてあれば、一秒間に2回♩が演奏される速さを表しています。

 上記の二つ「動き」と「時間」を組み合わせて考える時、「一瞬で止まる」とか「突然動き出す」という表現ができます。また「少しずつ速く動く」「だんだん遅く動く」とも言います。
 動きを「止めている」状態で「一秒間」待つ場合、動きは「点」であり、時間は「一秒間」です。
 一秒後、「動き出す」速度が速くても遅くても、動き出す「瞬間」が存在します。時間の「点=瞬間」です。
 動き出して=音が出始めてから「一秒後」に運動を「止める」場合、だんだん遅くなっていも突然止まったとしても「境目」があります。これも「点=瞬間」なのです。

 要するに「動き」には「静止」と「動き」があり、時間には常に「点」が存在することになります。時間が止まることはないのです。常に「時」は動いています。sの細かさをどれだけ細かく感じられるか?が大きな問題になります。時間の点=瞬間を意識するためには、その点の「前」に点を意識することが必要になります。聴いている人には「突然の瞬間」でも、演奏する人には「準備して決めた循環」なのです。
 音を出す瞬間・音を止める瞬間は、常にすべての音に存在します。レガートの途中の音であっても、無音の状態から最も小さい音で演奏し始めても「点」は存在します。
 「音を出す仕組み」は楽器によって違います。ヴァイオリンの場合は「弓の毛が弦を擦って動き出した瞬間」に音が出始めます。ピチカートなら「弦をはじいた瞬間」です。
弓で音を「止める」点もあります。弓の動きを「止めた瞬間」と「反対方向に弓を動かす瞬間」です。多くの生徒さんは「弓を止める」ことに意識がありません。また、運動を「止める」事がうまくできないのもアマチュアによく見られ宇ことです。「弓を動かし始める点」と「弓を止める点」を両方とも意識することです。

 音を出し「始める=動き出す」「終わる=止まる」「瞬間」を予測し、必要な準備の運動を「いつから?」始めるのかを考えることです。この「いつ」も時間です。音が出るよりも前の時間=瞬間から準備の運動が始まります。
 指揮法で言えば「直接運動」です。腕(指揮棒)が動いた瞬間にオーケストラ音を「出す」運動です。そのために点を「予測させるための静止るる時間」が必要になります。「先入=せんにゅう」と呼ばれます。演奏にも同じような「法則」を考えていけば、思った時間に思った音が出せるようになっていきます。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏家が後世に残すべきこと

 生き物は必ずいつか「死」を無噛めます。
人が生きている間に「物」として残す「物」もあります。絵画や楽譜がその一つです。
演奏は?形もなく手に触れることもできない「無形」な音の芸術です。録音することができるようになる「以前」から演奏は行われてきました。それらの演奏を今、聴くことは出来ません。それでも「パガニーニの演奏は〇△だった」と言う、文字の記録だけは残っています。どんな人の演奏であっても、まったく同じ演奏を再現することは不可能です。
ましてや、他人が誰かの演奏とまったく同じ演奏をすることは絶対に不可能です。
 どんな演奏であっても、その演奏を「聴く人」にとっては、唯一無二のチャンスであり貴重な体験になります。
 より完璧な演奏をしたいと思うのは、自然なことです。多くの人が「素晴らしい」という演奏を「一流の演奏」「名演奏」と称賛するのも間違っていません。
 演奏家が演奏する「音楽」はその場で消えるものです。その演奏を、直接聴くことができる人は限られています。それは昔も今も変わりません。
 一部の階級の人だけが演奏を聴いて楽しめた時代もありました。貴族や皇族、教会だけで演奏される音楽もたくさん残っています。それは「楽譜」が残っているから可能なのです。そして「演奏技術」が伝承され、楽器作りの技術が伝承されているから、今もその楽譜を演奏できるのです。
 演奏技術を構成残すのは、誰の役割でしょうか?紛れもなく演奏家です。伝える方法は様々です。
1.自分の演奏を聴いてもらって伝え残す。
2.弟子に言葉や行動で伝え残す。
1.で伝えられることもたくさんありますが練習の方法や「考え方」までは伝えられません。
2.を「レッスン」「教育」という形で考えると、演奏の時間を削ることになります。

「一流からしか一流は育た谷」という考え方もあります。確かに二流の芸しか出来ない人に、一流の劇を伝えることは不可能です。
 では「一流の人だけを育てる」用とするのは、正しい事でしょうか?
だれでも最初は「二流」です。と言うより「初心者」から始めます。特殊な才能を持った人だけを選抜して育てる…無理だと思います。そもそも人は全員「違った能力」を持っている生き物です。「才能を育てる」と言う言葉には大きな疑問を感じます。それを言うなrあ「個性を伸ばす」というべきです。
 一流の演奏家・指導者に習っても、二流に歯科粗朶だたなかった「私」が書いても説得力が無いかもしれません(笑)が、私の周りにいる「一流」の演奏家と私の「違い」は、恐らく「努力の差」しかないと思うのです。才能がある、ないの差ではないと感じています。
 一人でも多くの人に「演奏する楽しさ」「希望」「夢」を残すことも、演奏家の役割ではないでしょうか。
 一流の演奏家が、普段演奏している「仲間」よりも優れた演奏家と「コミュニティ」を作って「悦に入る」姿、その演奏に私は魅力を感じません。そこまでするなら、生活の拠点を、その「コミュニティ」に変えるるべきです。「超一流」だけが集まる演奏集団を「素晴らしい」と言うのであれば、「普通の一流」の演奏は不要なのでしょうか?
 自分や自分たちが受けることのできた、音楽教育を、自分が教える側になって子供たちに教えることを、もしも演奏家全員がやめてしまえば、演奏家はいずれいなくなります。
「指導は二流の演奏家がやることだ」と言うのであれば、この先一流の演奏家は生まれないでしょう。
 芸を授かった人間は、その芸を延焼することが「恩返し」だと思うのです。
習う環境、教える環境を作ることが出K理るのも「一流の演奏家」ではないのでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指導する側・される側

久しぶりの投稿です。
「指導」と言う言葉は一般的に、子供が家族などから日常的な事を学ぶ事柄とは違うものとして理解されています。学校で先生から学業を「習う」ことは「指導」の一つです。法的に「指導要綱」「指導要領」と言う言葉が学校教育で使われている事もその証です。
 ヴァイオリンやピアノを学校外で「習う」場合も「指導」の一つです。
「ヴァイオリン指導者」と言えば、ヴァイオリンを誰かに教えている人を指しています。指導を受ける人は「生徒」や「弟子」「門下生」などと呼ばれます。
小学校に通うう子供は「児童生徒」、中学・高校では「生徒」大学の場合は「学生」と呼び方が変わります。学校以外の習い事では主に「生徒」弟子」「門下生」などと呼ばれますが、共通するのは「指導者から学び取る」のが指導を受ける側の立場であり「学ぶ意志がある」ことが前提です。
 本人が幼く「学ぶ」「習う」と言う意味や本質を理解していないことは珍しくありません。かと言って「保護者が習う」ことでもありません。
大人が自分の意志で学ぶ場合なら、指導する人への礼儀や態度、言葉遣いは「常識」としてわきまえているはずです。幼児の場合には親が子供に「教えていく」のが礼儀であり当然のことです。

 指導する人も「元は指導された人」です。自分が受けた指導がベースになる場合と「反面教師」になる場合があります。それも普通の事です。
 問題は指導を受けた自分の印象や結果は、あくまでも「自分だけ」の事だという事です。自分以外の人にとって、同じ指導を受けたとしても違う印象や、結果があったはずなのです。
 要するに「自分が良いと感じた指導」だから、他の人(生徒や弟子)にも良いt者だとは限らないという事です。その逆も当然あります。
 例えて言えば、些細な事にも厳しい指導をする指導方法が「良い結果」を生む場合と「悪い結果」を生む場合があるのも事実です。いわゆる「スパルタ」で指導した場合に、指導された側が「暴力を受けた」と感じる場合と「当然のことだ」と受け入れられる場合があります。
「ハラスメント」を直訳すると「悩ますこと、いやがらせ、悩み(のたね)」です。
先述のように、指導者された側が「嫌なこと」と感じたら「ハラスメント」だと安直にしてしまうと「もっと練習しないと!」とか「音程が悪い」と言われただけで「嫌に感じる」からハラスメント!になってしまいます。
ならば!指導者が生徒・弟が、嫌な気持ちにならないように!と、出来ていないことを指摘するのを控え、出来ていなくても「じょうず」とだけ言えば?
ハラスメントで訴えられることはないでしょうが「やる気がない指導者」と岩惣です(笑)
この問題は世界中で議論される「教育の在り方」に関わります。

 音楽教育に範囲を絞って考えてみます。
楽器や声楽の演奏・作曲・指揮・音楽学などいくつかに分類されます。
例えば楽器を演奏する技術を「指導する」場合に、具体的に必要な知識と技術を考えます。
1.楽器の構造(音の出る仕組みや扱い方など)
2.楽譜を「音楽」にする知識と技術
極論すれば上記二つの項目につきます。「2.」の項目は楽譜を用いて音楽を演奏することの「必要性」によって不要な場合もあります。
 一般的な「レッスン」では、楽譜を正確に・美しく演奏できるように指導者が生徒に「指導」を行います。
 生徒によって、楽譜を音にする技術のレベルが違います。楽器のよって、そのレベルも違います。ピアノとヴァイオリンでは「楽譜」に書かれた音符の数、音部記号が全く違います。どんな楽器で演奏する場合であっても、必要な技術があります。「楽譜を頭の中で音楽にする技術・能力」です。楽器がなくても、楽譜を見て音楽を頭の科で「音」にする技術です。楽器演奏の技術ではありません。
「読譜技術」とも呼ばれます。多くの場合、子供の頃に「文字」を覚える時期に「楽譜を読む」力が身に着けられます。大人になってからでも身に着けられます。
「音名」「音の長さ」「音の高さ」を同時に組み合わされて「音楽」になります。
この技術は、楽譜を見ながら楽器を演奏する人にとって、生涯ついて回ります
多くの生徒さんの場合、この技術を「ゼロ」から始めます。
同時に楽器の「音を出す」レッスンも行われます。

 指導者にとって、生徒・弟子の「上達意欲」と「練習環境」は本来は無関係です。逆(習う側)から言えば、上達したい気持ちと練習できる環境によって、指導者の「存在価値」が変わってしまいます。
「意欲」があっても「環境」が悪い場合もあります。
「環境」が整っていても「意欲」が足りない場合もあります。
むしろ、意欲がないのに「習う」事、自体が無駄な気もします。
 では、指導者は生徒の「意欲」を高めることは必要でしょうか?
「音楽学校」には音楽を学びたい人が通います。
…ともっていましたが、この頃はどうなんでしょうか?(笑)
「興味があって」「弾いたことがないけれどやってみたい」と習い始める人に、初めてのレッスンをする機会の多い私です。
 音楽学校の生徒・学生とは「次元」が違います。何よりも「意欲」を維持する指導技術が必要不可欠です。楽譜の「ドレミ」を知らない生徒も言えれば、4分音符と8分音符の違いをまったく理解していない生徒が殆どです。
 ヴァイオリンを手にして初めて出せた音に「出せた!」「お~!」という反応があります。その音を「きれいに」「長く」出せるようになるだけの練習でも、長い時間の練習が必要になります。その練習と楽譜を音にする練習を、同時進行します。この途中段階で「無理」と、楽器の練習をあきらめる人がたくさんいます。
「楽譜が難しい!」と思うのは大人です(笑)子供にとって、新しい漢字を覚えたりすることと大きな違いはありません。大人が「新しいこと」を覚える体験が少なるのは自然なことです。だからこそ「楽譜」という新しい言語に対して、必要以上に抵抗を感じてしまうのかもしれません。

 最後に「指導者」に求められる技術と感性を考えてみます。
「演奏者」に求められるそれとは、明らかに違います。
何よりも生徒・弟子一人一人の個性に対応して、指導方法を決める「柔軟性」です。同じ内容でも、生徒によって吸収できる量も内容も違います。
指導する側が指導方法を一種類しか持っていなければ、その指導に順応できる人だけが上達していくことになります。「わかる人だけで良い」と割り切ってしまうのは簡単です。指導者の「語彙(ボキャブラリー)が少なければ、伝わるものも少なくなります。生徒によって、一つの技術を習得するまでの時間=期間が全く違います。レッスンの時間内に理解してある程度できるようになる生徒もいれば、そうでない生徒もいるのが当たり前です。
 優れた演奏家が優れた指導者とは限りません。これは以前のブログでも書いたことですが、人に教えることが苦手だったり、嫌いな演奏家もいます。
また外見的には指導の場を作っている人でも、その中身は「自分のお気に入りだけを育てる」と言う指導者もいます。もちろん、指導者も生徒も人間ですから「相性」が合わない人もいます。教わる側=生徒が学び取りたいという意思を持っていても、指導者の言葉遣いや態度、性格や感性に違和感や嫌悪感を持つことは仕方のないことです。それでも!学びたいことがあれば、レッスンを受け続けるでしょう。その意味でい言えば、生徒が先生を選ぶということになります。
 指導者が生徒を選ぶことも起こり得ます。生徒の態度や言葉遣い、指導者の求める練習量や内容、子供の場合は保護者の対応など、指導する側にも生徒を選ぶ「権利」は当然にあります。一言で言ってしまえば「指導者と生徒の価値観の相違」かも知れません。レッスン時間に5分でも遅れてくることを許さない指導者もいます。逆に指導者がと遅れてくるケースもあります。お互いの「価値観」やモラルが一致していなければ、師弟関係は崩れて当たり前です。
 音楽を学びたい人と、伝えたい人が価値観とモラルを共有しあうこと。
その上で、指導者は生徒の個性に合わせた指導を行うスキルを身に着けることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介