弓の速度、圧力、場所

映像はパガニーニ作曲「カンタービレ」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは「弓」の使いかtあ。言い換えれば「音の出し方」「音の創り方」でもあります。
 声楽家にとって「発声」が基本であり同時にもっとも難しいことだと感じています。
 ヴァイオリンの「ボウイング」については、本当に多くの演奏家や指導者が書籍、動画にして自分の「流儀」を開設しています。動画の中には実際に音を出しながら解説しているものも多く見受けられます。
 ただ、学ぶ人にとっていくら説明されても、自分が演奏する「圧力」「速度」を客観的に分析することは非常に難しいことになります。逆に言えば、指導者からいくら「違う!」と指摘され「こう!」と目の前で示されても理解することは困難です。
 そこで「圧力」「速度」「場所」という三つの観点で自分の「音」を観察する手法を書いてみます。

 「圧力」とはまさに弓の毛を弦に「押し付ける力」です。この力は、右手の親指と人差し指によって生まれる「下向きの力」ですが、厳密には「魂柱に向かって×力」だとイメージすると分かりやすくなります。
天井から床に向かってかかる「垂直方向の力」に加えて、E線(ヴィオラならA線)の下に建っている「魂柱」に向かう方向の力を「圧力」と考えるべきです。
 圧力を一定に保つことと、瞬間的に変化させること、徐々に増やしたり減少させたりすることのすべてが「圧力」です。弓の毛の張り方=強さと、弓の木(スティック)の固さ=弾力性を理解しなければ、圧力のコントロールは無意味です。当然、弦の梁の強さ=テンションも関係します。弦の種類にも影響されます。後で述べる「弾く位置=駒からの距離」でもテンションは大きく変わります。
圧力の変化は「音量の変化」に最も大きく関わります。
弦を強く横に引っ張って、一気に話せば大きな「ピチカート」の音が出ます。弓の毛で摩擦を作ることで、この「横方向への力」を作っています。もちろん、松脂の粘り、弓の毛の凹凸があっての摩擦ですが、圧力を弱くすれば、横に引っ張る力が減るため、音が弱くなるわけです。

「速度」はまさに弓Gあ動くスピードのことです。
ダウン・アップの運動は「指」「手首」「肘」「肩」「右上半身」で行うものです。特に「右上半身」を使うイメージは、最も大きな筋肉の運動になるので必要不可欠です。
指によるダウン・アップは瞬間的な速さの増加と減衰に多く用いまSう。手首によるダウンアップは本来、弓と掌の「角度」によって運動の大きさ=可動範囲が変わります。
弓の毛と手の甲・掌が「平行」に近い持ち方の場合、手首による「左右=ダウンアップ」の運動は僕わずかになります。一方、弓の毛と手の甲・低野平が「45度」に近い持ち方の場合、手首の上下方向の運動を「横方向=ダウンアップ」の運動として使うことができます。ただし、弓の毛と「平行」に動かすことは手首の運動だけでは物理的に不可能です。弓の傾斜が変化するt事になります。
 肘の関節の曲げ伸ばしが、もっとも一般的に使われるダウンアップ=横方向の運動になります。ただ、弓の元部分では、肘が「鋭角=90度以下の角度」になるため、自由度が制限されます。また人によって上の長さは違いますから、単に全弓を使うことだけを意識するのは無理があります。
 右肩の運動は主に「鎖骨からの運動」です。
単純に言えば、上腕=肩から肘までのの部分の上下運動を「横方向」に使うことです。この運動は「移弦」でも当然使いますが、弓の元部分で使うことによって、肘が鋭角になることを回避できます。
 右上半身の運動。これは「背中の筋肉」を意識することで生まれる運動です。背中の筋肉を使うために、姿勢が重要になります。いわゆる「猫背」で演奏すれば、僧帽筋=肩甲骨の周りの筋肉」は伸びきった状態になり、縮めることができません。

 これらの運動を組み合わせて「速度」をコントロールしますが、圧力と速度には深い関りがあります。
・強い圧力でゆっくり動かすと、弦が振動できずに閉塞した音やがりがりした音が出ます。
・強い圧力である程度速く動かせば、大きな音が出せます。さらに速くすれば最大んの音量が出せます。
・弱い圧力なら、遅ければより弱い音、早ければ「軽く薄い音」が出せます。さらに一弓のダウン・アップで長い時間の演奏ができます。

 最後に弓の位置です。
弓の中央部分は最も針が弱く、先・元は毛の梁が強くなるように「張り方」を調整します。
その上で、駒の近くを弾けばより、強い圧力をかけることができ、高音の成分が多い「明るい音」が出せます。
駒から離れた部分になると、テンションが下がり、柔らかい音・くすんだ音を出すことができます。当然ですが、弓と弦の当たる位置は弓を動かせば変わります。その時々で弓の「強さ」が連続的に変化することになります。
弓の「弾力」を感じながら演奏することを忘れないことが大切です。

 どんな曲であっても、すべての音に「発音」と「途中」と「終わり」があります。そのすべてに意識を持てるようになれば、自分の好きなような歌い方に近付けると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「脳」

 映像はシューベルト作曲「セレナーデ」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。歌曲を「言葉抜き」で演奏するわけですが、原曲の歌詞の内容を知ってから演奏することも大切な準備です。

 今回のテーマは、演奏者に必要な「考える力」についてです。
学校のテストの成績や学歴が高いと「頭かが良い」という事がありますが、多くの場合「記憶する能力が高い」ことを指しているように感じます。何かを覚えることは、脳の働きによる結果です。逆になにかを忘れることも同じく、脳の働きです。
「記録力」以外に、推理したり想像したりする脳の働きがあります。
計算とは違い、正解のない「問い」に対して、より良い「答え」を導き出す能力でもあります。

 演奏する音楽を覚える方法も様々です。「聴いて覚える」「楽譜を見て覚える」その両方を組み合わせる方法など、人によっても違います。自然に覚えてしまうこともあります。無理やりに覚えようと努力することもあります。結果として「思い出せる」ことが目標になります。覚えるという事は「思い出せる」ことです。

 推理したり想像する場合、ある時突然にひらめくこともあるかも知れません。が、多くは「頭をひねる」つまり「考える時間」が必要になります。これは、音楽に限らず「物を創る・造る」場合に必要不可欠なことです。人間は自らの経験をもとにして、なにか新しい「物」「事」「方法」を探します。つまり「記憶」に頼る部分が大きいことにもなります。
子供と比べて大人の記憶力が劣ったり、物忘れが多くなる原因の一つが「新しいことを覚える機会の減少」があります。生きるために必要なことを一通り覚えてしまたら、意図して何かを覚えようとしない限り、ほとんど「慣れ」だけで行動します。

 演奏したこのある音楽でも、毎回「新しい想像」をする人と、しない人がいるように思います。漫然と「音を出す」だけの技術を使い演奏する場合には「脳」は使わなくても演奏できます(笑)逆上がりができたり、自転車に補助輪なしで乗れるようになれば、何十年経ってからでもできることがその証です。無意識に記憶している演奏技術を使えば、何も考えなくても「音H出させる」のです。

 演奏中の「一瞬」に何を考えているでしょう?
次に演奏する音の「音名」「高さ」「長さ=音符や休符の種類」「音の大きさ」「ポジション」「弦」「指使い」「弾き始める弓の場所」「弓のダウンアップ」と、弦楽器の場合を書きましたが、それぞれの楽器で考える「準備」があります。
 次の音だけで演奏が滞りなくス数課と言えば?例えば短い音符が連続するパッセージでは、1拍分や1小節分を読み取り考えます。
ゆっくり歩くなら足元を見ながら勧めますが、車で高速道路を走る時には、相当前方にも目をやっているはずです。
 演奏しながら聴く自分と他の人の「音」に反応することも、脳の働きです。
耳鼻科などで行い検査「聴力検査」とは違います。音に反応して、ごく短時間で反応する「速さ」と「正確さ」と「同時に反応する能力」が求められます。
「考えなくても反応できる」ようになるまでにかかる期間・時間は人によって違います。同じ年齢の子供でも、その個人差は非常に大きなものです。
反応が速く、修正する方法があっていると「耳が良い」と言われます。
特に自分の出している音への反応は先述の「次の音」を考える作業と同時に行われます。つまり「次の音」と「今、出ている音」を常に考える脳の働きです。

 私自身、視力Gあ低下し楽譜を見ながら演奏することが出来なくなってから、多くの事に気が付きました。
以前は「初見で演奏する」ことが出来ました。初めて演奏する曲の楽譜を「見ながら」演奏し、考えたことを楽譜に書き込みながら練習しました。その延長として「楽譜を見なくても演奏できる」つまり暗譜の状態になります。
 楽譜を見ながら演奏することが当たり前だったわけですが、それが出来なくなってみると、生徒さんが「視覚に頼りすぎている」気がします。
「楽譜」「左手の指」「弓と弦の接点=駒の上」などを、見ながら演奏している生徒さんが、ある一瞬「なにに集中していたか?」聴いてみると、
「なんとなく楽譜を見ていた」「なんとなく左手を見ていた」という答えがもっとも多いのが実態です。むしろ「何も考えていない」状態に近いのです。

「感じること」と「考えること」は別のものです。五感で感じるものは「外的刺激」によるものです。一方で、考えることは外的な刺激がなくても想像できる「イメージ」です。言うまでもなく、イメージは実態がないものです。見えない・触れないものですが、明らかに存在するものです。楽譜と言う2次元的なものから何かを感じるためには、記号を「音」にする技術が必要です。想像力と集中力、さらに同時に考える能力を見tにつけるために、演奏者は「運動」以前に「思考」をすることが絶対に必要です。
中学校の「教科」で言えば、「国語・数学・理科・社会」にまたがる「理解力」が必要だと思っています。
・文章を作る技術
・速度や長さ、時間を珪砂する能力
・音が出る仕組みや音の他kさに関する知識
・歴史や地域を考える力
もちろん、美術や体育、語学の能力・知識も仏ようになることもあります。
いずれにしても「思考」することが音楽を作る上で、最も大切であることを忘れてはいけないと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽(器楽演奏)の個性

 映像は私と浩子さんが初めてのデュオリサイタル(2008年)に演奏した、ドボルザーク作曲「ロマンティックピース」からの2曲です。
 この曲に限らず「クラシック音楽」と呼ばれるジャンルの音楽は、基本的に作曲家が書き残した「楽譜」の通りに演奏することが原則です。言い換えれば、演奏者は楽譜に書かれた「記号」を音から、さらに「音楽」として演奏することが求められます。
 ポピュラー音楽の世界でも「楽譜」が用いられることは珍しくありません。逆に楽譜を一切使用しない演奏者もいます。
 楽譜は「台本」に似ています。演者が文字を「演劇」や「朗読」で表現することと、ほぼ同じことです。「アドリブ」が許される範囲は様々です。クラシック音楽も同じです。ただ「許されないアドリブ」があるか?と言われれば、本来はどんな演奏であっても「演奏者の自由」であることは否めません。聴く人の好みにもよります。
 楽器で音楽を演奏する「器楽」の場合、歌と違い「音色=声の違い」はありません。楽器によって音色は違いますが、人間の声ほどの違いはありません。
 演奏する人の「個性」はどこに表れるのでしょうか?

「解釈の違い」と言う言葉は楽譜や文章に書かれた、事・現象を読み手・弾き手がどう?感じ取るかの違いです。
同じ文章を読んでも、人によって違う意味に取れる文章もあります。楽譜の場合も同じです。

「演奏するテンポの速さ」「音量」「音色」「フレーズの切れ目」「揺らし方」など、演奏の個性を左右することはいくつもあります。「表情」や「姿勢」「動きの大小」は視覚的なものであって、音とは別のものです。
当然、音楽に影響する動きもあり,逆に音により感情が表情に出てしまう場合もありますが「音楽があって」の話です。

 個性に優劣=序列をつけることは不可能です。「〇△さんの個性は世界一だ」って言いませんよね?むしろ、個性を引き出すことが技術だと言えます。

 そもそも、楽譜には「音の高さ」「リズム」が主に記されています。「音の大きさ」も書かれていますが数値的な絶対値ではありません。
曲のテンポを数値で指定されている曲もありますが、多くの場合には演奏者の自由が許される範囲があります。

 「曲全体のテンポの違い」と「音量差」だけが個性による違いでしょうか?
 一音ごとの「音量」「長さ」「音色」にこだわり、曲全体を仕上げること。その演奏は「一度だけ」で評価されるものです。録音物での評価は、人間の演奏を「記録した」ものであり、演奏する場で創られる「音の芸術」とは次元が違います。聴く人間が感じることも、時により変わります。
 録音物を初めて聴いた時の印象が変わっていくこともあります。

 最後に「個性的な演奏」について。個性の感じられない演奏を考えればわかることです。「楽譜に書かれたとおりに演奏する」ことを「正確な演奏」と言います。間違えないことに「個性」はありません。速いテンポで正確に演奏できる「だけ」でも個性は現れません。
「人と違う演奏」だから個性が強いとも言えません。単に奇抜な演奏と評価されても仕方ありません。
「個性」は演奏する人の「性格・好み」が現れることもあります。例えば、せっかちな人の演奏・勝気な人の演奏など。逆に普段の行動や表情からは想像できないような演奏をする人もいます。

 演奏の個性は、演奏者のこだわりの結果です。音楽は「曲」によってすべて感じるものが違います。一緒に演奏する人の「個性」も含め自分が納得できる演奏に個性が生まれます。当然のことですが、一曲の「個性」が出るまでに必要な時間があります。間違えない演奏のために努力する時間も必要です。
楽譜が同じだからこそ!個性を感じる演奏を心掛けるのがクラシック演奏だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を奏でて生きること

 映像は、ドビュッシー作曲「亜麻色の髪の乙女」
今回のテーマは、趣味であっても職業としてであっても「演奏」することを続けていく人の「幸福感」について。もちろん、好きな音楽を聴くことも人によってかけがえのない楽しみです。音楽を奏でるために…自分が楽しめる演奏をするために、練習することも音楽を奏でている事に変わりありません。人の前で演奏するのも、一人で練習するのも「音楽を奏でる」ことなのです。

 奏でる音楽がロックでもクラシックでも、人間が演奏するなら同じ「音楽」です。とは言っても現代の私たちが「聴く」音楽は生演奏よりも、はるかに「機械からでる作られた音楽」が圧倒的な数です。それでも、人間が作った音楽を、人間が演奏しているという前提で言えばかろうじて「人間の音楽」と言えるのかもしれません。要するに、聴く側の立場で言えば「生演奏」でない限り、人間が演奏していても機械の音でも「音楽」であることに変わりないことになります。

 一方で「演奏する」立場になると、楽器の種類にもよりますが自分の演奏技術=演奏技術・音楽のクオリティーになります。私の知る「電子オルガン」ヤ〇ハ製なら「エレ〇トーン」は、内蔵されたコンピューターにデータを入力し、再生時にそのデータと「一緒に」演奏するイメージがあります。極論すれば、演奏者がいなくても音楽は再生されるはずです。否定しているのではなく「楽器の種類が違う」のです。
 エレキギターであっても、クラシックギターであっても演奏する喜びは変わりません。ロックバンドでもクラシックのアンサンブルでも、お互いを思いや気持ちが第一であある事は変わらないことです。
 音楽を演奏することは、ある意味で「生きるために必須」なことではありません。なくても人は生きられます。光や空気、水がなければ生命は途絶えますが音楽がなくても生活できます。その「なくても死なない」演奏に楽しみを感じるのは、「知性があるから」です。言ってみれば「遊び心」です。演奏は遊び心が必要だと思います。「命がけの演奏」なんて聞きたくないと思いませんか?悲壮感の漂うコンクールの演奏風景を見ていると、音楽を楽しむ気持ちにはなれません。

 練習を楽しめるのか?と言う素朴な質問を良く耳にします。
私は「楽しくない」と正直に答えます。ならば「人前で演奏するのが楽しいのか?」と聴かれて率直に「はい」と答えるほどの自信もありません(笑)「ならば!なぜ?人前で演奏するのか?」きっと、練習も演奏会も含めて音楽を演奏するのが好きだからなのだとしか答えられません。
 音楽の学校に入学するために練習した時期もありました。音楽の高校・大学で試験のために練習した頃に「練習が楽しい」と感じたことはありませんでした。「合格するため」「良い成績を残すため」に練習していた…のだと思います。
 今、演奏が好きだから練習し人前で演奏する自分は、そんな「若い頃」があったからこそ存在しています。コンプレックスに苛まれ、挫折感を日々感じ、練習しても成績の上がらない年月を過ごしました。
多くの学友がいます。今も第一線で演奏活動を続けている仲間もいます。音楽大学で教鞭をとっている人もいます。クラシックではないジャンルの音楽演奏を続けている仲間もいます。それぞれに「音楽」と未だに関わって生きている人たちです。家庭で家事・子育てや、音楽以外の仕事をしながら「時々」音楽を演奏する人もいます。みんな「音楽仲間」です。
 若いときに味わった「苦さ」こそが年齢を重ねて「味わい」になる気がします。若い頃の「甘さ」は逆にほろ苦くさえ感じます。還暦を過ぎ、後半の人災を「音楽と共に遊ぶ」ことができれば、悔いのない人生のように思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「その道」に求められるもの

映像はボーム作曲「アダージョ・レリジオーソ」をヴィオラで演奏したものです。
 さて、今回のテーマは「その道」言ってみれば「専門家」や「プロフェッショナルッショナル」「達人」などを表す表現ですが、それぞれの「道」で必要な知識や技術・経験が違います。当然のことですが、「道」を知らない人人にとっては、その道の険しさや極めるまでのプロセスにつちえ、知る由もないことです。それなのに「あの人の技術は」なんちゃらかんちゃら(笑)と自分がその道を究めたかのような発言をする人がいます。私はその手の「えら増人間」が大嫌いです。はい。言わずもがな…ある道を究めようとした人にとって、その険しさを知れば、同じ道を究めようとする人が、道半ばであれば応援する気持ちこそあれ、蔑む言葉は口に出来ないのです。

 自動車の運転を「極める」道を考えても様々な道があります。
F1パイロットになるための道もあれば、タクシーの運転手、バスの運転手、大型トラックの運転手などすべての「道」が違います。必要な技術・知識も違います。
 料理を作って提供する「道」でも、中華・イタリアン・フレンチ・懐石料理・寿司など、すべての「道」が異なります。
 一見、誰にでも真似のでき増な「専門職」であっても、極めようとした人だけが知る「険しさ」があるはずです。家事全般を考えても言えることです。誰にでもできる?いやいや!毎日、家族のご飯を作り洗濯をしたり、掃除をしたり買い物をする「家事」は誰にでもできることではないのです。
「サラリーマン」であろうが「OL」であろうがそれぞれの「道」があります。

 音楽…ヴァイオリンとヴィオラしか(とも言えず笑)演奏できない私が感じる「自分の進む道に必要な技術と知識と経験」があります。
 聴いてくださる方にとって「求める演奏・音楽」があります。
 私が演奏し、表現しようとする音楽に「共感」してくださる人がいれば、本当に幸せなことです。私自身が自分に足りないと思う技術があるように、聴く人にとって別の「不足」があるのは「当たり前」のことです。聴く人が二人いれば、二通りの「求める演奏」があります。演奏者も入れれば3通りです(笑)

 技術の序列や勝敗が、客観的に判断できる「道」もあります。戦術のF1の場合「結果」は順位やタイムです。もちろん、パイロット=ドライバーだけでは勝てません。メカニックとスポンサーが不可欠です。
 ボクシングも勝敗で序列が付きます。勝てば多額のファイトマネーが手に入りますが「死」とも向き合う覚悟が必要です。

 芸術や医学、研究などの場合「序列」がどの程度?明確でしょうか?
 評価は「音楽を聴いた人」「治療を受けた人」が下すものです。選ぶ権利と責任は「聴く人」「患者」にも多分にあります。
音楽なら「聴いてみなければ」判断できません。医療なら「治療を受けてみなければ」判断できません。結果として満足するか?しないか?は、個人によって違うはずです。病気を「完全に」治せたとしても、完治するまでの時間と患者の「苦悩」は一概に比較できません。

「道」は無数にあります。人の数に、無数の「道」があるのです。同じ道はありません。自分の進む道を自分で作るのが人間です。他人の作った道は歩めません。他人の道を「遠回り」とか「無駄」と言う資格も権利もありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介