他人の評価より自分の判断に自信を持つ!

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 映像は角野隼人さん=Cateen=かてぃんの「Cateen’s Piano Live – Summer ’22」です。ショパンコンクールでの活躍、ユーチューバーとしての活躍、ジャズピアニストとしての活躍、ストリートピアニスト、フランスパリでの「社会人」としての一面など、本当に多くの顔をがあることは皆さんもご存知だと思います。
 今回の辛口テーマは、特に現代日本人に多く見られる現象を考えるものです。

 自分の感覚、考えよりも「他人の評価」に流される日本人が多いのはなぜでしょうか?
・他人との関りを避けたがる
・付和雷同が良いとされる風潮
・出るくぎは打たれるという風潮
・考えて選ぶことを面倒くさがる風潮
他にも色々考えられます。日本人特有の「内面的」な性格も根底にある気がします。自分の意思を相手に表現することを「失礼」だと感じる国民性なのかも知れません。

 誰かが美味しいと評価したお店に行きたがる「気持ち」は誰にでもあります。
知らないお店に入って、料金に見合わない「まずい」と感じる料理を食べるのは誰でも嫌ですから。誰かが食べた「感想・評価」を参考にしたくなるのは無理もありません。ただ…その感想や評価を「信じられるか?」と言う疑問もありますよね。いわゆる「クチコミ」が怪しいのは誰でも知っています。良い評価も悪い評価もあって当たり前ですが、悪意を持って悪く書く人、お店に言われて良く書く人も多くいるのは否めません。完全に信じられる情報は、恐らくどこにも存在しません。それでも参考にしたくなるのが人間ですよね。

 自分が作った料理を自分だけが食べるとします。味付けに失敗したり、多少焦がしてしまっても「まぁ、食べられるからいいや」と思いませんか?
 でもその料理を、自分が大切に思う人に「どうぞ!」って出せるでしょうか?(笑)笑いのネタにするなら別ですが、普通は…作り直しますよね。
 自分が美味しいと思った料理でも「お口にあえば良いのですが…」と、謙遜するのが日本人です。相手への手土産も「つまらないものですが…」と渡す人が未だに多い日本です。「口に合わないと思うものを出すのか?」「つまらないものを相手に渡すのか?」と考えるのが欧米人の考え方です。むしろ自然な気がします。「謙遜」の気持ちが相手に伝わらない場合もあるのです。
自分の感覚に自信を持って、相手にも喜んでもらえると信じること。
日本人に一番足りない、できないことかもしれません。

 それは「思い込み」にも通じています。
自分で考えて判断したことは、初めに思っていた「正しいこと」でも、違う情報を知ってさらに考え直し「間違っていた」と考えを改めることができます。
ところが自分で考えず「誰かが言っていた」「周りの人が話していた」ことだけで判断した人の多くは、違う判断をする考えを聴いても、やはり考えるのが嫌なので最初の判断に固執します。これも日本人特有の「人を疑うのは悪いこと」という伝統化も知れません。でも「人を見たら泥棒と思え」というコトワザがありますね(笑)
 言うまでもなく、自分で考えて判断することが最善策です。どうしても判断が付かない場合もあります。その時「どちらが正しいかわからない」と言う結論を出せる人と「どっちか!」に決めたがる人に二分されます。
 判断できない原因は「頭が悪いから」では決してありません。情報が足りないからなのです。その情報を積極的に知ろうとしない人は、いつまでたっても判断できないか、鉛筆を転がして(笑)どちらかを無理やり選ぶタイプの人です。

 自分の考えで判断する能力は、音楽を演奏する人にとって、絶対に必要な能力です。他人が「良い」と言ったものだけを選ぶのは簡単です。「これにしなさい」と言われて疑わず・考えずに従うのも簡単でらくちんです。その繰り返して「自分らしい演奏」や「自分が満足できる演奏」ができるはずがありません。なぜなら「他人の価値観」で音楽を考えてしまうからです。
 話は少し逸れますが、昔母校の桐朋で高校生を教えている作曲家の先生と、仙川の喫茶店でお話している時の事です。
「音楽高校で制服がある学校、あるだろう?あれ、最低だよ!」
と言うお話でした。その先生のお考えに同感しました。要するに、これから自分の演奏が自分に「似合うか?似合わないか?」を判断すべき音楽高校生に「これを着なさい」と言う制服を着させることはナンセンスだという事です。
制服の「意味」はあります。ただそれ以上に大切にすべきこともあります。
 高校生にもなって、自分が毎日着て歩く「服装」「容姿」を考えられない人間が音楽家になれるとは思えないのです。高校生が過ごす多くの時間を「制服」で過ごさせるよりも、自分で選んだ服装や髪形、装飾が似合っているか?を知ることがどれだけ有意義な事かを、音楽家を育てる学校と教員が理解できないとしたら、ラーメン屋の修行で、ひたすら冷凍ラーメンを「レンチン」して過ごさせているのと何も変わらないと思うのです。すし職人を目指す人が、毎日スシローのお寿司だけ食べて作ったお寿司、食べたいですか?(笑)
若い時から自分で考えて、自分の感覚を試す経験が必要です。大人になっても同じですよね。年齢相応の「いでたち」が出来てない高齢者って、悲しくないですか?私は「チョイワル爺」にあこがれてます(笑)

 自分の価値観を大切にすることと「わがまま」や「唯我独尊」とは違います。他人の考えを「情報」として取り入れる能力がなければ、そもそも自分で考えることはできません。日本人政治家で「妖怪」もどきの高齢者が、記者の問いに応えない姿を見ると、その政治家の家族がご苦労していることを想像します(笑)
ただの「く●じ●い」を「政治家先生」と呼ぶ日本人の情けなさも痛いです。
 「老いては子に従え」というコトワザは、現代の日本に最も当てはまる言葉だと思います。若い人たちの元気がないのは、高齢者に責任があります。
音楽家を育てるのは?音楽家です。決して「年長者」ではありません。
自分の音楽に確信を持つことは、生活のすべてに関わることです。
「言われなければできない」「自分で考えて動けない」面を自分で改めることが、自分の音楽を見つけるために必須なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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