固定観念の弊害

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 映像は、Youtubeで放映された番組です。
ゲストとしてインタビューを受けている方、調律師の江頭さんと仰る方で、
私たち夫婦との出会いは、偶然が重なった奇跡的なものでした。
 当時、私が教えていた生徒さんの地元でコンサートの依頼を受けました。
初めての会場に到着したものの、ホールには主催者がいない…
「まだ見えていないようですね」と声を掛けてきてくださったのが、調律を頼まれていた江頭さんでした。コンサート後の打ち上げでもご一緒しました。
 その後、豆腐レストラン「梅の花」でコンサートを依頼された時には、電子ピアノとPAの準備をすべてお願いしたのも江頭さん。
 その後、教室の発表会やメリーオーケストラ定期演奏会での調律を毎回お願いしています。その江頭さんを表面的にしか存じ上げていませんでした。
 昨年の秋に、調律をお願いした会場の舞台で、初めて江頭さんからお話を伺って、へぇ~!っと素直に驚きました。とは言え、特別な違和感もなく普通に受け入れられました。

 私たちは、生まれ育った環境や、時々の文化の中で生きています。
人類の歴史のすべての記録があるわけではありませんが、古代から人間は
「個体差」のある生き物でした。その差で不当に差別をしてきた史実があります。生まれながらに持っている差もあれば、成長とともに明らかになる差もあります。
 肌の色、目の色、骨格、身長、話す言葉、生まれた国などの外見的な違いで、差別をしてきた歴史があります。生まれついての違いです。四肢が多くの人と違うだけで、差別をしていたこともあります。
 見た目にわからない個体差は、もっと陰湿な差別を生みました。
私の病気(網膜色素変性症)も見た目にはわからないものです。
 大きな集団の中で、少数=マイノリティは、多数=マジョリティに対して
いつの間にか委縮した考えを持ちやすく、逆にマジョリティ側は、少数者に対し「意味のない優越感」を持ちやすいものです。

 ここ10年ほどの間に「ヘイト」という言葉をよく耳にするようになりました。
間違った使い方をする集団が政治組織にも見られます。
本来、ヘイトとは「差別を基に個人や集団を貶める」ことです。
喧嘩で相手に対して「ばかやろう」とか「あほ」と言った罵詈雑言は、度を過ごせば「名誉棄損」に当たる場合もありますが、ヘイトとは言いません。
 またその手の人たちは、マイノリティ側がマジョリティ側に対して「ヘイト」をしていると、意味不明なこともおっしゃいます。
 日本国内で、たとえば身体に障がいを持っている人は全体の約2パーセントと言われています。その人たちが、98パーセントの健常者に対して「日本から出ていけ」って、誰が考えても無理ですよね?
 一方で、少数の人たちを援助する法律を切り捨ててしまうことは、法的に可能であり、もしもそうなれば障がいを持つ人たちは、生きていくことさえできなくなります。「ヘイト」の意味を知らずに使うのは、やめて欲しいものです。

 さて、私のライフワークである、NPO法人メリーオーケストラの活動は、青少年の健全な育成と音楽の普及を目的としています。
 子供たちの考え方は、一般的に大人と比べて未熟なものです。
その子供たちに、間違った固定観念を植え付けているのは、私たち大人なのです。
 音楽を幼児や小児に教えていると、当たり前のように学習能力に差があります。それが当然ののです。同じ環境で育った「兄弟姉妹」でさえ、みんな違います。それは能力の差ではなく、個体差なのです。一卵性双生児でも、好みが違い性格も違います。
 他方で、医学的な診断で学習障害を持つ子供もたくさんいます。
程度は様々です。どこから障がいなのか、安直に線を引くことはできません。
 注意欠陥・多動性障害(ADHD)の場合も、中学・高校で20年間教諭を務めていて、幾度となく対面しました。しかし、それも判断は安直には出来ません。

 悲しいことに、私たちは自分が人より優れていると言われたり、思ったりすると気持ちが良いことを知っています。逆のことも知っています。
 自分は優れていて、「あの人・あの子供」は劣っていると思うことに抵抗感がないのも現実です。自分や自分の家族が言われると、許せないのに。
 自分の知らないことより、自分の知っていることが正しいと思いたがります。
前年に担任していた生徒が、自分の性同一性障害(GIDを親に認めてもらえず、自ら命を絶ってしまった経験があります。こんな悲劇が現実にあるのです。
 「弱いからだ」と言う人がいます。
その人がどんなに強い人か知りませんが、人の痛みを思うことのできない人間が、強いはずはありません。

 自分の知らないことの方が、たくさんあるのです。
知らないがゆえに、無意識に他人を深く傷つけていることがあります。
私の母は「認知症になったらバカになる」「認知症はダメな人間がなる」と
死ぬまで思っていました。いくら否定しても、自分が認知症であることを、自分で否定しきれず、私たちの言葉に耳を傾けず、苦しんでいました。矛盾していることをわかっていても、固定観念を変えることが出来なかったのです。

 私たちの周りには、たくさんの人がいます。
自分と他人は、すべてが違う人間だと思うべきです。
自分と同じところ、似ているところがあるかも知れません。
でも、それは目に見えることだけなのです。
他人を肯定することは、自分を否定されないことです。
「LGBT」 レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(性同一性障がい者を含む、心と出生時の性別が一致しない人)のアルファベットの頭文字を取った言葉で、「性的少数者の総称」として用いられることもあります。
 上の説明を読んで、あぁなるほど!と思ってくれる人が、一人でもいたらと思っています。
 私たちが出来ることは少ないかもしれません。
本当の意味で理解することは、本人でさえ難しいことだと思います。
それでも、「固定観念」を捨て、知識として感覚として、他人の個性を大切にすることは出来ると思っています。
 子供たちに、間違った差別を教えるのはやめましょう。
みんな、地球に生まれた同じ人類なのですから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介

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