母に贈る感謝

このエントリーをはてなブックマークに追加

 2020年6月3日の早朝、私(謙介)の母が父を追って天国に旅立ちました。
あれから丸2年の月日が流れました。もう?まだ?どちらにも感じます。
穏やかに最期の時を迎えられたことが、何よりの救いでした。

 父も母も生まれは岡山県。昭和4年生まれの父と6年生まれの母。
戦後を息抜いた両親の間に、兄と私の二人兄弟。
父は決して裕福ではない家庭の長男として生まれ、3人の妹を支えるために勉強し、京都大学に進み、当時の富士銀行に就職。一方の母は、一代で会社を築いた父の長女として恵まれた環境で育ったお嬢様。
 そんな二人の間に生まれた兄は、幼いころから勉強とスポーツの出来る「優等生」で父のスパルタ教育を受けて育ちました。5つ年下の私は、生まれつき心臓に病気が見つかり、その後治療不能の目の病気と診断され、病弱な幼少期を過ごしました。
 銀行員はとにかく転勤が多く、私は東京渋谷区で生まれ、すぐに札幌の社宅に引っ越し。当時心臓が弱く、列車と船での移動は無理と診断され、銀行は特別に「飛行機」での移動を認めたそうです。3歳頃に、代々木上原の社宅に引っ越し。小学校入学は「上原小学校」その後、岡山県倉敷市の社宅に引っ越し。田んぼの中の一軒家社宅。「倉敷東小学校」へ。この頃に、ヴァイオリンを習い始め、少しずつ健康な生活が出来るようになってきた小学校2年生が終わるころに、東京都杉並区荻窪の社宅に引っ越し。「荻窪小学校に転校し小学校5年生途中まで友達と元気に遊ぶ少年になりました。その後、東京都小金井市に父が念願のマイホームを建てて引っ越し。「緑小学校」に転校しこの頃に、久保田良作先生のお宅を訪ね、図々しくも弟子入りさせて頂きました。当時は奥様の「由美子先生」にレッスンをしていただいていました。その後、「緑中学校」に入学したときから、良作先生のレッスンを受けることになりました。
 両親は、私たち兄弟が独立した後も、二人で小金井に暮らし続けましたが、父が前立腺がんの告知を受けてから、生活が激変しました。やがて母の認知症が判明し、進行していることを父は私たちに隠し続けました。
 ある年末に、父がインフルエンザを悪化させて救急車で杏林大学病院に搬送され、即入院。これがきっかけで、両親ともに施設で暮らすことを承諾。
 その後は、兄の住まいに近い有料介護施設に、ふたり隣同士の部屋で入居。
父が老衰で亡くなったときには、すでに母の認知症は父の死を覚えていられない症状でした。その後も、母は施設で暮らしましたが、幸い大きな病気にもならず、数日間の入院があった程度で平穏に暮らすことができました。
 母の認知症は、途中「ものとられ症候群」で施設の中でトラブルはあったものの、その後は、穏やかに生活できていました。亡くなる数週間前から、食事をしなくなり、水も飲まなくなり、それでも会話は出来ていました。亡くなる数日前に、施設に面会に行った時、車いすでロビーまで連れて来られた母と、何とか会話ができたのが最後の会話でした。施設の出口で手を振る母が、生きている最後の姿でした。

 母に最期の生演奏を聴かせられたのは、もうずいぶん前のリサイタルです。
両親ともに、葬儀が大嫌いでした。数人の身内だけで、ふたりを送りました。
実は上の映像は、母の通夜と告別式の際に、式場でひっそりと流していた音楽です。安らかな終焉を迎えられた両親に、今更ながら「子供孝行な親だな~」と思います。それなりに介護はきつくも感じました。ただ、それは肉親として当然の事でした。浩子にしても義理の姉にしても「家族」として本当に私たちの両親を支えてくれました。尊敬しています。家族とは…それを教えてくれました。
 音楽を演奏する息子を、誇らしげに話していた両親でした。
相変わらず兄は音楽に「縁がない」スポーツ系おじいさんですが、仲良し兄弟になってしまいました(笑)
 両親に感謝することを、両親が生きている間に出来ていなかったのは事実です。だからと言って、後悔しても仕方のないことです。自分がこの先の人生を、両親への恩返しとして、ひとりでも多くの人に、音楽と笑顔を届けて暮らすことが、両親への感謝になるのかな?と思っています。
両親が生前に、お世話になった多くの方々に、改めて俺を申し上げます。
ありがとうございました。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です