「歌」を「弾く」

いつものように、なんじゃこりゃ?なテーマです。
歌は普通、言葉をメロディーに乗せて、言葉の内容と音楽を同時に表現します。
それに対し、弾くという言葉は、楽器を演奏することを指します。楽器で言葉を完全に表現することはできません。
当たり前の違いですが、歌を楽器で演奏することも良くあります。
クラシックの音楽の中でも、原曲が歌曲だったものを、器楽で演奏する楽譜に書き直したものも多くあります。
まれに、その逆のケースもあります。
有名なところで言えば、ホルストの作曲した「惑星」という組曲の中の「ジュピター」に歌詞をつけた歌。きっと聞いたころのある人も多いでしょうね。むしろ、元々が管弦楽のための曲であることを知らない人もいますから。
どちらも私は、大いにあり!だと思っています。

さて、歌の場合には人間の声域を基準に旋律が出来ています。
多くの人が歌を歌う場合、1オクターブ程度の音域で歌えるように作られています。歌う人によって、歌いやすい高さが違うので、「キー」つまり調を変えて(移調=トランスポーズ)歌うことが一般的です。
一方で、器楽の場合には楽器よって演奏できる音域が決まっています。特に、最低音は多くの楽器で「それ以上、低い音が出せない」ことが決まっています。
例えばヴァイオリンであれば、ト音記号で下加線2本の下にある「ソ」の音が最低音です。多くの女性の声の最低音も、この「ソ」の音になります。
ヴィオラの場合、その「ソ」から下に、「ファ・ミ・レ・ド」と下がった「ド」の音が最低音です。たかが「5度」されどこの5度は、聴感上大きく違います。
当然、チェロはさらに低い音、コントラバスはもっと低い音が「最低音」です。
ピアノは、オーケストラで使用されるすべての管楽器・弦楽器の音域より広い音域を演奏することが出来ます。88個の鍵盤でそれだけの音域をカバーしています。つまり、どんな人の歌でもピアノなら、演奏することが出来ます。

話を本題に戻します。
多くの歌には「歌詞」である言葉があります。例外もあります。
ダバダバダバダバ(笑)や、ラ~ララララ~、ルル~ル~ルルル~
ラフマニノフが作曲したヴォカリーズという歌は「アアア~」だけです。本当の話です。例外はともかく、意味のある言葉を歌っている「歌」を私はよく「ヴィオラ」で演奏しています。ヴァイオリンではなく、わざわざヴィオラにする理由は?

ヴァイオリンの音色と音域は、聞く人の固定観念で、聞いた瞬間に「ヴァイオリンだ!」と思い浮かんでしまいます。それはそれで当たり前です。
一方で、聞く方が知っている歌を、楽器で演奏した場合、頭の中で「声と歌詞」の記憶と「ヴァイオリンの音色」が、溶け切らない現象が起きるように思っています。特に自分の好きな歌手の声で歌っている歌は、その歌手の「声と歌詞」が結び付いて記憶されています。違う人が歌う同じ曲に違和感が強いのは、そのせいです。楽器で弾くと、単に「言葉がない」だけではなく、音のイメージも違うのでさらに溶け切らない原因になっていると感じています。
だからと言って、ヴィオラで言葉は発音できません。でも「た」と「は」の違いは微妙に区別できます。「は」と「あ」は区別して演奏することは困難です。つまり「子音のアタック」を変えることで、少しだけ言葉に近い発音ができます。
加えて、言葉のアクセントは音の強弱ですから、楽器でも表現できます。
ただ、歌の旋律が、音の高低(イントネーション)と合っていない場合も多いのが現実です。
ほたるのひかり まどのゆき
を口ずさんでみてください。
ほたるの「た」が高くなっていますよね?
でも標準語では「ほ」を高くするのが正しいイントネーションです。
こんな例は数限りなくあります。気にしなければそれでよいのですが(笑)

私は生粋の日本人でありまして、日本語以外が苦手です(言い訳にもなっていない)
日本語以外の歌詞の歌を演奏する時には「言葉の意味」ぐらいは理解して演奏しようと心掛けていますが、間違っていることも…。すみません。
得意の日本語の歌の場合には、ヴィオラを弾きながら、言葉の子音、アクセント、意味を考えながら演奏しています。
『生きてゆくことの意味 問いかける そのたびに』
という「いのちの歌」の出だしの歌詞。
弓のアタック、圧力。左の指の圧力、ヴィブラート、意味を考えながら音を出します。
なので、歌詞を思い出せなくなると
止まります(爆笑)
いや笑ってすませられないのですが、本気で焦ります。
そんな「無駄?」なことを繰り返し練習しております。
言葉が思い浮かんでいただける演奏を目指して…

歌うヴィオリスト 野村謙介

芸術家は貧乏?

今回のテーマは、かなりシリアスです(笑)
そもそも、職業欄に「芸術家」って書ける人、いるのでしょうか?
どうやってお金を稼いでいるかによって、職業が変わります。
たとえば「音楽家」と言われる職業は?
作曲をして出版会社や放送局、音楽事務所からお金をもらえば、職業=作曲家。プロのオーケストラで所属する組織からお金をもらえば、職業=演奏家。
音楽教室で音楽を教えれば、職業=講師。
学校で音楽を教えれば、職業=教育職員(教員)
つまり、一言で音楽家と言っても様々です。
厳密に考えるともっと細かくなりますね。
それら「音楽家」を「芸術家」と称することがありますよね。

芸術家。アーティスト。聞こえは良いですが、定義があいまいすぎます。
そもそも、職業として成り立っていなくても、芸術家はいるように思います。
職業は八百屋さん。で、素晴らしい演奏をする人がいたら、この人の職業は「八百屋さん」であり、演奏は?趣味?アマチュア?でも、その演奏が多くの人を感動させるものだったら、芸術家とか音楽家、演奏家と呼ばれるでしょうね。
もっと極端な場合、収入がない人が、お金をもらわずに素晴らしい絵をかいたら、「無職」の芸術家。
芸術の定義を「人間の行為で他人を感動させるもの」だとしたら、お金とは結び付かなくても芸術は存在します。

話を具体的に絞って、音楽大学を卒業した人が演奏で人を感動させれば「芸術家」と言えるのでしょうか?対価としてお金をもらえるか?は別の問題かも知れません。逆から言えば、誰かから演奏の対価をもらったとしても、人を感動させられなければ、芸術家ではなく、職業=音楽家ですよね。
音楽大学を卒業した人が、どれだけの技術を持っていても、対価を払う人がいなければ生活のために、違う職業に就かなければならないのが現実です。それでも、その人が演奏を続け、人を感動させられれば、立派な芸術家だと思うのは間違いでしょうか。芸術家=貧乏で良いわけがありません。自分を感動させてくれる演奏をする人や、作品を作る人が貧乏で喜ぶ人はいないと思います。

日本で、芸術を作る人間が、芸術活動をしながら生活できる日は永遠にこないのでしょうか?裕福でなくても、普通の生活さえできない音楽家や芸術家ばかりの日本。自分の好きなことを続けているから貧乏でも仕方ない…とは思いません。
少なくとも、人間を感動させる絵画や音楽、演劇に対する考え方を変えていかなければ、何も変わらないと思います。
感動するか、何も感じないか。人それぞれ違うのです。
マスコミが取り上げれば「有名音楽家」と称され裕福な生活ができる日本。
若い人が本気で音楽を学んでも、生活できないと思いあきらめる。あきらめた人が「弱い」と批判される。音楽は勝負したり、競争するものではありません。
音大や美術大学で学ぶ人たちを育てられるのは、優れた師匠だけではないと思います。多くの「見る人、聞く人」の理解がなければ育たないと思います。

私たち世代の考えを「老害」と冷笑する人には、感性がありません。
若ければ何をしても許されると、勘違いする若者を見ていると情けなくなります。一方で、若者のやる気を削いでしまったのは、私たち世代の責任でもあります。
芸術を職業にできる社会を作ることは、一人の力ではできませんが、一人でも多くの人に、音楽や美術、演劇に興味を持ってもらい、それを作る人たちの「生活」にも関心を持ってもらうことが不可欠です。
著名な音楽家が自分のことだけを考えれば、次の世代の音楽家は育たないのです。
すべての世代の人たちが、真剣に考える問題だと思っています。

田舎の自営業者・場末のヴァイオリニスト・音楽普及活動家(笑) 野村謙介

自分の声(音)の聞こえ方

皆さんは、録音された自分の声を聴いて、どのように感じますか?
私は生きていて、「きらいなものトップ3」に入るほど、自分の声を聴くのが嫌いです。ちなみに、その他2つは「虫さん」と「視野検査」
拡声された自分の声も耐えられませんが、自分に聞こえる自分の声のほうが大きい場合には我慢できます。したがって「カラオケ」は生まれてから61年間で、一度だけ…教員時代の忘年会で歌わされた…しか経験がありません。
カラオケ大好きな方々は、自分の声がスピーカーから大音量で流れてくるのが、気持ちいいのでしょうか…。尊敬します。本気で。

自分が聞いている自分の声は、鼓膜から脳に伝わる空気の振動よりも、頭蓋骨を直接振動させた神童「骨伝導」を音として聞いている割合のほうが多いので、録音された自分の声、つまり空気の振動である「音」と違うのです。
自分の聞いている自分の声は、自分だけにしか聞こえない「声」です。
録音された自分の声を、みんなが聞いている…そう思うと、ぞっとするのは私だけでしょうか?(笑)みなさん、ご迷惑をおかけしております。ごめんなさい。話をしないとレッスンできないし、何より自分の声が嫌いなくせに、よくしゃべる変な人なんです、私(涙)

カラオケはしなければ良いのですが、ヴァイオリンやヴィオラを弾いている時に、自分に聞こえている自分の楽器の音は?
耳元で空気を振動させているのは、弦と表板と裏板。これは普通の音です。しかも、距離にして数センチしか離れていない場所に音源があるのは、多種ある楽器の中でもヴァイオリン・ヴィオラはかなり特殊。しかも、左耳だけ(笑)
その他の「自分の楽器の音」は、骨伝導で顎の骨と鎖骨から伝わる「振動」であり、ほかの人には聞こえていません。この骨伝導と耳元数センチの空気振動。
どう考えても、離れた場所で聞いている人が聞いている、自分の楽器の音とは違います。自分の弾いていると音を、リアルタイムに離れた場所で聴くことは不可能です。録音された音を聞くとどうなるでしょう。録音された音を、自分以外の人が聞いて「うん。こんな音だと思う」という、あいまいな音を聞くことしかできません。その音が、自分にとって好きな音なのか、いやな音なのか。どんな名ヴァイオリニストにも、幽体離脱でもしない限り判断できないことです。
声楽家ってすごいと、今更ながら思います。

自分が演奏する、自分のヴァイオリンの音を、自分で評価するためには、他人の評価がとても大切なことになります。
先ほど書いたように、録音した音は再生する機械によって、音色や音量が変わります。演奏している瞬間に、他人が聞いている自分の「音」とは違うのです。
聴く人によって主観的に「大きい音」だとか「きれいな音」「汚い音」という評価は変わります。数値として測っても、それが人間にとって聞き分けられるものであるかと言うと違います。カタログにある「数値」が自分の耳で聞き分けられる人はいないことでも証明されます。
他人の評価を素直に聞くのはつらいことでもあります。
それでも、一人でも多くの人に自分の音について、評価してもらい、一人の意見だけに左右されず、常に謙虚な気持ちと挑戦する気持ちを失わないこと。これができないと、自分の出しているヴァイオリンの音を、自分で評価することができません。
練習する時に、常に自分の音に妥協せず、否定せず、人に聞いてもらっている気持ちで練習することって、大切ですね。
さぁ。自分のヴァイオリンの音を探すために練習しよう!
カラオケできないヴァイオリニスト 野村謙介

音楽愛好家

演奏家も作曲家も聴衆も
アマチュアもプロも
子供も高齢者も
クラシックもジャズも演歌も…

音楽愛好家って素晴らしい!

音楽、好きですか?という問いに、素直に「はい」と答えられる人間でいたいと思います。当然、好きでない「音楽」もあります。練習する時に、いつも楽しいわけじゃない(私の場合)。本番で思ったように弾けなくて、情けない気持ちになることもあります。自分が好きな「音楽」って、いったいどんな存在なんでしょうね?

音楽の神ミューザの話にまで、難しくするのはやめておきます(笑)
以前のブログにも書いたように、人間の想像力と感性で、空気の振動である「音」を使って表現する、目に見えない「想像美」かな?
人それぞれに違う感性を、違う人の感性が受け止めて、新しい空想の世界を創造する連鎖。広い意味で「人とのふれあい」でもあります。
作曲することも、演奏することも聴くことも、すべて同じ音楽です。

それでも音楽が嫌いな人がいるのも、当たり前のことです。
スポーツが苦手な人もいるし、絵画を見ても楽しくない人もいます。
水や空気、食べ物と違って、音楽がなくても人間は生きていけます。
楽しみの一つとして、音楽が加わって「良かった」と思える人を増やしたいと、すそ野を広げる活動を、これからも続けていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴァイオリニスト 野村謙介

左手~鎖骨~頭

弓の毛替えを、櫻井樹一さんにしてもらって、よしっ!さらおう!
…にんじんがないとさらわない…ってのは、天井裏に置いといて(笑)
ヴィオラをさらい(練習)ながら、自分の左手親指に注目。
うん。今日のテーマは決まった!

我が恩師、久保田良作先生のレッスンを思い出します。
頭を天井に向かって持ち上げる感覚で、あごを引く。これ、メニューイン大先生の御本にも推奨されています。
肩を下げ、肘を体から離す。楽器を構えた時、弦を抑えた時に、鎖骨の周りの筋肉に無意識に力が入ってしまう。これ、ダメ。
左手の親指。久保田先生に何度も、力を抜きなさい!と叱られました。
ヴィオラを弾いていると、言い訳がましく親指で楽器の重さを支えようと、力を入れてしまいます。これも、ダメ。
左手の親指はネックに触れているだけではなく、人差し指から小指で弦を抑える「下方向への力」を支える役割もあります。久保田先生は、この力を親指ではなく、あごの骨と鎖骨で支える力を優先させることを仰っていたのでしょうね。
左手親指の「自由度」が上がると、ヴィブラートの自由度が上がります。
ポジションが上がっても同じです。

この頃の自分が演奏している動画を見ていて、頭が前傾しています。
久保田先生に怒られる(汗)
頭が前に落ちると、楽器を手で支えようとするので、左鎖骨周りに力が入ります。さらに、親指にも必要のない力が入ってしまいます。悪循環。
そうでなくても、動きの鈍い私。気を付けないと!
皆様もぜひ、左手の親指さんに敬意を払って感謝しましょう!(笑)

指がつらなくなってはしゃぐヴァイオリニスト 野村謙介

レコードから映像へ…

昭和35年、西暦1960年に生まれた「おじちゃん」にとって、音楽を伝える「媒体」の変化は、生活の変化の中でもずば抜けています。
記憶にある「最初のテレビ」は白黒ブラウン管テレビ。
子供のころに聞いていたのはラジオと「ソノシート」
ペラペラで綺麗な色の半透明の「セロファン」で出来た、直径17センチほどの「レコード」です。それを「レコードプレーヤー」に乗せて、針をおろすと、パチパチピチピチノイズの中に、音が聞こえます。エイトマン、ブーフーウー、鉄人28号、キャプテンスカーレット、宇宙少年ソラン、スーパージェッター。みんな「ソノシート」でした。
あれ?音楽レコードがない(笑)

初めて我が家に「ステレオ」という近代的な機械が来たのは、記憶では小学校6年生。ビクターの「4チャンネルステレオ」を父がどこかから買ってきて、和室の客間に鎮座していました。同時に「30センチLP」も買っていました。直径30センチ。ロングプレイの略「LP」曲の途中でB面に裏返す曲もありました。
中学生、高校生になって次第に機械に興味を持ち「オーディオ」という言葉に出会います。オープンリンリールのテープデッキ、カセットデッキ、FMチューナー、アンプ、スピーカー、何から何まで「楽しい道具」でした。好きな曲を好きな音で聴くための「オーディオ」でした。

高校生か大学生のころ「ウォークマン」が発売され、2か月以上待たされて手にしました。カセットテープの音を家の外で、自由に聞くことが出来るようになった「革命的」なオーディオでした。
その後、「CD」が発売されました。発売当時、フィリップスのCDプレーヤー1機種だけ。ディスクも3種類ほど。価格も恐ろしい値段でした。
やがて「MD」が登場します。小さな四角の薄いメディア。簡単に曲の入れ替えが出来て、編集もできました。実はMDの音は、カセットテープよりだいぶ「悪い」ものだったんですが、気にする人はいませんでした。
同じころに「DAT」デジタルテープレコーダーが発売されました。
業務用には多く使われましたが、一般にはあまり普及しませんでした。音はCDや現在のPCMレコーダーと同等です。

ここから本題(いつもながら前置きが長い!)
ショパンコンクールをライブ動画で世界中(一部の国を除き)で誰もが自由にみられる時代になりました。すごいことです。無料で。好きな時間に、好き場所で、スマホでもテレビでもパソコンでも見られて、しかも何回でも見られる。
こんな時代を誰か予想できたでしょうか?
ソノシートの時代から、たかが60年(ながい?)で劇的な変化だと思います。
音楽は「聴く」時代から「見る」時代に変わりました。
しかも「いつでも、どこでも、何度でも」です。
CDの売り上げ枚数よりも、youtubeの再生回数とチャンネル登録者数が、人気のバロメーターになりました。レンタルCDも消え、やがてDVDやブルーレイディスクも姿を消すことでしょう。小さなカード一枚に何時間分もの映像と音楽を保存できる時代に「ディスク」は、消える運命です。

さて、音楽に絞った話です。
当然「生演奏を聴く」ことでしか味わえない「音」と「空気」があります。
それ以外の「媒体」はどうなるでしょう?
先ほどから書いているように、映像と一緒に「見て聞く」時代です。
演奏する人間の収入、作品を作る人の収入も変わっていきます。
「配信からの収入」が主になります。スポンサーは多くの視聴者からの「薄くたくさん得る収入」をコマーシャルを出すスポンサーが、配信会社(youtubeなど)に支払い、そこから演奏者や作曲者に代金が払われる仕組みになります。
つまり「映像の良しあし」が演奏家と作曲家の収入を決めることになる時代です。どんなに生で演奏が良くても、映像と音声が安っぽければ、配信されても再生されないのです。つまり「評価されない」ことになります。本来、演奏や作品の素晴らしさが評価されるべきですが、現実には見る人の「端末」で再生される音楽が評価される時代になります。

母校である桐朋の一大イベント、桐朋祭で演奏された映像がyoutubeにありました。正直、お粗末な音と映像で、思わずコメントを書いてしまいました。
お祭りでの演奏とは言え、クラシックの音楽を「学生会オケ」であれ、桐朋の名前を出し、できたばかりの「売り」であるホールで演奏している動画が、小学校の学芸会レベルの映像編集とお粗末な音声。業者が編集したものと思われますが、あまりにひどい。隠し撮りならいざ知らず、音大の演奏を自らアップして「公開」する以上、大学としての評価自体が下がるといえます。
ショパンコンクールの映像と音、完全にプロの放送局の「クラシック専門担当者」の手にかかっているのがわかります。見ていて引き込まれるのは、映像と音「も」素晴らしいからです。すごい時代です。

「インターネット?ふん!」あらあら。
コロナで演奏する機会が減った中で、ファンを増やした演奏者と、ファンを失った演奏者の「差」はなんでしょう。インターネットを活用し、自ら「良い音」「魅力のある映像」を配信した演奏家が生き残ります。角野さんは「かてぃん」として、今後もユーチューバーとしてファンを増やし続けるでしょう。反田さんはすでに、有料配信の会社を設立しています。二人とも「先を見る目」を持ちながら演奏するピアニストです。
「できない」「知らない」と言い訳をしても、だれも助けてくれません。
自分で学び、発信するスキルを身に着けることが、これからの音楽家に、絶対必要な要件になります。
私たち「昭和生まれ」の人間は?
学びましょう!老い先短くても!(笑)
それが、歴史であり時代の流れなのですから。

昭和生まれのヴァイオリニスト 野村謙介


空想の世界~音楽

はい、嫌われ者(笑)謙介です。
ショパンコンクールが「ブーム」のように盛り上がっています。
昨日のファイナル、アーカイブをyoutubeで聞きながら書いています。
ヴァイオリン弾きから言うと、みんなすげぇじょうず!(笑)
人間だもの、間違って違う鍵盤触ることだってあるでしょ。
人間だもの、緊張して忘れることなんて普通でしょ。
コンクールが「間違えない」ことを第一に競うものであれば、人間の審査員はいりませんがね。カラオケ採点マシーン!で順位つきます。
もちろん、間違えなくても、もっと細かい「うまさ」ってピアノにある「らしい」。らしいと書いたのは、ヴァイオリンの演奏技術って、ピアノに比べると単純明快に分かるから。例えば、音の高さを自分で決める原始的な弦楽器。ピアノが1万点以上のパーツで音を出す仕組みなのに比べ、馬のしっぽの毛を張った「棒」BOWで音を出す弦楽器。ヴァイオリンのミスと比べて、ピアノの間違いってそんなに多いのかな?

さてさて本題です。
「ショパンの精神」とか「ポーランドの人の魂」とか。
そんな言葉を聞くと、ものすごく違和感を感じるのです。
だれかショパンに聞いたんですか?
ポーランドの人って、全員クローンですか?
まるで自分が「ショパン」という人に成り代わったような思い上がり。
ポーランド人とは!って十把一絡げ。
少なくとも音楽って、演奏者と聞く人の「空想」の世界です。
一人一人の空想や表現は、だれか他人から批判されるものではない自由なものです。
絵画でも、文学でも、映画でも同じです。
「この作品は、〇〇であり、△△と感じなければ間違い」ありえへん。
見る人は「空想の世界」が楽しいから見るんですよね。
その空想を「競い合う」って無理でしょ。
それを「解釈」って言うのであれば、それは個人の自由です。
「モーツァルトが生きた時代には」「バッハの音楽を演奏するには」
それも個人の解釈。
評論家ってお気楽&無責任な職業だと思います。
たった一人の解釈を、延々と語ってお金もらう(笑)
言ってやりたい「お前は神か」

さらに言えば、「楽譜」として作曲家が残したものは、
演奏する人間に、「この解釈を任せたぜ!」って意思表示だと思うのです。
「俺の作品に手を出すな!」って初期のパガニーニみたいな人は、楽譜を残しません。ショパンが楽譜を残した以上、演奏する人の「空想」と聞く人の「空想」を許容したことになります。楽譜に書いていないことってたくさんあります。
さらに言えば、書いたからと言って(例えばここはフォルテで)も、演奏者がピアニッシモで弾くかもしれないことは、承知の上だと思うんです。楽譜の通りに弾くこと「だけ」をコンクールだとは言えません。楽譜に書いていないことのほうが、はるかに多いからです。すべての音符に強弱記号と表現の指示をした楽譜って…ショパンの楽譜?違いますよね。演奏者の「空想」がそう、させているんですよね。

偉そうに言いやがって!
はい、ごめんんなさい(妙に素直)
最初に書いた通り、みんなすごい演奏家だと思っています。
その人の「空想の世界」に共感できるものもあれば、自分の「解釈」と違う演奏もあって当たり前。技術は?すごい!の一言です。順位なんてつけたくない!みんな、人間なのに大変だな(笑)なかには、サイボーグもいるのかも…
私は…リサイタルで弾く曲たちを、何度も弾いて、感じるものを、実験を繰り返しながら練っていく。音色。テンポ。大きさ。どれかを変えると、ちがう世界になります。自分の「好きな世界」を探して、さまよいます。聞いてくださる人が、心地良く感じてくれることや、「空想の世界」が広がってもらえることも、同時に願っています。自分の解釈と違って当たり前です。
人間の想像力。それこそが「魂」であり「心」と呼ばれるものだと思います。
決して、測れるものではありません。競うものでも、評価するものでもありません。私たちが「人間」であることの証は「空想を表現できる生き物」なのですから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


ヴァイオリニスト 野村謙介


今年のリサイタルは…

デュオリサイタル14
妻であるピアニストとのコンサートは、今回で14年目になります。
過去13回、自分たちの好きな曲を選んで、誰からも束縛されずにプログラムを決めてきました。映画音楽もあれば、バッハやモーツァルトの作品、日本の歌、歌曲など、クラシックにこだわらない選曲を今でも続けています。
「〇〇のヴァイオリンソナタを弾いてください」とリクエストを頂くこともありました。クラシックファンの方なら、ごもっとも!なリクエスト。
ソナタ全楽章を演奏する「良さ」「重要性」は当然、理解しています。
ただ、私たち自身がそうであるように、人それぞれに好きな音楽が違います。
一人でも多くの方に、生の演奏を聴いていただきたいという願いもあります。
「お子様ランチ」「定食」には、いくつもの食材、味、食感の違う「もう少し食べたいと思う量のお料理」が少しずつ食べられます。そんなコンサートが少ない気がしました。

高級「割烹」「料亭」「レストラン」より、気さくに入ることが出来る「食堂」が好きです。他人の評価より、自分の「舌」を信じたい気持ちです。
いろいろな音楽で、ヴァイオリンとヴィオラの音色の違い、スタインウェイとベーゼンドルファーの違い、コンサートホールとサロンの違いを楽しめる、「気さくなコンサート」でありたいと思っています。

今回、初めて演奏する「ラベンダーの咲く庭」「カフェ」「ナイトクラブ」「ノクターン(アザラシヴィリ)」「いのちの歌」
以前にも弾いた「アヴェマリア(ピアソラ)」「踊る人形」「ミッドナイトベル」「アダージョ・レリジオーソ(ボーム)」「ふるさと」「クロリスに」
すべてが、私たちの愛すべき音楽です。クラシックもあります。ポピュラーも映画音楽もあります。「おいしかった!」と笑顔になっていただけるように、一生懸命に料理いたします。お楽しみになさってください。

ヴァイオリニスト 野村謙介
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ヴァイオリニストのヴァイオリン

今回のテーマ。当たり前すぎて笑えますが…
プロであれアマチュアであれ、ヴァイオリンを演奏する人の「楽器」であるヴァイオリンは、演奏者の好みで選ぶものです。ピアニストがホールのピアノの中からしか楽器を選べいのに即座に対応する姿に感服します。

とは言え、現実には経済的に自分の理想の楽器を手に入れることは無理ですよね。プロのヴァイオリニストが楽器に使えるお金。日本の多くのプロヴァイオリニストの収入は、同年代のサラリーマンより、ずっと低いのが現実です。むしろ、アマチュアヴァイオリニストのほうが高い楽器を購入できる場合もあります。例外的に、ソリストとして高収入を得ていたり、財団などから貸与されたりする場合もありますが、一握りのプロの話です。


自分の楽器に愛情を注ぐことが、ヴァイオリニストの当然の姿です。
不満を持ったままの相手と一生を添い遂げたいと思う人はいないのと同じことです。仮に、自分の楽器を思うように操れないとすれば、楽器の責任ではなく、自分の能力の低さが原因なのです。では、楽器ならなんでも良いのでしょうか?

もちろん、楽器のポテンシャルはすべての楽器で違います。
まったく同じ「個性」の楽器は世界中に一つもありません。
楽器を製作する人間(職人)の魂が込められれば込められるほど、その個性は特徴的なものになります。逆に言えば、大量生産の楽器には、ほとんど個性がありません。
ストラディバリウスは最高のヴァイオリンでしょうか?
私は数回だけしか演奏したことはありません。
聞いたことは?きっと皆さんと同じくらいに、たくさんあります(笑)
で?私はストラディバリウスが世界で最高のヴァイオリンだとは思っていません。理由はたくさんありますが、現実としてストラディバリウスの音色を、ほかの制作者の作った楽器と「一度ずつ聞いて」言い当てられる確率は…
50パーセント!5割!半々!ヴァイオリニストでも制作者でも結果は変わりません。自分が使っているストラディバリを誰かが演奏したら?100パーセント正解できます。個性はあります。そして、歴史的に優れたヴァイオリニストだけがストラディバリウスの楽器を演奏してきているので、楽器が鳴ります。当たり前です。

本題はこれからです(笑)
自分にとって自分のヴァイオリンが「最愛のヴァイオリン」です。
借り物のヴァイオリンを、心の底から愛することはできません。
「かりそめの愛」また「愛人」あ。ごめんなさい。
誰かにヴァイオリンを「借りて」演奏することがあります。
ある時は、コンクールで上位に入るために、ある時はその楽器を使ったコンサートの「演奏者」として依頼されたとき。後者の場合「お仕事」として受け入れることなります。
結果がどうであれ、私は「ヴァイオリン」が可哀そうに思えてなりません。

私自身が使っているヴァイオリンは、父があちこちに借金をして買ってくれたヴァイオリンです。私が中学2年生の時でした。練習もいい加減にしかしない「サラリーマン家庭の普通の男の子」に買ってくれた父の「度胸」に今更ながら感謝しています。1808年に作られた、鑑定書のあるイタリアの作家が作ったヴァイオリン。サンタ・ジュリアーナという職人さんの楽器です。
私には十分すぎる楽器です。50年近くお付き合いしていても、時々ご機嫌を損ねて、いじけた音で「そうじゃなくて!」と私に激を飛ばします。
今まで、ほかの楽器のほうが良いと思ったことがありません。
それが、楽器との出会いだと思っています。
運命の出会いは、人とだけではありません。
ヴァイオリンを「もの」として考えるか「生き物」として考えるかの違いです。

11月にご縁があって、私のヴァイオリンとは違う楽器でコンサートを開くことになりました。「友達」になれるかどうか?その楽器の良いところを探しながら、あと1か月、練習します。終わったら12月1月のリサイタルに向けて、「ジュリアーナ」と会話します!
ヴァイオリニスト 野村謙介


演奏と年齢

偶然、YouTubeで幼いヴァイオリニストの演奏と、私の師匠世代の大先生が高齢になられてからの演奏を見て思ったこと。
演奏する人間の身体的変化と精神的変化。
肉体的な成長は20歳頃を頂点にして成長と衰えがあります。
一方、精神的な成長は14歳頃にほぼ大人と変わらなくなった後、一生成長し続けるものだと思います。
10代前半の子供が演奏する音楽と、60歳を過ぎてからの演奏。
あなたは演奏に何を期待しますか?

時代と国によって大きな違いがると思います。
ここからは私の私見です。反論もあるかと思います。
一人の人間にとって、演奏技術は20代前後が最も高くて当然。
演奏を練習し始める年齢によって習熟できる技術に差はあります。
少しでも早く練習を始めようとする傾向が、強すぎると思っています。
3歳から始めるか8歳から始めるか、14歳から始めるか。
一人の人間にそのすべてを試すことは不可能です。
結果として、その人がいつ?何歳頃に演奏に必要な技術を習得するかは、始める年齢によって差があるのはいたって当たり前です。
でも、子供が子供らしい生活をしないで育つことで、精神的な成長に不安を感じるのは老婆心でしょうか?

幼い子供にしか感じられない感性。知識や常識とは無関係に、純粋に表現される音楽に心を打たれることがあります。
一方で、大人の真似、大人が振り付けた不自然な動き、薄気味の悪い「感じている風の表情」などを見ると、嫌悪感しか感じません。むしろ、そうさせている指導者、親に対して怒りを感じます。子供が大人の真似をしたがるのは自然な行為です。しかし、大人が芸を仕込むように子供に大人の演奏の真似をさせるのは、本当に美しい正しいことなのでしょうか?私は違うと思います。
子供らしい演奏は、大人にはできません。大人の演奏家は自分の幼いころのことを正確には覚えていません。また、自分がそうした環境で仕込まれたからと言って、違う人格の子供に「仕込む」のは正しいことだとは思いません。反面教師で指導者が幼いころに練習しなかったことを「悔いて」、子供にさせるのも間違っています。
子供には子供らしい日常、友達と遊び、喧嘩をして泣いて、仲直りをして…人を思いやることを体感することで、精神的な成長があると思っています。

さて、高齢になって肉体が衰えるのは自然の摂理です。若いころにできたことができなくなったことへの不安と諦めに似た挫折感は、その人本人にしか理解できません。また、感覚的な衰えを自覚できなくなるのが一番辛い音路だと思います。私の知る限り、自分が年齢を重ねて高齢になっていくことを、明るく受け入れられる人と、なぜか悲しむ人に大別されます。私の母は自分が認知症になったことを「ダメな人間になってしまった。バカになった」と本気で嘆き泣く日々でした。いくら家族がなだめても、その感情は母の幼いころから植え付けられてしまった価値観だったのでしょう。自分が認知症であることを理解できなくなる重度に進行したころに穏やかな母の表情を見ることができたのは、子供として幸せに感じました。
自分の衰えを受け入れることは、他人からの評価を受け入れることでもあります。「先生、もう演奏会でそんな大曲を演奏:しなくても」と弟子に言われて「そうだね」と明るく笑える自分になりたいと常々思っています。すでに私は難易度の高い曲に敢えて挑戦しようとは思いません。それを「逃げている」と言われるのを承知の上で。今の自分に相応しい曲を楽しんで演奏することが幸せだからです。それでも自分なりに成長はあると思っています。単なる敗北感は感じていませんし、自分にしかできない演奏を目指す気持ちは、若いころより強く感じています。先述した、高齢になられた大先生の演奏は、聞いていて悲しく感じました。その先生のお若いころの演奏を生で聞いていた時分だからかもしれません。指も腕も明らかに動かなくなっているのに、難曲をまるで「まだ弾ける」と言わんばかりに演奏されているのは、見るのがつらく感じました。
もちろん、高齢になられたからこその「味」はありました。それを、越えてしまう悲しみでした。

世界中、日本国内にも例外と言わなければ説明できない方もいます。90歳になっても現役演奏家として素晴らしい演奏をされる巨匠たち。日頃の努力は凡人の私には想像さえできません。
幼いころに「神童」「天才」の称号を欲しいままにした演奏家が、さらに素晴らしい演奏家になっている例もたくさん見受けます。私はこの方たちも「例外」だと思います。誰でもが簡単に真似られるような人生ではないと思うからです。
同じ人間だから、やればできる。
はい。それも事実です。が、みんながみんな同じ環境、能力、感性ではないのです。少なくとも、幼い子供に音楽を押しつけるのは、大人のエゴでしかないのです。高齢なってからの演奏家としての生き方は、周りにいる人間の接し方で大きく変わります。尊敬する先生に、引導を渡すはおこがましいことです。でも、尊敬する人だからこそ、聴衆に憐みの目で見られないようにすることも、弟子の責任かなと思います。

人にはそれぞれの生き方があります。
他人に左右されるときもあります。
最後に自分が笑えて、家族も笑える人生を送ることが最高の幸せだと思っています。
今、この瞬間にすべてが満足できなくても、明日満足できるように明るく生きること。それが私の「夢」であり「生きがい」なのかと思う61歳でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

メリーミュージック代表 ヴァイオリニスト 野村謙介