弦を押さえる力加減

 映像は代々木上原ムジカーザで演奏したドボルザーク作曲「4つのロマンティックピース」よりロマンスです。この曲でも途中にオクターブの重音が連続する部分があります。重音の中でもオクターブや10度の重音の場合、高い方の音は4=小指または3=薬指で押さえることになり、さらにハイポジションの場合には、その指を指板に「押し付ける」力の加減が極めて微妙です。
 1本の弦を1本の指で押さえる場合でも、弦を指板に「押し付ける力」は感覚的なものなので他人に教えることは困難です。また、自分以外の人が都の程度の力で弦を押さえているか?は判別できません。
 言うまでもなく人によって、指先の硬さが違います。また指の強さも違います。「握力」ではなく、指1本の「握る力と速さ」と「指を話す力と速さ」です。この力と速度は計測の方法がありません。親指の力は弦を押さえる力に反発する力です。弦を強く押さえようとすれば、親指の上方向への力も強くすることになります。その状態でポジション移動をする…矛盾する力の関係です。
 強く押さえればピッチも安定し音色も明るくなります。余韻も長くなります。ただ、ポジションを移動する瞬間に「緩める」事が必要になります。この運動は本来なら少ないのが理想です。一定の「押さえる力」が1本ずつの指にあることが求められます。小指の「弱さ」がオクターブ重音の障害になっている私にとって、未だに解決できない課題です。皆さん、どうしてますか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「何年経っても…」の嘘と本当

 映像は40年前の私の演奏です。この時から今日までに、どれほど?私の演奏技術は進歩したのでしょうか?演奏は進化したのでしょうか?40年…昔なら人間の一生の時間でした。しかも、この演奏をした時に23歳という事は、立派な「おとな」だったはずです(笑)今?お爺さんになりかけております。
 さて、生徒さんの「いつまで経っても上達しない」と言う声を時々耳にします。生徒さんで40年、私に習っている人は今のところいませんが少なくとも、何カ月・何年と言ったスパンでの「いつまで経っても」なのですが。
 私自身も同じように思うことがあります。ヴァイオリンを習い始めて50年以上。音楽の学校で学び始めてからでも15歳からとして48年という年月が経ちました。人間に限らず生物は「退化」するものです。その速度も内容も
千差万別ですから一概に「何歳になったら」と言う概念はありません。私の場合でも、筋力や体力は明らかに退化していますが「気力」だけはさほど衰えていない気がします。
 いつまて…の嘘の部分。
これは人間の「欲」が基準になっている話であり、客観的な上達の内容とは寒けないという事です。他人…例えば自分のことどもに対して「いつまで経っても」と言うのも結局は自分の価値判断=欲で測っているから言えることです。
 現実には演奏の技術は少しでも練習すれば必ず上達するのです。それは紛れもない事実です。仮に楽器を演奏しない=練習しない時にでも、ふとした時に感じる感覚が自分の演奏に結び付くことも「上達」には必須のy増件です。荷物をもって「重たいなぁ」と感じることも楽器の演奏には必要な感覚です。音楽の解釈にも「重たい」と言う感覚を知ることが重要です。
 いつまで…の本当の部分
これは私の話ですが、うまく出来ないことを「いつまで経ってもできない」と思うのが人間だと思います。「いつまで経ってもできる」ことが実はたくさんあるのです。もちろん老化や病気、自粉でそれまで出来ていたことができなくなることもあります。それでも「子供の頃から今でもできること」はたくさんあるのです。
 では若いころから(40年前から下手=苦手なことはどうなのでしょうか?
私なりの結論で申し訳ありません。苦手なことがあって「当たり前」だと思うようになりました。「開き直りか!」とか「努力=練習から逃げているだけだ!」というお叱りは甘んじて受けます。ただ、現実に自分の中で、他の「できること」と比較して明らかに「できない」ことは、誰にでもあるはずなのです。
 演奏に限ったことではなく、あるレベルまでは努力で到達できても、それ以上のレベルになるために「死に物狂い」で努力しなければ到達できない人と、本人にはそれほど?努力しなくても到達できる=演奏できる人がいても、当たり前だと思います。出来る人が「天才」なのではなく、それが「個性=生物の個体差」だと思うのです。
 多くの人ができるから自分もできる…レッスンではつい、生徒さんに言ってしまいがちな言葉です。ただ現実にはできるようになるまでの「努力の時間と内容」は人によって大きな差があるのも事実です。

 時間をかけて出来るようにすることを「学習」と言います。多くの生物は学習能力を持っています。長く時間をかければ「学習内容」が常に上書きされていきます。
 一方で「好きなこと・嫌いなこと」は誰にでもあります。その原因やシステムは未だに証明されていません。出来ないことにコンプレックスを感じるのは「欲」の副産物です。欲がなければ楽になるとはいえ、生きる楽しみは「欲」そのものです。生きたいと言う欲、うまくなりたいと言う欲、それが私たちのエネルギーの源なのです。出来ないと言うストレスも、見方を変えれば「生きるために必要な壁=抵抗」なのかも知れません。出来ないことを受け入れながら、考えて出来るようにすることが「楽しみ」に感じられれば良いですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

G線上の「無言歌」

 G線上…と言えば「アリア」が思い浮かびますが、実際には他にもG線だけで演奏するように指示された曲があります。
 たとえばその一つが、このメンデルスゾーン作曲クライスラー編曲の「無言歌・五月のそよ風」です。
 過去にヴァイオリンで演奏したこととヴィオラで演奏したことがありますが、ヴァイオリンでは指示通り、すべてG線だけで演奏しました。
 ヴィオラで演奏したときにはその「効果」より楽器の構造上の「無理」があるためにD線も使って演奏しました。それが下のものです。
聴き比べて頂くと楽しいかな?

 再度までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自分に合った指使いを科学する

 映像はチャイコフスキー作曲「ノクターン」
多くのヴァイオリン用の「楽譜」がある中で、楽譜に「指番号」「弦」「ダウンアップ」が記入されていますが、出版社によってそれぞれ違うことが多々あります。中には明らかな「ミスプリント」もあります。
 アマチュアヴァイオリニストにとって、指使いを自分で考えるのはとても難しいことです。初心者向けの教本には指使いが「指定」されている場合がほとんどです。むしろ自分で「選択」する箇所は開放弦「0」か隣の弦で「4」の指を押さえるかのどちらか…位ですよね。また、少し上達してきた人向けの教本には「セオリーと違う」指番号が書いてある場合が出てきます。例えば多くの場合なら「A線のド♯」は2=中指で押さえるのがセオリーですが、すぐ後に「E線のソ」を演奏するならド♯を3=薬指で押さえるのが「効率的」な指使いになります。
 ヴァイオリンの指使いは、ピアノの指使いより「ある意味で」複雑です。
ピアノの鍵盤88の中で「ひとつ」の鍵盤に対して、考えられる「指」は全部いくつ?答えは「10種類」です。右手・左手の指の「どれか」で「ひとつの音の高さ」を演奏します。
 一方ヴァイオリンの場合、押さえるために使う指は左手の「4本」加えて「開放弦=0」で出せる4種類の音。「なんだ!ヴァイオリンの方が全然少ないだろ!」と思われがちですが…
 ヴァイオリンのD・A・Eの3本の弦で出せる音は、それぞれ「その弦より低い=左側にある弦」でも演奏できる!わかりにくい!(笑)
 ここでは説明を省きますが、要するに「同じ高さの音を違う弦でも演奏できる」わけです。
 さらに「フラジオレット=ハーモニクス」と言う倍音を使った演奏技法でさらに「指使いの選択し」が増えます。

指使いは「個人の好み」が許される範囲がほとんどです。作曲者が「指定」するとしても「弦の種類」または「ハーモニクス」までで、どの指で押さえるか?またどの弦で演奏するか?は演奏するヴァイオリニストの「好み」で決まるものです。人によって指の動きは微妙に違います。単に鍛え方の問題だけではありません。指の長さ・指の太さ・てのひらの大きさ・てのひらの厚さ・腕の長さも人によって違います。
 さらに言えば「音色の好み」が違います。その「どれが正しい」と言うものではありません。まさに自分で考えた結果として指使いが決まるものです。
 特にポジションの移動や弦の移動=移弦しなければ演奏できないような部分では、どんな指使いが選択肢として考えられるのか?考えることが必要になります。ポジションを移動する場合でも、どの指で移動するのか?と言う選択肢も加わります。同じ音を連続して演奏する場合にでも、意図的に指を「替える」ことも技術の一つです。

 最後に私が自分で考えて指使いを決めた「ふるさと」の動画をご覧ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

F=自由 A=だが E=孤独

 映像はFAEソナタの一部。ブラームス作曲部分です。
FAEは「ファ・ラ・ミ」のドイツ音名でもあります。
 今回のテーマは「自由と孤独」について。
音楽を学ぶ人にとって「自由」は何よりも大切なことです。
音楽家を「自由人」と称することもありますが必ずしもその限りではありません。演奏の対価として、指導の対価として金銭を受け取ることで生計を立てている音楽は社会人としてのコミュニケーション能力が必須です。
 自由だから孤独とは限りませんし、孤独だから自由とも言えません。
社会で言いる上である程度の「束縛」を受けることも事実です。
また退任との付き合いが必要になる場合にもあります。
音楽は「精神」の面と「経済的=現実的」な面の二面を持っています。
自由が嫌いな人はいなくても、孤独を好む人と嫌う人がいます。
考え方、性格の違いです。他人の価値観を否定するのは愚かな行為です。
演奏家でも孤独が好きな人もいます。それを「変人」扱いするのは間違っています。群れることが正しいと信じている人もいます。その集団になじめない人にとって、その場にいなければいけないことは「苦痛」です。社会性の問題ではなく、価値観の問題だと思います。
音楽は常に「自由」な気持ちで演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

テクニカルな曲の演奏を楽しむ

 映像はサン・サーンスさ曲「序奏とロンドカプリチオーソ」
そして、下の映像はサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」言わずと知れた「技巧的な」な曲です。私はこの手の音楽で速さと正確さを競い合うヴァイオリニストたちに「近づきたい」と思えません。負け犬の遠吠えと言われても受け入れます。技巧の裏に「音楽」がある演奏をする人を尊敬します。自分もそうありたいと思っています。

 どんな音楽であっても「機械のように」ではなく「人間らしく」演奏することが理想です。人より優れた技術を身に着けようとするより、自分の音楽を好きになれる努力をすべきです。他人と比較する自分ではなく、自分を観察する気持ちを持ち続けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

若気の至り?(笑)

 今年で63歳になる私が20歳の頃に何を思ったのか試験で弾いたサラサーテのカルメンファンタジー。前年にシベリウスのコンチェルトを試験で弾いて、どうして?こんな曲を選んだのか覚えていません(笑)
 さらに大学5年生の時(笑)師匠の「発表会で何か弾きなさい」というむちゃぶりに(涙)演奏したのがヴィラーリのシャコンヌ。


 どちらの演奏も今の自分に「残っているもの」と「変わったもの」があります。音楽大学と言う環境の中で自分が育っていることを実感していなかったのもこの時期です。結果として今の自分がヴァイオリンとヴィオラを演奏していることを考えると、やはり「若いころの経験」が如何に大切かを痛感します。
 自分がどんなにへたくそだと思っても、無駄だと思わずに続けることが将来の自分の「根っこ」になります。ぜひ!若い皆様。焦らずに自分の好きな音楽を掘り下げてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

感性は鍛えられる?

 映像はデュオリサイタル10で演奏したメンデルスゾーン作曲「歌の翼に」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 音楽を演奏する人の「感性」は技術や知識のように増やしたり、強くしたりできるものでしょうか?それとも…
 そもそも感性と言う言葉は心理学辞典によると「美しさや快さなどの認知や評価はもとより,味覚や嗅覚のように感情を伴う感覚,質感・速度感・広がり感といった知覚的印象の認知も,感性の範疇に含まれる。感性は,感覚から感情までを含む多様な「知覚」を意味する古代ギリシア語のアイステーシスaisthesisとも関連する。」とあります。感覚も感情も完成の一部なのですね。
 感覚はトレーニングよって「敏感・精細」にできます。聴覚で言えば単に「音が聞こえる」と言う意味もあれば「音の高さを答えられる」事も聴覚の一部です。動体視力も資格の一部です。ボクシングの選手やF1パイロット、プロ野球の選手のように高速で動くものを、瞬間的に「見る」能力が求められることもあります。
 一方で「感情」は鍛えたり強くしたりできるでしょうか?
感情を抑える「理性」簡単に言えば「我慢すること」はある程度強くすることももできますが限界がありますよね(笑)「堪忍袋の緒が切れる」「我慢の限界」と言われる状態です。
 音楽は「音」を「音楽=作品」として感じることで初めて音楽になります。
自分と同じ「人間が作った作品=楽譜」を音にして、その音から「感情」や「感覚」を湧き上がらせることが「演奏」だと思います。つまり、ただ音を出すだけの段階では特定の感情…悲しい・楽しいなどや、感覚のイメージ…暖かい・冷たい・軽い・柔らかいなどのイメージは感じられず、「サウンド・ノート」ではなく「ノイズ=聞き取れる空気の神童」でしかありません。
 感性をより「敏感」に「精細」にしたいと思うのであれば、何よりも自分の記憶を呼び覚ますことです。感情の記憶は日々、無意識のうちに積み重なるものです。多くの記憶は長く覚えていられないものですが、強く印象に残った「感情の記憶」は誰にでもあるものです。私たちの年齢で「昔…」と言えば大体10年以上前の話ですが、小学生が「昔ね~…」と言うと思わず吹き出します。感情を伴う記憶が多いほど、音楽のイメージを作りやすいはずです。
 感性はずばり「その人の経験」から膨らむものだと思います。
もし、今までに一度も悲しい経験をしたことのない人がいたら「悲しい」と言う感情は理解できません。楽譜を「音楽」にする時に、ぜひ自分の記憶の扉を開いてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

知っている曲が知らない曲に 

 演奏はデュオリサイタル15で演奏した「ふるさと」
ジャズピアニスト小曽根真さんと奥様で女優さんの菅野美鈴さんがアップされていた演奏があまりに素敵だったので。耳コピさせていただいたものです。
 ふるさと…NPO法人メリーオーケストラで演奏し続けている日本の情景と日本人の心情を表した素晴らしい曲ですね。

 上の映像はメリーオーケストラ「ふるさとロングバージョン」(笑)
下の映像は毎回演奏している「ふるさとアンコールバージョン」です。

 知っている音楽を聴いた時に「あれ?どこか違う」と感じることがあります。
いわゆる「カヴァー」が流行している現代ですがこれも「知っている曲が生まれ変わる」ことの一つです。
 クラシック音楽の世界でも、珍しい事ではありません。過去に作曲された音楽を「素材」にして新たなアレンジを施し「新しい音楽」にすることは当たり前に行われています。ブラームスの「ハイドンバリエーション」のようにタイトルに表されているものもあります。フリッツ・クライスラーのようにオーケストラのための音楽をヴァイオリンとピアノで演奏する「楽譜」を書き自分で演奏していた人もたくさんいます。ハイフェッツもその一人です。
 演奏家が作曲をする…曲をゼロから作るのではなく「手を加える」事で新しい音楽になります。「盗作だ!」(笑)意味が違います。お間違いなく。
 もとより、以前にも書いた通り作曲された「楽譜」は演奏者の自由な表現と解釈によって演奏されるのが「本質」です。楽譜の通りに演奏する…楽譜に書いていないことは「してはいけない」と言う楽譜は存在しません。現実的に考えてください。楽譜のすべての音に作曲家が「音色」「ヴィブラート」「音量のデシベル」を書き込めるでしょうか?不可能です。作曲した本人が「他の人に演奏されたくない!」と考える場合もあります。パガニーニは当初、自分で作曲し自分で演奏した曲の楽譜を人に見せなかったそうです。
 逸話として有名な「神童モーツァルト」が一度聞いただけの曲を自宅でチェンバロで演奏した…この能力は「聴音+暗譜」の技術で音楽の学校で多くの人が学ぶ技術です。前述の「小曽根真さんの演奏耳コピ」はまさに「聴音書き取り」の技術です。話がそれましたが「楽譜は自由な演奏の素材」です。
 演奏する人の「こだわり」が個性になります。こだわりのない演奏は「個性のない音楽」だと感じます。音色であれ、テンポの微妙な揺れであれ、演奏する人の「考え」があって初めて音楽になるものです。
 自分の知っている曲でも演奏したとき、それは「新しい音楽」になることを意識するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽による演奏者の「温度」

 映像はバッハ作曲の「あなたがそばいにいてくれたなら」
ゆったりしたテンポの曲ですが決して「涼しい=冷めた音楽」ではありません。
演奏する音楽によって「適温」があると思っています。
 下の映像はエルガー作曲のマズルカです。演奏当時はこれが「適温」だと感じていましたが今、聴いてみるともう少し「軽やかに」演奏したほうが良かったのかな?とも反省しています。

 一つの音楽の中で温度が変わる者もたくさんあります。
たとえば、チャイコフスキーの「メディテーション=瞑想曲」

 ぜひ!演奏する音楽の「適温」を探してみて下さい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介