ヴァイオリンはどこまで進化するべきなのか

上野3枚の写真はすべて私が愛用しているヴァイオリンです。
1808 GIASINTOS SANTA GIULIANA
私が13歳の頃、50年前に父親が刈ってくれた楽器。ヴァイオリン職人として高名だった田中豁さんかが、メニック(フィラデルフィア)から取り寄せたものでした。
 さて、今回のテーマはヴァイオリンと言う楽器の「進化」について考えるものです。

 ピアノや多くの管楽器は、楽器が使用されるようになってから、長い時間をかけて「進化」してきました。素材や機構、作成譜お方も含めて「より演奏しやすく大きな音が出るように」変化してきました。
 演奏会場が大きくなり、一緒に演奏する楽器の音量が上がれば当然の変化かも知れません。
 ヴァイオリンは?どうでしょうか。

 この写真は1677年にニコロ・アマティが作成したというヴァイオリンだそうです。(笑)アマティはストラディヴァリの師匠にあたる製作者です。これ以前のヴァイオリンは様々な大きさ・形状だったようです。
 1680年と言えば?日本では江戸時代。五代将軍徳川綱吉が政治を行っていた時代です。
いくら「西洋」とは言えば現代との違いは想像しきれないほどです。
 演奏をする場面を想像しても「ホール」ではなく、宮廷や教会での演奏が主だった時代。金属の加工技術も低く、楽器に張る弦もガットをそのまま使っていた時代です。
当時に生まれ、活動していた作曲家は
パッヘルベ
コレッリ
パーセル
アルビノーニ
アルビノーニ
ヴィヴァルディ
テレマン
ラモー
J.S.バッハ
D.スカルラッティ
ヘンデルなどなど。

 さて、2024年の今を考えます。
「Ai」私世代なrあ「愛」と読みますが(笑)人工知能やら「量子コンピューター」やらが使われ始めている時代です。音楽で考えると何か大きな変革があったでしょうか?
 コロナ感染症で「音楽配信」が増えましたが、それ自体は新しい技術でもありません。
生で演奏を楽しむ機会が減ったことは事実です。それでも、クラシック・ポピュラー共に音楽の生演奏を聴いて楽しむ文化は10年前50年前と比較しても、あまり変わっていません。

 録音技術がデジタル化されて、すでに数十年経っています。逆に「アナログ」が見直される時代になりました。自宅や外出先で音楽を聴くことも「ウォークマン」が発売された40数年前前から続いていることです。
 電子楽器が「パソコン」にとってかわられたのはここ10年ほどのことかもしれませんが、それも「テクノ」が流行った昭和の時代に存在していた音楽です。シンセサイザーと呼ばれる電子楽器は40年以上前からありましたし、電子オルガンも50年以上前から普及していました。

 ヴァイオリンに求められる「進化」って何でしょうか?少なくとも演奏方法や演奏する楽曲が変わっていないことは事実です。
「より大きな音が出せる」ことでしょうか?「より演奏しやすく変える」事でしょうか?
「初心者でも演奏を楽しめる」ことでしょうか?例えば調弦=チューニングしやすくするtらめの「アジャスター」は既に60年以上前からありました。ペグ=糸巻そのものを「ギヤ」で力を入れなくてもペグを好きな位置で止められる機構「ファインチューン」というものも既に当たり前に使われています。
 一番「ちょこちょこ」変わるのは弦ですが、1700年当時の「生ガット弦」から「スチール弦」「金属巻きガット弦」が生まれ「ナイロン弦」が生まれてからあとは「これは!」という進化はありません。むしろパッケージを変えただけで「新製品」が発売されている状態です。

 演奏に求められうるのが「正確さ」「速さ」に偏っている現代、演奏者の音楽性や音色の美しさを求める人が段々減っている気がします。
 ヴァイオリンは300年前に「進化を止めた」楽器です。それを望んだのは演奏家であり聴衆です。70年以上前の録音されたレコードの演奏に、改めて感動するのは私だけではないと思います。個性を前面に出し、一つの楽曲に時間をかけて取り組んだ時代に「クラシック」の音楽の原点があるように思います。
 現代音がKとは次元の違う話です。進化より「深化」が必要だと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術になぜ?個人差があるのか?_

映像は国際コンクールで優勝し誰からもその技術の高さを認められている日本人ヴァイオリニスト三浦文彰氏の映像です。今回のテーマは「技術の差はどうして生まれるのか」という素朴な疑問について考えるものです。
 結論から言ってしまえば「努力の内容と量の違い」という当たり前のことになりますが(笑)、うまくなりたいという気持ちがある人にとって「超えられない山」なのかもしれません。

 演奏の好き嫌いとは別に「技術力」は様々な方法で科学的に比較できます。人間の聴覚は極めて曖昧なものです。
同じ人間が同じ大きさ、同じ高さの音を聴いても聞こえたり聴こえなかったりするのが普通です。パニック状態になれば、どんなに大きな音も「音」として認識できなくなるのが人間です。ですから、人間がいくら頑張っても「科学的な比較」としては演奏技術を比較することは出来ません。

 ヴァイオリンの演奏技術を「分析」する賭したら、どんな項目があるでしょうか?
・楽譜に係れている音の「高さ」
・楽譜に係れいる音・休符の「長さ」
・音量の幅=ダイナミクスの大きさ
・練尾の安定性とバリエーションの豊富さ
・正確に演奏できるテンポの速さ
上記の中で「音色」に関するものが最も分析の難しい項目になります。音色の分析には「含まれる音の周波数と波形」を分析することになります。何度も言いますが「好み」の問題ではありません。あくまでも「数値化できる項目と内容」の話です。

 大雑把に言ってしまえば
「速い曲を間違えずに演奏できる」
「汚い音=演奏者が意図しない音をださない」
「静かな曲もどんな曲も美しく(笑)演奏できる」
美しいという言葉が科学で証明できないのですが、違う言い方をすれば「誰からもケチの付けられない=減点されない演奏」だということです。

 さて本題です。どうして?これらの技術に差が生まれるのでしょうか?
「才能だ!」と切り捨てるのは簡単ですが「才能って何?」が結局のところ、今回のテーマになるわけです(笑)
「じゃ、環境だ!」はい。それは確かに大きな要因になります。両親が演奏家だったり、いくらでも練習できる環境だったりと「うらやましい」と思われる環境の人もいます。楽器の練習ができない環境で技術を身に着けることは不可能です。一方で音楽の学校に進学できた人の中で、練習できる環境が同じでも技術の習得に差が表れるのも事実です。「それまでの環境」人によって育つ環境が違うのは当然です。ただ音楽の学校に入学できる一定のレベルがある人たちが、その後に修得する技術が違うこととは直接関係ありません。

 趣味の楽器演奏でも、国際コンクールに出場する人でも「技術さ」が生まれる原因は「練習の質と量」以外の要因は獄わずかだと思います。
「練習の質=内容」と「練習量=毎日の連中時間・トータルの練習期間」を合わせたのが「練習」であり、sの結果が技術の主六の違いになるものだと考えます。
 先述の通り、練習時間が仮に「ゼロ」であれば、技術の習得も「ゼロ」ですが、内容が「ゼロ」であっても結果は「ゼロ」だと言えます。
 むしろ「練習量=時間」は時計があれば図れますが、内容を測ったり比較することは困難です。

 練習の質=内容は、先述の「技術」の項目で書いたようなことを「できるようにするための内容」です。
「速く正確に美しく演奏する」ために「聴く能力」と「体をコントロールする能力」の両方を高めることが必須になります。どちらも「正確な演奏」には不可欠です。いくら耳が良く反応が速くでも、運動能力が低ければ再現性は望めません。元より音を聞き分ける「耳」がなければ、正しいか?間違っているか?を判断できません。


音に対する反ぬお速度と制度・筋肉や関節を正確に動かす運動能力。どちらも「あるレベルまで」は多くの人が到達します。さらに厳密な「制度」と「再現性」を身に付いtた人たちと、何が違うのでしょうか?
 これはスポーツの記録でも言えることですが「小さな違いの積み重ねの違い」なのだと思います。
 同じ練習メニューで、一人一人の筋力に合わせた加賀的なトレーニングをした場合「結果・効果」を数値化することは出来ても、その人の「感覚」は数値化できません。
脳波を取ることで「苦痛」「痛み」などは検知できます。
瞬間的に「何を考え・どうしようとした」ことまではデータに現れまS年。「思考」つまり脳の働きは最も分析が難しいジャンルです。
 おそらく練習中の「思考」が技術の習得を左右していると推察できます。「何も考えない」で練習しても上達は望めないということです。
 練習中に考えていること=注意していることを、すべて言語化することは不可能です。むしろ「無意識に考えている」からです。その思考を集中できる時間の長さが長ければ、より高い技術に到達すると思われます。
 同じこと(例えばピッチ)に集中して練習したとしても、同時に注意する内容(音色や音量など)をどの割合で、どの位集中しているか?は人によって違います。
結果として「同時に集中できる項目」の制度を高め、集中を持続させることも「能力」の一つです。
 結局「脳の働き」に左右されていることになります。
持って生まれた身体的な特徴や、脳の働きもありますが「訓練・練習」によって伸ばされる能力の「差」こそが、技術の違いです。
 と、思っていてもうまくなれないのが現実ですね(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

40年経って変わること・変わらないこと

 ヴィタリ作曲「シャコンヌ」です。上の動画は今年1月に演奏したもの。下の動画は40年前の演奏。

 使っているがヴァイオリンは同じです。ヴァイオリンを弾いている人間も同じです。
 ピアニストと解錠は違います。
共通して「不安定」です(涙)
音楽から感じているものは変わっていないようです。テンポや音量、歌い方は微妙に違いますが「やろうとしていること」は変わっていません。
 40年経っても「好み」は同じだという事かも知れません。もっと技術的に成長していてほしかった(笑)
 音楽を「感じる」感覚は人によって違いますが、時が経っても変化しないことを実感しました。
 ただ演奏を聴いてくれる人にとって、この二つの演奏の「違い」は明らかにあるはずです。より「好き」な演奏もあると思います。
 自分の技術が足りないと感じることがあっても「感じること」だけには誇りを持つべきですね。
 あなたはどちらの演奏がお好きですか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の基本は「点」

 私たちは3次元の世界に生きています。「縦・横・高さ」簡単に言えば「立体の世界」です。「1次元」は「点」だけの世界です。当然動きはありません。
 もう一つの「時間」という概念で考えると、秒・分・時間・日・週・月・年などの単位で表されますが、日常生活で「秒」よりも小さい単位の時間を意識することはありません。「一秒間に〇△回の動き」と言う言葉を機ことはあります。例えば、空気が一秒間に442回振動する音が「A」と言う使い方があります。メトロノーム記号で♩(四分音符)=120と書いてあれば、一秒間に2回♩が演奏される速さを表しています。

 上記の二つ「動き」と「時間」を組み合わせて考える時、「一瞬で止まる」とか「突然動き出す」という表現ができます。また「少しずつ速く動く」「だんだん遅く動く」とも言います。
 動きを「止めている」状態で「一秒間」待つ場合、動きは「点」であり、時間は「一秒間」です。
 一秒後、「動き出す」速度が速くても遅くても、動き出す「瞬間」が存在します。時間の「点=瞬間」です。
 動き出して=音が出始めてから「一秒後」に運動を「止める」場合、だんだん遅くなっていも突然止まったとしても「境目」があります。これも「点=瞬間」なのです。

 要するに「動き」には「静止」と「動き」があり、時間には常に「点」が存在することになります。時間が止まることはないのです。常に「時」は動いています。sの細かさをどれだけ細かく感じられるか?が大きな問題になります。時間の点=瞬間を意識するためには、その点の「前」に点を意識することが必要になります。聴いている人には「突然の瞬間」でも、演奏する人には「準備して決めた循環」なのです。
 音を出す瞬間・音を止める瞬間は、常にすべての音に存在します。レガートの途中の音であっても、無音の状態から最も小さい音で演奏し始めても「点」は存在します。
 「音を出す仕組み」は楽器によって違います。ヴァイオリンの場合は「弓の毛が弦を擦って動き出した瞬間」に音が出始めます。ピチカートなら「弦をはじいた瞬間」です。
弓で音を「止める」点もあります。弓の動きを「止めた瞬間」と「反対方向に弓を動かす瞬間」です。多くの生徒さんは「弓を止める」ことに意識がありません。また、運動を「止める」事がうまくできないのもアマチュアによく見られ宇ことです。「弓を動かし始める点」と「弓を止める点」を両方とも意識することです。

 音を出し「始める=動き出す」「終わる=止まる」「瞬間」を予測し、必要な準備の運動を「いつから?」始めるのかを考えることです。この「いつ」も時間です。音が出るよりも前の時間=瞬間から準備の運動が始まります。
 指揮法で言えば「直接運動」です。腕(指揮棒)が動いた瞬間にオーケストラ音を「出す」運動です。そのために点を「予測させるための静止るる時間」が必要になります。「先入=せんにゅう」と呼ばれます。演奏にも同じような「法則」を考えていけば、思った時間に思った音が出せるようになっていきます。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

右腕の使い方、今と昔。

シェリングのボウイング
ヴェーグのボウイング
ヴィタリ シャコンヌ 野村謙介

 今回のテーマ「ボウイング」について。
弓を弦に乗せて動かす「だけ」で音が出る弦楽器のヴァイオリン族。音色と音量を決定するのが「弓」を動かす運動の方法です。多くのチュートリアル動画がある中で、「ボウイング」や「右手」「右腕」で調べても、なかなか「右腕・右肩・背中の使い方」についてのものは見つかりません。弓の持ち方に関する動画はすぐに見つかりますが。
 ヴァイオリニストの個性が最も大きく表れるのが、右腕の使い方による音色と音量の「違い」だと信じています。
 ヴァイオリン奏法が「進化」しているとは思いません。むしろ、50年以上の前に録音されたヴァイオリンに、演奏者の個性が強く出ている気がします。

 右腕は「右肩」から始まりますが、右肩は「右の背中」と「首の右側」の筋肉によって動きます。逆に弓を持っている「指」「手」をいくら動かしても演奏は出来ません。人間の背中の筋肉と首の筋肉、さらに鎖骨周辺の筋肉を使う事こそ、ボウイングの「基本」だと思っています。
「弓を動かす」のは手や指ではなく、背中・首の筋肉です。
 弓元半分を使う時の右腕の「上下運動」があります。弓先半分は右ひじの「曲げ伸ばし」が主な運動になります。4本の「どの弦を演奏するのか」によっても、右腕の高さが変わります。
 弓の毛の長さと、右腕の長さを良く考えてみるべきです。

 腕の重さを使う事、より大きな筋肉を使う事、関節を柔らかく使う事。ボウイングは弦楽器奏者の「個性」を表す最大の技術だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 脳ら謙介

指使い・ボウイングを変えて演奏することのメリット・デメリット

チャイコフスキー ノクターン もみじホール
チャイコフスキー ノクターン ムジカーザ

 今回のテーマは、左手の「指使い」と右手の「弓使い=ボウイング」に関するものです。どちらも演奏する曲を練習する段階で、楽譜に書かれている場合・場所もあれば、書かれていない楽譜も普通に存在します。
 Youtubeで多くの演奏家の演奏動画を比較してみていても、同じ曲でも指使い・弓使いが異なっているものが殆どです。同じソリストが同じ曲を、違う指使いで演奏しているものも多数見かけます。
 上の二つの動画は、昨年末(2022年12月)と今年の年明け(2023年1月)に同じ曲を演奏した動画ですが、よく見ると指使いもボウイングも違います。
「なぜ?同じように演奏しないのか?」
「なぜ?指使いや弓使いを変えるのか?」
この問いに対して「変えることは決めていないから良くない」という考え方と「その時々で変更することは出来た方が良い」という考え方があります。
 楽譜に書かれている指示通りに演奏すれば良い…とは限りません。事実、印刷の間違いとしか思えない指示がある場合も珍しくありません。また、同じ曲でも出版社によってまったく違う指示が書かれているものも当たり前です。
 練習していく中で、複数の選択肢が生まれてきます。「どれが正しい」と言う正解はありません。選択する理由も様々です。「演奏しやすいから」という理由もあれば「音色を優先」「音量を優先」「速く演奏できることを優先」などの理由で「ひとつ」を選ぶことになります。
 演奏は「時間の芸術」であり、まったく同じ演奏を2回することは不可能です。だからこそ、指使いや弓使いを「変えない」と言う考え方も理解できます。逆に言えば、演奏する時の体調や気温、湿度、ホールの響きによって、自分が思っていた音色や音量、効果がない場合もあります。その時に、前回演奏したときと違う指使いや弓使いをする・出来ることも、演奏家に求められる技術だとも言えます。
 私は上記の後者=その場で決めるケースが多く、演奏するたびに指使いも弓使いも違います。「安定感が下がる」「再現性が下がる」「練習の効率が悪い」と言われればその通り!(笑)です。
 自分の音が、どんな演奏の場所でも同じように聴こえ、ピアノの音とのバランスもいつも同じように聴こえるのであれば、変えないほうが無駄も少なく、混乱するリスクも減ります。
 学生の頃には、同門の先輩が演奏した楽譜をお借りし、指や弓を書き写させてもらったものです。その通りに演奏することに疑問も違和感も感じませんでした。「そうするもの」だと信じていました。自分で考えることより、先輩や師匠の考えられたものを忠実に演奏すること。それが当たり前でした。
 レッスンから離れ、自分で選んだ曲を自分で考えて指使い・弓使いを決めるようになってから、初めて「考える」ことの大切さを知りました。
 言うまでもなく、自分で考えられるようになるまで、楽譜の指示通りに演奏する習慣は身に着けるべきです。教本などに書かれた指示を守ることは「セオリー」を覚えるために必要な練習です。
 人によって「好きな指使い」が違います。ボウイングも同じです。
自分の選択肢を増やすための研究と、実際に演奏してみて「結果」を反省することの繰り返しが、最終的に自分にあった演奏方法を見つけることに繋がります。
 きっと、これからも混乱して迷子になりますが(笑)どうぞ、暖かい目で見てやってください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の重さ・指の重さ

 写真は世界一、手触りの良い肩当て「ぷりん」(笑)
 リサイタルに向けて。地球の重力を最大限に利用しています。
 卵のLサイズ1個の重たさは約60グラム。ヴァイオリンの弓の重さも約60グラムです。この「重さ」には理由があります。弦と弓の毛の「摩擦」は、弓の重みだけでも発生します。ダウン・アップ方向に動かす運動のエネルギーは、人間の腕によって作られます。弓の60グラムの重さをうまく弦に「乗せる」ことが如何に難しいか?逆に言えば、押し付ける力を指で作ってしまうのは簡単なことです。まして、2本の弦を同時に演奏し続ける場合、圧力で2本を演奏しようとする気持ちが無意識に生まれて今いがちです。
 左手の「指」にも重さがあります。
指1本の重さを測ることは出来ませんが(笑)、弦の振動を「止める」ことさえ出来れば、必要以上の力で弦を押さえることは無意味です。
 指を「弦に落とす」イメージ。指の「速度」を重視することです。
 左手の指が「弦の上を滑り動く」映像を過去の偉大なヴァイオリニストの演奏で見られます。どんなときにも「楽器」を中心に、身体で包み込む意識をもって演奏しています。
 今度のリサイタルでその「途中経過」が発揮できることを根差しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

シルキーでミルキーでソフトリーな音

 写真は私の使っているヴァイオリン。1808年イタリアでサンタ・ジュリアーナが作った楽器です。50年前に当時フィラデルフィアにあった弦楽器商社メニックから輸入された楽器です。
 教員生活をおくっていた20年間、演奏する機会もなく退職後に改めて「ヴぁ庵人演奏者」として向き合ってからもうすぐ20年が経ちます。
 今回のテーマはヴァイオリンの音色として私が「理想」と思う表現について。
「シルキー」意味は「滑らかで、輝いている表面の反射光線を持つさま。」
ヴァイオリンの音は、弦を弓の毛で擦ることで摩擦で弦を振動させた音です。波形の話や音響学・物理の話には今回深入りしません(笑)
 感覚的なイメージや比喩は、人によって感じ方が違うものなので、比較することはあまり意味がないことです。好みの問題でもあります。
 毎年のリサイタルで自分の「課題」を少しで改善していくことを目指しています。今回は「つやっぽい」音を目指していいます。まさに「シルキー」な音です。
「ミルキー」はママの味(笑)ではなく、「ミルクのようなを意味する英語。」私は牛乳が好きではないのですすが(笑)、甘いイメージが思い浮かびます。砂糖の甘さとは違い「香り」を伴った印象があります。柔らかく・優しい音の表現として使っています。
「ソフトリィー」の意味は「柔らかに、静かに、そっと、優しく、穏やかに」という子おtだそうです。弱いと言うイメージとは違い、聴いていいて穏やかな気持ちになる音が出せたらと願っています。

 昨年は「弓の持ち方」に重点を置いて練習しました。今回、音色に焦点を絞ったのは「演奏譜お方」を考えるうえで、なにを?求めて技法を考えるのか?という原点でもあります。安定した演奏や、より正確な演奏を求める「技法」も重要ですが、自分のこだわりが「音色」であることを再確認しました。練習したからといって、すぐに結果が出るものではありません。ただ、意識を変えることで感覚的に自分の「好きな音」に一歩ずつ近づいている気がします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴィブラートの種類

 映像はミルシュテインの演奏動画です。数多くの偉大なヴァイオリニストの中で、ヴィブラートが同じ…と言う人たちはいません。当たり前ですが(笑)それぞれに「こだわり」を感じます。YOUTUBEでヴィブラートと検索すると大変な数の「アドヴァイス動画」がヒットします。自分の思ったようにヴィブラートが出来ない人にとって「藁をもつかむ」で動画を参考にするのは賢明なことかもしれません。
ただ残念なことに、どんなに李其ヴィブラートに出会っても、それを他人に伝えることは最終的には不可能なことだと言えます。「音の変化」として真似をすることはある程度可能です。
 身体=筋肉や関節の動かし方を、理論的に解説することは出来ますが、実際に自分の身体の「どの部分に」「どんな力を」「どのくらい」使ってヴィブラートをしているのかを言語化することには限界があります。さらに、それを読み・聴いた人が自分の身体に置き換えて実行することは、さらに無理があります。
 例えるならば、バスケットボールのフリースローを成功させるための「技術」を誰かに完全に伝えることに似ています。もし、完全に言語化でき、誰でも真似を出来るなら、失敗する人はいなくなることになります。

 今回のリサイタルでも、左手の使い方をゼロから作り直しています。現に触れる「指の皮膚」と皮膚の下の柔らかい「肉球(笑)」さらにその中にある「骨」にかかる力を感じることから始めます。
「動き」で考えれば、指先の関節それぞれの動く方向と量を考えます。当然、指に力を入れれば関節の動きは制約されます。抜きすぎれば弦を押さえることができません。親指も同じです。
 手首の動き・手首から肘までの前腕の動き・肘から肩までの上腕の動きにも「筋肉の弛緩と緊張」「動きの方向」ででヴィブラートが大きく変化します。それらがすべて「連動」と「独立」を繰り返すので、言語化さるのは不可能に近いことです。
 自分の耳で「波=ヴィブラートの深さと速さと滑らかさ」を確認し、楽器が揺れる大きさと方向を目と身体で確認します。

 ヴィブラートは1素類ではありません。どの音に、どんなヴィブラートを、いつからいつまでかけるのか?それは演奏者の「こだわり」以外の何物でもありません。
 そこに右手の運動のコントロールが加わることで、さらに大きな変化が生まれます。
 自分の好きな音を出せるまでの、永い道のりを楽しみたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

右腕と左手の「分離」

 映像は、ユーディ・メニューインの演奏動画。
私が学生時代にメニューインの書いた演奏技法に関する本を何度も読み返していました。当時は、カール・フレッシュの分厚い演奏技法に関する本もありましたが、両者ともに「理論的」に演奏を解析しているものでした。
当時は「意味わからん」と(笑)内容を把握していなかった気がします。
 現代の若手ヴァイオリニストたちの技法とは完全に一線を画す演奏方法です。大きく違うのは「右腕の使い方」です。もちろん、左手のテクニカルな面でも当時と今では明らかに違います。
 演奏の自由度=音色の多彩さが今とは比べ物にならないほど大きかった気がします。言い換えれば、現代のソリストたちに共通して感じられるのは
「音量」と「正確さ」を競うための技術が優先しているように感じます。
ハイフェッツやオイストラフ、シェリングやメニューインが「技術が低い」のではなく、演奏技術のベースに「音色のバリエーション」が必ずありました。ヴィブラート一つ取り上げても、パッセージや一つ一つの音単位で、速さと深さを変えていました。また、右腕に至っては、まさに「ヴァイオリンの基本はボウイング」だと思わせるものがありました。
 以前にも書いたように、ヴァイオリンは音量の「差=幅」の少ない楽器です。クラシックギターやハープ、チェンバロに比べれば、多少なりとも大きな音量差は付けられますが、ピアノなどと比較しても「音量の変化」は微細なものになります。だからこそ、音色の変化量で補う一面があります。

 今回のリサイタルに向けて、左手の「力」を必要最小限に抑えることを心掛けています。特に親指をネックに充てる力を意識しています。
右手の親指も、無意識に必要以上の力を入れていることがあります。
左手の場合、必要最小限の「運動量」で演奏することで、自由度が増し移動も速く正確になることが感じられました。一方で、左腕の運動が左手につられて小さくなってしまうことに気づきました。
 意識の中で「力を抜く」「無駄に動かない」と考えているうちに、右腕も引っ張られて(笑)運動が手先に偏ってしまう傾向があります。
 演奏し長ら「エネルギー」が欲しい時に、つい両腕に力が入ってしまう。本来は右腕おt左腕は「まったく違う役割」を持っています。当然、力の量も違います。なんとなく、両方の腕に同じ力がかかったり、力が抜けたりするのは「独立=分離」が出来ていないためです。これはピアノでも他の楽器でも同じことが言えるのだと思います。わかりやすいたとえで、ドラムの演奏動画をご覧ください。

身体のすべてが「音楽」「楽器」になるドラマーと言う演奏者を見ると、私の悩みがちっぽけ(笑)に感じます。
 技術は音楽のためにあります。考えることと感じることは、お有る意味で「同じ」またある意味では「別桃の」です。感じたことを表現し、表現したことを感じる連鎖が演奏です。
運動と感性も同じ事です。右腕と左腕が別荷動きなら、ひとつの音を出す。
考えなくても思ったように動かせるようになるまで、考え抜きたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介