ムジカーザでどこに立つか?

 今回は代々木上原ムジカーザでピアノとヴァイオリン・ヴィオラでリサイタルを開かせて頂いていながら、未だに立ち遺体が決まらない悲しい(笑)お話です。
 最初の動画は5回目のリサイタルの映像。下は14回目(2022年1月)の映像。
ピアニストの右横で少しだけピアニストの背中側になった5回の場合、私は上手側(客席から見て右側)にヴァイオリンのスクロールを向けて立ちます。
ピアニストから私の気配を感じられるぎりぎりの位置です。
 問題は私の視覚障碍「暗所が見えない」ということです。
この立ち位置ならピアニストを視認できるので方向が安定します。
 一方で下の動画のようにピアノの蓋を支える「柱」の辺りに立つとピアニストは視線をあげるだけで私の動きを確認できます。ヴァイオリン・ヴィオラを演奏する私はピアノの音を背中で聴くことができ、客席に届くピアノの音と私の音が「同時に溶けて聴こえる」と言う大きなメリットがあります。が!(笑)
 この位置からだと私の目で視認できるものが「何もない」状態になるので、どちらを向いているのか?わからなくなると言う問題が起こります。さらに、この立ち位置の正面だけでなく左右のすぐ近くにも客席があるため、楽器の向きを変えると極端に聴こえ方が変わってしまうと言うデメリットがあります。

 自分で演奏して自分で聴くことは「分身の述」を身に着けた人か「幽体離脱」ができる人にしか出来ません。演奏しやすさと、お客様への音の届き方。この両立が大切です!さて、どこに立つのでしょうか?当日のお楽しみ!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

テンポで変わること

 今回のテーマ、演奏するテンポ=速度によって聴く人、演奏する人それぞれにどんな違いがあるのか?というお話です。
 映像はメンデルスゾーン作曲の五月のそよ風。
私はヴィオラで演奏してみました。下の映像はヴァイオリンでえんそうされているものです。楽器による違いはありますが音域は全く同じです。

 テンポを速めることで音楽の流れと、2小節や4小節と言ったある程度の長さの「音楽の塊=フレーズ」を感じやすくなります。その一方である瞬間の和声の為害性や意図的に半音下げられた旋律の印象が薄くなりがちです。
 人間の感じる時間の長さは、多くの場合脈拍に関係しています。いわゆる体内時計も人間の心拍数に影響を受けているという学説もあります。人によって歩く速さは様々ですが脈拍の速さは、大きな違いはありません。
 むしろ演奏を聴いて感じる「速さ」よりも、なにが?印象に残るか?という事の方が大切だと思っています。ゆったり演奏することで、音色の美しさや和声の美しさが印象に残ります。前に進む流れを優先すれば、一つ一つの文字ではなく内容=意味を強く感じられます。どちらが良い…というものではありません。
音楽によっても、楽器によっても違ってきます。聴く人の好みもあります。
 どんなテンポで演奏するか?は演奏者の伝えたい内容によって変わるものだと持っています。次回1月に演奏するこの局を、どんな速度で演奏するか…
 ぜひ会場でお楽しみください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と共に生きること

 今回のテーマはすべての音楽愛好者に向けて。
楽器を演奏することも、誰かの演奏を聴くことも「音楽と共に生きる」と言う意味では何も変わりません。音楽が好き…と言う気持ちがある人たちに心から共感します。
 好きな音楽を、好きなときに、好きなように、好きなだけ
これこそが音楽を楽しむことだと思っています。これ以外に音楽を楽しむ方法はありませんよね?楽器を演奏する人が「練習」する場合、必ずしもこれらの「楽しみ」を感じられないことがあります。好きではない練習曲やスケールを練習したり、解放弦やハノンを「好きな音楽」とは誰も思いません。なぜ楽しくもない、好きでもないことを繰り返すのか?答えは簡単「楽しんで演奏できるようになるために」なのです。つまらない・好きではない(笑)練習をすれば必ず音楽を楽しみえるようになるか?と尋ねられたら「そうとは限りません」と正直に答えます。矛盾しているように感じますが、一番大切なのは「楽しんで演奏するために」と言う目的なのです。つまり、ただ練習をしていても目的がなければ、音楽を楽しんで演奏することは出来ないのです。では、つまらない・好きではない練習をすることは無意味なのか?いいえ。つまらないと思ったり、好きではないと思うのは「必要性を感じていない」からなのです。楽しみながら演奏できるようになるまでの「プロセス=道程」を知らないのが初心者です。当たり前ですよね?例えば、ヴァイオリンを練習し始めて1か月の人にとって、経験した練習時間は1か月「分」です。1年練習すれば1年「分」5年練習すれば…楽しんでひけるようになるまでの「期間」に体験したことだけが「知識と技術」なのです。
 どんなに長く演奏を練習しても…私の場合には55年ほど…まだ「道半ば」だと感じています。「55年かかるならやらない」と思わないで(笑)
 演奏して自分が心の底から満足できる演奏には、おそらく誰も到達できません。それでも「楽しい」と思えるのはなぜ?なにが?楽しいのでしょうか?

 演奏する立場で、誰かが聴いて喜んでくれることは、どんなことよりもうれしいことです。自分で「へたくそ」だと思っている演奏でも、聴いてくれた人が「素敵だった」「きれいだった」「昔の風景を思い出した」そんな感想を言ってくれる瞬間に、演奏して良かった。もっと練習してもっとたくさんの人に喜んでもらいたい…と思うのです。それこそが、演奏する楽しみだと思うのです。
 自分の演奏を自分にだけ聴かせる…これは「練習」です。どんなに1曲を通して演奏しても、仮に伴奏があったとしても、聴いてくれる人のいない演奏は「練習」でしかないのです。練習はなんのためにするのか?上にも書いた通り、自分が音楽を楽しむためですよね。その楽しみは?誰かに聴いてもらって、喜んでもらうことです。下手でも良い…とは言っていません。ただ自分が思う「へた」を基準にしてはいけないということなのです。自分より「うまい」と思う人だけが、演奏する楽しみを感じて良い=人前で演奏して良いと、勝手に決めつけているのは自分だけなのです。
 私自身、自分が本当に「へた」だと思い続けています。真実です。
「ならばなぜ?人に自分の演奏を公開するのか?」と思いますよね?
聴いてくれる人の中に、喜んでくれる人が「少しでも」いることを経験で知ったからです。これこそが演奏の経験だと思います。誰もいない部屋やホールで演奏してもそれは「演奏経験」とは言わず「練習経験」なのです。
 純真な子供たちや、見ず知らずの高齢者を前にして演奏させてもらった経験で、本当に喜んでくれている反応を体験しました。1歳児でも認知症の人でも、言葉を失った高齢者でも、自分の好きな音楽を聴くと「無意識に」反応するのです。幼児の場合、首を振って身体全体を動かして喜んだり、じーっと私を見つめ続けたり…。高齢者が音楽を聴きながら涙を流していたり…。
 言葉ではなく人間の一番素直な「感情」が感じられるのが、音楽だと思っています。自分の演奏で、誰かが喜ぶ姿を想像することです。
「私の演奏なんかで喜ぶ人はいない」そう思った人(笑)
それこそが「自己満足」だと思います。
うまくないから人前で演奏しない
もしも、その考えを世界中の人がもってしまったら?
間違いなく世界中で誰も人前で演奏できなくなります。
「私はうまい」と思っている人が世界中に何人?いるか私は知りませんが(笑)少なくとも私の知っている演奏家の中で「自分はうまい」と言っている・思っている人を誰一人として知りません。私が「神のようだ!」と思う人もです。
その人が「自分はうまくないと思うから」人前で演奏しなくなったら聴く楽しみは?なくなります。音楽と共に生きる人も、地球から消えてしまいます。

 演奏すること、音楽を聴くこと。それが生きるために不可欠…だとは言い切れません。人間にとって水や空気、食料のような存在とは違います。
生きている…ということの意味を「心臓が動いている」ことだとする考え方には、様々な異論があります。人間の「意思」「思考」「感覚」がない状態で生命活動がある「生物」を生きている人…と言えるのか?と言う問題です。
その意味でも、音楽を演奏したり聴いたりして「感じる」ことは人間として生きていると実感できる、とても簡単でとても有意義なことだと信じています。
生きることは、感情を感じることだと思います。音楽はその「喜び」を与えてくれる存在だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使いと弓使いを考える

 

今回のテーマはヴァイオリンやヴィオラを演奏する時に不可欠な「指使いと弓使い」について、持論を書かせていただきます。
 楽譜に印刷されている「指番号」「ダウン・アップ・スラー」の指示に従って演奏するのは「基本」です。以前にも書きましたが、この指示は作曲者が書いたものより、圧倒的に「減収者の指示」である場合が多いのは事実です。
 指示通りに演奏することで、自分なりの指使いと弓付けを考えられるようになるまでの「学習」ができます。言い換えれば「セオリー」おを学ぶことがまず大切です。ただ単に「弾きやすいから」という理由だけで考えるのは最も良くないことです。人によって、多少の得意不得意は許されますが、セオリーを無視して何も考えずに指使いや弓使いを決めるのは「個性」とは言いません。単なる「我流」でしかありません。

 上の動画はラフマニノフ作曲、クライスラー編曲の「祈り」原曲はピアノ協奏曲第2番の第2楽章です。この楽譜を含めて楽譜に書かれている指使いや弓使いは、すべての音に対して書かれてはいません。つまり「自分で考える」事が出来なければ、演奏はできないことになります。
 ヴァイオリン教本の場合には、ほとんどの場合指示がされていますから、見落とさなければ指示通りに演奏できます。そこが大きな違いです。
 指使いには、どんなこだわりが必要でしょうか?

 最も大切にしているのは「演奏する弦の選択」です。次に「音のつなぎ方=グリッサンドやスライドなど」そして当然のことですが「ふさわしい音色と音量を出せること」です。演奏する速さにもよります。それらをすべて考えて、最適な指使いを選びます。これも当たり前ですが「前後関係」を考慮します。
 ヴァイオリン・ヴィオラは4本の指と開放弦しか使えません。チェロやこんっトラバスの場合には親指も使えます。限られた指の数で4本の弦を「使いこなす」ために、考えられるすべての指使いを試してみることが大切だと思っています。初めは「この指使いはないかな?」と思っていても、実はそれが最適な場合も良くあります。選択肢は本当にたくさんあります。どんな指使いが「正しいか」よりも音楽として適しているのはどれか?を考えることです。

 弓使いについては。ダウンアップよりも「弓のどこで演奏するか?」が重要です。それぞれの場所で個性が違います。向き不向きがあります。
それを理解して初めて自分なりの弓使いが決まります。
 私は「レガート」で必ず一弓で弾くとは決めていませ。
弓を返してもレガートで演奏できる技術を身に着けることが大切です。
 どんな弓使いであって、演奏者のこだわりがなければ「行き当たりばったり」になります。自分で考えることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の立体感=奥行・広がり

 映像はチャイコフスキー作曲のノクターン。ヴァイオリンとピアノで演奏したものです。今回のテーマは「立体感」です。
音楽は目に見えるものではありませんが、奥行や広がりを感じる演奏と平坦で窮屈な感じを受ける演奏があります。その違いはどこから生まれるのでしょうか? 

 一つには「演奏する音色と音量の変化量」が関係します。
どんなに正確に演奏したとしても、一定の音量と変わらない音色で演奏すれば聴いている人にとって平面的な音楽に感じます。
 一つの音の中でも音量と音色を変化させられる弦楽器の場合と、それが出来ないピアノの場合では少し違います。どんな楽器でも共通するのは、一つ一つの音の「個性」を意識することです。言い換えれば全く同じ個性の音が二つ並んで存在することは確率的にゼロに等しいという事です。

 視覚障碍者の私にとって「コントラスト」の弱いものは見つけにくいものです。また、遠くにある者は輪郭がはっきりしません。音楽に例えて考えると、一つ一つの音の「輪郭」と前後の音との「コントラスト」です。さらに具体的に言えば、同じように「小さく聴こえる音」でも、遠くで鳴っていて小さく聴こえる音のイメージと、耳の近くで鳴っている小さな音は明らかに違うものです。
 広がりについて考えます。これは先述の「遠近」と違い「上下左右の空間」です。例えていうなら狭い部屋で楽器を弾いた時の響きと、残響の長い大きなホールで響きわたる音の違いです。一般的に残響の少ない音を「ドライ」「デッド」と表し、逆に豊かな残響のある音を「ウェット」「ワイド」などと表します。
 演奏する場所の問題だけではなく、演奏に余韻や適度な「間=ま」のある演奏で広がりを感じられます。押し付けた音色や揺らぎのない演奏を聴いていると、窮屈なイメージ・閉鎖的なイメージを感じます。

 オーケストラのように多くの種類の音色が同時になる音楽と、ピアノとヴァイオリンだけで演奏する場合では特に「立体感」が異なります。音の大きさにしても、50人以上が演奏するオーケストラの「音量差」はピアノ・ヴァイオリンとは比較になりません。二人だけで演奏する場合の繊細な音量差と、微妙な音色の違い、一音ごとの輪郭の付け方が、音楽の奥行と広がりを決定します。

 手に触れられないもの。例えば空に浮かぶ雲にも色々な形や色、大きさがあります。雲を絵に描こうとすると難しいですよね?コントラストや輪郭、微妙な色の変化などを表現することの難しさがあります。音楽も似ています。
 手で触ることができるリンゴや草花を描く時にも、実際の大きさを見る人に感じてもらうために他のものを一緒に書き入れることもあります。
 写真で背景や周りのものを意図的に「ぼかす」ことで、奥行や広がりを表現できます。音楽でも際立たせて、近くに感じさせる音と、背景のように感じる音の違いを作ることが重要です。

 難しそうな技術に感じますが、私たちが会話をするとき無意識におこなっていることでもあります。伝えたい言葉を強く、はっきり話すはずです。小声で話をするときには、普段よりゆっくり、はっきりと話すはずです。遠くにいる人に大声で何かを伝える時なら、一言一言をはっきり叫ぶはずです。
 楽器の演奏を誰かに語り掛ける「言葉」だと思えば、きっと誰にでもできることです。文字をただ音にしても意味が通じないこともありますよね?
 あげたてのてんぷら
 きょうふのみそしる
アクセントや間のとり方で意味が変わります。音楽で特定の意味を伝えることはできますぇんが、弾き方を変えることで聴く人の印象が変わることは言葉と同じです。大切に語り掛けるように、楽譜を音にすることを心が得たいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

ちゃんとコンチェルトを弾いていたから今がある!

 今回は何とも「いかがわしい」タイトルのブログです。
動画は私が大学4年生当時に、恩師久保田良作先生門下生の発表会で演奏したときの録音です。銀座のヤマハホール、ピアノは当時アンサンブルを一緒に学んでいたピアニスト林(現在は同銀)絵里さん。私の大学卒業試験直前の発表会で、試験で演奏する時間までの部分しか練習していないという(笑)
 今聞いてみて感じること。「さらえばそれなりに弾けるんじゃん」という笑える感想です。当たり前ですが、桐朋学園大学音楽学部卒業試験でチャラけて演奏するする奴はいませんよね。この発表会では何か所か「大傷」がありますが恐らく卒業試験の時には、これよりもまともに演奏した…はずです。
 荒っぽい弾き方が耳障りな部分もたくさんありますが、今の自分の課題と同じ課題が多いことに驚きます。ん?つまり、成長がとまっている?(笑)

 高校大学時代に学んだ「クラシック音楽の演奏」が今の自分にとって、なくてはならないものだったことを感じます。
 クラシック音楽は長い伝統に支えられ、今もそれは継承されています。
さらに言えば。多くのポピュラー音楽はクラシック音楽の基礎の上に成り立っています。「俺にはクラシック音楽なんて必要ない!」と思い込んでいる人は、悲しい勘違いをしています。演歌もロックもジャズも、バッハの時代に作られた音楽を土台にして作られているのです。もし、あの時代の音楽=楽譜が、一枚も残っていなかったら、ポピュラー音楽は今、当たり前に聴いている音楽とは全く違う種類の音楽だったはずなのです。
 ドボルザークヴァイオリン協奏曲を、ひたむきに練習していた20代の自分がいたから、色々な音楽を演奏するための「土台」ができました。
 もしも、これからこの曲を練習したとしたら?
きっと、22歳の自分とは違うドボルザークヴァイオリン協奏曲が演奏できると思います。それが「成長」なのかもしれません。でも…この時のような筋力と体力が今、あるか?は、はなはだ疑問です(笑)
 どんな音楽にしても、真剣に向き合って練習することが、必ずその後の自分にとって「骨格」になるのだと思います。
 無駄な勉強や、無駄な練習はない。無理だと口にする前に、やってみること。
生きている限り「欲」があります。実現するための時間こそが、生きている証=あかしだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

丸い音楽を目指して

 映像はデュオリサイタル15で演奏したヴァイオリンとピアノによる「ふるさと」小曽根真さんが演奏した折られたピアノパートを浩子さんが「耳コピ」したものです。前回のリサイタルではヴィオラで演奏したのですが、多くの生徒さんにも演奏してもらえるようにヴァイオリンで演奏してみました。

 「丸い音楽」の意味は?
旋律は音の高さと音の長さの組み合わせで作られます。
その旋律を平坦に演奏すると聴いていて違和感を感じます。
かと言って「角張った音の連続になれば音楽全体が凸凹に感じます。
 音の角を丸くする…イメージですが、ただ単に音の発音をぼかすだけでは丸く感じません。音の高さの変化と、音量の変化を「真似らかに」することがたいせつです。さらにヴィブラートを滑らかにすることで、丸さが際立ちます。
 音楽によっては「角」があった方が良いと感じるものもあります。
どうすれば?音楽の角を丸くできるのか?考えながら演奏すると、自然に音も柔らかくなります。ぜひ試してみてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

Earthをヴィオラで演奏すると

 映像はデュオリサイタル15もみじホール城山で演奏した、村松崇継氏の作曲された「Earth」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 原曲はフルートとピアノのために書かれているものです。
さらにその曲を作曲者のライブでチェリスト宮田大氏が素敵な演奏をしている動画を見て、どうしても二人で演奏してみたくなり、ヴィオラで演奏できるように、自分たちでアレンジしたものです。
 演奏は未熟ですが、この曲の持つ「守るべき地球」「人間の強さと優しさ」を感じながら演奏しました。村松崇継さんの楽曲は、いのちの歌、彼方の光も演奏させて頂いています。本当に素敵な曲を作られる邦人作曲家だと尊敬しています。
 本来フルートで演奏するために書かれた曲を、ヴィオラやチェロで演奏することを「邪道」と言う人もいます。ただ、演奏する人が「素敵な曲だから弾きたい」と思う気持ちに嘘はないと思います。それを聴く人の感性もまた、楽器にとらわれるものではありません。
 これからもたくさんの曲と出会えるのを楽しみにしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

線対象の音楽

 アルヴォ・ペルトが作曲した「シュピーゲル イン シュピーゲル」日本語に訳せば「鏡の中の鏡」というタイトルの曲です。映像は、ヴィオラとピアノで演奏したものです。
 この曲は「ラ=A」の音を中心にして「上下対象」に音楽が作られています。
「ソ↑ラ」に続き「シ↓ラ」
「ファ↑ソ↑ラ」「ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↑ラ」「シ↑ド↑レ↓ラ」
と段々にラの音からの「距離」が上下に広がります。
「レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↑ラ」「シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↓ラ」
「シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ↑ラ」「シ↑ドレ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ↓ラ」
「ソ↑ラ↑シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「シ↓ラ↓ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
ただそれだけ(笑)しかもすべての音符が付点2分音符(3拍伸ばす音)かその2倍の長さの音符。子供でも初心者でも弾けそうな感じですよね。
 実際に演奏する場合、楽譜を見ながらなら恐らく問題なく?演奏できると思います。
 私は視力が悪く楽譜を見ながら演奏できなくなって「暗譜」ですべての曲を演奏しています。当然、この曲も。演奏しながら、自分が今、どこを弾いているのか?迷子になってしまいます。
 色々な「覚え方」を組み合わせて記憶しています。さらに長く伸ばす「ラ」をダウンで演奏したいので、弓順も併せて記憶します。
 こんな面白い音楽を考え付いたアルヴォ・ペルトさんてすごいです!
ちなみに、向かい合わせた二つの鏡に映った鏡の中には、また鏡が映り、その中にさらに鏡が…
そんな光景を想像すると不思議な世界を感じます。永遠に続く「鏡」の画像…
ただし、演奏しながらや、譜めくりしながらそれを考えると、まず間違いなく「おちます」のでご注意を!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

15年目の挑戦

 2022年12月18日(日)相模原市緑区のもみじホール城山で、私と妻浩子のデュオリサイタル15を無事に開催することができました。
 ここ数週間、自分が慣れ親しんだ構え方を見直し、大きな(自分としては)改革をしました。結果がどうであれ、自分にとって正しいと思ってきたものに手を入れることには勇気が必要でした。リスクも考えました。「いまさら」と言う気持ちが心を支配しそうになりながら、「いまだから」と言う気持ちで取り組んでみました。
 リサイタル当日までに、自分の筋力の疲れをコントロールしながら、出来るところまで…と言うのが正解ですが、やれることをやった気持ちでいます。
 当然のことですが、楽器の構え方=持ち方=姿勢を変えることは、自分の音の聴こえ方もピアノの聴こえ方も大きく変わります。これが「良い選択」だったのか?は誰にも判断できません。むしろ、自分自身で冷静に観察し続けるしかありません。少なくとも、今まで使って来なかった筋肉がパンパンに(笑)張っていることを考えると、自分の考えていた演奏方法に近かったことは事実です。

 プログラム中の7曲目に演奏したゴダール作曲「ジョスランの子守歌」
ホールの空調(暖房)が弱く、この1曲前が終わったときに、温度を上げてもらうようにお願いした直後の演奏で、まだ左手指が攣りかけています(笑)
 練習で思ったようにはひけていませんが、「目指していたこと」には少し近づいた気がします。特に演奏しながら自分を観察する「引き出し」を増やせたことは、演奏しながら感じていました。おあまりに多すぎて(笑)すべては書けませんが、右手の親指、小指の位置、重心、左手の親指、手首の力、左ひじの位置、楽器と首の接触部、鎖骨下筋と肩当ての接触、背中の筋肉の使い方、膝の関節などなど…。最終的に「音楽」については、自分の記憶にあるボウイング、フィンガリング、テンポ、音色、音量を「その場」で考えながら演奏しました。
 まだ、完全に自分の身体に音楽が入っていない曲でもあり、不安な要素は多々あります。傷もたくさんあります。それでも「やりたかったこと」の一部は達成していました。

 こちらは、ヴィオラで演奏したメンデルスゾーン作曲の無言歌。以前、ヴァイオリンで演奏したことのある曲ですが、ヴィオラで挑戦しました。構え方を変えれば、ヴィオラの音色も以前とは変わります。これも依然と比べ、どちらが良い?とは今の段階で判断できません。陳昌鉉さんの楽器特有の「甘さ・柔らかさ」はそのままに活かしつつ、強さと明るさ、音色のヴァリエーションを増やすことを意識しています。まだまだ練習が足りないのは否めません。

 こちらはアンコールで演奏したシューベルト作曲のセレナーデ。ヴァイオリンで演奏してみました。いつもの私なら迷わず「ヴィオラ!」な曲ですが、今回敢えてヴァイオリンで低音の響きにこだわりました。大好きな曲なのに、実は今回二人が初めて演奏した曲です。歌曲ならではの「フレーズ」を壊さずに演奏することの難しさを感じます。

 来年1月7日(土)代々木上原ムジカーザでのリサイタルでは、同じプログラムをサロンの豊かな響きとベーゼンドルファーの太く柔らかい音色で演奏します。
 それまでに私たちが出来ることを「できる範囲で」やってみます。
お聴きになる方にとって、演奏者の「努力」は関係のないことです。
演奏者のどんな言い訳も通用しません。ただひたすらに「楽しめる演奏」を目指したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介