モーツァルトと歌謡曲

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上の映像は、モーツァルトのヴァイオリンソナタ 21番 e moll K.304
デュオリサイタルで私と浩子さんが演奏したものです。演奏中の映像は撮影していませんでした(笑)
下の映像は、中島みゆきの「糸」を同じくデュオリサイタルでヴィオラとピアノで演奏したものです。この2曲でなにを比較しようって?そこが音楽の楽しみ方です。

 「旋律と和声をヴァイオリン(ヴィオラ)とピアノで演奏している」
この点は、モーツァルトのソナタも、中島みゆきの糸も同じです。
「曲の中に短調と長調の部分がある」これも同じ。
「ソナタは2つの楽章で構成されているが、糸は同じ旋律で1番・2番がある」
この点で大きな違いがあります。言い方を変えると、モーツァルトのソナタは「2つの曲から出来ている」という事になります。

 モーツァルトの音楽は完成度が高く、糸は低いのでしょうか?
ソナタは高尚で、糸は低俗でしょうか?音楽として台頭に比較してはいけないのでしょうか?
 すべての音楽に共通することを考えます。
・曲を作った人がいる。
・演奏に関わった人がいる。=人が演奏するとは限らない。
それ以外について、たとえば旋律だけの音楽もあります。和声だけで主旋律がない「カラオケ」も音楽です。演奏が声でも楽器でも機械でも、音楽です。
美しい旋律だけが音楽でもありません。リズムが感じられなくても音楽です。
当たり前ですが「嫌い」でも音楽は音楽なのです。

作曲された時代が古ければ「クラシック音楽」の部類に分類されます。
クラシック音楽に用いられる「様式・形式」で、現在生きている人が作曲したら?それは、クラシック音楽ですか?おそらく「ダメ!」ですよね。
以前のブログでも書きましたが、ゲーム音楽や映画音楽を「音楽」としてだけ聴いた時に、その作曲年代や作曲者を正確に言い当てられる人間は、作曲者本人以外に存在しないはずです。それでは、クラシック音楽と現代の音楽に何も差はないのか?と言えば、歴然とあります。それは…

クラシック音楽と言われる音楽を作曲した人たちと、その曲を初めて演奏した演奏者たちの多くは「現代音楽」もしくは「前衛的な音楽」を作曲し演奏していた人たちです。私たちは、バッハやモーツァルトの時代を知りません。文献や絵画で想像するしかありません。その当時の「観客=聴衆」の感覚も知りません。当時の人たちの生活も知りません。音楽をどうやって聴いて楽しんでいたのかさえ、想像でしかありません。
 私たちが生きている間に作曲された音楽を、私たちが演奏する時の様子を、モーツァルトの時代の人がもしも見たら、どう?感じるでしょうね。
「この音、なんの楽器?」
「あれ?俺の作った曲に似てるぞ?」
「え!?人間がいないのに音楽が聴こえる!」
「かっちょえー!この和声と旋律、いただきっ!」(笑)
これ妄想でしょうか?大きなタイムトリップは現代の科学では不可能とされています。もし未来にタイムマシンが出来ていたとしたら、私たちは未来の人に会っているはずなので、それがないという意味では未来にもタイムマシンができていないと言う科学者もいます。「いや!それは!」と言うお話もあるでしょうね(笑)話がそれました。すみません。

 クラシック音楽の作曲者は、試行錯誤しながら当時の聴衆の反発と冷笑に耐えながら音楽を作り続けました。その音楽は楽譜として残され、今も演奏することができます。もしも楽譜と言う「記号」がなければ、当時の音楽を「正確に」再現=演奏することは不可能です。民謡のように「音楽」が伝わることはあったでしょうが、少なくともほとんどの「クラシック音楽」は演奏できなかったはずです 。
 その音楽の「様式・形式」に慣れた、現代の私たちが作る音楽「ポピュラー」を大切にすることも、クラシックの音楽を大切にすることに繋がっていると思います。そうでなければ、クラシックの作曲者が作った音楽は、いずれ歴史の中に埋没します。今も誰かが「似たような音楽」を作り続けることに大きな意味があると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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