表情・動きと音楽表現

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 映像は瀬水和音氏が独奏するチャイコフスキーピアノコンチェルト。
音楽高校時代、私はB組彼はA組、お隣のクラスでした。
当時から「超」が付くうまいピアニストでした。さらに言えば「ウルトラ級」にやんちゃな男子でした。詳細は言えません。普通の男子だった私は←しれっ。かずね君が怖くもあり、雲の上の存在でもありました。
 高校生が授業を主に受ける教室は「地下教室」で、それぞれの教室にアップライトが一台。そのピアノを友達とわいわい言いながら弾く和音くんの姿を思い出します。高校3年時、最後の実技試験で「ハチャトリアンの伴奏、頼んでいい?」と相談したら、二つ返事「いいよ」で、彼が伴奏してくれました。その当時、門下生発表会で演奏したつたない演奏録音がこれ。

 ピアノに助けられているのが良くわかる演奏です。ごめんなさい。
さて、今回のテーマである「表情・動き」ですが、言うまでもなく演奏中の演奏者の表情と動きの事です。あくまでも私の私見です。
・演奏者の演奏姿・表情は「見る」「見せる」必要があるのか?
・演奏者が感情を、表情や動きに出すことの「好き・嫌い」
・表情・動きを「パフォーマンス」に使うことは必要か
・表情や動きを抑制=表に出さないと演奏が無表情になるのか
・アンサンブルに必要な動きは「合図」として必要である
上記は演奏の形態=独奏・重奏などの違いで変わります。
また、録音された演奏を聴く場合には、聴く人には見えません。
大きな演奏会場の場合にも、客席の後方から演奏者の表情までは見えません。
 テレビや映像で演奏者が意図的に表情や動きを「作る」場合があります。
照明やカメラワーク、編集でも演奏者の「色っぽさ」「可愛らしさ」「派手さ」を強調した演出なども多く見られます。私はこれらの演出を「芸風」と呼んでいます。つまりは「演奏家」としてよりも「芸人・パフォーマー」として考えています。

 演奏者が感じる感情が、自然に表情や動きに出る場合で考えます。
先述の通り「音」だけを考えれば、表情や動きは無関係です。言い換えれば、演奏者は「見えない存在」で構わないことになります。
 では、演奏中の姿を動画や映像で見ることのできなかった時代を考えます。
録音であれば、動きやすい服装で見た目を気にせず演奏したはずです。
録音もなかった時代、演奏は人前で行なうしか方法がありませんでした。
宮殿や貴族のお屋敷、教会での演奏もあったはずです。演奏会場での演奏もありました。それらの場で演奏する「演奏者」にはドレスコードがありました。
いわゆる「楽士」の出で立ちです。近年で言えば、男性は燕尾服、女性ならドレスで演奏しました。演奏家の「見た目」も昔から注目されていたことは事実のようです。かのパガニーニ氏が演奏して女性ファンが失神したと言う伝説もあります。演奏者の「容姿」も切な要素だったことはうかがい知れます。

 私が不快に感じる演奏者の表情と動きについて。
・演奏と表情や動きが「違う」場合
・自己陶酔を感じる表情や動き
・演奏を表情や動きでカバーしようとする場合
これらは、演奏に必要なことだとは思えません。
演奏者にとって、演奏が結果です。そのプロセスや付随するものは結果である演奏とは別のものです。つまり、表情や動きが見えなくても、演奏を聴くことで聴衆が楽しめる=感じられるものでなければ、いくら「おまけ」をつけても演奏を超えるものではないはずです。
 清水和音くんの演奏する音楽には、多彩な表情を感じます。まさにピアノで歌っているように聞こえますが、見た目には出しません。
 今度、和音君に直接聞いてみたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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