ヴァイオリン奏者が考える弦楽器の録音と音作り

今回は「録音」について書いてみます。
言うまでもなく、演奏をホールで聴く「ライブ」「コンサート」と録音された音を、ヘッドホンやイヤホン、スピーカで聴くことは、全く違う「音」です。どんなにお金をかけても、会場で響く音を完全に再現することは不可能です。
 一昔前、録音と言えばカセットテープやオープンリールテープに録音するのが当たり前でした。現在は「PCM録音」簡単に言えば、テープの代わりに音をデジタルデータにして、パソコンのハードディスクやSDカードに記録する方式になりました。
 昔と変わらに事もあります。
録音する際に必要になる「マイク」です。
演奏する会場が音楽ホールであれば、舞台上の天井に「三点吊りマイク」が設置されている事もあります。さらに言えば、そのマイクを使って録音するための機材も備えられているホールもあります。ホールに依頼すれば有料で、録音をしてくれるケースもあります。
 ただ、必ずしもそんな環境ばかりではありません。当然、録音を仕事にしている業者に頼めば時間単位での支払いで録音してくれますが、かなり高額になります。
 個人で演奏会を開催し、限られたスタッフの人数で実施する場合、どんな方法で録音すれば良いのか?そして、その録音したデータを、どう処理すれば自分の気に入った「音」に出来るのか?教えてくれる人は少ないものです。

 まず、用意するべきものは以下の機材になります。
1.コンデンサーマイク2本
2.マイクスタンド1本+ステレオアープ+マイクホルダー2個
もしくは、マイクスタンド2本とマイクホルダー2個
3.録音するためのレコーダー
4.マイクとレコーダーを設読するマイクケーブル2本(長さはマイクの位置とレコーダーの位置で変わります)
5.レコーダーの音を確認するためのヘッドホン(できるだけ密閉型のもの)
当然、電源も必要になります。
レコーダーに記録するためにSDカードが必要な場合もあります。

 マイクですが、何dも良いとは言えません。
多くの場合、マイクには「ダイナミックマイク」と「コンデンサーマイク」のどちらKです。ダイナミックマイクは、電源を必要とせず主にカラオケやボーカル、司会など絵で使われるもので、大音量に耐えられ頑丈ですが、繊細な音を録音するのには適しません。
 コンデンサーマイクはレコーダーからマイクケーブルを経由して、48ボルト(実施には非常に小さい電流です)の電気をマイクが受けて使われます。最近はUSBケーブルで電源を供給するマイクが多いのですが、会場で弦楽器の演奏を録音するのは向きません。コンデンサーマイクは繊細な音を収録するためのマイクですが、この中でも音源(楽器や人間の口元)に数センチの距離まで近づけて録音することに適したマイクが殆どで、会場で演奏者から離れて録音することに適しマイクは限られいてます。
 ちなみに私は「SeElectoro」というメーカーのペアマイクを使っています。このマイクには周囲の音360度をまんべんなく録音する「無指向性マイク」と根らっと方向の音を録音するための「指向性マイク」があります。無人の会場で響きをすべて録音するのであれば、無指向性マイクが良いのですが、ほとんどの場合客席にはお客さんがいて、物音を立てますので、指向性マイクが適しています。
 似たようなマイクで2本セットで2~3万円の案かマイクもあります。探す時には「ぺzマイク」で検索すr事をお勧めします。

 会場でマイクを設置するばよですが、演奏する環境によって違います。
 舞台上にマイクスタンドを設置する方法は、ピアノの録音の場合に一般的ですが、弦楽器とピアノの「デュオ」を録音する場合には、ヴァイオリニストから2~3メートル前方でヴァイオリンの高さに2本のマイクを設置するのが理想的です。が!お客様から見ると「邪魔!」「目ざわり!」と思われます。
 その場合には、スタンドの高さを低くして客席から目立たない程度に下げるしか方法はありません。ヴァイオリン演奏者の「下」から、あおって録音するのでどうしてもピアノの音を大きく拾ってしまいます。

 基本的なことですが、録音した音から雑音をある程度除去することは可能です。例えば、お客様の咳払いとか、何かが落ちる音は特別なソフト(アプリ)を使えば相当小さくできます。ただ、エアコンのノイズは、一定の音量で一定の周波数で鳴り続けているため、完全に消そうとするとその周波数の「演奏の音」も小さくなってしま詩ます。
 ピアノとヴァイオリンの「バランス」も録音後に変更することはほぼ、不可能です。ヴァイオリンの出す音の高さとピアノの音の高さは基本的に「重なっている」ためです。ヴァイオリンの出せない低い音を弱くすr事は後から出来ますが、低温の少ない痩せた音になります。つまり、リハーサル時にレコーダーにつないだヘッドホンで、ヴァイオリンとピアノの「バランス」がちょうどよくなる位置にマイクを設置することは、絶対に不可欠なことなのです。

 レコーダーですがマイクミキサーを兼ねた大掛かりなものもありますが、捜査が難しく自分たちで録音する場合には不向きです。
 私はTASCAM(昔のTEACティアック)社の4本マイクが設読できるコンパクトなレコーダーを使っています。通常は2本のマイクで録音しますが、ピアノとヴァイオリンにそれぞれマイクを近づけて録音したい場合、4本のマイクが接続できて音量も変えられるレコーダーで重宝しています。ビデオカメラのレコーダーの上に載せて撮影し、ビデオカメラのマイク端子にレコーダーの音を送ることもできて便利です。

 最後に録音した音を「創る」作業です。
パソコンを使うのが一般的です。私はAdobeの「Audition」というソフトで音を加工しています。このアプリはラジオ局などで多く使われていたもので、ほとんどの音作りがパソ故日大で可能です。このソフトでなくてもいくつか編集ソフトがありますが、多くはDTM・DAWと呼ばれる「パソコンで音楽を作る人」向けのソフトです。録音物を加工するのには不向きなソフトも多いのが実状です。
 基本的には、ノイズの除去と音の高さごとの強弱=イコライザー処理、音場=空間の響き・残響なでの追加が主になります。
 ヘッドホンとスピーカーで、聴こえ方が全く違いますので、両方を聴き比べしながら思考さう後して最善の音を作ります。
 この作業によって、音色はどうとでも変更可能です。スチール弦で演奏した音を、ガット弦の音にすることも可能です。逆もできます。
 ただ先述のように、録音された音がもやもやしていたり、ピアノの音が大きすぎる場合には手の施しようがありません。録音に失敗すると思った音に仕上げることは大変な作業になります。
 加工した音は「WAV」という形式で保存するのが理想です。MP3は圧縮して保存する形式なのでお勧めしませんが、配信する時などにはデータのサイズ=大きさGあ小さくなるので助かります。
 あまり細かいことは書きませんでしたが、大まかにこんなところですね。
 参考なれば光栄です。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アマチュアオーケストラの「個性」

ロッシーニ作曲 泥棒カササギ序曲

 今回のテーマは、趣味で楽器の演奏を楽しむ人たちが集まって演奏する「アマチュアオーケストラ」について考えるものです。

 私自身、学生時代にいくつかのアマチュアオーケストラの「トレーナー」と言われることをきっかけに、音楽大学卒業後に「中学・高校の部活動オーケストラ」と言う一種のアマチュアオーケストラを「ゼロ」つまり何もなかったところから指導と運営を行い、20年間の愛第二たくさんの事を学び、経験しました。在職中から地元に「子どものための」メリーオーケストラを設立し、NPO法人化後も20年以上、この「アマチュアオーケストラ」に関わってきました。
 また、信州大学の管弦楽団の指揮を1年間、務めた経験や、神奈川県の高等学校文化連盟、器楽管弦楽部門のオーケストラを数年、指揮させていただいたりもしました。
「指揮者」と言うよりも「指導・運営」と言う言葉の方が相応しい仕事だと思っています。
 そんな経験も含めて「アマチュアオーケストラ」ってなんだろう?と思う事が度々あります。

 基本は「演奏者が趣味で楽しむ」活動である事です。お客様を呼び、聴いてもらう「コンサート」は必須条件ではありません。ましてや「収益活動」とは無縁の活動です。
演奏する人が「主役」なのです。

 演奏を楽しむひとつの「手段」「目標」としてコンサートを開催することもあって良いのです。演奏する喜びを、会場で聴いてくださるお客様と共有するのは、本当に楽しいことです。
 さて私が「聴く側」になって考えてみます。自分が運営するオーケストラを録画して聴くのも「聴く側」には違いありませんが、実際に会場で他のオーケストラの演奏おw聴くと多くの事を感じます。

 一人のソリストが演奏する「個性」と、アンサンブルやオーケストラが演奏する「個性」は、どのように違うでしょうか?
 音楽である事に違いはなくても、「演奏技術」と言う面で個人の技術ち「アンサンブルの儀中t」は違います。アマチュアオーケストラの場合、技術の高い人もいれば初心者、あるいは初心者に近い技術の人も演奏しています。聴き方にもよりますが、演奏された「音」と「音楽」から感じられる演奏者の「感情」が客席に届くか?届かないか?がアマチュアオーケストラのすべてだと感じます。

 感情…演奏者の緊張感NNや不安、高揚した気持ちが「音楽」に自然に現れます。
プロの場合には、それらを意図的に技術でコントロールします。アマチュアの亜場合、そこまでの技術がないのが当たり前です。
 アマチュアの場合「楽譜通りに正確に演奏できない」ことも当たり前です。個人の演奏技術に一定の基準がないのがアマチュアオーケストラです。仮に楽譜通りに演奏できたとしても、プロのオーケストラと比較すべきものではありません。

 演奏技術に大きなばらつき=差があるアマチュアオーケストラが、練習で「どんな目標を設定するのか?」が指導者…指揮者の役割だと考えます。演奏技術の高いメンバ0や経験の豊富なメンバーにとって、自分より「下手」なメンバーと一緒に演奏することに、不満を持つ人がいるのは事実です。アンサンブルとして、高い水準を目指せば個人の演奏技術が高いことが前提になります。不満を感じる人は、自分より高い技術を持った人と演奏すれば良いのです。ただ、自分よりうまい人にとって「自分」がどんんな存在なのか?を考えれば自己矛盾に気付くはずです。自分よりうまい人と演奏する=自分が邪魔な存在という事になってしまいますから(笑)

 オーケストラ万バー一人一人の、演奏技術を練習で高めながら「目指す演奏」を明示することは簡単な事ではありません。指導者からの精神論や、指揮者のカリスマ性だけに頼るのは間違いです。客観的な演奏技術の指摘と修正、メンバー一人一人の演奏技術の把握、練習時のメンバーの「人間関係」と「空気を読む力」が不可欠です。
演奏会本番の演奏で、演奏者が「最高」の状態で演奏が終えられるように、準備をするのが指導者=アマチュアオーケストラの指揮者の仕事とと考えています。
当然ですが演奏会を開くための「制約」があります。資金的な問題は最大の制約になります。理想と現実は大きな違いがあります。その「条件」の中で、アマチュアメンバーが最高の感動を感じながら演奏できなければ、聴衆に感情は伝わりません。
 本番だけに参加してくれる「助っ人=エキストラ」にも最大限の満足感を感じてもらう事も指揮者の役割です。客席で聴く人に「一つの演奏」として伝える技術こそが、指揮者の存在意義だと思います。

 アマチュアオーケストラの「個性は、演奏するすべてのメンバー全員の「一体感」だと考えています。技術のばらつきが「超える」のは、聴く人の「感動」です。
 初めて聴くオーケストラの演奏に、感動する「なにか」を創り上げることが準備であり、練習だと思います。もちろん、技術は高い方が良いものです。演奏者が一致した「目的」を持つことで、より高い技術を得られるはずです。アマチュアオーケストラのの「目的」は「演奏者が楽しむこと」なのです。その喜びと感動が音楽になって客席に届けば、それこそが「個性」だと確信しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ代表 野村謙介
 

クラシック音楽は、なくても良い文化なのか?

 「クラシック演奏家・年収」というキーワードで検索すると、いくつかの文献があります。どんな職業であっても働く本人の「価値観」が最も重要であることは変わりません。働く目的も人によって異なります。「生活するため=生きるため」の人がホトンですが、中には「道楽や生きがいのために働く」人もいます。「権力欲を満たすため」の政治屋を見ていると「こいつらの職業なんていらない」と思うのは私だけ?(笑)

 クラシック音楽を演奏したり作曲して生計を立てる人の生活を考えてみます。当然、非常に大きな「幅」があります。一部の「有名人」は年収で千万単位の収入があります。一方で多くの音楽家の年収は000万円に満たないひとから多くて400面円ぐらいでしょうか。
「実力の世界」とも言えません。ボクシングやプロ野球の選手のように「数字」例えば勝率とか打率で「実力」を客観的に判断できる職業もありますが、日本のクラシック音楽家の場合「有名になる=仕事を得られる」のは、客観的な実力よりも「肩書」や「メディア受けする」事の方が重要視されます。

 今から40~50年ほど前、日本は好景気に沸いていました。私自身、学生時代に演奏のアルバイトだけで十分すぎるほどの「稼ぎ」がありました。テレビの歌番組での演奏、ポピュラー歌手のコンサートでの生演奏、レコーディングスタジオでの演奏、音楽鑑賞教室でのオーケストラ演奏などで、月に20万円以上収入がある場合も珍しくなかった時代です。
 演奏が「デジタル化」され、高い人件費よりシンセサイザーとコンピューターで「事足りる」事になりました。レコードがCDに、CDは「配信」に代わりました。

 人間が楽器を演奏し、会場での「生演奏を楽しむ」クラシックコンサート。「娯楽」の一つであることは事実です。生活に欠かせない事ではありません。ましてや「配信」で音楽を楽しめるなら「十分」と言う人もいます。現代の日本で「クラシック音楽家」は不要な存在なのでしょうか?文化として、クラシック音楽は無くなって良いものなのでしょうか?

 そもそも「文化」は人間の知性と教養があって初めて成立し持続されるものです。個人の「娯楽」は様々です。競馬やパチンコも娯楽です。登山や趣味のスポーツも娯楽です。それら全ては「経済活動」でもあります。
多くの娯楽は、楽しむ人「以外」の人が用意する環境があって初めて成り立ちます。登山でも、山小屋を営む人・救助する人・登山道を整備する人がいるから安全に楽しめます。
 クラシック音楽を「聴いて楽しむ」娯楽には「演奏する人」が不可欠でした。録音する技術がなかった時代が、まさに「全盛」だったとも言えます。録音された「演奏」が無料で楽しめる現代です。生で演奏する「人間」は、今更これ以上いらない?(笑)のでしょうか。

 人間が演奏する音楽を、他の人と一緒に聴いて楽しむ「文化」を維持することの「意義」を考えるのは、一人一人の「価値観」に頼るだけでは困難なことです。先述のように、人によって「娯楽」は違います。音楽に興味のない人にとって、演奏家がいなくなっても困りません。大きな視点で考えれば、すべての「社会活動」は「誰かに支えられている」活動です。物を創る人・思を売る人は「買う人」がいるから生活できます。競馬を国が「特例」として認めているから「賭博」でも許されます。競馬にお金を「書ける人」がいるから騎手も調教師も馬主も生活できます。

 クラシック音楽で生活できる人が、誰もいなくなれば、いずれ生演奏は消えてなくなります。儒教と供給のバランスが悪いことも現実問題です。ご存知の通り「音楽家」と言う職業には、なにも資格がいりません。自分が「音楽家です」と言えば音楽です(笑)
毎年、日本中の音楽大学から何百・何千と言う「クラシック音楽家」が誕生しているとも言えませス。音大を卒業しなくても音楽に慣れます。「実力」は客観的なものではありません。「音楽家が多すぎる」事は明らかなことです。

 クラシック音楽と言う「文化」は演奏言する人と聴く人が、お互いに支えあって残せるものです。山や海と違い、演奏会場は自然にできたものではありません。ホールを建設し、維持管理する人とお金がが必要です。それらの「経済活動」は聴く人の負担だけでは賄いきれないものです。自治体や国が文化のために税金を使う事を「もったいない」と思う気持ちも理解できます。「娯楽に使うお金よりお米を買うお金に使え!」と考える状況であることも現在の不況から考えれば、もっともな意見です。聴く人を「まず」増やすことが何よりも大切っです。どうか!生演奏を聴くために使う「お金」を無駄と思わないでください。身近にクラシックのコンサートはきっとあるはずです。ぜひ、足を運んでみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございまし。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色の違いと演奏の印象

上の演奏は最近(2024/07/14)したタイスの瞑想曲。ビデオカメラの付属したマイクで簡易的に録音したものですが、新しい楽器にラーセン(デンマーク)社製のナイロン弦を張っています。下の映像は以前、私の使っていた楽器にピラストロ(ドイツ)社製のオリーブ(ガット弦)を張って演奏したものです。

ヴァイオリン演奏者は「自分の楽器」を選ぶことができます。「なにを当たり前のことを!」と思われがちです、ピアニストは?会場に備えてあるピアノが複数あったとしても、選択肢はわずかです。自分の気に入ったピアノだけを演奏できるわけではありません。声楽家は自身の身体が「楽器」になります。選ぶことは出来ません。

 ヴァイオリンという楽器「だけ」では音は出ません。弦と弓が必要です。ピチカート奏法だけなら弓は使いませんが(笑)弦を選ぶのもヴァイオリン奏者の楽しみでもあり「悩みの種」でもあります。特に弦は多種多様…現在販売されている製品だけでも恐らく数10種類は選択肢があります。4本の弦、それぞれに違う種類の弦を這う事も可能です。さらに、弦は新品で張ったばかりの瞬間から、次第に「劣化」していきます。そのプロセスの中で「一番好きな音」が出る期間は、本当にごくわずかです。演奏家に合わせて弦を張り替えます。演奏会が続く場合には、そうも言っていられませんが(笑)

 YouTube動画を検索すると「ヴァイオリン弦」「比較」と言うキーワードで凄まじい数の動画がヒットします。中には同じ楽器で、同じ曲を同じ人が同じ撮影環境で「弦を張り替えながら」演奏しているものあります。
 実際にヘッドホンっで聴き比べすると「?少し違うかも?」程度の差はありますが、実際に生で聴こえる音とは違います。ましてや、演奏者がきいている音はまた別の音です。いくら言葉で印象や特徴を並べ立てても、現実に自分の楽器に張って自分で演奏しない限り、比較することは不可能です。

 会場が変われば音が変わります。湿度や温度が変わっても音ヒャ変わります。曲が変われば・ピアニストが変わればなど「全く同じ環境」での演奏を再現することは、現実的には不可能です。その時々での「印象」が滑T3絵です。弦は新品を張り替えてすぐに演奏会で演奏できるものではありません。会場で張り替えて試すことは出来ません。演奏する曲ごとに弦を張り替えることも無理です。
「妥協」とも言えます。むしろ、会場や環境、曲に合わせて「弾き方をコントロール」するのが技術です。極論すれば、楽器に「ケチ」を付けたり「弦が合わなかった」ことを愚痴る演奏者には、技術が不足していると言えます。すべては演奏者の「人間」としての大きさだとも思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

弦の張力と楽器の個性

今回はヴァイオリンの「弦」と楽器の関係を考えます。
世界中のメーカーががヴァイオリンの「弦」を作って販売しています。多くのプロ、アマチュア、さらにメーカーのプロモーションも含めYouTube動画がヒットします。
 それぞれ「この弦は…」「あの減と比べて…」とうんちくを述べたり、実際に演奏して比較していたり。動画で聴く音量や音色は参考になりません。主観的な感想をいくら並べられても自分が弦を選ぶ参考になりません。
 そこで今回は、なぜ?弦を変えると音が変わるのか?と言う素朴な疑問に立ち戻ろうと思います。

 弦楽器の弦は「音源」です。ヴァイオリンは「擦弦楽器」つまり弓の毛で弦を擦って弦を振動させる楽器です。
 弦が振動するためには、弦の両端を「固い物」で固定することと、「引っ張る強さ=張力」が必要になります。小学校や中学校で習った「弦の音の音の高さを変える三つの原理」覚えていますか?
・弦の太さ
・弦の張りの強さ(張力)
・弦の長さ
この中で、弦の長さをヴァイオリンの場合には「駒から上駒(ナット)までの長さ」で、どのメーカーのどの弦も、統一されています。
 弦の太さは、細いほど高い音が出るのが原則です。同じ長さ、同じ張力の場合の話です。弦の張力を変えれば、この原則は崩れます。実際に、ヴァイオリンの3番線=D線の方が、4番線=G線より太いことは珍しくありません。見た目は太いのに高い音が出るように「強く張る」必要があるわけです。
 張力を強くすれば、高い音が出るのと同時に「大きな音」を出すことがより容易になります。一方で、弦の両端を支えるための力と、駒にかかる力が強くなります。弦を指で押さえる力も多く必要になります。簡単に言えば「楽器と演奏者に負荷が増える」ことになります。

 ここでヴァイオリンの弦を「構造」として考えてみます。まずE線=1番線は基本的に金属を細く伸ばし、表面に金属のコーティングをしたものです。他の3本は「芯」の周りに金属の糸を編むように巻き付けて作ります。芯の材料には「金属」「ガット=羊の腸」「ナイロン」が用いられます。金属はほとんど伸縮しません。ガットとナイロンは弾力=伸縮性があります。弾力の強さも様々です。伸びにくい素材を使えば張力が強くなります。
芯の周りに巻く金属の糸の「編み方」「巻き方」によって太さと張力を変えられます。張力を強くすれば弦は当然切れやすくなります。また太くなるため指で押さえることが難しくなります。

 次に楽器自体が弦の張力に対して「適当」かどうか?の問題です。ヴァイオリンはペグに巻き付けた側と、テールピースに止める側で張力に耐える力を支えます。その両端と中間にある「上駒」と「駒」の2か所の多寡によって指板部分の張力が変わり、駒にかかる力も変わります。駒を高くすればするほど、聴力が強くなりますが同時に指板と弦の「隙間=弦高」が広くなり、押さえることが困難になります。逆に駒を下げれば押さえやすい反面で、聴力が下がります。
 張力の調整はネックと本体の「取付角度」と「駒の高さ」で変わります。高い張力に耐えられる楽器でなければ、表板や魂柱、裏板、ネックにダメージが加わります。音もつぶれた音になります。楽器の「強度」はそれぞれに違います。板の厚さが基準より薄い楽器はm簡単に鳴らせますが強い張力に足ることができません。また、オールド楽器の場合、ガット弦を張ることを前提に作られているので、強い張力の弦で良い音がするとも限り亜m線。楽器ごとの「強度」と響きやすい音域、足りない音域を把握して、適正な弦を選ぶことが重要になります。
 弦の種類やメーカを統一する方がバランスが良い場合と、逆に違う種類の弦を張った方が全体のバランスが良い場合があります。低音(G線の音域)が強く出る楽器は「太い」「柔らかい」音である反面、「こもった」「通りの悪い」音にもなりがちです。逆にE線の音域が鳴りやすい楽器の場合、「明るい」「澄んだ」「通りの良い」音に感じる反面「固い」「きつい」「薄っぺらい」音になりがちです。それらを補う演奏方法と、弦を選ぶことで演奏者が弦を気にすることなく、思った音量と音色で4本の弦を演奏できることに繋がります。
 弦の種類をバラバラにすると、弦ごとの張力が変わる場合もあります。それも演奏する人にとって負担になります。また、弦の寿命もメーカーや材質によって大きく違います。ガット弦は寿命が長く、テンションの強いナイロン弦の寿命は短くなります。演奏会前に逆算しながら弦を新しいものに張り替えるのが理想ですが、ばらばらに寿命が尽きるのは頭の痛いところです。いくらでも予算がある人なら別ですが(笑)

 寿命の尽きた弦は「伸びたラーメン」と似ています。腰がなく、余韻が少なくなります。張ったばかりの弦は「アルデンテ」に似ています。ちょうどよい「弾力=こし」がある状態で、楽器に一番適した弦を選ぶのは大変な時間とお金がかかります。それでも、弦を変えることで楽器の「個性」が変えられるは弦楽器奈良でhなの楽しさでもあります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

運動(テクニック)だけで音楽になる?

バッハ あなたが側に居てくれたなら ヴィオラ・ピアノ

 今回のテーマは「音楽を演奏する」ことと「演奏するテクニック」の関りについて考えるものです。
 結論から言えば、テクニックが足りなければ表現できる音楽も限られる=音楽を表現するにはテクニックが不可欠だという事です。
「卵が先か?ニワトリが先か?」とは意味が違います。動力源のない自動車はありません。運転するテクニックがなければ、高速で車を運転することはあり得ないことに似た話です。

 楽器で音楽を演奏する「人」にとって、うまく演奏できない!音程が~!雑音がかr~!(笑)というストレスは避けて通りない「壁」です。ピアノと違い「音の高さ」が不安定で、雑音も出やすいのがヴァイオリンです。
どうしても「音」が気になって「音楽」に気が回らないというケースが見受けられます。
 プロのソリストの演奏を聴いていると「当たり前」のように正確に・雑音なく演奏しています。言い換えれば「ミス」は誰にでも見つけられるものですが「音楽」を感じられるか?何も感じないか?にこそ、大きな差があります。

 演奏の技術を身に着けるために、練習と言う時間が必要です。どんな技術が必要なのか?と言う問いに対して、一つの答えはあり得ません。「何をしたいのか?」「どう?演奏したいのか?」によって、必要な技術とレベルが違うからです。「ヴァイオリンとは!」と大上段に構える人もいますが、どんな楽器でも、同じことが言えます。
もし「美しい」と感じた音楽を「美しく」演奏したと思うなら、「美しい音」の出し方を考えて必要な技術を身に着けるべきです。
もし「誰より速く、誰よりも正確に演奏した!」と思うなら、機械のように何度でも正確に・速く演奏できる技術を身につけたたいと思うでしょう。
「美しい」と「速く正確に」では、必要な技術に違いがあります。厳密言えば「より重要な技術」に違いがあります。
理想を言えば「美しく速く正確に」演奏できることですよね(笑)ただ先述の通り「速いか?正確化?」は誰でも評価できることです。だからこそ「こちらを優先」!」するという考えもあると思います。
楽譜の通りに、速く正確に、雑音を入れずに演奏できれば「音楽」になるか?私は「ノー」と答えます。パソコンに打ち込んだ楽譜を聴いて「素晴らしい演奏だ!」と感じないからです。間違えない・失敗しない・速く何度でも再現できることだけを「素晴らしい」と言うのDなら、機械に勝てる人間はいません(笑)「AI」が進化して楽譜を「個性的に」表現する時代になります。それが「音楽的」と感じるかどうかは、人間に課された問題です。
 人工知能が、過去のソリストたちの「名演」を科学的に一音ずつ分析し、データ化して「良いとこどり」をすることも可能でしょう。ある曲の一部は「オイストラフ風に」演奏し、速い楽章は「ハイフェッツ風に」えんそうすることもできるでしょう。「音」について、ヴァイオリンを使わなくても、ヴァイオリン例えばストラディヴァリウスの楽器の音を「完璧に」再現できるスピーカーとコンピュータを使えば、演奏者は不要です。

 演奏の「技術」を考える時、何のための技術なのか?から考えるべきだと思います。「自分の好きな味のラーメン」を作るための技術なのか?レシピ通りに、間違いなく速く作る技術なのか?必要になる技術は違うはずです。味見をしないで料理を作り、人に「どうぞ」と出す料理は「料理」ではなく「食物」と言うべきです。考えずに演奏した「音」は音楽ではなく、あくまでも音でしかないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器と弦と演奏者の相性

 過去にも何度か書いたテーマでです。ヴァイオリンの「弦」を選ぶことは、演奏者の楽しみでもあり同時に、悩みの種でもあります。同じメーカー、同じ値段でも、弦の「種類」によって音量や音色、弾き心地がすべて違います。どれも「感覚的」な違いですから、個人によって評価が変わるものです。
「〇△(弦の種類)はあーだこーだで、良くない」とか「素晴らしい」とかの記事を見かけますが、あくまでも「個人の意見」でしかありません。こブログもその一つ。私の「好み」の問題です。

 弦に限らず、新しい小品を開発し発売するメーカーは、その時点に既に存在する「他の商品」との差別化が必要になります。当然「より良いものをより安く」と考えるののがセオリーです。
新しい「車」で考えれば、EV(電気で走る車)や水素で走る車が「最先端」かも知れません。
一方で経由で走る「ディーゼル車」やガソリン車が「ダメ」なのかと言えば、違います。
環境問題が!と叫ぶ人がいますが、ハイヴリッドやEVの「バッテリー」は再利用されずに廃棄されています。これが本当に地球にやさしい事か?と考えればすぐに分かります。
シフト(ギア変則)を操作をしなくても簡単に運転できる「オートマ車」がホトンdになりました。
マニュアル車は今や「化石」扱いですが、社会問題になっている高齢者の「ブレーキとアクセルの日見間違い」はマニュアル車でも起こり得ない事故です。クラッチペダルを左足で踏んだり、しゅっくり放したりしなければマニュアル車は前にも、後ろにも進みません。つまり、ブレーキのつもりでアクセルを踏んだとしても、マニュアル車の場合には「クラッチ操作」をしない限り、暴走は出来ないのです。

 ヴァイオリンの弦は毎年のように「新製品」が開発され発売されます。
ガット弦はピアラストロ社だけが販売していて、最新の商品でも発売されてすでに5年以上経っています。先述の通り、演奏者の好みで選ぶ弦は、何よりも楽器との組み合わせ=相性が「肝」になります。
とにかく「通る音=派手な音」を求める演奏者もあれば、落ち着いた谷和原気音に重点を置く演奏者もいます。「ヴァイオリンの頂点」と言われているストラディヴァイウスが作られた当時に、ナイロン弦は存在しませんでした。当たり前ですが(笑) 前回のブログでも書いた通り、演奏者の技術が「楽器の音」を決定づけます。ヴァイオリンがストラディヴァイウスでも新作のヴァイオリンでも「個性」があります。演奏者の求める音を出す「組み合わせ」が必ず手にに入るとは限りません。
少なく元ヴァイオリンを毎年、買い替える人はまずいません。貸与されたヴァイオリンでも自分のヴァイオリンでも「弦」を変えれば音が変わります。弾き心地も変わります。
ナイロン弦は現在、4本セット8,000円から15,000円程度の価格幅があります。ガット弦の場合、同じ商品で揃えると安いオイドクサでも約20,000円、オリーブになると30,000円以上の価格になります。
 単純に考えれば、ナイロン弦の方が「お得」に思えますが、実は弦の「旬=良い音の出る期間」は、圧倒的にガット弦の方が長いと私は確信しています。どんなナイロン弦でも、張ってから長くて3週間で急激に音量が落ち、余韻が減り「こもった音」になります。その後は切れるまで、大きな変化はありません。「旬」の期間はナイロンが少しずつ伸びる弾力を持っています。言い換えれば調弦の小まめに行う必要があります。これを「不安定な期間」とマイナスに思う人がいるのですが、そもそも自分で調弦することが「難しい」ともう技術であれば、弦の差は関係ありません。
一方のガット弦は張ってから一週間ほどは、急激にガットが伸びるため1曲演奏する時間でも調弦が必要になります。学生時代、ガット弦を本番や試験の何日前に張り替えるか?という事を経験で学びました。張ってから一週間後から長ければ3カ月は、ガットが伸び続ける弾力性を持っています。
徐々に音量や音色が変化していき「旬」の終わりも、ナイロン弦のように劇的なものではありません。 
価格 ナイロン弦1:ガット弦3
旬の期間 ナイロン弦3週間(20日程度):ガット弦3カ月(90日程度)
小学生でもわかることですが、コストパフォーマンスはガット弦の方が勝っている事にンります。
 とは言え、張替え時に30,000円の出費は大きいで畝(涙)かと言って、毎月10,000円でナイロン弦を張り替えるのもばかばかしい気がします。

 弦は「どれが一番」と言う結論は出せません。高ければ良い弦とも言えません。新商品が良いとも限りません。試してみる価値はありますが、大別すればナイロン弦かガット弦のどちらかになります。
選択肢はナイロン弦が圧倒的に豊富ですが、まさか毎回違う種類の弦を試すわけにもいきません。
季節や地帯長によっても音は変わります。聴こえ方も日々変わります。自分の耳で「いいな」と思った弦を使い続けてみるのも一つの方法です。結局は楽器との対話に、どれだけの時間をさけるか?という問題に尽きると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

初見で弾ける有難さと落とし穴

今回のテーマは、楽譜を見ながら演奏できるのが「当たり前」だった時代を過ごし、進行性の難病(目の病気)で、楽譜を見ながらの演奏が出来なくなった私の経験で、何か感じてもらえたらと思ってのブログです。

写真は学生時代、あるオーケストラでコンサートマスターを務めた演奏会の様子です。
ソロを演奏しているチェリストは高校時代の同級生、金木博幸君です。確かハイドンのコンチェルトだった記憶があります。当然、私は通常の楽譜を、これまた通常通り「二人に1本の譜面台」で演奏している「証拠写真」です(笑)

音楽高校・音楽大学で学んだ知識「楽譜を音楽にする」こと。
これは、クラシック音楽を演奏する人にとっては、最強の武器かも知れません。
演奏家として楽譜を見てすぐに演奏できることは「必須条件」ではありません。
私の大先輩でもある、ヴァイオリニスト和波先生が学生時代から、他の健常者と区別なくオーケストラ授業や実技の試験を受けておられたことからも、今に始まったことではありません。
現在で言えば盲目のピアニスト辻井氏の活躍がメディアに取り上げられますが「昔からいましたけど?」と思うのです(笑)クラシック音楽以外でも、レイ・チャールズもスティービー・ワンダーも全盲です。

さて、話を楽譜を見ながら演奏することに戻します。
楽譜を見ながら演奏できる「技術」には当然ですが、視力が必要です。
視力以外にも、聴力や四肢の運動がある程度できることも必要だと言えます。
 音楽を演奏しようとする人の多くが「楽譜」を読んで演奏できれば、音楽になると錯覚します。私もその一人でした。楽譜を音にすれば「自動的に音楽になる」と無意識に感じています。むしろ、楽譜通りに間違えず、速く演奏することが「目的」になっていた気がします。
 プロの演奏家に求められる技術「初見演奏」のレベルが高ければ、まずは演奏のお仕事をもらえた時代でもありました。「T朋(笑)」という学校を出ていれば、プロのオーケストラで普通に仕事ができた時代でもありました。違う言い方をすれば、初見の技術を身に着けることが「演奏家の近道」だったのかもしれません。

 楽譜を初見で演奏する「譜読み」から始まり、時間をかけて「うまく弾けるようになる」まで「練習する」これ、当たり前のようですが、実は大きな落とし穴がありました。(私の場合)
 譜読みの段階で、うまく弾けない=難しいパッセージを優先的に「弾けるように練習する」ことって、普通ですよね?レッスンの前とか、合奏の前とかに「難しい場所」だけ何度も練習した記憶があります。これが「落とし穴」だと思います。「なぜ?」
 初見で弾けた場所って、練習しないですよね?少なくとも「もっと深く考える」ことよりも、ますは!難しい場所を練習だ!(笑)その結果、音楽全体に「ムラ=差」が生まれます。
音楽を知らない人がきけば感じない「ムラ」かも知れませんが「音楽」として聴いた時に「部品の寄せ集め」に感じる結果になる落とし穴です。

 生まれつき全盲の演奏家の場合には、点字楽譜を用いて少しずつ覚えるか、誰かに演奏してもらった「音源」を聴いて覚えるかの方法があります。そうです「覚える」ことが必須なのです。覚えなければ、音楽にならないのです。では何を?覚えるのでしょうか?
 私の場合には、学生時代(楽譜を見ながら演奏で着た頃)、暗譜は「必要な時だけ」でよく、通常は楽譜を見ながら演奏できたので「覚える」必要はほとんど、ありませんでした。
 今(2024年6月現在)、いわゆる「強度の弱視」と言えば、なんとなく?理解できるでしょうか?21インチの「超大型タブレット」←とっくに製造・販売がおわってしまった!に、PDF=アクロバットファイルにした楽譜を読み込んで、21インチの画面に4小節拡大表示して、顔を近づけて読んで(当然、楽器は構えられません)覚えては、楽器を持って弾くことの繰り返し。
楽器を持つ前に「音名」「リズム」=メロディーと「指使い」「スラーなどの弓使い」を考えながら「記憶」していきます。楽譜を音にする技術=ソルフェージュ技術は、高校・大学時代に叩き込まれましたので、見えれば頭に浮かびますが、手に楽器がない状態なので(笑)指使いや弓の場所・弓使いを「想像」しつつ、記憶していくので恐ろしく能率が悪い!(笑)
 音源がある曲の場合、「聴けば覚えられる」と思いますよね?
曲の一部を覚えることはすぐにできます。最初から最後までの「1曲すべて」を覚えるために、皆さんならどうしますか?
「覚えられるまで、何日・何週間・何カ月も繰り返して聴く」しか方法はありません。
「自然に覚える」確かに、私も学生時代に、知らなかった曲でも練習しているうちに「いつの間にか暗譜していた」記憶があります。ただ「楽譜」を音にするための時間や労力は「ゼロ」でしたから、当然と言えば当然です。思い出せなければ、楽譜を「見る」ことで思い出せます。今の私は?思い出せない時にも、タブレットが必須です。持って歩ける大きさでもなく、見ながら演奏できるわけでもなく(笑)

 楽譜は「音楽の台本」です。台本を見ながら演技する芝居や映画を見たら、あなたはどう感じますか?映画やテレビでは「コマ撮り」という手法で撮影するので、多くの場合は「少しずつ」覚えれば用は足りる?かも知れませんが、ストーリー全体と他の役者さんの「台詞」「動き」を覚えなければ、まともな演技は出来ないと思います。舞台で芝居を演ずる場合には、自分のセリフも「すべて」覚えて「ライブ」が始まります。
ロックやポップスの「ライブ」でも、ほとんどの演奏者・歌手は楽譜を見ていません。すごいことです。2時間以上のライブで、演奏以外にも演出、振り付けも覚える彼らを尊敬します。

もし、楽譜を見ながら演奏できる「視力」と「技術」があるのであれば、それが恵まれた環境であるっことを自覚っしましょう。ヴァイオリンの場合であれば「無伴奏〇△」以外は、他の演奏者が演奏ずる音楽も、頭と体にしみ込ませる努力が必要です。音楽全体の「構成」を理解し覚えるためにも、「速く・正確に」弾くことをを優先するより、演奏する「一瞬」にどんな音があり、どんな時間が流れるのか?その一瞬より「前」つまり、聴いた人の記憶にある「音」との係を考えて、演奏する時間を「音楽」にする気持ちを忘れないことが大切だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

出逢いと別れ

糸 ヴィオラとピアノ

 還暦とっくに過ぎた爺ちゃんが(笑)何をいまさら?出逢いと別れだとポエマーしてんの?と言われても良いのです!
 いくつになっても、生きている限り体験する「出逢い」と「別れ」2024年5月の出来事は、私にとって一生に関わる出来事でした。

 音楽大学時代の同門(同じ師匠に師事していた門下生)先輩に、現実の問題として今、自分が考えている事を話すことができました。信頼があってこそ、本心で話せて先輩からも本気の答えが返ってきました。
 先輩からご紹介いただいた方との「出逢い」がありました。初対面で話をしだしてから10分も経たないうちに、「信頼できる人」であることを直感的に感じました。
 お会いして30分ほどで、心は決まりました。

 私が50年間「パートナー」として、苦楽を共にしたヴァイオリンと40年間愛用した弓と別れ、別の楽器を新しいパートナーに迎えることになりました。恐らく、間違いなく新しいパートナーと、私が演奏できなくなる日まで傍らに置く楽器です。
 50年前に楽器を斡旋してくださった方がくも膜下出血のために倒れられ、その後はその方の「お弟子さん」だった方にだけ、楽器の調整を任せてきました。それ以外の誰にも楽器を調整してもらう事は「信頼」に至らず、長い年月が過ぎました。その職人さんもご高齢になり(私もですが)、いよいよ楽器の調整は誰にも任せられない段階になって、この話の最初に戻った「出逢い」がありました。

 私の使ってきた楽器と弓は、フルオーバーホールされて、健康な状態に生まれ変わることでしょう。その楽器と弓の「価値」がわかる人によって、また50年、さらに100年と歌い続けてくれると思っています。
やっと!自分が使わせてもらっていたヴァイオリンへの責任を果たした気持ちです。
 新しく我が家の一員になった楽器の詳細は、今この場でお伝えすることは控えます。しばらく時間をおいてから、皆様にご紹介することにします。「なんで?」ち思われる方もいますよね?ヴァイオリンは、演奏家の手から手に渡って生き続けるものです。それそれの演奏家が持つ「思い入れ」があります。悪意を持って情報を拡散する人もいます。ですから今は「新しいパートナー」とだけ書かせていただきます。。

 楽器を扱う事は、人と接するのと同じです。自分が気に入るように相手を変えさせようとするのは「傲慢」な気持ちの表れだと思います。自分の「好き嫌い」があるのは当然です。好きな相手と出会えないこともあります。自分を変える「謙虚な気持ち」があれば、相手(人でも楽器でも)に通じます。
出会った相手の個性を感じ、自分の感性と近いものがあれば私は迷いません。新しい楽器で音を出した瞬間に、何も違和感を感じなかったことが私の心を決めました。
 作った人の名前や値段しか気にしない人にとって「楽器の個性」は二の次です。自分の感性で確かめられて、初めて楽器の価値があると常々思っています。

 明日、私の教室で行いミニコンサートで、初めて人前で演奏することになります。
常に私の背中側で音を聴いてくれている浩子姫曰く「良い意味ですごく自然な音」だそうです。楽器を与えてくれた方に「目で見て演奏する人に出せない、綺麗な音で演奏する方だなと思いました」と言う光栄な言葉を頂きました。「見えなくなることがマイナスだけじゃないんですね」と穏やかに話されたことにも温かさを感じました。
「演奏も調整も、魂ですよね」と言う言葉にも共感しました。技術や地位、お金では得られない「魂」を感じられる演奏をしていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜の「行間」を読むこと

シューベルト「アヴェ・マリア」ヴィオラ

 台本や原稿を、役者さんやアナウンサーが声に出して「読む」ことは、私たちが楽器で楽譜を読んで「演奏する」ことによく似ています。日本語で「行間」と言う言葉があります。現実の行と行の足だの隙間の事ではなく「文字に書かれていないこと」を指しています。AIが進化し、文字を読み上げるソフトも日進月歩の速さで、より自然に近い音声になっています。単語や文節の「切れ目」と「前後の意味」を学習することで、まさに「行間」を読み取っています。すごい技術だと思います。

 さて、音楽の世界で楽譜に書かれていない「歌い方」もっと言えば表現の方法は、演奏する人の「想像力」によって決まります。
作曲する人が、頭の中に音楽を思い浮かべ、楽譜にするように、演奏者もまた楽譜を頭の中で「想像」して音にします。
 正解のないのが「想像」です。人によって違い、同じ人でも感情によって変わるものです。自分の演奏を聴いて、演奏しているその瞬間に思っていたことを思い出すことは出来ません。

 想像の世界を言葉や絵にする必要はありません。その人の記憶や感覚で「感じる」ものです。では、どうすればをれを「音」に出来るでしょうか?
 まず、感覚を敏感にすることです。同じ人間でも、五感が敏感になっている時と鈍くなっている時があります。練習の段階で、楽譜を見てすぐに何かを感じるとしたら「難しそう」とか「音符が多い」とか(笑)
旋律と和声を「音楽」として聴いて、そこから新たな想像力を働かせて、演奏に「色」「奥行」「重さ」などを加えていくのが練習です。音楽に特定の感情(喜怒哀楽)があるとは限りませんが、無色透明・無民衆な音楽は、現代音楽でもほとんどないと思います。

 動画のアヴェ・マリアを聴いてどんなイメージを持ちますか?音楽全体=1曲を聴き終えたあとの印象も大切ですが、一瞬ごとに感じる感情も大切です。
 冒頭のピアノの和音が波のような上行・下降を繰り返しながら、和声の色が変わっていき感情を揺さぶります。
 ピアノの前奏が「沈み切った」ところで歌=主旋律が始まります。歌詞で言えば「A・ア」で音名DIえば「シフラット・B」音階名で表せば「ド」から始まります。
 この最初の音を出す前にイメージを持ちます。聴く人が「初めて聴く」こともあります。演奏者はその先も知っています。
初めて聴く人にとって、感情やイメージは「音が出てから」感じるもなのです。演奏者は音を出す前に既にイメージを持っています。私の場合、弓先でギリギリの弱い音から弾き始めます。聴く人に聴こえない「音」かも知れませんが、やがてはっきりと聴こえてくる「ア」をイメージしながら次第に輪郭のはっきりした音に変化させていきます。
ヴィブラートをいつ?始めるかもイメージの世界です。ヴィブラートの深さ・速さも空想の世界から生まれてきます。楽譜には書かれていない「行間」です。

 音量を「ピアニッシモ」から「フォルティッシモ」などで表すこともできますが、聴いている人が感じるのは「感覚的な音量変化」なのです。高音は大きく聴こえます。さらに、音色によっても感覚的な音量は変わります。音の聴こえない状態を「0=ゼロ」とした場合、聴こえ始める最小の音を「1」に仮定し、最も大きく聴こえる音を「10」だとします。その音量差を「どれだけ細かく変化させられるか?」と「どのくらいの速度で変化させるか?」という二つの視点で考えます。
 初めて聴く人にとって、最大の音量が「いつ・どのくらいの大きさ」になるのかは問題になりません。楽譜の中でどこか一か所に「ff=フォルティッシモ」があるから、そこを最大に演奏する…これ、普通に考えますが、聴く人印盗っては無意味な問題です。
 むしろ音楽が始まってから「時間経過」と共に、音量や音色が変化する中でイメージがわき続けるのです。

 想像力のない人に「想像しろ」と言っても無理なことです。少なくとも、音楽を演奏するのであれば、常に次の瞬間に創り出す「音」を想像することです。何も感じない「音」は「サンド・ノイズ」でしかなく、意味のない「文字」を声にしているのと同じです。例えば「今日は暑くなりそう「ぽ」ですね」と「ぽ」が一文字はいるだけで、意味が通じなくなるのと同じです。
 想像・空想・考える・感じることから音を出すのが「行間」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の練習で得られるもの・失うも

ヴィオラとピアノで演奏する「糸」

久しぶりのブログです。映像は自宅で演奏した「糸」です。中島みゆきさんが作詞作曲され、歌われていた「歌」です。
 私たちがヴァイオリンとピノアのために作曲された曲の他に、いわゆる「歌もの」を多く演奏するのは、第一に旋律が人間の歌える音域で(当たり前ですが(笑))、聴く人が覚えやすいこと。言い換えれば作曲する人にとっては「音域の制約とモチーフの設定」が器楽曲より多く求められることになります。
「大衆音楽」を卑下する人がいますが、元よりクラシック音楽の多くが「大衆音楽」だったことを忘れてはいけませんよね。
 それらの「歌」と今回のテーマである「練習」にどんな関係性があるでしょうか?

 指導者の端くれでもある私が「練習で失うもの」を書くってどんなもの?と思いますが、私が経験し感じてきた自分と、自分以外の演奏家、さらには生徒さんたちを指導してきて思う事は「練習でうしなうものがある」ことtです。
当然ですが「得られるもの」があるから練習するのです。練習しなければ、得られるものはありません。誤解のないように(笑)
 得られるものは?「演奏技術」と「音楽的知識・演奏経験」です。これは、練習の時間にある程度比例して得られるものです。
 同じ人が、毎日1時間練習した場合と毎日4時間し続けた場合、得られる技術・知識・経験は恐らく4倍近い差があるでしょう。
 違う人と比較した場合は?おそらく時間には比例しません。内容と練習の仕方が根本的に違うのですが、結果が違って当たり前です。誰かが毎日4時間練習しているかrあ、自分も同じ時間連取すれば、同じように演奏できるように…「なりません」(笑)
 練習には当然、体力と時間が必要です。前提として「環境」がなければ練習は出来ません。連取する「場所」と「時間」と「体力」、一番大きな要素は「練習する時間、それ以外の事ができない」ということです。
 言ってしまえば、練習するために生活の中の「何か・どこか」を削ることになるのは当然です。子供であれば、遊ぶ時間や勉強する時間を削って練習することになります。
大人であれば、働く時何か休息する時間を練習に充てることになります。だから練習が「悪い」とは言っていませんので悪しからず(笑)

 練習に使う時間が多いほど、その他の時間を多く削ることになります。一日が24時間であること、人間は睡眠したり食事をしなければ生きられないことを考えれば、ある意味で誰もが公平に「時間」を持っています。
 練習することで、充実感を感じたり、技術を得られることが嬉しいのは喜ばしいことです。その人の「幸せ」な時間でもあります。
 よく考えると「もしも練習している時間を違う事に使っていたら?」どんな幸せがあるか?どんな人生になるか?比べることは不可能だという事です。
 病気になった時、薬をの飲んだ場合と飲まなかった場合の「結果」を、同じ人がお暗示時に比較できないのと同じです。「もしもあの時…」で後悔することも、逆に安堵することも可能性としてあり得ます。練習に毎日4時間使ったから、全員が後悔しないとは限らないのです。毎日4時間を例にすれば、一週間で28時間です。丸一日の時間より長くなります。活動する時間が仮に「16時間」だとすれば?約二日分の活動時間を一週間で「消費」したことになります。これを1っカ月、1年続けたら?さらに幼い頃に年々も続けていたとしたら?練習した時間は、取り戻すことはできません。何度も書きますが「得られる結果は全員違う」のですから、良かったと思う人も言えれば、大きな後悔を感じる人もいるはずです。

 音楽の世界で「一流のプロ」と呼ばれる方の多くが、毎日何時間も連取し続けたと語られています。中には練習が嫌いだったと言う人もかなりの割合で存在します。嫌いな練習を続けてきた「結果・成果」として、一流の演奏家の地位・称号を得たのであれば、満足でしょう。それを「素晴らしい」と思うのも当然です。一方で、一流の演奏家の中に、40代の若さで引退宣言し、これから先は好きなことをして暮らしますと笑顔で話す方もおられます。周囲からは「もったいない」という事もあっても、本人の価値観です。
「神童」「天才」と呼ばれた演奏家の中で、絶頂期であるはずの20代で、精神を病む人がたくさんいました。共通しているのは「これ以上うまく弾けない」と言う気持ちと、周囲からのプレッシャーです。幼い頃から「良い子」で「素直」で「真面目」な子ほど上達します。そして、大人になって精神のバランスを崩す結果とになります。

 我が子が毎日、ゲーム三昧で勉強も練習もしないと「ぼやく」のも親です。心配だからですよね。当間の事です。冷静に考えれば、子供が好きなことをして「育つ」のは今も昔も同じです。練習が好きな子供が「仮に」いたとすれば、勝手に練習するはずですが、およそ今まで聴いたことはありません。親の「期待」に応えよるとする、良い子が好きではなくても練習するのを見て「素晴らしい」と思うのは、どこか間違っている気がします。本当に練習好きなのでしょうか?

 練習はしなければ上達しません。練習すれば誰でも上達する可能性があります。
「何歳で・何年度」「どのレベルまで」上達すれば「一流の演奏家なれる」かも、実は決まっていません。統計はありません。もっと言えば、楽器によって違います。声楽を子供の頃から必死になって練習しても無意味なので🅂う。金管楽器を幼稚園児は吹けません。
幼い頃から演奏できる楽器は「鍵盤楽器」とヴァイオリン・チェロ」「ギター」に限定されます。厳密に言えば、ピアノを幼い子供が演奏しても、大人の音は出せません。体格Tと筋肉量が違いすぎるからです。子供用の分数ヴァイオリンで、大人のヴァイオリンの音も出ません。ただ「技術」だけは身につきます。それ、必要不可欠ですか?(笑)
 子供が好きなことをしながら、伸び伸び育つこと。大人が生活のバランスを維持しながら、人生を楽しむこと。それが原点でだと思います。
 何かを魏勢にして得られたものにも、価値はありません。その価値が本当にその人にとって、かけがえのない物かどうか?を思うのは、人生の執着に近いときだと思います。
無理をしてまで練習することの「危険性」を考えるべきです。
 音楽は命を懸けて演奏するものではありません。本人が命を懸けて「楽しみたい」と思える年齢になっても楽しみたいと言うのなら、だれも止められません。ボクシングで、まさに命がけで戦う人たちの心理は、ボクシングを見るだけの私たちには到底、理解不能です。ただ音楽で誰かを傷つけたり、不幸にすることはなく、誰かに勝った!負けた!という事もないのです。あくまで自分の「満足感」だけが欲しいのです。そんなことに、命を懸けさせる親に、私は言いたいです。
「子どもの人生を決める権利は親にはない」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自己主張と協調性

瑠璃色の地球 ヴィオラ・ピアノ

 今回のテーマは、音楽を通して「人との調和」を考えるものです。
戦争という人類が行う「最も愚かな行為」も元をただせば、特定の人間の協調性の欠如と自己主張を止められなくなった暴走による行為です。
 自分の考えを持つことは素晴らしいことです。食べ物の趣向も一つの「考え方」です。問題はその考え方を行動にうつつぃた時、他人を災いや不幸に巻き込むことは、どんな権力がる人であっても許されないことです。
「自分の考え方は正しいのだから、誰も不幸にならない」と思うのは大いなる勘違いです。エゴイズムでしかありません。人それぞれに違った「考え方」を持っています。他人に押し付ける権利はありません。
 音楽を何人かで演奏する時、必ず起こることですが「感じ方の違い」を擦り合わせる作業」が必要になります。テンポや歌い方、揺らし方の好みは違って当たり前です。そのまま同時に演奏すれば、出始めから最後までバラバラで、恐らく最後までたどり着くことさえ不可能です。
 オーケストラで指揮者がいる理由も、ここにあります。単に音ので始めmpきっかけや、テンポを決めるだけではなく「まとめる」ことがその役割です。
指揮者の考え方や指示の仕方に、オーケストラのメンバーが「従う」のは、指揮者を認め信頼しているからです。中には指揮者の感じ方や指示に「違和感」や「反感」を持つ人もいます。
 最終的には、
①その演奏者が我慢して演奏を続けるか?
②指揮者に考え方や指示の仕方を変えてもらうか?②
③演奏者が辞めるか?
④指揮者を辞めさせるか?
のどれかを選ぶことになります。
多くの場合は①、次に③でしょうね。
これは二人で演奏する場合でも同じです。
私たち夫婦の演奏も、常に「擦り合わせ」た結果なのです。

 音楽で意見が合わないからと言って、戦争が始まることはありませんが(笑)
楽器が「武器」に変われば、お互いの命を奪い合う戦争が始まってしまうのでしょうか?武器そのものが悪いとか、不要だとかという議論より「何のために使うのか?が大切な音です。楽器と同じです。ヴァイオリンを燃やして燃料にしようと思う人はいなくても、もし無人島でヴァイオリンしか燃やせるものがなかったら?生きるために燃やすでしょう。自分の生命が本当に危険だと思った時、身を守る「武器」が手にあれば使って生き残るのが本能です。相手がクマであっても、人間であっても同じかも知れません。クマ相手に素手で戦っても人間は勝てません。
 野生の動物たちが、食物連鎖と呼ばれる「弱肉強食」で生き残るための「殺生せっしょう」を行う事を、私たち人類は「可哀そう」と思う反面で「仕方のない事だ」と理解できます。それは「知性と理性」があるから思えるのです。
 必要のない争いをするのが「人間」です。極論すれば、音楽で争いが起きるなら、音楽を捨てても人類は滅びません。だからと言って「音楽はいらない」と言うのは如何でしょうか?
 まだリスクを少しでも減らしたい…気持ちは誰にでもあります。安全な家から出て、外を歩けば「いつ?」車に跳ねられるか?と考えたら外には出られません。
外に出ていて、大地震にあったら?と思ったら出られません。でも、私たちはリスクを忘れて?承知のうえで?外出します。それが「知性」であり「理性」です。

 現代の社会で生活する私たちが「生き残る」ためにすべきことがあります。
最低限の生活を、差別なくすべての人間が営める社会を作ることです。
「最低限」と言うと嫌悪感を持つ人がいます。確かに線引きは誰にもできませんが、少なくとも「生きていけるお金と環境」が最低限だという事には異論はないはずです。「働かない奴が悪い」「外国人が悪い」「病気になるやつが不運なだけ」「自己責任」そうでしょうか?全部、どこか間違っています。
 音楽「ごとき」でさえ、頭を使って楽しむ行為です。
ましてや「最低限の生活をすべての人に」位、誰にでも答えの導ける話です。
「共産主義者か!」「社会位主義者だな!」とか「左翼だ~!」って、言う人。
知能を少しは使ってみましょうよ(笑)
 人間だから!音楽を楽しんだり、文字を読み書きしたりできます。
その人間がお互いをけなしあい、他人を認めず、自己主張だけを繰り返すのって
「ばか」「あほ」だと私は思います。これも「他人を認めていない」と言われるかもしれませんが、他人を認めない人を「認めない」のは自然の摂理だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の速度、圧力、場所

映像はシューベルト作曲「セレナーデ」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは「弓」の使いかtあ。言い換えれば「音の出し方」「音の創り方」でもあります。
 声楽家にとって「発声」が基本であり同時にもっとも難しいことだと感じています。
 ヴァイオリンの「ボウイング」については、本当に多くの演奏家や指導者が書籍、動画にして自分の「流儀」を開設しています。動画の中には実際に音を出しながら解説しているものも多く見受けられます。
 ただ、学ぶ人にとっていくら説明されても、自分が演奏する「圧力」「速度」を客観的に分析することは非常に難しいことになります。逆に言えば、指導者からいくら「違う!」と指摘され「こう!」と目の前で示されても理解することは困難です。
 そこで「圧力」「速度」「場所」という三つの観点で自分の「音」を観察する手法を書いてみます。

 「圧力」とはまさに弓の毛を弦に「押し付ける力」です。この力は、右手の親指と人差し指によって生まれる「下向きの力」ですが、厳密には「魂柱に向かって×力」だとイメージすると分かりやすくなります。
天井から床に向かってかかる「垂直方向の力」に加えて、E線(ヴィオラならA線)の下に建っている「魂柱」に向かう方向の力を「圧力」と考えるべきです。
 圧力を一定に保つことと、瞬間的に変化させること、徐々に増やしたり減少させたりすることのすべてが「圧力」です。弓の毛の張り方=強さと、弓の木(スティック)の固さ=弾力性を理解しなければ、圧力のコントロールは無意味です。当然、弦の梁の強さ=テンションも関係します。弦の種類にも影響されます。後で述べる「弾く位置=駒からの距離」でもテンションは大きく変わります。
圧力の変化は「音量の変化」に最も大きく関わります。
弦を強く横に引っ張って、一気に話せば大きな「ピチカート」の音が出ます。弓の毛で摩擦を作ることで、この「横方向への力」を作っています。もちろん、松脂の粘り、弓の毛の凹凸があっての摩擦ですが、圧力を弱くすれば、横に引っ張る力が減るため、音が弱くなるわけです。

「速度」はまさに弓Gあ動くスピードのことです。
ダウン・アップの運動は「指」「手首」「肘」「肩」「右上半身」で行うものです。特に「右上半身」を使うイメージは、最も大きな筋肉の運動になるので必要不可欠です。
指によるダウン・アップは瞬間的な速さの増加と減衰に多く用いまSう。手首によるダウンアップは本来、弓と掌の「角度」によって運動の大きさ=可動範囲が変わります。
弓の毛と手の甲・掌が「平行」に近い持ち方の場合、手首による「左右=ダウンアップ」の運動は僕わずかになります。一方、弓の毛と手の甲・低野平が「45度」に近い持ち方の場合、手首の上下方向の運動を「横方向=ダウンアップ」の運動として使うことができます。ただし、弓の毛と「平行」に動かすことは手首の運動だけでは物理的に不可能です。弓の傾斜が変化するt事になります。
 肘の関節の曲げ伸ばしが、もっとも一般的に使われるダウンアップ=横方向の運動になります。ただ、弓の元部分では、肘が「鋭角=90度以下の角度」になるため、自由度が制限されます。また人によって上の長さは違いますから、単に全弓を使うことだけを意識するのは無理があります。
 右肩の運動は主に「鎖骨からの運動」です。
単純に言えば、上腕=肩から肘までのの部分の上下運動を「横方向」に使うことです。この運動は「移弦」でも当然使いますが、弓の元部分で使うことによって、肘が鋭角になることを回避できます。
 右上半身の運動。これは「背中の筋肉」を意識することで生まれる運動です。背中の筋肉を使うために、姿勢が重要になります。いわゆる「猫背」で演奏すれば、僧帽筋=肩甲骨の周りの筋肉」は伸びきった状態になり、縮めることができません。

 これらの運動を組み合わせて「速度」をコントロールしますが、圧力と速度には深い関りがあります。
・強い圧力でゆっくり動かすと、弦が振動できずに閉塞した音やがりがりした音が出ます。
・強い圧力である程度速く動かせば、大きな音が出せます。さらに速くすれば最大んの音量が出せます。
・弱い圧力なら、遅ければより弱い音、早ければ「軽く薄い音」が出せます。さらに一弓のダウン・アップで長い時間の演奏ができます。

 最後に弓の位置です。
弓の中央部分は最も針が弱く、先・元は毛の梁が強くなるように「張り方」を調整します。
その上で、駒の近くを弾けばより、強い圧力をかけることができ、高音の成分が多い「明るい音」が出せます。
駒から離れた部分になると、テンションが下がり、柔らかい音・くすんだ音を出すことができます。当然ですが、弓と弦の当たる位置は弓を動かせば変わります。その時々で弓の「強さ」が連続的に変化することになります。
弓の「弾力」を感じながら演奏することを忘れないことが大切です。

 どんな曲であっても、すべての音に「発音」と「途中」と「終わり」があります。そのすべてに意識を持てるようになれば、自分の好きなような歌い方に近付けると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「脳」

 映像はシューベルト作曲「セレナーデ」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。歌曲を「言葉抜き」で演奏するわけですが、原曲の歌詞の内容を知ってから演奏することも大切な準備です。

 今回のテーマは、演奏者に必要な「考える力」についてです。
学校のテストの成績や学歴が高いと「頭かが良い」という事がありますが、多くの場合「記憶する能力が高い」ことを指しているように感じます。何かを覚えることは、脳の働きによる結果です。逆になにかを忘れることも同じく、脳の働きです。
「記録力」以外に、推理したり想像したりする脳の働きがあります。
計算とは違い、正解のない「問い」に対して、より良い「答え」を導き出す能力でもあります。

 演奏する音楽を覚える方法も様々です。「聴いて覚える」「楽譜を見て覚える」その両方を組み合わせる方法など、人によっても違います。自然に覚えてしまうこともあります。無理やりに覚えようと努力することもあります。結果として「思い出せる」ことが目標になります。覚えるという事は「思い出せる」ことです。

 推理したり想像する場合、ある時突然にひらめくこともあるかも知れません。が、多くは「頭をひねる」つまり「考える時間」が必要になります。これは、音楽に限らず「物を創る・造る」場合に必要不可欠なことです。人間は自らの経験をもとにして、なにか新しい「物」「事」「方法」を探します。つまり「記憶」に頼る部分が大きいことにもなります。
子供と比べて大人の記憶力が劣ったり、物忘れが多くなる原因の一つが「新しいことを覚える機会の減少」があります。生きるために必要なことを一通り覚えてしまたら、意図して何かを覚えようとしない限り、ほとんど「慣れ」だけで行動します。

 演奏したこのある音楽でも、毎回「新しい想像」をする人と、しない人がいるように思います。漫然と「音を出す」だけの技術を使い演奏する場合には「脳」は使わなくても演奏できます(笑)逆上がりができたり、自転車に補助輪なしで乗れるようになれば、何十年経ってからでもできることがその証です。無意識に記憶している演奏技術を使えば、何も考えなくても「音H出させる」のです。

 演奏中の「一瞬」に何を考えているでしょう?
次に演奏する音の「音名」「高さ」「長さ=音符や休符の種類」「音の大きさ」「ポジション」「弦」「指使い」「弾き始める弓の場所」「弓のダウンアップ」と、弦楽器の場合を書きましたが、それぞれの楽器で考える「準備」があります。
 次の音だけで演奏が滞りなくス数課と言えば?例えば短い音符が連続するパッセージでは、1拍分や1小節分を読み取り考えます。
ゆっくり歩くなら足元を見ながら勧めますが、車で高速道路を走る時には、相当前方にも目をやっているはずです。
 演奏しながら聴く自分と他の人の「音」に反応することも、脳の働きです。
耳鼻科などで行い検査「聴力検査」とは違います。音に反応して、ごく短時間で反応する「速さ」と「正確さ」と「同時に反応する能力」が求められます。
「考えなくても反応できる」ようになるまでにかかる期間・時間は人によって違います。同じ年齢の子供でも、その個人差は非常に大きなものです。
反応が速く、修正する方法があっていると「耳が良い」と言われます。
特に自分の出している音への反応は先述の「次の音」を考える作業と同時に行われます。つまり「次の音」と「今、出ている音」を常に考える脳の働きです。

 私自身、視力Gあ低下し楽譜を見ながら演奏することが出来なくなってから、多くの事に気が付きました。
以前は「初見で演奏する」ことが出来ました。初めて演奏する曲の楽譜を「見ながら」演奏し、考えたことを楽譜に書き込みながら練習しました。その延長として「楽譜を見なくても演奏できる」つまり暗譜の状態になります。
 楽譜を見ながら演奏することが当たり前だったわけですが、それが出来なくなってみると、生徒さんが「視覚に頼りすぎている」気がします。
「楽譜」「左手の指」「弓と弦の接点=駒の上」などを、見ながら演奏している生徒さんが、ある一瞬「なにに集中していたか?」聴いてみると、
「なんとなく楽譜を見ていた」「なんとなく左手を見ていた」という答えがもっとも多いのが実態です。むしろ「何も考えていない」状態に近いのです。

「感じること」と「考えること」は別のものです。五感で感じるものは「外的刺激」によるものです。一方で、考えることは外的な刺激がなくても想像できる「イメージ」です。言うまでもなく、イメージは実態がないものです。見えない・触れないものですが、明らかに存在するものです。楽譜と言う2次元的なものから何かを感じるためには、記号を「音」にする技術が必要です。想像力と集中力、さらに同時に考える能力を見tにつけるために、演奏者は「運動」以前に「思考」をすることが絶対に必要です。
中学校の「教科」で言えば、「国語・数学・理科・社会」にまたがる「理解力」が必要だと思っています。
・文章を作る技術
・速度や長さ、時間を珪砂する能力
・音が出る仕組みや音の他kさに関する知識
・歴史や地域を考える力
もちろん、美術や体育、語学の能力・知識も仏ようになることもあります。
いずれにしても「思考」することが音楽を作る上で、最も大切であることを忘れてはいけないと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽(器楽演奏)の個性

 映像は私と浩子さんが初めてのデュオリサイタル(2008年)に演奏した、ドボルザーク作曲「ロマンティックピース」からの2曲です。
 この曲に限らず「クラシック音楽」と呼ばれるジャンルの音楽は、基本的に作曲家が書き残した「楽譜」の通りに演奏することが原則です。言い換えれば、演奏者は楽譜に書かれた「記号」を音から、さらに「音楽」として演奏することが求められます。
 ポピュラー音楽の世界でも「楽譜」が用いられることは珍しくありません。逆に楽譜を一切使用しない演奏者もいます。
 楽譜は「台本」に似ています。演者が文字を「演劇」や「朗読」で表現することと、ほぼ同じことです。「アドリブ」が許される範囲は様々です。クラシック音楽も同じです。ただ「許されないアドリブ」があるか?と言われれば、本来はどんな演奏であっても「演奏者の自由」であることは否めません。聴く人の好みにもよります。
 楽器で音楽を演奏する「器楽」の場合、歌と違い「音色=声の違い」はありません。楽器によって音色は違いますが、人間の声ほどの違いはありません。
 演奏する人の「個性」はどこに表れるのでしょうか?

「解釈の違い」と言う言葉は楽譜や文章に書かれた、事・現象を読み手・弾き手がどう?感じ取るかの違いです。
同じ文章を読んでも、人によって違う意味に取れる文章もあります。楽譜の場合も同じです。

「演奏するテンポの速さ」「音量」「音色」「フレーズの切れ目」「揺らし方」など、演奏の個性を左右することはいくつもあります。「表情」や「姿勢」「動きの大小」は視覚的なものであって、音とは別のものです。
当然、音楽に影響する動きもあり,逆に音により感情が表情に出てしまう場合もありますが「音楽があって」の話です。

 個性に優劣=序列をつけることは不可能です。「〇△さんの個性は世界一だ」って言いませんよね?むしろ、個性を引き出すことが技術だと言えます。

 そもそも、楽譜には「音の高さ」「リズム」が主に記されています。「音の大きさ」も書かれていますが数値的な絶対値ではありません。
曲のテンポを数値で指定されている曲もありますが、多くの場合には演奏者の自由が許される範囲があります。

 「曲全体のテンポの違い」と「音量差」だけが個性による違いでしょうか?
 一音ごとの「音量」「長さ」「音色」にこだわり、曲全体を仕上げること。その演奏は「一度だけ」で評価されるものです。録音物での評価は、人間の演奏を「記録した」ものであり、演奏する場で創られる「音の芸術」とは次元が違います。聴く人間が感じることも、時により変わります。
 録音物を初めて聴いた時の印象が変わっていくこともあります。

 最後に「個性的な演奏」について。個性の感じられない演奏を考えればわかることです。「楽譜に書かれたとおりに演奏する」ことを「正確な演奏」と言います。間違えないことに「個性」はありません。速いテンポで正確に演奏できる「だけ」でも個性は現れません。
「人と違う演奏」だから個性が強いとも言えません。単に奇抜な演奏と評価されても仕方ありません。
「個性」は演奏する人の「性格・好み」が現れることもあります。例えば、せっかちな人の演奏・勝気な人の演奏など。逆に普段の行動や表情からは想像できないような演奏をする人もいます。

 演奏の個性は、演奏者のこだわりの結果です。音楽は「曲」によってすべて感じるものが違います。一緒に演奏する人の「個性」も含め自分が納得できる演奏に個性が生まれます。当然のことですが、一曲の「個性」が出るまでに必要な時間があります。間違えない演奏のために努力する時間も必要です。
楽譜が同じだからこそ!個性を感じる演奏を心掛けるのがクラシック演奏だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を奏でて生きること

 映像は、ドビュッシー作曲「亜麻色の髪の乙女」
今回のテーマは、趣味であっても職業としてであっても「演奏」することを続けていく人の「幸福感」について。もちろん、好きな音楽を聴くことも人によってかけがえのない楽しみです。音楽を奏でるために…自分が楽しめる演奏をするために、練習することも音楽を奏でている事に変わりありません。人の前で演奏するのも、一人で練習するのも「音楽を奏でる」ことなのです。

 奏でる音楽がロックでもクラシックでも、人間が演奏するなら同じ「音楽」です。とは言っても現代の私たちが「聴く」音楽は生演奏よりも、はるかに「機械からでる作られた音楽」が圧倒的な数です。それでも、人間が作った音楽を、人間が演奏しているという前提で言えばかろうじて「人間の音楽」と言えるのかもしれません。要するに、聴く側の立場で言えば「生演奏」でない限り、人間が演奏していても機械の音でも「音楽」であることに変わりないことになります。

 一方で「演奏する」立場になると、楽器の種類にもよりますが自分の演奏技術=演奏技術・音楽のクオリティーになります。私の知る「電子オルガン」ヤ〇ハ製なら「エレ〇トーン」は、内蔵されたコンピューターにデータを入力し、再生時にそのデータと「一緒に」演奏するイメージがあります。極論すれば、演奏者がいなくても音楽は再生されるはずです。否定しているのではなく「楽器の種類が違う」のです。
 エレキギターであっても、クラシックギターであっても演奏する喜びは変わりません。ロックバンドでもクラシックのアンサンブルでも、お互いを思いや気持ちが第一であある事は変わらないことです。
 音楽を演奏することは、ある意味で「生きるために必須」なことではありません。なくても人は生きられます。光や空気、水がなければ生命は途絶えますが音楽がなくても生活できます。その「なくても死なない」演奏に楽しみを感じるのは、「知性があるから」です。言ってみれば「遊び心」です。演奏は遊び心が必要だと思います。「命がけの演奏」なんて聞きたくないと思いませんか?悲壮感の漂うコンクールの演奏風景を見ていると、音楽を楽しむ気持ちにはなれません。

 練習を楽しめるのか?と言う素朴な質問を良く耳にします。
私は「楽しくない」と正直に答えます。ならば「人前で演奏するのが楽しいのか?」と聴かれて率直に「はい」と答えるほどの自信もありません(笑)「ならば!なぜ?人前で演奏するのか?」きっと、練習も演奏会も含めて音楽を演奏するのが好きだからなのだとしか答えられません。
 音楽の学校に入学するために練習した時期もありました。音楽の高校・大学で試験のために練習した頃に「練習が楽しい」と感じたことはありませんでした。「合格するため」「良い成績を残すため」に練習していた…のだと思います。
 今、演奏が好きだから練習し人前で演奏する自分は、そんな「若い頃」があったからこそ存在しています。コンプレックスに苛まれ、挫折感を日々感じ、練習しても成績の上がらない年月を過ごしました。
多くの学友がいます。今も第一線で演奏活動を続けている仲間もいます。音楽大学で教鞭をとっている人もいます。クラシックではないジャンルの音楽演奏を続けている仲間もいます。それぞれに「音楽」と未だに関わって生きている人たちです。家庭で家事・子育てや、音楽以外の仕事をしながら「時々」音楽を演奏する人もいます。みんな「音楽仲間」です。
 若いときに味わった「苦さ」こそが年齢を重ねて「味わい」になる気がします。若い頃の「甘さ」は逆にほろ苦くさえ感じます。還暦を過ぎ、後半の人災を「音楽と共に遊ぶ」ことができれば、悔いのない人生のように思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「その道」に求められるもの

映像はボーム作曲「アダージョ・レリジオーソ」をヴィオラで演奏したものです。
 さて、今回のテーマは「その道」言ってみれば「専門家」や「プロフェッショナルッショナル」「達人」などを表す表現ですが、それぞれの「道」で必要な知識や技術・経験が違います。当然のことですが、「道」を知らない人人にとっては、その道の険しさや極めるまでのプロセスにつちえ、知る由もないことです。それなのに「あの人の技術は」なんちゃらかんちゃら(笑)と自分がその道を究めたかのような発言をする人がいます。私はその手の「えら増人間」が大嫌いです。はい。言わずもがな…ある道を究めようとした人にとって、その険しさを知れば、同じ道を究めようとする人が、道半ばであれば応援する気持ちこそあれ、蔑む言葉は口に出来ないのです。

 自動車の運転を「極める」道を考えても様々な道があります。
F1パイロットになるための道もあれば、タクシーの運転手、バスの運転手、大型トラックの運転手などすべての「道」が違います。必要な技術・知識も違います。
 料理を作って提供する「道」でも、中華・イタリアン・フレンチ・懐石料理・寿司など、すべての「道」が異なります。
 一見、誰にでも真似のでき増な「専門職」であっても、極めようとした人だけが知る「険しさ」があるはずです。家事全般を考えても言えることです。誰にでもできる?いやいや!毎日、家族のご飯を作り洗濯をしたり、掃除をしたり買い物をする「家事」は誰にでもできることではないのです。
「サラリーマン」であろうが「OL」であろうがそれぞれの「道」があります。

 音楽…ヴァイオリンとヴィオラしか(とも言えず笑)演奏できない私が感じる「自分の進む道に必要な技術と知識と経験」があります。
 聴いてくださる方にとって「求める演奏・音楽」があります。
 私が演奏し、表現しようとする音楽に「共感」してくださる人がいれば、本当に幸せなことです。私自身が自分に足りないと思う技術があるように、聴く人にとって別の「不足」があるのは「当たり前」のことです。聴く人が二人いれば、二通りの「求める演奏」があります。演奏者も入れれば3通りです(笑)

 技術の序列や勝敗が、客観的に判断できる「道」もあります。戦術のF1の場合「結果」は順位やタイムです。もちろん、パイロット=ドライバーだけでは勝てません。メカニックとスポンサーが不可欠です。
 ボクシングも勝敗で序列が付きます。勝てば多額のファイトマネーが手に入りますが「死」とも向き合う覚悟が必要です。

 芸術や医学、研究などの場合「序列」がどの程度?明確でしょうか?
 評価は「音楽を聴いた人」「治療を受けた人」が下すものです。選ぶ権利と責任は「聴く人」「患者」にも多分にあります。
音楽なら「聴いてみなければ」判断できません。医療なら「治療を受けてみなければ」判断できません。結果として満足するか?しないか?は、個人によって違うはずです。病気を「完全に」治せたとしても、完治するまでの時間と患者の「苦悩」は一概に比較できません。

「道」は無数にあります。人の数に、無数の「道」があるのです。同じ道はありません。自分の進む道を自分で作るのが人間です。他人の作った道は歩めません。他人の道を「遠回り」とか「無駄」と言う資格も権利もありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学校教育でオーケストラを指揮・指導する

中・高校部活オーケストラ

 映像は20年以上前のものですが、横浜みなとみらいでの中学生・高校生が演奏するカヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲。
 ハープの演奏者だけは「外注」(笑)パイプオルガンの演奏も高校生です。
 今回のテーマは、学校教育にある「特別活動」いわゆる部活動でのオーケストラを指導する際の「コツ」と「留意点」です。

 公立・私立を問わず「特別活動」の目的や主旨は国と地方自治体によって規定されています。好き勝手にできるものではありませんし、ましてや顧問や校長の意向で活動に制限を加えたり、逆に「無法地帯化」することも許されません。さらに、家庭=保護者の理解と同意も必要不可欠です。
 当然のことですが主役は「生徒」です。子供たちの健全な育成が目的です。中学は義務教育であり、高校は違います。さらに、思春期の子供たちです。その多感な時期の生徒に「オーケストラ」という特殊な環境を作るのは「大人」の仕事です。自然に生まれるものではないのです。

「オーケストラの指導は難しくてできません」と言う教員が殆どでした。そういいながら、吹奏楽の指導や合唱の指導は気軽に引き受ける教員が数限りなく(笑)いました。
 音楽への関心もなく、楽器演奏の経験が「ゼロ」でも顧問を引き受けなければいけない立場なのが「教諭」という職業です。「校務分掌」つまりは「業務」として顧問をすることも教諭の仕事なのです。

 オーケストラに限らず合唱や器楽演奏の部活動を指導・指揮するのであれば、最低限の知識と技術は身に着けるべきです。それが校務分掌であるなら、給与に含まれる業務なのですから。

 前提として、もし指導者自身が義務教育レベルの音楽知識・楽器演奏技術しかない=楽譜が読めない・リコーダーしか演奏できないのであれば、まずは生徒の安全管理だけしかできないと思ってください。「知った振り」で生徒に間違った指導をするのは「百害あって一利なし」です。練習内容・時間・運営・指揮。これらは「音楽」の基本です。「命にかかわらないから」という安直な考えで、音楽系の部活動指導は絶対にすべきではないのです。ラグビー部の顧問を命じられて、ルールも知らずに生徒に指導しますか?ワンダーフォーゲル部の顧問が、山の怖さを知らずに生徒を引率しますか?それと同じことです。

 本題です。
1.楽器の構造と扱いを学ぶ
2.楽器ごとの練習方法を学ぶ
3.合奏に必要な技術を学ぶ
4.指揮法の基本を学ぶ
5.楽譜の基礎知識を学ぶ
6.生徒のモチベーションを維持する方法を学ぶ
ざっと挙げれば上記のような「学習」「研究」が必要です。
 オーケストラには数多くの種類の楽器が含まれます。それらすべての楽器を「完璧に」演奏できる人間は恐らく地球上に一人もいません(笑)さらに言えば、指導者自身が「何の楽器も演奏できない」人であっても、知識を身に着け経験を積めば、オーケストラの指導は十分に出きるのです。「楽器ができない」からと言って、なにも学ばなければ指導は不可能です。

 上記の1~6の項目を同時進行で行います。
もちろん、段階があります。短時間に身につくものではありませんし、オーケストラ自体も「1」から大きくなっていくのです。
 私の経験を簡単に書いてみます。


1.私立新設校で男子校にただ一人の音楽教諭として採用されました。
2.開校準備の段階で「音楽部顧問」を任命され活動内容は一任されたので「オーケストラをつくる」ことにしました。
3.初年度購入備品を事務局に提出する段階で、通常授業以外の楽器=オーケストラの楽器購入について、3年計画で計上することになりました。(あまりに高額だったので)
4.初年度はコントラバス1・ティンパニ2・チューバ1・ヴィオラ1・チェロ1.ファゴット1・ピッコロ1・ドラムセットを購入しました。これらの楽器をまず優先して購入することで2年目に「吹奏楽にしろ」と言われることを回避できることと、生徒が購入しにくい楽器から揃えることが目的です。
5.開校時、部員は中学生5名高校生6名、合計11名でした。中にヴァイオリンを習ったことのある中学生1名、中学時代に吹奏楽部でフルート・サックス経験者が各1名。それ以外は「楽器初めて」の男子でした。
6.それぞれの生徒の希望を優先し楽器を貸し与えました。楽器が余る状態でしたが次年度も楽器の購入を計上しました。
7.開校から3年目に全学年(中1~高3)男子生徒が揃った時、オーケストラには60名ほどの男子部員がいました。3管編成オーケストラに必要な楽器はほぼ、買い揃えていました。
8.案の定、法人の理事長から呼び出しを受けました。横浜の高級料亭で「吹奏楽部に何故しないのか?」と迫られましたが、私には吹奏楽指導は出来ませんと伝え(クビか?と思いました)認めてもらいました。
9.学校の管理職と取り巻き教員からの嫌がらせ=音楽部排除計画に真っ向から戦う日々となります。外部からの指導者=コーチの採用は認められず、中学生の合宿も認められず、入学式・卒業式での演奏も認められないという不合理な方針と闘いました。
10.生徒の「やる気」を引き出すための工夫と、部員を確保するための「新入部員勧誘」、さらに定期演奏会の入場者数増加が毎年の頭痛の種となります。
11.全校生徒数、1200名の学校で、150名の部員を束ねながら、中・高授業と校務分掌を同時に行いながら常に「オーケストラ」を中心にした勤務でした。
12.学校から部活動への予算は「生徒会費」からの毎年1~2万円。楽器のメンテナンス費用のために「部費」を月に500円集めることにも学校はなかなか認めませんでした。
13.生徒の楽器は生徒に購入してもらうことを保護者会で理解を求めました。難しい生徒には学校の楽器を貸与しました。
14.全部員が揃う「合奏」は週に1日だけ。その他の日は「自由に練習」できる体制を続けました。
15.「対外的な結果を出せ」と言う嫌がらせ要求に応えるため、テープ審査のコンクールに参加し文句を言わせない結果を残しました。
16.高等学校文化連盟などに加盟することで対外的な活動を学校に認めさせました。
17.部員には「年功序列」を体感させるため、1学年下の部員を「先輩」が指導する体制を作りました。
18.一方で「やる気」があれば「下剋上」ができるよう「トップ」を希望する部員には、全員の前で指定された部分を演奏する「勝負」で席順を決めさせました。
19.選曲や当初の席順はすべて、指揮者が独断で行いました。
20.生徒が生徒を指揮する曲は演奏会の「1曲」だけで、開校5年目から毎年演奏し続けた「コーラスラインメドレー」だけに限定しました。生徒がオーケストラを指導することは不可能です。「指揮」は出来ても「指導」はできません。それを勘違いしないことが重要です。

 長々と「実話」を書きましたが(笑)、すべての学校で環境が違います。当然、生徒の個性もあり「地域の文化」も違います。
 そんな中でもオーケストラの活動は出来るはずです。大編成でなくても、10人いれば立派なアンサンブルです。その10人が卒業するまでに15人になり、やがて50人になるのです。それが顧問の仕事です。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術になぜ?個人差があるのか?_

映像は国際コンクールで優勝し誰からもその技術の高さを認められている日本人ヴァイオリニスト三浦文彰氏の映像です。今回のテーマは「技術の差はどうして生まれるのか」という素朴な疑問について考えるものです。
 結論から言ってしまえば「努力の内容と量の違い」という当たり前のことになりますが(笑)、うまくなりたいという気持ちがある人にとって「超えられない山」なのかもしれません。

 演奏の好き嫌いとは別に「技術力」は様々な方法で科学的に比較できます。人間の聴覚は極めて曖昧なものです。
同じ人間が同じ大きさ、同じ高さの音を聴いても聞こえたり聴こえなかったりするのが普通です。パニック状態になれば、どんなに大きな音も「音」として認識できなくなるのが人間です。ですから、人間がいくら頑張っても「科学的な比較」としては演奏技術を比較することは出来ません。

 ヴァイオリンの演奏技術を「分析」する賭したら、どんな項目があるでしょうか?
・楽譜に係れている音の「高さ」
・楽譜に係れいる音・休符の「長さ」
・音量の幅=ダイナミクスの大きさ
・練尾の安定性とバリエーションの豊富さ
・正確に演奏できるテンポの速さ
上記の中で「音色」に関するものが最も分析の難しい項目になります。音色の分析には「含まれる音の周波数と波形」を分析することになります。何度も言いますが「好み」の問題ではありません。あくまでも「数値化できる項目と内容」の話です。

 大雑把に言ってしまえば
「速い曲を間違えずに演奏できる」
「汚い音=演奏者が意図しない音をださない」
「静かな曲もどんな曲も美しく(笑)演奏できる」
美しいという言葉が科学で証明できないのですが、違う言い方をすれば「誰からもケチの付けられない=減点されない演奏」だということです。

 さて本題です。どうして?これらの技術に差が生まれるのでしょうか?
「才能だ!」と切り捨てるのは簡単ですが「才能って何?」が結局のところ、今回のテーマになるわけです(笑)
「じゃ、環境だ!」はい。それは確かに大きな要因になります。両親が演奏家だったり、いくらでも練習できる環境だったりと「うらやましい」と思われる環境の人もいます。楽器の練習ができない環境で技術を身に着けることは不可能です。一方で音楽の学校に進学できた人の中で、練習できる環境が同じでも技術の習得に差が表れるのも事実です。「それまでの環境」人によって育つ環境が違うのは当然です。ただ音楽の学校に入学できる一定のレベルがある人たちが、その後に修得する技術が違うこととは直接関係ありません。

 趣味の楽器演奏でも、国際コンクールに出場する人でも「技術さ」が生まれる原因は「練習の質と量」以外の要因は獄わずかだと思います。
「練習の質=内容」と「練習量=毎日の連中時間・トータルの練習期間」を合わせたのが「練習」であり、sの結果が技術の主六の違いになるものだと考えます。
 先述の通り、練習時間が仮に「ゼロ」であれば、技術の習得も「ゼロ」ですが、内容が「ゼロ」であっても結果は「ゼロ」だと言えます。
 むしろ「練習量=時間」は時計があれば図れますが、内容を測ったり比較することは困難です。

 練習の質=内容は、先述の「技術」の項目で書いたようなことを「できるようにするための内容」です。
「速く正確に美しく演奏する」ために「聴く能力」と「体をコントロールする能力」の両方を高めることが必須になります。どちらも「正確な演奏」には不可欠です。いくら耳が良く反応が速くでも、運動能力が低ければ再現性は望めません。元より音を聞き分ける「耳」がなければ、正しいか?間違っているか?を判断できません。


音に対する反ぬお速度と制度・筋肉や関節を正確に動かす運動能力。どちらも「あるレベルまで」は多くの人が到達します。さらに厳密な「制度」と「再現性」を身に付いtた人たちと、何が違うのでしょうか?
 これはスポーツの記録でも言えることですが「小さな違いの積み重ねの違い」なのだと思います。
 同じ練習メニューで、一人一人の筋力に合わせた加賀的なトレーニングをした場合「結果・効果」を数値化することは出来ても、その人の「感覚」は数値化できません。
脳波を取ることで「苦痛」「痛み」などは検知できます。
瞬間的に「何を考え・どうしようとした」ことまではデータに現れまS年。「思考」つまり脳の働きは最も分析が難しいジャンルです。
 おそらく練習中の「思考」が技術の習得を左右していると推察できます。「何も考えない」で練習しても上達は望めないということです。
 練習中に考えていること=注意していることを、すべて言語化することは不可能です。むしろ「無意識に考えている」からです。その思考を集中できる時間の長さが長ければ、より高い技術に到達すると思われます。
 同じこと(例えばピッチ)に集中して練習したとしても、同時に注意する内容(音色や音量など)をどの割合で、どの位集中しているか?は人によって違います。
結果として「同時に集中できる項目」の制度を高め、集中を持続させることも「能力」の一つです。
 結局「脳の働き」に左右されていることになります。
持って生まれた身体的な特徴や、脳の働きもありますが「訓練・練習」によって伸ばされる能力の「差」こそが、技術の違いです。
 と、思っていてもうまくなれないのが現実ですね(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

政治・経済と音楽

 私達のように音楽に関わって生活する人たちの多くが「政治に関心がない」ことを痛感します。まして「経済」に関しては「学問」だと思い込んでいる音楽家がいます。
 どんな職業であれ「sy会」という集団組織の中で生きていく以上、その組織…例えば国の政治と経済活動の中で生きていることに違いはありません。
 分かりやすい例えで言うなら、国全体が「戦争」状態にある時には「生き残ること」が最も難しいことになります。政治家は国民一人一人の命を守ってくれる「スーパーマン」ではないわけで、むしろ国民の命より国としてのメンツや政治家個人の地位・権力を優先居ます。
そんな中で優雅にコンサートを開けるはずもありません。
 経済活動が息詰まれば、戦争中と同じように自分と自分の家族が「生き残る」ことを第一に考えるのは当たり前のことです。この位の事なら音画家でも理解できるはずです。

 音楽家は「自分の考え」を大切する職種です。他人の考えに口を挟まないことも「素敵な音楽」として評価されます。だからなのか?音楽家の多くは政治に対して声を挙げたがりません。もちろん、声を出すと生活できなくなる人も音楽家の中には多くいます。「サラリーマン」あるいは「仕事を受ける立場」で、雇い主やクライアントに「たてつく」声を挙げられないのが現実です。

 音楽を演奏することは「自由」を象徴する行為だと思っています。これも極端な例ですが、戦争になり強制的に軍隊に徴兵され「軍歌」を演奏しなければ銃殺される状たちなら心を無にして演奏して生き延びることも必要です。
その軍歌演奏に「自由」はありません。
 戦争でなくても、生活することがやっと…という社会の中で、音楽家が演奏して生き残れると思う人がいるでしょうか?すでに日本はその状態になりつつあります。
ほんの一部の富裕層だけが贅沢な暮らしをし、ほとんどの国民は5円でも安い食パンを買うために遠くまで買いに行く生活をするのが「今の日本」です。見栄を張って「私は普通に生活している」と思いたがるのも日本人の国民性です。私たちが幼い頃「ウサギ小屋」と海外から笑われる小さな団地でも、幸せに暮らしていたのも「国民性」の現れです。そこから成長し続けていた日本で私たちの世代は育ちました。ところが、30才を超えた頃から一気に日本は衰退し始めました。それが30年間、今も続いています。
「いつかよくなる」「誰のせいでもない」「我慢できる」
そんなお人よしばかりの日本人。
 音楽家が生きていける日本は、何も声を挙げなければぜったに戻ってきません。
 私たちは知っているはずです。一人dd出来ないことがオーケストラならできることを。アンサンブルは誰かと一緒に行動することだということを。他人に任せて自分の音楽が良くならないことも知っているはずです。

 政治が腐敗する原因はただ一つです。
国民が政治に無関心になった時です。まさに今の日本がそれです。「野党がだめだ」「投票しても無駄だ」「どうせ変わらない」それこそが自滅行為だということを知るべきです。世界で今、一番「沈んでいる国」が日本だと知っていますか?
 自分の自由を守るために、自由を奪う政治家を「選挙で落選させる」ことができるのは、私達だけです。
社会主義?共産主義?違います!
音楽を演奏できる主義です

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供の成長と音楽の関り

今回のテーマは私自身の経験をベースに考えるものなので「正論」とは言えないものです。その点を踏まえてお読みください。

 一言で「こども」と言っても幼児期もあれば思春期も「こども」です。一人一人、環境も違い体力、能力、個性も違います。
他人と比較してしまうのが、人間の「つまらない知恵」です。「他人と協調する」こととと混同する人が多いのも事実です。

幼児期は特に「成長速度の違い」が大きく表れます。また、同じ家族でも兄弟姉妹がそれぞれに異なった能力、性格を持っています。
ましてや、違う環境で育った幼児が同じような能力を持つことはあり得ないことです。
「できる・できない」や「はやい・おそい」で子供の成長を比較するのはあまりにも安直で、なんの意味もありません。
歩くこと、走ること、読み書き、計算など幼児期に「出来るようになる」事は誰にとtっても「通り道」かも知れません。ただ、それが遅いとか、どれかが出来ないという事で「劣っている」と考えることが間違いなのです。人間の「乳児」は誰かの手を借りなければ成長できない弱い生き物です。ハ虫類の生き物や昆虫のような生きものよりも「生存力が弱い」とも言えます。
 幼児期に大切なことは大人が「保護すること」と「知的な刺激を与えること」です。
その中に「音楽」と言うひとつの「刺激」もあります。音を感じることのできる子供であれば「人の声」を他の「音」と聞きわける本能を持っています。そして「音」と「音楽」の違いを感じるのも「知性」を持つ人間の子供ならではです。
 音楽を「演奏する」ことの面白さを意識できるようになるのは、言葉を発することで自分の意思を誰かに伝えることの「面白さ」を実感できる時期です。それより前の乳児では、痛みや空腹、不快感を感じて「泣く」ことと、快感を感じて「笑う」ことしかできません。音が連続して聴こえる「音楽」も恐らく感情を査収することはないようです。

 歌を歌う。音楽にあわせて動く(踊る)。この行為にも個人差があります。環境でも変わります。歌を歌う「環境」が多ければ歌うことが好きになる可能性も増えます。音楽に合わせて動いたり踊ったりすることも同じです。その環境を作れるのは、子供の周りにいる大人です。
 楽器で音を出し、音楽を演奏する「能力」は、幼児が言葉を理解し記憶する時期に最も効果的に「学習」できます。当然のこととして「個人差」があります。言葉を理解することも、文字を読んだり書いたりすること個人差がるように、音楽の学習能力にも個人差があります。

 この幼児期の「学習経験」はその後の段階「思春期」にも関わります。自我に目覚め、他人と自分を比較することを覚えます。「どうすれば他人に勝てるか」を考えるようになります。そのための「努力」が必要なことも理解するようになります。自分を高めること=自分の弱さを認めることができるようになるころに、やっと思春期が終わり「成人期」に入ります。
 中学生・高校生の頃を「思春期」だけだと思っている人もいますが、人によってはすでに「大人」の意識を持てる子供もいます。
言うまでもなく、自分を観察することが一番難しいことです。
「勉強ができない=成績が悪いから、塾に通う」子供を見ると、その向こうに親の考えが透けて見えます。塾に通えば学校の成績が良くなるでしょうか?そもそも、学校の成績が悪い原因を考えればわかることです。
学校に行くことが「嫌」な子供もたくさんいます。理由も様々あります。友達が嫌いだったり、先生が嫌いだったりと「嫌な場所」であれば、行きたくないのは自然なことです。理由も確かめず「とにかく学校へ」と言うのは子供の生命にさえ危険を及ぼします。
 学校で勉強しなくても勉強はできます。むしろ、学校以外で勉強したほうが「学習」できる子供もたくさんいます。塾に行けば成績があがると思うのは「迷信」です(笑)
 楽器の演奏技術を「楽しみながら高める」体験をした子供は、どうすれば勉学の成績を上げられるかを「無意識に」学びます。
 ただ楽器で音を出すだけでは曲を演奏できないことを「体験」します。さらに、考えて練習すれば上達することを「体験」します。まさに勉強法と同じです。

 演奏能力を高めたいと言う「意欲」を、他に転用することは簡単です。意欲がなければ上達や向上することは不可能です。
 意欲があっても「成功体験」がなければ、欲を実現=具現化することは不可能です。
 曲を間違えずに演奏できるようになる「練習」を積み重ねた経験が「成功体験」なのです。しかも音楽には「100点」はなく「終点」もありません。だから常に上を目指せるのです。テストで100点を取れば、どんな子供でも喜びます。ただ、その後も100点を取り続けることは「重荷・ストレス」になります。

 大人は自分の経験で子供を育てたがります。自らの成功体験と失敗体験を、子供にも当てはめたがります。そういう私自身もその一人です。だからこそ「子どもの個人差」をまず第一に優先することが重要です。たとえ自分の子供であっても、自分とは違うのです。一人の子供に当てはまったから、違う子供にも当てはまるとは限らないのです。自分の子供を育てるのは、すべての親にとって「初めての体験」なのです。だからこそ、自分の子供にだけは、他の子供とは違った「欲」を持つのです。

 子供の能力を信じることだけが、親の務めだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

あなただけの楽譜を作ります

 映像はアザラシヴィリのノクターンをヴィオラとピアノで演奏したものです。
 個人で演奏を楽しむ人たちにとって、楽譜の入手はとても難しいものです。自分の技術で演奏できるのか?と言う疑問があったり、YOUTUBEで視聴して「いいなぁ」と思っても楽譜が手に入らなかったり。
私たちも実際に演奏する楽譜を探すために多くの労力を使います。
 自分で演奏するための「楽譜」を自分で作りたくても、聴音の技術がなければ楽譜には出来ません。演奏しやすい楽譜を手書きで書くのはもっと難しいことです。
 そんな方のお力に慣れれば…と思います。
あくまでも「あなた自身が演奏して楽しむ」だけの楽譜です。自分で楽譜を書く代行をするだけですが、お役に立てるでしょうか?
 お気軽にコメントをしてください!

ヴァイオリン選定

 写真は私が現在も愛用しているヴァイオリンと、2011年に陳昌鉉氏から直接譲り受けたヴィオラの写真です。
 今回のテーマは「楽器」を選ぶことの難しさなどについて。過去にも何度か取り上げたテーマですが、ヴァイオリン愛好者の数だけ「楽器」としてヴァイオリンが存在します。そしてその楽器を選ぶまでの物語も、楽器の数だけ生まれます。

 現在、私が営むメリーミュージックは「楽器店」であり「音楽教室」でもあり「音楽事務所」でもあります。有限会社メリーミュージックが正式な名称です。
 この会社を始める以前は、学校の教員として部活でオーケストラを楽しむ生徒たちが使用するヴァイオリンを本数にして約200丁以上、選定してきました。当然のことですが教員時代は、学校取引業者である楽器店が生徒の家庭へ販売するだけで、私は選定するだけで「一線も」金銭を受け取っていません。受け取ればそれは「裏金」ですから。

 さて話を現在に戻します。ヴァイオリンを購入する人のほとんどは、楽器店で楽器を色々と見たり演奏してみたりして「購入できる金額」で「一番気に入った楽器」を選びます。例外的に知り合いなどからもらったり、買い取ったりすることもあります。
 「金額」については、人それぞれです。
ヴァイオリンをこれから始めようとする人でも「最初のヴァイオリン」にいくら?支払えるかは千差万別です。
 ヴァイオリンの価格には定価がないのが普通です。ピアノや管楽器と大きく違う点です。なぜ?定価がないのかと言えば、二つの理由があります。
1.製作者が生きている場合には、製作者との「最初の取引価格」が交渉で決まります。当然、変動します。決まった金額はありません。
2.製作者がなくなっている場合(古い楽器)の場合には「市場価格」つまり実際に販売された金額が相場になり、常に変動します。
 大量生産ができるヴァイオリンのヴぁ愛には定価がある場合もあります。大きな工房や工場などで、分業制・機械化などで量産するヴァイオリンの場合には「メーカー希望価格」があります。とは言え、それらの楽器でも個性が大きく違い、同じ楽器は2本存在しません。「同じ型番・同じ金額」でも個体差が非常に大きいのが実状です。

「自分の好み」で楽器を選ぶのですが「見た目」も大事な要素です。それ以上に「楽器の音色・音量・重さ・大きさ」の好みが優先します。その違いを購入する本人が実際に手に持って、音を出して選ぶことがまず何よりも大切です。その意味で「通販」で購入することは絶対にありえないことです。実際に見て、触って、弾いてから決めなければ後で後悔することになります。
 自分で演奏する「技術」の中でしか楽器は弾けません。違う人…自分より技術の高い人が演奏したときにどんな?音が出るのかを知ってから決めるべきです。

「価格」「楽器の音」を考えた時、複雑な問題があります。
ヴァイオリンの指導者が生徒さんに楽器を「斡旋」する場合を考えます。指導者が通常のモラルを持った人間であれば、生徒さんが楽器を購入することと、レッスンをすることを分離して考えます。生徒さんが「御礼」をすることは悪い事だとも思いませんが、それも常識の範囲でのことです。
情けないことですが、楽器店かrあの「斡旋料=リベート」を求める指導者も存在するようです。楽器店にすれば当然、その金額を楽器の代金に「上乗せ」しなければ利益が減ってしまいます。購入する生徒さんはそのことを知らされていない場合がほとんどです。
考え方を変えれば「製作者」と「中間業者」と「販売業者」がそれぞれに利益を出すのは、資本主義の世界では当たり前のことです。指導者が「販売者=小売業者」なら、その原理は当てはまります。しかし指導者が「指導の対価」以外に利益を得る場合、それがどんな性格の収入になるのか?が大きな問題です。音楽の学校で教えている立場の指導者が「リベート」を受け取るのは、多くの場合に学校との契約や、社会的な問題となります。個人のヴァイオリン指導者の場合には、収入の科目を明確にして税務署に申告する義務があります。だからと言って、正との立場で先生の税務申告まで調べる人はいませんよね(笑)

 楽器を「販売」することを楽器店として行い、選定をヴァイオリニスト、指導者、楽器店の人間として行う事で「ガラス張り」にしたのが私のメリーミュージックです。
 小さな楽器店で在庫を持つことはしません。生徒さんの要望があってから、初めて選定対象の楽器を色々な業者から「借りて」選定します。生徒さんにも演奏してもらい、私もピアノと一緒に演奏して生徒さんに聞いてもらいます。その上で「妥当な金額」「支払いできる金額」の楽器なら購入してもらのです。
 購入する人が納得できる「選定」と「購入」を考えるのも自分が素晴らしい楽器に巡り合えたからです。
 楽器との出会いは、人との出会いとよく似ています。ただ、楽器は自分を自分で紹介できないのです。だからこそ、紹介してくれる「仲人」が必要になるのです。私はそんな仲人になりたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・楽器店経営者 野村謙介

ヴァイオリンのススメ

 動画はメリーミュージックに幼稚園の頃から通い続ける生徒さんへのインタビュー動画です。以前にも紹介しましたが、今年の3月からは東京大学大学院に進み、研究を続けるとのこと。素晴らしいですね。
 この生徒さんが初めて教室でレッスンを受けたころ、まさか!将来がこんな状況になるとは想像もしませんでした。
 インタビューの中でも彼が話していますが「ヴァイオリンを習い始めたことが」が今の状態につながっていることがわかります。
 ヴァイオリンを練習することと、学業(いわゆる勉強)とのか関連について、多くの人が文章や動画にしていますが、実際に「ヴァイオリンと勉強の両立」をする生徒さんの実話は、説得力が利害ます。

「勉強ができるような子供だから楽器も上手に弾ける」という話は、半分当たって半分は間違っています。勉強が出来ても音楽に興味のない子供もたくさんいます。楽器の演奏技術はずば抜けていても、学校の勉強はきらい!という人もも当然たくさんいます。
 中学・高校で音楽の教員をしていた時代にも、楽器の演奏と拓行を両立していた生徒をたくさん受け持ちました。学年の成績上位者のほぼ全員が、部活動でオーケストラ演奏していたことも事実です。もちろん、オーケストラに打ち込む生徒の中には「勉強嫌い」という生徒も多くいました。

 3才4歳の幼児期から「ヴァイオリンを毎日練習する」という習慣を身に着けることは、意外かもしれませんが「誰にでもできる」ことなのです。
 子供の才能?違います。「親子との共同作業」なのです。家庭環境の寄っては、子供が自宅でヴァイオリンの練習をする時間を、家で一緒に過ごせない場合も珍しくありません。幼児の毎日の練習は「短時間」で良いのです。
それが15分でも20分でも「毎日欠かさず練習する」だけです。
親が子供の「成績」を気にしだすのは、いつごろでしょうか?
恐らく小学校高学年、もしくは中学校になってからではないでしょうか?
 学校の授業は「学校にいる時間に学べる範囲」であることが原則です。ヴァイオリンは?自宅で練習することが上達の前提であり、レッスンだけで上達することはありません。つまり「自学」する習慣を幼いときから身についけるためにも、ヴァイオリンの練習は大いに役立ちます。
難関校を受験する子どもたちは、学校で習う内容以上のことを塾で学びますが、むしろ「自学の仕方」と「必要性」を体感することが塾の目的です。学習する「方法」と「意義」を子ども自身が理解すれば、意欲も向上します。

 私は高校から音楽学校に通った人間です。普通高校に通う人と違い、楽器の練習をする時間に一日、1年の殆どの時間を使います。数学や物理、英語などのの授業もありましたが「単位が取れればOK」でしたので、自宅で教科書を開いた記憶は一日もありません(笑)が、楽譜を見なかった日は一日もありませんでした。
 勉強もヴァイオリンも「自分の意志で学ぶ」ことしか向上しません。幼いときからその経験を積んだ人にとて「覚える」「考える」「再現する」ことは日常のことになります。それらが学業や仕事にも大きく関わります。
「趣味だから上達しなくていい」と言う考え方は、初めから上達することを目指していないことになります。
 楽器演奏の上達には「頭と身体」そして「内容と時間」が絶対に必要です。勉強も仕事も同じことが言えます。「東大を目指す!」と言いながら一日中ゲームをしていて叶うはずがありません。ただ机に向かっていても中身がなければ無駄な時間です。
ヴァイオリンを習う事で、学習の補法を体で覚えることができます。大人も子供も「学ぶこと」が生きる上で一番大切なはずです。
 ヴァイオリンを習ってみませんか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

40年経って変わること・変わらないこと

 ヴィタリ作曲「シャコンヌ」です。上の動画は今年1月に演奏したもの。下の動画は40年前の演奏。

 使っているがヴァイオリンは同じです。ヴァイオリンを弾いている人間も同じです。
 ピアニストと解錠は違います。
共通して「不安定」です(涙)
音楽から感じているものは変わっていないようです。テンポや音量、歌い方は微妙に違いますが「やろうとしていること」は変わっていません。
 40年経っても「好み」は同じだという事かも知れません。もっと技術的に成長していてほしかった(笑)
 音楽を「感じる」感覚は人によって違いますが、時が経っても変化しないことを実感しました。
 ただ演奏を聴いてくれる人にとって、この二つの演奏の「違い」は明らかにあるはずです。より「好き」な演奏もあると思います。
 自分の技術が足りないと感じることがあっても「感じること」だけには誇りを持つべきですね。
 あなたはどちらの演奏がお好きですか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を歌い分ける技術

 中森明菜さんの「駅」好きです(笑)理屈なくすごいと思います。
それを無理やり言語化します。←やめとけ(笑)
 歌手も演奏家も「役者」です。普段の生活、考え方、性格を「音楽」で包み込み、見る人、聴く人を「引き込む」のが仕事です。聴く二兎にとって、演奏する人は音楽の向こう側にいる「偶像」で良いと思います。
 音楽によって表現方法を変えるのが「技術」です。そんな意味でも中森明菜さんが様々な音楽を歌い分ける技術に、ただ驚くばかりです。
 「クラシックは違うんだ!」とは思いません。アレンジが変わるだけで音楽は変わります。楽器が変われば音楽が変わります。
 楽譜は音楽ではありません。「記号」であり「設計図」です。それを「音楽」にするのが演奏家です。楽譜がなくても、音楽は生まれます。
楽譜の通りに「音を出す」だけで音楽になるのではありません。
むしろ「音」を音楽にすること、そのものが「音楽」だと思います。
 言葉や音符を「音楽」にする技術は、前提として演奏者の「感情」があってのものです。「こんな音楽にしたい」という欲求や、自分が演奏する音楽で自分が感じる「感情」があっての技術です。
・技術が豊かであれば、感情の幅も大きくなります。
・感情が繊細であれば、技術も繊細になります。
感情のない演奏は「無機質」です。
 やっぱりあきなちゃんはすごい(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の基本は「点」

 私たちは3次元の世界に生きています。「縦・横・高さ」簡単に言えば「立体の世界」です。「1次元」は「点」だけの世界です。当然動きはありません。
 もう一つの「時間」という概念で考えると、秒・分・時間・日・週・月・年などの単位で表されますが、日常生活で「秒」よりも小さい単位の時間を意識することはありません。「一秒間に〇△回の動き」と言う言葉を機ことはあります。例えば、空気が一秒間に442回振動する音が「A」と言う使い方があります。メトロノーム記号で♩(四分音符)=120と書いてあれば、一秒間に2回♩が演奏される速さを表しています。

 上記の二つ「動き」と「時間」を組み合わせて考える時、「一瞬で止まる」とか「突然動き出す」という表現ができます。また「少しずつ速く動く」「だんだん遅く動く」とも言います。
 動きを「止めている」状態で「一秒間」待つ場合、動きは「点」であり、時間は「一秒間」です。
 一秒後、「動き出す」速度が速くても遅くても、動き出す「瞬間」が存在します。時間の「点=瞬間」です。
 動き出して=音が出始めてから「一秒後」に運動を「止める」場合、だんだん遅くなっていも突然止まったとしても「境目」があります。これも「点=瞬間」なのです。

 要するに「動き」には「静止」と「動き」があり、時間には常に「点」が存在することになります。時間が止まることはないのです。常に「時」は動いています。sの細かさをどれだけ細かく感じられるか?が大きな問題になります。時間の点=瞬間を意識するためには、その点の「前」に点を意識することが必要になります。聴いている人には「突然の瞬間」でも、演奏する人には「準備して決めた循環」なのです。
 音を出す瞬間・音を止める瞬間は、常にすべての音に存在します。レガートの途中の音であっても、無音の状態から最も小さい音で演奏し始めても「点」は存在します。
 「音を出す仕組み」は楽器によって違います。ヴァイオリンの場合は「弓の毛が弦を擦って動き出した瞬間」に音が出始めます。ピチカートなら「弦をはじいた瞬間」です。
弓で音を「止める」点もあります。弓の動きを「止めた瞬間」と「反対方向に弓を動かす瞬間」です。多くの生徒さんは「弓を止める」ことに意識がありません。また、運動を「止める」事がうまくできないのもアマチュアによく見られ宇ことです。「弓を動かし始める点」と「弓を止める点」を両方とも意識することです。

 音を出し「始める=動き出す」「終わる=止まる」「瞬間」を予測し、必要な準備の運動を「いつから?」始めるのかを考えることです。この「いつ」も時間です。音が出るよりも前の時間=瞬間から準備の運動が始まります。
 指揮法で言えば「直接運動」です。腕(指揮棒)が動いた瞬間にオーケストラ音を「出す」運動です。そのために点を「予測させるための静止るる時間」が必要になります。「先入=せんにゅう」と呼ばれます。演奏にも同じような「法則」を考えていけば、思った時間に思った音が出せるようになっていきます。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏家が後世に残すべきこと

 生き物は必ずいつか「死」を無噛めます。
人が生きている間に「物」として残す「物」もあります。絵画や楽譜がその一つです。
演奏は?形もなく手に触れることもできない「無形」な音の芸術です。録音することができるようになる「以前」から演奏は行われてきました。それらの演奏を今、聴くことは出来ません。それでも「パガニーニの演奏は〇△だった」と言う、文字の記録だけは残っています。どんな人の演奏であっても、まったく同じ演奏を再現することは不可能です。
ましてや、他人が誰かの演奏とまったく同じ演奏をすることは絶対に不可能です。
 どんな演奏であっても、その演奏を「聴く人」にとっては、唯一無二のチャンスであり貴重な体験になります。
 より完璧な演奏をしたいと思うのは、自然なことです。多くの人が「素晴らしい」という演奏を「一流の演奏」「名演奏」と称賛するのも間違っていません。
 演奏家が演奏する「音楽」はその場で消えるものです。その演奏を、直接聴くことができる人は限られています。それは昔も今も変わりません。
 一部の階級の人だけが演奏を聴いて楽しめた時代もありました。貴族や皇族、教会だけで演奏される音楽もたくさん残っています。それは「楽譜」が残っているから可能なのです。そして「演奏技術」が伝承され、楽器作りの技術が伝承されているから、今もその楽譜を演奏できるのです。
 演奏技術を構成残すのは、誰の役割でしょうか?紛れもなく演奏家です。伝える方法は様々です。
1.自分の演奏を聴いてもらって伝え残す。
2.弟子に言葉や行動で伝え残す。
1.で伝えられることもたくさんありますが練習の方法や「考え方」までは伝えられません。
2.を「レッスン」「教育」という形で考えると、演奏の時間を削ることになります。

「一流からしか一流は育た谷」という考え方もあります。確かに二流の芸しか出来ない人に、一流の劇を伝えることは不可能です。
 では「一流の人だけを育てる」用とするのは、正しい事でしょうか?
だれでも最初は「二流」です。と言うより「初心者」から始めます。特殊な才能を持った人だけを選抜して育てる…無理だと思います。そもそも人は全員「違った能力」を持っている生き物です。「才能を育てる」と言う言葉には大きな疑問を感じます。それを言うなrあ「個性を伸ばす」というべきです。
 一流の演奏家・指導者に習っても、二流に歯科粗朶だたなかった「私」が書いても説得力が無いかもしれません(笑)が、私の周りにいる「一流」の演奏家と私の「違い」は、恐らく「努力の差」しかないと思うのです。才能がある、ないの差ではないと感じています。
 一人でも多くの人に「演奏する楽しさ」「希望」「夢」を残すことも、演奏家の役割ではないでしょうか。
 一流の演奏家が、普段演奏している「仲間」よりも優れた演奏家と「コミュニティ」を作って「悦に入る」姿、その演奏に私は魅力を感じません。そこまでするなら、生活の拠点を、その「コミュニティ」に変えるるべきです。「超一流」だけが集まる演奏集団を「素晴らしい」と言うのであれば、「普通の一流」の演奏は不要なのでしょうか?
 自分や自分たちが受けることのできた、音楽教育を、自分が教える側になって子供たちに教えることを、もしも演奏家全員がやめてしまえば、演奏家はいずれいなくなります。
「指導は二流の演奏家がやることだ」と言うのであれば、この先一流の演奏家は生まれないでしょう。
 芸を授かった人間は、その芸を延焼することが「恩返し」だと思うのです。
習う環境、教える環境を作ることが出K理るのも「一流の演奏家」ではないのでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指導する側・される側

久しぶりの投稿です。
「指導」と言う言葉は一般的に、子供が家族などから日常的な事を学ぶ事柄とは違うものとして理解されています。学校で先生から学業を「習う」ことは「指導」の一つです。法的に「指導要綱」「指導要領」と言う言葉が学校教育で使われている事もその証です。
 ヴァイオリンやピアノを学校外で「習う」場合も「指導」の一つです。
「ヴァイオリン指導者」と言えば、ヴァイオリンを誰かに教えている人を指しています。指導を受ける人は「生徒」や「弟子」「門下生」などと呼ばれます。
小学校に通うう子供は「児童生徒」、中学・高校では「生徒」大学の場合は「学生」と呼び方が変わります。学校以外の習い事では主に「生徒」弟子」「門下生」などと呼ばれますが、共通するのは「指導者から学び取る」のが指導を受ける側の立場であり「学ぶ意志がある」ことが前提です。
 本人が幼く「学ぶ」「習う」と言う意味や本質を理解していないことは珍しくありません。かと言って「保護者が習う」ことでもありません。
大人が自分の意志で学ぶ場合なら、指導する人への礼儀や態度、言葉遣いは「常識」としてわきまえているはずです。幼児の場合には親が子供に「教えていく」のが礼儀であり当然のことです。

 指導する人も「元は指導された人」です。自分が受けた指導がベースになる場合と「反面教師」になる場合があります。それも普通の事です。
 問題は指導を受けた自分の印象や結果は、あくまでも「自分だけ」の事だという事です。自分以外の人にとって、同じ指導を受けたとしても違う印象や、結果があったはずなのです。
 要するに「自分が良いと感じた指導」だから、他の人(生徒や弟子)にも良いt者だとは限らないという事です。その逆も当然あります。
 例えて言えば、些細な事にも厳しい指導をする指導方法が「良い結果」を生む場合と「悪い結果」を生む場合があるのも事実です。いわゆる「スパルタ」で指導した場合に、指導された側が「暴力を受けた」と感じる場合と「当然のことだ」と受け入れられる場合があります。
「ハラスメント」を直訳すると「悩ますこと、いやがらせ、悩み(のたね)」です。
先述のように、指導者された側が「嫌なこと」と感じたら「ハラスメント」だと安直にしてしまうと「もっと練習しないと!」とか「音程が悪い」と言われただけで「嫌に感じる」からハラスメント!になってしまいます。
ならば!指導者が生徒・弟が、嫌な気持ちにならないように!と、出来ていないことを指摘するのを控え、出来ていなくても「じょうず」とだけ言えば?
ハラスメントで訴えられることはないでしょうが「やる気がない指導者」と岩惣です(笑)
この問題は世界中で議論される「教育の在り方」に関わります。

 音楽教育に範囲を絞って考えてみます。
楽器や声楽の演奏・作曲・指揮・音楽学などいくつかに分類されます。
例えば楽器を演奏する技術を「指導する」場合に、具体的に必要な知識と技術を考えます。
1.楽器の構造(音の出る仕組みや扱い方など)
2.楽譜を「音楽」にする知識と技術
極論すれば上記二つの項目につきます。「2.」の項目は楽譜を用いて音楽を演奏することの「必要性」によって不要な場合もあります。
 一般的な「レッスン」では、楽譜を正確に・美しく演奏できるように指導者が生徒に「指導」を行います。
 生徒によって、楽譜を音にする技術のレベルが違います。楽器のよって、そのレベルも違います。ピアノとヴァイオリンでは「楽譜」に書かれた音符の数、音部記号が全く違います。どんな楽器で演奏する場合であっても、必要な技術があります。「楽譜を頭の中で音楽にする技術・能力」です。楽器がなくても、楽譜を見て音楽を頭の科で「音」にする技術です。楽器演奏の技術ではありません。
「読譜技術」とも呼ばれます。多くの場合、子供の頃に「文字」を覚える時期に「楽譜を読む」力が身に着けられます。大人になってからでも身に着けられます。
「音名」「音の長さ」「音の高さ」を同時に組み合わされて「音楽」になります。
この技術は、楽譜を見ながら楽器を演奏する人にとって、生涯ついて回ります
多くの生徒さんの場合、この技術を「ゼロ」から始めます。
同時に楽器の「音を出す」レッスンも行われます。

 指導者にとって、生徒・弟子の「上達意欲」と「練習環境」は本来は無関係です。逆(習う側)から言えば、上達したい気持ちと練習できる環境によって、指導者の「存在価値」が変わってしまいます。
「意欲」があっても「環境」が悪い場合もあります。
「環境」が整っていても「意欲」が足りない場合もあります。
むしろ、意欲がないのに「習う」事、自体が無駄な気もします。
 では、指導者は生徒の「意欲」を高めることは必要でしょうか?
「音楽学校」には音楽を学びたい人が通います。
…ともっていましたが、この頃はどうなんでしょうか?(笑)
「興味があって」「弾いたことがないけれどやってみたい」と習い始める人に、初めてのレッスンをする機会の多い私です。
 音楽学校の生徒・学生とは「次元」が違います。何よりも「意欲」を維持する指導技術が必要不可欠です。楽譜の「ドレミ」を知らない生徒も言えれば、4分音符と8分音符の違いをまったく理解していない生徒が殆どです。
 ヴァイオリンを手にして初めて出せた音に「出せた!」「お~!」という反応があります。その音を「きれいに」「長く」出せるようになるだけの練習でも、長い時間の練習が必要になります。その練習と楽譜を音にする練習を、同時進行します。この途中段階で「無理」と、楽器の練習をあきらめる人がたくさんいます。
「楽譜が難しい!」と思うのは大人です(笑)子供にとって、新しい漢字を覚えたりすることと大きな違いはありません。大人が「新しいこと」を覚える体験が少なるのは自然なことです。だからこそ「楽譜」という新しい言語に対して、必要以上に抵抗を感じてしまうのかもしれません。

 最後に「指導者」に求められる技術と感性を考えてみます。
「演奏者」に求められるそれとは、明らかに違います。
何よりも生徒・弟子一人一人の個性に対応して、指導方法を決める「柔軟性」です。同じ内容でも、生徒によって吸収できる量も内容も違います。
指導する側が指導方法を一種類しか持っていなければ、その指導に順応できる人だけが上達していくことになります。「わかる人だけで良い」と割り切ってしまうのは簡単です。指導者の「語彙(ボキャブラリー)が少なければ、伝わるものも少なくなります。生徒によって、一つの技術を習得するまでの時間=期間が全く違います。レッスンの時間内に理解してある程度できるようになる生徒もいれば、そうでない生徒もいるのが当たり前です。
 優れた演奏家が優れた指導者とは限りません。これは以前のブログでも書いたことですが、人に教えることが苦手だったり、嫌いな演奏家もいます。
また外見的には指導の場を作っている人でも、その中身は「自分のお気に入りだけを育てる」と言う指導者もいます。もちろん、指導者も生徒も人間ですから「相性」が合わない人もいます。教わる側=生徒が学び取りたいという意思を持っていても、指導者の言葉遣いや態度、性格や感性に違和感や嫌悪感を持つことは仕方のないことです。それでも!学びたいことがあれば、レッスンを受け続けるでしょう。その意味でい言えば、生徒が先生を選ぶということになります。
 指導者が生徒を選ぶことも起こり得ます。生徒の態度や言葉遣い、指導者の求める練習量や内容、子供の場合は保護者の対応など、指導する側にも生徒を選ぶ「権利」は当然にあります。一言で言ってしまえば「指導者と生徒の価値観の相違」かも知れません。レッスン時間に5分でも遅れてくることを許さない指導者もいます。逆に指導者がと遅れてくるケースもあります。お互いの「価値観」やモラルが一致していなければ、師弟関係は崩れて当たり前です。
 音楽を学びたい人と、伝えたい人が価値観とモラルを共有しあうこと。
その上で、指導者は生徒の個性に合わせた指導を行うスキルを身に着けることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日本で唯一のNPO法人オーケストラ

 設立から22年、今回で44回目の定期演奏会です。
※2024年1月21日(日)午後2時30分開演
※JR横浜線・相模線 京王相模原線「橋本」駅北口すぐ「MeWeミウィ」7階 杜のホールはしもと
※大学生以上 1,000円 ただし、賛助会員とご家族、高校生以下は無料です。
※小さなお子様、赤ちゃん連れでも入場できます。

前回まで、演奏会に係る費用をすべて、賛助会費と参加するメンバー(会員)の会費と演奏会参加費用で賄ってきました。
一人でも多くの方に、オーケストラの演奏を通して音楽に親しみ、子供たちの健全な育成を!と入場無料で頑張ってきました。
 物価高騰と景気の悪化で、今までのような運営は厳しくなり、やむを得ず賛助会員以外の大学生入場者に、入場料をご負担いただくことにしました。
 賛助会員のご家族と、一般の高校生以下の方々は無料です。さらに、賛助会員には3回分の演奏会に無料でご招待させていただきます。
 NPO(特定非営利活動法人)は、営利を目的としていません。「入場料を取るのは?」当然、営利目的ではありません。事実、ホール(相模原市民文化財団)へのホール使料金用は「無料演奏会=非営利演奏会」での区分として今回も扱われています。
 さらに、今回の演奏会でのお客様(来場者)を見て、来年以降の演奏会を年に1回に減らす予定です。これも、経費の問題です。
 もちろん、今まで通りに「入場無料」で「年に2回」の演奏会を開きたいと願っています。長年(22年間)、多くのお客様にご来場いただき、プロの演奏家たちにも無報酬で参加してもらい、たくさんの賛助会員に支えて頂いています。現在も会員や賛助会員の数が減少したわけではありません。
 それでも経皮的に大変になっている原因は?先述の通り「物価高騰」と「景気の悪化」なのです。ホールの使用料金や練習会場の費用も値上がりしています。会員の負担(会費)は開設以来、1円も値上げしていません。演奏会参加の負担が増えることは不景気の中で「参加者の減少」につながります。
 私たちのオーケストラに限ったことではありません。プロ・アマチュアの演奏会が継続できなくなってきました。
「文化の消滅」にはまったく無関心な政治家がほとんどです。祝電を送りつけ「知名度アップ」は狙ってきます(笑)当然、読みませんが。文化が消えることは、国家が消えることです。「たかが音楽」と思うかもしれません。それは「興味関心」の違いです。人間が生きる中で「衣食住」だけを考えても、そこには文化があります。
弥生時代のように、動物の皮で身体の一部を隠すだけの「文化」もありました。
竪穴式住居もタワーマンションも同じ「文化」です。海で貝と魚を取って食べるだけの食事も、イタリアンも同じ食文化です。
 それらの文化を「不要」と考えるのは「頭の悪い人」でしかありません。
音楽という文化・芸術を守ることが、子供たちの笑顔、平和につながることは歴史的に考えても間違いのないことです。
 NPOは「儲かりません」それは事実です。だから、日本に一つしかないのかもしれません。プロの演奏家がNPOオーケストラを作っても生活できません。アマチュアの場合、毎年必ず「総会」を実施し、多くの書類(貸借対照表など)を提出する労力を考えると「無駄」に思えます。国や自治体から「助成金」が1円でも出たことはありません。逆に「法人税」が発生しますが、毎年「減免申請」を税務署に提出し受理されています。
 そんなメリーオーケストラの演奏会。
一人でも多くの方に、ご理解・ご協力いただけることを願っています。どうぞよろしくお願い致します。

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介

右腕の使い方、今と昔。

シェリングのボウイング
ヴェーグのボウイング
ヴィタリ シャコンヌ 野村謙介

 今回のテーマ「ボウイング」について。
弓を弦に乗せて動かす「だけ」で音が出る弦楽器のヴァイオリン族。音色と音量を決定するのが「弓」を動かす運動の方法です。多くのチュートリアル動画がある中で、「ボウイング」や「右手」「右腕」で調べても、なかなか「右腕・右肩・背中の使い方」についてのものは見つかりません。弓の持ち方に関する動画はすぐに見つかりますが。
 ヴァイオリニストの個性が最も大きく表れるのが、右腕の使い方による音色と音量の「違い」だと信じています。
 ヴァイオリン奏法が「進化」しているとは思いません。むしろ、50年以上の前に録音されたヴァイオリンに、演奏者の個性が強く出ている気がします。

 右腕は「右肩」から始まりますが、右肩は「右の背中」と「首の右側」の筋肉によって動きます。逆に弓を持っている「指」「手」をいくら動かしても演奏は出来ません。人間の背中の筋肉と首の筋肉、さらに鎖骨周辺の筋肉を使う事こそ、ボウイングの「基本」だと思っています。
「弓を動かす」のは手や指ではなく、背中・首の筋肉です。
 弓元半分を使う時の右腕の「上下運動」があります。弓先半分は右ひじの「曲げ伸ばし」が主な運動になります。4本の「どの弦を演奏するのか」によっても、右腕の高さが変わります。
 弓の毛の長さと、右腕の長さを良く考えてみるべきです。

 腕の重さを使う事、より大きな筋肉を使う事、関節を柔らかく使う事。ボウイングは弦楽器奏者の「個性」を表す最大の技術だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 脳ら謙介

16回目のリサイタルを終えて

2024年1月6日(土)代々木上原ムジカーザで、浩子さんとのデュオリサイタル16を無事に終えることができました。
 16年と言う時の流れと共に、リサイタルで160曲ほどの曲を二人で演奏してきました。40代で始めたコンサートをいつまで継続できるのかは、私たちにもわかりません。コンサートを開くことで、私たち自身が演奏に向き合うことができて、お客様に喜んで頂くことができると言う幸せを感じます。一方で「自費演奏会」ならではの刑事a的な事情と、現実的に体力的な問題も回を重ねるごとに厳しくなっているのも事実です。言ってしまえば、やってもやらなくても「構わない」コンサートでもあります。だからと言って「やめたい」と思ってもいません。現実は厳しいものです。
 今回、多くの新しい曲たちに取り組みました。動画のタンゴもその一つです。
 ソナタが嫌いと言う意味ではなく、小品の良さを一人でも多くの方に「生」で味わっていただきたいと思い続けています。
 もっと「マニア向け」と言われる曲や、「超絶技巧」のヴァイオリン曲に取り組むことも「不可能」だとは思いません。
 自分たちの「身の丈に合った曲」を選ぶことが、安直な妥協だと言われれば甘んじて受け入れます。技術の低さを「隠す」気持ちはありません。だからこそ、演奏することに必死になる難曲よりも、聴いてくださる方がクラシックを普段聞かない方でも「癒される」音楽を演奏したいと思っています。
 ヴィタリのシャコンヌをプログラムの最後に演奏しました。私にとって40年ぶりの演奏でした。地元でもムジカーザでも、多くの方に楽しんで頂けたようでした。
 小品…と言うには演奏時間が長く、一般のヴァイオリンリサイタルでは「前プロ」的に演奏されることが多い曲です。
 自分の技術不足を少しでも克服する練習をし続けて16年。その前の20年間はヴァイオリンから離れた生活をしていました。
7歳頃から始めたヴァイオリンを習い続けたのが16年間。
 こうして考えると、63年の人生で3分の1ずつを「学び」「生活し」「音楽に生きる」時間として使ってきました。
 音楽にも人生にも言えることは「誰かにいかされている」ことです。自分が生まれることも楽器を習い始めるt事も「親」がいたからできたことです。その「終わり」を自分で決めることは出来ません。もちろん、人前での演奏をやめることは自分の意志でするべきことです。ただ、楽器を弾けなくなっても音楽と共に生きることはできます。その「終点」がいつなのかは、自分で決められません。
 誰かのために。誰かの笑顔のために。音楽を演奏できる間は、頑張りたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲者=演奏者の楽譜について

 動画はフリッツ・クライスラーが演奏する[シャミナーデ作曲 スペイン風セレナーデ クライスラー編曲」です。
クライスラーは自身が演奏するための楽譜を多く出版しました。中には昔の作曲家の名前を勝手に(笑)使って、「〇△作曲」と発表したものもあったようです。理由は?自身の演奏会で、すべての曲が「クライスラー作曲」だという事に本人が抵抗を感じての事だとか。これって「ゴーストライター」と言えるのか?(笑)謎です。
 テーマはクライスラーが演奏する自分で書いた楽譜の「録音物」と「楽譜」の関係です。
結論を言えば、楽譜を見ながら聴いて「なるほど。そういうことか!」と納得できる部分と「え?そんなこと書いてないじゃん!」という部分があります。作曲者本人が演奏するのですから「間違い」ではなく「この時はこう演奏した」というだけの事。私たちは?楽譜の通りに演奏するべきですが(笑)録音を聴いていると「そっちの方が素敵!」と思う事も。
 あなたならどちら(楽譜・作曲者の演奏)を採用しますか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使い・ボウイングを変えて演奏することのメリット・デメリット

チャイコフスキー ノクターン もみじホール
チャイコフスキー ノクターン ムジカーザ

 今回のテーマは、左手の「指使い」と右手の「弓使い=ボウイング」に関するものです。どちらも演奏する曲を練習する段階で、楽譜に書かれている場合・場所もあれば、書かれていない楽譜も普通に存在します。
 Youtubeで多くの演奏家の演奏動画を比較してみていても、同じ曲でも指使い・弓使いが異なっているものが殆どです。同じソリストが同じ曲を、違う指使いで演奏しているものも多数見かけます。
 上の二つの動画は、昨年末(2022年12月)と今年の年明け(2023年1月)に同じ曲を演奏した動画ですが、よく見ると指使いもボウイングも違います。
「なぜ?同じように演奏しないのか?」
「なぜ?指使いや弓使いを変えるのか?」
この問いに対して「変えることは決めていないから良くない」という考え方と「その時々で変更することは出来た方が良い」という考え方があります。
 楽譜に書かれている指示通りに演奏すれば良い…とは限りません。事実、印刷の間違いとしか思えない指示がある場合も珍しくありません。また、同じ曲でも出版社によってまったく違う指示が書かれているものも当たり前です。
 練習していく中で、複数の選択肢が生まれてきます。「どれが正しい」と言う正解はありません。選択する理由も様々です。「演奏しやすいから」という理由もあれば「音色を優先」「音量を優先」「速く演奏できることを優先」などの理由で「ひとつ」を選ぶことになります。
 演奏は「時間の芸術」であり、まったく同じ演奏を2回することは不可能です。だからこそ、指使いや弓使いを「変えない」と言う考え方も理解できます。逆に言えば、演奏する時の体調や気温、湿度、ホールの響きによって、自分が思っていた音色や音量、効果がない場合もあります。その時に、前回演奏したときと違う指使いや弓使いをする・出来ることも、演奏家に求められる技術だとも言えます。
 私は上記の後者=その場で決めるケースが多く、演奏するたびに指使いも弓使いも違います。「安定感が下がる」「再現性が下がる」「練習の効率が悪い」と言われればその通り!(笑)です。
 自分の音が、どんな演奏の場所でも同じように聴こえ、ピアノの音とのバランスもいつも同じように聴こえるのであれば、変えないほうが無駄も少なく、混乱するリスクも減ります。
 学生の頃には、同門の先輩が演奏した楽譜をお借りし、指や弓を書き写させてもらったものです。その通りに演奏することに疑問も違和感も感じませんでした。「そうするもの」だと信じていました。自分で考えることより、先輩や師匠の考えられたものを忠実に演奏すること。それが当たり前でした。
 レッスンから離れ、自分で選んだ曲を自分で考えて指使い・弓使いを決めるようになってから、初めて「考える」ことの大切さを知りました。
 言うまでもなく、自分で考えられるようになるまで、楽譜の指示通りに演奏する習慣は身に着けるべきです。教本などに書かれた指示を守ることは「セオリー」を覚えるために必要な練習です。
 人によって「好きな指使い」が違います。ボウイングも同じです。
自分の選択肢を増やすための研究と、実際に演奏してみて「結果」を反省することの繰り返しが、最終的に自分にあった演奏方法を見つけることに繋がります。
 きっと、これからも混乱して迷子になりますが(笑)どうぞ、暖かい目で見てやってください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の重さ・指の重さ

 写真は世界一、手触りの良い肩当て「ぷりん」(笑)
 リサイタルに向けて。地球の重力を最大限に利用しています。
 卵のLサイズ1個の重たさは約60グラム。ヴァイオリンの弓の重さも約60グラムです。この「重さ」には理由があります。弦と弓の毛の「摩擦」は、弓の重みだけでも発生します。ダウン・アップ方向に動かす運動のエネルギーは、人間の腕によって作られます。弓の60グラムの重さをうまく弦に「乗せる」ことが如何に難しいか?逆に言えば、押し付ける力を指で作ってしまうのは簡単なことです。まして、2本の弦を同時に演奏し続ける場合、圧力で2本を演奏しようとする気持ちが無意識に生まれて今いがちです。
 左手の「指」にも重さがあります。
指1本の重さを測ることは出来ませんが(笑)、弦の振動を「止める」ことさえ出来れば、必要以上の力で弦を押さえることは無意味です。
 指を「弦に落とす」イメージ。指の「速度」を重視することです。
 左手の指が「弦の上を滑り動く」映像を過去の偉大なヴァイオリニストの演奏で見られます。どんなときにも「楽器」を中心に、身体で包み込む意識をもって演奏しています。
 今度のリサイタルでその「途中経過」が発揮できることを根差しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

小鉢の「お献立」

 12月1月のリサイタルが近づいてきました。
「コンサートに休憩は付き物」と思われがちです。
クラシックの演奏会の場合、多くは「前ププロ「中プロ」「休憩」「メインプロ」で構成されます。休憩がどこにはいるか?は、前プロの長さにもよrします。コンサートの開演から「アンコール」の1~2曲まで含めての時間は?休憩を含めると2時間「前後」のコンサートが多いように思います。
 2時間=120分を長いと感じるか?短いと感じるか?は、人そ玲央ぞれの「好みと「生活習慣」で大きな違いがあります。好きなことに没頭していれば「あっという間の2時間」でも、いらいらしながら過ごす時間や嫌なことをしている時間は「まだ10分か」と思うものです。
 コンサート会場の環境でも感じる時間の長さは違います。固くて座り午後地の悪い椅子に、じっと座って1時間…これ、苦痛を通りこして拷問(笑)
コンサートでエコノミー症候群って笑えませんよね。
映画館でポップコーンを食べながら、ピールやジュースを飲みながらの2時間は長い?これも映画の内容にもよりますが、映画が30分で終わる場合は「ショートむーぼー」扱いです。

 前回のリサイタルから「休憩」をはさまずに、すべてのプルグラムを演奏しています。今回、どうしよう?と二人で色々なケースを考えてみました。
・1曲ごtの演奏時間が短いこと。
・音楽の印象が異なる曲が続くこと。
・曲の開設やトークをところどころに加えること。
・お客様の年齢層が幼稚園児から高齢者まで幅広いこと。
・もみじホールはクッションのある椅子。
・ムジカーザはクッション性の低い椅子。
・前回のリサイタル演奏時間が、約1時間20分。
などなどを考え合わせ、今回も休憩なしで演奏しようかと思っています。
 前回より少し「正味の」演奏時間が短いので、トークを短め・少なめに(笑)すれば高齢者やお子さんでも大丈夫かな?という結論です。
 曲を「小鉢」に例えましたが、味や触感の違うお料理です。
ヴァイオリン・ヴィオラ・ピアノ独奏という「違い」もあります。
 休憩の「意義」として、演奏者が休むことも要素の一つです。
ただもみじ・ムジカーザともに、楽屋(控室)から舞台袖・媚態までの移動で体が冷えるという現実もあります。疲れもさることながら、演奏で一度温まった指や体が休憩で「冷える」のも案外つらいものです。
 通常のクラシックコンサートのような構成ではありませんが、時間を短く感じられる演奏会にしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴィブラートの種類

 映像はミルシュテインの演奏動画です。数多くの偉大なヴァイオリニストの中で、ヴィブラートが同じ…と言う人たちはいません。当たり前ですが(笑)それぞれに「こだわり」を感じます。YOUTUBEでヴィブラートと検索すると大変な数の「アドヴァイス動画」がヒットします。自分の思ったようにヴィブラートが出来ない人にとって「藁をもつかむ」で動画を参考にするのは賢明なことかもしれません。
ただ残念なことに、どんなに李其ヴィブラートに出会っても、それを他人に伝えることは最終的には不可能なことだと言えます。「音の変化」として真似をすることはある程度可能です。
 身体=筋肉や関節の動かし方を、理論的に解説することは出来ますが、実際に自分の身体の「どの部分に」「どんな力を」「どのくらい」使ってヴィブラートをしているのかを言語化することには限界があります。さらに、それを読み・聴いた人が自分の身体に置き換えて実行することは、さらに無理があります。
 例えるならば、バスケットボールのフリースローを成功させるための「技術」を誰かに完全に伝えることに似ています。もし、完全に言語化でき、誰でも真似を出来るなら、失敗する人はいなくなることになります。

 今回のリサイタルでも、左手の使い方をゼロから作り直しています。現に触れる「指の皮膚」と皮膚の下の柔らかい「肉球(笑)」さらにその中にある「骨」にかかる力を感じることから始めます。
「動き」で考えれば、指先の関節それぞれの動く方向と量を考えます。当然、指に力を入れれば関節の動きは制約されます。抜きすぎれば弦を押さえることができません。親指も同じです。
 手首の動き・手首から肘までの前腕の動き・肘から肩までの上腕の動きにも「筋肉の弛緩と緊張」「動きの方向」ででヴィブラートが大きく変化します。それらがすべて「連動」と「独立」を繰り返すので、言語化さるのは不可能に近いことです。
 自分の耳で「波=ヴィブラートの深さと速さと滑らかさ」を確認し、楽器が揺れる大きさと方向を目と身体で確認します。

 ヴィブラートは1素類ではありません。どの音に、どんなヴィブラートを、いつからいつまでかけるのか?それは演奏者の「こだわり」以外の何物でもありません。
 そこに右手の運動のコントロールが加わることで、さらに大きな変化が生まれます。
 自分の好きな音を出せるまでの、永い道のりを楽しみたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

もしも…

 写真は私と兄、母を父が撮影した写真です。私はどれ?ってすぐわかりますね(笑)札幌の社宅に住んでいた頃の写真です。3歳頃かな?60年前の写真になります。
「もしも」と言う仮定の話は、意味がないか?いえいえ。自分が生きている限り、反省をもとに新しい生き方を始められますから「もしもあの時」と言う反省は有意義です。
 多くの「もしも」は、選択肢が複数ある場合に、違う選択をしていたら?と言う振り返りに使われます。
 結論を言ってしまえば、現実の「今」が正しく、違う選択をして生きていた自分がいれば、その自分が正しい。結局、何を選んだとしても結果は一つしかないのです。

 音楽に関わることで生計を立てている今の自分は、生まれた時から親や自分が選んだ選択の「成果」です。
 両親が私にヴァイオリンを習わせてくれた時、両親とも数十年後の私を想像していなかったはずです。もしも、ヴァイオリンを習わせてくれていなければ今の自分は存在しなかったはずです。遡れば、上の写真で妙な笑い方をする(笑)私の身体が弱くなければ、ヴァイオリンを習わせる気持ちにならなかったかも知れません。もしも、私の目の病気がなかったら、ヴァイオリンを習わせようと思わなかったかもしれません。
 その後、もしも久保田良作先生に巡り合わなければ、ヴァイオリンを習い続けてはいなかったはずです。公立中学で、顧問をされていた室星先生に出会わなければ、教員になることはなかったはずです。
 もしも父が借金をしてまで、私にヴァイオリンを買ってくれていなければ、ヴァイオリンは弾いていなかったと思います。
 もしも、中学3年生の私に「音楽高校を受験してみますか?」と久保田先生に仰っていただけなければ、音楽高校の存在さえ知らなかった私たち家族が、桐朋を受験する選択はしなかったはずです。
 もしも、黒柳先生にSHMと楽典を教えて頂いていなければ、桐朋には合格しなかったはずです。
 もしも、桐朋に受かっていなければ都立の高校に通っていたはずです。
 もしも、音楽大学で留年しなければ教員にはなっていませんでした。プロのオーケストラに入団していたかも知れません。
 もしも、教員になっていなかったら今の自宅は建てられていなかったはずです。多くの生徒たちにも出会わず、新設の学校にオーケストラを作ることもなかったはずです。
 もしも、2004年に退職していなければ、ヴァイオリンに二度と触ることもなかったはずです。
 もしも、ミクシィで浩子姫と何十年ぶりかでつながらなければ、リサイタルを開くこともなかったはずです。

 選択の連続・偶然の連続が今の自分を生かせています。これからも変わりません。選択に悩み続け、どれか一つだけを選ぶことが続きます。
「生きること」と言う選択もいつか終わります。選択ではなく、生まれたことと同じように、自分で人生の終わりを決めることは出来ないのが「自然の摂理」です。少なくTも「生きるか死ぬか」と言う選択をすることは、自分を生み育ててくれた両親への裏切りです。生きることを願いながら、楽しみながら音楽に向き合いたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

右腕と左手の「分離」

 映像は、ユーディ・メニューインの演奏動画。
私が学生時代にメニューインの書いた演奏技法に関する本を何度も読み返していました。当時は、カール・フレッシュの分厚い演奏技法に関する本もありましたが、両者ともに「理論的」に演奏を解析しているものでした。
当時は「意味わからん」と(笑)内容を把握していなかった気がします。
 現代の若手ヴァイオリニストたちの技法とは完全に一線を画す演奏方法です。大きく違うのは「右腕の使い方」です。もちろん、左手のテクニカルな面でも当時と今では明らかに違います。
 演奏の自由度=音色の多彩さが今とは比べ物にならないほど大きかった気がします。言い換えれば、現代のソリストたちに共通して感じられるのは
「音量」と「正確さ」を競うための技術が優先しているように感じます。
ハイフェッツやオイストラフ、シェリングやメニューインが「技術が低い」のではなく、演奏技術のベースに「音色のバリエーション」が必ずありました。ヴィブラート一つ取り上げても、パッセージや一つ一つの音単位で、速さと深さを変えていました。また、右腕に至っては、まさに「ヴァイオリンの基本はボウイング」だと思わせるものがありました。
 以前にも書いたように、ヴァイオリンは音量の「差=幅」の少ない楽器です。クラシックギターやハープ、チェンバロに比べれば、多少なりとも大きな音量差は付けられますが、ピアノなどと比較しても「音量の変化」は微細なものになります。だからこそ、音色の変化量で補う一面があります。

 今回のリサイタルに向けて、左手の「力」を必要最小限に抑えることを心掛けています。特に親指をネックに充てる力を意識しています。
右手の親指も、無意識に必要以上の力を入れていることがあります。
左手の場合、必要最小限の「運動量」で演奏することで、自由度が増し移動も速く正確になることが感じられました。一方で、左腕の運動が左手につられて小さくなってしまうことに気づきました。
 意識の中で「力を抜く」「無駄に動かない」と考えているうちに、右腕も引っ張られて(笑)運動が手先に偏ってしまう傾向があります。
 演奏し長ら「エネルギー」が欲しい時に、つい両腕に力が入ってしまう。本来は右腕おt左腕は「まったく違う役割」を持っています。当然、力の量も違います。なんとなく、両方の腕に同じ力がかかったり、力が抜けたりするのは「独立=分離」が出来ていないためです。これはピアノでも他の楽器でも同じことが言えるのだと思います。わかりやすいたとえで、ドラムの演奏動画をご覧ください。

身体のすべてが「音楽」「楽器」になるドラマーと言う演奏者を見ると、私の悩みがちっぽけ(笑)に感じます。
 技術は音楽のためにあります。考えることと感じることは、お有る意味で「同じ」またある意味では「別桃の」です。感じたことを表現し、表現したことを感じる連鎖が演奏です。
運動と感性も同じ事です。右腕と左腕が別荷動きなら、ひとつの音を出す。
考えなくても思ったように動かせるようになるまで、考え抜きたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

コンサート色々

 今回のテーマは「音楽会」にも色々ありますよね?と言うお話です。
音楽のジャンル、開催される場所、使われる楽器などによって、いわゆる「音楽会」は「コンサート」だったり「ライブ」だったり「ショー」だったりします。当然のことながら、音楽を聴くことが最大の楽しみであり、一人一人「楽しみ方」が違います。観客の「聴き方・楽しみ方」も様々です。会場が一体になるライブもあれば、舞台の上で演奏される音楽を、静かに座って聴くことを楽しむ音楽会もあります。「どれが正しい」という答えはありません。聴く人の「自由」が一緒に聴いている人の迷惑にならない限り、どんな楽しみ方も許されるのが音楽会です。
 私と浩子さんのデュオリサイタルと、メリーオーケストラの演奏会では、曲の合間に会場のお客様に向かって話しかける「スタイル」で15年間以上、行ってきました。曲の解説をすることもあれば、練習でのエピソードをお話しすることもあります。演奏「だけ」を楽しみたい方にとって「不快」だったり「無駄な時間」に感じられることも当然、あり得ることです。
 私の考える「トークコンサート」は、何よりもお客様との「共感」を大切にすることです。先述の通り、演奏だけを楽しみたい方にとっては「共感できない」コンサートです。
コンサートに行ったことがない方や、クラシックの音楽も含め「聴いたことのない音楽」「タイトルを知らない曲」を聴くことに興味のない方が、私たちのコンサートで「楽しい」と思っていただけることを願っています。音楽を聴いていただき、楽しんで頂くことが何よりも大切であることは忘れていません。その音楽を演奏する「人間」を知って頂くことで「クラシックとは!」というネガティブな先入観を少しでも減らしてもらえれば私は満足です。
 実際にあったお話ですが、メリーオーケストラの定期演奏会が「初めてのクラシックコンサート」だった方が、オーケストラの演奏会に興味がわいて、違うオーケストラの演奏会に行ったところ「指揮者が一言も話をしないのでびっくりした」と言う笑い話があります。指揮者や演奏者が「しゃべる」コンサートが正しいと言い切るつもりはまったくありません。「それも、あり」だと思うのです。
演奏会の「スタイル」を画一化することは、音楽を自由に聴く楽しみに「枠」を作ることになると考えています。「クラシックコンサートだから」「ロックのライブだから」と言う限定的な狭い考え方より、自分にとって「居心地の良い」コンサートを選べる多様性があって良いと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の毛替えを考える

 写真は私が20歳の頃から愛用している「本番用の弓」です。
当時、弓に強い関心があってヴァイオリン職人で、楽器を斡旋してくれた田中さんにも相談していました。「自分の足で楽器屋を回って、良いと思った弓を持っておいで」とアドヴァイスされました。東京近郊のヴァイオリン専門店を回り、自分で「これだ」と思った弓を数日、貸し出してもらって南青山の田中工房へ。
 「この弓のどこがいいんだ?返してこい」の繰り返しを約1年間続けました。
この「勉強」は今も役に立っています。「北の狐」と隠語で呼ばれていた、東欧のヴァイオリニストたちが日本に来た際、外貨稼ぎに自分の弓を売っていた時代でした。その中の1本が、田中さんの手元に入り「これで弾いてみな」といわれててにしたのが、この弓です。都内で借りていた「有名な弓」よりはるかに安い金額で購入することができました。
 レッスンで久保田良作先生に弓を見て頂きました。「ほ~!違うものだね!」と大変気に入ってくださいました。その後、先生の演奏会や録音があるたびに「野村君、弓を貸してくれる?」と仰り、何度も演奏会で使って頂いた弓です。

 弓の毛は消耗します。馬のしっぽの毛は、表面に無数の凸凹があります。そこに松脂が「粘着質」なこぶを作り、弦との間に摩擦が起きて「音が出る」仕組みです。演奏すれば、少しずつ凸凹が小さく=薄くなります。松脂がいくら毛になじんでも、凸凹がなくなれば摩擦が長続きしなくなります。
 さらに馬のしっぽの毛は、人間の髪の毛と同じで、皮膚から離れた時から栄養が供給されず「経年劣化」します。水分と油分が抜け、細く・硬く変化します。
 加えて演奏中に何本かの毛が切れていきます。演奏の仕方や曲にもよります。
「どのくらいの頻度で張り替えればよい?」と聞かれることがあります。
諸説あり「200時間程度演奏した」と言う説や「1年ごとに」と言う説もあります。毎日演奏していると、なかなか気付きにくいのですが「摩擦が減った」感覚と「毛の弾力が減った」に注意することです。張り替える技術を持った職人さんはたくさんいます。弓の毛替えは、ヴァイオリン職人にとって「基本の技術」でもあるようですが、その技術差は明らかにあります。誰でも同じ…ではありません。
 自分の大切な弓の毛替えをしてもらう人を選ぶ「基準」について。
「目の前で毛替えしてくれる職人」かどうか?私はこれに尽きます。
実際、私の弓(写真の弓)の毛替えは、今まで数人の職人にしかお願いしていません。そのうちお二人は、私の目の前で20~30分で毛替え作業を終わらせてくれていました。作業しながらお話を聞かせてもらえる「技術」があります。
 楽器の修理の場合でも「信頼できる人」かどうか?の見極めは、目の前で作業を見せられう人か?見せない人か?ですぐに判別できます。もちろん、時間のかかる作業もあります。私の知る限り、剥がれの修理は1か所であれば、その場で終わらせられます。固定し完全に乾く間、職人さんに預けることがあっても信頼できる職人さんなら問題ありません。「作業を見せられない」と言う職人さんを信頼することは不可能です。

 弓の毛の「長さ」と「量=毛の数」と「張り方=バランスや重なりの有無」が悪ければ、演奏しにくくなります。演奏者の好みもあります。
 私は弓の毛を、可能な限り弱く張って演奏します。演奏する際の「張りの強さ」と「弓の毛の長さ」には大きな関連があります。
 強く張って演奏したい人は「毛箱」がスクリュー側に寄ります。
逆の場合、弓に巻いてある「革」と毛箱の隙間が狭くなり、毛箱が弓の中央に寄ることになります。
 結論として「毛替え」を任せられる職人さんとの出会いがなければ、安心して演奏することができないことになります。人間の身体と同じです。信頼できる医師に診察してもらわないと不安ですよね?楽器は「言葉を話せない」ので、赤ちゃんと同じです。何をされても言葉に出来ない楽器や弓だからこそ、信頼できる職人を探しましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

体力=気力

  映像は14年前、第2回のデュオリサイタルで演奏したエルガーのマズルカ。
今回のテーマは「体力」つまり肉体的な変化と「気力」精神のかかわりについて考えるものです。
 「老化」というとネガティブなイメージを受けますが、どんな生き物にも「寿命」があるのが自然の摂理です。永遠に生きられる生物は地球上に存在しません。生まれてすぐの人間は、呼吸する事・母乳を飲む事・手足を動かすこと・泣くことしかできません。そこから「体」が成長し体の一部である「脳」がより複雑なことをできるように発達します。肉体の成長は一般的に20歳ごろまで発達し、少しずつ低下していきます。その間に感じた「記憶」が脳に蓄積されて、知性・理性が創られていきます。肉体的な「老化」は、脳の老化より早く表れるのが一般的です。もちろん、病気によって脳の働きが低下することもあります。

 楽器の演奏をして消費するカロリーは、楽器によって・演奏する曲によって大きな違いがあります。「運動」であることは間違いないのですが、若い人が1時間、休まずに演奏した時の疲労と、年齢を重ねてからの疲労は明らかに違います。若い頃、練習して疲れたと感じることがあっても、回復も早かったことを懐かしく思い出します(笑)筋肉の疲労がなかなか回復しないのも老化の現れです。疲労が蓄積してしまう結果になります。
 筋力・体力の衰えを補うのが「技術」と「気力」です。力を使わずに演奏する技術と、筋肉に負荷をかけない演奏技術。気力は?脳の働きは衰えていなくても「体が付いてこない」ことで、気力も衰えるものです。
 気力がなくても筋力は下がりませんが「楽器を弾こう」という気持ちがなくなれば、体力があっても練習は出来ません。
 63才になった今、昔のような筋力・持久力はありません。見栄を張っても現実は変わりません(笑)衰えを受け入れたうえで「気力」を落とさないために目標を作ることも大切です。さらに、少しでも「楽に」演奏できる技術を模索することも必要になります。
 著名な演奏家たちが、60才を過ぎても若い頃より素敵な演奏をしていることを考えると、気力と技術が体力の衰えを上回っている象徴だと思います。
体に無理をかけずに演奏する技術を身に着けることは、気力を維持することにつながります。「体力=気力」だと思うのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

16年目の挑戦

 今回で16回目のデュオリサイタル。
地元相模原市緑区のもみじホール城山で12月17日(日)午後2時開演。
同じプログラムで来年2024年1月6日(土)代々木上原ムジカーザ。
 演奏予定曲は、今回初めて演奏する曲も含めた私たちの「こだわりのセレクション」です。ヴァイオリンとヴィオラの音色の違いを楽しみながら、もみじホールではドイツのピアノ「ベヒシュタイン」、ムジカーザではオーストリアのピアノ「ベーゼンドルファー」を使用します。

 予定している演奏曲です。変更の可能性もあります。(順不同)
☆スペイン風セレナーデ シャミナーデ
☆タンゴ シェーンフィールド
☆タンゴ アルベニス クライスラー
☆ノクターン シベリウス
☆美しい夕暮れ ドビュッシー
☆歌の翼に ピアノ メンデルスゾーン リスト
☆いのちの歌 村松崇継
☆パストラーレ バッハ
☆夢のあとに フォーレ
☆悲しきワルツ ヴェチェイ
☆アラブの歌 コルサコフ
☆シャコンヌ ビターリ

 昨年までのリサイタルを反省し、新しい可能性を模索しながら、練習を重ねています。
 二人とも不器用な(笑)演奏者です。だからこそ、時間をかけて音楽と向き合うことを大切にしています。それでも、自分たち自身もお客様も「満足」できる演奏になるのかという不安を無くすことは出来ません。
 毎年、年末と年始は「いつの間にか」過ぎる生活です。1年かけて準備したイベントです。一人も多くの方に楽しんで頂ければと願っています。
 お問い合わせやお申し込みは、
デュオリサイタルページ
でお願い致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


サーカスではないテクニック

 アイザック・スターン。2001年に亡くなってからすでに20年以上の時が過ぎました。
 2023年の今、世界で演奏しているヴァイオリニストがいる一方で、世を去ったヴァイオリニストたち、スターンやハイフェッツ、オイストラフ、シェリング、グリュミオー、などのように録音や動画が残っている「偉人」たちが数多く存在します。

 歴史に名を遺す演奏家の「演奏」は言うまでもなく、実際に聞いた人の感動が何よりも大切です。時代の変化と共に、録音された演奏での「比較」も大きなウエイトを占めるようになりました。
 演奏を「音楽」として感じるべきなのか「技術」を重視すべきなのか?スターンいわく「完璧な技術でその時の自分の演奏に自信をもって、考えずに音楽に向き合う」と、こんな演奏が出来るそうですが…。技術の高さは音楽に向き合うためにあるものだと、改めて感じる演奏です。

 現代の若手ヴァイオリニストが、昔より高い演奏技術を持っているのは事実です。
だからと言って、彼らが皆、スターンのような演奏をするか?と言えば答えは違います。
 音楽に向き合う姿勢は、その人の「人間性」でもあります。人が考えていることを、他人が完全に理解することは不可能です。その意味で「精神」はまさに固有の財産です。同じ楽譜、同じ楽器で演奏しても、まったく違う演奏になるのは、身体が違うからではなく「考え方」が違うからです。
 技術も人それぞれに固有のものです。スターンの技術は永遠に、彼にしか出来ない技術です。すべてのヴァイオリニストが違った技術を持っています。「速く正確に」演奏することが演奏の「優秀さ」だと勘違いする傾向が年々、強くなっている気がします。
 私が年寄りだから…でもあります。スターンの音楽に惹かれるのは、ただうまいから…ではない気がします。
 スターンがなくなる1年前の演奏動画を見ました。もう往年のテクニックはありませんが「音楽」は生きていました。
 見習いたいともいます。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器を動かさずに演奏する技術

 映像はヤッシャ・ハイフェッツの演奏するウィニアウフスコーのポロネーズ。
 何から何まですごいのですが、どうして楽器が動かないんだろ?と以前から疑問に思っていましたが、今自分が練習していて、「どうして楽器が動くんだろう?」と言う逆の疑問にぶち当たりました。あれ、同じか(笑)
 特に速い運動=ポジションの移動があると、無意識に楽器が揺れ動いてしまう。肩当てをしているのに、楽器と身体を一緒に動かすことは出来ても、楽器の「不用意な動生き」を止めて静止できないのは致命的。
 原因を探りつつ、なんとか楽器の動きを最小限にしたのです。今のところ、左手の親指の問題と、左腕の動き=ぽぞしょん移動のための左右の動きが、左鎖骨周りの筋肉を大きく動かしていることが原因らしいこてゃ判明しました。左腕をネックを「中心」にして回転させる運動で、左肩の骨が動き、鎖骨の前の筋肉が収縮することで楽器の揺れに繋がっています。され…どうやって、この動きを小さくすればいいのでしょう?

肩当て、なしで演奏すれば鎖骨に楽器を「乗せる」だけなので、筋肉の動きに影響されないはず。ただ、今更50年間以上「肩当て」に頼って演奏してきた自分です。できるのか?
 うーん。謎は終わらないのでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

あなたは「飴=にんじん」派?「鞭=追い込み」派?

 上の演奏は大学4年の卒業試験前におこなわれた発表会。ドボルザークヴァイオリンコンチェルト第1楽章。高校3年間、大学4年間の最後の実技試験で演奏する曲にこの曲を自分で選んだのですが、地味(笑)な選曲でもあり、自分らしい選曲のようにも感じます。
 今回のテーマは、モチベーション=やる気を持続するために、どんな方法が効果的なのかを考えるものです。
 生徒さんのなかで、ドロップアウトするケースを考えると多くの場合「やる気がしなくなった」という理由です。大人でも子供でも同じことが言えます。やる気…練習して上達する意欲です。その意欲がなくなってしまえば、当然楽器を練習する「意味」がなくなります。ヴァイオリンに限ったことではありません。子供が学校の勉強する時、自分で意欲的に現況するのは、とても稀なことに思うのは私だけでしょうか?親や学校の先生が「お尻を叩いて」勉強させるケースがほとんどだと思うのですが…。違っていたらすみません(笑)
 ヴァイオリンと義務教育を、同じ土俵で比べてはいけないとは思いますが、やる気を維持できれば、より高いレベルに到達できるのは同じです。
 逆に言えば「いやいや」勉強したり、練習したりすることが習慣になってしまえば、得られるものより失う時間の方が大きいように思います。本人がやる気をもって向き合えるか?を親や指導者が考えるのは、至極当たり前のことです。自分で考えられる年齢になってからの方が、モチベーションの持続は難しいことかもしれません。

 趣味で楽器を演奏する人の場合には「やる気がなくなったらやめれば終わり」です。それが当たり前です。どんなに高い道具を買いそろえていたとしても、無駄になったと感じないかも知れません。
 一方で「仕事」としている事に、モチベーションを維持できなくなると、大きなストレスがかかります。生活のため…と我慢しながら、いやいや働く人も周りにはたくさんいます。同じ仕事でも生き生きと働く人もいます。はたから見た眼の問題ではなく、本人の問題です。辞めたくてもやめられないストレスをためすぎると、最終的に精神を病んでしまうまで我慢してしまいます。「生きててなんぼ」と思って辞められれば救われます。

 趣味はもちろんですが、仕事でも「命を懸けて」まで、何かをすることは間違っていると思います。確かに誰かの命を助けるために、自分の命を懸けることが「正しい」のかも知れませんが、結果=未来は誰にもわかりません。自分が「命を懸けた」行為で、本当に命を落とし、弥助用とした人も命を落としたとしたら…と考えると一概に「正しい」とも言えませんよね。
 ヴァイオリンの演奏「ごとき」(笑)に命を懸ける価値はありません。まぁ、そんな選択を迫られるような場面には遭遇しないのが普通ですが(笑)
 「欲」がある間は、モチベーションを保てますよね。「欲」を考えると実はその先にある「飴=にんじん」に向かっている状態です。ところが、その飴を「取らなければいけない」と思った時から「義務感=鞭」に代わってしまいます。しばらくはそれでモチベーションを維持できても、やがて「なんで?ここまでして飴をとらなければいけないの?」という事に気付いてしまいます。
 つまり、モチベーションを維持するためには、常に「飴」が必要なのです。「鞭」では維持できないのです。自分自身にご褒美をぶら下げながら、楽器の練習をする姿を想像すると情けないような気になるかも知れません。しかし、良く考えれば「生きたい」と思うことだって「飴」なのです。だからこそ、嫌なことがあっても、我慢できるのだと思います。
 ヴァイオリンをいくら練習しても上達しない時に、モチベーションが下がるのは自然なことです。そんな時、無理やり「鞭」を入れるより、自分にご褒美をあげることの方が大切だと思います。「ここまでよく頑張った!」「えらぞ!」「すごいぞ!」大人になって言われることのなくなった言葉です(笑)自分自身をほめてあげることが、モチベーションの維持に不可欠だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

速い指の動き「得手不得手」

 映像は若かりし日のアイザック・スターン様の演奏動画です。時代を超えて「すごすぎる」テクニックだと思います。
 趣味のヴァイオリニストから、世界一流のヴァイオリンソリストに至るまで、左手の指が6本ある人はいません。指の長さ、掌の大きさなどは人それぞれです。筋力の強さも、人によって違いますし、同じ人でも訓練によって強さと柔らかさを増やすことができます。
 今回のテーマは「左手の速い動き」について考えるものです。私の苦手分野代表選手です(笑)どうして?あんなに速く正確に左手の指が動くんだろう?と言う素朴な疑問を考えてみます。あれ?私が遅いだけ?

 ヴァイオリン・ヴィオラの左手は、他の楽器では考えられない「裏返し」になっていることは以前のブログでも書きました。左手の前腕(肘から手首)を「親指を前方に」回転させて演奏することになり、小指が手前に・人差し指が遠くになると言う「ねじれ減少」が起きています。このために、前腕の外側の筋肉=手の甲から肘までの筋肉が「引っ張られた状態」になり、指の自由度をさらに阻害しています。
 と…ヴァイオリン・ヴィオラを演奏する時の言い訳はここまで(笑)
 速いパッセージを演奏する時の左手の動きを整理します。
1.親指以外の指の独立した速い動き
2.弦を移動する時の指と手首・肘の動き
3.ポジションを移動する際の速い動き
4.上記の組み合わせ
次に「音型=楽譜」での指の動きを整理すると
1.1→2→3→4→3→2→1の順次進行
2..1→3・2→4・1→4のような上行の動き
3.3→1・4→2・4→1のような下行の動き
4.上記の組み合わせ
オープン=開放弦を含むものもありますが、省きました。これらの動きに「移弦」「ポジション移動」の動作が組み合わされる場合も多くありますが、「指の動き」で言えば上記の動きに整理できます。

 言うまでもないことですが、隣り合う指と指の「間隔」が半音・全音・半音+全音のいずれかであることは、ヴァイオリンを演奏した人ならだれでも知っていることです。
 これらの「並び方=隣同士がくっついたり離れたり」によっても、独立した動きのしやすさ・難しさに差があります。ただ、これはある程度慣れれば、速度の差はあまりありません。むしろ「音型の連続」が曲者です(笑)
 例えば「1→3→2→4」を一度引くだけなら早く動かせてもこれを繰り返して「1→3→2→4→1→3→2→4」となってくると、繰り返すうちに「頭がこんがらがる」状態になりませんか?え?私だけ?悔しいので(笑)これは?
「4→2→3→1→4→2→3→1」は?これも平気?がーん……私だって(笑)ゆっくりならできます。速く動かした時の問題です←負け惜しみ。

 人によって動かしやすい「指の順番」が違います。もちろん「速い動き」の場合です。
 ポジションの移動を伴いながら「音階」の上行・下行をする場合を考えます。
 1本の弦で「1→2→1→→2→3」が好きな人と「1→2→3→1→2」が好きな人がいます。前者の方が「ポジションの移動距離」は少なく=狭くなります。後者の場合ポジションを「三つ」上がることになります。問題は最後に到達🅂るう音が「2」なのか「3」なのかと言う問題があることです。。ここで曲が終わるのであれば、どちらの指で終わっても良いのですが、さらにその「続き」もあるのであれば、どちらの「指使い」が良いか?を考える必要があります。
 言い換えると「指使い」を考える時、自分の動かしやすい指の動きだけでは、連続して速く弾けないと言うことになります。

 楽譜で印刷されている指使いは「誰かが弾きやすい」と考えたものであって、すべての人にとって「ベスト」とは言えません。
 自分で考えることです。試すことです。
私自身、ツィゴイネルワイゼンの指使いを「今更」変えて練習しています。過去「偶然に弾けた」のかも知れないと思うと、自分の決めてきた指使いに疑問が生まれます。
 少しでも動きやすく、正確に速く演奏できる指使いを「探す」作業は時間がかかります。出来るようになるまで=考えなくても動くようになるまでには、さらに時間と経験が必要です。一生かかっても!弾けるようになりたいと思っています。「弾けるようになる気がしない」曲でも、もしかすると?いや、必ずいつか弾ける!
 ような気がします(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリン演奏時の「音量」を考える

 映像は、先月木曽福島で演奏した際にコンサートを主催した教育委員会がホームビデオやスマホで「客席」から撮影・録音した映像をつなぎ合わせたものです。当然、録音用のマイクも使用せず言わば「客席で聴こえあた音」に近い状態の動画です。周囲の雑音も録音してしまいますが、会場で響く「音」を演奏者が直接聞くことは不可能です。どんなバランスで?どのくらいの音量で?お客様に聴こえているのか?知りたくても実際にその場で確認することは出来ません。だからこそ、経験をもとに「勘」で音量を決めるしかないのです。会場によって、ピアノとヴァイオリンの「聴こえ方」が違います。客席の場所によっても変わります。それらすべてに対応することは現実的に無理です。一方でレコードやCD、テレビ放送の「録音」の場合、ソリストの音を大きく録音できます。バランスを演奏の後からでも変えられるのが録音です。一昔前、ピアノとヴァイオリンの録音をするときには、ピアノを遠くに配置し、ヴァイオリンの近くにマイクを立てて録音しました。そうすることで「バランス」を作っていました。
 つまり私たちが家やスマホなどで聴く「バランス」は実際にホールで聴くバランスとはまったく違うものが殆どだと言う事です。
 考えてみれば「ヴァイオリンコンチェルト」では、ソリスト以外にヴァイオリン奏者がファースト・セカンドそれぞれに、10人以上、合計すれば20人以上のヴァイオリニストがソリストのヴァイオリンと「同時に」演奏するのです。どんなヴァイオリンであっても、通常のヴァイオリンの20倍の音量が出せるヴァイオリンは地球上に存在しません。あるとしたら「エレキヴァイオリン」です(笑)

 大ホールで編成の大きなオーケストラとソリストが共演する…収益率を考えれば集客力の高い「有名ヴァイオリニスト」であればあるほど、大人数を収容できる大ホールを選ぶのが現代のコンサートです。ただ、聴く側の立場で考えた場合、どんなに優れたヴァイオリニストの演奏でも、例えば4階席の一番後ろの席から舞台上のソリストを「オペラグラス」で見るようなコンサートが楽しいでしょうか?東京ドームや武道館での「ライブ」の際に「5千人」「2万人」の人が集まって「聴くことができる」のは音響技術=P.A.があるからです。電気的に増幅した「声」や「楽器の音」を会場中に設置したスピーカーから大音量で鳴らします。確かにテレビやヘッドホンで聞くより「大迫力」の音量です。そう上に、会場中の人と一体になれる興奮を味わえるのもライブの醍醐味です。
 クラシックのコンサートにもこの「大会場」を持ってこようとするのは、無理があると思いませんか?事実、3大テノールのコンサートや、野外に巨大なテントで屋根を作ったオーケストラのコンサートでは「マイク」を何10本も立てて収音し、ライブと同じ「音響装置」で会場や屋外で聴く人に「電気的な音」を大音量で聴かせたものもあります。
 これはクラシック演奏の概念を変えるものです。仮にマイクで収音し、ミキサーやエフェクターを通して音を増幅するのであれば、ヴァイオリニストに「音量」を求める必要がありません。クレッシェンドだろうがピアニッシモだろうが「ミキサー」が操作すれば簡単に、かつ物凄い音量変化量でお客様に音を届けられます。音色も機械で操作できます。
 バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの時代から、現代の作曲家に至るまで「アコースティック演奏」つまり、生の音で演奏を楽しむ前提で楽譜が書かれています。
 いつの間にか「録音技術」が生まれ、次第にアコースティックから「電気的な細工」をするのが当たり前の時代になっているのです。「私は生演奏しか聞かない!」と言うクラシックの演奏かは、いないはずです。若い頃に、カセットやラジオの音で勉強したのではないですか?文明を否定するのは愚かなことです。その時代の文明…録音技術や機械技術、製鉄技術の発展で、楽器も進化しています。
 とは言え、クラシックの楽譜は生身の人間が演奏した音を、楽しめる「容積=大きさ」の場所で演奏することが前提のはずです。
 500人収容のホールでも、一番後ろの席で聴く音は、楽器が出す「直接音=ダイレクト」な音ではありません。反射音です。それ以上大きなホールなら、さらに小さな音しか客席後方には伝わりません。
 ヴァイオリニストに「大音量」を求めるのは間違っていると思います。ピアノと一緒に演奏して、100人ほどのお客様で満席になる程度の「容積=大きさ」の会場で、お客様が気持ちよく音楽を聴くことができる「音量」があれば、十分だと思っています。それ以上の音量が必要なら、マイクで収音すればよいだけです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

柔らかさと安定感と力のバランス

 映像はオイストラフの演奏するブラームス、ヴァイオリンコンチェルト。音色の柔らかさと力強さが大好きです。丸々とした体形はドラえもんチック(笑)ですが、時にシリアスに時にメランコリックに、ダイナミックにも演奏できる技術。憧れます。
 今回のテーマは「柔らかさと「安定感」と「力」について、。関連のなさそうなことですが、演奏する上で身体(筋肉と関節)を動かす時に常に考えなければならないバランスです。

 ます「柔らかい物」で連想するものは?
マシュマロ・プリン・つきたてのお餅←食べ物ばっかり(笑)
 手触りとして感じるものに、ふかふかのお布団やモフモフの猫や犬の毛、泡立てた石鹸などが連想できます。その「柔らかい物」を強い力で押せば?潰れてしまいます。また、柔らかいものを動かせば?ふわふわと不安定な動きをします。
 つまり「柔らかさ」と「力強さ」「安定感」は反比例することになります。
 固いものならば、強い力に耐えることができ、安定した動きを続けることが可能です。
ならば、演奏中の「筋肉・関節」は固い状態=力を入れた状態の方が、安定感と力強さを両立できることになる気がしますよね?実際にはどうでしょうか。

  映像は男子の「床」演技。どの技をひとつとっても見ても、素人の真似できそうな技はありませんが(笑)身体の柔軟性と、スピード(瞬発力)、力技、バランス感覚など人間の肉体が持っている「運動能力」がすべて疲れている気がします。ヴァイオリンの演奏と比較すること自体、間違っている部分もありますが、テーマを考えると?同じことが楽器の演奏にも求められていることがわかります。「固い=安定」ではなく、「柔らかい=與斉」でもないことが見てわかります。
 ヴァイオリニストの中には「見た目には柔らかそう」な動きをしているのに、音が硬く美しさに欠ける演奏になっている人の演奏も見受けられます。「見た目」と「筋肉・関節柔軟性」は別物です。力にしても「表情」や「雰囲気」と無関係にか細い演奏もあります。

 楽器を演奏するために必要な柔軟性と強さは、一般的な秋力や背筋力、体前屈などでは測れないものが多くあります。むしろ、計測できない柔らかさと筋力が必要になります。
 一つの例が、指を「開く筋肉」です。握力は「握る力」ですから真逆の力です。
 また、肘を「伸ばす力」も一般のトレーニング機器ではなかなか鍛えられません。「カール」の逆の力です。外側に開く力でもあります。
 手首を横に動かす可動範囲を広げることも柔軟性の一つです。掌を下に向けて、左右に動かせる角度の大きさです。

 柔らかい動きを作り出すのは「太く柔らかい筋肉」です。同じ筋肉を瞬間的に速く動かす時にも「瞬間的に力を抜かための筋力」が必要です。
 演奏しながら身体の「どこか」が筋肉痛になることがありますよね?間違った使い方でいたいのか?正しい使い方をし始めたから痛いのか?見極めることが大切です。
 筋肉は一朝一夕には太くなりません。柔らかくもなりません。演奏補法を変えれば、今までと違う場所が筋肉痛になるものです。
身体を労わりながら、必要な「ストレッチ」と「筋力の増強」を考えた練習をしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

ヴァイオリンを「習い」「教える」

 今回のテーマは、自分を戒める気持ちを込めて書きたいと思います。
 ヴァイオリンに限ったことではありませんが、「楽器の演奏を習う」時、師匠(先生)と弟子(生徒・門下生)が存在します。誰にも習わずに、独学で演奏技術を身に着けられる人もいます。それらの人の事を「自己流」と呼びますが、実はどんな演奏かも最終的には「自己流」だと思います。師匠の弾き方を真似をしても、それは「真似」でしかありません。師匠が考えて到達した演奏方法や解釈を「真似」することを「習う」と言うのでしょうか?疑問を感じます。

 芸は盗むもの…古典芸能は「一子相伝」の部分もあります。習って身につくものではないという考え方は、ある意味で的を射ています。「教えてもらえば(習えば)師匠のように出来るようになる」と言う、弟子(生徒の)の安直な気持ちを戒める意味でも正しい事だと思います。

 ヴァイオリンを「習った」私が、今現在生徒さんに「教える」と言う事の意味を考える時に、本当に正しいことを教えているのだろうか?と言う疑問を常に考えてしまいます。
私の恩師は決して音楽を「押し売り」されませんでした。冒頭の長沼由里子さんは同門の尊敬する大先輩のおひとりです。長沼さんに限らず、私の恩師である久保田良作先生は素晴らしいヴァイオリニストでありながら、ご自身のヴァイオリン演奏を弟子に押し付けられたのを見たことがありません。レッスンでは素晴らしい声でフレーズを歌って教えて下さることが多かったのを記憶しています。もちろん、先生ご自身のヴァイオリンを手に取って「サラッと」弾いてくださることもありました。でも、決してその演奏方法を「こう弾きなさい」とは仰いませんでした。
 もっぱら指摘されるのは「形」「力」時に「姿勢」でした。発表会で演奏し終わった後の「天の声」先生からのメモにも「ひじ」「手首」「首」などの言葉が書かれていました。

 演奏の「テクニック」「解釈」も最終的には自己流になります。筋肉の付き方、骨格、柔軟性などが「全く同じ」人は一卵性双生児かクローンでなければあり得ません。
 自分が最も「演奏しやすい」方法で演奏することを「自己流」と考えるのは自然なことです。自分と違う筋力・骨格の生徒さんに、自分の演奏方法で演奏させることが「正しい」とは思いません。生徒さんができ鳴った時に「できなくて当たり前」つまり、自分とは身体の作りそのものが違う事を理解してから指導すべきです。
 習う側…生徒の立場で考えれば「出来ない」原因と「出来ているつもり」で実は出来ていないことを指摘してもらえるのが、レッスンの意味だと思います。
 出来ない原因の多くは、先述の通り「骨格・筋力」の違いと「動かし方の違い」です。以前のブログで書いた「脳からの指令」つまり考えて身体を動かす訓練は、どんな運動にも必要だと思いますが、肝心の「運動能力」はすべての人が違う身体で、違う能力を持っています。
 練習によって出来るようになることなら、教えても良いと思います。ただ、その練習で生徒さんが不必要に苦しんで、さらにストレスを感じ、最終的に楽器の演奏から離れてしまう悲しいことになるケースも見られます。
 「教えてはいけないこと」もあると思います。それは「考えることを省かせる」結果につながる内容です。例えば「音楽の解釈」もっと具体的に言えば「歌い方」「音符の長さ」「ルバート(自由に揺らす演奏)の仕方」などを安易に真似させれば、生徒は考えずにその通りに演奏するでしょう。そして「うん。これが良い」と思えば、教える側も嬉しくなってしまいます。「ネズミにチーズを一切れ与えれば?」当然、次のチーズをもらいたくなります。自分で考えることこそが「自己流」である演奏技術につながることです。
 生徒さんに教えて良い事とは?
哲学的になってしまいますが「真理」だと思っています。どんな人にも共通すること。それは科学的にも肯定されること。それが真理だと思います。人によって少しでも「意義」の違う事や、物理的に違う「筋力・骨格・柔軟性」は教える対象ではないと思います。「これがいいでしょ?」と先生に問われれば「いいえ」とは答えにくいのが生徒です。「よくなったよ」と先生に言われれば嬉しくなるのも生徒です。問題は「生徒自身で考え、行きついた演奏技術」なのかどうかです。成長の途中、上達の半ばにいる生徒にとって「藁(わら)にも縋(すが)る」気持ちになるのは自然なことです。だからこそ、教える側の責任は重たいのだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンを持ち替えて起こる混乱

 上の写真、私が13歳から50年間愛用しているヴァイオリンと、陳昌鉉さんが晩年作成された(2010年頃)木曽号というヴァイオリンです。木曽号を使っての演奏を、長野県木曽町から依頼されて今回で3年目の演奏会ですが、今回「楽器の微妙な違い」が演奏する際にどんな影響を与えるのか?について「言い訳がましく」(笑)書いてみます。

 演奏技術の中で「楽器が変わっても慣れる技術」があるのかどうか?少なくとも、私のように1丁のヴァイオリンだけで演奏活動をする人間にとって「別のヴァイオリンになれる」必然性がないのは事実です。ただ、多くのヴァイオリニストの皆さんが「買い替える」場合やスポンサーから「貸与」される場合もあります。買い替えれば、それが「自分の楽器」になるのですから、慣れることは必須条件です。またストラディヴァリの楽器を貸与されるようなソリストの場合にも「楽器に順応する」技術が必要です。そのストラディヴァリの楽器を含め「楽器ごとの微妙な違い」があります。

 演奏する上で最も問題になる違いは「ネックの太さ」「正確なピッチを出す位置=駒と上駒(ナット)の距離」「弦高=指板と弦の隙間」です。この他の違い…例えば「重さ」や「ニスの色」などの違いは演奏に関わりません。
 ゆっくりしたテンポの曲であれば、上記の違いはそれほど問題になりません。「狙う」時間があるからです。修正する時間もあります。
 一方で「速い動き=短い音符が連続する」場合にはピッチの安定性が困難になります。
 すべての楽器で「ポジション=弦を押さえる位置」で半音の幅・全音の幅が「ごく僅か」に違います。それを瞬間的に完璧に把握し続けるのが最も難しいことです。

 一つの楽器に慣れるために「必要な時間=練習」は、普段使っている楽器との「差」にもよります。違いが大きいほど、慣れるための時間が多く必要です。
 今回、11月18日に木曽福島で演奏した後、12月17日には地元でのデュリサイタルで「自分のヴァイオリン」を演奏する日程で、あまり木曽号に「入れ込む」のも無理があります。同時期に複数のヴァイオリンで演奏することは避けるべきかもしれませんが、どちらも大切な演奏の機会です。挑戦します!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と身体の「同期」と「独立・分離」

 映像は10年前のデュリサイタルで演奏した、サラサーテのツィゴイネルワイゼン。
代々木上原ムジカーザでの演奏です。
 今回のテーマは、多くの生徒さん…特に大人の生徒さんたちが頭を悩ませる内容です。

 まず音楽を演奏する時に使う身体との関係です。どんな楽器でも声楽でも「身体」のどこかを使って音楽を演奏します。コンピューターが自動的に音楽を演奏してくれる状態は「演奏」とは言いません。敢えて言うなら「機械の操作」です。
 音楽を演奏する人にとって、自分の「身体の「どこ」を「どう」動かすのか?そしてそれが「思ったように」動いているか?を常に考える必要があります。「無意識」に身体の一部を動かすこともできますが、まず!自分の意識で筋肉や関節を「思った通り」に動かせるようにする訓練が必要です。
 演奏を「運動」として捉える時に「音楽との同期」を考えることが先決です。わかりやすく言えば「音楽と身体の動きを紐づける」ことです。小さな子供が音楽に合わせて体を動かしたり、首を激しく振ったり、手を叩い理するのも「音楽に合わせて体が動く」ことの表れです。逆の例え話だと、音楽に合わせて手拍子をしている人の中で、少しずれている人が必ずいるものです。

 音楽を聴いて「感じる」もの。耳が聞こえる人なら「音=空気の振動」で、耳の聴こえない人なら「身体に感じる振動」です。
「音」と「音楽」の違いがあります。音は音楽とは限りません。車の走行音、鳥の鳴き声などを音楽とは感じません。音楽に感じるかどうか?は個人差もありますが、ほとんどの人…音楽を普段聞かない人も含めて「音楽」に感じるのは「メロディーに聴こえる音」「和音に感じる音」が聴こえた場合です。メロディーとは「音の高さとリズム」で創られます。
しかも「ランダム=不規則」に音の高さと長さ(リズム)を組み合わせた「音の連続」は音楽に感じる人はごくわずかです。
 また同じ高さの音を同じ長さで、延々と繰り返していると「何かの機会の音」に感じます。電話の「話し中」の音や、アラームの「ピピ・ピピ・ピピ・と言う音に感じます。
 和音は「異なる高さの二つ以上の音が同時になったときに響き」ですから、半音違う二つの音が同時になっていても「和音」です。

「聴きなれた和音」例えば「ドミソ」のような音の重なりを聴くと、音楽を知らない人でも、何の音か?わからなくても「安心感」「親しみ」を感じます。 

 音を音楽として感じられた後の「感覚」として、速さ・強さ・明るさを感じられます。
 速さは「音の長さ・短さ」でも感じますし「拍と拍の間隔」にも左右されます。さらに言えば「楽譜で見た目」の速さと実際の演奏で感じる「速さ」は別のものです。
 冒頭の動画「ツィゴイネルワイゼン」で後半に演奏するヴァイオリンは「速い」と関zる部分です。演奏する「テンポ」を変えれば、遅く感じます。当たり前です。

 音の大きさは「生」で聴く場合と「録音」を再生して聴く場合で全く違います。生で聴く場合も「大ホール」の後ろで聴く場合と「サロン」で目の前の演奏を聴く場合で違います、
 「明るさ」は音楽的に「長調・長音階・長三和音」として判断できる人は限られています。「なんとなく」感じるのが音楽の明るさです。本来「調性」とは無関係の「ゆったりした静かな音」は暗い…と思われがちで、「速く大きな音の音楽」は明るいと勘違いする人もいます。歌詞がある「歌」なら歌詞の内容や歌い方でも暗いと感じる人もいます。

 演奏する人が音楽に合わせて動けるか?感じた「明るさ」「強さ」を身体で表現できるか?を考えます。例えば「振付」や「ダンス」を真似事でも良いので考えることができるか?という事です。激しく速く明るい音楽を「身体全体」を使って表現するとしたら、どんな動きを想像しますか?逆に、緩やかで穏やかな暗い音楽を表現するとしたら?
 まずは「ここから」だと思います。

 自分が演奏するわけですから、自分の「頭の名K」で決めた「速さ・大きさ・明るさ」を自分の身体を動かして楽器を演奏することになります。頭の中にそれらがなければ?ただ、「音が出た」と言う結果だけが残ります。出してしまった音に「同期」することは不可能です。なぜなら「同期」するためには「予測」が不可欠だからです。次に演奏🅂る「音」の「時間」「大きさ」「明るさ=音色」を決めてから演奏することが「音楽との同期」だからです。誰かが演奏する生音楽に、完全に同期させることは物理T劇に不可能です。当たり前ですよね?予測できないからです。「聴こえた音に反応する」のでタイムラグが起きます。つまり「遅れる」か「飛び出す」ことになるのが当たり前なのです。偶然にタイミングが合うこてゃあり得ても、それは「まぐれ」です。同期とは言いません。

 最後に「独立・分離」の話を書きます。
一般に体は「同時に同じ動きをする」ものです。例えば、右手と左手で同じ「グー」「チョキ」「パー」を続けて出すことは誰でもできます。でも右手と左手で、いつも違うグー・チョキ・パーを続けることはものすごく難しいことです。
 ヴァイオリンの生徒さんの多くは「右手と左手」が一緒に動いてしまいます。例えば、弦を押さえるのと同時に「弓を返す」こてゃ出来ても、「先に弦を押さえたり離したりする」つまり、右手が止まった状態で左手の指だけを動かすことが出Kないのが普通です。
 スラーの場合は、右手を動かした状態で左手を動かすので「何とか」出来ても、移弦を交えると右手の移弦の運動とスラーが「分離」出Kません。さらに左手の動きとスラーが無意識に同期=一緒に動いてしまいます。
 私たちが日常生活の中で、左右の手足・指・声・注視するものなどを「バラバラ」に動かしている場面があります。車の運転、自転車の運転、原稿を読みながらのスピーチなどが思い浮かびます。

 運動神経と呼ばれるものにも「瞬発力」「持続力」「反応速度」などがあります。
音楽家に「運動音痴」が多いのも事実です。幼いころ個から楽器だけを演奏し、球技は「柚木を痛めるから御法度」(笑)で育った人も多いので仕方ありません。
 キャッチボール、サッカーをして遊び、縄跳びや跳び箱は小学校の体育の時間に習います。球技の場合は「予測」と「反応」が重要です。ボールが飛んでくる場所を予測し、そこにグローブやバットを出すと言う一連の運動です。
 他人の動きを「予測する」「反応する」ことが求められるスポーツの代表が、ボクシングだと思います。いくら腕力が強くても相手の動きが「読めない」ボクサーは勝てません。
 他人とシンクロするスポーツの一つが「シンクロナイズドスイミング」と「新体操」です。音楽に合わせて全員が「それぞれに」動く。音楽の「拍」を予測する能力と、身体を同期させる技術が不可欠でです。
 スポーツではありませんが「マーチングバンド」の場合にも楽器の演奏をしながら、歩幅を完全に一致させながら「歩く」「曲がる」「止まる」ことが求められます。

 楽器を演奏する時、音楽を聴いて楽しむ場合とは異なる「運動の制御」が求められます。
1.自分が作りだす「体内時計=インターナルクロック」は演奏する前から始動させます。
2.自分が作った「速さ=流れ」が決まったら、音を出す」前」から運動を開始させます。実際に指や弓を動かす運動ではなく「音を出すための予備運動」です。「力を貯める」「動きながら音を出す」「ヴィブラートをかけは踏める」なども予備運動です。
3.音を出しながら次の「運動」を感が増す。当然「今現在、出ている音を聴きながら」の運動です。
4.運動を意識して音を出す練習を繰り返すことで、意識しなくても運動を同期・分離できるようになります。習得に係る時間は様々ですが「必ず」出来るようになります。
5.演奏しようとする音楽・音と、そのために必要な予備運動と実際に音を出す運動、さらに次の音への「リレーション」を、「音色」「音量」「ピッチ」それぞれに考える習慣をつけましょう。
 大切なことは「音を出してから考え・動く」のではなく「考え・運動を開始してから音を出す」ことです。聴いている人には「突然始まる」音楽であっても、演奏者には「その前」が必ずあるのです。

 違う言い殻を擦れば「音を出す目の運動があって音を出す運動につながる」のです。
 手漕ぎボートを想像してください。ボートが進む=動くためには、オールを自分の身体より「後ろ」の水面に沈めなければ、水を「掻く」ことは出来ません。
 演奏中、常に「音」の前に予備運動があり、音を出す運動も様々な筋肉や関節を「バラバラ」あるいは「同時」に動かす技術が必要になります。常に自分が「音の前に居る」意識を持つことが大切だと思っています。

 下の演奏は、作曲者サラサーテ自身が演奏しているツィゴイネルワイゼンの雑音を消去したものです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色の融合=音楽の色彩感

 映像はメリーオーケストラの演奏するラヴェル作曲の「ボレロ」です。オーケストラは数多くの、音色の異なる楽器が「同時に演奏」されることで、音色が融合するのが特徴です。同じヴァイオリンでも少しずつ音色が違いますが、たとえばフルートとヴァイオリンは、音域的に近くても「音色」が全く違います。ファゴットとチェロも音域は近い楽器です。クラリネットとサキソフォンは「リード」で音を出すことは同じですが、楽器の材質が違い、音色は似ていますが良く聴いてみると違います。ラヴェルはオーケストレーションの魔術師だと思っています。音色の融合に関して、独特の美しさを感じます。

こちらの映像は、ピアソラの作曲した「タンゴの歴史」から「カフェ」と「ナイトクラブ」をヴァイオリンとピアノで演奏した動画です。先ほどのオーケストラと比較して「楽器の種類=音色の種類」はたった二つですが、「それもいい!」と思うのです。
 ピアノだけの演奏になれば、さらに楽器の音色は1種類になりますが、「これもいい!(笑)」のです。
 ボレロで感じる「色彩の豊富さ」は、楽器の種類が減れば当然に少なくなります。聴く人にとって「多彩な音色」を楽しめるのがオーケストラの演奏だとすれば、「単色の絵画」例えば水墨画の美しさが、ピアノ1台による演奏に感じられます。
 ピアノとヴァイオリンで演奏することの多い「ヴァイオリン小品」や「ピアノとヴァイオリンの為のソナタ」を考えると、「2色」で描かれた絵画に近いものがあります。
 ヴァイオリンとピアノの2種類の音色が溶けて、新しい一つの音色になります。
 二つの楽器の「バランス」で音色が変わります。これは実際の「色」で例えればよくわかります。赤と白の絵の具を混ぜた時を考えてみれば、「薄いピンク」もあれば「赤に近いピンク」も作れます。繊細な色の違いを楽しむことができます。
 また、演奏の仕方によってヴァイオリンの音色を明るくしたり暗くすれば、また新しい色が生まれます。
 ピアノとヴァイオリンの「音」は以前にも書いたように「波形」が違います。「打弦楽器」と「擦弦楽器」は、音を出す仕組みが違います。同じ「弦」と言っても、ピアノは「ピアノ線=鋼鉄のスチール弦」であり、ヴァイオリンは「ガット=羊の腸の周りに金属の糸を巻き付けた弦」です。ヴァイオリンのE戦は全体が金属で出来ていますし、演奏者によってはE戦以外にも「スチール弦」を使用する人もいます。好みの問題です。
 ヴァイオリンの弦をスチールにしたからピアノと音色が似るわけではありません。
 さらに厳密に言えば、ピアノは「平均律」で調律されます。ヴァイオリン「単体」で演奏したり、弦楽器・管楽器だけで演奏する時には「純正律」でチューニングします。ほんの少しの「音の高さの違い」ですが、ピアノとヴァイオリンで演奏する時に、ヴァイオリンのG線の開放弦=最低音のソを、純正律で完全5度の組み合わせにして調弦=チューニングしていくと、明らかにピアノの「G=ソ」と違う高さになります。同じことはヴィオラの最低音C=ドでも言えます。ピアノの調律を変えることは不可能ですから、ヴァイオリン・ヴィオラが必要に応じて最低音を少し高くして、ピアノに合わせた方が、聴いている人には心地よく聴こえます。もちろん、そこまで気にしていないお客様の方が多いのですが(笑)演奏者として「気になる」のも事実です。

 最後に「音量差」「音域の違い」について少しだけ触れます。オーケストラの「音量差=ダイナミックレンジ」とヴァイオリン1丁のそれは、「天と地」ほど違うのは当たり前です。そもそも、ヴァイオリンだけで10人演奏するオーケストラなら「音量の差」が最大で10倍になるのです。さらに管楽器、打楽器が加われば…。
 ピアノは「ピアノフォルテ」と言う名前がある通り、時代と共に構造が変化する中で「音量差」「音色の豊富さ」が格段に増えた楽器です。鋼鉄のフレームで30トン以上の張力に耐え、羊の毛=フェルトを2トン以上の力で圧縮したハンマーを使う事で「音量」「音色」「音域」に広がりができました。
 ヴァイオリンは300年以上前から「弦の種類」以外は大きく進化していない楽器です。
 音量・音色・音域が、ほぼ300年前と大差ないという事になります。
 言ってみれば、クラシックカーと最新のスポーツカーが同時にサーキットを走っているようなものです(笑)
 どんなに演奏者が頑張ったとしても、ピアノの性能に勝てるはずがありませんよね。
 それでも聴いていて「新しい音色」になるのが音楽の良さです。車のレースと違い、200年以上の「進化の違い」があっても、一緒に演奏出来て、自然に聴こえるのが音楽の楽しさです。
 ある音楽が作られた当時に使われていた楽器を使用して演奏する人たちが世界中に居ます。「それも」楽しいことです。それが「正しい」とも思いません。当時でも「当時の最新の楽器」を用いて演奏していたのですから。
 複数の楽器の「融合」は、二人以上の人間の「共存」でもあります。演奏者同士の「気持ち」が融合することが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供と大人の「緊張」

  映像は保護者の方の同意を頂いて使わせていただいた、小学校2年生の生徒さんが演奏する動画です。エルガー作曲の「6つのやさっしい小品」です。幼稚園の頃からヴァイオリンを教えているのですが、レッスンに同伴されるお母さんに「言いたい放題」の甘えん坊=反抗的な幼児(笑)のまま小学生になりました。これまでにも、多くの「絶賛反抗期中」の子供たちを見てきているうえに、自分自身も似たり寄ったりの幼少期を過ごしたので扱いには「慣れたもの」です。
 この少年(仮名A君)に限らず、子供でも日常と違う環境に遭遇したときに、普段と違う態度・言動・心理状態になるものです。「子どもは緊張しない」と言う人がいますが、私は違う気がします。例えば、言葉を話せない赤ちゃんがお母さん以外に抱っこされると、不安になって泣きだすことは誰でも知っています。話せるようになった幼児が「人見知り」するのも、ごく普通の事です。成長につれて「抑制」することを覚えます。それでも緊張や不安は感じるのが人間です。言い換えれば「日常」と「非日常」を区別する能力があるから起こる現象です。人間以外の動物にも見られることですよね。知らない人に吠える犬。知らない人が来ると物陰に隠れる猫なども、不安と緊張から自然に行動として現れます。

 音楽を演奏していて「緊張」したときに起こる現象は様々です。足が震える・膝ががくがくする・手に汗をかく・頭が真っ白になる・演奏している感覚がない・終わっても何も覚えていないなどなど。楽器の演奏に限ったことではなく、人前で話をしたり、初めての人と会話する時にも「緊張」しているはずです。ただ「慣れることで人前で話したり、初対面の人と笑顔で会話したり「コントロール」できるようになるだけです。
 どんなに慣れたことでも、環境が変われば緊張するものです。演奏に関して言えば、人前で演奏し慣れている人でも、演奏する曲によって不安を感じることもあります。また、体調によっては演奏に不安を感じることもあります。
不安は「過緊張」につながります。ある程度の緊張は、日常生活で頻繁に直面します。言ってみれば「耐性」が出来ています。

動画でヴァイオリンを演奏している、A君のレッスン時の演奏とお母様から聴いている自宅での練習、そして本番での演奏を考えてみます。
 レッスンで生徒さんの演奏を聴くと、自宅での練習内容は指導をする経験を重ねると説明がなくても想像ができるようになるものです。前回のレッスンで指摘したことを、本人がどの程度、理解していたか。それを出来るようになる「努力」をどの程度していたか。レッスンの都度、多少の違いはありますが、A君は私が指摘し課題にしたことを、70~90%程度、出来るようにしてきます。すごい事だと思います。とは言え、小学2年生の男子!なのでレッスン時の集中力にはムラがあります。大人とは大きな違いです。
 本番で演奏前に「足が震えた」とご家族に話したそうです。演奏前、演奏中の表情も普段とは別人のような「緊張」した顔でした。
 演奏は?レッスンの時に集中して弾けたときと同じ演奏が出来ていました。素晴らしい!むしろ、レッスン時に気が散っている時や、うまく出来ずにイライラして拗ねている時の演奏に比べて、はるかにきれいな音で丁寧に演奏していました。
 レッスンで間違えたことのない場所で、初めて聴く「作曲」はしていましたが(その部分は割愛しました)、その直後に立ち直りました。
 子供らしい「緊張の表れ」が動画の最後に見られます。演奏が終わり拍手が始まっている時に、ヴァイオリンを構え直しています。もしかすると…「お辞儀」と「演奏の合図」がすり替わったのかもしれません(笑)可愛らしくて思わず袖で吹き出しました。

 大人の生徒さんが過緊張で「パニック」状態になることがあります。子供は間違えても、パニックにはなることは、ほとんどありません。
 子供は「言われたことをその通り」にしようとします。お辞儀にしても、合図にしても、演奏の仕方にしても、基本的にいつもの通りに行動します。無意識に表情や言動が変わることはありますが、演奏については普段と変わりません。
 本番の時に「うまく弾こう」とか「本番だから」という特別感が演奏には現れません。
 大人の場合には?「本番」で「特別感」が演奏に多く表れます。「いつもより」落ち着こうとしたり、「いつもより」失敗しないことを考えたり、「いつもより」が良くないのです(笑)頭の中では「いつも通り」と思っていても無意識に「いつもより」が頭の中を支配します。結果、普段と違う「思考」「行動」をしてしまします。
 レッスンだけ考えれば、子供より大人の生徒さんの方が、指示やアドヴァイスを素直に受け入れてくれます。メモを取ったり、楽譜に書きこんだりするのも大人の生徒さんです。自宅で練習する時も、そのメモや書き込みを見直し、レッスン時の指示を思い出すのも大人の生徒さんです。なのに!本番では普段と違う演奏になってしまいます。

 音大生やコンクールを受ける人、あるいは人前で演奏する機会の多い人たちは「緊張」しないのか?と言えば、答えは「緊張します」なのです。どんな人間でも「初めての環境」に遭遇すれば普段とは違う感覚を感じます。犬や猫でもそうですよね?どんなに経験を重ねても「初めて」の曲や会場、お客様の前で、いつもと違う感覚になるのは当たり前です。ただ、その経験を繰り返すと、その「新しい感覚」にも「慣れる」のだと思います。
 例えば、いつも新しいお客様に対応する店員さんは、初めての人と会話をすることに慣れていきます。いつも違う場所で講演する人も同じです。私たちの日常でも、常に新しい環境に出会っていますが緊張しないのは、そのこと=新しい環境に遭遇することになれているからです。
 趣味で楽器を演奏する大人の生徒さんが、その「新しさ」になかなか慣れないのは無理もないことです。むしろ「子ども」が特別なのです。
 子供は大人よりも「新しいこと」に出会う機会が多いのです。学校や日常生活で「学ぶ」経験や知識が圧倒的に多いのです。
 子供にとって発表会で演奏することも、学校で始めて「九九(くく)」を習う事も「似たり寄ったり」なのです。
 さらに大人の生徒さんは子供に比べて「音・音楽」以外の事に気を遣いながら練習します。これは「良いこと」なのですが、本番でそれが悪い方に出てしまうケースがあります。
 例えば「指使い」を間違えないように気を付けて練習している時に、「音」が意識の外に行ってしまうケースです。スラーやヴィブラート、ポジション移動など練習の「内容・項目」は演奏する部分によって違います。音楽が「細切れ」になってしまい、一度間違えると収拾がつかなくなる原因の一つです。
 以前のブログにも書きましたが、音楽を「連続したひとつの流れ」として記憶することが大切です。 大人は年齢を重ねるほど「新しく覚える」機会が減ります。その結果「記憶したものを思い出す」ことも意識して行なうことが少なくなります。演奏は「記憶」によって行われるものです。楽譜を見ながら、情報をすぐに処理して「音」にする技術・能力は一朝一夕に身に付きません。いわゆる「初見」能力です。音楽の先=次を予測する技術も、経験で身に付けるしかありません。
 大人も子供も本来の「演奏能力」には大差ないはずです。むしろ大人の方が多くの知識と、長時間の集中ができます。楽譜を見ながら弾けばいつも通り弾ける…と思い込むのも大人です。楽譜の情報を常に読み取っていない=楽譜が役に立っていないのも大人です。
 頭が真っ白になっても、足が震えても、いつものように演奏できる「子ども」を見習うべきことがあります。「音楽を体で覚える」ことです。子供は「運指」や「ダウン・アップ」「スラー」を間違えても「音楽」を思い出して演奏します。途中で止まっても「続き」を思い出してつなげて演奏します。演奏中に客席に友達や家族を探してキョロキョロしながら演奏できます。
 九九を覚えるつもりで、1小節ずつ・1音ずつ音楽を覚えていけば、どこからでも演奏できるはずです。
 練習方法こそ「子どもに学べ」だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

職業音楽家と趣味の音楽家

 映像は「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏した動画です。
 今回のテーマ「職業」で音楽を演奏する人と「趣味」で音楽を演奏する人の共通点と違いについて考えます。
 一般に「プロ」と「アマチュア」と言う言葉がありますが、プロ(プロフェッショナル)を「専門家」と捉えることもできますので、敢えて「職業」と言う概念で考えてみます。

 職業として音楽を演奏することを、もっと現実的に言えば「演奏で生活をする=生計を立てる」という人になります。演奏のジャンルを問わず、演奏「だけ」で生活する人、もしくはほとんどの収入を演奏で得ている人を「職業音楽家」としてみます。団体に所属して給与を毎月もらって生活する「職業音楽家」もいれば、毎回演奏するたびに報酬を受け取る人もいます。どちらも同じ職業演奏家です。
 一方で「趣味の音楽家」は、演奏で生計を立てていない人、あるいは演奏以外に生活する収入を得ている人で「演奏をする人」と言う広い定義で考えてみます。人前で演奏する人もいます。自宅だけで演奏を楽しむ人もいます。生活するための「お金」は他の仕事で得たり、年金だったり「遺産」だったりと様々です。成人していない子供の場合でも、演奏だけで生活費をすべて稼ぐ人であれば「職業演奏家」と言えますが日本では「保護者」が法的に必要ですので現実的には「趣味の演奏家」と言うべきです。

 ここで、いくつかの項目に分けてそれぞれを比較してみます。
1.演奏技術のレベル
・職業音楽家の方が必ず上手とは言えない=趣味の演奏家の方が下手だとは言えない。
・職業演奏家は「演奏の依頼主」や「聴衆」に技術を認めてもらえないと生活できない。
・趣味の演奏家は誰の評価も必要とせずに演奏を楽しめる。
つまり職業演奏家と趣味の演奏家の「どちらがうまい」と言う定義はないのです。
 職業演奏家より技術の高い「趣味の演奏家」は世界中に数えきれないほどいるはずです。ただその人の演奏が「表に出ない」場合もあるのです。逆に職業演奏家の演奏は「誰かに聞いてもらう」ことで初めて収入を得られます。
2.演奏の「自由度」
・職業演奏家の多くは「依頼主の提示したプログラム」か「集客力の高いプログラム」で演奏することになります。
・趣味の演奏家は、自分の好きな曲を好きな時に、好きなように演奏できます。
3.演奏する喜び
・職業演奏家は自分の好きな音楽でなくても演奏する必要があります。時には「嫌でも」演奏することが求められます。
・趣味の場合、レベルは様々ですから本人の達成感も大きな差があります。ただ「好きだから演奏している」のは間違いありません。嫌なら違う趣味に乗り換えれば良いだけです(笑)
4.修得すべき技能・知識と学歴・経歴
・結論を言えば、職業でも趣味でも「肩書より実力」です。特にここ数十年、世界中で「音楽大学卒業」は職業音楽家になるための「必須要件」ではなくなりました。むしろ、多くの知識と演奏以外の見識を持った職業演奏家が年々増加しています。逆に、音楽大学を卒業して「趣味の演奏家」になるケースも増加しています。

5.音楽に関われる時間
・職業として演奏する場合には「練習・準備」と「リハーサル・演奏会」に多くの時間を必要とします。むしろ「充実した生活」とも言えます。
・趣味で演奏する場合、生活のための仕事がある人がほとんどです。家事や育児もその一つです。自分の時間を見つけることが難しく、体力的にも楽器を毎日演奏することも難しいのが現実です。中には仕事をリタイアし、のんびりとした日々を送ることのできる高齢者も「少し」いらっしゃるのも事実です。その方たちにとって「趣味の音楽」は生き甲斐にもなり得ます。

こうして比較してみると、職業として演奏家になることは「毎日演奏できる」と言う点以外では、趣味で演奏を楽しむことの方が自由に演奏を楽しむことができる喜びを感じられることになります。「プロになる!」と夢をもって練習することは素敵なことです。しかし多くの場合「挫折」によって楽器を演奏すること自体から離れてしまいます。楽器を演奏したいという「目的」がいつの間にか「音大に合格する」ことや「コンクールで優勝する」ことが目的になってしまう悲しいケースです。
 趣味と割り切って練習する人の多くが「プロのようにうまくならなくてもいい」という間違った先入観を持っています。先述のように「プロよりうまいアマチュア」は世界中に居るのです。音楽大学やコンクールは「うまくなるための条件」ではないのです!
 自分の好きな音楽を、好きなように演奏する技術を身に着けるために「長い時間」が必要です。それを「苦労」と考えるのなら楽器の演奏には向いていないかも知れません。練習そのものが「楽器を演奏する」ことでもあります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の「味つけ」「色付け」「香りづけ」

 演奏は2023年10月17日に木曽町のおもちゃ美術館でのライブ風景です。この夜、アンコールも含め12曲を響き豊かな、木の香りに包まれた会場で演奏させていただきました。
 今回のテーマは、音楽を演奏する際の「表現」を、味覚や視覚、嗅覚に置き換えて考えてみるものです。
 一般に使われる言葉に「色気」という表現があります。
単に女性・男性の「妖艶さ」「性的なアピール」以外にも、雰囲気を表す時にも使われる言葉です。行き過ぎれば「いやらしい」イメージになりますが、良い意味での「色っぽさ」は音楽にも必要な場合があるように思いま宇す。「色気」の色が何色?と言う定義はありませんよね?でも「色」と言う言葉が使われます。

 味・色・香りに「薄い(弱い)」と「濃い(強い)」という差があります。感じ方は人それぞれです。
科学的に分析した数値が同じでも、薄いと感じる人と濃いと感じる人がいます。また「無色」「無味」「無臭」という言葉もあります。これらが「悪い」とは限りません。
むしろ「純粋」「清らか」というイメージを感じる場合もあります。

 音楽の表現は「大きい・小さい」「高い・低い」などの表現が使われますが、物理的な「音圧」「周波数」よりも、感覚的な表現が音楽には多用されます。
 演奏に「味」「色」「香り」を加える…と言うのは「比喩=たとえ」ですが、聴覚以外の感覚に例えるとイメージしやすくなります。ワインのソムリエが「味」「香り」「色」を表現する時に様々な表現=比喩を使うのも同じ理由だと思います。
1.無味無色・無臭な演奏とは?
「一定の音量・音色・テンポの演奏」かも知れません。
楽譜に書かれた「音の高さ」「リズム」を一定のテンポで同じ音色で演奏した場合が該当すると思います。
2.薄い味・色・香りの演奏は?
上記1.に「少しだけ」変化を付けたもの…
と言っても、楽譜に書かれた音の高さとリズムを変えてしまえば「違う」味・色・香りになってしまいます。
薄い・少ない変化と感じるためには、繊細な感覚が必要です。音楽でも同じです。
濃い・大きな変化は、誰にでも感じられます。
「薄ければ良い」「濃ければ良い」と言うものではありません。食べる人・見る人・嗅ぐ人の好みによりますが、弱すぎれば「物足りない」と思われ、強すぎれば「刺激が強すぎる」と思われます。
 味も色も香りも「相対=比較や変化」で印象が変わります。甘いものを食べた後に、酸っぱいものを食べると刺激を強く感じます。甘いものに少しだけ「塩味」を加えると甘さを強く感じます。明るい場所から暗い映画館に入ると「暗く」感じます。香水も慣れてしまうと感じなくなってしまいます。

 味と香りの組み合わせで「錯覚」することもあります。
おなじ甘さのキャンディに「オレンジの香り」を付けると「オレンジ味」に感じ、「イチゴの香り」を付けると「入り味」に感じますが錯覚です。
 音楽の場合も同じです。聴いていて「飽きる」のは、変化がないからです。変化を少なくすることで「穏やか」にも感じます。

 薄味が好きな人もいます。淡い色彩の絵画が好きな人も、ほんのりした香りが好きな人もいます。
 濃い味つけ・原色・強い仮が好きな人もいます。
演奏にも同じことが言えます。ただ、音楽によって「変える」ことも必要だと思います。音楽=楽譜の違いは、素材・描く対象・香りをTPOによって「適した薄さ・濃さ」があるのと同じです。
 淡白な味の素材に「濃い味付け」をしてしまえば、素材の味は感じられませんよね?「空と雲」を描く時に原色だけを使って描く人はいないでしょう。学校の保護者参観に「きつい香水」を付けていくのは?嫌われますよね(笑)
どんな音楽にどんな味つけ・色付け・香りづけをするのか?は決まっていません。自分の慣性だけが頼りです。
 怖がって「無味無臭・無色透明」な演奏をするのも間違っています。
 恐れず・謙虚に音楽に自分独自の「色・味・香り」を付けることが、私にとって一番楽しい時間です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の評価と価値・価格を考える

 上の映像は「格付けチェック」でどちらが高い楽器の演奏かを当てる場面です。この番組でわかることは?結論「わかるわけない」(笑)
 そもそも、録音された音をイヤホンやスピーカーで聴くわけですから「生の音色・音量」ではありません。さらに言えば、演奏者の技量も不明です。
 今回のテーマは、楽器の「評価」を「価値」と「価格=値段」で考えてみるものです。あくまでも私の個人的な考えですが、可能な限り客観的な事実を中心にして書いていきます。

 以前にも書きましたが、どんな楽器でも演奏する人のための「道具」であることは否定できません。美術品や絵画のように「道具」としての価値とは別の観点で評価が決まるものもあります。お茶の道具、刀剣などは、本来「使用する目的」がありました。使う人の為に作られた道具に「付加価値」が付いたものが美術品として扱われます。どんな高価な茶碗でも、もとより人間が作った「物」です。壊れることもあります。使えば汚れていくものです。「使えない道具」を作る食職人いるでしょうか?もし使えなくても良いと考えて作った賭したら、道具ではなく「物」でしかありません。

 楽器は音楽を演奏するために作られます。楽器で演奏された音楽を聴いて楽しむ人にとって「道具」にどんな価値があるでしょうか?
 演奏する私たちにとっての楽器の価値は「自分の好きな音楽を表現するための道具」です。好きな音、好きな形(外観)、好きな手触りがあります。演奏者それぞれに違うはずです。
 自分の価値判断=評価の基準がない人は、「誰かが良いと言った」ものを良いと思い込みます。仮に師匠から「これが良い」と言われたとしても、次第に自分独自の「価値観」が育つのが成長です。事実ストラディヴァリも、師匠であったアマティのヴァイオリンとは違うスタイルのヴァイオリンを作りました。自分が良いと思った楽器を作った「だけ」です。
 演奏者が選ぶ=手にできる楽器は「変える楽器」「貸してもらえる楽器」という条件があります。どんなに好きな楽器に出会ったとしても、それを演奏できない人の方が絶対に多いのです。では「妥協」なのでしょうか?
私は違うと思います。巡り会った人と人生を共にすることに近いものだと思います。人との関係でも、それが続かないことは珍しいことではありませんよね。だからと言って「誰でもいい」とは思わないはずです。今、一緒にいるパートナーを「妥協の結果」と思う人がいたら(笑)かなり危機的な状態ですね。

 冒頭の動画のように「聴き比べ」をするの楽しみは、あって良いものだと思います。むしろ聴く側にとって、自分の好きな演奏・音色を比較しながら探すのは、最高の楽しみでもあります。新しい演奏に出会うたびに、自分の価値観=好みにどれだけ近い演奏なのかを味わえます。好きなラーメンを食べ歩いて探す人もお同じです。仮にいつも同じレトルトカレーを食べ続けている人が違う味のカレーを「食べたことがない」としたら?さすがに極端ですが、現実に私たちが食べたことのある「カレー」の中で一番好きな味のカレーがあるだけです。それでも満足できるのが人間です。
 地球上に現存ずるすべてのヴァイオリンを「比較することは不可能です。
恐らくすべてのヴァイオリンが違う個性を持っています。推測ですが(笑)
それらの中で自分が演奏できるヴァイオリンは「唯一無二」の存在です。
人間と同じで、自分が感じる「長所」も「短所」もあるはずです。
自分の好み、そのものが完全でない以上「完全に好みと一致するヴァイオリン」は存在しないことになります。

 自分が出会って「買うことのできるヴァイオリン」が複数あった場合を考えます。いわゆる楽器選びです。私自身、生徒さんの楽器を選ぶ作業に立ち会い、アドヴァイスをすることが頻繁にあります。(楽器店経営者でもあるので)どんなヴァイオリニストでも、自分の演奏技術でしか楽器を演奏することは出来ません。初心者であれば、解放弦を演奏するのが精いっぱいの人もいれば、自分の好きな曲を「それなりに」演奏できる人もいます。
「もっとうまく演奏できるようになりたい!」と誰もが思います。
未来の自分の演奏技術は誰にもわかりません。自分の好みが変わることも当たり前です。「未来は未定」なのです。今、現実に自分が出せる音でヴァイオリンを選ぶしかないというのが現実です。
 生徒さんに代わって私がヴァイオリンを弾き比べ、「違い」を確認してもらいますが、それはあくまで「野村謙介が演奏したら」という前提です(笑)生徒さん自身が未来に、どんな演奏をするのかは誰にもわかりません。そもそも、私の演奏方法法・出そうとする音が生徒さんの「好み」と違うことも当然にあります。その上で「違い」を聴いて、ひとつのヴァイオリンを選ぶことになります。
 楽器の「外観」で選ぶのも選択肢の一つです。ただ、パーツを変えれば明らかに楽器の音色は変わりますし、弾く心地も変わります。職人がこだわって付けたパーツもあれば、楽器店が「適当」に付けたパーツもあります(笑)
 音色と音量の「選択肢」が無限にあるのが楽器です。
いくつかの点を挙げてみます。
・4本の弦を「解放弦」で引いた時の音色と音量の「個性=バランス」
・弦を押さえて演奏した時の、解放弦との音色・音量の「差」
・弓の圧力・速度を変えて演奏した時の音色・音量の「差=幅の広さ」
難しく考えないで(笑)言ってしまえば、演奏する人の感じる「音色と音量のボキャブラリー」を見極めることです。演奏技術でボキャブラリーは増えます。ただ楽器の「個性」は変わりません。人間の声で例えるなら、トレーニングによって、高い声をきれいに出したり、ヴィブラートで変化を付けたりできても「声帯」「骨格」は取り替えられません。持って生まれた「個性」を大切にしながら、より好みの声・音を出せるように努力することはできます。

 楽器による違いに序列をつけるのは「個人の価値観」でしかありません。
他人の価値観にただ、流されてお金を払うことに疑問を感じます。
自分が良いと思ったものに「妥当な金額」と感じるお金を払うのが現代社会の基盤です。流行に流されて、自分に似合う?似合わないを考えずに洋服を選ぶ人。テレビで放送されたから「このお店の料理はおいしい」と思い込む人。「〇〇ちゃんも持ってるから買って~!」と駄々をこねるおこちゃま(笑)
 ヴァイオリンの価値は「人によって違う」のです。どんな楽器でも愛情を持って「道具」以上の存在として接するべきです。確かに楽器は道具です。だからこそ「お金で買える」のです。お金に換算できないのが「価値」です。価値は自分の評価で決めるものです。納得できなければ「自分の評価」を優先するのが正しい判断だと私は考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

性格と演奏の関りを考える

 映像はカッチーニ作曲「アヴェ・マリア」です。
今回のテーマは、人それぞれの「性格」と演奏技術の関りを考えるものです。
 そもそも性格は自分自身で感じるものと、他人から見た自分の性格は違うことがあります。
性格を表す言葉として、どんなものがあるでしょうね。
1.主に「良い性格」として使われる表現
・陽気・朗らか・ポジティブ・前向き・社交的・穏やか・優しい・我慢強いなど
2.「良くない性格」と感じる表現
・暗い・陰気・ネガティブ・後ろ向き・内向的・挑発的・暴力的・短気など
3.良いとも悪いともとれる表現
・呑気(のんき)・おっとり・あっさり・こだわりが強いなど
他にもたくさんの表現がありますが、生活する中で自分が感じる「感情」や「行動」でも、性格を感じることがあります。
・失敗したり思ったように出来ない時の感情と行動
・出来るようになるまでの集中力と持続力・持続時間
・他人との関りの好き嫌い
・人生観
 子供の場合には、周囲の大人が感じる「性格」があります。兄弟でも大きな違いがあります。
成長につれて自分の行動や感情を「抑制」することが増えます。社会性とも言えますが、性格によってストレスに感じる人も多いのも事実です。特に他人との関りがある場面で、他人の行動や言動が我慢できないほどの「ストレス」に感じることがあります。
 電車の中で大声で話している人を「不快」に感じる度合いは、人によって違います。
マナーを守らない人への「苛立ち」も人によって違います。極端な例えで言えば、犯罪を犯す人の「心理」は通常の人には理解できないものですよね。と言いつつ、車の運転をする人で一度もスピード違反をしたことがない人や、駐停車禁止違反をしたことがない人は「誰もいない」のが現実ではないでしょうか?他人の違反は許せないが自分の違反には甘い…と言うのも一種の性格です。

 音楽を演奏する人にも、それぞれ違った性格があります。その人の性格が演奏に表れます。恐らく練習の段階に性格の違いが大きく関わると思います。結果として人前で演奏する音楽に「人柄」や「性格」がにじみ出るのだと思います。いくらにこやかな「演技」をしても、演奏が「押しつけがましい」「独りよがり」に感じてしまう事もあります。逆に演奏中の穏やかそうな表情や動きと裏腹に、情熱的だったりエネルギッシュな演奏に驚くこともあります。
 自分の性格が無意識に音楽に出てしまう事は避けられれないことです。頭~=理性でコントロール出Kない「癖」や「好み」が自然に演奏に表れます。
1.演奏にマイナスに感じる性格
・せっかち・押しつけがましい・攻撃的・我がままなど
2.聴く人にとってプラスに感じる性格
・おおらか・繊細・優しい・情熱的
3.良くも悪くも(笑)感じられる性格
・こだわりの強さ・臨機応変=こだわりの薄さ・思い切りの良さなど
 レッスンを受ける側、教える側でお互いの性格が「合う」場合と「合わない」場合があります。
一言で言えば「相性」です。短気な指導者とのんびりした弟子の組み合わせは「不幸」です(笑)
こだわりの強い指導者に、こだわりの薄い弟子の組み合わせもお互いが無駄な時間を過ごすことになります。
 性格の一致と不一致は、人間関係の難しさの象徴です。考え方が近い人同士なら、お互いにフォローしあえます。性格の合わない人と一緒に演奏しても、ひとつの音楽にはならないものです。
 演奏する人数が多くても少なくても、結局「協調」することができる人でなければ、音楽を一緒に演奏することはお互いを否定しあう結果になります。
 演奏に向いた性格があるとしたら?
1.協調性がある
2.ポジティブな思考ができる
3.穏やかな性格
だと私は感じています。…すべて自分に足りないものでした(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の流れ=時間と風景の流れ

 映像はチャイコフスキー作曲のピアノ曲をアレンジした「ノクターン」です。主にチェロで演奏されることが多いのですが、ヴァイオリンとピアノで演奏しました。
 シンプルな和声進行と心に残る旋律が大好きです。
今回のテーマは、音楽の流れを「時間経過」と「風景(空間)の動き」に置き換えて考えてみるものです。

 音楽を「楽譜」として考えることもできます。また「音」として考えることも大切です。


 楽譜として考える場合は「音を記号化したもの」であり、音楽はその記号を音にしたもの…と言えます。
 楽譜は「縦軸」が同時になる「音の重なり」を表します。映像に例えるなら「静止画」です。時間を「切り取った」ものでもあります。「横軸」が「音の連なり」です。左から右に順序良く「連続した音」です。
 この縦と横「2次元」の記号が演奏者によって「音楽」になるわけです。

 音楽を「音」として考える場合には、記号と違って「最低限の時間の長さ」が必要です。どんなに短い音であっても、人間が「音」として感じられるだけの時間が必要だという意味です。また人間の耳に聴こえる空気の振動が「音」ですが、聴こえやすい音と聞き取りにくい音の「高さ」と「大きさ」もあります。高すぎると聞こえにくく。低すぎる音は音の高さの違いを感じにくくなります。ピアノで演奏できる音の高さは、88鍵盤のピアノでAを440Hzにした場合、およそ27.5 から 4186Hzです。人間が音として聴こえるのが、20~20,000Hzですから、ピアノの最低音は、ほとんどの人にとって音の高さを聞きわける限界に近い低さです。最高音はまだ余裕がありますね。最高音のオクターブ高い音が、約8300Hz。さらにオクターブ高いCが約16,600Hz。音楽に使える音ではありませんが。
 話が横道にそれましたが、「音」として音楽を考える場合には「時間の経過」と共に変化する「高さ」「強さ」「音色」を感じることになります。

 ここからは、音楽を「目に見える風景」として考えてみます。先ほど「静止画」の例を出しましたが、「動画」は静止画を連続して少しずつ変化させたものです。人間が「錯覚」して「動いている」と認識しているものです。
あれ?実際に動いている「物「や「人」を見ている時にも錯覚しているのかな?物理の世界ではそれが正解です。
物体に「光」と言う波=素粒子の一つがぶつかります。それを私たちの「網膜」と「脳」が「見えた」と感じているのです。ですから厳密に言えば「物が動いているように感じる」のが「見えた」と言う感覚です。あ。また話が反れた(笑)

 小川の流れを立ち止まって見ているシーンを想像してください。自分は止まっているのに「水が動いている」ことになります。周りの風景は動きません。
 では小川にボートを浮かべて、川の流れに乗って「水と風景」を見たらどうなるでしょうか?水は止まって見えます。周りの風景が「動いているように見える」はずです。
 進行方向に向かってボートに乗っていれば?
これから自分に「近づいてくる」ものと、止まっているように見えるボートが見えます。後ろ向きにボートに乗れば?これから近づいてくるものは見えませんよね?川の水とボートは同じように止まって見えますが、風景が自分から「遠ざかっていく」連続になります。

 前者が「音楽を演奏する人」で、後者(後ろ向きにボートに乗っている人)が「音楽を聴く人=聴衆」です。
 演奏者は「これから近づいてくる」音=風景を知っています。聴衆は?「聴こえてきた音楽=風景」が過ぎ去っていくのです。どんな風景が見えてくるのか?もしかすると、この先に急流があったり、緩やかになったりすることがあるのか?演奏者は知っていますが、聴衆は過ぎていく音に驚いたり、癒されたりします。
 演奏者が後ろを向いてボートに乗ったら?(笑)
船頭さん(普通は船長さんという)が後ろを向いていたら、ボートがひっくり返りますよね?お客様は楽しむ以前に命が危ない。
 演奏者は次に「現れる風景」を大きくしたり、小さくしたりできます。明るくしたり暗くしたり、遅くしたり速くしたりできるのです。その「差」が大きいほど、聴く人は驚いたり癒されたりします。風景が「楽譜」だとしても、ボートの速さを変えることも、出発する時間を変えて明るさを変えることもできます。演奏者が自由に「演出」できることはたくさんあります。

 演奏者は何度も練習して「次の音」を間違えないようにします。それがいつの間にか「足元だけしか見ない」演奏になっていることがあります。当然ですが、次の音を飛び越えて三つ先の音を演奏することはあり得ませんよね(笑)次の音がちゃんと弾ければ「よしっ!うまくいった!」と思うのが演奏者です。それをすべての音符ごとに連続するのが「演奏」です。でも、足元だけ見てハイキングを楽しむ人はいなせんし、ボートに乗ってずーっと、船の舳先(へさき)だけ見ている人もいないと思います。安全に山道を歩くだけなら「足元だけを見て歩けば転ばないかも知れませんが、その先に「崖(がけ)」ああることに気付くのが遅れれば?恐ろしい…
 演奏する人には「先を見ながら足元を見る」ことが求められます。聴く人は「過ぎ去る風景を楽しむだけ」で良いのです。もちろん、演奏者も風景を楽しむ権利(笑)があります。自分の演出した「風景」で聴いてくれる人が喜ぶ姿が何よりも嬉しく感じられるのも「転ぶかもしれない」恐怖を乗り越えたご褒美でもあります。
 音楽は時間の芸術です。過ぎていく時間の中に生まれるのが音楽です。同じ長さの時間でも、人によって・場合によって感じ方は違います。「時が止まって感じられる」ような演奏も素敵です。逆に「早く終わって~!!と思う演奏は悲惨です。その感じ方が人によって違うのも事実です。
 時間を大切に!ですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色×音量=個性

 映像はアン・アキコ・マイヤーズの演奏する「シンドラーのリスト」
彼女の個性的な演奏に、昔から惹かれています。グリッサンドの個性だけでなく「指使い」「弓使い」へのこだわりが「半端ない」(笑)もちろん好き嫌いの分かれる演奏であることは否めません。むしろ、自分の「こだわり」が他の人の演奏方法と違う時、多くの場合「否定されることを恐れる」のが人間です。実際、個性が強ければ強いほど「異端児」的に扱われるのも事実です。
 言い換えれば「こだわりのない演奏」が受け入れられるとも言えます。さらに言えば、演奏家が何に?こだわるのか?と言う本質的な問題があります。聴衆からすれば、そのこだわりを感じることで好き嫌いが分かれる結果になります。
 例えがあまりに庶民的ですがこだわりが強い「ラーメン屋」を考えてみます。
「〇〇系」と言われるラーメン屋さんが多数あります。お店を選ぶ側にしてみれば「選ぶ目安」として、自分の好きそうなラーメン屋さんか?と言う基準の一つにはなります。
 こだわりのないラーメン屋とは?店名で判断できるでしょうか?〇〇系と書けば「こだわり」でしょうか?違う気がします。集客力は高くなりますが、ただ〇〇系ラーメンと言うだけで、本当に自分が好きな味なのか?は判断できないはずです。
 ヴァイオリンの演奏に「個性」があるとしたら、あなたは何を第一に挙げますか?
・テンポ・音符休符の長さの設定
・強弱の設定
・音色の設定
演奏中の表情や動きは「音楽」とは無関係です。また「アレンジ」は「演奏のこだわり」ではなく「音楽のこだわり」ですのでここでは触れません。
「正確に演奏できる=失敗しない」ことを個性と呼べるか?には疑問を感じます。他の演奏家より「速く」「はずさずに」演奏できることは素晴らしい技術ですが「個性」とは違います。
 ライブ=生演奏でのこだわりと、録音物でのこだわりは違います。むしろ「音=サウンド」へのこだわりになります。その意味ではホール選びや、立ち位置も「音へのこだわり」ですが演奏のこだわりとは別次元のものです。

 ヴァイオリンの場合、音色の変化と音量の変化の「変化量=幅」が小さい楽器の一つだと思っています。
 音量の幅で考えると「ピアノフォルテ=ピアノ」に比べてはるかに少ない音量差です。
もちろん「音圧=デシベル」として物理的に比較する音量と「音色=波形」として人間が強く感じたり弱く感じる「感覚的な音量」は違うものです。わかりやすく言えば、黒板をひっかく「きー」と言う音は、音圧的に小さくても「不快」に感じ「大きく」感じます。地下鉄車内の音圧と同じ「オーケストラの音」を同じ「音の大きさ」には感じないかも知れません。
 音色の変化量で考える時、音圧で比較するのと違い「波形」と「高低」が大きく関わります。
波形は「正弦波・矩形は」で全く違った音色になります。さらに倍音の含まれ方で波形は変わります。
 倍音は言うまでもなく「音の高さ」でもあり、中心になる=大きい音が442ヘルツの「A」でも、2倍音=884Hz、3倍音=1326Hzの音の含まれる量によって変わります。
 音量とピッチの「違い」は多くの人がこだわることですが、案外「音色」にこだわる人が少ないと感じるのは私だけでしょうか?(笑)
 ヴァイオリンの音色のバリエーションを増やす技術。
・左手の押さえ方(硬い指先・柔らかい肉球(笑)・押さえる力)
・弓を弦に押し付ける圧力(摩擦力)
・弓を動かす速さ
・弓を弦に充てる位置(駒からの距離)
・弓と弦の角度
・弓の毛の量=弓の傾け方
・弓の張り具合=弓の場所による聴力(テンション)の違い
弦の種類を選ぶことは、演奏技術とは別の話です。同様に楽器による個性も技術とは違います。

 音色の個性ではありませんが「ヴィブラートの個性」も大きな個性になります。
速さと深さ=ピッチの変化量・変化の滑らかさを「音」単位で変化できるか?一辺倒=一種類のヴィブラートなのか?で大きな違いが生まれます。ヴィブラートによって「倍音」が変わり、結果的に音色が変わることは事実です。ヴァイオリンのボディー=筐体の中と、演奏していない弦の「残響・共振」現象が起こり、ヴィブラートをしない時とは、明らかに聴こえ方が変わります。

 音楽的な解釈を、テンポと音量の変化などで「言語化」するのは簡単です。比較も容易です。
ただ「音色の個性」を言語化するのは非常に難しいことです。さらに「音量・音色」の組み合わせを考えると複雑になります。特に弦楽器は管楽器や声楽と同様に、一音の中で音量や音色を「無段階」に変化させることができます。ピアノは自然な減衰とペダルによる音量の変化は可能ですが、一音のなかで音色を変化させることは構造上不可能です。(他の音との共鳴を利用することは可能です。)
 音色と音量の「組み合わせバリエーション」がヴァイオリン演奏の大きな個性となります。
右手・左手の運動を組み合わせることになります。演奏の個性を「解釈の個性」と考えることもできます。大きく違うのは「音色」の個性=違いを言語化しにくいという点です。主に音楽の解釈は、音量とテンポの設定で表現されることがほとんどです。他方、演奏の「個性」は音色の個性が際立つものだと思います。簡単に言えば「音の長さと大きさ」を真似することはできても「音色」を真似することがどれだけ難しいか?という事です。
 これからも音色の個性を大切にしたいと考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏する「環境」の違い

 今回のテーマは、演奏する側・演奏を聴く側・企画する側それぞれから考える「演奏の環境」つまり「演奏する空間と時間」を考えるものです。
 10月7日夜、10月8日昼に同じ場所=会場で演奏しました。曲目は違いますが同じ楽器を使った演奏です。夜のコンサートは有料だったようで、翌日の方は無料。会場の木曽おもちゃ美術館が午後4時30分に営業終了した後、改めて会場に演奏を聴くために来られた方が「夜のコンサート」を聴いてくださいました。一方で昼の演奏を聴くために来てくださった方と、おもちゃ美術館に遊びに来た人が「混在」し、空間もつながり、子供たちが同じ空間で元気に遊ぶ中での演奏と言う「大きな違い」がありました。
 私たち演奏者も、その事は事前に知っていました。ただ、昼の演奏時に主宰する側が、どの程度の「音楽を聴く人」への配慮をするかは不明でした。簡単に言えば「演奏中に騒音をたてない」ことを主宰する側がどの程度配慮するか?という事です。

 純粋な音楽会・ライブであれば集まった人=聴衆はまさに「音楽を楽しむために集まった」のですから、その人たちがお互いに邪魔となるような行為は「マナー」として慎みます。演奏中に物音を立てないように気を遣うのも疲れますが(笑)それを承知でチケットを買ってまで音楽を楽しむ空間・時間です。
 カフェやレストランで「BGM」として演奏が行われることもあります。結婚式の披露宴などでもよく見る光景です。音楽をその場で演奏する人にとって「お仕事=演奏料」のために割り切れば、誰も演奏を聴いてくれていなかったとしても「お金はお金」と思えるかもしれません。ただ、その場にいた人の中で演奏が気になって「もっと聴きたいのに」と思う人もいるかも知れません。
 演奏の「目的」を考えて決めるのは「主催する側」です。演奏する側も目的を理解した上で「引き受ける」ことになるのが契約です。聴く側にしても演奏者が演奏をしていることの「意味」がわかっていれば問題はありません。披露宴なら「BGM」です。ディナーショーは?微妙ですが、恐らく音楽を聴くことが80~90パー程度でディナー=食事を楽しむのは「おまけ」的な存在ではないでしょうか?

「一流の演奏家」と呼ばれる方々は、演奏を聴いて楽しむだけの目的である「コンサート」以外は、引き受けないで生活できるのだと思います。そうした目的の「空間」では誰もが音楽だけを聴こうとします。
では「一流では無い演奏家(笑)」が聴いてもらえない演奏をする…のでしょうか?
そもそも主宰する側が、なぜ?生身の人間(笑)に演奏を依頼してまで「演出する」のか?という問題があります。今の時代「BGM」ならCDでもパソコンでも簡単に流すことができます。わざわざ、人件費を払ってまで「演奏する姿」を集まった人にアピールする目的ってなんでしょう?豪華さ?(笑)
 主催する人・企業・お店に対して「会場を静かにさせて」と言える立場の演奏家は、極わずかです。
だからこそ、演奏者を「雇う」側の人に言いたいのです。
 演奏者も人間だよ?と。CDやパソコンの「代わり」に人間を使うことで、演奏家がギャラを受け取れて生活できるのは、紛れもない事実です。
 ストリートミュージシャンが、路上で「投げ銭」を期待しながら演奏することがあります。
立派な「お仕事」です。なぜなら自分の意志で行っているからです。誰も聴いてくれず、素通りされ、鼻で笑われても演奏を続けることで自分のスキルをあげようとする「気概」のある人しか出来ない演奏です。一流と言われる演奏家が、自分のことを誰も知らない人たちが行きかう路上で演奏できるか?おそらくプライドが許さないでしょうね(笑)

 BGM音楽を音楽を演奏する人や、アニメーションのセルを一枚ずつ書く人、コンサートの裏で照明機材・音響装置を扱う人の「存在」を知らない人がたくさんいます。最悪!なことに、政治にかかわる人のほとんどが「裏舞台」を知らないことです。派手な世界・表舞台しか知らずに育った「ボンボン・ジョンジョン」(笑)が政治家になるのが日本の風習なので仕方ないのでしょうね。
 頭の弱い政治家は放置して、せめて音楽に「意味」を感じる人なら、音楽を作る人・演奏する人・支える人への最低限の敬意を持ってほしいと思うのです。それが出来ないのであれば、すべての音楽を自分で作曲し、パソコンで打ち込み、再生するべきです。
 演奏で生活している多くの仲間がいます。その人たちが、生きる意味・演奏する喜びを感じられる社会になってほしいと思います。また、それを子供たちに教えていくことも大人の責任だと思います。
 文化は人間の「知恵」で創られます。文化を創造できない人には何を言っても無駄です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

暗譜する=演奏を記憶する技術

 映像は明日(2023/10/7)と明後日、長野県木曽町で演奏する予定曲の「一部分」です。今回は二日間で17曲を演奏する予定です。視力の低下と視野の狭窄(きょうさく=視野が消えていくこと)が進行した私には、楽譜を見ながら演奏することが困難…と言うより、無理な状態になってから数年が経ちます。当然、人前で演奏するためには「暗譜」することが必須になりますが、なぜかそれが当たり前になってから、以前の暗譜となにかが違う気がしています。
 暗譜苦手!という生徒さんがたくさんおられます。
楽譜を見ないで演奏することを「暗譜」とするなら、楽譜を見ながら問題なく演奏できるなら、暗譜しなくても(笑)と私も思うようになりました。
 私が幼い頃「暗譜して来なさい」と言われた記憶も、かすかにあります。きっと、練習が足りていなかったから先生が「もっと練習しなさい」という意味も込めて仰った?と反省しています。

 楽譜を覚えることと、演奏を覚えることの違いについて考えます。
 楽譜は「記号」です。文字も記号ですから、文字を覚えることと楽譜を覚えることは、ある意味で同じです。
 文字を覚える…例えば「いえ(家)」という文字と言葉の意味を覚える時期があります。その前の段階で「わんわん」が犬を表し「にゃんにゃん」が猫、「ぶーぶー」が車と言った具合に子供は言葉を覚えます。文字は?まだ読めない時期でも、言葉と「意味」を覚えます。
「音(言葉)と名称・行為」などを記憶する力と、記号を認識する力はどちらも「記憶」ですが、この二つは実は関連している部分と「独立」している部分があります。
 一言で言えば記号(文字・楽譜)を理解するためには、その記号=単語が表す「物・音」を記憶していることが条件になるという事です。
 例えば難しい英語の単語を覚えようとするとき「スペル」だけ覚えることもできます。その場合、単語の「発音」と「意味」は無関係に記憶することになります。
 文字の並び順=スペルを覚えることと、その「発音」「意味」を覚えることは「別」なのです。しかし、覚えた単語には通常「発音」と「意味」が紐づいていますよね?
 スペルだけ覚えるのか?発音も覚えるのか?意味や使い方も覚えるのか?で記憶する「容量」は全く違います。
 楽譜に例えるなら、音符・休符の種類と五線上の音の高さ(音名)だけを「覚える」事も、ある意味で「暗譜した」と言えます。実際に音に出来なくても「覚えた」事に違いはありません。
 その記憶した情報に「音の高さ」を付けて覚えるのが「言葉=声」と同じことになります。ただし「意味」までは覚えていなくても「音・言葉」だけは覚えたことになります。ちなみに「ダウン・アップ」「指番号」「弦」などの要素は、「音・言葉」とは違うものです。
言葉で言うなら「アクセント」が近いかも🅂レません。
「かき」が「牡蠣」なのか「柿」なのか「下記」なのか「夏季」なのか?判別する「語彙」が増えるのも記憶の一つです。音楽でも同じようなことが言えます。
 意味が分かった後に「文章」「物語」「小説」などを呼んで、人物や風景を「想像する」ことも「経験=記憶」があるからです。楽譜を音にして「感情」が起こるのはこの状態だと思います。
 さらに文字を朗読したり「台詞」として演技を伴ったりする場合には、聴く人・見る人に「人物像・ストーリー」を伝える技術が必要になります。その「話し方」は文字(原稿や台本)には書いてありません。自分で考えて時には「記憶」する必要があります。
 音楽の場合には?楽譜を音にして、音から何かを感じ、それを表現する「演奏方法」を記憶することになります。

 暗譜することを「楽譜を覚える」と狭い定義で考えるより「表現の方法を覚える」と考えるようになりました。
落語でも同じですが、たた「文章を覚えてしゃべる」だけでは聴いていて笑う人はいません。噺=はなしの中の「どこで・どのように」声で表すか?が落語です。音楽もまったく同じだと思います。音の羅列を覚えるのではなく、時系列=一音ずつの連続を「ストーリー」として、どの音を・どう弾きたいのか?を覚えることが「暗譜」だと考えると、意外に暗譜は「面白い」と感じるようになります。
ぜひ
お試しください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村健末K

楽器の個性を引き出す演奏技術

 映像は、昨年秋に長野県木曽町で演奏したときのものです。
ヴァイオリンは私が常日頃、使用しているヴァイオリンとは違う「木曽号」と呼ばれている陳昌鉉さんが木曽町に贈られた楽器です。今年も10/7・10/8と11月に同じ楽器を使って、木曽町で演奏する機会を頂きました。今回のテーマは「楽器の個性を引き出す」と言う技術について。

 すべての楽器ごとに異なった「個性」があります。特に構造がシンプルな楽器ほど、その個性は大きな違いがあります。ヴァイオリン・ヴィオラは、ほとんどの部分が「木材」です。それを膠=にかわで接着して組み立てられている単純な構造です。実際に音を発生する「弦」の素材は、大昔の「生ガット」から、ガットの周りに金属の糸を巻き付けた「ガット弦」と呼ばれる弦に進化し、さらにその後にガットの代用として「ナイロン」を使用したナイロン弦が開発されました。金属をガットの代わりに芯にした「スチール弦」も金属加工技術が発達したおかげで、現在も使用され特に「E線」はほとんどの場合、スチールの弦を使用しています。
 弦のメーカーや種類によって、それぞれ「個性」があります。
・音量が大きく音色の明るい「スチール弦」
・音色の柔らかさと明るさ・強さを兼ね備えたガット弦
・ガット弦より安価で種類の豊富なナイロン弦
それぞれに一長一短があります。「どれが良いか?」という結論は誰にも出せません。使用する用途=演奏する楽器や場所・曲・経済力(笑)で選ぶのが正解です。
 ちなみに、陳昌鉉さんはご自身が製作された楽器には「ドミナント」が一番合うと生前に何度も言っておられました。「好み」の問題です。陳さんのお気持ちを尊重し、私が演奏するときに「ドミナント・プロ」を使用しています。

 普段、自分が演奏している楽器とは違う楽器の個性・特色を見極める「観察力」と、弓の圧力や駒からの距離、弦を押さえる「スポット」を見つけ、倍音の含まれ方を聞き分ける「技術」が求められます。自分の耳で感じる「音色・音量」と客席で聞こえるそれは、明らかに違います。
 弾きなれた楽器、演奏しなれた会場ならば曲ごとに、自分で想像することが可能ですが、自分の楽器でもなく初めて演奏する会場だと不確定な要素が多くなります。
 ピアニストの場合には、楽器を選ぶことができないわけですから、ある意味では同じ条件になります。

 「木曽号」と「ドミナント・プロ」の組み合わせで、楽器と弦の持つ「個性」を良い方に引き出す練習をしています。普段の楽器との違いに戸惑うことや、自分の弾きなれた楽器と比較してしまうのは避けられませんが、お客様にすればコンサートでの「音」がすべてです。一人でも多くの方に、気にいってもらえる音色・音量に感じる演奏方法を模索します。
 低音域から中音域・高音域の「聞こえ方」のバランスを取ることがまず第一の「技術」です。4本の弦の「聞こえ方」はすべて違います。

 同じ人が・同じ会場で・同じ曲を、「違う楽器」で「弾き比べ」をすると、音楽に関心のない人でも「何かが少し違う」と感じます。その多くは「音域・4本の弦ごとのバランスの違い」です。
 言い換えれば、演奏者が楽器ごとの「特性=弦ごとのバランス」を見極めて演奏すれば、楽器ごとの「違い」を軽減することもできます。逆に違いを強調することも技術があれば可能です。
「高音が強く出る楽器」という印象を強調するのなら、低音域と中音域(G線・D線)を弱めに演奏すれば良いだけです(笑)し、その逆もできます。そんな「リクエスト」が無い場合には、聴いていて「バランス」の良い演奏を心掛けるのが正しい演奏法だと思っています。

 以前のブログで書いたことがありますが、テレビ番組「格付けチェック」で、ストラディバリウスを言い当てるコーナーがあります。予備知識=直前に回答者の前で弾き比べるなどを行わないで正解することは不可能です。過去に世界中で何度も「プロのバイオリニスト・プロの楽器製作者」が同じような実験をして「判別できない」ことは実証されています。

「良い楽器」とは聴く人が「良い音」と感じる楽器の事です。演奏する人も「聴く人」の一人です。陳昌鉉さんの楽器にも「固有の音色・特色・個性」があるわけで、ましてや演奏する人によって「音色・音量」はまったく違うものになります。プロの演奏が「うまい」と感じる人もいれば、アマチュアの演奏の方が「うまい」と感じる人もいるのが真実です。すべての人にとって「良い楽器・うまい演奏」は存在しません。楽器を作る人・演奏する人の「こだわり」が聴く人に共感してもらえることができれば、みんなが幸せに感じられる瞬間だと思います。
 誰が正しい…という問題ではないのです。個性を認め合う「心の広さ」が演奏者にも聴衆にも広がって欲しいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

慣性の法則とヴァイオリンの演奏技術

 音楽高校、音楽大学「しか」出ていない私(笑)、物理とは無縁の人生だと思っていましたが!
 ヴァイオリン・ヴィオラの演奏をしながら、自分と生徒さんの「運動」を観察し、考えることが増えました。
「考えてないで練習しなさい」はい。ごめんなさい(笑)

「慣性の法則」とは「止まっている物体は止まり続けようとし、動いている物体は動き続けようとする」状態の事を言います。止まっている電車が動き出す時に、進行方向と逆に体が「倒れそうになる」のがこの法則を体感できるものです。ある速度で走っていた車がブレーキをかけると身体が前に倒れたり、止まっている車に後ろから衝突されると、身体が「後ろ」に押し付けられて首をねんざするのも「慣性の法則」が原因です。

 ヴァイオリンの演奏で右腕と左腕に、それぞれに違った「慣性の法則」が観察できます。
1.右腕
①動き始める時・ダウン・アップをする運動
②移弦をするときの運動
2.左腕
①ポジション移動の運動
②ヴィブラートの運動
③弦を「叩く」指の運動

言うまでもなく、すべて「筋肉」を使って意図的に動かすことで生まれる「慣性」です。
上下方向=天井と床方向の運動には「重力」も関わります。楽器と弓の「質量=重さ」や右腕、左腕が下に下がろうとするのも重力です。

 演奏していて「じゃま!」に感じる慣性があります。
1.ダウン・アップ・ダウンと弓を「返す」時の慣性
2.E→A→E→Aのような「移弦を繰り返す」時の慣性
 逆に慣性を利用することが望ましいのが
手首のヴィブラート これは「腕の動き」と逆方向に動く「手首から先の動生き」を活用するものです。
 どの運動にしても先述の通り「筋肉」を使った運動です。弓を「返す」運動にしても「移弦する」運動も「時間差をつけた逆方向の運動」で慣性力を「弱める」ことが可能です。
つまり、ダウンからアップになる「前」に、弓から遠い身体の部位…例えば上腕=二の腕を「先にアップ方向に動かす」ことで、腕全体を使って逆方向に動きだす「衝撃」を緩和することが可能です。
当然、アップからダウンの場合にも「直前にダウンの運動を始める」ことで、慣性を緩やかに打ち消すことが可能になります。
 移弦の場合にも、「弓を持つ手先→手首→前腕→上腕」の動きを「ずらす」ことで、慣性を利用して移弦することが可能になります。
 文字にすると複雑になりますが(笑)、一言で言えば「慣性を利用する」運動を考えることです。
もっと言えば「力学を考える」ことです。難しい数式は覚えなくても良いと思います。
力だけで無理やりに弓や腕を動かすのは、間違っています。どんな運動にも「補足」があるのです。
それを観察し考えることで、自分の思った運動=演奏をすることに近付けると思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

「妥協・諦め」と「許容・発想の転換」の大きな違い

 映像は「アヴェ・マリア」をヴァイオリン・ヴィオラとピアノで演奏したものをつなぎ合わせてみた動画です。
 同じ音楽でもヴァイオリンで演奏した「印象」とヴィオラのそれは、大きく違うように感じますが、皆様いかがですか?

 さて今回のテーマは、音楽に限った話ではありませんが、「妥協・諦め」の行きつく先にある結果と、一見似て非なること「許容する・発想や視点を変える」ことで到達する結果の違いを考えるものです。

 私たちは出来そうにない事や困難なことに直面した時に「逃げる」という選択肢と「乗り越えようとする」選択肢のどちらかを選んでいます。自分の経験や先入観で「無理!」と思えば逃げたくなります。挑戦したことのない「壁」の場合、好奇心や達成感を優先すれば「やってみようかな?」と思います。挫折することを恐れたり、失敗して労力と時間を無駄にしたくないと思えば「やめておこう」と思います。まだ「挑戦していない」のに(笑)結論を予想しているだけですよね。 

 挑戦する前に「逃げる」ことが悪いとは限りません。色々な「結果」を考えたうえで「挑戦しないこと・諦めることを受け入れる」勇気も必要です。そのためには「視点を変えて考える」事が何よりも大切です。
 例えばオリンピックの競技種目「高飛び込み」は水面から10メートルの高さから、重力に逆らわずに(笑)水面に飛び込みます。時速60キロに近いそうです。訓練した選手でも手首の骨折や、肩の脱臼、鼓膜の破裂は日常茶飯事だそうです。そんな「高飛び込み」を素人の私たちがやったら?どうなるでしょう?「やってみないと!」って飛び込む人は?勇気があると言うより「おばかちゃん」ですよね。一つ間違えば、首の骨を折って即死です。
「どうしても!やってみたい」と思う人は技術と知識を身に着ける訓練をしてから挑戦すれば、きっとできます。
「できない」と諦めず「方法を考える」ことになります。

 練習してもできなかったり、結果が思ったように出なかったりした時「挫折感を味わいます。楽器の練習をすればこの挫折感を常に味わうことは避けられないと思います。私はそうです(笑)
 その挫折感は受け入れるしかありません。問題は「その先」です。出来ない・結果が出ない「原因」を探すことこそ「発想の転換」です。「失敗」というネガティブ=負のイメージを「出来るようにするには?」というポジティブ=前向きな発想に替えることです。

「やっても無駄」とか「どうせ変わらない」という言葉を安直に口にする人を「物分かりがいい・さばさばしている」と評価する人は「同類」です(笑)
出来る方法を考えない・考えて実行する人を見降ろして楽しむという「軽薄な人間」だと思います。
出来るかも知れない・実現する方法を考えて試す人は「思慮深い人」「賢明な人」だと私は思います。
 避けられない現実は必ずあります。
生物が「死」を迎えることもその一つです。どんなに科学が進歩した現代でも、この現実は避けられず受け入れるしかありません。辛くても苦しくても。
 避けられる「未来」もあります。それを実行するのが「知恵」です。どんな未来にするのか?したいのか?を考える「知恵」と、どうすれば?理想に近い未来に迎えるのかを考えて実行するのも「知恵」です。

 音楽を楽しむための努力は、楽しみをより「深く」「強く」「多彩に」味わうための努力です。結果を出すための努力ではなく、あくまでも「楽しむ」ために努力すべきです。努力=練習は楽しくないことがほとんどです(笑)
その先にある「楽しみ」のための労力と時間を「無駄」と考えるのは価値観の違いです。楽しみを求めないなら確かに無駄なことです。何のために?練習するのかを考えて、出来ない時には「発想を変える」ことをお勧めします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習の「時間=量」と「内容=質」で到達するレベル

 今回のテーマは楽器の演奏を楽しみながら、少しでも多くの技術を身に着けたいと思う、すべての人にとって共通の問題を考えるものです。
 上の動画は、恥ずかしながら私(野村謙介)が中学2年当時の演奏から始まり、音楽高校1年・2年・3年・音楽大学1年・2年(たぶん笑)・4年・5年(突っ込み禁止笑)の演奏を抜粋してつなげた動画です。年月にして14歳から23歳までの9年間。一人の師匠に習いながらの「記録」です。

 さて、どんな年齢から始めても「時間」には変わりありません。4才からの1年間も40才からの1年間も長さは同じです。練習する時間やレッスンで習う時間も、年齢や経験には関係なく等しい「時間」です。
 毎日の事であれば「何分」「何時間」という練習時間の量があり、それを「毎日・365日」続けた場合の「時間=量」と、一日おきや一主幹に数回程度で練習を続けた場合の「時間=量」はどうでしょうか?
「年月」と言う単位で考えれば、上記のどちらも「1年練習した」「5年練習した」と言えますが、実際に楽器を練習した「総時間数」は?全く違いますよね?
「練習の頻度」つまり練習と練習の「間隔」も多筋違いがあります。毎日練習する人と、3日おきに練習する人では、総練習時間が同じでも結果は大きく違います。
「幼稚園の時から中学卒業まで」楽器を練習していた人でも、到達するレベルは大きく違う一つの原因がこの「時間」です。

 次に練習の「内容=質」の違いによる到達レベルの違いを考えます。どんな練習をするのか?と言う内容と、練習ごとに自分を「観察する力」が大きな差を生みます。
 同じ時間でも「なんとなく」練習するのと「目的と結果を確認する」練習では、全く違う到達レベルになります。
独学なのか?レッスンで習っているのか?でも大きな違いが生まれます。一見、同じように感じますが独学の場合、自分の「課題」を見つけることが非常に難しくなります。
動画や書物で「知識・情報」を得たとしても、自分が演奏して「出来ている・間違っている」ことを確認してくれる人がいる「レッスン」の効果は習ってみないと理解できません。
さらに「教えてくれる人の技術」によっても、到達レベルが変わります。演奏のレベルだけではなく「指導技術」のレベルです。優れた演奏家が優れた指導者であるとは限らないのが現実です。学校や塾で「勉強を教える」人を例えにすればよくわかります。指導技術の優れた人に教えてもらえば、効率よく学習で木「希望通りの進学先」に行ける子供が多くなります。
指導する人のいない「部活」の場合にも、ある程度の演奏技術が習得できるのは、上記「時間」の問題です。毎日、学校で好きなだけ練習できる部活の場合、レッスンで楽器を習う人よりも明らかに長時間、しかも毎日欠かさず楽器を練習できるから「ある程度」上達します。

 どんな人でも到達できるレベルがあります。
「時間」+「内容」に比例して、到達できる演奏技術レベルがあります。個人差があるのは事実ですが、それを「才能」と言うのは間違っています。多くの子供が、受験や楽器以外の興味が原因で、練習することをやめてしまいます。練習を「やめた」時のレベルが、その子供の「能力」だと思い込むのが「親」なのかも知れません。
やmないで続けていれば、到達レベルは無限に高くなります。「100点満点」「ゴール」「頂上」はありませんから、続けている限り上達する地言っても過言ではありません。
歯きり言えるのは「練習をやめれば、その先の楽しみは体感できない」と言うことです。
 ぜひ、楽器を演奏する「楽しみ」を持ち続けて欲しいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽が好きな日本人なら

 このブログを読んでくださっている方にお願いです。
インボイス制度で日本から「演奏」と「指導者」が消えようとしています。どうか、消費税の仕組みを少しでも理解して、インボイスの「でたらめと嘘」を知ってください

 小学生でもわかる言葉で説明します。
・税金は「市町村」や「都道府県」や「国」に「誰かが」納めます。それは日本人の「義務」です。
・お金持ちの人は税金を払っても生活できますが、貧しい人は税金を払うと食べ物が買えません。そこで「払える範囲で税金を納める」仕組みが「税の応能負担の原則」です。
・消費税は、物を買ったりサービスを受けた人が納める税金ではありません。納めるのは「お金をもらった人やお店・会社」です。買い物をした時には「消費税」を含めた金額を支払います。ただその代金の「消費税を除いた金額」はお店が自由に決められます。当たり前ですよね?同じ商品を100円で売る店と110円で売る店があるのは当たり前のことです。
・買い物をしたり、音楽会でチケットを買ったり、レッスンを受けたりして支払った「代金」には、お金をもらった人が納める「消費税」も含まれています。
・消費税を含めて受け取った代金の10%を「消費税」と言いますが、消費税を納められない貧しい人やお店がたくさんいます。その人や商店、会社の事を「免税事業者」と言います。
・日本の音楽家、楽器指導者のほとんどは「免税事業者」です。インボイス制度はそれらの人にも消費税を納めさせようとする「悪だくみ」です。ただ「応能負担の原則」があるので「免税事業者の制度を廃止する」とは言わないのが「増税メガネ岸田」です。
・消費税を「納められない」から「免税」されているのです。その人たちに「消費税を納めろ」って「弱い者いじめ」ですよね?お金持ちの人の納める税金を安くするために、貧乏な人からもっと!税金を取り上げる人が「増税メガネ岸田」という総理大臣です。
・お金持ちに優しくするのは?「ずるをしたいから」です。お金持ちにもっとお金もうけをさせてあげると「政治家がお金をもらえて、選挙に勝てる」という「いかさま」をするための税金が「消費税」です。

「音楽家なんていらない」とか「レッスンなんて受けない」という人にとって、音楽が日本からいなくなっても困りませんよね?インボイスに賛成してる「自民党「公明党」「維新」「国民民主党」がこの代表選手です。彼らには「知性」がなく、「文化」「芸術」という言葉も理解できません。次の選挙で、この「自・公・維・国」以外の政党の政治家に投票してください。私たちの音楽を愛好する日本人の「敵」です。日本から音楽や文化を消滅させないでください。
 皆様の御理解を心からお願いします。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの価値を考える

 今回の テーマは以前にも取り上げたことのあるヴァイオリンの価値」について。
動画はストラディヴァリの作った楽器をテーマにした番組。面白いです。
さて、人それぞれに「価値観」が違うのが当たり前です。ヴァイオリンの良し悪し、あるいは「妥当な金額」についても、みんな違った考えを持っています。
 一方で時代によって決まる「物価」があります。例えば、ヴァイオリンを作るための材料を「物価」として考えた場合、木材・ニスなどを購入するための「材料費」があります。そこに製作者の技術と労力が対価として加わって、最終的に「販売価格」を買い手との交渉で決めます。これは、どんな者…食品であっても車であっても同じ原理です。当然、今現在もヴァイオリンを製作する人・企業があります。その楽器一つ一つに「最初の取引価格」があり、最終的に、いわゆる「エンドユーザー」が支払う金額が交渉によって決まります。
 これはストラディヴァリのヴァイオリンでも、大量生産のヴァイオリンでも理屈は同じです。ストラディヴァリウスの一番大きな特徴は「原価が不明」であり「当初の価格が不明」であり、製作されてからすでに300年以上の年月が経っても「現役」であることです。

 さて、ヴァイオリンを演奏する人にとって「欲しい楽器」と「自分で買える楽器」が違う事は、ごく当たり前にあります。アマチュアであってもプロであっても同じです。「自分が欲しい」と思う楽器が自分にとって最高の楽器なのか?と聞かれたら、答えは「最高の楽器ってなに?」と言う根本的な疑問にぶつかります。
 少なくとも、自分が手にして演奏し、それまで演奏したどの楽器よりも「自分が好き」と感じた楽器でしかありません。世界中のすべてのヴァイオリンを演奏して選ぶことは、誰にも不可能なことです(笑)「私にとって最高の楽器!」と言っても、実はまだ自分が演奏したことのない楽器の方が何百倍、何千倍も多いのです。
 ヴァイオリンの「性能」ってなんでしょう?
車なら「馬力」「加速性能」「運動性」「空力抵抗」などで性能比較ができます。
美術品と違いヴァイオリンを「楽器=音を出す道具」として純粋に考えた場合に、この「性能差」がどんなものか?考える必要があります。
 現在の科学で結論を導けば「性能に大きな違いがない」結論になります。多くの実験が世界中でおこなれた「結果」ですから、いくら「私はストラディヴァリが一番だ!」と豪語しても「科学的なデータ」は変えられません。つまり、ストラディヴァリのヴァイオリンが「特別な性能・特別な音を出せる」楽器ではないことは、事実なのです。
 「新作のヴァイオリンはダメだ!」と言うのも科学的には「嘘」になります。現実に実験で証明されています。「私はストラディヴァリのヴァイオリンを聞きわけられる」と言う人がいますが、自分が演奏した、複数の楽器を「言い当てられる」のはアマチュアでもできることですが、他人が演奏したヴァイオリンの音の中でストラディヴァリのヴァイオリンだけを判別できる人は、恐らく誰もいません。それが「科学」です。

 自分の好きな楽器に出会うことは、パートナーと出会う「運命」に近いものがあります。先述の通り、すべてのヴァイオリンを演奏して比べられないように、世界中の人と「お見合い」することは?無理ですから(笑)偶然に出会った「楽器」を自分のパートナーのように大切に思い、扱える人ならどんなヴァイオリンでも「愛せる」はずです。ヴァイオリンの価格に「絶対」はありません。材料の原価に金額の差があることは事実です。ただ、ひとりの職人が作ったから「高い」と決めるのも、間違っていると思います。多くの人間が手をかけた方が高いものって世の中にたくさんありますよね?
 自分の好みを大切にすることです。それしかありません!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を「習う」「教える」ことの意味

 上の演奏は、今は亡き恩師「久保田良作先生」の門下生(中学生以上)と桐朋学園大学のチェリストとコントラバス奏者が加わっての「夏合宿」最終日におこなわれる「どるちえ合奏団」のコンサートです。1978年夏の軽井沢、合宿地でもあった清山プリンスホテルになるガラス張りのホール。時々、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下や浩宮殿下(現天皇陛下)が私服で聴きにいらしていたと言う夏のイベントでした。
 合宿前に東京で、主に中学生の生徒たちを集めての合奏練習も行われていました。門下生は中学生になるとこの合宿に参加することができます。高校生になると時にはヴィオラを演奏しながら参加。大学1年生まで暗黙の「必修(笑)」参加でした。お手伝いのチェロ、コントラバスにはそうそうたるメンバーが顔をそろえておられました。私の記憶しているだけでも、北本さん、秋津さん、桜庭さん、小川さん、山村さん、同期の金木君。コントラバスに大友直人さんや北本さんも来ておられました。豪華すぎ(笑)
 この弦セレはこの年のプログラムで最後の曲でした。アンコールにはいつも「夏の思い出」を演奏。前半のプログラムには中学生の初々しい「アイネク」や「ディベルティメント」。私が初めて参加した年には、ロッシーニの弦楽のためのソナタ(GDur)を演奏会の才女に演奏しました。合宿が清山プリンって(笑)あり得ない「セレブ」なお話で、当時10万円近い合宿費になってしまいこの数年後に、北軽井沢の「農園ホテル」に(笑)そこから先生がお亡くなりになる前まで、箱根仙石原のホテルへと変わっていきました。私が撮影のお手伝いで最後に「合宿」にお邪魔したときの映像があります。1985年8月20日の映像です。

 加藤知子さんも元は久保田良作先生の門下生でした。私の3学年大先輩。
さて、本題は「音楽を習う・教える」と言うテーマです。
今更私が言うまでもなく、久保田良作先生は数えきれないほどのヴァイオリニストを世界に送り出された指導者である前に、日本のトップヴァイオリニストでいらっしゃいました。毎年、上野文化会館での「ジュピタートリオ」での演奏は私にとってどんな演奏会より刺激的でした。さらに、桐朋学園大学音楽学部で弦楽器主任教授、学部長も務められると言う激務をこなしながら小学生の子供たちも数多くレッスンされておられました。

 そもそも、音楽は「教えられる」ものでしょうか?演奏技術の「一部」は教えられるものだと思います。それは表面的なもので、内容も限られています。
 「師匠・弟子」の菅駅は、親子以上の信頼関係があって初めて成立するものだと私は考えています。「先生と生徒」とはまったく異次元の関係です。師匠を心から信じることが自然にできなければ、得られるものは表面的なもの…それも怪しいと思います。「そうかな?本当かな?違う気がする」と思いながらレッスンを受けて、何か意味があるでしょうか?もちろん、師匠も人間です。神でも仏でもありません。間違いはあるはずです。その間違いを含めて、どこまで師匠の言葉を信じられるか?だと思います。

 話が「ぶっ飛び」升が(笑)、仏教の教えを説いた「釈迦」が、悟りを開き「弟子」たちにそれを解こうとしたとき、あまりに悟りが深く、当時の人間には理解不能だったことから多くの出来が「間違った解釈」をして現在、数多くの仏教が存在していると言う話があります。つまり現在の仏教は、すべて「釈迦の教え」のはずなのですが、それぞれ異なった「教え」を伝える人が生まれているという事です。

 音楽も本来、教える人の「悟り」まで行かなくても「信念」「理論」があります。それを「弟子」に伝えることは、可能なのでしょうか?理論を言語化することも、演奏家が自分の演奏をするだけならば、全く不要なことです。そんな時間があったら練習して演奏したい!と思う演奏家の気持ちも「そりゃそうだよね」(笑)
 それでも!自分が十て来た道と、師匠が伝えてくださった「であろう」理論や技術を次の世代に伝えようとする「指導者」がいます。
 指導者がいても「弟子」がいなければ?話は進みません(笑)「習いたい」と思っても弟子に慣れないケースもある一方で、弟子になる人の「絶対数」が減っている気がします。音楽大学で「習う」学生にも、先述の「先生と生徒(学生)」の信頼関係を超えられない人が増えている気がするのは老婆心でしょうか?レッスンを受ければ「うまくなる」と思う学生。うまくなる「秘訣」を直接聞きだそうとする学生。なにか間違っている気がします。
 指導する人も生活があります。生きていくために生徒・学生を選べないと言う現実t問題があります。少子化と不景気は国民の責任ではありません。「国家」の罪です。そのために、音楽科を目指す人が激減し、ますます指導者の存在すら危うくなっています。
 どんなに優れた指導者だっとしても、習いたいと思える「環境」がなければ習えないのが現代社会の定めです。「理想」と「現実」が日々乖離していきます。
このまま後、10年もしたら日本には「指導者」がいなくなる日が来ます。日本から音楽を学ぶ環境が消えることになります。悲しいことです。
 せめて「先生」が「師匠」に変化=深化することを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

思い出と紐づく音楽

 映像は今から20年ほど前、みなとみらいホールでの演奏です。当時勤務していた中学・高校部活オケの定期演奏会風景。ハープは桐朋時代の先輩にお願いしましたが、パイプオルガン演奏者も高校生。
週に1回の合奏以外「自主練習」の部活オケ。ここまで弾ければ十分かと(笑)
 さて、この音楽はエドワード・エルガー作曲「威風堂々第1行進曲」です。
イギリスの第2国歌とも呼ばれ、戴冠式で演奏される曲でもあります。イギリスの「プロムス」で聴衆が全員でこの演奏に合わせて歌う姿は、見ているだけで感動します。
 日本でも様々な「儀式」でこの曲が使われます。入学式、卒業式など学校での儀式で生徒が演奏したりすることも多い音楽です。儀式で演奏した人でなくても、儀式に「参加」した人の思い出に、この音楽が結び付いている人も多いようですね。音楽の曲名を知らなくても、この曲を聴くと思い出がよみがえる…そんな経験はありませんか?

 演奏を聴いた人の「記憶に残る」演奏に共通点があるでしょうか?
テレビCMで使われる音楽や、番組中の「ジングル」店舗で流れる「テーマ音楽」はまさに「記憶に残すための音楽」です。
また映画やドラマで使用される音楽は、見ている人の心情・感情に大きく関わります。
不安や恐怖心を「あおる」音楽もあれば、感動的な「涙を誘う」音楽もあります。
 音楽が人間の「感情の記憶」に紐づき、さらに共感する人が多ければ多いほど音楽が人々に広まり「定着」するのかも知れません。クラシック音楽は「大衆音楽」の対極にあるように思われがちですが、実際にはクラシック音楽も大衆の中に溶け込める音楽であることは事実です。むしろ、日常の生活にクラシックの音楽が広まれば演奏会に足を運ぶ人も増えるはずですよね。
 演奏会で「良い記憶」に残ってもらえる演奏をすること。これも演奏家にとって大切なことだと考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲家の個性を考える

村松崇継作曲

 私たちが演奏する音楽を「作曲」した人がいます。歌であれば「作詞」した人も。その人が作った作品を音楽にするのが演奏者であり、その作品と演奏を楽しむのが聴衆=聴く人です。演奏する時、作曲家の思い・心情を創造することは出来ますが、あくまで演奏者の勝手な解釈や思い込みでしかありません。作曲家であれ演奏家であれ「真実の心情」を他人が理解することは不可能です。「作曲家の精神に触れた」と言う演奏家の言葉に違和感を感じています。演奏家の思いを聴衆が完全に理解してもらうことを望んで演奏しても、すべての人に理解してもらうのは無理なのと同じことです。作曲者自身が演奏しても、聴衆が自由に感じることが音楽の良さだと思っています。

 さて、そう思いながら「作曲家の個性」を考えるのは何か矛盾してい様に感じるかも知れませんが、演奏者として作品ごとに感じること・浮かぶ情景があるのは当たり前です。理論的な分析=和声の進行や旋律の特徴などを感じることもあります。言い換えれば、理論を無視して音楽を「作曲」したとすれば、それは音の「羅列」でしかなく、聴く人の感情を揺さぶる音楽にはなり得ないはずです。現代音楽の領域で、掃除機の音や「雑音」と呼ばれる音を並べる「現代音楽」があります。私には音楽として感じることは出来ないのが正直な気持ちです。
 ただ、音楽の歴史の中で「聴きなれない」という理由で評価されなかった音楽が、その後「良い作品」と言われた例は数限りなくあります。「前衛的」なのか「無作為な音の羅列」なのか?一般の人に理解不能なのは当然のことです。
 ラベルやドビュッシーの音楽を聴いて「不快」と感じる人がいても当然のことです。「良さを理解できないのは感性が足りない」とマニアぶる人こそ滑稽だと思います。絵画の世界でも同じです。ピカソの絵を見て「素晴らしい」と思う人がどれだけいるのでしょうか?料理でも伝統を重んじる料理もあれば、創作料理もあります。つまり、私たちが「なじんだ=知っている」ものは許容しやすく「初めて=知らない」ものへの拒絶や不安があるのは、生物の本能ではないでしょうか?
 猫や犬でも「初めて」のものには警戒しますよね?人間も同じです。

 村松崇継さんの作品に出合ったのは、ごく数年前の事です。いのちの歌を歌う玉置浩二さんと小野リサさん、ピアノを演奏している作曲者自身の映像を見て素直に魅了されました。それからと言うもの、村松氏の作品に出合うたびに「これ、弾いたらどうなるかな?」という好奇心が先に立ちます(笑)
 作曲の素人が偉そうに書いてはいけないのですが、村松氏の作品に共感するのは「奇をてらわないが特徴的な和声進行」と「記憶に残る旋律で跳躍が個性的」なことです。作曲者ごとの「特徴」を感じることは珍しくありません。例えば「ジョン・ウイリアムス」の映画音楽の中で、スーパーマンとスターウォーズの似ていること(笑)は有名です。でもシンドラーのリストが彼の作品と言われて「へー」と思うのも事実です。
 作品の好き・嫌いは誰にでもあります。演奏する人にも聴く人にも。演奏者が自分の好きな作品を選んでコンサートで演奏する時、聴衆が好きになってくれる…とは限りません。演奏者の作品への「愛情・思い入れ」と聴衆の「好感度」は必ずしも比例しないのが現実です。それでも!演奏したいという気持ちが演奏者にあってこそ、コンサートは成り立つものだと思います。自分が聴く側になったときのことを考えることも、演奏者の「優しさ」だと思います。曲間のMCやプログラムノートに、演奏者の「暑苦しいほどの思い入れ」があると…(笑)私は正直に「引いて」しまう人間です。と言いながら自分のコンサートはどうよ?!(涙)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴィブラートを考える

ふるさと(ヴァイオリン・ピアノ)

 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの「ヴィブラート」
多くのアマチュアヴァイオリニストが自分の好きなヴィブラートに行きつかない…思ったようにヴィブラートをを「かけられない」というお悩みを持っています。
 これまでに多くの人たちにヴァイオリンで演奏する楽しさを伝えてきた経験の中から見えてきた「できる・できない」の違いを書いてみます。
 中学・高校の部活オーケストラでヴィブラートをすぐに出来るようになる子供と、なかなか思ったようにできない子供がいます。音楽経験の長さや体格的なものとは無関係です。練習時間にも比例しません。「なんとなく」できる子供と「頑張ってもできない」こども。どこが違うのでしょう?
 なんとなくヴィブラートができる子供に共通することを考えてみます。
・観察する集中力が強い
・呑気な性格=焦らない性格
・固執しない性格=作業容認性が高い
・スポーツが苦手=筋力が強くない
こうしてみるとなんとなく「ひ弱なタイプ」(笑)です。
スポーツも勉強もバリバリにこなす!人でも「のん気」な人はヴィブラートがすぐにてきるようです。
 ヴィブラートに限らず、楽器の演奏は「運動能力」が必要不可欠です。
吹奏楽部の「間違った腹筋強化トレーニング」があるように、スポーツでも音楽でも指導者が無知な故に、無駄な時間と労力を生徒にさせて、最悪筋肉を傷める結果になります。
 ヴァイオリンの演奏に必要な「運動能力」は、前回書いた「瞬発力」と「柔軟性」です。
ちなみに私自身、異常なほどに身体が「硬い」(笑)ので参考になるかどうか不安です。

 ヴィブラートが苦手な人に見られることは?
・手の動きに集中しすぎて「音」に集中できない
・動かそうとして指・手首・前腕・肘に力を入れすぎる
・ピッチの微細で連続的な変化に反応しない
・右手の動き=ボウイングが安定していない
ヴィブラートは「波」をイメージするとわかりやすくなります。
・浅い波と大きな波
・速い(細かい)波とゆったりした(長さの長い)波
上記の組みあ合わせは4通りあります。
1.浅く遅い
2.浅く速い
3.深く遅い
4.深く速い
この4つをさらに少しずつ変化させることもできます。
演奏する「音」によって、どんなヴィブラートを選ぶのか?正解はありません。
あくまでも演奏者の「好み」です。1種類しかヴィブラートの選択肢がない場合「ノンヴィブラート・ヴィブラート」の2択になります。いくら右手で音量と音色をコントロールできても、ヴィブラートが1種類と言うのは寂しいと思います。

 腕の筋肉の緊張と弛緩=緩んだ状態は、見た目ではわかりません。実際にその人の腕や手首、掌に触れてみると非常によくわかります。また、自分の腕の緊張と弛緩も意識しにくいものです。
できれば、家族に腕を触ってもらいながらヴィブラートをしてみると、必要以上に緊張していることを教えてもらえます。
 左手を不自然な向きに「ひねる」のがヴァイオリン・ヴィオラの定めです。多くの楽器がある中で、腕の筋肉=自然な身体の位置と逆に擦る楽器はほかに見当たりません。
 左手の「手のひらを下」に向けて、手首を「縦方向=上下」にブラブラさせることは簡単にできます。
 左手の「手のひらを右」に向けて、手首を「横方向=左右」に振ることも難しくありません。むしろ、この掌の向きが人間にとって一番「自然な向き」です。
 左手の「手のひらを上」向けて、さらに「左にひねる=小指を上・親指が下」になる方向にひねるのが、ヴァイオリン・ヴィオラの構え方になります。最も不自然な向きです。上腕=二の腕に「力こぶ」が盛り上がるはずです。また前腕の「手の甲側」の筋が盛り上がり硬く緊張するはずです。この状態で「手のひらをブラブラ」させるのがヴィブラートなのです(笑)無理がありますよね~。
さらに!その左腕を「前方に伸ばす」状態にすると?「いてててて!」じゃ、ありませんか?
左ひじを曲げると楽に「ひねる」ことができます。左ひじを伸ばすと肩の筋肉まで「引っ張られる」感覚があるはずです。
 少しでも左腕と左手の緊張を和らげるために「ストレッチ」をしてみることをお勧めします。
無理やり左手の力で「ひねる」のではなく、右手で左手の掌を「ねじる」助けをしてあげましょう。
始めは左ひじを曲げて「ねじる」ことからスタートし、徐々に左ひじを伸ばしてねじることに慣れていくのが楽にストレッチする方法です。

 見た目と違うのがヴィブラートです。小さな力で、大きな運動と、大きなピッチの変化を生み出す「柔らかさと最小限の力」を見つけるために、まず「音を聴く」ことに集中しましょう。
焦ると逆効果です。力を「加えて」できたと思うのは間違いです。ゆったりした波の海でゴムボートに寝ている「イメージ」で練習してみてください。酔わない程度に(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

瞬間的な動きを身に着ける

 以前書いたブログのなかで書いた「瞬間的な動き」について。
視覚に頼って動こうとすると、反応が遅れるのが人間です。
 五感の中で「嗅覚」「味覚」は運動に関わりませんが
「触覚」「聴覚」を忘れないことです。
 さらに「速く動く」ためには「速く力を抜く」ことが不可欠です。
ヴァイオリンの演奏中に必要な「力=筋肉の動き」は、三つに分類されると思います。
1.脱力しているときの「保持する力」
2.瞬間的に力を、すぐに1.に戻る力
3.意識的に力を持続したり、徐々に変化させる力
 一番大切なのは1.の「自然体で楽器と弓を持つ」時の最小限の力を見極めることです。
 2.の力は「瞬発力」とも呼ばれます。一瞬で最大の力を入れ、直後に1.の状態に戻す技術が演奏には不可欠です。リラックスしている時に、不意に肩を叩かれたら「びくっ」とする感覚。気を抜いていて、熱いものに触った時の「あちっ」という感覚。それを意識的に行うのが「瞬間的な運動」です。
 3.は左手で弦を押さえ続ける力や、弓を動かすときの力です。徐々に力をいれたり、反対に少し実力を抜いたりすることもあります。

 瞬間的な運動を身に着けるためには、自分の体で「今、どこに、どのくらいの力が入っているか?」を観察することです。日常生活を何気なく過ごしていると、自分の筋肉の動きや力を意識していません。ヴァイオリンを演奏するとき「無意識」に有害な力=不要な力をいれていることがよくあります。
自分では意識していないので、それが「当たり前」になってしまいます。
 弓を「持つ」と思い込むと、弦の上に弓の毛が「乗っている」ことを忘れます。その逆に弓の圧力を減らす=弓の毛を弦から浮かせる運動は、右手の親指を支点にして、一番遠い「小指」が力を加えることが「てこの原理」で理解できますが、小指を「つまようじ」のように突っ張っていたり、小指を常に浮かせて演奏することは「瞬間的な運動」を阻害する原因になります。
 左手も同じように「ネックを握りしめる」癖が見受けられます。
楽器が落ちるような「不安」がいつまでも抜け切れていないことが原因です。さらに、弦を指で押さえるための「力」に反発する「力」は、上下=床と天井方向の力であるのに「左右=ネックをはさむ力」を使ってしまうこともよくあります。開放弦の時に、左手の親指と人差し指の「間」にネックが落ちる状態が、本来の「力」です。
 ヴィブラートも同じです。左腕のどこに?どのくらい?力を入れるのか?を見切ることが必要です。連続した動きなので、上記3.に近い運動ですが、1.の状態=必要最小限の自然体を見つけないと「見切る」ことは不可能です。

 反応する時間を短くする「筋肉の瞬間的な運動」を身に着けるためには、「必要最小限の力を見つける」ことからです。そこにほんの少しの力を、ほんの一瞬だけ入れて、すぐに元のリラックスした状態に戻すトレーニングが必要です。冒頭に書いたように「視覚」に頼らず、指や掌の「触覚」と、音を聴く「聴覚」を優先して練習することをお勧めします。
 見なくても=見えなくても良い音を出せるヴァイオリン奏者がたくさんいます。目を閉じて自分の音を聴いてみると、様々な問題が出てきます。ぜひ、試してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プログラムを考える楽しさ

 今回のテーマ「プログラム」は、演奏会でお客様に聴いていただき曲を選び、演奏順を考える楽しさについてです。
 コンサートには「主催者」がいます。誰も主宰しないコンサートはあり得ません。どんなコンサートで、どんな人に楽しんで=聴いていただきたいのか?
 主催者が演奏者本人の場合もあります。演奏者とは別の人やプロダクションや団体が「企画立案」し実施する場合もあります。
 私の場合、ほとんどが前者=自分で立案し自分で演奏するコンサートですが、時に依頼を受けて演奏させて頂くことがあります。ボランティアとしてお引き受けする場合と、仕事として演奏させていただく場合があります。どちらにしても、聴いてくださる方の年齢層やコンサートの「タイトル」も含めて演奏する曲を決めます。

 クラシックを聴くために、コンサートに何度も足を運んだことのある人を「クラシック好き」と仮に呼ばせていただきます。一方でコンサートに行ったことがない方や、過去に数回言った古賀あると言う人もたくさんおられます。後者の割がが圧倒的に多いと思います。
 コンサートに「行かない」理由を考えてみます。
1.音楽に興味がない。
2.料金が高い。
3.時間がもったいない。
1.に関して言えば「音楽の種類」にもよります。ハードロックの好きな人なrあ「ライブ」には関心があって「クラシックコンサート」には関心が無いかもしれませんし、その逆のケースもあり得ます。もちろん、譜d何から音楽を聴かない…あるいは積極的には機内という人も多くおられます。
2.の前提は1.である音楽に「興味・関心はある」人か、その人に誘われてお付き合いでコンサートに行く人が該当します。無料のコンサートと有料のコンサートがあります。主催者が無料でコンサートを開く場合、つまりお客様からお金を受けたらない場合ですが通常、コンサートに係る経費があるのは当然です。お客様からの乳液が「1円もない」場合、
・スポンサーが経費を出してくれる
・主謝意者が負担する
・経費が円もかからないコンサートにする
以外に選択肢がありません。主催者が知恵気を求めるのであれば、入場無料のコンサートは考えられません。プロの演奏者が無報酬=ノーギャラで演奏する場合にも、交通費だけは支払ってもらうこともあります。ただ、会場までの往復時間。演奏会の時間。練習する時間の「対価」がないという事は、業務とは言えません。「ボランティア」を「無償」だと決めつける人がいますが、間違っています。ボランティアとは「精神」であって、有償・無償の差ではありません。
 コンサートの料金が高いと感じるか?は価値観の問題です。1,000円を安いと感じるか?高いと感じるか?は人によって違うのです。
3.の「時間」については、開催される場所と自宅からの「距離」によりますし、完済される時期や曜日、時間にもよります。聴く人によって、コンサートに行ける「時間」は違います。土日に働く人もたくさんいます。夜間に働く人がたくさんいます。それらの人が「クラシック好き」であることもあります。
コンサートに行きたくても時間の都合がつかない人も多いのが現状です。
一昔前のヨーロッパのように、夜こどもを寝かせてから夫婦でコンサートにドレスアップしていく「文化」があるのは、まさに芸術を楽しむことが「日常」であることの証だと思います。

 私と浩子さんのコンサートで演奏する「プログラム」に特徴があるように、演奏する曲を考えることは「聴く人へのおもてなし」だと思います。
 あ~締め、演奏する曲を公開して「その曲が聴きたい」と思う人がチケットを購入する場合もあります。料理に例えれば「コースのメニュー」を先に示すケースです。聴く人は好きな音楽を探して選ぶことができます。ただ、その「演奏」が耳に「合う」(笑)かどうかは別問題です。コース料理に「〇〇のプロバンス風」があったとしても、食べてみたら「期待外れ」かも知れないのと同じです。
 演奏者に期待してコンサートに行く場合もあります。「料理人に期待する」のと同じです。いわゆる「リピーター」ですね。音楽の場合には「ファン」とも言えます。
 演奏者を知らない&曲が公開されていない・公開されていも聴いたことのない曲ばかり…こなると、集客力が低くなります。どんな料理人が、どんな料理をだすのかわからないレストランで食事をするのと似ています。勇気がいりますが「当たればラッキー!」とも言えます(笑)
 私たちは「有名ではない演奏家」夫婦です。権威のあるコンクールで入賞した「音楽歴」はありません。言ってしまえば「ただ長く音楽に関わって生きている」ことは事実です。そして、二人が共感できる「優しくて心地よい音楽」を選んで演奏しています。聴いてくださった方の期待に応えるのは、とても難しいことです。完璧に…は不可能です。一人も出多くの方に「安らぎの時間」を感じて頂ければと願ってプログラムを考えています。10月の木曽おもちゃ美術館での演奏も、響きの豊かな会場で「気持ちよく」感じて頂ければ嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽福島「木曽おもちゃ美術館」で演奏します

2022年撮影「瑠璃色の地球」ヴィオラ・ピアノ

2023年10月7日(土)夕方6時30分と翌日10月8日(日)11時に、長野県木曽町に建つ「木曽おもちゃ美術館」で演奏します。
 主催は木木曽町(教育委員会)です。
おもちゃ美術館は20年前に廃校になった小学校を減築した施設。
演奏するのは「元」体育館で高い天井と木造の建物が、信じられないほど豊かで心地よい響きを、演奏者もお客様も楽しめる「ホール」です。

 演奏に適した会場…日本にある多くのホールは、実は「多目的ホール」です。
講演会や落語などを「聴く」時には、残響が少なく「聞き取りやすい」音響がホールに求められます。
 打楽器の演奏の場合「音の切れ」が求めmられます。余韻が長いと「切れの悪い」印象になります。これは吹奏楽にも言えます。
 一方で弦楽器の演奏には「余韻」があってこそ!だと私は確信しています。
伝統的な日本家屋の多くは「土壁」や「ふすま」「畳」「低い木製天井」で、基本的には「吸音材」に囲まれている状態です。狭い部屋で音が響かないことは、長屋が多かった日本では「必須条件」だったのかも知れません。
 ヨーロッパの古い家屋は「石」「レンガ」の外壁が多く、天井も高く(身長が高いせい?)日本の「吸音」とは真逆に「音を反射する」部屋がほとんどです。
 こうした文化の違いもあり、日本のホールでは残響の短いホールが圧倒的に多いのが現状です。残響時間をコントロールできるホールも昔からあります。
 電気的な残響ではなく、ホールの天井や壁面に、残響の長さを変えるための構造物を作り、演奏内容や好みに応じて「ある程度」残響時間を変えられるホールです。
 当然のことですが、同じホールでも満席の場合には残響時間が短くなります。
演奏者の「位置」でも音響は変わります。ステージで聴こえる残響と、客席で聴こえる残響時間も違います。特に「大ホール」と呼ばれる大きな会場の場合、楽器の「直接音」を楽しむことは不可能です。壁・天井で何度も反射した「間接音」をステージから遠く離れた客席で聴くことになります。

 木曽おもちゃ美術館は、昔の体育館を改装した会場ですが「木の響き」」を楽しむことができる、とても希少なホールだと思います。ピアノも当時子供たちが使っていたであろう「アップライト」ですが、そんなことは気にならないほど、癒される響きがあります。
 今回も「聴いて疲れない」「初めて聴いても懐かしい」「口ずさめる」曲を選んで演奏します。陳昌鉉さんが木曽町でヴァイオリン制作を「独学」で始めたこともあり、木曽町の名誉帳面です。陳さんが亡くなられてからも陳さんの作られたヴィオラで演奏し続けている私が、木曽町が陳さんから譲り受けたヴァイオリン「木曽号」を使って演奏します。
 詳しくは、下のチラシをご覧ください。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽は技術だけで評価する芸術じゃないよ!

今回のテーマは音楽を演奏する・音楽を聴いて楽しむすべての人たちが共通に感じる「音楽の喜び」を言語化するものです。

 演奏の「うまい・へた」を点数化したり序列化したがる人がいます。私は「人の好み」こそが重要だと考えるので、機械的に技術=テクニックを競い合ったり、序列化することに疑問を持っています。むしろ、この序列化が音楽を純粋に・率直に「好き」と感ずる気持ちを阻害している気がしなりません。少なくとも先入観をあたえる「コンクールの順位」や「他人の評価」が音楽ファンを減らしていることは間違いないと思います。
 例えて言うなら、テレビが視聴率を優先して番組を組み立てることに似ています。人によって「見たい」と思う番組は違います。当然です。すべての人が満足する番組構成は不可能です。スポンサーがあっての放送です。一人でも多くの人が「見てくれる番組」を並べたいと思うのは仕方のないことです。それが「視聴率至上主義」を生みました。ある番組…例えば「旅もの」の視聴率が高ければ真似をする。「食レポもの」の人気があれば真似をする。「芸能人コメンテーター」が当たり前になったのもその一つです。どの放送局も「似たり寄ったり」個性のない番組ばかり。若者のテレビ離れの原因は?これではないでしょうか?

 他人の評価や流行を気にする民族性や文化は、国や時代によって大きく変わります。日本で考えれば「国民的ヒット曲」が消えてからすでに何十年経ったでしょう?
「流行」は他人の評価に影響される「集団心理」と、毎日いつもどこかで耳にする「刷り込み現象」によって、流行の度合いが決まります。ファッションも音楽も「個性を大切にする」より「誰かの真似」が圧倒的に簡単です。
 現代の日本では「誰かの真似」をする人が激減しました。ただ内心では「右に倣(なら)え」というのも日本人の気質です。偉い人の言う事・この大きな人に「従っていれば無難」と言うのも日本字的な考え方です。

 演奏の技術は「自分らしい音楽を表現するため」に高めるものです。人の真似をする技術も「技術」です。清水ミチコさんや、コロッケさんのような「特殊技術」は一朝一夕に身につけられる技術ではありません。観察力が並外れていなければ「本物」と「自分」を比較できません。ただ「真似」であることは事実です。「本物」があるから「真似」ができるのであって、本物が個性的だから「真似」を見ていて面白いのです。個性のない「本物」は誰も真似しないのです。
 個性的な演奏をするための「技術」は、まさに「個性的な技術」であり誰かと比較するものではありません。自分流の演奏方法、自分にしか出来ない技術を身に着けることこそが「技術の習得・修得」だと思います。

 音楽を聴く人にとって「うまいかへたか」を判断する能力や技術・経験は必要でしょうか?コンクールの審査員なら演奏技術を「比較する能力」は不可欠です。先述の通り「好み」を点数化したり序列化することは「脱個性」極論すれば「クローン化」することに近いものです。
コンクールで「いくつの音を失敗したか?」は機械でも数値化できます。人間が審査する必要はありません。
一曲で演奏する「何千」「何万」と言う音を、一度も失敗しないで演奏すると「満点」です。何回演奏しても、満点を出す「ロボット」が世界最高の演奏者ですね(笑)

 間違えない技術より、音楽を知らない人の心をつかむ演奏の方が大切だと思います。音楽評論家の「よいしょ」がなくても「好き」「良い」と感じる演奏があります。聴く人によって違うのです。それが「音楽」です。誰かが良いと言った音楽が「良い音楽」ではないのです。
 幼い子供が「間違えない演奏」をすると「神童」「天才」と呼ばれます。確かに指導者=大人の言った通りに、すべての音を演奏する「記憶力」と「労力」には脱帽します。それが「最高の演奏家」だとは思いません。指導者の考えた「表現と技術」を「真似」している子供を「天才演奏家」と言うのはどこか間違っている気がします。
 子供の純粋な「感覚」を引き出し、素材の美しさ=子供にしか出来ない演奏に「大人の穢れ(けがれ)」を加えないことが「大人の仕事」だと信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

インボイス制度に反対します。

  2023年10月から多くの国民が反対するなかで、強引に実施される「消費税増税」
インボイスというカタカナでごまかそうとする政府の姑息な手法に騙されている人が多くいます。
「消費税は消費者が事業者に預けている税金」だと間違っている人がたくさんいます。
消費税の条文には「消費者」の文字は一か所も書かれていないのが事実です。
国会でも「消費税は預かり金ではない」「消費税は益税でhない」ことを財務省が明言しています。
司法=裁判所の判例でも「消費税は対価の一部である」ことが示され確定しています。
 さらに「年間の総売り上げが1,000万円以下の事業者は消費税の納税を免除する」ことが、法律で定められています。ちなみに、現時点で「課税事業者」の場合には、消費税を除いた売れ上げ金額が「1,000円以下」なら2年後に「免税事業者」になりますが、現在が「免税事業者」の場合にはなぜか?「税込みの売り上げが1,000万円を超えると2年後から課税事業者になる」という意味不明な基準が合法とされています。これだけでも大きな矛盾を抱えているのは事実です。
 さらに「免税事業者」がどうして?消費税を納めなくてもよいのか?という理由を知らずに「ネコババしている」とか「不幸名だ!」と騒ぎ立てる無知な芸能人やなんちゃって法律家がテレビとネットで大声をあげています。
 日本の税金は「応能負担の原則」があります。わかりやすく言えば「金持ちはたくさん税金を長寝ることで、貧しい人の生活を支える」ことが日本の税金の考え方です。ところが、その原則を無視して「貧しい人にも高い税金を」という制度が消費税という悪税です。
 日本全体が好景気で、多くの人の給与が上がっている状態なら、当然物価も上がります。そんな時にブレーキになるのが「付加価値税」つまり日本で言う消費税です。
 不景気で人々の賃金が下がり、お金が「動かない」状態になった時には「付加価値税」を下げるのが常識です。現実に正解中の先進国では、日本で言う「消費税」を大きく下げています。
不況の中で税金を高くすれば?益々不況になるのは小学生でも理解できることです。
 インボイスは「免税事業者を課税事業者にさせる」制度です。つまり、生活することがやっと…という人たちに対して「もっと税金を払え」「命がけで税金を払え!」という増税です。
「消費者に寒けない」と政府が嘘をPRしています。大須尾です。
 実際に「電気料金値上げ」は「インボイス制度の為」だと明言し政府も認めています。
先述の通り、消費者は消費税を納税していません。支払った「対価=代金」の中から、事業者=お金を受け取った側が「納税」する税金です。
 では、物を売る側=サービスを提供する側=お金を受け取る側は?
お客様からいくら?貰えるかという金額は、売る側が決めます。高く売るほど「儲かる」のですが、お客様に買ってもらえなければ「収入ゼロ」ですよね?だから、買ってもらえる=払ってもらえる金額にするしかありません。そして手西下「代金=売上」の中から、消費税を納めろちうのが消費税です。
 切り詰めてぎりぎりの生活をしている「事業者」が日本中にいます。
その人が地に消費税を払う「お金」があると思いますか?なくても「払え!」って応能負担じゃないですよね。
 消費税がないと「税金がたりない」って大ウソを言う政治家やおばかちゃんがいます。
少なくとも40才を過ぎた人なら、昔の日本を知っているはずです。消費税なんてありませんでした。
「高度成長」つまり日本人みんなが「豊かに暮らせていた」時代がありました。
その頃「贅沢品」には高い「物品税」がかけられていました。
お金持ちほど、高い税金を納めていました。大企業が納める税金にも「当然」高い税率がありました。
だから日本は豊かになれました。
 消費税は日本には不要です。外国が~と騒ぐ人ほど「外国時Hんは非本から出ていけ」と、自分の言っている言葉の意味を理解していません。はっきり言って天然記念物です。
 インボイスに登録しなくても大丈夫です。
動画をよくご覧になってください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

差別する人を軽蔑します

 映像はヴァイオリン製作者陳昌鉉さんが長野県木曽町に贈呈された「木曽号」を使って一昨年秋に木曽町文化交流センターで演奏したときの「鳳仙花」です。
 陳さんは日本が「強制的に統治」していた韓国で生まれ育ち、戦後日本に渡り、独学でヴァイオリン制作者を志した私の尊敬する方です。
 「ヘイト」と言う言葉が明確に何を指し示すのか?について専門家ではないので私には書けません。しかし、私たち一人一人の人間には、必ず「母と父」と言う人間が存在しているのです。仮に会ったことがない「両親」だっとしても、生物学的に考えれば、どんな人にも何代にも遡れる「祖先」がいるのです。祖先のいない人間は誰もいないのです。地球上に「人類」が誕生したときまでさかのぼって考えると、私たち一人一人の「祖先」はその時代にまで遡らなければ、私たちは今生きていないことになります。
 間違いなく言えるのは、自分の「一番古い祖先」を知っている人は、地球上に誰もいないという事です。「日本の天皇家が!」と食いつく人がいそうですね(笑)系譜と言う意味で天皇の家系には「記録が多く残っている…ただし、その記録は「文字」でしかありません。「DNAだ!」へ~。神武天皇の「DNA」ってどこかで調べられるんですか?(笑)
 その話はここまで。要するに私たちは「人種」や「国籍」「肌の色」で人を自分と違う「人種」だと決めつけています。そんな「決まり事」ができたのは、たかだか数百年前からですよね。自分の「祖先」が今、隣にいる人と同じかもしれない…それが真実です。私たちの「差別意識」は「自分が優れている」という傲慢な思い上がりが生んだ不幸な「勘違い」でしかありません。
 音楽家の中にも、情けないことに「〇〇国民は最低だ!」とか「●●人は日本人よりバカだ!」と口にする人がいるのは事実です。よほど自分が優れた生き物だと確信している人だとしか思えません。実際にはかなり頭の弱い方だと思いますがご自分では「俺は賢い」と思っているから差別ができるんですよね。
 音楽は「国境」がまったくいらない「音の芸術」です。
楽譜と言う記号を理解できれば、言葉を交わせない人とでも一緒に音楽を演奏できます。聴くことに至っては、まさに「誰でも」一緒に楽しむことができます。
 争うことが「正義」だと勘違いしている人がいます。正義にも様々あります。
自分を守ることも正義。他人を守ることも正義。安直な考えで人を「見下げる」のは間違っています。
 人間は「考えることができる」のです。
音楽を通して、他人を思いやる思考が大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「仕事」を音楽的に考える 

 映像は「悲しみのクラウン」2台のカメラで撮影した映像を動画編集ソフトを使って編集したものです。音声も音声加工ソフトで音色や残響を編集しています。
 さて今回のテーマは社会人として生活する人の「仕事」を音楽を演奏する作業・日常に置き換えて考えるものです。
 どんな業種であれ「仕事」は誰かのために働くことです。
対価をお金でもらう場合も、そうでない場合…例えば家事全般を日常的にこなす人にとって、家事は立派な仕事です。
 それらの仕事を行う私たちは、その仕事が好きな場合・理想に近い場合もあれば「苦手な内容」だったり「我慢して」仕事をする場合もあります。
人によって価値観も違います。体力も能力も違います。その人にあった仕事が出来ない場合も珍しくないのが現実なのです。
 私自身の場合、音楽大学で教員免許を取得し卒業後に20年、私立中学校・高等学校で「音楽の先生」として働きました。当初2~3年で辞めて演奏活動を始めるつもりでしたが「生活のため」にやめるにやめられなくなっていました。
 そんな20年間で多くの事を学べました。特に「組織の中で働く」意味を知り、さらに「仕事のスキル」がどれほど重要なものかを学びました。
 組織で働く…これは「家族」という単位であっても大企業であっても基本は同じです。自分一人だけで仕事をする場合との違いです。一緒に働いたり生活した生活宇する「他人」との共同作業が不可欠です。自分だけの価値観や好みより「集団」で求められる価値観と目的を優先させなければ社会人として生活できません。自分の得意なことであれ苦手なことであれ、組織が求める仕事をするのが組織人としての最低限の仕事です。
 スキルの重要性。これは組織であれ個人であれ、仕事をする人にとって欠かすことのできないことです。如何に仕事を正確に、円滑に、能率的に行うか?それがスキルです。この「正確性」「適応性」「能率性」のどれかが下がれば結果としてスキルは下がります。自己評価だけが許されるのは「趣味の世界」です。仕事として何かをする場合、自己評価だけで「仕事をした」とは言えないのが社会のルールです。一緒に仕事をする人に対しても、あるいは取引先・納品先・対面するお客様が納得できるスキルがなければ「仕事をした」とは言えません。

 これらの「仕事」を音楽を演奏するための「練習・本番」に置き換えてみます。演奏は「趣味」であっても「プロ」であっても同じです。
 上記の「組織」「スキル」という点で考えた場合、組織は「アンサンブル」に当てはまります。「スキル」は個人の演奏技術・能力です。
誰かと一緒に音楽を演奏することは、ピアノ以外の楽器を演奏する場合には「当たり前」の事です。ピアノと一緒に演奏する。何人かで演奏する。一人で音楽が完成するピアノが特殊な楽器だと言えます。相手に「会わせる」事は単に演奏技術だけでは事足りません。思いやりや優しさ、寛容性。言ってみれば「人間性」が重要になります。
 ピアノ一台で演奏したとしても、演奏会でスタッフやお客様への「配慮」がない人は、演奏する資格を問われます。
 演奏のスキルアップ。これは「練習」に尽きます。仕事で考えればひとつの業務が「完了」するまでのすべての作業が練習に当てはまります。
 演奏の練習は楽譜を読むことから始まり、少しずつ・一歩ずつ、自分の目指す音楽を演奏できるように時間をかけて作り上げることです。
 妥協すれば、どこまでもスキルは下がります。逆に求める気持ちがあれば、スキルは無限に上がるものです。自己評価と「聴いてくれる人の評価」が近づくことを目標にすることが練習の「成果」を確かめる方法です。
 自分で「うまくいった」「失敗した」と評価する面と、聴いてくれた人が感じた内容を並べて「考える」ことが次のスキルアップにつながります。
 仕事でのスキルアップも同じです。仕事の相手が満足してくれているか?自分の仕事に問題はないか?を両立できなければ、スキルアップは望めません。

 音楽大学で真剣に音楽を学んだ学生を、一般企業がこぞって採用するようになってからずいぶん年月が流れました。昔は「音大卒はつぶしがきかない」と言われました。むしろ音大を出て一般企業で働くことが「恥ずかしい」と感じていた時代でもありました。そのプライドが災いし、企業側は「つかえない人材」と決めつけていたのだと思います。
 現実に音大で楽器の練習スキルを身に着けた学生は、一般企業で新しい仕事、業務内容に対しても短期間でスキルアップできる「テクニック」を持っています。それは一般の大学卒業生に比べて、はるかに高いスキルです。
 仕事をしながら楽器を演奏して楽しむ「趣味の演奏家」にとって、仕事は辛いもの・演奏は楽しいもの(笑)になりがちですが、両立させることで「いいとこどり」できるはずです。仕事のスキルと楽器の練習内容は、多くの人の場合「比例」するように思います。練習のうまい人は、どんな仕事でもスキルアップが早い。当然、個人差があります。その人なりの「生き方」があるように、許されるボーダーラインの中であれば、仕事は成立します。音楽も仕事も「楽しみながらこなせる」ことが何よりも重要だと思っています。
 命を懸けて…仕事をするのは間違っています(笑)命あっての仕事ですから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人・弾く人・作る人

 映像は「悲しみのクラウン」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
オリジナルの楽譜に手を加えて演奏しています。
 今回のテーマは音楽に関わる「お金」の話が中心です。
「芸術をお金に置き換えるな」と思われるかもしれませんが、古今東西「音楽」を含めて絵画もその他の美術品も「お金」が関わらないことはありません。
 聴く人・昼人の立場で考えれば「楽しめればただ=無料が理想」です。
また演奏を単に楽しむ=自分で聴いて楽しむだけの場合、楽譜を手に入れるお金がかかることも「覚えた音楽を思い出して演奏する」こともあります。
 演奏する人が「生活するために演奏する」場合、対価として誰かからお金をもらうことが生活の糧になります。聴いた人がお金を払う場合もあれば、演奏会を主催した「人」や「組織」が演奏者にお金を払う場合もあります。
 演奏家が自分で演奏会を企画・開催するときには、広告宣伝にもお金がかかります。宣伝しなくても、自宅で演奏する場合でなければ「会場費」を支払います。その他にもピアノの調律費が必要になるケースもあります。
ホールで働く人、調律をする人たちも「お金」が必要なのです。
 楽譜を書く=作曲をする人の収入は?楽譜を買ってくれる「出版社」や「演奏家」からお金を受け取るのが一般的です。演奏したと人からお金を貰える作曲家はほとんどいないのが現実です。作曲者自身が演奏する場合には、上記の「演奏家」としての収入や支払いが必要になります。
 言うまでもなく「作曲家」がいなければ、演奏する楽譜がないことになります。演奏家が居なければ、音楽を聴くことは出来ません。聴く人が居なければ、演奏家の収入がなくなります。この三者の関係は「音楽」がある限りお互いに必要不可欠な存在なのです。
 現代、音楽を聴く方法は昔と大きく変わりました。
・録音する方法がなかった時代
・放送がなかった時代
・コピーがなかった時代
バッハやモーツァルト,ベートーヴェンが生きていた時代には上記のすべてがありませんでしたが、作曲家も演奏かも「お金」を貰って生活できていました。
 音楽を聴いて楽しめる人が限られていた時代でもあります。当時は「クラシック音楽」と言う概念はありませんでした。当たり前ですね(笑)
 音楽を聴くためには「演奏家が目の前で演奏してくれる」ことが前提でした。
演奏する音楽の楽譜は、作曲家が手書きしたものを「写譜屋」という専門職業の人が書き写して、オーケストラのパート譜を書いていました。
 印刷技術が発達してからも、コピー機はありませんでしたから楽譜は「買うもの」でした。

 作曲家が時間をかけて作曲した楽譜が「コピー」と「パソコン」で無尽蔵に、無制限に無秩序に拡散しているのが現代です。一度手にしてしまった「利便」を人々から取り上げることは非常に難しいことです。「コピーガード」をいくら開発しても、それを乗り越える技術がいたちごっこtで現れます。
 作曲で生計を立てる人を守るための「根本的な方策」を議論しなければ、今後、新しい楽は誕生しなくなります。
 「作曲者の権利」をいくら叫んでも、時代に合った新しい方策を考えなければ無意味です。
 同じことは「演奏家の生活」も今の法律と支払い・受け取りのシステムでは守れません。むしろ、現在の日本では演奏家の権利が最も低く扱われています。
 ほとんどの演奏家がフリーランス。生活保障がなにもありません。
「利益目的」つまり、入場料金を頂いて開催するコンサートの場合、作曲家ではなく「権利管理団体」がお金を「かすめとる」ことが許されているのが現状です。作曲者へ支払われるのであれば納得できます。当たり前のことです。しかし、ほとんどの作曲者は誰かが…自分が作った曲を自分が演奏した場合でも、手元にはお金が届きません。演奏者は作曲者自身が演奏した場合も含め「金払え」と言われます。権利を管理するための「手数料」であって「作曲者への支払い」ではないのです。
 さらに言えば、入場料を頂いたとしても先述の通り「経費」が掛かるのが当たり前で、赤字になる場合も珍しくありません。「赤字になるなら開催するな」と言うのは簡単です。演奏家が生活できず、演奏の機会がなくなればホールも存続できません。調律師も舞台スタッフいなくなります。
 当然、演奏会もなくなり演奏を聴くことができなくなります。

 とても難しい問題に思えますが、実は「原理を考える」ことで答えはすぐに見つかります。
1.演奏者が作曲者が求める会化を「直接支払う」
2.聴く人は演奏者が求める対価を「直接支払う」
たったそれだけの事なのです。「非現実的だ」と思われるかもしれませんが、ネットの発達した現代、支払いを求める側も支払う側も「ネット上で直接」取引ができるのです。演奏会のチケットでさえ、ネットで購入できるのに作曲者への使用料金が「支払えない」理由があるでしょうか?
 そもそも演奏する場合に「作曲者への許可申請」が必要なのか?不必要なのか?不透明なのです。「管理団体」は現代の世界では不要なはずです。
「作曲者が自分で演奏会を調べるのは不可能だ」と吠える人がいますが、作曲者がネットで演奏許可の申請を受け、対価を支払ってもらい許可を出せば「必ずお金が入る」のです。管理団体に「任せる」からお金が入らないのです。要するに「手間を惜しんで稼げるはずがない」とも言えます。
ましてや管理団体が利益を上げること自体が無駄な中間マージンです。
 時代にあった音楽家の「生活を守る活動」を法律の整備と共に考えなければ、未来が先細くなってしまうばかりです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

気持ち=意思と身体=運動

 映像は「私を泣かせてください」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
今回のテーマは演奏する時に「考えること」と「身体を動かすこと」の両立について考えるものです。
 結論から言えば、意識と無意識を「融合」させることだと考えています。
具体的に言えば、考えて何かをしようとする時、同時に考えなくても何かを出来るようにすることです。
 例えば、車を運転する時に、目で前方やサイドミラー、バックにらー、スピードメーターを見ながら、無意識にハンドルやウインカーを動かし、足てアクセルやブレーキを操作しています。考えているのは「見ているもの」についての情報処理…前方の信号や前の車の動き、歩行者などを見ながら次の行動を「無意識」におこなっています。これが「意識と無意識の融合」です。
 楽器を演奏する場合はどうでしょうか?
楽譜を見て演奏している場合、書かれている情報…音符や休符、弓や指、記号などを「読み取って」無意識に右手や左手を動かしているはずです。
さらに細かく言えば、左手の指番号を考えている時にでも右手の弓を動かす運動は「同時に」行われています。この場合の右手は無意識に動いています。
 人間は同時に二つの事に「集中」することは出来ません。
聖徳太子のように何人もの話を一度に理解する場合、実は頭の中では一人ずつの「声と言葉」を分離して、個別に記憶しています。そんなバカな!と思われますが、音楽の専門技術の中に「和声聴音」があります。同時にいくつも演奏される「音=和音」を楽譜に書きとるものです。これがまさに「聖徳太子」なのです。同時になっていても「いくつ鳴ったか」「なんの音だったか」「何分音符だったか」を聴きながら頭の中で処理=記憶していきます。訓練すれば誰にでも身に着けられる技術です。
 この場合は音に「意識」を集中させています。楽譜を書くと言う行動は無意識に近いものです。
 もっと身近なことで言えば「音読」がまさにそうです。
目では文字を読みながら、声では「読んで記憶したものを思い出しながら」さらに「目では先を読んでいる」ことの繰り返しが音読です。この場合、声に出していることが「主目的」なのですが、実際の脳は「読む」事に使われています。
 演奏しながら「何かを考える」のは当たり前のことです。
その時、考えていないことも「同時に無意識に」運動していることを忘れてはいけません。一つの事を考えている「だけ」のつもりでも、無意識にほかの事をしているのです。それができるのは「慣れ」以外にないのです。
 歩く時に両手・両足を動かすのも「慣れ=学習」の成果です。息をする・心臓を動かす・食べたものを消化する…これらは「本能」です。
 何も考えずに演奏することができたとしても、音楽を「創る」ためには考える力が絶対に必要です。自分の意志で音楽を創造することが、もっとも大切な「技術」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色を変える技術

 映像はサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」10年前の演奏です。
ヴァイオリンを演奏する…一言で演奏と言っても、楽譜に書いてある音符を音にするという意味もあれば、演奏者が楽器を使って「イメージを表現する」ことでもあります。
 ヴァイオリンは弓の毛で弦を擦って音を出すことが通常の演奏です。
音の高さは弦の太さ・張りの強さ・弦の長さで変わります。
音のと良さは、弦の振動の幅と筐体=ボディーの反響と残響で決まります。
音色は?どうやって変えるのでしょうか?
前提として「現状の楽器」で音色を変えることにします。
弦を張り替えたり、弓の毛や松脂を変えたり、楽器の調整をすれば音色は近Pんから変わります。それらに手を加えず「技術」だけで音色を変えることが、ヴァイオリン演奏の楽しみだと思っています。

 簡単に言ってしまえば「右手と左手」の技術の組み合わせです。
★右手…弓を扱う右手の使い方。弓を弦に押し付ける力のコントロール・弓の傾け方=弦にあたる弓の毛の量・弦に弓を当てる駒からの距離と力の方向・弓の場所による毛の張りの強弱の活用・前述の技術の組み合わせ
★左手…弦を押さえる指の場所・抑える力の強さ・ヴィブラートを始めるタイミング・ヴィブラートの深さ・ヴィブラートの深さ・これらの組み合わせ
★右手と左手の組み合わせ…上記の技術を組み合わせて音色の変化を作る

 厳密にはもっと細かい「技術」がありますが、おおざっぱに言っても上記のような「音色を変える技術」があるわけです。
 楽譜で支持されている弦の指定、音量の指示はあくまでも「指示を書き込んだ人の意図」であり必ずしも作曲家の意図=指定とは限りません。出版社によって指示が違うのは日常茶飯事です。
 自分で音色を変える楽しさを「発見」することがヴァイオリンの演奏の醍醐味だと思っています。
 ぜひ!楽譜に書かれていない音色の世界を楽しんでみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の弾きこなす意味

 映像はピアソラの作曲したアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏したものです。陳昌鉉さんのヴィオラ、私にはとても魅力的に感じています。
 今回のテーマは前回のブログに引き続くものです。
演奏者が楽器の個性を引き出すこと。違う言い方をすれば、楽器の弾きこなすことでもあります。先日、会社で税理士さんと「なぜ?ヴァイオリンだけ特別に高いのか」と言う話題になりました。皆さんはどう?考えますか?
 ピアノの「最高峰」と言われるフルコンサートグランドピアノで約2500万円。
パイプオルガンは建物と一体化していることが多く、単純に楽器だけの金額を評価することは不可能です。
 フルート、トランペット、ティンパニなどなど多くの楽器がある中で、ヴァイオリンだけが「10億円以上」のがっきがあります。はてな?素朴な疑問ですよね。結論は「楽器の性能・ポテンシャルとは無関係に資産取引の対象」なのです。ゴッホやピカの絵画、人間国宝の作った焼き物などが本人の意思や、「物としての価値」ではなく「金儲け=ビジネス」の道具になっています。
 ヴァイオリンは300年以上前に「完成された楽器」とされています。その頃から現在まで、壊れずに=修理を続けながら演奏し続けてきた楽器に「プレミア的な価値」があるのは自然なことです。ただそれは、楽器の音色とは無関係です。

 さて、楽器を弾きこなす技術とは、いったいどんな技術でしょうか。
一般に「うまい」とされる演奏は「正確性」「再現性」が判断の基準です。
 この二つの技術は、楽器がどんなヴァイオリンであっても不変です。
ストラディヴァリならうまく弾ける?魔法か!(笑)初心者にとって「正確に何度でも演奏できる」事は大きな課題になります。どんなに上達したとしても、それはゴールのないものです。単純に「ミスの数」だけで点数化することもできます。フィギアスケートの審査と似ていますね。
 ではうまければ楽器を弾きこなしていると言えるでしょうか?
楽器はすべて、音色も音量も違います。「木材」を主材料にする以上、当たり前の事であり、それはストラディヴァリの楽器であろうと、大量生産のヴァイオリンだろうと「差」があることには変わりありません。
★楽器による個性を知るこための技術
1.演奏方法のバリエーションを持つこと
2.弾き方による音色や音量の小さな違いを聞き取る耳
3他人の意見を聞き入れる心の広さ
★個性を引き出すための技術
1.楽器との対話=自分の技術と楽器の個性を常に客観視する気持ち
2.楽器の変化と自分の聴こえ方の変化を並行的に観察する力
3.自分の好きな音色・音量を維持する根気
4.時間をかけて楽器と対話する「一途な気持ち」
 多くのヴァイオリニストが自分の楽器に不満を持つようです。それは初心者、アマチュアよりも「プロのヴァイオリニスト」に強く表れるようです。
 アマチュアから考えれば「それだけの技術があるからきっとわかるんだろう」と推測します。楽器の違いが判り、自分には物足りないと「買い替える」事がヴァイオリニストのステイタスなのでしょうか?そうしなと満足できるヴァイオリンに巡り合えないのでしょうか?
 楽器を「人間」として考えてみると答えはすぐに分かります。
完璧な人間はいません。自分が「パートナー」として選んだ相手に完璧を求めるでしょうか?パートナーのために自分を完璧にできるでしょうか?
 欠点があり長所があり、変化するのが人間です。長く付き合えばさらにその変化は大きくなります。相手の変化、自分の短所をお互いに「受け入れながら」いるのが人間同士のパートナーですよね?どちらかが、我慢できなくなれば「コンビ解消」(笑)になるのは仕方ないと思います。一方だけが我慢することはお互いのためになりません。
 楽器は自分で変わることは出来ません。演奏する人が「変える」事はできます。人間に例えるなら「言葉を話せない乳児(あかちゃん)」にも似ています。
親の思う通りにならないのがあかちゃんです。それでも「愛情」があるから受け入れられる。
ヴァイオリンを「買い替える」ことは「道具なんだから」と思えばできることです。それを「自分の子供」だと考えたら「気に入らないから買い替える」って…出来ないと思います。自分が育てる。自分も成長する。それが楽器を育て、自分を成長させることだと思います。
 赤ちゃんが、言葉にならない意思表示をするとき、親は子供のすべてを観察して「もしかして?」と子供の意思を探りますよね。ヴァイオリンにそれをしているでしょうか?
 楽器の個性は人間の個性と同じだと思います。相手によって変わるものです。
人間はヴァイオリンを選べます。ヴァイオリンは演奏者を選べません。
 どんな楽器だろうと、その個性を最大限に引き出すために何年かかろうと、一生かかろうと私は厭いません。私にとって今のヴァイオリンとヴィオラは「大切な家族」なのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦楽器の価値は楽器で決まるのか?演奏者で決まるのか?

 映像は陳昌鉉さんが2010年に作られたヴィオラで演奏した赤とんぼです。

 上の画像はそのヴィオラの写真とラベルです。一般に新作の楽器はオールド(製作から100年以上経過した楽器)より「価値が低い」とされているのが弦楽器の不思議な「定説」ですが、私はこの固定観念は間違っていると確信しています。
 誤解のないように言葉を足せば「古い楽器が新しい楽器より価値があるとは限らない」と言うことです。
「ストラディヴァリはどうだ!」「グヮルネリは?」「アマティはどうだ」
必ず食いつく人がいますが(笑)「名作」と言われている楽器を、初心者が演奏して良い音が出ると思いますか?「プロが弾かなければ価値がわからないんだ!」と仰る方が、プロの演奏するストラディヴァリの作った楽器と新作のヴァイオリンを聴き比べて「当たる確率」は50パーセントと言う世界的なデータを否定できるでしょうか?「聴く人の耳が悪いだけだ!」いいえ。それも違います。
プロのヴァイオリニスト、ヴァイオリンの製作者が聴いても結果は同じです。50パーセントの確率です。つまり?
 演奏する人の技術の差の方が、楽器の違いよりも大きい
事は紛れまない事実です。演奏する技術が足りなければ、どんな楽器を演奏しても「それなり」の音しか出せません。言い換えれば、その人が安い楽器を演奏しようが高い楽器を演奏しようが「大差はない」のです。
 楽器を買えれば音色も音量も変わります。それは事実です。
演奏技術が高いほど、楽器の個性を見つけられ、固有の音色を引き出せます。
楽器固有の音と演奏者の「相性」がすべてです。要するに好みの音を持っている楽器に根巡り合うことが、演奏者の喜びであり「運命」なのです。
 高い楽器を手に出来ないから、演奏技術が低い。
論理的に間違っていますよね。
 高い技術があれば、どんな楽器でも良い音が出せる。
これ、間違っていませんよね?
つまり、演奏技術を高めることが楽器の価値をあげることになるのです。
 陳昌鉉さんの作られた楽器を「オールドには劣る」と決めつける人を見かけます。自分の好みではない音…だと言われれば否定は出来ませんが、それは「好み」の問題であり客観的な基準・事実ではありません。
「日本で一番おいしいラーメン屋さん」
ありえないですよね(笑)それと同じことです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「音楽を演奏する」という目的を見失わない!

 映像はチャイコフスキー作曲「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 さて今回のテーマは楽器の練習をする人…楽器に限りませんが(笑)、自分が何を目的に?楽器を練習しているのかと言う「目的」を再確認するテーマです。
「楽器を弾くのが好きだから」だけで十分!と言われればそれまで(笑)
多くの演奏家が様々な「壁」にぶつかります。自分の技術や知識の少なさに心が折れることもあります。もうやめよう…無理だ…向いていない…才能がない…
私だけではないようで、生徒さんたちも同じように「挫折」するのが当たり前のようです。
 多くの人は先述のように「楽器を弾くのが面白い・面白そう」と思っていた時期があるはずです。ところがいつの間にか「うまく弾けないからつまらない」と言う気持ちが自分のやる気を焼失させます。それでも楽器を弾くことが好き!と言う人は少数のようです。
 楽器を「上手に弾こう!・弾きたい!」と思う気持ちは大切です。間違えずに、正確に何度でも思ったように演奏で着たら「さぞかし!」気持ちいでしょうね(笑)それが「目的」になってしまうと「出来ないからつまらない」になるのでは?つまり「音楽を演奏したい」と言う目的意識を忘れないことが何よりも大切だと考えるのです。
楽器を演奏することと音楽を演奏することは、明確に違います。
音楽を「上手に」演奏することは不可能ですし、日本語としても不可解です。
楽器を「上手に」演奏できるか「へたくそ」かの「違い」は確かにあります。
速く・正確に・何度でも演奏できれば「上手」で、それが出来ないと「へたくそ」に近づきます。
 へたくそでも音楽は演奏できますし、楽しむこともできます。
「それじゃ自己満足じゃん!」他人の技術について「偉そうに」語る人に限って、自分の演奏にケチを付けられると火が付いたように怒り狂います(笑)それこそが「自己満足」だと本人が気付いていないだけです。
 他人の技術についてどう思おうと、それは人の自由ですが、自分の中だけに収める問題です。他人に公言することではないはずです。
 技術を点数化することが大好きな人もいます。優劣を競うことが好きな人もいます。それも自分の中だけで楽しむべきです。他人の技術に序列をつけられるほどの技術があるなら、自分がその中で一番にならなければ無意味ですよね?(笑)できもしないことに「あの人は下手だ」と言える自信は、いったいどこから生まれるのやら理解ができません(笑)
 自分の音楽に誇りを持ちましょう。誰からも批判されるものではありません。
自分だけの音楽を演奏することが、楽器を演奏する楽しさのはずです。
じょうずに演奏するより、自分だけの音楽を楽しんでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プロだとかアマチュアだとか、どうでもいいでしょ(笑)

 映像はポーランドの初代大統領でもあったピアニスト・作曲家の「パデレフスキー」作曲のメロディー。オリジナルはピアノ曲ですがヴァイオリンとピアノで演奏できる楽譜があります。
 さて、今回のテーマは「プロ」「アマチュア」という「区別」について。
以前にも書いたことですが、この千匹にいったいどれほどの?意味があるのでしょうか。
 「プロなら●●」「プロなのに××」「アマチュアだから★★」「アマチュアの割に△△」という枕詞。単なる先入観と固定観念で話しているとしか感じません。そもそも誰が?どんな基準でプロとアマの「基準」を作れるのでしょうか?
「職業音楽家」がプロだと言う定義を使う場合でも、演奏だけで生活できない・生活していない演奏家は「プロ」ですか?「アマチュア」ですか?
「趣味で演奏する人がアマチュア」だと言う定義の場合にも疑問があります。先述の通り「金銭目当てではなく趣味で」演奏する人はすべてアマチュア?あれれ?
最悪な線引きは「うまければプロ」「うまくなければアマチュア」これ小学生でも間違っていることがわかるレベルですよね。技術の違いだけで区別されるものでもありません。
 結論を言えば、日本語で言われる「プロ・アマチュア」の違いに明確な定義がないと言うことです。職業として「音楽家」でも決まった組織(法人)で給与を受け取れば「会社員」ですから明確な「音楽家」と言う職業さえ存在しないことにもなります。「音楽家」「演奏家」が「プロ」でも「アマチュア」でも
呼び方はど~でも良いと思うのです。
 誰がなんと言おうが、自分が音楽を演奏することが好きなら加賀滝や呼称にこだわる必要はありません。プライドのために「プロ」と言いたい人はそれで良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト…なのか?(笑) 野村謙介

高級レストランやレトルトもいいけど家庭の味が好き

 映像はアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したもの。撮影と録音「コンデジ」(笑)場所駅前教室
 さて、今回のテーマも音楽を「食事」に例えたお話。
家庭の味…おふくろの味とも呼ばれます。それぞれの人に「懐かしい味」があります。家庭でなくても昔の記憶が蘇る「味」「香り」「料理」があるものです。
 私の場合…母の作ってくれた料理が「家庭の味」でした。
・作る時によって違う色のコロッケ(笑)
・最後に焼かずに食卓に出るマカロニグラタン(笑)
・水炊きと言う名の鍋
・まったく辛くないカレー
・バナナケーキ(これはいつも美味しかった!)
・お腹を壊すと食べさせられた南瓜(かぼちゃ)←明らかに逆効果
・鶏肉ご飯と言う名の炊き込みごはん
・コロッケに小麦粉・卵を付ける「前」の具を玉子でくるんだ謎のコロッケ
・あまったマカロニグラタンをケチャップで炒めた「あれ」
思い出してもきりがないほど(笑)
 高級フランス料理店や高級すし店、高級←やたらこだわる(笑)中華料理店には縁のない生活で育ち今でも(笑)
 音楽にも「コース料理」に似たものもあれば「家庭料理」に似たものもあります。ジャンルとは無関係に「音楽を聴く楽しみ方」の問題です。
 形式を重んじるコンサートもあります。ポピュラーのライブでも初めて行くと周りに圧倒される「決まり事」があったりして(笑)
 いつ、だれが聴いても「懐かしい」と感じたり「癒される」と感じるコンサートが私の理想です。聴いたことのない音楽を知らない人が演奏していても「おいしい」と感じる演奏。
 おいしいチャーハンを作りたい!のです。
一見「ただのチャーハン」でも食べ終わって「また食べたい」と感じる「あれ」です。もちろん「非日常」を求めてコンサートに行く方もおられます。
「格式を楽しみたい」方もおられます。それを演奏する人も。
 私は「見栄えより雰囲気」を楽しんでもらいたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

出来る・出来ないは2進法。音楽は無限の創作活動。

 映像はモリコーネの「愛を奏でて」
演奏の合間のトークもカットしないでいてみました。
 今日のレッスンで「決めたことを出来るように練習しているうちに、音楽が詰まらなくなってしまった」と言うテーマで生徒さんと話しました。
 自分で考えるにしても、レッスンで先生のアドヴァイスを受けるにしても、誰かの演奏に刺激されて技術を習得しようと練習する場合でも「できるまで」練習する気持ちは大切です。
 しかし、それがいつの間にか「できるまで」と言う有限のもの…出来ないものが「だめ」でできれうば「まる」になってしまうものです。
 本来、なぜ?そうするのか?そうしたいのか?と言う「音楽の根っこ」があるはずです。ヴィブラートにしても音色にしても、弓の場所にしても…すべてが「試み」なのです。正解ではないのです。
 例えていうなら料理の「レシピ」です。
素材が楽譜です。その楽譜をどう?調理するとどんな料理になるのかを「誰かの好み」で書いたものがレシピです。そのレシピ通りに作ったとしても、自分が美味しいと思えるかどうかは別の次元の問題です。誰かほかの人が食べても、その人の味覚に合うか?合わないか?はレシピとは無関係です。
 突き詰めて言えば、音楽を「こう演奏しよう」と決めた時点と、次に演奏したときで「良い」と思うものが変わって当然なのです。ましてやおきゃ客様の反応もまったく違うものです。自分で試した「技術」「解釈」を何度も繰り返し演奏し、人に聴いてもらうことで「こう弾くとあぁ聴こえる」と言う結果の蓄積ができます。その積み重ねっこ曽我「プロの技術」だと思います。
 失敗することを恐れ、決めた通りに演奏しようとすれば、その音楽を始めて演奏したときの「感動」「喜び」「驚き」が薄れていきます。毎日、同じレトルト食品を食べているのと似た感覚です。
 失敗するリスクは「新しい発見」につながります。それこそが創作活動です。
指示通りに作る音楽は「創作」ではなく「無機質な音の連続」でしかありません。
 自分の感覚を研ぎ澄ますことが練習の目的です。出来るようになることが目的ではありません。テストで100点を取って「合格」する事とは違うのです。
 失敗を恐れずに音楽を「料理のように」楽しんでください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

大きな小品(笑)

 映像はサン・サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」
10年ほど前の演奏です。この曲はソロヴァイオリンとオーケストラで演奏するのがオリジナルの楽譜です。ピアノとヴァイオリンで演奏することも多いの楽曲の一つです。サン・サーンスはヴァイオリン協奏曲も作曲していますが、この「ロンカプ」はヴァイオリンコンチェルト…とは呼ばれません。
 単一楽章で完結する楽曲は「小品」として分類されます。が…この曲、かんり大曲です(笑)

 オーケストラと共演する場合とピアノと共演する場合の違い。
・オーケストラは楽器の種類が多い(弦・木管・金管・打楽器)
・オーケストラの音量差=一人~全員演奏のが大きい
・オーケストラは音色の違う楽器とヴァイオリンの共演
・オーケストラで演奏する楽器はほとんどが「純正調」ピアノは「平均律」
・オーケストラとの練習は大がかり(笑)
などなど違いは様々です。ヴァイオリンコンチェルトをピアノとヴァイオリンで演奏する場合、オリジナルの演奏とは全く違う「音」になるのは当然です。
作曲家が意図した音色や音量のバランスも、オーケストラとピアノでは違います。
 作品によって、オリジナル=オーケストラとソロヴァイオリンがあっても、ピアノとヴァイオリンの「楽譜=音楽」を聴いて素晴らしい!美しい!と感じる曲も多くありますが、残念!な楽譜も多くあります。
 この序奏とロンド・カプリチオーソの「オリジナル」をご存知の方にとって、ピアノとの演奏は「物足りない」と感じる人もおられますよね?
 もちろん「好み」の問題がありますが、ピアノとヴァイオリンで演奏するロンカプ「も」好きな人もいます。
 ピアノは「オーケストラの代用楽器」ではないのです。フォルテ・ピアノと言う一つの楽器です。そのピアノで演奏して美しい曲もあれば、「?」と言う楽譜もあります。ヴァイオリンでも同じことが言えます。
 クラシック「おたく様」の中には「オリジナルの楽譜=編成でなければ良さがない!」と言い切る方もおられますが、私はそう思いません。音楽の「好み」は人によって違うのです。作曲家の「狙い」とは別に演奏する人・聴く人の好みがあります。それが音楽だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏で優先されることの違い

 映像はNPO法人メリーオーケストラが演奏した「ダッタン人の踊り」
オーケストラを立ち上げてから21年間、毎年2回の定期演奏会と毎月一回の公開練習を続けて今日も活動を続けています。「継続は力なり」まさに私たちのオーケストラを表している言葉だと思っています。
 どんな演奏であっても「演奏家の魂」があります。魂のない演奏は「音」だと思っています。「魂とは?」哲学ですね(笑)頭の弱い私が表現できるとは思えませんが、少なくとも「目に見えないもの」であり「感情の一部」であることは言えると思います。

 演奏する人・人たちにとって優先するものがあるはずです。
それが「お金」であっても間違ってはいません。「楽しみ」であっても良いと思います。楽しみ方も「自分の楽しみ」だったり「聴く人の楽しみ」だったりしますよね。聴く人の意志とは無関係に、演奏する人の「意思」があることになります。いくつもの意思=狙いがあるコンサートも存在足ます。お金=入場料も必要・演奏者の喜び・聴く人の笑顔・社旗への貢献などなど。
 そんな中で「何を優先するのか?」が大切だと考えています。
優先するものがあれば「我慢する」ことも必然として生まれます。我慢に勝る価値があるから優先するわけです。

 私がメリーオーケストラを立ち上げてから今日まで優先し続けていること。
「誰からの束縛も受けずに好きな音楽だけを演奏する喜び」を得ることです。
音楽性や演奏技術よりも、音楽を演奏すること・できることの「本質」がそこにあると思っています。
 言うまでもなく「自由」を優先することは多くの「壁」を作ることになります。経済的な問題もありますが、一番大きな壁は「継続性」なのです。
 自由に演奏することを、一度だけ実行するなら誰にでもできます。
それを継続して実行することは本来「優先事項」ではないのですが、自分たちの意思で演奏活動できることが、演奏家にとって最も大切なことだと信じている私にとって「やめる」ことは「敗北」を意味します。立ち上げた人間の責任として、自分が指揮をできる間は…期間限定?(笑)続ける意地があります。

 浩子さんとのリサイタルにも同じ「魂」があります。違いがあるとすれば、演奏者の人数だけです。メリーオーケストラの演奏者は、ここ数年70~80名です。
アマチュアもいればプロもいます。プロの方には当日の交通費だけで演奏に参加していただいています。会場の費用や開催に必要な金額は会員と賛助会員の「会費」と会員の参加費で賄います。規模が大きいメリーオーケストラに比べ、夫婦二人で毎年2回の演奏活動を15年間続けて来られたのは、紛れもなく「魂」だと思っています。好きな音楽を演奏したいという気持ちだけです。

 最後になぜ?私が自由を優先する気持ちになったのか…
20年間、学校と言う組織の中で子供たちに「音楽の楽しさ」を伝える仕事をした時の経験が「自由」の大切さを教えてくれた気がします。
 学校でオーケストラ…なんて理解のある学校!外部から見れば間違いなくそう見えたはずです。事実、何度も取材を受けるたびにその言葉を耳にしました。
 現実は?日々、管理職を含めた他の教員との闘いでした。大げさな話や誇張ではなく事実です。当然、教務の仕事など「校務分掌」を当たり前にこなしたうえで、部活動オーケストラの指導をしていましたが、99パーセントの教職員は「音楽活動」を教育活動とは考えていませんでした。管理職に至っては「私立学としての広報」と言う発想さえできない無能ぶりでした。
 簡単に言えば「潰したい部活」がオーケストラで「排除したい教員」が私だったわけです。その中で20年間、最終的には150名のオーケストラを引っ張るための戦いは「自由を得るための闘い」でした。父の介護で退職しましたが、辞めた後も執拗に私への攻撃は続きました。それが「学校」という組織であり、自由と真逆にある組織だったことを学べました。

 演奏する人が何を優先しても良いと思います。
何かを得ようとすることが「煩悩」だとしても、演奏自体が人間の欲求で行うものですから否定されるものではないはずです。堂々と自分の「欲」を表に出す勇気も必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の速度をコントロールする

 映像は私の地元、相模原市橋本駅前にある「杜のホールはしもと」での演奏風景。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」の演奏です。
 このホール、残響が美しい!演奏していて気持ちのよいホールです。
さて今回のテーマは「弓の速度」です。ヴォカリーズの演奏を見て頂くとよくお分かりいただけると思いますが、弓の速度は常に一定…とは限りません。
 もちろん、基礎技術として「同じ音色」「同じ音量」でダウン・アップがそれぞれに演奏できるように練習することは、日々欠かさずに練習します。
一方で曲の中で「一音」の中でも音色や音量を変えることが音楽的に求められる場合もあります。逆に言えば、すべての「一音」を「べた塗」すれば全体が平面的なな音楽になります。音の立体感=奥行を表現するために、ヴィブラートや弓の速度・圧力をコントロールする技術が不可欠です。
 同じ長さの音符でも、意図的に弓の速さ=弓の量を変えることで、音色が大きく変わります。音の大きさをコントロールするのは、むしろ「圧力」と「音の立ち上がり」が大きく影響します。弓を速く動かせば音が大きくなると「勘違い」している人も見かけます。弓の速度を遅くすれば「詰まった音=芯のある音」に近づき、逆に速くすれば「空気の含まれた音=軽い響きの音」が出せます。圧力との組み合わせでさらに大きな変化量が生まれます。
 また、演奏する弓の「場所」も本来は音色に影響します。}弓先と弓元は「硬い音」を出すのに適しています。一方で弓中は「ソフトな音」「軽い音」を出すのに適しています。
 これらの要素を考えながら弓を決めることが大切になります。ホールの響きや曲によって弓の速さも変わります。
 ぜひ、自分の好きな曲で試してみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦を押さえる力加減

 映像は代々木上原ムジカーザで演奏したドボルザーク作曲「4つのロマンティックピース」よりロマンスです。この曲でも途中にオクターブの重音が連続する部分があります。重音の中でもオクターブや10度の重音の場合、高い方の音は4=小指または3=薬指で押さえることになり、さらにハイポジションの場合には、その指を指板に「押し付ける」力の加減が極めて微妙です。
 1本の弦を1本の指で押さえる場合でも、弦を指板に「押し付ける力」は感覚的なものなので他人に教えることは困難です。また、自分以外の人が都の程度の力で弦を押さえているか?は判別できません。
 言うまでもなく人によって、指先の硬さが違います。また指の強さも違います。「握力」ではなく、指1本の「握る力と速さ」と「指を話す力と速さ」です。この力と速度は計測の方法がありません。親指の力は弦を押さえる力に反発する力です。弦を強く押さえようとすれば、親指の上方向への力も強くすることになります。その状態でポジション移動をする…矛盾する力の関係です。
 強く押さえればピッチも安定し音色も明るくなります。余韻も長くなります。ただ、ポジションを移動する瞬間に「緩める」事が必要になります。この運動は本来なら少ないのが理想です。一定の「押さえる力」が1本ずつの指にあることが求められます。小指の「弱さ」がオクターブ重音の障害になっている私にとって、未だに解決できない課題です。皆さん、どうしてますか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「何年経っても…」の嘘と本当

 映像は40年前の私の演奏です。この時から今日までに、どれほど?私の演奏技術は進歩したのでしょうか?演奏は進化したのでしょうか?40年…昔なら人間の一生の時間でした。しかも、この演奏をした時に23歳という事は、立派な「おとな」だったはずです(笑)今?お爺さんになりかけております。
 さて、生徒さんの「いつまで経っても上達しない」と言う声を時々耳にします。生徒さんで40年、私に習っている人は今のところいませんが少なくとも、何カ月・何年と言ったスパンでの「いつまで経っても」なのですが。
 私自身も同じように思うことがあります。ヴァイオリンを習い始めて50年以上。音楽の学校で学び始めてからでも15歳からとして48年という年月が経ちました。人間に限らず生物は「退化」するものです。その速度も内容も
千差万別ですから一概に「何歳になったら」と言う概念はありません。私の場合でも、筋力や体力は明らかに退化していますが「気力」だけはさほど衰えていない気がします。
 いつまて…の嘘の部分。
これは人間の「欲」が基準になっている話であり、客観的な上達の内容とは寒けないという事です。他人…例えば自分のことどもに対して「いつまで経っても」と言うのも結局は自分の価値判断=欲で測っているから言えることです。
 現実には演奏の技術は少しでも練習すれば必ず上達するのです。それは紛れもない事実です。仮に楽器を演奏しない=練習しない時にでも、ふとした時に感じる感覚が自分の演奏に結び付くことも「上達」には必須のy増件です。荷物をもって「重たいなぁ」と感じることも楽器の演奏には必要な感覚です。音楽の解釈にも「重たい」と言う感覚を知ることが重要です。
 いつまで…の本当の部分
これは私の話ですが、うまく出来ないことを「いつまで経ってもできない」と思うのが人間だと思います。「いつまで経ってもできる」ことが実はたくさんあるのです。もちろん老化や病気、自粉でそれまで出来ていたことができなくなることもあります。それでも「子供の頃から今でもできること」はたくさんあるのです。
 では若いころから(40年前から下手=苦手なことはどうなのでしょうか?
私なりの結論で申し訳ありません。苦手なことがあって「当たり前」だと思うようになりました。「開き直りか!」とか「努力=練習から逃げているだけだ!」というお叱りは甘んじて受けます。ただ、現実に自分の中で、他の「できること」と比較して明らかに「できない」ことは、誰にでもあるはずなのです。
 演奏に限ったことではなく、あるレベルまでは努力で到達できても、それ以上のレベルになるために「死に物狂い」で努力しなければ到達できない人と、本人にはそれほど?努力しなくても到達できる=演奏できる人がいても、当たり前だと思います。出来る人が「天才」なのではなく、それが「個性=生物の個体差」だと思うのです。
 多くの人ができるから自分もできる…レッスンではつい、生徒さんに言ってしまいがちな言葉です。ただ現実にはできるようになるまでの「努力の時間と内容」は人によって大きな差があるのも事実です。

 時間をかけて出来るようにすることを「学習」と言います。多くの生物は学習能力を持っています。長く時間をかければ「学習内容」が常に上書きされていきます。
 一方で「好きなこと・嫌いなこと」は誰にでもあります。その原因やシステムは未だに証明されていません。出来ないことにコンプレックスを感じるのは「欲」の副産物です。欲がなければ楽になるとはいえ、生きる楽しみは「欲」そのものです。生きたいと言う欲、うまくなりたいと言う欲、それが私たちのエネルギーの源なのです。出来ないと言うストレスも、見方を変えれば「生きるために必要な壁=抵抗」なのかも知れません。出来ないことを受け入れながら、考えて出来るようにすることが「楽しみ」に感じられれば良いですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

G線上の「無言歌」

 G線上…と言えば「アリア」が思い浮かびますが、実際には他にもG線だけで演奏するように指示された曲があります。
 たとえばその一つが、このメンデルスゾーン作曲クライスラー編曲の「無言歌・五月のそよ風」です。
 過去にヴァイオリンで演奏したこととヴィオラで演奏したことがありますが、ヴァイオリンでは指示通り、すべてG線だけで演奏しました。
 ヴィオラで演奏したときにはその「効果」より楽器の構造上の「無理」があるためにD線も使って演奏しました。それが下のものです。
聴き比べて頂くと楽しいかな?

 再度までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自分に合った指使いを科学する

 映像はチャイコフスキー作曲「ノクターン」
多くのヴァイオリン用の「楽譜」がある中で、楽譜に「指番号」「弦」「ダウンアップ」が記入されていますが、出版社によってそれぞれ違うことが多々あります。中には明らかな「ミスプリント」もあります。
 アマチュアヴァイオリニストにとって、指使いを自分で考えるのはとても難しいことです。初心者向けの教本には指使いが「指定」されている場合がほとんどです。むしろ自分で「選択」する箇所は開放弦「0」か隣の弦で「4」の指を押さえるかのどちらか…位ですよね。また、少し上達してきた人向けの教本には「セオリーと違う」指番号が書いてある場合が出てきます。例えば多くの場合なら「A線のド♯」は2=中指で押さえるのがセオリーですが、すぐ後に「E線のソ」を演奏するならド♯を3=薬指で押さえるのが「効率的」な指使いになります。
 ヴァイオリンの指使いは、ピアノの指使いより「ある意味で」複雑です。
ピアノの鍵盤88の中で「ひとつ」の鍵盤に対して、考えられる「指」は全部いくつ?答えは「10種類」です。右手・左手の指の「どれか」で「ひとつの音の高さ」を演奏します。
 一方ヴァイオリンの場合、押さえるために使う指は左手の「4本」加えて「開放弦=0」で出せる4種類の音。「なんだ!ヴァイオリンの方が全然少ないだろ!」と思われがちですが…
 ヴァイオリンのD・A・Eの3本の弦で出せる音は、それぞれ「その弦より低い=左側にある弦」でも演奏できる!わかりにくい!(笑)
 ここでは説明を省きますが、要するに「同じ高さの音を違う弦でも演奏できる」わけです。
 さらに「フラジオレット=ハーモニクス」と言う倍音を使った演奏技法でさらに「指使いの選択し」が増えます。

指使いは「個人の好み」が許される範囲がほとんどです。作曲者が「指定」するとしても「弦の種類」または「ハーモニクス」までで、どの指で押さえるか?またどの弦で演奏するか?は演奏するヴァイオリニストの「好み」で決まるものです。人によって指の動きは微妙に違います。単に鍛え方の問題だけではありません。指の長さ・指の太さ・てのひらの大きさ・てのひらの厚さ・腕の長さも人によって違います。
 さらに言えば「音色の好み」が違います。その「どれが正しい」と言うものではありません。まさに自分で考えた結果として指使いが決まるものです。
 特にポジションの移動や弦の移動=移弦しなければ演奏できないような部分では、どんな指使いが選択肢として考えられるのか?考えることが必要になります。ポジションを移動する場合でも、どの指で移動するのか?と言う選択肢も加わります。同じ音を連続して演奏する場合にでも、意図的に指を「替える」ことも技術の一つです。

 最後に私が自分で考えて指使いを決めた「ふるさと」の動画をご覧ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

F=自由 A=だが E=孤独

 映像はFAEソナタの一部。ブラームス作曲部分です。
FAEは「ファ・ラ・ミ」のドイツ音名でもあります。
 今回のテーマは「自由と孤独」について。
音楽を学ぶ人にとって「自由」は何よりも大切なことです。
音楽家を「自由人」と称することもありますが必ずしもその限りではありません。演奏の対価として、指導の対価として金銭を受け取ることで生計を立てている音楽は社会人としてのコミュニケーション能力が必須です。
 自由だから孤独とは限りませんし、孤独だから自由とも言えません。
社会で言いる上である程度の「束縛」を受けることも事実です。
また退任との付き合いが必要になる場合にもあります。
音楽は「精神」の面と「経済的=現実的」な面の二面を持っています。
自由が嫌いな人はいなくても、孤独を好む人と嫌う人がいます。
考え方、性格の違いです。他人の価値観を否定するのは愚かな行為です。
演奏家でも孤独が好きな人もいます。それを「変人」扱いするのは間違っています。群れることが正しいと信じている人もいます。その集団になじめない人にとって、その場にいなければいけないことは「苦痛」です。社会性の問題ではなく、価値観の問題だと思います。
音楽は常に「自由」な気持ちで演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

テクニカルな曲の演奏を楽しむ

 映像はサン・サーンスさ曲「序奏とロンドカプリチオーソ」
そして、下の映像はサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」言わずと知れた「技巧的な」な曲です。私はこの手の音楽で速さと正確さを競い合うヴァイオリニストたちに「近づきたい」と思えません。負け犬の遠吠えと言われても受け入れます。技巧の裏に「音楽」がある演奏をする人を尊敬します。自分もそうありたいと思っています。

 どんな音楽であっても「機械のように」ではなく「人間らしく」演奏することが理想です。人より優れた技術を身に着けようとするより、自分の音楽を好きになれる努力をすべきです。他人と比較する自分ではなく、自分を観察する気持ちを持ち続けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

若気の至り?(笑)

 今年で63歳になる私が20歳の頃に何を思ったのか試験で弾いたサラサーテのカルメンファンタジー。前年にシベリウスのコンチェルトを試験で弾いて、どうして?こんな曲を選んだのか覚えていません(笑)
 さらに大学5年生の時(笑)師匠の「発表会で何か弾きなさい」というむちゃぶりに(涙)演奏したのがヴィラーリのシャコンヌ。


 どちらの演奏も今の自分に「残っているもの」と「変わったもの」があります。音楽大学と言う環境の中で自分が育っていることを実感していなかったのもこの時期です。結果として今の自分がヴァイオリンとヴィオラを演奏していることを考えると、やはり「若いころの経験」が如何に大切かを痛感します。
 自分がどんなにへたくそだと思っても、無駄だと思わずに続けることが将来の自分の「根っこ」になります。ぜひ!若い皆様。焦らずに自分の好きな音楽を掘り下げてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

感性は鍛えられる?

 映像はデュオリサイタル10で演奏したメンデルスゾーン作曲「歌の翼に」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 音楽を演奏する人の「感性」は技術や知識のように増やしたり、強くしたりできるものでしょうか?それとも…
 そもそも感性と言う言葉は心理学辞典によると「美しさや快さなどの認知や評価はもとより,味覚や嗅覚のように感情を伴う感覚,質感・速度感・広がり感といった知覚的印象の認知も,感性の範疇に含まれる。感性は,感覚から感情までを含む多様な「知覚」を意味する古代ギリシア語のアイステーシスaisthesisとも関連する。」とあります。感覚も感情も完成の一部なのですね。
 感覚はトレーニングよって「敏感・精細」にできます。聴覚で言えば単に「音が聞こえる」と言う意味もあれば「音の高さを答えられる」事も聴覚の一部です。動体視力も資格の一部です。ボクシングの選手やF1パイロット、プロ野球の選手のように高速で動くものを、瞬間的に「見る」能力が求められることもあります。
 一方で「感情」は鍛えたり強くしたりできるでしょうか?
感情を抑える「理性」簡単に言えば「我慢すること」はある程度強くすることももできますが限界がありますよね(笑)「堪忍袋の緒が切れる」「我慢の限界」と言われる状態です。
 音楽は「音」を「音楽=作品」として感じることで初めて音楽になります。
自分と同じ「人間が作った作品=楽譜」を音にして、その音から「感情」や「感覚」を湧き上がらせることが「演奏」だと思います。つまり、ただ音を出すだけの段階では特定の感情…悲しい・楽しいなどや、感覚のイメージ…暖かい・冷たい・軽い・柔らかいなどのイメージは感じられず、「サウンド・ノート」ではなく「ノイズ=聞き取れる空気の神童」でしかありません。
 感性をより「敏感」に「精細」にしたいと思うのであれば、何よりも自分の記憶を呼び覚ますことです。感情の記憶は日々、無意識のうちに積み重なるものです。多くの記憶は長く覚えていられないものですが、強く印象に残った「感情の記憶」は誰にでもあるものです。私たちの年齢で「昔…」と言えば大体10年以上前の話ですが、小学生が「昔ね~…」と言うと思わず吹き出します。感情を伴う記憶が多いほど、音楽のイメージを作りやすいはずです。
 感性はずばり「その人の経験」から膨らむものだと思います。
もし、今までに一度も悲しい経験をしたことのない人がいたら「悲しい」と言う感情は理解できません。楽譜を「音楽」にする時に、ぜひ自分の記憶の扉を開いてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

知っている曲が知らない曲に 

 演奏はデュオリサイタル15で演奏した「ふるさと」
ジャズピアニスト小曽根真さんと奥様で女優さんの菅野美鈴さんがアップされていた演奏があまりに素敵だったので。耳コピさせていただいたものです。
 ふるさと…NPO法人メリーオーケストラで演奏し続けている日本の情景と日本人の心情を表した素晴らしい曲ですね。

 上の映像はメリーオーケストラ「ふるさとロングバージョン」(笑)
下の映像は毎回演奏している「ふるさとアンコールバージョン」です。

 知っている音楽を聴いた時に「あれ?どこか違う」と感じることがあります。
いわゆる「カヴァー」が流行している現代ですがこれも「知っている曲が生まれ変わる」ことの一つです。
 クラシック音楽の世界でも、珍しい事ではありません。過去に作曲された音楽を「素材」にして新たなアレンジを施し「新しい音楽」にすることは当たり前に行われています。ブラームスの「ハイドンバリエーション」のようにタイトルに表されているものもあります。フリッツ・クライスラーのようにオーケストラのための音楽をヴァイオリンとピアノで演奏する「楽譜」を書き自分で演奏していた人もたくさんいます。ハイフェッツもその一人です。
 演奏家が作曲をする…曲をゼロから作るのではなく「手を加える」事で新しい音楽になります。「盗作だ!」(笑)意味が違います。お間違いなく。
 もとより、以前にも書いた通り作曲された「楽譜」は演奏者の自由な表現と解釈によって演奏されるのが「本質」です。楽譜の通りに演奏する…楽譜に書いていないことは「してはいけない」と言う楽譜は存在しません。現実的に考えてください。楽譜のすべての音に作曲家が「音色」「ヴィブラート」「音量のデシベル」を書き込めるでしょうか?不可能です。作曲した本人が「他の人に演奏されたくない!」と考える場合もあります。パガニーニは当初、自分で作曲し自分で演奏した曲の楽譜を人に見せなかったそうです。
 逸話として有名な「神童モーツァルト」が一度聞いただけの曲を自宅でチェンバロで演奏した…この能力は「聴音+暗譜」の技術で音楽の学校で多くの人が学ぶ技術です。前述の「小曽根真さんの演奏耳コピ」はまさに「聴音書き取り」の技術です。話がそれましたが「楽譜は自由な演奏の素材」です。
 演奏する人の「こだわり」が個性になります。こだわりのない演奏は「個性のない音楽」だと感じます。音色であれ、テンポの微妙な揺れであれ、演奏する人の「考え」があって初めて音楽になるものです。
 自分の知っている曲でも演奏したとき、それは「新しい音楽」になることを意識するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽による演奏者の「温度」

 映像はバッハ作曲の「あなたがそばいにいてくれたなら」
ゆったりしたテンポの曲ですが決して「涼しい=冷めた音楽」ではありません。
演奏する音楽によって「適温」があると思っています。
 下の映像はエルガー作曲のマズルカです。演奏当時はこれが「適温」だと感じていましたが今、聴いてみるともう少し「軽やかに」演奏したほうが良かったのかな?とも反省しています。

 一つの音楽の中で温度が変わる者もたくさんあります。
たとえば、チャイコフスキーの「メディテーション=瞑想曲」

 ぜひ!演奏する音楽の「適温」を探してみて下さい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの音色の特徴は

 映像はシューマン作曲の3つのロマンスより第2番。
上の演奏は私と浩子さんがヴァイオリンとピアノで演奏したときのもの。
下は原曲であるオーボエで演奏している動画です。
 単純に比較するのもおかしいのですが、オーボエの特性・特徴を感じやすい旋律でヴァイオリンで演奏した場合との違いがはっきり分かります。
 下の映像はカヴァレリルスティカーナ間奏曲をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。

 この曲のオリジナルである弦楽合奏とハープ・パイプオルガン・木管楽器での演奏を私が指揮したときのものが下の動画です。

 ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロがユニゾンで演奏する分厚い音色を、ヴァイオリン一丁で再現することは不可能です。ただ旋律の美しさは変わりません。
 原曲のイメージは作曲者のイメージでもあります。演奏する楽器が変われば雰囲気も変わります。出来る限りオリジナルの印象を残しながら、新しい音楽として正留津させられればと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量と音色

 映像はデュオリサイタル12で演奏したモーツァルト作曲アヴェヴェルムコルプスです。この演奏会では手の指が何度も攣ってしまうアクシデントに見舞われました。年齢的なものと心臓の不調に気づかなかったことが原因です。
 さて音量と音色。あなたはどちらを優先しますか?
良く「ストラディバリウスの楽器は音量が豊かだ」と言われます。
実際に計測機器で測るとデシベル的には他の楽器と変わらない事実は有名です。
「高音の倍音が多い!」と言う人もいますが、これまたオシロスコープで計測すると実際には他の楽器と大差ありません。
 つまりは演奏する人の「好み」の問題でしかないのです。
明るく感じる音色は高音の成分が多い迷路です。
柔らかっく感じる音色は逆に高音の成分が少ない音です。
音量は「音圧=デシベル」で表しますが先述の通り、ヴァイオリンの音量はピアノや金管楽器に比べて小さな音です。
 音量を大きくしようと弓に圧力をかけて、弓を早く動かせば最大の音量が出せますが…そもそもヴァイオリンの音量差=ダイナミックレンジはピアノに比べて小さな差しかありません。
 音量の変化と音色の変化を「組み合わせる」ことで、実際の音圧より音量差を感じるのが人間です。明るい音と深いヴィブラートで聴覚的に大きな音に感じます。その逆をすればより小さく感じます。
 ぜひ音色をt音量を組み合わせてみてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの発音(アタック)をコントロールする

 映像は10年前。デュオリサイタル5で演奏したチャイコフスキー作曲の懐かしい土地の思い出より「スケルツォ」です。
 今回のテーマは弦を弓の毛でこすって音を出すヴァイオリン・ヴィオラなどの、発音について考えます、
 言葉で言えば「子音」を考えると理解できます。
例えば「あ」は発音した瞬間も伸ばした「あー」も同じです。
一方で「か」は喉の奥で[K」の子音を作り口の形を「あ」にすることで「か」に聴こえます。伸ばせば「あー」になります。
同様に「た」「だ」「ば」「ぱ」「さ」「ざ」など同じ母音でも子音が変われば発音する言葉が変わります。
 ヴァイオリンの子音は「アタック」とも呼ばれます。管楽器の場合には「タンギング」つまり舌の使い方でコントロールすることが一般的だと思います。
 発音する前の「準備」が最も大切です。
腹話術の得意な人は「ま」と言う音を唇を閉じることなく言えるようですが…
普通は唇を閉じなければ「ま」と言えません。
 ヴァイオリンの場合、弓の毛を弦にあてる=押し付ける「圧力」と、弓が動き出す「瞬間」の弓の速度でアタックが決まります。
 言い換えれば音が出た後でどんなに頑張っても「アタック」はつかないのは当たり前です。音が出る前に弓をコントロールできなければ子音をコントロールできません。
 さらに細かく言えば、右手指の柔らかさもアタックの強さをコントロールする要因です。アタックの強い「硬い音」「立ち上がりのはっきりした音」を出そうとして、指を固くしてしまう生徒さんを見かけますが逆効果です。
 指の関節を緩めることでアタックがコントロールできますのでお試しください。
 最後までお読みいただき。ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピアノとヴァイオリン

 シューマン作曲の3つのロマンスより第2番。原曲はオーボエとピアノのために作曲されています。ピアノは色々な楽器と一緒に演奏される楽器です。
 ヴァイオリンを演奏する立場でピアノの演奏する「音楽」と融合する=溶け合うためには、楽器の特質=音色や構造の違いを理解するだけでは足りません。
 ピアニストとヴァイオリニストがそれおぞに「お互いを共有する」ことです。
自分だけではなく、相手だけでもなく。自分と相手を「一人の演奏者」として認めある事です。音楽の中ではある部分でどちらかが「主導的」で一方が「受動的」になることも必要です。音楽=楽曲をお互いが理解して初めて一つの演奏が成立します。
 演奏の「傷」を恐れるよりも、一緒に演奏しなければ完成しない音楽に喜びを感じることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

左手の親指を考える

 映像はデュオリサイタル14で演奏したピアソラのカフェ・ナイトクラブをリメイクしたものです。
 今回考えるのは左手の親指について。
演奏するヴァイオリニストの体形・指の長さ・掌の大きさはすべて違います。さらに筋肉量も人によって違います。楽器の大きさは基本的にミリ単位の違いしかありません。楽器の重さや厚みも大きな違いはありません。
 つまりヴァイオリニストごとに演奏する際に使う関節・筋肉が違うことになります。自分に合った楽器の構え方や弦の押さえ方、弓の持ち方を探すことがとても大切です。その際に左手の親指は、実際に弦を押さえる4本の指以上に大きな役割を持っています。
①弦を押さえる力に反発する力
②楽器の揺れを抑える役割
この二つが親指の役割になります。
A.親指のどの部分をネックにあてるか
B.親指をあてるネックの場所
C.力の方向
この3点を意識します。
親指の指先に近い部分をネックに充てた場合、指の付け根からの「距離」が長くなるために1~4の指先を開く幅を大きくできますが、反面1~4の指先が下方向に力を加えにくくなります。言うまでもなく弦を押さえるためには、指板の「丸み」の中心に向かって力をかけるのが原則です。

一方で親指の「下=手のひら側」例えば親指の第1関節と第2関節の「中間」にネックを当てた場合、弦を押さえる1~4の指は理想的な向きで弦に置くことができます。ただし指を開くこと=1~4の指の間隔をあけることが難しくなります。
 掌が小さい人や指が比較的短い人の場合には、弦を押さえるために「開く力」を強くする必要があります。

 親指の役割は左手の5本の指の中で、実は最も重要なものです。
ネックに触れる指の場所、指の触れるネックの場所を、自分の手の大きさや筋力に合わせて探して決める必要があります。さらに親指の柔軟性は年齢と共に変わります。無理のない親指の位置を探すことは常に必要な事だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の音を決めるのは演奏者でしょ!

 映像は14年前のデュオリサイタル2で演奏したエルガーの夜の歌。ヴィオラで演奏することを念頭に書かれた曲ですがこの時はまだ陳昌鉉さんのヴィオラと出会っていないのでヴァイオリンで演奏しています。
 さて今回取り上げるテーマは、楽器の音を決めるのは演奏者という至って当たり前の話です。今更なぜそんな当たり前のことを書くのか?
 楽器や弓・弦が音を決めているのではないことを言いたいのです。
当然楽器でも弓でも弦でも松脂でも変えれば音は変わります。ただ最終的にそれらを使って「音」を出すのは演奏者なのです。どんな楽器であっても演奏者が違えば音が変わります。演奏している本人が聴こえる音だけではなく、客観的に演奏者=楽器から離れて聴いた時に明らかに「違う」ことが何故か軽視されています。楽器や弓の「違い」が大切なのではなく、演奏する人の違いこそが「音の違い」を決めているのです。
 楽器や弓を変えることは演奏者にとって「違う身体で歌う」ことになるのです。ピアニストは常にその現実を克服する技術を持っています。
会場ごとに違うピアノで演奏するのですから。
ヴァイオリンは?自分とめぐり合った楽器や弓となぜ?真剣にお付き合いしないのでしょうか?(笑)相手を変えようとするばかりで自分が変わろうとしない人を好きになれますか?ヴァイオリンや弓に「ケチ」を付けて自分の演奏技術は神棚に挙げる演奏者が多いように感じます。どんな楽器であっても、すべての演奏者にとって「最高」なんて楽器は存在しません。さらに言えば、楽器の音が気に入らないからと楽器や弓・弦のせいにする前に、自分の耳を疑う事をなぜ?しないのでしょうか。人間の「聴覚」は日々刻々と変化します。気圧でも変わります。血圧が変われば聴こえ方は全く違います。それを考えず「楽器の調子が悪い」と言うのは間違っているケースがほとんどだと思います。
 楽器を大切にすることと、楽器そのものに手を入れることは意味が違います。
楽器は自分の意志で変わることはできません。楽器に合わせるべきなのは演奏する人間です。
 ぜひ自分の楽器の音を「自分の声=声帯」だと考えてみてください。いじくりまわすよりも。声の出し方を考えるのが先だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの「小技」

 映像はフリッツ・クライスラー作曲のウィーン奇想曲。デュオリサイタル5、杜のホールはしもとでの演奏です。
 ヴァイオリン演奏技法の中で「少し変わった」とでもいうべき技法がいくつかあります。代表的なものでピチカート、スピッカートなどのように弓の毛で弦を擦って音を出すヴァイオリン奏法とは異なる方法で音を出す技法です。その他にフラジオレット=ハーモニクスと呼ばれる倍音を利用して演奏する奏法があります。また2本の弦を連続して演奏する奏法もある意味では特殊なものです。
 本来の奏法でヴァイオリンを演奏することが最も大切な基本技術だと思います。ヴィブラートも基本的な技術の一つです。
 作曲家の狙いがなんであっても、楽譜に書いてあればその指示に従って演奏するのが演奏者の役割です。中には「これ(技法)効果あるのかな」と疑問に思う指示もあります。特に重音の連続でメロディーを演奏する楽譜は「一人で二人分の演奏をする」とも考えられます。
ヴァイオリニストが二人いれば済む話(笑)もちろん、重音の良さはあります。ただその部分を単音で演奏しても…むしろ単音の方が聴いている人に美しく聴こえると感じる場合も少なくありません。
 重音やフラジオレット、サルタートなどの「小技」を速い速度で演奏すると「超絶技巧だ!」と言う方もいますが私には甚だ疑問に感じます。ヴァイオリンの本来の演奏技法で美しい音・美しい旋律を演奏することこそが超絶技巧だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜に書かれていないこと

 映像はデュオリサイタル14で演奏したピアソラの「タンゴの歴史」からカフェとナイトクラブ。
 楽譜に書かれていないことって?ダウンやアップ?指使い?
もちろん、楽譜によって指使いの指定やボウイングの指定があるものと無い楽譜があります。今回はそれ以外に書かれていないこと…例えば音色やグリッサンド・ポルタメントの有無、微妙な音量の変化や音符の長さの変化についてです。
 楽譜の通りに演奏することがクラシック音楽ん基本でもありますが、他方で演奏者の個性は楽譜に書かれていない「演奏技術」で決まります。極論すれば演奏者の感性とこだわりが発揮されるのが「楽譜に書かれていないこと」です。
 特にクラシック以外の演奏になるとやたらとグリッサンドやポルタメントを多用するヴァイオリニストが増えます。大いなる勘違い(笑)だと思います。グリッサンドすれば「色っぽい」と思い込んでいるのかもしれません。ポピュラー音楽の中で「演歌」でもこのポルタメントは「肝=きも」でしか使いませんよね。ロックギターのチョーキングやアーム奏法でも効果を考えて使います。
 楽譜に書かKれていないからこそ、演奏者の「品」が問われます。下品にならず、かと言って淡白でもない演奏はグリッサンドだけで表現できるはずがないのです。
 バッハの音楽を演奏する時に「しない」事は基本ポピュラーでもしないのが当たり前です。意図的に色を付けるために一種の「効果音」として考えるべきだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

小品の定番曲?

 映像は今から14年前!デュオリサイタル2杜のホールはしもとでの演奏動画です、二人とも…若いと言うか(笑)当たり前ですが14年年月が経てば見た目も中身(笑)も変わるのが人間です。変わっていないのは使っている楽器ぐらい。
 変わらないものの一つに「曲=楽譜」があります。演奏は言うまでもなく毎回違うものです。今回のテーマ「小品の定番曲」ですが、私たちが演奏する曲は主に「小品」と呼ばれる曲です。厳密な定義はありませんが、小品とは呼ばないものに「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」や「ヴァイオリン協奏曲」があります。編成=演奏人数の問題ではなく、1曲の演奏時間が短い物や、楽章が複数「ない曲」が小品と呼ばれるようですね。
 愛の挨拶はエドワード・エルガーの作品です。エルガーは愛の挨拶の他にも多くのヴァイオリン小品を残しています。またヴィオラのための小品も書いています。ヴァイオリンの小品が演奏されるのは、なぜか?小品ではない曲のコンサートで「アンコール」と言うケースが多いのは事実です。ヴァイオリンの小品は「デザート」的な扱いなのでしょうか?

 多くのヴァイオリンとピアノで演奏する小品を書いたフリッツ・クライスラー。自身が演奏するための曲を作曲し、数多くの作品を残しました。代表作の一つ、愛の悲しみの演奏動画。

 こうした小品を文学に例えるなら短編小説や詩などに近いものがあります。
また食事に例えるならソナタや協奏曲がコース料理で、小品は「一品料理」かも知れません。いずれにしても読む人や食べる人がその時々に選べるものです。
 コンサートで小品だけを演奏するのは、いわゆるクラシック音楽マニアからすれば本来の楽しみ方ではないと言われるかもしれません。演奏する人と聴く人が同じ楽曲構成=プログラムを求めていれば他の人が口を挟む意味はありません。バッハの無伴奏ヴァイオリン曲6曲をすべて演奏するコンサートを「聴きたい」と思う人がいても不思議ではありません。同様に小品だけのコンサートで楽しみたいと言う人もいるはずなのです。
 短い音楽が軽薄で、長い演奏時間の曲が崇高だとは限りません。
小品を組み合わせる難しさもあります。言ってみれば色々な料理を少しずつ楽しめることに似ています。フルコースの料理もあれば、飲茶のような料理もあります。要は食べる人・聴く人のニーズに応えながら期待を超える完成度にすることが何よりも大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとヴィオラの聴き比べ

 今回のテーマは同じ曲を音じ人間がほぼ同じ時期に、同じ音域で演奏したヴァイオリンとヴィオラの音色の違いです。
 上の映像はデュオリサイタル7で演奏したロベルト・シューマンの歌曲「リーダークライス作品39」を前半はヴァイオリンとピアノ。後半の背景が赤くなっている動画はヴィオラとピアノで演奏しています。
 好みの問題が分かれるのは当然ですが、一般的にヴィオラはアンサンブルやオーケストラで「影の存在」と思われがちです。
 ヴァイオリンより低くチェロより高い音(笑)
そんな印象を受けるヴィオラですがただ単に音域の違いだけではありません。
ヴァイオリンに比べてボディーのサイズが大きく、低音の響きの量と質がヴァイオリンとは全く異なる楽器です。
 同じ演奏者が同じ曲を演奏するとより違いが明確になります。
ピアノと一緒に演奏することで音の熔け具合がわかります。
 ヴィオラ特有の音色は管楽器で言えばホルン・トランペット・コルネット・トロンボーン・チューバ・ユーフォニウムなどとの音色や音域の違いに似ています。サキソフォンでもソプラノ・アルト・テノール・バリトンなどの違いがあることはご存知の方も多いかと思います。
 私は原曲が歌曲の場合にヴィオラで演奏するのが好きです。
ぜひお聞き比べください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌声と楽器の音

 上の映像はヴィオラとピアノで演奏したレイナルド・アーン作曲の「恍惚の時」下はカウンターテノールで歌っている映像です。
 音楽の演奏は「歌」と「器楽」に大別できます。
自然界の音や楽器の音ではない音…例えば金属をハンマーでたたく音を音楽の中に用いたりサイレンの音を用いることもありますが、一種の楽器として考えることもできます。
 歌声=人間の声と器楽=楽器の音に優劣をつけることは不可能です。
それぞれに「できること・できないこと」があって、人間が出せない高さ・低さの音を器楽では出せますが、楽器は言葉を話すことが出来ません。
 よく「〇△は人間の声に一番近い!」と楽器の音を例える人がいますが、根本的に人間の身体を音源にする声楽と、楽器が出す音を比較すること自体が無意味です。人の身体は「生命体」であり楽器はあくまでも「人工物」ですし、身体は部品を交換できません。
 人間の声は音楽の起源でもあります。どんなに古い楽器も人間の声より古くから存在した楽器はあり得ません。
 人間の声は人によってみんな違い、私たちは人の声を聴いて育ちました。
生まれつき聴覚が不自由な人たちにとって「音」は想像でしかありませんが、健常者にとって人間の声は生涯で一番たくさん聴く「音」なのです。無人島で一人生活していたり、独房で誰とも会わず生きている場合は別ですが。
 その声が音楽を奏でることが一番自然な音楽に感じるのは、考えてみれば当たり前のことです。どんな楽器より一番親しみのある音=歌声は唯一無二の存在です。歌う人によってすべて違う声…これは楽器でも同じことが言えますが「好きな声」と「嫌いな声」は不思議なことですが生理的にあるように思います。
 話し方…とは違い、声の質の問題です。その意味では声楽家の場合、持って生まれた「声」で音楽を奏でる宿命ですから、器楽とは全く違いますね。
 楽器の演奏で最も大切なことは「聴く人にとって心地よい音であること」だと確信しています。人によって好みがあって当たり前です。聴く人すべてが心地良く感じる音は存在しません。それも現実です。歌声でも同じです。
 人間らしい器楽の演奏
先述の通り器楽は声楽=声では出せない高さや速いパッセージを演奏できます。
ただそれは単に楽器の特質であり演奏者の技術とは無関係です。
速く正確に高い音や低い音を演奏できる「だけ」の演奏にならないように常に気を付けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習の前に

 ヴァイオリンを練習しようと楽器と弓を手に取って、調弦をして…
その次に何を?練習しますか?スケール=音階・エチュード・曲
 長い時間をかけて練習することができない環境の人も多い上に、何を最初に練習するのか回も決まっていない人が圧倒的に多いのが現実です。
 これが正しいと言うものはありませんが、ヴァイオリンの演奏で最も大きな運動をする右腕の筋肉をストレッチする「ウォームアップ」をお勧めします。
 上の楽譜の1番は♩=60でメトロノームを鳴らしながら、一つの音を弓の元から先まで残さずに使いながら(先が届かなければ無理をせず)一つの音符に4秒ずつかけて同じ音量・同じ音色で演奏します。
 4秒×2(ダウン・アップ)×7種類で56秒×2(上行と下降)で約2分です。
2番は2本の弦を弾きながら一方の弦だけを0→1→2→3→4→3→2→1→0と押さえていく練習です。この練習で約3分。二つの練習で5分です。
 ぜひ!お試しください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

思い出の曲

 中学生の頃に学校のクラブ活動オーケストラで演奏した記憶の消えない「ミスターロンリー」当時はレターメンの歌が大好きでした。
 人間の記憶は最後まで残るのが嗅覚=香りの記憶だそうですが音楽と結びつく記憶もありますよね?
 人によって記憶はすべて違います。その人の「人生」が音楽によって蘇ることも素敵な事だと思います。
 単に懐かしい…と言う以上に当時の光景や人の顔が走馬灯のように思い浮かぶ瞬間があります。

 こちらは松田聖子さんの歌っていたスイートメモリーズ。ペンギンが(笑)
そんな音楽を自分で演奏する時「自己満足」にならないように、聴いてくださる方が初めて聴いて印象に残るような演奏をしよう!と心掛けています。
 同じ世代の方には懐かしい音楽ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

美しいメロディは枯渇したの?

 映像は1960年(偶然私の生まれた年)のフランスとイタリアの犯罪映画「太陽がいっぱい」のテーマ音楽をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 作曲は巨匠ニーノ・ロータ。この他にもたくさんの映画音楽を手掛けた大作曲家です。
 今回のテーマであるメロディの枯渇は60代の私が感じる「オジサンネタ」ですのでお許しください。
 映画音楽といわゆる流行歌の違いがあるとすれば「お金のかけ方」かも知れません。1970年代のようなアイドル全盛期にはひとりのアイドルを世に売り出すために、億単位のお金をかけていました。当然元手が取れたからです。
 バブルが始めた後から2023年に至るまで、日本の流行歌文化は低迷したままだと言って過言ではないと思います。大きな要因はビジネスとしてアイドル歌手を売り出すメリットがなくなったことです。その他の要因として「覚えやすいメロディの枯渇」があげられます。
 DAW(デジタルオーディオワークス)の普及で音楽を学んだ経験が全くなくても自宅で音楽を作って「それらしい」音楽が作れる時代です。
 中にはコード進行の知識もなく、ただ思いついた和音=コードで曲を作っている人も珍しくありません。それが当たり前になれば「1度→4度→5度→1度」の和声進行は忘れ去られるのでしょうか?
 一つの時代に生きている人の世代は年々広がっています。少子高齢化が進み昔よりも、高齢者の割合が増えている現代で「脈略のない和声進行」や「音域の狭いメロディ」が受け入れられるとは思いません。
 実際に現代の若い人たちの間でも1970年代のポップスを愛好する人が増えています。ファッションの復刻も含めて「メロディの覚えやすさ・美しさ」を求めている気がします。
 私たちのデュオリサイタルで演奏する曲を探す作業も年々難しくなっています。何よりも昔の美しいメロディの「アレンジ楽譜」が少ないことです。
 メロディだけならすぐにでも演奏できますが肝心のピアノアレンジが…楽譜としてあまりにも少ないのです。
 私たちの記憶にある美しいメロディを、もう一度素敵なアレンジで演奏してみたい!聴いてみたい!と願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノのためのソナタ

 映像はデュオリサイタル1で演奏したブラームス作曲ヴァイオリンソナタ第1番第1楽章。今から15年前、私たちの初めてのデュオリサイタルでの演奏です。
 この曲は私が20歳の時に初めてリサイタルを開かせてもらった時のプログラムに居れた曲です。当時は全楽章演奏し、ほかにバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番を演奏しました。学生時代からこの曲「だけ」は(笑)室内楽のレッスンを受けていました。
 一般にピアノソナタは星の数ほど(笑)あるのに対して、ヴァイオリンとピアノのためのソナタは演奏される機会のあるものが限られています。
 一方でなぜか?ヴァイオリンは協奏曲に人気があります。
ピアノ協奏曲をアマチュアの人が練習することはあまり多い事ではないのですが、ヴァイオリンの場合にはソナタをレッスンで演奏することの方が少ないのが実状です。
 音楽大学の実技支点の場合で考えても、ピアノの場合はソナタが課題曲になることが多く、ヴァイオリンの場合は協奏曲が課題曲になります。
 理由を考えると、ピアノとヴァイオリンの為のソナタ=ヴァイオリンソナタの場合にはピアニストとヴァイオリニストが対等な関係で演奏するため、二人のアンサンブル=室内楽的技術が不可欠になります。ヴァイオリンの実技試験でピアニストと合わせる技術を評価するのは、ヴァイオリンの演奏技術以上のものを評価することになってしまう事がその原因だと思います。
 もちろん協奏曲=コンチェルトであっても「伴奏」に合わせる技術は不可欠です。ヴァイオリンソナタのピアニストは「伴奏」ではありません。あくまでもヴァイオリンと対等な関係の「ピアノ演奏者」として扱われます。本来コンチェルトでもソリストと共演する・協演するのが正しいオーケストラ(代わりのピアノ)であるべきです。ただコンチェルトでは「独奏」と言う言葉が用いられるために「伴奏」と言う表現になるのだと思っています。
 ヴァイオリンソナタは、ヴァイオリニストとピアニストが相手の演奏する音楽を自分の音楽の一部として考える能力・技術が不可欠です。一人だけで練習しても二人でソナタを演奏することは出来ません。それがソナタの美しさであり難しさでもあります。
 このブラームスのソナタは私の中で一番好きなヴァイオリンソナタです。
ちなみに動画の中で大傷が(笑)あるのですが…実はこの第1回のデュオリサイタルだけ、私は「楽譜を見ながら=譜面台を立てて」演奏しました。
 そして!譜めくりに失敗したのでした(涙)1小節休符の間に譜めくりする場所で見事に失敗したのには「深いわけ」がありまして、実は暗譜で弾こうか迷っていたのです。暗譜で弾けなくもなかったのになぜ?見栄なのか?譜面台を立てたばかりに演奏しながら「このまま暗譜で弾く!」と言う私と「いや!最後の曲だから譜面を見る!」と言う気弱な私が戦い、手を出す=譜めくりするタイミングを逃したのでした。とほほ・・・・
 教訓「見るなら迷わずに見る!」です。
いつかまた、二人でこの曲を演奏することもあるかも知れません。
今度は暗譜で演奏します!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

好きな音楽を感じるままに…

 映像はヴィオラとピアノで演奏したエンニ・モリコーネ作曲の「ガブリエルのオーボエ」です。
 ヴァイオリンを習う人の多くが先生に指定された「教本」を使って技術を身に着けていきます。先生や教室によって指定される教本や内容が違うものです。
 どの教本を使って何を練習して、どんな技術を身に着けるべきなのか?
習う人の年齢や楽譜を読む技術、練習できる環境や本人の性格、目的によっても使う教本や内容を選んでいます。
 音楽の学校に進むことやコンクールで入賞することを「目の前の目標」にする人の場合には「身につけなければならない」最低限?の技術があります。
 最低限に「?」を付けたのは音楽の学校やコンクールのレベルによって最低限のレベルが大きく違うからです。簡単に言えば「どんなレベルの音楽学校でもいい」場合に必要な技術はさほど多くありません。
 趣味でヴァイオリン演奏を楽しみたい人にとって必要な技術ってなんでしょう?

 習う人、教える人によって違うのですが私は「好きな音楽を感じるままに演奏できるように」してあげたい、なって欲しいと持っています。
 年齢に関わらず人によって到達できる技術レベルは違います。それは才能などではなく環境や考え方の違いによるものです。限られた「練習できる時間」の中で「やる気=モチベーション」を維持しながら上達できる練習方法をアドヴァイスするのがレッスンだと思っています。
 生徒さん自身が感じる「足りない技術」や「身に着けたい技術」は時として段階を飛び越えている場合があります。逆に「この曲は自分には演奏できない」とか「あんな風に演奏できるはずがない」と思い込んでいる場合もあります。
 どちらの場合も生徒さんにとっては「未知の世界」のことですから仕方のない当たり前のことです。

 例えばヴィブラートを出来るようになりたいと「思わなければ」何年楽器を演奏してもできるようにはなりません。またヴァイオリン演奏に必要な技術の多さをまだ知らない段階で「演奏できないのは才能がないから」とか「自分に(我が子に)向いていない」と決めつけるのも間違いです。

 弦楽器は管楽器より難しいと言うのは大嘘(笑)
私に言わせれば管楽器の方がはるかに難しいと感じますが、それも正しい事ではないのです。なぜならすべての楽器は、それぞれ難しさが違うのですから。比較できません。

 自分の好きな楽器で、好きな曲を演奏して楽しいと感じられることが、楽器演奏の究極の楽しみだと思います。
 音階の練習やポジション移動の練習、ロングトーンの練習など練習方法は無限にあります。それらの中で何を練習すれば自分の好きな曲を「生きている間に」演奏できるようになるか?その問いに正面から答えてくれる指導者に出会えること・探すことが何よりも大切な事なのかもしれません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「ながら族」は演奏家向き♡

 映像はデュオリサイタル08で演奏したシェルブールの雨傘です。
BGMにどうぞ(笑)
 さて中学生や高校生の頃に、勉強机に向かいながら←勉強しているとは言えなかったので(笑)ラジオ番組を聞いたりカセットで音楽を聴いたりしていたのは私だけ?違いますよね!きっと多くの人が「ながら勉強」していたのではないでしょうか?もちろん人によっては「集中できないから」と静かにお勉強した人もいますよね。
 ヴァイオリンの練習をしながら音楽を聴くことはかなり難しい(笑)のですが実は楽器の演奏は「〇〇しながら△△する」ことがほとんどです。
・音色を考えながらリズムを考える。
・音程を気にしながら音量を考える。
・自分の演奏を気にしながら他の楽器の演奏を気にする。
などなど「ながら演奏」できることが必要不可欠です。

 二兎を追う者は一兎をも得ず
このことわざから様々な考え方ができます。
一度に多くを得ようとすることで自分のキャパシティを超えてしまう場合もありますが、逆に目先の利益や安直さを優先してしまえば失うものも多くなります。
 一つの考え方…例えば自分の価値観だけを大切にする人は、一兎を得るためなら迷惑を顧みない人…とも言えます。
 一つの目標を達成するために様々な「寄り道」や「回り道」をする事も大切なことです。
 楽器の演奏は同時にいくつものことを考える作業です。
何かひとつを犠牲にすれば全体が崩れます。どうすればよいのでしょう?
一つの事に完璧を目指すより、二つ三つの事に興味を持つことの方が楽しいと思うのです。出来なくても失敗しても、より多くの事を体験することが私は重要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの価格について

 映像は陳昌鉉氏の製作した木曽号を木曽町で演奏したものです。
前回のブログでストラディヴァリ信仰について疑問を呈しました。
ヴァイオリンの価格はいったいどうやって決まるのでしょうか?
ヴァイオリンを購入したい人にとって「代金」として妥当な金額と納得できる金額について考えます。

 ヴァイオリンの価値を「骨董品」として考えるべきなのでしょうか?
絵画の場合にも億単位の金額で取引されなす。美術品としての価値は取引価格で決まるのでしょうか?絵画を描いた作者がすでに他界している場合、どんな工学取引だったとしても作者の利益にはなりません。ヴァイオリンの場合も同じことが言えます。生尺者が生きている場合、自作のヴァイオリンを高く売れれば利益が出ます。いくらで買ってもらえるか?買う側の評価で決まります。
 ヴァイオリンを作るために係る材料費を差し引いて利益が出なければ、ヴァイオリン制作者として生活できませんよね。
 ヴァイオリンを一人で製作した場合の「最低限の価格」が公開されていません。弦楽器展示会で見た経験で言えば一丁80~100万円で「売りたい」のが製作者の立場のようです。恐らく年間に作れる本数と材料費を考えての金額だと思います。作為者によってはこの金額では赤字になる場合も十分にあり得ます。逆に生活に困っていない製作者の場合にはもっと安くても困らないことに(笑)
 工房で分業すれば単価が安くできます。いわゆる「アトリエ楽器」です。国や地域によって差がありますが一般的に一丁20~50万円で作れるように感じます。
 工場でさらに機械作業の高低を増やして製作時間をT何宿した場合に「ヴァイオリンとして演奏できるレベル」の楽器は7万円ぐらいが最低価格のようですが、多少のばらつきはあるようです。
「安物のヴァイオリンは良い音がしない」と言う根拠はありません。
100万円以上?500万円以上?いくらなら良い楽器があると言うのでしょうか?その根拠はどこにあるのでしょうか。

 ヴァイオリンの価値は誰が決めるものっでしょう?
結論は演奏する人=購入する人が決めるべきものです。それ以外に答えがあるでしょうか?先述の通り、作る側が「〇〇万円で売りたい」と思っても買う側が妥当だと思わなければ売買は成り立ちません。
 では妥当な金額でヴァイオリンが取引されるように「正常化」するにはどうすればよいのか?
 簡単なことです。少しでも安いヴァイオリンを選べばよいのです。
高いヴァイオリンを多くの人が買わなければ?高く売って金儲けすることができません。製作者が生活できなくては困ります。ただ工場で作ることのできるヴァイオリンより良いヴァイオリンでないなら誰も買う人はいません。当たり前のことです。
 高いヴァイオリンと安いヴァイオリンがあって選ぶなら?
安い楽器が明らかに「悪い」と感じるなら買わないことです。
「それでは。いつまでたっても買えないじゃないか!」いえいえ(笑)
同じ安さのヴァイオリンで比較してみ下さい。どちらかが良く感じるはずです。
 ヴァイオリンの違いは「比較」しなければわかりませんし、比較してもどちらが良いと言う答えはないのです。むしろ同じように聴こえてもそれが正しいのです。決して耳が悪いわけでもなく初心者だからでもないのです。
 楽器による音の違いは演奏している本人が感じるものと、聴いている人で違って当たり前です。さらに同じ楽器でも演奏する人が変われば音が変わるのです。
 自分で弾いて気に入ったヴァイオリンがいくらなら妥当なのか?
結論は「個人のお財布次第」なのです。それはどんな楽器でもスポーツ用品でも同じことです。無理をしても買えないものは「論外」なのです。
ましてや100万円以上するヴァイオリンは.原価より高い金額を「誰かに払っている」のです。それが製作者本人に支払われるなら納得もできますよね。
それ以外の場合で誰が?いつ?作ったのか?鑑定を職業にし信頼されているは世界中にごくわずかしかいません。鑑定書そのものが「偽物」であることは当たり前です。

 定価のないものにいくら支払う価値があるのか?
高ければ良い楽器だと言う嘘や、オールド=政策から00年以上経っている楽器は良い楽器と言う嘘、ラベルも嘘がほとんど、そんな嘘だらけの世界にしてしまったのは「価値もわからないのに高い楽器を買う」人たちと、売買で儲ける人たちの積み上げた「黒歴史」だと思っています。
 まっとうな金額でヴァイオリンを変える時代が来ることを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

「ストラディヴァリ信仰」の弊害

 映像は陳昌鉉さんの製作されたヴァイオリンで演奏した「ふるさと」
木曽福島でのコンサートをビデオカメラのマイクで録音された音声です。
この映像をお聴きになる環境=イヤホンやパソコンのスピーカーなどによって、お聴きになる方たち全員違う音を聴いていることになります。さらに音の好みがあります。
 陳昌鉉さんは「ストラディヴァリのヴァイオリンの謎」に挑戦したいと言う弓を持って楽器を作り続けられました。
 ヴァイオリンに限らず過去に作られた「物」の素晴らしさを探求し再現しようとする試みは、人類の英知だと思います。人間以外の動物が生きるための知恵や阿曽儀を「学習」することはパンダや子猫を見ればわかります。ただ「物を真似して作る」知恵は人間にしか出来ません。
 今回もテーマにするストラディヴァリ信仰の「害悪」ですが、音楽やヴァイオリンに関心のない人に対しても「嘘」を公言するメディアと一部演奏家に怒りを感じます。

 以前にも述べた通り、ストラディヴァリのヴァイオリンを貶す意図はまったくありません。ストラディヴァリのヴァイオリンが「最高のヴァイオリン」でそうでないヴァイオリンは「ストラディヴァリ以下」と言う考え方が間違っているのです。
 さらに言えば、ストラディヴァリのヴァイオリンが10億円以上の金額で取引されている事をもって「最高のヴァイオリンである」と言う嘘を知って頂く必要があります。このバカげた金額は演奏家が評価した結果ではありません。「投資目的」で売買されるうちにこの金額になっただけのことです。言ってしまえば金儲けの道具にされているだけのことです。投資家に責任はありません。彼らは一円でも稼げるならなんにでも投資します。ヴァイオリンの価値など関係ありません。
「土地ころがし」ならぬ「ストラディヴァリころがし」の結果なのです。

 先日ある日本人ヴァイオリニストが新作のヴァイオリンとストラディヴァリを比較してどんな違いがあるか?リポーターに問われ「ぬいぐるみと生きている犬ほど違う」とおっしゃっていました。耳を疑いましたそしてこのヴァイオリニストの人格を疑いました。自分以外の人間が作った「ヴァイオリン」の例えとしてあまりに知性がなく下品なものでした。ましてやご自身がヴァイオリニストであり演奏活動をしている立場で、ストラディヴァリ以外のヴァイオリンをぬいぐるみ扱いする神経はいったいどこから生まれるのでしょう。
 新作ヴァイオリンが「悪い」ストラディヴァリが「良い」と言う科学的根拠もなく、多くの実験結果で聴き比べてストラディヴァリを言い当てられない現実をすべて否定したとしても、生き物とぬいぐるみに例える演奏家の知的レベルの低さをメディアで露呈することになりました。

 地球上に「最高のヴァイオリン」は過去にも未来にも存在しません。
ある人にとって「最高」はあって当たり前です。他人の楽器を悪く言うヴァイオリニストの知性の低さは明らかです。ヴァイオリンを神格化し他のヴァイオリンを蔑(さげす)む考え方は新興宗教と変わりません。信じるのは個人の自由ですがそのことによって多くの人が「騙される」ことに耐えられません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「じょうずな演奏」―「素人っぽい演奏」=?

 映像は「MISTY」のヴィオラとピアノの演奏に、雪景色の写真を重ねた映像です。
 今日のテーマは一言で言えば「うまく聴こえる演奏とは?」です。
特にアマチュアで演奏を楽しんでいる方たちにとって、演奏を職業としている「プロ」の演奏と自分の演奏の「違い」が理解できないのは当然のことです。
「えらそうに!」と勘違いしないでくださいね(笑)私もアマチュア演奏家だと思っている一人なので。
 音を出すこと・曲を弾くこと+α
この「α」こそがじょうずに=プロっぽく聴こえる演奏の特徴です。
演奏するのがどんな音楽でも同じことが言えます。
 もう少し違う言い方をするなら「意図的に音色や音量、音符や休符の長さを変えられる」とじょうずに聴こえます。偶然に=無意識に変わってしまう演奏とは違います。ある人のある1曲の演奏を聴いているだけでも感じるものです。
「言葉のように音楽が聴こえる」とも言えます。
パソコンで読み上げるロボット音声のような楽器の演奏は、素人っぽく聴こえます。音楽を言葉のように感じて演奏している人の演奏が上手に聴こえます。 

 演奏しながら「何もしない=ただ音を出す」時間の差も「α」になります。
曲の中なの一つずつの音、さらにその音の中発音から音が終わるまでの時間。ただ音を出すだけで終わらないことがじょうずに聴こえる演奏の最大の要因です。
楽譜には書いていないことを自分で「試す」ことです。その積み重ね=経験が演奏するうえで何よりも大切なことだと思います。
 小さなことの積み重ねを「ジェンガ」に例えるとイメージしやすいですね。
ヴィブラートの速さや深さ・弓の圧力と速度・音楽の揺れ戻しなどを一つのパッセージに丁寧に積み上げて高くするのが演奏のジェンガです。一つ一つの技術はそれほど難しい事ではありません。ただバランスを忘れればすべてが崩れてしまうのもジェンガと似ています。

焦らずに・諦めずに・怖がらずに積み重ねてみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アンサンブルを録音する

 皆さんは音楽をどんな時に?どんなモノで聴きますか?
もちろん時々で違った聴き方をするのは当たり前ですが、たとえば移動する時に音楽を聴くことがあるでしょうか?一昔前に大流行した「ウォークマン」は外を歩いたり電車やバスで移動しながらカセットテープの音楽を聴くことのできる画期的なステレオ再生機械でした。それまではラジオしか外で音楽を聴く方法がなかった時代に電池で動きヘッドフォンで自分だけが音楽を楽しむことができて「自分の世界」に浸ることができました。
 オーディオ…一言で言えば専用のスピーカーで音楽を再生して音楽を聴く人は一時激減しましたがここ数年、復活してるようです。
 スピーカーで聴くのか?ヘッドホン・イヤホンで聞くのか?によって全く聞こえ方が違います。以前はレコードにしてもCDでもスピーカーで聴くことを前提にして音を創っていました。独奏でもアンサンブルでもシンフォニーでも同じオーディオで聴いていました。

 動画と共に音楽を聴くことが多くなった現代、パソコンやスマホ、テレビで「見ながら聴く」ことが多くなりました。むしろ音楽「だけ」を聴く人が減ってきたのは事実です。
 一方で自分一人で音楽を創る趣味が目立つようになりました。
以前はDTM=デスクトップミュージックと呼ばれていましたが現代ではDAW=デジタルオーディオワークスと呼ばれています。
 パソコンの音と人間の声や生楽器をパソコン上で「ミキシング」して音楽を作成する楽しみ方です。ドラムの音をパソコンで打ち込み、ギターやベース、キーボードなど自分が何も演奏できなければそれもパソコンで打ち込み、歌だけを「かぶせる」方法で音楽を簡単に作れるようになりました。
ダウソフト=DAWSoftが数多くDされています。私も色々試したり調べたりしましたが、クラシックの演奏を録音するのに適したソフトはほとんどありません。
 アドビのソフト「Audition」がラジオ局などでも使われているという情報もあり実際に使って見ましたが、現実的には使いにくいものでした。
 昔のように「マイク」+「アナログミキサー」+「ステレオテープデッキ」が一番シンプルなのですが当然録音するときには演奏者以外に録音スタッフが必要です。テープデッキの代わりになるものとして「PCMレコーダー」が主流になりましたがこれもやたらと操作が複雑です。
 録音した「素材」が良ければどんな加工も可能です。素材が悪いほど加工に手間がかかります。
 録音する基本の機械「マイク+ミキサー+デッキ」が以前のように増えてくれることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

手首のヴィブラート

 映像はデュオリサイタル15で演奏したラフマニノフ・クライスラーの祈り。
今回のテーマはヴィブラートのかけ方について。以前のブログでもヴァイオリン・ヴィオラのヴィブラートについて書きましたが今回は「手首のヴィブラート」に絞って考えてみます。

 そもそもヴィブラートは音の高さを曲線的に連続して変化させることです。
・弦を押さえる指先の適度な硬さ
・指の関節の柔軟性と可動範囲の大きさ
。弦は押さえない親指の柔軟性と力の方向
。てのひらの筋肉の柔軟性と強さ
・手首の関節の可動範囲と柔軟性
・前腕の角度と手首の角度=てのひらの向き
・前腕の筋肉の強さと柔らかさ
・上腕と胸筋の脱力
言うまでもなく最終的には「音を聞きわける耳」が一番大切です。
動画を見て頂くと手首を「支点」に掌が「回転運動=倒れたり起きたり」していることがわかると思います。掌を動かしているのは前腕の筋肉です。さらに左手の親指はネックに触れた状態で付け根の関節が自由に動かせることが大切です。手首を支点にしながら親指は上方向への力を発生します。
 弦を押さえている指は腕=肘のヴィブラートと大きく違い、ネック=弦に対して平行な運動にはなりません。腕・肘のヴィブラートは基本的にポジション移動と同じ運動です。ネック・弦と平行に動きますが手首のヴィブラートは「指が倒れたり起きたりする」運動になります。指の関節の「伸び縮み」は腕のヴィブラートより少なくなります。
 手首のヴィブラートはポジション移動と全く違う運動で使う筋肉も違います。
腕のヴィブラートは上腕の筋肉と肩の付け根の筋肉を使います。
手首のヴィブラートは前腕の筋肉なのでより小さなエネルギーで運動できます。
 指を曲げたままでヴィブラートできるメリットもあります。
どんな方法であっても、角のない曲線的なピッチの変化に加え、速さと深さをコントロールできることが大切です。
 自分の音を録音して聴いてみると「ヴィブラートの波」を冷静に観察できます。自分の演奏をぜひ!聞き直して頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の毛の張り方=張り過ぎない

 映像はデュオリサイタル14代々木上原ムジカーザで演奏した、アザラシヴィリ作曲のノクターンを音声リマスターしたものです。
 さて今回のテーマは弓の毛の張り方について。
生徒さんの多くが弓の毛を強く張り過ぎています。
多くの動画を見ていても若いヴァイオリニストたちがスティックがまっすぐに近くなるまで弓の毛を張って演奏している動画を目にします。
 演奏する曲によって多少の違いは必要です。ただ音量を出すため・強い音を演奏するために弓の毛を強く張ることは正しいとは思いません。
 そもそも弓の木=スティックは弾力を持たせるために様々な工夫がなされています。太さと硬さ=弾力と重さの三つの要素を職人が経験と技術で、最も良い音が出る弓を作っています。固ければ良いのであれば木で作る必要もありません。
また弓の毛にも弾力があります。現にも弾力があります。
最も弱い弾力は「弓の毛」です。弦の弾力と弓の木の弾力を比較すると、駒からの距離が近ければ弦の方が硬くなり指板に近くなれば弓の木の方が硬くなります。つまり弓の木には弾力が絶対に不可欠なのです。
 弓の毛を強く張れば弓の毛の段弾力は固くなり同時に弓の木の弾力性も少なく=硬くなります。さらに弓の中央部分の柔らかさが損なわれます。
練習後に弓の毛を緩めずに放置して「腰の抜けたふにゃふにゃの弓」はいくら弓毛を張っても弓の木の弾力は弱いままです。
 弓の中央部分で演奏する時に圧力をかけすぎればどんな「剛弓」でもスティックと弦が接触します。また弓のスティックを指板側に倒しすぎれば同じように接触します。
 弓の毛を弱く張ることで弓の「反り」が最大に活かされます。必要最小限の張りで演奏することで柔らかい音色が出せると私は確信しています。
 ぜひ!普段の張り具合から90度…できれば180度弓のスクリューを緩めて演奏してみてください。弓の中央部で圧力をかけずにフォルテを演奏する技術を身に付ければ弓元と弓先の張りの強さを使ってフォルティッシモも演奏できるはずです。お試しあれ!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

新しい知識を求めること

 映像はデュオリサイタル11で演奏したロンドンデリーの歌。音声を新しいソフトを使って作り直した映像です。
 昨日我が家に大学時代の先輩ご夫妻が遊びに来てくださいました。
ご主人は高校大学時代に毎日のようにお世話になった事務職員だった方です。
お二人とも優しく気さくで私たち夫婦にとってかけがえのない存在です。
 何よりも多くの知識と情報をお持ちです。私の知らないことばかり!4人で過ごす時間は学生時代に戻ります。まさに「温故知新」です。
 同じ時代に60年生きていながら、いまさら(笑)初めて知ることがあるのは本当に嬉しいことです。
 楽器の事、音楽業界の事、演奏技術の事、などなどいくつになっても昔の儘の関係です。もちろんお二人は私たちにとって人生の先輩でもあり、音楽の師匠でもあります。
 新しい知識を得ようとすることは人間の欲です。様々な欲望のある中で「知ろうとする欲」は成長の源です。自分の知っていることの多さを人にひけらかすのは「自己顕示欲」であり知識を得る欲とは逆に成長を邪魔するものだと思います。自分の知らないことを敢えて探すことも必要なことです。
 人に聴くこと・教わることを恥ずかしがったり「格好悪い」と思う人もいるようですが人間はいつも新しい事を学んで生きる生物です。そうしなければ原始人のままの生活をするしかありません。
 新しもの好きは悪い事ではないのであります!←新発売の3文字に弱い私です…
 一方で古いものを大切にする気持ちが何よりも大切です。古くなったからいらない=新しいものに取り換える…一見すると進歩しているように見えますが進化ではなくただの「物欲」だと思っています。古くなった建物をすぐに壊し、古くなったお店を潰し、古くなった車をすぐに廃車にするのが「日本人の悪い癖」だと感じています。古いものの良さを感じられない人間に、古いものより良い新しいものを創造する能力も資格もないと思います。懐古主義ではなく本当に良いものを見極めるために必要な「時間とお知識」が必要だと考えています。人間の良さも10代より20代。30代と時間をかけて良くなっていくものだと思います。
 新しい知識の積み重ねは結局、古いものの良さを見つける能力を身に着けることなのだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

CD第4弾をを作る!

 決意表明(笑)がテーマみたいですが、映像は私たちのCDシリーズ「Tenderness」第1弾のベルガモットに収録したパラディス作曲のシシリエンヌ。
 過去の3作とも自宅で演奏しながら録音したものです。基本二人だけでマイクや機材のセッティングから演奏した録音ごとに確認して、トラックダウン・マスタリングまで自分で行い、パッケージのデザインから印刷・作成も自作です。
 何よりも費用がかけられないと言う現実問題があります。
録音するためにホールやスタジオを借りて、録音御者にお願いすれば自分たちは演奏に専念できますが当然、コストは自作に比べ10倍以上…もっとかかります。
 さらに自分たちが納得のいく演奏が出来るかどうか、確信のない状態で場所や人を使えないのも事実です。
 3作を録音した際に使っていた機材のうち、主役であるMTR(録音する機械)が経年劣化で使用できなくなり…かれこれ30年ほど使った機械ですから無理もありませんが。ど~しよ~ど~しよ~♪なのです。
 このところよく使う機材はビデオの撮影を中心にしたものなので録音を主に考えるとかなり使いにくい。
 昔の社名「TEAC」現在は「TASCAM」のMTR…昔より安くなったとはいえ金額的に考えると3時間録音業者に頼む金額2回分(笑)つまりこれから3作のCDを作るならMTRを購入したほうが安く上がる計算です。ど~しよ~ど~しよ~(笑)
 どっちにしても!演奏がメインなのであります。そこんとこ大事にします!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンを楽しむ

 今回は私の愛する、ヴァイオリンと言う楽器を演奏して楽しむことをテーマに考えます。
 ことさら「ヴァイオリンが一番」なんて話をする気は1ミリもありません(笑)
色々な楽器の良さがありピアノが一番好きな人もいて当然です。またそれぞれの楽器によって演奏できる「音域=音の幅」や同時に演奏できる音の数、音を出す仕組みが違いますから、必然的に演奏できる音楽も違います。その違いを並べ立ててもあまり意味はありませんので今回はヴァイオリン演奏を楽しむ人の参考になりそうなことだけに絞って書いてみます。

 ヴァイオリンを練習してどんな音楽を、どんな風に演奏したいのか?多くの人があまり考えない…答えられない質問です。むしろ「ヴァイオリンを弾くことが面白い・楽しい」と言う答えが一般的です、
 初めてヴァイオリンを手にしてからの上達の過程で、たくさんの「難しさ」に直面します。音の高さが定まらない難しさ・1本の弦だけを演奏する難しさ・2本の弦を重音で演奏する難しさ・弓が弾まないように動かす難しさ・同じ場所を直角に弾き続ける難しさ・ヴィブラートの難しさ・ポジション移動の難しさ・短い音を速く連続して弾く難しさ…数えきれないほどの「壁」がありますよね?
 それらをすべて克服して思ったようにヴァイオリンを演奏できる日がいつか来るのでしょうか?(笑)頑張って練習してもできる気がしないのがヴァイオリンの演奏でもあります。
 やめます?ヴァイオリン(笑)
ヴァイオリンで音を出して初めて曲を演奏できた時に「できた!」と喜んだはずですが…覚えていますか?その後の「苦悩の日々」が最初に曲を弾けたときの感動を忘れさせています。楽器で音楽を演奏すること。それが原点であり頂上でもあると思います。ヴァイオリンで音楽を演奏することが楽しくなければ、練習する大義がなくなります。「練習することが趣味」と言うのであれば別です。音楽にならなくても音を出せれば楽しいと言う人もいるでしょう。テニスの壁打ちだけ出来れば楽しいと言う人もいます。バッティングセンターやゴルフの打ちっぱなしだけで満足する人もいます。楽器の音を出すだけで満足する人がいても不思議ではありません。
 人によって楽しみ方は様々です。ヴァイオリンを演奏して楽しいのであれば何も問題はありません。面白くなくなった時に飽きたのか?出来ないから面白くないのか?きっと理由があります。それを考えることさえ面倒くさいのが普通です(笑)
 ヴァイオリンの演奏・練習に飽きた人の多くは、演奏する色々な楽しさを知る前に飽きています。スポーツで例えるなら試合=ゲームを知らないままで終わることに似ています。
 ヴァイオリンの演奏を長く楽しむ上でまず「演奏できる曲探し」をすることです。初心者のレベルでどんな曲が自分で演奏できるのかを知ることは不可能です。「ヴァイオリンと言えば●●太郎」と思う人も多いのですが(笑)もっと現実的に初心者でも楽しめる曲がたくさんあります。ヴァイオリンの為に作曲されたクラシック音楽は得てして難易度が高いものです。かと言って「チューリップ」や「蝶々」を演奏して楽しいとも思えませんよね。販売されている初心者が演奏できる曲の楽譜は非常に少なく、かと言って楽譜なしに演奏できる技術もありません。これがヴァイオリンを習い始めてドロップアウト=やめてしまう一番多い原因です。教本を練習することも上達のためのひとつの方法ですが、必ずしもすべての初心者に好まれる曲…とはいいがたいのも事実です。
 習う側=初心者の方が「曲探し」をすることです。その際のポイントは…
①ゆっくりした音楽
②自分が声で歌える音楽
③ヴァイオリンとピアノで演奏している音楽
上記の3点に絞って音楽を探してみてください。
③についてはヴァイオリンでなくても歌やフルートなどとピアノの演奏でも構いません。
 弾いてみたいと思う曲を見つけたら誰かに楽譜を書いてもらう事をお勧めします。楽譜をかけないヴァイオリニストが初心者を教えているとしたら問題です。
覚えられる長さの短い曲であれば、すぐに初心者ヴァイオリニストのための楽譜はかけて当たり前です。指使いや弓のダウン・アップなども書き込んでもらえば一層短期間で演奏できるようになります。
 とにかく「演奏したい曲」を見つけ「好きなように演奏できる」ことを目標にして練習することが何よりも大切です。
 ぜひ!ヴァイオリンで音楽を演奏する楽しさを感じられまで、短く覚えやすい音楽から練習してみ下さい。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽のダイナミックレンジと雑音の関係

 映像はNPO法人メリーオーケストラが演奏したラヴェル作曲のボレロです、
今回のテーマである「ダイナミックレンジ」とは一言で言えば、一番小さな音と一番多く青戸との「差」をdb=デシベルと言う単位であらわすものです。
 ボレロの冒頭武運はスネアドラムの独奏とヴィオラとチェロのピチカートで始まります。一般的に考えれば小太鼓の音が「小さい」と言う感覚はないかもしれませんが実際にホールの客席聴こえる音は極めて小さな音です、
 その最小の音量からボレロ終結部の最大の音量との差がこの曲の「ダイナミック」となります。
 人間の耳は約120dbのダイナミックレンジを持っていると言われています。
聴力検査で色々な音の高さの音が聞こえるか?検査しますが約30dbです。
小さな音は静かな場所でなければ聞き取れませんよね?
逆に言えば静かな場所では小さな音を大きく感じるのが人間の聴覚です。
 録音する番委に雑音の事をノイズと言い、記録したい音の事をシグナル=信号であらわします。の二つの割合をS/N比という言葉で表し単位はdb=デシベルになります。このS/N比の数字が大きいほど雑音が少ないということを表わします。
 昔のカセットテープレコーダーでラジオや音楽を録音すると、音楽屋人の声以外に「サー」と言うノイズが聞こえてしまうものでした。その雑音を小さくして録音・再生するための圧縮と復元をする機能を考え出したのが「DOLBY」ドルビーという会社です。今でも映画の最後に見かけるロゴがありますよね?
 カセットデッキに「ノイズリダクションシステム」として搭載されて機能です。
 カセットテープのサーノイズはデジタル録音になって亡くなりました。
飛躍的にノイズが減り、16bit録音だと96dbという素晴らしいダイナミックレンジで録音再生できるようになりました。24bitになると144db…人間の貯力を超える幅の音量差ですので意味はありません(笑)

 ここまで録音・再生する機会による音量差を書きましたが、音楽によってその音量差が全く違います。再生して音楽を楽しむ方法もヘッドホンやイヤホンになりました。ポップスの場合には一曲の音量差が小さいのが得量です。
「ロックって大音量でしょ?」はい、その通りですが小さい音は演奏されませんから音量差は少ないのです。
 クラシック音楽でもピアノ1台のダイナミックレンジとヴァイオリン1丁のダイナミックレンジは違いますしオーケストラの演奏となればさらに大きな音量差があるのです。
 その音量の幅こそがオーケストラの魅力でもあります。
ちなみに下の映像はボレロの冒頭部分を電気的に大きくしたものです。

 音量を「平均化」することで聴きやすくなりますが音楽の魅力は逆に少なくなります。どちらが良い…と言うことではなく、音楽によって本来あるべき音量差を楽しむことも理解してもらえればと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

初心者から上達する速度とレベルの個人差は…

 映像は20年ほど前に勤めていた中学校・高等学校の部活動オーケストラ定期演奏会。みなとみらいホールでの演奏です。演奏しているのは紛れもなく(笑)中学生と高校生。例外はハープの演奏者(プロの方です)だけでパイプオルガンも当時高校生だった「元部員」が演奏しています。
 1985年から約20年間の部活動指導経験とその後の指導経験から「初心者の上達」について私が思う事をテーマにしてみます。

 結論から先に言えば
「子供からでも大人からでも到達レベルは」
「上達速度=時間は練習の密度次第」
「到達レベルの違いは練習時間と内容に比例する」
と言う2点です。
小さい頃から始めても大人から始めても、「密度の薄い練習」を「5年間」続けた場合に到達するレベルは「密度の濃い練習」を「1年間」練習した人の到達レベルは「同じ程度」です。
一方で内容の濃い練習を5年間続けた場合の到達レベルは、内容の薄い練習を何年続けても到達できないレベルです。
 つまり初心者から初めて「密度の濃い練習」を続けていればどんなに人でも動画で演奏しているレベルまでは到達できるという意味になります。
この動画内で演奏している生徒のほとんど全員が中学に入学するまで、触ったことのない楽器を演奏しています。中には小さい時からヴァイオリンを習っていた生徒もいますが、動画内でヴァイオリンの演奏を見て「習っていた子」を判別できません。それほどに部活動で目標を持って練習することによる上達レベルは高くなるという証明です。
 以前にも書きましたが私の指導方針は
「月曜から金曜の練習参加を強制しない=練習場所を提供する」
「土曜日の合奏には参加する=午後1時から3時ごろまで」
それだけです(笑)生徒個人が上手になりたいと感じ、自分の生活スケジュールを優先し=部活を優先させない、間違った練習をしないことで。入部したすべての生徒がこうして演奏しています。

 この演奏レベルは「アマチュアレベル」としては十分だと思います。
この生徒たちの中でさらに外部の先生にレッスンを受け、音楽大学に進学した生徒もいます。プロになって活動している人もいますが多くの「元部員」はその後もアマチュアで音楽を楽しんでいます。素敵なことですし私の理想とすることです。燃え尽き症候群の生徒もいなかったと思います。なにせ練習スケジュール自体は「ゆるい」部活でしたから燃え尽きるまで疲れていないはず(笑)
 このレベルに到達するまでに子供によって差があります。その原因は「性格の違い=集中力の違い」によるものです。言い換えれば「こだわることの違い」であり能力や才能の違いではありません!
 たとえばヴァイオリンの生徒がヴィブラートをかけられるになるまでの期間は、1~3カ月ほどの幅があります。「1カ月でヴィブラートがかかるの?」あと思われますが実際にかけられます。それでも3倍ほどの時間差があります。
 またスピッカートが出来るようになるまでには1年から2年かかります。なかにはもっと時間のかかる生徒もいます。難易度が高いためです。
 リズムを正確に演奏する技術や楽譜を音にする技術は、部活動の場合は「誰かの真似をする」ことで覚えられるために実際にはあまり上達していません。不思議に感じるかも知れませんが音楽を「丸ごと覚えて演奏する」ことで演奏していると言っても過言ではありません。当然プロになるのであれば「読譜技術=初見能力」は必須条件ですがアマチュアには求められません。

 部活ではなく個人レッスンの場合には、密度の濃さに天と地ほどの個人差があります。生活の中で楽器の練習に集中できる時間が違いすぎるからです、
 音楽の学校を受験しようとする場合には、生活の中心が楽器の練習になるわけで密度の濃い練習が出来て=練習して当たり前です。そうでない場合には「できるy時に」練習するのですから密度が薄くなるのは仕方ありません。
 前述の通り密度が薄ければあるレベルより「上」にはいくら長く時間をかけても到達しません。アマチュアならそれで十分だと思います。自分が楽しければレベルが低くても満足できるはずなのです。もしも、さらに上達しいのであれば練習の密度を刻すればよいのです。忠雄?レだけのことです。時間・期間だけではありません。
 楽しめなければ音楽ではない。
私の持論です、プロでもアマチュアでも演奏を楽しめれば立派な「演奏家」です、
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

録音される楽器の音へのこだわり

 映像はヴァイオリニスト、レイ・チェンのVLOGです。
今回のテーマである「録音」について考える時に一つの参考になる動画です。
「クラシック音楽は生の音が最高」であることは事実だと思います。むしろクラシック音楽はそもそもが生身の人間が演奏している音を楽しむことを前提にして作られた音楽でもあります。
 現代、音楽を聴く人の楽しみ方はクラシックに限らず、50年前と比べて次元が変わったと言えるほどに大きく変わりました。
①レコードを買って音楽を聴く。
②FMラジオを録音して楽しむ。
③会場で生の演奏を楽しむ。
やがてレコードはCDに代わりテープレコーダーはMDに変わりました。
そして、配信と言う音楽の取り入れ方とパソコンや携帯を使って音楽を聴くことが当たり前になりました。
 ポップスもクラシックも「生演奏」が難しくなったのは新型コロナの影響も大きく、ますます音楽を個人で楽しむことが主流になりました。

 今も昔も「演奏を録音する」そして「録音された演奏を再生して楽しむ」場合に録音の技術・方法が関わります。演奏の技術や音楽性をどのように記録し、再生するのか=再生されるのかについて、案外関心のない人が多いのも事実です。
 「私はオーディオマニアではないから知らない」と思われるかもしれませんが現実に録音・再生は演奏者も聴く人も無関心ではいられないことなのです。
 巷で言われる「アナログオーディオの復活」もその一つですがクラシック音楽のレコーディングと再生には「機械」が使われるのは誰でも知っていることです。デジタルでもアナログでも結局「音を記録し再生する」事には変わりまりません。

 コンサート会場で聴く生の演奏=音を、自宅で再現することは可能なのでしょうか?
 結論から言えば現実的には不可能です。私たちの耳に入ってくる音の「聴こえ方」が違うのです。ホールの場合、耳の周りの空間はホール全体の空気です。つまりホール全体に空気の振動である音が広がり、自分の耳に到達した音を聴くのが「生演奏の音」です。
 かたや録音した音を聴く場合には「録音の方法=録音された音」がどんな音なのか?によって聴く方法も変わります。
・演奏者の間近=楽器のすぐ近くで聴こえる音で録音する方法
・会場の客席で聴いているような音で録音する方法
大別すればこのどちらかなのです。
前者の場合には細かい=小さい音まで録音できることと、録音時にも録音後にも個別の楽器の音量を変えることもできます。コンチェルトの録音でソリストの近くにマイクを立てれば実際に客席で聴く音量バランスとは違うバランス…ソリストの音を大きく録音することが可能になります。実際にホールで聴くソリストの音よりも大きく聴こえることになります。
 後者の場合、客席で聴いているような広がりを模擬的に作りだすことで生演奏を聴いているような「疑似体験」ができますが音量のバランスなどは変えられません。
 実際に観客がいる状態で録音する方法が「ライブ録音」です。ショパンコンクールのライブ中継などもその一つです。当然、観客の目障りになるようなマイクロフォンは好ましくありません。演奏者にしても不快に感じる場合もあります。
 多くのライブ録音では観客の目障りにならない場所にマイクを設置しますので、先ほどの説明で言えば後者の部類になります。ただ「超指向性」と言われるマイクを使うと狙った部分の音だけを収録することが可能になります。これも一つの「機械の進歩」です。

 どんなに録音技術や再生機器が進化しても人間の耳が聞き取れる音の範囲や感性は変わりません。聴く人が心地よいと思う音が「良い音」であり数値が表すデータではありません。聴く人が求める音を作り提供するのが私たち「演奏者」の役割です。録音する方法も聴く人のニーズに合わせる必要があります。大きなスピーカーで音楽を聴く人はほとんどいなくなりました。イヤホンやヘッドホンで音楽を聴き、現実にホールで聴こえる音よりも聴きやすく感じる音を求めています。とは言えクラシック音楽の「本当の音」を大切にするためにも作為的な音や現実離れしたバランスの録音にならないように心がけることも必要です。
「暖かい音」が見直されている現代だからこそ録音にも気を遣うべきだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴く人が感じる音楽の風景

 映像は一昨年2021年12月のデュオリサイタル14で演奏したピアゾラ作曲のグランタンゴです。チェリストのロストロ・ポービッチのために作られた曲でR素がヴィオラ用の楽譜も書かれている珍しいものです。
 ヴィオラのパート譜10ページほどを暗譜するのはかなり大変でしたが(笑)この前年に初めて演奏し再度練り直して演奏しました。
 さて音楽を聴いて感じる風景や感情は、当然ですがすべての人が違うものです。曲のタイトルで先入観を持つこともあります。また歌詞のある歌の場合には、歌詞の内容も重要なものです。言葉によって心情や風景を表している場合には演奏者=歌手は詩から感じるものを表現します。聴く人がその歌詞を理解できる場合と理解できない場合がありますよね?例えばロシア語で歌われている歌を日本人…ロシア語を知らない人が聴いて何を歌っているのか?わかるはずがありません。曲のタイトルだけが手がかりになる場合もあります。
 器楽の場合には演奏する人も聴く人も、自由に音楽から感じるものを想像します。作曲者の意図したものとは違う事も自然なことです、
 演奏者が思い描いている情景や心情・風景が聴く人に伝わらないことも自然なことです。むしろ、聴く側は演奏者が感じているものよりも、自分が想像することが重要なのです。演奏者が「押し売り」するのは間違いだと思っています。
 「これから演奏する音楽は●●を表したものですから、その通りに感じてください」って押し付けがましくないですか?(笑)と言うより大きなお世話だと思うのです。演奏者の解釈はあってよいことですし、それをお客様に予め伝えることも間違っていません。しかしそのことで聴く人の自由な創造を「邪魔」してしまうリスクもあると思うのです。演奏しようとする音楽に関心を持ってもらうために、自分の解釈を伝える場合もありますがそれを他人に押し付ける気持ちがなくても、結果的に聴く人や見る人の想像力を狭めてしまう場合があると思います。
 絵画を説明なしに見た時の「印象」があります。人によって違います。
同じ作品でも感じ方は自由です。ピカソの絵画を「落書きだ」と思う人がいてもピカソは怒りませんでした。作曲した音楽を「駄作だ」と言われて書き直した作曲家もいれば、そのままで後世になって「素晴らしい作品だ」と評価される場合もあります。
 見る人・聴く人に伝わることが、作り手・演奏者の思いと違っても恐れたり不安に思う必要はないと思うのです。得てしてクラシックの演奏家は「この作品はこう!演奏しなくてはいけない」と自分を縛りがちです。自由な感性で演奏することを「形式に反する」とか「おかしい」と言う人がいますが、どんなものでしょうね(笑)レッスンで生徒に「そこは●●のように演奏しなさい」と教えるのは簡単です。生徒の想像力を育てることを大切にするなら、まず教える人が自分で演奏して生徒が感じとったものを尊重するべきです。
 すべては演奏する人・聴く人の「人間性=感性」に委ねられるのが芸術だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アルバイトで一人カラオケカルテットしてました

 メリーミュージックの歴史は2004年の夏から始まりました。
来年は20周年を迎える時間の中で本当に苦しい時期がありました。
今が楽…ではありませんが精神的にも経営的にも苦しい時期が何年か。
そんな時に「通信カラオケ」に生演奏を組み入れることが流行していて、アルバイトとして教室でひとりMTR=マルチトラックレコーダーを使って録音、納品していました。この映像の明日も納品したうちの一つ。偶然パソコンに残っていました。
 仕事の依頼は「楽譜データ」と「オリジナル演奏音源」と「テンポ指定のためのMIDIデータ」がデータで送信されてきます。それをすべて指定通りの形式で録音してWAVデータにして納品する…というものでした。
 一軒のお仕事でいくら?頂いていたのか全く記憶がありません。
この頃には近くの結婚式場で演奏するお仕事もしていました。
精神の病…うつ病の酷い頃で治療薬の副作用の中、もうろうとしながら演奏してい様に思います。良く生き残った!(笑)と言うのが正直な気持ちです。
 ちなみにチェロの音もヴィオラで演奏したものを一オクターブ下げるエフェクトを使って作っています。聴いていて心地よいものではないですが、こんなことをして生き抜いたから今がある…そう思うと捨てがたい音源でもあります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜を覚えるためのプロセス

 映像はショスタコービッチ作曲「二つのヴァイオリンとピアノのための5つの小品」の4番「ワルツ」と5番「ポルカ」をヴァイオリン・ヴィオラ・ピアノで演奏しているものです。この楽譜は手に入りませんでした。
 ヴァイオリンのセカンドの楽譜は…

すごいでしょ!浩子さん天才!ありがとう!
で、それを私がパソコンソフトを使って「音」にします。

すごいでしょ!浩子さん天才!ありがとう!
で、それを私がパソコンソフトを使って「音」にします。

さらにここに先ほどの楽譜を画像にして音楽に合わせて動画を作ります。
それがこちら。

これを頭に覚えて演奏するのです。覚えながら指使いや弓も覚えます。
「動画が見えるなら紙の楽譜も見えるでしょ?」と思われますが私たち弱視の人間にとっては画面の明るさとコントラストの強さは、紙よりもずっとみやすいのです。ただ音符の位置などは苦しいですが(笑)音を聴きながら覚える方法は「スズキメソード」の母国語方式に似ていますが、正確には意味が違います。このパソコンの音源をそのまま真似して弾きたくないし(笑)そもそも楽譜を見ることが難しくなった分を補うための音源です。
 楽譜を見ながら演奏できることが当たり前だった頃には「暗譜」することの意味や難しさを考えたことはあまりありませんでした。なんとなく?何度も練習している間に覚えるのが暗譜だと思っていました。
 楽譜を見ないで演奏する(できる)こと
それだけでは暗譜とは思わなくなりました。演奏しようとする音楽のあらゆる要素…音の長さ・高さ・大きさ・音色などを演奏する弦や弓の位置をひとつのパッケージ=イメージとして一曲分「思い出せる」ことが暗譜だと思うようになりました。少しずつ…一音ずつ・1小節ずつ・1フレーズずつ覚えます。
 能率が悪く思われますが実際にやってみると案外!短時間で演奏できるようになるものです。ぜひ、皆さんも一度お試しください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

シンプルな美しさ

 映像はデュオリサイタル8で演奏したバッハ作曲チェンバロ協奏曲第5番の中から「アリオーソ」ヴィオラとピアノで演奏したものです。ビデオの撮影は人手不足で(笑)ありませんでした。
 音楽にはそれぞれに個性がありますよね。言葉にすると安っぽい気もしますが、シンプルな音楽は絵で例えるなら…水墨画やクレパスで書かれたようなイメージ。食べ物に例えるなら…素材の味が際立つ料理。もちろん、複雑な色遣いの絵画も多くの素材を組み合わせた料理も素晴らしいものですがシンプルなもので人を感動させるために、作り手のこだわりと技術が最大限発揮されるとも思います。
 演奏の形態も、使われる楽器の種類が少なくなればなるほど、一つ一つの楽器の音が際立ちます。
 楽曲の旋律が、順次進行と分散和音を中心にした覚えやすい旋律で、リズムも規則的な繰り返しが多いアリオーソ。和声進行も奇をてらわず聴く人の期待通りの進行です。
 余計な飾りを極限まで削り必要不可欠なものだけが残ったもの
それこそがシンプルな美しさだと思います。「簡単」とは意味が違うのです。
「素朴」とでもいうべきです。アリオーソを演奏する際に、装飾音符をたくさんつける人もいますが私は「素=すのまま」が好きです。「バロックとは!」と言うお話は大切ですが料理の仕方は、人それぞれに違って良いと思います。
 もっと純粋な美しさを求めて、この曲に再挑戦したいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

新作ヴァイオリンに難癖付ける人に物申す

 映像はデュオリサイタル05ムジカーザでの演奏です。
滝廉太郎作曲の荒城の月をアンコールで演奏しました。
このリサイタルを実施したのが2013年1月です。前年2012年の5月に陳昌鉉氏が逝去されました。ご病気で亡くなられる直前に私の生徒さんが陳さんから直接購入させていただいたヴァイオリンが、この動画で私が演奏しているヴァイオリンです。生徒さんからお借りして演奏しました。陳さんが大好きだった「荒城の月」を陳さんに捧げました。

 新作のヴァイオリンを殊の外に悪く言うヴァイオリニストが見受けられます。
オールドの楽器と比べ、音に豊かさがないとか中には「ストラディバリウスの音とは比較にならない」と言い切る人もいます。
 言うまでもなくヴァイオリンはどれひとつ、同じ音のするものは存在しません。それがストラディバリウスのヴァイオリンであっても一丁ずつ個性があります。オールド偏重主義ともいえる人たちにとって、新作のヴァイオリンは「良い音がしないヴァイオリン」と言う完全な先入観に凝り固まっています。
 ピアノの世界でも「スタインウェイだけがピアノ」のように思われていた時代は終わりました。新しいピアノメーカーが世界的に注目され評価査定ます。
 ヴァイオリンや弦楽器の世界だけが「非科学的な神話」に未だに縛られています。新作ヴァイオリンにも150年以上経ったヴァイオリンにも「鳴りにくい楽器」「バランスの悪い楽器」「演奏しにくい楽器」は存在します。製作者の技術も様々なら、製作者が理想とする音も様々です。それが当たり前なのです。
 陳昌鉉さんの作られた楽器に「金銭的な価値」を付けたがる人がいます。
いくらで取引されているか?それで楽器の価値が決まるでしょうか?
私には自分が良いと思った楽器が新作であれオールドであれ、全く関係ありません。
 新作が嫌いならその根拠を科学的に語るべきです。
少なくても人間の聴覚で判別できるものではありません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓と右手の一体化

 映像はチャイコフスキー作曲の歌曲「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏したデュオリサイタル15ムジカーザでの演奏です。
 以前のブログで紹介した弓の持ち方を変えるというテーマに関連する話題です。
 恩師久保田良作先生に教えて頂いた右手の「形=型」は、一言で言えば右手の甲(こう)を平らにするものです。もう少し詳しく言えば、右手の掌に一番近い関節(拳の骨)が出っ張らないように持つイメージです。言葉にするのは難しいですが(笑)机の上に右手の甲を下にして=手のひらを上に向けて置いてみます。
その状態で右手中指・薬指・小指を「指先からゆっくり上に向ける」曲げ方をします。その時に指の第2関節を机から離さないように曲げるのがポイントです。
その状態で親指の指先=爪の先端を、中指の指先=肉球部分に触れるように親指を移動します。必然的に親指と掌の隙間は、ほとんどなくなります。その状態のまま掌が下になるように180度回転させます。人差し指は、ほぼまっすぐに伸びた状態で、中指・薬指・小指の指先が机にあたるはずです。
 この状態を弓先でも維持することを久保田先生は繰り返し言われ、私はその指示に従って約50年間継続してきました。生徒さんの中でも数名に、この持ち方を伝承してきました。多くの生徒さんはこの「形=型」になる以前に、それ以外の修得するべき腕の動きができなくなり、強いて教えることはしてきませんでした。
 この持ち方の良い一面は、弓のどの部分でも一定の圧力を弓の毛に加えやすいと言う利点と、不用意な「指弓」を使わずに腕の柔らかさを使って、ダウンからアップ・アップからダウンの際の衝撃を吸収する習慣が身に付くことです。
 簡単に言ってしまえば「指のクッションではなく腕と肩のクッションを使う」奏法です。
 ただ物理的に右手首を左右に曲げる運動が必要になるという難点もあります。
手首は掌と手の甲の方向=上下方向に曲げる運動可動域が大きく。その運動対して90度方向=左右に動かす可動域は狭いのが普通です。この運動を腕を立てて掌を前にして行うと、一昔前に流行した「まこさまのおてふり」ができますのでお試しください(笑)
 弓先に行った時は前腕の骨に対して左側に手首を曲げます。弓元ではまず右手肘を上方に挙げることで弦と弓の毛の「直角」を維持します。それでも右手ー弓元が前方に出すぎる場合=弦と弓が直角にならない場合は、弓先の場合とは逆に手首を右方向に曲げることで直角を維持します。

かなり難しいことを書きましたが(笑)この奏法で必要になる作用方向への手首の柔軟性と、右撃て全体で衝撃を吸収する弓の返しが年齢と共に苦しくなってきました。今思えば恩師もまだ若かった!のです。いえいえ、久保田先生は健康をとても大切にされておられ、特に全身運動の重要性を説いておられましたので、年齢よりも若い肉体を維持されていたことは事実です。見習うべきですね(涙)
 とは言えやはり弓元での運動が苦しくなってきたので、手の甲を平らにする持ち方から掌全体を「楕円」にする形に変えました。円ではなく楕円です。
円のイメージはピンポン玉を掌で包み込む形です。つまり右手5本の指で球体を作る形です。弓を「つまんで持つ」形になりますが、私はこの持ち方には様々な違和感を感じています。
 最も大きな問題は、親指と人差し指のてこの原理による、弓の毛と弦の接点への圧力をかける「向き」がずれてしまう事です。演奏中の理想的な圧力の方向は、表板方向に向かう力が9割以上で、手前方向への力は1割以下だと考えています。弓をつまんで持てば圧力は?手前方向に多くかかります。下向きの力を得るためには弓を強く「挟む」事が必要になります。この力は本来不要な力です。
 楕円にすることで、下向きの力を保ったまま(多少はロスしますが)指の柔軟性を作り、腕の負担を下げられることになります。

 実際に持ち方を変えてみて感じたこと。
弓の圧力方向と下限をコントロールしやすくなりました。
出したい音色によって、数ミリ単位で弓を置く場所を変えています。その際に手前に引き寄せる運動と緩める運動で、音色の変化量が増えました。
 さらにこのことで客席に響く音量も変わりました。言い換えれば「楽に音が出せるようになった」のかもしれません。
 まだまだ改善途上です。さらに研究して自分の身体に会った演奏方法を模索したいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラ指揮者と打楽器奏者の信頼関係

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会で演奏した「エビータ」メドレー。メリオケでは今回が初めての演奏です。その昔(笑)教員時代にみなとみらいホールで指揮をして以来の指揮です。
 私が思う指揮者とオーケストラメンバーとの演奏における信頼関係の要=かなめは、打楽器奏者を信頼できるか否か?以外にないと思っています。
 もちろん、すべての演奏メンバーとの信頼関係が重要ですが、多くの楽器の中で打楽器はオーケストラ演奏の「核=コア」だと考えています。
 打楽器演奏を学んだわけでもないのに偉そうに!(笑)
どんな音楽のジャンルでも、どんな演奏形態でも、音楽の基本は?リズムだと思っています。旋律と和声の美しさや個性を際立たせるのもリズムがあってのことです。
 そもそも「リズム」ってなんでしょうね?
ウィキで調べてみると…
古代ギリシャに生まれた概念で、ῥυθμός – rhythmos(リュトモス)を語源とする。リュトモスは古代ギリシャ語では物の姿、形を示すのに一般的に用いられた語で、たとえば「αという文字とβという文字ではリュトモス(形)が違う」というように用いられた。やがて、音楽におけるひとつのまとまりの形をリュトモスと言うようになった[
 だそうです。なるほど~
物の姿や形を表すのが「リズム」の語源だと解釈すると音楽の形を表すのが「リズム」だと置き換えると納得できます。

 二人以上の演奏者でひとつの音楽を演奏する時に「時を共感する」ことが何よりも大切だと思っています。リズムは目に見えない「時の流れ」を表す言葉でもあります。一般に「時」を表す単位は?
秒・分・時・日・週・月・年
音楽の中で使う「時」を表す単位は?
四分音符・二分音符など音符と休符の種類。
小節・楽章の単位も演奏時間の長さ。
テンポの指定 ♩=62など。
テンポの変化を指示するイタリア語。
様々ですが重要なことは、音楽は「一つの音を演奏する時間の長さ」と「音を出さない時間の長さ」の組み合わせで表現されていることです。
 メトロノームは「拍の始まる瞬間」に音を出す道具です。メトロノームの音は拍の長さを表していません。つまり拍と拍の「間隔=時間の距離」を表す道具なのです。本来の拍の長さを表すには一拍分の時間、音だ出し続けることが必要です。ずーっと音が鳴り続けるメトロノームってうるさいですよね?(笑)
だから最初だけ音を出すようにしたんですね。
 打楽器は?様々なオーケストラ楽器の中でも「瞬間=点」で音を出す楽器だと言えます。残響はありますが弦楽器や管楽器のように音を伸ばしながら強弱をつけることは出来ません。ピアノもその意味では打楽器の仲間になります。
 一曲の演奏=音楽の時間の中で、点を強く表す打楽器は音楽の流れを支配する楽器でもあります。どんなに弦楽器や管楽器が強いアタックで音の出だしを強調しても、打楽器を叩いて音が出る瞬間のエネルギーには遠く及びません。

 指揮者として音楽の流れの速さや変化を決める時に、打楽器奏者の出す「音」が指揮者の糸と違えば致命的だと思っています。私が思う「音楽の流れの速さ」を感じ取ってくれる打楽器う奏者がいることで、指揮者の精神的な負担と点を強調する動きを減らすことで肉体的な負担も圧倒的に軽くなります。
 アマチュアオーケストラだからこそ、打楽器奏者と指揮者の信頼関係はなによりも重要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習できない期間(ブランク)なんて怖くない!

 今回のテーマは「ブランク」について。
多くの生徒さんが「忙しくてあまり練習できませんでした」とおっしゃいます。
中には生徒さんが幼いころ習っていて、何年・十何年・何十年ぶりでレッスンを再開されるケースも珍しくありません。その「楽器を練習していなった期間」をブランクと呼びます。ブランクをあたかも「悪いこと」のように語る人がいますが、プロであれアマチュアであれ「ブランク」はあって当たり前だと思っています。むしろあった方が良いとさえ思っています。

 上の映像は15年前のデュオリサイタル「1」で演奏したドボルザークのロマンティックピースです。決して上手なヴァイオリンではありませんが、このリサイタルを開くまでの私の「ブランク」をご紹介することでブランク恐怖症(笑)を克服して明るく練習できることに繋がれば…と思います。

 音楽大学を卒業するまで、師匠に言われ続けていた言葉「一日練習を休むと元の状態に戻るまで二日間かかる。二日休めば四日。わかった?」なるほど!と素直に受け入れ、今でも間違ったお話ではないと思っています。
 問題は元の状態って何?と言うことと、練習を休むことへの背徳感や恐怖心、延いては無理をして義務的に練習することで悪影響をもたらすことにもなります。
 教員生活20年間…私の場合25歳の年に普通科中学・高校の教員となりました。
それまで約20年間、ヴァイオリンを「ほぼ」毎日、練習していましたが教員になったその日からヴァイオリンケースの蓋を開けることは「一年に数回」もしかすると一年間一度も自分のヴァイオリンに触れなかったこともあったかもしれません。ヴァイオリンが嫌になったわけではなく、現実的にその時間がなかったのです。まさしく「20年間のブランク」ですよね。退職時のパワハラで精神を患い、処方されたお薬で命をつなぎながらレッスンをする日が数年間続きました。
 生徒さんに朝10時から夜9時まで、30分刻みで定休日も休憩もなくレッスンをし続けられたのは恐らく間違いなく数々の「お薬」で眠気や疲労感を感じなくなっていたからだと思います。今考えても恐ろしい経験でしたが当時は「普通」に感じていました。ヴァイオリンを教えながら自分が練習することは、それまでの20年間とほとんど変わりませんでした。
 練習する目的を失った日々でした。
その長いブランクから浩子さんとリサイタル…考えられないギャップです(笑)
 リサイタルで演奏する曲を二人で考え、練習をスタートし約1年間をかけて第一回デュオリサイタルを開きました。その時の演奏のひとつが上のロマンティックピースです

 ブランクを「休憩」あるいは「睡眠」と置き換えて考えるべきだと思います。人間は睡眠せずに起き続けると「死」に至ります。最も残酷な拷問方法のひとつです。つまり「休むこと」は人間にとって不可欠な事なのです。
 練習を休むと「へたになる」ことはあり得ないのです。なぜなら「休む」という言葉は、休む前にしていたことを「新しく始める」時に使う言葉だからです。「やめる」とは全く意味が違うのです。もっと言えば休みが死ぬまで続いた場合に「やめた」と言い切れるでしょうか?練習したくても、舞台に上がりたくても「できない」状態になり、その思いを持ったままいのちの火が消えた人…たくさんいますよね?落語家・俳優・音楽家など職業は様々ですが最後の最後まで、本人が思っていた気持ちを「現実にはやめたんだ」と表現するのは人として間違っています。休んでいただけ…なのです。

 ブランクが終わって練習や演奏を再開したときに「リハビリ」から始めるのが一般的です。では楽器演奏の「リハビリ」ってなんでしょう?
 実は私たちが毎日、最初に練習する内容こそが「前日からのリハビリ」なのです。人間は「忘れる生き物」です。生まれてから今までに「見たもの」「聴いたこと」「感じたこと」をすべて記憶することは不可能です。忘れるように出来ています。
 楽器を演奏することと曲を演奏することには「記憶する」と言う共通点があります。「暗譜しなければ記憶はしない」と思うかもしれませんね。初見で演奏する時に記憶していないじゃないか!って?それ勘違いです(笑)
 初見の楽譜を見ながら演奏する時に演奏しながら、次に続けて演奏する音符を「記憶」しつづけながら演奏しています。原稿を読みながらすスピーチする場合も同じです。記憶するのが1行でも原稿すべてでも覚えると言う行為では同じです、長期間記憶する場合と短時間の場合は、使う脳の部分が違う事も科学的に証明されています。
 楽器の音を出す方法は、長期間記憶する脳に記憶されます。
曲=楽譜を演奏する場合の脳は「短時間記憶」が働きますが、何度も記憶を繰り返すうちに「長期間記憶脳」にも記憶が残ります。

 ブランクを開けることの「意義」「利点」は他にもあります。
大きな利点は「自分の演奏する音」つまり聴こえている音を、ブランクの間にリセット出来ることです。「もったいない!」ですか?(笑)
ブランク明けには、自分の音を客観的・冷静に聴くことができます。
 さらにブランクを挟むと、それまで記憶していた、1曲で演奏する一音ずつの演奏方法を再確認できることです。「それこそ!もったいない」と思いがちですが、実際には記憶が薄い「場所」や「身体の使い方」を何度も再確認することは、練習する回数と時間に関わる大切なことです。

 練習できない期間を悪い方に考えないことが大切です。
確かに練習には多くの時間が必要です。ただ楽器に向かって音を出すことだけが練習ではないのです。身体と脳を休めることも練習の一部です。それができなければ、いずれ筋肉が疲労で疲れを感じなくなる現象「マラソンハイ」の状態になり最悪の場合は身体を壊します。脳を休めないと、自分の演奏を客観的に聴いたり、運動が無意識になって再生性が極端に下がる結果になります。同じ場所を何度も練習するうちに「出来るように案った!」と喜んでいたのに、一休みしたり翌日にはまた!ひけなくなっているのは、これが原因の場合がほとんどです。
 ゆったりした気持ちで楽器の演奏を楽しみましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アマチュアオーケストラの理想と現実

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会より、チャイコフスキー作曲ピアノコンチェルト第1番より第1楽章。ソリストは高校時代・大学時代の同期で現在フェリス女学院大学で教授を務めている落合敦氏。
 昨年夏の定期演奏会後に、この曲のソリストを引き受けてくれない?と相談したところ快諾してくれた恩人でもあります。
 言うまでもなく、ピアニストとしてこの曲が体力的にも精神的にも難易度の高い曲であり、オーケストラとのアンサンブルも極めて高度でち密なものが求められる曲です。多くのクラシックファンにとってもアマチュアピアニストにとっても、あまりにも有名すぎる子の曲をメリーオーケストラが演奏してしまいました(笑)

 さて今回のテーマは、アマチュアオーケストラが演奏会に臨むまでの練習や演奏会で「理想」とされる事と「現実」のギャップを考えるものです。
 アマチュアオーケストラの演奏技術レベルは様々です。それこそがアマチュアであることの証でもあります。どんなに簡単そうな曲でもお客様に満足してもらえる演奏をするために、可能な限り練習するのは当然のことです。
 ましてやこのコンチェルトやボレロを演奏するとなると、演奏者に求められる技術は相当に高いものになります。演奏したことのある人にしか理解できない「難しさ」でもあります。少なくともオーケストラで演奏会に参加したことのある人であれば、どんなレベルの演奏に対しても「下手だ」とは口にしません。当たり前ですね(笑)例えるなら、箱根の山を走って登ったことのない人がお正月の箱根駅伝を走る選手を「遅い!なんだこいつ!」と言えるはずがないのと同じです。

 オーケストラの演奏会までに必要な「時間」「費用」「労力」があります。
それがプロであれ、アマチュアであれ最低限必要なものがあり、逆に言えば現実的にできる範囲でしかオーケストラの演奏会は開けないのです。
 オーケストラで演奏しようとする曲に必要な「楽器ごとの演奏者の数」は違います。その人員を確保するために人件費がかかる場合がほとんどです。アマチュアオーケストラの場合はそのオーケストラメンバーの中に必要な楽器の演奏者がいないことが多くあります。ファゴット演奏メンバーがいなかったり、ヴィオラ奏者が一人しかいなかったりと様々です。足りない楽器の演奏者を外部から呼び演奏してもらう場合には謝礼を支払うのが通常です。それはプロのオーケストラ演奏会でもおこなわれています。「エキストラ」と言われる人たちの存在です。
 エキストラを練習時に何回呼べるのか?は人件費を払う資金力で決まります。
二日呼べば二日分の謝礼が必要になります。当然ですよね。
 ソリストを外部の人にお願いする場合も同様です。何回リハーサルを行えるか?はほとんどの場合はお金の問題になります。
 アマチュアオーケストラの運営費用はメンバーが負担するのが通常です。
演奏会時のプログラムに広告を掲載し広告料をもらう…それも一つの方法ですがこの不景気な現代にそんな余裕のあるお店や企業は少なくなりました。
 入場料収入を運営に充てるアマチュアオーケストラもあります。アマチュアオーケストラだから入場料を取ってはいけない!なんて大嘘ですよ(笑)むしろ頂けるならそれが理想ですが、現実には入場料が500円でも!来場者は減ります。
以前にも書きましたがメリーオーケストラは入場無料で演奏会を開いています。
広告収入はNPO法人の定款に書かれていない事業収入になるため基本的には受け取れません。

 半年に一回、定期演奏会を開いています。毎月1日だけ公開練習を実施しています。エキストラ演奏者に参加してもらえるのは演奏会当日、午前中の舞台リハーサルと演奏会の本番だけです。ソリストと一緒にリハーサルを行えるのは本番当日以外、1回が限界です。常にその状況です。練習が少なすぎる!
 会員は全員がアマチュア演奏者です。月に一度の公開練習時に指導者を数人呼ぶのが資金的に限界です。練習会場費、演奏会の会場費や舞台上で使用するすべての機器備品に係る設備使用料もあります。それらの費用を賛助会員の方々からの賛助会費(年会費2,000円)と会員たちの月々の会費3,000円、演奏会参加費を会員たちがさらに拠出して運営しています。それが現実です。
 もっと何回もソリストを呼んでリハーサルをすれば、オーケストラとずれることも避けられます。エキストラ演奏者を何回も呼べれば演奏のクオリティが格段に上がることは誰でも知っています。それは「理想」です。現実の世界で行われる演奏会なのです。出来る範囲で出来ることをするのが現実です。
 メリーオーケストラがいつまで?活動できるのかは誰にも分りません。
今、出来ることを頑張っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供も高齢者も初心者もプロも…みんなで作るオーケストラ

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会のエンドロール。
出演者をテロップで流しました。73名の演奏者。
小学生もいれば80代の高齢者も。初心者がいると思えばプロオーケストラで主席を担当していた人も。みんなが垣根を越えれば、音楽の仲間です、
 肩書やプライド、経験より大切なことがあります。
音楽が好き・演奏が好き
たったそれだけの理由で充分なんです。
うまくなければ入れないアマチュアオーケストラってなに?
年齢制限があるアマチュアオーケストラってなに?
初心者が肩を狭めるアマチュアオーケストラってなに?
 そんな疑問から自分で立ち上げたメリーオーケストラです。
学校の部活オーケストラは常に人が入れ替わります。
多くの市民オーケストラは演奏レベルの低い人を拒みます。
プロの演奏家はギャランティをもらって帰るだけのアマチュアオーケストラが当たり前の中で、プロの演奏家たちが、子供たちを暖かく育てるアマチュアオーケストラが欲し型のです。
聴いてくださる方が喜んで聴いてくれるプログラム。
普段、クラシックを全く聞かない人でも楽しめるプログラム。
どんなジャンルの音楽にも、分け隔てなく真剣に練習する姿勢。
様々な挑戦をし続けて22年間、年に2回の演奏会を同じホールで開き続けることの難しさと意義。
Youtubeにアップしたメリオケの演奏に「へたくそ」とコメントを書き込む人もいます。当然「虫」(笑)あ・無視か!構って欲しい寂しい人や、人の嫌がることをして自己主張する頭の弱い人たちは、いつの時代にも世界中にいるものです。そんな人たちがメリオケの素晴らしさに気付くことができたら、きっと日本はもっともっと良い国になると思います。
 下手くそ?じょうとう!(笑)やれるもんなら、やってみなっての!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ひとつの夢を叶えた37年目のボレロ

 NPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会が無事に終わりました。
演奏者総数73名、スタッフ11名。そして!来場者450名!!
コロナの影響で落ち込んだ来場者数が続いていました。98名と言うメリーオーケストラ創設以来最小人数を経験したのも、記憶に新しい数年前の事です。
 昨年の夏(8月)におこなった第41回定期演奏会には210名ほどの来場者が戻ってきてくれました。それまで毎回300~400名の来場者だった頃を思いながら、少しずつ明るい兆しを感じていた矢先に450名のお客様が足を運んでくださることを予想できませんでした。
 杜のホールはしもとの定員は520名なので、体感的には「満席」の状態でした。受付を手伝ってくれているスタッフと、主謝意者控室から無線で「開場しました!」「了解です!」のやりとりをいつものように交わし、約15分後に「プログラムが足りません!」との緊急事態。まさか?何かの勘違いかな?
 過去に記憶のない速度でお客様が入場され、当初1階席だけで十分かと高をくくっていた私。慌ただしく2階席を開放し開演直前には416名。その後も増え続け最終的に450名のカウントになりました。

 私がオーケストラの育成に関わり始めたのは、学生の頃でした。
もちろん学生なので指導と言うより「お手伝い」でしかありませんでしたが、各地のアマチュアオーケストラに参加させていただくうちに、アンサンブルの楽しさと運営の難しを体で感じていました。
 大学卒業後に新設された中・高等学校にただ一人の音楽教諭として奉職しました。男子校で中学生高校生が1学園ずつで始まった学校。そこにオーケストラを立ち上げる「夢」を持ちました。授業も会議も初めての経験。それでもなぜか?男子生徒11名と始めたオーケストラ!言うまでもなく(笑)全員が初心者。不思議なことに何も違和感を感じず、焦りもなく、明るき考えていました。
 3年後に6学年の男子生徒が揃った時に、総勢60名を超える立派なオーケストラが出来ていました。まるでマジックですよね(笑)
 4年目に突然「男女共学」になり、中学1年に初めての女子生徒が。
それまで廊下で素っ裸同然で転がって過ごしていた男子生徒たちは?
身の置き場を無くし、オーケストラに20名以上入ってきた中1女子生徒たちがキャピキャピ(笑)と遊び、編み物にいそしみ、読書にふける光景。
 硬派一色だったオーケストラの部員たちは扱いがわからず(笑)
それでも開校5年目に第1回定期う演奏会を開催。以後管理職の悪質な嫌がらせを受けながら、全校生徒数1200名の学校に150名のオーケストラ。8~9人に一人はオーケストラメンバー。みなとみらいホールで演奏会を開きましたが…
「ボレロ」にだけは手が出せませんでした。自分の中では「憧れ」でもあり、「叶わぬ夢」でもありました。
 なぜ?(笑)

 私はモーリス・ラヴェルを「オーケストレーションの鬼才」だと思っています。その象徴たる作品がボレロなのだと感じています。
一曲を通してたった二つの旋律と最後に一度だけ出てくる旋律だけのシンプルさ。さらに二回同じ組み合わせを使わないち密さ。最後に向かって常にクレッシェンドする聴感的なドラマチックな構成と言い、聴く人も弾く人も音楽を楽しめます。
 多くの楽器…サキソフォン2種類・オーボエダモーレ・Esクラリネット・チェレスタ・ハープ・コントラファゴット・バスクラリネット・銅鑼などをすべてそろえて演奏することは現実的に不可能です。何よりも演奏できる人をそろえることが一番むずかいいのです。
 今回の演奏会で私のアマチュアオーケストラ指導人生、25歳から62歳になる今年までの37年間をかけて成し遂げられた夢実現でもありました。
 演奏のレベルはアマチュアオーケストラとしての自己満足に足りるレベルだと思います。何よりもアマチュアとプロが一緒に演奏するオーケストラであり、子供も初心者も参加できるオーケストラは恐らく世界中を見回しても数多くないはずです。その活動が22年間や図まずに毎年2回の定期演奏会を実施し続けて来られたことも、当初私が抱いていた小さな夢…数人の子供たちとプロが一緒に演奏できるオーケストラを作りたいという夢が、大きな花になった気がしています。
 ボレロを演奏で着たら、次は?(笑)
きっとこれからも何か夢を探して。音楽を広めていくんだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏のスキルと事務仕事のスキル

 明日に迫ったNPO法人メリーオーケストラ第42回定期演奏会。
もう20年以上、このオーケストラを創り育てることに関わってきました。
演奏をするためのスキルを身に着ける努力は、自分の為にやっていることなので自分なりに納得も行きます。
 他方で「組織」を動かしていく仕事は、演奏以上に多くのスキルを求められます。オーケストラに限ったことではなく一般の会社や学校、団体でも同じことが言えます。組織を動かす…一言で言えば「自分以外の人を動かす」ことです。
 メリーオーケストラの場合、会員約30名の居住地域も年齢も様々です。
演奏の練習や演奏会自体は会員たちが楽しめることが何よりも大切です。
活動を維持継続するための仕事は決して「裏方」ではありません。
演奏は表に出る氷山の一角です。通常なら組織の人たちが手分けをして準備などの活動を日々行うものですが、当オーケストラの場合は、そういかない現実があります。
・ホールの利用申請
・楽譜の準備
・賛助出演者の手配
・ホールとの打ち合わせ
・タイムテーブルや舞台配置図、席順の決定。
・当日のリハーサルまでに済ませる作業の把握と指示伝達。
・ポスターやプログラムの作成と印刷
・交通費の準備
・もろもろもろもろ(笑)
それらを「誰か」にお願いすれば?結局は確認作業のために統括する人間がさらに忙しくなる結果は目に見えています。
 現実問としてメリーオーケストラは私と浩子さんの「事務作業」で成り立っているオーケストラです。一緒に作業をする人も結局は「お仕事」としてお願いする社員しかいません。お金の問題は大きいことは事実ですが、何よりもこれらの作業の重要性をみんなが理解できないことです。
 学校で20年間、部活動オーケストラを運営し指導してきた時には、ある程度を他の教員である「顧問」に振り分けることもできました。子供たちに作業もさせられました。
 プロのオーケストラの場合や学校などの場合、事務職員がいます。その中に責任者もいます。メリーオーケストラには?
 指揮をする・演奏をする
そこまでに誰かのスキルと時間と膨大なエネルギーが必要です。
う~ん。何とも悩ましい(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽仲間との時間

 映像はNPO法人メリーオーケストラ定期演奏会での「楽器紹介コーナー」
ドボルザークの交響曲第9番を「ネタ」にして、普段オーケストラのコンサートに関心のないお客様にも楽しんで聴いてもらえるように考えたコーナー、
 無茶ぶりにも応えてくれる音楽仲間、アマチュアならいざ知らずプロの演奏家も協力してくれるのが本当に幸せです。小難しい(笑)講釈より楽しいかな?
 こんな素敵な音楽仲間と一緒に舞台で音楽を演奏し、聴いてくれる方に楽しんでもらうことがこのオーケストラを作った理由の一つです。演奏技術をうんぬんするのはプロのオーケストラだけで十分!そもそも入場料無料のコンサート。
 今回で42回目の定期演奏会が日曜日に実施されます。
高校時代の同期ピアニスト、落合敦氏をソリストに迎えてチャイコフスキーピアノコンチェルト第1番 第1楽章で始まり、エビータのメドレー、ラデツキー行進曲。幼稚園の頃からメリオケで演奏してきた兄弟をヴァイオリンとヴィオラのソリストにしたモーツァルトのシンフォニアコンチェルタンテ第2楽章、懐かしいテレビ番組の北の国から。そしてラヴェルのボレロ。
「笑いあり涙あり」とはよく言われますが
「ミュージカルありテレビドラマありコンチェルトありボレロあり」
これを「雑多」とか「邪道」と言うならどーぞ(笑)
私の中ではリサイタルもメリオケも「大人が食べても美味しいお子様ランチ」なのです。美味しいものを、ちょっとずつ食べる「快感」は高級レストランでは味わえません。
 20年以上続けてきたこの活動を継続するために、一人でも多くの方に賛助会員になって支援をお願いします!詳しくは、メリーオーケストラホームページで。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました!

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介

なぜ?練習するのか?

 映像はアンコールで演奏したシューベルト作曲の「セレナーデ」
今まで二人でたくさんの小品を演奏してきた中で実は今回が初めての演奏でした。なんだか不思議(笑)こんなにみんなの知っている曲を忘れていたなんて!

 さて今回のテーマは「練習の目的」を考えるものです。
「うまくなる為以外になにがあるよ!」と突っ込まれそうですが、
うまくなってどうしたいの?どうしてうまくなりたいの?と言う本質です。
個人差の大きな「考え方の違い」はあります。ただ趣味であれ職業であれ。音楽を演奏することは、人間にだけ与えられた能力であり、何よりも自由に音楽を演奏できることは多くの人にとって「楽しみ」なのです。競技スポーツのように、誰かと競い合って楽しむ場合、当たり前ですが相手の人間が必要です。
 スポーツでも芸術でも「他人からの評価」で優劣をつける場合があります。
自己評価ではなく他人の感覚・感性・価値観で評価されることを望む人と嫌う人がいて当たり前です。それも評価される人の「価値観」の違いです。
 私は音楽に優劣や序列をつけることについて否定的な考えの人間です。
人それぞれに好きな演奏や憧れる演奏者がいて当たり前です。食べ物に好みがあり、ファッションにも好みがありますよね?
「多様性」と言う言葉をここ数年よく耳にします。人それぞれに、生き物すべてに個体差があります。それこそが本来の多様性…言い換えれば生物が存在する意味でもあります。多様性を認めない人や否定する人は、そもそもが自分の考え方祖物が「多様性の一部」だという事を理解できない知能の低い人です。

 さてさて、練習してうまくなったら?何が楽しい・嬉しいのでしょうか?
「競争に勝てたから」と言う人もいますが、私はちょっと違う気がします。
「誰かに喜んでもらえるから」それも十分に考えられる要素ですが他人の評価「だけ」を期待するのも練習の目的としては違う気がします。
 私の持論は「自己満足のため」に練習し、「自己評価」が高くなることが嬉しいのだと考えています。つまり練習は自分のためにだけするもので、練習してうまくなったと「思えれば良い」と思うのです。それだけ?(笑)はい、それだけです。
 どんな練習をしても良いのです。自分が満足できる練習こそが練習です。
もちろん!誰かに「じょうずになったね!」と褒められるのは、どんな人でも嬉しいことです。自分ではうまくなった気がしなくても、そういわれることもあります。それはそれで大切な事なのです。自分が自分に問いただすための一つの「違った基準」を聴くことはとても大切なことだからです。

 今回のリサイタルで、弓の持ち方を根本から変えました。右腕の使い方は以前に師匠から習った動きに戻しました。ヴィブラートも腕を使う方法を使わず、手首のヴィブラートに絞りました。理由は様々あります。ただすべては「自分の思う音が出したい」という一心です。自分で良いと思える音が出れば満足です。
 自分の基準を自分にだけ当てはめること。他人は他人なのです(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

初めて聴く人にも楽しめる演奏を

 映像はデュオリサイタル15ムジカーザでの一コマです。
アルヴォ・ペルト作曲の「シュピーゲルインシュピーゲル」日本語訳で「鏡の中の鏡」をヴィオラで演奏する前のMC=トークです。思い付きですべてアドリブなのでカミカミ(笑)なのはご愛敬。演奏する曲に関心を持ってもらう事も、演奏する側の役割だと思っています。そして…

 こちらが演奏シーンです。どんな音楽でも、どんな人でも「初めて聴く音楽」があります。初めて出会う音楽を「紹介する」役割です。
自分の家族やパートナ^を、誰かに初めて紹介するのと同じです、
身近に感じてもらいたい…それが普通の紹介の仕方だと思います。
 実はこのMCの前にも(笑)「燃えよ!ドラゴン」のラストシーンを話題にしました。映画を見たことのある方ならピン!とくるかな?(笑)鏡張りの部屋で悪党のドンとブルース・リーとの対決シーン!およそクラシックコンサートのソリストが話す内容ではない?でも知っている人にはイメージが浮かんだはずです(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

15年目の…

 無事に?やっと?(笑)デュオリサイタル15を終えることができました。
何よりも浩子さんに感謝です、「夫婦なんだから」とか逆yに「夫婦なのに」と言う考え方もあるかも知れませんが、私自身の中で「伴侶」とでも言う言葉で表される人に支えられた15年間です。音楽を一緒に演奏する…それだけの存在なら誰とでも演奏は可能です。ただどんな状況でもひとつの事を続けていくために不可欠なのは信頼できる人との関りだと思っています。
 今回の演奏会で得られた多くの経験は自分、自身の今まで感じてきた多くの出来事をすべて…記憶から来てたものも含めて経験してきたことの集大成だと思います。
 演奏自体は満足のいくものではありません。それはきっと、これからも変わりません。ただ、今までのリサイタルで感じなかった「やればできる」と言う明日への希望を強く感じました。未熟な自分の演奏技術のひとつひとつを、変えていく勇気を得た気がします。「これでいい」と思っていた道の進み方を「これもいい」と思える新しい道を進むことでもありました。
 生徒さんに対して少しでも「道案内」ができる指導者になりたいと、改めて感じたリサイタルでした。
 演奏会後に多くの方に書いていただいたメッセージの中に、私たちの演奏でほんの少しでも癒された方がいらっしゃったこと。暖かい言葉の数々が何よりもご褒美でした。
 30年前に高校生だった生徒さんお二人が「覚えてますか?」と演奏会後に話しかけてくれたことも、時の流れと音楽の持つ不思議な力を感じさせてくれました。
 学生時代同門だった先輩ヴァイオリニストと演奏会後に「弓の持ち方」「ヴィブラート」「指が攣る」話で盛り上がったこと。
 すべてが新鮮な時間でした。これから何年?このリサイタルができるのか誰にもわかりません。信頼できるパートナーと一緒に出来ることを出来る限り続けます。
 応援してくださったすべての肩に、心から感謝を申し上げます。
ありがとうございました!そして、これからも見捨てずに(笑)お願いします!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

本番前日だけどね

 はい。明日が本番のヴァイオリニスト・ヴィオリストです(笑)
右手の人差し指を弓に当てる位置を変えます。
本番、明日だけど。
ヴァイオリンを久保田良作先生に師事して以来、約50年間変えて来なかったことを本番前に替えます。
 リスクがゼロではないのは承知の上です。それでも!弾きながら気になったことなので、思い切って。
 細かく言うと?今まで右手人差し指の「第2関節」に弓を当てていました。
指には明らかにその部分に出っ張り=弓だこがありますが、それを約5ミリから1センチ指先よりに弓を当てる変更です。
 今までの位置は右手人差し指の中で、固く強い場所です。移動した場所は。そこよりも少し柔らかい場所になります。
大きな変化は「弓と掌の角度」が変わることと「人差し指=弓の毛への圧力のかけ方が弱くなる」こと。さらに右手親指の曲がり方が少し減ることになります。

 弓先では力=弓への圧力をかけにくくなりますが、弓元では圧力のコントロールが容易になります。先日のブログで書いた「弓元での癖」を矯正する中で試行錯誤した結果にたどり着いた変更です。
 たった1センチの差ですが、掌から弓が遠くなった感覚です。そのことで悪影響が出るのかな?と心配しながら試していますが今のところ、良い影響だけを感じています。写真はデュオリサイタル15もみじホール城山での私の写真と、恐れ多くもミシェル・オークレール女史の写真。どちらも映像から切り抜いたためブレブレですが(笑)自分にしか感じない「大きな変化」です。
 吉と出ようが凶と出ようが、これも修行です!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

一か月の間に進化・成長すること

 映像はデュオリサイタル15もみじホール城山での演奏です。昨年12月18日(日)に演奏したプログラムを今年1月7日(土)に代々木上原ムジカーザで演奏します。会場が違い使用するピアノも全く違います。
 たった20日ほどの愛第二何が変わるのか?
 同じなのは?演奏者とプログラムとヴァイオリン・ヴィオラ。
で?何が変わるのでしょうか?(笑)答え「演奏の内容が全く違います」
 そのことを「同じ演奏をする技術がない」と思われる方もいるかも知れません。そのことに敢えて反論はしませんが、私たちは常に自分たちの演奏を成長させたいと思っています。どんなに短い期間であっても、成長できることもあると信じています。まったく同じ演奏をすることに「意義」や「技術の高さ」を感じる人もいて当然です。ただ何となく「前と違う事をやる」のは無意味だと思っています。

 過去のリサイタルで演奏したことのある曲もあれば、今回のリサイタルで初めて取り組んだ曲もあります。どちらにしても、自分の演奏を少しでも満足できるものに近付けたいと言う気持ちは変わりません。
 たとえばレッスンに通う生徒の立場でも、次のレッスンまでに少しでも上達したいと願って練習するわけです。日々の練習がすぐに結果を出せるものではありませんが、紙一枚の薄さでも成長したいから練習するのはアマチュアもプロも同じだと思います。自分が演奏した音と映像を何度となく聞き返し、みなして気付いた課題は解決したいと感じるのは自然な気持ちです。「悪あがき」でも足掻かないより前に進める気がします。 

 もとより技術の足りない自分が人前で演奏すること自体、おこがましいことです。そんな演奏を何度も聴いてくださる方に、少しでも満足してもらえる演奏を目指します。あと一日あります。筋肉を休めながら適度な疲労感を維持しながら、演奏会に臨みたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術の継承

 映像は1924年、パリ生まれのヴァイオリニストでパリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリに師事し、1943年、ロン=ティボー国際コンクールで優勝し、コンセルバトワールで長年ヴァイオリンを指導した「Michele Auclair~ミシェル・」オークレール」女史の演奏動画。
 学生時代、同門の優秀なヴァイオリン奏者たちが久保田先生の薦めて留学し師事した指導者でもあります。不出来の私にはそんなお話は一度もなく(笑)指をくわえて眺めていたのを覚えています。

 こちらはシャンドール・ベーグ氏の二重奏演奏動画です。ベーグ氏の公開レッスンも印象的でした。
 桐朋でヴァイオリニストの公開レッスンが頻繁に行われていました。
オークレール、ベーグなど偉大な指導者たちのレッスンがあるたびに、久保田門下生からもレッスンんを受けている人が多く、そのレッスンが終わると久保田先生は印象に残った「演奏技術」を他の生徒…私にも伝えてくださいました。


 ヴァイオリンの演奏技術に明確な「流儀」はありません。ただ指導者によって大きく違うのも事実です。それぞれに姿勢・右手(弓の持ち方やボウイング)・左手(親指の位置や指の置き方)などに個性がありました。
 音楽の解釈や細かい奏法を指示する指導者もいれば、生徒の個性を尊重する指導者もおられました。現代のヴァイオリニストたちを見ると。どうも姿勢やボウイングなどに個性が感じられなくなりました。それも時代の流れなのかもしれません。特に右腕・右手の使い方について、指導者の関りを感じられなくなった気がします。ヴァイオリニストが音を出す基本は、弓の使い方に大きなウエイトがあると感じている私にとって、演奏家の個性が薄くなってきた気がしてなりません。
 ヴィブラートの個性も指導者の「歌い方」が無意識のうちに弟子に伝承されるものです。それさえも「速くて鋭いヴィブラートが良い」とも感じられる現代のヴァイオリニストの演奏に、指導者が演奏技法を伝承する意味が薄れていく気がしてなりません。
 演奏家の個性は「基礎」の上に出来上がるものだと思います。ヴァイオリン演奏の基本をどこに置くのか?と言う問題でもあります。ヴァイオリンと言う楽器が300年以上前から変わっていないことを考えると、演奏方法を後継者に継承することも大きな意義があると思うのは老婆心なのかもしれません。
 せめて自分だけでも、師匠から習った多くの事を理解し、実行し、次の世代に継承できればと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

無くて七癖 無意識の修正

 自分の演奏に嫌気がさすお正月を過ごしております。(笑)
右手一生。私の場合、左手は2~3回生まれ変わらないと人並みになりません。
右手の小指。たかが小指。されど小指なのです。
恩師久保田良作先生に、何億回も指摘され続けたのが「右手の形」
特に、親指と小指の使い方。、今自分の演奏を見返すと、元弓で小指が使えていません。その結果がどれだけの悪影響を無意識に与えているか…、恐ろしや久保田先生であります。

 簡単に言ってしまえば、右手の親指・小指・人差し指の三点で弓の傾斜と圧力をコントロールしているわけです。その三点に加えて弓の毛と弦が振れる場所が4点目になります。理科で習った「てこの原理」を思い出しましょう。
支点・力点・作用点
弓の毛と弦が振れている状態、つまり弦に弓の毛を置いている状態の場合には、作用点が弓の毛と弦の接触点。支点が右手親指。そこまでは弓のどの部分でも変わりませんが、弓のバランスの中心点より先を弦に置いた場合には、小指は力の作用をしていません。極論すればなくても演奏は出来ます。
しかし弓の重さの中心より元に弦を当てた場合には、小指の仕事が急激に増えます。弓の傾斜を保つ力・人差し指と共に弦に対して直角方向の力が必要になります。
 特に私の「癖」が最も感じられるのが元弓で弓をアップからダウンに返す瞬間です。この部分では弓の音さのほとんどが、自分から見て左側=弓先方向にあります。最も不安定な場所でもあり同時に、最も弦に圧力をかけやすい場所でもあります。この場所で最大の仕事をするのが「右手の小指」です。」
 弓を元で返す一瞬前に弓先を下方向に下げ=小指側が上がり、弓を返した直後に弓先が上方向に上がる=小指側が下がるという「無意識の運動」
 恐らく学生の頃からこの癖はあったと思われます。ただ昔は映像で確認する方法が学生にはなかったので、本番中の癖までは自分では発見できませんでした。
現代、自分の弓の動きをこうして確認することができる有難さと同時に
「いい加減に直せよ!」とも思うのです。
 1月7日までに修正するべ!やってやる!
再度までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

一年の計は…

 2023年になりました。兎年。私?年ですが(笑)
一年の計は元旦にあり?あるのかな~?今までも元旦に「よし!今年こそはっ!」と誓ったものですが、年末にはそれさえ忘れてたような人生。とほほほ。
 今年の目標!「来年のお正月も平穏に迎えられること」って駄目ですか?
穏やかに一年を暮らせるなら、それが一番の事です。昨年末に「今年の10大ニュースってなんだろうね?」と二人で考えて、10個もないから3大ニュース(笑)
第一位! 浩子さんが電子楽譜「グイド」を使い始めたこと
第二位! お風呂の換気扇が壊れて新しくなった
第三位! 特になし(笑)
その位に穏やかな一年でした。つまらない?いえいえ。これぞ平穏!

 今までの62年間に、やり残してきたことは山ほどあります。
でもそれを悔やんでもいません。受け入れることができる年齢になって、それを共感できるパートナーと暮らせることが一番です。
 今年も一年、屁理屈ブログにお付き合い下さい!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ムジカーザでどこに立つか?

 今回は代々木上原ムジカーザでピアノとヴァイオリン・ヴィオラでリサイタルを開かせて頂いていながら、未だに立ち遺体が決まらない悲しい(笑)お話です。
 最初の動画は5回目のリサイタルの映像。下は14回目(2022年1月)の映像。
ピアニストの右横で少しだけピアニストの背中側になった5回の場合、私は上手側(客席から見て右側)にヴァイオリンのスクロールを向けて立ちます。
ピアニストから私の気配を感じられるぎりぎりの位置です。
 問題は私の視覚障碍「暗所が見えない」ということです。
この立ち位置ならピアニストを視認できるので方向が安定します。
 一方で下の動画のようにピアノの蓋を支える「柱」の辺りに立つとピアニストは視線をあげるだけで私の動きを確認できます。ヴァイオリン・ヴィオラを演奏する私はピアノの音を背中で聴くことができ、客席に届くピアノの音と私の音が「同時に溶けて聴こえる」と言う大きなメリットがあります。が!(笑)
 この位置からだと私の目で視認できるものが「何もない」状態になるので、どちらを向いているのか?わからなくなると言う問題が起こります。さらに、この立ち位置の正面だけでなく左右のすぐ近くにも客席があるため、楽器の向きを変えると極端に聴こえ方が変わってしまうと言うデメリットがあります。

 自分で演奏して自分で聴くことは「分身の述」を身に着けた人か「幽体離脱」ができる人にしか出来ません。演奏しやすさと、お客様への音の届き方。この両立が大切です!さて、どこに立つのでしょうか?当日のお楽しみ!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

テンポで変わること

 今回のテーマ、演奏するテンポ=速度によって聴く人、演奏する人それぞれにどんな違いがあるのか?というお話です。
 映像はメンデルスゾーン作曲の五月のそよ風。
私はヴィオラで演奏してみました。下の映像はヴァイオリンでえんそうされているものです。楽器による違いはありますが音域は全く同じです。

 テンポを速めることで音楽の流れと、2小節や4小節と言ったある程度の長さの「音楽の塊=フレーズ」を感じやすくなります。その一方である瞬間の和声の為害性や意図的に半音下げられた旋律の印象が薄くなりがちです。
 人間の感じる時間の長さは、多くの場合脈拍に関係しています。いわゆる体内時計も人間の心拍数に影響を受けているという学説もあります。人によって歩く速さは様々ですが脈拍の速さは、大きな違いはありません。
 むしろ演奏を聴いて感じる「速さ」よりも、なにが?印象に残るか?という事の方が大切だと思っています。ゆったり演奏することで、音色の美しさや和声の美しさが印象に残ります。前に進む流れを優先すれば、一つ一つの文字ではなく内容=意味を強く感じられます。どちらが良い…というものではありません。
音楽によっても、楽器によっても違ってきます。聴く人の好みもあります。
 どんなテンポで演奏するか?は演奏者の伝えたい内容によって変わるものだと持っています。次回1月に演奏するこの局を、どんな速度で演奏するか…
 ぜひ会場でお楽しみください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と共に生きること

 今回のテーマはすべての音楽愛好者に向けて。
楽器を演奏することも、誰かの演奏を聴くことも「音楽と共に生きる」と言う意味では何も変わりません。音楽が好き…と言う気持ちがある人たちに心から共感します。
 好きな音楽を、好きなときに、好きなように、好きなだけ
これこそが音楽を楽しむことだと思っています。これ以外に音楽を楽しむ方法はありませんよね?楽器を演奏する人が「練習」する場合、必ずしもこれらの「楽しみ」を感じられないことがあります。好きではない練習曲やスケールを練習したり、解放弦やハノンを「好きな音楽」とは誰も思いません。なぜ楽しくもない、好きでもないことを繰り返すのか?答えは簡単「楽しんで演奏できるようになるために」なのです。つまらない・好きではない(笑)練習をすれば必ず音楽を楽しみえるようになるか?と尋ねられたら「そうとは限りません」と正直に答えます。矛盾しているように感じますが、一番大切なのは「楽しんで演奏するために」と言う目的なのです。つまり、ただ練習をしていても目的がなければ、音楽を楽しんで演奏することは出来ないのです。では、つまらない・好きではない練習をすることは無意味なのか?いいえ。つまらないと思ったり、好きではないと思うのは「必要性を感じていない」からなのです。楽しみながら演奏できるようになるまでの「プロセス=道程」を知らないのが初心者です。当たり前ですよね?例えば、ヴァイオリンを練習し始めて1か月の人にとって、経験した練習時間は1か月「分」です。1年練習すれば1年「分」5年練習すれば…楽しんでひけるようになるまでの「期間」に体験したことだけが「知識と技術」なのです。
 どんなに長く演奏を練習しても…私の場合には55年ほど…まだ「道半ば」だと感じています。「55年かかるならやらない」と思わないで(笑)
 演奏して自分が心の底から満足できる演奏には、おそらく誰も到達できません。それでも「楽しい」と思えるのはなぜ?なにが?楽しいのでしょうか?

 演奏する立場で、誰かが聴いて喜んでくれることは、どんなことよりもうれしいことです。自分で「へたくそ」だと思っている演奏でも、聴いてくれた人が「素敵だった」「きれいだった」「昔の風景を思い出した」そんな感想を言ってくれる瞬間に、演奏して良かった。もっと練習してもっとたくさんの人に喜んでもらいたい…と思うのです。それこそが、演奏する楽しみだと思うのです。
 自分の演奏を自分にだけ聴かせる…これは「練習」です。どんなに1曲を通して演奏しても、仮に伴奏があったとしても、聴いてくれる人のいない演奏は「練習」でしかないのです。練習はなんのためにするのか?上にも書いた通り、自分が音楽を楽しむためですよね。その楽しみは?誰かに聴いてもらって、喜んでもらうことです。下手でも良い…とは言っていません。ただ自分が思う「へた」を基準にしてはいけないということなのです。自分より「うまい」と思う人だけが、演奏する楽しみを感じて良い=人前で演奏して良いと、勝手に決めつけているのは自分だけなのです。
 私自身、自分が本当に「へた」だと思い続けています。真実です。
「ならばなぜ?人に自分の演奏を公開するのか?」と思いますよね?
聴いてくれる人の中に、喜んでくれる人が「少しでも」いることを経験で知ったからです。これこそが演奏の経験だと思います。誰もいない部屋やホールで演奏してもそれは「演奏経験」とは言わず「練習経験」なのです。
 純真な子供たちや、見ず知らずの高齢者を前にして演奏させてもらった経験で、本当に喜んでくれている反応を体験しました。1歳児でも認知症の人でも、言葉を失った高齢者でも、自分の好きな音楽を聴くと「無意識に」反応するのです。幼児の場合、首を振って身体全体を動かして喜んだり、じーっと私を見つめ続けたり…。高齢者が音楽を聴きながら涙を流していたり…。
 言葉ではなく人間の一番素直な「感情」が感じられるのが、音楽だと思っています。自分の演奏で、誰かが喜ぶ姿を想像することです。
「私の演奏なんかで喜ぶ人はいない」そう思った人(笑)
それこそが「自己満足」だと思います。
うまくないから人前で演奏しない
もしも、その考えを世界中の人がもってしまったら?
間違いなく世界中で誰も人前で演奏できなくなります。
「私はうまい」と思っている人が世界中に何人?いるか私は知りませんが(笑)少なくとも私の知っている演奏家の中で「自分はうまい」と言っている・思っている人を誰一人として知りません。私が「神のようだ!」と思う人もです。
その人が「自分はうまくないと思うから」人前で演奏しなくなったら聴く楽しみは?なくなります。音楽と共に生きる人も、地球から消えてしまいます。

 演奏すること、音楽を聴くこと。それが生きるために不可欠…だとは言い切れません。人間にとって水や空気、食料のような存在とは違います。
生きている…ということの意味を「心臓が動いている」ことだとする考え方には、様々な異論があります。人間の「意思」「思考」「感覚」がない状態で生命活動がある「生物」を生きている人…と言えるのか?と言う問題です。
その意味でも、音楽を演奏したり聴いたりして「感じる」ことは人間として生きていると実感できる、とても簡単でとても有意義なことだと信じています。
生きることは、感情を感じることだと思います。音楽はその「喜び」を与えてくれる存在だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使いと弓使いを考える

 

今回のテーマはヴァイオリンやヴィオラを演奏する時に不可欠な「指使いと弓使い」について、持論を書かせていただきます。
 楽譜に印刷されている「指番号」「ダウン・アップ・スラー」の指示に従って演奏するのは「基本」です。以前にも書きましたが、この指示は作曲者が書いたものより、圧倒的に「減収者の指示」である場合が多いのは事実です。
 指示通りに演奏することで、自分なりの指使いと弓付けを考えられるようになるまでの「学習」ができます。言い換えれば「セオリー」おを学ぶことがまず大切です。ただ単に「弾きやすいから」という理由だけで考えるのは最も良くないことです。人によって、多少の得意不得意は許されますが、セオリーを無視して何も考えずに指使いや弓使いを決めるのは「個性」とは言いません。単なる「我流」でしかありません。

 上の動画はラフマニノフ作曲、クライスラー編曲の「祈り」原曲はピアノ協奏曲第2番の第2楽章です。この楽譜を含めて楽譜に書かれている指使いや弓使いは、すべての音に対して書かれてはいません。つまり「自分で考える」事が出来なければ、演奏はできないことになります。
 ヴァイオリン教本の場合には、ほとんどの場合指示がされていますから、見落とさなければ指示通りに演奏できます。そこが大きな違いです。
 指使いには、どんなこだわりが必要でしょうか?

 最も大切にしているのは「演奏する弦の選択」です。次に「音のつなぎ方=グリッサンドやスライドなど」そして当然のことですが「ふさわしい音色と音量を出せること」です。演奏する速さにもよります。それらをすべて考えて、最適な指使いを選びます。これも当たり前ですが「前後関係」を考慮します。
 ヴァイオリン・ヴィオラは4本の指と開放弦しか使えません。チェロやこんっトラバスの場合には親指も使えます。限られた指の数で4本の弦を「使いこなす」ために、考えられるすべての指使いを試してみることが大切だと思っています。初めは「この指使いはないかな?」と思っていても、実はそれが最適な場合も良くあります。選択肢は本当にたくさんあります。どんな指使いが「正しいか」よりも音楽として適しているのはどれか?を考えることです。

 弓使いについては。ダウンアップよりも「弓のどこで演奏するか?」が重要です。それぞれの場所で個性が違います。向き不向きがあります。
それを理解して初めて自分なりの弓使いが決まります。
 私は「レガート」で必ず一弓で弾くとは決めていませ。
弓を返してもレガートで演奏できる技術を身に着けることが大切です。
 どんな弓使いであって、演奏者のこだわりがなければ「行き当たりばったり」になります。自分で考えることが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の立体感=奥行・広がり

 映像はチャイコフスキー作曲のノクターン。ヴァイオリンとピアノで演奏したものです。今回のテーマは「立体感」です。
音楽は目に見えるものではありませんが、奥行や広がりを感じる演奏と平坦で窮屈な感じを受ける演奏があります。その違いはどこから生まれるのでしょうか? 

 一つには「演奏する音色と音量の変化量」が関係します。
どんなに正確に演奏したとしても、一定の音量と変わらない音色で演奏すれば聴いている人にとって平面的な音楽に感じます。
 一つの音の中でも音量と音色を変化させられる弦楽器の場合と、それが出来ないピアノの場合では少し違います。どんな楽器でも共通するのは、一つ一つの音の「個性」を意識することです。言い換えれば全く同じ個性の音が二つ並んで存在することは確率的にゼロに等しいという事です。

 視覚障碍者の私にとって「コントラスト」の弱いものは見つけにくいものです。また、遠くにある者は輪郭がはっきりしません。音楽に例えて考えると、一つ一つの音の「輪郭」と前後の音との「コントラスト」です。さらに具体的に言えば、同じように「小さく聴こえる音」でも、遠くで鳴っていて小さく聴こえる音のイメージと、耳の近くで鳴っている小さな音は明らかに違うものです。
 広がりについて考えます。これは先述の「遠近」と違い「上下左右の空間」です。例えていうなら狭い部屋で楽器を弾いた時の響きと、残響の長い大きなホールで響きわたる音の違いです。一般的に残響の少ない音を「ドライ」「デッド」と表し、逆に豊かな残響のある音を「ウェット」「ワイド」などと表します。
 演奏する場所の問題だけではなく、演奏に余韻や適度な「間=ま」のある演奏で広がりを感じられます。押し付けた音色や揺らぎのない演奏を聴いていると、窮屈なイメージ・閉鎖的なイメージを感じます。

 オーケストラのように多くの種類の音色が同時になる音楽と、ピアノとヴァイオリンだけで演奏する場合では特に「立体感」が異なります。音の大きさにしても、50人以上が演奏するオーケストラの「音量差」はピアノ・ヴァイオリンとは比較になりません。二人だけで演奏する場合の繊細な音量差と、微妙な音色の違い、一音ごとの輪郭の付け方が、音楽の奥行と広がりを決定します。

 手に触れられないもの。例えば空に浮かぶ雲にも色々な形や色、大きさがあります。雲を絵に描こうとすると難しいですよね?コントラストや輪郭、微妙な色の変化などを表現することの難しさがあります。音楽も似ています。
 手で触ることができるリンゴや草花を描く時にも、実際の大きさを見る人に感じてもらうために他のものを一緒に書き入れることもあります。
 写真で背景や周りのものを意図的に「ぼかす」ことで、奥行や広がりを表現できます。音楽でも際立たせて、近くに感じさせる音と、背景のように感じる音の違いを作ることが重要です。

 難しそうな技術に感じますが、私たちが会話をするとき無意識におこなっていることでもあります。伝えたい言葉を強く、はっきり話すはずです。小声で話をするときには、普段よりゆっくり、はっきりと話すはずです。遠くにいる人に大声で何かを伝える時なら、一言一言をはっきり叫ぶはずです。
 楽器の演奏を誰かに語り掛ける「言葉」だと思えば、きっと誰にでもできることです。文字をただ音にしても意味が通じないこともありますよね?
 あげたてのてんぷら
 きょうふのみそしる
アクセントや間のとり方で意味が変わります。音楽で特定の意味を伝えることはできますぇんが、弾き方を変えることで聴く人の印象が変わることは言葉と同じです。大切に語り掛けるように、楽譜を音にすることを心が得たいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

ちゃんとコンチェルトを弾いていたから今がある!

 今回は何とも「いかがわしい」タイトルのブログです。
動画は私が大学4年生当時に、恩師久保田良作先生門下生の発表会で演奏したときの録音です。銀座のヤマハホール、ピアノは当時アンサンブルを一緒に学んでいたピアニスト林(現在は同銀)絵里さん。私の大学卒業試験直前の発表会で、試験で演奏する時間までの部分しか練習していないという(笑)
 今聞いてみて感じること。「さらえばそれなりに弾けるんじゃん」という笑える感想です。当たり前ですが、桐朋学園大学音楽学部卒業試験でチャラけて演奏するする奴はいませんよね。この発表会では何か所か「大傷」がありますが恐らく卒業試験の時には、これよりもまともに演奏した…はずです。
 荒っぽい弾き方が耳障りな部分もたくさんありますが、今の自分の課題と同じ課題が多いことに驚きます。ん?つまり、成長がとまっている?(笑)

 高校大学時代に学んだ「クラシック音楽の演奏」が今の自分にとって、なくてはならないものだったことを感じます。
 クラシック音楽は長い伝統に支えられ、今もそれは継承されています。
さらに言えば。多くのポピュラー音楽はクラシック音楽の基礎の上に成り立っています。「俺にはクラシック音楽なんて必要ない!」と思い込んでいる人は、悲しい勘違いをしています。演歌もロックもジャズも、バッハの時代に作られた音楽を土台にして作られているのです。もし、あの時代の音楽=楽譜が、一枚も残っていなかったら、ポピュラー音楽は今、当たり前に聴いている音楽とは全く違う種類の音楽だったはずなのです。
 ドボルザークヴァイオリン協奏曲を、ひたむきに練習していた20代の自分がいたから、色々な音楽を演奏するための「土台」ができました。
 もしも、これからこの曲を練習したとしたら?
きっと、22歳の自分とは違うドボルザークヴァイオリン協奏曲が演奏できると思います。それが「成長」なのかもしれません。でも…この時のような筋力と体力が今、あるか?は、はなはだ疑問です(笑)
 どんな音楽にしても、真剣に向き合って練習することが、必ずその後の自分にとって「骨格」になるのだと思います。
 無駄な勉強や、無駄な練習はない。無理だと口にする前に、やってみること。
生きている限り「欲」があります。実現するための時間こそが、生きている証=あかしだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

丸い音楽を目指して

 映像はデュオリサイタル15で演奏したヴァイオリンとピアノによる「ふるさと」小曽根真さんが演奏した折られたピアノパートを浩子さんが「耳コピ」したものです。前回のリサイタルではヴィオラで演奏したのですが、多くの生徒さんにも演奏してもらえるようにヴァイオリンで演奏してみました。

 「丸い音楽」の意味は?
旋律は音の高さと音の長さの組み合わせで作られます。
その旋律を平坦に演奏すると聴いていて違和感を感じます。
かと言って「角張った音の連続になれば音楽全体が凸凹に感じます。
 音の角を丸くする…イメージですが、ただ単に音の発音をぼかすだけでは丸く感じません。音の高さの変化と、音量の変化を「真似らかに」することがたいせつです。さらにヴィブラートを滑らかにすることで、丸さが際立ちます。
 音楽によっては「角」があった方が良いと感じるものもあります。
どうすれば?音楽の角を丸くできるのか?考えながら演奏すると、自然に音も柔らかくなります。ぜひ試してみてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

Earthをヴィオラで演奏すると

 映像はデュオリサイタル15もみじホール城山で演奏した、村松崇継氏の作曲された「Earth」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 原曲はフルートとピアノのために書かれているものです。
さらにその曲を作曲者のライブでチェリスト宮田大氏が素敵な演奏をしている動画を見て、どうしても二人で演奏してみたくなり、ヴィオラで演奏できるように、自分たちでアレンジしたものです。
 演奏は未熟ですが、この曲の持つ「守るべき地球」「人間の強さと優しさ」を感じながら演奏しました。村松崇継さんの楽曲は、いのちの歌、彼方の光も演奏させて頂いています。本当に素敵な曲を作られる邦人作曲家だと尊敬しています。
 本来フルートで演奏するために書かれた曲を、ヴィオラやチェロで演奏することを「邪道」と言う人もいます。ただ、演奏する人が「素敵な曲だから弾きたい」と思う気持ちに嘘はないと思います。それを聴く人の感性もまた、楽器にとらわれるものではありません。
 これからもたくさんの曲と出会えるのを楽しみにしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

線対象の音楽

 アルヴォ・ペルトが作曲した「シュピーゲル イン シュピーゲル」日本語に訳せば「鏡の中の鏡」というタイトルの曲です。映像は、ヴィオラとピアノで演奏したものです。
 この曲は「ラ=A」の音を中心にして「上下対象」に音楽が作られています。
「ソ↑ラ」に続き「シ↓ラ」
「ファ↑ソ↑ラ」「ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↑ラ」「シ↑ド↑レ↓ラ」
と段々にラの音からの「距離」が上下に広がります。
「レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↑ラ」「シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↓ラ」
「シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
「ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ↑ラ」「シ↑ドレ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ↓ラ」
「ソ↑ラ↑シ↑ド↑レ↑ミ↑ファ↑ソ↑ラ」「シ↓ラ↓ソ↓ファ↓ミ↓レ↓ド↓シ↓ラ」
ただそれだけ(笑)しかもすべての音符が付点2分音符(3拍伸ばす音)かその2倍の長さの音符。子供でも初心者でも弾けそうな感じですよね。
 実際に演奏する場合、楽譜を見ながらなら恐らく問題なく?演奏できると思います。
 私は視力が悪く楽譜を見ながら演奏できなくなって「暗譜」ですべての曲を演奏しています。当然、この曲も。演奏しながら、自分が今、どこを弾いているのか?迷子になってしまいます。
 色々な「覚え方」を組み合わせて記憶しています。さらに長く伸ばす「ラ」をダウンで演奏したいので、弓順も併せて記憶します。
 こんな面白い音楽を考え付いたアルヴォ・ペルトさんてすごいです!
ちなみに、向かい合わせた二つの鏡に映った鏡の中には、また鏡が映り、その中にさらに鏡が…
そんな光景を想像すると不思議な世界を感じます。永遠に続く「鏡」の画像…
ただし、演奏しながらや、譜めくりしながらそれを考えると、まず間違いなく「おちます」のでご注意を!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

15年目の挑戦

 2022年12月18日(日)相模原市緑区のもみじホール城山で、私と妻浩子のデュオリサイタル15を無事に開催することができました。
 ここ数週間、自分が慣れ親しんだ構え方を見直し、大きな(自分としては)改革をしました。結果がどうであれ、自分にとって正しいと思ってきたものに手を入れることには勇気が必要でした。リスクも考えました。「いまさら」と言う気持ちが心を支配しそうになりながら、「いまだから」と言う気持ちで取り組んでみました。
 リサイタル当日までに、自分の筋力の疲れをコントロールしながら、出来るところまで…と言うのが正解ですが、やれることをやった気持ちでいます。
 当然のことですが、楽器の構え方=持ち方=姿勢を変えることは、自分の音の聴こえ方もピアノの聴こえ方も大きく変わります。これが「良い選択」だったのか?は誰にも判断できません。むしろ、自分自身で冷静に観察し続けるしかありません。少なくとも、今まで使って来なかった筋肉がパンパンに(笑)張っていることを考えると、自分の考えていた演奏方法に近かったことは事実です。

 プログラム中の7曲目に演奏したゴダール作曲「ジョスランの子守歌」
ホールの空調(暖房)が弱く、この1曲前が終わったときに、温度を上げてもらうようにお願いした直後の演奏で、まだ左手指が攣りかけています(笑)
 練習で思ったようにはひけていませんが、「目指していたこと」には少し近づいた気がします。特に演奏しながら自分を観察する「引き出し」を増やせたことは、演奏しながら感じていました。おあまりに多すぎて(笑)すべては書けませんが、右手の親指、小指の位置、重心、左手の親指、手首の力、左ひじの位置、楽器と首の接触部、鎖骨下筋と肩当ての接触、背中の筋肉の使い方、膝の関節などなど…。最終的に「音楽」については、自分の記憶にあるボウイング、フィンガリング、テンポ、音色、音量を「その場」で考えながら演奏しました。
 まだ、完全に自分の身体に音楽が入っていない曲でもあり、不安な要素は多々あります。傷もたくさんあります。それでも「やりたかったこと」の一部は達成していました。

 こちらは、ヴィオラで演奏したメンデルスゾーン作曲の無言歌。以前、ヴァイオリンで演奏したことのある曲ですが、ヴィオラで挑戦しました。構え方を変えれば、ヴィオラの音色も以前とは変わります。これも依然と比べ、どちらが良い?とは今の段階で判断できません。陳昌鉉さんの楽器特有の「甘さ・柔らかさ」はそのままに活かしつつ、強さと明るさ、音色のヴァリエーションを増やすことを意識しています。まだまだ練習が足りないのは否めません。

 こちらはアンコールで演奏したシューベルト作曲のセレナーデ。ヴァイオリンで演奏してみました。いつもの私なら迷わず「ヴィオラ!」な曲ですが、今回敢えてヴァイオリンで低音の響きにこだわりました。大好きな曲なのに、実は今回二人が初めて演奏した曲です。歌曲ならではの「フレーズ」を壊さずに演奏することの難しさを感じます。

 来年1月7日(土)代々木上原ムジカーザでのリサイタルでは、同じプログラムをサロンの豊かな響きとベーゼンドルファーの太く柔らかい音色で演奏します。
 それまでに私たちが出来ることを「できる範囲で」やってみます。
お聴きになる方にとって、演奏者の「努力」は関係のないことです。
演奏者のどんな言い訳も通用しません。ただひたすらに「楽しめる演奏」を目指したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

デュオリサイタルに思う

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 写真は「昔々あるところに…」(笑)古い写真でごめんなさい。
今回のリサイタルで15年目。その年月の長さを考える時に、自分たちの生きてきた「年月」との比較して約4分の一という「割合」になることに、ちょっとびっくりします。私がヴァイオリンを習い始めてから約55年。浩子さんは…ご想像にお任せします(笑)。とは言え、二人ともそのすべての年月、楽器に向き合えたわけではありません。確かに幼いころから楽器を習っていた…ことは間違いありませんが、だからと言って音楽だけに向き合えたとも言えません。ほとんどすべての「音楽家」がそうだと思います。

 二人でリサイタルを…と思い立ってから今日までも、様々な経験を重ねてきました。もちろん、それ以前の「音楽」への向き合い方もそれぞれに違いました。
 その時が私にとって、何度目かの「スタート」になることを、当時はぼんやりとしか考えていませんでした。ヴァイオリンから否応なく離れていた長い年月から「リサイタル」と言う演奏活動に復帰するまでに、実に28年年の年月が経っていました。20歳の時に初めてのリサイタルを、上野学園エオリアンホールで開かせてもらいました。

  デュオリサイタルをスタートして、二人で新しい人生のスタートも切りました。多くの友人や生徒さん、先輩や家族に支えられて生きることになりました

  演奏活動を続けることは、生徒さんたちに私たちが師匠や友人たちから感じとってきた「音楽」を伝えるためにも、必要不可欠なことになりました。
 演奏活動を生活の中心にされる友人も多い中で、年に1度のデュオリサイタルが「少ない」と思われるかもしれません。ただ、私たちにとって「身の丈」にあった回数で演奏活動を継続することが、永く音楽とかかわる人生を送るためにも大切なことだと思っています。
 来週のリサイタルに向けて、最後の調整です。無理のきかない年齢になりました。自分たちのできる範囲の努力と準備をして、お客様をお迎えしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌を弾く

 映像は友人の作曲家、Ikuya Machida君がアレンジしてくれた「ビリーヴ」を陳昌鉉さんのヴィオラを使って、浩子さんと自宅で撮影したものです。
 ヴァイオリンなど楽器を使って「歌」を演奏する場合、特にクラシック歌曲ではなくポップス系の音楽を演奏すると「安っぽく」聴こえてしまうことがあります。演奏技術の不足と、アレンジの稚拙さが原因の場合がほとんどです。
旋律は美しいのに、ピアノのアレンジが…いま百(笑)と言う楽譜がほとんど。
かと思えば、ヴァイオリンが旋律を演奏していたと思ったら、ピアノが旋律を演奏し始めて、ヴァイオリンは「ひゃらひゃらら~♪ぴろりろり♪」もしかしたら?オブリガードのつもり?なのか意味不明な「別物」をひかされると言う「あるある」なアレンジ。ヴァイオリンにメロディー弾かせてくれ!(笑)
 綺麗に弾けば、綺麗な曲がたくさんあります。
もっと「現代ポップス」に光を当てましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリス 野村謙介

撮影編集技術者兼コメンテーター兼演奏者=私の職業は?

 映像は、陳昌鉉さんのヴィオラで演奏した「イムジン河」
木曽福島の小学校「福島小学校」4年生の社会・人権教育の授業で、陳昌鉉さんのお話を取り上げている事を、小学校の先生から伺い協力できることがあれば!と名乗り出ました。子供dたちから、陳昌鉉さんにまつわる質問を頂き、それにお答えする動画を自宅で撮影しました。おまけ…に、陳昌鉉さんの作られたヴィオラで韓国の歌「イムジン河」を浩子さんのピアノと演奏しておきました。もう一曲「ビリーブ」も衆力。撮影のための2台のカメラ、3本のマイクなどの設営>そして、質問への答えを「アドリブ」でしゃべり、ヴィオラの演奏。その後、データを編集して、データで小学校の先生に送信。
 なにをやってるんでしょう?私(笑)
60過ぎたお爺さんが、しかも視覚障碍のある私っていったい何屋さんなのでしょうか。いや、なんでもいいのです。結局、音楽を楽しんでくれる人のために、出来ることなら何でもやるわけです。ただし。お金にはならない…と言う(笑)
 撮影も編集も業者に出して、お金を払えばやってくれます。日数もかかります。自分でやれば…手間だけで済みます。演奏したその日に、データを送れます。そう思ってもいずれ、見えなくなったらできません。今だからできる。
 それも、私の音楽家としての「与えられた使命」なのかも。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

職業不詳 野村謙介

上質の「とろけるプリン」か「しっかり羊羹」か

 上の動画は、オイストラフ。下の映像はムターの演奏です。
どちらも大好きな演奏家なのですが…弓の「使い方」音の「出し方」がまったく違う二人に感じます。
・オイストラフは「口に入れると溶ける、究極のなめらかプリン」のイメージ。
・ムターを例えるなら「きめ細かいずっしり身の詰まった羊羹」のイメージ。
当然、お二人ともに曲によって、音色を使い分けられる技術をおもちです。
むしろ「好み」と言うか「デフォルトの音色」とでもいえる音の出し方が違うように感じます。
 リサイタルで演奏するヴァイオリン・ヴィオラの音色を考えていて、どちらの「食感」が似合うのか?さらに言えば、その音の出し方で、客席にどう?響くのか?結局、どちらのひき方もできるようにして、会場で誰かに聞いてもらって確かめるしかないのですが…。
 特にヴィオラで「羊羹」的な演奏をすると、チェロの音色に似せようと「足掻いている」「無理をしている」ようにも聞こえてしまいます。一方でヴァイオリン特有の「弓の圧力と速度」は、実際に使っている楽器と弓とのお付き合いが長いので、客席への音の広がり方も想像ができます。
 好みが分かれます。「プリン」を「軽すぎる」「弱い」と感じる人もいます。「羊羹」を「息が詰まる」「潰れている」と感じる人もいます。
どちらおも「美味しい」のです。食感が違うのです。甘さの問題ではありません。さぁ困った(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

肩甲骨の位置と鎖骨下筋

 さて、今回のテーマはヴァイオリン演奏時の肩の位置を考えるお話です。
私は中学生の頃から大学を卒業するまで、演奏中の肩の位置を「前方=胸側・下」にすることを心掛けてきました。もう少しわかりやすく言えば、背中にある「肩甲骨」を開いた状態…まだわかりにくい(笑)。「大きなドラム缶を両手で抱えて持つときのイメージ」です!…だめ?
・背中が「たいら」になるイメージ。
・両肘を出来るだけ前に出した時の肩甲骨と肩の位置
如何でしょうか?少しイメージできました?
この肩の位置で演奏することで、両腕が身体から前方に離れ、自由度が増えることを優先した「背中と肩の使い方」です。
この場合、身体の前方…つまり胸側は「狭く」「窮屈な」状態になります。
鎖骨が両方の肩より「後ろ」にあるイメージです。逆から言えば、両肩が鎖骨より前にある感じです。

 鎖骨の下にある筋肉が「鎖骨下筋」と言われる筋肉で、その下には「大胸筋」があります。
 話を背中側に戻しますが、肩甲骨の位置と肩の位置は連動しています。さらに、肩の位置と身体の前の鎖骨下筋も連動しています。つまり「背中と肩と鎖骨」のつながりなのです。

 私は「肩当て」を使いますが、鎖骨の少し下に肩当てを当てています。左肩=鎖骨の終端が、楽器の裏板に直接当たるような肩当ての「向き」にしています。
 この構え方で先述の「肩甲骨・肩・鎖骨下筋」の関係を思い切って変えてみました。
・肩甲骨の間隔をやや狭める。
・両肩をやや後ろ・下方に下げる。
・鎖骨下筋を上方・前方に持ち上げる。
簡単に言うと「胸を張った立ち方」のイメージです。
子の場合、両腕・両肘は今までよりも体に近づきます。それでも、自由度は大きく損なわれないことに改めて気が付きました。
 さらに、首を後方・上方向に持っていくことで、楽器の安定感が大幅に増します。
 背中から首にかけての筋肉がゆるみ、自然な位置に肩がある感覚です。
さらに背中に「有害な緊張」がある時にすぐに気が付きます。
背中の緊張を緩めることで、肩の周りの筋肉の緊張がゆるみます。
肩の緊張が緩めば、上腕・前腕の緊張も緩められます。

 楽器の構え方、肩の位置などはヴァイオリニストそれぞれに違います。なぜなら、筋肉量も違い、肩関節の柔らかさも人によって大きく違うからです。
首の長さ…と言うよりも、鎖骨の微妙な位置や筋肉の付き方、形状も人によって違います。
それらの「個人差」がある中で、自分の身体に合った構え方や、肩の位置を見つけることの重要性は言うまでもありません。
 師匠から習ったことの「本質」を考える年齢になって、改めて自分の身体を観察できるようになった気がします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者と聴衆の「距離感」

 映像は8年前に駅前教室で開いたコンサート。アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したものです。完全に「普段着」で演奏している私と、最前列のお客様との距離は1メートル以内(笑)
 今回テーマにした「距離感」は実際の距離とは少し違う「感覚的な距離」についてです。物理的な距離は、演奏者と聴く人の距離=メートルで表せます。近ければ「良く見える」「演奏する楽器の音をダイレクトに聴くことができる」し、離れれば「全体が見える=演奏する人は良く見えない」「会場に響く音の広がりを楽しめる」と言う違いがあります。行きなれたコンサート会場だと、どの場所=どの席で聴くのが一番好きか?までわかっていることもあります。
 演奏者から考えると、お客様との物理的な距離は、真正面で最前列の人を対象に考えるのか?最後列で左右のどちらかによっている人の聴こえ方を優先するのか?あるいは、ホール中央を基準にして考えるのか?演奏差によって考え方は様々です。可能な限り、どの場所で聴いても「心地よく聴こえる」方法で演奏するのが「おもてなし」の心です。真正面で最前列の人が「気になって気が散る」と言う演奏者もいれば、まったく気にしない(私(笑))人もいます。これも人それぞれです。

 本題の「距離感」は、演奏者と聴衆の「親しみ」や「人間同士の関係」で変わってきます。一般的に聴衆が演奏者のことを良く知っている(例えば昔の友人)場合と、まったく知らない場合に大別されます。前者の場合には、聴く側も演奏する側もお互いに親しみを持っています。演奏する人の話し方や、普段の姿を知っている聴衆の「親しみ」は、演奏に「プラス」される部分があります。
一方、まったく知らない演奏者の演奏を聴く場合、特に初めてその演奏者のコンサートを聴く時には「興味」の対象は演奏そのものが最大で、次に演奏する姿や表情、さらには演奏者の「話す声」にも初めて接することになります。
 音楽だけ=演奏だけを純粋に楽しみたい…そのほかの要素は「いらない」と言う人は、演奏者を「人」として感じていないように思います。
少なくとも私は、初めて誰かの演奏を見たり聞いたりするときに、その「人」に興味が行きます。演奏する表情や市政、動き、衣装にも好奇心が動きます。
 さらに、演奏者の「言葉=話す姿」に一番の関心があります。日本語で話してくれる演奏者の場合、その内容と話し方で演奏者の「人としての魅力」を感じる場合と感じない場合があります。私だけなのかも知れませんが、演奏者を「人」として近くに感じる人の演奏に共感します。話す内容が「自慢話」「うちわネタ」「ありきたりのテンプレートご挨拶」の場合、正直「だめだこりゃ」と思います。演奏者が舞台でマイクを持って話をすることに対して「不要だ」「邪道だ」と言うご意見も耳にします。その方の「好み」です。演奏者は演奏だけすればよい。と言う考え方ですが、私は演奏しているのが「人」だから音楽を聴きたいのです。ましてやコンサートでCDと同じ演奏をするだけなら、CDの方が気楽に楽しめます。ポップスのコンサート=ライブに行く「ファン」が期待するのは?CDでは感じられない「生身のアーディスト」を感じることだと思います。
むしろそれが「ライブ」だと思うのです。クラシックは?同じだと思います。
 話下手でも構わないのです。照れ屋でうまく話せないのも、聴く人にとって「なるほど!そういう人なんだ!」と受け入れられるものだと思います。演奏中に下手な役者のような表情を「作る」よりも、1分間でも話をすれば、その演奏者の「素顔」が伝わると思います。
 知らなかった人同士が、コンサートで「知り合い」になれるのです。
演奏者と聴衆が気持ちを交わすことができれば、きっとまた演奏会に行ってみたくなるはずなのです。聴く側も、演奏する側も「人とのふれ合い」をもっと大切にすることが、クラシック音楽の発展につながると考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏方法の「原点」に立ち戻る

 写真は恩師久保田良作先生が、箱根で行われた門下生の夏合宿で合奏を指揮されているお姿です。日本を代表する素晴らしいヴァイオリニストとして、演奏活動も続けられながら、多くの弟子たちに熱く、そして優しく「音楽」を伝えられた指導者でもありました。桐朋学園大学の弦楽器主任教授としても、多忙な日々を送られていました。レッスンを離れると、人を気遣い優しい言葉で語り掛けてくださる「憧れの人」でした。

 「久保田門下」で最も不出来の弟子だった私が、今「デュオリサイタル」を開き大学を卒業して40年近く経っても、音楽に関わっています。
演奏技術を身に着けることは、その人の生涯をかけた行為です。「すべて身に着けた」と思える日は来ないものでしょう。それでも、あきらめずに練習することが演奏家の日常だと信じています。
 練習をする中で、新しい「課題」を見つけることも演奏家にとって日常の事です。その課題に向き合いながら考えることは?
 「原点に帰る」事だと思っています。
何を持って原点と言うのか?自分が習ったヴァイオリンの演奏技術を、思い起こせる限り思い出して、師匠に言われたことを「時系列」で並べてみることです。
 その意味で、私は幸運なことに久保田良作先生に弟子入りしたのが「中学1年生」と言う年齢ですので、当時の記憶が駆るかに(笑)残っています。
 「立ち方」「左手の形」「弓の持ち方」「右腕の使い方」
教えて頂いたすべての事を記憶していない…それが「不出来な弟子」たる所以です。それでも、レッスンで注意され発表会で指摘される「課題」を素直にひたすら練習していました。「できない」と思った記憶がないのは、出来たからではなく、いつも(本当にいつも)言われることができなかったからです。要するに、出来ていないことを指摘されているので「出来るようになった」と思う前に、次の「出来ていないこと」を指摘される繰り返しだったのです。それがどれほど、素晴らしいレッスンだったのか…今更ながら久保田先生の偉大さに敬服しています。
 教えて頂いた演奏技術の中に、私が未熟だった(今もですが…)ために、本質を理解できずに、間違った「技術」として思い込んでいたもの=恐らく先生の糸とは違う事も、何点かあります。それをこの年になって「本当は?」と言う推測を交えて考え真押すこともあります。

 自分が習ったことのすべてが「原点」です。師匠に教えて頂いたことを「できるようになっていない」自分を考えれば、新しい解決策が見えてきます。
 自分にとってどんな「課題」も、習ったことを思い出して「復習」すれば必ず解決できる…できるようにはならなくても、「改善する」ことはタイ?かです。
信頼する師匠から受けた「御恩」に感謝することは、いつになっても自分の演奏技術、音楽を進化させてくれるものだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の「揺らぎ」とは?

 映像は木曽福島でのコンサートで演奏した瑠璃色の地球。ヴィオラとピアノで演奏しました。
 クラシック音楽とポピュラー音楽の「違い」は様々あります。例外も含めて考えれば厳密に「違い」を言葉にすることは不可能かもしれません。
 クラシック音楽を学ぶ時、テンポを「維持する」事と「揺らす=変える」事を多く学びます。一定の速さで音楽を演奏する技術と、その真逆に意図的に速さを変える技術はクラシック音楽のほとんど全てで用いられる技術です。一人だけで演奏している時にも、アンサンブルやオーケストラで誰かと一緒に演奏する場合にも必要不可欠な技術です。トレーニングの仕方も様々あります。メトロノームを使った練習や、時計の秒針を使ってトレーニングすることもできます。
 一方、ポピュラー音楽の場合に「一定の速さ」で演奏することは、多くの曲で「当たり前」の事です。その昔、レコーディングスタジオでヴァイオリンを演奏するお仕事をしていた際に、演奏者がモニター(ヘッドフォン)で聴く音を選べました。「ドンカマ」と呼ばれる電子メトロノーム音を選ぶこともできました。また、ヴァイオリンより先に録音されたドラムの音やベースの音を選択することもできました。要するに「指揮者不要」だったわけです。この方法で色々な楽器を順番に録音していく方法を「重ね録り」「マルチトラック」などと呼びます。一度に「せ~の!」で録音する方法しかなかった時代には、当然考え付かなかった録音方式です。この方法なら、それぞれの楽器を別々に録音するので「録り直し」の回数が格段に減る上に、あとからヴァイオリンパートだけをやり直すことも、音量のバランスを変えることも自由自在になります。すべての楽器の録音が終わって出来上がったもの=メインボーカルが入っていないものが「カラオケ」と呼ばれるものです。現在のカラオケと言う言葉は、この録音方式で生まれた言葉なのです。
 言うまでもなく、この方式で録音サウル場合、途中でテンポが「揺れる」のは編集する人にとっても、演奏する私たちにとっても「煩わしいことでしかありませんでした。現代は録音がすべて「データ」つまり電気信号としてコンピューターに記録される方式です。昔は「テープ」を使って録音するのが当たり前でした。一秒間に38センチの速度で録音ヘッドを通過する「テープ速度」で録音していました。巨大な10インチのリールに巻き付いたテープでも、約45分しか録音出来ません。録音するのも大変は事だったのです。
 その限られた条件での録音を効率化するためにも、テンポの揺れは「御法度」だったのポピュラー音楽です。

 クラシック音楽の場合、テンポの揺らぎ=揺れは演奏家の「こだわり」で生まれます。テンポを変えずに演奏する時にも「意図」があります。
なんとなく、テンポが変わってしまう…駈け出したように速くなったり、いつの間にか遅くなったり…無意識に変化することは「ダメ」とされています。だからと言って、先述のポピュラー音楽のようにテンポをキープさえしていればよいか?と言うと、それも「ダメ」なのです。難しいですね~(笑)
 音楽の揺らぎは、楽譜に書き表される「リタルダンド」や「アッチェレランド」とは根本的に違います。作曲家が指示している速度の変化は、作曲家の感じた「揺らぎ」だと考えています。もちろん、それはとても重要なことですが、どのくらい?「だんだん遅く」「だんだん速く」するのかは、演奏者の「感じ方」で決まります。さらに、楽譜に作曲家が書かなかった「揺らぎ」を演奏者が感じ、表現することは演奏者に許された表現の自由(笑)だと思います。
 指導者によっては「そこで遅くしてはいけない!」とか「もっと速くしなきゃ!」と生徒に自分の感じ方を押し付ける人がいます。正しく伝えるのなら「…私なら」という接頭語を付けるか「例えば」として違う選択肢の速さを生徒に示して、好きなように演奏させるのが正しい指導だと思います。合奏ではそうもいきませんが(笑)みんなが好き勝手なアッチェレランドをしたら、収拾がつかなくなります。二人だけのアンサンブルでも、それぞれに違った「揺らし方」の好みがあります。どちらが正しい…という答えは存在しません。歩み寄るしかありません。
揺らすことが常に心地よい…のではありません。それも大切なことです。
揺れると気持ち悪く感じる場合もあります。逆に、常に同じテンポで揺れずに演奏していると「不自然」に感じることもあります。多くの生徒さんは「揺らす」ことを怖がります。むしろ揺れていることに気付かない場合が多いのですが(笑)意図的に、ある「拍」だけを少しだけ長くすれば、次の拍が始まる時間は後ろにずれる=遅れます。この一拍の「揺らぎ」も立派な揺れなのです。
聴いている人が「自然に感じ」「揺れに気付かない」ことが最も自然は揺らぎだと思います。心地よい揺らぎは、例えれば不規則に吹く「そよ風」の中で感じる感覚です。あるいは、静かな湖面にぷかぷかと浮かんでいる時に感じる「静かなさざ波」にも感じられます。決して「暴風」や「大波」ではないのです(笑)
 怖がらずに実験することです。注意するのは「癖になる」ことです。例えば、小節の1拍目を「いつも遅く入る」癖は無意識にやってしまいます。また、音型に気を取られすぎる場合も「癖」が出ます。上行系クレッシェンドで「いつも遅くなる」のも癖。3連符なのに「1.5:1.5:1」でいつも演奏するのも癖です。
 何度も試してからひとつを選ぶこと。正解はありません。自分の「個性」を違和感なく表現するために、必要な努力だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

デュオリサイタル15迫る

 動画はデュオリサイタル15のご案内動画です。
2022年12月18日(日)午後2時開演 相模原市緑区もみじホール
2023年1月7日(土)午後5時開演 代々木上原ムジカーザで
同じプログラムをホールとサロン、ベヒシュタインのピアノとベーゼンドルファーのピアノで聴き比べが出来ます。
予定している演奏曲
・懐かしい土地の思い出より「メロディー」(チャイコフスキー)
・ノクターン(チャイコフスキー)
・ただ憧れを知る者だけが(チャイコフスキー)
・シュピーゲル・イン・シュピーゲル(アルヴォ・ペルト)
・祈り(ラフマニノフ)
・彼方の光(村松崇継)
・ジョスランの子守歌(ゴダール)
・無言歌(メンデルスゾーン/クライスラー)
・明日(アンドレ・ギャニオン)
・Earth(村松崇継) 他
どの曲も私たちにとって、愛すべき曲たちです。
多くの演奏家と比べて、私たちはすぐに音楽に出来るような技術を持ち合わせていないことを自分でも、互いにも認めています。だからこそ、昨年のデュオリサイタルから1年間と言う時間をかけて、これらの曲に取り組んできました。
 それでも自分たちで完全に満足できる演奏にまで、到達できるかどうか自信はありません。出来ることを出来る限りしています。その努力も他のかたから見れば足りないものかも知れません。自分を甘やかす気持ちではなく「受け入れる」ことも大切なことだと思っています。
 生徒さんに「妥協」と言う言葉の意味をレッスンでお伝えしています。悪い意味で考えれば自分を追い詰めてしまいます。諦めることとも違います。今の自分の力を認め、足りないことを知った上で演奏をする以外に、方法はないと思っています。「完全に満足できるようなってから」と言う考え方こそが、諦めであり現実からの逃避だと思います。そもそも完全な演奏は人間にはできないと思っています。不完全で当たり前だと考えています。
 リサイタルで一人でも多くのかたに、自分たちの音楽を楽しんでもらいたいと願いながら、現実に来場されるかたの人数は、著名な演奏家の方々が開くコンサートとは比較になりません。当然だとも思います。広告にかけるお金もなく、知っている方の数も限られています。「お友達」「先輩」「先生」「生徒」以外の一般のお客様は、有名な演奏家のコンサートや、クラシックファンの喜ぶプログラムのコンサートに足を運ばれるのは当然のことです。来ていただいた方たちに「これだけしかお客さん、いないの?」と思われてしまうことが申し訳ない気持ちです。それが現実なのでお許しください。
 こんな私たちですが、ぜひ生の演奏をお聴きいただき、ご感想を頂ければと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
ピアニスト 野村浩子

客席で聴こえるヴィオラとピアノ

 映像は11月23日(祝日・水曜)に木曽町文化交流センターで開催されたコンサートよりヴィオラとピアノで演奏した村松崇継さん作曲の「Earth」
撮影してくださったの福島小学校の教職員。客席の片隅からビデオカメラで圧営してくださったものです。カメラに付いたマイクで録音されているので、客席に聴こえているバランスに近いものです。

 この曲について以前のブログでも書きましたが、村松崇継さんがフルートとピアノのために作曲され、ご自身のライブコンサートでチェリスト宮田大さんと共演されている動画に触発されて(笑)ヴィオラで演奏できるようオリジナルでアレンジして者です。宮田さんはご自身のコンサートツァーで演奏されているようです。ピアノの「楽譜」がとても音符の多い(笑)、かなり派手目な曲なので、弦楽器でメロディーを演奏すると、二つの楽器のバランスが心配でした。
 この動画をご提供いただき、改めて聴いてみると「思ったよりヴィオラが聴こえてる!」ことにやや驚きました。頑張らなくても大丈夫なのかも!って今更思う(笑)リサイタルでも演奏する予定なので、とっても有意義な動画になりました。
 うーん。それいにしても、私だけを撮影すれたのは辛い…。カメラのアングル的にピアニストが映りこまなかったようですが、鑑賞には堪えません。見ないで聴いてください(笑)

 こちらも同じコンサートアンドレ=ギャニオンの「明日」をヴィオラとピアノで演奏したものです。以前、ヴァイオリンで演奏したものですが、ヴィオラの太さ、暖かさ、柔らかさも好きです。間奏で私は何をしたものやら(笑)
 今回、リハーサル時にホールの響きを確認してくれる人がいなかったため、とても不安でした。残響が短い多目的ホールだったこともあり、客席に届く音がどうなのか…録音されたものを聴くことで初めてわかるというのも辛いものです。
 来年は「木曽おもちゃ美術館」の残響豊かなホールで演奏予定で、今から楽しみにしています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

●●記念オーケストラに物申す

 映像は1992年松本のキッセイ文化ホールでの「サイトウキネンオーケストラ」の演奏。このホールが出来たばかりのこの年、私の母校でもある桐朋学園創始者の斎藤 秀雄氏を偲んで開催された演奏会。1974年に逝去された斎藤 秀雄氏を私は直接存じ上げません。指導を受けたこともありません。ちなみに私は桐朋学園の第25期生です。小澤征爾氏が第1期生なので私の25歳「大先輩」でもあります。この演奏会が行われた30年前、私は32歳。小澤征爾氏は57歳。
高校大学生の頃に「小澤先生」として学生オーケストラの指導をされていた当時の事を今でも鮮明に覚えています。高校入学当時15歳の私、小澤先生は39歳。思えばまだ若い先生でした。出来の悪い学生だった私にとって、小澤先生の活躍は憧れでもあり雲の上の存在でもありました。尊敬する気持ちは今も変わりません。
 ただ、今現在もこの「サイトウキネン」が演奏を行っていることに、大きな違和感を持っています。私はサイトウキネンに「呼ばれる」ような技術ではないので「部外者」です。それを「ひがみ」と思われても私は構いません。桐朋学園の一人の卒業生として、また今も多くのアマチュア演奏家と共に音楽を愛好する人間として、私立学校の創始者をオーケストラの冠に付けて、演奏していることが果たして純粋な「恩師への感謝」と言えるのか疑問に感じます。
 桐朋の高校(桐朋女子高等学校音楽科)に入学する以前に、子供のための音楽教室などで斎藤 秀雄氏の指導を受けていた人もいるとは思います。とは言え、その人たちは当時13歳以下の子供だったことになります。つまり、斎藤 秀雄氏に指導を受けた「生徒」たちの最年少が現在(2022年)63歳もしくは64歳のはずです。一期生は現在、86歳もしくは87歳です。この第一回「サイトウキネン」が行われた当時から30年間という年月が経って、諸先輩が演奏されていることは素晴らしいことだと思います。その反面、現在演奏しているメンバーの中には多くの「斎藤 秀雄を知らない人」がいるのも事実です。第一回の演奏会の時から数名はそうした演奏者もいましたが、現在は?そして今後は?
 さらに、誰がこのオーケストラに参加する「お許し」を与えているのかという素朴な疑問です。「上手な人を集めているだけ」と言われればそれまでです。それが何故?「サイトウキネン」なのか意味不明です。一言で言ってしまえば「誰かのお気に入りが集まっているオーケストラ」にしか思えないのです。それでも演奏技術が高ければ良い…それならそれで「サイトウキネン」と言う学校名を連想させる名前を使うのはいかがなものでしょうか?
 桐朋学園同窓会の幹事として、意見を一度だけ発言したことがあります。
「卒業生の中で一部の人だけの活躍を称賛し、応援するのは同窓会として正しいのか?」という意見です。私を含めて、多くの桐朋学園卒業生が「サイトウキネン」や「●●周年記念コンサート」とは無縁の生活をしています。それが「能力が低いから」「努力が足りないから」と同窓会が片づけて良いとは思いません。
 学校は学ぶ生徒・学生と教える教員、支える職員で成り立つ「学びの場」です。そこで学んだ人たち、教えた人たち、働いた人たちすべてが「同じ立場」であるはずです。卒業し有名になった人を「優秀な卒業生」「卒業生の代表」とする発想を斎藤 秀雄氏は望んでいたのでしょうか?少なくとも私の知る斎藤 秀雄先生は「できの良い子は放っておいてもうまくなる。出来の悪い子を上手にすることこそが教育の本質」と考えていた教育者だと思っています。一期生である小澤征爾氏の世界的な活躍を強く望まれた気持ちは理解できます。そして、日本に世界で通用する演奏家を増やしたいと言う熱意も素晴らしいことだと思います。
 私には●●記念オーケストラや●●フェスティバルに「個人」を崇め奉るのは「尊敬」とは意味が違うように感じます。収益事業として利益を、母校の後進の育成に充てるのであれば「桐朋学園卒業生オーケストラ」として学校法人の管理下に置くべきです。メンバーの人選や基準、報酬も明確にすれば個人名を頭に付ける必要もなく、演奏者が入れ替わっても何も問題はないのです。
 まさかこれから先も、同じメンバーで演奏活動を続けるとは思えませんが、いずれ斎藤 秀雄氏に指導を受けた人は誰もいなくなる日が近くやってきます。「サイトウ」が「オザワ」になっても結果は同じです。
 音楽家は生前に、どんなに素晴らしい業績を残したとしても、いずれ世を去るのです。その後に、音楽家の名前を使った「コンクール」が多くあります。特に作曲家の場合には、残された作品を演奏することが大きな意義になります。
他方で演奏家の死後に「●●記念」や「●●管弦楽団」は世界的に考えても、ほとんど受け入れられていません。演奏家の「業績」は生きて演奏している間に評価されるものです。教育者の業績は多くの場合「学校」として継承されるものです。福沢諭吉の慶應義塾もその例です。桐朋学園もその一つです。斎藤 秀雄氏が自分の名前を学校名にしていたのなら、また話は少し違いますが少なくとも「オーケストラ」に個人…それが故人でも、現役の人でも「人を記念する」こと自体が間違っていると私は感じています。
 卒業生の癖に!母校愛がない!とお叱りを受けても、ひがみ根性だ!と言われても私は自分の考えでこれからも生きていきます。そして卒業した母校から、さらに新しい音楽家が生まれることを切に願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまくなるってどんな意味?

 映像はもう8年も前の演奏動画です。ヴィオラで演奏したシンドラーのリスト。自分の演奏を客観的に観察することは、演奏者にとって必要なことです。
自分以外の人の演奏を聴く時と何が違うのでしょうか。

 自分の演奏が何年練習しても「うまくならない」と感じるのは私だけではないと思います。多くの生徒さんが感じていることのようです。
 生徒さんより長く演奏をしている自分が、なぜ?うまくなっていく実感がないのでしょうか。練習不足もあります。練習方法に問題があることも。意欲が足りないことも。「原因」はいくらでも考えられますが、50年以上ヴァイオリンを演奏しても「この程度」と思ってしまうのが現実なのです。うまくなりたい!と思う自分と、あきらめている自分が葛藤しています。生徒さんには「あきらめないこと!」と言いながら自分が上達していないと感じる矛盾。
 そもそも「うまくなる」ってどんな事を表す言葉なのでしょうか。
「できなかったことができるようになる」うまく弾けなかった小節を、練習して演奏できるようになった…と思っても、本番でうまく弾けていないことを感じる時に感じる挫折感。練習が足りない…ことは事実です。でもね…。
 自分の演奏を昔と今と聴き比べて、どこか?なにか?うまくなったのか、考えることがあります。生徒さんの演奏ならいくらでも見つけられるのに、自分の演奏は「ダメ」なことばかり気になります。昔の演奏の「ダメ」もすぐにわかります。つまり「良くなったこと」が見つからないのです。練習している時には「これか?」「うん、きっとこれだ!」と思っているのに、あとで聴いてみると「違う」気がすることの繰り返しです。一体、自分はなにを目的に練習しているのか…うまくならないなら、練習しても意味がない。練習しないなら人前で演奏することを望んではいけない。音楽に向き合う資格がない。負のスパイラルに飲み込まれます。そんな経験、ありませんか?

 自分の演奏に満足できないから、練習をやめることは誰にでもできることです。一番、簡単に現実から逃避する方法です。
 自分がうまくなったと思える日は、最後まで来ないのが当たり前なのかもしれません。うまくない…のは、他人と比較するからなのです。自分自身の容姿に、100パーセント満足する人はいないと思います。性格にしても、健康にしても同じです。他人と比べるから満足できないのです。
 今日一日、過ごすことができた夜に「満足」することがすべてですね。
「欲」は消せません。生きるために必要なことです。本能でもあります。
欲を認めながら、自分の能力を認めることが生きること。それを、もう一度思い返して練習を繰り返していきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノの音量

 映像はデュオリサイタル10代々木上原ムジカーザで演奏した、エンニオ=モリコーネ作曲「ニューシネマパラダイス」です。私がかけているメガネは「網膜色素変性症」という私の持つ病気の症状のひとつ「暗所で見えない」ことを解決するために開発された特殊なメガネです。
 さて、今回のテーマを選んだ理由は?

 練習を含めて、ヴァイオリンとピアノで演奏する時に、それぞれの演奏者に聴こえる「自分の音」「相手の音」のバランスと、客席で聴こえる両者=ヴァイオリンとピアノの音量のバランスの違いについて。以前にも書きましたが、私の場合練習していると自分の音の大きさに不安を感じることが増えた気がしています。聴力の問題ではなく、感覚的な変化です。演奏する曲によって、ピアノもヴァイオリンも音量が変わることは当然です。特に「聴こえやすい音域」さらに「同時になるピアノの音の数」は演奏者が考える以前に、楽譜に書かれていることです。それを音にした時、客席にどう聴こえるか?までを考えて楽譜が書かれているのかどうかは、ケースバイケース。どう演奏してもヴァイオリンの音がピアノの音に「埋没=マスキング」される楽譜の場合もあります。いくら楽譜上にダイナミクス=音の大きさの指示が書いてあったとしても、ピアノが和音を連続して速く弾いた時の「ピアニッシモ」の下限=最小限の音の大きさと、ヴァイオリンが低い音で演奏した「ピアニッシモ」のバランスを取ることは、物理的に不可能です。言ってしまえば「楽譜を書いた人の責任」でもあります。
 演奏すれ側にしてみれば、自分の音と相手の音の「バランス」を常に考えながら演奏することは、思いのほかに大きな負担になります。オーケストラの場合には指揮者がバランスを「聴いて」指示し修正できます。弦楽四重奏の場合、同じ弦楽器での演奏なので、音量のバランスは比較的容易にとれます。
 ピアニストに聴こえる「バランス」とヴァイオリニストに聴こえる「バランス」は当然に違います。経験で自分と相手の音量の「バランス」を考えます。
そもそもピアノとヴァイオリンの「音色」は音の出る仕組みから違いますから、聴く人には「違う種類の音」として聴こえています。ただ同時に聴こえてくるわけで、どちらかの音が大きすぎれば、片方の音は聞き取りにくくなります。
ピアノとヴァイオリンは「音源=弦の長さと筐体の大きさ」が圧倒的に違います。さらにピアノは「和音」を演奏し続けることがほとんどなのに対し、ヴァイオリンは「単音」を長く・短く演奏する楽器です。構造も音色も違う2種類の楽器が「一つの音楽」を演奏することの難しさと同時に「組み合わせの美しさ」が生まれます。それは味覚に似ています。甘さと同時に「しょっぱさ」を加えると、より強く甘みを感じます。コーヒーは苦みと酸味のバランスで味が決まります。ピアノとヴァイオリンの「溶けた音」を楽しんで頂くための「バランス」が問題なのです。

 物理的に音圧の小さいヴァイオリンを担当する(笑)私として、ピアニストの演奏する音の中に溶け込みながら、かつ「消えない」音量と音色を手探りで探します。それはピアニストも同じ事だと思います。お互いが手探りをしながらの「バランス」なのです。ただ、それぞれの楽器が演奏する中での「変化」も必要です。音色の変化、音量の変化。ヴァイオリンは音域が高くなるほど、聴感的に大きく聴こえる楽器です。逆にヴァイオリンの最低音はピアノの音域の中で、ほぼ中央部分の「G」ですから、音域のバランス的にもピアノの和音にマスキングされ聴感的に弱く聴こえてしまいます。
 練習の段階でヴァイオリン「単独」での音色と音量の変化を考えます。
ピアノと一緒に演奏してみて、その変化が効果的な場合もあれば、消えてしまう場合もあります。ピアニストの技術以前に「楽譜」の問題の場合がほとんどです。ピアノの「和音」と「音域」を、ピアノ単独で考えた場合に最善の「楽譜=最も美しく聴こえる楽譜があります。それがヴァイオリンと一緒に演奏したときにも「最善」か?と言えば必ずしもそうではないと思います。
 ヴァイオリニストの我がまま!(笑)と言われることを覚悟のうえで書けば、ヴァイオリンとピアノの「音圧の違い」を踏まえたアレンジ=楽譜を演奏する時の自由度=バランスを考えなくても演奏できる場合と、常に「これ、ヴァイオリン聴こえてるのかな?」と不安に感じ、弓の圧力を限界まで高くし、ヴィブラートをめいっぱい(笑)かけ、弓を頻繁に返す演奏の場合があります。どちらも「楽譜通り」に演奏したとしても、お客様が感じる「音の溶け方=混ざり方」の問題です。演奏者に聴こえるバランスではないのです。
 自分の音と、相手の音のバランスはホールによっても変わりますから、神経質になってもよくないと思います。ある程度の「当てずっぽ=勘」で演奏するしかありません。ただ自分の演奏が「平坦」になってしまわないように気を付けて演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽町コンサート終了

 2022年11月23日(祝日)長野県木曽町「木曽福島」でのコンサートを無事に終えました。主宰された木曽福島町生涯学習課の皆様、会場にお越し頂いた多くのお客様に心から感謝を申し上げます。昨年11月に長野県「キッセイ文化ホール」主催で実施された同じ会場でのコンサートを今年は木曽町が引き継いで開催してくださいました。来年もまた、開催していただけることになりました。

 昨年は相模原と木曽福島を「日帰り」と言う強行スケジュールでしたが、今年は前泊することにして11月22日昼間、八王子から特急あずさに乗って塩尻~中央本線特急しなので現地に向かいました。

 木曽町が予約してくださった宿「御宿蔦屋」伝統と風情を感じる中に、新しい設備とおもてなしの心、素晴らしいお料理の旅館でした。駅にお迎えに来てくださった木曽町生涯学習課のかたに、この宿に行く前に是非!見て欲しい施設があるのでご案内したいとのお話で、11月19日にオープンしたばかりの施設「木曽おもちゃ美術館」へ。廃校になった小学校を使った、木曽ヒノキをふんだんに使った「木のおもちゃ」で子供も大人も心から楽しめる素晴らしい美術館。
到着したときにはすでに閉館していましたが、反省会をされているスタッフの皆様に出迎えられ案内された、「元体育館」の天井を取り外し、階段状の木のベンチを客席にしたホール。足を踏み入れた瞬間に感じた「木の残響」は、国内のどのコンサートホールにも勝る、物凄く自然で豊かな響き!あまりの興奮を抑えきれず、持っていたヴィオラとヴァイオリンでステージに置かれていた「小学校で20年前まで使われていた」アップライトピアノを使って数曲、演奏させて頂くことになりました。施設で働くスタッフが全員(笑)をお客様にしてのコンサート。演奏中からあちこちで聴こえるすすり泣きの声。皆さんが開館に向けて日々疲れ聴いておられたらしく、こんなホールだったんだ!という感動もあっての涙。「写真とっても良いですか?」「どーぞ!」「動画とっても良いですか?」「どーぞ!」「SNSにアップしても良いですか?」(笑)「どーぞどーぞ!」という事で、アップされた動画がこちら。

https://www.instagram.com/reel/ClR3P_OBj1a/?utm_source=ig_web_copy_link&fbclid=IwAR2T76JIaUQ-5GmJpRrv-tpzZv5Jo5S6KUZ-zVnOKkWlldO9DlZotnVDJLg

 見学と演奏を終えて旅館で休み、翌日は朝から雨。おいしい朝食を頂き、歩いても2分ほどの演奏会場「文化交流センター」に木曽町の車で(笑)移動。
 ホールには大昔のスタインウエイが私たちを迎えてくれました。このピアノも廃校になった小学校の体育館に眠っていたもの。昨年私たちが気付くまで、木曽町長、教育長も誰もその価値を知らなかったと言う事実(笑)
 リハーサルを終えて、浩子さんが居残りリハの動画。

・パガニーニの主題によるラプソディ
・椰子の実
・彼方の光
・Earth
・明日
・アニーローリー
・瑠璃色の地球
・美しきロスマリン
・アリオーソ
・ハンガリー舞曲第5番
アンコールに応えて
・我が母の教え給いし歌
・ふるさと
12曲を木曽町所有の陳昌鉉さん製作のヴァイオリンと、愛用のヴィオラこれも陳昌鉉さんの2010年製作の楽器…で演奏しました。
 木曽福島では「木曽音楽祭」と言う伝統的なクラシック音楽フェスティヴァルが介されていますが、私たちのコンサートは「身近に感じるコンサート」として、クラシック以外の音楽も町民の方々に「無料」で楽しんで頂くイベントです。
 来年、先述の木曽おもちゃ美術館でもぜひ!コンサートをと言う話も進んでいます。また楽しみが増えました。
 最後にコンサートに来てくださった皆様、木曽町の皆様に心よりお礼を申し上げます。
 お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

二刀流って二硫か?(笑)

 写真はどちらも陳昌鉉さんの 製作された楽器です。
木曽福島で開催されるコンサートでこのヴァイオリンとヴィオラを使用します。
ヴァイオリンは陳昌鉉さんが名誉町民である木曽福島町に寄贈された楽器です。
縁があって昨年に続き2度目の演奏になります。

 なぜ?わざわざヴィオラの演奏もするの?ヴァイオリンだけじゃダメなの?
そう思われても当たり前ですね。
 ヴァイオリンの音色とヴィオラの音色を、一回のコンサートで楽しめる…これも「あり」だと思うのです。もちろん、違う演奏者が演奏するケースもあります。ただ、同じ演奏者が「持ち替え」て弾き比べ=聴き比べすることで、楽器による「違い」が明確になります。
 私自身から考えれば、同じ曲でもヴァイオリンで演奏した「音楽」とヴィオラで演奏した「音楽」が違う事を感じています。単に音色や音量の違いだけではありません。それほどに違う2種類の楽器であることを、聴いてくださるお客様に体感していただくことで、アンサンブルやオーケストラでなぜ?ヴィオラという楽器が必要なのかも理解されるのでは?とも思っています。
 ヴィオラはヴァイオリンよりも個体差の大きい楽器です。自分の気に入ったヴィオラに出会う確率は、ヴァイオリンよりも低いかも知れません。そもそも製作される本数が違います。ヴィオラの「良さ」を知ってもらうことで、ヴァイオリンの良さも再発見されるかな?と思っています。
 ヴァイオリンとヴィオラの演奏方法が「違う」のは当然です。「似て非なるもの」なのです。ヴィオラは「ヴァイオリンがうまくない人が演奏する楽器」と言う大昔の定説があります。演奏方法が似ていて、弾き手が少ないから…確かにそんな時代もありました。でも本当に美しいヴィオラの音色を聴いてもらえれば、その間違った説が覆せると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽ファンを増やすために

 映像は昨年11月に実施された木曽福島でのコンサートの模様。この時はキッセイ文化ホールの主催によるコンサートでした。今年は同じ会場で、木曽福島町主催によるコンサートとなります。入場無料で100名のお客様が来場されます。
「クラシックコンサート」の明確な基準はありませんが、クラシックの音楽も演奏します。それが「つまらない」と思うかたは元より聴きに来られることは無いかもしれません。私たち夫婦のコンサートは「音楽ファンを増やす」事をコンセプトにしています。「お子様向けコンサート」ではありません。「音楽鑑賞教室」でもありません。ポップスだけのコンサートでもない「聴いて楽しめる」コンサートを目指しています。

 メリーオーケストラの演奏会も、デュオリサイタルも基本的には同じ考え方をもとにしています。メリーオーケストラはアマチュアとプロが「一緒に演奏する」と言う変わった形態の演奏です。私たち夫婦が「プロ」としての能力・技術があるのかないのか…それは私たちが決めることではありません。お客様の「満足度」がすべてだと思っています。コンサートを聴いて「楽しめた」と思える時間だったか?それが私たちへの評価だと思っています。クラシックだけを演奏するコンサートが好きな人にとっての「音楽」と、そうでない人が初めて体験する「音楽」は同じ演奏でもまったく違う価値のものになります。期待するものが違うのです。クラシック音楽のコンサートを楽しみにする人にも「初めて聴くクラシック」があったはずです。また「好きになったきっかけ」もあったはずです。
その出会いがまだ、ないという人が大多数です。まして「クラシック」と言う言葉に「古い」「つまらない」「長い」「マニアの好きな」と言うネガティブなイメージが付きまとう人も多くいます。「懐石料理」と聴くと「高級」「お金持ちの食べるもの」と言うイメージがあるのと似ています。
 コンサートのイメージを身近なものにする「コンサート」ですそ野を広げます。その後は、他のかたにお任せします!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な想像力と協調性

 映像は台湾生まれでオーストラリア国籍のヴァイオリニスト、レイ=チェンが演奏するシベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト。何度聴いても素敵な演奏だと思います。他の同世代のヴァイオリニストと比べて「インパクト」が圧倒的に強い!1楽章が終わって拍手をしたくなる観客の気持ちがよくわかります。
 彼の演奏を冷静に聴いていると「自由」と「共生」を感じます。そして自分の演奏に対して他人からの評価を基準にしない「強さ」も感じます。
 20歳の時、エリザベートコンクール優勝したチャイコフスキーのコンチェルトにも感じられる「想像力の豊かさ」は彼特有の世界観を表現しているように思います。
「誰かがこう弾いたから」や「普通はこう弾くから」と言った固定概念よりも、音楽を演奏する自分の「想像力」を最大限に引き出す努力と技術は、本来演奏する人間に追って一番大切なことです。ただ単に「人と違う事をする」のとは違います。自分の想像するものを具現化する力です。これを「自由」と言う言葉に置き換えてみます。

「共生」と表したのは、彼がオーケストラと一緒に音楽を演奏しようとする気持ちです。よく聴くとオーケストラが旋律を演奏している時に、レイ=チェンは完全にオーケストラの演奏したい「テンポ」「リズム」を優先していることがわかります。むしろオーケストラの1パートとして、一体になっています。これは、彼が他人=他の演奏者を思う気持ちの表れだと思います。自由に演奏してもオーケストラが影響を受けない部分、範囲では楽譜に書かれていないリズムで演奏しても、オーケストラと絡み合う部分では決して自分勝手にリズムを崩さない上に、オーケストラ演奏者に拍が聞き取りやすい弾き方で演奏する余裕があります。だからこそ、オーケストラも思い切り、一番良い音で演奏しよう!と感じるのではないでしょうか。ソリストに「合わせにくい」と感じればオーケストラは抑え気味に演奏することになります。ソリストの独りよがりではないことが、音楽全体のエネルギーを増幅させています。

 想像力を具現化する技術は、自分の演奏技術を発展させることに直結します。
楽譜を音に、音を音楽にしていく過程で「想像」することは、演奏家にとってそれまでの経験をすべて使う作業です。体験し記憶している「感情」「風景」「人」「物語」を音楽の中に落とし込むことです。もし、悲しい経験しか、記憶にない人が音楽を演奏すれば、悲しい感情しか想像できないことになります。記憶は「思い出」でもあります。自分だけの思い出を、音楽で表現する。まさに「自由な創作行為」ですよね。多くの思い出こそが、多くの物語を想像できます。10代より20代、30代と年齢を重ねる中で嫌な経験も増えます。子供の頃の楽しかった思い出を忘れてしまいがちです。多感な幼児期に部屋にこもって、音楽だけを練習するよりも、友達と遊び・喧嘩をし・仲直りし…それらの思い出を大切に忘れないで育てることが親の役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートの中で子音を作る

 映像はデュオリサイタル13。エンニオ=モリコーネ作曲「ガブリエルのオーボエ」をヴィオラとピアノで演奏したものです。演奏はともかく…素敵な曲ですね。こうした「レガート=滑らかな音のつながり」で演奏する曲の場合に、音の切れ目=発音がはっきりしない(輪郭がぼやける)音になってしまいがちです。レガートだから…と言って「ピンぼけ写真」のような印象になってしまえば、滑らかと言うよりも「もやもやした」音楽に聴こえます。
 演奏するホールの残響時間にも影響を受けますが、まずは演奏自体が「クリアな変わり目」であることが第一です。ポルタメントやグリッサンド、スライドなどで、音の変わり目を意図的に「点」ではなく「曲線」にする演奏技法もありますが、多用しすぎれば「気持ち悪い」「いやらしい」「えげつない」印象に聴こえてしまいます。
 歌の場合、特に日本語の歌詞の場合に「子音」が多く音の変わり目=言葉の切れ目を、聴く側が想像も加えながら聞き取れます。逆に子音が少ない歌の場合や、意図的に子音を弱く歌う歌手の「歌詞」は滑らかですが音の変わり目を、感じにくく、言葉の意味が聞き取れないこともあります。

 移弦を伴うレガートや、1本の弦で大きな跳躍を伴うレガートの場合には、それ以外の場合=同じ弦で2度、3度の進行との「違い」が生じます。
 同じ弦の中でのレガートでも、左手の指で弦を「強く・勢いよく」押さえることでクリアな音の変わり目を出そうとすると、固い音になりがちな上、弦を叩く指の音が大きくなりすぎる場合があります。むしろ、弓の速度・圧力を制御しながら、左手の指の力を抜いて「落とす」ことの方が柔らかくクリアな音の変わり目を作れるように思っています。
 移弦を伴うレガートの場合には、一般的な演奏方法なら「先に二つ目の音を指を押さえて移弦する」のがセオリーです。ただ、この場合に弓の毛が二つ目の弦に「触れる=音が出始める」瞬間に発音しにくくなります。音が裏返ることや、かすれることもあります。だからと言って、弓の「傾斜の変化」を速くすれば、一つ目の音との間に「ギャップ」が生まれます。レガートに聴こえなくなります。
移弦の時、弓の傾斜を変えるスピードは演奏者によって大きく違います。
例えて言えば次の弦に「静かに着地」する移弦の方法と「飛び降りる」ような速度で「着弦」する違いです。どちらにも一長一短があります。
 そこで考えられる方法が移弦する瞬間に、二つ目の音の指を「同時に抑える」方法です。弓の毛が二つ目の音を発音するタイミングと、左手の指が二つ目の音を押さえるタイミングを合わせる特殊な方法です。ずれてしまえば終わり(笑)
左手指で音の変わり目を「作る」ことで、レガートで且つクリアな移弦ができます。とっても微妙なタイミングですが、無意識に移弦するよりも何億倍も(笑)美しく移弦できると思います。お試しあれ!
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンらしい音色と音楽

 映像は、ミルシテインの演奏するショパン作曲ノクターン。
古い録音でレコードのスクラッチノイズ(パチパチという音)の中から聴こえる音色と音楽に、現代のヴァイオリニストの演奏には感じられない「暖かさ」と「柔らかさ」「深み」を感じます。録音技術の発達とともに、より微細な音も録音・再生できるようになった現代ですが、私にはこのレコードに含まれているヴァイオリンの「音色」で十分すぎるほどに、演奏者のこだわりを感じます。
コンサートで聴くヴァイオリンの音色は、演奏者が聴く自分の音とは違います。
ましてや、演奏者から10メートル以上も離れた場所で聴く音と、現代のデジタル録音したものとでは「違う楽器の音」と言えるほどの違いがあります。
 その違いはさておいて、ミルシテインの奏でる「音色」と「音楽」について、演奏する立場から考えてみたいと思います。

 音の柔らかさを表現することは、ヴァイオリンの演奏技術の中で、最も難しい技術だと思っています。「楽器と弦で決まる」と思い込んでいる人も多い現代ですが、何よりもヴァイオリニスト本人が「どんな音色でひきたいか?」と言うこだわりの強さによって変わるものです。柔らかい音色を「弱い音」とか「こもった音」と勘違いする人がいます。私たちの「触感」に置き換えて考えればわかります。
柔らかいもの…例えば羽毛布団やシフォンケーキ。
柔らかい触感と「小さい」や「輪郭のはっきりしない」ものとは違います。
私達は柔らかいものに「包み込まれる」感覚を心地よく感じます。
固いものに強く締め付けられることは、不快に感じます。
そして「暖かい」ものにも似たような交換を持ちます。熱いもの、冷たいものに長く触れていたいとは思いません。
 現実には音に温度はありません。固さもありません。ただ、聴いていてそう感じるのは「心地よさ」の表現が当てはまる音だから「柔らかい」「暖かい」と感じるのだと思います。

 では具体的にどうすれば、柔らかい・暖かい音色が出せるのでしょうか?
・弓の圧力
・弓を置く駒からの距離
・弦押さえるを指の部位
・押さえる力の強さ
・ヴィブラートの「丸さ=角の無い変化」
・ヴィブラートの速さと深さ
・ヴィブラートをかけ始めるタイミング
ざっと考えてもこれ位はあります。
演奏する弦E・A・D・Gによっても、押さえるポジションによっても条件は変わります。当然、楽器の個性もあります。それらをすべて組み合わせることで、初めて「柔らかい」と感じる音が出せると思っています。

 最後に「音楽」としての暖かさと優しさについて考えます。
ミルシテインの演奏を聴くと、一つ一つの音に対して「長さ」「大きさ」「音色」の変化を感じます。言い換えると「同じ弾き方で弾き続けない」とも言えます。これは私たちの会話に例えて考えてみます。
以前にも書きましたが、プロの「朗読」はまさに音楽と似通った「言葉の芸術」だと思います。同じ文字を棒読みしても、意味は通じます。ただ、読み手の「こだわり」と「技術」によって、同じ文字にさらに深い「意味」もしくは「感情」が生まれてきます。朗読には視覚的な要素はありません。動きや表情も使って表現する「俳優」とは別のジャンルの芸術です。
 文字=原稿には、強弱や声の「高さ」「声色」は指定されていません。それを読む人の「感性」が問われます。まさに楽譜を音楽にする演奏家と同じことです。
 一つ一つの音の「相対」つまり前後の音との違いを、音色と長さと音量を組み合わせた「変化」によって表現することで「揺らぎ」が生まれます。
楽譜に書かれてない「ゆらぎ」はともすれば「不安定」に聴こえたり「不自然」に聴こえたりします。そのギリギリの線を見切ることで、初めて個性的な演奏が生まれます。簡単に言ってしまえば「違うリズム・違う音に感じない範囲」で一音ずつを変化させることです。さらに、一つの音の中にも「ゆらぎ」があります。ヴィブラートや弓の速さ・圧力による響きの違いを長い音の中に、自然に組み入れることで、さらに深い音楽が生まれます。
 音楽を創ることが演奏者の技術です。それは演奏者の「感性」を表現することに他なりません。楽譜の通りに演奏するだけなら、機械の方が正確です。
人間が感じる「心地よさ」を追及することが、私たちに求められた役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦と弓の毛のエイジングと良い音の寿命

 映像は3年前、代々木上原ムジカーザでのデュオリサイタルで演奏したドヴォルザーク作曲「ロマンティックピース」の一曲。
今回のテーマは、ヴァイオリン・ヴィオラの「弦」について。
以前にも弦の種類についてのブログは書きましたが、ちょうど来週、長野県でのコンサートと12月18日、来年1月7日のリサイタルに備えて弦の張替えや弓の毛替えを進めています。
 弓の毛替えは先日、いつもお世話になっている櫻井樹一さんの工房でヴァイオリンの弓2本、ヴィオラの弓1本の毛替えをして頂きました。
 木曽福島で使用する、陳昌鉉さん製作のヴァイオリンには数日前に生前、陳さんが一番好きだった弦の音色に近い弦のセットを張り替えました。こちらは、ナイロンの弦で張った直後は「キンキン」「バリバリ」と言う表現の音がうるさく聴こえます。毎日、時間の経過とともに音色が落ち着いていきます。
 経験上、およそ1週間ぐらい経った状態が、このヴァイオリンに一番合った音色になる「と感じる」ので、少し早め10日前に張り替えました。
 この弦に限らず、ナイロンの弦の「良い音がする寿命」は約2週間。それ以後は、余韻が極端に短くなりこもった音になります。その後は1年経ってもあまり変化しません。さらに言えば、弦が落ち着くまでに1週間から10日間かかるので、実際に「最高の音」が出る状態は約一週間…私の個人的な感想です。
 一方、ヴィオラと私のヴァイオリンに張るのは「ガット弦」です。
こちらの「エイジング=弦が楽器になじむまで」の期間は、弦の太さによって差があります。最も太いD線よりもA線が落ち着くまでの期間が一番長いのは、恐らく構造上の問題です。ヴィオラの場合はまた違います。
 ガット弦は音質が急激に落ちることがありません。むしろ、完全にガットが「伸びきった状態」言い換えると、湿度や温度の変化に、全く反応しなくなった時点でガット弦の寿命が終わったとも言えます。調弦が大変!と言うアマチュアヴァイオリニストのガット弦への不満を聴くことがありますが、ナイロン弦の場合でも「良い音の出る期間」には小まめに調弦が必要であり、むしろその変動幅はガット弦よりも大きい場合がほとんどです。価格の面で考えても、ガット弦の方が、良い音の期間が長く一概に「ガット弦は高い」とは言い切れません。

 
 最後に弓の毛のエイジングと寿命について。
職人の技術と使用する馬のしっぽの毛によって、大きな差があります。
櫻井さんに張り替えてもらった弓の毛は、張り替えて数日で松脂が毛に馴染み、伸びも収まるので演奏会に使用できます。さらに、張り方の技術差は弓のスティックの強さと曲がりによって、職人が針の強さを左右で調整できるか?と言う職人の経験が問われます。「すぐ切れるのは悪い毛」と言う考え方には疑問を感じます。何よりも「演奏の仕方」と「演奏する曲」で弓の毛が切れる頻度は大きく変わります。むしろ演奏する曲によって、主に使う弓の場所が違うため、摩耗する部分が変わります。張り過ぎの状態で演奏すれば、スティックの弾力を最大限に使えません。逆に毛の張りが弱すぎれば、毛を痛める原因にもなります。
 何よりも松脂を塗りすぎる人が多いように感じています。弓の毛と弦が音を出すための「摩擦」は松脂だけで作られているのではありません。毛の表面の「凹凸=おうとつ」で削られた松脂が「こぶ」になり、さらに摩擦の熱で「溶ける」ことで粘度が増えます。毛の表面の凹凸は、次第に減っていきます。さらに、経年劣化で、弾力を失い細くなります。寿命は「●●時間」と書かれているものもありますが、何よりも松脂を普段から「必要最小限」で使っていれば、摩擦が減ってきた…滑りやすくなったことを感じるはずです。その時が「弓の毛の寿命」です。
 どんな弦でも、弓の毛でも「なじむまでの時間」と「良い音の出る期間」と「寿命を迎えた時期」があります。それぞれのタイミングを見極めるのも演奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうとgざいました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

何気ない曲の何気ない難しさ

 もう15年も前になる初めてのデュオリサイタルで演奏した、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」よりメロディー。あまりにも多くのヴァイオリニストが演奏されているこの曲、実は自分の中で「何かが難しい」…何が難しいのかが自分でもよくわからないのですが(笑)そんなこともあって、今までにあまり演奏してこなかった曲の一つです。次回のリサイタルでリベンジ!と思い立ち、ユーチューブを聞きまくってみました。皆さん、じょうずに演奏されているのですが、自分の好みに合う演奏が見つからない。明らかに他の演奏者と違う解釈で演奏されている「ヤッシャ様」(笑)の演奏がこちらです。

 ハイフェッツ様だから許される?(笑)大好きな演奏なのですが、個性的過ぎて「猿真似」になりそうで近づけません。いや…近付けるはずもないのですが。
 曲の好みで言えば、大好きな曲の中に入るのに自分で演奏すると「どこが好きなんだよっ!」と自分に突っ込みを入れたくなるほど。
 聴くことが好きな曲と、演奏したい曲が違うのはごく普通の事です。
でも、よく考えると聴くのが好きなら「ひいてみたい」と思うのが自然な流れのはずです。弾けない…という事でもないのですが、自分の演奏が好きになれません。「それ以外の曲は満足してるのか?」と言われれば、冷や汗ものです。
 趣味の領域で「楽しむ」事と、お客様に聴いていただく立場で自分が「楽しむ」ことの違いなのかもしれません。好きだから怖くて弾けない?(笑)
ぶつぶつ言っていないで、なぜ納得できる演奏が出来ないのかを言語化してみます。

 調性はEs dur=変ホ長調。特に苦手とか嫌いとかはありません(笑)
4分の3拍子。問題なし。重音の「嵐」も吹かない。特別に出しにくい音域でもありません。むしろ「普通に弾ける」言い換えれば、弾きやすい曲でもあります。
モチーフも覚えやすく、リズムもシンプル。
 中間部の軽い動きが「苦手」なのは否めない事実です。
気持ちが先走って、冷静に弾けていないことが一番の原因と分かりました。
とにかく、一音ずつ練習しなおし!
好きな曲を、気持ちよく弾けたら最高に気持ちいいですよね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ファンになりました。

 映像は2年前、かてぃんこと角野隼人さんのラジオ番組にゲスト出演していた、ピアニスト亀井聖矢さん。先日のロンディボー国際コンクールで同率1位。
20歳(今年21歳)で桐朋学大学4年生…って計算が合わないぞ?それもそのはず、17歳で高校から「飛び級制度」で桐朋学園大学に特待生で入学。桐朋学園では「初の飛び級入学」
 正直、かてぃんのチャンネルで共演していたりする動画は見ていましたが、名前を知ったのは今日が初めてです。そして、彼のいくつもの動画を見て、あっさり「ファン」になってしまいました。
 私はピアノの演奏技術の「優劣」がわかる人間ではありません。ただ感じるのは、「純粋に素敵なピアニストだ」という感想なのです。彼の「素顔」も知りません。性格だって知りません(笑)彼の演奏を見て、聴いて感じることを書いてみます。

 何よりも強く感じるのは、深刻さ・悲壮感を感じないという事です。
子供の頃の演奏動画もアップしています。10歳の頃の「ラ・カンパネラ」をご紹介します。

 「愛知の神童」だったかどうかは知りません(笑)が、これが10歳の演奏か…。素直に「この曲がひいてみたい」と言う少年の素直な気持ちがそのまま音楽になっている気がします。演奏活動をコロナで阻まれながらも、国内の主要オーケストラとの共演も既に終わっている(笑)日本音楽コンクールとピティナを同じ年に「一位取り」すると言う経歴にも納得です。
 普段、コンクールで何等賞…と言うニュースにほぼ無関心な私です。そして、話題になった人の演奏動画は一通り見ていますが、正直「感動しない」という感想で今まで過ごしてきました。それは「好み」の問題でしかありません。
 亀井さんの演奏に共感する理由をもう一つ。
「自然なアクションと表現」に感じることです。私はオーバーアクションに見える演奏家が好みではありません。演奏中の表情もそのひとつです。自然に表に出る「感情」や「動き」は理解できるつもりです。それ以上の表情は「作っている」としか思えないのです。もしもその「表情」がパフォーマンス…だとしたら、余計なこと(笑)だと思ってしまいます。
 彼の活動を見ると、「やりたいことを、やりたい時にやっているだけ」に感じます。それが素敵なんです。先を考えて…とか、日本の音楽界のために…とか、作曲家の精神に触れた…とかと言う話を20代の演奏家が話しているのを聞くと「そのセリフは40年後に言いたまへ(笑)」と思うのです。
 純粋に今、やりたいことに没頭する美しさ。評価よりも自分の「価値観」を優先した生き方に、年齢は関係ありません。若いからできること、若いとできないこと。高齢になってできないこと。高齢になって初めてできること。それを素直に受け入れられる「ひと」の演奏が好きです。彼がこの先、どんなピアニストになるのか?とても楽しみですが、何よりも今の彼の演奏が楽しくて好きです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

だめだこりゃ…になった時

 今月23日に長野県木曽福島で開かれるコンサートで、久しぶりに演奏することにした、ラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」
映像はマキシム=ヴェンゲロフさまによる「憧れの演奏」です。
 こんな演奏をしてみたいのですが、現実には…

 過去に自分が演奏したこの曲の動画、3本のどれを見ても「逆」なんです。
なにが?(笑)アウフタクトに感じるパッセージを「アップ」、その後の重さのある1拍目を「ダウン」という運動…これ自体は間違っていないのですが、長い音をアップで膨らませたい!となると、アウフタクトを「ダウン」にして1拍目を弓先から「アップ」にしたい!のに…体と脳が「忘れてくれない」現象が起きています(泣)
 そもそも、楽譜と音楽と動きを頭の中で一つの「イメージ」にして記憶するようになってから、特に弓のダウン・アップの優先順位は「下位」になっています。むしろ「音楽」が先頭に来ているので、運動はあまり意識せずに演奏する習慣がついてしまっています。
 意図的に、弓の動き=ダウン・アップを優先しようとすると、音楽が引き算されると言う最悪の状態になります。だめだこりゃ!…と長さんの声が聞こえます(笑)しかも、楽器が「借り物」なので思ったところに思った音がない(笑)という現実。

 自分が「できない」と思う壁に直面することは、楽器を演奏する人には避けて通れない「運命的」なことです。しかも、それまである程度「出来ている」と思っていたこと、「なんとかかんとか弾けている」と思っていた曲に対して、自分自身が「ダメ出し」をして出来ていない・ひけていないことを発見したときの悲壮感…それまで見えていなかった部屋中の「ゴミ」が一気に見えてしまって、まるで五味屋敷の中に突然いるような恐ろしさと挫折感(笑)。
 どこから?手を付けても綺麗になる気がしない・できる気がしない…その気持ちに負けない「精神力」「気力」を生み出せるのは、結局自分自身だけです。
 誰かに助けてもらったとしても、きっとまた「汚れる・できなくなる」という不安が付きまといます。自分の手でゴミを一つずつ・できないことを一つずつ拾って片づけることの繰り返しをするのが一番です。
 自分にとって「苦に感じない」ことのつもりで片づけるのが有効な方法です。
私の場合、単純作業で「いつか終わる」…例えば教員時代にテストの採点を、1学年200人分を一晩で終わらせることには、ほとんど苦痛を感じないでやっていました。今でも、発表会やメリオケの動画編集を、その日のうちに終わらせる(笑)ことにも「大変だ!嫌だ!」と感じたことはありません。嫌なことはしない主義なので(笑)人によって「苦にならない」事は違います。他人から見れば「変なの」と笑われたり驚かれたりするのが、実はその人の「特技」かも知れません。ぼーっとするのが好きなひとなら、それが一番の特技です。本を読みだしたらいつまででも読みたい人なら「読書が特技」だし、どこでも寝られる人なら、それが特技です。その特技を「できない」と思う事に利用する方法を考えます。何も考えずにいることが「特技」なら、なにも考えずに演奏してみるのが一番の解決方法です。寝るのが特技の場合には?寝ている時の「快感」を感じながら演奏してみる…のかな(笑)
 私の場合には、日常が出来ないことだらけなので「できないこと」への耐性ががある程度(笑)ついていますが、今回の「だめだこりゃ」は結構しんどいです。まずは、頭の中で音楽と「腕の動き」を一致させるイメージトレーニングと、物理的にどうすれば「長い音が弓先から始まるか」を考えて、長い音の前の音、さらにその前の音からの「連続」で、どうやっても=考えなくても、長い音が弓先から始まるように「身体に覚えさせる」繰り返ししかなさそうです。
 身体が慣れるまで、頭を使う。これが鉄則です。身体の動き=運動が、意識しなくても理想の運動になるまでは、常に運動の前に「意識」する習慣をつけます。その意識があるうちは、他の事は意識できません。なので、出来るだけ、「エアーヴァイオリン」で練習するのが私流です(笑)「ラファソラレ~」「シドレラ~」右腕を動かす…変なおじさんになるので、人のいない場所で(笑)
 壁を超える→また壁にぶつかる→壁を超える
この繰り返しを楽しめるようになりたい!ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

チェロとヴィオラ・ヴァイオリンのヴィブラートを比較する

 映像は、チャイコフスキー作曲の「ノクターン」
チェロで演奏されることの多いこの曲を次回のデュオリサイタルで「ヴァイオリンとピアノ」で演奏してみます。そこで、参考までにヴァイオリンでの演奏を探してみました。

え  

 演奏の好みは別の問題として、今回はヴィブラートの違い…特に、チェロとヴァイオリン・ヴィオラの違いについて考察してみます。
 私自身、ヴァイオリンのヴィブラートよりもチェロのヴィブラートが好きです(笑)「言い切るか!」と思われそうですが、高校時代の親友がチェリストだったこともあり、自分のヴィブラートに不満のあった(今もある笑)私が、観察の対象にしていたのが「チェロのヴィブラート」なのです。
 特徴として「動きの可動範囲が大きく速い」「波=音の高低が滑らか」であることがヴァイオリンとの違いです。演奏技術によって差はあります。ただ、多くのチェリストのヴィブラートを聴いても、やはりこの「違い」は明らかです。
 ヴィオラでチェロの「真似」をしようと足掻いてみたことがあります。
サン=サーンスの白鳥やシューベルトのアルペジオーネソナタ、他にも多数。
ただ…どう頑張ってもなにか不自然に感じます。それは「音域」の違いと「筐体=ボディーサイズ」の違いだけではなく、ヴィブラートそのものに違いがることに気が付きました。

 「逆手」と「順手」と言う言葉をご存知でしょうか?
鉄棒や「ぶら下がり健康機」を手でつかむ時の「向き」のことです。
順手は手の甲が自分の方を向き、逆手は掌=てのひらが自分の方を向きます。
二つの握り方によって、使われる筋肉が変わります。特に「懸垂」で筋肉を鍛える場合には、に切り方によって鍛えられる筋肉が違います。
 マッチョを目指さない私にとって(笑)、懸垂は出来なくても良いのですが、ヴァイオリンやヴィオラを演奏する「左手」は実は逆手になっています。
一方、チェロやコントラバスの場合、左手は「順手と逆手の中間」つまり、腕を体に沿わせて「だらん」と下げた状態の時の、手の向きになります。掌が「身体の内側」に向き、手の甲が「外側」に向きます。この状態で普段、私たちは歩行しています。日常生活の中でも、掌を下に向けて作業することは、ごく自然にできます。何かにつまずいて、前のめりになった時に「手をつく」のは「順手」です。尻もちを付いて手を付く時にも、掌を下にします。つまり、私たちの祖先に近い「猿」が両手を使って「歩く」こともあるように、掌は下に向いた状態「順手」が自然な状態なのです。進化した私たちは「両手を内側に向ける」ことも、自然な「手の向き」になりました。

 逆手「以上」に掌をひねりながら演奏する楽器は、ヴァイオリンとヴィオラしかありません。管楽器…フルートの場合でも左手が「逆手」ですが、あくまでも掌が自分の方に向く角度までで演奏できます。クラリネット、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバ、打楽器、ピアノ、ギター、ハープ…どの楽器も掌の向きは「順手」もしくは、順手に近い向きで楽器を構え演奏します。逆手であるがゆえに、ヴァイオリン・ヴィオラは、楽器の「肩」部分に左手が当たって、ハイポジションでの演奏がさらに困難になります。当然この掌の角度でヴィブラートは極めて「不自然」な動きになります。
 その点、チェロとコントラバスは、ハイポジションになっても、左手の親指を指板の上に出すことで、掌と手の甲の「向き」は変えずに弦を押さえられます。
「理にかなった弦の押さえ方」です。ヴァイオリンを最初に演奏し始めた「誰か」がいるはずなのですが、恐らく「チェロの原型」や「胡弓」「二胡」「馬頭琴」のように、弦が「縦方向」に張られているのが弦楽器の「ご先祖」だと思います。それを「首に当てて=弦を水平方向に張る向きで演奏する」という「業虚?荒わざ」を試して、「だめだこりゃ」にならず「うん!これだ!」って感じたんでしょうか?(笑)
高い音を出したくて「小さくした」のか?それとも、持ち運びを考えて「小さく」したのか?どっちにしても、チェロの構え方のままで演奏すればよかったのに…。ぶつぶつ…。

 ヴァイオリン、ヴィオラのヴィブラートは、手首と肘関節の運動でかけます。
一方でチェロ、コントラバスのヴィブラートはもっと自然に「左腕全体」を利用してかけられます。どの弦楽器も「指で弦を押さえる」事に違いはありません。
ギターのようにフレットのないヴァイオリンやチェロの場合、押さえ方を少し変えるだけで、音の高さが変わってヴィブラートがかけられます。左手「指関節の柔軟性=可動範囲の大きさ」でヴィブラートの幅が決まります。
 ヴィブラートは「自然に聴こえるための技法」だと思っています。
ただ速く動かすだけを意識したヴィブラートは、聴いていて不自然に感じます。
「痙攣ヴィブラート」「縮緬=ちりめんヴィブラート」と呼ばれる「細かいヴィブラート」」を好むヴァイオリニストもおられますが、私にはヒステリックに感じてしまいます。
 遅すぎず、深すぎないヴィブラートを理想にしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


フラットが5つ付くと何が起こる?

 映像は6年ほど前に演奏したラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」です。
日本語の表記で書くと「変ニ長調」英語表記なら「D flat Najor」ドイツ語表記なら「Des dur」です(笑)

 ヴァイオリンの為に作曲されたヴァイオリン協奏曲は「D dur」ニ長調のものが多い理由はご存知の方も多いと思いますが、ヴァイオリンの開放弦が低い方から「G・D・A・E」ソレラミで、D durの「主音」がD=レ、「下属音」がG=ソ、「属音」がA=ラ、加えて言えばE線の開放弦である「E=ミ」の音は、「属和音=A・Cis・E」の第5音でもあり、結果としてすべての開放弦の音がD durの「核となる音」になります。このことで、ヴァイオリンの持つ「倍音」が最も響きやすく、かつ演奏しやすいのがシャープが二つの音「ファ・ド」に付く調性「ニ長調=D dur」で、ヴァイオリンの持つ最大限の「ポテンシャル」を発揮できることになります。チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルト、ブラームスのヴァイオリンコンチェルト、ベートヴェンのヴァイオリンコンチェルトはすべて「ニ長調」で書かれています。
 では、それ以外の「調性」だとヴァイオリンの音色は「悪くなる」のでしょうか?結論は「いいえ」です。それを説明します。

 冒頭のラプソディは「シ・ミ・ラ・レ・ソ」にフラットが付く調性なので、開放弦の音は「音階固有の音ではなくなる」つまり、臨時記号が出てこない限り、開放弦の音は使われずに演奏される曲になります。音楽全体が「柔らかい音」になる…あるいは「すべての音が均一な響きになる」とも言えます。
 シャープ系の調性の場合、たとえば先述のニ長調の場合で考えると、音階固有の音は「レ=D・ミ=E・ファ♯=Fis・ソ=G・ラ=A・シ=H・ド♯=Cis・レ=D」になりますので、7種類の音の中で4つは「開放弦にある音」で残りの3つが「開放弦にない音」になります。当然、この2種類で大きな違いがあります。
作曲家はそれを逆に利用して音楽の「色付け」を考えます。
 有名な曲でフラットいっぱい!の曲をもう一曲。

 先日のブログでピアノがうまい!とピアノ演奏をご紹介した名ヴァイオリニスト「フリッツ=クライスラー」が演奏するドヴォルザーク作曲の「ユーモレスク」フラット6つ!の調性「変ト長調=Ges dur」がオリジナルの曲です。ヴァイオリン教本などでは、半音高く移調して「ト長調=G dur」シャープ1つの調性で弾きやすくしてあるものが見かけられますが、ご本家はこちらです(笑)演奏を聴いていただくと、すべての音が「均一」という意味が伝わるかと思います。かと思えば「それ、やりすぎちゃん(笑)」と思えるものもおまけに。

 このお方も先日の「ピアノがうますぎ!」に登場していただいた、ヤッシャ=ハイフェッツ大先生が「編曲」し「ヴァイオリンを演奏」されている、サン=サーンス作曲の動物の謝肉祭より「白鳥」ですが…オリジナルは「ト長調=G dur」なのに、わざわざ!半音下げた「変ト長調=Ges dur=フラット6つ」に移調して、ピアノの楽譜も「やりすぎ~」な感が否めません(笑)移調するだけでは気が済まなかったのか…。ヴァイオリンらしさを出したかったのか…。

 最後にもう一曲。こちらは以前にも紹介したジャズピアニスト小曽根真さんのアレンジされた「ふるさと」を採譜=楽譜に起こして、ヴィオラとピアノで演奏したものです。これも「フラット5つ」の、Des dur=変ニ長調で演奏されていたのでそのままの調性で演奏しています。歌の場合、歌いやすい高さに移調することが一般的です。恐らく歌われていた神野美鈴さんが一番歌いやすい調性だったのでそうね。

 今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまく弾くより、大切に弾きたい。

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した、村松崇継さん作曲MIYABIこと竹内まりあさん作詞の「いのちの歌」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 自分で聴いて演奏は「傷」だらけです。この演奏で自分がなにを伝えたかったのか…。演奏できることへの「感謝」です。歌詞の最後「この命に ありがとう」にすべてが込められた音楽に感じながら。「生まれてきたこと 育ててもらえたこと 出会ったこと 笑ったこと その すべてに ありがとう」という詩から続く「いのち」への感謝。演奏できることは「命がある」ことです。私たちは生きていることが「当たり前」で、今生きていることに感謝する意識を持っていません。「生きていてよかった!」と言う言葉は、九死に一生を得た人の言葉だと思っています。「死ななくてよかった」と思うのに、普段は生きていて当たり前って矛盾していますよね。それ以外の場面で「今までの人生で最高に幸せ!」と感じる時にも、このセリフが出ますが(笑)それまで生きていて感謝してこなかったのか!と突っ込みたくなりませんか?(笑)

 さて、テーマは「大切に弾く」ことの「大切さ」…かぶってます。
少しでもうまく弾きたいとか、うまく弾けないとか、自分はうまくないとか…自分の演奏に納得できない人は(私もです)「上手な演奏」を理想にしています。そのくせ、何が上手なのか?について、じっくり考えもしないで「自分はへただ」と思い込む謎(笑)このテーマは過去にもブログで書きましたが、演奏する人にとって最大の「命題」です。
 音楽を大切にすることは、自分の考え方を大切にすることです。
もっと言えば、自分が生きること、生きていることを大切にすることだと思います。「けっ。安っぽい説教か」と思う皆様。ごめんなさい(笑)あくまで私自身の「懺悔」です。お許しを。
 ヴァイオリンを演奏して生活するための「学校」を卒業し、ヴァイオリンから20年間離れて生活したのは「生きるため」に他なりません。その長い時間を終えて「再スタート」してから18年と言う時間が経ちました。まだまだ演奏したい気持ちもあります。ヴァイオリンに「蓋」をした20年間がなければ今、ブログを書いている私も存在していません。
 楽器を演奏するひとは「じょうずに弾きたい」という一種の「麻薬」にはまります。楽器に限らず、スピードの出せる車に乗ると「もっと速く走りたい」という欲望=麻薬に駆られます。パソコンの性能も同じです。「もっと」と言う欲の根源が自分自身の力ではなく、他人の作った「比較」の世界から始まっていることに気付かないのが最も恐ろしいことです。
 楽器も音楽も「誰か」が造り出したものです。それをただ、演奏して楽しんでいるのが「演奏者」です。さらに他人が自分よりじょうずか?自分の方がじょうずか?は「他人の技術」の問題をただ自分と比較しているだけです。自分の技術とは無関係なことに、イライラしたり「負けない!」と思うのは考えてみれば「アホらしい」ことだと思うのです。
 自分の出している音を、練習中も大切に思う事。楽譜に書かれている音を、大切に思う事。楽器を大切に思う事。
大切にすることを「怯える」と同義語にしないことです。むしろ反意語「雑に扱う」「無視する」に注意すべきです。演奏することに怯えていては、大切にできません。テキトーに「チャラビキ」するのが最も「雑な演奏」です。
 いくら言葉や外見を装って「大切にしているの!風演技」をしても、聴く人には嘘がばれてしまいます。その違いは、時間が経てばたつほど、明確になります。偽物は時間と共に「劣化」します。本物は時間と共に「深化」します。絵画にしても文学にしても建築物にしても、時間が経っても人々に愛され続ける「本物」と、「中古」として価値が下がり続けるものに分かれます。
 演奏はその場だけの芸術です。録音は「時間を切り取ったもの」です。
私たちが演奏する「音楽」は、無意識にしている「呼吸」と同じです。
じょうずな「呼吸」を目指すより、呼吸できることに「感謝」するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の重さと軽さ

 映像はクライスラーの「美しきロスマリン」を代々木上原ムジカーザで演奏したときのものです。同じ曲を杜のホールはしもとで演奏した動画が下の映像です。

 テンポの違い、弾き方の違いで音楽のイメージが大きく変わることがお分かりいただけるかと思います。好みは人によって違います。今回のテーマである「音楽の重さ・軽さ」は音楽を演奏する人の「技術」に関わるお話です。

 そもそも、音楽=音には物理的な「質量=重さ」は存在しません。人間の感覚的なものです。音楽以外にも「重苦しい雰囲気」「重たい話」と言う言葉や、「軽い食感」など実際の「重さ」とは違う表現で「思い・軽い」と言う言葉を使います。音楽の場合の重さ・軽さとは?どんな感覚の時に使うのでしょうか?
「重く感じる音楽や音」
・遅い・長い音・大きい・芯のある音色
「軽く感じる音楽屋音」
・速い・短い音・大きくない・高い音
例外もあります。さらに前後との「相対=比較」でも重さは変わります。
当然、組み合わせられて、より「重く・軽く」感じるものです。
これは推論ですが、私たちが実際に感じる「重たい物・軽い物」を持った時の「感覚」と関係があるようです。
 重たい荷物を手に持って歩く時、遅くなりますよね?腕や肩、腰、背中、足にも「力」を入れます。長い時間や距離を歩くと息切れします。速く「下に置きたい」気持ちになります(笑)
 軽い荷物なら?何も持っていない時と同じ速度で歩けます。走ることもできます。もしそれまで、重たい荷物を持っていたら「軽くてらくちん!」と思うはずです。
 ところが!「重厚」と言う言葉と「軽薄」と言う言葉を考えると、どうも…重たい方が「偉いらしい」(笑)気もしますね。「重みのある言葉」とか「軽率な行動」とか。「重たいことはいいことだ」あれ?どこかで似たような歌を聞いた覚えが…(笑)重鎮…まさに偉そう過ぎて嫌われる人の事。

 音楽で重たく感じることが「良い」とは限りません。ちなみに「軽音楽」と言う表現でポピュラー音楽をまさに「軽蔑」するひとを私は「軽蔑」します(笑)
ブルースやジャズが「軽い」とは思いません。クラシックが「重たい」と言うのもただの先入観にすぎません。
 曲によって、重たく聴こえるように演奏したほうが「ふさわしい」と思える曲もあります。逆に軽く聴こえるように演奏「したい」と思う場合もあります。

 映像はフォーレの「シシリエンヌ」をデュオリサイタル12で演奏している映像と、デュオリサイタル9の演奏にぷりんの写真をつけたものです。
 一般にこの曲は、下の演奏のテンポで演奏されることが多いのですが、ゆったりしたシシリエンヌの場合「安らぎ」や「落ち着き」を感じる気がしてあえて、テンポを遅くして演奏してみました。これも好みが分かれますが「このテンポで弾かなければいけない」という音楽はあり得ません。弾く人の「自由」があります。それを聞いた人が「これもいい」と思ってくれるかも知れません。

 最後に、演奏を意図的に重くしたり、軽くしたりする技術について。
前述の通り重たく弾きたいのであれば、実際に「重たい荷物を持って歩く」時の筋肉の使い方を演奏中に感じてみることです。速くは出来ないはずです。力を抜いてしまえば荷物を落としてしまいます。常に「一定の力」を維持することが必要です。さらに坂道を上るとしたら…音楽で言えば「クレッシェンド」と「音の上行」が同時にあれば、ますます「遅く・苦しく」なるはずです。
 軽く演奏したいなら、身体の力を「外」に向かって開放するイメージで演奏してみます。楽器を「中心=コア」に感じて、楽器から外に向かって「広がる」イメージを持つと、筋肉の使い方が「外側」に向く力になります。脱力するだけでは、まだ「重さ」が残っているのが人間の身体です。重力には逆らえませんから(笑)、浮上することは出来ません。力を身体の外に「放出」する方向に力を使えば、軽くなるイメージがつかめるはずです。
 一曲の中にはもちろん、ひとつの「音」にも重さの変化が付けられます。
軽く弾き始めてから、徐々に重くできるのが弦楽器や管楽器、声楽です。
その「特徴」を最大限生かすことも、弦楽器奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

もしもピアノが弾けたなら♪

 映像は、ゲーテの詩にチャイコフスキーが曲を作った「ただ、憧れを知る者だけが」を、「ソ連」を代表する歌手「ヴィシネフスカヤ」が歌い、夫であるチェリスト「ロストロポーヴィチ」がピアノを演奏しているものです。
 次回のリサイタルで演奏するための「予習」で色々な演奏者の演奏を聴いています。そんな中でロストロポーヴィチのピアノが「うますぎる!」(笑)
 私自身、ピアニストの演奏技術については無知なので、この演奏が本当に「うまい」のか?ピアニストの方から見たものとは違うと思います。
 学生時代、ロストロポーヴィチが桐朋学園に来られた際、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを指揮し、ハイドンのチェロコンチェルト第1番を演奏して「実地訓練」(笑)をしてくださったことを懐かしく思い出します。
 指揮にしてもソロにしても「音楽の静と動」特に「前に進む音楽」を強く指示されていました。かと思えば弦セレの1楽章中にある「リタルダンド」部分で「アイシテル!アイシテル!ア・イ・・シ・・テ・・・ル~♪」と日本語で歌いながら「流れを止める」技術(笑)も見せてくれました。
 そんな偉大なチェリストが演奏する「声楽の伴奏ピアノ」を聴いて思い起こすのは、世界的なヴァイオリニスト「ヤッシャ=ハイフェッツ」のピアノ演奏です。実際に演奏している動画がこちらです。

 うますぎる(笑)「天は二物を与えず」って嘘だべ。
ここまで来たらこの人のピアノも(笑)フリッツ=クライスラーの演奏するドボルザークのユーモレスク。

 なんだなんだ!みんなピアノうますぎるぞ。
音楽高校入学試験に「ピアノ副科」があります。私も受けました。
高校・大学で副科のピアノは必修で試験も受けました。高校3年のピアノ副科試験でベートヴェンの「悲愴」1楽章を弾きました。スケール全調…その場で試験官の先生から指定される音階を私も弾きました。
 さらにさらに!20年間、中学校・高校の音楽教諭として合唱の指導で「音取り」のピアノも「伴奏ピアノ」も弾いていました。校歌も20年間、事あるごとに弾いてました。なのに。あーそれなのに(笑)どーして、私にはピアノがうまく弾けないのでしょうか。
 答えは簡単「うまくなる気がない」それだけです(笑)練習しないのに、うまく弾けるはずがありません。当然です。
 …ん?そうすると,ロストロポーヴィチもハイフェッツもクライスラーも「ピアノを練習した」のです。それ以外ありえません。あんなにチェロやヴァイオリンがうまい方たちが「ピアノもうまい」わけです。
仮説(笑)
「ピアノが楽器演奏の基本だからピアノもうまくなった」
「彼らはピアノを演奏するのが好きだった」
「チェロもヴァイオリンもうまい人はピアノもうまい」
「野村謙介は特にピアノがへたである」
恐らくすべて正解です。
ピアノを上手に弾ける方々を、心から尊敬しております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ジャンルを超えた「感性」

 八神純子さんの「パープルタウン」です。
ウィキペディアによれば…
[1958年1月5日、八神製作所創業家出身で後に同社第4代会長となる八神良三の長女として、名古屋市千種区で生まれる。
3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習う。幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を歌い続け、両親を呆れさせたという。
一方で、八神は自分の少女時代について「小学校の頃はすごく不器用でぎこちなくて、自分のことが好きではなかった。運動が得意な子はもてはやされ目立っていましたが、私は内気でまったく目立たない存在でした」とインタビューで語っている。
愛知淑徳高等学校に入学すると、フォークギターのサークルを作り、ギターを持って他校の文化祭へ行ったこともあった。ヤマハのボーカルタレントスクールにも通い始め、歌の練習に明け暮れていた。また高校在学中に曲を作り始め、1974年の16歳のときに初めて「雨の日のひとりごと」を作詞・作曲した。」
だそうです(笑)

 私と同世代の八神純子さんの歌う声に、学生時代から不思議な魅力を感じ、レコードを買い「オーディオチェック」にも使わせてもらっていました。ちなみに、当時オーディオチェックには「岩崎宏美」さんのレコードも良く使われていました。人間の「声」を美しく再生できることが良いオーディオの基準でしたので、この二人の声はジャンルに関係なく、多くのオーディオファンが聴いていました。

 ただ「高い声を出せる」とか「声域が広い」と言う歌手は他にもたくさんいます。また、その事を売りにしている歌手もいます。それはそれですごいと思います。私が「感性」と書いたのは、音の高さ…では表せない「歌い方」の個性を強く感じているからです。
 ヴァイオリンに置き換えるなら「音程の正確さ」「音量」よりも「演奏の仕方」です。
 歌は人間の声を使って音楽を演奏します。当然、一人一人の「声」は違います。楽器の個体差よりも、はるかに大きな個人差があります。聴く人の好みが大きく分かれるのも「声=歌」です。八神純子さんの「声」が好きなだけ?と問われれば…否定は出来ません(笑)
 八神さんの「歌い方の個性=技術」を考えてみます。

「ヴィブラートの使い方」
「長い母音の歌い分け」
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」
「音域ごとの声質の使い分け」
どれも「プロの歌手ならやってる」のでしょうね(笑)
もう一度、このポイントを覚えてから、映像の歌声を聞いてみてください。
「普通じゃない」ことに気付いてもらえると思います。
これらのポイントはすべて「ヴァイオリンの演奏」に置き換えられます。
「ヴィブラートの使い方」←そのまんま(笑)ヴァイオリンに言えます。
「長い母音の歌い分け」←長いボウイングでの音色・音量のコントロールです。
「ブレスの速さ=フレーズの長さ」←弓を返してもフレーズを切らない。
「音域ごとの声質の使い分け」←弦ごとの音色の使い分けです。
ヴァイオリンでこれらのすべてが「個性」につながることは、以前のブログでも紹介しました。
 しかも八神純子さんの「正確さ」についても、述べておきます。
ピッチの正確さは、どの歌手にも劣りません。しかもピアノを弾きながら歌うことがほとんどの彼女が、バックバンドのドラムやペースのライブ音量=大音量の中でも正確に歌っている姿を見ると、ピアノの「音」を聴きながら同時に自分の声を聞き取ろうとしている…と推測できます。

 歌手の「うまさ」をどんな基準で測るのか?と言う問題には様々な意見があります。それはヴァイオリンやピアノの演奏技術、フィギアスケートの評価などにも言えることです。
「間違えないこと」が「うまい」ことは確かです。
では「間違えないだけ」がうまいことの「基準」かと言えば違います。
「他の人が出来ないことをする」のも、うまいの一つです。
言い換えれば、「まちがえない人」が、できないこと…これは「相対比較」なので無限にあります…をできるのも「うまい」ことの基準だと思います。
 たとえば「高い音にヴィブラートをかける」ことや「短い音にヴィブラートをかける」こと、ヴァイオリンなら「重音にヴィブラートをかける」←ヴィブラートの話ばっかり(笑)その他にも「音色の豊富さ」「音量の変化量」など、「正確」以外の要素も聴く人に感動を与える要素だと考えています。
 世界中に「歌のうまい歌手」はたくさんおられます。
それぞれの歌手が「個性的」で、聴く人の心に訴えかける「なにか」を持っています。その「なにか」を「人間性」と言う人もいますが、私はそれこそが「技術」だと思っています。
 自分の演奏を聴いて「いい演奏だ」と思える日が来るまで、人の演奏を聴いて感動することも大切な「貯金」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由に演奏する技術と知識

 映像はステファン=グラッペリさんのライブ映像。
ジャズ‥素人の私が勝たれるものは何もありません。
クラシック音楽の何を学んだのか?と問われて即答できるほど、学んでもいません。中途半端な知識と経験、貧弱な技術で音楽の「真髄」などに近づくことなどできない自分にとって、どうしてもグラッペリの演奏に「憧れ」を感じてしまいます。
 彼の演奏スタイルの、正しい名称が何であろうと、ただ彼の演奏を聴いていると「楽しい」「すごい」「素敵」と思えるのはなぜなのでしょうか?クラシックヴァイオリンの演奏技法との違いや共通点を「演奏から」推測してみます。

 テファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli、1908年1月26日 – 1997年12月1日)は、フランスジャズヴァイオリニスト

 彼の「音楽歴」について書かれているページはあまりありません。
幼い頃から庭や路上でヴァイオリンを演奏し、15歳頃にはプロとして活動していたようです。いわゆる「独学」「自己流」だと言えます。
音楽大学やレッスンで「習った」音楽ではなく、「自分の力で身に着けた音楽」です。習うことが上達の「近道」だと言われますが、それがすべての方法でもなく、最善の方法でもないことをグラッペリさんの演奏は物語っている気がします。

 

 上の映像はメニューインとグラッペリの共演映像です。
メニューイン…と言えば、今もクラシックヴァイオリン演奏技法を理論化した名ヴァイオリニストとしてあまりにも有名な演奏家です。そのメニューインが明らかにグラッペリに「引き寄せられている」のを感じます。深読みすれば、グラッペリさんの演奏技術が「自己流」だとしても、メニューインをもってして「まいりました!」な確かなテクニックをグラッペリさんが持っていることの証だと言えます。

 クラシック音楽は、楽譜に忠実に演奏することが基本中の基本です。
一方でジャズは、その場で即興演奏すること・できることが基本です。
明らかに両者の「基本」が違います。クラシック音楽を学ぶ人はまず「楽譜を正確に音にする」技術を学びます。一方でジャズを学ぶ…演奏しようとする人は「楽譜」ではない「演奏のルール・セオリー」を経験と知識で学びます。
ひとつの例で言えば、クラシック音楽のヴァイオリニストは「和音」だけを与えられれば「和音」で弾くことしかできません。良くて「アルペジオ」(笑)
一方でジャズヴァイオリニストはそこから「音階」や「旋律=メロディー」を即興で演奏します。それはクラシック音楽の世界で言えば「作曲」の分野です。
作曲し奈がが演奏することは、クラシックヴァイオリニストには求められません。
似たようなこと・それっぽい演奏をいかにも「即興でひいているのよ!すごいでしょ!」←なぜか女性の言葉遣い(笑)な人を見かけると、原チャリのマフラーを外して「おいら、世界一はやいぜ!」といきっているお兄ちゃんを思い起こします。あ、ごめんなさい(笑)

 クラシック音楽の世界で「カデンツァ」と呼ばれる「楽譜」があります。
本来、カデンツァは「即興演奏」で演奏者の好きなように演奏することを指す言葉です。現在、完全に演奏者オリジナルの「カデンツァ」を演奏するヴァイオリニストを見かけることはありません。楽譜の「一部分」を自分流に替えて演奏すれば「オリジナル」だとも言えますが、大部分は誰かほかの人が書いた楽譜をそのまま、演奏しているのが現実です。それでもカデンツァはカデンツァと呼ばれています(笑)
 カデンツァではありませんが、私と浩子さんがある曲を演奏しようとする時、参考にする「楽譜」がいくつもあります。それらの中で「いいとこどり」をすることも珍しくありません。その意味では「クラシック演奏とは言えない」とのお叱りはごもっともです。また「誰かのアレンジした楽譜を違う人のアレンジと混ぜるのは問題だ!」と言われれば、それも甘んじてお受けいたします(笑)
「盗作だ!」は違います。私たちが「作った」とは一度も言ったことはございません。
 私たちの演奏する「曲」は、旋律と和声を作曲した「作曲家」と、その曲をアレンジ=編曲した「編曲者」が別にいる場合があります。前者の楽譜をそのまま、忠実に演奏することもできます。また、その曲の一部(和声やリズムなど)を「アレンジ=編曲」して演奏することもできます。そういった楽譜が手に入ることも事実です。さらに言えば、クラシック音楽でも「リアレンジ」された楽譜はいくらでも手に入ります。ポピュラーだけではありません。「そんな楽譜はクラシックではない!」そうでしょうか?楽譜を書いた作曲家が「本当にそう楽譜に書いたのか?」という議論はクラシック音楽でもよくあることです。事実、作曲途中で作曲家が死去した場合、友人や弟子が残りの部分を「作曲」して完成させたクラシック音楽もたくさんありますよね?ダッタン人の踊りもその一つです。「楽譜の通りに演奏する」ことに異論はありませんが、「そうしなければクラシック音楽ではない」という考え方は間違っていると思います。

 最後に、演奏家がグラッペリさんのように「自由に」演奏するために釣ようなことを考えます。ひとつには「知識・セオリー」を覚えるための学習と練習が必要です。これは楽譜の通りに演奏している場合でも言えます。なぜなら、楽譜はランダム=無作為に音符や休符を並べたものではなく、聴く人が聴き馴染んだ「リズム」や「旋律」「和声」になるように書かれている「曲」だからです。
その曲をなんの知識もなく「音楽」にすることは不可能です。さらに、あるリズムがあったときに、それをどう?演奏すれば自然に聴こえるのか?と言うセオリーも覚える必要があります。それらを経験で覚えていくことが、自由な演奏につながる第一歩だと考えています。
 さらに、演奏者が演奏中に好きなように=思ったように「音を見つけ・作る」技術が不可欠です。これもクラシック音楽に当てはまります。「楽譜の通りに間違わなければ必要ない!」と思いがちですが、実際に音楽は「その場で生まれる芸術」ですよね?これから演奏しようとしている「音」は、その瞬間だけの命を与えられた音です。過去のどんな音とも違うはずです。その「新しい音」を出す時に、どんな音で演奏するかを考えることは、演奏家の責任ではないでしょうか?楽譜は「音」ではありません!
 「自由な発想」は「抑制・規制された発想」から生まれると考えています。
無人島でひとり暮らすことになって「自由でありがたい」とは思わないはずです。私たちの日常は、「しなくてはいけない・やってはいけない」ことの中でおこなわれます。その中で「してもよい・しなくてもよい」が自由に感じるのです。
音楽を演奏する時の「自由」は「何を弾いても良い」という意味ではありません。演奏者同士、あるいは聴く人との間の「調和の限界」を考えることができなえければ、本人以外が楽しむことはできません。それを学べるのは「経験」だけです。自分以外の人と演奏する経験、知らない人の前で演奏する経験、知らない音楽を演奏する経験…演奏は練習も含めて「経験」で作られているものです。
 自由な演奏が出来るように…地道に頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量(音圧)より大切なもの

 今回のテーマは、ヴァイオリンなどの弦楽器演奏に「より大きな音量」を求める傾向に物申す!です(笑)
映像は「手嶌葵」さんの歌声と[ロッド・スチュアート」の歌声です。
クラシックの「声楽」とは明らかに違う「歌声」です。好き嫌い…あって当たり前です。特に人間の「声」への好みは、楽器ごとの個体差とは違い、本能的に持っている「母親の声」への反応を含めて好き嫌いが明確にあります。
 大学時代に副科の声楽で「発声方法の基本」をほんの少しだけ学びました。
印象を一言で言えば「難しすぎてなんもできん」(笑)中学時代、合唱好きだったのに…。声楽専攻学生を尊敬しました。
 ポピュラーの世界で「歌う声」には、何よりも「個性」が求められます。
過去に流行った歌手の歌い方を「真似る」人が多い現代。個性的な「歌声」の人が少なくなってきた気がします。
 それはヴァイオリンの世界にも感じられます。
特に「音量」を優先した演奏方法で、より大きく聴こえる音で演奏しようとするヴァイオリニストが増えているように感じています。
 楽曲が「ヴァイオリンコンチェルト」の場合と「ヴァイオリンソナタ」の場合で、ソリストに求められる「音」にどんな違いがあるでしょう?

 まず「レコーディング」の場合には、ソリストの大きな音量は必要ありません。それが「コンチェルト」でも「演歌」でも、技術者がソリストと伴奏のバランスを後から変えることができることには何も違いはありません。
 一方で、生演奏の場合は?どんなに優れたヴァイオリニスト(ソリスト)が頑張っても、物理的に他の楽器との「音量バランス」は変えられません。むしろ、他の演奏者が意図的に「小さく」演奏するしかありません。さらに言えば、ヴァイオリンコンチェルトの場合、オーケストラのヴァイオリニストが10~20人以上演奏しています。その「音量」とソリスト一人の「音量」を比べた場合、誰が考えてもソリストの音量が小さくて当たり前ですよね?20人分の音量よりも大きな音の出るヴァイオリンは「電気バイオリン」だけです(笑)
仮にオーケストラメンバーが「安い楽器」で演奏して、ソリストが「ストラディバリウス」で演奏しても結果は同じです。むしろ逆にオーケストラメンバーが全員ストラディバリウスで演奏し、ソリストがスチール弦を張った量産ヴァイオリンで演奏したほうが「目立つ」と思います。
 ヴァイオリンソナタで、ピアノと演奏する場合でも「音圧」を考えればピアノがヴァイオリンよりも「大きな音を出せる」ことは科学的な事実です。
ヴァイオリンがどんなに頑張って「大音量」で演奏しても、ピアノの「大音量」には遠く及びません。
 音量をあげる技術は、小さい音との「音量差=ダイナミックレンジ」を大きくするために必要なものです。ただ「ピアノより大きく!」は物理的に無理なのです。ピアノ=ピアノフォルテの「音量差」はヴァイオリンよりもはるかに大きく、ヴァイオリンとピアノの「最小音」は同じでも、最大音量が全く違います。
 ピアニストがソロ演奏で「クレッシェンド」する音量差を、ヴァイオリン1丁で絵実現することは不可能です。つまりピアニストは、ヴァイオリニストに「配慮」しながら「フォルテ」や「フォルティッシモ」の音量で演奏してくれているのです。ありがとうございます!(笑)

 ヴァイオリンやヴィオラで大切なのは、より繊細な「音量の変化」「音色の変化」を表現することだと思っています。そもそも、ヴァイオリンなどの弦楽器は作られた時代から現代に至るまでに、弦の素材が変わり、基準になるピッチが高くなったこと以外、構造的な変化はしていません。今よりも小さな音で演奏することが「当たり前」に作られた楽器です。レコーディング技術が発達し、音楽を楽しむ方法が「録音」になった今、録音された「ソリストの音量=他の楽器とのバラ数」を生演奏に求めるのは間違っていると思います。そもそもヴァイオリンの音色や音量を分析して「音の方向性」「低音高音の成分」を分析してストラディバリウスを「過大評価」しても、現実に聞いた人の多くが聞きわけられない現実を考えた時、聴く人間が求めているのは「演奏者の奏でる音楽」であり「大きな音」や「イタリアの名器の音」ではないはずです。ヴァイオリンの音量を大きく「聞かせる」技術より、多彩な音色で音楽を表現できるヴァイオリニストになりたいと思うのは私だけでしょうか?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弾く側・聴く側のホール選び

映像はヘンデルのオンブラ・マイ・フを私と浩子さんが演奏したものです。上の演奏は5回目ののデュオリサイタルで客席数520名「杜のホールはしもと」で、下の映像は同じデュオリサイタル5で最大定員200名ほどのサロンホール「代々木上原ムジカーザ」での演奏です。
 今回のテーマは、演奏者と聴衆がそれぞれの立場で「演奏会場の大きさ」「響き」の違いをどうのように感じているのか?というものです。

 以前のブログで会場ごとの「残響」や「響き」の違いがあることを書きました。一般的に「音楽ホール」は余韻が長く「多目的ホール」は逆に余韻が短い特徴があります。その理由も以前書きましたが、スピーチやら億語など「言葉の聞き取りやすさ」を考えれば余韻は短い方が適しています。
 さて、演奏する側で考えた場合「演奏しやすい」「気持ち良く演奏できる」ホールがあります。ひとつの要因は「演奏した音の演奏者への戻り方=聴こえ方」です。ポップスコンサートの場合「モニター=跳ね返り・返し」と呼ばれる演奏者に向けたスピーカーを設置することが多くあります。特にボーカル(歌手)が自分の歌っている声が自分に聴こえるようにするための工夫です。
 クラシックコンサートで、演奏者が自分の出している音が「聴こえない」という事は通常あり得ません。ピアノの音が大きく聴こえすぎて、自分のヴァイオリンの音が良く聴こえない…とすれば、立ち位置を考えれば解決します。
 自分の楽器の「直接音」ではなく、会場内の空間に広がった音が、舞台に「戻ってくる」音が聴こえるホールが「演奏しやすい」ことに繋がります。
ただその「戻ってくる音」は直接音より遅れて=後から聞こえてきます。その時間差が大きすぎれば逆に演奏しにくい環境になります。また山彦のように「重なって戻ってくる音」も気持ちの良い音ではありません。
リハーサル時、ステージ上で手を「ぱんっ」と叩いてみると、会場の残響がステージにどのように?どのくらい?返ってくるのかを確かめられます。本番で客席が満席の場合、残響時間は明らかに短くなります。音の戻り方も変わります。
 サロンホールの場合、基本的に残響時間は短くなります。それでもムジカーザは演奏者にも聴衆にも「気持ちよい残響時間」がある希少なホールです。
演奏者に1番近い位置で聴いても、残響を感じられます。もちろん、ヴァイオリンやピアノの「直接音」も楽しめます。これは「聴く側」がサロンホールで楽しめる「独特の響き」です。

 演奏する会場の大きさと客席数は比例します。ただ「残響」は必ずしも一定には変化しません。
1.小さいスペースで残響が短い(一般の日本家屋の室内・お寺の構内など)
2.小さいスペースで残響が長い(天井が高く壁や床が石造り)
3.広いスペースで残響が短い(野外での演奏)
4.広いスペースで残響が長い(教会や音楽専用ホール)
少人数のアンサンブルなら上記「2」か「4」が理想ですよね。
ただ広く・大きい会場の場合「使用料金」が比例して高くなります(笑)
使用料に見合う「収入」をあげるための「集客力」が求められます。

 大編成のオーケストラ演奏を聴くなら「大ホール」で残響時間の長い「響き」で楽しめます。一方、小編成の室内楽は、直接音と残響を楽しめる「小ホール」「サロン」で聴きたいと思っています。コンサートを企画し開催する「主催者」の収益を考えるなら、大ホールで集客する方が効率的に高い収入を得られます。
 杜のホールを満席にする集客力のない私たちの場合は、ホール使用料金を考えれば、サロンや小ホールでの開催しかありえません(笑)
ムジカーザのような「響きの良いサロン・小ホール」がもっと増えることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「なんとなく…」の少ない演奏や演技が大好き!

 映像は、私たち夫婦が大好きな「パトリック・チャン」のスケートによる「演技」です。フィギアスケートが「競技スポーツ」である場合、やれ「何回転ジャンプ」が成功しただの、着氷がどうしただので「減点」されて順位が決まるのは、音楽のコンクールでの「順位付け」と似ています。。ただ、私たちは同じ競技スケートでも、彼の「技術の高さ」が他の選手たちと根本的に違って感じます。それが何故?なのかを考えていきます。

「なんとなく滑っているだけ・動いているだけに見える時間が少ない」のが彼のスケートの魅力です。通常の「振付」だと、なんとなく音楽に合わせた「ようにに見える」動きなのに対し、彼は「動きに合わせた音楽」を選び、時にはつなぎ合わせて作り、さらにその音楽を動きで表現しているように見えます。この違いです。手をあげる…運動一つでも、なんとなく挙げているようには見えません。
 以前、スケート選手だった織田さんが「彼のコンパルソリー技術(昔の規定演技)はものすごいんです。一蹴りで恐ろしい速度で恐ろしい距離を滑るんです。スケーティングの時、エッジで氷を掴む音がものすごく大きい!」という話をされていました。何が違うのか?素人にはわかりませんが、オリンピック選手でさえ驚く「特定の技術」があることは確かです。

 「なんとなく音を出しているだけ・弾いているだけに聴こえる音が少ない」
これが私たちの好きな演奏・目指す演奏の一つの「理想」です。
何も考えずに・何も感じないで演奏している「演奏家」はいないと思います。
ただ聴いていて、なにも感じない「音=時間」が多い演奏と少ない演奏があるように感じます。聴く側の感性…好みの問題もあります。演奏者の表現が「内に秘めた表現」なのかも知れません。大げさなら良いとは思いません。
分かりやすい別の例えをしてみます。
以下の動画はある韓国ドラマの「日本語字幕版」と同じ場面を「日本語吹き替え版」で比較したものです。韓国語がわからなくても、「役者さんの話し方=演技」と日本人声優さんの「声の演技」の違いです。みなさんにはどちらが「自然」に感じるでしょうか?

 日本語に吹き替えてあることで、字幕を見なくても「話している内容」が理解できますが、実際に演じている韓国人の役者さんが話す「台詞(セリフ)」を声優さんが聴いて「それらしく」声で演技をしています。
 吹き替えは、実際のセリフを訳した台本を、元の音声の「タイミング」に合わせて声優さんが話して「合成」したものです。見ていて「不自然」に感じることは仕方ありませんが、楽譜を音にする私たち演奏家は、聴く人が「自然に聴こえる」演奏技術が必要だと思います。「棒読み」と言う表現は、
・文章の内容を理解していない
・「強弱」「緩急」「抑揚」がない
・「平坦で無表情な音読」
を言います。演奏を聴く人が「棒読み=棒弾き」に聴こえないように「こだわる」演奏が好きです。
 得点を競う「競技」と違い「芸術性」は点数化できません。
何かを感じる演奏…聴く人が専門家でなくても、クラシック音楽を普段聞かない人でも「なにか感じる」演奏を意識して表現したいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介 

ヴァイオリンで弾くか、ヴィオラで弾くか。

 上の映像は、私と浩子さんがヴィオラで演奏したドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」下の映像は、チェリスト長谷川陽子さんの同曲。
この曲をヴァイオリンで演奏してみよう!と思い立ちました。
…って今更(笑)、元よりクライスラーが編曲している時点でヴァイオリンで演奏するのが「先」かも。

 同じ人間(私)が同じ曲を演奏しても、違う音楽になる不思議。
しかも、11月に木曽町で開かれるコンサートでは、私のヴァイオリンではなく木曽町が所有する陳昌鉉氏製作のヴァイオリンを使って演奏する企画です。
ヴィオラはいつも愛用している陳昌鉉氏が2010年に製作された楽器です。
 同じヴァイオリン製作者の作られたヴァイオリンとヴィオラを、一人の演奏者が持ち替えながら演奏するコンサートです。ヴァイオリンとヴィオラで「大きさ」が違うのは当然ですが、ヴァイオリンにも微妙な大きさ、長さ、太さ、重さ、厚みの違いがあります。日頃使い慣れているヴァイオリンとは、かれこれ45年以上の「相棒」ですが、ヴィオラはまだ12年の「お友達」。木曽町のヴァイオリンは昨年も演奏しましたが、まだ「顔見知り」程度の関係です。

 ヴィオラとヴァイオリンを演奏できる友人、知人がたくさんおられる中で偉そうに書いて申し訳ありません。恐らく私だけではないと思うのですが、ヴィオラを手にして演奏しようとすると「ト音記号がすぐに読めない」と言う現象が起こります。正確に言えば「どの高さのド?なのか考えてしまう」のです。ヴィオラを持つと頭の中で「アルト譜表」と「ヴィオラの音=弦と場所」が、自動的にリンクします。色々な譜表が入れ替わるチェロやコントラバスを演奏する方々を心から尊敬します(笑)

 楽譜を見ないで演奏するようになってから、ヴィオラで演奏していた曲をヴァイオリンに持ち替えて演奏したり、その逆に持ち替えて演奏することが時々あります。ヴィオラで「しか」演奏したことのない曲を、ヴァイオリンの生徒さんにレッスンで伝える時、まず浩子さんに「ト音記号」の楽譜を作ってもらうことから始まります(笑)それは良いとして、楽器を持ち替えて演奏する時の「恐ろしい落とし穴」がありまして…。ヴィオラで演奏している曲を、ヴァイオリンで弾く時、音域が!(笑)ヴァイオリンの最低音「G=ソ」なのを忘れて弾いてしまう恐怖。同じ調=キーで演奏する場合に一番「恐ろしい」ことなのです。
ヴィオラの「中・高音」はヴァイオリンでも当然演奏できますが、音色がまったく違います。筐体=ボディの容積も、弦の長さ、太さも違うので、倍音も変わります。つい「ヴィオラのつもり」でヴァイオリンを弾いてしまうと「…ファ…!」になることもあるので、オクターブを考えて弾き始めることが「要=かなめ」です。
 ヴィブラートの深さ、速さもヴァイオリンとヴィオラでは変えています。
弓の圧力、速度も違います。「慣れる」ことが何よりも重要です。
母の教え給いし歌を、ヴァイオリンで演奏している動画はたくさんあります。
私にとってこの曲は今まで「ヴィオラ」で演奏する曲でしたので、どこまで?どの程度?ヴァイオリンらしく作り直すか…陳昌鉉さんのヴァイオリンにも慣れながら、さらにその3週間後のリサイタルでは、自分のヴァイオリンで違うプログラムを演奏する練習も同時進行です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上達の個人差はなぜ?生まれるのか。

 今回のテーマは「個人差」について考えるものです。
人はそれぞれに違う「個体」です。育つ環境も違います。当然、性格も容姿も違います。それらの「人」が他の人と同じようなことができることと、出来ない(と感じる)ことがあります。
 二本の足で歩くことが難しい人も、たくさんいます。多くの歩ける人たちの中で、走れる人がいます。これも多くの人間が出来ることです。その走る行為の「速さ」を比較したとき「個人差」が現れます。100メートルを何秒で走ることができるか?たった数十年の間に「10秒以下」で走る人が次々に現れました。これは人間が進化したのでしょうか?それとも科学の進歩で、人間の筋力を増強する「技術」の成果なのでしょうか?
 同じ時代を生きる人たちの中で「能力差」があります。演奏にも「個人差」があります。「感性の違い」「解釈の違い」もあれば、「演奏技術の違い」もあります。たとえば、同じ年齢の何人かの子供たちに対して、意図的に同じようなレッスンをしたとしても、演奏技術の上達速度には必ず「個人差」が生まれます。
当然、評価も「同じ基準」で行う必要があります。例えば、リズムを正確に演奏する能力・ピッチを正確に演奏する能力・音名や用語を覚える能力などの違いです。練習環境・練習時間の違いが最大の要因であることは間違いありませんが、それ以外にどんな「違い」があるのでしょうか?

 「知識」「聴覚」「運動」の三つの観点から考えます。
 まず、知識を覚える「能力」と「好奇心」の個人差です。単純に楽器で音を出すというレベルでも、弦の名前やダウン・アップの違い、指番号など「覚える」ことがいくつもあります。それらを覚えることは「学習能力」とも呼ばれます。
同じ月例・年齢の子供でも、大人でもその能力や好奇心に大きな差があります。
教え方による違いもありますが、習う側の「個人差」が顕著に現れます。

 次に音を聴き、音の高さを聞きわける「聴覚」の個人差です。
いわゆる「聴力」とは違います。二つの違う高さの音を「どっちが高い?」と答える感覚の問題です。幼児の場合、言語化する能力の違いはありますが、大人の場合は「聴覚の違い」が明らかにあります。この感覚はトレーニングによって精度が上がります。幼児の時期から「音の高低」を聞きわける習慣のある・なしで、大人になってからスタートする楽器演奏技術に影響します。
音の高さを判別する力を判断する実験方法があります。試してみてください!
日本語…できれば標準語で(笑)以下の言葉で「音の高低」を答えられますか?
「かっぱ、ラッパ、かっぱらった。」
まず、「かっぱ」の「か」が高いか?「ぱ」の方が高いか考えてください。
両方を同じ高さで発音すること「も」できますが、あえて大げさに発音する時、どちらかが高くなり、もう一方が低くなります。さぁ!どちらでしょうか?
高い王の音をドレミファソの「ソ」で、低いと思う方の音を「ド」で弾いてみるとわかりますか?
「ド・ソ」か「ソ・ド」のどちらが「かっぱ」に聴こえますか?
童謡に「ラッパ」も「ド」と「ソ」の組み合わせで「ラッパ=トランペット」に聴こえるのは?
最後の「かっぱらった」の「か」「ぱ」「ら」「た」に「ド」を二つ、「ソ」を二つ当てはめて答えてください。正解は次回ののブログに(笑)うそです。

正解
かっぱ=ド・ソ
ラッパ=ド・ソ
かっばらった=ド・ソ・ソ・ド
です。当たってました?
方言によって違っていたらごめんなさい。
例えば「顎=あご」を岡山弁では「あご=ソド」あを高く言います。標準語では「あご=ドソ」ごを高く発音します。子供の頃、両親の岡山弁を聴いて育った私は、東京の小学校で「ソド」であごの事を普通に言っているつもりで、笑われた記憶があります。これらが「音の高低」を判断する聴覚です。皆様はいかがでしたか?
 ヴァイオリンで、ほんの少しだけ高すぎたり、低すぎたりして、先生から「音程!」と言われ続けたのは私です(笑)いわゆる「ピッチ」に対するセンサーの制度を高めるトレーニングが大切です。チューナーを有効に正しく活用することを強くお勧めします。
 ピッチだけではなく、音色を聞きわけるのも聴覚です。
高音の成分が多い音と少ない音の「音色の違い」を聞きわける技術。
たとえば、駒の近くを演奏したときの音色と、指板の近くを演奏したときの音色の違いです。駒の近くの音は「硬く」感じます。高音の成分が多いのが原因です。弓が少しだけ「跳ねている音」だったり、隣の弦に弓の毛が振れている「雑音」だったり、弓を返す瞬間の「アタック」だったり。聴かなければわからないこと=聴いて判別することがたくさんありますね。

 最後の個人差が「運動能力」です。足が遅いとか、球技が苦手…というお話ではありません(笑)楽器を演奏するために、指や腕を動かします。それが「運動」です。ヴァイオリンを演奏する大人の生徒さんが、弓やネックを「ちからいっぱい」握りしめている…一番多く見られる問題の一つです。
そもそも、4歳の子供でもヴァイオリンを演奏できるのに「大の大人」の握力・筋力が必要だと思いますか?(笑)4歳児と手をつないだ時の「弱さ=柔らかさ」で十分なのです。大人は身体がかたい・子供は柔らかい…とは限りませんよね。子供でも屈伸が出来ない子供もたくさんいます。大人でも180度開脚できる人はたくさんいます。思い込み=大人の言い訳を捨てましょう(笑)
 子供の筋力が大人より弱いのに、子供がヴァイオリンコンチェルトをバリバリ演奏できるのは?
「あれは子供用のヴァイオリンだから」いいえ(笑)普通のグランドピアノでショパンやリストを演奏する子供の場合、オクターブ届かないのにちゃんと弾いている動画を見かけます。ヴァイオリンだけは、子供の身体の大きさに合わせた楽器がありますが、大人用のヴァイオリンと構造も材質も全く同じです。つまり、子供の運動能力でヴァイオリンは演奏できる!ということです。
「私は運動神経ガ鈍いから」「体育の成績が悪かったから」大人の言い訳ですね(笑)これも無関係です。楽器の演奏に必要な「運動能力」は特殊なものです。
「瞬間的な運動」と「持続する運動」を使い分けることです。
さらに「脱力」も瞬間的な脱力と、徐々に脱力する運動があります。
難しいのは前者「瞬間的な力」を入れたり、抜いたりする運動を体得することです。以前のブログで、何度か書いていますので参考になさってください。
 力の「量」は少なくて良いのです。4歳児の「筋力」で良いのです。
プロの演奏を見ていると、物凄く筋力を使っているように見えるのは「外見的」なものです。ちなみにオーケストラの演奏中に一番、筋力を使う人は?
たぶん指揮者だと思います。え?まさか?と思う方、ぜひオーケストラの演奏動画で「引き画面=全体が映っている映像」をしばらく見てください。一番運動しているのは、指揮者だと思います(笑)

 最後に上記の「個人差」で演奏家の優劣が決まるか?というお話です。
結論から言えば「優劣ではなく個性になる」ということです。
大人になってから楽器を始めて、プロになる人は珍しくありませんし、むしろそれが自然だと思います。子供が大人のような演奏をすることの方が「異常=普通ではない」なのです。子供のころから習っていないからうまくならない…それも大人の言い訳です。むしろ、楽器の演奏以外の職業のほとんどは、大人になってから技術を学ぶものですよね?
 楽器の演奏練習で、子供と大人の違いは?
「自由に使える時間の量」だけです。
厳密に言えば「言葉の読解能力」や「集中力の長さ」「筋力」で言えば、大人の方が優れています。国や地域、家庭環境によっては、子供の頃から働かなくてはいけない=自由な時間がない子供もいます。多くの大人は自分で生活する「お金」を稼ぐために仕事をしなければなりません。自由な時間が少ないのは事実です。それぞれに「練習できる時間」に差があります。ただ、それだけ=時間の多さが「演奏家になる=上手に演奏めの条件」ではありません。
 プロの演奏家に求められる「技術」を趣味で演奏を楽しむ人が求めたい気持ちは理解できますし、憧れの演奏を真似することも楽しいものです。趣味の演奏と「プロ=職業演奏家」の演奏に、明確な違いや基準はありません。プロになれる練習方法や最低限の練習時間も、明確なものはありません。
どんな人でもじょうずになれます。到達レベル、目標レベルは人によって違います。上達速度に個人差があるように、あるレベルに到達するための「期間」も個人差がります。年齢に制限はありません。大人だからできない…と思い込むのは大人だけです(笑)逆に言えば、小さいときから練習すれば必ずじょうずになるとも言い切れません。「継続は力なり」です。やめないこと、あきらめないことで得られる「上達」を自分個人のものとして受け入れ、楽しむことが最も大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

19歳の自分を観察する62歳のおじさん

 映像は、1980年の窪田良作先生門下生発表会で演奏した、シベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。ピアノは大先輩の高橋せいたさん。
まぁヴァイオリンの演奏、傷だらけだこと(笑)きっとこの後の「点の声」メモは「音程!肘!」とか先生の怒りが込められていたと思われます。
 当時19歳。大学1年生の年度末実技試験の直前だったはず。
前年にハチャトリアンのコンチェルトを高校卒業試験で弾いて、何か成長しているのか?と思い返しながら聴いてみました。

 久保田先生のレッスンで、新しい曲を始める時には、直前に演奏した門下生から弓と指を写させてもらうのが慣例でした。レッスンではスケール、エチュード、曲を見て頂きます。曲の歌い方や解釈について、生徒の感性を優先してくださり、細かいニュアンスを「こうしなさい」と言うお話をされた記憶はありません。もしかすると諦められていた私だけ?(笑)でも、時折素晴らしい声で歌ってくださることが、何よりも記憶に残っています。
 それにしても…このシベリウスは…(笑)
さらっていない?わけではなさそうですが、「練習が足りない」の一言に尽きます。当時も卒業時も久保田先生に「他の先生方からも言われるんだよ。野村くん、もっと練習すればもっとひけるのにねぇって。」
私「心を入れ替えます」
先生「その言葉、毎回聴いてるよ」
撃沈…
実際、なんでもっと練習しなかったのかな~と今更思って見ます。
一言で言えば「欲が足りない」のだと思います。それは現在の私の生徒さんたちに「しっかりちゃっかり」引き継がれています。まずいぞ…
 さらに言えば、高校大学時代の友人が「うますぎた」という「他人のせい」にしてみます。←さいてー。高校時代の同級生、金木(チェロ現在棟フィル首席)と木全(ヴァイオリン現在N響)は、そりゃまぁうまかったわけで。
大学に進んで。木全はN響に入団が決まり入学後すぐに退学。大学から同期になったヴァイオリン専攻の人とは交流がない。なんとなく?過ごしていた気もします。ダメだろ(笑)
 今聴いてみると、シベリウスの音楽に「何か」を感じているらしい…のですが、技術が追い付いていないわけで、今私がこの学生に言うなら「このままだと、ただの石ころで終わるよ」かな?言えるかな(笑)

 音楽高校音楽大学で、たくさんの人たち色々なアンサンブルをさせてもらいました。高校時代は、弦楽カルテットを同期の友人と。大学に入って、先輩に声をかけてもらって、ピアノカルテットのヴァイオリンやヴィオラ。ピアノトリオ。ピアノとと二重奏。ホルンカルテットとフルートカルテットでBヴィオラ。なんやかんやと毎日のように夜9時まで、なにかの「合わせ」をしていたような記憶。自宅に帰るのが億劫になり始め、両角寮=男子寮に転がり込んで寝たこともしばしば。
 大学1年でなぜか?学生会の役員に「やって」と先輩に言われて(笑)、とうほ際の前後夜祭担当のお仕事をもらい、プレハブの学生会室に入り浸り、「小澤まめ兄」と出会いました。レパートリーオーケストラに昇進(笑)させてもらって、初めてのオケ合宿で北軽井沢。定期演奏会デビューのはずの「ハイドンバリエーション」で張り切っていたのに、直前に「盲腸=虫垂炎」で手術入院。忘れもしない9月4日。パンダのランランかカンカンが死亡したというニュース速報を、手術待ちの病院テレビで聴いていました。どーでもいいことを覚えている…
 大学1年からは「桐朋祭の鬼」と化し(笑)、毎日学生会室で過ごす日々。
さらっていた記憶が…ほぼない。


 

 

なんか…青春しているなぁ(笑)大学時代、一番長くいた場所がもしかすると学生会室、次が学生ホール、その次が事務実(笑)、さらっていたんだろうか…。
でも室内楽のレッスンは色々受けてました。浩子さんと当時「彼氏」だったチェリストとピアノトリオで、原田幸一郎先生と田崎悦子先生が帰国されたばかりで、まだ桐朋の先生ではなかったのに希望を出したらレッスンをしてくれた思い出。大学2年でマスターオーケストラに昇進させてもらって、演奏旅行にも連れて行ってもらいました。春の祭典、第九は印象深いです。でも…さらってなかった(笑)なんででしょうねぇ。プロオケの「トラ」にも行かせてもらうようになって、勉強になりました。アマチュアオケのトラもたくさん行かせてもらって、当時一番ギャラの良かった「スタジオ」もたくさんやりました。夜の9時から深夜までレコーディングスタジオで、演歌やら童謡やら歌謡曲の録音。キティスタジオで熱海?に泊りがけのお仕事があったり。横浜の「ホテル ザ・横浜=通称ザヨコ」で毎週披露宴でヴァイオリンを演奏するお仕事もしてました。栗原小巻さん主演「桜の園」のお芝居を下北沢の劇団「東演」が上演したときには、東京公演一か月と地方公演一か月、ずーっと「ユダヤ人の楽士」役で衣装を着て参加してました。練習するより楽しい」ことがたくさんあったような気もしますが、練習から逃げていたことも事実です。

 練習嫌いだった私が言うので説得力はありませんが(笑)、音楽を演奏するために必要な「技術=テクニック」は練習で身に着ける以外、方法はありません。
ただ…音楽を感じる「センサー」や「アンテナ」は練習では得られません。
さらに、友人の練習や演奏を観察することで得られる「情報」もひとりで練習していても得られません。レッスンで師匠から学べること「以外」に、学ぶべきこと、磨くべきものはたくさんあると思います。友人との会話や音楽以外の生活からも、「人として」学ぶべき時期に学ぶものがあります。
 技術と共に「人としての魅力」を若い時に学べるか?年をとっても「人間らしい音楽家」でありたいと思っています。そして、もし!40年前の自分に会えるなら「さらいなさい!」…言っても聞かないだろうけど(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

音楽の印象を変える演奏方法

 映像はデュオリサイタル10で演奏したピアソラのリベルタンゴです。
すべての音楽は演奏者によって異なります。仮にまったく同じ楽譜を演奏したとしても演奏者が違えば、テンポも音色も音量も違って当たり前です。
 同じメンバーで同じ楽譜を演奏しても、弾き方を変えれば印象は変わります。
リベルタンゴは過去に何度も演奏してきました。また11月の木曽町でも演奏しようかな?と思って過去の自分の演奏を見直しています。

 こちらのリベルタンゴはデュオリサイタル4で演奏したときのものです。
冒頭の演奏と聴き比べて頂くと、違いを感じて頂けるかと思います。
楽譜はデュオリサイタル4で演奏したときのものがベースです。このアレンジに手を加えたのがデュオリサイタル10の演奏です。楽譜が違うだけ?ではありません。アクセントの強さ、音色も変えた「つもり」ですが(笑)
 好みが分かれることはどんな音楽を演奏しても、聴いてもあって当然です。
演奏者が演奏の「スタイル」を変えることは、リスクを伴うものです。YOUTUBEでもCDでも、同じ演奏が気に入れば何度も繰り返して聴いたり見たりするものです。演奏の細かい部分までが聴こえるようになることも珍しくありません。その演奏の「個性」として感じるようになります。言い換えれば「特定の演奏が好き」になることです。そのお気に入りの演奏に期待して、ライブ=コンサートでの生演奏を聴きに行ったひとが「違和感」を感じることもあります。「ライブあるある」なのですが、ポピュラー音楽でもこの話題は耳にします。歌手、演奏者によっては「ライブだからこそCDと違う演奏を聴いてほしい」と考える人と、逆に「CD=以前の演奏とと同じ演奏を心掛ける」人に大別されます。演奏者の「考え方」の違いです。クラシック音楽でも珍しい話ではありません。演奏するたびに「変化」するのが自然だと思っています。それが仮に「一か月」という短い時間経過であっても、演奏は変わるものだと思います。
ましてや何年も経てば、演奏者自身の成長と変化があります。成長は年齢とは無関係ですが、肉体的な衰えがあるのも極めて当たり前のことです。衰えた筋力や運動能力を「経験」で補い成長することもあります。

 弾き方を変える「理由」にはどんなことがあるでしょう。
ただ思い付きで「行き当たりばったり」に代わるのはむしろ練習不足だと言えます。練習の段階で、今までのひき方に疑問を感じる場合もあります。さらに年齢を重ねて「感じ方」が変わる場合もあります。若いころには魅力を感じていなかった曲の「良さ」を感じたりします。逆の場合もあります。単に「飽きた」という事ではなく、魅力が薄れて感じられる場合も珍しくありません。
 演奏方法がいつも変わらない人を「悟りを開いた」(笑)ある領域に到達した人だと見ることもできます。聴く側にすればそれでも問題ありません。好きな演奏をいつでもしてくれるのですから(笑)つまり「特定の演奏」が好きになるのは「録音された音楽」でしかありえないのです。それを演奏者が生演奏で再現する必要があるでしょうか?録音と同じ「音」を生の演奏会場で完全に再現することは、物理的に不可能です。CDとまったく同じ「音」の演奏をライブ=生演奏に期待すること自体が間違っています。ライブの「良さ」は、その瞬間の良さです。再現は出来ないのがライブです。私自身が、自分たちのライブ映像をたくさんアップしている理由の一つはそこにあります。
 クラシック音楽は「生演奏」こそが楽しめるものだと思うようになりました。
その自分が演奏会で、どんな演奏をするのか?を自問自答しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

演奏家の「in put=入力」と「out put=出力」

 映像はヴィヴァルディの二つのヴァイオリンのための協奏曲 第2楽章。
久しぶりに生徒さんのレッスンに採用(笑)です。
 今回のテーマは、音楽を「読み込み」「解釈・練習」「演奏」までの流れを考えるものです。オーディオ好きの人なら「in put・out put」が何を意味するか想像できますね。一昔前の「レコード針とカートリッジ」がオーディオの「入口」でした。そこから「神経」でもあるケーブル=コードを通って、「プリアンプ」に到達。そこで音作りが「処理」されます。さらにケーブルで「メイン暗譜=パワーアンプ」に到達し電気信号が「増幅=大きく」されます。さらにスピーカーケーブルを通った信号は出口である「スピーカー」に到達し、コーン紙を振動させ筐体=箱の中でさらに響いて、最終的に「音」として私たちの耳に伝わります。長い道のりです(笑)

 今でも行われる「録音」でも、入口と出口があります。
演奏される「音」は空気の振動です。それを「マイクロフォン」が電気信号に変えます。これが「入口」。そこからケーブルを通って「ミキサー」…料理用ではない…に到達し「増幅」されます。そこで処理され、昔なら「オープンリールテープデッキ」今ならPCMレコーダーに到達し電気信号として「出力」され記録されます。宇宙語が並びましたが、ここから演奏の話です(笑)

 生徒さんの中で「出力方法がわからない」タイプの人が多く見られます。
 演奏の場合「入力」は「楽譜を読む」「音源を聴く」ことです。それらを自分の感性と身体を使って練習して「出力=演奏」するプロセスがあります。
 もちろん、楽譜を読むことが苦手な生徒さんもいます。時間をかけて自分の脳に「入力」します。その時点では、まだ自分がどんな風に?演奏したいのかという「目標」が見えないことがほとんどです。練習を「処理」と例えると味気ない気がしますが(笑)事実、入力した情報を自分なりに解釈したり、考えたりすることは「処理=演算や計算に近い作業」です。
 考えた結果、目指す演奏が少しずつ見えてきます。それを実際に音にするのが「出力=演奏」です。どうすれば?自分の出したい「音色」や「テンポ」で演奏できるのか?その方法がわからない生徒さんが、たくさんいます。

 原因の一つが「伝達の不具合」がある場合です。
先述のオーディオに例えれば、雑音が入っていたり音が出ない原因が「ケーブル」の不具合である場合です。
 人間の運動は「脳」から、からだの各部位に「信号」が伝達されます。この信号がうまく制御=コントロール出来ていない場合、思ったように演奏できません。さらに「処理=CPU」がパンクすれば信号は伝達できないのです。
同時にいくつもの筋肉、両手に違う「命令」を出し続ける楽器の演奏は、脳にとってかなりの重労働です(笑)右手は左脳、左手は右脳からの信号で動いています。同時に両手を使えば、脳は「パニック」を避けるために「無意識」になります。つまりどちらか片手の運動だけを「意識」しようとするのです。
 どうすれば?両手を同時に制御できるのでしょうか?パソコンのように「マルチコア」で複数の作業を同時にこなす方法はないのでしょうか?
 実際に実験しますので、以下の通りに両手を動かしてみてください。
1.両手を軽く「ぐー」にします。
2.右手の「人差し指・中指・薬指」の3本を「伸ばすイメージ」を持ちます。まだ動かさないで下さい(笑)
3.左手の「親指・小指」を「伸ばすイメージ」を頭に思い浮かべます。まだですよ(笑)
4.まだ両手は「ぐー」です。そのまま、両手のそれぞれの指が「伸びている」イメージを頭に一生懸命、描いてください。まだ動かさないで(笑)
5.ぐーになっている両手を見ながら「一気に」イメージ通りに「パッ」と力を入れずに動かします!パッ!(笑)
 できましたか?どれか違う指が動いたとしても、結構近くありません?
一度に両手に違う動きを「命令」しようとするなら、一つのイメージにして脱力することが最大のコツです。右手の3本の指だけを意識しながら、左手の親指と小指を無意識に一度に動かすことはできないのです。それが私たちの「脳」です。

 思ったように出力=演奏できるように、自分に足りない「知識」と「技術」を新しく追加で「入力」する必要がある場合について。
 切れない包丁でいくら頑張っても、綺麗にトマトやお魚は切れませんよね?
包丁を「研ぐ」知識と技術を入力する必要があります。
 オートマ限定免許の人が、マニュアル車を突然、運転しなければならなくなったら?「クラッチペダル」の存在と使い方を入力しないと始まりません。
 演奏家が今現在、持っている技術・知識だけでは、思ったように演奏できない場合、困ったことに「なにが足りないのかわからない」ことが多いのです。できない原因がわからないと、対処のしようがありません。
 私たちの「病気」に例えるなら、頭が痛い症状がある時、原因を見つけることが大切です。やみくもに痛み止めを飲むことが逆効果の場合もあります。病院で検査をして「原因」を見つけて、治療が始まります。それと同じです。
 うまく演奏できない原因を、自分だけで見つけようとするよりも、誰かの意見を聞くことが最も効率的な対策です。新しい知識や技術を「入力」し、自分のものにできるまで「処理」と「出力」を確認することです。

 私たちは日常生活でも、知らないことや初めてのことに出会って、その都度対処しています。その積み重ねこそが「生きる術=すべ」です。演奏家が自分のできないことを見つけ、出来るようにするプロセスを「入力→処理→出力」という3段階で考えて、冷静に観察することが上達への「ガイド」になると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「予習と復習」

 映像はアンドレギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。次回リサイタルではヴィオラで演奏する予定ですが、今回敢えてヴァイオリンで演奏してみました。
 さて今回のテーマは、予習と復習。「学校か!」と突っ込まれそう(笑)
プロでもアマチュアでも「練習」する時に、自分がなにを?練習しているのかをあまり考えずに「ただ練習している」ことがあります。練習の中身をカテゴライズ=分類することも、効率的に練習することに役立つかも…とテーマにしました。

 初めて演奏する曲を練習する時、あなたは何から始めますか?
その人の楽譜を音にする技術「読譜力」によって大きな違いがあります。
すぐに楽譜を音に出来る人なら、手元に楽器がなくても、楽譜を見て「曲」が頭に浮かびます。
それが出来ない多くの生徒さんの場合、まず「音源」を聴くことからスタートするのではないでしょうか?私は、初めからヴァイオリンを使って「音」にすることはお勧めしません。ヴァイオリンで音の高さを探しながら、リズムを考え、指使いを考えながら演奏すれば、音が汚くなったり姿勢が崩れるのは当たり前です。さらに演奏に気を取られ、間違った高さやリズムで覚えこんでしまう危険性も高くなります。ぜひ、初めは音源を聴きながら楽譜とにらめっこ!してください。これらの練習が「予習」にあたります。
 さらに、作曲家について、作品について「ググる」事も予習です。他にどんな曲があるのか?この楽譜を他の楽器で演奏している
動画や音源はないか?などなど情報を集めることも立派な練習=予習です。

 予習はそのまま「復習」につながります。え?すぐに復習?(笑)
自分の演奏技術を再確認しながら練習することは「復習」ですよね?前に演奏した音楽を練習すること「だけ」が復習ではありません。譜読みや音源を聴く「予習」が終わったら、実際に楽器を使って音を「創る」作業に入ります。演奏の癖の確認、修正したい持ち方や弦の押さえ方の確認、なによりも「音」を出すことへの復讐が必要です。
 今までに知らない演奏方法がある場合には「予習」が必要です。自分の知っている演奏方法を確認しながらの作業です。例えば「重音の連続」だったり「フラジオレットの連続」だったり「左手のピチカート」だったり…。どうやるのかな?を学びます。
 常に予習と復習が「入り混じった練習」になりますが、曲を完全に「飲み込む=消化する」までの期間は、どうしても技術の復讐よりも予習が優先します。
 自分の身体に曲が「しみ込んで」身体が「自然に反応する」まで繰り返すうちに、次第に「復習」の要素が強くなります。つまり「思い出す」ことが増えてくるのです。

 生徒さんの多くは「自分の演奏動画・録音を聴くのが一番イヤ!無理!」と仰います(笑)気持ちはよく理解です。ただ自分の演奏を「何度も聴く・見る」つまり「復習」をしなければ、上達は望めません。何が出来ていなくて、何ができているのか。。「思っていた=できると思っていた」演奏と現実の具体的な違いはなにか?出来なかった「原因」はどこにありそうか?などの推察など、演奏からでしか得られない「復習課題」を失敗を見るのが嫌だから見ない・聴かないのでは、子供が点数の悪いテスト解答用紙を、破り捨てるのと同じことです。反省こそが最大の復習です。
 さらに自分の演奏を他人に聞いてもらう・見てもらう事も重要です。その感想が良くても悪くても、自分の「感想」と違うはずなのです。自分で気づかない「良さ」や「課題」を見つけられる貴重な機会です。
 練習がただの「運動の反復」にならないように、子供の頃の「予習と復習」を思い出して、自分の演奏技術を高めましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習・本番の「コツ」ってなに?

 発表会を明日に控え、生徒さんたちの「緊張と焦りと不安」が目に浮かびます。私も含め、楽器を演奏するひとにとって「本番」でうまく弾きたい!どんな「練習をすれば本番でうまくいくの?と言う自問自答を繰り返します。
 今回は主に「メンタル=気持ち」を考えます。「うまくひきたいなら、練習だろ!」というごもっともなご意見はありますが、まぁお読みいただければ(笑)

 「人間の潜在能力」「平常心」と言う言葉を耳にします。
人間の「脳」の働きは未だに完全には解明されていません。脳の一部分だけを使って活動している…と言うことも諸説あります。眠っている能力=潜在能力を発揮するには!という解説動画が山ほどあって、ほとんど皆さんが違う方法を説いておられることから、その方法も定かでないことも事実です。
 一方で不安や緊張、安らぎや眠りについての「脳の働き」はかなり立証されています。さらに多くのアスリートからの経験談で「メンタルトレーニング」に関する実証もされています。
 前回のブログで紹介した「仏教」や「禅」の世界で「心」を考えることも、長い歴史に裏付けられている点でとても興味があります。
 それらの「情報」と少ないながら私の経験も併せて考えて、私たちの演奏に役立てられないか?考えてみます。

 「努力=練習は一気にやらないこと」
人間の脳の集中力は90分が限界と言うことが多く言われています。疲労を我慢して続ける練習や勉強は「記憶されない」ことも実証されています。少しずつ…の繰り返しが最も効果的です。
 「運動のイメージを最小限の力で行う」
人間は「考えながら運動する」と運動速度が遅くなります。
だからといって何も考えなければ、運動はおきません(笑)
自分がこれから行う「成功した運動」をイメージし、筋肉を緩めておくことで最速の運動ができます。
 「常に成功する自己暗示をする」
これも脳科学で実証されています。ボクシングで「自分が勝つ」と思っていないひとが買ったことはないそうです。当たり前ですよね?本番だけではなく、練習の時に「自分にはできる」ことを思い続けることです。ただし休みながら!
 「緊張している自分をもう一人の自分が見る」
これは仏教の教えですが、私たちの言う平常心は仏教では「揺れない」「動かない」ことではなく、それを「受け流せる」「柔軟性」のようです。知らない人が緊張している姿を見ても自分は緊張しませんよね?自分の緊張していることを自分で冷静に見ることです。そしてそれを無理やり排除=なくそうとせずに、まず受け入れて力を抜いて穏やかに考えることです。固いコンクリートで壊れないようにするよりも、柔らかく軽いスポンジで力を「受け流す」ことです。
特に本番前や演奏中に「緊張している」ことを意識するのは、いたって当たり前の心理です。それを無くそう!減らそう!とあがけばあがくほど(笑)自分を失います。「あ…緊張してきた…そりゃそうだ…でもできるから大丈夫」という自分との会話と暗示をしてみましょう。

 最後は自分が今できる演奏を、自分自身で認めることです。
出来ていないことを、今すぐに出来るようにすることは誰にもできません。
時間をかけて出来るようにすれば、いつか!できると考えることです。
どんなにたくさんある作業でも、少しずつやればいつか終わります。
どんな分厚い本でも、少しずつ読めば最後の1ページになります。
一度に全部を終わらせる必要もないし、かき氷のように急いで食べる必要もありません。

自分が演奏している音楽を「自分の言葉・動き・感情」にすることです。
「楽譜の通りにひこう」「まちがえないようにひこう」と思うのは、指示されて動いていることと同じです。自分の意志で次にすべきこと・ひく音を感じながら演奏数事です。
本番「だけでも」うまくひこうと思うのはやめて、「できる」イメージをもち続けて最後まで弾くことだけを考えるべきです。音楽はひく人も、聴く人も「その演奏時間」を楽しむためにあります。苦痛や焦りを感じるよりも、今、舞台で演奏できる「うれしさ」と「期待」を感じることが大切です。
 今の自分の演奏は、今の自分にしかできない!
それがすべてだと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

演奏家の「欲」を考える

 映像は仏教の「知足=ちそく」を説いた動画です。
カルト宗教ではございませんので(笑)、安心して一度ゆっくり最後までご覧ください。
・「欲」を持つことは悪い事ではなく必要なこと
・他人と比較し、他人から得られる「満足」とは違う「知足」
・自分がすでに持っているもの=自分の「足る」を「知る」ことが知足
聞いていて素直に「あ…」と気づかされるお話です。
私は仏教信仰もなく「物欲の塊」「歩く煩悩」「屁理屈ヴァイオリニスト」ですので、およそ悟りの境地に近づくこともできませんが(笑)それでも、ひとりの人間として「欲」があるのは自然なことだと思います。赤ちゃんが母乳を求めて泣くのも「本能」と言う「生きようとする欲」です。

 演奏家が持つ「べき」欲があると思います。自分の演奏技術・表現力を高めたい、もっと上手になりたいと言う「欲」のない人もレッスンに来られます。その生徒さんにも演奏技術や表現方法を伝えようとします。ただ、ご本人が自分の力を「通う評価」する人ほど、「無理」とか「できません」と言う言葉を口にされます。過大評価が良いわけではなく、まさに「自分の持っているものを知る」気持ちが大切です。自分の持っているものをさらに高めようとする「欲」がなければ「楽」かも知れません。それはそれで正しいので、お金を払ってレッスンを受ける必要はない…と言ってしまうと私は生活できません(笑)
 他人と比較して「隣の芝生」にあこがれている限り、本当の自分の演奏にはたどり着けないことは動画でも話されています。他人と「競争」するのは、単純に「意欲」を高められます。負けたくない!よく思われたい!下手だなぁと思われたくない!と言う欲望は、自分以外の「他人」を意識しているだけで、自分自身を観察していないのです。
 昨日のブログで取り上げた「コンクール」や、音楽学校の「入学試験」は、基本が「相対比較」で序列をつけることです。ある程度の「絶対条件」が含まれている部分もあります。例えば年齢の上限や居住地域などです。自分と「誰か」を「審査員」が比較し序列をつけた結果が「優勝」「入賞」だったり「合格」「不合格」です。優勝したい!合格したい!という「欲望」があることを悪いとは言えません。その過程で「他人と比較する」気持ちをゼロにすることは不可能だし、「自己評価」だけで優勝・合格を得ることは現実的には厳しいことです。それでも「自分の持っている良さを知る努力」「自分を高める努力」を大切にする指導も必要です。
得てして指導者は「そのレベルでは受からないよ」と生徒に言います。悪意はないでしょう。生徒の立場にすれば「他人より下手なんだ」と思い込みます。
生徒個人が持つ「良さ」よりも「他人と比較して足りない技術」を指摘しがちです。

 練習する時、自分の「欲」を意図的に抑えることも必要です。
その欲は「低く=できそうなこと」で「長期間」で実現する気持ちが必要です。
「え?高い欲を速く実現した方がいいでしょ?」と思いがちですが、自分に足りない技術・表現に気付いたのなら、一気にすべてを実現しようとすることを「欲張り」と言います。常に欲を持ち、短期間に出来るようになる「小さな目標=欲」を積み上げるべきです。「ローマは一日にして成らず」です(笑)
出来ない!と熱くなる時(笑)、やろうとしている=練習している内容の「量を減らす」ことと「ハードルを下げる」ことが大切な「コツ」です。熱くなったままで頑張るのは、身体に悪い(笑)

 欲を失う=意欲を無くす原因の多くは「気持ちが折れる」場合です。
折れやすい生徒さんの性格(笑)
・短気である
・好きな事へのこだわり=負けん気が強い
・なぜか?女性が圧倒的に多い
・折れやすいが、立ち直りも速い
・他人(親にも)思っていることを言葉にしない
・自分を責める
はい。上記で二つ以上「はい」と思ったあなたは、かなりの「ポッキー」(笑)です(笑)これら、すべてが「性格」ですので変える必要もなく、変えることは不可能ですから受け入れるべきです。自分を知る…と言う意味でも、それが自分なのですから、さらに足りない「何か」を探すことが大切なのです。
 今回も「屁理屈」だらけのブログを最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

どこで音楽を学ぶべきか?

 映像は1993年第61回の日本音楽コンクールヴァイオリン部門第1位の方の演奏です。今年が第91回のコンクールでした。今から30年ほど前の演奏になります。
ちなみに、今年のヴァイオリン部門本選出場者は?
(1) 栗原 壱成
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(2) 青山 暖
シベリウス:バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
(3) 若生麻理奈
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
(4) 渡邊 紗蘭
バルトーク:バイオリン協奏曲 第2番
共演:高関健指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
 中学生、高校生も含め4名が競い合うようです。
中学生?高校生?学生コンクールじゃないですよね?(笑)
今朝、偶然ラジオで最終予選(3次予選)のダイジェストを聞きました。
ベートーヴェンのヴァイオリンソナタとイザイの無伴奏。みんなすごい!
中には筑波大付属駒場高校の生徒もいました。あれ?どこかで聞いた学校の名前。私のお弟子さんで現在東大に通っている子の後輩ですね。ひょえー。
 審査員のお名前も聞き覚えのある方々。「なかむらしずか」って聴いた瞬間、高校生の頃の彼女が思い浮かび「高校生が審査員?」(笑)
 そんな日本国内のヴァイオリン事情を考えます。

 私(昭和35年1960年生まれ)よりも先輩方が日本で音楽を学ぶことは、様々な面で大変なことだったようです。1945年に戦争が終わってからの時代と、それ以前の日本ではさらに違います。クラシック音楽を学びたいと思う「人口」も違いました。国内で学ぶことのできる環境に至っては「皆無」に近い状況だったようです。私が「音楽高校」に入学したのが1976年なので、戦後31年「しか」経っていなかったと思うと…なんだかなぁ(笑)ですが、東京にある音楽大学は、現在と変わっていなかったと記憶しています。
 クラシック音楽を学ぶ人は、「音楽学校」を受験する…ものだったようです。
自分自身が「なんとなく」音楽学校を選んだ人間なので、周囲の熱心な人の考えを知らずに音楽高校に入ってしまいました。ちなみに、浩子さんは、小学校1年生の時から「桐朋学園 子供のための音楽教室」に通っていたエリート(笑)ですが、小学校1年生=7歳から音楽家を目指して学んでいた人がいた時代であることは確かです。クラシック音楽…私の場合、ヴァイオリンを習い始めた当時、小学校でヴァイオリンを習っている子供は、学年に一人いれば多かった…時代です。時は「高度成長期」でした。家庭に「ピアノ」があるとお金持ちの証(笑)カラーテレビと同じステイタスだったかも知れません。

 さて、現在の日本でクラシック音楽を学ぼうと思う人が、音楽学校に入学することの「意義」「価値」が昔と同じなのでしょうか?これは以前のブログでも書いたことですが、なによりも本人の意思が一番大切なのは間違いありません。昔も今も変わらないことです。そのうえで、音楽高校、音楽大学を受験し入学金と授業料を払い「学ぶ」ことが、必ずしも賢い…言い方を変えれば必須条件ではない時代であることも以前のブログで書きました。
 演奏レベルの高さと、学ぶ環境を考えるひとつの「目安」として、日本音楽コンクールを考えることができます。今年の本選出場者に限って考えるのは「狭い」考えですが、低年齢化と音楽学校「以外」で学ぶ人が入賞している現実は間違いありません。若い…中学生や高校生が音楽大学卒業生と対等、あるいはそれ以上の演奏技術を有しています。当然「個人差」があるのは今も昔も変わりません。それでも確かに「音大以外」で学んでいる人の演奏技術が年々高くなっていることは明らかです。その昔、千住真理子さんが音大ではなく、慶應義塾大学で学んだ事がニュースになりました。今は?「かてぃん」こと角野隼人さんが東大を卒業しショパンコンクールで注目されましたが、いまや世界的にも珍しい事ではありません。五嶋龍さんにしてもいわゆる「音大」で学んではいません。

 音楽学校「以外」で演奏技術を学ぶことを考えます。
音楽高校、音楽大学に入学したい人の多くは、その学校で教えている「先生」に弟子入りするのが一般的なことでした。現在もそうなのか?正確にはわかりません。その学校で実際に教えている先生なら、入学試験を受ける他の受験生のレベルを知ることができます。合格できる「レベル」を知っています。そのレベルを知っているからこそ、習う側は自分の技術を入試前に知ることができました。
 音楽学校で教えていない「演奏家」が増えているのも事実です。さらに言えば、演奏家が母校=出身校で教えず、他校で教えているケースが顕著です。
 音楽高校、音楽大学で「しか」学べないことも以前書きました。他の生徒・学生との交流や刺激が得られます。多くの知識を効率的に「学ぶ気があれば」学べます。学ぶ気がなくても卒業できる音大が増えているのは…如何なものかと思いますが。言ってみれば音楽学校の「特典」ですね。
 ただ、音大で教えている先生が、学外で弟子を持つことは可能です。つまり、習う側が音楽学校に入らなくても、師匠が指導してくれる環境があれば、音楽学校に行って得られる「特典」がなくても構わないと言う考え方もできます。あくまでも、音大・音高の先生が「学外で教えれば」と言う話です。
 公立中学に通う中学生が日本音楽コンクール本選に進んでいる現実の陰に、この生徒=若い演奏家を育ている「指導者」が必ずいるという事実があります。その指導者が誰なのか?よりも気になるのが、この若い演奏家を今後さらに、どんな指導方針で育てたいのか?そして、この若い演奏家が数年後、どんな「環境」で音楽を学んでいるのか?が気になりませんか?

 音楽を学ぶ環境が多様化しています。音楽学校でなくても、専門技術を学べる時代です。さらに国外の指導者に弟子入りするための「費用」を考えても、日本の音大で学ぶための費用と比較される時代です。現実には「言語」を学ぶ必要なありますが生活費と授業料は、国と学校によって大きな差があります。
 プロの演奏家として認知される「実力」を得ることは、環境に関係なく必須要件です。肩書…●●音大卒業は既に「肩書」にすらならないことは以前にも書きました。演奏者個人の「技術」「能力」「人間性」が問われる時代です。
さらにその傾向は進むと思います。コンクールで優勝…という肩書も近い将来、形骸化されると思います。毎年のように生まれる「一等賞」演奏家よりも、個性的な演奏家が求められる時代だと思います。
 みんな「うまい」「すごい」技術の現代、それだけ?では生き残れないとも言えます。専門家=審査員にしか判別できない技術の違い」は、一般の人に理解できませんし必要もありません。むしろ「人として」魅力のある人の演奏が好まれる時代かもしれません。実力があっての話です←くどい(笑)

 演奏家として必要なのが「技術」だけではないと確信しています。
技術は自分の音楽を表現するための「表面的」なものです。音楽「だけ」を耳で聴くひとにとって、演奏者がどんな人だろうと関心は無いかもしれません。
仮にその人が「殺人犯」だったとしても「お笑い芸人」だったとしても、小学生だったとしても、演奏が好きなら演奏している人が誰だろうと「どうでもいい」かも知れません。その意味では「演奏家は技術がすべて」だと言えます。
 演奏家…プロのヴァイオリニストが世界中に何百人、何千人と存在する現代で「うまい」と言われるだけで満足するのか?それともさらに違う「評価」を得たりの科?で学ぶことが違います。すぐに「お金」を得たいと思うなら、技術だけを磨きコンクールで優勝することです。おそらく数年は演奏の仕事がもらえます。その後は?どうでも良いかもしれません(笑)
 演奏家としての技術…以外の事を学び体験することを若い人に期待しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

同期=シンクロと独立=分離

 映像は日本人ドラマーの「むらた たむ」さん」1992年生まれ、15歳からドラムを演奏し始めたそうです。
 いつも感じるのは、ドラムを演奏する人が「両手両足」をすべて同時に使いながら、それぞれの手足が時に「同期=シンクロ」したり、全く違う動き「独立ー=分離」したりできる能力です。しかも、その運動の速さが半端ない(笑)
マニュアルシフトの自動車を運転する時、両手両足がそれぞれに違う「役割」をして違う動きを「連携」させることはできますが、この速さ…同じ人間に思えない。

 さて凡人の私がヴァイオリンを演奏している時に、右手と左手を使います。
少なくとも足を使わなくても演奏できることは、イツァーク=パールマン大先生が実証してくださっています。たかが!二本の手!それも自分の手なのに、思うように動かせないジレンマってありませんか?わたしだけ…?
 ヴァイオリン初心者の方に多く見られる現象を列挙します。
・右手=弓と左手=指が合わない。
・移弦とダウン・アップが合わない。
・短い音がかすれる。
・重音が途中で単音になる。
・単音のはずが隣の弦の音が出てしまう。
・スピッカートをすると指と弓が合わない。
きっとどれか一つや二つや三つ(笑)思い当たるのでは。
今回は、ヴァイオリン演奏で右手と左手を、どうすれば同期できるのか?どうすれば独立できるのか?について考えます。

 推論になりますが「音」に集中することが唯一の解決方法だと思います。

具体的に説明します。そもそも、左手は「音の高さを変える」役割がほとんどです。左手指のピチカートを使うのは特殊な場合です。ヴィブラートも音の高さを連続的に変えているだけです。弦の押さえ方が弱すぎると、弓で演奏した場合、音が裏返って「かすれた音」が出るので「音色」にも影響しますが、役割の大部分は「高さの変化」です。
 一方で右手は「音を出す」役割がほとんどです。弾く弦によって「高さ」が違い、駒に近過ぎる場所を弾けば音が裏返って高い音が出ますが、役割としては「音を出す」のが右手です。

 ヴァイオリンの練習で、右手だけの練習をすることが基本の練習です。
一方で左手だけの練習は?押さえただけでも小さな音は出ますが、正確なピッチやヴィブラートなど「弓で音を出す」か「右手で弦をはじく=ピチカート」で音を出して練習することがほとんどです。つまり、左手の練習をするためには、右手も使うことになるのです。このことが、いつの間にか「右手より左手が難しい」と勘違いする原因であり、右手と左手が「ずれる」原因でもあります。
 ピアノの場合、左右10本の指が「音」を出す役割であり、発音は「指」が鍵盤に触れていることが前提です。その点でヴァイオリンの左手の役割とは明らかに違います。

 「音」を優先して考えることが同期と独立をさせることが可能になる…その説明を書きます。
 楽器を演奏すると「音」が出ます。当たり前ですが(笑)ひとつひとつの「音」は、「準備」してから発音に至ります。これも当たり前ですよね。
曲の一番最初の音であれ、スラーの途中の音であれ、新しく「音」を演奏する前に必ず準備をします。
・右手=弓で演奏する「弦」を選ぶ。
・ダウン・アップを考える。
・左手でどの弦のどこを、何の指で押さえるか準備する。
上記の順序は時々で変わります。ただこの三つを意識しなければ「無意識」で演奏することになります。無意識の「落とし穴」として、
・違う弦をひいてしまう
・ダウンとアップを間違える
・指を間違えたりピッチがはずれる
ことになります。つまり、一音ずつ準備していれば「事故」は最小限に防げるのです。それでは、運動を「同期」させたり「意図的に独立=分離」するには?
・準備する「順序」をゆっくりとスローモーションにして考える
・実際に演奏したい「速さ」にしていきながら、さらに順序を考える。
・準備した結果、発音する「音」に注目する
つまり、左手・右手のそれぞれの運動を「個別に順序だてる」練習から始め、それを連続し速度を速めながら、発音した「音」の高さ・音色・タイミング=時間・大きさを確認していくことです。ゴールは常に「音」です。
短い時間=速く連続して音を出す時に、一音ずつ準備を意識することが「できなくなる速さ」が必ずあります。ゆっくり演奏する時に「一音ずつ準備」して出せた「音」と、準備できない速さになったときの「音」が同じであれば「無意識に準備」出来ていたことになります。音が連続することは、準備が連続することなのです。その準備をスムーズに行うために必要なのが右手と左手の「同期と独立」です。

・無駄な力を抜くこと。
・連続した運動=準備をパッケージとしてイメージすること。
・ひとつの運動=片手やダウンアップや移弦など…にだけ注目しないこと。
・常に自分の身体の「静止」と「運動」を確認すること。
これが、同期させたり独立させたりするための「コツ」だと思っています。
冒頭のドラマーの動きを見ると、上の三つを感じられると思います。
スポーツや格闘技でも同じ事が言われています。自分の身体のすべての筋肉をコントロールするためには、「結果」を意識するしかないと思います。楽器の演奏なら「音」です。格闘技なら相手を倒す「技」「伝わる力の強さ」です。自然体=楽な状態で、音を確認しながら、左右の手を自由に動かす練習…時間がかかりますが、必ず出来るようになります!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

文字を音読するように楽譜を音にする

 映像はファリャ作曲の「スペイン舞曲」をデュオリサイタルで演奏したときのものです。テンポの速い曲を演奏する際、違う言い方をすれば「速く演奏しようとする場合にうまく演奏できない!という生徒さんがたくさんおられます。
 今回の例えは、文字=文章を声に出して読むことと、楽譜を音にすることを比較して考えてみます。それが「速く弾く」ことの一助になればと思います。

 原稿を覚えてから声にすることができる場合と、原稿を読みながら話をする場合があります。前者は例えば役者さんの「せりふ」です。後者の例えは、臨時ニュースの原稿を読むアナウンサーや、披露宴でスピーチする時に忘れたり間違ったりしないように「原稿」を読む場合などです。
 覚えている言葉を、思い出しながら声にする時でも、原稿をその場で読んで声にするときでも「次に話す文や単語」を考えながら、声にしているまずです。
つまり「声にしている文字」と「読んでいる(思い出している)文字」の関係は、常に「時間差」があることになります。しかも、読んだり思い出しているのは「文字」ではなく意味のある「単語」やもう少し長い「文」のはずなのです。
一文字ずつ目で見ながら声にするのは、文字を覚えたての幼児です。

 私たちが楽譜を見て演奏したり、覚えた音楽を思い出しながら演奏する時に話を変えます。初めて見る楽譜を音にすることを「初見演奏」と言います。この能力がないとプロの演奏家として認められないのがクラシック音楽業界です。ジャズやポピュラー音楽の場合には楽譜が読めない「プロ」がいても珍しくありません。初見で演奏する練習は、ソルフェージュの練習が最も効果的です。
ソルフェージュ能力がなければ初見演奏は不可能です。
「先を読みながら演奏する」そして「止まらないで正確に読む」ことが初見の能力です。美しい声や音で演奏することよりも、まず「正確に止まらずに」演奏することを優先します。この能力は、プロのアナウンサーにも求められます。楽譜ではなく「原稿」ですが(笑)
 どれだけ先を読めるか?当然のことですが、先を読むと言うことは「記憶する」ことです。つまり短時間、多くの場合数秒から10秒程度の時間に、どれだけの楽譜=文字を頭に記憶していられるか?と言う能力です。長時間の記憶とは「脳」の使われる場所が違います。その短時間の記憶を「思い出して声=音にしながら」さらに「次の楽譜・原稿を記憶する」ことを同時に行っています。
 「できるわけがない!」と思いがちですが、日本語の文書を音読している時に、私たちが無意識に行っていることです。

 これはある情報ですが、字幕は、1秒4文字、1行16文字で2行まで。つまり1枚の字幕に収める字数は最大32文字だそうです。字幕映画や、動画の説明テロップで文字が読み切れないことって経験、ありますよね?1秒間に4文字より早く読む技術を「速読」と言います。。速読力(1万字/分以上)だそうです。え?10,000文字÷60秒=約166.667文字!一秒間に166文字読めるのが速読…特殊なトレーニングで得られる能力だそうです。通常が4文字だとそれば、40倍の文字数を呼んでいることになります。
 楽譜を見ながら演奏している時、音符の数を数えながら演奏する人はいません(笑)あなたは「どのくらい」先を読めますか?

 ピアニストの浩子さんに聞きました(笑)
「和音を見る時、漢字を読むのと同じように見ている」
つまり、重なって書かれている和音を「一つの塊」として認識しているという意味です。それができない私がピアノで和音をひこうとすると…低い音から順番に「ド…ソ…ド…ミ・ソ」(笑)この違いを「漢字」に例えると理解できます。
とは言え、和音が連続している楽譜の初見と、単音の初見では読み込める速さには多少の差はあるようです。実際、1小節くらい先を読んでいる…あまりどこまで読んでいるかの指揮はないのですが、速い曲の場合には当然「どんどん読む」ことが必要っです。
 整地すると次のようになります。
・一度=短時間に読み込める音符を増やす
・記憶できる容量=音符の数・時間を増やす
ことが重要です。その「コツ」は?
・楽譜を「かたまり」として読み込む
・予測できる音を増やす=音階(順次進行)やアルペジオなど
・臨時記号やリズムを記憶する
そして、楽譜特有の「壁」もあります。
・どの弦のどの指で弾くのかを瞬間的に判断する能力
・スラーやスタッカートを読み込めるか?
これらば「正確に弾く」に加えた情報です。文字で言うなら漢字の「読み方」を前後関係の意味を考えて「声」にする能力です。「一期一会」を「いっきいっかい」とアナウンサーが読め放送事故ですよね?(笑)

 最後に「処理速度」の話です。
私たちは、楽譜を見ながら演奏する時も、覚えたものを思い出しながら演奏する時も、常に「次に演奏する音たち」を予め考え準備する「処理」をする必要があります。音の高さ=音名だけではなく、音量や音色、弓を使う場所やダウン・アップ、使う弦と指、ビブラートなどの「情報」も同時に処理しなければなりません。「音読」に置き換えれば、アクセントや言葉の切れ目、漢字の読み方などに似ています。それらの情報を処理する時、一度にどれだけの音符=時間を予め処理できるか?が、「速く演奏する」ための必須要件になります。
 速く演奏することは「処理の速度と量を増やす」ことです。一音ずつ処理できる速度には限界があります。
 例えば、16分音符が4つずつ、4つのかたまりで書かれている曲の場合です。
・一つずつ音符を読みながら=思い出して演奏するのが一番「遅い」
・4つの音符を一度に処理できれば、速い
・かたまりを一度に2つ、あるいはそれ以上処理できればもっと速く演奏できる
演奏しながら、どこまで?先を思出せるか…にかかっています。
F1のパイロット=ドライバーは、時速300キロで走行しながら、次にいつ?どんな?カーブがあるのかを、事前に知っているから走れるのです。彼らはコースを「暗譜」しています。イメージだけでコースを走れます。眼をつむっていても、頭の中でコースを走れます。ただ、同時に走る車の動きや、雨などでイメージ通りにいかない「変化」に対応することが「処理」なのです。運動神経や動体視力が優れているのは「当然」のことだそうです。記憶力と処理速度が求められます。
 先を読みながら、今演奏している音に集中する「マルチタスク=同時並行処理」が必要なのです。だからこそ、私たちは演奏中の集中力が必要なのです。ひとつの事だけを考えることではありません。「無意識」に運動できる能力=予め思い出した内容の処理と、次に演奏する楽譜を処理する「意識」を両立させることです。
 意識と無意識の「使い分け」でもあります。頭を空っぽにして演奏できるようになるまで、意識しながら演奏することを繰り返す…それしかありません。それでも、アクシデントはあるものです。間違うのが人間です。間違えた時にでも対応できる「フェールセーフ・多重安全性」があれば、大丈夫です!
 移管をかけて、頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

知る・知らない・できる・できない

 映像は、ムターさんの演奏するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。
私も含め多くのヴァイオリンを「もっとじょうずにひきたい」と思う人にとって、じょうずな人の演奏に近づくことは、道順もわからずただ漠然とした「目的地」に向かって歩くことに似ています。どんな上手な人も、みんな違う道順で現在の「到達地点」にいるはずです。道順を真似しても同じ場所に着かないのが演奏です。でも、迷える私には「道順」だけでも知りたいと感じます。
 今回のテーマは、知識=考えることで「知る」ことと、身体と知識を使って「できる」ことにつていお案が得るものです。

 知っていることとできることの関係について、考えてみます。
演奏以外で例えると例えば「料理」もその一つです。レシピを見て材料を買って調理する…簡単そうですが、レシピがおおざっぱだと、出来上がるものに大きな差が出来ます。材料の選び方を「知る」ことができるか?調味料の種類や量を「知る」こと、調理途中の確認の仕方を「知る」、火をとめるタイミングを「知る」ことが出来なければ、レシピの意味はありません。
 違う例えで「ゲーム」を考えます。カードゲームや囲碁、将棋、テレビゲームなど多くのゲームがあります。それぞれに「必勝法」や「負けにくい方法」があります。それらを「知る」ことで強くなることが可能です。知らなければ、知っている人にいつも負けます。
 楽器の演奏に話を戻します。自分よりじょうずな人の演奏を「知る」ことと、自分の演奏との違いを「知る」ことから始まります。
 自分の演奏にすでに満足している人なら、自分以外の演奏を知る必要もありません。新しい曲を知る必要もありません。それが悪いとは思いません。
 一方で、自分以外の演奏をたくさん聴き、好きな演奏、あこがれる演奏、ひいてみたい曲を探す「楽しみ」を持つ人がいます。私もその一人です。
 あこがれる演奏を知ったからすぐにできる…と言うものではありません。当たり前です(笑)
どうやったら?あこがれる演奏が出来るようになるのかを「知る」ことが始まります。その方法こそが先述の「道順」です。つまり、道順が全員違い「この方法=道順で出来る」という正解がありません。それでも「知りたい」のです。
 まず自分の演奏の欠点を「知る」ことです。自分の演奏=音と音楽を客観的に「聴くこと」ができなければ始まりません。まずは音を聴くことです。
 音のほとんどは、自分の「技術」で作られた結果です。楽器に問題がある場合もありえます。その雑音の原因を「知る」ことも必要な知識です。弦がさびている場合、はじいた時に濁った音が出ます。E線などのアジャスターが緩んでいる場合の「雑音」、顎当てとテールピースが当たって起こる「雑音」、駒が低く指板が高すぎて弦と指板が当たって起こる「雑音」、自分の洋服のボタンが裏板にあたって起こる「雑音」などなど。雑音の原因を知ることも大切ですね。
 自分の演奏する音をどうすれば客観的に聴くことができるでしょうか?
一番手近な方法が「録音」して聴き直すことです。「録音した音は音色が変わる」のは事実ですが、ひいていて気付かない「癖」や「雑音」を、演奏した後で何度でも確かめられる「録音」は上達のために欠かせない手段だと言えます。

 できる…と言う感覚について考えます。知ることと比べ、出来ているか否かの判断はとても難しい点があります。自分の「基準」と「妥協」の問題です。
理想=憧れの演奏と自分の演奏を比較して、100パーセント完全に同じに「できる」…人はきっと誰もいません(笑)それが現実です。近づくことさえ難しいのです。だからと言って「無理」の一言で諦めるのも寂しいですよね?
 自分の演奏が少しでも良くなったと感じることを「出来るようになってきた」と認めることも上達のために必要だと思います。
 できないことを知る→それを、出来るようにする方法を知る→練習し少しでもできるようになる→まだ出来ていないことと新しくできなくなっていることがないかを知る→練習する
 常に「知る」ことと「出来るようにする」ことの繰り返しです。
その途中で陥りやすい「落とし穴」もあります。無意識に「引き算」をしてしまうことです。何かを出来るようにしようとすればするほど、その他のことへの集中力が下がります。
 具体的な例で言えば、ある音をうまく演奏「できない」から練習している時、その音に至るまでの「音」が汚くなっていたり、ピッチがくるっていることに「気付かない」状態です。また、できない内容が「ピッチ」の場合、音色や音量への集中力が「引き算」されている場合もあります。練習は常に「足し算」であるべきです。ひとつのことを練習している時に、その他のことを「犠牲」にしないことです。それを「妥協」とは言いません。妥協が必要なのは「練習内容のバランス」を考える時です。曲全体を止まらずに演奏するための「練習」と、少しでも疑問を感じた時に止まって確認する「練習」は区別しバランスを考える必要があります。それぞれに「妥協」が必要になります。特に止まらない練習では、疑問を感じても次の音に集中するため、どこで失敗したのか?覚えていられないことがほとんどですから、録音して確認することが有意義になります。止まって確認する練習には「時間をかけすぎる」場合が多く、結果的に曲全体の練習にならない危険性もあります。

 最後に「知らないことは出来ない」事を書きます。
言い換えれば、出来るようになるためには、知ることが不可欠だという事です。
 知ることを「知識」、できることを「運動」と置き換えてみます。
知識と運動を「比例するもの」として考えることが大切です。
頭でっかち…は知識ばかりのひとを言います。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…は運動だけで偶然うまく出来るのを待つ人です。
ふたつが比例していることが何よりも大切なことです。
成功することをただ祈っても無駄です。考えているだけでは出来るようになりません。自分の練習が、知識・運動のどちらかに偏っていないか?確認しながら練習するために、誰かに自分の練習をみてもらうのも良い練習方法です。ただ、練習は見られたくないのが人間です(笑)子供でもそれは同じです。親が「良かれと思って」練習中のこどもに声をかけても「わかってるよ!うるさいなー!」と言われるのは(笑)子供なりに「みられたくない」と言う気持ちがあるからです。それを理解した上で子供と接することが大切です。
 大人になればなるほど、練習に行き詰るものです。その時にアドヴァイスをくれる人こそが「師匠」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学ぶためのお金と生きるためのお金

 今回のテーマは「お金」と言う俗っぽい(笑)お話なので、せめて夢を感じられる映像を…と、アザラシヴィリのノクターンを選びました。
 私を含めた「音楽家」と言われる職業で生活している立場から、現代社会で必要になる「お金」について考えてみます。

 音楽家になりたい…と言う希望を持つ人に、あなたならどんな言葉をかけるでしょうか?
「頑張ってね!」「応援してるよ!」「素敵な夢だね!」と言う励ましの言葉でしょうか?それとも…
「やめときなよ、生活するの大変だよ」「もっと安定した仕事を選んだら?」と苦言ともとれる言葉をかけますか?
どちらの場合にしても、音楽家と言う職業について自分が知っている範囲でしか考えられないはずです。実際に自分が音楽家として生活している人の場合と音楽家以外の職業で生活している人が、親しい人の中に音楽家がいない場合では、真実味が違いますね。さらに言えば、どんなに統計データを集めてみても、実際に音楽家として生きている人の実感は理解できません。収入の平均金額を見ただけでは、その職業についている人の「充実感」まではわかりません。知らない・わからないのに「やめておいたら」と言う言葉はアドヴァイスになるでしょうか?心配する優しさは大切ですが、思い込みで他人の生き方の「基準」を創っているとしたら?良いことだとは思えません。

 現実的に音楽を学ぶために必要な「お金」の話をします。
当然のことですが、時代や国によって大きな違いがあります。前提となる「音楽家」の定義さえ人によって差があります。今、日本でヴァイオリンを学ぶ人の話として書いていきます。
 学ぶための楽器に係るお金に、下限も上限も平均もありません。
どんな楽器であっても、学ぶことはできます。楽器ごとの個性、ポテンシャルは値段と比例していません。極論すれば、1万円の楽器でも10億円の楽器でも学べることに差はありません。本人の意思が問題です。
 レッスンに通って技術を学ぶためのお金は、教える側の「言い値」です。決して「いいね!」ではありませんが(笑)それが現実です。交渉して決まることはありません。習う側が支払える金額と、教えてもらえる内容で選ぶしかありません。1レッスンが仮に60分だとして単価が5,000円の場合も30,000円の場合もあります。これも金額と内容が比例しているとは限りません。もっとも難しい選択になります。
 最も安いケースで考えて、一回60分のレッスンを月に4回程度受け、20,000円のお金が必要になります。1年間で24万円かかることになります。このっ金額でレッスンを受けられるケースは非常に少ないですが。
 ヴァイオリン以外にピアノや聴音、ソルフェージュ、楽典などの基礎技術を学ぶ方法として「独学」もありますが、現実的にはレッスンを受けるのが一般的です。月に1回だとしても、年間で60,000円はかかります。
 ヴァイオリンの弦を張替えたり、弓の毛を張り替える頻度は人によりますが、仮に毎日2時間程度練習するなら、半年に一度は張替えが必要だと思います。一般的なドミナントの弦をセットで張り替えて2セットで約10,000円ほど。弓の毛替えは一回6,000円ほどなので12,000円。それ以外に問題があれば費用がかさみます。
 何年かけて「音楽家」になれるのでしょうか?これが最大の問題であり、必要なお金が一番大きく変わる部分です。

 音楽高校や音楽大学に通ううことで、音楽家になれるとは限りません。
ただ音楽家になるための「時間」を効率化する意味はあります。
ヴァイオリンの実技レッスン、友人や先輩たちとのアンサンブルやオーケストラ、ピアノ副科、音楽理論や聴音・ソルフェージュなど多くのことを効率的に学べますが、問題は入学金と授業料です。
 国公立音楽大学にめでたく入学できた場合、入学金は30~50万円ほど。
私立音楽大学の場合は、150~250万円ほどの入学金が必要です。
授業料は、国公立で年間約90万円ほど。それ以外にも様々な名目でお金がかかります。
私立音大の授業料年額は、およそ3倍の200~250万円必要になります。
4年間在学したら、単純に4倍の授業料が必要です。
国公立の場合特に問題視されているのが、「個人レッスン」と名を付けて受領料以外にレッスン代金を取る先生が現実にいることです。私立の場合にはあまり耳にしませんが、いない!とは断言できません。その昔は、東京芸大に通う学生が、年間に支払う「レッスン代」が桐朋の授業料より高くなる!という悲鳴をい実際に聴きました。今はどうだか?知りませんが(笑)
 不届きな先生は別にしても、卒業するまでに国公立音大で、最低でも350~400万円はかかります。私立の場合には、入学金も含めれば、ゆうに1千万円を超えるお金が必要になります。「学費免除の特待生」になれるのは、何年かにひとり…と言うのが現実です。多くの学生が「借金」になる奨学金で通います。借金ですから当然、卒業後に全額返済する義務が本人にあります。稼げます?返せると思います?(笑)

 これらのお金を支払っても、音楽家になれないとしたら=実際になんの保証もありません。音楽大学を選びますか?4年間でかかる1千万円以上のお金があれば、プライベートレッスンに毎週通い、短期で留学したり、好きな楽器を購入できる金額です。4年間という「縛り」もありません。言い換えれば、4年制音楽大学の学部で4年間、学んで身に着けられる技術や知識、能力に1千万円の価値があるか?という疑問です。4年間、同じ内容の授業で学んでも、人によって身に着けられる技術が違うのも事実です。一人一人に適した学び方を選択できるほど、大学には自由度はありません。大学で教えてもらっていた実技の先生が、在学中に、定年前でも退職することも珍しい事ではありません。他大学の教員になるケースも当たり前にあります。違う先生に習えば単位は修得でき卒業できますが、学生にしてみれば納得できるものではありません。先述の通り、実技レッスンだけが音大で受けられる教育ではありませんが、主たる目的は「実技」を習うことのはずです。

 ここからは「生きるためのお金」について。
音楽家として生きていくために、収入となる仕事の内容は?
・演奏をして得られる演奏料金
・レッスンをして得られる指導料金
これ以外に音楽・演奏による収入はありません。
 演奏を依頼してもらうことは、簡単なことではありません。
どんな広告を出せばよいのか?いくらかかるのか?費用対効果は?
何よりも「どんな経歴=肩書がるか?」を第一に問われます。
●●音楽大学卒業…で演奏の仕事をもらえる時代は終わりました。
かと言って、音大を卒業していない人の場合には「●●コンクールで▲▲入賞」などの経歴を求められます。いくらプロフィールを書き連ねても、演奏を依頼する側はいろいろな候補者を比較して、より信頼できる人に演奏を依頼します。
 仮に個人的な交友のある知人から依頼される仕事があったとしても、単発の仕事では生活できません。毎週、友人が結婚式を挙げてくれるなら別ですが(笑)
 教える=レッスンをする仕事の場合、以前書いた通り「教室に雇用される」場合と自宅で生徒を集める場合があります。当然、後者の方が歩合・手取りは多くなりますが、生徒を集められなければ一円にもなりません。大手の音楽教室で雇われて、週に二日、5人教えたとしても手取りは月に3~4万円程度です。実家であれば暮らせますが…食費にもなりません。自宅で生徒を集めるための「宣伝」にいくらお金をかけても、簡単に生徒が集まるわけではありません。現実問題として、一人で生活できる金額を、レッスンだけで得られる人は極わずかです。多くの「音楽家」がアルバイトをしながら音楽家をしているのが現状なのです。

 学ぶためにかかったお金と、音楽家として得られるお金の「差」が大きすぎますね。どんな大学の学部で学ぶにしても「お金」はかかります。卒業後、学んだことを活かして生活する人は、大学卒業生の極一部です。大多数の卒業生は、学んだ事と無関係な職業で収入を得て生計を立てています。つまり「大学で学んだ事は生活とは関係ない」人がほとんだという事です。それが日本の社会全体で当たり前なのです。はっきり言ってしまえば、大学がなくても=大学にいかなくても、日本の企業は困らないのです。大学を卒業しなくても就職できます。中学を卒業してすぐに就職することが、実は一番コスパが良いことをマスコミが言わないのは「学歴」を否定されたくないという考えの人がマスコミの上層部に多いからです。中小企業で働く人口が8割の日本で、人手不足が深刻な2022年現在、大学で意味のない時間を過ごした22歳より、やる気のある15歳を雇い、手に職を付けてもらう事の方が、はるかに日本経済を立て直せることは間違いのないことです。「せめて高校」だった時代から「せめて大学」の時代になり、今は?「誰でも大学に行ける」時代です。大学卒業の「価値」はすでに1ミリもありません。
それなのに塾に通い高い授業料を払い「そこそこの高校」に合格し、「誰でも入れる大学」に入学し、「なにも学ばずに卒業」して「それまでと無関係の仕事」をする日本人。私には理解できませんが、それが「標準」なのだとしたら、音楽家は違います。学んで努力したひとだけが「お金」を得られます。それが嫌なら、音楽家を夢見るよりも、就職を考えるべきです。お金をたくさん稼いで、音楽を「趣味」にする方が、ず~っと楽しいのです。
音楽家と言う「肩書」にあこがれるより、音楽を演奏する楽しさを優先したいのなら、音楽大学に1千万円払わず、出来るだけ早く社会位に出て働き、お金を貯めながら好きな楽器を演奏することをお勧めします。
 現実的な話で申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

運動を正確に再現する技術

https://youtube.com/watch?v=UJB3Hmu_Tas

 思ったように演奏できない!
間違えずに=正確に 思った速さで 思った大きさで 思った音色で
自分の身体を使って、使い慣れた楽器なのに、思ったように演奏できないと感じることは、楽器を演奏したことのある人ならきっと全員が感じたことのある「ストレス」です。
 自分が出来ないことを他の人が「できている」演奏を聴いたこともありますよね?誰もできないことなら諦めもつきます(笑)出来ている人は「簡単そうに」演奏していることも珍しくありません。その人が「すごい人」だからできる…と言うのも間違ってはいません。では「できない自分」は?なにが「できる人」と違うのでしょう?指の数?(笑)
思いつく「言い訳」を書き並べてみます。
・自分に才能がない
・手が小さい=指が短い
・楽器を練習し始めた時期が遅い
・親に音楽の才能がなかった
・楽器が悪い=良い楽器を買えない
・練習する時間が足りない
・先生の教え方が悪い
・うまい人は特殊な人間、もしくは神
 他にも色々思いつきます。すべてが「言い訳」ですが(笑)
実際に上記のいくつかに当てはまる場合も十分に考えられますが、「できる人」でも同様に当てはまっているかもしれません。知らないだけです。
 できない理由…できる人がいるのに自分にできない理由が必ずあります。
すべての「できない」に言えることではなくても、原因はいくつかに絞られます。

 ここでは「運動」に限った話をします。音楽的な表現能力や、独特な解釈など運動能力とは違う「できる・できない」話は時を改めて。
 スポーツに例えて考えてみます。
・同じ体格の人でも、100メートルを走る時間が違います。
・バスケットボールでフリースロー成功率の高い人と低い人がいます。
・野球のバッターで打率が3割を超える人と2割台の人がいます。
・ボクシングで強い人と弱い人がいます。
当たり前ですが、人それぞれに骨格も筋力も違います。育った環境も違います。
昔と今ではトレーニング方法も変わっています。同じ「人間」の運動能力の違いこそが、演奏の技術の違いに現れます。楽器を演奏する時の運動を制御=コントロールする能力を高める練習は「質と量」によって結果が大きく違います。
 スポーツの場合、練習の結果が数値化できる教具種目と、対戦する相手との「相対比較」で結果が出る種目があります。演奏の場合には、音量と音色を正確にコントロールできているか?という「自分の中での比較」と他人の演奏技術との「違い」の両面を考える必要があります。
 自分の練習方法に対して見直すことを忘れがちです。出来ないと思えば思うほど、冷静さを失いがちです。出来るようになるまでの「回数=時間」は、一回ごとの「質」で決まります。ただやみくもに運動だけを「意地」になって繰り返すのは能率が良くありません。
 ある小節で思ったように演奏できない「確率」が高い場合=正確さに欠ける場合、原因を考えることが先決です。それが「力の加減」だったり「手や指の形」だったり、「無意識の運動=癖」だったりします。「これかな?」と試しても成功する確率が劇的に増える=改善するとは限りません。
 一曲を演奏する間、あるいは一回のコンサートで演奏するすべての曲の中で「傷」になりそうな場所が複数か所、あるのが普通です。それら以外にも普段は何気なく演奏できる箇所で、思いがけない「傷」になることもあり得ます。
 そうしたアクシデントの確立を減らすためにも、演奏中に使う自分の身体を観察する練習が重要です。運動と演奏は「意思」によって関連づきます。無意識の運動は、常に不安定要素を伴い音楽も不安定になります。「行き当たりばったり」の連続は再現性がありません。偶然、傷が目立たなかったとしても演奏者自身の納得できる演奏ではないはずです。
 記録や勝敗を「競う」スポーツと違う音楽は、自分の納得できる演奏を目指し練習し、より安定した演奏を楽しむものです。自分自身との自問自答を繰り返し、焦らず客観的に完成度を高めていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「A」である前に、ひとりの「B人」として。

 今回のテーマ、どこかの学習塾の問題っぽい(笑)ですが、
Aに当てはまる言葉、Bに何も入れなくても「人」でも意味は通じます。
あなたならどんな言葉を入れますか?
・A=音楽家 B=社会・日本
・A=政治家
・A=大統領
などなど。色々考えられます。
 モラルは時代や国・地域によって違います。
たとえばヨーロッパでは昔、道路の真ん中を下水が流れていました。
日本の歴史の中でも、「仇討ち」が合法だった時代や、召集令状一枚でお国のために(謎)命を捨てることが美しいとされた悲しい時代もありました。
 2022年の日本に生きる私たち日本人が、最低限守るべき「モラル」があります。言い換えれば、許されない一線があります。
 「変わった人」と感じる人と、「変人・変質者」と感じる人の差はどこにあるでしょうか?この差こそがモラルハザードです。例えていうなら、誰にも迷惑をかけないコレクター=収集家は「変わった人」と言われるかもしれませんが、何も問題はありません。誰が考えても「ゴミ」にしか思えないものを拾い集めて自宅の敷地に積み上げる「ゴミや指揮」が他人に迷惑をかければ「変人」と言われても仕方ありません。
 日本の政治家で例えるなら、公務員としての責務を果たしながら自分の主義を持つ人は許されます。納税者=市民を苦しめる行動や言動は許されません。
 音楽の場合…

 「音楽家は変わった人が多い」と思われているようです(笑)
音楽家に限らず「芸術家」と呼ばれる人の中にかなりの割合で一般の人の考え方・生活スタイルと「少し」違う人もいるように感じます(笑)
ひとつの原因として、自分の好きなこと=芸術を優先している人が多いことが考えられます。経済的に貧しくても好きな事をできる「喜び」を感じる人でもあります。
 また別の要因として「●●バカ」と言われる人が多い=一般常識が欠如している人が多いのも事実かも知れません。「音楽家の常識=世間の非常識」とか。
 「音楽バカ」であっても他人に迷惑をかけない・不快な思いをさせないのであれば、何も問題はありません。ただ…残念ながら、他人への思いやりも考えられない「真正のバカ」になってしまう音楽家も中にはいるように感じます。
 自分が打ち込んできた…人生をかけてきた芸術に「誇り」を持つことは素晴らしいことですよね。ただそれは、本人だけの誇りであって他人に理解してもらえることではないことを理解できない人もいます。世間一般では「自惚れ屋・じこまん野郎」と呼ばれる人種です。周囲にいる友人も若いころなら「それ思いあがりだろ?」と釘をさしてあげますが、ある年齢を過ぎれば「放置」しますよね(笑)放置されていることに気付かないのも哀れな「裸の王様」の姿です。

 テーマにある「人として」が何よりも大切です。ひとりひとり、その考え方に差があるのは否めません。「ここまでなら許される」と感じるボーダーラインが違います。「みんなも守っていないから」と速度違反をする場合が、まさにそれです。人として「法を守る」ことについての意識には差があります。
 法には触れなくても「それって、どう?」と思う事があります。
言葉遣いと態度。これ、法律には書かれてません(笑)が、相手に不快な印象を与える「かも知れない」言葉遣いや態度を、平然としている人っていますよね?
元総理大臣にも心当たりが…。ま、それは老いて老いて←楽しい誤変換。

 音楽家の日常「あるある」
・他人との待ち合わせの約束を平気ですっぽかす奴
・他人との練習予定をキャンセルするのに見え見えの嘘をつく奴
・自分の責任にされないように巧妙に他人のせいにする奴
・相手によって言葉遣いと態度を使い分ける最低な奴
・金銭感覚の麻痺した奴
・常に自分が一番偉いと思って行動するイタイ奴
・さらってないのに人前で演奏して「ばれなきゃいい」と心でつぶやく奴
・ギャラの金額でさらう量を変える糞な奴

 え~っと。そんな音楽家にならないように気を付けましょう(笑)
少なくとも、お天道様が見ています!人の道に外れない生き方をしてこそ、「●●家」と呼ばれるに値する「人間」だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

曲が好き?音が好き?

 映像はチェリスト宮田大さんと作曲者である村松崇継さんのピアノによる「Earth」
 今回のテーマは主に「聴く側」に立って考えるものです。もちろん、演奏する立場の人にとって、最も重要なことでもあります。

 どんな曲でも、どんな演奏でも「音=サウンド」と「曲=旋律・ハーモニー・テンポ」が統合された「音楽」が作られています。
 音だけでは音楽とは言えません。音のない音楽もありません。
私は「曲」が好きな音楽と、演奏された「音」が好きな音楽が明確に異なっています。
 前者の「曲が好き」と言うひとつの例えが、以前のブログにも登場した「お気に入り」の曲たちです。

 誰の演奏?と言うよりも曲が好きなんです(笑)聴いていてゾクゾクする感じ。これらの「好きな曲」を「好きな音」で聴くことが最高の幸せでもあります。

 次に「好きな音」について。こちらは音楽のジャンルに関わらず、自分の好きな「サウンド」とも言えます。音楽以外でも例えば、浜辺で聴く波が打ち寄せる音…木立の中で聴く枝と葉がざわめく音…焚火で木がはじける音…など、自然界にも自分の好きなサウンドはあります。心が休まる「音」です。嫌な音もありますよね?黒板を爪でひっかく音…歯医者さんのあの!音…ガラス同士がこすれあう音…バイクの排気音←私は好きですが(笑)など、生理的な「好き嫌い」でもあります。
 音楽の中で使われる「音」には、様々な楽器の音と人間の歌声が含まれている場合があります。複数の違った「音」例えば人間の声とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、エレキギターやドラムと歌声の「混ざった音」にも、好きな音と嫌いな音があります。演奏の技術という一面もあります。特に、前述のように複数の音が混ざっている場合に「この音は嫌い」と言う音が含まれている場合も珍しくありません。
 わかりやすい例で言えば、歌手の歌声は好きだがバックのバンドの音が大きすぎて嫌い!とか、ヴァイオリンの独奏の音は好き!でも共演するオーケストラの中のチェロの音がうるさくて嫌い!などなど。

 好みの問題であることは当然のことです。人によって違います。
演奏する人が好きな曲を好きな音で「音楽」にしていることが、まず前提です。
思ったように演奏できなかったとしても、最大限の努力をして好きな「音」にするのが演奏者の仕事だと思います。曲を指定される場合もあります。特にプロの場合、主催する側から「この曲を演奏してください」と言われれば、断るのはとても難しいことです。「その曲、ひけません」と言えば「では違う演奏者にお願いするので結構です」になり、以後演奏以来は来ません。演奏者自身が嫌いな「曲」だったとしても、主催者からのオファーがあれば演奏するしかありません。断ることができるのは、「断ってもその後の仕事に困らない地位」を確立したソリストに限定されるのではないでしょうか?
 話がそれましたが、自分(たち)で選んだ好きな曲を、好きな音で演奏する努力=練習を積み重ねる過程で、その音を聴く人にどう?聴こえるか、どんな印象の音に聴こえるか?を確かめる作業が必要だと思っています。得てして、自分の好きな音を目指して練習すると、自分の好きな音を「みんなも好き」と思い込みがちです。とても危険なことだと思います。
 ラーメン屋さんを開こうとするひとが、自分の好きなラーメンを作り上げる努力をする過程で、絶対!?誰かに食べてもらって感想を求めるのではないでしょうか?どんなに自信家であっても、自分の舌だけを100パーセント信じてラーメン屋をオープンすることはあり得ないと思うのです。
 演奏者が自分(たち)の演奏を演奏会で多くのお客様に聴いてもらう前に、信頼できる複数の人の「感想」を謙虚に聞き入れて、修正することは必要なことだと思っています。仮にある人が自分の好みの真逆だったとしても、それも現実として受け入れることができなければ、ただの自己満足にしか過ぎないと思います。
 一人だけで演奏する場合と違い、複数の演奏者で演奏する場合の「音」は混ざり合ってお客様に届きます。その混ざり具合を演奏者がリアルタイムに確かめることは不可能です。録音して確かめるか、誰かに聞いてもらうしか方法はありません。バランス、客席の位置による聴こえ方の違いを確かめるには、演奏会場で確かめるしかありません。会場が変わればすべてが変わります。厳密に言ってしまえば、リハーサル時と満席になった時点での残響=響き方は全く違います。さらに空調によっても音の「流れ」が生まれます。少なくとも、リハーサル時に自分の耳で客席で聴こえる音を確かめ、自分の演奏を誰かに聞いてもらうことが必要だと思っています。

 聴く側にすれば、自分の好きな曲=プログラムの演奏会を選びます。
わざわざ嫌いな曲の演奏を聴こうとは思いません。知らない曲の場合には、期待と不安があります。
 聴いた音が自分の好みの音であれば、幸せな時間を過ごせます。自分の予想していなかった「嫌な音」だったとすれば、途中で席を立てない「苦痛」を耐える時間になってしまいます。
 演奏する人の「限界」があります。それはすべての人の好みに応えることは不可能だという事です。だからこそ、一人でも多くの自分以外の「感想」を予め聴くことが大切だと思うのです。出来れば正直な感想を言ってくれる人が理想です。「うん。きれいきれい」とか「問題ないと思う」と言われるのが普通です。
「こう弾いたらどう?」と音量のバランスを意図的に変えてみたり、立ち位置を変えてみたりすれば、「前のだと●●だな~」とか「それだとヴァイオリン頑張りすぎ」などの率直な感想をもらえるものです。そんな工夫も大切だと思います。
 演奏者と聴く人が「幸せ」な気持ちで最後まで過ごせるコンサート、
私たちの理想のコンサートです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏を自己評価すること

 映像はデュオリサイタル5、代々木上原ムジカーザでのサン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」です。
生徒さんが発表会で緊張して「失敗した」と感じる話を毎回のようにお聞きします。「今度こそは」という決意表明も「あるある」です(笑)
 そんな生徒さんたちに私がお話するのは
・緊張することは自然なことで悪い事では決してないこと。
・自分の評価の「ボーダーライン」は自分だけにしかわからない。
・失敗の記憶が強く残るもの。演奏を後で見返すと違う「良さ」もある。
・「成功」と「失敗」は相対=比率の問題。
・失敗しない演奏を目標にしてはいけないこと。
これ以外にも生徒さんの性格によっては、もっといろいろなアドヴァイスをすることも珍しくありません。要するに、一人一人が自分の演奏について「自分なりの評価」があって、多くの場合「傷」や「失敗」を減らすことにばかりに気持ちが向いてしまう事です。自分の演奏の「良さ」を見つけることを例えれば…
・草原で四つ葉のクローバーを見つける難しさ。
・壊れた部品に紛れている、使える部品を探す難しさ。
・苦手な相手の良いところを見つける難しさ。
・悪い点数のテストの答案用紙を見返して出来ている問題を見直すこと。
自分が「ダメだ」「できない」と思うこと・認めることが「上達・成長」のスタート地点です。すべてが出来ていると思い込めば、それ以上の上達や成長はないのです。
 同時に「良い部分」を見逃してしまえば、成長の妨げになります。
言い換えればできないことと、出来ていることの「違い」を見つけることが何よりも大切だと思うのです。自分の演奏に「良いところなどない!」と思う人にも共感できる私です(笑)自分の演奏の動画に自分で点数を付ければ「不合格」しかありません。それでも自分で見返すこと。他人の素晴らしい演奏と見比べること。まるで「ガマの油」ですが、上達するために必要な「試練」だと思っています。

 演奏する曲の長さ、曲数によって練習時間=量も変わります。
演奏する曲が増えると何よりも「集中力」を持続することが難しくなります。
もっと正確に言えば、演奏する瞬間=一音ごとの「イメージ=注意書き」が増えることで、頭の中の記憶と運動の記憶を呼び戻すことが難しくなっていきます。
極端に言えば「一音だけ」演奏する場合と、1曲3ページの小品を演奏する場合の「音符の数」の違いです。一音で終わる曲はありませんが、単純にページ数が増えれば演奏する音符は増えます。時間も長くなります。楽譜を見ながら演奏したとしても、瞬間的に思い出せる情報に「濃淡」が生まれる可能性が増えます。
 練習する時に「本番」のつもりで演奏する練習と、少しずつ演奏しては繰り返す練習のバランスも重要です。当然、本番では「止まらない・ひき直さない」ことを優先します。さらに傷=失敗に自分で気づいても動揺を最小限にとどめ「先に進む」ことが大切です。
 練習でも「完璧」を求め続ける練習が良いとは限りません。
一か所だけ=数小節を何時間・何日もかけて練習して、他の小節を練習しないのは間違った練習です。その「バランス」が一番難しいことです。
 違う見方をすれば「妥協」が必要になることでもあります。
妥協して、やり残したことは、時間=日数をかけて練習します。
「出来るようになった」感じ方もひとそれぞれです。
一回うまくひけて「できた」と思う人もいれば、同じ個所を数回続けてひけて「できた」と思う人もいます。さらに、その部分より前から何回でもひけて「できた」と思う人も。出来るようにする「方法」も含めて覚えても、運動が安定しないために「失敗」することもあります。
 「成功の確率」を高める練習を、効率的に行うことが重要です。
がむしゃらに、失敗する連続を繰り返して「いつか出来るようになれ!」という繰り返しても時間と体力の無駄になります。「根性」だけでは成功の確率は上がらないのです。失敗の原因を見つけて「修正」成功する感覚を覚える繰り返しが必要な練習です。

 最後に自己評価と「他人からの評価」の受け入れ方について考えます。
先述の通り、自己評価の基準は自分だけのものです。自分以外の人を評価する場合でも「自分なりの基準」でしかありません。誰かから自分の演奏を評価してもらうことは必要なことです。音大生やプロを目指す人が師匠や他の先生から「改善すべきこと」を指摘してもらえるケースもありますが、多くの場合は「良かった」主旨の評価を受けます。社交辞令・リップサービスだと思うより、自分で気づかない自分の演奏の「良い印象」を素直に受け止めることも成長には必要です。
 専門家=演奏家の評価とは別に、一般のかたの「感想」を聴くことも大切です。自分の感覚とは違う「音楽の印象」が大きな参考になることもあります。
これも「バランス」が大切で、褒められてうぬぼれてもダメ、お世辞だからと自分を責めてもダメ。常に両方があることを認めることがポイントです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 脳ら謙介

日本語と音楽

 映像はヴァイオラとピアノで演奏したドビュッシーの「美しい夕暮れ」
原曲は歌詞のある「歌曲」です。フランス語の詩と旋律と和声。
私たち日本人が使っている言語「日本語」は世界の言語の中でも最も複雑だと言われています。日本で生まれ育った私にとって、英語の方がはるかに難しく感じるのですが(笑)
 中学校で習い始めた英語。高校で第二外国語が必修だったのでドイツ語を選択。大学でもドイツ語を選択しました。外国語を学ぶことが好きなひとを心から尊敬します!中学時代「日本で暮らすのに英語がいるんかい!」と逆切れしていた記憶があります。海外に留学する友人たちの多くが、中学前に語学の学校に通っていました。「あの!●●がドイツ語?」と笑ったこともありました。
それでも彼らは外国の音大での授業や、外人の先生のレッスンをちゃんと受けて学んでいたのですから、やはり素晴らしいことだと尊敬します。

 さて、音楽は「世界共通の言語」と言われることがあります。
楽譜を記号として考えれば、どんな国で音楽を学んだ人でも、同じように楽譜を「音楽」にできます。言葉を交わせない外国の人とでも、同じ楽譜を見ながら一緒に演奏できることがその証明です。演奏しながら考えている「言語」は人それぞれに違っても、出てくる音は同じなのです。例えば音名を「ドレミ」で考えながら演奏する人もいれば、英語音名の「シーディーイー」で考えている人、ドイツ音名「ツェーデーエー」で考えている人もいます。それでも出てくる音は「同じ高さの音」ですよね。

 ルールが世界で共通のスポーツの場合はどうでしょうか?
お互いの意思疎通を専門用語でかわすことは出来ますが、その言葉がどこかの組の言葉であることがほとんどです。例えば、柔道の場合「まて!」「はじめ!」「いっぽん!」などの日本語が用いられています。
 囲碁やチェスの対戦には、言葉がなくても可能ですね。
絵画や美術品の場合、製作の過程で言葉や記号は必要なものではないかも知れません。
 世界で様々な「単位」があることは以前のブログでも書きました。
センチ・インチ・メートル・フィート・尺などの長さの単位。
グラム・ポンド・貫などの重さの単位。これも国や地域によって様々です。
 こうして考えると「楽譜」は確かに世界で共通の「記号」であることはとても希少なことかもしれません。

 音楽に文法がある…という話を音楽大学で学びました。
日本語の文法の場合、主語・述語・名詞・動詞・形容詞・副詞・助詞・仮定・命令・過去形など様々な文法がありますね。「かろかっくいいけれ」って覚えてませんか?(笑)英語やドイツ語の「文法」については、あまりに暗い過去があるので触れないことにします。申し訳ありません。
 音楽の場合、「句読点」「文節」「起承転結」など、文や文章を分析したり、実際に手紙や文章を書いたりするときに私たちが使っている「日本語」に例えて考えられます。
 日本語は英語やドイツ語と、明らかに文法が違いますよね?
つまり私たち日本人が使い慣れている「日本語」の文法は日本語特有のものなのです。それを音楽に当てはめて考えるのは、日本語で音楽を考えていることになります。

 言葉が理解できない人同士でも、自分の感情を笑顔や動作で伝えることができますよね。相手の感情を言葉ではなく表情で感じることもあります。
 音楽は「音」だけで作曲家と演奏家の「意図」を伝えます。聴く人もまた、自分の感じるものが別にあります。「言葉」のように明確に何かを示すことはできません。絵画や美術品と似ています。
演奏者が楽器で音楽を演奏する時に、歌詞のある「歌」のように聴く人に言葉を伝えられません。楽器の音だけを聴いて、伝えられることが歌よりも少ないのは事実です。しかし「言葉」も人によって感じ方が違います。時には人を傷つけるのも言葉です。日本語のように、言い方がたくさんある言語の場合には特に難しい面もあります。敬語などの使い方も難しいですよね?
相手に何かを頼まれた時の「返事」ひとつをとっても様々な言い方があります。
「うん」だけで良い場合もあれば、
「承知いたしました」だったり「あいよ!」だったり「はーい」だったり。
断る時にはもっと難しいですね。
「いや」で済む友達もあれば「大変申し訳ありませんが」と前置きをして断る場合、「お引き受けしたいのですがあいにく別の要件が決まっていて」と「嘘」をついて断る倍など様々です。
 言葉の難しさのない音楽。伝えたい「気持ち」「風景」が、聴く人の勝手な「気持ち」「風景」になったとしても、聴いた人が嫌な気持ちにはなりません。自分の好きなように「解釈」するだけです。たとえ、演奏者の思いと違っても、誰も気づかず、誰も困らず、みんなが気持ちよく演奏を楽しめます。
 演奏者が自分の感情を表情に出す場合がありますが、自然に出てしまうのは良いとして「演技」で表情をつけるアマチュア合唱団や部活吹奏楽は「いかがなものか」と思っています。
 難しい日本語・美しい日本語を日常会話に使う私たちが、音楽をより豊かな表現で伝えられるように思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

62歳の誕生日に思う

上の写真は、愛する妻浩子さんからの誕生日プレゼントです。ケーキとコーチの香水です。

 本日2022年9月30日、わたくし62歳になりました。パチパチ(笑)
映像は中学2年生の冬、恩師久保田良作先生の門下生発表会に初めて出させていただいた時の演奏です。ハイドンのヴァイオリン協奏曲第1番、第1楽章をただただ!一生懸命に演奏しています。へたッ!(笑)でも、良い音、してるんです。
この発表会の直前に、今使っているヴァイオリンを手にしたばかりの演奏。
1808年、サンタジュリアーナ製作のヴァイオリンをメニックから輸入したヴァイオリン職人の田中さんから購入したものです。

 今思う事は、よくもまぁ62年間も生きて来られたなぁ!と言う感慨です。
実際、62年と言う年月が長く感じるものか?は62年間生きてみないとわからないわけです。50歳の人が62歳の自分を想像できるはずがないわけです。
 その昔(笑)父も母も62歳だったことがありました。私は当時30歳前後の「おじさんになりたて」で父親になったばかりの頃でした。
 私が生まれた頃…昭和35年のことはテレビで見るだけで、記憶はありません。
断片的な記憶は幼稚園の頃からです。代々木上原の富士銀行社宅団地に暮らしていて、シオン幼稚園に病弱ながら通っていました。担任は「やまだ先生」でした。「ふじぐみ」だったような(笑)
 病弱った私が今日まで生きて来られたことは、自分の「生命力」だけの問題ではなく、出会ったひとたちのお陰だったと信じています。
 これから何年?生き続けられるのか心配するよりも、今日を迎えられたことに感謝し、あしたの朝、目覚められたならまた、感謝をしながら日々を大事にしたいと思っています。
 これからも、どうぞよろしくお願い致します。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を3D(3次元化)する

 映像は村松崇継さんの「アース」をヴィオラで演奏した冒頭部分です。
最初の映像は演奏動画、その次に「楽譜」、その後にある謎の映像(笑)
眼の悪い私が手探りで作った「なんちゃってアニメーション」です。
精度の低さはお許しくださいませ。
 さて今回のテーマですが、音は「聴覚」で楽しむもの…ですが、演奏する立場で考える時、楽譜を読み、音にする過程で「音の高さ=音名」や「リズム」「テンポ」と言った時間の感覚、音の大きさと音色、さらには腕や指の動きをすべて「同時」に処理しています。単に「聴覚」だけを使っていないことは確かです。
同時に起こることを「時間」で考えると、ある一瞬に私たち演奏者が考えていることが複数あります。例えば「音の高さ」「音の大きさ」「音の長さ」…本来、長さは音の大きさの概念に含まれますが、音楽では「リズム・テンポ」と言うひとつのカテゴリーがあるので敢えて「長さ「」「大きさ」を別のものとして考えます。
 映像の最期の「●」が上下に動きながら、大きくなったり小さくなったりしていることが、何を表しているか?アニメーションがうまく出来ていないのでわかりにくいですが(涙)、垂直方向に「音の高さ」、●の大きさが「音の大きさ」で、その変化の様子が「時間」を表します。
 言語化することが難しいのですが←結局説明できていない(笑)
演奏する「音」が、演奏者に向かって前方から流れるように、連続的に近づきさらに次の音が近づく「連続」です。
その音の「高さ」が演奏者の「上下」だとイメージします。
大きさは近づいてくる「●」の大きさです。
さらに今回は作れませんでしたが「色」も感じることができます。
たとえば「重たいイメージ」を赤色、「冷たいイメージ」を「青色」などで色付けすることも映像として可能です。
 音が自分に近づいてくる感覚と、自分が止まっている「音」の中を進んでいく感覚は、視覚的には同じ感覚に慣れます。
 歩きながら撮影した映像は、止まっている自分に周りの景色が近づいてくる「錯覚」を利用しています。実際に自分が歩く時に見える景色は、実際には自分が動き景色は止まっていることになります。
 連続した「音」が前方から近づいてくるイメージは、次に演奏する音を予測することができます。その「音」を演奏するために必要な「高さ」や「音色」「指・腕の動き」も想像することができます。

 楽譜や映像は「2次元」の世界で表されています。ご存知のように現代の科学で「上下・左右・奥行」の三つが私たちの感じられる「次元」だとされています。「点」しかないのが「1次元」です。「線」になれば「前や後ろや左や右」があるので「2次元」です。さらに「上と下」が加わって「3次元」になります
難しいアインシュタインの相対性理論は理解できなくても、日常私たちが生活する「3次元」の世界ですが、音楽は目に見えず、触れることもできない存在です。奥行や高さ、幅と言った概念が「音」にはありません。
なのに「もっと奥行のある音で」とか「幅広いイメージで」と生徒さんに伝えることがあります。つまり「聴覚」で感じる音を「視覚」や「触覚」に置き換えることを私たちは何気なく行っているのだと思います。
 前から自分に吹いてくる「風」が身体の「どこか」に吹いてくるイメージを持ってみます。
・「弱く」「長い時間」「暖かく」「おでこ辺り」に感じる風
・「強く」「短い時間」「冷たく」「首辺り」に感じる風
この二つの違いを「音」に置き換えることもできますよね?
これが「音」を私たちの「触覚」に置き換えた場合です。
 音楽を「楽譜」や「音」だけに限定して考えるのは、私たちが持って生まれた「五感」の一部だけを使っていることになります。しかも楽譜は記号の羅列でしかありません。それを音にして、さらに音楽に作り上げていく演奏者が五感のすべてを使って、音楽を感じることは有意義だと思っています。
 わかりにくいテーマで申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

命あるもの…

 

今日は私の父の命日なので…
この世に命あるものは、必ずいつか死を迎えます。命に大きい小さいはありません。
「死」の受け止め方、考え方は様々です。
私たちは自分以外の命によって生かされています。
自分の「死後」を知る人はいません。だから怖くも感じます。
自分以外の「命の終わり=死」に接したときに悲しみを感じるのはなぜでしょうか?なた、悲しみを感じない「死」もあるのはなぜでしょうか?

 父は6年前の今日、母は3年前に生涯を終えました。
両親への感謝を言葉にできるとは思っていません。心の中で感じるものだと思っています。その両親に愛されて育った(と勝手に思っています(笑))自分は、世にいうところの「恵まれた人間」だと思います。当然、その事だけが「恵まれた」と言う基準ではありません。
 両親との「別れ」に私は悲しみより、安堵感を感じたのです。
「冷たい」と思われるかも知れませんが素直に書きます。父は自分の死を恐れていました。その父が眠るように…まさに寝たまま生涯を終えられたことは、私にとって何よりも「父にとって良かった」と思えたのです。
 その父の死を、認知症で受け入れられない母を見るのがつらく、悲しかったのは事実です。若いころは気丈な母でした。父に文句を言いながら、いつも父の言う通りに従っていた母でした。その母がどんな思いで父の「死」を感じていたのかと思うと、認知症を治療できない現代医療への「憤り」と同時にどこかに「これで良かったのかもしれない…」と言う気持ちもありました。
 その母が次第に父の話をしなくなってから、静かに眠るように息を引き取るまでの時間は短いものでした。それまで母は父との別れを、思い出しては悲しみ、すぐに忘れ…忘れては思い出す繰り返しでした。母にしかわからない苦悩だったと思います。その母との別れも父と同様の安堵感を感じました。

 私のこれまで61年間の人生で、最もつらい別れは愛犬との死別でした。
「親よりワンコかいっ!」怒らないでください(涙)
今、ブログを書いている机の上、南向きの窓辺、我が家で一番日当たりの良い場所に「彼」の遺骨があります。彼の名は、今や国王となられた「ちゃーるず君」でした、これ本当の話です。イギリスが原種のビーグル犬でしたので当時「皇太子」だった方のお名前を勝手に頂いた次第です(笑)
 彼の死が突然…本当に思ってもいない別れでした…やってきたとき、
ただ「ごめんね」と「ありがとう」しか言えず、涙がとめどなく…何日も。
自分がもっと「してあげられたこと」だろうことが、頭の中を埋め尽くしました。それまでの彼との、すべての光景が「悲しみ」に感じました。
私が「死」を悲しいと感じたのはこの時です。おそらく、自分が許せなかったのだと思います。我儘な話だと自分で思いますが、それが正直な思いです。
「死」は生きている人との別れでもあります。別れが悲しく感じるのは、それまでの「愛情」「感謝」があるからです。その感情を持たない場合「別れ」には感じないのが人間です。食べ物…ベジタリアンでも人間は命を栄養源にして生きています。仏教の世界で「業=ごう」は単に「行為」を表すそうです。善悪ではなく人間が生きて行うことが「業」で、生き物を殺生して食べることもその一つです。植物を「いのち」ではないとは言えません。だからこそ、食べ物に感謝をする気持ちが大切である事を習ったのだと思います。
 私たちが意識していない「時間」「場所」で常に死はあります。
それが「人の死」の場合もあります。命を二つ持った人間はいません。
残された人にとって、その人の死が悲しいものか?そうではないのか?と言うことは、あって当たり前です。悲しまないから「冷たい人間」だと決めつけるのは間違っています。愛情も感謝も感じない人の死を「悲しむ」感情は人間にはありません。
他人と他人の「関係性」は絶対に理解できません。
「誕生」は祝福されるべきものです。
「死」への感情はひとそれぞれに違うものです。
私は、両親への感謝を感じながら生きています。
いつか自分の命の終わりを迎える時まで、その感謝を持っていたいと願っています。
 空の上にいる両親に向けて…

ひでやさんとしずこさんの息子 野村謙介

聴く楽しさと弾く楽しさ

 映像は、ミルシテイン演奏のヴィターリ作曲「シャコンヌ」
昔FMを録音したカセットテープが擦り切れそうになるまで聴いた演奏です。
なにが?どこが?好きなのか言葉にするのが「鬱陶しい」(笑)ですが、
強いて言うなら「聴いていて美しい」と感じるのです。
演奏がじょうずか?じょうずでないか?って問題ではないし、誰かと比べてどちらが好きか?と言う話でもないのです。自分の記憶の中にある、この演奏との「出会い」もきっと好きな要因の一つなのかもしれません。
いつも食べ物の例えばかりですが(笑)、昔に食べたものの美味しさを、忘れられないことってありませんか?それが「駄菓子」や「おふくろの味」だったりすることもあります。旅先で偶然立ち寄ったお店の「美味しさ」の風景を思い出すこともあります。グルメ評論家の「点数」より、懐かしい味が恋しいこともあります。明治のカールとか(笑)

 クラシック音楽は基本的に聴いて楽しむものです。見て「も」楽しめるオペラは特殊なものです。ポピュラー音楽の中でも「聴く楽しみ」が強い音楽もあります。ライブの演出が「見て楽しい」ものもあります。客席の連帯感が楽しかったり、演奏中の「掛け声」が楽しい場合もありますよね。
 多くのクラシック音楽は、演奏される「音」を楽しむ芸術です。
その楽しみを味わうために、時間をかけてコンサートホールに行って、チケットにお金を払うクラシックコンサート。聴く人が、聴くことに集中できる環境も大切ですよね。固くて座り心地の悪い椅子に、長時間じっと座って「心地良い」人はいません。それでも「聴きたい」と思う人もいるのは事実です。
立ち見でもホール客席の階段に座ってでも!演奏を聴きたいと思ったことも実際にあります。むしろ極別な「クラシックファン」だと思います。
 自宅で好きなクラシック音楽を聴いて楽しむ時を想像してください。
リラックスできる雰囲気で、好きな物美濃を飲みながらくつろいで聴く時間。
オーディオにこだわる人もそうでない人も「安らぎ」を感じるはずです。
自分だけの時間を満喫する「趣味」とも言えます。好きな音楽を好きな演奏で、好きな部分だけ聴くのが自然ですよね。

 映画を映画館で見る人もいれば、自宅で楽しむ人もいます。それぞれに楽しみ方があります。自分流の楽しみかたが、ますます多様化しているのが現代です。
手軽に自宅で楽しめる「良さ」もあり、映画館で見る「良さ」もあります。
音楽の聴き方も変わってきました。ウォークマンが発売された当時、屋外で歩きながら音楽を聴くことは「斬新」なことでした。「マイカー」で「カーステレオ」のカセットテープで音楽を楽しんだ時代もありました。オーディオ全盛期には大きなスピーカーが憧れの的でした。椅子が振動する「ボディソニック」が流行った時期もありました。次第に「簡単」が優先される時代になり、音楽を聴くことにかける「手間」も惜しまれるようになりました。
 最近、ビデオテープやLPレコード、カセットテープが見直される傾向が強くなってきました。「手間」の面白さが再認識されている時代です。
 クラシックの音楽を演奏する楽しさも「手間」の楽しさです。生活が「簡単」になって自分で作る楽しさや、出来た時の嬉しさが「懐かしく」感じられるようになった今、ヴァイオリンやピアノ、アコースティックギターなどの「自分で音を出す楽器」の良さが再発見される日が来たように思います。
 音楽は「聴く」楽しさと「演奏する」楽しさがあります。まったく違う楽しみ方のものです。少なくとも演奏してみると、聴く楽しさが何倍にも増えます。
言うまでもなく演奏するのは簡単な事ではなく、聴いたように演奏するためには、長い時間がかかります。それでも音が出せる楽しさがあります。難しさを知ることで聴く時の楽しみ方も変わります。
 プロの演奏者が「聴く楽しさ」を意識せずに演奏するのは傲慢と言うものです。どんな曲であっても、聴く人のための演奏であるべきです。演奏者のための演奏なら他人の前で演奏する意義はないはずです。客席で聴いてくださるひとが、初めて聴く音楽「かも知れない」と思って演奏することも必要だと思います。いつ終わるとも知れない音楽に感じるかも…と言う思いやりもあって良いと思います。クラシックマニアのかたには「勉強してから聴きに行け」と怒られそうですが、生まれながらのクラシックマニアはいません(笑)「初めてのクラシック」の印象も大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

音楽を頭と体に刷り込む作業

 今回のテーマは音楽を自分の「言葉」にするテーマです。
年末、年始のデュオリサイタルで演奏予定の曲立ちは…

「無言歌」 クライスラー/チャイコフスキー
「ノクターン」 チャイコフスキー
「ただ、憧れを知る者だけが」 チャイコフスキー
「シュピーゲル イン シュピーゲル」 アルヴォ・ペルト
「祈り」 ラフマニノフ「
「彼方の光」 村松崇継
「無言歌」 メンデルスゾーン/クライスラー
「アリオーソ」 バッハ
「明日」 アンドレ・ギャニオン
「Earth」 村松崇継
とりあえず10曲の小品たち。どの曲も浩子さんと選んで練った(笑)愛すべき音楽たちです。ヴァイオリンで演奏する曲とヴィオラで演奏する曲があります。
今回も、購入したり手に入れた楽譜を、そのまま演奏する曲は1曲もありません。多くは浩子さんのピアノ楽譜をアレンジするケースですが、旋律のオクターブ、装飾音符、リズムなどもオリジナル?にしています。
 言うまでもなく、楽譜に書かれていないことの方が多いわけで、言ってみれば毎回の演奏で少しずつ変化していきます。「再現性」を大切にするのがクラシック演奏の基本かも知れません。確かに自分のこだわる演奏が、演奏ごとに変わることは矛盾するかもしれません。そのことを否定しませんが、音楽を生き物として考えるなら、演奏する人間との会話が変化するのは自然なことに感じています。

 音楽を誰かに聞いてもらう演奏者の心のどこかに「傲り(おごり)」があるように感じられる場合があります。いくら隠しても、演奏の合間の言葉に「得意げな自慢話」があれば、聴く人にとって不愉快なだけです。「特別に聞かせてあげます」と言えばお客様がありがたがる?(笑)思いあがりでしかありません。
そんな気持ちを感じてしまうと、演奏を聴いて楽しめるはずがありません。
 演奏を誰かに「聴いてもらう」気持ちは「聞かせてあげる」とは全く違うのです。自分(たち)の演奏に誇りを持つことは必要不可欠です。ただそれは「自分の中にしまっておくべき」ことです。決して人に見せるものではありません。
 自分(たち)の演奏を作り上げるプロセスは、人によって違います。
私たち二人が音楽を自分から自然に出てくる「言葉」にするために、何度も繰り返して頭と体に刷り込みます。楽譜を覚える…ことではないと思っています。
 ひとつの音楽を演奏する時間は、親しい友人や家族と過ごす時間のようにありたいと思っています。特別な事を考えなくても、相手が今なにを考えているのかを、お互いが自然に感じられる関係。音楽が自分に語りかけてくることもあります。「もう少し速く歩きたいな」とか「静かにリラックスしたい」と感じるのは、音楽から演奏者へのメッセージです。その演奏を聴いてくださる方が、演奏者と音楽の「会話」を楽しんでもらえればと願っています。
 さぁ!もう少し!がんばるべ!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「好きなように弾けない」理由

 映像は、ポンセ作曲、ハイフェッツ編曲「エストレリータ」英語に訳すと「Little star」小さな星と言うタイトルの、メキシカンラブソングです。
シャープが6つ付く調性「Fis dur」の楽譜で書かれています。
原曲の「歌」も色々な歌手が歌っています。

 大人の生徒さんにレッスンをしていて、生徒さんが「好きなように演奏するのが一番難しい」と言われることがあります。。以前ブログに書いたことがありますが、指導者の好みの演奏を、生徒さんにそのまま「完コピ」させることには否定的に思っています。生徒がんが大人でも子供でも、その人にしか感じられない「気持ちよい演奏」が必ずあるはずです。仮に指導者の演奏を「そのまま真似したい」と光栄なリクエストを生徒さんから頂いたら、指導者はどうするでしょう?
一音ずつの詳細な演奏技法をそのまま、伝えることより生徒さん自身が自分の好きな演奏を考えることが「指導」だと思っています。

 自分の好きなように…
・料理を作って食べる
・自分の洋服を選ぶ
・絵をかいて楽しむ
・草花を育てる
などなど、趣味でも職業でも考えられる話です。
「自己流」で初志貫徹(笑)するひとも多くいます。
誰かに基本を教えてもらって、あとは自分の好きなように…と言うひとも。
誰かの真似をしてみる…イチローの真似をするとか、昔は王貞治さんの「一本足打法」の真似をしたひとも多いのでは?←私、しました(笑)
 楽器演奏の場合、プロの演奏を真似したいと思うのは、なぜかプロを目指す人「音大生」に多く、アマチュア演奏家には少ないのが現実です。
スポーツでも音楽でも「憧れ」を感じたひとの「真似」をしてみたい気持ちは、純粋な憧れの表れです。子供が忍者になり切ったりしますが、大人の場合は?
 「コスプレ」特に日本のアニメに登場する人物にあこがれる、外国人がセーラームーンのコスプレをしている映像、見たことありませんか?
 ロックバンド全盛だった頃に、女の子バンドにあこがれた「昔女子高生、今△△△△」もいれば、未だに「布袋モデル」のギターが押し入れにある男性諸氏もいたりします。多くは「形から入る!」のが鉄則でした(笑)

 クラシック演奏の特徴を考えた場合「カラオケ」のように歌い方を「真似る」ように、演奏の仕方を真似る事が難しいですよね?
原因を考えます。
・一曲が長いので真似しきれない=覚えきれない。
・楽譜の通りに演奏すること「さえ」難しくそれ以上なにもできない。
・ただ「うまい」「すごい」と感じるだけで「なにが?」を言語化できない。
・自分にはできないと思い込んでいる。
今更のそもそも論ですが(笑)たとえば「もっと速いテンポで演奏したいのにできない」という気持ちも自分の好きなようにひけない!のひとつです。
曲の中である音を「少しだけ長く大きく」演奏したり、「少しだけ短く弱く」演奏したりすること、つまり「楽譜には書かれていないこと」があります。
「そんな経験をしたことがない!」と思い込むのがアマチュア演奏家です。
いやいや!(笑)実は毎日、誰でもやっています。

 誰かと会話することは珍しい事ではありません。
多くの日常会話は、その場で原稿を読まずに思いついたままに話しますよね?
相手によって、またはその場のシチュエーションによって、話し方も使う言葉も変わってきませんか?
 初めて会う人に、道を尋ねる時に「あのさ~、●●ってどこ?」って聞きます?小学1年生までなら許せます(笑)
 毎日、顔を合わせる家族同士や友人との会話もあれば、仕事で相手に不快な思いをさせないように配慮する時の話し方もあります。これが「話し方のTPO」です。他方で、同じ文章でも「言い方」が変われば印象が変わることも、みなさんご存知のはずです。
「ありがとう」あるいは「ありがとうございます」
これを誰かに話す時を例にとってみればすぐに分かります。
文字にすれば「ありがとう」でも、本当に相手に対して感謝があふれるような場合の「ありがとう」と、本当は嬉しくないけれど「社交辞令」で相手に言う「ありがとう」は、芝居をしない限り全然違う「ありがとう」の言い方になるはずです。
 楽譜は言語に例えれば「文字」です。文字を並べて意味のある「言葉」にしてさらに助詞などを使って「文」ができます。その文を連ねて「文章」ができます。会話をそのまま文字にすることもできますし、「詩」のように読む人がそれぞれに違ったイメージを持つ文章もあります。それらを読む能力が「楽譜を音にする能力」です。楽器がなにも演奏出来なくても「声」で歌うことができる楽譜もあります。要するに文字も楽譜も「音にできる記号」なのです。
 その楽譜を音にして演奏すると音楽になります。一言で音楽と言っても、一度聞いて耳になじむ=覚えられる音楽もあれば、メロディーを記憶さえてきないような音楽もあります。そのことを文字に置き換えると「意味を知らない単語」や「読めない漢字」が該当します。仮にカタカナで書いてある言葉でも意味が分からない場合は多くあります。
 「これはファクトです」とか「インバウンドが」などニュースでさえ聴いていて意味が分からない「横文字」?」を耳にする事、ありますよね?
楽譜を音にして「なんだ?これであってるのか?」と思う場合がそれです。

 正しく楽譜を音にできたとします。その音楽を聴いて感じる「感情」が部分的、あるいはもっと全体的に、きっとあります。何も気にせずに音楽を聴く場合にそれぞれの音は「聞こえている」だけで終わります。
並みの音を聴いて、海岸や浜辺の風景を想像する…という聴き方と、ただ「音」として聴く場合があります。後者の場合、頭の中で想像するものはなにもありません。同じ音でも感情が絡めば「連想」が出来ます。音楽を演奏しようとする時、ある1小節を演奏して悲しい感情を感じる場合もあります。楽しく感じる音楽もあります。音の高低、リズム、和音を聴いて感じる感情です。

 自分の好きな演奏を見つけるために、必要なのは?
・観察力
・音の長さ・強さ・音色を大胆に変えて実験すること
・他人の演奏に縛られない自由さ
・〇〇しなければいけないという発想から離れる勇気
・ミクロとマクロ←以前のブログ参照を考えながら試す
・音は常に時間経過と共に変化し続けることを忘れない
平坦な音楽は、一昔前のコンピューター「読み上げ音声」のようなものです。
言葉を語り掛けるように演奏することが「歌う事」です。
思った表現を可能な限り大げさに試すことが大切です。
自分に感じられる程度の変化は、他人には伝わりません。
絵画に例えるなら、少しずつ色を足す技法より、まず原色ではっきりしたコントラストを確認してから色を薄めていく方法です。
味つけは少しずつ、足していくのが原則ですが音楽は逆に、まずはっきりした味を付けてから薄めていくことが「好きな演奏」に近付けます。
 個性的な演奏を目指して、実験をする気持ちで音楽を描きましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

音大オーケストラの歴史

 映像は1975年(だと思います)桐朋学園大学オーケストラの定期演奏会を客席で録音したウィニアウスキー作曲、ヴァイオリンコンチェルト第1番、第1楽章です。当時中学3年生だった私が師事していた久保田良作先生門下の兄弟子…大先輩で、受験のための「下見レッスン」をしてくださっていた安良岡ゆう先生の独奏です。小柄で長い髪の見合う、明るく優しい憧れの先生でした。
ご自宅に毎週通って受験まで親身になってに指導をしてくださったおかげで桐朋に合格できました。

 カセットデンスケ…知っている方は私世代です(笑)と、ソニーのステレオマイクをバッグに入れて録音しました。もちろん、独奏の安良岡先生からのご指示で録音したもので、悪意のある隠し録音ではありません。この録音を留学のためのテープに使用されるとのことでした。
 音は現代の録音に比べると「回転ムラ」が感じられます。でも、演奏の「質」はしっかり伝わってくる気がします。
 この翌年から、私が高校生として通い、大学を卒業するまで通った当時の桐朋。高校生と大学生、研究生、ディプロマ生、聴講生、子供のための音楽教室に通うう子供たちが、同じ建物で学びました。
当時、3階建ての旧館と4階建ての新館、新館の地下に高校生の学ぶ10の教室がありました。
 オーケストラはすべての弦楽器・管楽器・打楽器の高校生と大学生が、高校・大学の枠を設けず全員が必修の「授業」でした。
 高校・大学の新入生は「ベーシック・オーケストラ」で学びます。
弦楽器と管楽器がそれぞれの合奏を学び、合奏の前に「ベーシックスタディ」と呼ばれる基礎練習を学びます。裏打ちの練習、2対3で演奏する練習など。
 実技試験の成績と全員が受けるオーケストラオーディションの成績で、学年が上がるときに「レパートリー・オーケストラ」の一員になれます。定期演奏会で「前プロ」を演奏することができますが、演奏旅行はありません。合宿は当時、北軽井沢の「ノスタルジック=ボロボロ」合宿所でした。
 さらに学年が変わり成績が良ければ「マスター・オーケストラ」で演奏できます。金曜日の夕方に行われていました。合宿先も豪華になり、当初は志賀高原「天狗の湯」、その語習志野市の施設「ホテル・アルカディア」だった…気がします。演奏旅行があれば学生は無料で参加できました。大阪、仙台、沖縄に行った記憶があります。昔はニューヨークの国連本部で演奏したこともあったようですが、私の在学中には一度も海外演奏は行われませんでした。

 どのオーケストラでも、合奏の前に「分奏」がありました。弦楽器は、ファースト・セカンド・ヴィオラ・チェロ・コントラバスがそれぞれ別の部屋で「分奏韻」と呼ばれる指揮科の学生が合奏で指揮をする先生の指示を受けて、パート別の練習を行います。実技指導の先生も立ち会われていました。
 ちなみに、ファースト・セカンド・ヴィオラのどのパートになるか?は、曲ごとに変わります。先生たちが考えてパートと席順を掲示板に張り出します。学生はそれを見て初めて、自分が次になんの曲でどのパートを演奏するのか知らされます。ヴァイオリン選考の高校生・大学生は、全員ヴィオラも担当しました。ヴィオラ選考のひとは、当然ヴィオラを演奏しますが、人数が足りないのは当たり前です。ヴィオラは学校から無料で貸し出されました。そのヴィオラにもランクがあり、一番上級のものが「特室-1」などの番号がついたヴィオラ。A-1~10?、B-1~10、C-1~10、D-1~10などが、一部屋の楽器棚に保管されていました。
 大きさも暑さも重さも「様々」ですが、割り当てられたヴィオラで演奏するしかありませんでした。

 文藻が終わると、楽器と楽譜を持って「403」という大きな部屋に移動します。ここは入学試験、実技試験にも使われる教室で、当時の校舎では最も広い教室でした。多くの打楽器もおこ荒れていて、合奏前に平台を並べ、譜面台やチェロ用の板を並べるのも学生たちで行っていました。
 合奏で指揮をされる先生は、時によって様々でした。森正先生だったり、小澤先生だったり、秋山先生だったり、小泉ひろし先生、山本七雄先生などなど。
時々、学生指揮者が演奏会の前プロを指揮することもありました。覚えているのは、デリック井上さん。
 桐朋のオーケストラでは、先述の通り高校生も大学生も関係ありません。
レパートリーオーケストラに高校2年時に上がれる人もいれば、大学4年生でレパートリーオーケストラにいる人も普通にたくさんいましたので、年齢差も様々でした。年功序列はなく、完全に「能力別」でした。評価する基準や歩法に、興味はありませんでした。あれ?私だけ?(笑)

 そんな当時でさえ、卒業された先輩方からは「甘っちょろくなった」と言われていたようです。創設者の斎藤先生が亡くなられた翌年からのことですから、言われても仕方のないことだったように思います。
 「弦の桐朋」と呼ばれていた時代です。東京芸大や国立音大、武蔵野音大、東京音大との「違い」も報じられたた時代でした。私自身は高校入試で、国立音大付属高校と豆桐朋女子高等学校音楽科を受験しましたが、当時の入試の難易度はまさに「天と地」ほどの違いがありました。生意気に聴こえてしまうのはお許しください。一度きりの受験経験で感じた難易度の違いです。聴音のレベルは、比較に値しない差がありました。実技試験でも、国立は無伴奏でコンチェルトを演奏するのに対し、桐朋は一日だけの伴奏合わせで試験当日、伴奏の先生とコンチェルトを演奏します。
 他大学との「差」は他大学のレベルを知る機会がなかったので私にはわかりません。ただ、冒頭の録音を聴いて感じるように、プロオーケストラの演奏技術と比べ、弦楽器のレベルは「学生」のレベルではないように感じます。

 ヴァイオリンの「教授陣」は今考えても、ぞっ!とするほど(笑)高名な指導者の先生方が揃っていました。それぞれの先生方が、個性的な指導をされ、門下生も個性的でした。先生方同士も試験の合間に、とても和やかでした。
当然ですが、桐朋の卒業生で先生をされている方はまだ少ない時代でした。
 私が入学した当時「25期生」でした。つまり、桐朋が出来て25年目に高校生になったわけですが、それまで多くの「桐朋生」を育て卒業させてきた指導者が、まだ現役だった時代だったのかも知れません。
 一人の「先生」で考えると、たとえば30代で指導者になったとすれば、25年間経てば50代後半の年齢です。その間に、さらに新しい「若手指導者」が入れば、指導者の連携ができます。
 私が学生だった当時、あまり若い指導者がいらっしゃらなかったように記憶しています。言い換えれば「教授陣が同世代」だったように感じます。

 現代、桐朋に限らず「母校=出身大学」で教えていない先生方が、あまりに多いように感じます。それぞれの先生方の「価値観」があって当然ですが、部外者の目からすると、違和感を感じます。経営者と教授陣が「別」の考え方になることは珍しくありません。多くの大学で「経営陣の権限>教授陣の意見」です。
 桐朋が仮に「全盛期」を過ぎたとすれば、全盛期には「経営=教授」に近かったのかもしれません。現実、桐朋は「お金儲けの下手な音大」でした。
学生一人に対する教授の数が多すぎる=指導者の人数が多大よりも多いことを学生としても感じていました。だからこそ、学生に対するレッスンの質と時間が担保されていたのかも知れません。人件費にほとんどの授業料を使う音大が、ホールを持てなくても当然です。ホールがなくても、素晴らしい先生がたくさんいる方が魅力ある音大だと思うのは私だけでしょうか?
 箱モノより中身です。
学生を集めるための「おしゃれな学内カフェ」よりも「習いたい先生がたくさんいる」ことが大切だと思います。これからの音楽大学に不安を感じる「音大卒業生」のボヤキでした。老婆心、お許しください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

やわらかいもの な~に?

 今回のテーマ、なぞなぞか!(笑)
あなたは「やわらかいもの」と言われてどんなものを連想しますか?
羽毛布団?わたがし?マシュマロ?お豆腐?
では、やわらかくて、おおきいものは?
空に浮かぶ雲?ふかふかのベッド?エアーマット?そよ風?
現実の「硬さ」を数値で表す方法が何種類もあります。
1.「ショア硬さ」はダイヤモンドのついた小さなハンマーを測定物に落として、そのはね上がり高さで硬さを測定します。はね上がりの高いものほど硬いことになります。
2.「ロックウェル硬さ」
ロックウェルC硬さは、頂角120°のダイヤモンド円錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、その押し込み深さで硬さを測定します。深さの浅いものほど硬いことになります。
3.「ブリネル硬さ」
ブリネル硬さは鋼球を測定物に一定加重で押し込み、その時に出来るくぼみの大きさで硬さを測定します。くぼみが小さいほど硬いことになります。
4.「ビッカース硬さ」
ビッカース硬さは対面角136°のダイヤモンド四角錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、ブリネルと同様に出来たくぼみの大きさで硬さを測定します。これもくぼみが小さいほど硬いことになります。
う~ん。物理の授業だわ(笑)
 楽器を演奏するひとにとって、実際に「硬い・柔らかい」ものがあります。
・指の表面=皮膚の柔らかさ
・皮膚の下の「脂肪・筋肉」の柔らかさ
・さらに奥にある「骨」の硬さ
・弓のスティックの硬さ
・弓の毛の柔らかさ
・弦の表面の硬さ
・弦全体の張力の柔らかさ
・指板の硬さ
など多くの「もの」にそれぞれに硬さ・柔らかさがあります。
・柔らかいもの同士が「触れ合う」場合には?お互いが、へこみますね。
・柔らかいものが硬いものに押しあてられると?柔らかいものが、へこみます。
・硬いもの同士が押し合わされると?少しでも柔らかい方が、へこみます。
これをヴァイオリン演奏に当てはめると…
1.右手側
指(柔):弓のスティック(硬)
弓の毛(柔):弦(硬)
弦(柔):駒(硬)
2.左手側
指(柔):弦(硬)
首・顎(柔):顎当て(硬)
鎖骨(硬):楽器・肩当て(硬)
さて、問題は人間の「触覚」です。
右手指も左手指・首・肩などに触れる部分で感じる「強さ」です。
強い力で振れていても、鳴れてしまうと感覚が麻痺します。
弱い力で「触れた」触覚と、強い力で「押し付けられた」触覚の違いです。
無意識に強く握ったり、強く挟み込んでしまうことに注意が必要です。

 「硬い」「柔らかい」と言う表現は必ずしも「現実に触れるもの」以外にも使われています。映像はオイストラフの演奏するサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソです。音色の柔らかさを感じる演奏だと思います。

 音色や演奏の硬さは計測できません。単位も基準もありません。主観的なものです。それなのに何故か?この表現は頻繁に使われます。では、「音楽」の硬さと柔らかさについて考察します。
1.硬く感じる演奏
・音の立ち上がり=発音に、強いアタックが続く演奏
・高音が強く響き低音の少ない音色が続く
・ビブラートが常に速く深い
2.柔らかく感じる演奏
・アタックのコントロール=強弱がある
・低音の響きが強く、高音の倍音が適度に含まれた音
・音楽に溶けあうビブラートの速さと深さ
これらの違いをコントロールする技術は、何よりも「聴覚」と「触覚」がすべてです。もちろん、弦の種類、楽器と弓の特性によって音色は大きく変わります。
それらを「ハードウエア」と考え、技術・感覚を「ソフトウエア」と考えることもできます。言うまでもなく、使いこなすのは人間です。ハードウエアの個性を判断し理解するのも演奏する人間です。数値・種類で表すことができるのは「材質」や「弦の太さ・硬さ」など数点だけです。演奏する楽器と弓の「特色」の好みがなければ、どんな楽器で演奏しても良いことになります。「イタリアの楽器は良い」とか「古い楽器は良い」とか「鑑定書のある楽器は良い」、さらには「値段の高い楽器は良い」すべてに言えることは…
「そうとは限らない」つまり自分の好きな音が出る楽器か?を判断できないひとにとって「良い楽器」は存在しえないのです。その「耳」を鍛えることが軽んじられている気がしてなりません。とても悲しく、恐ろしい気がしています。

 最後に関節や筋肉の「柔軟性」と、音の柔らかさについて。
他人の身体の「硬さ・柔らかさ」は演奏を見ているだけでは判断できない部分がほとんどです。体操選手やフィギアスケート選手のように「身体の柔らかさ」をアピールする競技もあります。ヴァイオリン演奏で、見るからに「ぐにゃぐにゃ動く」演奏者を見かけますが、それは「柔らかい」とは違います。むしろ体幹が支えられていないから「ぐにゃぐにゃ」なケースが多く、必要な柔軟性とは異質のものです。身体には「硬い骨」もあり「強く太い筋肉」も必要なのです。その硬さを軸にして周囲に「柔らかい筋肉・関節」があるのです。
 右手指には「握らずに=ぐー!せずに」「しっかりやさしく包み込む」力が必要です。左手指にも同じ同じことが言えます。
 脱力したときの強さ…矛盾しているように聞こえますが、力を抜いた時の適度な「硬さ=弾力性」の事です。赤ちゃんの指は、触るとふにゃふにゃ(笑)です。その赤ちゃんは本能的に「つかまって自分の体重を支えられる指」を持っています。つまり「強い」のに「柔らかい」のです。理想の力でもあります。
 必要な力を「見切る」ための練習が必要なのです。
弱すぎれば安定しません。だからと言って強すぎれば硬直します。
「ちょうどよい力加減=硬さ」がそれぞれの部位にあります。
それを見つけることと、常に観察することが練習の要=かなめになります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の「ミクロ」と「マクロ」

 映像はエルガー作曲の「カントポポラーレ」第2回のデュオリサイタルで演奏したときのものです。あまり演奏される機会のない曲ですが、どこか懐かしさを感じられる素敵な曲です。

 どんな曲でも1曲を仕上げるために練習する過程で、陥りやすいことがあります。きっと多くの楽器演奏者が感じることだと思います。
 「ミクロ=微小な」という言葉に対して「マクロ=巨大・巨視的(全体的に観察すること)」という言葉があります。
 曲を練習する時で考えれば「一音」ごと、さらに「発音」「アタック」などを、虫眼鏡で観察するように注意して練習することが「ミクロ」で、
曲全体、あるいは「フレーズ」や「楽章」などの広い視野で音楽を考えることが「マクロ」だと言えます。
 演奏を「時間」を軸にして考えるなら、音が出始める「瞬間=短い時間の単位」から音を伸ばす「少し長い時間」、さらに「リズム=音の長さと休符の組み合わせ」で徐々に長い時間の単位になっていきますね。仮に3楽章で書かれている曲であれば、それらを弾き始めてから最後の音が消えるまでの「時間」が最大長になります。
 虫眼鏡や顕微鏡で、小さなものを大きくして見ることを「音」に例えるなら、ひとつの「音」が無音の状態から出始める=聴こえ始める瞬間を「拡大」して練習することになります。さらにその次の瞬間にも音は連続しているので、また新しい拡大が必要です。当然それぞれに違った「拡大図」があります。弓が動き始める瞬間の「音量」と「音色」を観察することが大切ですが、これだけを練習していても「音楽・曲」にはなりません。だからと言って、虫眼鏡で観察していた音楽を、突然「3楽章」で考えることは不可能ですよね(笑)
1.虫眼鏡で見る部分を少しずつ移動する。
2.少し倍率を下げ、広い部分を観察する。
3.次の新しい「音」を虫眼鏡で観察し…移動し…倍率を下げて
4.前の部分と今、練習している部分を見比べられる「倍率」に広げる。
という練習を繰り返した場合に、頭を悩ませる問題があります。
 それは、次第に大きな部分を考えるようになってきて、練習してきた過程で「良い」と思っていた「ミクロ」の部分に疑問がわき始める場合です。

 これを「家を建てる」と言う家庭に置き換えて考えるとわかりやすいかもしれません。基礎ができた土地の上に「建物」を造ろうとするとき、適当に木材を切り始めるひとは?いませんよね?まず「設計図」を書く、もしくはきちんと完成したイメージを考え、必要な材料の大きさ、量を考えるはずです。
 どんなに手先が器用で、まっすぐに木材をカットしたり、美しく表面を削り磨き上げられたとしても、その部品を他の部品と「組み合わせ」られなければ、技術も時間も無駄になります。
 「手抜き工事」は設計図があっても、部品の大きさや取り付け方=ミクロがいい加減で、傾いた家になったり、壁に隙間が出来たりします。つまり、いくら正確な設計図=マクロがあっても、ミクロの部分が雑なら家全体も雑になる…ということです。

 音楽も家を建てるのと似ています。
まず、設計図を楽譜を見ながら頭に描くことです。これから演奏・練習しようとする音楽の「完成図=未来予想」をする時間が必要です。それから、ミクロ=一音ずつの練習と観察に取り掛かかることが、効率的な練習になります。
 完成図、言い換えれば自分の理想の演奏をその曲に思い浮かべることは、とても難しいことです。そもそも楽譜は「音」ではありません。頭の中で音楽にする技術と能力、あるいは誰かの演奏を聴きながら楽譜を読み進む技術がなければ、設計図は作れません。「覚えればいい」と思われがちですが、音楽を「音」の高低・リズムだけで覚えて「設計する」のは、家を建てる際に「言葉」だけでイメージを伝えることと同じです。紙の上に2次元で描かれた「設計図」を、壁や床・天井・窓・屋根にしていくのと同じように、紙の上の曲=楽譜を、音・音楽にしていくプロセスを省略するのは、非効率的です。

 1曲の演奏時間が「5分」だとすれば、「1秒以下」へのこだわりを、5分間維持することになります。その時間の中で、静かな部分・悲しい部分・動きの少ない部分も、大きな音の部分・明るい部分・動きの多い部分もあり得ます。
 5分間に凝縮された「変化」を楽しむのが音楽です。音が出始めた瞬間から、最後の音が消えるまでの「時間の芸術」です。だからこそ、ミクロとマクロのバランスを考えた練習が必要になると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノのコンサートに求められるものは?

 映像は私のヴィオラと浩子さんのピアノで演奏した「はるの子守歌」渋谷牧人さんの作品です。過去、色々な場所で演奏させてもらっている素敵な曲です。
 今回のテーマは「ヴァイオリンとピアノ」と書きましたが、ヴァイオリンに限らず、ピアニストと「もうひとり」の演奏者が開くコンサート…多くはクラシック音楽のコンサートですが、お客様が期待するものってなに?と言うテーマです。

 日本中、世界中で毎日のように、にどこかで開かれているクラシックコンサート。
演奏する人数も楽器も様々です。演奏者「1名」ですべての曲を演奏するコンサートもあれば、100名にもなる大オーケストラの演奏会もあります。
 私たち夫婦の「デュオリサイタル」も含めて、演奏者「2名」のクラシックコンサートの場合、多くは「ピアノ」ともう一人の演奏者による演奏です。
 ピアノは「一人だけで楽曲を完成できる楽器」でもあります。現実に、ピアノ1台だけで演奏する曲は、多くの演奏形態の中で、もっとも作曲された数の多い「演奏スタイル」です。
 ピアノと比べて、ヴァイオリン「1丁」だけで演奏できる楽曲は、バッハやイザイなどの作曲家によるものがありますがピアノの曲数に比べると、桁が二つは違います(笑)

 ヴァイオリンとピアノ、ヴィオラとピアノで演奏される「音楽」にお客様が期待する「楽しさ」や「美しさ」「安らぎ」「喜び」がきっとあります。
もちろん、ピアノ一台だけでもオーケストラの演奏でも同じ「期待」があります。
 ピアノだけで演奏する音楽に、ピアノ以外の「音色」は交わりません。
オーケストラの演奏には、数多くの異なった音色が複雑に交わります。
ヴァイオリンとピアノで演奏する場合は2種類の楽器の音色を同時に、時には別々に聴いて楽しむことができます。
 ヴァイオリン・ヴィオラの演奏は、ピアノとどのように溶けるのでしょうか?
言い換えれば、お客様の耳にはどんな「音=サウンド」として聴こえているのでしょうか?
 クラシック音楽は「楽譜に書かれた音」を音楽にする場合がほとんどです。
演奏者が変わると、聴く人にとって「音楽」は変わるものなのでしょうか?

 コンサートで聴く音楽は、CDや動画と違い生きた演奏者が目の前で演奏しています。つまり「一度だけの演奏」です。その生演奏を聴くお客様が、これから演奏される「音楽」を他の演奏者の演奏で聴いたことがある場合と、初めて聴く場合の両方があり得ます。前者の場合、今日の演奏は自分の知っている演奏と「何かが違う」事に期待があるはずです。もちろん「楽譜=曲」が好きで楽しみにしている人もいらっしゃるでしょう。
 後者の場合、どんな音楽に出会えるのか?という期待があります。中には作曲家の名前に期待する人、曲のタイトルで音楽を創造する人もおられるでしょう。演奏者の「ファン」でどんな音楽であっても「その人の演奏が楽しみ」と言う人がおられる場合もあります。

 ヴァイオリンとピアノで演奏する音楽の「個性」について考えます。
・演奏のテンポと音量の変化
・二つの楽器の音量のバランス
・そぞぞれの楽器の音色
・ふたりの演奏者の「一体感」
始めの点亜、すべての演奏に共通する項目でもあります。
ピアノとヴァイオリンは「音色の種類」が全く違います。
 ピアノは「打弦楽器」ヴァイオリンは「擦弦楽器」
この音色の違いは、例えるなら「食感の違い」です。
ピアノでもヴァイオリンでもそれぞれに「微妙な音色の変化」もありますし、楽器固有の音色=個体差もありますが、構造的に音を出す原理が違うので、全く同じ高さで同時に演奏しても「聞き分け」が容易にできる組み合わせです。
 ピアノが「口に入れてすぐに溶ける食感」だとすれば、ヴァイオリンは「長い時間口で溶けない食感」に例えられます。
 ヴァイオリンtおチェロの演奏なら、両方の音色が容易に溶けます。
音色のまったく違う楽器の組み合わせで演奏する「二重奏」の場合には、聴く人にとって2種類の異なった食感を同時に味わっている感覚に似ています。

 先述のように同じ楽譜を演奏した場合の「違い」が必ずあります。
その「違いの分かる人」は他の演奏と比較できる人ですよね?
演奏者(たち)が、他の人の演奏を全く知らないケースも十分にあり得ます。
他人の演奏を知らなくても自分(たち)で音楽を考えながら、造り出せます。
敢えて個性を出そう・人と違う演奏をしようと思わなくても良いのです。
自分が演奏する楽曲を初めて聴いた人の心に残る演奏を目指すことが何よりも大切です。
他方でひとりでも多くの人に喜んでもらえる演奏をしたいと思う気持ちも大切です。自分(たち)の解釈と演奏が突飛で違和感のあるものか?それともえ多くの人に受け入れてもらえる解釈・演奏なのか?を知るためには、演奏者自身が多くの演奏を聴き比べることも重要だと言えますが、自分(たち)が好きだからと言って、多くの人が好きだとは限りません。
 楽譜を素材として考えれば、料理にもたとえられます。
同じ場所で同じ時に釣られた「鯛(たい)」を、
和食・中華(この中でも様々)・フレンチ・イタリアンなどの専門料理人が溶離したら?まったく違う食べ物が出来そうです。さらにその中でも「独創的」な料理法や味つけをするひともいるでしょう。「伝統的な調理法」と「革新的な調理法」があることになります。音楽と似ていますよね。
他人の作るものと同じものを真似て「そっくり」に作れる人って存在するでしょうか?。多くの人に支持される「味=演奏」の特徴を見抜き、再現するためには、真似しようとする味や音楽「以外」の方法も身に着けていなければ再現できないのです。
 ヴァイオリンで「ハイフェッツ風」「シェリング風」「オイストラフ風」「スターン風」「クレーメル風」「ギトリス風(笑)」多くの個性的な演奏解釈・奏法があります。その「特徴」と「技術」を完全に模倣できる人は恐らくいないでしょう。それぞれのヴァイオリニストがいくらお弟子さんに教えたとしても、その人「間隔」「聴こえ方」はどうやっても伝えられないものです。
 職人と呼ばれるひとたちが口にする「最後は勘」と言う言葉からもわかります。ストラディバリウスのヴァイオリンと同じ音色の楽器を完全に再現できないように、最先端の科学技術で解析しても「答えが出ない」ことこそが個性だと思います。言い換えれば、「マネできること」「再現できること」は「個性」ではないのです。

 最後にお客様が期待する「ふたりの演奏」について。
価値観の違いでまったく違う結論が出ますが、私は初めてその曲を聴くお客様にも何度も聴いたことのあるかたにも「満足」してもらえる演奏をしたいと願っています。突飛でもなく、ありきたりでもない演奏です。抽象的(笑)
 もう少し具体的に言えば、短調でも長調でも、速い曲でもゆったりした曲でも、静かな音楽でも気持ちが高揚する音楽でも、「心地よく聴ける」音楽を目指します。料理で言えば、バランスの取れた味つけで、辛すぎず甘すぎず、様々な料理の食感、温度、味つけに飽きさせない組み立てをすることです。
・クラシックマニア(ファン)でなくても、リラックスして楽しめる演奏。
・すべてのプログラムを聴き終えて、「腹八分目」で後味の良い量と内容
・ヴァイオリンやヴィオラ、ピアノの微妙な音色の変化を楽しめる曲
などなど…出来たら良いのですが(涙)一生かけても実現は難しいことです。
 コンサートが始まる前から、演奏が終わって会場を後にするまでの「時間」がお客様にとって快適で幸せな時間なら、帰り道に鼻歌の一つも(笑)でそうですよね。それらをすべて含めたものが「魅力」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

力の「向き」「速さ」「大きさ」をコントロールする

 映像はユーディ=メニューインの語るヴァイオリンボウイング。
昔、日本語に訳された本を一生懸命読みました。
メニューインもカール=フレッシュの本も、とにかく理論を言語化した本に共通するのは「一回呼んでも理解できない」という共通点(笑)私だけ?
 演奏家はとかく「理屈じゃない。感覚が大事だ」と言いたがります。
感覚を言語化するのは難しいことです。とは言え、自分の技術を高めるためにも、お弟子さんに継承するためにも客観的に理解できる言葉にすることも必要です。
 力学や物理が苦手な音楽家が多いのは、多くの人が「音楽学校」で学び一般教養への関心が低かったことも原因の一つです。私もそのひとりです。(笑)

 今回は特に右手に絞って考えます。
弓に触れる「五本の指」それぞれに、力をかける方向と速さ:時間、さらに力の強さが違います。
右手首、右肘、右肩の関節につながる筋肉があります。関節を動かさなくても筋肉に力を入れること、逆に力を抜くことが可能です。腕を曲げる運動の速さ、強さを鍛える場合と、反対にゆっくりと腕を伸ばす運動=ブレーキをかけながら伸ばす運動をトレーニングする方法がスポーツ医学の世界では当たり前にあります。
 弦楽器の弓を動かす運動「ボウイング」は腕の曲げ伸ばしだけではなく、右肩を始点にした回転の運動や、筋肉の緊張と弛緩(ゆるめる)を使って、力の速度と強さをコントロールする必要があります。
 これらの「方向」「速さ=時間」「強さ」の中で、もっとも難しいのはどれでしょうか?

 初心者に限らず、人間は「無意識」に力を入れたり抜いたりしています。
緊張すると筋肉に力が入ります。リラックスすると力は抜けています。
それを意識的に行うのはとても難しいことです。特に「弛緩=筋肉を緩める」意識は日常生活で感じることがありません。逆に力が必要な時には、すぐに筋肉に力を入れられます。
 力を入れるためにかかる時間、緩めるのにかかる時間を速くすることが一番難しいことです。つまり「一瞬」で力を入れてすぐに「脱力」する運動です。
その「速さ」で筋肉にかける力の「強さ」を変えることはさらに難しいことです。
 腕の重さと弓の重さは、その人の腕と使う弓で決まり、演奏中に変わることはあり得ません。
 力の速さが早くなれば生まれる力の量は増えます。大きい力で速く動かせば、大きな動きになります。小さな力で速く動かせば小さな動きになります。
 みぎての親指と人差し指で、瞬間的に力を入れられ、すぐに脱力できれば、自由にアタックを付けることが可能です。ダウンの途中でこの運動を擦れば、弓はバウンドします。バウンドを利用してスピッカートを連続させられます。
 次に、力を「長く」かければ大きな力量になります。例えれば「全弓を使って、出来るだけ長く大きな音でひく」場合です。これは比較的わかりやすく、初心者でも身に着けられます。

 力の方向が一番重要なのは、右手の場合「指」になります。
親指の力の方向が、右手人差し指の力の方向の「真逆」になっているでしょうか?多くの生徒さんが、親指の力の向きが人差し指の力の方向に対して「90度」自分から見て「前方」に押す力になっています。その向きの反対の力は?中指を自分に向かって「引き寄せる」力になってしまっています。この「反作用」は演奏に不必要な力です。指が付かれるだけではなく、弓の毛を現に押し付ける圧力をコントロールできません。弓を親指と中指で挟んで持つ仕事をしているだけです。
 親指と人差し指の「力の向き」と「速さ」と「強さ」を意識することは、もっとも重要な技術の一つです。

 最後に右手の各関節に「弾力」を持たせるための、筋肉の使い方です。
指の関節を固めてしまえば、弓のコントロールは無可能です。小指をまっすぐにのばしたままで演奏する人は、右手小指の「弾力」を捨てていることになります。関節を曲げたり伸ばしたりする「弾力」は、力の強さで買えられます。
自動車で言う「ショックアブソ-バー」と「ダンパー」です(車好きな人に聴いてね(笑))
 言うまでもなく、右手の筋肉で一番小さい=可動範囲の狭いのが「指」です。
次が「手首」です。手首は手のひらに対して上下には大きく動かせますが、左右の可動範囲は狭いものです。少しでもこの可動範囲を広げるストレッチも必要です。さらに大きな運動は「肘」の関節です。ゆっくり伸ばす=ダウンの運動を練習することが必要です。一番大きな運動をするのが「肩」の関節です。
首とつながった筋肉、背中、脇とつながった大きな筋肉によって動かされます。
この一番大きな運動で、重心が揺れないようにする「腰」と「股関節」「膝」の関節の弾力も必要です。
 弓の運動は、右半身すべての筋肉と関節を使っておこなわれます。
意識するのは「向き「速さ」「強さ」です。デフォルト=ニュートラルの状態で、いかに無駄な力を入れず、必要な力を最小限に使って、効率よく弓を安定して動かせるか?常に、力を意識することが大切です。
 最後まで読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

他人の評価より自分の判断に自信を持つ!

 映像は角野隼人さん=Cateen=かてぃんの「Cateen’s Piano Live – Summer ’22」です。ショパンコンクールでの活躍、ユーチューバーとしての活躍、ジャズピアニストとしての活躍、ストリートピアニスト、フランスパリでの「社会人」としての一面など、本当に多くの顔をがあることは皆さんもご存知だと思います。
 今回の辛口テーマは、特に現代日本人に多く見られる現象を考えるものです。

 自分の感覚、考えよりも「他人の評価」に流される日本人が多いのはなぜでしょうか?
・他人との関りを避けたがる
・付和雷同が良いとされる風潮
・出るくぎは打たれるという風潮
・考えて選ぶことを面倒くさがる風潮
他にも色々考えられます。日本人特有の「内面的」な性格も根底にある気がします。自分の意思を相手に表現することを「失礼」だと感じる国民性なのかも知れません。

 誰かが美味しいと評価したお店に行きたがる「気持ち」は誰にでもあります。
知らないお店に入って、料金に見合わない「まずい」と感じる料理を食べるのは誰でも嫌ですから。誰かが食べた「感想・評価」を参考にしたくなるのは無理もありません。ただ…その感想や評価を「信じられるか?」と言う疑問もありますよね。いわゆる「クチコミ」が怪しいのは誰でも知っています。良い評価も悪い評価もあって当たり前ですが、悪意を持って悪く書く人、お店に言われて良く書く人も多くいるのは否めません。完全に信じられる情報は、恐らくどこにも存在しません。それでも参考にしたくなるのが人間ですよね。

 自分が作った料理を自分だけが食べるとします。味付けに失敗したり、多少焦がしてしまっても「まぁ、食べられるからいいや」と思いませんか?
 でもその料理を、自分が大切に思う人に「どうぞ!」って出せるでしょうか?(笑)笑いのネタにするなら別ですが、普通は…作り直しますよね。
 自分が美味しいと思った料理でも「お口にあえば良いのですが…」と、謙遜するのが日本人です。相手への手土産も「つまらないものですが…」と渡す人が未だに多い日本です。「口に合わないと思うものを出すのか?」「つまらないものを相手に渡すのか?」と考えるのが欧米人の考え方です。むしろ自然な気がします。「謙遜」の気持ちが相手に伝わらない場合もあるのです。
自分の感覚に自信を持って、相手にも喜んでもらえると信じること。
日本人に一番足りない、できないことかもしれません。

 それは「思い込み」にも通じています。
自分で考えて判断したことは、初めに思っていた「正しいこと」でも、違う情報を知ってさらに考え直し「間違っていた」と考えを改めることができます。
ところが自分で考えず「誰かが言っていた」「周りの人が話していた」ことだけで判断した人の多くは、違う判断をする考えを聴いても、やはり考えるのが嫌なので最初の判断に固執します。これも日本人特有の「人を疑うのは悪いこと」という伝統化も知れません。でも「人を見たら泥棒と思え」というコトワザがありますね(笑)
 言うまでもなく、自分で考えて判断することが最善策です。どうしても判断が付かない場合もあります。その時「どちらが正しいかわからない」と言う結論を出せる人と「どっちか!」に決めたがる人に二分されます。
 判断できない原因は「頭が悪いから」では決してありません。情報が足りないからなのです。その情報を積極的に知ろうとしない人は、いつまでたっても判断できないか、鉛筆を転がして(笑)どちらかを無理やり選ぶタイプの人です。

 自分の考えで判断する能力は、音楽を演奏する人にとって、絶対に必要な能力です。他人が「良い」と言ったものだけを選ぶのは簡単です。「これにしなさい」と言われて疑わず・考えずに従うのも簡単でらくちんです。その繰り返して「自分らしい演奏」や「自分が満足できる演奏」ができるはずがありません。なぜなら「他人の価値観」で音楽を考えてしまうからです。
 話は少し逸れますが、昔母校の桐朋で高校生を教えている作曲家の先生と、仙川の喫茶店でお話している時の事です。
「音楽高校で制服がある学校、あるだろう?あれ、最低だよ!」
と言うお話でした。その先生のお考えに同感しました。要するに、これから自分の演奏が自分に「似合うか?似合わないか?」を判断すべき音楽高校生に「これを着なさい」と言う制服を着させることはナンセンスだという事です。
制服の「意味」はあります。ただそれ以上に大切にすべきこともあります。
 高校生にもなって、自分が毎日着て歩く「服装」「容姿」を考えられない人間が音楽家になれるとは思えないのです。高校生が過ごす多くの時間を「制服」で過ごさせるよりも、自分で選んだ服装や髪形、装飾が似合っているか?を知ることがどれだけ有意義な事かを、音楽家を育てる学校と教員が理解できないとしたら、ラーメン屋の修行で、ひたすら冷凍ラーメンを「レンチン」して過ごさせているのと何も変わらないと思うのです。すし職人を目指す人が、毎日スシローのお寿司だけ食べて作ったお寿司、食べたいですか?(笑)
若い時から自分で考えて、自分の感覚を試す経験が必要です。大人になっても同じですよね。年齢相応の「いでたち」が出来てない高齢者って、悲しくないですか?私は「チョイワル爺」にあこがれてます(笑)

 自分の価値観を大切にすることと「わがまま」や「唯我独尊」とは違います。他人の考えを「情報」として取り入れる能力がなければ、そもそも自分で考えることはできません。日本人政治家で「妖怪」もどきの高齢者が、記者の問いに応えない姿を見ると、その政治家の家族がご苦労していることを想像します(笑)
ただの「く●じ●い」を「政治家先生」と呼ぶ日本人の情けなさも痛いです。
 「老いては子に従え」というコトワザは、現代の日本に最も当てはまる言葉だと思います。若い人たちの元気がないのは、高齢者に責任があります。
音楽家を育てるのは?音楽家です。決して「年長者」ではありません。
自分の音楽に確信を持つことは、生活のすべてに関わることです。
「言われなければできない」「自分で考えて動けない」面を自分で改めることが、自分の音楽を見つけるために必須なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピチカート修行(笑)

 映像は「ピチカートポルカ」をヴァイオリンひとつで演奏する離れ業。
メリーオーケストラ第42回定期演奏会でラヴェル作曲「ボレロ」を演奏することになっています。先日、オーケストラで初練習を行った際に「ピチカートの和音が連続してる~涙」と言う弦楽器メンバーからの悲鳴に似た(笑)助けてコール。
 ご存知のように、ボレロの冒頭部分ではヴァイオリン・ヴィオラが楽器をギターのように構えて「ピチカート」で演奏します。途中からは通常の「アルコ=弓を使った演奏」になることもあり、通常の構え方でピチカートを演奏する部分があります。そんな中で「ピチカートで和音の6連符」と言う「おいおい、ラヴェルさん」と言いたくなる部分があります。上の映像の最後の方で行われている「ピチカートの往復連打」しか方法がありません。それが何回も続く…

うえの

上の映像はNHK交響楽団の演奏するボレロの一部。ヴィオラが和音ピチカートを「往復運動」しながら演奏している部分をデジタルズーム(ボケます)してみました。忙しそうで痛そう!(笑) 
そもそも、この双方でどの程度オーケストラの「響き」として効果があるのか?と言う素朴な疑問もありますが(笑)少なくとも音は出ます。
ラヴェルのオーケストレーションが大好きな私にとって、きっとこのピチカートの効果も大きい…と思いたいのです。
 弦を指ではじく奏法「ピチカート」をある種の「効果音」として考えれば、多くの作曲家がこの演奏補法を使うように楽譜を書いたことも納得できます。
 バルトークは弦を指板の「上方向」に右手指で引っ張り上げて、弦を指板にぶつける「バルトークピチカート」を考えつきました。まさしく効果音です。
 ピチカート以外にも、弓のスティック=木を弦にぶつける奏法や、わざと駒の上を弓でこすって裏返った音をだす奏法など、特殊な演奏補法があります。
 ヴァイオリン双方の「可能性」かもしれませんが、これ以上新しい奏法は出てきてほしくない!笑と思っています。
 クラシックギターも様々な演奏方法があり、それらを組み合わせた演奏もあります。

 ギターでここまで!できるのもすごいことです。
演奏しているマーシン氏は元々クラシックギターを子供の頃から学んでいました。有名なオーディション番組でデビューし脚光を浴びました。
 いわゆる「エレキギター」とも違うテクニックとサウンドで、ギター音楽の可能性を広げています。
 ヴァイオリンにも「エレキヴァイオリン」がありますが、電気的に音色を変えることが主な目的で、演奏方法としては目新しいものではありません。
 ラヴェルの創作意欲、好奇心に敬意を払いながらピチカートの「修行」で右手の指が「ズルむけ」にならないように、合奏練習の配分を考えたいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

理想の演奏とは?

https://youtube.com/watch?v=YsbrRAgv1b4

 映像はマキシム=ヴェンゲーロフの演奏するシベリウス作曲ヴァイオリンコンチェルト。
 今回のテーマは人それぞれに違う「理想」を考えるものなので、正解を探すものではありません。考え方を変えれば「理想の演奏は存在しない」とも言えます。常に自分にとって「理想」が同じものだとは限りません。それは演奏に限ったことでもありません。生き方だって、時によって理想は変わるものです。
 「理想と現実」と言う言葉も良く使われます。この言葉を使うとき、多くは「できないと感じた時」に使われます。自分の思った通りに事が進まない時、たとえばテストで100点を取りたくて毎日毎日勉強したのに…それが90点だったとしても「理想は100点」で「現実は90点」だったことになります。
 テストの点数のように、目標が客観的で達成できたか?出来なかったかを判断できる場合もありますが、目標=理想がイメージだったり抽象的な場合には、達成できたかどうかを判断することは困難です。基準=ボーダーラインが明確でない目標は、達成できたと言う感動も薄いものです。

 自分にとって理想の演奏と出会えることは、とても幸せな事でもあります。
ヴァイオリンの演奏に絞って考えた時、世界中に多くのヴァイオリニストが過去にも現在にも存在します。これからも新しいヴァイオリニストが誕生し続けます。その中のひとりに自分がいます。アマチュアでもプロでも「ヴァイオリンを演奏する人」であることに何も変わりはありません。
 自分が知る限りのヴァイオリン演奏者の「演奏」を、すべて生で聴くことは現実的に不可能です。昔ならレコードやFMラジオで聴く。現代ならCDや動画、配信で音楽を「見たり聞いたり」できますが、生の演奏を聴くことができない演奏も当然あります。自分の「理想」とする演奏を言語化すると、どうなるのでしょうか?

 一言で「じょうずな演奏」とまとめてしまうのは簡単ですが(笑)、どんなことが「じょうず」なのかが問題ですよね。少なくとも、自分よりじょうずだと思える演奏に限られます。つまり自分のできないことが「できている」演奏がじょうずに思えることになります。
・正確に演奏できる
・速く演奏できる
これ以外は「じょうず」と言うよりも「好き」と言う概念に含まれます。
たとえば…
・綺麗(と感じる)音が出せる
・強弱の変化、テンポの設定が「好き」
・演奏する姿が美しい(と感じる)
などなど。あくまでも主観的な好みの問題です。
 自分に足りない技術が「現実」にあり、出来るようになりたいと思う演奏が「理想」だと言えます。当たり前ですね(笑)だとすれば、練習して「できるようになる」事は、常に理想を現実にしようと努力していることになります。
 つまり、自分の演奏に足りないことを探し続けることが、理想の演奏に近づくために絶対に必要なことだと言えます。

 演奏しない人の「理想」と、同じ楽器を演奏する人が感じる「理想」は根本的に違います。
 演奏しない人にとって、何が難しいのか?さえ知らないのですから、ただ単に「好み」を基準にしているだけの理想です。それはそれで良いのです。
 難しさを知っている分野の「理想」があります。その分野が演奏でもスポーツでも、物造りでも同じことが言えます。知らない人が簡単そうに思うことが、実は難しい…良くありますよね?ヴァイオリンを演奏したことのある人が体感する「難しさ」があります。自分の知らない難しさも当然あります。その難しさを見つけることが上達に直結します。「簡単だ」「できた」と思った時点で成長は止まります。「上には上がある」のです。それが現実なのです。

 自分の演奏に自分で満足できない…いたって当たり前のことです。
だからこそ、自分よりじょうずと思う人の演奏に「理想」を重ねるのです。
自分の演奏と、じょうずな人の演奏の「違い」を具体的に見つけることができなければ、理想に近づくことは出来ません。先述の通り、自分に足りない技術を見つけるのはとても難しいことです。ただ「うまくひけない」と悩むだけでは解決しません。自分が気付かない無意識の癖を探し、思い込みで正しいと思っていることを意図的に変える試みをしながら、意識していなかったことを意識する…
 自分にとって「理想の演奏」は自分にしか実現できません。
常に現実を見つめながら「改善」を繰り返すことが、理想への道なのかな?と思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指揮者って?

 映像は2010年8月のメリーオーケストラ第18回定期演奏会での「モーツァルト ピアノコンチェルト」を浩子さんのソロで演奏したときの「レア」な映像です。

 メリーオーケストラで現在「指揮者」を務めておりますが、わたくし「専門」はヴァイオリンとヴィオラの演奏でございます。そんな私ごときが「指揮」をできるのか?と言う自問自答?根本的な疑問?について考えながら、私の考える「指揮者とは」と言うお話です。

 「指揮者ってなにをする人?」と言うお話から。
様々な見方、考え方があると思います。指揮を専門にお仕事をされているかたにとっての考え方も色々だと思います。
 子供たちが小学校や中学校で、合唱や合奏の「指揮」をする光景は珍しいものではありません。ブログを読まれている方の中にも「指揮経験者」がおられると思います。中学校・高等学校での教員経験も踏まえて「指揮って?」を考えてみます。

 「指揮者体験コーナー」はメリーオーケストラ定期演奏会の定番でした。コロナでここ数年、実施していませんが。オーケストラを指揮することは、音楽の指揮の中で色々な楽器、たくさんの演奏者を「指揮」するという意味で最も難しい一面があります。合唱の指揮が簡単だとは思いません。吹奏楽の指揮や少人数オーケストラの指揮も違った難しさがあります。
 いずれにしても「音楽」の世界で考える指揮と、「指揮官」で連想される軍隊や集団競技で使われる指揮と、共通していることがあります。
 「集団をまとめる役割」「集団でひとつの目的を達成するための司令塔」
戦いで言えば「軍司」「策士」と呼ばれる、作戦や戦術を考える役割でもあります。
 演奏者を「まとめ」音楽を「まとめ」るための計画を立て、実践するのが指揮者だと思います。野球で例えるなら「コーチ」と「監督」を兼任する「プレーヤー」に似ています。
 演奏するひとたちが「プロ」の場合と「アマチュア」の場合で、指揮者の果たす役割が大きく違います。プロの演奏者を指揮する場合、演奏者の「技量」についての指示をすることは、演奏者のプライドを傷つける場合もあり喜ばれませんし、必要もありません。一方で、学生やアマチュア演奏者を指揮する場合には、演奏技術を伸ばしながら音楽を作る「指導」が必要です。
 アマチュア演奏者に足りない技術を具体的に指摘し、解決方法と練習方法を示すことができなければ、指揮者の注文はただの「絵に描いた餅」にすぎません。
 どう演奏すれば、どんな音・音楽になるのかを説明する能力です。
つまり「アマチュア演奏者の指揮をアマチュア指揮者が指導できるか?」ということです。「それこそ!アマチュア精神だ」と考えるのはあまりに浅はかです。
 その昔、高校オーケストラの全国規模イベントに参加した際、当時の文部省の「おえらいさん」がリハーサルを終えた夜のレセプションで挨拶されました。
「演奏が子供たちなら、指揮も子供がしたほうが良い」との仰せでした(笑)
 聴こえるかもしれない声で「だったら授業も生徒がやれば?」と独り言を言ったのは。私です(笑)音楽を知らない、指揮者の役割を知らない人にとって、ただ腕を動かして「踊っている」のが指揮者に思えるのでしょう。さすが!文部省!

 私はヴァイオリン・ヴィオラと言う楽器しか演奏できません。
チェロもコントラバスも、フルートも…数あるオーケストラの楽器の中で、演奏できるのはたった2種類。その他の楽器の中には、音も出せない楽器があります。それでもアマチュアオーケストラの「指揮・指導」ができるのか?
 演奏できなくても「上達のための正しい演奏方法」は学びました。
本で読むのではなく、実際にプロの演奏家の指導する言葉、演奏を観察し覚えました。どうすれば?どうなるのか?と言う「引き出し」をたくさん作ることが指揮者の仕事です。アマチュアの演奏技術は、個人差がプロの比較にならないほど大きいのです。練習できる環境も違います。そのひとりひとりのプレーヤー「できること」を教えなければ、いつまでたっても上達しません。
 20年間、ゼロから始めて150人の大オーケストラを育てた中で、本当に貴重な体験をしました。多くの子供たちと共に学びました。
 指揮法について最後に書きます。
世界中に様々な「指揮法」があります。どれが正しいとは誰も言えません。
演奏者が「わかりやすい指揮」もあれば「引き込まれる指揮」もあり、一方で「どこに点があるのかわからない」指揮や「音楽と無関係な動きで邪魔」な指揮もあります。それでも指揮は指揮です。
 音楽高校、音楽大学時代に数多くの「指揮者」の指揮でオーケストラを学びました。その先生方の多くは「斎藤指揮法」と呼ばれる指揮法で指揮をされていました。中には違う指揮法で振られる指揮者も当時はおられました。
 指揮者は「指揮の技術」で、自分の表現したい音楽を演奏者に伝えるもの?でしょうか。どんなに優れた指揮の技術を持っていたとしても、その「指揮法」を演奏者全員がすぐに理解できるとは思えません。人によって違うのが指揮法です。指揮者によって違う「音を出してほしい点」の出し方が違います。指揮者によって、その点と音がずれたことを許容する人と全く許容しない人がいます。
演奏者が指揮者の「個性」を知り、演奏者に「指揮者の意思を伝える」のが練習であり「信頼関係の構築」です。
 カリスマ性の高い人が指揮者に向言えていると言われます。演奏者に対して「低姿勢」な指揮者は演奏者に「なめられる」とも言います。私も若いころ、そう思っていました。事実、子供たちを指揮する時に「お山の大将」になりきることを第一に優先していました。それは必要なことでもありました。特に大人に対して反抗的な年齢の思春期世代を相手に「指揮」をするという事は、大人相手とは違った「動物的な上下関係」も必要でした。
 もっと小さな子供や、自分より年上のアマチュア、音大生、プロの前で指揮をするようになってから「笑顔で練習できる」指揮者になりました。たまに切れますが(笑)以前のような「威圧」は出来ないし、不要になりました。

 どんなオーケストラであっても、演奏者がひとつの音楽を奏でることに変わりありません。アンサンブルと同じです。ふたりで演奏するのなら「相手」を相互に理解するだけです。それが80人になれば、お互いを完全に理解することは理論的に不可能です。「誰か」の考えにみんなが合わせるしか方法はありません。ある意味では「独裁的」でもありますが、人間関係がなければだれも演奏しませんから「独裁者」は指揮者になれません(笑)オーケストラと指揮者の理想的な関係は「対等」であるべきです。人数比率で言えば「指揮者:オーケストラプレーヤー=1:80~100」です。指揮者はプレーヤーの一人一人を「理解」する努力をし、演奏者は指揮者をより深く理解しようとする努力をするべきです。
 指揮者は演奏者のために指揮をします。演奏者は?聴衆のために指揮者に合わせます。それが「対等」な関係を生み出すための「関係性」だと思っています。
 私は、指揮者の名前をつけたオーケストラが嫌いです。それを提案した人の「思い」があったとしても、受け入れて指揮をする指揮者には寒気がします。そこまで?崇め立てられたいのかな…と思います。断れば済むのに。
 最後にネガティブな内容で申し訳ありませんでした。
お読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ターニングポイント

 上の演奏は、私が高校3年生当時に銀座ヤマハホールで行われていた恩師「久保田良作先生」門下生による発表会での録音です。
 卒業試験前の発表会は「試験のリハーサル」でもありました。
演奏している曲は、ハチャトゥリアン作曲のヴァイオリンコンチェルト第1楽章。ピアノを演奏してくれているのは「あの!笑」清水和音君。
 今聞いて思うのは「練習したね~」

 人それぞれに、それまでの自分の生き方や価値観、感じ方が変わる瞬間があります。後から「あの時」と思い返すこともあります。その「ターニングポイント」は一生のうちに何度も訪れるものかもしれません。
 楽器を演奏することが「趣味」だったり「習い事」の時期がありました。きっと今現在がその段階の人がほとんどだと思います。それはそれで、人生のアクセントとして素敵なことです。大切にしてほしいと心から願います。
 本人の「やる気」とは別に親の思いや周囲の人の期待があります。特に子供の場合には本人の意思より、親の気持ちが先行することの方が圧倒的に多いですね。「いやいや練習する」時期を超えた先にあるものは?自発的に練習する「意思・意欲」を持つことです。学ぶ環境によって、大きく変わるのも事実です。
 学校の友達と遊ぶのは、ごく自然なことです。その友達がたとえば「不良」だったら(笑)不良の仲間になることも十分にあり得ます。友達に影響されることも成長過程で必要な体験です。

 私は中学3年生の夏休み頃まで、クラスの友達同様に都立高校を受験するのかな?程度に自分の進路を考えていました。両親は兄への期待と希望に、見事に応えてくれた「兄の進学先」で十分に満足していたのか(笑)私の進学には、ほとんど一言も「期待」を示しませんでしたので、私がそう思っていたのも自然なことだと思います。久保田先生のレッスンで音楽高校の受験を「お試し」程度に勧められたのが、まず大きな「ターニングポイント」でした。それから受験までの期間はひたすら「受験のための」時間でした。
 桐朋女子高等学校音楽科(共学)に入学してからの2年間。私にはただ「場違い」な学校に間違って?来てしまったという思いしかなかった気がします。友達と音楽で「遊ぶ」ことを覚えもしました。年に2回の実技試験もなんとか乗り越えました。自分のヴァイオリンに「自信」のかけらもなく、当然「目標」もありませんでした。一種の「燃え尽き症候群」だったのかもしれません。

 高校2年の終わりに、同門の先輩である小森谷巧(こもりや たくみ)先輩の卒業演奏会で演奏されたハチャトゥリアンに素直に憧れを感じたのを覚えています。ピアノは先輩にとって後輩である(私と同期)清水和音君が演奏していました。自分が高校3年の「卒業試験」を迎えた時期、師匠である久保田先生にハチャトゥリアンに挑戦したいと恐る恐るお伺いを立てました。てっきり「無理だからやめておきなさい」と言われると思いながら。お返事は「やってみなさい。小森谷君に楽譜、写させてもらいなさい」と言う思ってもいなかったお返事を頂きました。
 今現在でも進歩はありませんが(涙)、当時このハチャトゥリアンのような調性が判断しにくく、臨時記号の多い曲は「超」が100個以上つくほど苦手でした。そんな私がこの曲を選んだ理由はただ一つ「先輩の演奏へのあこがれ」だったとしか思えません。自宅で練習しながら、カセットテープに録音しては聞き返し、また練習しては録音し聞き返し。それまで「適当」に練習していた自分とは、まったく違う練習の質と量でした。自分の音に大声でダメ出しをすることに、母親が心配になったのか(笑)私の部屋をのぞき見していたのを覚えています。

 ピアノを和音君に快諾してもらい、卒業試験を終えました。
試験後に和音君が学生ホールで、同期の友人たちに「謙介、うまくなったよ!」と話しているのを聴いて、正直にうれしく感じました。
 試験の結果(成績)には、まったく興味がありませんでした。
それまでの自分の「演奏」と「練習」を考えれば当然のことです。
卒業試験の成績上位者数名が「卒用演奏会」に出演できることは、もちろん前年から知っていましたが自分には無関係の事でした。
 成績が手元に知らされるより先に、久保田先生のレッスン時「よく頑張ったね。卒業演奏会にあと、0.いくつだったんだよ。惜しかったね」と伝えられて驚きました。誰が?と(笑)久保田先生に褒めて頂いたのは、これが最初(で最後?)だったかもしれません。
 自分が出られるとも、出たいとも思っていなかった「卒演=卒業演奏会」当日、当時なんでも話せていた後輩女子君(彼女ではないところがミソ)と都市センターホールに…。途中で引き返したくなった私に、その後輩から「ちゃんと聴いて帰りなよ!」と叱られた記憶があります(笑)
 初めて自分の演奏と他人の演奏を「比較」して、悔しいと思ったのがこの時でした。これが第二の「ターニングポイント」だったような気がします。
 それまで、誰よりもへたな自分を安直に認め、対等どころか上を目指すこともなかった「価値観」が大きく変わりました。俗にいう言葉で言えば「やればできるかも」←かもがつく(笑)

 その後の大学での音楽生活は、自分の演奏に「自信を持つため」の練習だったように思います。そう簡単に感じられるはずもなく、常に挫折感を感じながら。
それでも高校1年生の時のような「無気力」ではなかったように思います。
 成果の出ないような練習ばかり(笑)していたような気もします。
大学4年の卒業試験で、ドボルザーク作曲のヴァイオリンコンチェルトを選びました。誰にあこがれるでもなく(笑)自分の意志で選び挑戦しました。
 卒業試験の結果は、めでたく卒演に選ばれるものでした。
という結果を知ったのが「留年決定!=卒演の出演取り消し!」が決まった卒業認定会議直後、恩師の怒鳴り声で聴いてしまうという「ドラマチック」なオチでした。
 サイテー(笑)
この留年も結果的には私が教員になる布石になりました。もし、あのまま卒業出来て卒演に出られていたら←なにを今更。教員にはならずプロオケにアシスタントコンサートマスターとして入団していたはずです。そのお話も留年と共に立ち消えました←当然(笑)結果、翌年に偶然張り出された「教員公募」に応募し、なんの間違いが?採用される運命になるわけですから、今の生活は留年がなければなかったのです!
 …と、胸を張って言えることでもなく。むしろ恥じるべきことですし、親に迷惑をかけたことを悔やみます。
 そんなわけで、生徒の皆様も「いつか」ターニングポイントがあるかもしれません。その時に「やっておけばよかった」と後悔しないためには、今練習するしかないのです。頑張れ!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜には書かれていないこと

 映像は2014年のデュオリサイタル6、代々木上原ムジカーザで演奏した、ピアソラの「オブリビオン」ヴィオラとピアノによる演奏です。
 今回のテーマは「楽譜に書かれていること・書かれていないこと」につていです。
楽譜を良く見えなくなってから書くのもいかがなものかと(笑)思いましたが、お許しください。

 ヴァイオリンやピアノのレッスンで、楽譜に書かれている記号や指示を見落としたり、その指示通りに演奏していないことを先生に注意される…という経験はきっと誰にでもあることだと思います。それが「間違い」だと判断される場合と、間違いではないが「指示に従わなかった」と言う問題の場合があります。
 楽譜に書かれているのは?「音符・休符」以外にたくさんの情報があります。
・ト音記号・ハ音記号などの「音部記号」
・音部記号の右に書かれている「調性記号」
・その左に書かれている「拍子記号」
・音符の左側に書かれている「臨時記号」
・音符の上か下に書かれている「スタッカート」「テヌート」
・音符の上や下にある「アクセント」
・複数の運否を「弧=曲線」でつないだ「レガート=スラー・タイ」
・弦楽器の場合「ダウン・アップ」の記号
・指番号
・弦楽器の場合「弦」の指定
・音量や速度に関する記号(指示)
・表現方法などの記号
書き出したら終わらない(笑)
これらの「指示」の意味を理解できるための「知識」は必要です。
問題はここからです。
先述の「間違い」と判断されるのは、上記のすべて?なのかという事です。

 楽譜に書かれていることが、すべて作曲家の意図したもの=作曲家が書いた指示なのか?
と言う根本的な問題があります。言うまでもなく、現代使用される楽譜のほとんどは「印刷」されています。さらにその多くは「コンピューター」をワープロのように使って作られた楽譜です。
 大昔、楽譜は作曲家が「ペン」を使って手書きで書きました。スコアを書き上げた後、作曲家自身が「パート譜」を手書きした人もいるでしょうし、弟子や他人にお金を払って「代筆」してもらったものもあるはずです。
 人間が手書きで楽譜の一枚ずつを書いていた時代には「書き間違い」「写し間違い」があっても不思議ではありません。ちょっとしたインクの「にじみ」で音符が大きくなりすぎた…なんてざらにあったはずです。
 その時代に作曲された「楽譜」が現代に至るまでに「コンピューター」に入力されて印刷されるようになりました。一度、データ化された楽譜は写し間違えることなく、書き間違えることもなく複製されます。
 データを打ち込んだ人の楽譜
に生まれ変わります。つまり、私たちの使っている楽譜に書かれている情報は、誰かがコンピューターに打ち込んだ「楽譜」です。それは誰?(笑)
 楽譜に書かれているから「作曲家の指示」だと思い込みます。
手書きの時代でも、コンピューターの現代でも同じことです。
演奏者は「楽譜を信じる」しかないのです。作曲家自身が演奏するなら楽譜より「演奏した音」が正しい事にもなりますが、そうでない限りは楽譜を信じるしかありません。
 楽譜の通りに演奏していて「演奏不可能」な音が掛かれている場合も、極稀にありますが、売られている楽譜には少ないですね。
 ただ、様々な出版社の「同じ曲の楽譜」を見比べると、まったく違う音やリズムが掛かれていることは「ザラ」にあります。弓付け(ダウン・アップ)やスラー、指づかいに至っては「同じものはない」と言えるほどに違うのが当たり前です。ピアノの楽譜でも当たり前にあることです。
 間違いと判断されるのは?「音の高さとリズム」…それさえ、楽譜によって違う事もあるのです。装飾音に至っては「正解はない」のが「正解」です(笑)
 では、楽譜の指示は無視して練習するべきでしょうか?
ダウン・アップを間違って先生に「違う!」と言われたら「逆切れ」しましょうか?(笑)

 演奏者が自分で「もっとも良いと思う」指使い、弓使いを考えられるようになるまでには「書かれている通りに演奏する」練習を積み重ねるしかありません。
むちゃくちゃな指遣い・弓使いで、無理やり練習しても無駄な練習です。
むしろ「有害」な場合があります。レッスンで先生が支持する「音」「リズム」「指」「弓」で演奏できる技術を身に着けることが、先決です。
 そのあとで!楽譜の指示と異なった「弓」「指」で試すことができるようになります。
 音の高さやリズムを、楽譜と違う音・リズムで演奏する場合にはその根拠を説明できるだけの「演奏技術」と「知識」が必要です。そうでなければ、ただ単に「間違った」と言われるだけではなく、作曲家の意図を無視することになりかねません。

 楽譜に書かれていない情報とは?
私は楽譜の「コア」をまず考えます。装飾音やスタッカート、レガートなどをはぎ取り」音の高さと長さ(リズム)=メロディー」だけの状態にしてみます。
 その「骨格=輪郭」を練習するうちに「肉付け=色付け」をしたくなります。
少しずつ…試してはまた削り、違う色を付けてみる。
 具体的な演奏方法で言えば
・弓の場所(弓先・中央・弓元など)
・弓の圧力(アタックなど)
・弓の場所(駒の近くなど)
・弓の速さ
・ビブラートの深さ・速さ・かけ始める時間
・ポジション(使用する弦の選択)
・ひとつの音の中での「音量変化」
などです。楽譜に「フォルテ」が書いてあるから「大きく」とはずいぶん違うことがお分かりいただけるかと思います。
 最初の動画で演奏した「オブリビオン」も今演奏したら、きっと違う弓、指・音色で演奏したくなると確信しています(笑)自分では「よしっ」とその時に思ったはずなのに、あとで聴くと「ちがうなぁ」が正直なお話です。

 以前にも書きましたが、演奏家が演奏する「音楽」は作曲家の意図した音楽と違って当然です。作曲家自身が自分の作った曲=音楽を、自分の解釈だけで演奏したければ楽譜は残さないはずです。事実パガニーニはそうしていました。
 楽譜として世に出た「音楽」は演奏者の手によって「音」になります。
料理で言えば楽譜が「素材」で料理する料理人」が演奏者です。素材をどう?活かすかが演奏家の技量だと思っています。
 その演奏を聴く人が「いいなぁ=おいしいなぁ」と思ってもらえるように、研究し努力するのが演奏者=料理人です。聴く人・食べる人の好みは、全員違います。全員が「おいしい」と思う料理は存在しません。音楽も同じです。誰かが「おいしい」と言ったからおいしいと思い込んで食べるのではなく、自分にとっておいしいかどうかは「自分の感覚」がすべてです。
 楽譜を音にする「楽しさ」を感じられるようになるまで、まず楽譜の通りに演奏する練習をしましょう!「料理学校」で基礎を学ぶことは大切です。
「我流」の前に先人の考えてくれた「ひとつの方法」を出来るようにしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜を見ながら演奏できない視力になって変わった暗譜の方法

 映像は前回のデュオリサイタル14で演奏したピアソラ作曲の「グランタンゴ」ヴィオラとピアノによる演奏です。ヴィオラのパート譜10ページを暗譜して演奏しました。実際には前年のリサイタル時に暗譜して演奏したものを練り直して演奏しました。
 ご存知のかたも多いと思いますが、私が生まれつき持っている「網膜色素変性症」と言う目の病気は、治療方法が現在なく進行性のために、中途失明する患者が最も多い「特定疾患=難病」のひとつです。4歳頃に病気に両親が気付いて以来、50数年間と言う驚異的な「遅さ」で進行を続けています。進行の速さや発症の時期は患者それぞれに全く違います。症状のひとつが「夜盲=やもう」と呼ばれる症状で薄暗い場所で物が見えないというものがあります。健常者=多くの人は、映画館に入ってしばらくすると座席が見えたりするんですよね?私たちには「真っ暗なまま」で照明が光っている事しか見えません。
 もう一つの症状は「視野狭窄=視野が欠ける」症状です。見える部分=見えなくなっていく部分は患者によって違います。「中心視野」と呼ばれる部分がかけ始めると、次第に明るさを感じにくくなります。この視野狭窄が進行することで「視力」もなくなります。今現在、私の右目は中心視野の多くが欠けています。それでも、なんとか日常生活を妻の浩子さんの介助を受けながら送れています。

 さて、今回のテーマは「暗譜の方法」です。
視力をメガネやコンタクトレンズで「矯正」して両目で0.7程度あった40歳頃までは、楽譜を見ながら演奏できました。オーケストラで「ふたりで1冊」の譜面を見ながらの演奏もかろうじて出来ていたほどです。つまり、通常のひとと同じように「楽譜を覚える」方法だったと言えます。
 そのころの私を含め、多くのひとは楽譜を「見ながら」演奏できます。
読譜=楽譜をすぐに音にする能力を身に着け「初見」でほとんどの曲を弾ける技術を音楽高校・音楽大学で身に付けます。私もできました。その技術がないと「プロ」とは認められない時代でした。
 ・初見で楽譜を見ながら「譜読み」する。
 ・難しい箇所の指使いや注意すべきことを楽譜に書きこむ。
 ・次第に楽譜を見なくても暗譜で演奏できるようになる。
これが多くの場合「暗譜のプロセス」ですよね。
 今現在、私の練習方法は…
 ・音源があれば、とにかく覚えられるまで聴く。

 ・ヴァイオリンやチェロで演奏している音源であれば、指・弓使いなども覚える。
 ・楽譜を拡大し、パソコンのモニター(27インチ)横いっぱいに表示する。
 ・B4の用紙横向きで幅いっぱいに数小節拡大コピーする。
 ・楽譜を数小節ずつ覚える際に「指・弓・音色」も考え同時に覚える。
 ・覚えたものを楽器で演奏する。
この繰り返しです。生まれつき全盲の演奏家の場合は「点字楽譜」で覚えながら演奏されます。それと大差ありません。ただ、点字楽譜の方が早く読めるような気がします(笑)私はその点字をまだ読めません。

 この暗譜方法を「物造り」に例えると、始めの段階から完成した=出来上がった状態に近いものを造り、少しずつそれを組み合わせていく方法になります。この方法では作れないものもたくさんあります。一つの例で言えば、大型ジェット機を作る方法として「エアバス社」が用いている方法です。翼、胴体、エンジンなどを違う国々で作り、出来上がった部分を集めて「組み立てる」方法です。
家で例えるなら「プレハブ工法」が近いかもしれません。現場で柱を立て、壁を作り窓やドアを付けていく在来工法と違い、短期間に現場で組みあがります。

 さて、この暗譜方法で演奏するようになってから数年経ちますが、なんといっても1曲を通して演奏できるまでに長い時間がかかることは、どうしても避けられません。楽譜を見て演奏できれば「初見」で弾ける曲を、何時間・何日・何週間もかけないと演奏できない「苛立ち」はついて回ります。「みえてりゃすぐひけるのに!」と叫びたくなる(笑)思い出せない音があれば、止まるしかありません。そのストレスは想像以上でした。
 グランタンゴを最後まで通して演奏できるまでに、2週間程度かかった気がします。10ページを数小節ずつ…かなり気が長いですよね(笑)さらに、記憶を「効率化」するために、いわゆる再現部や似たようなパッセージが出てきたときには「前と同じ」で覚えるのですが、微妙に違うことが多く。山手線状態になることも良くあります。「今、なんどきだい?」(笑)です。
 これも、浩子さんの助けと協力があって初めてできることです。
ただ不思議なことに、頭の中にある「音楽」はヴァイオリン、またはヴィオラの「音色」でつながっているらしく、ピアノで音を出してくれてもなぜか?それまでの部分と連結しないのです。おそらく音名で覚えている部分より「音色」で記憶している要素が大きいのだと思います。困ったものです。
 覚えてしまえば、かなり安定して記憶を呼び出せます。それは今までよりも良いことだと思っています。楽譜ではなく「音楽」の演奏を記憶しているのかも知れません。

 できないわけではないはずですが、現在の私に浩子さん以外の人との「アンサンブル」は考えられません。迷惑をかけたくないという気持ちが先に立つからです。学生時代、オーケストラでストラビンスキーの「春の祭典」も暗譜して演奏していました。ただ、大学4年の時に「第九」でヴィオラのトップにしていただいた時、とにかく「弓」が覚えられずに2プルト目以後の方々に、多大なご迷惑をおかけした苦い記憶は消えません(笑)私の隣、トップサイドに山縣さゆりちゃんがいて、困った顔をしていたのも忘れられません。すみませんでした(笑)

 そんなわけで、音楽を覚える=演奏を覚えることが、演奏の手段になってから演奏中に考えることも変わったような気がします。少なくとも「楽譜」は頭にありません。昔なら今、何ページ目のどの辺りを演奏しているかを思い起こせました。それがなくなってから、音楽を「時間軸」で考えるようになったのかも知れません。視覚的な「場所」「楽譜」ではなく、一曲の中の「時間」を考えている気がします。それが良いのか?悪いのか?わかりませんが、それしかできない(笑)ので、自分の暗譜方法をさらに進化させることを考えていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラメンバーのソロ演奏

 動画は、桐朋女子高等学校音楽科(共学)で3年間同級生だった、元男子現おぢさん(笑)チェリストの金木博幸(かなきひろゆき)君の演奏動画です。
 高校入学当時、彼は札幌から単身上京し「男子寮」とは思えない「豪邸」に暮らしていました。4人部屋、古い民家の2階部分。トイレは1階にある一か所のみ。台所健洗面所が2階に一か所。窓の外には、美しいどぶ川。夜中にうるさくしていると、一階の大家さんが電気のブレーカーを落とす。この男子寮に私は入りびたり、3年間を過ごしました。この男子寮からは、多くのソリスト、音楽家が巣立ったことも書き添えておきます。

 高校在学中から学年唯一のチェロ専攻でもあった金木君の演奏は、いやがうえにも注目されていました。当時、桐朋は「チェロの学校」と思えるほど、チェロ専攻のレベルが高く、金木君もご多分に漏れない技術でした。
 高校2年でベーシックオーケストラからレパートリーオーケストラに「昇格」し、3年であっという間にマスターオーケストラに上り詰めました。
 高校時代からカルテット(弦楽四重奏)やピアノトリオを一緒に演奏して遊んでいました。同学年の仲間、後輩ともアンサンブルを楽しみました。高校生ながらお仕事を頂き、八ヶ岳などで演奏もさせてもらいました。
 卒業後、ピアノトリオを札幌で…と言う計画が、諸々あって流れてしまって以来、一時(かなり長い期間)交友が途絶えました。
 その後、彼が留学し帰国した際に現在の東京フィルハーモニーに入団しました。主席チェリストとなってからも、ソリストとしての活動を継続していることも素晴らしいことです。

 さて、多くのプロオーケストラが国内外に存在します。
2015年現在のプロオーケストラ(室内楽団)一覧です。

【日本オーケストラ連盟加盟のプロオーケストラ】
NHK交響楽団
大阪交響楽団
日本センチュリー交響楽団
大阪フィルハーモニー交響楽団
オーケストラ・アンサンブル金沢
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
関西フィルハーモニー管弦楽団
九州交響楽団
京都市交響楽団
群馬交響楽団
札幌交響楽団
新日本フィルハーモニー交響楽団
仙台フィルハーモニー管弦楽団
セントラル愛知交響楽団
東京交響楽団
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
東京都交響楽団
東京ニューシティ管弦楽団
東京フィルハーモニー交響楽団
名古屋フィルハーモニー交響楽団
日本フィルハーモニー交響楽団
広島交響楽団
兵庫芸術文化センター管弦楽団
山形交響楽団
読売日本交響楽団

【日本オーケストラ連盟(準会員)のプロオーケストラ】
京都フィルハーモニー室内合奏団
静岡交響楽団
東京ユニバーサルフィルハーモニー管弦楽団
テレマン室内オーケストラ
中部フィルハーモニー交響楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
奈良フィルハーモニー管弦楽団
ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉
藝大フィルハーモニア管弦楽団
岡山フィルハーモニック管弦楽団
瀬戸フィルハーモニー交響楽団

【室内プロオーケストラ】 
いずみシンフォニエッタ大阪
紀尾井シンフォニエッタ東京
神戸市室内合奏団

 2022年現在、統合合併したオーケストラもありますが、ずいぶんたくさんありますよね!ただ…これだけのプロオーケストラがあっても、毎年音楽大学を卒業する弦楽器・管楽器・打楽器専攻の卒業生を受け入れられる「受け皿」にはなりません。演奏家の供給過多の状況が長く続いています。卒業生のほとんど一部、卒業後にさらに何年も「アルバイト」をしながら練習し続けても入団できない人の方が圧倒的に多いのが現実です。その意味では「選び抜かれたひとの集団」であるはずですよね?現実は?

 楽器を演奏して生活する人を「プロ」と定義するならば、クラシック音楽の世界で「オーケストラプレーヤー」と「ソリスト」が代表的なプロです。
それ以外に数人の「アンサンブル=室内楽」で生活できる人も少数います。
ソリストが一番少ないのは言うまでもありません。多くの場合、ソリストは「音楽事務所」に所属しています。事務所がコンサートを企画することもありますし、事務所が演奏の依頼を受ける窓口になりソリストを派遣する場合もあります。いずれにしても、ソリストと呼ばれる演奏家は、明らかに演奏家の「頂点」だと言えます。

 聴く人の好みとは別に、プロの世界では「集客力」が演奏者の実力になります。それはオーケストラでもソリストの場合でも同じです。有料のコンサートに、どれだけの観客を集められ、どれだけの収益をあげられるか?が問われるのがプロの世界です。広告に使う費用も含め、すべての経費よりも「収益」が多くなければ、演奏家への方種は払えません。当たり前です。
 プロオーケストラの場合、正規団員には「給与」が支払われ、エキストラには「日当+交通費」が支払われます。正規団員になれば、定年までの終身雇用をするプロオーケストラがほとんどです。その「給与」だけで生活できない額しか支払われないオーケストラも存在します。さらに正規団員数を減らし、エキストラの人数を増やすことで人件費を抑えることがプロオーケストラでは「日常的」におこなわれます。
 一言で言ってしまえば「オーケストラの多くは赤字経営」です。
演奏会に来てくれる人が年々減っています。定期会員になってくれる観客の平均年齢が上がり続けています。若い人の「クラシック離れ」が止まりません。
 それでも国内に「どんだけ~」な数のプロオーケストラが存在するのはなぜ?
需要があるのならわかりますが…。

 クラシック以外のポピュラー音楽の「ライブ」や「ドームコンサート」に、何千人、1万人規模の観客が集まる現状があります。ライブチケットの料金は安いものではありません。それでも人が集まります。アイドに特別な「個性」があるとは言い切れません。日本のオーケストラにも「個性」は感じられません。単純な話、オーケストラが多すぎることが最大の問題だと思います。
 また音楽大学も多すぎると感じています。音楽大学の質も問題です。卒業後にプロの演奏家として、十分な能力を身に着けていない若者を毎年輩出し続ける音楽大学の責任も問われるべきです。
 クラシック音楽の「プロ」を育てるために、需要=観客数に見合った数のオーケストラと卒業生を考えなければ、「プロになれない卒業生」が増え続け、観客の取り合いを続けることは変わらないと思います。
 

 最後に日本のプロオーケストラメンバーの「演奏技術」について。
正直に書けば「格差が大きすぎる」気がします。金木君のようにソリストとして通用する演奏魏zy通を持っている人が、どれだけいるでしょうか。特に「高齢の団員」に疑問を持っています。終身雇用のデメリットが表れている気がします。
 能力よりも年功序列。前回のブログ「音大教授の世代交代」と同様に、オーケストラ団員の平均年齢を下げ、定年年齢を下げ、給与をあげること。
「非正規雇用」のエキストラを減らしてやっていけるオーケストラが生き残ることが、残酷なようですがこれからのクラシック音楽業界には必要なことだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽の演奏と音楽理論

 ピアノやヴァイオリンを趣味で楽しむ人たちの多くが「音楽理論」と言う言葉に聞きなじみがありません。むしろ「知らない」かたが圧倒的です。
理論と言うと「学問」とか「相対性理論」が連想されるからでしょうね。
 たとえば「ドレミファソラシド」と聴いて、あなたはどれくらいの「説明」が出来るでしょうか?それが「音楽理論」のひとつです。
 ・イタリア語の音名
 ・長音階のひとつ
 ・ハ長調(C dur・C major)の音階
 ・幹音(かんおん)のイタリア音名
他にも関連することはいくらでもあります。
あれ?小学校課中学校で習ったような気がする?
はい正解。義務教育の音楽授業で教えるべき内容は、ごく限られています。
少ない授業時間のなかの多くの時間を「歌唱」と「鑑賞」と「器楽」に費やす内容が指定されています。
音楽理論を「楽典」と言う言葉で表すこともあります。言ってみれば「音楽の知識」です。それらを子供たちに教える「時間」が足りないのが一番の理由ですが、知識より実技!と言う現場教師の意向が反映されています。
 もう一つ、例題です。
 ・四分音符と八分音符を見分けができるか五線に書けるか
 ・長さの違いを説明できるか
「そんなの習ってない」?習ったはずですが(笑)
覚えていなくても小夕学校で「合唱」や「アルトリコーダー」って、やりません弟子か?四分音符の出てこない「楽譜」はなかったはずなんです。
「聴いて覚えたから楽譜は見ていない」人がほとんどですよね?
 つまり「知識」は習っていなくても、歌ったり楽器の演奏はできる!のです。
ん?それでは、音楽理論は「不必要」なのでしょうか?
 

 ユーチューブで「音楽理論」を検索すると、大半はジャズピアノを演奏するひとのための「参考動画」です。クラシック音楽を演奏して楽しむ人を対象にしている動画はなかなか見当たりません。
 ピアノやヴァイオリンを演奏している時、「音」と「運動」だけで演奏しようとする生徒さんがたくさんおられます。気持ちは理解で済ます。
 頭から「理論を覚えなさい」とは言いません。少なくとも私たちのレッスンでは(笑)
 趣味で楽しむ人ならいざ知らず、プロの演奏家を目指す音大生が「音楽理論」を学ばずに卒業している現実があります。すべての音大ではありませんが、実技のレッスン以外は「選択」で卒業単位を修得すれば良い音大が存在します。
 何をかいわんや(涙)
楽器を演奏する人に「音楽への好奇心」がないとしたら?
そのひとの楽器演奏技術が向上することはないと断言します。
好奇心は少しずつ「膨らむ」ものです。自分の好きなことに置き換えれば、すぐに理解できます。
 ゲーム好きな子供は「攻略方法」を探します。これが好奇心です。
お酒が好きなひとは、銘柄の産地、一番合う「あて」にも好奇心を持ちます。
好奇心は言い換えれば「こだわり」です。
音楽理論=知識は、「上達の土台」になるものです。
 ただ、土台だけあっても「うわもの」である演奏技術がなければ、ただの頭でっかちですし、基礎だけで家の立っていない状態です。
 

 楽器に関する知識も好奇心が膨らめば、自然に知りたくなるはずです。
先述の通り、音楽理論は特別に難しいことばかりではありません。
たとえば、物の長さを測る単位があります。重さをはかる単位があります。
それぞれに多くの単位があります。国や職種によって変わるもの「センチ・インチ」「メートル・フィート」「グラム・ポンド」「センチ・尺間」など多くあります。
 音の長さを表す単位は「秒」ではありません。比率で表されます。
四分音符:八分音符=1:2
ご理解いただけましたか?これも音楽理論です。
「♯=シャープが付くと半音高くなる」
小学校で習ったはずです。多くのアマチュア演奏家も答えられます。
では「半音を説明して」と問われたら?
・鍵盤で一番近い「隣同士の鍵盤」との「音の高さの差」
・いオクターブを12等分したうちの、一つ分の「幅」
・全音の半分の幅
などなど。「めんどくせぇ」(笑)と主輪うかもしれませんが、これを理解しないで楽器を演奏している人は、野球のルールを知らずにボールを投げ、バットでボールを打つことを野球と言うのと大差ありません。

 音楽の知識を学ぶことは、楽器の練習とは違います。むしろ言葉や文字で、音楽の「ルール」を理解することです。音楽理論の多くは、数学的な考え方が主になります。先ほどの「比率」もそうですし、「音の高さ」「高さの差」にしても理科で習った知識が大いに役立ちます。音楽を分析する時には「文法」に近い考え方も必要です。音楽の速さを表す言葉の多くはイタリア語です。フェルマータを「程よく伸ばす」と中学で教えますが、本来の意味は「停車場」です。その意味を理解したほうが、フェルマータの「感覚」を掴めますよね。
 知識は覚えただけで使わなければ「机上の空論」です。宝の持ち腐れです。演奏に役立てるか?はその人の考え方一つです。
 ぜひ、冒頭に掲載した「楽典」を一度、読んでみてください。「専門家になるつもりはない!」と言うひとも、きっと演奏しながら「これか!」と思うことになります。「好奇心」こそが上達の秘訣です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

大学教授に世代交代を!

 今回のテーマは、大学教授の高齢化に物申す!という固いお話です。
私は現在61歳です。自分の「高齢化」を感じるか?と聞かれれば身体的な面での「老化」は素直に認めます。一方で気力の衰えは感じませんし「まだまだ現役」と言う気持ちもあります。
 その私が感じる音楽大学教授の高齢化について、大きな危機感を感じています。ここで言う「高齢」は衰えを指すものではなく単純に「年齢が高い」と言う相対的な意味です。

 教師と言う職業に限らず、日本では「年功序列」制度が長く尊重されてきました。
また「老いては子に従え」という言葉もあります。
「職場」と言う閉鎖された社会の中で、組織の中で生き残ることは「目的」ではなく「生活のための必然」です。上司の能力が誰の目から見ても足りない時にでも、部下が声に出せないのが「普通」です。ましてや経営者の能力や、経営者に「近い存在」の上司には逆らえないのが組織です。
 とは言え、度を過ごした「上からの命令・指示」は、こんにち「パワーハラスメント」として扱われ許されない行為となりました。逆の場合でも度を過ぎれば「ハラスメント」として問題になります。
 いずれにしても「序列」がある組織の中で問題なのは「上に立つ人間の数と質」なのです。

 教員と言う職業は「指導」が中心であり、教員の能力は「指導力」を指すものです。指導能力が評価されるのは「指導の結果」です。
人間(学生や生徒)に指導する「領域=分野」があります。
音楽大学で学生を指導する教員にも「専門分野」が様々あります。
「専門」が「演奏」「作曲」「音楽学」の教員に求められる「指導結果」は、卒業後の学生が発揮する「能力」です。
 若い演奏家と高齢の演奏家で、どちらが演奏技術が優れているか?
当然、個人差で決まるもので年齢に関係はありません。
 指導力と言う面で考えると「経験」が重要という、ひとつの考え方もあります。それも「結果」によって評価が分かれます。
 つまり高齢なら良いレッスンをして良い演奏家が育つとは限らないはずです。
逆に言えば若い演奏家のレッスンで良い演奏家が育つことも、十分に考えられることです。
 結論を言えば「高齢の指導者が良い」とは限らないという事です。

 社会全体の高齢化は、医学と科学の進歩による「良い結果」です。
人間の平均寿命は、すでにピークを過ぎていると言う学説があります。
ひとりの人間が「生きられる時間」が、今までのように伸びることはないそうです。問題は「少子化」なのです。
 出生する人口が減り、寿命が今のままでも間違いなく「高齢化が進行することになります。その結果、何が起きているか?
 「働く人間の高齢化=人件費の高騰」と同時に「働かないと暮らせない年金額」と言う相反する問題を抱えてしまいました。
 雇用する側=大学にしてみれば本来、若い人を多く迎える方が人件費を抑えられることは、小学生の知識でも理解できるはずです。
 音楽家に限らず、これからの高齢者は年金だけでは生活できません。
現代80代の高齢者とは、まったく違う老後の人生なのです。
 年金で十分に生活できるなら、若者に働き口を確保するのは「高齢者のマナー」です。それが今、出来ない現実は、私たちの責任ではありません。
 まぁ今回はその「犯罪者」をあげるのはやめておきます(笑)
 音楽大学で「まだ働きたい」と考える高齢教授、さらには高齢者予備軍にとって、若い指導者に自分の椅子を渡したくない!と思うのも理解できますが…
 少なくても」若く能力のある指導者」を教授に迎えることを「邪魔するな!」と言いたいのです。若ければ良いとは一言も書いていません。
年齢に関わらず、能力の高い人を増やすことが音楽大学に求められているはずです。

 習う側の立場を考えれば、高齢教授が椅子を離れるべきか?誰にでもわかるはずです。多くの高齢教授は「ずっと教えている人」ですよね。定年を過ぎても働いているおばあちゃん教授が、おととい雇用されたって話は聞きませんから(笑)その、おばあちゃんに指導を受けたいと思う若者の理由を考えてみてください。その先生に習いたいと思う理由は「自分をうまくしてくれる」と思うから。それ以外にあり得ませんよね?「優しそうだから」「なにを弾いてもおこられなさそうだから」って理由?(笑)ないです。
 一番上の一覧表、グラフを見返して頂くと、定年年齢が高い大学も多い一面と、「教授平均年齢」が63~66歳って、異常だと思いませんか?定年と平均寿命が100歳ならわかりますけど(笑)
 若い教授が増えない理由はただ一つ。高齢教授たちがやめないからです。
能力を評価する「能力」が大学内部に必要なのに、それが出来ない。
もっとも客観的な「能力評価」は卒業生が音楽家として生活できているか?だけで十分把握できるはずです。
 私立大学の教授平均年齢が高いことにも疑問があります。
良い指導を行うために…と言う考えに私立公立の違いはないはずです。
私立音楽大学の経営者が音楽を知らないことにも一因があると思います。
さらに、高齢教授が「幅を利かせる」ことが当たり前になっている気がします。
 せねても教授平均年齢を50台に下げること、定年後は教授職を解くことが必要だと思っています。
 大学教員経験のない私の考えが、間違っていることもあるのは承知しています。自分をしどうしてくださった大学の指導者たちに敬意を持つからこそ、若く能力のある教授をひとりも多く、増やしてほしいと願います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

年齢で変わること変わらないこと

 写真は2022年9月1日に撮影したものです。
右側に座っている男性3名と左奥に座る私たち、
「桐朋女子高等学校音楽科(共学)25期生」つまり高校の同期生です。
浩子さんは、私たちの「後輩」でございます(今更詳細は伏せる(笑))
 当時の高校は1学年3クラス、一クラス30名。学年全体で90名。そのうち男子は11名。さらにその男子の中で、ピアノ専攻5名がA組に固められ、ヴァイオリン専攻2名(内1名が私)とチェロ専攻1名の合計3名がB組、作曲専攻2名とフルート専攻1名合計3名がC組に「ばらまかれ」ました。
 写真の右側に写っている「元男子」は、奥からフルート奏者の一戸敦、ピアニストの清水和音、手前がピアニスト落合敦の3名。61歳もしくは62歳の「おじ(ぃ)さん」たちです。

 この3人がちょくちょく「飲み会」をしていることは最近、知っていました。
一戸君は前回のメリーオーケスト定期演奏会で指導と演奏を快く引き受けてくれて、私が大学を卒業してから約40年ぶりにご縁が出来ました。
 落合君は次回(来年1月15日)の定期演奏会で、チャイコフスキーピアノコンチェルトの独奏をお願いし快諾してくれたり、私と浩子さんのデュオリサイタルにひょっこり!顔を出してくれたり、3年前には心不全で入院していた私の病室に、これまたひょっこりとお見舞いに来てくれたりのお付き合いです。
 和音君との再会は同期チェリスト結婚式で顔尾を合わせて以来、約30年ぶりです。
 3人ともそれぞれに、演奏家として指導者としての日々を送っています。
それぞれに家庭を持つ「お父さん」だったり「お爺さん」だったりもします。
親の年齢も近いわけで、見送ったり介護現在進行中だったりも私と同じです。
さて、この3人。高校時代つまり「15歳頃」と何か変わったでしょうか?(笑)

 1975年の話です(昔話)
私の印象で言えば、和音君は「異常にピアノがうまいが、同じかそれ以上にやんちゃ」な男子。一戸君は「聴音ソルフェージュが私と同じ底辺クラスで(笑)でもフルートはすげぇうまい。やんちゃは和音と同レベルで大食い」な男子。落合君は「妙にイラストがうまく、妙にポピュラーが好きな病弱ぶる(笑)仲良し」な男子。
 ちなみに、高校3年時に私の高校卒業実技試験のピアノ伴奏を和音君がしてくれました。大学2年時と3年時の実技試験で落合君がピアノ伴奏を引き受けてくれた記憶があります。
 高校卒業後、和音君は大学には進学せず、一戸君はディプロマコースに進み、落合君と私は大学に進みました。浩子さんも同じ高校を卒業後、大学に進学しました。

 和音君が20歳の時にロン=ティボー国際コンクールで優勝し、その後国内外で日本を代表するソリストとして演奏活動を行っていることは、ご存知の方が多いと思います。現在、桐朋学園大学で教授をされています。
 一戸君は、東京交響楽団を経て読売日本交響楽団の首席フルート奏者として長年活躍。
 落合君はドイツのビュルツブルグに留学。私が教職に就く直前に彼の留学先を根城にしてヨーロッパに留学していた同期の家々を渡り歩いた思い出の「中核」になってくれました(笑)その後、フェリス女子学院大学音楽学部教授として、またソリストとして活躍。
 みんな「すご~い!」と率直に思います。

 そんな私たちが「おじ(ぃ)さん」になって、屈託なく笑いあい話す内容は?
およそ、文字にすることは不可能としか思えない(笑)ような「やんちゃ」な話が95パーセント。残りの5パーセントには、音楽大学の問題・経済の話・カラヤンの話題・高級車や高級時計の価格高騰・ヴァイオリン価格の高騰など、きわめて一般的と思われる内容がごく一部。ただ、和音君が語った「昔さぁ、東欧の演奏家がね弓を日本に持ってきてさぁ…」のその弓が、今も使っている私の弓ですけどっていう「とんでもない偶然」もあったりしました。
 とにかく「昔のまんま」な彼ら(あれ?)
ですが、年齢相応に体形や姿も変わりました。頭の中身=性格はそのまんまなのです。変わったのは「優しさ」「思いやり」が自然に見え隠れする大人になっていることです。
 三人とも、1ミリも驕る態度がないのです。自分の演奏の話は、4時間の間(長い(笑))一度も出ませんでした。謙虚。なのです。それが何よりもすごいことです。
 いつまで元気でいられるかわからない年齢になりました。それでも昔の「友達」のままで話せて、お互いを気遣う事もできるおとなになれたこと。
 人との絆が人間の「宝物」であることを実感した一日でした。
最後に、和音君の昨年の演奏動画をご紹介しておきます。
お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


ヴァイオリン演奏に必要な「能力」

 映像は、斎藤秀雄氏が桐朋学園を立ち上げた頃の話を紹介している番組です。
私は斎藤秀雄氏が亡くなった翌年に桐朋に入学し、直接お会いしたことはありません。情熱を持って指導をされた音楽家だったことは感じていました。

 さて、今回はヴァイオリンを演奏しようとする人、あるいは実際に演奏している人にとって「必要な能力」について考えてみます。
 楽器の演奏に限らず、スポーツでも学問でも日常生活でも「身につける」ために必要な個別の能力があります。
 たとえばサッカーであれば、「走る」「ボールを扱う」「ルールを覚える」能力が必要ですよね。
車の運転なら「運転技術」「交通ルールを覚える」能力。
料理をするなら「調理の技術」「素材を選ぶ」「味を判断する」能力。
お医者さんなら「症状から原因を見つける」「治療する」能力が求められます。
 ヴァイオリンを演奏する時に「必要」な能力とは?

優先順位の高い順に考えます。
1.音を聴いて高さ・音色・音量を判断する能力
2.弓を使って音を出す能力(右手)
3.弦を押さえて音の高さを変える能力(左手)
4.楽譜を音にする能力
たったこれだけ!(笑)です。。どれが苦手ですか?

上記の1.の能力はヴァイオリン演奏で最も重要な「基礎」になります。
単に楽器を演奏する技術だけを身に着けようとする人がいますが、自分の音を聴いて判断する能力を「鍛える」練習が必要です。
ソルフェージュ・聴音で「耳を鍛える」ことが可能です。
生の演奏をたくさん聴くことも大切な練習の一つです。

2.と3.の能力は、弦楽器(ヴァイオリン族)特有のものです。
特に2.の弓を使う技術は「音を出す」と言う技術、そのものです。
いくら3.の左手を練習したくても「音」が出せなければ練習にもなりません。
弓を動かす運動の「大きさ」と「動かす部位」は左手に比べてはるかに大きく、複雑です。右上半身のほとんどすべての筋肉に影響されます。「右手一生」と言う人も多くいるほどです。観察する部位も多く、演奏中にまず優先的に考えるべき能力です。言うまでもなく、1.の能力「聴く」技術が不可欠です。
3.の左手をコントロールする能力は、上記の1.と2.の能力に「掛け算」されるものです。足し算ではない?音を聴く力、安定した音をだす右手の能力が少なければ、左手「だけ」の能力はありえないのです。上記の1.2.のどちらかが「0」なら左手の能力も「0」なのです。ビブラートも左手の技術ですが、これも1.2.の能力があって初めて身につく能力です。

4.の楽譜を音にする能力は、極論すればなくても上記の1.2.3.の能力があれば、ヴァイオリンをじょうずに演奏できます。事実、フィドラーと呼ばれるヴァイオリン奏者の中には楽譜を読めない人もたくさんいると聞きます。誰かと演奏するときでも、言葉と楽器で打ち合わせをすれば合奏できる「特殊な能力」です。
 楽譜を音にする能力は、ヴァイオリンを使うよりもピアノやソルフェージュで身に着ける方が短期間で効率的に練習できます。
 楽譜を音にする能力があれば、短時間で効率的に音楽を練習できます。「耳コピ」で音楽を覚えることができるのは、ある「長さ=小節数」までです。もし上記の1.の技術の中に「絶対音感」があるのであれば、この4.の能力よりも効率的です。それでも楽譜が読めた方が能率的に上達できることは事実です。

 ざっと(笑)書きましたが、これらの能力の中で、自分に足りない能力を考えることがヴァイオリン演奏技術を上達させることにつながります。
 実際、プロのヴァイオリニストであっても上記の中の「どれか」を練習していることに変わりありません。
 ヴァイオリンン以外の楽器を演奏する場合には、それぞれに違った「能力」が必要になりますが、上記の1.の能力はどんな楽器においても「不可欠」です。
すぐには身につかない能力ですが、今現在楽器を演奏している人ならだれにでも平等に身につけられる能力でもあります。あきらめずに!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ音楽を楽しむ文化が根付かないの?

 映像は「鏡の中の鏡」と言う曲名の音楽です。曲名だけ聴いても想像できる光景があります。音楽自体も、メロディーが「裏返し」に映っているように感じます。

 今回のテーマは音楽家にとって、共通の「命題」かも知れません。
音楽家だけの努力で解決できる問題ではない部分も多くありますが、まずは私たち音楽に関わって生活している人間が考えることはたくさんあると思います。
 クラシックに限らず、音楽を聴くことが生活の中にない人が殆どです。
ヴァイオリンやピアノを習いに来ている生徒さんでさえ、普段は音楽を聴かない…好きな音楽も特にないという人が大多数です。「そんな人はコンサートに来ないんだから関係ない」では済まされない問題だと思います。

 演奏する人間にとって、聴いてくれる人がいなければ職業として成立しません。当たり前のことです。
 演奏家の多くは、幼いころから長い時間をかけて練習し、時には折れそうになる気持ちに耐えながら「勝ち残った」と言う自負がどこかにあるものです。そのこと自体は素晴らしい事でも、誰かに聞いてもらわなければ努力も報われません。評価を受けることさえ出来ません。

 私たちが生きるために必要な「衣食住」とは別の「趣味」があります。言ってしまえば「なくても生活できる」事、物です。
 「車」を例に考えてみます。興味・関心のない方も、ちょっと我慢して読んでください(笑)
移動手段としての「自家用車」は、人によって必要度が違います。都心の駅近くに住んでいるひとにとって必要度は低いはずです。家族の介護に必要なひともいます。高齢でも自家用車がなければ、生活が困難な場所に住んでいるひともいます。それらの「必要度」が低くても高くても「車が好き」な人とそうではない人がいます。
 運転することが好きなひと。磨き上げて眺めるのが好きなひと。カスタマイズして個性化することが好きなひと。オフロードを走るのが好きなひと。速い車にエクスタシーを感じるひと…などなど様々です。

 登山やキャンプが好きなひとも多いですよね。健康維持のためにというひとも含めて、アウトドアで何かをすることが趣味の人もたくさんいます。
テニスやスキー、野球やサッカーを趣味で楽しむひとたち。
囲碁や将棋を趣味にするひとたち。旅行や食べ歩きが好きなひとたち。
読書や美術館で静かに過ごすのが好きなひとたち、写真を撮影するのが好きなひと、お酒を飲むのが大好きなひとたち…
 趣味の世界は本当に幅広く存在します。それらを「職業」にする人もいます。
プロのスポーツ選手、プロの登山家、プロの棋士、プロカメラマン、旅行評論家、料理研究家、ソムリエ、美術品の鑑定士など「趣味」で楽しむ人とは明らかに一線を画す「専門家」でもあります。

 趣味にもブームがあるのは事実です。話題になったスポーツが流行るのは昔にもありました。古くはテレビで「赤胴鈴之助」が放送されると、剣道ブームが起こりました。「柔道一直線」で柔道ブーム、「アタックナンバーワン」と「サインはV」が放送されるとバレーボールがブームになりました。「巨人の星」で野球、「キャプテン翼」でサッカー。「のだめカンタービレ」で一瞬!(笑)オーケストラに注目が集まりました。

 今はテレビ離れが進み、映画も「大ヒット」が少なくなりました。
大衆音楽の業界で考えても、テレビ文化の影響が大きかった昭和の時代には「国民的アイドル」と言う言葉がありました。今やアイドルは「オタク」のひとたちの専門分野となりました。世代を超えてに流行する音楽も消えました。

 プロとして認められる「視覚」のある将棋を除き、ほとんどはプロの死角は明確ではありません。音楽で言えば演奏したり指導をして「報酬」を受け取れれば「プロ」と言えることになります。支払う側にしても基準のない演奏や指導にお金を払っていることになります。もっと厳密に言えば「演奏」だけで生計を立てられれば「演奏家」、「指導」だけで暮らせれば「指導者」だとも言えます。

 最後に上記の色々な「趣味」を分類してみます。
「屋外で楽しむ趣味」
・各種のスポーツ・登山・キャンプ・旅行・美術鑑賞・写真撮影…
「室内で楽しむ趣味」
・楽器の演奏・読書・カラオケ・囲碁将棋…

「ひとりでも楽しめる趣味」
・登山・キャンプ・旅行・楽器の演奏・読書・美術鑑賞・写真撮影…
「誰かと一緒に楽しむ趣味」
・各種競技スポーツ・登山・キャンプ・旅行・楽器の演奏・囲碁将棋…

「独学で楽しめる趣味」
・旅行・キャンプ・読書・囲碁将棋・写真撮影・美術鑑賞…
「習って楽しむ趣味」
・楽器の演奏・各種スポーツ・登山…

「初期の投資金額」
美術鑑賞<読書<旅行<囲碁将棋<スポーツ・登山・写真撮影・楽器の演奏

「楽しむ度に係る費用」
インドアの趣味<アウトドアの趣味

もちろん、上記には例外が多くあります。購入する用具や機材・楽器の金額はピンからキリ(笑)ですし、旅行先(近隣・海外)や方法(豪華客船・ヒッチハイク)でも違います。
 楽器の演奏に注目して考えると、
「室内で楽しめる」
「ひとりでも誰かとでも楽しめる」
「初期投資は必要(金額は様々)」
「習うための費用が必要(レベルによる)」
「子供でも高齢者でも楽しめる」
など、他の趣味と比較しても、多くの面で「誰でもいつでもどこでも長く楽しめる」趣味だと言えます。「楽器が高い」と言う先入観、さらに習うのにお金がかかり、習いに行くのが大変…がマイナスイメージですね。
 多くの人が自分の趣味にかける「お金」には寛容です(笑)
家族のことになると突然厳しくなったりもします。
高額な車・カメラ・スポーツ用品・キャンプ用品などに係る金額は、楽器より高いものも珍しくありません。
国内旅行で3拍4日…飛行機とホテル・食費だけでも、一人あたり5万円では厳しいですよね?年に2回旅行すれば単純に10万円。
それぞれの「価値観」です。一概に「高い・安い」は決められません。
 楽器の演奏を趣味にする人が増えることを願う人間のひとりとして、
1.「楽器は高い」イメージの払しょく。
2.「趣味で演奏できる音楽」をプロが浸透させる。
3.習ってひける「レベル=難易度」を明確にする。
4.合奏する「受け皿=環境」を用意する。
5.親しみと憧れを感じられる「プロの演奏家」であること。
「音楽は楽しい」ことを広め、浸透させたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

合同演奏会(複数団体演奏)で感じること

 映像は、その昔神奈川県内の私立公立高校からの融資メンバーによる弦楽+打楽器による演奏です。毎年夏に行われている「全国高等学校文化連盟総合文化祭」…長い(笑)と言うイベントでのものです。この時は徳島県だったかな…。
多くの団体が出演する演奏会。演奏する側も見る側も、運営する側も通常の演奏会とは違う「面白さ」「大変さ」と同時に「留意点」があると思っています。
 何よりも「自分たちだけ」ではないことを、すべての出演者が同じ感覚で理解することが絶対に必要です。演奏技術の優劣、演奏人数の多い少ない、人気のあるなし(笑)などを一切排除して、すべての出演団体が「平等」でなければ合同演奏会の本質を失います。

 教員として働いていた横浜市緑区で、近隣の高校の吹奏楽・管弦楽の合同演奏会絵画行われていたころの話です。その演奏会に初めて参加した当時、私の勤務していた学校オーケストラは、まだ出来て数年目。人数も50人ほどだったと思います。生徒たちを引率し、楽器トラックを私が運転して会場入り(笑)。
決められた時間通りに、各学校が舞台でリハーサルを行い、また決められた演奏時間内で本番の演奏を行う「約束」がありました。
 そんな中で、近隣で「うまい」とされていた公立高校吹奏楽部の「顧問」が、その約束を「ガン無視」して悠然と延々とリハーサルを長時間行い、そのため開演時間は遅れ、挙句本番でもプログラムに書いていない曲まで演奏する始末。
 私の勤めていた学校以外の高校生徒たちは、「あの学校だから…何も言えない」他の顧問教員たちも「あの顧問は●●連盟のおえらいですからね…」とだんまり。許せなかった若僧の私は、公然と抗議しました。予想通り「なに?文句あるの?へ~」聴く耳持たずの変人に、それ以上話す気もなく、それ以後の演奏会では打ち合わせ時に「リハーサル・演奏時間の平等厳守」を会議に提案し以後、その学校もぶつぶつ言いながら従っていました。。ちなみにその学校吹奏楽部は、顧問が定年退職した翌年、コンクールで地区予選落ちして部員数が10名ほどに激減し舞台から消えました。

 さすがに全国でのイベントとなると…と思いきやそうでもなく(笑)
意図的にではない「アクシデント」や「運営のトラブル」でスケジュールが遅れることは仕方のないことです。一度きりのぶっつけ本番ですから当然です。
 それを考慮して自分たちのリハーサルを、短時間で終える気持ちが「マナー」だと思っていましたので、どんなに大人数で参加する時でも(確か徳島でも)私が指揮する団体のリハーサルは、前の出演団体からの「入れ替え確認」と「座る位置の確認」「演奏できるスペースがあるか確認」が終われば「次の団体との入れ替え確認」つまり、演奏はしませんでした。
 今のメリーオーケストラと「真逆」(笑)の超高速リハーサル。
回りの関係者や他校・他県の先生たちから「良いんですか?」「申し訳ない」「ありがとう」と言う言葉をかけられました。
 本番でも予定時間内ではありましたが、動画の「ヘアースプレー」を演奏する前に、チャイコフスキー弦楽セレナーデの終楽章を演奏しましたので、その曲間を1秒でも短くすることを、予め演奏する生徒たちに伝えていました。
動画の冒頭部分を見て頂くと、前曲に演奏した弦セレの拍手が鳴っている時にすでに私は演奏者の方に向き直っているのがわかります。そして、生徒たちもすぐに楽譜を入れ替えています。ヘアースプレーの出だし、チェロとコンバス、ドラムとティンパニーなので、そこだけ確認し「じゃーん」(笑)
ドラムの池上君、そのあと座り直してます(笑)

 演奏している本人たち同士が「譲り合う」気持ちは客席で聴いている人にも伝わるものです。当然のこととして、どこかの団体だけが長く演奏すれば「どうして?」と言う疑問を持つ人もいます。「うまいと思っているから?」「人数が多いから?」後味の悪い印象を残してしまいます。アマチュアのコンサートにうまいもへたもありません。人数が多ければ「すごい」と言うものではありません。
色々な演奏を楽しく「聴き比べられる」ことを第一に考えて演奏するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

世代交代しても変わらないもの

 映像はチェリスト宮田大さんのレッスン風景。
現在36歳の宮田さん。こうしてレッスンをしている内容や話し方に「世代交代」を感じます。
 習う人に「年齢」や「演奏技術」の線引きありません。習いたいと思う気持ちは、他人からの評価とは無関係です。常にだれかから「習いいたい」と思う気持ちは演奏家にとっての生命線かもしれません。
 それらの人に「教える人」にも資格や基準はありません。伝えたい、残したいと思う気持ちがある人=指導者と、その人から何かを学びたい、吸収したいと思う人=弟子の「信頼関係」がなければ、なにも伝わることはありません。

 私たち60代が若い頃に受けたレッスンと、現代のレッスンは何が変わり、何が変わらないのか。
 当然のこととして、ある時代に「生きる人たち」は色々な世代・立場です。
社会全体、あるいは国内での人々が求める物も違います。
音楽以外の例で言えば、日本国内で美無教育を受ける子供たちへの「教育・しつけ」に対する大人の考え方の「変化」です。いわゆる「ブラック校則」が当たり前だった時代がありました。教師と児童・生徒とのかかわり方も変わり、学校と保護者の関係も変わりました。それこそが社会の変化だと思います。
 何が正しいのか?という基準も変わります。大きな変化は少子化と学校の増加です。音楽教育の世界にもその波と無関係ではありません。
「サマーキャンプ・音楽祭」と呼ばれるイベントは昔からありました。
公開レッスンも私が学生時代から頻繁に行われています。
 海外の演奏家や指導者が来日し演奏するのも、当たり前のことになりましたし、著名な演奏家が在京の音楽大学で「常勤」していることも珍しくなくなりました。
 海外の音楽学校に留学するのが、大変だった時代もありました。その当時の為替を考えても、1ドル=360円だったわけでどれほど大変だったかを考える参考になります。

 音楽教育もグローバル化しています。どこにいても、世界的な演奏者の指導が受けられます。海外のオーケストラの日本公演も「希少価値」はなくなりました。そんな現代のレッスンです。指導する人間の「質=内容」も変わってきました。
 演奏家自身が自分のファンを増やすためにも、レッスンの場を増やすことは有意義です。「人間」としての魅力が第一に酔われる時代ともいえます。
ただ演奏がうまい…だけでは、人としての無力とは言えません。レッスンを受けた人の「印象」が悪ければ、指導者としてだけでなく演奏家としても嫌われる時代でもあります。
 椅子にふんぞり返ってレッスンをするのが裕rされた時代から、本気で弟子に向きあえる指導者が求められている時代になりました。
 これからの日本音楽界を支えるのは、宮田大さんの世代の人たちです。
暖かく見守りたいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 
 

アマチュアオーケストラの席順って何?

 上の表は「メリーオーケストラ極秘文書」(笑)冗談です。
お名前は「かりのおなまえ」です。その横にある数字(小数点)は、ヴァイオリンのバートと席順=座る位置を表しています。
たとえば「1.03」の最初の」1」はヴァイオリンのパート=1がファーストヴァイオリンで2がせKんどヴァイオリンを示しています。
その右の「.03」は3番目の席順を表します。
一番上の行の「前半1曲目」からアンコールまでの一覧表です。
じっくり見ていいると…目がチカチカしますよ。いや、一人ずつ見てみると気づくことがありますか?(テストみたい(笑))
たとえば、一番上にいる「ゆかさん」は、前半がファースト、公判がセカンドです。さらに、前半の1曲目は「1.01」なのでファーストヴァイオリンのトップに座ります。いわゆる「コンサートマスター」の位置です。前半2曲目になると、ゆかさんは「1.10」に移動します。おお!大移動(笑)
 おや?気が付いた人がいるかな?
「えりかさん」「みずきさん」「くららさん」「あやさん」
ずっと同じ数字!「ひいきだ!」(笑)この4名が、メリーオーケストラのヴァイオリン指導スタッフなんです。「野村謙介はさぼるのか!」はい。私、一応指揮などをしている手前、ヴァイオリンだけの面倒は見られません。
なぜ?4人も?実際、毎月4名の方が来られるわけではないのです。皆さんお忙しいので、誰か一人でも来てもらえるようにとの配慮です。本番で演奏して頂く席順は決めてありますが練習時はどのパートも指導してもらいます。

 この席順を決めているのは?
すべて私の独断です。誰にも相談もしませんし突然、会員にお伝えします。
「独裁者だ!」「ぷーさ(ち)んだ!」なんとでも行ってくださいませ(笑)
目的があります。ヴァイオリンのメンバーに、1回の演奏会で、出来るだけ色々な「体験」をしてもらうためです。
プロのオーケストラの場合に席順は「演奏技術の序列」を表します。
ファーストヴァイオリン>セカンドヴァイオリン
席順の2番>3番
ちなみに、コンサートマスターは「契約団員」です。他の団員と違い「1年(あるいは2年)契約」で更新をしなければ他のコンサートマスターに変わります。給料も一般の団員と比べはるかに高額です。休みも多い。さらに数名のコンサートマスターの中でも「序列」があります。それがプロの世界です。

 アマチュアオーケストラの中で、序列を決めることについて、私の考えを書きます。
20年間、中学・高校のオーケストラを作り育てた経験でわかったことでもあります。
「メンバーの向上心を高めるために序列は必要か?
これは、テストの成績を貼り出す方法についてと同じ問題です。
テストの「上位者」だけを貼り出す場合、それがやりがい=向上心につながる一面は確かにあります。全員の成績序列を貼り出すとしたら?向上心を高める効果より「みせしめ」の意味になります。成績が悪かった生徒にとっては、まるで公開処刑です。
 オーケストラのパート分け、席順をプロのように演奏技術の序列で決めたら?
これも、公開処刑になります。なぜなら、前の方で演奏していメンバーは「きっと上手」で後方のセカンドの人は「へたくそだから、あそこなのか」と客席に示していることと変わりありません。
 これでメンバーの向上心が高くなる?いいえ。ありえません。20年間の教員生活の間に、試したこともあります。逆効果です。人間関係を壊す結果以外になにも生まれません。

 以前書いたかもしれませんが、部活オーケストラで私が実践した「向上心を竹mる」手法を一つご紹介します。
 1.パートと席順を、学年や経験に関係なく「抽選」で決める。
 2.その結果、自分のパートや席順より「前=ファーストの1番など」で演奏したい場合は、その位置にいるメンバーに「公開オーディション」を申し込む
 3.申し込めるのは「同学年」または「上級生」に限り、下級生に対しては申し込めない。
 4.自分の位置から「後方=セカンドの一番後ろなど」への申し込みはできない。
 5.公開オーディションの判定は、指揮者(私)一人の判断で行う。
 6.オーディションの結果によって、二人のパート・席順は「そのまま」か「入れ替え」のどちらかになる。
 7.一人のメンバーは同じメンバーに複数回、挑戦できない。
どうですか?試してみませんか?(笑)特許申請はしていませんので、ご自由にお使いください。

 最後にアマチュアオーケストラにおけるコンサートマスターの役割と席順について考えを書きます。
 結論から言えば、「演奏前のチューニングの仕切り」をすることさえ、アマチュアには難しいことだということです。
アマチュアオーケストラのコンサートマスターをプロの演奏家に移植する方法もありますが、私は否定的です。むしろアマチュアのできる範囲のことで良いと思っています。ちなみに、メリーオーケストラの演奏会で「コンサートマスター」の場所に座る会員のチューニングは(実は全メンバー)ステージに出る直前に、私やプロの指導者がチューニングしています。ステージでは「A」を出しているだけです。(笑)それでも役目は果たせます。
 セカンドを演奏する方が難しい場合も多くあります。逆の場合もあります。
前方で演奏すると後ろからも音が聞こえます。その代わり、自分のパートの「弓」を見る「前の人」がいませんから怖いのです。後方で演奏するヴァイオリンは、前の人の弓を見ることができるので、アップ・ダウンの間違いは減らせますが、後ろから音がしないので不安になります。
 どこで演奏数か?によって、色々な違いがあるのです。難しさの種類も違います。それを体験することも、アマチュアの楽しみ方の一つです。
 単純に演奏のクオリティを高めるだけがアマチュアオーケストラの目指すものではありません。それを前提にして、パートや席順を考えるのが「指導者」の責任だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・指揮者 野村謙介

ヴァイオリンはクラシック音楽を弾く楽器?

 映像は私が、ぼかしを全体に入れました。お許しください。
演奏しているのは典型的な「ロックバンド」にヴァイオリンソロの女性が加わっているものです。偶然に見つけた動画です。
 今回のテーマである「ヴァイオリン」という楽器は、いわゆる「クラシック音楽」だけに使用する楽器なのか?と言うお話です。

 先に申し上げておきますが、私はクラシック音楽を学んできた人間の一人としても、また音楽を聴くことを趣味としている人間としても、クラシック音楽というジャンルについて「つまらない」とか「古臭い」とは1ミリも思っていません。当然、ロックやポップスを「軽い音楽」とも思っていません。
 ヴァイオリンと言う楽器が、400年近い歴史を持つ古典的な楽器でもあり、その楽器のために多くの先人たちが音楽を作ってきた「歴史」を否定することは、誰にもできません。それを前提としてお読みください。

 この動画の演奏は、明らかにヴァイオリンに「収音」するための装置を付け、電気的に音量を増幅=大きくした上に、音色にも電気的な加工が加えられています。ただ、元のちゃんとした(笑)映像を見る限り、ヴァイオリンを演奏している女性は、クラシックの演奏技法を学び、相当の技術レベルに達している奏者であることは間違いありません。おそらく「クラシック音楽のヴァイオリン演奏を専門的に学び、全く違うジャンルの音楽を演奏している人」です。
 日本人のヴァイオリニストでも、何人もこの系統の演奏者がおられます。
私の良く存じ上げている先輩にもいらっしゃいます。
 間違った先入観を持たれないために付け加えますが、「この手」の演奏者が全員、クラシック音楽で「食えない=プロとして技術不足」で、この道に進んでいるとは「限りません。」限らない…と書いた裏に、正直に申し上げて私が「そう」感じる人も少なくないことも書いておきます。
 「クラシックの演奏で生活できる技術レベルにないから」ポピュラー音楽の演奏家に転身することを、悪いとは思いません。その人の考え方の問題です。クラシック音楽を演奏することや聴くことが好きな人が、それらの人を悪く言うのは「優越感」に浸りたいからだと思います。

 ピアノの演奏で考えれば、クラシックに限らず多くのジャンルで使用される楽器であり、電気的なピアノは常に進化しています。
 打楽器でも、管楽器でも、声楽でもクラシック音楽の演奏技法を学んだ人が、違うジャンルの音楽で活躍している姿は珍しくありません。
同じ楽器を使って、まったく違う「種類」の音楽を演奏することを、否定するのは間違っています。単純に「好き嫌い」の問題でしかありません。
クラシック音楽とハードロックの、音楽的な違いがあります。その違いを演奏者自身が理解していることと、本人が本当に「ハードロック」を好きなのか?という根本的なことが「プロ」としての前提だと思っています。
 趣味でヴァイオリンを演奏する人が、ハードロックを好きでも不思議でもなく、なんの問題もありません。その人が、好きなハードロックをヴァイオリンで弾きたいとも宇野は、いたって自然なことです。
 単純に考えて、電気的に音量を増幅しないヴァイオリンでドラムやエレキギターと一緒に演奏しても、ヴァイオリンの音はまったく!聞こえません(笑)
 クラシックの演奏スタイルと違う「音響空間」でヴァイオリンやピアノ、管楽器を演奏する場合の特別な知識と、特殊な技術をもった「スタッフ」がいなければ演奏は成り立ちません。違う「芸術」だと言えます。

 常に音楽の演奏取り巻く環境は変化しています。クラシック音楽を演奏する「ホール」も昔とは違います。クラシックでも聴く楽しみ方は変わり続けます。
伝統的な演奏スタイルを継承することも、文化や芸術を後世に伝える意義があります。
他方で実験的な試みや社会のニーズに合わせた変化に対応する能力・考え方も大切です。
時代によって上記のどちらかに偏ることもあります。
新しいスタイルや文化は「古い=伝統的な」ものがあってこそ新しいのであり、古いものを捨ててしまえば、新しいものも生まれ育ちません。
 クラシック音楽のヴァイオリン演奏方法を伝承しつつ、新しいスタイルに挑戦すること、それを許容することが延いてはクラシック音楽の演奏を残すことにもつながると思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ※ぼかし加工のない元動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=E2hZDzJp9Pc

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プロと一緒に演奏するとアマチュアはうまくなる原因

 映像は、今月7日に行ったメリーオーケストラ第41回定期演奏会より「ダッタン人の踊り」の動画です。
 手前みそが多分に入りますが、純粋に「あれ?うまいなぁ」と思います。
メリーオーケストラ「らしくない」と言うか「そんなバカな」と言うか(笑)
 いや、アマチュアオーケストラの演奏レベルとしては、十分「じょうず」だと客観的に思います。「もしかして、アマチュアの人が演奏した振りをしてる?」(笑)いいえ!小学生の会員も中学生の会員も私より年上の会員も「みんな」必死で演奏しています。
 確かに会員以外の「仲間」たちの演奏技術が尋常でなく高いことは事実です。
プロのオーケストラで主席フルートを演奏していた人、現役のプロオケ団員。最近の日本音楽コンクールで入賞した人などなど、一人ずつの経歴の「合計値」はアマチュアオーケストラに数人、エキストラが入っている演奏とは比較になりません。
 それは「ずるい」ことでしょうか?
もしこれが録音でコンクールに参加するとしたら「インチキ」です。
お客様を「だましている」ことになるでしょうか?
私は指揮者として、このオーケストラの創設者として、NPO法人の理事長として、何一つ間違っていないと確信しています。

 アマチュアの演奏者=会員が演奏を楽しみながら、上達する事がアマチュアオーケストラの「原点」です。そのための手段として、プロの演奏家と一緒に演奏することは、最高の環境です。しかも、お客様にしてもよりレベルの高い演奏を「無料」で聴くことができるのですから、「音楽の普及」と言うNPO法人の目的に合致しています。
 さらに言えば、プロの演奏者たちが「無報酬」で演奏してくれているのは、紛れもなくこのオーケストラの趣旨に賛同してくれているからに相違ありません。
 多くの仲間たち=友情出演者たちは、演奏会当日の午前中に行うステージリハーサルだけで午後2時からの本番を迎えます。通常ならもっと「バラバラ」になって当たり前です。アマチュア会員たちは六か月練習しているとはいえ、当日にプロの人たちに合わせる技術はありません。プロの人たちがアマチュアに「合わせて」くれているのです。そのことを会員たちも体感しています。

 プロの演奏技術を吸収することは容易なことではありません。動画やCDでどんなに勉強しても、自分に合わせてくれることは不可能です。しかも、すぐ隣の席でプロの演奏を聴きながら演奏できる「贅沢な感動」を味わえるのです。
 私自身、学生時代からいくつものアマチュアオーケストラに「賛助出演者=エキストラ」として演奏に参加させてもらった経験があります。多くの場合、初めてお邪魔して、演奏だけして挨拶をしてから演奏料=謝礼を受け取って「さようなら」のお付き合いになあってしまいます。アマチュアメンバーとお互いに会話をすることもなく、エキスtら同志も交流はほとんどありません。
 それと違いメリーオーケストラの場合には、賛助出演者は全員が私自身と、何らかのご縁がある人たちばかりです。毎回のように参加してくださる方もいれば、都合がつかず他のお友達や後輩を紹介してもらう場合もあります。そうした「きずな」がメリーオーケストラの中には自然と感じられるのが最大の魅力であり、通常のアマチュアオーケストラにありがちな「冷たさ」を感じない理由です。

 どんなにプロの演奏者が加わってもオーケストラとしては「アマチュア」なのです。それは演奏技術の問題と言うよりも「アマチュアならでは「のものです。
 自分たちのできる練習を、それぞれのメンバーがそれぞれの環境の中で行なった「結果」がすべてなのです。プロの演奏に求められる物とは根本的に違います。
そのアマチュア演奏者がプロの奏者と交流し、その「音」に感動しながら自分も一緒に同じ曲をえんそうする経験。これこそが上達の秘訣です。
 先ほども書きましたが「コンクール」のように技術の優劣を競うのはアマチュアオーケストラにとっては無意味だと思っています。もっと大事なことは、演奏を楽しみながら「もっとうまくなりたい!」と感じられる演奏を目指すことです。これからも、メリーオーケストラの演奏にご期待ください。
 最後まで読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習中と本番中の「頭の中」

 映像は、アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」をヴィオラとピアノで演奏したときのものです。なぜか…再生回数が多くて驚いています。

 今回のテーマは「頭の中」つまり、演奏者が「考えていること」について。
人によって違うのは当然ですが、多くのアマチュアヴァイオリニストの人たちとレッスンを通して、演奏しながら考えていることを確かめてきた経験と、自分の練習中と本番中に考えていることの「違い」を基に書いていきます。

 練習をしている時に考えていることは?
・リズムや音程(ピッチ)が正しいか?
・音色と音量が思った通りに弾けているか?
・間違ったり納得できない箇所の原因は何か?
・無意識のうちに姿勢や構え方が崩れていないか?
色々と考えていますが、自分を「観察」することがメインです。
いかに自分の音、音楽、演奏姿勢を「他人の耳と目」になって観察できるか?がポイントです。現実にはできないことですが、自分の音と姿を離れた場所から冷静に観察する「もう一人の自分」を作ることです。
 練習は「できるまで」続けることですが、何を?どのように?出来るようにしたいのかを、手探りしながら繰り返す「根気」が不可欠です。もう一人の自分=練習中の先生は、興奮せず・妥協せず・結果を焦らない先生が理想ですよね。
「ダメ!」「ダメ!」だけで熱くなっても効率は下がるだけ(笑)
「もうその辺でいいんじゃない?」と言うアマアマな先生も困りもの。
「できないならやめたら?」と言う短気な先生には習いたくないでしょ?
練習中に考える時には、冷静さと根気が必要です。

 では、演奏会やレッスンの時に考えることは?
多くの生徒さんが「家で練習していると、時々すごくうまくひける」とおっしゃいます。また、発表会などでは「全然、普段通りにひけなかった!」ともいわれます。どちらも「ごもtっとも!」だと感じます。むしろ、それが当たり前です。
 練習している時には、観察し修正することを繰り返しています。
レッスンや演奏会では、修正も繰り返すこともできないのです。観察だけは「出来てしまう」のですから、ストレスになるのは仕方ありません。
 緊張するなと言っても無理です。良い緊張は必要です。演奏中に「おなかがすいた…」と思った瞬間に暗譜が消えた経験のある私が言うので、たぶん緊張は必要です(涙)
 普段練習している時と、環境が違う場所で「一度でうまく弾こう」と思うのですから、冷静さがなくなるのは自然なことです。それをいかに?コントロールするかが一番重要です。

 何も考えずに演奏することは不可能です。普段、考えてもいない「作曲家の魂」をいくら思い浮かべようとしても無意味です(笑)では、なにを?頭で考えるべきなのでしょうか?
 私の経験で言えるのは「いつもより優しい先生がアドヴァイスをくれている」イメージを持つことです。演奏し始める時も演奏中も、いつもと同じ「もう一人の自分」が自分を助けてくれる・演奏をほめてくれる・失敗をしても優しく励ましてくれる「イメージ」です。
 自分の意識の「中と外」の両方が存在します。考えている「つもり」の事が意識の中です。考えなくても身体が動くのが意識の「外」です。
 私たちは日々の生活の中で、この中と外を実に頻繁に使い分けています。
 ついさっき、外したメガネを「どこに置いたっけ?」と探す私は、意識の外でメガネをどこかで外して置いています。
 意識の中で行動することを繰り返して初めて「意識の外」つまり無意識に動けるのが人間です。
 練習中にはできる限り、運動を意識の中に入れて繰り返すことです。考えながら演奏することです。
 本番やレッスンの時に、無意識でも指や手が動く「時間」もあります。日常生活ならば仮に思っていない運動があったとしても困らないでしょう。でも、車を運転している時、完全に無意識になれば事故の確率は間違いなく高くなりますよね。
 演奏は楽しむものです。本番で間違えないことだけを意識するよりも、もう一人の自分が、自分の演奏を楽しむ姿を想像する方が音楽に集中できるように私は思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

無信仰でも演奏します

 映像はカッチーニ作曲の亜アヴェ・マリア。
私自身、神様や仏様を信仰する人間ではありません。だからと言って、信仰する人を変だとは思いません。何かを信じる気持ちは、人間が想像する力を持っていることの証だと思っています。あ。「想像」なんて言ったら怒られるのかな(笑)
 通っていた幼稚園はキリスト教系の幼稚園でしたが、両親ともに無宗教でしたし、家にはお仏壇もありませんでした。そんな私が演奏する「アヴェ・マリア」がインチキ(笑)だと信者の方に言われるのかもしれませんが(言わない?)楽譜として手に入る音楽や、普通に耳にすることのある音楽は、誰のものでもないと思うのです。所有権の問題ではありませんからね(笑)

 宗教的な音楽に限らず、世界中に多数存在する民族の「伝統的な音楽」があります。時間的に何十年、何百年経過したら「伝統」になるのか定義は知りません。音楽の場合、人から人に「歌い継がれて」現代も演奏される音楽と、「作曲者が楽譜に残した」音楽があります。さらに「録音が現存する」音楽も、歴史としては短いながらも、あります。
 日本でも「雅楽」「民謡」など伝統的な音楽があります。演歌を「日本固有の音楽」と言えるかどうかは意見の分かれるところだと思います。
 地球が一つの大陸だった頃から始まり、恐竜がそこら中にいた時代を経て、巨大な隕石の衝突などで地球上に氷河期があって…とにかく、恐ろしく長い年月をかけて人類が誕生した「歴史」があります。
 音楽がいつ?始まったのかを答えられる人はいません。
そもそも、どんな音を「音楽」に感じるのか?音楽と言える音とは?
なんて考えだすと、良く寝られそうです(笑)

 一人の人間が、生まれてから物心がつくまでの期間に、聴いて育った音楽のほとんどは、覚えていないのが普通です。「胎教」とか「英才教育」をどこまで?科学的に証明できているのか知りませんが、まだ解明されていない「遺伝子」の中には、自分のご先祖様が聴いていた音楽に反応する「能力」が…ないのか、あるのか(笑)
 私たちが演奏する音楽は、いわゆる「西洋音楽」です。西洋って…じぶんんおおざっぱですね。いいんですけど、別に。
 少なくとも、私のように日本で生まれ日本で育った両親の愛第二、同じように日本で生まれ育った「日本製」の人間にとって、日本の音楽もヨーロッパの音楽も「音楽」であって、特別な違いを感じないのですが?
 それは私が生まれた1960年当時にはすでに、西洋で作曲された音楽が、日本中で流れていたはずですから、当たり前だと思います。生まれてからずっと、民謡以外の音楽を聴かずに育った人が大人になって、ある日ベートーヴェンの運命を生で聴いたら?「うるせぇな!」と思うかも。

 ヨーロッパに留学した音楽家の皆さんが「作曲家の暮らしていた土地に行ってみると、何か感じる」とおっしゃるのを度々耳にします。私は、留学経験が一日もない人間ですので、その「感覚」は想像できないのかもしれません。
 ひがみっぽく感じるかもしれませんが、留学した人たちの「感じる」ものは、先述の「想像力」だと言えます。確かに、写真や映像、音を聴いただけでは感じられない「香り」と「肌に触れる空気」は、その場でしか感じられない五感の一つです。それは外国に限らず、海辺、山道、雪道などでも感じられる感覚です。
 信仰する人は、神様や仏様を感じると言います。また、愛を感じると言う言葉もあります。それらは、人間の五感ではなく「想像力」で生まれるものだと私は思っています。現実に存在するものではないのです。ちなみに「空気」は目に見えないし触った感覚がないだけで、現実に存在しています。その証拠に、空気のないところに行けば…苦しくなって気付いた時には、違う世界にいます(笑)
 音楽は「音」です。空気の振動です。確かに存在します。
音を聴いて、何かを感じるのは人間の想像力です。そこに「民族の血」や「作曲家の魂」やら「思い」を感じようとするのは、人間の欲望です。それが悪いとは思いません。人間は欲の塊ですから(笑)
 感じる人が優れているような伝え方には、不快感を感じます。
自分の想像したものを、他人に求めるのは、ただの押し売りです。何も優れてい入ません。ショパンの心に触れた!とか、聴くと「こいつ大丈夫か?」と思うのは失礼でしょうか(笑)とは言え、想像するのは自由です。敢えて言うなら、それを「想像できたから●●が出来た」と他人に言うのも、ご本人の自由ですが、信じない人からすると「変な人」にしか思われないと思います。

 想像したことを、言語化するのが逃げてな人はたくさんいます。
現実には存在しない「もの・こと」を言葉にするためには、言葉のボキャブラリーが必要です。人間の「五感」をすべて使って、イメージを言語化すると、案外簡単に言葉に出来ます。
・触った感覚=やわらかい・冷たい・つるつるなど
・見える感覚=明るい・まぶしい・立ちはだかる・落ちていくようななど
・聴こえる感覚=ささやきのような・遠くの雷鳴・せせらぎなど
・味の感覚=甘い・からい・酸っぱい・舌の上でで溶けるなど
・香りの感覚=自分の好きな花の香り・ご飯前の台所の香りなど
音楽から想像する「もの・こと」は、なんでも良いのです。
正解も間違いもありません。人によって違って当たり前です。
想像「できない」のではなく、「していない」のです。
子供でも大人でも、記憶にある「五感」があれば何かを想像できるはずです。
出来るなら、自分の好きな「五感」を寄せ集めて想像しながら演奏したほうが、演奏していても気持ちいいはずです。わざわざ「苦しい」「悲しい」「辛い」「痛い」「臭い(笑)」五感を想像しながら演奏する必要はありません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 
 

出来ない!と出来た!の繰り返し

映像は、メリーオーケストラ第2回定期演奏会の様子です。
2002年の夏。場所は杜のホールはしもと。ちょうど20年前の映像です。
当時10歳だった子供たちが、今30歳になり私は…(笑)
出来ないと思うことにぶつかることは、日々の生活でもありますよね?
出来ないと思う内容も様々です。現実的に「不可能」なことも確かにあります。
ある日突然、病気が治ってそれまで「できない」だったことが急に「できる」ことは、残念ですがほとんど不可能です。生き物の命も、蘇らせることは出来ません。
 一方で、出来ないと思っているだけで「できるかもしれない」こともたくさんあります。さらに「急には=すぐには」できなくても、時間をかければ「できるかもしれない」ことはもっともっと!あると思いませんか?
 できないと決めてしまえば、出来るようになる「努力」もしません。
つまり「時間をかけること」から逃げている場合がほとんどです。
「できないかもしれない」「できる気がしない」これも同じことです。
少なくてもできる可能性があることを「できない」と言うのは、現実逃避とできない自分を見たくないという「保身」の現れです。
 「もう年だから」「才能がないから」「やったけどできなかったから」
言い訳を見つけるのは人間の特技ですね(笑)特に「やっらのに…」という言い訳を使う時、「どれだけやった?」と言う肝心の言葉が抜け落ちています。
出来るまでやる!
子供でも大人でも変わりません。
出来ていないのは、まだ努力が足りないだけです。才能?年齢?全然無関係です。山登りの「途中」で引き返せば登頂できないのは当たり前です。途中で「登れなくなる」ことも実際にあるでしょう。でもそこで「次こそは!」と思う気持ちがあるか?ないか?の問題です。

 できるように…の「できる」を誰が決めるのかと言う根本的な問題もあります。習っている先生が「合格」と言えば「できた」と思う人もいるでしょう。
 自分の基準で「できた」「できていない」と判断するのが日常的な練習です。スポーツでも似たようなプロセスはあると思います。ただ山登りや、勝敗が決まる協議の場合は「できた=勝てた」か「できなかった=負けた」と言う二進法で判断できます。「少し負けた」はありませんよね(笑)
 楽器の練習の場合には、この二進法は無意味です。当てはまりません。
仮に先生が「できた」と言っても自分自身が「できていない」と思うこともあるはずです。逆のケースもあり得ます。自分の「基準」が優先するのは、誰でも同じことです。
 音楽の「できた基準」に客観的な基準は存在しません。すべてが聴く人、弾く人の「主観」でしかありません。だからこそ、自分以外の誰かの「基準=意見」を聴くことが重要だと思います。もちろん、一番大切なのは自分の基準です。
 他人が「じょうず」と言ってくれようが「まだまだへただね」と言われようが、自分の気持ちが一番優先されるのが「アマチュア」なのです。プロの場合は違います。自分の基準だけで「じょうず」は通用しません。当たり前です(笑)
 プロであっても、自分の演奏に対する「できている?できていない?」と言う判断は常に必要です。アマチュアと違うのは、その「線引き」のレベルが決定的に違うことです。アマチュア演奏者の場合には、どんなレベルであっても自分が満足できれば「できた!」なのです。それで良いのです!
 「まだまだ」と向上心を持つことは悪いことではありません。ただ、人によって「基準」をやたらと高くするアマチュア演奏家がおられて、見ていて気の毒でもあります(笑)もっと言えば、プロの演奏を基準にするなら、その時点でアマチュアではなくなります。
 演奏を楽しむことが、本来の音楽です。その意味で考えれば、プロの演奏家の場合、心から自分の演奏を楽しめていない人もいる気がします。
 アマチュアの人が、じょうずに演奏できるようになりたい気持ちを持ち続け、出来なかったこと=つらさやストレスが、「できた!」と自分で思えた瞬間に、それまでの練習が報われる喜びが何よりも大切です。
 できないままで終わらない。少しでもできるようになったら、自分をほめてあげる。自分の基準を大切にする。時には人の基準も参考にする。
 時間をかけて、音楽を楽しみましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートに演奏するには?

 映像は、ジョン・ウィリアムズ作曲の「シンドラーのリスト」を10年ほど前に演奏した動画です。スーパーマンのテーマやスターウォーズ、インディジョーンズ、AI、ジョーズなど多くの映画音楽を手掛けたジョン・ウィリアムズの悲しいメロディー。シンプルなリズムと覚えやすい旋律の素敵な曲ですね。

 ヴァイオリンでレガート=滑らかに演奏する時の「難しさ」について考えてみます。
 一般的に楽譜に書かれている「スラー」と「タイ」の記号が同じであることは、誰でもが知っています。ところがこの記号の本来の「奏法=意味」がレガートであることを知らない生徒さんが多くいます。legato=レガートというイタリア語で、音を切らずになめらかに演奏することを指しています。
 弦楽器の場合には、この記号が付いていると「同じ方向に弓を動かし続ける」と言う運動も意味しています。例えば、下の楽譜をご覧ください。

クライスラー作曲の「美しきロスマリン」の1ページ目です。
スラー=レガートの書かれている間にある音符に、スタカート=音を短く切る記号が書かれています。この「レガート」と「スタカート」は奏法として真逆の意味になります。印刷ミス?(笑)いえいえ。
 ピアノの楽譜などにもこの二つの相反する意味の記号が同じ場所に書かれていることはよくあります。
 レガートの記号を「フレーズ」として考えることもできますが、例外的な書き方ですす。
 弦楽器の場合には、先述の通り「同じ方向に弓を動かし続け」ながら「音を短く切る」事を示しています。アップで演奏擦り場合は「アップスタカート」ダウンでいくつもの短い音を続けて演奏する「ダウンスタカート」とも呼ばれます。
 同じような動きでも違う「奏法」を示す書き方があります。

クライスラー作曲「序奏とアレグロ」の一部。ダウンのマークが重音に連続している部分がご覧いただけます。重音に限らず、スラーとは別に同じ方向に連続して弓を動かす「指示」もあります。

 さて、レガートで音楽を演奏する場合、声楽=歌や管楽器の場合には、息を出し続けながら「切れないように」演奏することになります。管楽器なら「タンギング」は入れないはずです。言い換えれば「息が続く時間」がレガートの限界の長さでもあります。弦楽器の場合は「弓の長さ」と言うことになります。
弦楽器の場合、弓を遅く動かす時と速く動かす時で出せる音量が違います。
遅くなればなるほど、弓の圧力を弱くする必要があります。逆に言えば、遅くして弓の圧力が大きすぎれば、弦が振動できずつぶれた=汚い音になります。
 長いレガートを「フォルテ」で演奏しようとすると、圧力と弓の速度の「ぎりぎりのバランス」で弓を動かす技術が必要になります。レガートよりも音量を優先するなら「弓を頻繁に返す=反対に動かす」しか方法はありません。
 レガート=小さな音とは限りません。ピアノと一緒に演奏する場合には特に、ピアノの聴感的な音量とヴァイオリンの音量のバランスを考慮する必要があります。全弓を使いながら、元・中・先で均一な音量と音色を保つことは、弓を軽く速く動かすこと以上に高い技術を要します。スラーの中のひとつひとつの「音」に効果的なビブラートをかけることも重要なテクニックです。聴いていて不自然に感じない深さと速さのビブラートを考えながら、安定した弓の動きを保つために背中・肩・首・上腕・前腕・手首・指の連動を意識しながら、さらに滑らかな移弦に注意する。本当に難しいことだと思います。
 ゆっくりした音楽は「簡単」だと思い込まず、地道な練習を心掛けいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラで楽しむ趣味

 映像はメリーオーケストラ第41回定期演奏会で演奏した「いのちの歌」
村松崇継さんが作曲された曲を、メリーオーケストラのために田中大地さんにアレンジをお願いしました。リサイタルではヴィオラとピアノで演奏したこの曲、オーケストラで演奏すると違った感動が伝わってきます。

 オーケストラはクラシックを演奏するという「既成概念」があります。
一方で吹奏楽は「ポピュラーを演奏する」イメージが先行しています。
演奏形態=スタイルは、一人の人間だけで演奏するものから、オーケストラと合唱などが加わった「大人数」のものまでたくさんあります。楽器の組み合わせも様々です。吹奏楽…管楽器だけの演奏に読めますが、打楽器やコントラバス=弦楽器も通常含まれます。管弦楽…あれ?打楽器は?(笑)もちろん含まれます。
文字・言葉が思い違いを生んでいることもありますね。

 趣味で弦楽器、管楽器、打楽器を演奏する人にとって「合奏」は究極の楽しみだと私は思っています。もちろん、一人で楽しむことが一番!と言うかたもおられます。他人との人間関係が煩わしい…と思う気持ちも理解できます。
 ブームは去りましたが「カラオケ」は一人で楽しめる趣味でもあります。気持ちよく誰にも聞かれず、大声で歌うことが楽しいのでしょうね(笑)
 ピアノやギター、エレクトーンなどの楽器は、ひとりで演奏を十分に楽しめる楽器です。かたや、ヴァイオリンやチェロ、フルート、トランペットなどの場合hはひとりで演奏できる曲はごくわずかです。多くは「誰か」と一緒に演奏して初めて音楽として完成します。オーケストラは言うまでもなく、合奏の集大成です。
「初心者」だからこそ、誰かと一緒に演奏する楽しさが必要だと思います。

 オーケストラの「楽譜」の多くはクラシックと呼ばれる作曲家の曲です。
ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームス、チャイコフスキーなど「有名」なクラシック作曲家のほとんどが、交響曲を書いています。ただ、これも当然ですが「聴いたことがない」交響曲の方が多く、演奏の難易度も高いのは事実です。
動画にあるような「ポピュラー」をオーケストラで演奏するのは「邪道」なのでしょうか?私はそうは思いません。どんな楽器で演奏したとしても音楽は音楽です。逆にどんな音楽でも、オーケストラで演奏できるはずです。
 ただし、ポピュラーをオーケストラで演奏するための「楽譜」が少ないのです。お金を出して購入できるのも、ほとんど海外のサイトからです。日本では需要が少ないのです。いのちの歌の楽譜は?当然、販売されていません。オーケストラの楽譜を書くためには、ただ音符や休符が書けるだけでは無理です。それぞれの楽器の「音域」と「音色」「音量」を理解していないと、書けません。作曲の技術と変わりません。
木管楽器=ピッコロ・フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット
金管楽器=ホルン・トランペット・トロンボーン・チューバ
打楽器=ティンパニ・バスドラム・シンバル・グロッケンシュピール他
弦楽器=ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス・ハープ
これらの以外にも、色々な種類の管楽器・打楽器がオーケストラには加わります。それぞれの楽器が2~3つのパートに分かれていることが多く、スコアは大変な段数の楽譜になります。下の楽譜はいのちの歌のスコア1ページ目です。

 当然、それぞれの楽器の演奏者は自分のパートの楽譜=パート譜を見ながら演奏します。指揮者はこのスコアを見ながら指揮をし、練習で音の間違いを正すこともします。いかがですか?スコアは演劇の「台本」のようなものです。全員のセリフが書いてあります。演劇と違うとすれば、同時に何十人もの人、25種類以上のパートが一斉に演奏します。演劇では…(笑)ないですね。
 このスコアに書かれているすべてを「編曲者」が考えて書きます。出てくる音を頭の中で想像しながら。素晴らしい技術・能力です。
 紙の上の音符が、数十名の人間、様々な音色の楽器で「音」になるのがオーケストラです。ひとりで演奏を楽しむこととの違いがここにあります。
一人ずつの責任は、ひとりで楽器を演奏するよりもはるかに大きくなります。
「たくさんいるから、一人の責任は軽くなるんじゃないの?」と思われますか?
逆なのです。ひとりが間違った音や、間違った場所で音を出した場合、聴いている人は「誰が間違えた?」かわからないものです。つまりオーケストラ全体としての「失敗」になるのです。100人のオーケストラで99人が正しい音を出していても、一人が「半音」違った音を出したことで、音は明らかに濁ります。プロオーケストラの録音現場であれば「録り直し」です。全員がもう一度初めから演奏しなおします。それがオーケストラの怖さでもあります。
 アマチュアオーケストラメンバーに、それを求めたら?誰も演奏できないばかりか、誰も演奏したくないですよね?プロではないのです。間違っても仕方ありません。それでも!演奏する楽しみを優先するのが「アマチュアオーケストラ」です。

 ぜひ!あなたもアマチュアオーケストラのメンバーになって、楽器の演奏を楽しんでみてください。日本中にたくさんのアマチュアオーケストラがあります。規模もコンセプトも様々です。練習の頻度、内容も違います。何よりも「人」が集まるのですから世界中に、同じオーケストラは二つ存在しません。
 そのオーケストラの一員として演奏する「喜び」を体験してみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・指揮者 野村謙介

半音・全音の聴感的な修正と間違ったチューナーの使い方

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 映像は「カール・フレッシュ音階教本」の1番最初に出てくる音階をピアノでゆっくり演奏している動画です。音階教本の中で「バイブル」とも考えられるこの教本、音階とアルペジオ、半音階などを徹底的に練習することが可能です。

 多くのアマチュアヴァイオリン奏者にとって「音程」「ピッチ」を正確に演奏することは大きな課題になります。当然、プロを目指す人や実際にプロになれた人間でもそれは同じことです。たくさんの生徒さんを見てきた中で、陥りやすい落とし穴とでもいうべき間違った練習方法と、本人の気付きにくい「音程感」について書きます。

 もっともよく目にするアマチュア弦楽器奏者の間違いは「チューナー」の使い方を間違っていることです。操作方法の事ではありません(笑)
 スマホのアプリにも多くの「チューナー」があります。測定精度や反応速度の優劣もありますが、使い方の問題です。
 「音を出す→チューナーを見る→修正する→次の音を出す→チューナーを見る…」を繰り返していませんか?「一音ずつ確かめている!」そんな満足感がありますが、ちょっと待った(笑)自分の耳で正しいピッチを「判断する」練習になっていませんよね?「いつか、正しいピッチを覚えられる!」いいえ(笑)それは無理です。正しいピッチや正しい音程を、自分で判断=記憶しようと思わなければ、いつまでも補助輪をつけた自転車で走っているのと同じです。いつも誰かに「修正」してもらわなければ、自分で正しいピッチを見つけられないままです。
 では正しいチューナーの使い方は?
 「開放弦の音を聴く→最初の音を出す→開放弦からの音程を耳で測る→チューナーを見る→修正する→もう一度開放弦から最初の音を探す→あっていると思ったらチューナーで確認し次の音を出す→前の音からの音程を自分で測る…」
 文章にすると長いですが要するに「自分の耳で開放弦=あっている音からの音程を測る習慣をつけ、あっていると思ってからチューナーで確かめる」繰り返しです。

 もう一つの方法です。チューナーでA=ラの音を出し続けます。
その音を聴きながら自分の音を聴いて「音程」を確かめる方法があります。

なんで?こんな面倒くさいことをお勧めするのでしょうか?
 「相対音感」の人がほとんどだからです。

 以前のブログでも書きましたが、絶対音感を持っている人はごくわずかです。
Youtubeの中に「怪しげな絶対音感」のことを「絶対音感」と紹介している人がいますが、私の言う絶対音感は「442ヘルツと440ヘルツを聞きわけられる・言われた音名の音を正確に歌える」音感です。この音感があれば、弦楽器の演奏で自分の出している音の高さに疑問を持つことはあり得ません。そんな便利な音感のない「私」を含めた多くの人は「相対音感」で音の高さを考えています。
 「ある音」からの「幅=高さの違い」で次の音の高さを見つる音感です。
チューナーは「絶対音感を持っている人」の耳と同じです。もうお分かりですよね?相対音感の人が、絶対音感を持つ人の「真似」をしても絶対音感は身につかないいのです。「そんなバカな」と言う人のために(笑)
たとえば「甘さ」の違う5種類の砂糖があったとします。どれも「甘い」砂糖です。絶対味覚(笑)がある人は、その一つ一つの甘さをすべて「記憶」しています。どんなに順番を入れ替えても、絶対味覚の人は、砂糖をなめた瞬間に「これは2番目に甘い砂糖です」と正解を言えます。
 相対味覚の人は?順番に二つの砂糖をなめていきながら「こっちのほうが甘い」、次にその次の砂糖を舐めて先ほどの二つの砂糖と「比較」するしか方法はありませんよね?これが「相対音感」です。正確に言えば「常に二つの違い=差を測る」ことです。一度に三つの違いを測ることは不可能です。音楽で言えば、「順番に二つの音の高さの差を測る」ことです。

 音階を練習する「目的」があります。一番大きな目的は「1番目と2番目、2番目と3番目…の高さの幅=音程を正確にする」ことです。もちろん綺麗で均一な音を出し続けるボウイングが求められます。音色と音量が揺れてしまえば正確な音程やピッチは測れません。2本の曲がった線同士の幅を測れないのと同じです。まっすぐな音を出しながら、音と音の「幅」を確かめる練習です。
 次の音名に変わることを「順次進行」と言います。上行も下降もあります。
隣同士の「ド→レ」も「レ→ド」も順次進行です。音階の場合、和声短音階の場合だけ「増二度=全音+半音の幅」がありますが、その他は「全音=長二度」か「半音=短二度」の順次進行です。まずはこの「目盛り」にあたる幅を正確に覚えることが「正確な相対音感」を身に着けるための必須練習です。
「簡単だよ」と思いますよね?(笑)いいえ。これが本当に正確にできるなら、その他の音程も正確に測れるはずなのです。嘘だと思ったら(笑)、あなたはゆっくり上記の音階を演奏し、誰かにチューナーで一音ずつ見ていてもらうか、そのチューナ-映像とあなたの音を同時に「撮影」してみてください。すべての順次進行「上行」「下降」がぴったり平均律で弾けるなら相当な相対音感の持ち主です。

 相対音感の人間は「音が上がる」と時と「音が下がる」時の「二音感の幅」が違って聞こえることがあります。それは「メロディー」として聴こえるからです。階段を上がる、下がるのと同じです。階段の幅が同じでも上がる時と下がる時で幅が違うように感じます。
 特に「半音=増一度・短二度」の幅はえてして「狭く」してしまいがちです。
相対音感の人にとって「少し高くなる」のと「少し低くなる」のが半音です。
この「少し」の感覚が決定的な問題なのです。一番狭い目盛りが狂っていたら?定規になりません。
 練習方法として、
A戦で「0→1→2→3→2→1→0」の指使いで以下の3通りをひいてみます。
①「ラ→シ→ド♮→レ→ド♮→シ→ラ」
②「ラ→シ→ド♯→レ→ド♯→シ→ラ」
③「ラ→シ→ド♯→レ♯→ド♯→シ→ラ」
できるだけゆっくり。特に次の音との「幅=高さの差」を意識して練習します。
これは、4の指を使う以前に半音と全音の正しい距離をつかむ練習になります。

 次に3度以上の音程=全音より広い幅を練習するときの注意です。
・1本の弦上で、1から4の指で4つの音が出せる原則を忘れない
・1と2、2と3、3と4の3か所をすべて「全音」にする「像4度」が最大の幅
例 1全音2全音3全音4=増4度 シ♭ド♮レ♮ミ♮など。
・上記3か所のうち、どこか1か所を半音にすると「完全4度」の音程になる
例1..1半音2全音3全音4=完全4度 (シ♮ド♮レ♮ミ♮など)
例2.1全音2半音3全音4=完全4度 (シ♮ド♯レ♮ミ♮など)
例3.1全音2全音3半音4=完全4度 (シ♮ド♯レ♯ミ♮など)
・上記3か所のうち、2か所を半音にすると「減4度」=「長3度」の音程になる。
例1.1半音2全音3半音4=減4度 シ♮ド♮レ♮ミ♭など。
例2.1半音2半音3全音4=長3度 シ♮ド♮ド♯レ♭など。

 次のステップで「移弦を伴う全音と半音」の練習をしましょう。
一番最初に、解放弦から全音下がって戻る練習
・E線0(ミ♮)→A線3(レ♮)→E線0(ミ♮)
・A線0(ラ♮)→D線3(ソ♮)→A線0(ラ♮)
・D線0(レ♮)→G線3(ド♮)→D線0(レ♮)
弦が変わると音色が変わるため、感覚的な「ずれ」が生じます。
もちろん、解放弦を使わず「4」の指を使えば、同じ弦ですがあえて「移弦」する練習も必要です。指の「トンネル」が出来なくても、まずはこの音程を覚えるべきです。

 最後はポジション移動を含む「全音・半音」です。
実は一番上のカール・フレッシュの画面は、G線だけで演奏する前提です。
つまり「ポジション移動ができる人」のための練習です。そうなると突然難易度が上がりますね(笑)ポジションで言えば、サードポジションから始まり、第5ポジションを経過して、第7ポジションまで上がりまた、戻ってきます。
 指使いで言えば、2→1で「レ→ミ」と全音上がります。ポジションが変わっても、弦が変わっても「音程=高さの差」は変わらないのです。それを耳で覚える練習が音階の練習です。

 半音のことを、短2度と言うほかに「増1度」とも言います。
ド♮→ド♯は「増1度」で「半音」です。短2度とは言いません。
ド♮→レ♭は「短2度」で「半音」です。増1度とは言いません。
…要するに(笑)音の名前と「半音・全音」の関係の両方を理解する必要があるのです。
 指使いで思い込むこともあります。例えばA線のド♯を見たら「2」の指で押さえたくなりますよね?同じA線のレ♭を見たら「3」の指が動きませんか?
どちらも同じ「高さ=ピッチ」の音です。もしもA線のド♮から弾けば、どちらも「半音」ですが使う指がきっと違います。おそらくド♮→ド♯は「狭く」なりすぎ、ド♮→レ♭は「広く」なりすぎる人が多いと思います。

 音階の練習はすべての練習の基本と考えられています。
言い換えれば、どんな音楽を演奏するのであっても、音階を正確に弾く技術が必要だということです。音階は下手で音程が正しいという人はいません。
音階を聴けばその人の「性格」が見えます。正確に美しく弾くことを大切にしているか?テキトーに演奏しているのか?判断できます。
 音を出して楽しむ「だけ」で終わるなら必要のない技術・能力です。
少しでも「うまくひきたい」と思うのであれば、半音と全音を正確にひけるように頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

集客とラーメン屋の関係

 映像は前回のデュオリサイタルで演奏した「ふるさと」ヴィオラとピアノバージョンです。このアレンジでヴィオラとピアノで演奏しているのは、恐らく私たちだけ。完全に「耳コピ」による演奏です。その意味ではオリジナルの「カバー」でもあり、演奏スタイルで言えば私たちのオリジナルです。

 さて、今回のテーマはちょっと大胆な(笑)考察です。
クラシックコンサートを開いても、お客様が来てくださらなければ、コンサートとして成立しないばかりか、主催者にすれば「大赤字」です。その状態が続けは次回のコンサートを開催する資金も、やがて底をつきます。演奏者へのギャランティも主催者が自腹で支払うことになります。演奏者自身も苦々しい思いをすることになります。仮に、200名収容できるホールに、来場者が数名だとしたら…
考えただけでもむなしい光景です。来場者も同じ気持ちになるでしょう。
 同じホールで満席の来場者があれば、演奏する人も嬉しいでしょうし、お客様にしてもどこかしら「満足感」を得られるものです。
 では、クラシックコンサートの集客は、どうすれば良いのか?どうするとダメなのか?考えてみます。

 前提になるのは以下の項目です。
・有料のコンサートである
・プロの演奏者が演奏する
・広報費・会場費などの経費が必要
・演奏者と主催者が利益を得られること
逆に考えれば、無料で利益を考えなくて開く場合は前提が変わってきます。
 上記の前提で考える場合、来場者が何を求めているのかを探る「マーケティングリサーチ」が不可欠です。入場者数は演奏者によって、恐ろしいほどの差があります。一言で言えば演奏者の「知名度」による差です。その知名度は?話題になっている演奏者かどうか?に尽きます。ただそれだけです。テレビに出ている人。最近のコンクールで入賞したニュースが流れた人。マスコミが取り上げた人…要は「有名人」なら人が集まると言ういたって幼稚な原理です。
 知名度に関係なく集客できるコンサートは開けないのでしょうか?

 さぁ!ここでラーメン屋さんの登場です(笑)
チェーン展開のラーメン屋さんと、そうでない「街のラーメン屋さん」がありますよね?チェーン店の場合、どの店で食べても同じレベルの味が提供されます。店による個性はほとんどありません。一方、街のラーメン屋さんの場合、そのお店でしか食べられない味があります。
 食べる人それぞれの、好みの問題があります。考え方も違います。
今回、チェーン店を「有名人のコンサート」に置き換え、個人経営のお店を「有名ではない人のコンサート」に例えてみます。
 強引と思うかもしれませんが、チェーン店の場合には店舗数と来店者数、さらには企業の規模が個人店とは比較にならない「大きさ」です。言ってみれば「知名度が高い」ラーメン屋なのです。一方、街のラーメン屋さんは、広告宣伝費もなく、来てくれた人の「口コミ」と「リピーター率」が生命線です。
 よほどのラーメンマニアでなければ、初めての街で知らないラーメン屋さんに入るのは、かなり勇気と決断が必要ですよね?「大丈夫か?」って思います。
チェーンラーメン屋さんがあれば「ま、ここでもいいか」って思いますよね?
 つまり、あまり関心のない人にとって「安心感」が優先するのです。リスクを避けたいのです。コンサートで言えば「あ、この人テレビで見たことがある」という人のコンサートの方が安心なのです。
 では、チェーン店のラーメンはすべて美味しいのか?と言われれば、答えは違ってきます。さらに言えば、個人経営のラーメン屋さんの方が、美味しい場合も当然あるのです。ここからが「勝負」です(笑)

 何よりも「個性」が大切です。個性とは「奇抜」と言う意味ではなく「コンセプトの独自性」です。他のラーメン屋さんにない「その店ならでは」がなければ、チェーン店に太刀打ちできるはずがありません。では何が?個性になるでしょうか?
1.はずは、食べて=聴いてもらうための独自性(工夫)
・他のコンサートにない選曲
・親しみのある曲を含んでいる
・演奏者の人柄を感じられる広告
・初めての人でも安心できそうな内容と価格
2.リピーターになってもらうための内容
・聴いていいて「負=マイナス」の要因を感じさせない
・もう少し=もっと聴きたいと思える内容と時間
・演奏者の人柄を感じられる内容
つまり「最初のきっかけ」と「その後の印象」を、一人でも多くの人に感じてもらう事しか方法がないと思うのです。当然、時間=繰り返す回数が必要です。
最初から多くのファンを集めることを望むのは間違いです。知らないのですから。どんな企画(業種)でも「最初は人が集まる」ものです。それは好奇心によるものです。北海道新幹線、然りです。珍しいから乗ってみる。でも飛行機の方が便利だから二度目はない(笑)
 ラーメン屋さんで言えば「メニュー」にあたるのが「演奏者と演奏曲」です。
あるお店の醤油ラーメンが大好きで、行くたびに食べていても、たまには!塩ラーメンも食べてみたいかな?(笑)
 通常、コンサートは、同じ演奏者の場合でも毎回のように曲目が変わりますよね?しかし、コンサートのコンセプトは変えるべきではありません。お店の「個性」を捨てるのと同じです。
 長く愛される街の飲食店には共通点がたくさんあります。
お客様と店主の「信頼関係」です。物=商品ではなく、人同士の絆があってこそ「名店」になれるのだと思います。
コンサートの場合も同じではないでしょうか?演奏そのものが大切なのは、ラーメンの味と同じです。ただ、コンサートに「人」を感じることが非常に少ない気がしませんか?特にクラシックコンサートの場合は顕著です。「ファン」を大切にしないコンサートに、お客様は二度と来ないのは当然です。どんなにラーメンが立派でも、店員の態度が悪ければ、二度と食べたくないですよね?
 「無名のコンサート」で良いと思います。何度も聴きに来てくれる人が増えれば、それで利益は生まれます。その人が友達を誘ってくれればさらにリピーターを増やせます。時間をかけて!無名万歳!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供の成長と演奏のクオリティ

 映像は小学4年生と中学1年生の姉妹が独奏をひいた、メリーオーケストラ第41回定期演奏会の映像です。バッハ作曲「二つのヴァイオリンの為の協奏曲」第1楽章。この曲は多くのアマチュアヴァイオリン奏者が演奏を楽しむ定番曲です。
 独奏を誰にするか?と言う難題を抱えます。じょうずな人が良いと言う安直な答えではありません。「子供の健全な育成・音楽の普及」を目的として活動するメリーオーケストラです。子供たちが精いっぱい練習し、多くのお客様の前・多くの大人演奏者の前で演奏する緊張感に耐え、弾き終えた達成感を感じてもらうことが一つの目的です。さらに、聴いてくださる方が満足できるクオリティも、音楽の普及という目的達成のためには不可欠です。この一見、相反する二つの目的を達成する補法とは?

 一つは演奏する子供たちに「演奏する責任と演奏する楽しさ」を体感させることです。この二つのバランスが取れていないと成長にはつながりません。
責任感だけでは子供が長く演奏を楽しむことになりません。
楽しいだけでは聴いてくださる方々に対して失礼です。
この両面を子供に体感させるためには、年単位の時間が必要です。
一度覚えれば一生忘れることのない感覚になります。
「できない」「ひけない」で諦めさせない練習。
「これでいい」「もうだいじょうぶ」という妥協をさせない。
「本番で失敗しても大丈夫」という具体的な解決策を示す。
「舞台では主役になる」準備と演出を行なう。
これらをすべて考えて子供の成長を見守ります。

 もう一つは演奏の完成度=クオリティの意地です。
聴いてくださる方々に「身内の発表会」と思われたら終わりです。
あくまでも「オーケストラの演奏会」を楽しんで頂くことを忘れません。
アマチュアだから…
「下手でもいい」と言う甘えの上に立って演奏するのは間違いです。
「うまくひきたい」「満足してもらいたい」気持ちが第一に必要です。
無料のコンサートなんだから、下手でも仕方ない…なんて絶対あり得ません。
コンサート会場に足を運ぶことだけでも大変な労力と時間が必要です。そのことを演奏者は忘れてはなりません。
 今回のように子供がソロを演奏する場合、当然ですが本番で失敗するリスクを伴います。たとえ練習よりうまく弾けたとしても、さらに高い満足感を感じてもらう気持ちが必要です。
 昔から私が用いる手法の一つに「独奏の二重化」と言う方法があります。
ヴァイオリンのソロに限らず、打楽器の目立つソロ部分、フルートやオーボエのソロ部分を「主役」となる演奏者と「アシスト」を担当する先輩演奏者のペアで演奏します。「それでは若手が育たない」と思いがちですが、先輩や上級者・指導者の「サポート」を感じることは問題ありません。むしろ、演奏の責任を強く感じさせるためにも有意義です。そのアシストがない場合、「失敗すればお客様が疑問に感じたり不満に感じる」ことを理解させることも必要なのです。
 今回の演奏会では、独奏の二人に加えてプロのヴァイオリニストお二人に、ファースト・セカンドヴァイオリンの2番(トップの隣)で演奏してもらいました。これも練習時に試し、独奏の子供たちにも確かめさせました。映像を見ると、子供ソリストの向こう側で同じ動きをしている演奏者が見えると思います。
 子供が演奏するピッチとプロのピッチが合わないのは仕方ありません。
それでも子供たちにとって「必要」なアシストです。

 「初めてのおつかい」と言う番組があります。幼児が自宅から初めての買い物をする様子をたくさんのカメラスタッフが追いかけながら撮影する番組です。「やらせ」の部分も見えますが、それでも子供にしてみれば不安な気持ち、怖い思いをしていることは本当です。さらに子供の安全を見守るテレビ局の責任もあります。これとメリーオーケストラの「仕掛け」が重なって見えます。
 アマチュアにプロのような演奏技術を求めるのは間違いです。
一方で、アマチュアをプロがアシストすることで演奏のクオリティが高まり、聴く人の満足感が格段に高くなることも事実です。さらに演奏するアマチュアも、プロの演奏者と一緒に演奏する感動を体感できます。

 演奏するアマチュアとプロの演奏を、聴く人も楽しめるなら、こんなに素敵な演奏会はないと思うのです。特にプロの演奏者は「交通費」だけで参加していることも特筆すべきです。利益のための演奏ではなく演奏することは、プロにとって「特別」なことです。いつもいつもこの演奏では生活できません。
しっかり演奏への対価を得る演奏会も絶対に必要なのです。
そのための「土台=地盤」である音楽のすそ野を広げることに従事してくれるプロの仲間に敬意を表したいと思います。。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

表情・動きと音楽表現

 映像は瀬水和音氏が独奏するチャイコフスキーピアノコンチェルト。
音楽高校時代、私はB組彼はA組、お隣のクラスでした。
当時から「超」が付くうまいピアニストでした。さらに言えば「ウルトラ級」にやんちゃな男子でした。詳細は言えません。普通の男子だった私は←しれっ。かずね君が怖くもあり、雲の上の存在でもありました。
 高校生が授業を主に受ける教室は「地下教室」で、それぞれの教室にアップライトが一台。そのピアノを友達とわいわい言いながら弾く和音くんの姿を思い出します。高校3年時、最後の実技試験で「ハチャトリアンの伴奏、頼んでいい?」と相談したら、二つ返事「いいよ」で、彼が伴奏してくれました。その当時、門下生発表会で演奏したつたない演奏録音がこれ。

 ピアノに助けられているのが良くわかる演奏です。ごめんなさい。
さて、今回のテーマである「表情・動き」ですが、言うまでもなく演奏中の演奏者の表情と動きの事です。あくまでも私の私見です。
・演奏者の演奏姿・表情は「見る」「見せる」必要があるのか?
・演奏者が感情を、表情や動きに出すことの「好き・嫌い」
・表情・動きを「パフォーマンス」に使うことは必要か
・表情や動きを抑制=表に出さないと演奏が無表情になるのか
・アンサンブルに必要な動きは「合図」として必要である
上記は演奏の形態=独奏・重奏などの違いで変わります。
また、録音された演奏を聴く場合には、聴く人には見えません。
大きな演奏会場の場合にも、客席の後方から演奏者の表情までは見えません。
 テレビや映像で演奏者が意図的に表情や動きを「作る」場合があります。
照明やカメラワーク、編集でも演奏者の「色っぽさ」「可愛らしさ」「派手さ」を強調した演出なども多く見られます。私はこれらの演出を「芸風」と呼んでいます。つまりは「演奏家」としてよりも「芸人・パフォーマー」として考えています。

 演奏者が感じる感情が、自然に表情や動きに出る場合で考えます。
先述の通り「音」だけを考えれば、表情や動きは無関係です。言い換えれば、演奏者は「見えない存在」で構わないことになります。
 では、演奏中の姿を動画や映像で見ることのできなかった時代を考えます。
録音であれば、動きやすい服装で見た目を気にせず演奏したはずです。
録音もなかった時代、演奏は人前で行なうしか方法がありませんでした。
宮殿や貴族のお屋敷、教会での演奏もあったはずです。演奏会場での演奏もありました。それらの場で演奏する「演奏者」にはドレスコードがありました。
いわゆる「楽士」の出で立ちです。近年で言えば、男性は燕尾服、女性ならドレスで演奏しました。演奏家の「見た目」も昔から注目されていたことは事実のようです。かのパガニーニ氏が演奏して女性ファンが失神したと言う伝説もあります。演奏者の「容姿」も切な要素だったことはうかがい知れます。

 私が不快に感じる演奏者の表情と動きについて。
・演奏と表情や動きが「違う」場合
・自己陶酔を感じる表情や動き
・演奏を表情や動きでカバーしようとする場合
これらは、演奏に必要なことだとは思えません。
演奏者にとって、演奏が結果です。そのプロセスや付随するものは結果である演奏とは別のものです。つまり、表情や動きが見えなくても、演奏を聴くことで聴衆が楽しめる=感じられるものでなければ、いくら「おまけ」をつけても演奏を超えるものではないはずです。
 清水和音くんの演奏する音楽には、多彩な表情を感じます。まさにピアノで歌っているように聞こえますが、見た目には出しません。
 今度、和音君に直接聞いてみたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌詞がなくても歌に聴こえる音楽

 映像はメリーオーケストラが演奏する「いのちの歌」
作曲は村松崇継さん、作詞はMIYABI=竹内まりあさん。
昨年末、今年年明けに実施した私と浩子さんのデュオリサイタルでは、ヴィオラとピアノで演奏しました。
 今回、メリーオーケストラ第41回定期演奏会で演奏しよう!と決めてから、ホルン奏者で編曲のお仕事もされている音楽仲間、田中大地さんにいつものように(笑)アレンジをお願いしました。演奏会当日まで、すべての楽器が揃う事がないので、毎月一度の練習時にその場にいる楽器メンバーで、リズムと音の確認作業をし続けました。原曲=オリジナルの演奏が多数あります。
様々な歌手が歌う動画をたくさん見つけられます。
それぞれの歌手が、それぞれのアレンジで演奏しています。
ピアノをひきながら歌う人、ピアノと弦楽アンサンブルで歌う人など。
ただ、歌のない状態=インストゥルメントで演奏している動画はあまり見受けません。歌詞のすばらしさが先行しているのかな?いやいや!メロディーとハーモニーが素晴らしい!間奏も素敵な転調をしています。
 こうした「歌もの」と呼ばれる楽曲を、歌なしで演奏すると歌詞を知らなくても「美しさ」を感じる音楽があります。このいのちの歌もそのひとつです。

 

 こちらは、昨年末にヴィオラとピアノで演奏した「いのちの歌」に歌詞を入れた動画です。同じ曲、同じキー=フラット5つの調性ですが、オーケストラの演奏と全く違う味わいがあると思います。どちらが良い?のではなく、個性が違ってきます。
 オーケストラの特色は…
・音色が多彩=楽器の種類が多い
・音量の幅=小さい音と大きい音の差が大きい
・パート数が多いため、複雑な副旋律・対旋律を作れる
・アンサンブル=調和を取るために指揮者が必要
 などです。では?ヴィオラとピアノだと?
・旋律楽器=ヴィオラの繊細な音色・音量の変化が浮き立つ
・ピアノとヴィオラ2種類の音色で聴きやすい
・指揮者が不要
どちらが簡単…とも言えません。

 いずれの演奏も歌詞はありませんが、音だけを聴いていて感じる「風景」が、歌詞の内容を見事に表しているように感じます。
 器楽の演奏で「歌う」と言う言葉を使うことが良くあります。「歌うように弾く」は、歌詞を感じてひくこととは違います。もちろん、歌詞のある楽曲を楽器で演奏する際に、歌詞を思いながら演奏することもありますが。
 楽器を使って歌うとは、自分が自分の声=言葉で、相手に自分の意思を伝えようとする「ような」器楽演奏だと思っています。感情のない言葉や、意味のない声でしゃべっても、誰も魅力を感じないと思うのです。それは楽器で演奏する時も同じです。
 語りかけるように歌う
 訴えるように歌う
 喜びを歌う
 悲しみをこらえて歌う
ただ「歌う」と言っても様々なシーンがありますね。
楽器を演奏している時に感じる感情を、表現するのがテクニックです。
間違えずに演奏するのがテクニックだと思い込んでいる人がいますが、それは「メカニカル」です。機械のように正確に演奏できると言うのは、現代で考えれば「いくらでも機械で速く間違えずに何度でも演奏できるよ」と言う結末に落ちます。
 歌がなくても、詩の内容を知らなくても、美しい音楽を演奏することは可能だと思います。難しい「分析」や「歴史」を知らなくても、聴いた瞬間に鳥肌が立つような=弾きこまれるような演奏は出来るはずです。演奏者が自分の「感じたもの」を表現するテクニックさえあれば。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日本に唯一のNPO法人オーケストラ

映像は、NPO(特定非営利活動)法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会での「ダッタンの踊り」です。今回、初めて挑戦したボロディンの作品。壮大なスケールと圧倒的なエネルギーに満ちた音楽を、アマチュアの会員と音楽家の仲間たち総勢68名で演奏しています。
 演奏の細かい傷はあります。多くの原因はアマチュア会員の技術の限界と、当日の午前中1回だけのリハーサルで、午後に演奏会と言う条件によります。
もっと何回もリハーサルをすれば、もっと演奏のレベルが高くなるのは当然です。しかし、営利を目的としない「NPO」として、演奏会に係る費用、練習に係る費用のすべてを会員と賛助会員の負担で行っているので、これが限界です。
毎月一度の練習に集まる会員が、約半年間練習して当日を迎えます。
リハーサルで初めて全員が揃うことにも慣れました。当日にすべてのプログラムを2回ずつ演奏するわけで、体力的な負担も大変なものです。
 これまで20年間、積み重ねてきたのは演奏技術だけではありません。
何よりも「人との絆=人の輪」です。このメリーオーケストラにしかない、個性があります。

 ジュニアオーケストラではありません。大人のメンバーもいます。
一般のアマチュアオーケストラと違い、目的と活動内容は定款によって決まっています。オーケストラの収支や活動内容を毎年、役所に提出します。法人ですから法人税の対象となりますが、減免申請することで免除されています。税務署への申告も必要です。それら多くの「事務」をこなしながらの活動になります。

子供も大人も高齢者も、初心者もプロも、クラシック好きもジャズ好きも。
演歌も、ミュージカルも,J-POPも、クラシックも。
演奏する人と聴く人が、誰一人取り残されないコンサートです。
それぞれに特化したオーケストラがあります。
演奏技術の高さで考えるなら、プロオケよりうまく演奏できるはずがありません。
子供だけに限定すれば、大人は参加できません。
継続しないオーケストラなら「寄せ集め」で事は終わります。
営利を目的としたオーケストラではない事を公的に認められたオーケストラです。入場料を頂かないコンサートを継続するために、会員の会費と賛助会員の賛助会費で運営します。会員でない「プロ」たちに、謝礼をお支払いできない事情があります。それでも参加してくれるプロがいるのは、彼らが本当に音楽を愛し、子供たちと市民に音楽の楽しさを伝える「魂」を持っているからに相違ありません。そんな音楽仲間を心から尊敬します。

 日本で唯一無二の「NPO法人オーケストラ」は音楽業界に取り上げられることもありません。非営利という言葉が「偽善」に聞こえるのは無理もありません。
株式会社としてオーケストラを立ち上げたと言うニュースは話題になりますが、
演奏家の営利をいくら前面に押し出しても、日本の音楽文化は変わらないと考えています。

演奏家が演奏して、多くの人が聴きにくれる環境を作ることが何よりも先決です。文化はお金で買えません。人々が欲することが「文化」になるのです。需要のない娯楽、一時的な流行は文化として根付きません。
 オーケストラって面白いねと、子供でもわかるものでなければ、本当の文化だとは思いません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ 理事長 野村謙介


アマチュアオーケストラの演奏技術とは?

 映像は、メリーオーケストラの演奏するオペラ座の怪人。
この音楽に限らず、ミュージカルや映画、ドラマなどのために作曲された音楽がたくさんあります。それらの映像を見たり、ストーリーを知っている人もいます。当然、見たことがない、ストーリーも知らないという人もいます。
 その人たちが同じ音楽を聴いて感じるものも違って当たり前です。
「この音楽はこんな場面の音楽」と言う関連を知らなくても音楽だけを聴いて、勝手に想像することができるのが「音楽」の楽しみでもあります。
 逆に言えば、音楽を聴く前にその音楽が使われたり、作られた「背景」を知ることで、新しいイメージが生まれて楽しめることもあります。
 どちらも「音楽の楽しみ方」として正しいと思っています。

 楽器を演奏する楽しさと難しさは、実際に演奏しなければ実感できないのは当たり前です。聴く楽しみとは違う次元の楽しさが体感できます。当然、演奏するための技術を身に着ける練習が必要です。練習して初めて、難しさと楽しさを実感できます。思っていたよりも難しいことを発見することもあります。
 独学で身に着けられる限界も、実際に練習してみなければわかりません。
練習して自分で納得できる演奏ができるまでの時間は、練習の質=内容で大きく変わります。練習方法は無限と言えるほど、たくさんあります。
 ある人が上達できた練習方法が、他の人にも効果的とは限りません。
一人一人の生活環境と目的によって、最適な練習方法を選んでくれる指導者が必要です。

 オーケストラで演奏するメンバーは、一人一人の演奏技術が違います。特に、アマチュアオーケストラの場合には、その差は「初心者」から「専門家レベル」まで様々です。プロオーケストラの場合は、オーディションに合格できる演奏技術を持っている人しか演奏していません。
 メリーオーケストラの場合、演奏会までの約6か月間、月に一度の合奏があるだけです。それ以外は各自が自分のペースで楽器の練習をします。言ってみれば「メンバー任せ」です。演奏技術が人によって違い、練習できる時間も千差万別、それでも一緒に演奏することに全員が「満足」できる充実感と達成感を維持する秘訣とは?

・演奏会での成功経験~達成感
・合奏練習で得られる連帯感~音楽仲間との交流
・必要で正しい演奏技術の指示~プロ演奏家による合奏指導
・お互いの環境を認めあう優しさ~練習意欲の喚起
・持続できる運営~資金面、指導体制の構築
これらは、私自身の経験に基づいています。
公立中学での穏やかで和やかな音楽部活動、師匠の門下生による合宿での合奏、音楽高校・音楽大学で学んだ専門的技術と合奏、プロのオーケストラででエキストラとして演奏した経験、20年間の中学・高校での教諭として勤務した経験、さらにメリーオーケストラを20年間育ててきた経験、自分が今も音楽に関わっていられる現実と過去、それらすべてが「アマチュアオーケストラの指導」につながっています。

 演奏している人が楽しんでいなければ、聴いている人が楽しいはずがありません。音楽は学ぶものではなく、感じるものです。だからこそ、演奏を楽しむための「スキル」が必要だと思っています。オーケストラは家族に例えられます。また、社会にもたとえられます。多くの楽器と、さらに多くの人が同じ音楽を演奏することは、一人で演奏することに比べて膨大な労力と準備が必要です。
家族が助け合うように、社会が支えあうように、オーケストラはお互いの演奏者を必要としています。誰か一人が書けただけでも、元気がなくなります。苦しみを共有できなければ、楽しみを共有することは出来ません。
 メリーオーケストラは、いつも新しい賛同者を待っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

手作りの味~退化する日本人

上の画像は2022年8月7日に実施する、NPO法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会で使用したチラシ=ポスターの素材と出来上がったものです。
毎回のように、会員が手書きで書いてくれる素敵な「書」で作っています。
一文字でコンサートへの思いを表すのも、ずいぶん長く続いています。
パソコンで「行書体」などの様々なフォントを使えるようになった現代ですが、人が書く味わいのある文字は、見る人を惹きつけますね。

 スマホ、クラウド、コンピューター、デジタル、AIなどなど、私たちの生活は年々「機械化」されて「便利」になっている反面、人が手で作る暖かさも消えていく気がします。私(昭和35年生まれ)の場合、小学生の頃の記憶にある「機械」は、現代の若い人からは想像もできない「不便」なものです。
洗濯機は、手でハンドルを回して洗濯物を絞る「機械」が付いていました。
お米はお釜かお鍋で炊いたものを「ジャー」に入れていました。
温めなおす時には「蒸し器」を使っていました。テレビは白黒で、チャンネルもボリュームもテレビの前面についていて「リモコン」なんてありませんでした。
電話は「黒電話」当然、ダイヤルを指で回していました。
コピー機が出来たのは恐らく中学生頃です。それまで、楽譜は買ったものか手書きで写したものでした。
 そんな生活に不便さを感じることはありませんでした。当たり前だったのです。私の親世代、さらにその親世代の人たちにすれば「なんて便利になったんだ!」と思っていたはずです。
 生活が便利になるのは、良いことです。それは間違いありません。
ただ、その陰で人が「退化」していることも事実です。
運動機能が退化するだけではない気がします。
「感覚」も退化している気がしています。特に「人に感謝する気持ち」が退化していることを悲しく感じます。
 自動的に機械がやっている…と思い込めば、ありがとう!と言う言葉が消えていきます。料理も、書類も、音楽も「人が作っていない」と思えば感謝の気持ちは生まれません。とても恐ろしい気がします。

 生活する中で、不便に感じたり不満に感じることがあったとき、それを解決してくれるのは「人」です。不便や不満を解決するために「機械」を作っているのは人間です。ただ、実際に動くのは機械なのです。
 テレビに映っている人、ヘッドフォンから聴こえる音楽を演奏している人は、確かに私たちの眼の前にはいません。「仮想」の世界です。
 冷凍食品を作っている人がいます。味付けや食感を研究している人がいます。
でも電子レンジに入れて「チン」で料理が出来上がります。
 いずれ、テレビに映る人、演奏する人、料理を作る人が「ロボット」になる時代が来ます。見る、聴く、食べるのが「人」になる時代です。それが進むと、その人さえ「ロボット=機械」になる時代が来ると思いませんか?
 機械が機械を作る技術は、すでにあります。今は人間が「指示」を出していますが、やがて機械が支持を出す時代が来るはずです。
 生物としての人が感じる、喜びや悲しみは機械には不要です。
感情が退化することが、人類の終わりを意味していると思います。
便利の陰に隠されている「ありがとう」の気持ち。
忘れたくないですね。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

10代のオーケストラと40歳の顧問・指揮者のエネルギー

 2001年3月、横浜みなちみらい大ホールでの演奏。
中学生・高校生のオーケストラ(ハープだけはプロ)の演奏です。
パイプオルガンも当時高校生。指揮をしている私が40歳。
 演奏の技術、オーケストラの完成度以前に「エネルギー」がハンパないです。
このホールで演奏会を開いて2回目でした。子供たちが生き生きと演奏している姿。指揮者がぐいぐい笑引っ張る「むちゃぶりしています。
 今、振ったら楽をすることを考えそうです。子供たちの「テンション」を上げ続けることが顧問としての第一の仕事。学校の反対を理論でねじ伏せ、客席を満席にすることを条件に開く演奏会なって、どこかおかしいですね(笑)会場には、紺離職はおろか、顧問以外の教員は一人も顔を見せず「そこまで嫌うか?」
 若い人の持つ「情熱」は、どんな技術にも勝ります。
今は今で「楽しむ」技を覚えた私です。この生徒たちも今は「おじさん・おばさん」の仲間です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日常生活と音楽と

 映像は我が家の姫「ぷりん」トンキニーズ、女の子、7歳です。
子供のころから{犬派」だったのですが、7年前に出会った瞬間から猫派に寝返りました。すみません。あ、でも、いまでも犬大好きです。

 と言うお話ではなく(笑)、今回のテーマは「音楽」と、生きているすべての人の生活とのかかわりです。
 まったく同じ生活を送る「日」はありません。また、自分とまったく同じ生活を送る人もいません。「似たような生活」になることがあります、たとえばケガや病気で入院したとき、同じ病室にいる患者さんの生活は、起きる時間から食べる時間、寝る時間までが同じです。その人でも、退院すればまた「日常生活」に戻るのです。
 人それぞれに、日々それぞれに、違った生活をするのが、私たち人間です。

 音楽を演奏することを職業とする人の「日常生活」とは?
その人の、音楽との関わり方と、生計の立て方によって大きく違います。
プロのオーケストラで演奏する「正規団員」の場合でも、給与だけで生活できる人とアルバイト=副収入がないと生活できない人がいるのが日本の現状です。多くは後者です。
 ソリストと呼ばれる、ごく一部の演奏家の場合の年収も人によって大きく違います。ただ、オーケストラの団員とは比べ物にならない年収です。
 オーケストラメンバーの場合、多くはほぼ毎日「出勤」して練習か演奏会で日々の生活を終えます。サラリーマンと変わりません。
 ソリストの場合、演奏会の頻度にもよりますが、世界中で演奏するソリストの場合、移動移動の繰り返しに多くの時間を割くようです。移動した先で、練習する時間も限られ、すぐに演奏会。終わればすぐに移動。体力勝負ですね。
 音楽大学で学生を指導する「先生」の場合、会議などの「校務」も含めて学校からの給与で生計を立てられる人と、その他の副収入がないと生活できない人がいますが、多くは後者です。「教授」であれば恐らく前者ですが、大学でレッスンをする人の多くは「講師」つまり教授と言う肩書ではない人がほとんどと言っても過言ではありません。
 

 私の場合は「会社経営」で生計を立てていますが、これを音楽家と言えるか?については自分なりに疑問も感じますが、気持ちとしては間違いなく「音楽」で生きているつもりです。
 フリーランスの演奏家の場合、収入は不安定になる人がほとんどです。コロナの影響で生活が苦しくなり、音楽以外の仕事で生計を立てているフリーの音楽家が日本中にいます。それを放置している「日本の政府」が世界の中で最低の政府であることは言うまでもありません。

 アマチュア、つまり趣味で楽器を演奏する人にとっての日常生活。
これもひとそれぞれ、全くと言っていいほどに違います。生活のために必要なお金を得るために「働く」人もいます。家庭で家族を支える「仕事」をする人もいます。働きたくても事情があり、働けずに家や施設で暮らす人もいます。
 そんな中で楽器を演奏する楽しみを持つ人を、私は心から尊敬しています。

 プロでもアマチュアでも、どんな生活にしてもその人が望んだ生活とは限りません。他人の生活がうらやましく感じられるのも珍しい事ではありません。他人の生活をすべて知っている人はいません。自分の生活「だけ」が基準になります。日々の生活に「満足感」「幸福感」「充実感」を感じられるか?と言うのも、自分だけの基準で感じるものなのです。他人と比べられるものでは絶対にありません。
 音楽と言う「楽しみ」を生活のコア=核にすることは、どんな生活をしていたとしてもできることです。
 生活の「時間の中心」つまり、一日24時間、一週間、一か月という単位の中で音楽に関われる「時間」だけを考えれば、ほとんどの人は、ごく一部のはずです。週に1日、1時間だけ楽器を演奏できる人にとって、その1時間の楽しみが「生活のコア」であっても不思議ではありません。
 その1時間以外の時間に楽器を演奏できないからこそ、楽しめる1時間。
それまでの時間を「楽しみ」のために使う時間だと考えられれば、音楽がその人にとって、何物にも代えられない「中心」になるはずですよね。
 時間だけが生活の中心ではないと思っています。先述の通り、生活の基準は人によって違います。どこにも「平均」はありませんし、幸福感の「ボーダーライン」もありません。すべては個人の「考え方」で決まります。

 現実に自分が少しでも、一時間でも楽器に触れていたい、音楽に関わっていたいと思う気持ちは、音楽家の誇りでもあり「証」でもあります。それができない生活だからと言って、自分が音楽から離れるのは「逃げ」だと思います。
私自身は20年間、ヴァイオリンから遠ざかりました。ほとんど楽器のケースも開けませんでした。日々の生活は「サラリーマン」として生き、家族を支えることに徹しました。その期間にもしも「ヴァイオリンを弾きたい!」と思っていたら退職していたか?おそらく生活のために、現実的には「住宅ローンのために」やめられなかったと思います。その20年間、自分の楽器から遠ざかっている間は「ただ家族のため」に生きました。そして今。
 ぷりんと浩子という、二人の姫と共に暮らす人生の「コア」には音楽があります。お金もない、時間も体力もない、健康に不安もある生活ですが「音楽」が人生の「ど真ん中」にあることだけは疑いません。それが他人からどう?見えるかは関係のないことです。音楽に関わって、家族と暮らせれば満足です!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンと弓を持って歩く時

 ヴァイオリンと弓をを手に持って、舞台に上がる時、あるいはホールの中で移動する時に、「楽器を守る持ち方」を教えてくれない先生が多すぎる!その先生に習った生徒が先生になって生徒に、正しい楽器の持ち方を教えられない!
 今日、レッスンに来た生徒が、通っている学校の部活オーケストラで、指導者に「どうやって、楽器を持ってステージに出るの?」と聞かれ、生徒が私が教えた「正しく楽器を保護する持ち方=上の写真」を示したところ「ずいぶん、えらそうな持ち方だね」と嫌味を言われ「間違ったアホの典型の持ち方」を指導されたと言います。下の写真がその「アホの持ち方」です。楽器と弓をぶら下げて歩く「アホの図。 

ヴァイオリン、ヴィオラと弓を持って「歩く」ことが、どれだけ危険な事か知らない人間は、ヴァイオリンなんぞ教える資格はありません!恥を知りなさい! 
 舞台に出る時に、他のメンバーが「悪気なく」楽器にぶつかったら?
ぶつかった人の責任は「ゼロ」です。ぶつかって壊れる持ち方をしていた人間の「過失」が100パーセントです。これ、保険の常識です。保険以前に「ヴァイオリン弾きの常識」です! 
 弓を「だらん」とぶら下げて歩いて、もしも自分の脚に絡んだら?折れるに決まってますよね?他人の脚にからんでも、折れます!弓は折れたら「全損」という事も知らない人間は、弓を持つ資格なし! 
 「知らなかった指導者」は、今日から生徒に正しい持ち歩き方を教えるべきです。。それが指導者の「責任」です。 現実にあった「事故」を紹介します。

 私が高校生の頃に、門下生発表会で銀座ヤマハホールで、出演前に、舞台裏で人が一人通れるほどの、幅の狭い階段を上がったところにある小さな部屋で音だしをしていました。その後、演奏の時間が近づいたので、その部屋から私は楽器と弓を持ち、階段を下りて踊り場で折り返し、さらに下りようとした、その瞬間に…
 同期の女の子が舞台で演奏を終えて、ヴァイオリンを身体の前に持つ形で、階段を上がってきていました。おそらくドレスで階段を上がりにくかったのでしょう。曲がり角で、お互いに「死角」でした。私の脚の「ヒザ」とその女の子のヴァイオリン表板が、不幸にして、まともに激突しました。その子のヴァイオリンは表板が割れ、駒も割れました。お互いに、どれだけショックだったか、想像していただけますか?いくら私が謝っても、澄む問題ではありません。その子の涙を一生、忘れることはできません。 
 もし、あの時に楽器を右手でかばって、上がってきてくれていたら…でも、それは現実に起きてしまいました。 

 私の生徒たちには、発表会で「数歩」歩くだけの時でも、正しい楽器の持ち方で歩かせます。それが習慣になり、当たり前にならなければ楽器を守れません。「えらそうな持ちか方」と言った人が、どのようなヴァイオリンをお持ちのかたか存じませんが、1万円のヴァイオリンでも右手の腕で駒の部分をかばって歩くのが「当たり前です。写真に「アホがヴァイオリンを持つ図」を2枚。正しい持ち方を一枚。その時の右腕と駒部分のアップを一枚、載せます。どうか!学校でもレッスンでも、生徒に楽器を守ることを第一に教えて下さい。私は、この持ち方を自分の楽器を手にした時に、職人さんに一度だけ言われました。それで覚えました。覚えられないなら、ヴァイオリンはやめるべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

オーケストラ演奏会は準備の結晶

 上の図はNPO法人メリーオーケストラ第41回定期演奏会の舞台設営図。
指揮者を含め、71名の演奏者が演奏に参加します。その他にも、受付・客席ドア係(非常誘導)・舞台ドア係などのスタッフが10名ほど、演奏会を支えてくれます。今回の配置は「対向配置」ファースト・セカンドのヴァイオリンが、舞台の左右に分かれ、向き合う形で演奏します。メリーオーケストラ定期演奏会を、第1回から20年間、使用し続けている「杜のホール はしもと」の舞台は、この編成で狭く感じるホールではないのですが、感染対策と「チェンバロ」「パイプオルガン」「ハープ」「ピアノ」の音を一台で演奏できる電子ピアノを背理する必要があり、ドラムセットも使用するため舞台上には、隅から隅まで(笑)演奏者と楽器があります。この舞台図は「イラストレーター」と言うソフトで自作したものです。

 アマチュアやプロのオーケストラがたくさんありますね。素晴らしいことだと思います。それぞれのオーケストラに個性があります。演奏する曲の「志向性」もあります。当然、規模も様々です。
 自分で立ち上げ育てた「スクールオーケストラ」のメンバーが150名になった頃、全員が演奏できる舞台を持つホールは、限定されていました。その巨大オーケストラの練習と運営、演奏会の準備をほぼ、一人で行なっていた経験が今に至っています。違うとすれば、学校と言う場所には印刷、製本、裁断などの「機械」が揃っていました。メンバーが多かったので、楽器の量も4トントラックにやっと積み込める量でした。さすがに運転は業者にお願いしました。楽器の移動は、生徒たちがテキパキと全員がスタッフになって動いていました。よほど、指揮者が怖い人だったか「聖人」だったかどちらかですね。←いまさら言うか。

 オーケストラの演奏は、弦楽器・木管楽器・金管楽器・打楽器・鍵盤楽器のすべてが含まれる「合奏形態」でおこなわれます。それらすべての種類の楽器を使う「曲」はあまり多くありません。
 例えば、トロンボーンが編成に含まれていない曲も多くあります。
チューバの場合、さらに少なくなります。ハープも編成に書かれていない曲の方が多いですね。ちなみに、かの有名な(笑)「ピアノ」はピアノコンチェルト以外で合奏に含まれる曲は、クラシックと呼ばれる音楽には数曲しかありませn。
映画音楽やポピュラーの場合には、意図的に作曲者がピアノを含める場合がよくあります。

 毎回、演奏する曲を考える際に必要になるメンバーと楽器を考えます。
決めた曲の楽譜が手に入らない場合には、プロの編曲者にメリーオーケストラの編成と技術レベルに合わせて編曲をお願いします。
賛助会員への案内はがきの作成、楽譜を印刷し、当日のリハーサルから参加される仲間の楽譜も用意します。
広報のためのポスターを手作り。前日の舞台設営の準備。
当日の打楽器移動の人員配置、タイムテーブルの作成、配布するプログラムをイラストレーターで作成し印刷、お弁当の手配、演奏会後の撤収の計画等々。
41回目の同じ会場でのコンサートとは言え、まったく同じメンバー・同じプログラムの演奏会は二度はありません。すべてが「初めて」の繰り返しです。
 リハーサルが無事に終わるまでが私の仕事です。この繰り返しにいつか?幕を下ろすとしたら、相当に前から計画することになるのか?それとも、突然「おしまい」になるのか?誰にもわかりません!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・事務員 野村謙介

1(単音)+1(単音)=∞(重音)

 映像は、ドボルザーク作曲、クライスラー編曲の「スラブ舞曲第2番」です。
和音の定義は「二つ以上の異なった高さの音が同時に鳴った時の響き」です。
「ドミソ」や「ドファラ」のようにきれいに響く和音に限らず、半音違う高さの音が二つの音が鳴っていれば「和音」です。同時に発音しなくても=途中から重なって二つになっても、和音です。
言い方を変えれば、同じ高さの音がいくつなっていても、和音ではありません。

 ヴァイオリンの演奏技法のひとつに、この和音を演奏する技法があります。
「重音」と言う言い方をすることがあるのですが、先述の通り「同じ高さの2音」を同時に演奏しても和音ではないので、ヴァイオリンの開放弦と同じ高さの音を「左側の弦」で、開放弦と一緒に演奏する場合「和音」ではなく「重音」と言うのがふさわしいのかな?と私は思っています。2本の弦で同じ高さの音を演奏すると、明らかに1本の時とは違った音色になります。
 さらに厳密な事を言えば、1本の弦を演奏している時にでも、他の3本の弦が共振していますから、音量の差が大きいものの、常に「和音」を演奏している事にもなります。

 さて、私も含め多くのヴァイオリンを練習する生徒さんがこの「重音」の演奏に苦労します。
ピアニストが同時に4つ、時には5つ以上の和音を連続して演奏する「超能力」は凡人のヴァイオリニスト・ヴィオリストにはありません。
 たかが!二つの音を続けて演奏するだけなのに、どうして?難しいのでしょうか?ピアニスト、管楽器奏者、指揮者にも知って頂ければ、救われる気がします笑。

・弓の毛が常に2本の弦に、同じ圧力で「触れる」傾斜と圧力を維持すること。
・左手の指が「隣の弦」に触れないように押さえること。
・2つの音の高さを聴き分ける技術と、和音の響き=音程を判断する技術。
・連続した和音の「横=旋律」と「縦=和音の音程」を同時に判断する技術。
・ピアノの「和音」とヴァイオリンのピッチを合わせること。
・指使い=同時に弾く2本の弦の選択を考えること。
・重音でのビブラートを美しく響かせる技術。
その他にも、片方の弦を鳴らし続け、もう一方の弦を「断続的に弾く」場合など、さらに難しい技術が必要になる場合もあります。

 特に私が難しいと感じるのは、2本の弦を同時に演奏したときの「和音の音色」が単音の時と、まったく違う音色になる「不安」です。
特に、一人で練習して「あっている」と思う音程=響きが、ピアノと一緒に演奏したときに「全然あっていない」と感じる落ち込み(涙)
 生徒さんの「和音のピッチ」を修正する時にも、「上の音が高い」とか「下の音を下げて」とか笑。生徒さんにしても頭がこんがらがります。
初めて重音を演奏する生徒さんの多くが、弓を強く弦に押し付けて=圧力を必要以上にかけて、2本の弦を演奏しようとします。理由は簡単です。そうすれば、多少弓の傾斜が「ずれても」かろうじて2本の弦に弓の毛が触る=音が出るからです。弓の毛は柔らかいので、曲がります。特に、弓の中央部分に近い場所は、弓の毛の張り=テンションが弱いので、すぐに曲がります。ただ、この部分は弓の毛と、弓の棒=スティックの「隙間」が最も少ないのが正しく、無理に圧力をかけられません。初心者の多くが「弓の毛を張り過ぎる」原因が、ここにもあります。張れば張るほど、弓の持つ「機能=良さ」が失われることを忘れてはいけません。弓を押し付けなくても=小さな音量でも、重音をひき続けられる技術を練習することが必須です。

・弓を張り過ぎず、2本の弦を全弓で同じ音量で演奏する練習。
・調弦を正確にする技術。
・右隣の開放弦と左側の「1」の指で完全4度を演奏する。
・右側の開放弦と同じ高さ=完全一度の音を左側の弦で探す。
・左側の開放弦と右隣「3」の指でオクターブを見つける。
・左側の弦を2、右側の弦を1で完全4度を見つける。
・左側の弦を3、右側の弦を2で完全4度を見つける。
・右開放弦と左0→1→2→3→4の重音を演奏する。

・左開放弦と右0→1→2→3→4の重音を演奏する。
上記の練習方法は、音階で重音を練習する前の段階で、「重音に慣れる」ためにお勧めする練習方法です。
ご存知のように、1度・8度、4度・5度の音程は「完全系」と呼ばれる音程=音と音の距離です。
・空気の振動数が「1:1」なら同じ高さの音=完全1度です。
・空気の振動数が「1:2」なら1オクターブ=完全8度です。
・空気の振動数が「2:3」なら完全5度=調弦の音程です。
・空気の振動数が「3:4」なら完全4度です。
それ以外の2度、3度、6度、7度の音程に関しては、何よりも「ピアノと溶ける和音」を目指して練習することをお勧めします。
厳密に言えば、ピアノと完全に同じ高さの音で演奏し続けようとするのなら、調弦の段階で、A戦以外の開放弦は「ピアノに合わせる」ことをすすめます。
特にAから一番近い開放弦「G」の開放弦を、ヴァイオリンが「完全5度」で調弦すればピアノより「低くなる」のは当たり前なのです。
 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第1楽章などで、全音符以上の長さで「G線の開放弦」を演奏する曲を、ピアノと一緒に演奏するのであれば、予め調弦の段階で、ピアノの「G」に合わせておくべきです。オーケストラと一緒に演奏するなら完全5度で調弦すべきです。

 偉そうに(笑)書き連ねましたが、実際に重音を演奏するのがへたくそな私です。もとより、絶対音感のない私が、2つの音のどちらか一方の高さを「見失う」状態になれば、両方の音が両方とも!ずれてしまうことになります。
単音で演奏している時には、その他の弦の開放弦の「共振」を聴きながら音色でピッチを判断できますが、2本の弦を演奏すると音色が変わり、その共振も変わる=少なくなるために、より正確なピッチを見つけにくくなります。
 ピアノと一緒に練習することで、少しずつ正確な「和音」に近付けるように、頑張って練習しましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴くのが好きなヴァイオリン曲

 映像は、アンアキコ=マイヤーズが演奏するラヴェルの「ツィガーヌ」です。
多くのソリストが演奏するこの曲。学生時代は「なんのこっちゃ」と不謹慎にも興味を持てませんでした。ただ難しいだけ…のように思いこんでいたことと、自分の音楽の引き出しが少なかったことが原因です。

 人によって好きな音楽が違うように、それまでに聴いた音楽の「数」も大きく違います。数が違えば当然、音楽の「スタイル」についても聴きなじみのあるスタイルの数も変わります。それは「食べたことのある料理や食材」に似ています。カレーとハンバーグと目玉焼きしか食べずに暮らせば、それ以外の食べ物は「食べたことがない」料理です。もしも、聴いていた音楽が「モーツァルトとバッハだけ」だとしたら?おそらくそんな人はいないと思いますが、少なくともツィガーヌを初めて聴く人の中には「なんかよくわからない音楽だなぁ」と感じる人がいても不思議ではありません。それが何故なのか?を説明するためには、ツィガーヌと、その人の聴いたことのある音楽との「違い」を説明する必要があります。その専門的な知識や説明より大切なことは、音楽にも料理のように「幅」があることを知ってもらう事だと思います。
 聴きなじみのない「様式」の音楽に違和感があるのは当たり前のことです。
実際、私は現代音楽と呼ばれる音楽の中で、未だに違和感のあるものがたくさんあります。その現代音楽が好きな人もいるのです。

 さて、私もヴァイオリン弾きの一人として、このツィガーヌを「演奏したいか?」と聞かれたら、迷わず「いいえ」と答えるでしょう笑。聴くのは大好きなのに、なぜ?
・自分の演奏技術に足りない技術が多用されていること。
・自分が演奏する「イメージ」が全然わいてこないこと。
・演奏することに必死になっている演奏を聴きたくないこと。
一言で言えば「逃げ」です。素直に認めます。演奏技術に「定年」も「期限」もありません。61歳の私が今日から練習して、身に着けられる技術が必ずあります。挑戦する「意欲」が不足していることが何より「ダメ」です。
強いて言い訳をひとつ増やすと「楽譜を覚えるためにかかる時間と労力が恐ろしい」2小節ずつ?画面に映し出して記憶してから楽器を持つ「暗譜方法」の今、この曲、いったい何ページ?と思うと逃げ出したくなります。でも、ただの言い訳です。すみません。

 生徒さんたちから、新しい曲の楽譜を見て「むずかしそう!」と言う悲鳴に似た言葉を聞きます。つい、「大丈夫!ほら、こことここは、こうやって練習すれば…」と元気づけるつもり言ってしまいますが、本人にしたら巨大な壁が立ちはだかっている気持ちですよね。子供の場合には、「むり(泣)できない(泣)」楽器が涙で濡れます。その生徒さんたちの「挑戦する心」に敬意を持ち続けたいと思います。
 自分ができるから、生徒もできると思い込むのは、指導者として最悪です。
一方で、自分が出来るようになった「道」を生徒に教えてあげることと、その道以外の道も教えてあげられることは、何よりも必要な指導技術です。
「なんで、そんな簡単なことができないの?」は最悪です。
同じシチュエーションで
「そこ、どう?むずかしいの?」と聞いて生徒に考えさせるのは良いことです。
生徒の「むずかしい」を解決する「答え」を持っていない人、あるいは難しいと思う生徒を教えたくない人は、生徒を指導する資質に欠けていると思います。
 自分ができない理由を、一番知らないのが、自分自身です。
死ぬまでに笑、ツィガーヌをひけたらいいなぁと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

平和と音楽と政治

 映像は中学生・高校生のオーケストラが演奏する「イムジン河」: 임진강(イムジンガン)です。北朝鮮で作られた楽曲です。1968年にフォーク・クルセダーズ版、日本語訳の歌としてカバーされましたが、当時「作詞作曲者不明」としていたことへの抗議もあり、発売は見送られました。確かに原曲を作った人が判明している以上、その人の名前を出すことを求めるのは間違っていないとも感じます。

 私個人の考えですが、地球上のすべての人類は、間違いなく同じ「種」の生き物であり、どんな理由があっても戦争と言う名の「殺し合い」は許せません。
「戦争は仕方がない」と言う考え方を、完全に否定します。
「許せないと言うのなら、お前が止めに行け」と言う論理もそもそも成り立っていません。「起こさない」事が先決なのです。戦争を起こしてしまった「人」や「集団」に対しての怒りは、「戦争を起こした責任」を問うべきです。
「きれいごと」ではありません。現実にどんなに完璧な法律があっても、破る人がいるのは事実です。交通法規を含め、すべての日本人が全員、すべての法律を守って暮らしている日は、法律が作られてから今日までに、一日もないはずです。それも事実です。その法律を犯した人が「罰」を受けるのも「法律」があるからできるのです。わかりますよね?「法を作っても破る人がいるから無意味だ!」と叫ぶ人の論理が間違っているのは、「法を破る人を裁くのも法」だという事を、意図的に「考えない」からです。
 戦争を起こすことは、国際法で「禁止」されているのにそれを破って、戦争を起こした人は「法で裁かれ、罪を償う」のが人類の知恵なのです。
 ぶたれたから、ぶちかえす。
 盗られたから、盗り返す。
それは幼稚園児の発想です。知恵のある人間は、それを許さない「決まり」を作り、破ったら「罰を受ける」決まりを作ることで、「決まりを守る」ことを考えます。殺人を犯した人が、自分の命で償うことを「悪い」と言う人がいます。
日本の法律が「重すぎる」と言う考え方の人です。
海外の法律で「終身刑」のある国もあります。日本にはありません。また、終身刑があっても、実際には20年ほどで「釈放」される法律がある国もあります。
日本で「二番目に重たい刑罰」は「無期懲役」ですが、実際にはいつか釈放されます。それを遺族が許せないと言う感情も、理解すべきです。
つまり「法」の中で「罰」の内容によって、犯罪者の数が変わることは、残念ですが事実なのです。
もしも、スピード違反20キロを超えたら「終身刑」と言う法律が出来たら、おそらく20キロを超えるスピード違反は激減します。それでも、破る人はきっといます。でも、間違いなくスピード違反で命を落とす人は減るのです。

 政治の役割は「法」を作ることです。そして、その法律を破った人を裁き、罰を与えることも政治の役割です。
 今の日本の政治家で、法を守らない人間が、毎日のように報道されています。
最低最悪な政治家は、「法の解釈」と言う逃げ道で自分に都合の良い法律を作ります。法を破っても、自分だけを無罪にする「法律」を作ってしまえば、その政治家は何をしても…人を殺しても、なんの罪にも問われない「法」を作れてしまいます。

 平和は人間が作るものです。正確に言えば、人間の「英知」で作り守るものです。知恵が人類を、地球上の生物を「存続」させてきました。今日までは。
 愚かな人間、異常な考えの人間はいつの時代にもいます。今もいます。
その人を「無力」にできるのも、人間の知恵です。
 人間以外の生物は、「無用な殺生」はしませんよね?
自分が生きるために必要な最低限の「他の命」で自分の命を守っています。
人間が「優れている」と威張る前に、虫たちに教えを乞うべきです。

 音楽も人類の「知恵」が生み出したものです。楽器を作る知恵も、楽譜を書く知恵も、人類だけが持っています。
私たちが音楽を演奏し、聴くことができるのは「平和」だからです。
平和を壊すのは誰ですか?「人間」ですよね?天災から命を守る知恵を持っている人類が、自らの命を無意味に消しあう姿から「音楽」は想像できません。
「悪知恵」と言う嫌な言葉があります。現代日本の与党政治家たちの「特技」ですね(笑)悪知恵に負けない「良い知恵」を持っている人は、たくさんいるはずです。
 音楽家って悪知恵が働かない=使えない生き物の代表格に思います。違います?もう少し、ずる賢く・あくどく知恵を働かせれば、もっとお金も稼げるのに。馬鹿正直だったり、クソ真面目だったり。「音楽バカ」だったり。
でも「平和」がなければ、音楽は演奏できないのですから、本当に音楽が好きな人は「戦争」を起こさせない、起こした人を許さないと言う「知恵」は持つべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽に救われる人間

 映像の音楽は、ヘンデル作曲「オンブラマイフ」をヴィオラとピアノで私と浩子さんが演奏したものです。音楽を演奏したり、聴いたりすることが好きな人は、時に音楽に救われる気がするものです。私だけかもしれませんが…。
 楽器を演奏しているときに、音楽の事だけを考えられる人を「音楽が好きな人」と言います。音楽を聴いているときに、聴こえてくる「音」に身を任せられる人も「音楽を好きな人」だと思います。
 好きなことに没頭できる人は、とても幸福な人だと思います。
ただ、それを「幸福」と感じないまま過ごしていることも珍しくありません。当たり前のことになっているから感じられない「健康」と同じです。
 「音楽が中心」の生活は単純に時間とお金の問題だけではないと思っています。音楽に関わる仕事をしているから「音楽が中心」の人生?とは限りません。一日の大半を家事や仕事、育児に費やす日々が続いたとしても「いつかきっとまた!」と思い続ける人は「音楽が中心」の生き方だと思います。
 生活の為に、音楽から遠ざかる「時間」が、ある人の方が多いのではないでしょうか。その時間に自分を失わないでいることは、口で言うほど簡単ではありません。その生活に「我慢」できなくなった時、改めて音楽に向き合えるうれしさを感じます。

 たかが音楽ですがが、音楽が好きな人にとって、音楽以外のことは…
「たかが」よりさらに「どーでもいいい」ことなのかも知れません。
・他人との関係
・仕事場のストレス
・お金のこと
・暮らしの事
・病気の事
いっぱいありますよ(笑)
音楽を大切にできることは、音楽を好きな人にしかできないことです。

 アマチュアもプロも関係ありません。
音楽が好きだという気持ちこそ「音楽家の証」だと思います。
音楽家である必要もありません。音楽が好きな気持ちがあれば。
「好き」と言う感情に勝るものはありません。
自分を救ってくれるのも音楽です。
形もない、目に見えない、触れられないのが音楽です。
その人にしか感じられないのが音楽です。
自分の音楽は、自分自身の感情だと思います。
いつまでも大切にしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介





音楽の「すそ野」を広げるのも音楽家

 映像は、メリーオーケストラのリハーサル風景です。
音楽はどんな人でも公平に得られる「楽しみ」です。ハードロックでもジャズでも演歌でもクラシックでも、音楽であることは変わりません。人それぞれに、好きな音楽があって当たり前です。音楽に関心のない人がたくさんいるのも、当たり前です。音楽が「つまらない」と思う人もいます。その理由も様々です。
 音楽を演奏して楽しむ人が、聴いてくれる人も楽しんでもらえたら、演奏する楽しさは何倍にも大きくなります。聴いてくれる人が減っていけば、いずれ演奏する人も減り続けていきます。
 クラシック音楽の演奏技術を学ぶ人にとって、目指すのは「一流の演奏家」です。少なくても「三流の演奏家」「へたくそ」と呼ばれたくて学ぶ人はいないのでは?と思います。演奏技術を高め、競争に勝ち抜き、演奏家としての「名誉と地位」を得た人が「一流の演奏家」なのでしょうか?

 演奏技術に「序列」を付けたがる人もいます。その人が思うだけなら、何も問題はありません。厳密には「○○さんが一番うまいと私は思う」と言うだけのことです。それを言葉や文字にするのも、その人の自由です。
 うまい・へたと感じるのは「個人の感性」であり、音楽を聴いて楽しいと思えるか?つまらないと思うか?も「個人の感性」です。先に述べたように、音楽は本来「楽しい」と感じられるもののはずです。技術を競い合うための物ではありません。どんなに演奏技術を高めたとしても、聴いてくれる人が「楽しそう」と思わなければ聞いてもらえないのです。

 音楽を聴くこと、演奏することに興味や関心のない人の方が多いのです。特にクラシックの演奏会、オーケストラの演奏会に行ったことのない人の方が、圧倒的に多いのが現実です。その現実を少しでも変えていくことが「音楽のすそ野を広げる」ことだと信じています。
 音楽を聴くことが楽しいと思ってもらえるために、何ができるでしょうか?
演奏会に「行ってみようかな?」と思えるコンサートを作ることです。
休日の昼間に、入場無料で子供連れでも赤ちゃんと一緒でも聴けるコンサート。
曲目の中に「タイトルを聴いたことがある」曲や「知っている」曲を含めること。
クラシックを知らなくても楽しめる「雰囲気」を感じられるプログラムにする。
これらを具現化したのが、メリーオーケストラの演奏会です。
 実施するために必要な「お金」を演奏するアマチュアメンバーの会費と演奏会参加費、さらに活動に賛同してくださる「賛助会員」からの賛助会費で賄っています。プロの演奏家には「交通費」しか支払えません。それが現実です。それでも毎回、多くのプロの演奏家が参加してくれています。
 彼らの協力がなければ、この活動は維持できません。アマチュアメンバーだけでも演奏会は開けますが、聴いてくださる人への「インパクト」がまったく違います。それこそが「演奏技術」なのです。アマチュアにはできない演奏をプロが出来るのです。その演奏を聴いた人が「楽しい」と思ってくれれば、プロの演奏会にも「行ってみようかな?」と思ってくれる信じています。
 演奏技術が高くても、演奏する場がなければ「宝の持ち腐れ」です。
未来の演奏会に、一人でも多くのお客様が聴きに行ってもらえるための活動を、誰かがしなければと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽大学は生き残れるのか?

 映像は、メリーオーケストラの演奏した「仮面舞踏会よりワルツ」です。
趣味で楽器を演奏する人と、音楽家を目指す音大生、さらに音楽大学を卒業したプロの演奏家が同じステージで音楽を楽しみ、お客様にも気軽にオーケストラの演奏を楽しんで頂いています。この空間に「プロ」「趣味」の垣根はありません。音楽は誰にとっても楽しいことを、その場の人たちが共有します

 さて、今回のテーマは以前にも少し触れた「音楽大学」についてです。
 不景気が25年間続く日本、さらにその影響で少子化がますます加速しています。そこに、コロナでさらに景気が落ち込み、ダメ押しでロシアが戦争を起こし原油や小麦の価格が激高し、一般家庭は生活苦に陥っています。
 その日本で、大学に通うための学費を「出世払い」と言う詐欺師まがいの言葉で学生に借金を負わせています。
 そんな社会情勢で、音楽大学は存続できるのでしょうか?
すでに新規学生を募集していない音楽大学も出ています。
これから、いったい幾つの音楽大学が消えていくのでしょうか?どこの音楽大学が生き残れるのでしょうか?推察します。

 学費の安さだけで考えれば、国公立大学は有利です。
もし、学費の安さだけが音楽大学の勝ちだとしたら、私立の音楽大学の高い学費でも受験し、通う学生がいることの説明がつきません。確かに、国公立大学に合格できずに「仕方なく」私立の音大に通う学生もいるのは事実です。ただ、実際には祖霊ガニの「魅力」があって私立を選ぶ「未来の音楽家」がいるのも事実です。
 音大の学費以来の「価値=魅力」はなんでしょか?

「社会が求める音楽を育てられる指導能力」に尽きろと思います。
特に大学で学生を指導する「教員」は本来、高校教員と違い「学問」を享受できる能力がなければなりません。大学を卒業して得られる学位である「学士」は単に4年間なにかを学んだというものとは違う意味を持っているはずです。
もし、大学が高校と同等の教育しかできないのであれば、それは高等専門学校「高専」です。今の音楽大学は事実上の「高専」以下の指導レベルでも「大学」と名乗っている気がします。
「学部」は何のために付けられた名称なのか?音楽学部は何を研究する場所なのか?音楽大学の必履修単位・必修得単位に音楽と無縁の科目が多すぎることに、いつ?誰が?気付くのでしょうか。

 職業として音楽を考えることさえ出来ない音大に、学生が通うはずがありません。卒業して「音楽家」になれないのは「本人=学生の力量」だから仕方ないで済ませている大学が生き残れるとは思えません。音楽家として必要な技術、能力、知識を身に着けさせることが大学の役割でなければ、ほかに何を?教えるのでしょうか。
 音大で指導している方が、演奏家・音楽家としての「技量や評価」がどうのこうのという、表面的な価値観の話ではなりません。指導者としての「資質」です。そしてそれを第一に据えた「大学経営」をする経営者が絶対に必要です。
 もとより、音楽で生計を立てることはとても難しいことです。音大を卒業して、一般大学を出た人と同じ程度の知識・技量で飯が食える…と思わせる方が間違っています。趣味で音楽を楽しむ人とは違う「技術・能力・知識」を持てなければ、音楽大学に通う意味・価値はまったくありません。
 

「レベルを上げると学生が集まらない」と言う音楽大学は、なくて構わないのです。消えて当たり前です。存在する意義がないのですから。
音楽大学のレベルは、指導者の「質」がすべてです。そしてその指導者と経営者が同じ方向を見ていない音楽大学は、遅かれ早かれ消えるでしょう。
指導者が「経営者が悪い」と言い、経営者が「指導者が悪い」と言い争う大学で、学生が音楽を学べるはずがありません。
 最期に、これからの社会が求める音楽家について書きます。
「コンクールで優勝した人」ではありません。
「音楽バカ」でもありません。
「迎合する芸人」でもありません。
音楽を知らない人が魅力を感じられる「人」であり、社会に溶け込める「人」ではないでしょうか?その人の造り出す音楽で、音楽を知らない人を幸せにできる音楽家ではないでしょうか?
 音楽は生活のエッセンスです。音楽がなくても生活はできます。音楽が加わることで、生活に潤い、ゆとり、安らぎ、リフレッシュ、笑顔が生まれる存在だと思います。クラシック音楽だから「崇高」だと勘違いするマニアは今後も生き残ると思いますが、そのごく少数の人に音楽家を支えるだけのお金もエネルギーも期待できません。高齢者でも子供でも、音楽は楽しめます。体力がなくても、病院で寝たきりになっても音楽は楽しめます。コンサートホールだけが、音楽を楽しむ場所ではないのです。
 もっと音楽を広い視野で考えるべきだと思っています。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

はじめてのボレロ

 映像は、NHK交響楽団が演奏するラヴェル作曲の「ボレロ」
これまで、なんちゃって指揮者として150名の部活オケ、神奈川県合同高校オーケストラ、清泉女子大学オーケストラ、信州大学オーケストラ、そしてメリーオーケストラで、多くの音楽と出会い、指揮をしてきました。
 そんな経験の中で、どうしても手を出せなかったのが、この「ボレロ」です。
考えてみると、それほど大きな理由はなかったはずなのに、なぜか?今日まで演奏の機会もなく、もちろん指揮も初めてです。
 ひたすら、同じテンポの3拍子。「幼稚園児でもふれるべ?」と思われそうです。スネアドラム=小太鼓が居れば、指揮者がいなくても最初から最後まで演奏できる曲ではあります。ではなぜ?

 特殊な楽器が編成に含まれているから…と言うのが「表向き」の理由でした。
通常、オーケストラで使われることの多い管楽器に加え、バスクラリネット・ピッコロ=Esクラリネット、バスファゴット・サキソフォーンなどに加え、独特の金属音が演奏できるチェレスタ、さらにハープ。演奏者がいなくても、楽器がなくても完全にオリジナル楽譜での演奏は不可能です。
 それよりも大きな一番の理由は、「私が最も好きな曲の一つだから」なのでした。私の中で「ラヴェル」は「オーケストレーション=アレンジの神様」だと勝手に思っています。ボレロに限らず、彼の書くオーケストラ楽譜には、他の作曲家にない「魔力」を感じるのです。
・異なる楽器の組み合わせかた
・楽器ごとの個性が一番魅力的に聴こえる音域の使い方
・思い切りの良い、「楽器の「き算」=無駄をそぎ落としたアレンジ
などなど、聴いていてぞくっとする「響き」が連続します。

 来年1月15日(日)に実施する、メリーオーケストラ第42回定期演奏会で、このボレロを演奏に加えます。
 会員と賛助会員からの「会費」と「参加費」、相模原市からの助成金で、一体どこまでオリジナルに近づけられるのか?まだわかりません。先述の通り、特殊管を持っておられる演奏者に、交通費だけで演奏をお願いできるのか?と言うネックがあります。もし、無理な場合はどこかを「カット」するか、代わりの楽器で演奏するかの二つに一つです。好きなだけに「切りたくない」気持ちがあります。ですが、無い袖は振れません。
 さらにこのボレロに加え、チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番、第1楽章を演奏予定です。ソリストは同期ピアニストの落合敦氏に依頼しています。彼の体調が悪くならないことを祈りつつ。
 と、心配する前に来月8月7日の演奏会が「始まらないと!」なのです。
「終わる?じゃないの?」私は、演奏会は「始まりさえすれば満足」なのです。
舞台の仕込みが終わり、リハーサルが終わり、本ベルが鳴った時には、舞台袖で「ここまで来られたら、もう大丈夫!」と言う安堵感で、全身の力が抜けます(笑)本当の事です。準備にかける時間と労力に比べれば、本番の2時間は一瞬の出来事です。
 まずは来月!そして来年!
その前に発表会とリサイタル!
●●暇なし
自転車操業
七転び八起き
●●にクチナシ←違う気がする
の清新で頑張ります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


NPO法人理事長の悩み

 映像は、NPO法人メリーオーケストラ第40回定期演奏会の時のダイジェストです。毎年2回の定期演奏会、毎月1回の公開練習を2001年から今日まで続けています。
 当初「子供のためのメリーオーケストラ」として発足した当時、私は私立学校音楽教諭として勤務していました。その後「特定非営利活動法人=NPO法人メリーオーケストラ」としての活動を始めました。NPO法人として「定款」があり、理事会や役員、総会など細かい規定があります。理事の代表である「理事長」としての仕事と、当然のことながら「指導責任者=指揮者」としての仕事、さらには「事務業務委託先メリーミュージック」の経営者としてのお仕事を掛け持ちしています。

 多くのアマチュアオーケストラの場合、技術指導はオーケストラから「委嘱」された指導者が行い、運営に必要な事務作業は、メンバーが行います。メンバーの中に「指揮者」がいる場合もあります。
 メリーオーケストラの場合、なぜ?私が「掛け持ち」しているのかと不思議に思われる方も多いと思います。
 一番大きな理由は「メンバー=会員の居住地域と年齢が広い」ことです。
もちろん、相模原市在住の会員が多いのですが、横浜市や町田市、さらに広い地域から集まってきます。年齢も幼稚園児から高齢者まで様々です。子供の場合、成長と共に進学し環境も変わります。大人の場合でも、職業も様々、家庭内での介護などの事情も変わります。そんな中で、一番変わらないのが「理事長」である私の居住地と職業なのです。さらに、多くの賛助出演者=音楽仲間との関係は、私個人からの「ご縁」でつながっているため、会員たちにそれを理解してもらうのはとても困難です。確かに一方では「会員以外の演奏者」なので、交通費をお支払いすれば良い「だけ」とも捉えられますが、私は何よりも「ご縁=絆」を大切にしていきたいと思っています。一度でも、メリーオーケストラの演奏会にご出演いただいた仲間には「ご縁」があるのです。
 私の中学時代の先輩、その先輩からのご紹介、高校・大学時代からの友人、その友人からのご紹介、教員時代の教え子、教え子の子供たちや友人などなど…。本当に音楽の「輪」が広がって今のメリーオーケストラがあります。

 私が毎日のように行なっているメリーオーケストラ絡みの仕事を簡単に箇条書きしてみます。
・毎月の練習と年に2回の演奏会の会場抽選とその資料作成
・練習時の計画と指導スタッフへの連絡
・演奏会(夏・冬)のプログラム決定
・同、賛助出演者の連絡と確定
・同、ヴァイオリンパートの振り分けと席順の決定
・同、楽譜の印刷と配布
・同、練習ごとの弓変更ページの作成
・同、タイムテーブルの作成・舞台配置決定
・同、ホールとの打ち合わせ
・同、賛助出演者への昼食の手配
以下同が延々と続きます(笑)
 自宅でパソコンに向かう作業もあれば、駅前教室で「印刷屋」になることもあれば、指揮台に立つことも時々あります。

 ここ数日、頭を悩ませていたのが次回、第42回の定期演奏会プログラム選曲です。通常、アマチュアオーケストラの選曲は会員が主体になって行いますが、私は「独断と偏見」で一人で決めています。なぜか?それが、私の仕事だと信じているからです(笑)
 メリーオーケストラにとって、選曲は一番難しい作業です。
・毎回その時々で演奏するメンバーの技術と人数が違います。会員が演奏できるか?考えます。
・過去に演奏した曲のデータをすべて見たうえで考えます。
・お客様の立場で、どんな曲を楽しみにされているか考えます。
・賛助出演者の協力を見極めて考えます。
・少ない予算の中で、会員の負担をできるだけ少なくする選曲を考えます。
・私の指揮の能力を考えます(これ、重要)
なので、結局は私が決めるしかないと思っています。
やっと、次回来年1月の演奏曲が「ほぼ」決まりました。
楽譜をすべて「PDF=アクロバットファイル」にして、契約しているサーバーに曲ごとに「アップロード」します。さらに、楽譜ダウンロード用のページ(インターネットの)を自作します。
 実は、この作業で一番「視力」が要求されます。
浩子姫は本当によく手伝ってくれますが、私のパソコン作業を横で見ていると、必ず「なにをしているのか?まったくわかりません!」と申されます。
 少しでも「手数」を減らしたいこともあり、また個人の癖もあるので、見ていて理解するのは無理だと思います。それに、それを誰かにやってもらうための時間と労力がありません。
 私の視力は明らかに落ちています。それは受け入れています。
スコアは読めないし、パソコンの画面は拡大と「ハイコントラスト」で、なんとかしのいでいます。読み上げソフトも使いまくります。それでも、考えながらの作業なので、誰かに頼めない現実があります。
 この作業が出来なくなった時に、メリーオーケストラがどうなるのか?
私にもわかりませんし、決めていません。それも受け入れる覚悟はできています。

 毎回の演奏会が「最後のメリーオーケストラ定期演奏会」になっても、私自身が悔いを残したくないという、わがままな思いがあります。
 学校を辞めたとき、オーケストラメンバーの生徒・顧問が誰一人として、最後の演奏後に声をかけてもらえませんでした。子供たちの「憤り」は理解できました。突然「辞める」と言われたのですから。ましてや中学生・高校生の子供たちです。
最後の演奏が、神奈川県の「上菅田養護学校」でのボランティアコンサートだったのも、私の教員生活の最後として、象徴的なものでした。
 養護学校の教員で、私と同じ「網膜色素変性症」の病気を持った先生から「辞められるんですか…、悲しいです…つらいです」と涙ながらに声をかけて頂いたのが何よりもうれしい思い出でした。その先生と二人で、ボランティアコンサートの実現の為に、勤めていた学校と横浜市に頭を下げ続けました。養護学校の生徒たちが毎年、楽しみに待ってくれていました。
 私が一番、大切にしていた指揮棒を、指揮者コーナーで指揮をした、養護学校の小学生に「あげるよ」と笑顔で差し出せたのも、我ながら偉い!と今更褒めてあげます。

 メリーオーケストラが多くの人にとって「楽しみ」になったことは、私の音楽人生の中で最も誇らしく、うれしいことです。
 「始めがあれば終わりがある」ことが、人間の宿命です。
オーケストラが生き物であると信じているので、いつかメリーオーケストラにも終わりがあると思います。きちんと、幕を下ろすことも私の仕事だと思っています。
 同じ嫌な思いを、二度繰り返さないためにも。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・メリーオーケストラ理事長 野村謙介


 
 

音楽仲間

 写真は2022年7月10日(日)に撮影したものです。
最初の一枚は、NPO法人メリーオーケストラの公開練習後に撮影した写真。
下の2枚は、その後我が家で撮影した写真です。
 今回のテーマは「音楽仲間」について。

 同じ学校で苦労した友人や、同じ職場で働いた友人を「同じ釜の飯を食った仲間」という言葉で表すことがあります。学校の友人や、趣味で知り合った知人とは「一味違う」仲間です。
 音楽を一緒に練習したり、人前で演奏するための準備をした仲間は、私にとって他のどんな友人とも違う「親しみ」を感じます。
 20年間、同じ職場で働いた「同僚」の中で、一人として今交流がない現実を考えると、あの「学校」と言う場で同じ教員だった人間とは、なにも関りがなかったのに等しい関係だったことを改めて面白く感じます。私が拒絶していたのかもしれません。退職してから一度として、学校からのはがき一枚も来ませんし、教員からの年賀状も退職して18年間で「数枚」と言う恐ろしい事実!まさに、佐多氏がそこに居たことを否定しようとする人たちなのです。私もそれで構いません(笑)ですから、教員時代の「仲間」は一人もいません。

 写真に写っている音楽仲間。ちなみに私の妻も「音楽仲間」の一人です。
中学時代に同じクラブ活動で演奏した音楽仲間と、未だに交友として毎年のように私のリサイタルに来てくれたり、メリーオーケストラ出演などでお付き合いしてもらっています。かれこれ、50年近い交友関係です。
 音楽高校、音楽大学時代の友人や先輩・後輩、職員の方とも未だに親しくしてもらっています。音楽を学ぶ学校ですから、当時の友人たちは「音楽家」になるために勉強していた「学友」であり「ライバル」でもありました。なによりも、音楽という共通の「言語・行動・感動・空間」を共有した不思議な連帯感を感じます。

 音楽に限ったことではないと思いますが、自分以外の人間と、好き嫌いを通り越す「付き合い」ができる関係を持てるのは、とても貴重なことです。
 しかも「我慢」して働いたり、団体の一員=部品の一つとして何かをする「人たち」とは、共感しあえるものはありません。「酒」と「愚痴」だけが共感しあえる関係は「友人」とは言えません。「飲み仲間」と言う仲間がありますが、これは「酒を飲む趣味を共有する仲間」で、職場の愚痴を酒の力で吐き出す「吐き出し口」とは違うと思います。

 上の3枚の写真すべてに映っているのが、高校時代「隣のクラス」だったフルート奏者、I君です。高校卒業後、彼はディプロマコースに進み私は大学に進みましたが、卒業後1度、同窓会で顔を合わせて以来、5月にメリーオーケストラ指導に力を貸してくれるまでの40年ほど、対面することはありませんでした。
 彼は、留学後に日本を代表するプロオーケストラの首席奏者として、長年演奏活動を続けてきました。数年前に退団し、現在は音楽大学や音楽教室で後進の指導をしています。高校時代、同じソルフェージュのクラスだったり、学年11名の男子(女子が89名)の体育の授業の思い出だったり…。
 何よりも、高校卒業してから今日までに、本当に色々な体験をしてきたことを、お互いに語りお互いの話に共感し、60歳を過ぎても昔のままの「関係」があることがとても嬉しいのです。
 音楽を「指導する」立場になった私たちが、今でも「音楽」でつながっていられるのは、ずっと音楽に関わってきたからです。私は20年間、楽器の演奏から離れましたが、その後再び音楽を中心にした生き方に戻れたのも、中学・高校・大学時代の「音楽仲間」がいたからだと思えるのです。
 一人で粋がって(笑)生きるのもその人の自由ですが、仲間と笑って話せることが私には「宝物」です。いつまでも、彼らとの関係を保っていられることを祈りつつ…
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ビブラートとボウイングの個性

 映像は、アンアキコ=マイヤーズの演奏する、エンニオ=モリコーネ作曲「シネマパラダイスより愛のテーマ」です。
 ドイツ人の父と日本人の母を持つアンアキコ=マイヤーズ。
多くのCDがありますが、私は「ボウイングの美しさ」と「ビブラートの柔らかさと深さ」に大きな魅力を感じています。
 演奏家にとって「個性」は演奏技術の高さと同等以上に大切なものだと思っています。ヴァイオリニストの個性は、どんな要素が考えられるのでしょうか>
 音楽の解釈という点で言えば、どんな楽器の演奏者にも共通の「個性」があります。テンポや音の大きさに対する好みでもあります。
 さらに詳細な点で考えると、楽器による違いがありますが、これは演奏者の個性とは言えないと思います。ちなみに彼女は、グヮルネリ=デルジェスの楽器を終身貸与されているそうです。彼女以前には、パールマンやメニューインも使っていた楽器だそうです。楽器の個性を引き出し、演奏者の好みの音色と音量で演奏する技術がなければ、どんな楽器を演奏しても変わりませんから、演奏者の個性だと言えないこともないですね。ただ、どんな楽器を演奏できるか?は演奏者の個性とは無関係です。

 まず第一に「ボウイング=弓の使い方」の個性があります。
楽器の弦を馬のしっぽの毛で擦るだけの「運動」ではありません。弓の使い方にこそ、演奏者の個性があります。つまり「うまい・へた」ではなく、まさしくヴァイオリニストの「声」を決定づけるのが、弓の使い方です。
音量と音色を変化させる技術を、単純に考えると
「弓を弦に押し付ける圧力」
「弓と弦の速度」
「弓を当てる弦の位置」
「弓の毛の量=倒し方」
「弓に対する圧力の方向と力の分配」
「演奏する弓の場所」
になります。たくさんありますね(笑)
まず右手の5本の指それぞれに役割を持たせることが必要です。
親指の位置、柔らかさと強さ、さらに力の角度も重要です。
人差し指の位置と場所によって、親指との「反作用」が大きく変わります。
さらに圧力の方向を、弦に対して直角にする力と駒方向に引き寄せる力の割合がとても大切です。一般に弓の「圧力」は弦に対して直角方向の力だけと思われがちですが、実際には弓の毛と弦の摩擦を利用して「駒方向への力」も必要です。
 弓を倒した状態で単純に弦に直角方向だけの力を加えれば、すぐにスティックと弦が当たってしまい雑音が出ます。しかし、倒した状態で、駒方向に引き寄せる力に分配することで、より強い摩擦を弦と弓の毛に生じさせることが可能になります。
 アンアキコ=マイヤーズが演奏中の弓を見ると、かなり倒れた状態で演奏しているのがわかります。それでも、太く柔らかいフォルテが出せるのは、彼女の「力の配分」が非常に巧妙だからだと思います。
 人差し指以外の中指・薬指・小指が、弓の細かい振動やバウンドを吸収できなければ、弦と弓の毛、スティックの「勝手な動き」をコントロールできません。
 手首、前腕、肘関節、上腕、肩関節、背中と首の筋肉が「連動」しなければ、ただ大きい、ただ小さいだけの音しか出せず、さらに「弦に弓の毛が吸い付いた音」は出せません。上記の要素をすべてコントロールするテクニックがあって、初めて「自分の好きな演奏=個性」が引き出されます。

 次に、ビブラートの個性です。
一般にヴァイオリニストのビブラートは、「あっている音=正しいピッチから低い方に向かって、滑らかに連続的に変化させる」という概念があります。
 以前のブログでも書きましたが、やたらと「細かいー速い」ビブラートで演奏するヴァイオリニストが多く、私は正直好きではありません。確かに「派手・目立つ」のは「高速ビブラート」ですが(笑)
 では遅ければ良いのか?と言うとそれも違います。アマチュアヴァイオリニストのビブラートは「うわんうわん」「よいよいよいよい」と言う表現ができる遅さで、さらに不安定です。「下がって止まる⇔上がって止まる」の繰り返し=階段状の変化もビブラートとしては「未完成」です。
 変化の量=ビブラートの深さも個性です。
演奏する場所=音によって変わりますが、いつも同じ深さのビブラートしかかけられないヴァイオリニストを多く見受けます。また、深く速いビブラートを連続するためには何よりも、手首と指の関節が「柔軟」で「可動範囲が大きい」ことが求められます。下の動画はアンアキコ=マイヤーズの演奏する、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトです。ビブラートの多彩さと柔らかさ、さらに手釘と指の動きが如何に滑らかかよくわかります。

 ヴァイオリニストの個性は、単にうまい?へた?と言う比較では表せません。
むしろ聴く人の「好み」が分かれるのが個性です。
 アマチュアヴァイオリニストでも、プロのヴァイオリニストでもいえることは、自分の演奏にこだわりを持つことと、常に自分の演奏の課題を修正する「努力」を続けることだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「引き出し」

 映像は、ピアソラの単語の歴史より「カフェ・ナイトクラブ」
タンゴに限らず、日本人には馴染みのない「海外の音楽」はたくさんあります。
ウインナーワルツも私たちが感じる「リズム感」は恐らく形だけのものです。
だからと言って、日本の「民謡」だけを演奏するわけにはいきませんよね。
 演奏する人にとって、技術や知識の一つ一つは「引き出し」だと思います。
その引き出しの数と中身が多いほど、演奏者の「ボキャブラリー=語彙」が増えるように感じます。

 一曲を演奏する時に、必要な引き出しはたくさんあります。
ヴァイオリンの場合、技術の引き出しは「右手」「左手」「身体の使い方」の分類があり、さらに「指」「手首」「関節」「筋肉」「力」「呼吸」などに細かく分かれます。それぞれにさらに細かい「仕分け」があります。
 また知識の引き出しは、「作曲家」「時代」「国や地域」「民族性」「音楽の理論」などの分類があります。さらに演奏しようとする曲と似ている音楽をどれだけ知っているかと言う「演奏した曲=レパートリー」の引き出しも必要です。
 演奏の仕方を考えるうえで、他の演奏家の演奏を知っていることも、大切な引き出しです。
 自分の演奏方法、たとえば音色の「引き出し」が一つしかなければ、どんな音楽を演奏しても、同じ音色の「べた塗り」にしかなりません。まさに「色」の種類の多さです。

 感情の引き出しも必要です。「喜怒哀楽」と言う4つの大きな引き出しの他に、怒りを感じる悲しさ、微妙な嬉しさなど、複雑な感情の引き出しがあります。音の大きさが無段階であるように、感情にも複雑で繊細な違いがあります。
 一つの音を演奏する間にも、音色・音量は変えられます。言葉にするなら「単語」にあたる音楽の「かたまり」を見つけられる技術の「引き出し」も必要です。
 人間をコンピューターに例えることは無謀なことですが、人間の記憶という面で考えれば、コンピューターにも同じ「記憶メディア・記憶容量」と言う考え方があります。
 また瞬間的に考えたり反応する速度は、コンピューターの世界では「処理速度」で表され、その速度が速いほど複雑な計算を短時間で処理できます。
 人間が手足を動かす「命令」を脳が出すことを、ロボットに置き換えると、なによりも「手足」にあたる「機械=アスチュエーターの性能がまず問題です。
そして、脳にあたる「CPU=中央演算装置」から部品に電気信号が送られます。
 速く演奏することは人間にとって難しいことですが、機械にとっては一番簡単なことの一つです。一方で、人間が無意識に行っている「なんとなく」と言う事こそが、コンピューターにとって最大の壁になります。多くの情報を基に、過去の失敗や成功の結果を「記憶」から検索し、最も良いと思われる「一つの方法」を見つけるためには、私たちが使っているような「パソコン」では不可能なのです。
 ご存知のように、将棋やチェスの「コンピューターと人間の対決」で、この頃はコンピューターが勝つことが増えてきました。これは膨大な「過去のデータ=引き出し」をものすごい速度で検索し、最善の手をコンピューターが選べるようになったからに他なりません。
 音楽をコンピューターが「選んで」演奏する時代が来るかもしれません。
感情と言う部分さえ、データ化されている時代です。「こんな音色と大きさで、こんな旋律・和声を演奏すると人間は悲しく感じる」という引き出しを、いくらでも記憶できるのがコンピューターです。しかも一度入力=記憶したデータは、人間と違いいつでも、最速の時間で呼び戻されます。
 人間の人間らしい演奏。その人にしかできない演奏。それこそが、最も大切な「引き出し」です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシックコンサートに演出は必要か?

 映像は、私の大好きなヴァイオリニスト「アンアキコ・マイヤーズ」」の演奏です。優しい音色なのに力強さを感じ、ビブラートの柔らかさにも惹かれます。
 さて、今回のテーマは「クラシックコンサートの演出」についてです。
 ポップスのライブでは演奏するアーティストの「動き」や曲間の「トーク」にもクラシックと違うこだわりが感じられます。また、舞台の照明、音響効果もクラシックとは大きく違います。もちろん、聴衆の聴き方=楽しみ方も違います。期待するものの違います。「どちらが良い」と言う比較ではありません。むしろ、クラシックのコンサートに「演出」は無くても良いのか?と言うお話です。

 「クラシックは演奏だけ聴ければ良い」と決めつけるのは簡単ですが、必ずしもそうではありません。
・プログラムが演奏前に配られる。
・演奏開始の前にベルやアナウンスがある。
・演奏が始まると客席の照明が暗くなり、舞台の照明が明るくなる。
・演奏者が出てくると、拍手が起こる。
・曲がどこで終わっているのか?わからなくても誰かが拍手してくれる。
・演奏中は、客席でじっと動かず、音をたてない。
・前半が終わると、演奏者が舞台から舞台袖に下がる際に拍手する。
・休憩になると照明が開演前の状態に戻る。
後半がお合わると、なぜか?演奏者は袖に下がるが、必ずアンコールがあることを聴衆が知っているにもかかわらず、何度も袖に下がる。
・アンコールがもうないことを、照明が戻ることで知らせる。
 もちろん、多少の違いはありますが、クラシックコンサートの多くは、およそ上記の「進行」です。これ、誰が決めたんでしょうね?なぜ?右に倣え!みたいに同じなんでしょう?違ってもいいのではないでしょうか?

 見る人、聴く人を引き付ける技は、演奏の姿と音にも含まれています。
「大道芸」「手品」など、人を驚かせたり笑わせたりする「芸=技」を極めた人たちは、ただ単に技を見せるだけではなく、言葉や音や動きを組み合わせてみている人を魅了します。舞台芸術は当然、演ずる人と裏方で舞台を支える人たちの「技=術」で人をひきつけます。落語や漫才も、歌舞伎や文楽もそうですね。
オペラやミュージカルは、まさに音楽と演技・演出の総合芸術です。

 クラシック音楽の中で、もっとも大きな編成のオーケストラから、無伴奏やピアノ独奏など「ひとり」だけで演奏するものまで、演奏形態は様々です。
 言うまでもなく「音楽を聴く」ことが主ですが、多くの場合客席からは「演奏者を見て楽しむ」一面もあります。演奏する人の「衣装」や「動き」演奏者が近ければ「表情」まで観客の興味は及びます。
 クラシック音楽で演奏者と聴衆の「衣装」は、時代や場所で変わります。
社交場としての意味のあった時代、ヨーロッパでは会場で演奏を聴く人にも「ドレスコード」がありました。男性はタキシード、燕尾服。女性はロングドレス。
当然演奏する人にも「礼装」が求められました。
 現代のクラシックコンサートを見ると、ソリストが形式にとらわれず自由な衣装で、演奏のしやすさも重視したものに変わりつつあります。それを良しとしない人もいるのも理解できます。
 音の面で考えても、音響装置=PAを使ったクラシックコンサートもあります。
屋外に巨大なテント=屋根と舞台を作って演奏するオーケストラコンサートもあります。また、屋内の会場でも広すぎたり、客席の後方で音が聞こえない場合などにも、補助的に音響=拡声装置を使うことも珍しくありません。
ヴァイオリニストがワイヤレスのピンマイクを衣装に「仕込んで」演奏することもあります。見た目には収音用のマイクがなくても、会場内のスピーカーから楽器の音が聞こえる時には、どこかにマイクがあって音が増幅されていることになります。
 照明で考えると、舞台全体を明るく照らす照明もあれば、演奏者の周辺だけを明るくする「エリア照明」も普通になりました。考えればその昔、クラシックの演奏会で「スポットライト」自体がなかった時代から続いている音楽です。
 クラシックのコンサートで「スモーク」や「ストロボ」を使うことは「まだ」ありませんが、そのうちに当たり前になるかも知れませんね。現実に、舞台上の巨大なスクリーンにプロジェクターで作曲家やソリストの画像、映像を映し出すコンサートは実施されています。

 演奏者の「音楽」を邪魔しない演出が大前提です。
ましてや、音楽より「表情=演技」「衣装=露出度」になれば、それは「コンサート」ではなく「ショー」もしくは「見世物」だとしか思えません。
自分が好きな衣装を身に着けて演奏する「演奏家」はあり得ても、「演奏より見た目」を重視するのは、演奏家ではなく「芸人」です。
 以前にも書いた「ヴァイオリンをひける芸人」は、演奏家ではなくあくまでも「芸人」です。
コンサートの演出も、音楽を気持ちよく聴くことを目的にした演出があって良いと思います。演奏時間、間のとり方、休憩時間のくつろぎ、適切な音響と照明などは、演奏者とスタッフの共同作業がなければ成り立ちません。
 最後に「撮影・録音」のために必要なセッティングは、客席で音楽を聴いている人が不快に感じないようにするのが鉄則だと思います。カメラもマイクも録画・録音には無くてはならない機器です。目的が何であっても、お客様側も演奏者側もお互いに「理解しあえるセッティング」が大切です。録音用のマイクを客席の身だたない場所に設置したのに、「邪魔だ!」とばかりに足で動かす来場者は、明らかにマナーに反しています。そんな権利はありません。
演奏者も来場者も「音楽を共感する」空間がコンサートだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

性格と音楽

 映像はメリーミュージック駅前教室で行った「ワンコインコンサート」で演奏した、カッチーニ作曲のアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏しています。
 さて、今回のテーマは人それぞれに違う「性格」と音楽の関りについて。
自分の性格が「どんな?」と考えたこと、ありますか?
他人の性格は、行動や表情、言動から感じるものです。その本人が感じている本人の性格とは違う場合もあります。一緒にいる時間が長い人ほど、その人の性格を感じる場面があります。家族や同じ職場の人、友人など。
 自分の感じる自分の性格は、他人と比較しない限り「普通」に感じているものです。たとえば、待ち合わせの時間に「5分」遅れることが、許せない人もいれば、そのくらいなら…と思う人もいます。「え?5分ぐらい仕方ないでしょ?」と思う人は、5分でも送れるのが嫌な人と自分の違いを初めて感じます。
 性格を表す時に使われる「分類」
1.ポジティブ(楽観的)⇔ネガティブ’(悲観的)
2.のん気⇔短期
3.おおざっぱ⇔几帳面
4.外交的⇔内向的
5.行動派⇔慎重派
6.積極的⇔消極的
7.寛容⇔厳格
8.強気⇔弱気
などなど、ほかにも考えられますが色々な「性格の違い」があります。
 上記の中で、いくつかを組み合わせるともっと性格がはっきりします。
試しに、左側だけを並べると以下のような「人」になります。
ポジティブでのん気、おおざっぱで外交的、行動派で積極的で強気
なんとなく、「元気で明るい人」に感じますね。
逆に右側だけ選んで並べると…
悲観的で短気で几帳面、内向的で慎重派、消極的で厳格で弱気
この人「ネクラで付き合いにくい人」に感じませんか?
(笑)

 では、性格と音楽はどんな関係があるでしょうか?
まず「練習」の段階で性格によって、何が違うでしょう。
自分の演奏に「こだわり」が強い人は、恐らく「几帳面」で「厳格」なタイプではないですか?その上に「悲観的」と「短気」が加わると、すぐにイライラします。できるまで繰り返す人は「積極的」「寛容」な面がありますよね。
逆に、なんとなくぼんやり音楽を楽しんで練習する人は
「ポジティブ」で「のん気」「おおざっぱ」で「寛容」なタイプ。
人によって性格は様々です。自分の練習方法を冷静に観察することが、まず第一です。練習方法も人それぞれですから「正解」はありません。
 日常生活で気付かない自分の性格が、練習の効率を下げている可能性もあります。特に練習時には「短気」は禁物です。「うまくならない」と思い込むのは「悲観的」で「短気」な人が多いようです。

 
 人前で演奏する時に、あがる=過緊張になる人は「悲観的」「消極的」で「厳格」「弱気」な人が多く見られます。
 演奏に個性があるのは素晴らしいのですが「癖」に感じる演奏をする人は、
「強気」で「厳格」「内向的」な人に感じます。
 音楽を聴いていると、その人の性格を感じることがあります。
自分の演奏にこだわりを持ちながら、聴いている人を楽しませ、謙虚な気持ちを感じる演奏家と、その「逆」の演奏をする人がいるように感じます。
それが「性格」でないとしたら、ほかに原因があるでしょうか?
「うまく弾きたい」と思う気持ちの強さは性格で変わります。
他人から評価された自分の演奏を、どう受け止めるかも性格次第です。
他の演奏者と協調できるか?も性格です。他人のせいにするのも性格です。
「性格が悪い」と言う悪口があります。実際には悪いのではなく、多くの人に嫌われる性格だったり、自分の嫌いな性格のことです。
性格を変えることは、本質的には無理かもしれません。でも、音楽を演奏するのであれば、自分の性格の「欠点」「改善点」を謙虚に見つめることが必要です。
 人の性格は、「話さず」「目立たず」「人に会わない」なら誰にも知られません。音楽を演奏する「行為」は、自分の感情を人に伝えることです。性格は隠せません。だからこそ、自分の性格を考えることが大切だと思うのです。
他人に言われると腹が立つ!のであれば、自分で考えるしかないのです。
「普通」「当たり前」「それしかできない」と思い込まずに、自分を改善する気持ちを持ちたいですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

音楽とコストパフォーマンス

 映像は「踊る人形」。デュオリサイタル14での演奏です。
25年間の長い不況が続く日本は今、国民の「貧富の差」がますます大きくなっています。大企業とお金持ちに貧しい人が収めるお金が流れ込む悪循環。
私たち音楽を仕事にする職業は、とかく「お金と縁遠い」と思われがちです。
その話は以前のブログでも書きましたが、今回は音楽=音楽家の「コスパ」について考えてみます。「芸術をなんと心得る!」とお怒りにならず(笑)最後までお読みくださいませ。

 日本で暮らす音楽家の中にも「貧富の差」はあるのが当たり前です。
それを否定する気はありません。自由に競争する社会です。「勝ち組と負け組」があるのも現実です。音楽を「商品」として考えることに抵抗があります。特にクラシック音楽は「伝統」を受け継ぐものでもあり、芸術・文化に「お金」と言う概念がそぐわないと言う考え方も理解できます。
 とは言え現実に、形のある美術作品・芸術作品には「価格」があります。
演奏に必要な楽器にも「20億円」という価格が付いています。スタインウェイのフルコンサートピアノと、国産のアップライトピアノの「価格差」も歴然としてあります。
 では目に見えない「無形」の芸術や文化に「価格」はあるのでしょうか?

 演奏したり人に演奏技術を教えたりする「職業」を考えると、サービス業と言う職種が最も近いと思います。「おいっ!」とここでもお怒りになられる方もおられますよね。では、演奏家だけは「特別な職業」で、同じように身に着けた技術で生活する「スーパーの店員さん」はサービス業ですか?それって差別だと思います。人に技術を教える人を「先生」と崇め奉る呼び方をしますが、なぜかお医者さんも「先生」で、人間のくずのような政治家も「先生」と呼ばれます。大変に光栄なことで、あの政治家と同じように呼ばれるくらいなら「くん」か「さん」で呼ばれたいと思っています。あれ?話がそれました。
 演奏やレッスンで「対価」を頂く職業でありながら、多くの演奏家や教室講師は「非正規雇用」なのが日本の現状です。「ひせいき?ってなに?」と言う演奏家が多いのも日本人、特に音楽家が如何に政治に興味関心がないかの象徴です。
 大学やオーケストラ(多くは社団法人)に「正規雇用」されている音楽家は、コストパフォーマンスについて考えないでも「給与」や手当てがもらえます。適当に手を抜いてもばれなきゃオッケー!一生懸命演奏しようが、テケトーにチャラビキしようが給与は同じで、定年まで働ける。給与が安くても、手を抜けるしバイトすりゃいいので文句も言わない音楽家、いませんか?(笑)

 私は20年間「正規雇用」の教育職員=学校の先生と言う職業に就いていました。同じ職場の教員の「能力」が違おうが「熱意」が0度と100度以上に違おうが、俸給は「年齢」で決まるので無関係。副校長は一等級、校長は徳一等級、「ヒラ教員」はみんな二等級。あとは手当が違うだけ。それが「先生」でした。
 今、自分の小さなメリーミュージックという「会社」を経営し、NPO法人メリーオーケストラの「理事長」と言う肩書ですが、なんと!どちらの法人からも、「役員報酬」を頂けない状況です。それが現実です。会社に貸していたお金を「返してもらう」ことで家のローンや生活費をひねり出すにも、もう限界です!って笑い事じゃないです。
 「じゃ、教員が良かった?」と聞かれれば、絶対に嫌です!と言うテーマも以前書いたような気がするのでストップ(笑)

 「演奏と指導の対価」について、標準的な演奏技術・時間や標準的な指導技術・時間、さらにその技術と時間に対する標準的な「価格」があるでしょうか?
 ●演奏技術が高いか低いか?標準的か?の「審査の基準」がそもそもありません。コンクールの結果は一時的なものでしかありません。
 ●レッスンの内容が標準的か?標準以上・以下?と言う基準もありません。
スマホを見続けてレッスンを終わる先生がいても、レッスン技術とは無関係とされます。
 ●演奏家・指導者の「標準的な労働時間」はありません。ましてや「準備=練習」に費やした時間と労力に対しての「評価」さえありません。当然「対価」も支払われません。

 1曲をコンサートで演奏するために、演奏者がかける時間は人によって違います。数時間で終わる人もいれば、何カ月もかける人もいます。それは聴く人には「関係ない」ことです。
 その部分だけを「演奏家の立場」で考えれば、練習=準備の時間を短くする方が「コストパフォーマンスが高い=良い」と言うことになります。
 一方、聴く人・習う人=お客様にとっての「コストパフォーマンス」は、支払ったお金に対して、演奏やレッスンの内容と時間が「納得できる」かどうかで決まります。極端に言えば、無料のコンサート、無料のレッスンであれば「全然納!納得できない!」ものでも我慢するしかありません。
 では、コンサートのチケット代金、レッスンの単価によって、コストパフォーマンスが決まるか?と言えば「人によって、まったく違う」のが現実です。

 先述の通り「基準」がありません。1時間、演奏を聴く・レッスンを受ける対価として「1,000円」が高いと思うか?安いと思うか?さえ人によって違います。
もちろん、その人が違う演奏やレッスンで、同じ「1時間=1,000円」を体験していれば、どちらのコスパが高い=良いか判断できます。条件をそろえて、比較するものがなければ、コストパフォーマンスが出せないのです。

 人によって大きく異なる「コスパ」は、比較の使用がありません。
だからと言って、生活するのに必要な「最低限の金額」は大きく変わらないのです。フリーランスや自営の音楽家が、月に1万円の収入で生活できるか?無理です。少しでも演奏の準備にかける練習=時間を少なくしてコスパを上げたい!と思っても、コンサート=お仕事がなければ、収入はゼロです。コスパ以前に、生活できません。では!コンサートのチケット代金を「無料」にすれば!会場費だけで、数万~数十万円のお金は誰が払うのでしょうか?無理です。
 路上ライブ!で生活できる人はいません。いたとしても数名です。
音楽家が生きていくための「お金=出費」が少なければ、収入が少なくても生きられます。物価がどんどん高くなり、税金がどんどん高くなる。「え?税金、あがったの?」毎日毎日払っている「消費税」って税金なんですよ(笑)ガソリンに至っては、ガソリン税に消費税がかかってますけど知ってます?
 給料「さえ」25年間、上がらない日本で「非正規雇用」「自営業者」の収入が増える?わけがありません。コンサートチケットを買える人が減りました。レッスンを受けられる人が減りました。楽器を買える人が減りました。当たり前です。国民のほとんどが「生活が苦しい」からです。私たちもその一人です。
 音楽家が生き残れるとしたら、日本の景気=消費活動を取り戻すしかないのです。原因は?はっきりしています。25年間、政治の失敗を「見てみぬふり」してきた国民が悪いのです。もちろん!今の政権を持っている「与党とその一味」が一番悪いのは言うまでもありません。でも、「野党はダメだ」「誰がやっても同じだ」「保守なら自△党だ」という間違った考えが、その政治家たちをのさばらせたのです。
 音楽家も「国民の一人」ですよ!18歳以上の「音楽家」が今すべきことは?
賢明な音楽家ならお判りでしょう。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

想像力をふくらませよう!

 映像はだいぶ前のデュオリサイタルで演奏した、ピアソラのリベルタンゴ。
アレンジがシンプルでカッコイイ!のに楽譜はすでに絶版です(涙)
この演奏に限りませんが、楽譜に書かれた音符と休符、強弱、速度などの指示「だけ」で演奏しても、楽器の個体差による音色と音量の違いしか「演奏による違い」は出せません。演奏するホールの響き、聴く人の感性によって生まれる「違い」は演奏とは別のことです。作曲者の「想像力」と演奏者の「想像力」、聴衆の「想像力」それぞれの人によって違う「イメージ」があります。
 演奏者が楽譜を音楽にしながら、想像する「イメージ」について考えます。

 まず「想像」と言う言葉から連想されること・もの←これも想像力です。
・空想・幻想・妄想・仮想・発想・着想・発明・創意工夫などなど
中には、ネガティブな印象を受ける言葉←これも想像…もありますよね。
「想」と言う文字が入る言葉には、人間の頭で考えると言う意味があるように感じます←これまた想像。私のブログでも「思う」という言葉が多いのは、断定できない・逃げの表現と言う意味合いもありますが、普段の会話の中で何気なく「想像」で相手に話していることの方が多いのではないでしょうか?

 音楽を演奏する時に働かせる想像力は、音楽表現の個性に繋がります。
具体的なものや風景・人物や出来事を創造するとは限りません。私の場合、ほとんどは抽象的で漠然とした「感情」のように思います。
 もちろん、演奏する場所や音楽によっては「母」を思ったり、勝手な登場人物を創造したり(笑)、風景を創造することもあります。
 たとえば、上の動画のリベルタンゴを演奏している時に想像していること…
「情熱的な…なにか」「瞬間的な動き」「い音的なズレ=重さ」「昇り詰める感情」「イレギュラーなアクセント」かな?
 楽譜に師事されていない「ポルタメント」は、その場所を何度も練習している時に試しにやってみて(笑)、自分の想像するものに近いと思えば「採用」しています。それが「邪魔!」と思う人もいらっしゃって当然です。

 以前にも書きましたが、私は「ラジオ」が好きです。テレビに比べて自分で勝手に想像できる「人物」「風景」「もの」「色」があるからです。音だけで表現できないことがあるのも事実ですが、逆に音は「視覚に頼らない」想像力が働きます。文学もラジオに近い想像力が働きますよね。人間の五感の中で、嗅覚」「味覚」「触覚」を伝えられないのがテレビ、ラジオ、文字です。もちろん電話も同じです。いつかこれらの感覚も伝えられるようになるのでしょうね。でも、私は自分の想像力で香りや味を想像する方が好きです。
 梅干を見ると唾液が出る現象を、「パブロフの犬」と言いますが人間の記憶で条件反射的に体が反応することを指しています。
同じように自分が「泣いた記憶のある音楽」を聴くとその時の記憶が呼び起こされます。おそらくその「記憶の繰り返し」はDNAとして遺伝しているのではないかと思います。動物の本能もその一つです。危険!と感じると反応する身体は、教わらなくてもできるのです。

 音楽を聴いて「悲しさ」「楽しさ」「激しさ」「穏やかさ」を感じる理由は、短調か長調かの違い、テンポの違い、同時に演奏される音・楽器の数、などが考えられます。
演奏する曲の楽譜を、指定された楽器で、指定されたテンポ・強弱で演奏した場合に、感じる印象は人によって多少の違いはあっても、それほど大きな差は無いかもしれません。つまり「想像されるイメージ」がそれほど大きな差がないことになります。その先にある想像力って、どんなものでしょうか?

「妖艶」「虚(うつ)ろ」「苦悩」「甘美」などの形容詞で表す感情があります。多くの場合、年齢経験を重ねる中で感じる感情かも知れません。
小学生に「妖艶」なイメージを理解しろと言ってもねぇ(笑)
 音楽を聴いて特定の「風景」「場面」を想像するのは、記憶とつながっている場合です。たとえば、スキー場で良く流れている「歌」があります。その歌を聴くと、スキーを連想する人もいます。サザンやチューブの音楽を聴くと夏の海岸を連想したり、聴いたことのない音楽でも、なんとなく想像する場所や風景があるのも不思議です。

 音楽から連想するイメージは、人それぞれに違います。演奏者の想像力が聴衆に伝わらなくても、それは表現力が低いからではありません。
 演奏する人が何も感じない音楽だとしても、聴いている人が勝手になにかを連想するかもしれませんが、演奏しながら自分の「イメージ」を持つことは大切だと思います。単に「音」としてではなく、演奏しながら感じる感情を「探す」能力も必要だと思います。教えてもらえることではありません。その人の体験や記憶は、その人にしかないのです。なにも感じない…「無色透明」「無味無臭」な音楽はないと思うのです。演奏しながら想像力を膨らませていく「感性」こそ、音楽の個性です。感情のない演奏は、香りのないコーヒー(クリープではない)です。自分の好きな風景や、香り、草花、絵画、手触り…なにを想像しても構わないのです。もとより、音楽は「聴覚」で感じるものです。それ以外の五感を連想することも、人間の想像力なのです。
 ぜひ、演奏しながら想像力をふくらませて、新しい魅力を探してください。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

ライブ演奏とスタジオレコーディングの違い

 映像は、ジョージア(昔のグルジア)の音楽家アザラシヴィリ作曲のノクターン。昨年、数か所のコンサートで演奏させて頂きました。その演奏動画を見比べると、なんとまぁ!弓も指も全部違う!(笑)「信用ならん」演奏家ですね、こいつ。生徒さんも、どの演奏を参考にしたものやら。ごめんなさい。

 私たちが作ったCDが3枚あります。
いずれも自宅をスタジオにして収録しました。
録音エンジニアも演奏者も同じ人です(人手不足か!)
言うまでもなく、レコーディングを目的とする場合、二人それぞれが納得できる(もしくは許せる)演奏ができるまで、何回か録りなおします。
ただ、回数が増えてくると集中力も下がり、疲れも出てくるため多くても、4回ぐらいのテイクの中で決めています。私たちが演奏する曲は、どの曲も短いのでむしろ「曲ごとの違い」が出ないように気を配って録音します。
 同じ日に収録曲すべてを録音することもありますが、数日に分ける場合、レッスンに使う場所でもあるため「撤収!」が必要になります。マイクのセッティングからやり直しのケースも珍しくなく、結構な手間です。
 そうやって作ったCDと、コンサートの録音を比べると…。

 CDは演奏の傷が少なく、ピアノとヴァイオリン・ヴィオラのバランスも後から編集で修正できます。もちろん、二人が同時に演奏して録音するのですが、ピアノから離れた場所で、ヴァイオリン・ヴィオラを演奏して録音します。
お客様の「目と耳」がないからできる演奏=録音方法ですが、コンサートとは違うプレッシャーがかかります。ふたりのどちらか(自分)が、演奏に傷=納得いかない音を出せば、相手がどんなに納得のいく音が出せていても「ボツ」になるプレッシャー。それはコンサートでも同じなのですが、録音の場合「傷の無い演奏」を優先するのも現実です。

 コンサート=ライブ演奏の場合には、会場で私たち演奏者と向かい合っておられる「お客様=聴衆」に演奏を楽しんでもらうことを何よりも優先します。
演奏の質はもちろん、曲の合間の「くつろぎ」に私たち演奏者の声で、私たちの言葉でお話しすることを心掛けています。「クラシックコンサートにはいらない」と思うかたもいらっしゃると思います。演奏だけで終始しても、なにも問題はありません。演奏をごまかしたり、時間稼ぎの「トーク」は絶対にダメです。
 そんなコンサートで私たちが感じる緊張感は、とても心地よいものです。
トークなしでひたすら演奏したほうが、もしかしたら演奏の傷が少し?減るかも知れませんが、多くのお客様が求める「楽しみ」は、傷のまったくない演奏よりも、演奏者の「人」を感じられ、その人の「音楽」を感じられることではないでしょうか?誰が演奏しても、音楽は音楽です。でも、コンサートは「目の前で人間が演奏する」空間です。一緒に客席で音楽を聴く、見ず知らずの人とも楽しみを共有できれば、さらに楽しみが増えると思っています。

 今年2022/12/18(日) 14:00開演 もみじホール城山(相模原市緑区)
来年2023/01/07(土) 17:00開演 ムジカーザ(代々木上原)で、15年目となるデュオリサイタル15を開催いたします。
「もみじホール城山」のチケット代金は、大学生以上、おひとり1500円、
小学生から高校生がおひとり1000円。幼児は無料です。
「代々木上原ムジカーザ」の、2500円のチケットをお求めになると、
上記12月のもみじホールでの演奏会にもご入場いただけます。幼児は無料です。
詳しくは「野村謙介・野村浩子 デュオリサイタル15ページ」でご確認ください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?なぜ?ヴァイオリンアレンジ「謎のオブリガート」&「重音の嵐」

 映像は、デュオリサイタル13での、ドボルザーク作曲「スラブ舞曲第2週より第2番」をクライスラーがアレンジしたものです。多少、アレンジをアレンジしてます。ご存知の通り、オーケストラで演奏される機会の多いこれらの音楽を「ヴァイオリンとピアノ」用にアレンジされると、どうして?なんで?と言いたくなるほど「重音だらけ」になったり、やたらめったら(笑)ヴァイオリンに「ヒャラヒャラ~」「ピロピロリ~」ってなオブリガートが出てきます。これ、嫌いなんです!(正直者)

 原曲がどうであっても、ヴァイオリンとピアノが演奏するための「楽譜」なら、それぞれの楽器の「良さ」だけ引き立てたアレンジで良いと思うのに、「こんなこと、できるんだよ!」とか「こんな技もあるんだよ!」挙句の果てに「すごいでしょ!」と言わんばかりのアレンジがやたら多いと思う私たち夫婦です。作曲家の書いた美しい旋律を、ヴァイオリンかピアノが演奏するしかないわけです。旋律をヴァイオリンが主演奏するのが自然だと思うのです。ピアノが主旋律を演奏するところで、ヴァイオリンを「休み」にしない理由が私たちには理解不能です。ず~っと二人とも、なにかひいていないと「死んでしまう」みたいな(笑)

さらに多いのが、このスラブ舞曲のような「重音の嵐」が吹き荒れるアレンジです。そもそも!ヴァイオリンって重音「も」演奏できる旋律楽器のはず。2パート分「ひけるよね?ね?」って強引に書かれてもなぁ…と思うのです。
 重音の良さは確かにありますが、2パート=2声部を演奏することで「失われる良さ=デメリット」があることをアレンジする人には考えて欲しいのです。
 私は少なくとも、一つの音=単音で演奏する弦楽器の音が好きです。二人の弦楽器奏者が演奏したときの「響き」と「重音」はまったく違うのです。
バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタや無伴奏パルティータのように、明らかにヴァイオリン1丁で「ポリフォニー」を演奏する試みをした曲には、美しさがあります。それと一緒にしないで欲しい!

「なんとなく重音ってカッコイイ」のでしょうか?「うまそう」なのか「むずかしそう」なのか。良くわかりませんが、派手ならいい!というのであれば、エレキヴァイオリンで演奏すると、めっちゃ派手な音にできます。乱暴に「ガシガシ」弾くと「情熱的」で「魂の演奏」なんですか?笑っちゃいますけど。
 ヴァイオリンの新しい可能性?のつもりなら、すでにバッハ大先生がやりつくされていますのでぜひ!弦楽器を「声楽」と同じように考えて頂き、アレンジをしてほしいと思っています。そして、聴く側も「もの珍しさ」ではなく、楽器の個性と演奏者が奏でる「楽器の声」を楽しんで頂きたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習の組み立て

 映像はパラティス作曲と言われている「シシリエンヌ」をデュオリサイタル11代々木上原ムジカーザで演奏したときの映像です。
 チェロで演奏されることが多いこの曲ですが、数ある「シシリエンヌ=シチリアーナ」のタイトル曲の中でも、私の好きな曲です。
 さて、今回のテーマ「練習の組み立て」は、楽器を演奏する人たち共通の「練習」についてを、練習嫌いだった私(涙)が考えるお話です

 練習と言うと、なんとなく「学校の宿題」をいやいややっているような…これ、私だけですか?「やらなきゃいけない」と言う義務感にさいなまれながら、見たいテレビを我慢して宿題をやった記憶と重なるのですが…。
 私のような練習嫌いではなくても、「練習好き」な人のことを「すごい!」って思いませんか?あ、思わない?(汗)確かに練習が好きな人って、きっとおられるんでしょうね。尊敬します。
 では、練習をしなくてもヴァイオリンは上達するのでしょうか?←いかにも練習嫌いの人間の発想
結論を言えば、練習しなければ上達はしません。経験に基づいています(涙)

 そもそも練習は何のためにするのか?と言うテーマです。
「自分が思ったように演奏できるようになるため」だと思います。
練習をしなければ、思ったようにひけないのですが、「思ったように」と言うのが肝心です。多くの初心者の場合、先生や親に言われた「課題の楽譜」を「ひく」ことが練習だと思っています。少なくとも私はそうでした(中学2年生ごろまで)
「ひいていれば練習」ではないのですが、家で「監視」している親は、とりあえずヴァイオリンの音が知れいれば、練習していると思ってくれました(笑)
「毎日30分」とか「最低1時間」とかって、練習時間の事を話す人がいますが、多くの場合「時間=練習」だと勘違いします。もちろん、これから述べる「練習」には時間が必要ですが、ただ音を出すだけの時間は、厳密には練習ではありません。

 練習の意味も仕方も、まだ知らない生徒さんに対して、「課題」を出すことが指導者の難しさです。レッスンで上手にひけたら「はなまる」を付けてあげるのは喜ばれます。
「止まらないで最後までひけるように頑張ってきてね!」や「ゆっくりで良いから間違わないようにがんばってきてね!」や「音がかすれないように気を付けて弾けるようにがんばってね!」などなど、具体的な「目標」を出すのが一般的です。悪い例で言うと「次、これをひいてきてね」ですね。これ、最悪だと思いませんか?もちろん、音大生に言うなら問題ありませんが、先述の条件「練習を知らない」生徒さんにしてみれば、なにをどう?ひくの?どうやってひくの?ってわかるはずがありません。悲しいことに、こんな指示をだすヴァイオリンの「せんせい」が街の音楽教室にたくさんいることを、生徒さんからお聞きします。

 指導者の役割は、生徒さん(お弟子さん)に対して自分の音楽を教えることではない…と言う話は前回のブログで書きました。自分の生徒が「自分の好きな演奏」を見つけるための、プロセスとテクニックをアドヴァイスすることが役目だと思っています。その二つでさえ、人によって違うのです。自分の通ってきた道=練習してきた方法が、すべての人に当てはまるとは限りません。そこにも選択肢があるのです。ただ、練習のプロセスや練習のテクニックにも「選択肢」を増やし過ぎれば、生徒は混乱します。だからこそ、生徒の状態を観察することが大切だと思っています。

 これから書くのは、私なりの練習方法です。これが絶対に正しいとも、ほかに方法がないとも考えていません。
①自分の出来ていない「課題」を見つける。
・先生に指摘されて気付く課題や、うまくひけない「音」
②その課題を乗り越えるために「原因」を見つける。
・原因は複数考えられます。
・思ってもいないこと…無意識に(勝手に)動く腕や指が原因かも。
・自分から見えない「死角」も要チェック。
③原因を取り除くためのテクニックを考える。
・医療で言えば「治療方法」を考えるのと同じ。
・すぐには直らない(治らない)のも医療と同じ。
・繰り返して弾く前に、自分の音と身体を観察すること。
・常に冷静に「考えながらひける速さ」で繰り返す。
・音と身体を観察しながら、考えなくてもひけるまで繰り返す。
 

 上記の練習方法は、初心者を含めどんなレベルの人にも共通していると思います。ここから先は、「自分の思うような」という段階の練習方法です。
①「音の高さ」「リズム」「汚い音を出さない」3つの点に絞って演奏する。
・音量や音色、ビブラートやテンポを揺らすなどを意図的に排除する。
・「音楽と演奏の骨格」を把握するためのプロセスです。
②曲全体(1楽章単位)の印象と「曲のスケッチ」を考える。
・自分で演奏せずに、楽譜を見ながらプロの演奏をいくつも聴いてみる。
②多用されるリズムと音型の「特徴」を考える。
③1小節目の最初の音から二つ目の音への「音楽」を考える。
④最初から音量や音色を決めずに、一音ずつ「行きつ戻りつ」しながら考える。
⑤いくつかの音を「かたまり=ブロック」として考える。
⑥句読点「、」と「、」を探しながら、接続詞の可能性も考える。
⑦ある程度進んだら、ヴァイオリン以外のパートから和声を考える。
⑧弓の場所、速度、圧力を考える。
⑨使用する弦と指を考える。
⑩ブロックごとのテンポ、音色、音量の違いを考える。
☆一度にたくさん=長時間練習しない!(覚えきれません)

 最後に、日々、毎回の練習を「積み上げる」テーマです。
私の場合、視力が下がり楽譜や文字を読みながら練習(演奏)できなくなったので、少しずつ覚えながら練習していく方法しかなくなりました。
以前は楽譜に書きこんだ情報も読みながら練習していましたが、今考えてみると本当にそれが良かったのか?正しい練習方法だったのか?と疑問に感じることがあります。「怪我の功名」なのか「棚から牡丹餅」なのか(笑)いずれにしても、少しずつ覚えながら練習すると、時間はかかりますが覚えていないこと=理解できていないことを、毎回確認できるので楽譜を見ながら練習するよりも、結果的に短期間で頭と体に「刷り込まれている」ように感じています。
 練習は「積み重ね」でしかありません。しかも、時によっては前回の練習でできた!と思っていたものが出来ない…積み重なっていないことが多々!しょっちゅう!あるのが当たり前です。 
 私たちの脳と肉体は「機械」や「もの」ではありません。むしろ目に見えない「イメージ」の積み重ねだと思っています。なぜ?指が速く正確に動かせるのか?という人間の素朴な疑問に対して、現代の科学と医学はまだ「答え」を持っていないのです。今言えることは、私たちは「考えたことを行動できる」と言うことです。無意識であっても、それは自分の脳から「動け」と言う命令が出ているのです。考えることで演奏が出来ます。ただし、考えただけでは演奏できません。身体の「動き」も考えて演奏することで、初めて思ったように演奏できるのです。「たましい」とか「せいしん」ではなく、物理的で科学的な「練習」が大切だと思っています。「きあいだ!」「こんじょーだ!」も無意味です。
 考えることが苦手!と威張るより(笑)、好きなことをしている時にも、自分は無意識に考えていることを知るべきです。
 感情も感覚も、私たちの肉体の持つ「能力」で引き起こされている現象です。
自分の能力を引き出すことが「練習」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介



ヴァイオリン初心者の苦悩

 動画は、エドワード=エルガー作曲の「6つのとてもやさしい小品」です。
ヴァイオリンを習い始めた生徒さんが演奏できる曲は?
明らかにピアノのそれに比べて、曲が少ない!ほとんど無い!のが実状です。
いわゆる「教則本」は数種類あります。それもピアノと比べれば、極わずかです。なぜ?そんな事が何十年も続いているのでしょうか?
 友人の作曲家に、初心者ヴァイオリン奏者のための曲を作ってもらったこともあります。高名な作曲家の先生が作られた作品を、私の生徒に初演させてもらったこともあります。そんな経験も踏まえて、「曲が少ない理由」を考えてみます。

 ヴァイオリンを演奏したい!と思い立った時点で「何ができて、何ができないか?」を考えます。
①楽譜の「ルール」
 ・音名=ドレミを読める速さは?

 ・ドレミファソラシドの高低を歌えるか?
 ・音符の種類=四分音符・二分音符の意味がわかるか?
 ・半音と全音の意味、臨時記号の働きをわかるか?
 ・調号の意味が分かるか? など
②音の高さの違いに対する「精度」
 ・音の高低の違いを、どの制度=半音高いなど理解できるか?
③練習に集中できる時間の長さ・期間
 ・一回の練習に集中できる時間
 ・飽きずに(飽きても)頑張れる時間
およそ、上記の違いが個人で大きく違うのは、どんな楽器を始める場合でも考えられる共通点です。

 次に、ヴァイオリン(弦楽器)特有の「むずかしさ」を考えます。
①弓を使わずに、開放弦をはじいて出せる音の高さを音名で理解できない
 ・絶対音感があればできます。なければできなくて当たり前です。
②弓を使わずに、弦を押さえて「ド」の音を見つけられない。
 ・上記①と同じ理由です。ドに限りません。
③弓で「一本の弦だけ」を弾き続けられない。
 ・簡単そうですが、ほぼ全員が「視覚」に頼ります。眼をつむると色々な弦を引いてしまうのが当たり前です。
③弓を「同じ場所」で動かせない。
 ・これも上記②と同じで「ガンミしていないと」弓が暴走します。
④弓と弦の「直角」が自分から理解できない。
 ・他人から見ればわかる「直角」が自分からはわかりません。視点の問題なので当然です。
⑤弓をたくさん使えない。
 ・全弓使おうとすると、弓の位置、角度を維持できません。特に「見ていないと」大変なズレが生じます。
⑥同じ音量・音色で弓を使って音が出せない。
 ・原理を知らないのですから当然です。
⑦演奏する構えで、自分の両手に「死角=見えない場所」が多い。
 ・ピアノの場合は両手の指が見えていますが、ヴァイオリンの場合左手の手首から肘までは楽器の死角になります。右手の親指も見えません。弓を動かして右手を見ていると、楽器が視野の外に出てしまいます。

 ピアノの初心者に、楽譜に書かれている「音符」の「音名」を教えて、鍵盤で演奏させることは、なんの予備知識がなくてもできますよね?
 ヴァイオリンではどうでしょうか?
開放弦を指ではじいて出た音を、楽譜で「ここ」と教えて、音名を教えられます。
まず弓を使って演奏することは、この時点では無理です。無理ではなくても、弦が4本あって、どこをはじいたら、なんの音が出るのか「覚える」ことになるため、「ソ・レ・ラ・ミ」が最初に出てくる音名になります。「ドレミ」さえあやふやな人が、始めから「ソ」とか「ラ」って大変ですよね。
 ピアノは「鍵盤の模様」で「ド」の場所を覚えるのが一般的です。
ヴァイオリンは…そもそも、開放弦の音を合わせる「調弦=チューニング」をするための技術が何種類も必要です。
① 音の高さを判断する「相対音感=制度」
 ・チューナーを使えばなんとかクリアできます。
②ペグを動かして正しい音で「止める」技術
 ・多くの場合、これで弦を切ります(笑)
 ・回せても=動かせても、ペグをとめる技術がなければ調弦はできません。
 ・アジャスターをすべての弦につければ、ペグを動かせなくても調弦はできますが、その前にペグで調弦してもらうことが必須条件です。

 ヴァイオリンの「はじめの一歩」に何を練習するのか?すべきなのか?は、指導者によって意見が違います。これは以前のブログでも書きましたが、習う人の「目指すレベル」がどうであっても、大差はないはずです。違うとすれば、今回のブログの冒頭で書いたスタート時点での「知識・技術」です。
 楽譜を読めない人がヴァイオリンを始める時には、指導者の手助けが相当に必要です。生徒が子供の場合には、親が自宅で繰り返し教えることも必要です。
 多くの場合には、開放弦「レ」か「ラ」を一定の長さで演奏することからヴァイオリンが始まります。
 が!レッスンが週に1回だとすれば、この「ラ」だけを7日間!
耐えられますか?(笑)大人でも無理だし子供に至っては、まず100パーセント飽きます。他に弾ける音がないのか?ひいちゃいけないの?なんで?
 1本の弦だけを演奏できるようにする「目標」や、弓を長く使って一定の音量・音色で演奏できる「目標」、メトロノームに合わせて弓を返す「目標」、眼をつむっても弾けるようにする「目標」などなど、次のレッスンまでの目標を示し、その「出来具合」を次のレッスンで指導者が確認し修正するのが「野村流」です。

 教則本だけで、ヴァイオリンは演奏できるようになるでしょうか?
本人の「やる気次第」だと思います。ただ、自分の演奏方法、出している音が正しいのか?なにか間違っているのか?は自分の力だけでは判断できないことがほとんどです。特に、それまでに楽練習の経験がない人の場合には、多くの「壁」が待ち構えているのがヴァイオリン演奏でもあります。

 教則本ではなく「音楽」の幅を感じられる初心者向けの曲とは?
エルガーの作品を参考にして、まとめてみます。
①開放弦から全音の幅を「1の指の位置」にした曲を作る。
・GdurとDdurなら開放から1の指が全音になります。
・さらにGdurならば、G線D線の指の並び方が一致し、A戦とE線の指の並び方が一致します。
②曲の最初の音を「0」「1」または「2」の指から始める。
③可能な限り「1」「2」「3」「4」の順で音の数が多い方が演奏しやすい。
④順次進行を多く使うことで、全音・半音の「音程」を覚える。
⑤上行系の音型と下降系の音型をバランスよく入れる。
⑥同じ弓の動き=リズムをある程度、反復させる。
⑦1曲の長さを16小節程度に抑え、ピアノの和声進行に多彩さを持たせる。
注文は限りなくありますが、初心者のためのピアノ曲集で感じられる「多彩な音楽」を弦楽器特有の「制約」の中で作って欲しいと思っています。
 ヴァイオリンはなぜか「コンチェルト」を初心者が演奏することになっています。ピアノでは考えられないことです。もっと、ピアノとの合奏で楽しみながら上達できる「練習曲集」があれば、無理をしてコンチェルトの練習に行き詰ってドロップアウトしてしまう生徒が減るはずです。
 才能教育と呼ばれる「Sメソード」の良さもありますが、系統だっていません。音を覚え、腕と指を動かして「楽器を弾いた」楽しさだけを味わえるより、始めから、必要不可欠な「相対音感の育成」と「調性感とリズム感の養成」「ボーイングの重要性に気付かせる内容」を考えたメソードが必要だと思っています。
 作曲家諸氏の研究に期待しています。
最後までお読みいただき、、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介



直線と曲線の美しさ

  上の映像は、レイナルド=アーン作曲の「クロリスに」をヴィオラとピアノで演奏した動画です。下の写真は、その演奏に使用している、陳昌鉉さん製作のヴィオラの写真です。
 今回のお話は「直線と曲線」というなんだか「算数」か「製図」に出てきそうなテーマです。
 ちなみに、①眼に見える「線」と、②眼には見えない「音の高さの変化・音色の変化」が「変化しない状態=直線」の場合と「丸く角のない連続的な変化=曲線」の両面で考えていきます。

 まず、①の目に見える線。ご存知の通り、弦楽器は柔らかい曲線の部分と、まっすぐな直線部分との対比が美しい楽器です。
 正面・背面から見た場合、肩や腰の部分と中央のくびれの部分、F字孔の曲線がそれおぞれに異なった「R=半径」の曲線で作られていることがわかります。
 R値は例えば、道路の「カーブ」の強さにも使われます。小さい半径のカーブを曲がる時には「急カーブ」になり、高速道路などの緩やかなカーブは「半径が大きい曲線」になります。

 駒をスクロール側やテールピース側から見れば、「アーチ=曲線」になっています。もしこれが「直線」だったら…両端の2本の弦は、1本ずつ弾けますが、中川の2本の弦を引こうとすれば、4本の弦が同時になってしまいます。
 直線部分は、ネックの両側、弦、正面から見た駒、などの部分です。
弦を上=スクロール側から見れば、直線なのは当たり前…と思いがちですが、駒を通過する弦が、上駒からテールピースまで「直線」でなければなりません。駒の位置や弦を乗せる場所がずれていれば、弦の駒部分が「折れた直線」になてしまいます。
 今回の写真にはありませんが、横や上下から撮影すると、表板、裏板が非常に緩やかな曲線に削られていることがわかります。駒の部分が高く、エッジの部分が低くなっています。この隆起の大きさで迷路と音量が変わります。

 写真にある楽器の頭にあたる部分「スクロール」の曲線美は女性の「髪」を模しているという説が有力です。弦楽器製作者にとって、この部分の美しさも求められる「美術品」としての装飾でもあります。もちろん、調弦の際に左手の指を「ひっかける」場所でもあり、触らずにいることは不可能です。
 これも、写真にはありませんが、スクロール側かテールピース側から見ると、「指板」は綺麗な曲線の「丸い面」になっています。指板を横から見た場合には、直線でなければなりません。定規を当てて、隙間がある場合には、職人さんに削り直してもらう必要があります。指板は固い「黒檀」で作られていますが、長年演奏していると、指で押さえる部分が削れます。また、ネック自体が弦の張力に負けて、表板側に沿ってしまう場合もあります。その話はまた今後に。

 今度は②の目に見えない、音の話です。
音の高さが一定で「揺れない」状態を私は「直線」に例えます。面であれば「平らな面」です。
 開放弦はピッチ=音の高さが変わらない…と思い込んでいる初心者が多いのですが、実は弓の速度と圧力が変わると、ピッチも変わってしまいます。揺れる状態です。他の弦が共振すると、やはり「揺れ」が上生じます。これはピアノでも同じです。平均律で調律すると、うねりが生じるのは以前のブログでも書きましたのでご参考になさってください。
 弦楽器がビブラートをかけて演奏する場合の話です。
ピッチを連続的に「角のない曲線」で変化させることが、私は最も美しいビブラートだと思っています。曲線ではなく「ギザギザ=折れ線グラフのような線」のビブラートは好きではありません。変化の量と速度で、曲線の「R値」が変わります。浅いゆっくりしたビブラートは、「ゆるやかな曲線」になり、深く速いビブラートは「急カーブの連続」になります。演奏する場所、音によってこの[R地」を変えることが必要だと思っています。優しく聴こえる音楽には「緩やかな曲線」激しく鋭い音が欲しければ「急カーブ」にすることが一般的です。
 他方で、「音色の連続的な変化」「音量の連続奥的な変化」でも、ビブラートに似た「波」を感じます、シンセサイザーの「モジュレーションホイール」を回すと、ビブラートに似た「波」が出ますが、ピッチは変わっていないことに気付くはずです。
 「クロリスに」で、浅くゆっくりしたビブラートと、直線=ノンビブラートの「ぎりぎりの変化」を模索しました。
 例えるなら、鏡のように平らな水面に、水を一滴垂らすと「小さな波」が広がります。水面がすでに真美だっているような状態に水滴を垂らしたが愛にも、同じ波が出来るのですが、その波は前者と違い、目立たなくなります。
 つまり「直線の後に曲線が始まる」瞬間こそ、一番波を感じる時だと思います。走っている電車や車に乗ていて地震を感じるのと、静かに寝そべっていて感じる地震の「感じ方」が違う事にも似ています。
 弦楽器のビブラートで、弦を押さえる左指の「強さ」を変える人がいます。「縦のビブラート」でもあります。この効果があるのは、ハイポジションで「弦と指板に隙間が大きい」場合です。弦を押さえる圧力でピッチが変わることも事実ですが、ハイポジションであっても「弦と平行なビブラート」は必要だと思っています。
ギターのビブラートは、弦と指板の隙間=弦高がほとんどない上に、フレットでピッチが固定されるために、弦を「横方向=弦に対して直角方向」に連続的に動かしてピッチを連続的に変えます。チョーキングと呼ばれる奏法もう同じ原理です。現を横方向に「引っ張る」ことでピッチが上がることを利用しています。

 弓のスティックは曲線です。弓を弦と直角にダウン・アップする運動は直線です。移弦をする際、弓を持っている右手の動きは「弧を描く=曲線」です。
 移弦をしながら、ダウン・アップを行うときにも、右手の動きは曲線です。
弓を持つ「右手の指」も「丸く=曲線」になっていることが大切です。
弦を押さえる左手の指も、原則は「アーチ形=曲線」です。

 二音間の高さの変化をなだらかにすると「グリッサンド」となります。
弦楽器の場合は「ポルタメント=無段階の音の変化」になります。ポルタメントの、音の高さの変化を「グラフ」として考えると、実は直線的にピッチが変わっているのですが、スタートする音から変化し始めて、ゴール=到達する音の高さに至るまでが「階段」ではなく「坂道」に感じるため、なだらかな印象になります。曲線ではないのですが、音の間を「なだらか=なめらか」な印象にしたい時に使うと、音楽が柔らかいイメージになります。やりすぎると「くどい・甘ったるい・いやらしい」印象になってしまうので、要所にだけ使うほうが無難です。

 最後になりますが、曲線だけで作られる3次元の物体「球」について書いておきます。
 球体は「どこから見ても丸い」物体です。ただそれは「外輪=枠線」が曲線だという「2次元」の話につながります。つまり紙の上に「球体」を書こうとすると、影を付けけないと「〇=丸」にしか見えません。
円錐は、横から見れば「△=三角」ですし、円柱を横から見れば「□=四角」です。上や下から見る時にだけ「○=丸」になっている物体です。
 この「3次元の曲線」に似た考え方が、「音の高さ・音の強さ・音色」の一つ、あるいは組み合わせを「曲線変化」すると、さらに複雑な「曲線の集まり」が生まれるのです。
 一つの音に、ビブラートを「丸く」かけながら、音色を「無段階」に変化させ、音量の変化をなだらかに行うことができるのが「弦楽器」なのです。
 もちろん、ノンビブラートで、音色も音量も変えないこともできます。
曲線と直線の組み合わせで、円錐や円柱が出来るように、音の「3次元性」を考えることも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「お味噌汁」な音楽

 映像は、中学生・高校生の部活動オーケストラによる、外山雄三作曲「管弦楽のためのラプソディー」です。私の教員生活、最後の定期演奏会指揮で「最後のアンコール」に選んだ曲です。
 自分が日本人であることを感じる瞬間って、ある時突然にやってくるのかもしれません。この音楽を指揮しながら、ソーラン節、炭坑節、串本節、八木節などの民謡に、なぜか?血の騒ぐような興奮を覚えました。
 演奏している楽器編成は、ハープを含む「西洋の楽器」と、締め太鼓、和太鼓(大太鼓を代用に巣買っています)などが融合されています。

 私たち日本人と外国人の「人類」としての違いは、生物学的にはほとんどないのだと思います。さらに言えば「祖先」「ご先祖」をたどれば、必ずしも日本で生まれ育った「血縁」とは限らないのは、どこの国の人でも同じです。
 生まれ育った環境に、ソーラン節や八木節が身近にあったわけではありません。お味噌汁にしても、もしかすると外国人の方が、たくさん飲んでいるかもしれません。生活自体がグローバル化している現代ですが、どこかに「DNA」を感じることがあっても不思議ではないと思います。
 日本固有の自然や風土、文化が消えていることに危機感を持っています。
親やその親が育った環境を、壊しt続けている私たちが、次の世代に残せる「文化」はあるのでしょうか?民謡にしても、郷土芸能にしても、自然の風景にしても、「なくても困らない」という理由と「新しいものが良い」と言う価値観で「死滅」させているのは私たち自身であり、お金持ちと政治家たちです。
 新しく作ったものは、いつか古くなるのです。古くからあるものの価値を知らない人間に、新しいものを作らせても、また壊して新しいものをつくrだけの繰り返しです。音楽もその一つです。
 時間をかけて育てられたものを、安直に壊す人たちに「文化」「芸術」の意味は理解できません。古いヴァイオリンに、なん10億円ものお金を使うより、一本でも多くの樹木を残し、一つでも多くの文化財を残し、少しでも海を汚さないことに、お金を使うことの方が有意義だと思っています。
 お金で買えない「時間」の価値を、もう一度考え直すべきだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

「できる人」に共通すること

 音楽に限らず、それぞれの「世界」で突出した技術や能力を持っていたり、成果を残す人がいますよね。その人たちを、ただうらやましく思ったり、自分とは違う生き物だ(笑)とスルーすることがほとんどです。
 音楽の世界で言えば「ソリスト」と呼ばれる演奏家。起業家の人たちの中で「大富豪」になる人。スポーツの世界で「レジェンド」と呼ばれる人。子供たちの「お勉強」で考えると、偏差値・難易度がずば抜けて高い「超難関校」に受かり「東大」に進む人。
 私のような「凡人」から考えると、まさに雲の上の人?たちですが、60年以上生きて、たくさんの人と出会う中で、それら「スーパー」な人たちにも出会うことがあります。その人たちの「共通点」を考えてみます。

 「上には上がいる」とも言います。客観的な比較ができる世界で言えば、「スポーツ」特に記録が数値化できる競技の場合です。陸上競技や水泳の「タイム」などはとても比較しやすいですね。一方で「音楽」の場合、誰がすごい?誰が一番うまい?と言う客観的な比較はできません。「コンクールがある!」と言う人がいますが、同じ国際コンクールで「1位=優勝」した人たちの「比較」ってできますか?ショパンコンクールで優勝した人だって、今までに何人もいますよね(笑)結局、音楽の世界では「世界記録」は存在しないのです。

 さて本題に戻ります。「できる人」に共通していることは、たくさんあるように感じます。とは言え「凡人」の私が感じることなので、本当は違っているかもしれませんがお許しください。
 ・覚えるより考えることが好きな人である。
 ・ひとつの事を極めるために、ほかの事にも打ち込む人である。
 ・他の人がやらないことを見つけるのが好きな人である。
 ・常に新しいことを見つけようとする好奇心が旺盛な人である。
 ・自分の能力を常に客観的=相対的に評価できる人である。
 ・他人と自分を同じ目線=同じ位置で考える人である。
他にも色々思いつきますが、少し「逆の場合=凡人」を考えます。
 ・覚えれば頭が良いと思い込む凡人
 ・ひとつの事だけに執着し、効率も能率も悪い凡人
 ・他人のやっていることを出来れば満足する凡人
 ・今の知識と常識から抜け出さない凡人
 ・自分の能力を冷静に見ようとしない凡人
 ・自分よりできる人ををひがみながら自分より出来ない人を探して喜ぶ凡人
いかがでしょうか?ちなみに私はすべて下の段の「凡人」です。

 例えて良いのか?自信がありませんが、私の考える「できる人たち」です。
・クラシックもジャズも音響学も作曲も動画編集も好きなんだろうなというピアニスト「Cateen」こと、角野隼人さん
・クラシックも新しいスタイルの演奏も武道もビジネスも社会活動も好きなんだろうなというヴァイオリニスト、五嶋龍さん
・演奏することも音楽を広めることも子供と過ごすのも好きなんだろうなというヴァイオリニスト、イツァーク=パールマン

・インターネットSNSを活用することでクラシック音楽を広めようとするヴァイオリニスト、レイ=チェン
・宇宙旅行もスーパーカーも子供たちに夢を与え続ける企業経営者、前澤友作氏
・ロボット「オリヒメ」で障がいのために孤独になる原因「移動・対話・役割」をテクノロジーで解決しようとする科学者「オリィ」氏

 勝手に挙げさせてもらいましたが、もちろん!ほかにもたくさんの「できる人」が世界中にいると思っています。そうでない人は「できない人」ではなく、「普通の人=凡人」だと思っています。凡人こそが人類だ!と言われればその通り!(笑)でも、私たちが思い込んでいる「できない自分」は、もしかしたらできる人たちの真似をしてみることで「できるようになる」とも思うのです。「できもしないのに」という考え方は、卑屈で私は好きではありません。
矛盾していると思われそうですが、「できているつもり」も違うと思います。
「一流の演奏家」と呼ばれる人たちの中には、悪い言葉で言えば「〇〇のひとつ覚え」に感じる演奏をする人がいます。誤解されそうですが、音楽に打ち込んでいる人のことではありません。「自分の音楽にしがみつく人」のことです。
 いろいろ書きましたが、「あきらめない」ことが私のような凡人には、何よりも大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

優しい演奏は易しいか?

 演奏は、私と浩子さんのCD「Tenderness」に収録した「ハルの子守歌」
渋谷牧人さんの作品を、ヴィオラとピアノで演奏したものです。
前回のブログ「レッスン」で私が書いた「指導者のコピー」についての私見にもつながりますが、2022年の世界で一番大切なキーワードは「優しさ」ではないでしょうか。

 国際コンクールで技術を競い合う事より、もっと大切なことがあると思うのです。もっとはっきり言うなら、音楽で競いあう時代はもう終わっていると思うのです。「ソリストの〇〇さんより上手に演奏する」ことを目指すことに、私は意義を感じません。演奏家に求められているのは、聴く人の心を和ませ、穏やかな心にしてくれる演奏ではないのでしょうか?怖い顔をしながら演奏する音楽に、人は癒されないと思うのです。「癒しだけが音楽ではない」ことはわかっています。人を勇気づける音楽もあります。故郷を思い出す音楽もあります。激しい音楽もあります。ただ、どんな音楽であっても、演奏している人の「暖かさ」を感じない演奏が増えている気がしてなりません。それは、習う人の問題ではないと思います。教える側の責任です。教える立場になったとき、自分の経験で得た技術を、生徒に伝えるのは大切なことです。技術は教えられても「音楽」はその人、固有のものです。神様でも仏様でもない人間が、他人に自分の「感覚」を伝えることは不可能です。自分の表現を、生徒に「真似させる」ことは実は難しい事ではありません。教えられた生徒は「うまくなった」と勘違いします。自分の感覚で作ったものではない「形=表面」をいくら練習しても、自分の音楽にはなりません。生徒に「安直にうまくなれた」と思わせるのは、生徒に喜ばれます。「上手ね」と言われているのと同じことです。

 人間の優しさは、その人の音楽に現れると確信しています。
一方で、人間の「強さ」は他人に見せびらかすものではありませんし、「強がる」人間は自分の弱さを隠しているだけだと思います。「誰かに負けない」と言う発想は強さではありません。それは他人が自分よりも弱いことを願っているだけなのです。戦争をしたがる人は、自分では決して血を流しませんよね?それと同じです。
 CDに書いた言葉です。
強くなくても
目立たなくても
すごくなくても
優しい音が(人が)

好きだから

  他人に優しくすることは、一番難しいことだと思います。
聴いている人を「優しい気持ち」にする演奏は、自分が他人に優しくなければできないと思っています。演奏の技術にしても、人を驚かせる演奏より、人を優しくさせる音楽の方がずっと難しいと思うのです。
「北風と太陽」のお話みたいですが、今の時代に「北風」を感じる演奏よりも、「太陽」を感じる暖かい演奏が必要だと思うのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レッスンに思う

 今回のテーマは、「レッスン」について。
偶然、ある日本の音楽大学でヴァイオリンを指導するヴァイオリニストの「レッスン」の一部をYoutubeで見ました。その先生のお名前、学校名は伏せさせて頂きます。とても高名なヴァイオリニストで、習う側もコンクールで優秀な結果を出している若者でした。非常に具体的に、一音ごとの演奏方法について「指導」している場面が多く、見ていて違和感を感じたので自分の経験を踏まえて、書きたいと思います。

 ちなみに動画は、マキシム・ヴェンゲーロフのマスタークラス(公開レッスン)の映像です。私はこのレッスンに共感します。
 私の恩師、久保田良作先生は優秀なヴァイオリニストを、本当にたくさん排出された桐朋学園大学「主任教授」でもいらっしゃいました。小学生から音大生、その卒業生までをご自宅と学校でレッスンされ、多忙な先生でした。
 私はその門下生の中で「一番へた」な生徒だったと自覚しています。
自分のレッスン以外にも、前の時間の同門生徒のレッスンを見ることができました。
私が不出来だったこともあるのですが、先生は決して「こう弾きなさい」と言う内容の事はおっしゃらないレッスンでした。生徒が自分で考えて演奏することを、何よりも大切になさっていたように感じていました。
 他方、学内で他の先生の中には、具体的に「この音はこう」「この音のビブラートはこう」と言う「指導」をされていた先生もおられたようです。実際、その先生の門下生の演奏は、「先生の演奏のような演奏」だったことをを記憶しています。私はその当時、そのことに何も感じていませんでした。

 今回、Youtubeでレッスンを見ながら、指導者が「自分の演奏をそのまま教える」ことが、果たしてレッスンと言えるのだろうか?と素朴に感じました。
生徒が師匠の「真似」をしようと研究するのとは、まったく問題が違います。
指導者が自分で考えたであろう、一音ごとの「演奏方法」をそのまま弟子に事細かに教えるのは、弟子にしてみれば「ありがたい」事かも知れません。考えたり研究したり、試したりしなくても「先生の演奏方法」を先生が直接教えてくれるのですから。
 先生と弟子が一緒に演奏している演奏動画もアップされていました。
見ていて正直「不気味」でした。ビブラートの速さ、深さ、固さまでが「そっくり」で、ボーイングの荒々しさ(良く言えば強さ)まで同じでした。「クローン」を見ているようでした。弟子にしてみれば「光栄なこと」だと感じるでしょうが、本当にそれで良いのでしょうか?

 何よりも、演奏方法や音楽の解釈に「正しい」と言うものはあり得ません。人それぞれに、求めるものが違うのが当たり前です。生徒が自分の好きな演奏を考え、その実現方法を模索し、試行錯誤を繰り返すことが「無駄」だとは思わないのです。さらに厳しいことを言えば、指導者が自分の演奏を弟子に「これが正しい」と教えるのが最も大きな間違いだと思います。私はその指導者の演奏を聴いていて「押しつけがましい」印象を受けます。違う言い方をすれば「冷たく、怖い演奏」に感じます。どんな優れたソリストであっても、聴いてくれる人、一緒に演奏する人への優しさがなければ、独りよがりの演奏になります。むしろ「技術だけ」のお披露目であり、演奏者の人間性や暖かさは、どこにも感じないのです。「うまけりゃ良いんだ」という考え方もあります。人間性より演奏技術だと言われれば、そうなのかも知れません。
 ただ、自分の弟子を大切に思うのであれば、目先の「コンクール」よりもその生徒の「考える力」を大切にし、自分よりも多様性のある演奏をしてほしいと、願うのが指導者ではないでしょうか?
 生徒がうまく弾けずに、悩んでいる時に、一緒に悩んであげるのが指導者だと思います。「自分の答え」を教えてあげるのが指導者ではないと確信しています。それは生徒にとっての答えにはなりません。
 私自身が不器用で、不真面目な生徒だったから、私の生徒には私より、もっと上手になって欲しいと常々思っています。私は久保田先生の指導に、心から感謝しています。自分に足りない技術を、自分で考えることを教えて頂きました。
安直な解決方法より、自分で解決することを学べた結果、自分で考えた音楽を、自分で考えて演奏する楽しさを知りました。
 音楽に正解はありません。だからこそ、自分で考える力が必要だと思います。
生徒に教えるべきことは「自分で考えること」以外にないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

愛のある「演奏」と後味の悪い「チャラ弾き」

 今回のテーマも、きわめて個人的な「私見」ですので、お許しください。
始めに書いておくと、これから書く内容はあくまで「演奏家」に対して思う事であって、趣味の演奏者=アマチュアの人への差し出がまし意見ではありません。特に、若い演奏家、あるいは演奏家を目指す学生たちへの「はなむけ」と、街中で繰り広げられる「ストリート△〇×」に感じることです。

 演奏に愛を持っているか?
大上段から切り込みましたが、プロの演奏家として演奏する人が、持つべきものはたくさんあると考えています。「誇り=プライド」も大切です。「責任感」がなければ職業とは言えません。「技術」は自分の出来る限りの努力で身に着けるものです。何よりも「人への感謝=愛」だと私は思います。自分への愛も含め、親、師匠、作曲者、聴いてくれる人、支えてくれるスタッフなど、演奏できることへの感謝があってこそ、聴いていて「心地よい」演奏、料理で言えば「おいしい=愛情のこもった手作り料理の味」だと思います。
 下の動画は私が好きな演奏家の動画を三つだけ選ばせてもらったものです。

 今回の動画はこれだけです。「チャラ弾き」だと感じる演奏については、ご本人のプライドもありますし、あくまで私見ですので「これ!」と言う具体的な指摘は致しません。
 上の演奏は単に「すごい」だけではなく、感じるものがあります。
直接、ご本人に伺ったわけではないので想像でしかありませんが、どの演奏にも演奏者の「こだわり」を感じるのです。速く演奏するためだけに練習したとは思えません。速く演奏すること以上に、その音楽への愛情を感じます。「好きなんだろうな~」と聞いていて感じるのです。

 一方で私の考える「チャラ弾き」の定義です。
・自分の演奏する音楽を、深く考えずに演奏している。
・聴いてくれる人への「敬意」を感じない。
・その場の「受け」を優先している。
 それが演奏者の本位でない場合も当然にあることです。
聴いていて・見ていてそう、感じるという意味です。
私自身が音楽を学び、ヴァイオリンやヴィオラを演奏し、生徒さんに演奏を教える「生活」をしているから感じる面もあります。
 つまり、一般の人=演奏家でない人や、私の先輩や師匠の皆様が感じられるものは、私と違って当然だと思うのです。
 演奏を聴いて後味の悪い印象を感じる演奏が「チャラ弾き」です。
料理で言えば、明らかな「手抜き」の「レンチン」「レトルト」料理を食べ終わった後の感覚に似ています。断っておきますが、私は近頃の「冷食」大好きです。屋台のラーメン、お好み焼き、たこ焼きも大好きです。
 母の作ってくれた料理は、決して見た目の綺麗な料理ではありませんでした。
「野村家」のカレーは、両親が辛いものが大嫌いだったので「辛くないカレー」でした。今思うと、もしかするとハヤシライスに近い食べ物を「カレー」だと思って育ちました。それでも、そのカレーが大好物でした。家族への「愛」が甘いカレーを作ったのだと思います。
 料理に「インスタント」はあってしかるべきだと思います。手軽に作れて、栄養もとれるのですから、むしろ素晴らしい食べ物です。
 ではプロの演奏家に「インスタント」は許されるのでしょうか?
・楽譜をただ、何も考えずに演奏するだけ。
・ただ速いだけや音量が大きいだけの演奏。
・聴く人によって演奏のレベルを変える=わからない人だと思えば適当にごまかして演奏する・試験になると減点されないだけの演奏をする。

 聴く人がだれであっても、自分の出来る限りの演奏をするのが「プロ」だと思います。自分の演奏技術の「ひけらかし」が通用する相手としない相手がいるのは事実です。通用しないと「つまらない演奏」でも減点されない=まちがえない演奏に終始するのは、根本的に間違っています。技術は、聴いてくれる人に自分を表現するための「手段」です。自分を表現しない演奏は、音楽ではなく「音=ノイズ」です。雑音でなくても「音」でしかありません。
 ストリートピアノにも様々な演奏があります。
演奏者の「愛」や「魂」を感じる演奏もあります。
アマチュアの人が、楽しんで演奏しているYoutube動画は、ほほえましく見られます。一方で「まさか…音大生?じゃないよね…」と思われる映像を見かけると、ぞっとするのは私だけでしょうか。だれか言ってあげないのでしょうか。それ、今後の仕事に差し支えるからやめたら?と。本人の価値観ですから良いのですが、プロの演奏家として生活することを「なめて」いるとしたら、大間違いですよね。はい。老婆心でした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器が変われば弾き方も変える

 上の二つの動画はどちらも「ラベンダーの咲く庭で」と言う映画のテーマ音楽です。演奏者は見ての通り(笑)私たち。演奏場所は、(上)代々木上原ムジカーザと(下)長野県木曽町のホールです。使用しているヴァイオリンは、(上)1808年サンタ=ジュリアーナ製作の愛用楽器、(下)2004年陳昌鉉氏の製作した「木曽号」。弓はどちらも私の愛用弓。浩子さんの演奏しているピアノは、(上)ベーゼンドルファーと(下)恐らく戦前に作られたスタインウェイ。
録音の方法が全く違うので、比較にはならないかも知れませんが、この二つのヴァイオリンを演奏した経験で「楽器による演奏の仕方の違い」を書いてみます。

 陳昌鉉さんのヴァイオリンを使って、陳さんゆかりの場所である木曽町でのコンサートを依頼されてから、この楽器で演奏に至るまでに、多くの問題がありました。まず、初めて手にした時に、およそ陳さんの作った楽器には思えない、見た目と音でした。調べた結果、アマチュアヴァイオリン奏者に貸し出した際に、その人が「指板」「駒」「魂柱」を別のものに付け替えていました。東京のヴァイオリン工房で作業した領収書がありましたので間違いありませんでした。当然、まったく違う楽器になってしまいました。駒と魂柱だけは、交換した「オリジナル」がヴァイオリンケースに無造作に入れてありましたが、指板はなし。陳さんの奥様に相談し、陳昌鉉さんが使用していた未使用の指板を頂き、信頼できる職人に依頼し、さらに陳昌鉉さんの制作した遺作ヴァイオリンを持ちこんで「復元作業」を施してもらいました。
 その後、その楽器でコンサートのための練習を開始することができました。

 陳昌鉉さんの木曽号は、新作であるにもかかわらず「枯れた音色」が特徴的な楽器です。陳昌鉉さんがご存命なら、私の「好み」に楽器を調整して頂くことも可能でしたが、それも叶わず、これ以上楽器に手を入れることも当然許されず…。出来ることと言えば、弦を選ぶことと「演奏方法を考える」ことです。
 木曽号は枯れた音色の「グヮルネリ・モデル」ですが、高音の成分が比較的少ない音色のために、「音の抜け=音の通り」に弱さがありました。
 普段、私はピラストロ社のガット弦「オリーブ」を使っていますが、音の明るさ=高音を足すには適さない弦です。同じピラストロ社のガット弦「パッシォーネ」も試しましたが、明るさは補えるものの弦の強さにヴァイオリンが負けて、音量が出し切れません。最後に選んだのが、トマステーク社の「ドミナント・プロ」でした。比較的新しく開発された弦で、テンション=張力は標準、高音の成分が多く明るい音色で、抜けの良さが特色の弦です。ただ、低音の太さが足りず、結果として音量をだすための演奏技術が必要になりました。

 まず楽器を自分の好みの音色で演奏するための「ひきかた」を楽器に問いました。弓の圧力・駒からの距離・弓の速度・ビブラートの速さと深さ・弦ごとのひき方など。そうやって、毎日少しずつ木曽号と「仲良く」なる時間を作りました。それが「正しい弾き方」かどうかは、私にはわかりませんが、少なくとも私の好きな音に近付けたことは事実です。

 映像を見比べて頂くと、指使いが違う事、ボーイング=弓のダウン・アップが違う事にも気づいていただけると思います。会場の響きも、一緒に演奏するピアノも違います。何よりもヴァイオリンが違います。指も弓も「同じ」で演奏できるはずがありません。仮に同じ指・弓で演奏すれば、もっと違う演奏になっていたはずです。
 演奏自体が満足のいくものだったか?と言われれば、いつもの事ながら反省しきりです。それでも、最善の準備と練習をして臨んだ演奏です。
ぜひ、ふたつの演奏を聴き比べて頂き、「演奏の傷の場所と回数」ではなく(涙)違いを感じて頂ければと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲家の「らしくない曲」

 映像の音楽は、私と浩子さんがデュオリサイタル1で演奏した、チャイコフスキーの懐かしい土地の思い出という曲集のひとつ「メロディー」です。
あと2曲は「瞑想曲」と「スケルツォ」ですが、懐かしい…で検索すると多くは「メロディー」がヒットします。言い換えれば、一番人気のあるのがメロディーということなのでしょうか?
 私個人の「好み」の問題でもありますが、この曲がなんとなく「チャイコフスキーの作品らしくない」気がするのです。チャイコフスキーが作曲したのはおそらく間違いのない事実です。
 矛盾するようですが、私はチャイコフスキーの作品が大好きです。
無謀にも、高校2年生後期実技試験でチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトに挑戦した「若気の至り」から始まります。
 弦楽セレナーデ、交響曲4番・5番・6番、くるみ割り人形、ロメオとジュリエットなどなど、私の「お気に入り」の中にチャイコフスキーの作品がたくさんあります。その中で、この懐かしい…の「メロディー」に、チャイコフスキーの「らしさ」を感じないのです。

 作曲家によって、作品に個性が感じられる場合があります。
それはクラシックに限りません。他の作曲あの曲と、似ている「要素」は当然たくさんあります。
「らしさ=個性」は、作曲家の「好み」でもあります。
同じ作曲家の作品でも、曲によって「テーマ」「和声進行」「リズム」「テンポ」などが違って当たり前です。作品ごとの「テーマ」「モチーフ」と呼ばれる音楽の印象を決定づける「要素」があります。また、主旋律とそのほかの楽器との「アレンジ」にも個性があります。

 チャイコフスキーの作品の「どんなところが好き?」を少し言語化してみます。
 「情熱的」「感情的」「しつこい(笑)」「ひとつのテーマが長い」「音楽の最後に繰り返しが多い」「テーマの旋律が美しく覚えやすい」「聴いていて拍子が分からなくなる」などなど。食べ物で言うと「スパイスの利いたおいしいカツカレー」って、違います?(笑)少なくとも「おそうめん」ではないですよね?

 この「メロディー」が美しい曲で、親しみやすさもあることには何も異論はありません。違う言い方をすれば「チャイコフスキーの一面」だとも感じます。
作曲家と言う「職業」であっても、人間としての「苦悩」はあるものだと思います。作曲家として高い評価を得られても、その評価が「重荷」に感じることもあるはずです。すでに誰かの作った旋律を使えば「盗作」と叩かれ、前衛的でも評価されない。演奏家は、うまければ評価されます。その意味でこの「演奏家よりも厳しい評価にさらされるのが作曲家です。
メロディー」が誰の作品かということより「美しい曲」として考えればよいだけなのでしょうね。
最後に、チャイコフスキーの「作品番号2-3」である「ハープサルの思い出=無言歌」をクライスラーが編曲した演奏動画をご覧ください。

チャイコフスキーが27歳の時の作品です。私の思っているチャイコフスキー「らしさ」は、あまり感じられません。どんな作曲家でも年を重ねるうちに、作品が変容するのが自然です。
これから先、演奏するであろう「音楽」たちを、先入観を持たずに演奏できるように、もっと知識を持ちたいと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

チェロとヴィオラとヴァイオリン

 映像はデュオリサイタル8で演奏した、サン・サーンスの白鳥。チェロを演奏できない私がヴィオラで、浩子さんのピアノと演奏したものです。
作曲者が「特定の楽器」のために楽譜を書いた作品はたくさんあります。
この白鳥に限らず、私たちが耳にする演奏の多くは、オリジナルの楽器で演奏されたものです。オーケストラで演奏するための楽譜、声楽とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、弦楽四重奏などなど音楽のほとんどには「オリジナル」の楽譜があるものです。
中には作曲者自身が、異なった種類の楽器でも演奏できる楽譜を書き残した作品もあります。エルガーの愛の挨拶も、ヴァイオリン用の楽譜は「Edur」フルート・チェロで演奏するために「Ddur」のが区譜を書いています。そのほかにも、シューマンのアダージョとアレグロは、ヴァイオリン・ヴィオラ・ホルン・チェロの楽譜が掛かれています。サービス精神旺盛(笑)

 オリジナルの作品を、のちに違う楽器で演奏できる楽譜にする=演奏することも、珍しくありません。ポピュラーで言えば「カバー」と呼ばれるのもこの類です。
その場合、オリジナルの「演奏=音」に慣れ親しんでいる人にとって、時に違和感や不快感を感じるケースもあります。自分が好きな曲・演奏ほど、その傾向は強くなります。私の場合、オフコースが歌っていた「眠れない夜」と言う曲を、ある歌手がカバーして歌っているのを聴くのが、とても不快でした。その人がうまいとか下手とか言う問題ではなく、ある意味でその曲が「神聖な」ものに感じていたからです。皆さんも似たような経験はありませんか?私だけ?

 さて、白鳥に話を戻します。
この演奏は、オリジナルのチェロ演奏と、まったく同じ高さの音=同じ音域でヴィオラで演奏しています。ヴァイオリンでこの「実音」を出すことは不可能です。
だからと言って、チェロの音と「そっくりの音」になるかと言うと、残念ながら?当たり前のことながら、そうはなりません。音の高さは同じでも、楽器の構造が違いすぎるからです。4本の弦を「C・G・D・A」に調弦することはチェロとヴィオラは同じです。ただ音の高さが実音で1オクターブ違います。楽器の筐体=ボディの大きさがまるで違います。弦の長さ・太さがまるで違います。
 音域・音量・音色のすべてが違う楽器なのです。似ていることはいくつもありますが、「音」としては、まったく違うものです。
コントラバスやチェロで演奏できる「高音」は、ヴィオラやヴァイオリンと同じ音域を演奏できる上、とても近い音色」が出せます。単純に音域の広さの問題だけではなく、太い弦で弦の長さを短くして出せる「高音」は、ヴィオラとヴァイオリンに近い音色を出すことができるという「強味」があります。
 ヴィオラでチェロの「雰囲気」は醸し出せても、チェロの音色は出せません。
私たちがこの曲を演奏する時も、オリジナルの演奏「チェロの音」が好きな人にはもしかすると「嫌な感じ」に聴こえるかもしれないことを、演奏前に予めお話してから弾き始めます。

 先述の通り、楽器のよって演奏できる音域=最低音から最高音が違います。
特に「低音」の幅が大きい楽器、弦楽器で言えばコントラバスやチェロのために書かれている楽譜を、音域の狭いヴィオラ、ヴァイオリンで演奏すると単純に「高く書き換える=移調する」だけでは演奏できないか、できたとしても「途中で折り返す=低い音に下がって上がり直すしかありません。。
一つの例ですが、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」と言うチェロのために書かれた曲を、ヴィオラで演奏しようと挑戦したことがあります。
様々試してみましたが、どうしてもこの曲の最大の魅力でもある「アルペジオ=分三和音」を原曲の通りには演奏できない=ヴィオラの音域が狭いために、聴いていいて違和感が強すぎて諦めました。実際にヴィオラで演奏している動画もいくつか見かけますが、オリジナルを知っている人間には「無理してひかなきゃいいのに」と言う印象が残ってしまいます。

 前回のリサイタルで演奏した、カール・ボーム作曲の「アダージョ・レリジオーソ」と言う曲は、原曲=オリジナルはヴァイオリンの楽譜です。実際に以前のリサイタルではヴァイオリンで演奏しました。それを、ヴィオラで演奏するために、オリジナルとは違うオクターブにしたり、カデンツァを書き換えたりしました。あまり演奏されることのない(笑)曲なので、お聴きになったお客様方にも違和感がなかったようでした。

 最後になりますが、作曲者が考えた「楽器と音楽」を、違う楽器で演奏する場合に、原曲との違いを演奏者がどのように「処理」するかの問題だと思います。
聴いてくださる人の中には、嫌だと思われる人も少なからずいらっしゃるはずです。それでも、自分が演奏する楽器で、お客様に楽しんでもらえる「自信」と「覚悟」がないのなら、演奏すべきではないと思います。
ピアノ曲をヴァイオリンで演奏し他場合に「なんか変」と多くの人が思う曲もあると思います。「それ、ありかも」と思われるピアノ曲もあるでしょう。単に楽譜があったからという理由や、有名な曲だからと言う理由だけで、「異種楽器演奏」することには、私は賛成できません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピアノのアレンジで変わる音楽

 映像は、ドボルザークの「ロマンティック・ピース」第1回のデュオリサイタルで演奏したときの録音です。ふたりで開く初めてのリサイタルでした。

 今回のテーマは主にピアニストとの二重奏で感じる「ピアノアレンジ」について。アレンジと言うと、いかにも編曲したと言うイメージになりますが、要するに「ピアノパート」の楽譜について、ヴァイオリン演奏者として考える内容です。ピアノをまともに演奏できない私が「偉そうに!」と思われるのを覚悟で書かせてもらいます。

 今までに浩子さんとふたりで、本当にたくさんの「二重奏」を演奏してきました。
その中には作曲者自身が、「ピアノとヴァイオリン」の楽譜を書いた作品もありますし、原曲はオーケストラの楽譜だったり、ボーカルとバンドの楽譜だったり、ギターとヴァイオリンの楽譜だったりと様々な「楽譜」を、ピアノとヴァイオリン、ピアノとヴィオラで演奏できるように書かれた楽譜を使ったり、自分たちで楽譜を作ったりしたものもたくさんありました。
 その音楽の中で「ピアノパート」は、主旋律を変えずに音楽の印象を根底から変える重要性があると思います。その理由を考えていきます。

 何よりも、ピアノと言う楽器は旋律も和声も演奏できる楽器だと言う当たり前の事を考えないでは話ができません。言い換えれば、ピアニスト一人=ピアノ1台で「音楽を完成できる」楽器なのです。一方で、ヴァイオリン・ヴィオラは「単旋律楽器」の部類に属します。確かに重音=2声の和音を演奏できますが、管楽器と同様に主に旋律を演奏することに特化した楽器です。
 先にヴァイオリン・ヴィオラがピアノに「出来ない」こと=ヴァイオリン・ヴィオラに出来ることを挙げておきます(別に悔し紛れではありません笑)
・発音してから音の大きさを自由に変えられる。
・音の高さを半音より細かく変えられる=ビブラートがかけられる。
以上です(笑)あ。持ち歩ける…(悔し紛れ)
 では、ピアノに出来てヴァイオリン・ヴィオラに出来ないことです。
・3つ以上の音を同時に演奏できる。
・音域がすべての楽器の中でも特に広い(ヴァイオリンの3倍以上)
・ヴァイオリンより大きな音量で演奏できる。
細かいことは除いて考えて、上のような違いがあります。
その違いが二重奏で、どのように活かされているか?について考えます。

 ピアノで演奏する場合に、発音された音は必ず「減衰=だんだん小さくなる」のが打弦楽器の特性です。ゆっくりした音楽の長い音符を、ピアノで演奏した場合は、どんなに頑張っても音は次第に弱くなっていきます。同じ高さの音をヴァイオリンで演奏した場合、音の大きさを次第に大きくすることも、ピアノと同じ速度で弱くしていくこともできます。当然ですが音の高さが同じでも、ピアノとヴァイオリンは音色が決定的に違いますが、音量を二人(ピアノとヴァイオリン)がコントロールすることで、聴いている人に「ピアノとヴァイオリンの音が溶けて聴こえる」現象が起こります。簡単に言えば「新しい音色」が生まれることになります。音量のバランスは以前に書いた通り、演奏者自身が感じるバランスと客席で聴こえるバランスは全く違います。客席で聴いている「耳」にふたつの楽器の音量が同じように聴こえる時にしか生まれない「音色」です。

 ヴァイオリンが主旋律を演奏し、ピアノがその旋律とは違う旋律と和声を演奏する場合を考えます。
ピアノは同時に演奏できる音が多いだけではなく、連続して=短い音で演奏することもできる楽器です。和音の状態で連続して演奏もできる優れた楽器です。
 ヴァイオリンが「長い音」を演奏し、ピアノが「短い和音」を連続して演奏した場合に、ピアノの音量がヴァイオリンよりも大きく聞こえてしまうケースがあります。物理的な音量バランスよりも、感覚的にピアノの動きが耳に付きすぎる場合に、ヴァイオリンがより大きな音を出そうとすれば、前後の音との相対的な音量の変化が少なくなりがちです。簡単に言えば「弱く弾けない」ことになります。さらにピアノとヴァイオリン・ヴィオラの「音域」が、近い場合と開離している場合でも、聴感上のバランスに影響します。
ヴァイオリンの旋律と近い音域でのピアノは、混濁して=溶けて聞こえます。
音域が明らかに違う場合には、それぞれの音が独立して聞き取りやすくなりますが「溶けない」印象が残ります。

 ピアノが旋律を演奏し、ヴァイオリンがオブリガートを演奏する場合もあります。極端なたとえが、ベートーヴェンのスプリングソナタですね。
ピアノが冒頭部分で演奏している分散和音を、ヴァイオリンが演奏しピアノが主旋律を演奏する部分。正直に言えば私は、とても違和感を感じます。
先述の通り、ピアノは旋律と和声を一人で演奏できる楽器です。ピアノが主旋律を演奏している時のヴァイオリンの「立ち位置」の問題です。
私はヴァイオリンパートが、無くても良いと思うときにはピアノだけの演奏で良いと思う人間です。ピアノの「良さ」をあえて下げてまでヴァイオリンの音を上乗せする意味をあまり感じないからです。

 少し前のブログにも書いた通り、ピアノは伴奏楽器ではありません。
二重奏でも三重奏でも、それは変わりません。ピアノトリオ(三重奏)の曲は、どうしてあんなにピアノに頑張らせるのか(笑)、私には理解できません。
ピアノ・ヴァイオリン・チェロが「ソリスト」的に演奏すると言う意図は理解できますが、ピアノになにからなにまで(笑)押し付けているように感じるのは私だけでしょうか?もっと少ない音の数でも、ピアノの良さは感じられると思います。それこそ「オーケストラの代わり」をピアノに担当させているような気がしてなりません

 最後にピアノパート=アレンジに私が求めることを書きます。
ヴァイオリンが主旋律を演奏するのであれば、ピアノが対旋律と和声を組み合わせた音楽で、主旋律の音域、テンポと音の長さ、音量を考えたうえで、両者の音が「溶ける音」と「独立した音」が明確になっている「アレンジ」が好きです。
声楽曲に多く見られる「ピアノも主旋律を演奏する」安直なアレンジは好きではありません。ユニゾンを効果的に使い、主旋律の進行に、不自然さを感じさせない副旋律が好きです。
「それ書いてみろ」と言われてもできません。ごめんなさい。
楽譜が作曲家の「作品」だとしても、演奏者が違和感を感じる場合に、手を加えることが「タブー」だとは思っていません。聴く人が自然に聴こえる「楽譜」こそ、二重奏の楽譜だと感じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

モーツァルトと歌謡曲

上の映像は、モーツァルトのヴァイオリンソナタ 21番 e moll K.304
デュオリサイタルで私と浩子さんが演奏したものです。演奏中の映像は撮影していませんでした(笑)
下の映像は、中島みゆきの「糸」を同じくデュオリサイタルでヴィオラとピアノで演奏したものです。この2曲でなにを比較しようって?そこが音楽の楽しみ方です。

 「旋律と和声をヴァイオリン(ヴィオラ)とピアノで演奏している」
この点は、モーツァルトのソナタも、中島みゆきの糸も同じです。
「曲の中に短調と長調の部分がある」これも同じ。
「ソナタは2つの楽章で構成されているが、糸は同じ旋律で1番・2番がある」
この点で大きな違いがあります。言い方を変えると、モーツァルトのソナタは「2つの曲から出来ている」という事になります。

 モーツァルトの音楽は完成度が高く、糸は低いのでしょうか?
ソナタは高尚で、糸は低俗でしょうか?音楽として台頭に比較してはいけないのでしょうか?
 すべての音楽に共通することを考えます。
・曲を作った人がいる。
・演奏に関わった人がいる。=人が演奏するとは限らない。
それ以外について、たとえば旋律だけの音楽もあります。和声だけで主旋律がない「カラオケ」も音楽です。演奏が声でも楽器でも機械でも、音楽です。
美しい旋律だけが音楽でもありません。リズムが感じられなくても音楽です。
当たり前ですが「嫌い」でも音楽は音楽なのです。

作曲された時代が古ければ「クラシック音楽」の部類に分類されます。
クラシック音楽に用いられる「様式・形式」で、現在生きている人が作曲したら?それは、クラシック音楽ですか?おそらく「ダメ!」ですよね。
以前のブログでも書きましたが、ゲーム音楽や映画音楽を「音楽」としてだけ聴いた時に、その作曲年代や作曲者を正確に言い当てられる人間は、作曲者本人以外に存在しないはずです。それでは、クラシック音楽と現代の音楽に何も差はないのか?と言えば、歴然とあります。それは…

クラシック音楽と言われる音楽を作曲した人たちと、その曲を初めて演奏した演奏者たちの多くは「現代音楽」もしくは「前衛的な音楽」を作曲し演奏していた人たちです。私たちは、バッハやモーツァルトの時代を知りません。文献や絵画で想像するしかありません。その当時の「観客=聴衆」の感覚も知りません。当時の人たちの生活も知りません。音楽をどうやって聴いて楽しんでいたのかさえ、想像でしかありません。
 私たちが生きている間に作曲された音楽を、私たちが演奏する時の様子を、モーツァルトの時代の人がもしも見たら、どう?感じるでしょうね。
「この音、なんの楽器?」
「あれ?俺の作った曲に似てるぞ?」
「え!?人間がいないのに音楽が聴こえる!」
「かっちょえー!この和声と旋律、いただきっ!」(笑)
これ妄想でしょうか?大きなタイムトリップは現代の科学では不可能とされています。もし未来にタイムマシンが出来ていたとしたら、私たちは未来の人に会っているはずなので、それがないという意味では未来にもタイムマシンができていないと言う科学者もいます。「いや!それは!」と言うお話もあるでしょうね(笑)話がそれました。すみません。

 クラシック音楽の作曲者は、試行錯誤しながら当時の聴衆の反発と冷笑に耐えながら音楽を作り続けました。その音楽は楽譜として残され、今も演奏することができます。もしも楽譜と言う「記号」がなければ、当時の音楽を「正確に」再現=演奏することは不可能です。民謡のように「音楽」が伝わることはあったでしょうが、少なくともほとんどの「クラシック音楽」は演奏できなかったはずです 。
 その音楽の「様式・形式」に慣れた、現代の私たちが作る音楽「ポピュラー」を大切にすることも、クラシックの音楽を大切にすることに繋がっていると思います。そうでなければ、クラシックの作曲者が作った音楽は、いずれ歴史の中に埋没します。今も誰かが「似たような音楽」を作り続けることに大きな意味があると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プログラムは「献立」

 映像は、デュオリサイタル13(2021年1月)の後半部分をまとめたものです。長い&多い(笑)こんなプログラムのコンサートって、邪道?かもしれませんね。多くの「ヴァイオリンとピアノによる」クラシックコンサートの場合、
「ヴァイオリンソナタ」が必ずと言っていいほどプログラムに組み込まれています。「それでこそ!」と言われればその通りです。過去14回のデュオリサイタルで、ソナタを全楽章演奏したプログラムは一回しか!(笑)ありません。私たちには、それなりに理由があるのですが、それが「音楽の切り取りだ」とのご意見も甘んじて受け入れます。むしろ、そちらがスタンダードだと思いますが、ソナタの単一楽章を演奏することに、不満を感じる人ばかりではないと言うのも事実です。以前にも書きましたが、多くの人が知っている「クラシック音楽」は1曲の中の一部分であることがほとんどではないでしょうか?それは、単にクラシック音楽を知らないからだという理由だけではないと思います。楽しみ方の違いでもあります。
映画は2時間程度の長さの物が多く、テレビの番組は長くて1時間位ではないでしょうか?演劇や歌舞伎、オペラやミュージカル、落語、ロックやジャズ、ポップスのライブなどで、演目の時間や休憩時間は様々です。ライブの場合、飲み物を飲みながら演奏を楽しむこともあります。クラシック音楽を昔から楽しむ文化のあるヨーロッパでは、子供を寝かせた後に、正装してコンサートに出かける「伝統」がありました。日本では考えられないことです。歌舞伎では「幕」の合間に食事をする「幕の内弁当」が今でも伝統として残っています。
イベントの楽しみ方も時代と共に変化して当たり前だと思います。

 コンサートの内容を紙に書きだした「プログラム」に曲目解説などの「ノート」を書き込めば、お客様に情報は伝えられます。演奏者は演奏だけで終始してもお客様は満足するでしょう。「音楽を聴くだけならの話です。音楽を演奏している「人」や演奏者が曲を選んだ「理由」と「思い」について、お客様に隠す理由もないと思います。私たちのリサイタルでは、曲管にお客様にお話をすることで、私たちがそれぞれの曲に対して思うことや、エピソードを私たちの言葉で語ります。トークの専門家ではないので、うまく話せなくてもお客様に伝わるものがあると思っています。

 演奏会全体のプログラムを組み立てる時に、調性を重視します。そのほかにもテンポ、曲全体の強さと高さも考慮します。聴いている人が飽きずに楽しめる「構成・進行」を考えているつもりです。思った通りに伝わらなくても、私たちの「思い」だけは伝わると思います。ここでまた、ヴァイオリンとピアノによるコンサートで、多く目にする傾向を考えます。
・特にテーマやコンセプトのないコンサート
・作曲家や時代・地域などに「スポット」を当てたコンサート
・知名度の高さ・希少性を意識したコンサート
・難易度の高い曲を選んだコンサート
などが多く見受けられます。他方、私たちのリサイタルのような「お子様ランチ」もしくは「昔ながらの定食屋ランチ」にも似たプログラム構成はあまり見かけません。もしかすると「簡単すぎて集客力がない」と思われているのかもしれません。集客力だけで考えれば、クラシックマニアの喜びそうなプログラムは考えられます。そのコンサートで、普段クラシックを聴かない人が楽しめるかどうかは別の問題です。私はメリーオーケストラのプログラムでも、リサイタルのプログラムでも一貫して、できるだけ多くの人に一曲でも楽しんでもらえるコンサートを目指しています。料理で言えば、プログラムは献立だと思います。一つの料理でおなか一杯になる献立=プログラムもあります。色々な料理が少しずつ出てくる献立もあります。コース料理はまさにそれですよね。

私の考えるプログラムはクラシックファンには物足りないプログラムだと思います。でも私を含め、クラシック音楽が好きな人間が、それ以外の音楽を聴かない理由はありませんし、少なくとも演奏を聴いてから好き嫌いを感じてもらいたいと思っています。「ポピュラーだから」「映画音楽なんて」「歌曲をヴァイオリンでひくなんて」という固定観念を持たずに、演奏を楽しんでもらえるコンサートを開き続けたいと思っています。
 いろいろなコンサートがあって良いと思います。他の人と同じようにしなければいけない理由もありません。自分や自分たちが考える曲構成=プログラムに自信を持ってコンサートを開いてほしいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

眠れる演奏

 映像は横浜にあるイングリッシュガーデンで撮影した写真に、ヴィオラとピアノで演奏した「アニーローリー」「オンブラマイフ」「「ロンドンデリーの歌」「私を泣かせてください」を重ねたものです。
 皆さんはクラシックのコンサートで演奏を聴いていて「気持ちよくなってうとうと」って経験ありませんか?私はその時間が大好きです(笑)
「入場料払ってまで寝るなんて!」「演奏者に失礼だろ!」と言うお考えもごもっともです。私は逆に感じています。自分が安らげる時間の為に、チケットを買って何が悪い?演奏しているときに、静かに寝ていて演奏者が気づくのか?いびきかいていないぞと。

 音楽療法と言う医学療法があります。患者の好きな音楽を聴かせることで、精神を落ち着ける効果が認められています。興奮しているときや、同じことをぐるぐる考えてしまう時に、人間は「β=ベータ波」を脳が出しています。一方で安らいでいるときには「α=アルファ波」が出ています。心が休まると「副交感神経」が刺激され、興奮したりイライラすると「交感神経」が刺激されます。
音楽ならなんでもよいわけではありません。心地よく感じる「音」は人によって違います。音色、音量、音楽の内容、歌詞の有無など、多くの要素の中で、その人が最も心地よい「音楽」を聴きながら身体も心も休ませることが「治療」につながります。ハードロックを聴いているとα波が出る人も事実いるのです。モーツァルトやクラシック音楽だけが「心地よい」のではありません。

 私たちのリサイタルも演奏会までに、多くの時間をかけて準備します。練習もします。それは「お客様に聴いてほしい」と思うからです。だからと言って、自分の演奏を聴いて「つまらない」と思う人がいても不思議ではありません。
また、聴き方にしても人それぞれだと思うのです。目をつむって聴く人もいれば、演奏者を観察している人もいます。他に聴いている人が不快に感じる「聴き方」は誰からも認められません。演奏が気に入らなければ、静かに曲間で退席すればよいのです。元より演奏が気に入るかどうかは、聴いてみなければわからないのですから「つまらないから、お金を返せ」とは言えません。
演奏を聴いていて、どうしても咳を抑えられなくなることも人間なら当たり前です。障がいがあって、うれしくなると声を出してしまう人もいます。それを演奏者が我慢できないなら、無観客で演奏会を行えば良いだけです。観客が咳ばらいをしただけで、演奏を中断し以後、演奏をキャンセルした「有名なピアニスト様」の逸話があります。私はその場にいませんでしたので、どのような状況だったのか知りませんが、仮に咳払いだけで腹を立てたなら、演奏者の「懐が狭すぎる」と思います。映画のセリフではありませんが「殿さまだって、屁もすりゃ糞もする。偉そうなんだよ!」だと思います。生理現象を我慢してまで、命がけで音楽を聴く必要はありませんよね。

 聴いてくれるかたが、心地よいと感じる演奏をしたいと願っています。
会場でじっと座って聴いてくださっているのは、お客様です。「おもてなし」の気持ちと「感謝の気持ち」があって、さらに自分の演奏を聴きながら「寝てもらえる」くらいの心のゆとりが欲しいと思っています。録音された自分の演奏を聴くとイライラするものですが、それでも我慢して何度も聞いていると、やがて自分の演奏を聴きながら寝られるようになります(笑)自分が聴いて不快に感じる演奏を、人さまにお聞かせするのは演奏者の「傲慢」だとも言えます。自分の演奏を自分の「音楽療法」に使えるようになりたい!いや…その前に、もう二度と精神を病みたくないと思うのでした(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

梅雨を乗り切る楽器管理方法

 映像は、2020年に相模原北公園で撮影した紫陽花(アジサイ)の写真にヴィオラとピアノで演奏したビリーブを合わせたものです。

 日本の梅雨は草花にとっては恵みの雨が続くシーズンですが、ほとんどが木で出来ている弦楽器にとっては「地獄のシーズン」です。楽器に使われている木は、水分をほとんど含まない乾燥した木で出来ています。だからこそ、空気中の湿度をまるで除湿機のように吸い寄せてしまいます。
 楽器を組み合わせている「膠=にかわ」は、表板や裏板の木が、水分を含んで膨張したことによって割れてしまうことを防ぐために、意図的に弱い接着力で木材同士を張り合わせています。高温になると膠は柔らかくなります。ますます接着力が弱くなります。治癒時にこの膠で張り合わされた、表板い・横板・裏板の接合部が「剥がれる」場合があります。職人さんに膠を付けてもらい、圧着と感想をする数日間は、楽器を演奏できなくなります。
 剥がれなくても、板が水分を含むことで、楽器本来の響きを失います。湿気た木を叩いても「カンカン」という音ではなく「コツコツ」という鈍い音になります。こもった音色になり、余韻が少なくなるのが梅雨時の弦楽器の「異変」です。

 特に古い楽器ほど、楽器が水分を吸い寄せます。新しい楽器は、楽器表面のニスに水分が残っており、さらにニス自体も厚みがあるので簡単には水分をしみこませません。その点、100年以上たっている楽器は、ニスが乾ききり薄くなっています。そこに湿度が加われば、当然木材が湿気るのは自然現象です。
 この梅雨時を乗り切る方法を私なりに経験からまとめます。

1.自宅で管理する方法
練習していない時間は、ケースにしまわないことです。
出来る限り風通しの良い場所に、「立てた状態」で管理するのが理想です。
エアコンの風が直接当たる場所は避け、エアコンを切っている状態であればできれば弱い風で良いので、扇風機やサーキュレーターで楽器の周囲の空気を動かすことで楽器が結露したり、余分な湿気を含まずに管理できます。
 ケースに入れない理由は簡単です。ケースの中で、ケースの内張や楽器を包んでいる布に、楽器の表面が密着します。楽器表面に湿気が常に当たる状態になります。ましてやケースの内部は、高音になればますます湿度が高くなります。
湿気た布団にくるまって、暑い夜を過ごせますか?その状態がケースに入れられたヴァイオリンです。極力、板に何も接しない状態が理想です。

2.外に持ち歩く場合
当然、ケースに入れるのですがケースの内部を可能な限り「乾燥」させることが大切です。自宅でケースの中に入っているものをすべて出してから、ドライヤーの温風で内張の布を手でさわれる熱さまで加熱します。その熱さならケースを痛めることなく、水分を飛ばすことができます。その後、完全に冷めるまで待ってから楽器をしまいますが、その時に「からからにアイロンをかけたタオル」を一枚、楽器の上に「掛け布団」のようにでかけてあげます。当然ですが、タオルも冷めた状態でないと大変です。このタオルがケース内部で、楽器の表面に一番近い空気の湿度を吸い寄せてくれます。このタオルを頻繁に変えてあげることで、ケースの内部、特に楽器の周辺の湿度が下げられます。
 やってはいけないこと。「水をためる除湿剤を入れる」ことです。万一、この水が楽器ケース内で楽器に係ることがあれば、どんな事態になるか想像してください。押し入れに入れて湿度を「水」に替えるタイプの除湿剤です。水分が実際に「水」になるので効果が実感できますが、ケースの中ではまさに「自爆行為」です。
シリカゲルを使った除湿剤は、周囲の空気から湿度を吸い寄せます。が!
そもそもヴァイオリンケースの「密封度」は大した数値ではありません。雨の水がしみこむ程度の密封度で、シリカゲルを入れてもケースの外の湿度を一生懸命吸ってくれているだけです。ケースの中の湿度はほとんど下がりません。
 ケースに付いている「湿度計」は信じてはいけません。ご存知の方なら、正確な湿度計の仕組みはあの「丸い時計」では作れないことがわかるはずです。あれはあくまでも「飾り」です。嘘だと思うなら、楽器の入っていないケースをお風呂場に持って行ってみてください。針が動かないものがほとんどです。振動で動いていることはありますが(笑)

 楽器にとって、過剰な湿度は良くありませんが、だからと言って乾燥のし過ぎも危険です。「楽器が割れる」まで乾燥することは日本では考えにくいのですが、クラリネットやオーボエなどでは、乾燥しすぎて管体が割れることがあるようです。ヴァイオリン政策の「メッカ」でもあるイタリアのクレモナ地方は、意外なことに湿度の高い気候だそうです。適度な湿度は必要です。
 湿度計に頼るのは賢明ではありません。むしろ、楽器の手入れを擦れば、楽器表面が「重たい」感じなのか「軽く拭ける」のかで湿度がわかるはずです。
温度と湿度の関係も絡みますが、あまり神経質になるよりも、演奏者本人が「不快に感じる」場所は楽器にとっても不快なのです。楽器を自宅に置いて出かける時にこそ、赤ちゃんを部屋に置いて出かけるくらいの「慎重さ」が必要です。
 楽器が鳴らない梅雨の時にこそ、楽器の手入れを丁寧にしましょう!
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

同じ音楽を感じながら

 動画はフリッツ・クライスラー作曲「シンコペーション」
ピアニストと二人で演奏することが多いバイオリンやヴィオラの音楽は、どちらかが「主役」で片一方が「脇役」ではありません。以前にも「伴奏」と言う言葉について、疑問を呈しましたが、ピアノが「伴奏する」と言う言葉の裏に、ヴァイオリンが主役と言う意味が隠されているように感じます。
 ヴァイオリンソナタの場合に「ピアノ伴奏」と言う言葉は使われません。
ところが、ヴァイオリン協奏曲のオーケストラ部分をピアノで演奏するときに「ピアノ伴奏」と言うことが多く、動画のような「小品」を演奏する場合にも時々「伴奏」と言う言葉が使われます。伴奏とは「声楽や器楽の主奏部に合わせて、他の楽器で補助的に演奏すること。」だそうです。主奏部って要するに「主旋律を演奏する人」だと思われますが、ピアノが主旋律を演奏する部分があっても「伴奏」なんでしょうか?府に堕ちません。

 オーケストラの場合、指揮者が音楽の交通整理をします。具体的には「テンポ」や「音符休符付の長さ」「強弱」「バランス」について、演奏者=オーケストラの演奏者に指示を出し、実際に指揮棒や腕を使って、音楽を表現します。
 二人で演奏する場合、人によって違いますが私たちは、その場その場で「お互いに」合わせる=寄り添うことを目指して演奏しています。練習の最初の段階は、それぞれが自分の演奏するパートを一人で練習します。その後、二人で同じ音楽を演奏するときに、お互いがどう?演奏したいのかをお互いに探り合います。
言葉で確認することもあります。「こうするかも知れないし、しないかもしれない」ということも確認します。打ち合わせをしても、私が間違って演奏した場合に、臨機応変に対応してくれることが「たまに、よく、しょっちゅう」あります。
 どんなに事前に打ち合わせをしたとしても、会場で演奏する「本番」の時には、リハーサルと違う演奏になることもあります。それはお互い様です。
 お互いを意識しなくても、相手の演奏している音楽と自分の音楽が「一致」していることが実感できれば、それが「ひとつの音楽」だと思います。

息が合うと言う言葉は、同じ速度、同じ深さで呼吸することを指していると思います。相撲の立ち合いもそうです。また、逆に相手に自分の動きを「読ませない」ことが重要な武道や、ボクシングの場合は、自分の呼吸を相手と意図的にずらすことも必要です。
呼吸を合わせるとは言っても、二人で演奏する音楽のすべての時間、完全に同期=同じ息で演奏することは、物理的に不可能です。ただ、音楽を二人で同時に演奏している「意識」は常に保っています。
 ピアニストがヴァイオリニストを「視野に入れる」のは必要なことだと思います。なぜなら、ピアニストは両手でいくつもの声部を感じながら演奏し、さらにそこにヴァイオリンの声部が加わるのですから、楽譜と同時にヴァイオリニストの弓の動きが見えることで、安心して演奏できると思うからです。ヴァイオリンは「弓が動いていなければ音は出ていない」のですから。ヴァイオリニストがピアニストの指を見ながら演奏しても、効果は薄いと思います。ましてや、両手の動きが見える位置と向きでヴァイオリニストが立てば、客席にお尻を向けて演奏することになるからです。加えて、ピアニストの出す「音」が聞こえないヴァイオリニストはいないのです。その逆はあり得ます。どんな位置にヴァイオリニストが立って演奏しても、ピアノの音は聞こえますが、ピアニストにはヴァイオリニストの、音も聞こえない、弓も見えない状態で、合わせられるはずがないのです。

 どんなジャンルの音楽でも、演奏する人たちがお互いを認め合い、必要な意見のすり合わせをして、初めて「ひとつの音楽」になると思います。
「二人」という最小単位のアンサンブルは、聴く人にとってオーケストラとは違った面白さがあると思います。もとより、気の合わない二人の演奏は、どんなに演奏技術が高くても、二つの音楽が同時に鳴っているだけの「水と油」です。
時に溶け合い、時にどちらかを浮き立たせながら、音楽が広がることこそがアンサンブルだと思います。
 どうか!伴奏と言う言葉を使わずに、それぞれの演奏者を、対等な呼び方にしてください。簡単です。「ヴァイオリン△△、ピアノ〇〇」で良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

部活外注に物申す

 現在、日本政府は公立小学校・中学校の特別活動である、部活動の指導を「外注」することを検討しているようですが、元中学・高校の教員、音楽部顧問として20年間、部活動を指導した経験をもとに問題点を書かせてもらいます。

 「土曜日・日曜日のスポーツ系部活動を地域のスポーツ少年団などに順次置き換え文科系部活動も学校外に移行する」
というニュースを耳にしました。その理由として「顧問教員の働き方を考えなおす」という、もっともらしい事を政府は言いますが、そもそも間違っています。
 部活動は学校の教育活動です。したがって、その指導責任と安全管理、成績管理は学校にしかありません。単に働く教員の「休日出勤」だけの問題ではありません。学校で行う学習活動を学校外の組織・団体に「丸投げ」する発想です。
もしもそれが本当に正しい事なら、学校の授業は民間の学習塾と予備校に丸投げしても問題がないことになります。
「土曜日曜だから良い」と言う問題ではありません。
当然、生徒が保護者の同意のもとに、学校が休みの時間に、なにを学ぼうが遊ぼうが、それは学校の活動ではありません。まさに問題のすり替えです。
 さらに部活顧問の労働環境が問題なのは、部活動指導に限ったことではありません。多くの人が知らないことですが、教員には「時間外手当」がありません。
長い歴史を経て、教育職員には「教員調整手当」なるものが支給されます。額はまちまちですが、月額数千円です。「教員に時間外手当はそぐわない」という理由です。当たり前のことですが、教員にも「勤務時間」があります。休憩を除き8時間が一日の勤務時間です。その勤務時間を超えて生徒の指導を行うことが、あまりにも常態化してしまったために「一律の手当て」として考えられたのがこの調整手当です。しかも、定時に勤務を終えても、補習講習、教材準備や部活指導で何時間働いても同じ手当です。労働に対する対価が不平等です。部活顧問は業務命令です。教育現場では「校務分掌」と呼ばれます。土曜、日曜に出勤した場合に「休日出勤手当」が出る学校もあります。修学旅行の引率などの場合には別の手当てが出る学校もあります。ただ、宿泊を伴う引率の場合、生徒の安全管理・健康管理は24時間勤務となります。
 私学の場合は管理職や理事が人事権を持っているため、教諭はサラリーマンと何も変わりません。公立学校の場合、教諭の立場は公務員です。校長などの「管理職」は人事権を持っていない上、数年に一度人事異動があるので、それぞれの学校では「お飾り校長」として教諭たちから相手にもされていない場合が多いのも事実です。
「モンスターペアレンツ」は未だに学校の現場を委縮させ続けています。
私学の場合は「理事会」に、公立の場合は「教育委員会」に、児童生徒の保護者たちが直接「上申」することで、学校現場の問題を解決するのであれば良いのですが、「気に入らない」から、ありもしないことをでっちあげて、嘘でも「上申」できるのが現状です。現場の教員にも生活があります。悪いことをしていなくても、児童生徒から保護者にどう伝わるのかが気になりだすと、不安になるのは当然です。
「〇〇先生は、部活顧問なのに土日に部活をさせてくれない」と保護者が文句を言います。学校は託児所ではない!慈善団体でもない!そもそも、日曜日は学校が休みなのが当たり前!だと思うのです。

 生徒が学校で過ごすべき時間は、本来「国」が定めるものです。義務教育ならなおさらのことです。社会=一般の大人が、部活動と民間の活動を区別できていないことが諸悪の根源です。文科省が何を考えているのか?想像でしかありませんが「学校で生徒を預かる」時間を増やせば、親たちから支持されることを期待しているとしか思えません。
 私自身、NPO法人の理事長として「青少年の健全な育成」「音楽の普及」を目的としたオーケストラ活動をしています。例えば、この法人で「部活動の代わりをお願いします」と言われたら?絶対に断ります。部活動は学校の教育活動です。NPOの目的が何であれ、NPOは学校ではないのです。
「施設を使う使用料を補助するから」と言ってくるのが目に見えています。
足元を見て、児童生徒の学校教育を「売り払う」政策です。
被害者は子供です。国が子供を守る気持ちがない上に、「支持者を増やす」目的で考えた「姑息な悪法」です。
子供を家庭に返せ!
親なら子供を自分の手で育てろ!
そう思うのは間違いでしょうか?
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の標題やストーリーより大切な「聴く人の想像力」

 映像は、ドビュッシーの「美しい夕暮れ」と言う歌曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。歌ですから「言葉=詩」があります。詩を読んだ作曲家が「音楽」を付けた作品です。歌を聴いて歌っている言葉のわかる人なら、歌っている内容が同時に伝わります。一方で歌っている歌詞がわからない場合は、「詩」ではなく「声」として感じます。当たり前です。それでも「楽しめる」のは、聴く人の「自由な想像力」で音楽を楽しんでいるからです。
 作曲家の感じた「詩」の印象と違って当たり前だと思います。
歌詞があろうとなかろうと、聴く人の「想像力」があるから楽しいのではないでしょうか?

 言葉を含まない音楽を聴いて「ストーリー」を感じるものでしょうか?
予備知識として、作曲家のイメージしたストーリーを知っていたとしても、聴く人が同じストーリーが感じられるものでしょうか?演奏する人が感じるストーリー性は、演奏者によって違って当然です。その演奏を聴いた人が、さらに違ったストーリー性を感じても感じなくても、それが自然だと思うのです。
 感じる人が「感受性が高い」とは限りません。むしろ「予備知識」に無意識に引っ張られているケースもあるのではないでしょうか?
歌詞の無い「音楽」が多いクラシックです。音楽の標題も、作曲者本人がつけた曲と、のちに誰かが標題をつけた場合があります。標題を見て先入観で音楽をイメージする場合もあります。その標題が作曲者のつけたものではない場合、本来は「曲名」がなくても良いはずで、むしろ私は「有害」だとさえ思います。

 ジャズにしてもクラシックにしても、あるいは映画音楽などにしても「聞く人の想像力」が一番大切だと思っています。特に、クラシックの音楽をあまり聞かない人たちに「クラシックの音楽とは!」と言う「余計なおせっかい」こそが音楽の純粋な楽しみ方を阻害していると思っています。
クラシック「マニア」が自分の感じるものや「ストーリー」を言葉にするのは自由です。その人の感じ方なのですから。ただそれを、まだクラシック音楽を楽しめていない人たち・子供たちに「これが正しいクラシックの楽しみ方・学び方」だと思わせてしまうのは、間違っていると思います。それこそが「クラシック嫌い」を創っていると思います。頭でっかちな「予備知識」で音楽を聴くよりも、聴く人の「真っ白なキャンバス=先入観のない状態」で音楽を聴いて想像する方が何倍も大切だと思っています。
音楽は特定の「物・人・事」を表わさない芸術です。
演奏する人、聴く人の勝手な想像こそが、音楽の楽しみ方ではないでしょうか?
「好きなように感じる」ことを優先すれば、もっと音楽を聴く人・楽しむ人が増えると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

拍の速さと車窓の風景

 映像は、Youtubeで見つけた新幹線の運転席から見える風景です。
わたくし「ノリテツ」でも「てっちゃん」でもありません。悪しからず。
音楽の「拍」や「リズム」が苦手な生徒さん、さらにテンポの維持や変化に関する苦労は、プロの演奏家にも共通の悩みです。
 そこで今回は「時間と音」を「時間と風景」に置き換えて考えることで、拍やテンポについて考えてみたいと思います。

仮に、電車の車窓から見える「電柱」が一定の間隔て立っているとします。
音楽のテンポを変えずに一定の速さで演奏するとします。
電車の速度が速くなると、電柱を通過する時間がだんだん短くなります。
テンポが変わらなければ、楽譜の中で「1拍」にかかる時間、「1小節」にかかる時間は常に一定になりますが、テンポが速くなればその時間はだんだn短くなります。
つまり、「一定の時間を予測する能力」と「
下の動画はF1(フォーミュラー1)がレースコースを走っている時の映像です。酔う人は見ないほうが(笑)スタート時時速「0」から一気に200キロを超える速度までの風景と、同じような速度で走る他の車がまるで「止まっているように見える」ことにご注目ください。

いかがでしょうか?怖いですね~(笑)
速度が速くなると一定の時間に処理する情報が多くなります。
言い換えると、処理の速度を速くしないと間に合わないことになります。
さらに「常に次にやるげきことが読めている」ことが必要なのです。
F1パイロット(レーサー)は、走るコースのすべてのカーブ、直線の距離、傾斜を「完全に記憶=暗譜」して走っています。コースに出なくても、頭の中でコースを走る「イメージ」があります。そうでなければ、止まることさえできません。速いのは車の性能ですが、止まる・曲がれるのは操縦するレーサー=人間の運動能力なのです。これもすごすぎる!

 楽譜を「追いかける」速度は、どんなに速い音楽でも秒速「数センチです。
仮に秒速5センチなら、分速300センチ=3メートル、時速180メートル。
歩く速度は時速4キロ=4000メートル。楽譜を読む速度はそれほど速くない!
 他方で、1秒間に処理する音符の数で考えると、たとえば四分音符を1分間に120回演奏する速さ「♩=120」の場合、16分音符は1秒間に8つの音を演奏する=処理することになります。結構な処理速度が求められますね。すべての音符が16分音符なら、1分間に8×60=480個の音符を演奏することになります。
 ちなみに早口言葉で「なまむぎ なまごめ なまたまご」をメトロノーム120で鳴らしながら言ってみてください。それが先ほどの16分音符の速さと同じになります。楽譜を読む速さは、この処理速度によって決まります。演奏できるか?は、その処理速度に「運動」を加えることになるので、まずは読めなければ運動は出来ません。

 まとめて考えます。
1.予測する技術 
「次の拍の時間を予測する」ことが「テンポ」です。難しく聴こえますが、正確に「1秒」を感じることを練習することで時間の間隔は身に着けられます。音楽は常に「次の拍を演奏する時間」を予測しながら演奏する技術が必要なのです。
その「1拍」の時間的長さが一定の場合に初めて「リズム」が生まれます。拍の長さが不安定だとリズムは演奏している本人でさえ理解出来ません。
 次に来る=演奏する「拍」を予測する美術は、決して反射神経ではありません。

 長くなりましたが、リズムやテンポが苦手な人は、一定の時間で何かを繰り返したら、「時間を等分する」ことが苦手な人です。
ぜひ!日常生活の中から、リズムや拍を見つけてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ラから教える?ヴァイオリン「始めの一歩」

映像は正弦波=音叉の音で鳴り続ける442ヘルツのA=ラの音です。
チューナーの音より聞き取りやすいかもしれないですね。
さて、今回のお題は「初めてのヴァイオリン」を小さい子供に教える時の問題です。もちろん、大人の場合でも多くの人が音の名前「ドレミファソラシド」は知っていても、かなり怪しい(笑)ケースがほとんどです。
 中学校1年生に「ドレミファソラシドって覚えていて言える人」には、クラスのほとんど全員が手を挙げます。が、「反対からドから下がってすらすら言える人」になると激減します。「言えるぞ!」と言う人に、「ラから下がってラまですらすら言える?」あなたは、いかがでしょうか?多くの人が、「言ったことがない」のが現実です。単語として「ドレミ」や「ドシラ」は覚えていても、途中からの「並び」は言えないのが普通です。音楽家の皆さん。あなとも同じ脳みそです(笑)試しに「あかさたな…」はおしまいの「わ」まで言えますね?それでは、それを「わ」から反対に言えますか?どうぞ!
おそっ!(笑)
これが人間の脳みそです。

 さて、ヴァイオリンの「始めの一歩」は、開放弦で音を出す練習から始まることがほとんどです。左手で弦を押さえないで、出せる音は「ソ・レ・ラ・ミ」という4種類の音です。調弦してあれば、の話ですが。
 一方でピアノの「始めの一歩」では、多くの指導者が「ド」から教え始めるのではないでしょうか?両手で始めるにしても「真ん中のド」を境にして教えるのではないでしょうか?
 さらにソルフェージュの場合も、多くは「ド」から覚え始めます。
事実、子供のための音楽教室(編)のソルフェージュ1A=最初の本でも、ドから始まっています。次に「レ」さらに「ミ」と音が増えていきます。当たり前の話ですが、このドの音が「一番歌いやすい」と言う意味ではありません。子供の声の高さ、出しやすい声の高さは人によって違います。「ド」から覚える理由は、おそらく「ピアノ」を基準に考えられ始められたものと思います。

 小さい子供が、ヴァイオリンを手にして初めて開放弦の音を出せて、嬉しそうな表情をしているのを、見ているだけなら楽しいのですが(笑)
 そこから「音の名前」や「楽譜」に結びつける場合に、どうしても「ド」にたどり着くまでに長い道のりがあります。まして、ヴァイオリンの2弦=A線から練習していくと、多くの場合次に練習するのは、1の指=弦楽器では人差し指ですの「H=シ」です。そこまでは何とか出来ても、次に2の指を1の指から「離して押さえる」手の形が一般的なので「ド♯=Cis」の音になります。
「なんで?わざわざ♯で教えるの?」土木な疑問ですね。
当初、私自身は2(中指)と3(薬指)の間を開くことが難しいからだろうと思い込んでいました。ところが、実際にやってみると、1(人差し指)と2(中指)をくっつけることは、難しくないことに気付きました。さらにこの状態で、指を曲げても、別に違和感がないことにも気づきました。こうなると「はて?なぜ?ヴァイオリンは最初から1と2を開くのかな?」と言う疑問が解けなくなりました。ここからは推論です。

開放弦から始めて、1の指を「開放弦より全音高い音」が出せる場所に置かせることから始まります。そうすると、低い弦から順に「G→A」「D→E」「A→H」「E→Fis」になります。この時点でE戦で♯が付いてしまいます。
どうしても「F」を教えたければ、1の指を「下げる=上駒側に寄せる」ことを教えて、開放弦より「半音高い」位置を教えなければなりません。
1の場所を「変えること」を教えるか?それとも「開放弦より全音高い音の位置」を覚えさせるか?によって、FなのかFisなのかが決まります。これは「1の指」の問題です。

 A線の場合は1の指は通常、開放弦より全音高い「H=シ」の音を練習します。そして「2」を「1の指=H」に近付ければ半音高い「C=ド」が出せて、もう少し感覚を開いて2を押さえれば全音高い「Cis=ド♯」が出せます。
とりあえず先に進んで、「3の指」で「D=レ」の音を出すことが一般的なのですが、2の指からの「音程=距離」が半音なのか?全音なのか?によって、近づくか?離れるか?が分かれます。どちらにしても「D=レ」を教えたとします。
 すると2の指にを「C」にして、開放弦から順に演奏すると…
「AHCD=ラシドレ」と言う「短音階の最初の4音」になります。
一方で、2の指を「Cis」にすると開放弦から
「AHCisD=ラシド♯レ」と言う「長音階の最初の4音」が演奏できます。
要するに「2」の位置で「短調」か「長調」のどちらかになります。
「こら!嘘つくな!」と言う専門家のお声が聞こえそうです(笑)
はい。確かに「AHCD=ラシドレ」の前、後によっては、長調にもなります。
正解は「C dur=ハ長調」の第6音から演奏した場合「CDEFGAHC」と
「G dur=ト長調」の第2音から演奏した場合「GAHCDEFisG」が考えられます(難しい)
簡単に言えば「開放弦で出せる音から始まる=主音にする曲」を演奏しようとすると、短調か?長調か?が「2」の指の高さで決まると言う意味です。それでも難しい(笑)

 推論のまとめ。おそらく「長調の音楽から教えたい」と言う気持ちで2の指が3の指に近付く=1の指から全音分離れることが一般的になったものと思われます。もしも、ピアノと同じように「幹音=シャープやフラットのつかない音」から子供に教えたければ、それもあり!だと思います。その場合、指の位置は半音の単位で変わることになります。
 一方で、手の形=指と指の間隔を優先して教えたければ、どうしても幹音以外の音を教えることになります。
 小さい子供に「シャープってね?」と教えられるのか?そもそも近い出来るのか?と言われれば恐らく「無理」だと思います。
 ただ、音の高さを覚え、音の名前を覚える時期=絶対音感を身に着けられる限られた時期に「シャープ」という言葉まで覚えさせれば、一生の財産になることは事実です。現実に幹音だけの「絶対音感」はあり得ません。1オクターブ内の「12の音=すべての鍵盤の音」の高さを音名で答えられる=歌えることを「絶対音感」と言います。白い鍵盤の音名だけしか答えられないのは「絶対音感」とは言いません。ですから、シャープやフラットという言葉も覚えていく必要があるのです。細かいことを言えば「異名同音」が存在するのですが、どれか一つの言い方が=音名が答えられれば絶対音感があると言えます。ファのシャープとソのフラットは「同じ鍵盤=同じ高さ」の音ですから、どちらかの名前が言えれば「理解している」ことになります。

 ピアノの教本、ソルフェージュの教本、ヴァイオリンの教本を同時進行で教える場合に、ヴァイオリンだけが最初から「ラ」だとか「シ」が出てきます。
ピアノ・ソルフェージュで、ラやシが出てくるのはかなり後です。
「理想の順序」や「正しい順序」はないと思います。
結局のところ、ヴァイオリンとソルフェージュまたはピアノを「同時進行」で教えていくことが最も効率的な指導方法なのかな?と思うに至りました。
子供が「楽しみながら」音楽の基礎である「音名・音の高さ」と、楽器の演奏技術を学べるように教材を考えることが必要です。そうでなくても初心者用の教本や教材が少ないヴァイオリンです。自作も含め、複合的な「本当に新しいヴァイオリン教本1巻」が誕生することを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

耳に優しい音色と音楽

 映像は、フォーレのベルシューズ「子守歌」です。
ヴァイオリンの音色が「こもった」感じの音なのは、演奏用のミュート=弱音器を駒の上に付けて演奏しているせいです。練習用に使う「消音器=サイレンサー」とは意味合い・目的が違います。ちなみに金属製の消音器を付けると、音圧=音の大きさがテレビの音量程度まで小さくなります。一方で演奏用のミュートは、「音色を変える」ための道具です。

 さて、同じ音楽=楽譜でも、演奏の仕方で聴く人の印象が変わることは言うまでもありませんね。同じ材料と調味料を使って、違う人が同じ料理を作っても、同じ味にならないことと良く似ています。料理で言えば、材料の切り方、火加減、手順、味付けが違います。ヴァイオリンの演奏で言えば、何がどう?違うのでしょうか?

 もちろん、楽器と弓で音色が大きく変わるのは当然です。
ヴァイオリニストは自分の好きな音色の楽器を使って演奏できます。
ピアニストはそうはいきませんね。会場のピアノで演奏することがほとんどです。また、高額なヴァイオリンの場合、演奏者が借りて演奏する場合が良くあります。自分の好きな楽器かどうかの選択ではありません。
 自分の好きな音色を出すためのテクニックとは?

 前回のブログで書いた「弓の毛の張り具合」もその一つです。そのほかに
・弓の速度

・弓の角度
・弓の圧力
・弓を乗せる位置=駒からの距離
・ビブラートの深さ
・ビブラートの速さ
・ビブラートをかけ始める時間
・弦を押さえる力と指の場所
・ピッチ=楽器の倍音
・グリッサンドやポルタメント
・余韻の残し方=音の終わりの弓の処理
他にも考えられますが、これらを複数組み合わせることで、音色が大きく変えられます。
聴いている人が「優しい音(音楽)」と感じる場合と、「激しい音・強い音」と感じる場合があります。言葉で表すのはとても難しいことですが、少し「対比」を書いてみます。
・太い音⇔細い音
・固い音⇔柔らかい音
・明るい音⇔暗い音
・鋭い音⇔丸い音
・つるつるした光沢のある音⇔ざらざらした音
・力強い音⇔繊細な音
・重たい音⇔軽い音
・輪郭のはっきりした音⇔ベールのかかったような音
いくらでも思いつきますが、上記の左右は「どちらもアリ!」だと思います。
綺麗⇔汚いと言うような比較ではありません。
敢えて書かなかったのが「音の大きさ」に関するものです。
だんだん強くなるとか、だんだん消えていくなどの表現は「音の大きさ」で「音色」とは違います。
 また同様に音の長さについても書きませんでしたが、実は音の長さは「音の強さ」の概念に含まれます。「音の三要素」は「音の強さ」「音の高さ」「音色」です。いまは「音色」の話です。

 演奏者の好みで曲の解釈が変わります。
同じ楽譜でも、違って聞こえるのが当たり前です。「良い・悪い」「正しい・間違っている」の問題ではありません。フォーレの子守歌ひとつでも、人によってまったく違うのが当然です。大好きなヴァイオリニスト、五嶋みどりさんのえんそうです。


 世界的なヴァイオリニストの演奏と比較する「図々しさ」は私にはありません。
ただ、人によって音楽の解釈が違うと言う話です。お許しください。
 ヴァイオリニストの音色へのこだわりは、楽器選び、弓選び、弦選び、松脂選びなどの「ハード」と演奏方法「ソフト」の両面があります。
聴く人には「一度だけの演奏」です。演奏者が、自分の好きな音色に迷いがあったり、最悪「こだわりがない」場合、演奏のうまい・へた以前に「無責任な演奏」を人に聞かせていることになると思います。
 自分の好きな音を探し求めて、試行錯誤を繰り返すのが弦楽器奏者です。
一生かけて、楽しんでいきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

間違いだらけ「弓の毛の張り具合」

 映像は、ファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした作品です。だいぶ前の演奏で…若い(笑)
 今回の話題は「弓の毛」をどのくらい?張って演奏するのが良いのか?です。
多くの動画がYoutubeに上がっていますが、なにか間違っている気がしましたので、長年「弓」について考えながら演奏してきた演奏者として、考えをまとめてみます。

 高校時代まで使っていた弓は、フィンケル氏の作成した弓1本だけでした。
次第に「弓を変えたら音が変わるって本当かな?」と思うようになり、ヴァイオリン職人で私の楽器を斡旋紹介してくれた名工「田中ひろし」さんに相談しました。「自分で勉強してこい。」と一言。東京中のヴァイオリン専門店を回って、「これだ!」と感じた弓を数日間だけ貸してもらっては、表参道?南青山?の田中氏の工房に持っていきました。「おまえ、この弓のどこがいいんだ?返してこい!」の繰り返しを約1年間続けた頃、田中氏から「この弓でひいてみろ」と言われて渡された弓。それが今も私が使っている「ペカット」でした。その弓を師匠である久保田良作先生にお見せしました。「すごいね!今度の演奏会で使わせてもらっていいかな?」と実際に東京文化会館小ホールでの先生の演奏会で使用されました。その後返して頂いた際に「この弓、売ってもらえないかな?」さすがにそればかりは!とお許しいただいたのを忘れられません。
 そんな弓を使って演奏している私の「弓の毛」の張り方です。

 「弓の毛を強く張れば張るほどいい音が出る」と間違っている人がたくさんいます。また同じように「張れば張るほど、大きい音=フォルテが出せる」と間違っている人も多いのが現実です。なぜそれが間違いなのか?説明します。

 そもそも、弓の木は元来「まっすぐ」に削られたフェルナンブッコの木を、職人が熱を加えながら反りを付けて作ったものです。弓の木には弾力=しなりがあります。弓の元から先までの「しなり=強さのバランス」と「重さのバランス」が弓の命です。さらにしなりは「縦方向と横方向」のしなりがあります。
弓の毛に対して直角方向が「縦」で、弓の毛と平行方向が「横」のしなりです。
弓の一番先を左手で持って、右手でこの「縦と横」の弾力を感じる=調べることができなければ、弓の良し悪しは判断できません。しなりが弱い弓を「腰が抜けた弓」と表現します。一方で固すぎる弓は、柔らかい音色を演奏できません。
 弓の毛を張ったままで何日も放置すると、弓の腰が抜けて「ぐにゃぐにゃ」になります。この状態は先述の「左手で弓先を持って調べる」とすぐにわかります。縦にも横にも、ほんの少しの力でふらふらと曲がります。反りもほとんどなくなって、まっすぐの「棒」になってしまいます。
この状態で演奏しようとすると?当たり前ですが、弓の毛とスティック=弓の棒の部分がすぐに当たってしまいます。弓の毛を張れば張るほど、スティックは安定感を無くして、フォルテもピアノも演奏できなくなります。
 言い換えれば、張らなければ弾きにくい弓は、腰が抜けている弓です。
弓の弾力は、すべての弓で違います。弓の毛の本数が同じでも、弓の毛もやはり弾力が違います。演奏する前にその弓の「ベスト」な張り具合を見極める技術が絶対不可欠です。弓の弾力が最も大きく使えるのは「弓の毛を緩めた時=毛を張っていない時」です。弓の毛を「少しずつ張っていく」と、スティックの両端を弓の毛が、弓の元=毛箱に向かって引っ張る力が生まれ、少しずつ弓の反りが「逆方向=まっすぐにさせられる」ことになります。つまり、本来「弓の反りが少しだけ変わる」程度の張りの強さで、弓の毛はまっすぐにピンと張れているはずなのです。
 腰の抜けた弓だと、弓の毛がピンとなる前に、スティックがまっすぐになってしまいます。これでフォルテが弾けるはずもありません。
 この「ぎりぎりの弱さ」で、まず弓の中央部分と、先、元で演奏してみます。
弓のスティックを、演奏者から見て向こう側に倒しすぎれば、弓の毛が半分くらいしか弦に当たらず、当然毛のテンション=張力が半分になるので、すぐにスティックが弦に当たります。当たり前です。だからと言って弓の毛を張るのは間違いです。
 そもそも論ですが、弓の真ん中は弓の毛のテンションが弱くて当たり前です。むしろ弱いからこそ、元・先のテンションが強い部分との「違い」が出せるのです。
 弓の毛を「弦」に置き換えればすぐに理解できます。
弦の「端っこ」に当たる「上駒=ナット」近くと「駒」近くは、弦のテンション=張力が、強く=弦が固く感じますよね?つり橋の真ん中が揺れるのと同じ原理です。弦の固さ=橋の強さは本来端っこも真ん中も同じでも、駒=橋脚近くは固い=揺れないのに対して、真ん中は柔らかい=揺れることになります。弓の毛でもまったく同じです。

ちなみに「カーボン弓」は「曲がらない」と勘違いしている人もいますが、それも間違いです。曲がるように=フェルナンブッコ弓と同じように作る技術があるのです。ケースに使われるカーボンと「製造工程」が全く違うのです。
 弓の毛を張らないで、フォルテで演奏すると、初心者の場合は弓の毛とスティックと弦がすぐに「接触」してしまいます。その接触をぎりぎりで避ける「圧力」をコントロールできるのが上級者やプロの演奏技術です。

 弓の毛の張り具合は、演奏者によって好みが分かれます。
弓の中央部分でも、とにかく圧力をかけて演奏したいというヴァイオリニストはやたらと毛を強く張ります。一方で、弓の中央部分の柔らかさを使いたいヴァイオリニストは、ぎりぎりの弱さで張ります。
 少なくとも、弓へのダメージを考えるなら、私は張りすぎは避けるべきだと思います。私はペカットを使うのは、本番前の数日間と本番当日だけにしています。それまでは、違う元気な弓(私の場合フィンケル)で練習します。
 弓のスティックは、演奏していると次第に柔らかくなっていくのを感じるはずです。言い換えれば、木が疲れてきているのです。毛を強く張って長時間練習すれば、それだけスティックは疲労します。
 「弓は消耗品」という、とんでもない嘘を言う人が、たまにいます。
確かに疲労しやすい・壊れやすい「楽器」です。だからこそ労わって、大切に使わなければ、名弓と呼ばれる弓は世界からなくなってしまいます。すでに多くのペカット、トルテの弓が、折られたり、使い物にならなくされたりしています。
 弓はヴァイオリンの付属品でもありません。楽器です。
弓の扱いを知らないアマチュアが多すぎます。先日も、ある学校の部活オーケストラに入った私の生徒が、先輩に「弓の毛はいっぱいまではらないとダメなんだよ」と言われ、困って「私の先生に弓の毛は張らないほうがいいってならいました」と正直に答えたそうです。あろうことか、そう上級生は「そう?じゃ、貸して」と生徒の弓の毛を目いっぱいに張って「はい。これで大丈夫」と返されました。
実話です。これが現実なのです。恐ろしいと思います。
 私の生徒には、絶対に人に楽器も弓も触らせたり弾かせたりしないこと!
なぜなら、楽器を落としたり、ぶつけて壊しても「貸した人=持ち主の責任」なんだよと、教えました。どうしても先輩に言われたら「このヴァイオリンは私の先生に借りているものなので、貸せません」と嘘で良いから断るんだよと教えました。嘘をつかせたくはありませんが、そうするしか方法がありません。

 弓の毛の張り具合を決めるのも、演奏技術の一つです。ただ単に「適当に張りましょう」と本気で思っている人には、ぜひ弓のスクリューを90度緩めて演奏して見て欲しいと思っています。それでもまだ強すぎれば、さらに90度。
きっと音色の違いに気付けるはずです。そして、弓の反りをいつまでも保つことは、ヴァイオリン演奏者の「責任」だという事を忘れないで欲しいのです。
弓は買い替えればよい…という人は、ぜひピチカートだけで演奏してください。
弓は演奏者の「声」を出すものです。声楽家がのどを大切にするように、ヴァイオリニストは弓をもっと大切にするべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

初めての音との出逢い

 映像はThe Singers Unlimitedのア・カペラ。
高校3年生の頃に、初めてこの「音」に出逢いました。
仙川の「リセンヌ」という小さな喫茶店。マスターとお母さんがサイフォンで入れてくれるコーヒーと煙草の香りの中に、ジャズが流れていました。
いつからか、入り浸っていました。授業の無い時も、たまには…(笑)
当時、ジャズに興味の無かった私が、なぜ?このリセンヌに通い続けたのか、記憶が定かではありませんが、なにか落ち着ける場所でした。
 ある時に偶然かかっていたのがこの「The Singers Unlimited」のコーラスでした。背筋がぞくっとして、鳥肌が止まりませんでした。「なに」これ」
お聞きになってお分かりの通り、「多重録音」で作られた音楽で、実際には女性1名、男性3名のグループです。

 人間の声だけで作られる和音の響きは、楽器の和音の音色と別次元の多彩さがあります。声=歌の場合、母音によって響きが違います。また、男性の声と女性の声の「響きの違い」も明らかにあります。しかも「同じ人間の声」で多重録音されているこの音楽には独特の不思議さがあります。多くの歌手が自分の声を「重ねる」技術で録音しています。日本人の歌手で重ね録りと言えば、この音楽ですね。

 同じ人間=山下達郎さんおの声だけだと、また違った面白さもありますが少し違和感も感じますね。でも好きです。
 話が飛びましたが、和音の種類の中で「ドミソ」「ファラド」「ソシレ」と言った基本的な三和音=トライアド・コードと、「ドミソラ」や「ミファラドソ」のように、聴いていて「ん?」と感じる和音があります。
 クラシック音楽の多くは前者の和音を基準に作られています。もちろん、例外はたくさんあります。一方で、ジャズで多く使われる和音は、クラシック音楽よりもはるかに「7th」「9th」や半音意図的に下げた音を組み合わせるなどの和音が使われます。めちゃくちゃに鍵盤を抑えて出る和音…ではありません。ジャズの「規則=理論」があります。むしろ、クラシックの和声進行より、音の数が多いうえに「ベースが△の音を弾く場合」などと言った暗黙のルールも含めれば、クラシックよりはるかに理論が複雑になります。

 私自身、この音楽を初めて耳にした時、どんな和音なんだ?と聴音の耳が働きかけました。が、それが無意味だと感じました。なぜなら「美しかった」からです。楽譜にすれば「この音とこの音とこの音」で書き表せる「音」ですが、聞こえてくる「サウンド」に身をゆだねたいと感じました。
 その後、たくさんのレコードや、のちにCDを買って聴きあさりました。
クラシックの和声と違う「新鮮な響き」は未だに記憶に残り続けています。
また新しい衝撃的な「新しい音楽との出逢い」があることを楽しみにしています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽は古い音楽?

 映像は、ぷりん劇場第4幕より「Mr.Lonly」をヴィオラとピアノで演奏したものです。50年ほど前にこの曲に出会いました。
 クラシックという言葉には、いくつもの定義があります。「長い年月を経たもの」と言う意味もあります。
音楽の世界で「クラシック音楽」と言われる音楽があります。それらは、現代の音楽の「土台」になった音楽でもあります。

 「クラシック音楽は嫌い」と言う人が、「ロックやポピュラー音楽は好き」と言うケースがあります。それらの人にとってのクラシック音楽のイメージは様々です。多くは「古臭い」「長い」「つまらない」などの感覚だと思います。
 演奏する姿を考えれば確かに、クラシックの演奏会とポピュラーのコンサートは明らかに違います。「見る楽しさ=見せる演出」の有無です。
 ただ、クラシックでもオペラの場合は、見る楽しさもありますが、多くの演奏会は「無心に演奏する演奏者」を「明るく照らす照明」だけですよね。

 音楽そのものの「音=サウンド」で比較してみます。
クラシック音楽とポピュラー音楽の大きな違いは?
・楽器の役割=クラシックの場合、リズム楽器という概念がありませんが、ポピュラーの場合はドラムセット、ピアノ、ベースなどが音楽のリズムを作る基本になっています。
・音量=クラシック音楽の多くは、ポピュラーよりも大きな「音量変化」が1曲の中にあります。逆に言えば、ポピュラーの場合は、1曲の音の大きさはあまり変わりません。
・演奏される楽器の種類=ポピュラーで使われる「シンセサイザー=電子楽器」は一つの楽器で多くの音色を演奏できます。しかも一人で操作・演奏できる楽器です。クラシックの場合、オーケストラではそれぞれの楽器を一人ずつの人間が演奏するので、楽器の種類を考えてバランスをとるためにさらに多くの演奏者が必要になる場合もあります。
・1曲の演奏時間=クラシックの場合、どこまでを1曲とするのかにもよりますが、明らかにポピュラー音楽よりも演奏時間は長い曲がほとんどです。ポピュラーの場合は、レコード片面に収まる演奏時間がひとつの基準になりました。また、テレビで多くの歌手を出演させるためにも「時間制限」が設定されていました。クラシックに「演奏時間」の基準がないことも、「クラシックは長い」と思われる要因だと思います。

 クラシック音楽があったから、現代の音楽が生まれてきたことは紛れもない事実です。それを否定するのは「無知」でしかありません。コードネーム一つを取って考えても、バッハの時代に築かれた「技法」に英語で名前を付けただけです。ジャズは自由な音楽です。クラシック音楽は「楽譜」に従って演奏しますが決して「不自由」な音楽ではありません。ジャズの演奏をクラシック音楽のように「楽譜」にすることができるのがその証です。どちらが優れているかと言う問題ではありません。それぞれに異なった「自由」があるのです。
 違う言い方をすると、ジャズピアニストの中には「楽譜通りに演奏するのはとても難しい」と言う人もいます。クラシックピアニストの中には「楽譜のない状態で曲を作りながら即興で演奏するのは難しい」という人もいます。両方できる人もいます。違った難しさがあるのです。どちらかを学び、極めた人には、それがわかります。

 歴史的に考えれば、現代の音楽=ポピュラーの基礎を作ったのは、クラシック音楽です。音楽が進化し変化することは、今に始まったことではありません。
クラシック音楽が「出来るまで」にも様々な音楽があったのです。
 演奏する楽器の種類が違う。1曲の長さが違う。演奏会での演出が違う。歌い方=演奏豊富尾が違う…などなど、違う点はたくさんあります。
 クラシックと言うから「古い」と言うイメージがついてまわりますが、それぞれに違った音楽である「だけ」で、古いだけではありません。古いと言うなら、ミスターロンリーはクラシックです(笑)言葉の「落とし穴」ですね。
 音楽以外にたとえるのは難しいですが、フルコースの料理で出てくる「順番」があったり、懐石料理でそれぞれに「名前」があったりします。これも一種の決まり事です。それにとらわれない料理もあります。
 モノづくりにも言えます。伝統的な手法と工程で作られるものもあれば、機械化で短時間に作られる「同じようなもの」もあります。手作業で作られる車もあれば、ロボットがほとんど作る車もあります。伝統的な踊りや歌、料理や日用品、建物がどんどん消えている現代に、悲しさを感じます。
「便利な方がいい」のは確かです。「新しい方がいい」と決めつけるのは間違いです。不便だから古いものは壊す、捨てると言うのも間違いです。
 先人の築いた「文化・芸術」を古臭いと切り捨てることは、人間のおごりです。もっと、古きよきものを大切にする「心」を持ちたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

母に贈る感謝

 2020年6月3日の早朝、私(謙介)の母が父を追って天国に旅立ちました。
あれから丸2年の月日が流れました。もう?まだ?どちらにも感じます。
穏やかに最期の時を迎えられたことが、何よりの救いでした。

 父も母も生まれは岡山県。昭和4年生まれの父と6年生まれの母。
戦後を息抜いた両親の間に、兄と私の二人兄弟。
父は決して裕福ではない家庭の長男として生まれ、3人の妹を支えるために勉強し、京都大学に進み、当時の富士銀行に就職。一方の母は、一代で会社を築いた父の長女として恵まれた環境で育ったお嬢様。
 そんな二人の間に生まれた兄は、幼いころから勉強とスポーツの出来る「優等生」で父のスパルタ教育を受けて育ちました。5つ年下の私は、生まれつき心臓に病気が見つかり、その後治療不能の目の病気と診断され、病弱な幼少期を過ごしました。
 銀行員はとにかく転勤が多く、私は東京渋谷区で生まれ、すぐに札幌の社宅に引っ越し。当時心臓が弱く、列車と船での移動は無理と診断され、銀行は特別に「飛行機」での移動を認めたそうです。3歳頃に、代々木上原の社宅に引っ越し。小学校入学は「上原小学校」その後、岡山県倉敷市の社宅に引っ越し。田んぼの中の一軒家社宅。「倉敷東小学校」へ。この頃に、ヴァイオリンを習い始め、少しずつ健康な生活が出来るようになってきた小学校2年生が終わるころに、東京都杉並区荻窪の社宅に引っ越し。「荻窪小学校に転校し小学校5年生途中まで友達と元気に遊ぶ少年になりました。その後、東京都小金井市に父が念願のマイホームを建てて引っ越し。「緑小学校」に転校しこの頃に、久保田良作先生のお宅を訪ね、図々しくも弟子入りさせて頂きました。当時は奥様の「由美子先生」にレッスンをしていただいていました。その後、「緑中学校」に入学したときから、良作先生のレッスンを受けることになりました。
 両親は、私たち兄弟が独立した後も、二人で小金井に暮らし続けましたが、父が前立腺がんの告知を受けてから、生活が激変しました。やがて母の認知症が判明し、進行していることを父は私たちに隠し続けました。
 ある年末に、父がインフルエンザを悪化させて救急車で杏林大学病院に搬送され、即入院。これがきっかけで、両親ともに施設で暮らすことを承諾。
 その後は、兄の住まいに近い有料介護施設に、ふたり隣同士の部屋で入居。
父が老衰で亡くなったときには、すでに母の認知症は父の死を覚えていられない症状でした。その後も、母は施設で暮らしましたが、幸い大きな病気にもならず、数日間の入院があった程度で平穏に暮らすことができました。
 母の認知症は、途中「ものとられ症候群」で施設の中でトラブルはあったものの、その後は、穏やかに生活できていました。亡くなる数週間前から、食事をしなくなり、水も飲まなくなり、それでも会話は出来ていました。亡くなる数日前に、施設に面会に行った時、車いすでロビーまで連れて来られた母と、何とか会話ができたのが最後の会話でした。施設の出口で手を振る母が、生きている最後の姿でした。

 母に最期の生演奏を聴かせられたのは、もうずいぶん前のリサイタルです。
両親ともに、葬儀が大嫌いでした。数人の身内だけで、ふたりを送りました。
実は上の映像は、母の通夜と告別式の際に、式場でひっそりと流していた音楽です。安らかな終焉を迎えられた両親に、今更ながら「子供孝行な親だな~」と思います。それなりに介護はきつくも感じました。ただ、それは肉親として当然の事でした。浩子にしても義理の姉にしても「家族」として本当に私たちの両親を支えてくれました。尊敬しています。家族とは…それを教えてくれました。
 音楽を演奏する息子を、誇らしげに話していた両親でした。
相変わらず兄は音楽に「縁がない」スポーツ系おじいさんですが、仲良し兄弟になってしまいました(笑)
 両親に感謝することを、両親が生きている間に出来ていなかったのは事実です。だからと言って、後悔しても仕方のないことです。自分がこの先の人生を、両親への恩返しとして、ひとりでも多くの人に、音楽と笑顔を届けて暮らすことが、両親への感謝になるのかな?と思っています。
両親が生前に、お世話になった多くの方々に、改めて俺を申し上げます。
ありがとうございました。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

クラシックコンサートに期待されるもの

 演奏は、ヴィオラとピアノで演奏した、バッハのG線上のアリアです。
今回のテーマは、お客様がクラシックコンサートに期待することを考えたいと思います。演奏する側が本来、一番考えなければいけないことだと思います。

 大きく分けて二つの期待があります。
1.音楽=曲への期待。
2.演奏=演奏者への期待。
 クラシックのコンサートで演奏される曲は、多くの場合はすでに誰かがどこかで演奏している曲です。またこれもほとんどの場合、多くの演奏者が同じ音楽を演奏しています。聴く側の立場を考えると、曲名を見て「知っている」レベルが様々です。タイトルだけ聴いたことがある曲、タイトルを見ても曲が思い浮かばない音楽、一部分だけ知っている音楽など人によって大きく違います。
 第九を例にとれば、終楽章の「有名な」部分だけを知っている人は多くても、1楽章を聴いて「あ、第九だ」とわかる人は圧倒的に少ないはずです。
クラシック好きであれば話は別ですが、「曲名」だけに期待する人の場合、有名なタイトルの曲にしか「期待」しないのが現実です。
 ヴァイオリンとピアノでコンサートを開く場合、多くの人が知っている曲を選ぼうとすれば、どのコンサートもほとんどが同じ選挙区になるでしょう。
 有名どころを挙げてみます。
・ツィゴイネルワイゼン
・スプリングソナタ
・愛の挨拶
・タイスの瞑想曲
これでさえ、すでに怪しい気がしますが、さらに
・愛の喜び
・G線上のアリア
当然、いくらでも思いつきますが、タイトルを知っている曲はこの程度ではないでしょうか?
 それだけでコンサートを開くのが正しいとは思っていません。現実の問題です。

 演奏や演奏者に期待してコンサートに行く人を考えます。
・演奏者をテレビで見て演奏者に会えるのを期待する
この場合、日本では数人の演奏者に限定されるでしょうね。
・チラシの「経歴」に期待する場合
以前に書きましたが、これは案外大きいですね。
・誰かからの紹介=口コミで期待する場合
いわゆる「リピーター」から誘われていくケースです。
・チラシの写真が「かわいい」「かっこいいい」
どの程度いるのか不明ですが。関係ないとは思いません。
 知っている曲をどんな風に演奏をするのかに期待する場合と、演奏者を知っている=その人の演奏を聴いたことがあって、曲目より演奏者に期待する場合があります。

 クラシック以外のコンサート=ライブの場合だと、多くの場合はアーティストをテレビやCDで知っていて、生で聴いてい見たい、あわよくば見てみたいという「期待」です。どんな曲を演奏するのかも、大事ですがむしろ「生で聴く」ことに満足して帰るファンがほとんどです。その点がクラシックの演奏会と大きく違う気がします。一言で言えば、クラシックは「曲または演奏に期待する」ポップスは「歌手・アーティストを生で感じることに期待する」と言えます。

 演奏者自身が聴衆に演奏を期待されなければ、演奏家として生活していくことは不可能です。自分以外の人の演奏と、自分の演奏の違いを聴いてくれる人に伝える方法は、自分の演奏を一人でも多くの人に知ってもらうしかありません。
 昔はテレビかラジオしか方法はありませんでした。いまはインターネットと言うツールがあります。Youtubeは誰でもいつでも「ただ=無料」で音楽を聴いたり見たりできます。その現代にお金を払ってチケットを買い、交通費と時間をかけてまで「コンサート」に来てもらうのは、至難の業ですね。
 無料で見られる・聴くことのできる演奏と、コンサートで聴くことのできる演奏との違いを知ってもらうことが不可欠です。
録音された演奏や配信では感じられないものは「コンサートの空間」です。
・ホールの広さ=反響・残響
・演奏者との距離=直接音と反射音の融合
・ヴァイオリンとピアノ、それぞれの音の広がり方と伝わり方の違い
どんなにヘッドホンやスピーカーの性能が良くても感じられない、臨場感=リアルな空気振動がコンサートの魅力です。
会場が変われば音が変わります。同じ会場で演奏者が変われば、音楽も音色も変わります。同じ会場で同じ人が演奏しても、その時々で演奏は違います。
いつも同じ音色で再生される「機械の音」とは違う、「そのコンサートだけの音楽」こそが、生きている人の演奏=ライブです。

 クラシック音楽の演奏は、人間の奏でる音楽です。ジャズも同じです。
ロックやポップスの音楽は、ライブもスピーカーからの音で聴きます。
機械を通さないアコースティック=自然な音を楽しめるのが、クラシックコンサートです。
 一人でも多くの人に、生演奏の良さを体感してもらえるように、無料の音楽配信でクラシック音楽をもっと広めることが求められていると思っています。
ヴァイオリンのコンサートは面白いぞ!
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

趣味のある人生

 映像は2008年8月24日(日)に実施した、メリーオーケストラ第14回定期演奏会での「ビーチボーイズ メドレー」です。いつもの事ながら、演奏している人たちの「真剣さ」「ひたむきさ」「楽しさ」を感じます。「かっこよさ」とか「美しさ」「うまさ」が足りない?かも知れませんが、私にとっては前者の方が、1億倍(子供かっ!笑)大切なことだと思っています。
 今回のテーマは「趣味」についてです。

 趣味の〇△という書籍や番組、履歴書にある「趣味」の欄、お見合いで「ご趣味は?」←今時、言うのだろうか?など、普通に使う言葉ですが生活の中で、自分の趣味を考えることはあまりない気がします。
 まず、「子供の趣味」とは言いませんよね?子供が生き生きと遊んでいる姿こそ「趣味」の原点ではないでしょうか?好きなことをしている時の「純粋な楽しさ」こそが趣味だと思います。
 大人が趣味という裏側には「好きじゃなくても」やらなくてはいけないことがあります。あるいは、好きだけれど「責任」のあることも趣味とは言いません。
 失敗しても途中で投げ出したとしても、誰にも迷惑をかけないという「自分だけの責任」で楽しめるのが趣味でもあります。趣味にかける「お金」も、大人が自分で稼いだお金を使います。もちろん、家族がいる場合には「限度」がありますよね。家族に迷惑をかけない範囲のお金で、自分の好きなことをするのが趣味です。

 趣味のない人生。趣味のない生活。普段、仕事と生きることに精一杯の人にとって「趣味なんて余裕はないし、いらない」と思うかもしれません。
 確かに「お金持ちの趣味」と聞くと、悪いイメージがあります。
「豪華客船で世界一周するのが趣味」とか、「何台も車を買うのが趣味」とか聞くと思わずムカつくのが庶民です。生活に余裕のある人の特権なのでしょうか?
 私はそうは思いません。生活が苦しくても、趣味は楽しめると信じています。
お金をかける余裕がなくても、散歩が趣味だったり、ただボーっと空を見るのが趣味だったりするのは、素敵な趣味だと思うのです。その人が「心休まる」ことも立派な趣味だと思います。
 私の父は「骨董集め」が一番の趣味でした。休みの日には、ひとりで夜の明けないうちに起きて出かけ「蚤の市」に行っては、なにやら買ってきていました。それを、庭先の水道で洗う嬉しそうな父を「なにが楽しいんだ?」と怪訝な気持ちで見ていたのを覚えています。

ラグビーを見るのも趣味でした。テレビで生中継を見た後に、万度もビデオを見ながら、何度も興奮して手をたたく父を見て「大丈夫か?」と思ったこともあります。
 その父が一番嫌いで必要以上に怯えていた「病気」になってから、趣味を無くしました。骨董の事にも一切、関心を無くしました。母とふたりで施設に入居してからも、自分の部屋でただ椅子に座って、黙り込んでいるだけの日々でした。いくら誘われても、集まりにもイベントにも参加せずに、座ったままでした。
 私と浩子さんが演奏に行った時だけは、みんなと一緒に聴いていました。まるで「天照大神」になったような気がしました(笑)
 趣味を無くした人の「無表情」な顔は見ていて悲しくなるものです。
生きるために食べ、寝るだけの生活を本人が望んだとはいえ、家族としては骨董を洗っている父の姿の方が何倍も「生きている」姿に見えました。私事ですみませんでした。

 メリーオーケストラは趣味で楽器を演奏する人と、音楽を専門的に学ぶ人、さらには職業として演奏している人が、一緒に演奏して楽しむオーケストラです。
 普段、職業として演奏している方に対して「交通費」しかお支払いできないのは、音楽家として心苦しいことです。それでも「参加します」と言ってくださる人たちのやさしさに感謝すると同時に、その人が音楽を演奏することを「楽しんでいる」からこそ、交通費だけで参加してくれているのだと確信しています。
 音楽を一緒に演奏する楽しさを知っている人に、「すみわけ=分類」は不要だと思います。楽器の演奏が好き。一緒に音楽を演奏するのが楽しい。それが職業だろうと、自分だけの楽しみだろうと本質は「好きだから」という事に違いはないと思うのです。
 私自身、今までにいろいろな趣味がありました。カメラだったり車の運転だったり、バイクだったり。そして今、楽器を演奏すること、音楽を広めることが「趣味」なのかな?と自分で思う年齢になりました。出来ることだけしかしないという「無責任」なのかも知れませんが、そろそろそれも許される年齢になってきたように感じています。
 皆さんもぜひ!趣味のある生活を楽しんでください。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽ビジネスを考える

 映像は、ヴィオラとピアノで演奏した、メンデルスゾーンの「歌の翼に」
デュオリサイタル10、ムジカーザでの演奏です。ヴァイオリンで演奏できる音域の曲をこうしてヴィオラで演奏すると、違った味わいを感じます。

 今回のテーマは、クラシック音楽の演奏をビジネスとして考えるものです。
演奏することで生活するために、なにが必要でしょうか?
 当然、演奏技術は不可欠ですが、その演奏技術を誰が評価するのかという根本的な問題があります。もっと言えば、演奏技術とはなにを指している言葉なのか?と言う定義があるのでしょうか?

 一般にコンクールで優勝した、あるいは入賞した人の演奏は「演奏技術が高い」と言って間違いないと思いますが、それはそのコンクールでの演奏を評価した結果です。その演奏以外の演奏が常に高いと言う証明ではありません。
 コンクールで入賞していない人の演奏技術が「低い」とは限りません。
「評価が欲しければコンクールで入賞すればいい」と言う考え方もあります。
では、「○○音楽大学卒業」と言う肩書は、必要でしょうか?現実に何人もの優れた演奏家・音楽家は、音楽大学を卒業していません。言い換えれば、音大を出たから素晴らしい演奏家になれるわけでもありません。
 つまり「肩書」が演奏家にとって、どれだけの価値があるのか?と言うお話です。私は肩書は単なる「ブランド」だと思っています。少なくとも、演奏を聴いたことのない人の「肩書」と演奏技術は関係ないとさえ思っています。
 有名ブランドの洋服やバッグを、着たり持ったりすることに「喜び」を感じる人のように、肩書を見て演奏者の優劣を決めている、人や組織・プロダクションが多すぎると思います。
 演奏技術の評価基準は「間違えないで正確に演奏出来る」ことしかないのでしょうか?だとしたら、以前にも書いたように人間の演奏より、ロボットのほうがはるかに演奏技術は高いのですが?
 演奏の「センス」は評価不能だと思います。優劣は存在しない「好み」の問題です。だとすれば、自分の好きな「演奏家」を選ぶのは、聴く人と演奏する人の「センス」がすべてではないでしょうか?一般の人に演奏技術の優劣が判断できるものではありません。「誰かがうまいと言ったからうまいんだろう」と思っているだけです。同じことは、ヴァイオリンという楽器に「優劣」を付けたがる人たちにも言えます。「だれそれの作ったヴァイオリンは素晴らしい」「新作ヴァイオリンなど論外」と言うヴァイオリニストを良く見かけますが、本当にその方がヴァイオリンの「良し悪し」を見極めているとは到底思えません。
誰かが良いと言えば良い。有名レストランの料理をありがたがって食べる「食通」と同じです。人によって「美味しさ」の基準が違うのが人間なのに、他人が美味しいと言うから美味しいに決まっている!って、味覚音痴でしょ?(笑)
 演奏の好き嫌いこそが、普通の人の聴き方だと思っています。
演奏する人がどんな人なのか?を知っていればなおさら、その人の演奏に親近感がわくものです。演奏者の「人柄」も演奏家としての「資質=価値」だと思っています。クラシックの演奏が一般になかなか浸透しない理由の一つが「演奏を聴いても演奏家の顔や声を感じない」事にもあるのではないでしょうか?
 現実に、テレビで良く見かける「ヴァイオリンを演奏する芸人さんたち」は、顔や髪形、声や話し方、果ては「色気」で人気があるのも事実です。演奏の技術云々よりもそちらで「ファン」が増えるのは現実です。別に私たちがみんな、あの人たちのようにテレビに出る必要もないわけです。

 演奏会に来てもらいたいのなら「自分を知ってもらう」ことが必要だと思うのです。

 演奏家、音楽家はプレゼンテーションが下手な人がほとんどです。
一般企業で営業をする立場の人なら、顧客にプレゼンをして実績を作らなければ「窓際」で一生終わります。物作りをする人にしても、自分の商品をアピールできなければ、生き残れないのが現代の社会です。「音楽で勝負する」以前に、自分の演奏する音楽を「プレゼン」する努力と能力がなければ、生き残ることは出来ない時代なのです。
 誰かにコンサートを開いてもらう時代は、もう終わると確信しています。
なぜなら「中間マージン」が大きすぎるからです。演奏家が自分でプロモーションする力があれば、肩書がなくても音大卒業でなくてもお客様は集められる時代です。
 自分で自分を売り込める「自信がない」人は、生活できない時代になります。
他人の評価を待っている演奏家、肩書にすがる演奏家には見向きもされない時代が来ます。
 音楽家にとって「財産=商品」は、自分自身なのです。それを聴衆に「直接販売」するのがこれからの音楽ビジネスだと思っています。アナログで良いと思います。現にストリートピアノに人気があるのは「リアルに人が演奏している」からです。配信で生活しようとするよりも、自分の声で人を呼ぶ勇気と自信を持つことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

良い先生って便利な先生?

 映像は、恩師久保田良作先生の門下生による夏の合宿での一コマです。
私にとって「良い先生」と言う定義を考えます。
 実は今朝、偶然見かけたネットニュースに、レッスンをする「先生」についての記事がありました。その中に「それ、違うんじゃない?」と感じる部分がありました。「レッスンの予定を行く気がしなかったので直前にキャンセルしても、先生は私の時間が出来たからいいのと、レッスン代金も受け取らない【いい先生】です」と言う内容でした。皆さんは、どう感じますか?

 生徒さんと先生の間でレッスン代金の支払い・受け取りがあるなしに関わらず、人として誰かに「教えてもらう」立場で、教えてくれる人に対する「敬意」はないのでしょうか?もちろん、教える側から生徒さんへの敬意もなければなりません。少なくとも、礼儀はあって然るべきだと思います。
 先生とレッスンの時間を決めて約束をした後で「行く気がしないから」と言う理由でキャンセルが成立するのでしょうか?そしてそれを受け入れる先生が「良い先生」なのでしょうか?間違っているように思います。
 さらに言えば、どんな理由があったとしても約束を「キャンセル」するのは相手に対して「失礼=礼をなくす」な行為だと思います。理由が嘘でも本当でも、相手に対して「迷惑をおかけして申し訳ない」と言う気持ちがないのかな?と疑問に感じます。

 お互いに人間なので、失敗もするし体調が突然悪くなってレッスンが出来ない場合も起こります。実際に私もこれまでに、幾度となくその経験をしました。
生徒さんのほとんどのかたと「気持ちよく」お互いの事情を理解しあえます。
レッスン代金については「当日の変更やキャンセルはお支払い」と言う約束をあらかじめ取り交わしています。一種の契約です。

 良い先生が「便利な先生」と同じ扱いになるのが私は恐ろしい気がします。
教える先生が「それでいいよ」と思うのは自由です。それが「良い先生」だと生徒の側や一般の人が感じる「時代」なのでしょうか?
 ヒステリックな先生や、生徒が委縮してしまう先生、ただ怖いだけの先生が良い先生だとは思いません。演奏技術が高く有名な「演奏家」が良い先生だとも限りません。教える側の立場で「良い先生とは」と言うのも何か言いにくいですが(笑)皆さんは、どう思われますか?
 ご意見などお気軽にコメントくださいませ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「音」を「音楽」にする技術

 映像は、もうすぐ再生回数が10,000回に近づいている、アンドレ・ギャニオン作曲の「めぐり逢い」を教室で演奏したときのものです。
 生徒さんがレッスンで「この曲、ひいてみたいんですけど」と楽譜を持参してくれて「めぐり逢った」曲です。

「音」と「音楽」って何が違うのでしょうか?
音を聴くことができる人にとって、音楽も「音」のひとつです。
では、すべての音が「音楽」かと言うと違いますよね。
聴こえる音の中で「音楽」に感じるのは、その音楽を知っているからでもなく、誰かに「音楽とは」と教えてもらったからでもありません。これってとっても不思議ですよね。
今回のテーマで言う「音楽」はさらに深い意味、人間が演奏する「音楽」についてです。音の高さと長さと音色や強さを機械=パソコンに入力すれば、「音楽」が再生されます。正確で間違えない音楽です。どんな速度にでも変えられます。
ただ、それは人間の演奏する音楽とどこかが違います。
 私たちが「曲」を演奏する時に、どんな音で=どんな風に演奏すれば、どんな音楽になるか=どう聴こえるか?という「実験」を繰り返します。一音ずつをただ「正しい高さ正しい長さでで綺麗な音で」演奏することだけでも、十分に難しいことです。
ただ、それだけを求めるなら機械で再生したほうがずっと「じょうず」です。
 誰かが演奏したり歌った「音楽」をコンピューターで分析し、その演奏と「ピッチ」「音の長さ」「音の強さ」がどれだけ同じにできるかを「点数化」することを競い合う「頭おかしいだろ?」と笑ってしまう番組や採点カラオケをご存知ですか?歌った本人がやったら、100点どころか50点ぐらいだったと言う笑い話もあります。真似をした人の歌や演奏を「音楽」とは言いません。それは「パソコンの真似」つなり機械以下の事をしているだけです。「じゃぁ出来るのか?」と言われたら即答します。「その努力をするくらいなら、自分の好きに演奏します」と。自分で考えて試して、また考えて試して繰り返して作るのが「音楽」です。
誰かの演奏を真似するのは「音楽の真似」でしかありません。

 生徒さんの多くが「どう演奏したらいいのかわからない」から「同じ演奏方法で演奏し続ける」という落とし穴に落ちます。
 私が良くたとえに出すのが「日本語の会話」です。
「今日は暑かったね」と言う会話の「今日は」を強く言えば、昨日まで涼しかったのにねと言う意味を感じます。「暑かったね」を強調すれば、普段なら涼しい季節に突然暑くなった時に言っているように感じますよね?

ね」を強調すれば、相手の考えを確かめようとしているように感じますよね?
ヴァイオリンの演奏で言うなら、アタックを付けるか?柔らかく弾き始めるか?そして、ビブラートを始めからかけるか?後からかけるか?ビブラートの速さは?深さは?弓の場所は?弓の圧力は?速度は?途中で変えるのか変えないのか?その音の終わりは弱くする?同じ大きさ?強くひき切る?次の音との「合間=時間」は?などなど、試すことはたくさんあります。組み合わせるのでさらに実験の種類は増えていきます。一音ごとの演奏方法は前後の音とも影響します。
 たとえば2つの音符があったとします。
一つ目の音の演奏方法を決めて、二つ目の音が「同じ高さ」の音なら完全にレガートでビブラートも止めずに演奏すると「タイ=一つの音」に聴こえてしまいます。一つ目の音の演奏方法を考え直す必要があるかも知れません。意図的にノンビブラートで演奏するのも一つの方法です。二つ目の音の最初から深めのビブラートをかければ、あとの音が少し強調されて聴こえるでしょう。二つ目の音にアタックを付ける方法もあります。一つ目の音の最期を瞬間的に弱くする方法もあります。それぞれに効果が違います。色々な方法を試すことが何よりも大切です。

 ここまで書いて「ちゃぶ台返し」をするようですが、どんなに実験をしても「正解」はありません。「なら、時間の無駄じゃん」いえいえ、とんでもありません。自分にとっての「結論」が、誰にとっても同じだとは限らないという意味です。演奏者が「こだわって演奏している」か「何も考えずに演奏しているか」は、音楽を好きな人間にはわかることです。どんなに速く正確に演奏していても「ただ演奏しているだけ」の演奏に拍手喝采をする人を見かけると、「普段、何を聴いているんだろう?」と不思議に感じます。
プロでも楽譜にかじりついて演奏している動画を見かけます。
プロだから楽譜を見ながら、極端に言えば初見でも演奏できます。
ただ、一音ずつにこだわって練習しそれをすべて楽譜に書きこめるものでしょうか?それだけ時間をかけたら、暗譜できるのがプロだと思うのです。
「考えて決めた情報=書き込みが多いからこそ、楽譜を見る」と言うプロもいて不思議ではありません。その情報を瞬時に読み取れる技術がない私には、敬服するしかありません。決して嫌味ではありません。

 同じ音色、同じ音量で演奏する練習は「譜読みの段階」だけです。
音楽にしていく作業は、その先にあります。自分にしかできない演奏は、自分で考えて試すからできるのです。なにも考えずに「無心でひく」のは、さらにその後です。人と同じ演奏はあり得ません。それこそが「音楽」だと思います。
わからない、できないと決めつけるのは「音楽からの逃げ」です。
うまいとか、へたとかの問題ではありません。音楽への「思い=愛情」がなければ、演奏しても演奏を聴いても、楽しくないはずです。
 最後までお読みいただき,ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学んだ知識を身に着ける努力

 映像はヴィオラとピアノで演奏したドボルザークの「我が母の教え給いし歌」です。私の幼いころの写真やら、両親の若いころの写真など(笑)お許しください。「母が教えてくれた歌」を実際に覚えているかどうかは人それぞれですが、私の場合は…すみません、「記憶にございません」
 子供の頃から、音楽を教えてくれたのは「先生たち」でした。
両親から直接、音楽を教えてもらった記憶はないのですが、よくよく考えてみれば先生に出会えたのは「両親のおかげ」です。やる気のない少年「K」をある時は叱り、有る時は飴で釣りながらヴァイオリンを「やめさせなかった」両親から結果的に音楽を学んでいたわけです。
 反抗期、大人に対する理由もない嫌悪感と対抗心を感じる時期です。
特に「親・兄弟」への反抗は人によって違いますが、時には「人として」間違った言葉や行為に至ります。私自身、中学生のころから高校を卒業する頃まで、父にも母にも「抗って」いました。反抗する子供を見ると「いつか大人になって目覚める」と信じていますが、自分の子供を「放任」したことは今反省していますが、時すでに遅しです。

 さて、音楽をひとに習うことができるのは、どんな人でしょうか?
「お金を払えば教えてもらえる」と言う意味ではありません。
人から何かを学び取ろうと言う「気持ち」の話です。
教えてもらう、教えて頂くと言う「謙虚な気持ち」がなければ、なにも学べません。形だけ「習う」ことを学んだとは言いません。音楽に限ったことではありませんが、他人の言葉に耳を貸そうとしない人は「自分が正しい」と思いこんでいる人です。少なくとも自分の考えと違う考えに対して「誹謗」する人や、自分と違う考えの人を「排除」する人が、誰かから謙虚に「学ぶ」ことは不可能です。
 人間は年を重ねると次第に、人を見下す傾向があります。
特に回りの人が「ちやほやしてくれる」環境にいると、その「上から目線」は限りなく高い場所からの目線になります。「神」になった気持ちなのかもしれません。
 その「神のつもり」の人から、何かを学べるでしょうか?と言うより、その人に、他人になにかを「教える資格」があるとは思えません。
 本人は「教えてやる」と、いい気分でしょうけれど、すでにその人は「学ぶ心」を失っているのですから、退化し続ける哀れな人でしかありません。

 音楽を学ぶと言うことは、技術や知識を学ぶだけではありません。
練習の仕方?楽器の扱い方?それもありますが、もっと大切なことがあります。
音楽を学ぶ。それは、自分に足りない「なにか」を見つけることです。
レッスンならば先生からの言葉や、先生の演奏から自分に足りないものを考えます。
 他人の演奏を聴く時も、自分に足りないことを見つけることが大切です。
逆説すれば、自分を観察できなければ、なにも学べないという事です。
その上で「向上」しようとすることが「学ぶこと」です。
自分が出来ないことに気付けたのなら、そこから先にやることはただひとつ。
「身に着けるまで努力=練習する」ことです。
当たり前のようですが、得てして学んだ「だけ」で終わってしまうことが多いのです。出来るまで努力することから逃げてしまうのが人間の弱さです。

 学ぶことは、自分の出来ないことを見つけること=知ることです。
そして、それを出来るようになるまで練習し続けることです。
「頭=考えること」と「身体=行動すること」で生き物は成長します。
どちらが欠けても成長はしません。
学び続けて行動し続けている人から、また違う人が学ぶ連鎖が「伝承」です。
趣味であっても専門家であっても、まったく同じです。
気持ちはいつも「初心者」であり続けたいと思っています。
さぁ!今日も頑張ろう!
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

メリーオーケストラの演奏曲たち

1 アイネクライネナハトムジーク(弦楽器)
2 愛の賛歌(弦楽器)
3 赤とんぼ(弦楽器)
4 葦笛の踊り(くるみ割り人形より)
5 アダージョ(弦楽器)/アルビノーニ
6 アバセレクション(弦楽器)
7 アブデラザール組曲より(弦楽器)
8 アヴェ・ヴェルム・コルプス(弦楽器)
9 アポロ13・メドレー
10 アメリカ(弦楽器)
11 アリア(弦楽器)/ヴィラ=ロボス
12 アルルの女第2組曲
13 アレグロ(弦楽器)/ヴィヴァルディ
14 いのちの歌
15 イパネマの娘(弦楽器)
16 威風堂々第一行進曲
17 イフソービーニア(弦楽器)
18 イムジン河(合唱)
19 イムジン河
20 ヴァイオリン協奏曲第1楽章/チャイコフスキー
21 ヴァイオリン協奏曲第1番第3楽章/ブルッフ
22 ヴィオラヒーロー(弦楽器)
23 ウイリアムテル序曲
24 ウエストサイドストーリー
25 ウォークディスウェイ(弦楽器)
26 宇宙戦艦ヤマト
27 美しき青きドナウ
28 海の見える街(魔女の宅急便弦)
29 大きな古時計(弦楽器)
30 オペラ座の怪人
31 朧月夜(弦楽器)
32 おもちゃの兵隊の行進曲
33 オンブラ・マイ・フ
34 カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲(弦楽器)
35 風の谷のナウシカ(弦楽器)
36 神奈川ゆかりの歌メドレー(合唱)
37 悲しき二つの旋律より「晩春」(弦楽器)
38 悲しみのクラウン(弦楽器)
39 カノン(弦楽器)/パッヘルベル
40 ガブリエルのオーボエ(弦楽器)
41 .カプリオール組曲(弦楽器)
42 ガボット(弦楽器)/ゴセック
43 カルメン第1組曲
44 川の流れのように(弦楽器)
45 管弦楽団組曲第2番(弦楽器)
46 北の国から
47 君をのせて(弦楽器)
48 君を忘れない(弦楽器)
49 クイーン・ベスト(弦楽器)
50 グリーンスリーブス(弦楽器)
51 軽騎兵序曲
52 弦楽セレナーデより第1楽章(弦楽器)
53 弦楽セレナーデより第2楽章(弦楽器)
54 弦楽セレナーデより第4楽章(弦楽器)
55 弦楽のためのソナタ第1番第楽章(弦楽器)
56 交響曲第5番第4楽章/チャイコフスキー
57 交響曲第7番第2楽章(弦楽器)/ベートーヴェン
58 交響曲第9番「新世界より」第4楽章
59 交響曲第41番「ジュピター」より第1楽章
60 交響曲第41番「ジュピター」より第3・4楽章
61 荒城の月(弦楽器)
62 コーラスライン・メドレー
63 コンチェルト(弦楽器)
64 西城秀樹ヒットセレクション
65 サウンドオブミュージック
66 ザ・キング・オブ・ポップ(弦楽器)
67 サッチモ
68 さとうきび畑
69 さとうきび畑(弦楽器)
70 サモンザヒーロー(弦楽器)
71 さよならの向こう側(合唱)
72 サンダーバードのテーマ
73 G線上のアリア(弦楽器)
74 ジェームズボンド(弦楽器)
75 シカゴメドレー(オケ)
76 シカゴ(弦楽器)
77 島人ぬ宝(弦楽器)
78 ジャズピチカート
79 JAVA(弦楽器)
80 修道院の庭にて(弦楽器)
81 主よ、人の望みの喜びよ(弦楽器)
82 ジュラシックパーク
83 序奏とロンドカプリチオーソ
84 ジョン・ウイリアムズ・メドレー
85 シンコペーッテッドクロック
86 シンドラーのリスト(弦楽器)
87 シンプルシンフォニー(弦楽器)
88 好きになった人(弦楽器)
89 スペイン交響曲第5楽章
90 スモークオンザウォーター(弦楽器)
91 スラム・ドック・ミリオネア(弦楽器)
92 千と千尋の神隠し(弦楽器)
93 セントラルコーチスペシャル(弦楽器)
94 そり滑り
95 タイプライター
96 タイムセイグッバイ(弦楽器)
97 韃靼人の踊り
98 旅立ちの日に(合唱)
99 タンホイザー序曲
100 チェロ協奏曲第1楽章
101 地上の星(弦楽器)
102 チャーリーブラウン・クリスマス(弦楽器)
103 チャルダッシュ(弦楽器)
104 チャルダッシュ(フルオケ)
105 中国の太鼓(弦楽器)
106 調和の霊感(弦楽器)
107 追憶(弦楽器)
108 ツィゴイネルワイゼン
109 津軽海峡冬景色(弦楽器)
110 翼をください
111 テイクファイブ(弦楽器)
112 ディズニー・メドレー(弦楽器)
113 ディベルティメントニ長調(弦楽器
114 天国と地獄序曲
115 となりのトトロ(弦楽器)
116 ドラえもんの歌
117 トランペット吹きの休日
118 トランペット吹きの子守唄
119 ドントストップビリーブイン(弦楽器)
120 虹の彼方に(弦楽器)
121 ニューシネマパラダイス(弦楽器)
122 ハイランドカテドラル
123 パイレーツオブカリビアン(弦楽器)
124 花~すべての人の心に花を~(合唱)
125 花のワルツ(くるみ割り人形)より
126 ハバネラ(弦楽器)/サンサーンス
127 パラディオ(弦楽器)
128 ピアノ協奏曲第21番第2楽章/モーツアルト
129 ピアノ協奏曲第2番第3楽章/ラフマニノフ
130 ピアノソナタ第1番より(フルート)/モーツアルト
131 ピーターガン(弦楽器)
132 ビーチボーイズ・メドレー(弦楽器)
133 ピチカートポルカ(弦楽器)
134 ビッグバンド・メドレー
135 ビリーブ
136 ピンクパンサー(弦楽器)
137 フィンランディア
138 ブーレ(弦楽器)/バッハ
139 2つのヴァイオリンの為の協奏曲バッハ
140 2つのヴァイオリンの為の協奏曲(弦楽器)
141 2つの楽器のための小品集(弦楽器)/モーツアルト
142 冬(四季より)/ヴィヴァルディ
143 ブランデンブルグ協奏曲第3番第1楽章(弦楽器)
144 ブランデンブルグ協奏曲第4番第1楽章(弦楽器)
145 ブランデンブルグ協奏曲第5番第1楽章(弦楽器)
146 プリンク・プランク・プルンク(弦楽器)
147 ブルータンゴ
148 ふるさと
149 ヘアー・スプレー(弦楽器)
150 ペールギュント第1組曲(弦楽器)
151 ボーンディスウェイ(弦楽器)
152 星に願いを(弦楽器)
153 ホルベルク組曲より第1楽章(弦楽器)
154 マービンハムリッシュ・メドレー(弦楽器)
155 マイスタージンガー
156 マイフェアレディ・メドレー
157 見上げてごらん夜の星を(弦楽器)
158 ムーンリバー(弦楽器)
159 メヌエット/ボッケリーニ
160 メヌエット(弦楽器)/ベートーヴェン
161 モアナ
162 夕顔の花が咲いたよ(弦楽器)
163 夕焼け小焼け
164 ユーレイズミーアップ(弦楽器)
165 与作
166 4つのヴァイオリンの為の協奏曲(弦楽器)
167 ライトリー・ラテン(弦楽器)
168 ラ・クンパルシータ(弦楽器)
169 ラピュタ(天空の城)
170 ラプソディインブルー
171 リュートのための古風な舞曲とアリア(弦楽器)
172 ルパン三世のテーマ
173 レットイットトゴー(アナ雪弦楽器)
174 レ・ミゼラブル
175 ロマンス第2番/ベートーヴェン
176 ロンドンデリーの歌(弦楽器)
177 ワルツィングキャット
178 ワルツ(仮面舞踏会)
179 ワルツ(弦楽器)/ショスタコーヴィチ

 今日の「リスト」はNPO法人メリーオーケストラが20年間40回の定期演奏会で演奏してきた「音楽」です。延べ179曲になりました。
動画は、第1回定期演奏会でのふるさとです。
立ち上げた時から今日まで、コンセプトを変えずただひたすらに「音楽の普及」と「子供の健全な育成」を目的にして活動しています。
 何回か書いていることですが、アマチュアオーケストラは演奏を楽しむ人たちの集まりです。演奏技術や規模、演奏曲の難易度を競い合うことには、何の意味もありません。その演奏会を毎年2回開き続け、入場料無料で赤ちゃん連れでも、小さなお子様も体に障がいのある方でも音楽を聴いて楽しめるコンサートを開いています。
 演奏者の年齢も技術も様々です。当然の事かも知れませんが、さらに難易度の高い曲に挑戦したい人や、初心者と一緒に演奏することに満足できない「アマチュア演奏家」もいるのは現実です。それはそれで楽しめるなら良いのです。
 リストを見て頂くとお分かりのように、「それ、オーケストラの楽譜があるの?」という曲もたくさんあります。メリーオーケストラで演奏す為に、アレンジしています。
 正確に言えば、本来の=オリジナル編成ではなく、メリーオーケストラの編成に合わせて演奏しています。それが「間違い」だとしても、演奏できることの方が重要だと考えています。
 演奏会の動画には、曲間のMCをカットしていますが、実際には曲の説明やオーケストラのエピソードなども織り込んでお客様との一体感を感じられるようにしています。
 これからもできる限り、この活動を続けていきたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ理事長・指揮者  野村謙介

15年間の足跡

Earth 村松崇継
愛の挨拶 エルガー
愛の悲しみ クライスラー
愛のよろこび クライスラー
愛の喜びは マルティーニ
愛を奏でて(海の上のピアニスト) モリコーネ
アヴェヴェルム モーツァルト
アヴェマリア ピアソラ
アヴェマリア シューベルト
アヴェマリア グノー/バッハ
アヴェマリア カッチーニ
赤とんぼ 山田耕筰
朝の歌 エルガー
明日 アンドレ・ギャニオン
アダージョとアレグロ シューマン
アダージョ・レリジオーソ ボーム
あなたがそばに居たならば バッハ
アニーローリー スコットランド民謡
亜麻色の髪の乙女 ドビュッシー
アリオーソ バッハ
アレグロ フィオッコ
家路 ドヴォルザーク
異国より(リーダークライス) シューマン
ノクターン遺作 ショパン/クライスラー
糸 中島みゆき
いのちの歌 村松崇継
祈り ラフマニノフ
ウィーン奇想曲 クライスラー
ヴィオラ協奏曲より第2楽章 カサドシュ/J.C.バッハ
ヴォカリーズ ラフマニノフ
歌の翼に メンデルスゾーン
美しい夕暮れ ドビュッシー
美しきロスマリン クライスラー
駅 竹内まりあ
エストレリータ ポンセ
F.A.E.ソナタ スケルツォ ブラームス
オールドリフレイン クライスラー
踊る人形 クライスラー/ポルディーニ
オフェルトワール(奉献歌) エルガー
オブリビオン ピアソラ
オリビアを聴きながら 尾崎亜美
オン マイ オウン(レ ミゼラブル) シェーンベルグ
カヴァティーナ ラフ
カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲 マスカーニ
カフェ ピアソラ
悲しみのクラウン スティーヴン・ソンドハイム
彼方の光 村松崇継
ガブリエルのオーボエ モリコーネ
神の御子は今宵しも 讃美歌
枯れ葉 コズマ
カンタービレ パガニーニ
カントポポラーレ エルガー
きよしこのよる 久木山直
クッペルヴィザーワルツ シューベルト/R.シュトラウス
グランタンゴ ピアソラ
クロリスに アーン
恍惚の時 アーン
荒城の月 滝廉太郎
ゴッドファーザー愛のテーマ ニノ・ロータ
この道 山田耕筰
ガヴォット ゴセック
子守唄 ショパン
子守歌 フォーレ
コレルリの主題による変奏曲 クライスラー
サラバンドとアレグレット クライスラー
G線上のアリア バッハ
シェルブールの雨傘 映画モリコーネ
シシリエンヌ フォーレ(ピアノチェロ版)
シチリアーノ パラディス
シュピーゲル イン シュピーゲル アルヴォ・ペルト
序奏とロンドカプリチオーソ サン・サーンス
シンコペーション クライスラー
シンドラーのリスト ウィリアムス
スイートメモリーズ 大村雅朗
スケルツォ(懐かしい土地の思い出) チャイコフスキー
スペイン舞曲 ファリャ/クライスラー
スラヴ舞曲第2集第2番 ドヴォルザーク/クライスラー
千の風になって 新井 満
即興曲D899-3 シューベルト
ソナタ K.304 モーツァルト
ソナタ第一番第一楽章 ブラームス
タイスの瞑想曲 マスネー
太陽がいっぱい 映画ロータ
ただ、憧れをする者だけが チャイコフスキー
チェロソナタ第2楽章 ショパン
ツィゴイネルワイゼン サラサーテ
チャルダッシュ モンティ
中国の太鼓 クライスラー
月の光 ドビュッシー
テンポ ディ メヌエット クライスラー
トロイメライ シューマン
ナイトクラブ ピアソラ
亡き王女のためのパヴァーヌ ラヴェル
メロディー(懐かしい土地の思い出) チャイコフスキー
瞑想曲(懐かしい土地の思い出) チャイコフスキー
虹の彼方に ハロルド・アーレン
ニューシネマパラダイス モリコーネ
ノクターン チャイコフスキー
ノクターン アザラシヴィリ
白鳥 サン・サーンス
パピヨン 映画ゴールドスミス/町田育弥
遥かな友に 磯部俶
はるの子守唄 渋谷牧人
ハンガリー舞曲5番 ブラームス
Believe 町田育弥編曲
フーガ クライスラー
ふるさと 岡野貞一
プレギエラ(祈り) クライスラー
プレリュード(無伴奏パルティータno.3) バッハ
プレリュードとアレグロ クライスラー
ポエム フィビヒ
星に願いを ハーライン/久木山
菩提樹 シューベルト
マズルカ エルガー
マドリガル シモネッティ
ノクターン(真夏の世の夢) メンデルゾーン
見上げてごらん夜の星を いずみたく
ミスターロンリー レターメン
ミスティ エロル・ガーナー
ミッドナイトベル ホイベルガー/クライスラー
ムーンリヴァー 映画マンシーニ
無窮動 ボーム
無言歌 クライスラー/チャイコフスキー
無言歌 メンデルスゾーン/クライスラー
6つのやさしい小品 エルガー
めぐり逢い ギャニオン
メディテーション グラズノフ
メヌエット ベートーヴェン
メロディー パデレフスキ
もみの木 久木山編曲
椰子の実 大中寅二
ユーモレスク ドヴォルザーク
夕焼け小焼け 岡野貞一
ユーレイズミーアップ ラブランド
夢のあとに フォーレ
夜の歌 エルガー
パガニーニの主題によるラプソディー ラフマニノフ
ラブミーテンダー プールトン
ラベンダーの咲く庭で ナイジェル・ヘス
ラルゴ ヘンデル
リベルタンゴ ピアソラ
瑠璃色の地球 平井夏美
ロマンス エルガー
ロマンス ブルッフ
ロマンスOp.94-2 シューマン
ロマンティックピース1 ドヴォルザーク
ロマンティックピース2 ドヴォルザーク
ロマンティックピース3 ドヴォルザーク
ロマンティックピース4 ドヴォルザーク
ロンディーノ クライスラー/ベートーヴェン
ロンドンデリーの歌 クライスラー
我が母の教え給いし歌 ドヴォルザーク
私を泣かせて下さい ヘンデル

 上のリストは、私と浩子さんが15年間に演奏してきた「音楽」たちです。
音楽の数え方にもいくつかの方法がありますが、楽章を単独で演奏する場合も現実にあるので、それぞれを一つの音楽としてカウントしてみました。
2022年6月1日現在、153曲
多くが「小品=こもの」ですが、それぞれの音楽に個性があるのです。
中には、リサイタルで演奏した曲もあれば、ボランティアコンサートで演奏した曲もあります。さらに、何度も演奏した曲や過去に一度だけ演奏した曲もあります。
すべてを「すぐに演奏できる」わけではありませんが、思い出があります。
音楽を分類することには大きな意味を感じない私たちです。
むしろ原曲が「歌」や「他の楽器のために作られた音楽」と、「ヴァイオリンやヴィオラとピアノのために作曲された曲」という大まかな分類の方が少しは興味がありますね。
言うまでもなく、二人だけで演奏してきた音楽のリストです。
これらの他に、ピアノトリオで演奏した曲たちもありますが…
「他の人を加えないの?」と言う素朴な疑問があると思いますが、現実的に私が楽譜を読みながら演奏できなくなった今、「合わせる」ことが、他の方のご迷惑になってまで一緒に演奏することに、正直「ためらい」があります。
全盲でオーケストラの中や室内楽を演奏されるヴァイオリニストを、心から尊敬します。私が出来ない…と決めているわけではありませんが、二人だけで演奏することの楽しさだけでも、十分に満足していると言うのが本音です。
 まだまだ、新しい音楽に巡り合って私たちの「友達」になるのが楽しみです。
単純計算して「1年間に10曲」増えてきたことになりますが、それにこだわるつもりもありません(笑)
曲数にこだわりもありません。いつの間にか増えただけです。
さぁ!また暗譜だ!頑張ろう!
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

調性感と和声進行

 映像は、ショパンのノクターン第20番をヴァイオリンとピアノで演奏するようにアレンジされたものです。オリジナルであるピアノによる演奏との「好き嫌い」は当然ありますね。この曲に限らず、ピアノ曲を弦楽器や管楽器・声楽が旋律を演奏し、ピアノと演奏する場合に、「ピアニストにとってストレスだろうなぁ…「と思うことが良くあります。まぁ、それはさておいて(笑)今回のテーマは、音楽を聴いて感じる「調性=長調・短調」と「和声進行=コード進行」についてです。

 音楽理論と呼ばれる「音楽の分析方法」があります。
言葉は固いですが、私たちが日常聴いている音楽は「いつか・誰かが・どこかで」作曲した曲を演奏した音楽です。当たり前ですよね?道路に音楽が落ちているわけではありません。空から降ってくるものでもありません。その「誰か」がどうやって音楽を作ったのかな?と考えることから「音楽理論」を考えてみます。

 私たちが音楽を「作曲」しようとしたら、どんな技術や能力が必要でしょうか?
前提として、日本の義務教育で学んだ「音楽知識」のレベルで考えてみます。
まず、楽譜を書く能力・技術は必須でしょうか?答えは「いいえ」です。
現に楽譜を書くことのできない作曲家もいます。まさか!と思われるかもしれませんが、歌が歌える・何か楽器を演奏することができれば、音楽は作れませう。その「音」を楽譜に出来る人が楽譜にすることもできますが、楽譜を書くことは作曲ではありません。曲=音楽を作るのが作曲家です。ですから、五線紙におたまじゃくしを書けなくても、ドレミを知らなくても作曲はできます。これで、私もあなたも「作曲家!」

 そうは言っても、ただ適当に=無茶苦茶に鼻歌で作曲した音楽が「感動する」音楽になるかと言えば、これまた答えは「いいえ」です。なぜでしょうか?
ここからが「理論」の出番です。
不思議なことに、私たちは一つの和音や短い旋律を聴いただけで、明るく感じたり悲しく感じたりします。この原因については、いつか別の機会に考えたいと思います。原因は不明でも、実験するとほとんどの人が小名以上に「明るい」「悲しい」と言う共通した感想を持つのが、和音であれば「長三和音・短三和音」で、調整で言えば「長音階=長調・短音階=短調」という違いです。
 長三和音と短三和音の「差」は和音で鳴っている3つの音の中の「1つ」だけが「半音」違うだけなのです。たった半音ひとつ分違うだけで、なぜか?聴いている人が明るく感じたり、悲しく感じたりするのが「和音の不思議」です。
 調性で言えば、長音階を使って音楽を作れば「長調、短音階なら「短調」になるのですが、この違いも「音階の第3音=音階の主音(基準になる音)から3番目の音」が「半音」違うだけなのです。厳密に言えば、音階の第6音も「半音」違う場合が多いのですが、どちらもたった半音の差です。
 ちなみに半音は、ピアノで言えば「一番小さな音の違い=一番近い鍵盤との高さの差」のことです。ヴァイオリンや歌の場合、それより細かい「差」で、音を出すことが出来る=出てしまうのですが、ピアノやオルガンの場合は、鍵盤にないお音の高さを演奏することは不可能です。
 その高さの違いを聞きわけられなくても、「明るい」「悲しい」を感じているように思いますが、実はその違いを感じている人は、半音の違いを「聞き分けている」事に間違いないのです。でなければ、音楽の調性も和音の種類も意味をなさなくなります。聴音の技術がなくても、理論を知らなくても「聞き分ける能力」を、ほとんどの人が持っているのです。

 曲を演奏する時に、調性や和声の事を考えずに演奏することもできます。
楽譜を「音」にするだけなら、なんの感情も必要ありません。パソコンでも楽譜を音にすることができるのです。その「音=音楽」を聴いて、明るく感じたり悲しく感じたりするのが「人間」です。機械には「音」としてしか認識されていません。
 聴く人が感じる「感覚」は音楽を作る人の「意図的な感情操作=理論に基づいた作曲」によるものです。むしろそれが出来るのが「作曲家」たる所以です。
短三和音だけをずっと演奏していても、短調には聞こえますが不自然です。
また、長音階で作られた曲の中にもところどころに「短三和音」で伴奏することが普通にあります。
 演奏している人が、今演奏している部分を「長調なのか短調なのか」「なに三和音なのか」という事を考えることで、演奏の仕方が変わります。
変わって当然です。むしろ「考えないで=感じないで演奏する」のであれば、機械に演奏させた方がよほど!じょうずに演奏してくれるのです。
 ショパンの動画を聴いて、曲の最後が「長三和音」で終わっていることに気付かなければ、それまでと同じ「演奏の仕方」でひいていしまうことになります。
理論を学ぶことで、実際に演奏しなくても音楽を「分析」することができます。
音を聴かなくても、和音の種類を判別できます。その理論と感覚=感情を組み合わせて、演奏技術を考えることが「人間の演奏する音楽」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使いとヴァイオリンの音色

 動画は長野県木曽町で開かれた演奏会より「ラベンダーの咲く庭で」を、長野県木曽町が所有する「木曽号」というヴァイオリンを使って演奏したものです。
ちなみにピアノは、恐らく戦前に作られたスタインウェイのレアなグランドピアノです。

 さて、ヴァイオリンを演奏する時に、どんな指使いで演奏するか?どのくらい考えますか?楽譜に印刷されている「指番号・弦の指定」にはとりあえず従いますか?楽譜に書かれていない場合は、「適当」でしょうか?
 多くの生徒さんが、指使いを自分で決められません。それが普通です。
プロのヴァイオリニストの場合、自分で考えて決めますが、人それぞれに好みが違います。では、指使いを変えると何がどう?変わるのでしょうか。

 指使いを考えるのが学生時代から好きでした。挙句の果て、当時「最先端」だった授業「コンピューター音楽」を履修し、年度末に提出する自作プログラムのテーマを「初心者のためのヴァイオリン指使いプログラム」にしました。
 初心者が指使いを決められない理由は、いくつかあります。
大きな理由の一つは、ファーストポジション以外の「どのポジションで演奏すればいいのかわからない」ことです。ヴァイオリンを演奏しない方に簡単に説明すると、ピアノと違ってひとつの音の高さを「違う弦で演奏できる場合」があるのです。具体的に言えば、ヴァイオリンのG線開放「G=ソ」から「Cis=ドの♯」までは、どう頑張っても(笑)G線でしか演奏できません。音が高くなればなるほど、「低い音の弦」でも演奏できるよういなります。E線で演奏できる音は、隣のA線でもさらに低いD線でも、一番低いG戦でも演奏できます。…説明がへたくそですみません。要するに「弦の選択肢がある」ということです。さらに、開放弦「0」と4本の指の中で、どの指づかいで演奏するのか?という事に、規則はありません。その点はピアノと同じです。ただピアノもそうであるように、「前後関係」と「演奏に適した指」があります。それを選ぶのがまた楽しい(笑)

 弦による音色の違いがあります。もちろん、音色の近い弦を揃えて張ることも、弦楽器奏者のこだわりです。さらに演奏技術で、音色を変えて弦ごとの音色を意図的に変えたり、似通わせたりできます。
 曲の中で演奏する「音」によって、どんな音色で演奏したいのか?を考える場合があります。もう一つは、どの指使いで演奏するのが「演奏しやすいか」を基準に考えることもあります。そのどちらを優先するか?もさらに頭を悩ませる問題です。
 たとえば、ファーストポジションだけで演奏できる部分があった場合、意図的にポジションを変えることがあります。
1.同じ弦で演奏することで、音色を変えたくない場合。
2.ポルタメントやグリッサンドを音の間に入れたい場合。
3.速いパッセージをスムーズに演奏したい場合。
他にも考えられますが多くの場合この三つで考えます。
さらに、大きな音色の違いがあります。
弦の長さを短くする=ハイポジションで演奏すると、同じ高さの音を長い弦=引くポジションで演奏した場合よりも、緊張感のある独特の音色を出すことができます。弦長が長ければ、響きはゆったりしたものになります。短ければ、鋭い音色になります。
 また、指によってビブラートの「幅と速さ」をコントロールしやすい指と、難しい指もあります。練習でその差をなくす努力はしても、わざわざ小指で長い音のビブラートをかけたいとは思いません。
 当然のことですが、すべては音楽の前後関係を中心に決めるべきです。
ひとつの音だけを演奏する音楽はありません。相対的に考える必要があります。
さらに、ホールの大きさや楽器と体のコンディションでも指使いは変えて当然だと思っています。

 演奏する曲の印象を変えるのが指使いです。極論すれば、楽器や弓を変えるよりも大きな音色の変化をもたらします。こだわりの指使いを、ぜひ!ご賞味ください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。.


ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽で社会貢献できるのか

 映像は、NPO法人メリーオーケストラが演奏する「レ・ミゼラブル」の音楽です。
私の調べた限り、日本国内で現在(2022年5月30日)NPO法人=特定非営利活動法人として活動しているオーケストラは、私たちのメリーオーケストラしか見当たりません。NPO法人…ニュースで耳にすることはあっても、実際にどんな活動をする団体なのか?知られていない場合がほとんどです。
 難しい定義は書きませんが、要するに国が認める社会に貢献する活動を、予め定められた事業で行う「非営利=営利を目的としない」団体です。
 ひとつの例で言えば、社員=会員は、給与を受け取れません。
オーケストラの演奏者が「社員」であれば、演奏者に給与を支払えないのです。
この時点で「なんだよ。それじゃ生活できないじゃん」とあっさり考えます。
現実にメリーオーケストラ会員=社員は、給与どころか、逆に毎月3,000円の「会費」を納めています。演奏会を開くたびに係る経費は、その会費と賛助会員からの会費年間一口2,000円、さらに会員が支払う演奏会参加費で賄います。
 経費の中には、プロの演奏家への「交通費」も含まれます。「謝礼」を支払うこともできますが、その場合は法人が法人税を支払う必要が生じます。
会場の費用、付帯設備の使用料の中で、相模原市から年間最大100,000円の助成金が受け取れる場合もあります。申し込んだ事業の中で審査され
選ばれなければ、一円も助成されません。

 オーケストラに限らず、私たち音楽家が、「演奏会を開く」ことや、「楽器の演奏方法を指導する」ことは、どんな社会的な意義があるのでしょうか?
「考えすぎだ」と思う人もいるかもしれませんが、社会で必要とされない活動で、営利を求めること=生活することは現実的に不可能です。
 音楽を聴いたり、楽器を演奏したりすることに何かしらの「価値」を作るのは、音楽家と行政の役割です。音楽家はすぐに分かりますよね?行政って何?
簡単に言ってしまえば「政治」です。国や県・市・町が音楽にどれだけの「予算」という価値を付けるかです。
 演奏の「対価」として聴衆が支払うお金があります。このサイクルだけで、演奏会は成り立っていません。「一流の演奏家なら出来るだろう」と思われますが、演奏会を開くホールの多くは「公的」つまり税金を使って作られ運営されています。民間が運営するホールもありますが、当然収益を挙げなければ=ホールが利益を出さなければ、運営できないので使用料金は莫大な金額になります。その代金に見合う「入場料」は一人10,000円近い金額で満席にしても足りないのが現実です。確かに一流の演奏家なら可能だし、富裕層なら演奏会チケットを買えます。でもそれ、社会貢献でしょうか?ブルジョアの贅沢に感じるのは私だけでしょうか。

 音楽家に対する公的な予算ってあるのでしょうか?
公務員として音楽に関わる業種は。
1.公立学校の音楽教諭
2.音楽隊(消防庁や自衛隊など)
3.音楽療法士、理学療法士
です。演奏家として働けるのは2.の音楽隊だけです。
プロのオーケストラに公的な助成があるケースもありますが、基本は民間企業です。財団法人などでも演奏家への公的な支援は非常に少ないのが現実です。
要するに、日本国内で「音楽活動」が社会的に貢献する場は、ほとんどないことになります。それは音楽家の責任ではありません。国が音楽・芸術・文化を軽視していることの証明です。

 政治が音楽で社会貢献を考えていなくても、民間や個人で社会貢献することは可能です。ひとつの例が「ボランティア・コンサート」ですが、この活動にも様々な問題や意見の相違があります。
 ボランティアだから、何もかもが無料で実施できる、と言うのは嘘です。
演奏者が自費で会場まで行ったとしても、本来は交通費がかかっています。
途中で食事を取ることになれば、食費もかかります。
大型の楽器を使用するのであれば、運搬費がかかります。
「善意」と言う綺麗な言葉で、お金が要らなくなるわけではありません。
そもそもボランティアは、行う側と受ける側の「気持ちの一致」がなければ成り立たない行為です。音楽の演奏を「望む」人たちと「提供する」演奏家の気持ちが一致しなければボランティアではありません。
 気持ちをお金=対価にすることが、日本の経済活動です。それは、すべての業種で本来行われていることです。物を作る人も、売る人も、相手が望むから職業として成り立っているのです。演奏家も本来、望まれなければ職業として成立しません。つまり「ボランティア=無料」と言う発想は間違っていることになります。
いくらならボランティア?も違います。両者の「同意」がなければ成立しないはずです。冷たい言い方ですが、ボランティア活動にも契約が必須だと思います。
後でどちらかが、嫌な気持ちにならないためにもこの契約は必須です。

「社会貢献」と言うと「営利を目的としない」と言うイメージが付きまといますが、非営利だからお金が掛からないことにはならないことを、演奏者も市民ももっと理解する必要があります。
私の考える社会貢献は、「不特定多数の人」に対して、自分の持っている技術や能力を使って喜んでもらうことだと考えています。逆に言えば、特定の人に対しての行為は「社会貢献」ではないのです。公務員は不特定多数の人のために働く人たちです。一方で多くの演奏家は、お金を払って音楽を聴いてくれる人や、お金を払って演奏技術を習う人に対して、演奏や技術を提供して生活しています。その前提が日本では、崩壊している状態です。
 多くの音楽大学を卒業した若者が、演奏活動で生活できない現状があります。
様々な要因があります。一言で言えば「供給過多」です。需要より卒業生の数が多すぎるのです。さらに、就職先であるはずの「組織」の経営が困難です。プロのオーケストラを考えた場合、黒字経営にするためには、人件費を抑えるしか方法がありません。演奏会を開けば開くほど「赤字」になる状態に音大卒業生が入り込む余地は、1ミリもありません。薄給で定年まで演奏する演奏家に、頭が下がる思いもありますが、若い人が入り込めないことも事実です。
 オーケストラを増やせば解決する問題ではありません。
むしろ逆効果です。「観客の奪い合い」を推し進めるだけです。自滅行為です。
オーケストラを「合併統合」する場合があります。多くの問題を解決する時間と忍耐が必要ですが、生き残るためには必要なことだとも思います。
はっきり書きますが「○○キネンオーケストラ」こそが、不要です。
そもそも「記念」で立ち上がったはずなのに、なぜ延々と活動しているのか私には理解できません。
 若い音楽愛好家が、社会貢献できるシステムを構築しなければ、いずれ日本の音楽大学は自然消滅すると思います。それは「種の存続」の定理だと思います。せまい社会に多くの「同種」が存在すれば、やがてその種は消滅するのです。活動の場を増やすか、新たな音楽家の排出を抑えるしか方法はあり得ません。
 その両方を同時に行うことが最も合理的です。
社会が音楽を求めているのか?と言う問いに、自信をもって「はい」と答えられるように、全体を変えていくことが、私たちの仕事だと思うのですが…。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

家族と生きること

 映像は、「愛を奏でて」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
海の上のピアニストという映画のメインテーマ曲で、エンニオ・モリコーネ作曲。この映画でピアノを演奏する主人公は、船で生まれて親に船に捨てられたた男の子です。その子供が船底で働く一人の男性に育てられ、やがてその船でピアニストとして生き、最後は…という涙を誘われる映画です。
 ピアニストとしての生き方を最期まで貫いたことも悲しくもあるのですが、産みの親に捨てられるという、人間の持って生まれた「苦悩」も感じます。
 今回の内容は、演奏技術とは直接結びつかないかも知れません。お許しください。

 人はそれぞれ、生まれてから死ぬまでに違った経験を積み重ねます。
両親に愛され続けて育つ人ばかりではありません。それを他人と比べても無意味です。
子供を育てる「親」や「親に当たる人」がいて、子供はやがておとなになります。
大人になって、誰かと新しい家族になる人もいます。私もその一人です。
その家族と円満に暮らし続ける人もいますが、それが普通だとも思いません。
生きていく時々で直面する別れがあることも避けられない現実です。
家族との別れ(一緒に暮らす動物も含め)は、なぜか家族以外の別れとは違う悲しみがあります。別れにも色々あります。死別だけではありません。
 自分も家族も年齢を重ね、それまでと違う生活に変わっていくことも現実に起こります。後悔しても時間は戻せません。受け入れることしか出来ません。
 家族である「親」が自分より先に天国に逝くのは、ある意味で自然の摂理です。むしろ、生き物として考えれば「当たり前」のことです。
 友人の中に、親より先に亡くなった…という現実を何回も眼にしました。
親の気持ちを考えると、心が引き裂かれる悲しみを想像できます。
 親がいつまでも元気な家族もあれば、子供として親を助ける時を迎える場合もあります。それを「不幸」とは思いたくなくても、子供も親も「苦しい」のは事実です。避けることは出来ません。家族だからです。
 自分が誰かに助けられることを「恥ずかしい」「嫌だ」と考える人もいます。
それが家族なら許せて家族以外の「助け」は嫌だと言う親が多いのも現実です。
気持ちとして理解できますが、子供の立場で言えばどこか悲しく、納得できないのも自分の「親」だからです。
 子供のいない家族もたくさんあります。夫婦が高齢になって、親戚もいない二人がお互いを助け合っていられる間は、それまで通り幸せです。でも…不安はあります。誰が面倒を見てくれるのか?生きていけるのか?
 生きることが難しいと感じる時、人は生きていることの意味を考えられなくなります。安直に言えば「死んだほうが楽」と思ってしまうのが人間です。他の動物は決してそんな考えを持ちません。人間だけなのです。
 それが間違った考えだと言えるのは、他人だからです。家族と言う「絆」を感じる人が、いなくなったり感じられなくなった時、一人で生きていくことに耐えられなくなるのも本人にしか理解は出来ないものです。

 両親を看取ることができた私は、幸運だったと思っています。
そうは言っても、働き盛りの頃に突然「介護」も生活に加えることになって、正直「パンク」しました。家族だから…出来ることをしていたつもりが、出来ないこともしていました。後悔はしていません。誰の身にも起こり得ることです。
 それぞれの人が、自分の価値観で考える「家族観」があります。同じ家族の中でも違います。兄弟でも夫婦でも「違う人間」なのですから当然です。
 現実に生きている今、そしてこれから先に起こる「かも知れない」ことに怯えていても何もできなくなりますし、何も考えずにいることもリスクが高すぎます。「転ばぬ先の杖」を用意しながら、今まで通りの生活が出来ることを、願える生活が理想です。
 音楽を演奏できる「時間」を考えるより、自分の最期を如何に迎えるかを考える年齢になったのかも知れません。偏屈おやじだった父を反面教師にして(笑)、穏やかなおじいさんに鳴れたらいいなぁと、ぼんやり考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

60歳の音楽がサンダーバードでいいの?いいの。

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第40回定期演奏会の映像です。
「サンダーバード」は幼稚園時代の数少ない記憶の中で君臨しています。
「神童」の皆様方は幼稚園時代、すでに演奏家としての準備活動をされていたのでしょうけれど、凡人代表のわたくしは。トッポジージョのゴム人形の耳を噛むのが癖でした←凡人の証か?
 その時代の音楽が今でも大好きです。白黒テレビとレコードの前身「ソノシート」で聴いていた音楽には「ぶーふーうー」「エイトマン」「鉄人28号」「鉄腕アトム」「スーパージェッター」などなど。今風に言えば「アニメ音楽」←どこが今風。
 ヴァイオリンを習い、音楽高校、音楽大学で学んだ「生まれてから20年」
生活のために(生きるために)ひたすら我慢して働いた教員時代「子供のための20年」
人間らしく生きることを思い出してからの「音楽に支えられる20年」が過ぎました。その集大成が「サンダーバード」です。あれ?振出しに戻った?(笑)

 音楽に優劣は存在しないと確信しています。
人として、まっとうに生きている人にも優劣はありません。
私が「人」としてまっとうなのか?は自分で判断できません。
クラシック音楽を学びましたが、音楽よりも人に興味があります。
どんなに高名な音楽家でも、その人の素顔=考え方・生き方に関心が行きます。
その人の事を知ることで、その人の評価が変化します。
演奏家自身も変わります。若さゆえに「天狗」になっていた人の鼻がいつの間にか、普通の鼻になっていることを感じることもあります。
 逆の場合、ひたすら音楽に向き合っていたはずの人が、いつの間にか「名誉・地位」にしがみつく「哀れな高齢者=はだかのおうさま」になってしまったケースもあります。
出来ることなら、私は前者になって棺桶に入りたい人間です。もとより、地位も名誉もお金もないので安心ですが(笑)
私の死んだ後に「若いころは良い奴だったのになぁ」と思われたくないです。はい。あ?若いころに、いい奴だったかな?自信ない…。

 アマチュアオーケストラを20年間指揮して来た中で、初期に良く言われたことがあります。
「はじめは、ハイドンやモーツァルトの音楽を練習しないと、難しい曲をじょうずに演奏できるようにならないよ」という、涙がちょちょぎれるアドバイスです。私は、まったく違う計画を持っています。それは今も変わりません。
 アマチュアオーケストラは、うまくならなくても何も問題はないのです。
聴く人が「もっと」と期待するのはごもっともです。もっと、じょうずな演奏を聴きたい方は、ぜひ!プロのオーケストラの演奏をお聴きになってください。
 だんだん難しい曲を演奏する以前に、簡単な曲ってなんですか?
簡単な音楽がある!と言う自惚れこそが間違っています。
モーツァルトやハイドンが「簡単=初心者向け」なんでしょうか?だとしたら、プロのオーケストラは絶対演奏しないんですよね?バカにされるんですか?「けっ!モーツァルトのシンフォニーかよ!」って(笑)
 メリーオーケストラにとって、どんな音楽も「演奏困難」なのです。
それは私自身のヴァイオリン、ヴィオラと同じです。簡単に演奏できる音楽が、一曲もないのです。「譜面=ふづら」が簡単そうに見える曲は存在します。
それを「簡単に」演奏するのは、その演奏者が「へた」だからです。
一音だけで、聴衆を魅了するための努力は、正解もゴールもない「永遠の課題」です。

 60歳を過ぎて、これから何をしたいのか?
実は考えたことがありません。別に現実主義者でもありませんし、かと言って理想偏重主義でもないつもりです。「出来るところまでやった」と自分が思えたら、自分でピリオドを打つことができないと、生きていても苦しいだけのような気がします。無理をしないで生きることができれば、最高の人生だと思っています。上を見てもキリがない。上から目線で誰かを見たくない。自分の立ち位置を考えられる「音楽愛好家」でいたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

合唱とオーケストラ

 動画は、メリーオーケストラ第12回定期演奏会です。
地元相模原市内のアマチュア合唱団
数団体をお招きしての「合唱付き」第9じゃないけど(笑)
 私が今も音楽に関わった生活をしている「原点」が3つあります。一つ目は小学校1年生の頃に、近所の先生でヴァイオリンを習い始めた事。二つ目は、小学校5年生の時に恩師久保田良作先生のお宅の門をたたいたこと。三つめは、公立中学校で出会った、ゆるーいクラブ活動のオーケストラと、校内合唱コンクールと卒業式での合唱。もし、この中でどれかひとつが抜け落ちていたら、その先は音楽と無縁な生活になっていたはずです。

 中学校で出会った音楽の先生であり、部活動の顧問・指揮をされていた「室星先生」からの影響が今も私の活動に関わっています。
 当時新設校で、真新しい校舎でした。絨毯の敷かれた音楽室。
オーディオ大好きだった室星先生がこだわった「音響設備」どれもが驚きでした。当時、合唱部はなくオーボエやファゴット、ヴィオラ、ホルンなどの楽器の代わりに「キーボード」や「メロホン」が使われていた音楽部。その中で出会った友人、先輩、後輩と未だに交流があります。一緒に練習することも、演奏会に出ることも、卒業式で演奏することも、何もかもが「おもしろかった」3年間でした。
 そう書くと「理想的な中学校生活」に思われそうですが、顧問以外のいわゆる「担任団教員」は、人間のクズが揃っていました。
 教師たちが生徒である私を「泥棒」あつかいし、それがまったくの「濡れ衣」だと判明した後も、廊下ですれ違いざまに「おまえ、本当は盗んだんだろ」と声をかけてくる教師も
ました。
 中学3年で朝レッスンを受けるため、親が届を出して「遅刻」していたことを根に持った学年主任の体育教師は、体育祭の予行練習時、全校生徒が公邸で準備体操をしている最中、号令台の上からマイクで「こら野村!バイオリンのおけいこやって
じゃねぇぞ!」
さすがに周囲の友達がブチ切れていましたが、私は心の中で「さっさと〇ねよ」と笑っていました。卒業後数年した時、本当にその学年主任が死亡した話を聞いた時、本気で笑いました。そのくらい、傷つけられていました。「絶対に、あんな教師にならない」と思って、いつの間にか本当に教師になっていました(笑)
 合唱が「面白い」と思えたのも、室星先生の指導方法がその理由だったことを後で知りました。ビブラートをかけて歌うことより、大声で全員が歌うこと。じょうずに歌うことより、「必死に」歌うことがどれだけ歌っている本人にも、聴いている人にも感動を与えるのかを知りました。
 卒業式は、まるで音楽会のように、在校生、全校生徒、そして卒業生が式典の中で何度も歌います。「巣立ちの歌」「仰げば尊し」「大地讃頌」「蛍の光」「校歌」
 大地讃頌は卒業生が全員、号泣しながら体育館中を震わせるほどの声で歌います。在校生音楽部員のオーケストラが、どんなに大きな音で演奏してもかき消される、圧倒的なエネルギーでした。
 一緒に必死で歌うことで、それまでの3年間をすべて、美しい思い出にしてくれました。うまい・へたなんて、どーーーーでもよかったのです。

 音楽高校にありそうでない部活「音楽部」「合唱部」
桐朋にはありませんでした。同級生のチェロ専攻男子が偶然、合唱好きで話が盛り上がり、「合唱サークル」を立ち上げました。ただの「おあそび」にしかなりませんでした。
 桐朋祭最終日に行われた「クラス対抗合唱コンクール」がありましたが、盛り上がっていたのは、私だけ?(笑)
 音大を卒業し、教員になってから、オーケストラを最初に作ったのは、間違いなく室星先生の影響です。オーディオにこだわりまくったのもそうです。音楽室には、BOSEのスピーカーが4つ壁にかかり、2台のアンプで当時最先端のCDを鑑賞に使っていました。
 でも合唱部は作りませんでした。これも多分師匠の影響です。

 退職後、メリーオーケストラで、合唱団と一緒の演奏を指揮した時に、「あれ?どこかで似たようなことをやっていたような?」と思いました。自分の中学卒業式の記憶だったんですね。いつまでたっても中学生のまんま(笑)
 自分の出会った「師匠」に育てられ、今どれだけ?恩返しができているのだろうと感じます。人との出会いがなければ、今も音楽を楽しんでいなかったと思います。理屈ではなく、予測もできない「出会い」を大切にしてこれからも、音楽を楽しもうと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

悲しみと音楽

 一般的に「短調=悲しい」「長調=明るい」と言うイメージですが、ある音楽の「曲名」を表す場合、その曲の「最後の部分」が短調なのか長調なのか?何調なのか?を書き表すことが「多い」と思っていました。
実際に、上の二つの動画を聴いていただくと「シンドラーのリスト」は最初も最後も短調です。一方、クライスラーの「サラバンドとアレグレット」は出だしが短調、湖畔と最後は長調です。
さぁ、有名なベートーヴェン作曲、交響曲第5番「運命」は短調です!

 あれ?最後思いっきり「長調」だよ~?
そんな曲もありますってことです。

 短調の音楽でも、すべてが短音階=悲しい音階と短三和音=悲しい和音だけで作られているわけではありません。ところどころに、明るい長調が織り込まれています。長調の曲でも同じことが言えます。
 全体として「悲しい」音楽を聴いて、感情の中で悲しい記憶が蘇ることがあります。映画の音楽でもそうですね。
 演奏する人間が「悲しい」感情を持ちながら演奏することもあります。
長調の音楽でも、悲しい記憶が重なることもあります。
 一つの音楽がいくつかの楽章で出来ている音楽が多いことを、文学や映画で考えてみると、いわゆる「ハッピーエンド」のストーリーもあれば、悲しい結末のものもあります。音楽の場合には、終わりが短調でも長調でも曲名に付く「調」と直接結びつかないようですね。
 音楽にストーリー性を求めるのは、聴く側の自由ですからタイトルの「○○長調」「△△短調」っていらない気がします。勝手な私見です。
 音楽が人の心の琴線にふれる時、それが長調か短調なのかという事にこだわっていません。演奏する時にどうしても音階や和音を考えますが、全体を通して演奏し終わって残る「余韻」を大切にしたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

Henryk Szeryngが演奏するFritz Kreisle

 学生時代、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタやパルティータの「お手本」としてレコードが擦り切れそうになるまで聴いていたヴァイオリニスト「ヘンリック・シェリング」大先生(笑)
 今朝、ラジオを何気なく聞いていて、フリッツ・クライスラーのヴァイオリン小品を、シェリングが演奏しているのを恥ずかしながら生まれて初めて聴きました。
 バッハとクライスラー。ヴァイオリン奏者にとって「両極」とも言える作曲家です。言うまでもなく、音楽の父と称される「ヨハン・セバスティアン・バッハ」様の残された音楽と、ウィーン生まれのヴァイオリニスト「フリッツ・クライスラー」を一緒にするな!というお考えもごもっともです。
 私の愛するクライスラー様(笑)は、自分の演奏会で演奏する「自分が作曲した曲」をわざわざ!大昔の音楽家の名前を調べて本当は自分が作ったのに「〇△◇作曲」と大昔の音楽家の作品と「虚偽」のプログラムで演奏していたという「いわくつき」作曲家・ヴァイオリニストです。
 「自分が作った曲ばかりを演奏すると思われたくなかった」と言うのが「言い訳」のようですが、まぁ嘘をついたって言う意味では「アウト」です。が、他人が作った曲を「私が作った」と言う嘘に比べたら、どんなもんでしょうか(笑)
 今でこそ「ヴァイオリンの名手」と紹介されているクライスラーですが、当時クライスラーは、憧れだった「ウイーン・フィルハーモニー」のオーディションを受けて「不合格」だったというエピソードがあります。きっとクライスラー自身には、ショッキングな出来事だったはずです。
 今朝のラジオでも紹介されていた、もう一つのエピソード。
ある演奏会で、評論家が「クライスラー作曲」と書かれた曲を、ケチョンケチョンにこき下ろし、クライスラーが作曲した「けど」大昔の作曲家が書いたという「うそ」の作品を「素晴らしい!」とほめたたえた事に怒りまくったクライスラーが「それも、俺が書いたんだよ!ばーか!←と言ったかどうかは知らない」で、自分が作曲していたことを「暴露」したというお話があります。
 評論家が「実は知っていてクライスラーを挑発し言わせた」と、名探偵コンナンとして推理するのも楽しいですが、正直「けっ。さすが評論家さまだね。ざまぁ」とも思うのです。

 さて、シェリングの演奏するクライスラー作曲(…本当だろうか…)の序奏とアレグロですが、先入観もあってバッハ作曲(笑)に聴こえました。それは冗談ですが、シェリングの音楽への向き合い方かな?と思う几帳面で、羽目を外さない、良心的で節度のある演奏だと思う一方で、シェリングの「遊び心」も感じるのです。考え抜いたビブラートと指使いとボウイングでありながら、聴いていて笑顔になれる「楽しさ」があります。
 多くのヴァイオリニストが、クライスラーの作品を「アンコール作品」として演奏します。最後のデザートに最高と言う意味ではうなずけますが、「さらわなくても=練習しなくても、ひける軽い曲」と思って演奏しているように感じることが多くあります。「超絶技巧大好き」な人にとって、クライスラーの作品は「違う」はずです。ヴィニアウスキー、サラサーテ、イザイ、その他近現代作曲家の「難曲」はいくらでもあります。クライスラーの楽譜は、決して超絶技巧と呼ばれる難易度の曲ではありません。だから?アンコールに選ぶのだとしたら、クライスラーファン(完全に自称)の一人としては、腹立たしい気持ちです。
 そんなヴァイオリニストに、このシェリング大先生の演奏を聴いてほしい!決して派手な演奏ではないのに、心惹かれる「何か」を感じるはずです。力任せでもなく、ちゃらびきでもなく、深刻でもない演奏で、クライスラーの作品が輝きます。
 クライスラーがこの演奏を聴いて、どう思うかを推理するのも面白いですが、お二人とも天国で楽しく遊んでおられるでしょうから、お話は聞けません。
 これからも、クライスラーの作品を大切に演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

理想の楽器ケースと保管

 動画は「あるヴァイオリンケース」をモニターのヴァイオリニストに使用してもらった写真(モザイク入り)と、そのケースの特徴を説明したものです。
 様々ないきさつがあって、詳細は書けませんが今から十数年前にヴァイオリンケースの開発に関わりました。今回は、楽器のケースについてです。

 本来、ヴァイオリンは温度や湿度の安定した場所で演奏され、保管されるべきものです。あくまでも理想の話で、現実には高温多湿の会場で演奏することも良くあります。保管する場所にしても、常に保管庫にしまっておくわけにはいかないのが現実です。自宅で演奏しない時間に、ヴァイオリンを休ませる場所として「楽器ケース」を第一に考えるかもしれませんが、実はヴァイオリンにとってケースの中は「最悪の条件に置かれる」ことにもなります。
 ヴァイオリンに保険を掛けることができますが、多くの保険の場合、保険金が支払われるのは「金庫に鍵をかけてしまってあって盗まれた場合」に支払われます。それ以外の状態、移動中であったり室内に置いてある状態の場合には保険金の一部だけが支払われるだけではなく「全損=使えない状態」にならないと保険がきかないことがほとんどです。つまり、少し傷がついたから「修理して演奏する」ことは出来ません。保険会社に楽器ごと回収されます。ちなみに私自身、以前は楽器と弓に保険をかけていましたが、このような「免責事項」を知ってからは保険をかけていません。

 さて、楽器をなぜ?ケースで保管することが、ヴァイオリンにとって良くないのか?と言う話です。実はこれがヴァイオリンケース開発のスタートでもありました。
 多くの(おそらく99パーセント以上)ヴァイオリンケースは、楽器の裏板とケースの内張の布が接触しています。いわゆる「内装材」ですが、いくら高級なケースであっても、何かしらの素材が裏板に触れることに変わりありません。
ビロードだったりポリエステルだったりと、素材は色々ですが楽器の裏板には「ニス」が塗られています。ニスが完全に乾くまでに、通常なら1~2年はかかります。それまでの期間は「半乾き」の状態です。新作のヴァイオリンはほぼまちがいなく、この状態で演奏者の手に渡ります。そのニスに布が触れるとどうなるでしょうか?当然、ニスは布に付着して、光沢を失う悲惨な結果になります。
 古いヴァイオリンならニスは乾いています。とは言っても、ニスは高温多湿になると柔らかくなる性質があります。つまり、日本の梅雨時にヴァイオリンのニスは布に付着してしまうことになります。
 では、どうやって保管するべきでしょうか?金庫にしまうのでなければ、ヴァイオリンを「スタンド」に立てた状態で、出来るだけ多くの部分に室内の空気が触れる状態で置くべきです。「ぶら下げる」方法もありますが、地震の多い日本ではお勧めできません。東日本大地震の際、震度5でビルの5階にある教室にいましたが、スタンドに立てたヴァイオリンは一つも倒れませんでした。
 私がお勧めしているのは、キクタニ ウクレレ・バイオリン兼用スタンド VS-100。アマゾンで1700円ほどで替えて、持ち運びも簡単です。

 さて、楽器を持って外出する時の話です。まさか、このスタンドに立てて持ち運ぶわけにはいきません(笑)
 私が学生の頃、ソリストクラスのヴァイオリニストの方々は「ヒルのヴァイオリンケース」を持つのが「ステイタス」でした。そのケースを持っている人は「すごいヴァイオリニスト」と周囲から見られていましたので、誰でも手に出来る代物ではありませんでした。ヒルのケースも含め、昔のヴァイオリンケースは「木枠」に布を張ったものでした。ヒルのケースは当時「フライトケース」でもあったようで、世界をツアーで移動する際に、「足を乗せても大丈夫!」(決して像ではありませんし、100人は乗れません)が伝説でした。
 つまり「移動中に楽器を守る」ことがケースの役割です。
移動中、雨に濡れることもあり得ます。満員電車で押されることもあり得ます。
避けられること=やってはいけないことですが、夏の車内に放置すれば、どんな楽器ケースでもヴァイオリンは、壊滅的なダメージを受けると考えてください。
 そのように「避けられない危険」から大切なヴァイオリンを守るケースです。
「堅牢=頑丈」であること。大きな外圧に耐えられる構造が理想です。
木枠で作るより、カーボン=炭素繊維素材で作る方が、より頑丈になります。
カーボンは薄い状態でも、非常に「曲がりにくい」性質を持った素材です。
いっぽうで、FRPなどの石油製品=プラスチックの仲間と比べると、同じ厚さの場合、カーボンは圧倒的に「重たい」素材です。つまり「薄くても強い」のがカーボンですが、製造に手間がかかり価格が高くなります。加えて現在、カーボンの製造過程には守秘味義務が課せられているため、安直に作ることができません。
 多くの廉価ヴァイオリンケースは、必要最小限の木材とウレタン、発泡スチロールで出来ています。木材は持ちてを取り付ける部分だけです。
当然、ヴァイオリンを守る「強度」はまったくありません。人間が両手で押しただけで、ケースをつぶせます。中の楽器・弓もろとも、原形をとどめなくなります。
 どんなケースなら大丈夫なの?完全なケースはありません。雨の侵入を完全に防ぐ「防水」ケースはありません。強度で言えば、カーボンがベストですが、一番高いケース「○コード」のカーボンは、カーボンメーカーの技術者に言わせると「最低の粗悪カーボン」だそうです。現に角をぶつけただけで「穴が開く=割れる」のが事実です。ボールペンを突き立てれば、すんなり穴が開くことも、実験したと聞いています。

 理想のヴァイオリンケースを作りましたが、様々な理由で製造数は、100台ほどで生産も販売も終わってしまい「幻のケース」になってしまいました。
様々な…の中に、国内外での特許の問題もあります。私自身が取得しなかったことは今にして思えば、残念至極な事でした。申請と取得に莫大な費用が掛かるので無理でしたが。
 いつか、このケースが復刻されることを願っていますが、可能性はほぼありません。どこかの資産家が手を挙げてくれれば、喜んで協力したいと思っています。そんな日が来るのかな?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽・文学・絵画

 演奏は村松崇継さんの「Earth」原曲はフルートとピアノで演奏する楽譜です。ヴィオラとピアノで演奏できるように、ふたりで手を加えました。
 楽譜を書く=作曲をする人がいて、演奏する人がいます。
それが同じ人の場合もあります。「自作自演」の場合です。
多くのクラシックは、残された楽譜を演奏家が「音」にします。

 先日、友人の作曲家と雑談している時、「演奏のほうが練習することがあっていいよぉ。作曲って思い浮かばないと、な~んにもできないんだもん」
そりゃそうだ!思わず笑いました。演奏家ってなにかしら、練習することがあります。演奏すべき楽譜がすでにあるのですから。一方で作曲家の友人曰く「音が降りてこない」時には、あがいても何もできないそうです。
 この会話は、モーツァルトのように多くの曲を作曲した人と、ブラームスのように時間を費やして曲を書いた人って、なにが違うのかな~という雑談から始まりました。それぞれの作曲家が、楽譜を書く時の環境や考え方が違って当たり前です。どちらが良いと言う問題ではありません。
 今回はそのことではなく、芸術のひとつである「音楽」を解剖するものです。

 音楽で使う楽譜と、文学で使う言葉(文字)を比較します。
どちらも記号の羅列です。記号事態にルールがあるから、他の人が記号を音にしたり声にしたりできるという、共通点があります。
 楽譜に使われる記号を音にしても、特定の意味は持ちません。
いっぽうで文字は、言葉として特定の物の名前や、動きを表現することができます。知らない言語の場合、言葉を聴いても、意味のない「声」にしかありません。
 楽譜に書かれた「音楽」は作者が何かを考えて書いたものです。
文学でもそれは同じです。
 楽譜=音楽からは、作者の考えていることを直接(明確)に読み取ることはできません。
 文学=言葉は、作家の考えていることを直接、読み手に伝えられます。

 文学を絵画に置き換えて考えてみます。
絵画にも色々あります。風景を描いた作品、人物を描いた作品の他にも、抽象的に「なにか」を表現した絵画もあります。
 絵画の場合、作品を「直接」見ることができます。作者の描こうとしたものを、見る人が直接感じることができます。
 楽譜の場合、楽譜=記号そのものは「音」ではないのですから、演奏(者)と言う媒介=人間が必要です。演奏者自身が感じる音楽→その演奏を聴いて感じる人の音楽が存在します。作曲家の「意図」は、演奏者の「意図」を介して、聴衆に伝わります。
文学=読む人が作者の意図を直接、感じやすい。
絵画=見る人が作者の意図を「推察」して自分なりに感じる。
音楽=演奏する人と聴く人、それぞれに作者の意図を「推察」して自分なりに感じる。
という大まかな整理をしてみました。もちろん違う考え方もできます。

楽譜と言う記号が、表現できる=伝えられる作曲家の意図は、演奏者と聴衆の「感じ方」に委ねられていると思うのです。演奏者にせよ聴衆にせよ、作曲者の「意図」を決めつける=断定することに私は違和感を感じます。作曲者自身が何を伝えたかったのか?を、他の人が推察する自由があって当たり前だと思うのです。推察するために、作曲者のことを知ることも、演奏者と聴衆の「感じ方」の参考でしかありません。
 作曲家が「降りてきた」音を楽譜に書き残し、それを演奏者が自分の解釈で「自己表現」し、聴衆がその演奏を自分の好きなように「感じる」
 それが音楽と言う芸術だと思います。絵画とも文学とも異なった「作曲家」と「演奏者」という人間を通して表現される「ふたつの芸術」がひとつになる芸術だとも言えます。自作自演の場合には、「曲と演奏」と言うふたつの芸術です。
 聴く人にすれば、作曲者と演奏者の「思い」を感じられる芸術です。
演奏することを楽しむ人にとっては、「楽譜」と言う世界共通の記号を音にすることで、自分の感情が揺り動かされることが、なによりも楽しいことではないでしょうか?自由に感じ、自由に表現することが音楽だと思います。
 自分の感性を知識や「固定概念」よりも大切にしたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と個性と自由

 今回のテーマは、音楽を演奏する人の「個性」についてです。
上の動画は、2020年に亡くなったイスラエルのヴァイオリニスト、イヴリー・ギトリスの演奏するバッハのシャコンヌと、手嶌葵の「ただいま」と言う音楽。あまりにも、かけ離れた音楽に思えますが、「個性的」と言う意味で考えると共通している一面を感じます。
 演奏に限らず、個性的であればあるほど、人々の好き嫌いがはっきり分かれます。ファッションや髪型でも同じことが言えます。
 個性的でないことを、ありきたり・平凡・普通・二番煎じなどと表現します。
演奏者に限らず、人間は本来全員が異なった個性を持っているはずです。
社会の中で「ルール」に従って生きることは、個性とは別の問題です。
組織の中でも同じ事は言えます。守るべき「普通」があります。
一方で個人が自由に考え選択できることに、個性が現れます。
音楽で考えると、作曲者が作る音楽の「個性」があります。
他人の作った旋律をそのまま真似して使えば「盗作」であり、本人の個性は1ミリもありません。ただ、和声の進行=コード進行になると、全く同じ進行が数小節続く音楽は、いくらでも存在します。これを「盗作」とは言いません。
 演奏者の個性は、どこにあるのでしょうか?

 楽譜に書かれた記号を、指示に従い音にする。
テンポが厳密に指定されていたとしても「音=音色」までは指定できません。
また、音の大きさを「デシベル」で指定した楽譜はクラシックにはありません。常に「相対的な音量の変化」で演奏しています。
音色と音量は演奏者の自由です。音符の長さ、休符の長さは指定されたテンポの範囲内であれば演奏者の自由です。
 演奏者は「個性的な演奏」と言うと、「突飛な演奏」と勘違いします。
ギトリスの演奏を多くのヴァイオリニストが真似をすれば、いずれその演奏方法が「ありきたり」になります。つまり、現代の演奏方法は、すでに誰かが考えた当時の「個性的な演奏」をみんなが真似をしているだけなのです。
 それを平凡だから駄目だとは言っていません。なぜなら、「音色」を完全に真似ることは不可能だからです。音符の長さ、音量は真似ができます。でも、音色を完全に同じにすることは、絶対に不可能なのです。

 一人一人に違った「声」がありますよね。親子、兄弟姉妹で声がそっくりなのは、声帯や骨格が似ているからです。機械で作られる音は、完全に同じ音を再生することが可能です。木製のスピーカーで再生すると、厳密には1本ずつ違います。「木材」が同じではないからです。
 ヴァイオリンは、すべての楽器が違う音を出します。
以前にも書きましたが、ストラディバリウスの楽器でさえ、すべて音色が違うと言うのは、周知の事実です。地球上に全く同じ音色のヴァイオリンは2本=2丁ありません。その時点で「個性」です。
 演奏方法によって、楽器の個性に演奏者ごとの個性が重なります。
つまりは、すべての演奏者が「似た音色」で演奏できても「同じ音色」で演奏できる確率は、天文学的に低いという事です。
 自分の楽器の音に不満を持つヴァイオリニストがたくさんいます。「隣の芝生は…」で、やれオールドが素晴らしいとか、新作はダメだとか、何の根拠もなく断言するかたがおられます。その方の耳はたぶん、すべての音色を聞き分けられる「超能力」を持った耳なのでしょうが、一般の人類にはその能力はありません。
 新作のヴァイオリンにも、300年前のヴァイオリンにもそれぞれに違う個性があるのです。それを「個体差」と呼ぶのであれば、あって当たり前なのです。
演奏者が手にしたヴァイオリンの音色に不満を持つのは、単純に好みの問題なのです。楽器の良い悪いではありません。
 自分の好みの音色のヴァイオリンを探したとします。
仮に現在演奏できるヴァイオリンが、世界中に1万本、あったとします。
そのすべてが違う音色です。その中で、自分の好きな音色の楽器を「1本」選ぶことが人間に出来るでしょうか?絶対に無理です。自分と巡り合ったヴァイオリンの中で、自分の好みの音色の楽器を選ぶことしか、出来なくて当たり前です。
 人間同士の出会いと同じです。理想の人と出会うまで…。世界中の人とお見合いしますか?(笑)

 個性から少し話がそれましたが、演奏者が演奏する音そのものがすでに「個性的」なのです。奇抜な演奏をするまでもなく、音色そのものが世界でただ一つの音です。その音が好きな人も嫌いな人もいます。演奏方法やテンポの設定、音量の考え方も、人それぞれに好みが許されるのが音楽です。
自分が好きなテンポで好きな音量で、好きな音色で演奏することが個性なのです。他人の演奏の何かを真似したとしても、それは悪い事ではありません。すでに私たちは、師匠から多くの事を盗んでいるのです。それが悪いと言うのであれば、音楽は伝承されないのです。ただ、大切なのは自分で考えることです。
 流行の服が自分に似合うか?考えないで着るように、他人の演奏をただ真似ても、自分の音楽ではありません。
自分に自信を持ちながら、信頼できる人の感想を参考にすること。
自分にしかできない演奏に誇りを持ち、他人の演奏を称えましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

公立中学校にオーケストラを

 映像は、2017年3月に野木エニスホールで収録したものです。
公立中学校の弦楽オーケストラ部との「中国の太鼓」の共演です。
15年以上前にご縁があって毎年夏に、指導に伺っている部活オーケストラの定期演奏会時に、浩子さんとの演奏を依頼され子供たちとの共演のために、友人の作曲家町田育弥君に編曲をお願いしました。
 楽譜が出来て、学校に送付して子供たちは「メトロノーム」を相手に練習。
本番当日、1時間だけの合わせで本番を迎えました。「弾き振り」でゲネプロ本番という暴挙でしたが、浩子さんのピアノにも参加してもらったことで、なんとか乗り切りました。

 公立の中学校に吹奏楽部はあっても、弦楽合奏部やオーケストラの部活はほとんどありません。高校になって、一部の公立高校にちらほら見受けられるのが現状です。地域によるの差も激しく、千葉県、長野県では盛んに弦楽器を部活動に取り入れています。
 「弦楽器は高い」という「まことしやかな嘘」がその原因だと言う人もいます。吹奏楽部で使用する楽器の総額と、入門用の量産弦楽器の総額で考えると、むしろ弦楽器の方が安いのをご存知でしょうか?
 「弦楽器は種類が多い」というでたらめな話。吹奏楽で使用する楽器の方が、酒類多いんですけど(笑)弦楽合奏「ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス」の4種類です。一方で吹奏楽では「フルート、クラリネット、アルトサキソフォン、テナーサキソフォン、トランペット、トロンボーン、ユーフォニューム、チューバ、打楽器数知れず」は最低限必要です。
 「指導が難しい」というすっとぼけた大嘘に腹が立ちます。
吹奏楽の指導なら簡単なんかいっ!(怒)
先述の通り、吹奏楽の楽器の種類が弦楽合奏より多いのに、「素人顧問でも指導できる」ってどんな根拠でしょう?ありえないですよ。
 はっきり言ってしまえば、楽器に触ったこともなく、音楽に関心もない「顧問」が「もっと練習しなさい」と掛け声をかけて、練習を休む生徒をまるで戦争中の「赤狩り」のごとく、生徒同士にスパイをさせてあぶりだす「ブラック吹奏楽」これが指導だと言うのなら、弦楽部は作らないでいただきたいですが。
 音楽を通して、子供たちが絆を感じること、演奏を通して、誰かを笑顔にする体験、音楽系の部活動の素晴らしさです。
 その素晴らしさよりも、生徒を縛り無意味なこと=本人たちは練習だと思っているに子供たちの、貴重な時間を割き拘束する。音楽ではなく「強制労働」です。それを「音楽」と呼ばないで欲しいのです。

 弦楽器の指導に必要な知識を、教員が学ぶ時間がないのなら、学校外から指導者を呼べば良いのです。運動系の部活動でも同じです。素人の「根性論」で顧問がしどうすれば生徒は身体を壊すだけです。音楽で言うなら、音楽大学を卒業したての若い演奏家や学生に顧問が立ち会って生徒の実技指導を出来るはずです。
 顧問がいない状態での部活動は、すでに学校教育活動ではありません。
外部の指導者だけで、部活指導をするのは法律的に間違っています。
弦楽器の合奏が、吹奏楽のそれと比較して何が違うのか?
少ない種類の楽器で、4つから5つのパートで演奏する「弦楽合奏」は、音色の種類がすべて同じです。吹奏楽と比較して「まとまりやすい」音色です。
 特殊な場合を除き、弦楽器は屋外で演奏できません。野球の応援には使えません。だから?吹奏楽ですか?
 弦楽器と管楽器・打楽器で「管弦楽~オーケストラ」ができます。
弦楽合奏と、数種類の管楽器だけでもオーケストラです。
「ウインド・オーケストラ」と言う名前を見るたびに、なんとなく違和感を覚えるのは私だけでしょうか?「ウインド・アンサンブル」は当然存在します。
 学校に弦楽器を導入するか?しないか?と言う話の前に、部活動とは何か?について社会が理解することが先決だと思います。
 楽器の演奏を趣味にする人が増えることで、人にやさしくできる人が増えると思っています。競う事より、助け合う事の大切さを体感できる合奏が、日本中に広まることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

溶けあう音と浮き立つ音

 映像は、クライスラー作曲の浮く奇しきロスマリン。杜のホールで撮影した動画です。相模原市緑区橋本駅前にある客席数525名のホールです。
音楽ホールとして作られ、特に弦楽器や室内楽の演奏に適した残響時間と響きで、近隣にはあまりない私の好きなホールです。吹奏楽の演奏だと残響が長すぎるとかの理由で不評なようですが(笑)メリーオーケストラの演奏会は、このホールの誕生と共に始まり、現在も続いています。

 さて、今回はアンサンブルやコンチェルトでの話です。
1種類の楽器だけが演奏する場合と違い、いくつかの違う音色の楽器が演奏する場合、客席で聴くお客様に届く音はそれぞれの楽器の音が「混ざり合った音」で届きます。当たり前です。言ってみれば「ひとつの音」としてお客様の耳に届きます。
 音楽学校で私たちが学んだ「ハーモニー=和声聴音」という特殊な技術があります。同時に鳴っているピアノの音=和音を、限られた時間=演奏回数で五線紙に書き取ると言う能力を身に着けます。この技術は、ピアノの和音に限らず、ヴァイオリンとピアノが同時に演奏している時にそれぞれの音を「分別して聴く」能力でもあります。さらに言えば、オーケストラの指揮者は、常にこの技術を使って同時に鳴っている、10種類以上の数十人が演奏する音の中から、間違った音を聴き分ける能力が求められます。その昔、聖徳太子の「10人が同時に話す内容を聞き取れた」という話は、聖徳太子が聴音の練習をしていたからだと言う説が。ない?
 とにかく、この技術は訓練すれば誰にでも身に着けられますが、音楽を楽しんで聴くうえでは案外「邪魔」になるだけではなく、演奏する私たち自身が「溶ける音」を意識ぜずに演奏しているかも知れないことに気が付きます。

 コンチェルト=独奏楽器とオーケストラの協演の場合、独奏楽器と同じ楽器がオーケストラでも使われることがあります。
 ピアノコンチェルトは、オーケストラにピアノがないので、ピアノの音が浮き立ちます。
 ヴァイオリンコンチェルトの場合は?オーケストラに何十人ものヴァイオリン奏者がいますよね?その人たちが演奏するヴァイオリンの音と、ソリストの演奏するバイオリンの音が完全に「溶けて」しまったら、お客様にどう聴こえるでしょうか?
 ソリストと言えども、音量=音圧はオーケストラのメンバーが演奏している楽器と同じ「ヴァイオリンの音量」です。アンプで増幅して演奏しない限り(笑)
 はっきり言えば「聴きとれない」か、聴こえたとしても一つのオーケストラパートにしか聞こえないですよね?いくら指揮者の近くで、ひとり立って演奏していても、音だけで言えば「浮き上がらない」可能性が高いのは事実です。

 そこで、ソリストが用いる技法のひとつに「ビブラート」を他のヴァイオリン奏者よりも速く、大きくするという事で「浮き上がる=目立つ」音色にしたのが、現代の速いビブラートを生み出したきっかけだと思っています。
 ソリストのビブラートは確かに「速く・大きな音の変化」が圧倒的に多いのです。ただ、それをオーケストラメンバーが全員でやったら?目立たないどころか、さらに速く・大きなビブラートをソリストがするように「いたちごっこ」が始まると思うのです。その積み重ねで、現在の「高速ビブラート」がもてはやされるようになったと推察します。
 弦楽四重奏で、だれかがこの「高速ビブラート」で演奏したら、他の3人はそれに合わせてやはり「高速」にするか、練習時にだれかが、「それ…必要?」と疑問を呈するはずです。ひとりだけ「浮く」音色で演奏するのは、アンサンブルを壊します。

 ピアノとヴァイオリンが二人で演奏する場合ではどうでしょうか?
もとより、ピアノとヴァイオリンの音色は音の出る構造=原理から違います。
同じものがあるとすれば「ピッチ」と「音楽」です。
その異なった音量と音色の楽器が、まったく違うリズム=音の長さで、違う高さの音を演奏し続けるのが「二重奏」です。その音はひとつに溶け合って、会場のお客様の耳に届きます。これが録音と違うところです。録音は、それぞれの音を「別個」に録音したほうが、あとで処理=加工しやすいのです。バランスを機械的に変えたり、音色を楽器個別に変えることができるからです。
 録音ではなく「ライブ=生演奏」の音が、溶け合った音で伝わるか?水と油のように溶け合わない、耳当たりの悪い音に聴こえるか?これを演奏者が考えなければ、それぞれの演奏者の「独りよがり」になると思うのです。「私の音はこれ!」って音を聴衆は求めていないと思うのです。
 うまく溶け合った音は、料理で言うなら異なった素材の、それぞれの美味しさを溶け合わせて「ひとつの美味しさ」に仕上げるシェフの技です。
 私の好きな「香水」の世界で言えば、様々な香りの中で「甘さ」「からさ」「苦さ」のバランスを試行錯誤しながら造り出す「調香師」の技術と同じです。

 溶ける音を作り出すためには、それぞれの楽器の音量と音色の特性を、お互いが理解し「寄り添う」演奏が必要だと思うのです。ピアノの音は正しく調律されている限り「揺れない音」で、音が出た瞬間から必ず音量が減衰=弱くなる楽器です。
 一方でヴァイオリンやヴィオラは、揺れない音を出すことがまず演奏技術として難しい楽器です。さらに、発音した瞬間から、音の強さを大きくすることも、同じ大きさで保つこともできる点がピアノと大きく違います。
 音量で言えば、ピアノの音圧=デシベルは、ヴァイオリンよりはるかに大きな音が出せます。一方、弱い音の場合、ピアノで出せる一番弱い音を「速く連続して」演奏することは、物理的に不可能です。鍵盤をゆっくり押し下げる「時間」が必要だからです。16分音符のピアニッシモをピアノで演奏した場合の、ホールで聴く音量と、ヴァイオリンが同じ音符をひと弓で演奏したピアニッシモの音量は?当然、ピアノの音が大きく聴こえるはずです。
 ピアニストにヴァイオリニストが「もう少し弱く」と言う注文を出す場合、えてしてピアニストにすれば「これ以上弱くなりません!」と思っているケースが多いと思うのです。逆に、ヴァイオリニストに「もう少し大きくひいて」とピアニストがリクエストする場合に、ヴァイオリニストは「せっかく弱くしたのに!」という気持ちがどこかにあるのではないでしょうか?
 解決策は?まず、それぞれの楽器の音が空間に広がって溶けるまでのプロセスを、一緒に考えることだと思います。
 音が出る瞬間の事ばかりを、演奏者は気にしがちです。自分一人で練習している時には、それしか聴く音がないのですから当たり前です。一緒に演奏した場合に、空間に広がる音は「ひとつの音」になるわけで、うまく溶けて聴こえるかどうかが一番の問題なのです。
 もちろん、音楽の種類によって=パッセージによって、どちらかの音を「浮き立たせる」ことも必要ですし、それまでの音色と意図的に違う音色で演奏する「変化」も必要です。

 動画は アンネ=ゾフィー・ムターの演奏するモーツァルトヴァイオリンソナタです。冒頭部分の、ノンビブラートは好みの分かれる部分です。
しかし、ピアノとヴァイオリンの音色が「溶けあう」と言う意味で、これから始まる音楽が「ひとつの音になる」ことを示唆しているように感じるのです。
 音量も、音色もお互いの音がひとつに溶けるためにそれぞれが譲り合い、助け合い、認め合うことが何よりも大切な「心」です。演奏技術以前に一番重要なことです。
 技術は、演奏しようと思う音楽を、聴いてくださる人に届けるためのものです。自分だけがじょうずに聞こえるように演奏することは、技術ではなく「自己満足」です。一緒に演奏することが主になるヴァイオリンや弦楽器を演奏するなら、一緒に演奏する人を思う気持ちがなければ「独裁者」です。そうならないために、人にやさしい生き方をしたいと思うのでした。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

時に委ねる

 演奏はバッハのチェンバロ協奏曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。
音楽は時に人の心を動かします。聴く人が幸福を感じられる時間と空間を作るのが「音楽」です。演奏者自身も音楽の持つ不思議なエネルギーを感じます。
生徒さんに音楽を伝え、演奏技術を通して表現の楽しさを感じてもらう「レッスン」にも音楽の幸福感があります。

 どんな人でも、幸せな時間だけを過ごしてはいないはずです。
私の知る限り、今までそんな人にはお会いしたことがありません。
外見からは想像もできないのが、その人の歴史です。
 音楽がどんなに幸福感を与えても、それ以上の苦悩を感じる時があるのが人間です。生きる限り感じるのが感情です。感情を無くしたとき、喜びも悲しみも感じなくなって「生きている」としたら、それは既に「人」ではなく単なる「生物」だと思います。

 音楽を学ぶのにも、食事をするのにも「時間」がかかります。
秒・分・時・日・週・月・年という時間の単位よりも、私たちが感じる「長さ」の問題です。長く感じる「時間」もあれば、短く感じる「時間」もあります。
 練習してもうまくならない苛立ちのある場合に、時間が長く感じています。
「少しでも早く」何かをしたいと思うから「時間が長い」と感じるのですね。
実際の時間の長さとは関係ありません。焦っても時間は同じ速度でしか進みません。焦っていると「時間を無駄にした」とも感じます。それも勘違いです。無駄にしたのではなく「必要な時間」を「もっと短くしたい」と思っているだけです。
 何かを達成したと感じられるまでの時間は、元々必要な時間なのです。
同じことは「忘れたい」と思う出来事を「昇華=許せる」できるまでの時間にも、必要な時間があります。
 練習しても=がんばっても無理…と考えてしまうことがありますよね。
そんな思いの時には、自分に与えられた「時間」の中で、いつか出来れば満足する気持ちに切り替えたいですね。
 いつまでに?という期限のないことが、「楽しむ=幸福」なことだと思うようになりました。嫌なことは、いつやめる?と決めれば楽しくなりますよね。
楽しい区事は、いつまでもやれる!から楽しいのです。

 音楽は「時」の芸術です。演奏を聴く「時間」でもあり、作品として「時空を超える」ことでもあります。そして、人に音楽を伝えることも、次の時間=次世代に音楽を伝えることになります。誰かが演奏を伝え残さなければ、演奏技術はその人が生きている間だけの技術になります。私たちが師匠から教えて頂いた「技術・音楽」を誰かに伝えることは、責務だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

管楽器に学ぶ弦楽器の演奏

 動画は私が中学生のころから大好きで聴いているトランペット奏者「モーリス・アンドレ」の演奏する、アルビノーニのアダージョです。
 管楽器と弦楽器。オーケストラや室内楽で、一緒に演奏することがある楽器たちですが、打楽器も含めそれぞれの楽器から学ぶことがたくさんあります。
 先日、メリーオーケストラの練習に指導で加わってくれたフルーティスト一戸 敦氏が、弦楽器の弓の動きを見て感じることで、長く静かなフルートのフレーズを演奏できる話をされました。弦楽器の弓の動きは、音を出す運動そのもので、眼に見えます。管楽器、声楽の場合はそれが目には見えません。管楽器奏者から見て、弦楽器の「弓の動き」は彼らの「息」なわけです。
 では私たち弦楽器奏者は、管楽器の演奏から何を学べるのでしょうか?

 一番強く感じるのは、私たちが無意識に「返している」弓の動きです。
ダウン・アップの連続で音を出すヴァイオリン演奏者は、未意識に弓を返して音楽を演奏しています。言い換えれば、スラーが書いてあれば「レガート=なめらかに」、弓を返す時には「適当に」笑、になってしまっている気がします。
 弓を返すことと、フレーズを切ることは別のことです。管楽器で言う「タンギング」が弦楽器では「弓の動き出し」に該当します。言葉で言うなら「子音」「母音」に当たります。それを意識することと、フレーズがどこまでなのかを考えることは本来、別の問題なのにただ楽譜のスラーだけに目が行きがちなのが、弦楽器奏者の悪い癖かも知れません。
 タンギングの強さ、柔らかさが弦楽器のアタックです。「噛む」と言う表現を使うこともあります。動物がかみつくときの「音」のイメージがアタックでもあります。弓を返すたびにこの「アタック」をどのくらい、付けるのかによって音のイメージが大きく変わります。
 日本語で例えるなら「海=うみ」「弓=ゆみ」「無味=むみ」「組=くみ」「文=ふみ」「墨=すみ」
など母音が「う」でも子音が変われば意味が変わります。アタックは子音を表しています。ヴァイオリンの楽譜をすべて文字に置き換える必要はありません。ただ、なんとなく返してなんとなくアタックが付いたり、付かなかったりするのは管楽器ではありえないことだと思います。

 次にフレーズを意識する時に、管楽器や声楽の場合と、ヴァイオリンなどの弦楽器の場合、さらにはピアノの場合に演奏者の「感じ方」が違うのかもしれません。おそらく、音楽のフレージングは歌うとき=声楽で考えることが前提になっているように思います。作曲者が意図的に、人間が一息で歌いきれない長さの「フレーズ」を作った場合に、歌う人・管楽器奏者はどこかでブレス=息継ぎをせざるを得ません。弦楽器やピアノの場合は、苦しくないので(笑)息継ぎの場所を考えることもなく、フレーズを意識しないで演奏してしまう傾向があります。また弦楽器の弓が、先になると弱くなり、元に来ると強くなるという「不自然な強弱」が起こりがちです。これも音楽のフレーズとは無関係な「癖」の場合があります。日本語で言うなら、「えーっと、きょうは、れんしゅうを、して、ないです」の切れ目ごとに大きく言えば「こどもっぽく」聞こえ、逆に切れ目ごとに弱く話すと、何を言っているのか聞き取りにくい話し方になることに似ています。センテンスの切れ目を理解して、強く言いたい言葉を目立たせる話し方が、正しい話し方です。

 管楽器が音を保つ=キープする時の話も、一戸氏から聴きました。
ディミニュエンドの難しさも実際に演奏して示してくれました。
弦楽器奏者が、何気なく音を伸ばすのに対して、管楽器の場合に息を「維持する」ことや、音の強さを変化させることの体感的な難しさがあることに改めて気づきました。単にクレッシェンドする、ディミニュエンドするイメージから、「音を維持しながら」ということを加えることが如何に大切なのかを学びました。
 息を吸う、吐くと言う人間が無意識に行っていることを「演奏」に使う事の難しさは、私たちが弓を動かせば音が出るという安直な発想に陥っていることから脱却する必要があります。ダウン、アップ、元、中、先という物理的な「弓の動きと場所」を、音楽の中で生かすも殺すも演奏者次第です。単純に音の出る仕組みと、楽器の構造や素材が違うだけではなく、管楽器や打楽器から学ぶべきことが山ほど(笑)あることを再認識しました。さぁ!これからだ。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

45年前の自分と音楽と

上の1枚目と2枚目の写真は、高校1年生の時、クラスで江の島に「遠足」に行った時の集合写真。3名目の写真は、恐らく高校2年生?で恩師、久保田良作先生門下の発表会時に撮影したもの。寺神戸君や、吉野先輩の顔も。
それぞれの人に、歴史があるわけで長生きすると、歴史も増えます。
記憶のあるなしに関わらず、現実に体験してきたことが歴史です。
音楽高校である「桐朋女子高等学校音楽科(共学)」に間違って合格したのが15歳で今61歳。写真の当時も音楽に関わって生きていて、それ以前にも音楽との関りは「それなり」にありました。中学生当時の音楽部仲間と、今も交友しています。

 音楽の学校で学ぶことで、得られるもの。
演奏の技術、音楽の知識。それだけなら、音楽の学校に行かなくても身に着けられます。それ以外に何が得られるのか?普通科の学校・が医学と何が違うのか?
 学校での友人が「音楽仲間になることです。普通科の高校でも、音楽仲間と巡り合えます。バンド仲間や吹奏楽部仲間など。ただ、音楽科の学校だと、友人がすべて音楽を学ぶ人なので、当然音楽の仲間でもあります。
 そうは言っても当時、すべての級友、同期の生徒と仲が良かったわけでもありませんでした。1学年90人の中で、男子11人。その中でピアノ専攻5名がA組、弦楽器3人がB組、フルート1名作曲2名がC組にまとめられて(笑)いました。

 音楽の学校で知り合った当時、誰がうまい、誰それの技術は…という話も良く出ました。声を掛けられれば、誰とでもいっしょに演奏しました。
 若気の至り。なんとなく無意識のうちに、刺々しい関係にもなりました。
同じ門下生の中でも、学年で誰が一番うまい…と言う序列が常にありました。
その人間関係に耐えられる、メンタルの強さと同時に、音楽から離れた人間関係も築くことが必要でした。中には「一匹狼」で寡黙に過ごしている人もいましたが、それがすべてだったのかどうかは、本人でなければわかりません。
 音楽仲間と思えるようになったのは、実は割合最近の事のように思います。
いわゆる「現役」の世代は、友人との関係よりも仕事である音楽と向き合うことで、ほぼすべての日常が終わります。生き残りゲームの真っただ中にいるのですから当然です。
 年齢を重ねると、体に抱える「病気の歴史」も嫌ですが増えてきます。
身体が今までのようには動かせない、演奏するにしても「力で押し切る」演奏はしたくもないし、出来ません。逃げのように思われますが、他の演奏家との「距離」は昔よりも近くなった気がします。誰がうまいか?より、あいつは元気か?生きているのか?という世代なのかもしれません。
 現実に、高校・大学時代の友人、近い世代の人が何人も世を去られました。
中には、30台になる前に亡くなってしまった友人もいます。年齢が近いということは、親世代の年齢も近いわけで、介護に直面する人がほとんどの世代です。
 そんな共通の歴史観をもつ、音楽仲間が一緒に演奏できる場を作ってみたいと思っています。「○○記念オーケストラ」のような「すげぇだろ!」な存在ではなく、普段着で演奏を楽しめるオーケストラ。次世代の若者、子供たちとも一緒に演奏できる空間が、日本にあるでしょうか?当然、「プロ」とか「元プロ」という肩書=プライドを捨てて集まることが前提です。演奏を心から楽しめるのであれば、演奏技術より大切なものが感じられるはずだと信じています。
 そんなオーケストラに、メリーオーケストラがなってくれたらなぁ…と、のほほんと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野謙介

演奏者が変わるとヴァイオリンの音が変わる謎

 映像は、ピアソラ作曲の「タンゴの歴史」からカフェとナイトクラブです。今回のテーマは、ヴァイオリンを演奏する人にとって大きな謎の一つです。購入したいヴァイオリンを選ぶとき、楽器店に行っていくつものヴァイオリンを演奏して比べますよね?
 一人の人間が違う楽器を演奏した時に感じる「違い」とは別に、ひとつのヴァイオリンを違う人が演奏した時に、楽器の音は変わるのでしょうか?結論から言うと、変わります。

 当然、楽器そのものの構造や材質が変わるわけではありません。演奏者の弾き方によって、楽器のなにが?どう変わるのでしょうか?単にじょうずな人が演奏すると良い音がする…と言うことではありません。楽器固有の「素の音」があります。人間の声で考えるなら人によって、地声が違うのと同じです。
 楽器を演奏するときに、演奏者が望む=好きな音で演奏しようとします。音の大きさ、音色の感じ方は人それぞれに違います。
同じ音を何人かの人が同時に聴いて、同じ印象を持つことはありません。ある人は高音が強いと感じ、ある人は高音が足りないと感じます。数値化しても他の楽器と比較しない限り、固有の楽器の音を表わすことは不可能なのです。
 自分の好みの音量・音色を目指してヴァイオリンを演奏すると、次第にどう演奏すると、どんな音量・音色が出せるのかを演奏者が見つけられます。その弾き方になれると、自分の好みの音で楽器が鳴ります。演奏者は「音が変わった」と感じます。それは自分の演奏の仕方が変わったのです。これが「演奏者の変化」です。

 一方で、楽器自体は何も変わらないでしょうか?短時間=数時間で木材の固さが変化することは物理的にあり得ません。弦は時間と共に変化します。温度・湿度、さらに「芯」に当たる素材の伸び方、弦表面の変化もあります。
 楽器を自分の好きな音量・音色で、長時間=数日~数年演奏し続けると、楽器の中で、特有の部分が常に大きく振動します。大きくと言っても目に見えるほどの大きさではありませんが、音自体が空気の振動ですから、その音の高さと大きさによって、楽器本体の「木」も振動します。そして、演奏の仕方によって、その振動の場所が変わります。解放弦を演奏しながら、左手で裏板をそっと触ってみると、ある部分だけが大きく振動しているのを感じます。違う高さを弾くと、違う部分が振動していることに気づきます。
 金属の場合は、「金属疲労」と言う言葉があるように、常に一定の力が加わるとやがてその部分が破断します。木材の場合は、強い力が加われば「削れる」か「割れる」ことがありますが、金属に比べて木材は柔軟性に富んでいます。固い木が乾燥すると、乾いた音になります。それがヴァイオリンの「体=共鳴箱」です。
 振動し続ける部分が、振動しやすくなるのは当然です。
つまり、演奏者の好みの音量・音色が、ヴァイオリンの「木」を振動しやすく変化させていることになります。これが「楽器の変化」です。

 ヴァイオリンに限らず、演奏方法で楽器の音量も音色も変わるはずです。その変化を起こす技術が演奏者に必要です。
ヴァイオリンで言えば、弓の張り方ひとつで音色が変わります。
弓の毛を当てる弦の場所が、数ミリ変わるだけで音色が変わります。圧力がほんの少し変わっても音色が変わります。弦の押さえ方でも音色が変わります。ピッチがほんの少し変わっただけで、音色が変わります。いつも決まったピッチで、それぞれの音の高さを演奏していると、ヴァイオリンが共振しやすくなります。
 他にも音を変える要素はたくさんありますが、つまりは演奏者の「耳」が基準であるということです。
 残念ながら、人間の耳は体調によって聞こえ方、感じ方が違います。場所が変われば聞こえ方も変わります。その不確定な「耳」に頼るしかありません。だからこそ、「技術」を安定させる必要があります。「視覚」に頼らずに「聴覚」と「触覚」に神経を集中させることで、自分の楽器の音を、自分好みの音に替えることが可能になります。頑張ろう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

生きている音楽が生演奏

 動画は、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」の「瞑想曲」です。下手な演奏ですみません。
 私たちが聴くことのできるクラシック音楽は大きく分けて「スタジオやホールで録音した音楽」と「コンサートで聴く音楽」があります。
コンサートの演奏を録音したものも、コンサート演奏の「一部」として考えてみます。。
言うまでもなく、レコーディングを目的とした演奏は、演奏者と録音技術者・プロデューサーの納得がいくまで、何度でもやり直しができます。技術的には、うまく演奏出来た部分を「つなぎ合わせる」ことも可能です。
 一方で演奏者が聴衆の前で演奏する場合は、「一発勝負」でやり直しはできません。
 あなたは、どちらの演奏が好きですか?

 仕事として演奏する立場で考えると、それがレコーディングのための演奏でも、コンサートでの演奏でも、同じお仕事です。
 違うとすれば、レコーディングの場合には、音量、音色より「正確さ」を求められます。簡単に言えば、楽譜に書いてある通りに間違えないで演奏することが必須条件です。コンサートで演奏する場合でも間違えないで演奏することは重要なことですが、音量・音色と聴いてくれている「人」をその場で満足させる「気持ち」が何よりも大切です。会場の響き、他の演奏者とのバランスを事前に確認して本番の演奏に臨むのが「生演奏」です。

 生きている人間が、生きている人の前で音楽を演奏するのが「生演奏」だと思います。機械で再生された音楽は、その意味で言えば生演奏ではありません。
 以前、マドンナのライブを見に(聴きに)当時の後楽園球場にいったことがあります。歌っている姿は、望遠鏡がなければ見えません。スクリーンに映し出されるマドンナの映像と、大音量で球場に響き渡る音楽。椅子にも座らず、立ち上がって「狂乱」するオーディエンス。その場の空気は楽しいものでした。が!
 その後、そのライブをテレビで見たときに、実はマドンナが歌っていないことを知ってしまいました。おそらく、歌以外の音も予め録音されていたものだったのだと思います。すべてのライブがそうだとは思いません。会場=球場で不満はありませんでした。
 もし、クラシックの演奏会でCDの音を再生し、演奏者は「あてぶり」で弾いた振りをしたら、どうなるでしょうか?

 演奏に「傷」が許されないとしたら、人間が演奏する必要はありません。コンピューターで作り上げたヴァイオリンの音を、実際に演奏した音と「ききわけ」できないレベルまで仕上げることは、現在でも可能です。音楽に限らず、映像の世界でも、調理の世界でも、似たようなことは既に現実になっています。
 レトルト食品、冷凍食品のおいしさは、すでにレストランやお店で食べる「以上」の場合が増えています。「人工知能=AI」が進化して、人が運転しなくても目的地まで安全に走る「自動車」がすでに存在します。音楽も、そうなるのでしょうか?

 人間が演奏しない音楽も、確かに音楽です。
それを「便利」だと感じるのも個人の価値観です。
なにも楽器の演奏が出来なくても、パソコンで曲を作ることもできます。データを打ち込んで、演奏し録音することもできます。
音楽の楽しみ方のひとつになったことは事実です。
 人間が感じる、楽器を演奏する楽しさ・難しさ・喜びがあります。
演奏をすべて機械にゆだねてしまえば、それが失われます。
 人間が演奏前に緊張するのは当たり前です。うまく演奏出来たり、出来ないこともあるのが人間です。演奏者に聴衆が、自分の理想やパーフェクトな演奏を求めるのは、どこか間違っていると思います。生きている人間が、自分の目の前で演奏していることが、どれだけ素晴らしい時間なのかを、聴く側も考える時代に入りました。「バーチャル」全盛の今だからこそ、リアルな人間の演奏に魅力を感じる時代なのです。生身の人間が演奏する音楽を、守ることができるのは実は、演奏者側ではなく「聴いて楽しむ側」が担っています。聴く人が求めなければ、演奏者は消滅します。演奏者が消滅すれば、趣味で楽器を演奏することもできなくなります。「楽器」そのものが消えるからです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

500本目の動画

 Youtubeに自分の演奏、自分が指揮をした演奏、編集した映像を、自分の半生用と生徒さんの参考にと思いアップしてきて、その数がこの動画で500本目です。
・チャンネル開設当初の「MrKabajiru」
URLは https://www.youtube.com/channel/UCli07laNGU99USxnDO9CTyA
・その後、動画数が増えたので作った「野村謙介」

URLは 
https://www.youtube.com/channel/UCK0zl04-SCFOlKBlyv_9tdg
・それでもパンクしそうだったので作ったのが「野村謙介チャンネル3」
URLは https://www.youtube.com/channel/UCMAZycdSb68eZ3DzN5GwmTg
と、いつの間にか増えた動画たちです。

 動画の中には「限定公開」と「公開」の2種類があります。人様にお聞かせできないと思った映像は「限定公開」でアップしていますが、それ以外の動画がお見せできる動画だとも思っていないわけで(汗)「じゃ、なんでアップしてるの?」と素朴な疑問。
 この考え方には賛否両論あるのですが、インターネットという誰でもが見ることのできる空間に、見られることを前提に動画をアップするのは目的があるからです。
 プロの演奏家が自分の演奏をアップする場合「広報=宣伝」が主な目的だと思います。入場料金を頂くコンサートの演奏風景を、Youtubeで「ただで見られる」と言うことに不公平感を感じるお客様もいるかも知れません。さらに言えば、その映像だけで十分満足できるかたなら、チケットを買わずに配信されるのを待っている方法もあります。 宣伝のつもりが、逆効果になるとも考えられます。
 現実に、配信に課金する=お金を払うと動画を見られる方法で、コンサートを開いているプロの演奏家も多くなりました。時代の変化です。
 ネット配信にお金を払う人にとって、無料で同じ動画が配信されたら、きっと怒りますよね?
 「投げ銭方式」で払いたい、払ってもいいという人が自由に支払うという方法もあります。そのほかに、クラウドファンディング方式でネット配信するプロも見られます。
 どんな方法であれ「お金をもらう配信」には私は踏み切れませんし、自分の演奏動画にお金を払いたいとも思わないのが現実です(笑)
 コンサートを開き、お客様と会話し、演奏を聴いていただくことが好きなのです。広告にお金をかけられません。スタッフも必要最小限です。撮影も同じです。編集作業は自分で行います。その映像を無料で公開して、演奏会に足を運んでくれる人が「増えるのか?」と言われれば、答えは残念ながら「いいえ」です。宣伝としての効果が見込める演奏家もいると思いますが。

 生の演奏とパソコンやスマホで聴くことのできる「機械音」が、どう違うのかを並べ立てても、パソコンで十分と言う人には「だからなに?」という話です。
コンサート会場に、行きたくても行けない人もたくさんいます。私も一人でコンサートに行くことは視覚障害のために出来なくなりました。高齢のかたに、招待状を送るのも不安になることがあります。その方たちが、CDやDVD、インターネットを使うことができれば「疑似コンサート」を楽しんでもらうことができます。
 コンサートならではの「良さ」を演奏する演奏家、主催する人間が本当に理解しているでしょうか?単に「音質」の問題だと片づけられることではありません。「演奏家を見られる」と言うのも今や、会場でないほうが良く見える時代ですよね。逆に自宅や、電車の中で好きな時間に、一人で音楽を楽しめるという意味では、コンサートに勝ち目はありません。
 私は先述の通り、会場でお客様の反応を見ながら、話したり演奏したりすることが好きなのです。お客様が演奏者と「相手の顔を見ながら会話する」ことは、ネット配信の場合とは明らかに違います。「ライブチャットがあるよ」と思われるかもしれませんが、演奏中にモニターを見ながら演奏しますか?演奏後に、チャットで一人ずつと「やりとり」できても握手はできません。
 人と人の「ふれあい」がコンサートでしか感じられないことではないでしょうか?お客様同士の「仲間意識や連帯感」もその一つです。休憩時間に、お客様同士が楽しそうに会話している姿を、楽屋のモニターで見ていると、とても嬉しく感じます。

 自分の演奏を公開することが、正しい行為かどうかは、人によって答えが違います。少なくとも現在は、Youtubeで誰の作曲した音楽を演奏しても著作権料を支払わなくてもアップできます。ユーチューバーとしてスポンサーからお金をもらうようになると話は別ですが。
 自分の演奏を誰かが見てくれることが「嫌だ」と思うなら、利用しなければ良いだけです。誰かが見てくれて、楽しんでくれたり、参考にしてくれることを「良し」とするなら、アップするのも楽しいと思います。
 これから、どんな演奏を記録できるのかわかりません。
自分のモチベーションを維持するためにも、コンサートを開き続け、演奏を公開できる内容になるように、頑張るのです!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまくなる気がしないヴァイオリンの演奏

なんとなく自虐的なテーマですが笑
上の動画は見ていて・聴いていて、あまり難しそうに感じない曲かも知れません。チャイコフスキーの作曲した「無言歌」をクライスラーが編曲したものです。
 私も含めてヴァイオリンを演奏する人にとって、いつまでたっても上達しない=うまくならない気がする「壁」が立ちはだかります。
 ピアノを演奏する人も同じだとは思います。どんな楽器や歌でもきっと感じるのだろうと思います。
 ヴァイオリンを演奏し、教える仕事をする立場で考えると、「気」だけではなくもっと客観的に「どうして、そう感じるのか」を言語化する必要を感じました

 ヴァイオリンを始める以前に、楽器の演奏をしたことのない生徒さんもいます。ピアノの演奏経験があるヴァイオリン初心者の生徒さんもいます。ヴァイオリンを初歩から始めて、趣味で演奏の上達を目指す人たちににとって、出来るようになったと感じる「達成感」はどんな時に感じるでしょうか?
 初めてヴァイオリンを構え、弓を自分で持って「音」が出た時の感動は、誰でも感じる「おー!ヴァイオリンだ!」という感動と音を出せたという達成感があります。
 次に何を練習してもらうべきか?生徒さんと先生によって違います。
生徒さんが小さい子供の場合には、「音を出す楽しさ」を忘れさせないように=飽きさせないようにすることを優先します。
大人の生徒さんに「正しい弓の動き・弓の場所・角度」を説明し、弓をたくさん使った練習をしてもらうことも良くあります。この練習で「出来るようになった」達成感がどれだけ得られるでしょうか?練習の必要性をどれだけ理解してもらえるでしょうか?いつまでこの練習をしてもらえば良いのでしょうか?
 言うまでもなく、弓を大きく使えるようになることは、上達のための必須条件です。だからと言って、この練習だけでモチベーションを維持するのは、かなり無理があります。頑張れても2~3日だと思います。レッスンが週に1回だとしても2回目のレッスンまで、これだけ練習するのはかなり「酷」な話です。
 では、この練習はそこそこにして、1本の弦だけを弾く練習、2本の弦を同時に弾く練習を宿題にしたらどうでしょうか?「むずかしい!」ことは感じてもらえるでしょうが、できるようになるまで続けたら、何週間、何カ月も開放弦の練習をすることになります。これまた非現実的です。
 では、左手で弦を押さえてたとえば「1」の指で出せる音を、開放弦と交互に弾く練習を課題にしたら、出来るようになった達成感はあるでしょうか?多くの生徒さんの場合、ピッチがあっていない=開放弦との音程があっていない場合でも、なんとなく押さえたり放したりする「繰り返し」になり大切を実感できません。ましてや右手の「ダウン・アップ」と「0→1→0→1」がずれないようにする技術がすぐに身に付くわけではありません。はぁ~涙

 ピアノを始めて習いレッスンを受ける生徒さんんと比べて、圧倒的に「曲」を演奏できるようになるまでの時間が長く必要なのが、ヴァイオリンです。
 曲が演奏できるようなる…と言っても、ヴァイオリンで演奏できるのは単旋律のメロディーです。それさえ、初めは曲にならない音程の不安定さで、生徒さん自身でさえ「気持ち悪い」と思う事もあります。
 少しずつピッチが正確になっても、雑音が多くきれいな音が出せない「壁」にぶり当たります。また、ダウン・アップが混乱したり、スラーがどこかに飛んだり…短い曲を止まらずに、間違えずに演奏できるようになるまでの時間が、同じ曲をピアノで止まらずに、間違えずに演奏できるようになるまでの時間の「数十倍」かかるのがヴァイオリンです。間違えないだけでも大変ですが、そこに「きれいな音=雑音を出さない」で演奏できるまで、その曲だけ練習していたら生徒さんは一人もいなくなるでしょう涙。
 その壁を越えたら、常に達成感が得られるのか?というと、それがまた難しいように思います。「音の高さ=ピッチ」の「正確さ=精度」と「判断の速さ=反応の速さ」を高めるには、耳のトレーニングが必要です。ヴァイオリンを演奏しながら「耳」のトレーニング、つまり自分の音を聴き続ける練習が不可欠で、その上達を自分で感じる「達成感」はほとんど感じられません。何カ月、何年と言う時間で少しずつ身に付く技術だからです。

 ピアノに比べ感じられる達成感が「薄い」ヴァイオリンです。
だからこそ継続できる生徒さんが少ないことも事実です。
ピアノだけで音楽が完成する曲の数は星の数ほどありますが、ヴァイオリン初心者のために作曲された曲数が少ないだけではなく、ピアノの伴奏か他の楽器と一緒に演奏しないと音楽が完成しない=音楽の一部分だけの楽譜が圧倒的に多いのも初心者の壁です。
 一緒に演奏することが前提の楽器です。少しでもヴァイオリンを演奏できるようになったら、ピアノと一緒に演奏することで大きな達成感と新しい感動を感じることができるのはヴァイオリンならではの楽しみ方です。

 プロのヴァイオリン演奏を見たり聞いたりすると、手品師か曲芸師のように指や手が速く動くことに目が行ってしまいがちです。ピアノのように和音を連続して演奏できる楽器と違い、ヴァイオリンは「見た目の難しさ」と「本当の難しさ」がまったく違う楽器です。指や弓を速く動かすことが一番難しそうに見えるから、簡単な曲なら弾けるような「錯覚」をしてしまうのも初心者に多い話です。言い換えれば、ピアノは一般の人が聴いて感じる難しさと、実際の演奏の難しさが比較的近い楽器であるのに対し、ヴァイオリンは「簡単そう」に見える・聞こえることを演奏することがとても難しい楽器です。そのことに気が付くことが第一歩です。音階を正確にきれいな音で演奏することの難しさを知ることでもあります。初心者のヴァイオリニストが演奏した曲を、プロが演奏するとまったく違って聞こえるのがヴァイオリンです。それでも、少しずつ技術を身に着けていく根気があれば、かならず上達します。
 私も自分に、そう言い聞かせて日々練習しています。プロもアマチュアもヴァイオリンの「難しさ」は変わらないのです。プロだから簡単にできる演奏技術は、存在しません。生徒さんが難しいと思うことは、先生たちでも難しいのです。
一緒に頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴いて楽しむ人と弾いて楽しむ人

映像は、ピアソラ作曲の「アヴェ・マリア」をヴィオラとピアノで演奏したものです。自分で弾いてい自分で聴いて楽しめる、数少ない演奏(笑)です。
1.誰かの演奏を聴いて楽しむことが好きな人。
2.誰かに演奏を聴いてもらうことが仕事であり、それが好きな人。
さらにもう一つの分類として…
3.「自分が弾いて自分が楽しむ人」
多くの場合は、プロの演奏を聴いて楽しむというケースですが、
趣味で演奏を楽しむ人「3」の人は、「1」のプロの演奏を聴いて楽しむ人でもあります。
では、「2」のプロの演奏家は誰かの演奏を聴いて楽しまない?

私の知る多くの演奏家は、自分以外の演奏を聴いて楽しむ人がほとんどです。
さらにその「2」プロの演奏家は「3」の自分で演奏して楽しむことは、ないのでしょうか?演奏会の演奏中に、自分の演奏を聴いて楽しむことは、現実にあるのでしょうか?演奏する人によって違うとは思いますが、自分の演奏が嫌いなプロが、お客様に聞いてもらうことはお客様に失礼だと思います。
 自分の作った料理がおいしいと思えない料理を、プロの料理人がお客様にだすでしょうか?ありえませんよね。
 もちろん、楽しみ方は客席で聴くのとは違います。何より演奏するための「体力」は座って静かに聴く人と同じであるはずがありません。が、音楽を聴いていること自体は変わりません。

 趣味で演奏を楽しむ人は、プロの演奏を「真似る」楽しさなのだと思っています。もちろん、真似をしなくても楽器の演奏は楽しめます。
 ヴァイオリンを演奏できるようになりたいと言う生徒さんの中で、ヴァイオリンの演奏を聴かない、あるいはほとんど聞いたことがないという生徒さんがたくさんいます。その生徒さんが、どんなヴァイオリン演奏をしたいのかを探ることから始めます。楽しみ方にルールはありませんから、ヴァイオリンの音を出すだけで楽しいと言う方がいても不思議ではありません。ただ「演奏できるように」という演奏の「イメージ」もないと、上達することは無理かもしれません。
 ヴァイオリンでどんな演奏をしたいのか、演奏技術がないのですから、うまく言語化できないのは当然です。それでも、日常の生活でヴァイオリンの演奏を聴く時間はあると思うのです。その興味、関心がなければヴァイオリンの音を出すだけで終わってしまうと思います。
 自分が食べておいしいと思う料理を、自分で作って自分で食べて楽しむのと同じです。「料理をすることが好き」という人もいます。美味しくできなくても良いのかも知れません。料理教室に通う人がなぜ?なにを習いに行くのでしょうか。料理の仕方、包丁の使い方を習うためだけに行くのではなく、自分の料理で誰かが(自分も)食べておいしいと思う料理を作る方法を学ぶ方が楽しいと思うのです。

 演奏の技術は、どんな曲をどんなふうに演奏したいのかによって全く違います。極端に言うと、一番最初の段階である楽器や弓の持ち方から学ぶべきものが違います。少し演奏できるようになった段階でも、練習する内容が違います。
子供の場合はそれがまだ白紙の状態です。だからこそ、多くの子供に対して練習のプロセスが似たものになります。将来、その子供が演奏家になりたいと思った時に後悔しない技術を身につけさせたいと思うのが指導者です。たとえ趣味であっても、初めから妥協だけを優先して練習すれば、得られるものは何もないと思うのです。演奏家を目指すのではなく、じょうずにヴァイオリンを演奏できるようにしてあげたいと家族や指導者が思うことが、何よりも大切だと思います。
「趣味でいいので」という言葉の裏側に「妥協」や「甘え」を感じてしまうことが良くあります。一方で生徒さんの中には「趣味でもちゃんと演奏できるようになりたい」と言ってくれる人もいます。うまくなりたいと思わない人に、なにを教えれば楽しんでもらえるのだろう?と頭を抱えることが多いのが、趣味の音楽を教える私たちの悩みでもあります。

 好きな音楽に出会うことと、楽器を演奏できるようになりたいと思うことは、切っても切れない関係です。たとえ、ロックやジャスを聴くのが好きな人であっても、楽器を演奏するために必要な知識と練習はただ聴いて楽しむのとは違う、新しい世界なのです。楽器を演奏することが楽しいのは、自分の好きな音楽を自分で演奏して、自分が楽しめるからです。自分で作って自分が食べる料理が、ただ必要なカロリーや栄養のことだけを考えて作るのか、それとも美味しいと思える料理を作るのかで、全く違うのと同じです。食事はしなければ生きていけませんが、音楽は聴かなくても演奏できなくても生きることができます。むしろ、楽しむことが音楽の意味だと思うのです。楽しめない音楽なら、無理に聴く必要も演奏することも時間と労力の無駄だと思います。習うのであれば、お金の無駄にもなってしまうと思います。楽しみのために覚えたり、練習することが楽しく感じるまで「続ける」ことも音楽の楽しさを感じるための「楽しみ」だと思うことが大切だと信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

東京大学に進学した生徒くんと対談

 2022年5月8日(日)午後、橋本駅前のメリーミュージック駅前教室での生徒さんとの対談です。
 現在20歳になる男子。4歳からヴァイオリンを始め、毎週母親に連れられてレッスンに通い続けた少年が、立派な青年になり今もなお、レッスンに通ってきてくれます。今回が「459回目」のレッスンでした。

 小学校4年生から塾に通いながら、並行してヴァイオリンのレッスンに通い続け、中学校は国立の「筑波大学付属駒場中学校」に進学。中学に入学後もレッスンにはお母様と通い続け、同高校に進学しても時々、指揮のレッスンを交えながらのレッスンが続きました。
 大学は東京大学に現役で合格。それからも時折レッスンを受けてくれています。彼が幼稚園の時から、成人し私より背が高い「見下ろされる」存在になったことが不思議なほどに嬉しいのです。

 教員時代、東京大学に進学した音楽部員もいました。京都大学に進学した男子部員もいました。一橋大学にAランクで絶対に合格できると言う成績の女子部員が、音楽大学の打楽器専攻に進学したこともありました。
 ただ、一人の生徒にかれこれ16年関わって来られたことは、自分が教員を辞め自分の教室を立ち上げ、地道に続けてきた「勲章」でもあります。
 すべての生徒さんが、それぞれの個性と環境の中で生きておられます。
音楽を趣味とする生徒さんに音楽の楽しさを伝える教室「メリーミュージック」に通う生徒さんの一人一人に、私の思いがあります。
 体験レッスンだけで終わってしまった方もおられます。
数カ月、数年でレッスンに来られなくなる生徒さんの中には、何も言わずに突然来られなくなった生徒さんもいらっしゃいます。私の力量不足です。
 継続は力なり
始めるのは簡単、やめるのも簡単。続けることが何よりも難しいのは、ヴァイオリンや音楽に限ったことではありません。一つのことを、やり続ける気力、根気、強さがその「ひとつ」の事以外の事にも、大きな影響を与えていることを彼と話しながら感じていました。

 成長する生徒とは、彼のように子供から大人になったという成長だけではありません。大人でも高齢者でも成長していることを私たちは実感しています。
 演奏家を目指す生徒に、レッスンをする先生たちと違い、私の教室は生徒の成長をサポートするのが仕事です。
 彼が受験勉強で練習する時間と体力を維持できない時に、彼の家族と同じように応援する気持ちを持ち続けることは、教室の経営としてマイナスなのかも知れません。その時々で壁があり、乗り越えるために誰かの協力が必要になることは、音楽でも多くの場面で起こることです。それが家族だったり、ヴァイオリンの先生だったり、塾の先生や友達だったりすると思うのです。
 成長した彼が、家族に感謝していることを自分の言葉で私に伝えられる「おとな」になったことが、ヴァイオリンの技術が上達したことよりもずっとずっと、嬉しいのです。
 これからは彼らの時代です。私たちは彼らに支えられる世代になります。それが自然の摂理です。今、彼にしてあげてきたことを振り返り、反省もありますが「ヴァイオリンを続けられた理由」に私の教室だったからと言ってくれる言葉に感謝しています。
 多くの生徒さんたち、保護者の皆様。
彼は決して特別な才能や素質を持った天才ではありません。
私が見ていたヴァイオリンで言えば、特殊な技術を持っていたわけでもありません。他の生徒さんと同じレッスンをしてきました。そのレッスンで与えられた課題を家で家族と一緒に練習し、家族が支えてきただけなのです。
 きっと勉強もそうだったのだと思います。
なにが「普通」とは言えません。でも彼は、どこにでもいる「男の子」なのです。これからの彼の成長が楽しみです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの魅力

映像は、アイザック・スターン(Isaac Stern、1920年7月21日 – 2001年9月22日)の演奏する、バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の「シャコンヌ」です。自分の好きなヴァイオリニストは、人それぞれに違います。誰が一番じょうず?と言うのは「愚問」です。個性に優劣をつけることに何も意味はありません。「演奏会の回数」「レコードの枚数」「演奏した曲数」「演奏したホール」で比較する人がいますが、それも無意味です。世界大戦や動乱の時代、国を移動することも演奏会を開くことも,レコーディングすることもままならなかった時代があり、演奏者の考え方も様々でした。

 ヴァイオリンと言う楽器は、ニコロ・アマティ(Nicolo Amati、1596年12月3日 – 1684年4月12日)の時代から大きく進化していない「原始的」な楽器の一つです。400年間、進化の止まった楽器でもあり、言い換えれば、400年前にすでに完成されていた楽器でもあります。演奏される楽曲は、400年前と現代で同じものもあります。シャコンヌを作曲したヨハン・ゼバスティアン・バッハ(: Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日 – 1750年7月28日)が、アマティの死後、生まれ変わるように誕生したのも偶然とはいえ、興味深いですね。
つまりこのシャコンヌが作曲された当時に、アマティやストラディバリウスの楽器が存在し、それらの楽器でも演奏された可能性があります。

 そのヴァイオリンという楽器の「性能」について考えます。
もちろん、弓と弦についても同様に重要なことです。
バッハが生きていた当時の録画がありません(笑)から、当時の演奏を今、聴くことは不可能です。実際に当時の「音叉」にあたる道具が残っており、それが現代演奏されている「ドレミ」と高さが違うことは間違いなさそうです。
 つまり、当時のヴァイオリンは今のヴァイオリンよりも「全体に低い音」で調弦され演奏されていたと「推察」されます。聴いたことはありませんが。
 弦の構造も今とは違ったようです。
アイザック・スターンの演奏の中で、一部を抜粋してみます。
通常の演奏方法で「重音」隣り合う2本の弦を同時に演奏し続ける=和音を伸ばすことができます。瞬間的に3本の弦を同時に弾く場合、弓の元か先「毛のテンションが強い部分」で演奏することが可能です。が…、圧力をかければ音が汚くなりがちです。無理な力は音をつぶしてしまいます。スターンの「力」が腕と指から、弓に「のしかかっている」事は想像できますが、腕の力を感じさせないのです。運動の速度は感じますが、圧力をかけている様子を感じられないのに、同時に3本の弦を「弾き続ける」部分があります。それ以外にも、4本の弦がまるで何人ものヴァイオリニストが演奏しているように、ポリフォニックに連続しています。余韻と実際に「擦っている」音の差が聞き取れない技術です。

アイザック・スターンというヴァイオリニストの演奏技術が優れていることに、疑いを持つ人はいないと思います。演奏する「音」へのこだわりは、現在第一線で活躍する若手ヴァイオリニストたちが、忘れかけていることの一つにも感じます。
 ヴァイオリンというシンプルな構造の楽器が、まるでパイプオルガンのように、オーケストラのように、歌声のように、囁くように、オペラ歌手のように多彩な音色、実際の音量よりも大きく感じる「響き」を作れる楽器であることを、思い知らせてくれるのが、この演奏です。
 たった4本の弦を、馬のしっぽの毛で擦るだけの音が、どんな大きな楽器にも聴きお取りしない音を奏でられる楽器だという事を、もう一度考えたいと思います。そして、どんな楽器にも個性があり、その個性は人の声がすべて違うのと同じ「違い」を持っていることと、楽器と対話する演奏者の「思い」がなければ、ヴァイオリンは「道具」でしかないと確信しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者はなにを演じるの?

 映像は映画「シンドラのリスト」のテーマ音楽です。
映画の音楽が必ずしも映画の内容と一致していなくても不思議ではありませんが、この曲も含めてテーマ音楽が映画の内容、ラストシーンと重なる印象になるケースが多いですね。

 さて、今回のテーマは音楽を「演奏」すると書きますが、この「演」という文字は実地に何かを行うときに使う文字です。演技、演算、演奏など。
演技と演奏の共通点を考えます。演技を演じる人を今、役者とします。
演劇、映画、テレビドラマなどで「役を演じる」人たちは、台本に書かれている「人」になりきって、見ている人をある時は笑わせ、ある時は苛立たせ、またある時は泣かせます。役者さん本来の人柄やその時の心理とは無関係に、見ている人をある意味で「騙し」ます。騙すと言うと印象が悪いのですが、「嘘の世界」をまるで「真実」に見せるのが演技です。

 一方、音楽を演奏する私たちはいったい何を?演じているのでしょうか。
言うまでもなく、作曲家の作った音楽を実地に奏でるのが「演奏」です。
では作られた音楽=楽譜と、役者さんの使う台本は違うのでしょうか?
台本の多くは「せりふ」です。そこに脚本家や演出家が動きや、感情を指示します。音だけの劇である「朗読」の場合は、動きはありません。言葉だけで台本の内容を演じることになります。
 ひとつの話の中に登場する人物が感じているであろう感情を役者が演じます。
話の展開、結末は台本を書いた原作者や脚本家によってきめられます。
役者が感じたままに演じる場合もあります。優れた役者さんに、監督が何も指示をださず役者とカメラマンに任せるという方法を黒澤明監督が使ったのは有名な話です。朗読の場合にも同じように、一人ですべての登場実物を演じきり、聴く人を魅了します。
楽器の演奏では言葉を使わずに、聴く人に音楽を伝えます。
音楽のタイトルがあったとしても、作曲者が特別な思いをもって作った音楽であっても、演奏する人と聴く人にとっては「音楽」です。
よく耳にする「音楽の解釈」と言う言葉があります。
作曲者の意図や当時の心情、作曲された時代を深く調べることで、演奏の「あるべき姿」を模索することだと思います。
 ただ、極論すれば作曲者自身が演奏しない限り、楽譜を作曲者の思った通りに演奏することは不可能です。そこには演奏者の「推察」が入るのです。
作曲された音楽のテーマや一部分だけを使って演奏する音楽を「邪道」と言う人がいます。

dougaha

動画は大好きなギタリスト「Marcin 」のパガニーニカプリース。
これを聴いて原曲と違うと言ってしまうこともできますが、もしパガニーニ本人が聴いたら「すげぇ!こっちのほうがかっけー!」と叫ぶかも知れない気がします。パガニーニ自身、ギターの演奏にも深い関心を持ち自身もギターを弾きました。ギターの奏法をヴァイオリンに持ち込んだのも、パガニーニなのですから。
 話がそれましたが、原曲の楽譜をどう?演奏するのかという演奏者の問題です。楽譜は記号です。文字も同じです。文字が「文」になり「文章」になり「作品」になるように、音符と休符が「モチーフ・テーマ」や同時に鳴ることで「和音」になり「フレーズ」になり「曲」になります。
 単語は意味を持ちます。ですが、文章になった時には違う感情を読む人、聴く人に与える場合があります。「空」と言う単語が、ストーリー=文章の中で、特別な意味を持ち、聴く人の涙を誘う事もあります。
 音楽の「ドシラ」という3つの音だけで感動する人はいないかもしれません。
それが…

 チャイコフスキーの弦楽セレナーデの冒頭部分です。
ファーストヴァイオリンの「ドシラ」がこの曲のテーマになります。
たかが「ドシラ」されど「ドシラ」です。
音楽が意味を持たない音の集まりだとしても、聴く人がなぜか?感情を揺さぶられることにこそ、演奏家は常に疑問を感じながら、試行錯誤を繰り返すべきです。「こう、書いてあるから」ではなく「こう弾くと、なにを感じる?」ことにこそこだわるべきだと思います。作曲者の意図より、自分の演奏を初めて聴く「普通の人」が何を感じてくれるのか?のほうが、ずっと大切だと思うのです。
演奏が単なる「楽器で音を出す」ことではないとするならば、私たちはその「音」で聴く人を感動させる技を磨くことが必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏家に特別な素質はいらない

 動画はクライスラーの「コレルリ・バリエーション」です。私のガラケー着信音がこれです。聴こえたらすぐに探さないと恥ずかしいから最適!(笑)
 大人の生徒さんや、生徒の保護者が自分や子供に「才能がない」とか「素質が足りない」などと言われることがあります。思わず「私に才能があると思うんですか?」と聴くと「そりゃあ、先生だから」と意味不明なお応えが帰ってきます。演奏家に必要な「素質」ってあると思いますか?

 先天的に耳の聴こえない人もいます。手の指がない人もいます。色々な個性が人間にはあります。もっと言えばたとえ一卵性双生児でも個性が違います。まったく同じ人間は、地球上に自分しかいないのです。それぞれが異なった個性を持っています。それらの個性の中で、演奏家に適した個性があるとしたら、どんな個性でしょうか?
 ・聴力がある。
 ・両腕と指がすべてある。
それさえ、「絶対条件」ではありません。右手の指がない人でもヴァイオリンを演奏しています。右手が動かなくても演奏されるピアニストもいます。ベートヴェンは晩年、踏力を失ったことは有名な話で。それでも第9を書き終えました。
 「身体的なことではなく、能力が…」とこれまた苦しい理由を考える人もいます。演奏能力の優劣を、どんな基準で比較するのでしょうか?
 以前にも書いた「低年齢で演奏技術が優れている」と「神童」とか「天才」と呼ばれますが、私はそう思いません。その人にお会いしたことがありませんが、生物としての「人間」に大きな違いがあるとは思えません。先述した通り「個性」はあります。小さく生まれる子供もいます。だからと言って、生後3日で言葉を話す子供はいないはずです。2歳で楽器の音を出すことは天才ではないことは誰でもわかります。ところが5歳で「○○作曲のコンチェルトを演奏」と言うと突然、神童扱いされます。本人だけの意志と力でそれができるわけがありません。親が「やらせた」だけです。
 ご存じの方も多いと思いますが、ひらがなを読めない幼児に先に「漢字」の読み方を教えると、教えられたすべての子供が漢字を見ただけで読み方を答えます。「図形」と「音」を覚えただけなのに。それを「天才」と言うでしょうか?
私はこの世に「天才」は未だかつて一人もいなかったし、これからも生まれないと思っています。当然、演奏家にしても同じです。どんなに神のような技術を持っていると言われる演奏家でも天才ではなく、単に努力した結果だと確信しています。

 では、努力はみんな同じでしょうか?「精一杯、努力した」と言っても人によって内容も時間も違うのです。同じものがあるとすれば、1日が24時間であり1時間が60分であり…という時間だけです。あとはすべて、人によって違うのが努力です。
 どんなに練習してもじょうずになれない。と誰もが思うものです。
それは練習の内容と時間に問題があるのであって、自分の思う「一生懸命」のどこかに間違いがあるのです。
 生徒さんに同じことを、同じ言葉で同じようにレッスンで教えても、すべての生徒さんの反応が違い、出来るようになるレベルも時間も違うのが当たり前です。その差を「素質」とか「才能」で片づけるのは逃げの気持ちだと思います。
 なぜなら、出来るようになった実感があれば「素質が足りない」とは思わないからです。他人より時間がかかったとしても、それは才能がないのではなく、自分の練習時間・内容が、他の人より少なく・効率が悪かったことが原因なのです。
 自分の練習を分析する技術を身に着けるために、本当に長い時間がかかります。常に誰かに練習を聴いてもらい、修正してもらい、自分で考えなくても練習できる環境の大人は、恐らくいないでしょう。子供の場合、多くは親がそばで口を出します。「音程が悪い」「リズム、間違ってない?」「弓が曲がってる」「姿勢が悪いよ」などなど。私の母も、私が中学3年生になるまで、自分(母親)の見える場所で練習させました。これが一番嫌でした(笑)が、それが当たり前だと思っていました。
 高校生になった私が、自室で自分の演奏に大声で「へたくそ!」「音程が悪いんだよ!」と独り言を言いながら練習するようになって、時々ドアの隙間から心配そうに部屋の中をのぞいていました(爆笑)相当、心配だったようです。「ついに…」と思ったのかもしれません。

 他人と自分の演奏技術を比較するのは、技術の向上と新しい発見のために必要なことです。他人の演奏は客観的に聴くことができます。小さなミスにも気づけます。多くの場合「自分よりじょうず」と思います。それで自信を無くすのではなく、目標にすればよいのです。その人と同じ演奏は誰にもできません。その人自身も、その時の演奏と完全に同じ演奏は出来ません。CDやYoutubeを繰り返し聴いて、自分との違いを見つけることも大切だ思います。
音を聴けば予備使い、ボウイングのほとんどすべてを聞き分けることができるようになります。音だけで指?一つの音だけでは、開放弦以外の指を言い当てることは不可能です。ただ、前後の音色と開放弦(弦の最低音)より低い音は、低い弦で演奏している(G線は別)ことを判別できますから、演奏している弦を判別することができます。スライド(短いグリッサンド)と前後の音を考えると、弦と指番号がわかるのです。

 下の動画は、パデレフスキー作曲クラスラー編曲のメロディーを、パールマン大先生が演奏されたCD(音源)から指使いを模索して書き込んだものです。
私の聴いた演奏と若干違うかも知れませんが、ご覧ください。

 動画と素質、才能は関係ありませんが「出来ない」と思い込まず、時間をかけて考えることも大切だと思います。
自分の個性は自分が一番わかりません。それでも、他の人とは違う一人の人として、親にもらった身体とDNA、さらに自分にしかない「考え方」こそが素質です。それを磨き、作られるものが才能です。才能は生まれつきのものではないのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

どこが好きなの?

 上の動画は、私がクラシック音楽の中で好きな部分を切り出した動画です。
もちろん、ほんの一部です。クラシック以外の音楽も入れたらきりがないかもしれません。「序列」はつけたくありません。ただ、好きな音楽なのです。

 自分で見ていて、なんでこんなに暗い音楽が好きなんだろう?と思わず笑ってしまいます。短調好きは今に始まったことではなさそうです。なぜなんだろう?

 人によって好きな音楽が違うのは当たり前です。その音楽のどこが?好きなのかを言語化することを「野暮」と言ってしまうこともできますが、音楽を演奏する人なら、その技術も必要だと思うのです。それを「音楽理論」という知識と技術を使って解き明かすことも、音楽家には必要なことです。
料理を職業にする人が、材料や調味料、レシピにこだわるのと似ています。家庭料理と違うのは、料理を再現できる知識と技術を持っていることです。

 ソムリエがワインの味を表現し、産地や銘柄を言い当てられるのも経験と知識があるからこそです。音楽を表現する「言葉」が私たちには必要なのです。

 和音の種類の中で、私は「減七」の和音が好きなようです。
また「サスペンド4」からの解決も好きです。借用和音や意外性のある転調も好きです。どこかひねくれた性格の用です。つまりは、普通の1度→4度→5度→1度の和声進行よりも、2度7や偽終始、半終始が好き。全体的に「短三和音」が好きなようです。

 音の厚みに関して言うと、必ずしも共通点ばかりではないようです。
ブルッフのヴァイオリン協奏曲中間部分は、明らかに弦楽器の厚い=熱い響きと旋律がたまらなく好きです。チャイコフスキーのくるみ割り人形、花のワルツでチェロとヴィオラがユニゾンで歌い上げるメロディーも熱くなります。
 一方で、フォーレのレクイエムは、研ぎ澄まされ、磨き上げられた純粋な音に背中がぞくぞくします。アンドレアス・ショルのカウンターテノールの澄み切った声と合唱とオルガン、ハープの絶妙なバランスも聴いていて涙が流れます。

 ここまで書いていると、実は「楽曲の一部」に好きな部分があることに気が付きます。一曲全部を通して、作品として=全体として好きな音楽…ないこともないですが、私の場合はすごく少ない気がします。むしろ、曲の一部分に魅力を感じることがほとんどです。子供っぽいですね(笑)
 コース料理は、料理を出す順序と内容で、前菜から最後のデザートまでを楽しめるかどうかが決まりますよね?
音楽で言うなら、1楽章から最終楽章までの内容と演奏が、聴いている人にとって飽きの来ない、かといっておなか一杯で苦しくもならない内容が求められると思います。得てして演奏者は自分の演奏を誰もが聴き続けて苦痛に感じないと思いがちです。バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ全曲演奏会に一度だけ伺いました。正直に言って、「これ、修行?」と感じました。演奏は素晴らしい!のですが、長すぎる。椅子が固い。背中が痛くなる。それでも演奏は続く。演奏者は気持ちよさそうに最後まで弾き続ける。さすがにアンコールはなかったのですが、疲労感しか残りませんでした。
 ワンプレートの料理でも、美味しい料理はあります。お弁当一つに、すべてのおいしさの要素が詰まっているものもあります。コース料理だけが高級料理ではないと思うのです。

 クラシック音楽のネガティブイメージは、
・暗い・長い・わからない
もちろん、間違った先入観でもあります。明るい曲、短い曲、わかりやすい曲もあります。ポピュラー音楽と比較しても、単純な違いではありません。
演奏形態にしても、有名なゲーム音楽「ドラクエ」はれっきとしたオーケストラの演奏です。昔、ドラクエのCDを子供が聴いているのを見た親が「やっと我が子もクラシック音楽に目覚めたのか!」とぬか喜びした笑い話があります。
 先入観がクラシックコンサートの来場者を増やせない理由でもあります。
クラシックの演奏家の多くが、ポピュラーのライブを知りません。
ライブで予め演奏曲が発表されていることは「稀」です。会場で始まる「好きな曲」にオーディエンスが一斉に盛り上がります。ライブでのMC=トークでアーティストの「素顔」を感じられるのもファンにはたまらない魅力なのです。
演出も含めて、来場者に楽しんでもらおうとする「おもてなし」を感じます。
クラシックの演奏会場で「おもてなし」って、ほとんどないですよね?
「いらっしゃいませー」とプログラムを渡され、帰りは見送りもない。
来場者への感謝と、自分の演奏への反応を知ることが不可欠だと思うのです。
まるで「きかせてやる」「黙って聴け」「演奏が気に入らないなら帰れ」と言わんばかりのクラシックコンサート。残念ながら、ないとは言えませんよね。
 自分の演奏をを好きになってもらう以前に、聴いてもらう人への配慮を忘れないことです。演奏するのも聴くのも「人間」なのですから。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

技術と知識

 動画はアイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」をヴィオラとピアノで演奏したものです。クライスラーが編曲したジャジーなピアノがピアニスト泣かせ?
後半「すこまで上がらなくても良くない?」という音域まで書いたクライスラー大先生。ごめんなさい。

 さて、今回のテーマは私たち演奏家・指導者にも、これから演奏家を目指す人にも共通する問題です。知識と言うとなんとなく堅いイメージで、技術と聞くと運動をイメージしがちです。実際はどうでしょうか?
 演奏に必要なのは、言うまでもなく「考えること」と「動くこと」です。
私たちは健康な時に、体が自由に動かせることを意識していません。
ケガや病気で、体を自由に動かせなくなった時、今までのように運動できなくなった時に初めて、運動できることの有難さを知ります。
 運動する時に「脳」からの信号が出ていることが、医学の進歩でわかりました。その信号とは別に、体の動きを意識する=考えることが演奏に必要な運動です。

 音楽=曲についても色々考えます。
楽譜に書かれている音符や休符だけではなく、記号や標語を理解することも、その一つです。音楽の句読点=フレーズを考えることもあります。旋律から音楽の「調性」を考えることもあります。和声についても、ここはどんな響きの和声なのかを考えます。
 単に感じるだけではなく、なぜ?明るく感じるのか?暗く重たく感じるのか?や、どうしてここに装飾音符があるのか?なども、やはり考えます。
以前にも書きましたが、指導者が生徒に「そこは、こう演奏しなさい」と教えるのは簡単ですが、生徒自身が自分で考えて演奏する必要性を感じなくなります。
もちろん、その後成長し自分で考えられるようになるまでの間、指導者が「型に入れる」こともある程度は必要です。指使い、ボウイングなどを指示通りに演奏することから始まり、自分で考えて決められるようになるまで「経験」が必要です。出来るだけ生徒自身が「考える」ことが大切だと思います。

 音楽を演奏するために、知識と運動能力が必要なのは間違いありません。
小・中学校の授業科目で言うと、国語・算数・理科・歴史・地理・体育が「音楽」の授業と深く関わっています。
フレーズやイメージ、ストーリー性は国語。
弓の速さ、圧力、音符や休符の長さ、テンポ、音色などは算数と理科。
作曲された国や時代、タイトルの意味などは歴史と地理。
身体の各部位の名前、瞬発力、バランス、姿勢などは体育。
もちろん、絵画や造形を考えるなら美術や図工も音楽に関わります。
それらの「知識」を理論として伝える能力が、指導者に求められると思います。
「頭でっかち」にするのではなく、「演奏を科学する」知性と理性が必要だと思います。こうしてブログを書くことも、私自身が演奏と指導を「考える」ための材料なのです。
 最後までお読みいただき,ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

惹きつける音楽の謎

 動画は二つとも私の大好きな演奏家「中森明菜」と「ロストロポーヴィチ」の映像です。あまりに違いすぎますか?
 好きな音楽は人によって違って当たり前です。さらに私のように、好きな音楽に大きな違いがあるのも普通の事だと思います。人が「惹きつけられる音楽」って、その人にとって何が他の音楽と違うのでしょうか?

 音楽を演奏する人と、演奏した音楽は別のものです。
音楽を聴くだけ=音楽だけを聴く時に、演奏する人間を知らなくても音楽は音楽です。
一方で、音楽ではなく「演奏する人」が好きな場合、嫌いな場合があります。
その両方が必ずしも一致しているとは限りません。
演奏者のわからない演奏でも、聴いていて惹きつけられる音楽もあります。
演奏に興味を持つと、演奏している人に興味を持つ場合があります。
生徒さんの中でも、聴いているCDの演奏者を知らないという人もたくさんいます。それはそれで間違ってはいません。
 美味しい食べ物であれば、誰がどうやって作っていても美味しいのと同じです。

 自分が演奏する音楽で、どんな音楽・演奏が、どんな人に喜んでもらえるだろう?と考えることは、演奏者として必要なことだと思います。
 たとえアマチュアの演奏会であっても、自分だけが楽しむ演奏より、聴いてくれる人「も」喜んでくれる音楽の方が、より楽しいはずです。

 人を惹きつける「魅力的な音楽」には不思議な共通点があります。
私の場合「演奏者のこだわりを感じる演奏」が好きです。単にうまい!だけの演奏より、初めて聴いた時にでも感じる「熱さ」が好きです。演奏している姿を見なくても感じます。自分が演奏できない楽器の演奏や歌でも感じます。
 ヴァイオリンの場合には、どうしても技術的な「こだわり」に耳が行ってしまいます。音へのこだわりがあるヴァイオリニストの演奏に魅力を感じます。

 もうひとつの共通点は「演奏の幅の広さ」です。
中森明菜さんの場合、音楽によって歌い方が大きく変わります。
ロストロポーヴィチの場合、音色のバリエーションに感動します。
1曲演奏する中で、音色が変わらないのはロボット音声を聴いているのと同じ「不自然さ」を感じます。コンピュータで作られた音楽「ボカロ」が生理的に受け入れられないのは、きっとこれが原因です。

 音楽を演奏するうえでボキャブラリー=引き出しを増やすことが、魅力的な演奏につながると考えています。
音量・音色・動きを変化させる「技術」と「感性」が必要です。
技術と感性は、人間の「行動・言動」と「思考」の関係と同じだと思っています。どちらか一方だけを重要視するのは間違っています。
泥棒をする人は、泥棒を否定する考えの人ではないはずです。
行動と思考は、その人の中で一致しているはずです。
演奏技術と感性は、演奏者の思考がなければただの「運動」でしかありません。
考えたものを具現化する技術がなければ、単なる理想論で終わります。

 技術を身に着けるためには、自分の理想と現実を考える感性が必要です。
考えた理想の音楽を演奏のために、技術を身に着ける練習が必要です。
その両面が揃っている「演奏家と演奏」に私は「こだわり」を感じています。
言い換えれば、考えないで演奏しているように感じる演奏が好きではありません。考えるだけの評論家が嫌いです。
 自分の演奏が一体どれだけの人を惹きつけられるのか?
演奏会の来場者数?拍手の大きさ?お褒めのお言葉?Youtubeの再生数?
どれも違う気がします。鏡に映した自分の姿しか見えないのと似ています。
自分の演奏は客席で自分が聴けないのです。
 少なくとも、自分の演奏に対して「謙虚さ」と「誇り」を持ちながら、常に自分が好きになれる演奏を目指すことだけは必要だと思います。
「みんなが好きな音楽も演奏もない」のです。まずは自分が自分を好きになれるように、努力することですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介



クラシック音楽で生活できる人とは?

 映像は街の中で突然、プロのオーケストラメンバーが第九を演奏したら?と言う楽しい映像です。「プロ音楽家」と言う言葉を「職業音楽家」と言う概念に置き換えて書いていきます。
 様々職業がある日本で、音楽を演奏して=職業として、生活している人も数多くいます。ただ、その数を正確に把握している統計がありません。なぜなら、クラシック音楽という定義があいまいであり、どんな業種までを音楽家として考えるかによって統計が変わるからです。日本○○協会所属の人数だけではないことも事実です。演奏のほかにレッスンで収入を得て生活している人も多くいます。クラシック音楽以外の音楽「も」演奏する演奏家もいます。自宅でひっそりとレッスンをしてお小遣いを稼いでいる人もいます。
 生徒さんにクラシック音楽を教える中で「音楽家を目指す」人に出会った時に、戸惑うのは私だけでしょうか?音楽大学で教鞭をとる先生の中にも、似たような気持ちになる人もいるのではないでしょうか?
 現代の日本で、クラシック音楽を学び「プロ」になって生活していくことを夢見る人たちに、指導する私たちはどのように?対応するべきなのでしょうか。
あるいは、どうしていくことが必要なのでしょうか。

 時代と共 に、クラシック音楽の需要は変わります。演奏を楽しむ方法も変わります。これからも変わるでしょう。私たち60代の人間が学んだ期間の中で、どんな変化があって今は、どうでしょうか。これからを予測できるでしょうか?
 音楽大学を卒業すれば、プロの演奏家になれる時代もあったかもしれません。
音楽大学を卒業していなくても、プロになれるのは今も昔も変わらないかも知れません。プロのクラシック演奏家として、生活できる「音大卒業生」の割合は、年々下がっているように感じます。これからも下がるとしか思えません。
それでも日本中に「音楽大学」や「音楽高校」「音楽専門学校」があふれています。こんなに必要なんだろうか?と思う数です。むしろ、どうやって学校経営を維持しているのか?不思議に感じます。少子化の中、追い打ちをかけるような長い不況とコロナ。高い学費を払えない家庭環境も増えているはずです。

私亜h クラシック以外の音楽に少しだけ目を向けてみます。
いわゆる「大衆音楽」と言われる世界も、常に変化しています。
アイドル全盛だった時代の「歌謡曲」と、現代の「J-POP」を考えると、「売り方」が大きく変わりました。テレビに出演することで知名度を上げていた時代から、ネット配信で知名度を上げる時代になりました。そんな変化の中でも、プロダクションは今もあります。路上ライブはコロナの影響をまともに受けた業界です。そんな変化がありますが、クラシック音楽を学ぼうとする人との違いは、今も昔も変わらないように思います。
 ポピュラー音楽を愛好する人数と、クラシック音楽を愛好する人数の「比較」を考えても、私たちが若かった時代と今と、大きな違いはないように感じます。ピアノを習う人口が激減し、音楽教室が次々に閉鎖されている現代でも、趣味でクラシック演奏を楽しむ人は少なからずいます。
一時的な「バンドブーム」は終わりましたが、アコースティックギターを楽しむ人、ストリートピアノでポップスを演奏する人も多くいます。
 一般にポピュラー音楽を「学ぶ」人は少ないのが実状です。
一方クラシック音楽は?なぜか「学ぶ」イメージが付きまといますよね。
特にプロの場合に顕著に違いがあります。つまり、世間的な感覚で言えば、
「クラシック音楽は習ってプロになれる」で「ポピュラー音楽は独学でもプロになれる」なのかも知れません。本当にそうでしょうか?私は違うように思います。

 ショパンコンクールで入賞した反田恭平さんが「株式会社」としてプロのオーケストラを立ち上げました。2030年を目標に新たな「学び舎」も計画しているようです。エネルギッシュな活動に敬意を表します。プロの演奏家が「働く」環境として、演奏者を「社員」とする発想はとても斬新なものです。が…
クラシック音楽を「学んできた」若者に、企業の一員として労働する「社員」という感覚が持てるのか?という疑問があります。要するに「演奏するだけ」で「給料」がもらえると言う意味で言えば、プロのオーケストラと何ら変わらないことになります。本来、企業なり学校なりの「組織」で働く場合には、勤務の内容と能力、年齢によって「俸給」が変わります。それをオーケストラに当てはめると、演奏以外の業務と演奏の「対価」に差をつけるのか?つかないのかという技術的な問題があります。また、演奏技術によって俸給を変えるのか?年齢せいなのか?という問題もあります。株式会社の場合、株価によって企業の業績が変わります。オーケストラのメンバーが「株価」の対象になることにあります。それってどう思われるのでしょうか?演奏会の収入と広告収入だけで運営する財団と違う点を音楽家が理解できるとも思えません。

 いずれにしても、ひとつのプロオーケストラで雇用できる人数は、たかだか数十人です。はじめは良くても、毎年雇用される人数は数人になります。いくらプロのオーケストラを作っても、供給が多すぎるのです。音大卒業生が多すぎるのです。それをわかっていて「音大を目指せ」って指導する側で考えれば、本人に責任をすべて負わせて「あとは知らん」ですよね。もちろん、本人の意思が第一です。ただ、現実問題として「需要=雇用」を増やす方策を考えることが、まず必要だと思います。オーケストラを作るのではなく、プロの演奏家と指導者を「求められる」社会を作る努力をすることを、いったい誰がするのでしょうか?
音大同士がお互いを「潰しあう」のではなく、一緒に社会を変えていく「知恵を出し合う」関係にならなければ、クラシック音楽を教育する環境は、ますます狭くなると危惧しています。 
 偉そうに書いてすみません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

年齢と演奏

 映像は五嶋みどりさんのデビュー当時と今から数年前のものです。
「天才少女」は現在、なんと?評すれば良いのでしょうね。
今も幼いころも素晴らしいい演奏課であることは変わりません。

こちらは、イツァーク・パールマン。現在御年76歳の世界的ヴァイオリニストです。私が中学生の頃に、東京上の文化会館で初めて演奏を聴き、出待ちをしてサインと握手をしていただいた「憧れ」の演奏家。今、思えば当時まだ20代だったことになります。

 人間の理性=考える力は、13~14歳で成人と同じ能力を持つそうです。
一方肉体は、20~22歳頃がピークだと言われています。人間の細胞が再生できる限界があって、120歳までが生存できる限界だと言われています。日本人の平均寿命は年々長くなり、2019年現在84.36歳!アメリカが78.79歳だそうです。
そんな人類ですが、もちろん人によって一生の時間は違います。健康に活動できる年数も違います。一概に平均だけでは、人の一生を語れないのは当たり前です。

 演奏家として活動できる期間は、人によって大きな差があります。
たとえば2歳から楽器を演奏し始めた人と、20歳から始めた人を比較すれば、それぞれが21歳の時点で考えた時、方や19年間、方や1年間。その演奏技術に違いがあって当たり前です。しかし、その二人が40歳になった時点で考えるとどうでしょうか?もちろん2倍近い期間の違いがあります。ただ、当初は19倍だった差が2倍にに減ったことになります。それだけではありません。良く「小さい頃から楽始めないと上手になれない」という間違った説を唱える人がいます。絶対音感を身に着けるための年齢は、確かに言葉を覚える時期から始めることが絶対に有利だとは思います。しかしそれ以外の「能力」については、始める年齢の問題は大きな差ではないと思います。

 10歳に満たない子供が、大人と同じような演奏をするのを見かけます。
とても不自然に感じます。まず、考える力が成人と比較して、まだ未成熟な年齢です。楽譜を読む能力、分析する能力に差があるのが当たり前です。
記憶する力は成人と変わらないかも知れません。モーツァルトの「伝説」のように音楽を聴いて覚える力はこどもにもあります。音楽を聴いて感じる感情を、具現化する能力が大人と同じであるはずがないと思うのです。景色を見て感想文を書いたとしたら、7歳の子供が大人と同じような文章を書くでしょうか?
 運動能力はどうでしょうか?
筋力は20歳頃がピークになりますが、楽器の演奏に必要な筋力は恐らく10歳に満たない子供でも「演奏可能」だと思います。特にピアノを演奏する幼児を見ると、大人と同じ大きさ、重さの鍵盤を演奏する力に「近い」力に驚きます。
身体の大きさに合わせた「分数楽器」があるのは、ヴァイオリンとチェロです。それ以外の楽器は子供用の楽器は普通、使用されません。分数楽器の音量はフルサイズの楽器より小さい音になります。だから、コンクールなどで半ば無理やり、1サイズ大きい楽器を演奏する子供を見かけます。それって、必要なことでしょうか?間違った指導だと私は思います。
 幼児が大人のような演奏する「裏」には、大人の指導者が大人の「真似」をさせている姿が透けて見えます。子供が自分で考えた音楽ではなく、指導者が考えた音楽を「そのまま」演奏させているとしか思えません。
子供ならではの感受性があります。大人とは違います。当たり前です。子供が感想文で、音難が書いたような言葉遣い、表現をしたらすぐに「親が書いたな」とばれますよね?それを平然と音楽で子供にやらせる世界に、違和感を感じます。

 20歳を過ぎた私たち(過ぎたと言えるのか?w)は、どうでしょうか?
細胞は生まれ変わります。現実に80代になっても世界の山を登る登山家や、筋骨隆々な高齢者ボディビルダーもおられます。何よりも、演奏に必要な筋力は、10歳に満たない子供の筋力でも足りることを考えれば、60代の人間が「もうだめだ」と言うのは、まさに自虐です。パールマンしかり、ロストロポーヴィチしかり。演奏に必要な技術も、考える力もまだまだ現役だと思います。
さらに言えば「経験」は年齢を重ねた分だけ大きくなります。
演奏を聴く人の年齢に制限はありません。その人たちが感じることは、その人の経験から得た「記憶」に基づいています。20代より40代、60代、70代の方が人生の経験は豊かなのです。自分が毎日経験する小さな出来事が、すべて音楽に活かされているはずなのです。経験は人に伝えても「言葉」にしかなりません。ただ、音楽を演奏する時に感じる「イメージ」は一つでも多い方が良いはずです。
聴く人に伝わる演奏者の「人間性」があります。子供の演奏に人間性を感じるとしたら「かわいい」「がんばって練習したんだな」しかないはずです。子供の演奏が大人の感情を揺さぶったら、恐ろしいですよね?

 最後に、楽器の演奏に「もうだめだ」と言う考えは捨てるべきだと思うのです。聴力の低下で自分の音が正確なのか?判断が鈍ったとしても、演奏は出来るはずです。眼が見えなくなっても演奏は出来ます。私はそう信じています。
大人から楽器を演奏し始めたから「上手になれない」と決めつけるのは間違いです。たとえ、余命を宣告されたとしても本当に楽器を演奏することが好きなら、最後まで楽器を演奏することが楽しいはずなのです。
 子供に大人の真似をした演奏はさせて欲しくありません。曲がどんなものであっても、子供が演奏したいようにひかせてあげれば良いと思うのです。「そんな演奏では○○音楽学校に入学できませんよ!」とか「△△コンクールで上位に入りたいなら!」という「えさ」と「脅し」で子供を釣るのはやめて欲しいのです。親が最初に釣られます。そして子供をけしかけます。「子供の将来のために」と言うのは、子供の人権を侵害している事だと気づくべきです。子供にこそ、子供の時にしかできない経験をさせてあげることの方が、演奏家として活動する年齢になったとき、そして60代になって師匠も親もいなくなった時に感謝される大切な宝物だと思います。「ビジュアル系ヴァイオリニスト」なら演奏能力には関係ありません。顔とスタイルが良ければ「一時的」にファンが増えます。もっと若くてかわいい・かっこいい人が現れたら「さようなら」ですが。それを「演奏家」と呼ぶのは彼らに失礼です。「芸能人」と呼んであげるべきです。それを望んで仕事をしておられるのですから。彼ら・彼女らの演奏技術がどうのこうの、言う方が無粋だとも思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

人格と権威の違い

 映像は斎藤秀雄「先生」の動画です。
あえて「先生」とさせて頂いたのは、私自身が直接お会いしたことがなく、指導を受けたこともない偉大な音楽家であり、自分が学んだ「桐朋」という音楽学校の創設者でもある人物なので、敬意を込めて「先生」とお書きしました。
 直接指導を受けていない私が語れることは、学校と言う勉強の場で学びそこから巣立ち、自らすそ野で音楽を広げる活動の一端を担う仕事をする立場からの感謝と自戒の内容です。

 音楽家としての人格は、後世に残したもので評価されると思います。
当人の存命中に評価される言葉の中には、よいしょもあれば嫉妬もあります。
生きている間にどれだけの音楽を演奏したか?が演奏家の評価だとすれば、それはそれで受け入れます。ただ、音楽はその場で消える芸術です。聴いた人だけに伝わるのが音楽です。どんなに世界中で演奏したとしても、実際に聞くことのできる人の数は限られています。
 音楽が伝承の芸術であることは、以前のブログでも書きました。自分だけの力で音楽を演奏している勘違い。音楽を伝承するという役割が、音楽家だと思います。

 一方で「権威」は、人格とは別のものです。
1 他の者を服従させる威力。
2 ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー。
 ご存じの方も多いと思いますが、山崎豊子さんの原作「白い巨塔」という作品があります。医師に求められるものとは?という壮大なテーマを描いた長編ドラマになっています。
 権威を「名誉」と思う人がいます。他人から褒められ、崇められ、多くの人が自分の周りに集まることが「快感」になり、それを「権威」と思うのでしょう。
現代のクラシック音楽界で「権威」を持つ人、正確に言えば「権威者と呼ばれている人」が何人か「いらっしゃい」ます。敬語を使ったのは、多少の嫌味です。
私は権威と言うものが嫌いな人間です。確かに、狭い世界~業界の中で特出した能力や技術を持った人はいるものです。その人の努力と労力には心から敬意を持っています。それは、私自身の「気持ち」でしかなく、本人にも他人にも伝える必要のないことだと思います。「尊敬する」のは個人の感情なのです。
 マスコミや「お取り巻き」が、よいしょする人=される人に、まともな人がいないように思うのは、天邪鬼かもしれません。やっかみもあります。
 正当な評価は、後世にされるものだと思っています。権威が「お金」と無関係ではないことも事実です。学校を立ち上げるのに「お金」がかかります。それを成し遂げた斎藤秀雄という「権威者」がいなければ、私たち卒業生は今の生活を出来なかったのです。まさに形として残された「学校」が人を育て、音楽を伝承する後継者を輩出したのです。

 音楽家が名誉を求めるのか?後世に形として残せる学校や組織を作るお金を集めるべきなのか?名誉とお金は、リンクするものでしょうか?
お金は生きている間に人からもらうものです。名誉は生きていなくても受けられる形のない「評価」です。権威者として、他の音楽を従えることは伝承にはなりません。人格者として尊敬される人とは違うのです。
 敢えて名前を出すことは控えますが、先輩音楽家や友人の中には、前述の「権威者」として君臨する人もいます。個人的に存じ上げている人もいます。
その人たちが次世代の音楽家たちに何を残すのでしょうか?
先人の作った「学校」でふんぞり返る「先生」を気取る人。
自分の恩師を「看板」に使う人。
自分のお気に入りの音楽家だけを「侍らせる=はべらせる」人。
私を含め、60代を過ぎた音楽家が出来ることは、若い音楽家が出来ることとは、量も内容も違います。遅きに失したとも思いますが、若い間に出来ることを「伝える」ことができるのは、私たち世代ではないでしょうか?そして、若い世代がさらに次世代の音楽家に延焼する「環境」を残すことも私たちの役割ではないでしょうかか?演奏家として生涯を終える人も尊敬しますが、それだけでは、音楽は伝承されません。誰かが権威や名誉にとらわれず、「学ぶ場」を作ることが必要だと信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の幅と演奏能力

 上の動画は「ステファン・グラッペリ」さんの素敵なJAZZヴァイオリン演奏です。聴いていて、体に降り注ぐようなヴァイオリンの軽やかで、甘い音色が大好きです。
 今回のテーマである「音楽の幅」は、音楽のジャンルだけではなく、演奏する楽器の編成、演奏方法などの「種類」でもあります。
 ヴァイオリンを使って演奏する音楽にも、様々な音楽があります。
クラシック音楽と呼ばれる音楽でも「オーケストラ」「弦楽アンサンブル」「ピアノとの二重奏」「無伴奏」他にも色々な演奏形態があります。
音楽の種類にしても、バロック時代の音楽でのヴァイオリン、ベートーヴェンやブラームスの時代の音楽、現代作曲家の作品でもヴァイオリンは使用されます。
 オリジナル作品がオーケストラのための音楽でも、ピアノとヴァイオリンで演奏できるように「アレンジ」された音楽もあります。
動画のようなヴァイオリン演奏も、その一つです。
私は音楽の学校で「クラシック音楽のヴァイオリン演奏」を学びました。
だからと言って、クラシックと呼ばれる音楽の「すべて」を学んだわけでも演奏できるわけでもありません。学校で学べるのはほんの数年間。その間に学べる音楽の幅は、ごく限られた範囲の音楽です。

 時代と共に音楽の幅は広がります。音楽の「基礎」にあたる和声や形式は変わっていない面もあります。一番大きく変化しているのが、人間の手によらない「機会による音楽演奏」です。もはや「楽器」と「電子機器」の差が混然としてしまいました。コンピューターにデータを入力すれば、どんな音色の音も、どんな高さの音も、どんんなに短い音でも、間違えずに何度でも演奏するのが「電子楽器」です。それを「楽器ではない」と言い切るのであれば、ピアノと言う楽器でさえ、ピアノが出来る以前の人たちからすれば「それは楽器ではない」と言われるのと同じことです。エレクトーンという楽器はヤマハの作る「電子楽器」です。突き詰めればコンピューターも楽器なのです。

 ヴァイオリンを人間が演奏する楽器と限定してみます。
ヴァイオリンの音は人間が演奏する音だと定義してみます。
ヴァイオリンで演奏できる音楽に、向き・不向きがあると思います。
音楽の要素の中で「旋律」だけを演奏する場合、ほとんどの曲はヴァイオリンで演奏できます。演奏できても、ヴァイオリンの持つ特性を活かせない曲。

動画での演奏内容について、コメントするつもりはありません。
生徒さんが「次にやってみたい曲」として教えてくれた動画です。
その生徒さんが小学校の運動会で踊った曲らしく、「知っている曲をヴァイオリンで弾いている動画を見つけたから」という理由です。
 もし、クラシック音楽だけを教える先生であれば当然「却下」するケースです。「もっと他の曲を練習しなさい」と言うのでしょうね。
 趣味でヴァイオリンを演奏する人にとって、あるいはクラシック音楽になじみのない人にとって、この曲がヴァイオリンの為に作曲された音楽ではないと、気付くでしょうか?最初の動画、グラッペリの演奏はクラシック音楽ではありませんが、演奏技術も内容も素敵だと私は思います。
 実際問題、この「群青」なる曲をヴァイオリンで演奏して本人が楽しいと感じるのであれば、、思うように演奏できるようにレッスンしてあげるのが私の仕事です。クラシックではないから、ヴァイオリンのための曲ではないからという理由で「ダメ」というのは理由としてあまりに説得力に欠けると思います。

この動画は、メリーオーケストラ定期演奏会に、教員時代に顧問をしていた軽音楽同好会のメンバー「JIRO」くんがギターでゲスト出演しくれた時の演奏です。
ドラムセットとエレキギターの「サウンド」と弦楽器の音色。会場で聴くと感動モノでした。

こちらは「ガブリエルのオーボエ」という映画のテーマ曲です。
当然、オーボエで演奏するために作曲された音楽です。
それをヴィオラで演奏したのが上の動画です。下の動画はメリーオーケストラ定期演奏会にオーボエ奏者「沖響子」さんをお招きしての演奏。
メリーオーケストラの演奏技術には目をつぶってください(笑)
作曲科の「意図」した音楽とは違うかもしれませんが、初めて聴いた人にとって違和感のない演奏なのか、なんとなく変な感じがする演奏なのか?演奏技術もさることながら、旋律の「向き・不向き」はあるのかも知れません。

 最後に、演奏者がコンサートで、自分の好きな音楽「だけ」演奏する場合、お客様がそのコンサートで満足できるのか?ということも考慮するべきです。
予め当日の演奏曲をすべて、あるいは大部分公開して開催するのであれば、そのコンサートに来る人は「その曲」を楽しみに来る人でしょう。それが出来るのは「すでに誰かが演奏した音楽」だからです。もし、新作の音楽で初演だとしたら?プログラムを公開しても誰も知らない音楽ですよね?
 プログラムを公開していなくても、お客様が「どんな曲を聴けるのかな?」と期待しながら会場に向かうのも楽しいと思うのです。期待を裏切られることもあるかも知れません。でも、初めて見る映画のストーリーを知っていたら、面白さは半減しますよね(笑)
 一人でも多くのお客様が、一曲でも楽しんでもらえるプログラム=音楽の幅で、私はコンサートを企画しています。クラシック音楽が好きな人もいれば、ジャズが好きな人もいます。映画音楽が好きな人もいます。それらを、リサイタルならヴァイオリンとピアノ、もしくはヴィオラとピアノで演奏します。オーケストラでも同じです。
 「お子様ランチ」のようなプログラムかもしれません。ただ、美味しいお子様ランチは、懐石料理と同じだと思います。少しずつ、好きなものを聴ける=食べられるのも楽しいと思えるからです。
音楽に幅がある以上、演奏する私たちもその幅を知ることが必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指導者と演奏家

 動画はファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした曲です。
今回のテーマは、一般の人から見える指導者とプロの演奏家との共通点・相違点と、実際に両者を経験した立場での両面から考えてみたいと思います。

 楽器の演奏技術を教えて対価を受け取る人を指導者とします。
楽器を人前で演奏し対価を受け取る人を「演奏家」としてみます。
もっと広い定義も可能ですが、音楽の専門家でない人の目線で今回の定義を決めています。
 ・指導者がいなければ演奏家は生まれないのか?
多くの場合は指導者によって演奏家が育てられますが、必ずしも誰かから指導を受けなくても演奏家になることは可能です。
 ・指導者はプロの演奏家を育てることが使命なのか?
これも結論から言えば「そうとは限らない」と思います。
音楽大学に通う学生でさえ、プロの演奏家を目指していない人がいるのは事実です。ましてや、専門家を目出していないアマチュア演奏家にこそ、指導者が必要に思っています。
 ・優れた演奏家は優れた指導者か?
応えは「いいえ」だと思います。もちろん、優れた演奏家であり優れた指導者もたくさんいます。ですがこれも、イコールの関係ではありません。そもそも、人に教えることが好きではない演奏家も多くいます。実際、教える時間がない演奏家もいます。
 ・指導者は演奏家でなくても良いのか?
演奏のできない人が演奏を指導するのは「無理」です。
今回は、演奏家の定義を「対価をもらって演奏する演奏家」としていますので、演奏家としての演奏技術があれば、指導することは可能です。
演奏技術の低い指導者もいます。自戒を込めて書きますが、指導者自身が自らの演奏技術を高める意欲、努力をしていない人であったり、「○○音大卒業」とか「△△音楽祭に参加」などの肩書にうぬぼれる指導者が、生徒を教えられるとは思いません。
 ・指導者は演奏家より「下」なのか?
おおざっぱな言い方をしましたが、様々な意味があります。
たとえば「年収」「社会的信頼」だけで比較することもできます。
また音楽家としての「プライド」は本人が考えるもので違ってきます。
 日本において、演奏家として生計を立てられる人数は、極わずかです。
毎年多くの「演奏家の卵」が音楽大学や専門の学校から誕生しています。その数を分母として考えると、演奏することで生活できる人は、数パーセントにも満たない数です。それほどに、需要と供給のバランスが悪く供給過多なのです。
プロの演奏家の一つとして「プロオーケストラ」の「正団員=社員」がいます。
プロのオーケストラで演奏している人の中で、正団員ではない「短期アルバイト=エキストラ」がたくさんいます。その人たちもプロの演奏家ですが「雇用」の形態が違います。
正団員としての「給与」だけで生活できる人は、日本ではごく一部です。
指導者にも色々なケースがあります。自宅で教えている人、音楽教室に雇われて教える人、音楽高校や音楽大学で演奏を教えている人などです。
 こちらの場合も比較される内容は様々です。ちなみに、楽器演奏を指導するための公的な資格はありません。学校で教師として働く場合でも、場合によっては教員免許がなくても、演奏技術を教えて対価を得ている人もいます。ましてや、音楽教室や自宅で指導する場合には、なんの資格がなくても指導できるのが事実です。その意味では、演奏家の場合も「公的な資格」がない点では同じです。

演奏家になれない人が指導者なのか?
答えは「違います」私は確信しています。
先述の通り、指導者には演奏家としての技術が必要不可欠だと思います。
だからと言って、指導者の演奏技術が演奏家の技術より低いとは思いませんし、そうあってはいけないと思っています。
 では、指導者を目指す人はどうすれば良いのでしょうか?何を学ぶべきなのでしょうか?

 演奏家としての技術を身に着ける練習と勉強は、演奏家を目指す人と全く変わらないはずです。それを含めて必要なものは、以下の3点だと考えています。
1.演奏家として評価される演奏技術
2.演奏技術を言語化する能力
3.人に対する適応力
演奏家でも共通の「努力」や「経験」は言うまでもありませんが、何より指導は「対面」であり限られた時間内で、自分の教えたいことを伝える能力が求められます。適応する力は、迎合することではありません。常に自分と相手との考え方や生き方、価値観の違いを擦り合わせる能力です。

 最後に現在、演奏課や指導者を目指している人と、その指導者に伝えたいことです。
師弟関係は、両思いであることが何よりも大切です。双方が互いを認め合え、信頼できる関係がなければ伝えられるものは限られています。
習う側からすれば、師匠を尊敬できること。師匠は尊敬できる存在であること。
そして、常に次の世代に伝承することを考えることです。伝承は技術だけではありません。人の生き方、考え方こそが後世に伝えられるべきです。
優れた演奏技術があっても、人として魅力のない人や、他人を受け入れないわがままな性格の人は音楽家としての素養に足りません。演奏の評価だけを評価してくれるのは、容姿だけを評価されるのと同じです。音楽は自分で作った芸術ではありません。ラーメン屋の「秘伝のスープ」とは違うのです。先人が今に伝えた音楽があるからこそ、私たちが音楽を演奏できるのです。思い上がりは捨てるべきです。一流と言われて悪い気持ちになる人はいません。ただ、本当にその人の音楽が評価されるのは、次世代、さらにその次世代に「レジェンド」として評価される人かどうか?だと思うのです。
 これからも優れた指導者を育てたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

ステージで得られるもの

動画は先日の発表会での演奏です。
演奏者と家族だけの身内の演奏会。
不特定の人に聞かせる「コンサート」ではありません。
舞台の上で演奏することを目的として、練習してきた成果を実感する時間です。
4歳のこどもから、私よりも先輩の大人まで21プログラム。
今回初参加が5名。全員がステージで客席で、音楽を満喫しました。

 人前に出て演奏をするのは、ほとんどの人にとって「非日常」です。
人前で話したりサポートするお仕事をされている人でも「楽器の演奏」はまったく違う緊張感があると思います。
 緊張感があるから、開放感を味わえます。
演奏し終えた瞬間の「やり遂げた!」という表情がすべてを物語っています。
趣味なんだから、自宅の練習だけで充分だという考え方もありますが、せっかくの趣味だからこそ、楽しみは大きいほど良いと思っています。
 好きな事にかける時間と労力は惜しくないものです。それがスポーツでも音楽でも同じことが言えます。アマチュアスポーツでも勝敗の付く協議で「負けてもいい」と思って練習する人はいないと思うのです。負けるのが嫌だから、試合をしないで、素振りと壁打ちだけで満足できる人も、心の中では「うまくなりたい」と思っているから練習するのだと思います。

 自分の演奏が自分にとって、どのくらい満足のいくものだったのかは、他人からは想像もできません。自分の演奏に厳しい人は「ダメだった」と思い込みがちです。全然ダメじゃないのに(笑)
 自分の演奏が、本気で「じょうず」と思う人なんて、いないと思うのです。
もしそう思っていたら、楽器なんて弾かないはずです。自分が出来たと思えたら、その先に目指すものが何もないからです。
 欲を持つことです。子供は「無欲」でも上達します。それこそが生き物の「学習能力」だと思うのです。厳密に言えば、無欲なのではなく、本能で生き残るための「知恵と技術」を習得しているのだと思います。
 4歳の子供の演奏に、じょうずもへたもありません。それでも本番の直前に「ドキドキしてきた」とお母さんに言ったそうです。ステージでは、客席のお母さんをキョロキョロ探し始めてから、緊張感が切れました(笑)
 大人の趣味が楽器の演奏って、素敵だと思います。
一人でも楽しめる。誰かと一緒に演奏しても楽しめる。勝ち負けもなく、自分の好きな音楽を好きなように練習できる。失敗してもケガもしないし血も出ない(笑)聴いている人が笑顔になる。いくつになっても演奏できる。
 趣味の演奏に他人が「ケチ」を付けるのは、ナンセンスです。
本人が楽しめればそれだけで「趣味」なのですから。うるさいと思うのは仕方ないですが…。暴走族より静かです。

 これから楽器を始めて煮ようかな?と思う方。ぜひ!初めの一歩を踏み出してください。出来なくて当たり前です。だから面白いのです。
お子さんに楽器を習わせたい保護者の皆様。お子さんと一緒に音楽を楽しむ気持ちを持ち続けてください。学校の勉強とは違います。受験勉強とも違います。
親と子供が「二人三脚」で音楽に向かうことが、子供の上達を支えるただ一つの方法です。子供だけで楽器の上達は出来ません。楽器を買い与えただけでは、子供は楽器を弾けません。おもちゃではありません。ゲームでもありません。一生楽しみ続けられる「技術」なのです。それを忘れないでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を振り付ける

 一つ目の動画は、中高生の演奏する「カヴァレリアルスティカーナ間奏曲」です。本来、コントラバスはオリジナル編成にありませんが指揮者(私)の一存で参加させています。子供たちの「動き」に注目して頂けると、まるで振付をしたように同じ動きをしているのが見て取れます。実際に動きを教えました(笑)単に「感情を込めたように」とか「うまそうに」という無駄な動きではないはずです。たまに見かけるアマチュアの「謎のダンス」を伴う合奏や合唱とは、意味が違います。
 音楽の流れ、重さ、拍を演奏する子供たちが「共有」するための動きと、弦楽器を演奏するうえでの身体の使い方の両面から「必要な動き」を教えたつもりです。そのことで、弓の場所や弓の速度・重さ、さらには音楽の流れを体感し他の演奏者と共有できます。

 二つ目の映像は、私と浩子さんの「クロリスに」です。
言うまでもなく、何度も何度もお互いの音を聴きながら練習し、演奏会を経験している時間を経て、合図を打ち合わせすることも、ほとんどありません。
むしろ、私の「動き」に反応して自然に音が出るのを「わざとずらす」場面があります。下の動画をご覧ください。

 お気付きでしょうか?最後の「ソ」を私がヴィオラで演奏する「合図」と「ヴィオラが音を出す時間」がずれているのを確認できるように、最後の部分だけスローにしてあります。
 ピアノには先に進んでもらい、意図的に旋律を演奏している自分のヴィオラを「遅れて」発音させています。ポピュラー音楽では良く見かける奏法です。
合図を出しながら、自分は遅れて移弦し音を出すのは、特殊な「振付」ですが、これも音楽の「スパイス」になると思います。

 ここまで凝らなくても(笑)音楽を感じて動く。動くことで演奏に必要な「速度」と「重さ」を筋肉に伝え音にする。相乗効果があります。逆に言えば、音楽と関係のない動きで、その動きによって壊される音楽もあり得ます。この点は要注意です。なんでもかんでも動けばいいわけではありません。まず、音楽を感じることです。その音楽が動く「速さ」と「重さ」を感じて、それを自分の身体の動きに置き換えることです。動かない演奏を「最高」とする演奏家もいます。以前書きました。それもその人の価値観です。
 ぜひ、音楽を感じて演奏してみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習と本番

 生徒さんの発表会を明後日に控え「余興」で1曲だけ演奏する私たちです。
趣味で楽器の演奏を楽しむ人たちが、ステージでお客様の前で演奏する緊張感は、私を含め多くの演奏家も経験したことです。失敗した記憶もあります。音楽の学校での実技試験の記憶も少しはありますが、緊張する演奏経験を重ねるうちに、鳴れなのか?麻痺なのか?次第にその記憶が薄らいでいるようにも思えます。だからこそ、生徒さんたちの緊張感から学ぶことも多いのです。
 練習から一回の本番に至るまでの「道程」を考えてみます。

 演奏する曲が「初めての曲」の場合は、まずその音楽を知ることから始まります。楽譜に書いてあることを音にする。誰かの演奏を聴く。作曲した人や時代などを知る。練習する以前に、音楽を知ることです。
 次に自分が楽器で演奏する段階。ここからは、以前に演奏したことがある曲を演奏する場合でも同じです。
 自分の演奏している「音」と「音楽」を常に観察する集中力が不可欠です。
落とし穴があります。「繰り返せば演奏できるようになる」という「蟻地獄」のような落とし穴です。練習であっても、本番であっても「演奏」であることは同じです。自分の演奏を冷静に観察し続けることは、一度だけの本番のために絶対に必要な練習だと思っています。

 本番での演奏は、演奏している時間と空間での出来事です。完全に同じ演奏を再現することは、神様でなければできません。どんな演奏であっても、その音楽を聴くことのできる人は、その場にいた人だけです。録音された音楽は、真実ではありません。言ってみれば写真と同じです。
 演奏の瞬間に感じるものは、聴いた人の記憶に残ります。当然、演奏している人の記憶にも残ります。練習している時に、自分の演奏に感情を持っているでしょうか?ただ「うまく弾きたい」「間違えないで弾きたい」と思ってはいないでしょうか?たとえ、それが開放弦の練習であったとしても、どんな音色・音量なのか?聴いているはずです。スケールを練習しても、曲を練習しても「演奏を記憶し振り返る」ことの繰り返しを抄訳するのは「手抜き」です。
 思ったように演奏できないパッセージがあります。
私の場合、「思っていない」ことが原因です。つまり、どう?演奏したいのかという、具体的なことが一音一音に足りない場合です。思っていないくせに「思ったように」と感じているだけです。どんなに難しい、あるいは難しそうなパッセージでも「一音だけ」演奏することはできるのです。その一音を、どう?演奏すると次の音が、どう?演奏できるのか?という「連結」ができれば二つの音を連続して演奏できます。それを繰り返せば、「絶対に」演奏できるはずなのです。

 練習に時間は必要です。本番で演奏する時間を、自分も聴いてくださる人も楽しむための時間です。もちろん、ただ時間が経てばクオリティの高い演奏が出来るようになるわけではありません。先述したように、自分の演奏を振り返りながら「試行錯誤」を繰り返すことです。違う言い方をするなら「実験」を繰り返すことです。音楽に限らず、この実験は常に行われています。身の回りでも、何気なくやっているはずです。
 自分のやり方だけに固執するのは、あまり良いことではありません。事務作業にしても掃除にしても、自分が何気なくおこなっていることが、実はとても非効率で、時間と体力を無駄にしていることもあります。
 できないと思ったことに直面したときに、それを解決する方法を「実験」するはずなのです。「マニュアル」がないと、新しいことができないと思っている人もいます。子供は、まず「やってみる」のです。だから、スマホでもなんでも大人よりずっと早く使いこなせるのです。もちろん、失敗して壊すリスクもあります。化学の実験なら「爆発」するかも知れませんね。
 音楽の実験でケガをした人はいないはずです(笑)
実験をせずにただ何となく、繰り返してもケガはしません。ただ上達した人もいないと思うのです。新しい発見をすることがなければ、進歩はないのです。
 練習は単なる時間の浪費ではなく、「発見のための時間」だと思っています。

 最後に、本番で演奏する時間から、少しずつ遡る「逆算」をしてみます。
演奏直前、最初の音を出す直前です。あなたは何を考えますか?今日の晩御飯?それとも昨日の出来事?(笑)多くの生徒さんが、この瞬間に何も考えられなくなるか、逆に考えすぎます。どちらもあまり良いことではないように思います。
 練習で最初の音の弾き方を決めておくことです。ずいぶん戻ってしまいますが(笑)最初の音をどうやって演奏するのか?決まっていれば、まずそれを考えれば良いだけです。
 もう少し遡って、自分の演奏する前の「10分」
演奏に必要な「もの」と「こと」を確認します。これだけ時間があれば、絶対に大丈夫です。慌てない、焦らない、ゆっくり動く。
 さらに遡って、家から会場に移動する時。途中で走らないことと、立ち上がる時に必ず後ろを確かめて忘れ物がないか見ること。これ、聴音の黒柳先生から伝授された「奥義」です(笑)効果絶大です。
 家から出る前に。もしも、余裕があるなら一度だけ、演奏してゆっくり片づけて、すべての持ち物を確認する「余裕」が理想です。その時にうまく演奏できなくても「今日は弾いた」という安心感が得られます。本番前にうろたえることもなくなります。
 本番数日前。ケガをしないこと。病気にならないこと。楽器を壊さないこと。疲れないように練習のペースを落とすこと。この時期に一番うまく演奏できるように、その前の数日は「へたくそ」で良いのです。人間にはバイオリズムがあります。常に最高の状態に保つことは不可能です。本番の前に自分を高め、本番で最高の「頂点」にいる計画をイメージすることです。
 あまり「ルーティン化」しないことも大切です。「おまじない」を増やせば増やすほど、不安材料になります。お守りを10個、持ち歩く人っていないですよね?(笑)それと同じです。
 練習で本番通りのことをしていれば、本番も練習も同じです。
演奏は時間の芸術。その場で演奏している自分が「主人公」です。
演奏を楽しみましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由を阻害する「思い込み」

 この動画で私が装着しているのは「暗所視支援めがね」と呼ばれる、夜盲の患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を向上させるための眼鏡です。
決して「似合わないおしゃれ」で装着しているのではございません。
普通の人にとって「少し薄暗い」明るさが、私達「網膜色素変性症」の病気を持つ人間には真っ暗闇なのです。と言いつつ、普通の人の「真っ暗闇」を体感したことがないので微妙です(笑)

 さて、今回のテーマは「自由に演奏したいけれど…」と言う演奏者共通の悩みです。そもそも音楽は、作る人、演奏する人、聴く人の自由があってこその楽しみです。制約されたり、強要される感情を持ちながら「自由」は感じられません。つまり音楽自体が、人間の自由な感情があってこその芸術だと思います。
 自分が、ある曲を演奏しようと練習しているとき、いつの間にか自分で自分に「規制」をかけていることがあります。むしろ無意識に自分の演奏にある種の「枠」を作っている場合です。
 アマチュア演奏家の場合特に「自分にはできない。」「できもしないことをしている」「アマチュアだからこの程度で満足」などの思い込みがあります。
 プロの場合にも「この作曲者の意図は」「自分の解釈がまちがっているかも」「他の演奏者は…」「好きな曲じゃないのに頼まれたから」などなど、考えすぎと思い込みがあるように感じます。

 自分の演奏技術を自己評価することは大切です。
過少・過大にならずに客観的に評価することは一番難しいことです。
誰かに指摘してもらえる環境、たとえばレッスンや友人の率直な感想は何よりも大切にするべきです。素直にその言葉を受け入れられないほどの自己評価は、やはり思い込みでしかありません。「良かったよ」と言われても信じない。「もうちょっと音量があってもよかったかも」と言われて逆切れする。どちらも自分の思い込みで自分の演奏を評価しているからです。
 評価する人が「素人」の場合と「専門家」の場合があります。素人はまさに言葉の通り、特別な音楽的知識を持たない人やマニア的な聞き方をしない人、演奏技術のない「普通の人」です。この人たちの評価が、実は一番素直です。
 一方の「専門家」の評価が、間違った思い込みによる不幸な結果をもたらします。演奏する側が「アマチュア」で評価する側が、なんの?専門家なのか?によって、演奏者の自由な音楽をぶち壊します。ひとつの例を書きます。
 全国高等学校〇〇オーケストラフェスタ」なるただの合同演奏会で、とあるプロの指揮者(私的には5流ちんぴら)が演奏した生徒たちの講評で、子供たちの演奏を「えっっっっっっっっっらそうに」上から目線で「直せ!」口調で話します。言われた子供たちの中には涙を流す子供もいます。参加者全員がいる前での事です。ありえないことです。これが「プロの指揮者」だとしたら、メトロノーム様をマエストロと崇めたほうが1億倍、素敵な音楽ができると確信します。5流様は良かれと思って話しているから悪意はないのでしょう。
ただ「無知」で「無能」過ぎます。

 演奏者がプロ(専門家)の場合、周囲からの評価はある意味で「死活問題」でもあります。悪く言われれば、次の仕事=演奏の機会がなくなるかもしれないという「恐怖」があります。特に怖がるのは、なぜか?「評論家」の評価です。
 申し訳ありませんが私は「音楽評論家」と言う職業を、害悪としか思いません。なぜなら、彼らは自分で演奏しないからです。自分自身が演奏家であり、他の演奏家の演奏について評論するとしたら、それは評論ではなく演奏者本人に直接伝えるべき「感想」です。たとえそれが「よいしょ」な内容であったとしても、他人の演奏について一般の人に読まれ、聴かれる場で「評論」するのは、思い上がりも甚だしいと思っています。
プロの演奏について評価をする自由があるのは、聴衆と「主催者=雇用主」です。聴衆=素人が何を思おうが自由です。演奏会の主催者が「だめ」と言えばそれも受け入れるしかありません。
 だからと言って、演奏者が怯えながら演奏するのは、自由を阻害されることになります。私を含め、自主公演でコンサートを開く場合、お客様の反応と自分たちの評価を「すり合わせる」ことがすべての基準になります。
 演奏会後に集めさせてもらう「アンケート」用紙に書かれたお客様の、一文字一文字、行間から私たちの演奏への「評価」を読み取ります。次の演奏会に向けて、その評価を基に練習します。喜んでもらえたプログラム、表現など人によって違う自由な感想を、より多く集めることで自分の「思い込み」を正します。
 「絶対」に良い演奏は存在しません。あくまでも「主観」の世界です。
演奏する本人が、自分の思う通りに演奏した結果、ひとりでも喜んでもらえる人がいる演奏会なら、演奏した意味があります。評価を怖がることなく、聴いてくれる人の笑顔と演奏後の拍手を糧に、練習したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

好きな曲・好きな演奏

 動画は、みなとみらい大ホールでの「アルビノーニ作曲 アダージョ」です。
1985年から教員になり、新設校にオーケストラを0から作り、開校6年目で初めて「定期演奏会」を大講堂で開いてから、学校近隣のさびれた公会堂での演奏会を学校に認めさせるために「闘争」。その後、川崎市宮前区の「宮前文化ホール」に会場を移し、さらに当時の「グリーンホール相模大野大ホール」に。そこでもお客様を収容できない。ステージに乗り切れず、生徒が転落ちたら学校は責任をとれるのか!と学校と「闘争」し、最終地点「みなとみらい大ホール」に到達して3回目の演奏会でした。前置き、長くてすみません。
 私の好きなホールをひとつだけ、と言われたら迷わずにこのホールを挙げます。響きの暖かさ、残響時間とその切れ方、舞台裏の広さ、楽屋の数、なによりもパイプオルガンの音色。すべてが私の好みです。収容人数2020人を満席にすることが開催の条件でした。全席無料、全席指定、事前予約で2020枚の予約券はすべてなくなりました。部員の家族だけではなく、一般の聴衆も多かった演奏会でした。
 その大ホールで退職するまでに、4回指揮台に立ちました。毎回、様々な曲を演奏していました。チャイコフスキーの第4番、第5番、第6番(もちろん単一楽章だけです)、シヘラザード、レ・ミゼラブルなどなど。そんな中でも、このアルビノーニのアダージョは私の好きな曲「トップ3」の一つでした。強いて言えば「1番好きな曲」です。

 高校2年生のヴァイオリンソロ、オルガンは中学を卒業し高校で桐朋の作曲科に進学していた元教え子高校2年生。演奏は「危なっかしい」ものです。傷もあります。この演奏に「ケチ」を付けるのは簡単ですが、私には「最高の演奏」に感じます。自分が好きなように音楽を作り、子供たちに「言葉」と「動き」でそれを伝えた、音楽の揺れと流れ。途中、前のめりになりすぎて、危うく指揮譜面台ごと前に倒れそうになってます(笑)なにが?どう?好きなのかを言語化するのはやめます。「やめるんかい!」と突っ込まれそうですが、実際書いても理解していただけるとも思いませんし、人それぞれ感じ方が違うのが当たり前です。

 旋律と和声。歌曲であればそこに詩が加わる音楽。
広い意味で音楽は、和声を持たなくても音楽だと思いますし、現代音楽の中でバッハやベートーヴェン時代の音楽の「和声感」とは異なる音楽も「音楽」です。
ただ、多くの人にとっての音楽と、音楽の専門家にとっての音楽が「乖離」している気がしてなりません。

 たとえば、知らない国の言語を聴いても、意味が分からないのは当然ですよね。意味が分からなくても、ゼスチャーや表情で伝わることも少しはありますが、「声」だけで伝えられるものは何もありません。
 音楽はどうでしょうか?何を伝えているのでしょうか?
絵画にも色々あります。風景、人物、抽象画など。そこに描かれているものが「なに?」なのか理解できない絵画もあります。それを「美しい」と感じる感性。理解できない人には、ただの落書きに見える作品もありますよね。
 クラシック音楽を学んだ人たちにとって(私も含め)、クラシック音楽は「聴きなれた音楽」です。作曲された時代、当時の文化や作曲者の人物像などを「学んだ」上で演奏したり聴いたりします。
 音楽は学ぶものなのでしょうか?学ばなければ、楽しめないものなのでしょうか?学べば楽しいものなのでしょうか?

 自分の好きな音、好きな曲、好きな演奏。
学ぶ必要は無いと思います。偶然に巡り合うものだと思います。探すこともありますが、「好きなものを探す」ことは、本来は不要なことです。
生きている時間に、耳に入ってきた音楽の中で「好きになる」のが自然な出会いだと思います。
 音楽に限らず、「つくる・提供する」人と「使う・受け取る」人がいます。
演奏することは、作る側。音楽を聴くのは受け取る側です。
作る側は、使う人の「喜び」のために作るのが本来の姿です。
使われない、喜ばれないものを作るのは、作る人間の「自己満足」でしかありません。
アマチュア演奏家の音楽は「自己満足」で十分なのです。なぜなら自分が楽しめればそれで良いからです。
人に喜んでもらうための演奏をして、対価としてお金を受け取る「作り手=演奏家」は、自分よりも聴いてくれる人の「喜び」のために試行錯誤と努力を重ねるべきです。自己満足で終わるのであれば、対価求めるのは「図々しい」と思います。聴いてくれる人の中に、その演奏・音楽を「好き」になってくれる人が、一人でもいてくれることを願うことを演奏する側は忘れてはいけないはずです。
 好きな演奏を演奏者自身が探します。そのひとつの「作品」が、上の動画です。
 聴いている人に伝えられるのは、演奏者自身が自分の演奏する音楽が「本当に好きなんだ」と思うことだけかもしれません。そこから先は、聴く人の感性なのです。「いい曲ですよね」「いい演奏ですよね」と、他人に自分の感性を押し売りするのは「無理」だし「うっとおしい」だけなのです。聴いてくれた人が「つまらない」「へたくそ」と感じるのは仕方のないことです。当たり前のことです。その人が悪いのではありません。感性が低いのでもありません。ただ、自分の感性と違うだけなのです。
 自分の演奏を喜んでくれる人に出会うために、コンサートを開きます。
聴く側は、自分の好きな演奏に出会える期待を持っています。
演奏する人間と聞く側の「好き」が一致する瞬間が「音楽」の本質だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

おまけの映像。みなとみらいでの最後の演奏会より、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」より第3楽章です。


(自己主張+受容)×人数=ひとつの音楽=平和

 今回のテーマ、実は生徒さんたちが発表会に向けた「伴奏合わせ」を見ていて感じることでもあります。ヴァイオリンは多くの場合に、誰かと一緒に演奏する楽器です。ピアノやギターのように、ひとりで和声と旋律を演奏することのできる楽器との最も大きな違いです。音楽=曲そのものが、ヴァイオリニストと「誰か」の演奏によって完成されます。日常の練習は、一人で黙々と自分のパートを練習します。
 演劇や映画、オペラなどの世界で言えば、自分のセリフだけ、自分の演技だけを練習することに似ています。当然、他の役者さんのセリフや動きとの「からみ」があることを前提に練習するはずです。ひとつのセリフ、「やめてください」というセリフでも、どんな心理なのか?どんな場面なのか?によって、まったく違う「やめてください」の言い方になるはずです。
 高倉健さんのように、背中だけですべての感情を表現できる役者さんもいます。「言葉は少ない方がいいと思うんです」とは高倉健さんの言葉です。尊敬します。音楽で言えば「余計なことはしないほうがいいんです」違うかな(笑)

 上の動画は、中高生のオーケストラによる「カヴァレリアルスティカーナ間奏曲」の演奏です。子供たちの多くは、楽器に触れて「数カ月」から長くて「数年」の初心者です。その子供たちが演奏しているこの演奏は、「ひとつの音楽」になっているように感じないでしょうか?プロのような演奏技術はありません。それでも何か「一体感」を感じるのです。
 思春期の子供たちです。素直に大人の言う事を聴きたくない年齢です。その子供たち同士をひとつにまとめるために私がしたことは「子供たちの敵になり、お山の大将になる」ことでした。怖がられ、嫌がられ、でも従うとなぜか達成感がある。子供たちをひとつの音楽に向かわせるために、子供たちに自己主張を求めました。こっそり演奏しようとする子供に、合奏中に一人で演奏させたりもしました。すべての子供たちが主役だと思わせました。その中でも上下関係を感じさせました。学年による指導システムを考えました。中2が中1を教えます。中2を中3が教えます。中3を高1が、高1を高2が教えます。これを何年か続けるだけで、すべての責任は高2にあることを全員に理解させられます。どんなに先輩風を吹かせたくても、中学1年生がうまく演奏できなければ高2が全員の前で叱責されます。

 こちらは私たちの演奏したエルガー作曲のカント・ポポラーレです。
先ほどのオーケストラと違い「たったふたりだけ」の合奏です。人数が2人であっても、テーマの公式は当てはまります。二人それぞれが感じて考える表現とお互いを思い受け入れる受容が、ひとつの音楽となります。夫婦だからできる?もちろん、お互いを尊敬しあうことが前提です。憎しみ合う関係で受容することはできません。人数が少ないほど、それぞれの主張が大きく表に現れます。
二人のアンサンブルはオーケストラ以上にひとつの音楽を作り上げることが難しいと思います。自分の音と相手(ほかの演奏者)の音を頭の中で合成させる技術が必要です。自分の音だけに集中しすぎても、相手の音だけを聴いていても頭の中で「ひとつの音」になりません。
 そもそも音楽に限らず、日常生活の中で私たちが聞いている「音」はいろいろな音が混ざり合っていることを忘れがちです。電車やバスの中で、誰かと話している声だけが大きく聞こえるのは「心理」の問題です。音圧、つまり音の大きさで言えば電車やバスの騒音の方がはるかに大きいのに、会話の内容が耳に最初に入ってきます。
 静かな場所で演奏すれば、小さな音でも存在感は大きなものになります。
演奏している音楽を、聴いている人の「聴こえ方」として考える場合、電車の中の話し声のように「心理」を利用することも重要です。
 得てして演奏者は自分が演奏している音楽を、聴いている人も自分と同じようにその音楽を知っているような「錯覚」に陥ります。初めて聞くときの「期待」と「安心」と「驚き」があります。音楽を一つのストーリーとして考えると理解しやすいことです。映画やドラマの「冒頭」から始まり、見る人の緊張感や不安感、安心感や悲しみを誘い出す「台本・演出・脚色と演技」が「楽曲と演奏」です。
聞く人にどんな感情を残したいのかを考えるなら、自分の演奏を初めて聴く人の立場に立ちもどって考えることが、なによりも大切な練習になると思います。

 聴きながら演奏することは「慣れ」が必要です。
頭のなかで色々な事を考えれば考えるほど、体の動きは制約されます。
肉体の反応は、ぼーっと脱力している時が一番「俊敏」なのです。動かそうとすればするほど、遅く鈍くなります。

 自分と相手の音を聴き「ひとつの音」として聴くために、ひとりで練習する時に、自分の出している音を無意識に出せるようになるまで繰り返すことが不可欠です。自分の演奏に気を取られている限り、他人の音に反応することができないからです。ひとりずつの練習は、常に相手が何をしているのかを考えながら練習しなければ、先述の「やめてください」というセリフを、どのように演技するのか?決められないのと同じです。そして、常に「初めて聴く人」の耳で自分たちの演奏を客観的に聴く練習をしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

グリッサンドとポルタメントは色っぽい?

 今回のテーマは、ヴァイオリンの演奏技法の中で言う「グリッサンド」と「ポルタメント」についてです。
あまり難しく考えずに、直感的な言葉で書いていきますので、お読みいただければ幸いです。
 上の動画はフィビヒ作曲の「ポエム」です。
音のつなぎ目を無段階に音を変化させてつないだり、音の出だしにその音より低い音から無段階に、ずり上がるように演奏し始める演奏方法があります。
 特殊な例として、その音より高い音から始めたり、最後に高い音に跳ね上がるように演奏する場合もあります。
昔の女性アイドル、たとえば松田聖子さんの歌い方。思い起こせますか?
 ヴァイオリンの場合、音と音の間を「なめらかにつなげる」場合と、「はっきり区切る」場合があります。単にレガート=スラーなのか、弓を返すのかという問題ではなく、音の高さの「差」を埋める方法です。

 こちらはマスネー作曲のタイスの瞑想曲。多くの方が演奏し「この曲をひけるようになりたい」という生徒さんも多い曲です。
 ピアノやハープのグリッサンド奏法で出せる音は、「音階」です。厳密に言えば、1オクターブを12等分した「半音」が最小の差で、その倍の「全音」との組み合わせです。
 他方、弦楽器や声=歌トロンボーン、まれにクラリネットやサキソフォーンなどで多く用いられるグリッサンド奏法は「半音」よりもさらに細かく、無段階に音の変化をさせる奏法です。

 さて、ヴァイオリンを演奏する際に、基本はひとつずつの音の高さを明確に区切って演奏することです。言い換えれば、発音する時間から終わる時間までビブラート以外のピッチを変えない演奏です。わかりやすく言えば「オルガン」の音のように明確に音の高さが聞き取れる音です。
 ある音から次の音への「高さの差」をすべてグリッサンドで埋める場合もありますが、多くの場合は次の音の「少し前の時間」から「少し高い音」または「少し低い音」からその音に到達する方法を用います。
 「意味が分からん」と言われそうです。
下の動画の中で時々聞こえる「にょ~ん」(笑)探してみて下さい。

 いかがでしょう?聞き取れました?
ちなみにこのグリッサンドやポルタメントを加えると
「いやらしい」「ねばっこい」「いろっぽい」「あまったるい」
そんな印象を感じませんか?感じ方は人それぞれなので正解はありません。
どんな飾りや調味料でも、多すぎるとねらった美しさやおいしさを表現できず、飾りや調味料「だけ」の印象が強くなってしまいますよね?あくまで「自然」に感じる量が肝心です。
グリッサンドが多すぎると、しつこく感じ、不自然に感じます。
あくまでも「意図的に」加え、聴いていてちょっとした「アクセント」にとどめるべきです。もちろん、グリッサンドをまったく加えなくても音楽は素敵です。
必要不可欠な奏法ではありません。ただ「味つけ」として、この演奏方法を使いこなすことも大切な練習だと思います。

 下の動画はパラディスの作曲したと言われるシシリエンヌです。
色々なヴァイオリニストの演奏を聴いて、自分の好きなグリッサンドを探すのはとても楽しいことだと私は感じています。できる出来ないよりも、自分が美味しい!と思った味を自分で再現してみる「楽しさ」を感じます。最後までお読みいただき、そして最後までお聴き頂きありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

家族と音楽

 何度も夢に出演してくれる私の両親と兄です。
父を見送り、父を追う母を見送ってからずいぶん時が経ちました。
子供の頃、喧嘩にもならない年の差で思春期には「大嫌い」だった兄と、今はまるで仲良し兄弟笑)
 動画は、渋谷牧人さんの作られた「はるの子守唄」を私のヴィオラと浩子のピアノで演奏したものです。映像は、父の思い出のために以前作ったスライドショーです。

 生徒さんを教え、自分たちで演奏し、思うようにいかない生活をしながら思う事。「なぜ音楽に関わって生きているのか」という命題です。
 どんな生徒さんにも、生んでくれた親、育ててくれた親がいます。
すべての人が同じように両親と、仲睦まじく暮らしてきたとは限りません。
複雑な事情を抱えて生きてきている人たちもたくさんいます。
はたから見ただけで「幸せそう」と決めつけるのは間違いです。
人には言えない、その人の心にしまわれた「歴史」もあるのです。
両親と言う言葉を、敢えて使わせてもらうのは、私が幸せなことに、両親の間に生まれ両親に育てられた子供だからです。それがどんなに幸運だったのか、今更思うのです。

 音楽を学ぶことができ、自分で選んだ道を歩いて来られたのは、両親の愛情があったからです。困ったときに、笑って応援してくれた父がいました。父のわがままを「まったくもう」と言いながら受け入れていた母がいました。
 音楽を演奏できるのは「自分の力」と思い込んでいる人がいます。確かに本人の努力がなければ、演奏は上達しません。

すべての人が母から生まれ、今日まで生きてきました。どんな人間であっても、母親が命がけで生んでくれた「子供」なのです。
 私が音楽を演奏することを、両親は何よりも喜んでくれていたと思っています。小さいころから、そうでした。だからきっと、私は音楽に今も関わって生きているのだと思います。
 私が学校で働くことを父は望んでいませんでした。おそらく私への「期待」を裏切られたと感じたのだと思います。二つの原因があったようです。
私がヴァイオリンと言う楽器から離れて行く寂しさ。
私が演奏家になることを夢見ていたこと。
確かに教員時代、私はヴァイオリンを演奏することへの情熱を失っていました。
数年で退職するつもりだったのが、「住宅ローン」と言う足かせを自らつけてしまって、辞めるにやめられない状況で20年という時間を過ごしました。
 退職時に起きた「事件」の中に家族との断絶がありました。
両親を説き伏せる気力もなく、ただ死なないために生きていました。
 私がヴァイオリンを手にして、再び演奏を始めて浩子との最初のリサイタルに両親は揃って聴きに来てくれました。満面の笑顔で演奏後に「お小遣い」をくれた父を忘れられません。その後も、私たちのコンサートには必ず二人そろって来てくれました。両親が施設で生活するようになってからも、施設内でコンサートを開かせてもらいました。

父が亡くなり、母の認知症が進行した頃、恐らくリサイタルに来られるのが最後になると感じました。施設長自ら運転し、藤沢から代々木上原まで母を載せてきてくれました。帰りは生徒さんのご家族に施設まで私たちと一緒に、母を送っていただきました。
 母が亡くなる直前、施設に二人で伺いロビーに車いすで連れてきてもらった母に、私たちの演奏をスマホを母の耳につけて聴かせました。顔色が変わり、目に生気が戻ったように感じたのは私の思い込みかもしれません。

 人が生まれてから死ぬまでの時間の中で、人に喜んでもらえることがどれだけできるでしょうか?
 私の場合、一番多く喜んでくれたのは家族だと思います。一番怒ってくれたのも家族でした。その家族から教えられたのが「音楽」だったのかもしれません。
母は若い頃に通っていた同志社の時に覚えた讃美歌を、足踏み式オルガンで演奏できる「演奏技術」を持っていました。父は演歌が大嫌いで、藤山一郎からパバロッティに「押し」を変える「聞く専門」の人でした。兄は私との「不可侵条約」なのか、幼い頃から一切音楽に興味を持たず、スポーツ万能な戦うサラリーマンです。そんな家族の中で、私がこうして音楽に関わっていることは、結局両親の「願い」だったのかも知れません。私自身、そのことに感謝しています。
 お子さんをレッスンに通わせている「親」たちに伝えたいのです。
親が願うことです。親が子供に夢を見ることです。子供の能力を信じることです。自分の能力とは関係ありません。子供が好きな道を進むときも、親の夢は持ち続けてほしいのです。子供の人生に、一番関わるのが「家族」だからです。
 最後に、私の現在の家族である浩子「姫」とぷりん「姫」、浩子のご家族、兄の家族に、心からの感謝を伝えたいと思います。ありがとう!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

演奏する場所で変わる音

 動画は同じ曲「アダージョ・レリジオーソ」を同じ時期に、同じヴァイオリンで演奏したものです。上の動画は、地元相模原市橋本駅前「杜のホールはしもと」で、客席数525名の大きなホールです。ピアノはスタインウェイ。
メリーオーケストラの定期演奏会で使用し続けているホールです。
 下の映像は代々木上原のムジカーザ。定員200名ほどのサロンホールです。ピアノはベーゼンドルファー。
 どちらも音響の素晴らしい音楽ホールです。

 練習する場所は、人それぞれ音の響きが違います。多くの場合に、天井が低く壁も迫っている普通の部屋で、家具やカーテンなどで音が吸収されます。
音は空気の振動です。音源はヴァイオリンの場合、楽器本体から発して周囲の空気を振動させます。ピアノの場合、大きな筐体=ボディと固くて長いピアノ線から周りの空気に音として伝わります。
 音源直近の音の大きさは、狭い部屋でも大きなホールでも変わりません。音源から離れれば離れるほど、空気の振動は弱くなります。そして壁や天井に「反射」してさらに大きな空間に音が広がります。演奏者本人には、音源の音と共に反射してきた音も聴くことができます。その「戻ってきた音」の大きさと音色は、演奏する場所によって大きく違います。
 一方で客席などで演奏を聴く場合、音源からの距離が遠ければ遠いほど「反射した音」の比率が高くなります。また、空間が広く反射する壁や天井が音を吸わない素材で出来ているほど長い残響=余韻が残ります。
 建物の形状、空間の形によって残響の残り方が全く違います。
天井がドーム状になっている協会などの場合、反射した音はさらに複雑に反射します。トンネルで音が響くのと似ています。壁に凹凸をつけて反射を「制御」することができます。

・オーチャードホール:1.9秒
・すみだトリフォニーホール:2.0秒
・ミューザ川崎シンフォニーホール:2.0秒
・横浜みなとみらい大ホール:2.1秒
・新国立劇場:1.4~1.6秒
・神奈川県民ホール(本館):1.3秒
・日生劇場:1.3秒(※空席時)
・神奈川芸術劇場(KAAT):1.0秒
・大阪 新歌舞伎座:0.8秒
ホールの残響時間は、目的によって大きく違います。

 客席で気持ちよく演奏を聴けるホールと、演奏していて気持ちの良いホール。
座り心地のよい「椅子」と適度な前後の空間はホールの設計の問題です。
座る位置によって、ステージの見やすさ、音の響きはまったく違います。
 一方演奏する側から考えると、ピアノの位置と向き、ヴァイオリンの立ち位置と楽器の向き。これが最も大きな要素になります。
ストラディバリウスなどの名器は「音の指向性が強い」と言う研究結果がありますが、実際にホールで演奏し客席で聴いた場合には「聴く位置」の方が大きな差になります。どんな楽器であっても「音源の位置」とステージ上から伝わる空気の振動=「音の広がる方向と強さ」を考える必要があります。
「結局、聴く人の位置で変わるんだから」と言ってしまえば、確かにその通りです。ただ、演奏者自身に戻ってくる反射音は、明らかに変わります。
ヴァイオリン奏者にとっては「ピアノと自分の音」、ピアニストにとっては「ヴァイオリンと自分の音」の聞こえ方が、変わってくるのですから「位置」と向き」は重要な要素です。

 自宅で練習したり、吸音材で囲まれたレッスン室で練習していると、ついムキになって「つぶれた音」で練習しがちです。戻ってくる音がないのですから「デッドな音」で気持ち良くないのは当たり前です。だからと言って、ピアノで言えば「ダンパーペダル」を踏みっぱなしで演奏するのは間違いですし、ヴァイオリンで言えば、ダウン・アップのたびに弓を持ち上げて「余韻」を作る癖は絶対に直すべきです。本来、楽器の音は残響の中で楽しむように作られているのです。
畳の部屋、絨毯の部屋、ふすま、土壁、低い天井、狭い部屋で「心地良い音」を望むのは無理と言うものです。だからと言って、壁も天井もない公園や河原、野原の万課で楽器を演奏練習するのは、少なくとも弦楽器では「絶対やめて!」とお伝えします。楽器を痛めるだけです。残響があるはずもありません。
と言いつつ、その昔指導していた学校の部活夏合宿で、練習する場所が足りずに弦楽器メンバーに木陰で練習させた黒歴史を懺悔します。ごめんなさい。

 最後に、日本のホールについて書きます。
多くのホールが「多目的ホール」です。音楽に特化したホールは非常に少なく、演劇や講演会、落語など残響時間を短く設計したホールの方が多いのが現実です。
吹奏楽や打楽器の演奏会などの場合、残響時間が長いと「何を演奏しているのか聞き取れない」場合もあります。和太鼓の演奏を「禁止」しているホールもあります。杜のホールはしもとも、そのひとつです。理由は「ホールの階下に図書館がある」からです。和太鼓の音圧でホールの壁、床が「躯体振動=直接振動する」して図書館にまで音が響いてしまうからです。
 反響版のないホールもあります。


 上の映像はどちらも地元「もみじホール城山」の演奏ですが、上の映像は発表会の「おまけ」で演奏した時のもので、反響版を設置していません。
下の映像に映っている反響版は、可動式・組み立て式のものです。設置するのに二人がかりで30分ほどかかります。もちろん、この効果は絶大です。舞台上の音の広がりを前方にまとめられる効果で、客席での聞こえ方がまったく違います。録音には大差ありませんが(笑)
 音楽ホールの稼働率が低く、閉館になるホールが地方に多くあります。
運営の難しさが原因ですが、使用料の高さとホールまでのアクセスの悪さ、多くは集客の難しさにあります。少しでもクラシック音楽のすそ野を広げるためにも、ホール使用料金を公的に負担したり、アクセスの悪いホールならミニバスでも良いのでコンサートに合わせて走らせるなど、自治体や行政の果たすべきことがたくさんあると思います。「箱もの行政」と叩かれないようにするためにも、運用に必要な情報を、私たち演奏家にも問うべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指・弓・毛・弦の弾力

今日のテーマはヴァイオリン演奏時の「発音」に関するものです。
擦弦楽器とは、弦を弓の毛で擦って音を出す楽器の事を指します。
ギターやマンドリンのように「弦をはじく」楽器とは発音方法が違います。
弓を使って音を出す楽器は、ヴァイオリン族=ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスの他にも、胡弓などの中国伝来の楽器もあります。
弓の毛の多くは馬の尾の毛を漂白せずに使います。洗うそうですが、洗ってもおうまさんのお尻に近いしっぽの毛ですから、当然「ウンモ」笑の香りが消えないものも多いそうです。お食事中でしたらごめんなさい。
 ヴァイオリンの弓には、250本ほどの毛が張られています。
馬のしっぽの毛は顕微鏡で見ると凸凹があり、そこに松脂がついて大きな凸凹になって、弦との愛間に摩擦が起きて音が出ます。
 弓の毛、1本1本はとても細く、柔らかいものです。手で引っ張ると「ぷちっ」と切れる程度の強さです。他の動物の毛と比較して弾力性に富んでいます。
この毛を重ならないように弓に「張る」技術が職人さんの技です。
演奏している間に着れることもあります。また、経年劣化すると弾力性が下がり、毛自体も細くなります。演奏に使っていなくても、動物の毛ですから自然に劣化します。

 毛を張っている弓の木材は、フェルナンブーコというブラジルに生えるマメ科の木です。オレンジ色の木で木目はあまりはっきりしていません。古くからヴァイオリンの弓にはこのフェルナンブーコが用いられてきました。染料にも使われ、現在は数が少なく、ワシントン条約で弓の形をしたものでないと輸出できなくなっています。
 弓にするために、6角に削り熱処理で曲げて作られます。
先が細く中央部分が太く、元の部分には黒檀で出来た「毛箱=ブロック」と毛箱を引っ張り弓の毛を張るための「ネジ=スクリゅー」のための穴があけられています。重さは全体で60グラムと、生卵一個分ほどの重さです。弓先と全体のバランス、全体の弾力性、太さなどで演奏のしやすさだけでなく決定的に音色と音量を左右します。弓の木の良し悪しは、ヴァイオリン本体のそれよりも重要な一面も持っています。フランソワ・トルテ(1747 – 1835)やドミニク・ペカット (1810-1874)に代表されるフランスの名弓製作者の弓はヴァイオリン本体よりも希少価値が高いものです。

 そして「弦」です。弦はその昔、ガット=羊の腸を張っていましたが、その後、ガットの代わりに化学繊維のナイロンを使用したもの、金属を代わりに使用したものがあります。ガット弦は音質が柔らかいのが特徴です。
ナイロン弦は価格が安く、量産が容易であるメリットがあります。

金属=スチールの弦は音量が大きく安価です。それぞれに「短所」があります。
 ガット弦の短所は、ガットが伸びて安定するまでに時間がかかることです。
温度や湿度での変化でピッチが変わるのは、どの種類の弦にも言えることです。
 ナイロン弦の短所は、良い音の出る寿命が短いことです。最もポピュラーなトマステーク社製のドミナントは、焼く2週間で突然、余韻が短くなり明らかに音質が落ちます。
 スチール弦の短所はずばり「柔らかい音がでない」ことに尽きます。
どの種類の弦を選ぶのかは、演奏者の好みと演奏に求められる音量、音質さらには、「お財布事情」で変わります。ちなみにガット弦の寿命はナイロン弦よりはるかに長いので、コストパフォーマンス的には大差ありません。
 私は普段、ガット弦を使っています。唯一ガット弦を作っている「ピラストロ社」のオリーブ、またはパッシォーネを張っています。
弦には弾力性があります。固すぎる弦は押さえることにも向きません。

弦は駒の近くでテンション=張力が強く、固く明るい音が出せますが、圧力が足りないと高い裏返った音になりやすいリスクもあります。
一方で、駒から通り場所=指板に近い場所は、テンションが弱く意図的に「ソフトボーチェ=弱いかすれかかった音」を出す時に使用しますが音量が小さくなります。3本の弦を一度に演奏したい時などには、この部分を演奏することで同時に3本の現に弓の毛を当てて音を出すことが出来ます。
 演奏したい音量や音色によって、どの場所に弓を当てるか考える必要があります。

右手の指の弾力とは、指の関節の柔軟性です。当たり前ですが、骨は曲がりません。弓に触れる右手の指の各部分を、敏感にしておくことが求められます。
そして、弓を通して弓の毛と弦の「摩擦」と「弾力」を感じることが必要です。
 車で例えるなら、駒と上駒=ナットが「橋げた」で、弦が「橋=道路」で、弓の毛が「タイヤ」に当たり、指が「サスペンション」と「ハンドル」の役割を果たしています。乗り心地の良い車、高速でも路面に吸い付いて安定して曲がり、止まれる車、それが「弾力」です。

動力源は「右腕」です。それらが連動しあいながら、弦と弓の毛を「密着」させたまま動かすことで、弦が振動し駒を振動させ表板に、さらに「魂柱」を通して裏板に振動が伝わり、ボディ=箱の中で共鳴・共振して、大きくななった音=空気はf字孔から出てきます。当然表板も裏板も振動して音を出しています。

 弓の毛を強く張って演奏する人を多く見かけますが、私は必要最小限の「弱さ」を探して極力「弾力」を優先しています。強く張れば、強く圧力をかけられるので、より強い音を出しやすくなります。が、柔軟性を失うことになります。
 弓の木の「硬さ=強さ」にもよりますし、弦の種類にも、さらには駒の高さ=弦の高さによっても、弓の毛の張りは調整されるべきです。やみくもに強く張るのは、弓の弾力を失わせます。
 弓の毛の弾力と、弓の木の弾力は当然「毛<木」です。弓の毛を強く張りすぎれば、弓の木の弾力を減少させることになります。また、弓の中央部分の柔らかさを放棄することにもなります。
 そもそもなぜ?弓の木に、わざわざ反りを付けているのかを考えるべきです。
腰が抜けてしまった弓とは弓の弾力を失い、いくら毛を強く張っても、毛と木がすぐに当たってしまい、中央部分で「横方向の力」に耐えられず、ぐにゃっと曲がってしまう状態です。腰が抜けてしまうと弓は使えなくなります。弓の木を長持ちさせるために、弓の木に過剰な負荷を与えるような「強すぎる張り方」は避けるべきだと思います。

 音量を優先させたいのであれば、スチールの弦を張り、ガチガチに固い「剛弓」で弾けば良いと思います。ヴァイオリンの音量だけを求める演奏は、本来の美しい音色を求める演奏方法と矛盾しています。もちろん、弱いだけの音では、ピアノと一緒に演奏したときに「聴こえない」ことになります。
 弦と弓の毛の「密着」を考えて、あらゆる弾力性を意識しながら演奏することを心掛けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な音楽とは?

 動画はアイザック・スターンのヴァイオリンと、ヨーヨー・マのチェロによるドッペルコンチェルトです。今回のテーマとどんな関係が?

 音楽を演奏する人にとって、知るべき「規則や定義」があります。
ひとつの例が「楽譜」です。楽譜を書き残した人の作品=曲を、音楽にするために共有するルールでもあります。「音楽を聴けばマネできる」のも事実ですが、録音する技術のなかった時代、演奏は「その場限り」で人の記憶にしか残りませんでした。かのモーツァルトが一度聞いた音楽を覚え、楽器で再現できた話。当然聞いたのは「生演奏」です。そして、そのモーツァルトが書いた楽譜のルールは今でも変わっていないことってすごいことです。楽譜という「規則」がなかったら、現在私たちが聴くことのできる音楽は誕生していなかった可能性があります。
 子守歌や民謡のように、人から人へ伝えられた音楽もあります。その過程で、少しずつ変わっていくのもこれらの音楽の特徴です。楽譜と言う「記号」で残らなかった音楽です。

 自由な音楽とは、どんな音楽でしょうか?自由な演奏とは、どんな演奏でしょう?とても大きな問題です。
ちなみにウィキペディアによると、自由の対義語は「専制」「統制」「束縛」という言葉が出てきます。日常生活の中の出来事で考えると、理解しやすいですね。おおざっぱに言うと「やりたいようにできない」のが自由でないことを指しているように感じます。自分の意志とは別に「抑制」される感覚を伴うことです。ただ、自分の意志のない人にとっては、自由も束縛も感じないことになります。やりたいことの多い人の方が、「束縛」や「不満」を感じるのではないでしょうか?

 もし、自由な音楽という定義をするなら、音楽を作る人・演奏する人が、何も制約や束縛を考慮しないで、好きなように作る・演奏する音楽。でしょうか。
そう考えると、私たちが普段演奏している音楽は、自由な音楽に限りなく近い気もします。少なくとも、自分の演奏したい音楽を「自由」に選べる段階で、束縛を感じることはありません。
 楽譜に書いてある「記号」「標語」「指示」に忠実に従うことが、自由でないと感じる場合もあります。出版社によって楽譜にかかれている記号や標語が違う場合があります。また、作曲家によって、楽譜に多くの指示を書いた人と、演奏者に任せた人がいます。楽譜と言う「規則」にどこまで従うのか?その規則に反したら、なにが起こるのか?どこまでが「自由」として許されるのか?
個人の価値観によって違うことです。ただ「統制」される音楽が美しくないとは言い切れません。なぜなら「オーケストラ」の演奏は、多くの意味で統制されているからです。練習時間の束縛、演奏するパートの指定、座る位置の指定、指揮者の要求に従うテンポや音量など、好き勝手には演奏できないのがオーケストラです。他人と協調すること、時には妥協することが「嫌」な人は、オーケストラに向いていない人だと私は思っています。いくら技術が高くても、結果的に人の「輪・和」を壊します。誰かを「手下・子分」にしたがる人もオーケストラ向きな人ではないと思うのですが(笑)もちろん、指揮者としても不適格な人だと思っています。誰とは申しません。

 レッスンの場に話を移します。
師匠から弟子への「指示」に従うのは束縛と言えるのでしょうか?
師弟関係に「信頼」が必須であることは以前にも書きました。
演奏技術、音楽の解釈などへの「指定」はあって当たり前ですが、プライベートな部分にまで制約を課すことには異論もあります。それが、弟子の将来に関わる「だろう」という思いからの事であっても、行き過ぎた介入はするべきではないと思います。結果的にその弟子が大成したとしても、挫折したとしても、師匠に弟子の将来を決定するような権利はありません。

 音楽に限らず自由の中にも「節度」が必要です。言い換えれば「最低限のルール」があるのが社会です。無人島でひとり、生きているのであればルールは自分で作ればいいのですが、家族であれ組織であれ、学校でも社会でも「ルール」の中で自由が認められています。
 人として。大人として。
他人に不快感を与えたり、危害をあたえるような「自由」は認められません。
言論の自由、個人の自由。取り違えればただの「わがまま・身勝手」な言動や行為として扱われます。
 音楽が人を不快な気持ちにさせるにすることもあります。
特に「押し付け」られる音楽、逃げられない音楽は人を不快にします。
「国民なら国歌を歌うのが当然だ」と言うのも私は疑問を感じます。
それをすべての国民や、子供たちに強制させる「法律」ってありません。
むしろ日本の最高法である憲法で保障されている「個人の思想の自由」を奪う行為です。音楽を押し付けるのも、押し付けられるのも「音楽家」として従うべきではないと信じています。

 最後に「身体の自由」についても書いておきます。
健康な人にとって、身体のどこかに「不自由」な部位がある人を「可哀そう」と思うのは、少し間違っています。私自身、眼が不自由ですが、それを自分で「可哀そう」と思ったことがありません。眼が不自由であることが「普通」なのです。身体に不自由な部位があると、不便に感じることはありますが、それも受け入れています。自由に動かせる部位があります。それを使って楽器を演奏したり、音楽を作ったりする「自由」もあります。
 何不自由なく生活している人に、不自由な生活をしている人の苦労を創造することは、とても難しいことです。完全に理解することは不可能でも、「思いやる」ことは思い上がりではありません。音楽を聴くことが出来ない障がいを持った人もたくさんいます。その人たちにとって「音楽」ってどんな意味をもつのでしょうか。振動や光で音楽を「伝える」努力をする演奏会もあります。
 私たちが楽器を演奏できることに感謝する気持ちを忘れがちです。
自由な音楽は、自由な場所にしかありません。人間が自由であることを意識しなければ、私たちの音楽は消滅してしまうと思います。
 戦争反対。平和万歳。音楽を自由に演奏できる世界でありますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

大衆音楽だって音楽

 今朝のヴァイオリンレッスンで大人の生徒さん、次にひいてみたい曲をお聴きしたら…
「先生のリサイタルで聴いた瑠璃色の地球」というお応えでした。
一昨年のリサイタルでの演奏動画です。ヴィオラとピアノで演奏しています。
もちろん、私たちが演奏する曲の中には、クラシックと呼ばれる音楽もあります。クラシックとは呼ばれない「ジャンル」の音楽も演奏します。
好みの問題を誰かと競ったり、言い争ったりするのは無意味です。
塩ラーメンが好きな人もいれば、しょうゆラーメンこそがラーメンだと主張する人もいるのですから。

 作曲家が創作し生み出された音楽は「楽譜」という形で、演奏者に委ねられます。作曲家によって、楽譜が書かれた時代によっては、本人が手書きで書いた楽譜を、「写譜」し続けて現代に残されている曲もたくさんあります。
作曲者自身が、ひとつの楽曲を異なったアレンジで楽譜にした曲もあります。
後世の人がアレンジした楽譜があります。また、現存する作曲家の曲でも、違うアレンジの楽譜が出ていることもあります。
 作曲された曲の、旋律と和声、さらに演奏の編成を変えて演奏することは、ポップスの業界で言えば「カバー」と呼ばれる演奏に近いと思います。
どこまで?原曲を変えて演奏するかは、人それぞれの価値観で違います。

 以前にも紹介した「ふるさと」です。ジャズピアニスト小曽根真さんと、奥様の菅野美鈴さんがアップされていたふるさとを「耳コピ」させて頂きピアノとヴィオラで演奏しています。和声を変え、ピアノの伴奏の音楽を原曲とは大きく変えたこのふるさと、旋律は原曲のままです。アレンジでこれだけ変わるのですね。

 いつの時代にも「現代」と「過去」があります。少なくとも未来のことは誰にも分りません。想像は出来ても実際の未来に起こることを、人間が予測することは不可能です。そして、過去に作られたもの、文化、芸術を「伝統」と言います。先人の残した「遺産」に敬意を払い守ることを軽視する人が増えています。
音楽に限らず、過去に起こった悲劇を「なかったこと」にしたり、事実を捻じ曲げる人が増えました。人間として「さもしい」人だと思います。そんな人が、これからの事を語る姿を見ると「お前は神か」と聞いてみたくなります。
 守るべきものと、変えてよいもの、変えなければいけないもの。
この三つの区別ができないと、なんでも壊したり、意味もなく固執したりします。
 美しいと思うことは、人によって違います。嫌だと思うことも人によって違います。それを許容しあうことは、生物の存続に関わることです。野生の動物は無意味に他の生き物を殺しません。自分のテリトリーを守りますが、生きるために必要なテリトリーだけです。
 音楽を創造=想像できるのは、人類だけです。その私たちが、音楽を楽しむ時に考えるべきは「守るもの」と「美しいもの」だけで良いと思います。
それ以外のことは、他人の価値観に委ねても、自分の大切なものは守られるはずなのです。他人の価値観を踏みにじるのは、愚かな行為です。認め合えば、音楽も平和も守れると思っています。
話が大きくなりすぎてすみません!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

目指す演奏って?

 動画は、クロード・アシル・ドビュッシーの「美しい夕暮れ」をヴィオラとピアノでライブ演奏したものです。原曲は「歌曲」です。フランス語で歌われる音楽を、ヴィオラで演奏することは、作曲者の意図したものと違うかもしれません。
原曲が管弦楽曲で、それに歌詞をつけて歌っている音楽も多いので、「反則!」とは言われないかな?
 今回のテーマは、どこまでもゴールのない?自分ができるその時々で「最善の演奏」です。

 さて、こちらはCDに収録した同じ曲です。自宅で何度か演奏しなおして録音した「美しい夕暮れ」お聴きになって違いを感じられるでしょうか?
 どちらも自分では満足のいく演奏ではありません。「なら演奏するな!」と言われても返す言葉はありません。その時点で自分と自分たちの出来る「最大の努力」をした「最善と思われる演奏」です。聴く人によって、満足感が違うのは当然のことだと思います。

 生徒さんが一生懸命に練習して、レッスンで「合格」して喜んでくれる姿がまぶしくて、とてもうれしく思えます。どんな人でも、その時点で最高の演奏があると思っています。楽譜通りに演奏できることを目標にする段階は、誰にでもあります。ゆっくりしたテンポでなければ演奏できないレベルもあります。途中で音がかすれたり、鳴らない音があったりしても、頑張って演奏した「成果」がその時の評価であるべきです。「もっと練習すれば、もっとじょうずにひける」のは当たり前です。一気にじょうずになれる?はずがありません。
小学校卒業の学力で突然、東京大学の入試を受けても受からないのと同じです。
勉強の場合、目指す進路に合わせた積み重ねの勉強方法があります。
ヴァイオリンやピアノの場合は、どうでしょうか?

 音楽の学校に入ること、コンクールで優秀な成績をとることを「目標」にするのは正しいと思いますが「目的」ではあり得ません。むしろ、それから先の道の方がはるかに長く、険しく、楽しいのです。
 趣味で演奏する人でも、プロの演奏家でも「目指す演奏」があるはずです。
間違えないこと・速く演奏できること
誰でもが思う「目指す演奏」ですよね。
では、それ以外になにを目指して練習しますか?
「それさえできないのに」と笑わないでください。
もちろん、速く・正確に演奏できる技術は目指すべきです。
人間が演奏し人間が聴く「演奏」は本来、その演奏の時だけの「一度きり」の芸術です。録音されたものを聴くことが出来るのは、便利でありがたいことですが本質的には音楽は「時」と共に終わり、印象と言う記憶に残るだけの存在だと思います。再現性は重要ですが、いつも同じ演奏が出来ると思う方が、どこか間違っているように感じます。
 練習して「間違えないで何度でも演奏できる」ことを目標にするよりも、一音ずつにこだわり、フレーズにこだわり、ひとつの曲として伝えられるものにこだわることの方が、人間らしい音楽になると思っています。
 感情の生き物である人間が、いつも同じ感情で演奏できるはずもなく、聴く側にしてもその時々で、感じるものが違うはずです。
 正解もない、間違いもないのが自分の好きな「音色」だったり「揺れ」だったり、もしかすると「ゆがみ」だったりするのではないでしょうか?
 完璧を目指すよりも、好きな音色を探し好きなテンポを考え、好きなビブラートを考え続けることが音楽への向き合い方で良いと思います。
 演奏を間違えないだけなら、AI技術を使って機械で演奏すれば、絶対に間違えません。その場限りの芸術だからこそ、自分の好きな演奏を探す努力に時間をかける「意味」があると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

出来ない時には

 この演奏は、私たちが最初に開いたデュオリサイタルの時のブラームス作曲ヴァイオリンソナタです。20年間の教員生活を終えて、うつ病を抱えながら音楽教室を経営し、やっと病気から抜け出して、改めてヴァイオリンに向き直った当時の演奏です。この時から、すでに14年以上の年月が流れました。いま聴くと、どこかたどたどしい(笑)演奏です。二十歳の時、初めてリサイタルで演奏したのがこのブラームスでした。

 生徒さんを教えている立場で、「自分はうまく演奏できない」と言うとまるで「嘘つき」か「詐欺師」のように思われそうですが、正直に言って自分のできないことだらけなのが真実です。
 出来ないレベルが違う?人それぞれに「苦手」なことがあるように、なんでもできる「ように見える」人でも、きっとできないと思うことはあるのだと思います。隣の芝生はなんちゃら(笑)です。
 さらに深く考えれば、周囲からは出来ていると思われていることでも、本人は「出来ていない」と思っていることも多いのではないでしょうか。逆から言えば、自分が出来ていないと悩んでいることも、他の人から見えれば「本当に出来ている」と感じられているかも知れないのです。

 練習が嫌いでした。練習しても出来るようになる「実感」がなかったからだと思い起こします。親に言われて練習し、レッスンで先生に「音程!」と注意される繰り返しでしたから、練習したくない少年(元)の気持ちが理解できます。
出来ない、ひけないと思う以前に「演奏しなきゃいけない」と思ったのが、音楽高校の受験をすることになった時でした。うまくできているか?考えることすらできませんでした。師匠のレッスン以外に、兄弟子のレッスン、さらに入試でピアノ伴奏をされている先生のレッスン、さらに週に2回の聴音レッスン。
自分がなにもできないことは、最初にわかっていたつもりなのに、レッスンのたびに「できていない」ことを思い知らされました。いまも手元にある当時の聴音ノートには、涙で真っ黒になった楽譜と先生の赤い「直し」が書き込まれています。出来ないから練習する。当たり前ですね。出来るようになりたいと、自分から言い出したのですから。

 こんな特殊な例は別として、出来ないと思ったことを、出来るようにするための「コツ」はなんでしょう?こんな特殊な体験をした私の立場で考えます。
「できない」と思わないことですね。かといって、できるようになると「信じなさい」と言われてもねぇ(笑)無理でしょう。
 出来ないのではなく、「やり方が間違っている」と考えるのがコツではないでしょうか。あるいは「見方が間違っている」のかも知れません。
 自分ができないと思っていることに対して、苦手意識を持つのは当然です。
諦めたくなるのも「やってもできない」と思い込んで「やらない」からです。
つまりは「思い込み」こそが、できない理由の一つなのです。
 納豆を食べたことがなかった私は、納豆の匂いが大嫌いでした。
ある時、学食で納豆だと気づかずに食べて「しまって」以来、納豆が大好きです。
 クライスラーの「序奏とアレグロ」の2ページ目中央辺り(笑)を高校生の頃に「むり」と諦めて依頼、数十年「むり」と思い込んでいました。デュオリサイタルでプログラムに入れる決心をして楽譜を「じっくり」読み解いていくと?
クライスラーの「癖」が呑み込めて、普通に演奏できることを知りました。
 自分の力だけで家を建てるのは無理。本当にそう? 少しずつ学びながら時間をかければ、家だって建てられると思わない?と、聴音を教えて下さった恩師「黒柳先生」が何度も私に言ってくださいました。聴音なんかできないと、無言で泣いている私に優しく言ってくださいました。

 ヴァイオリンの演奏で、物理的に演奏できないことは楽譜に書いてありません。仮にそう書いてあったとすれば、作曲者が「違う意図」で書いている場合です。バッハが3つの音を「付点2分音符」の和音で書いています。物理的に無理です。
 チャイコフスキーヴァイオリンコンチェルトは、作曲当時「演奏不能」と酷評されました。いまは?中学生がコンクールで演奏しています。物理的に演奏不能なのではなく、難易度が高いだけだったのです。
 ヴァイオリンのためにかかれている楽譜は、演奏できるはずなのです。
間違った指使いの数字や、ダウン・アップの印刷間違いは良く見かけます。
ひどい例だと「A線で演奏」という指示がありながら、A戦では演奏できない低い音が書いてあったり(笑)調弦を下げろと?こんな間違いはあり得ます。
 生徒さんに良く見受けられるのが、指使いを考えられずに「演奏不能」状態に陥ってやみくれているケースです。自分で「演奏できる指使い」を考えられるようにならないと、楽譜にかかれている音をどうすれば?演奏できるのかが、わからないのは当たり前です。これは経験と知識が必要なのであって「出来ない」のではありません。

 速く演奏できないという「出来ない訴え」が生徒さんの中でトップ10に入ります。ゆっくりなら演奏できるのに、ある速さを超えると、音がかすれたりピッチが外れたりする現象です。解決する「コツ」は。自分が演奏している運動を、観察することです。
・腕や指の筋肉の緊張が、無意識に強くなったり弱くなったりしいてる場合。
・必要以上の運動を無意識にしている場合。
・右手と左手の同期が出来ていない場合。
多くのケースはこの3つの原因です。それぞれに解決する練習が考えられます。
複数の原因が重なっている場合があります。ひとつずつ原因を探していく「観察」が不可欠です。
そして、一度に複数の原因を解決しようとしないことです。
関連していても、ひとつずつの原因に対して「治療=矯正」をひとつずつ行うことが唯一の解決策です。

 「ビブラートができない」これも多いお悩みです。以前のブログで書きましたが、人によって出来るようになる期間が違います。つまり、できない原因が違うのです。実際にその生徒さんに対して、色々な問診と触診(これ、気を遣うので難しい)をして、生徒さん自身が試してみないと原因が判明しないケースがほとんどです。むしろ、偶然にビブラートが出来るようになってしまう人もいますが、なぜ?どうやって?出来ているのかを言語化できないのが特徴です。
 力が足りない場合と、力が多すぎる場合があります。本人の意識、無意識にかかわらず、ビブラートが出来る「ポイント」を見つけることがコツです。
 なによりも、音の高さを聴き続ける「聴く技術」を高めないと、ビブラートが出来ているのか?どんなビブラートになっているのか?を判別できません。そのためには「平らな音」つまりビブラートをかけずに、均一な音色・音量・ピッチの音を出す練習を「聴きながら」続けることが必要です。

 一番難しい「できない」が、「他の人のようにうまくできない」というものです。この悩み自体が「自己矛盾」していることにまず、気付かないと解決できません。
 自分の演奏を他人と比較しているのは?自分自身です。他人からの比較ではありません。自分で「勝手に思っている比較」なのです。
そもそも比較とは、比較される人やモノ以外の「人」が行うものです。
特に「うまい・へた」という主観的で正解のない比較をすること自体が間違いです。数値化できないものの比較は、あくまでも人の主観で変わるものです。
ましてや自分の演奏を自分で他人と比較するのは、愚の骨頂です。
他人からの評価は甘んじて受け入れるべきですが、自分で他人との比較で思い悩むのは無意味です。

 苦手なことを克服するという意識の中に、すでに思い込みがあるのです。
自分の身体にとって「害」になるものに対して、アレルギー反応が起こりますよね?体質の問題、たとえばアルコール分解酵素の少ない人が多いのが日本人です。その人が無理にお酒を飲めば、アルコールを分解できず苦しむことになります。医学でまだ解明されていない「拒絶反応」がたくさんあります。事実、寒暖差アレルギーや気圧による体調不良は、最近になって「症状」として認知されるようなったばかりで原因は解明されていません。ですから、本当に「できない」ことも事実あるのです。
 思い込みで出来ないと感じることは、結果的に得られる喜びや達成感を、自ら放棄していることにもなります。努力する時間、練習する労力は節約できますが、どちらを取るかはその人次第です。努力して頂上に登りたい「山愛好家」とみているだけで十分!という「平地族」の違いです。
 ぜひ!思い込みから抜け出して、新しい角度から自分の演奏を見つめなおしてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

時を体感する

 映像は、アルボ・ペルト作曲の「シュピーゲル イン シュピーゲル」日本語に訳すと「鏡の中の鏡」というタイトルの曲です。
一定の規則、「常にAで解決する」ではじめは、Aの一音下のGからA。次は一音高いBからA。FGA。CBA。GFEA、BCDA…と常に「対象」の音型で音楽が進む様子が、まさに鏡に映った鏡の映像のように感じます。

 今回のテーマ「時」は、音と同様に目で見ることは出来ません。
音楽を演奏する時、この「時」はとても重要な意味を持っています。
音符や休符の長さは、つまるところ「時間」です。聴いていて速く感じる音楽とは、短い時間演奏される音「短い音」が連続する音楽です。鏡の中の鏡で考えるなら、ピアノは一秒間に3回演奏されるほどの、一定の「長さ」の音符を弾き続けています。一方ヴァイオリンは、2秒または3秒の長さの音を連続して演奏しています。聴いている人には「ゆっくりした音楽」に感じるはずです。

 時間、時刻、時計、時空。時という漢字を含む熟語はたくさんあります。
時間を考える時に、秒、分、時間という単位の他に、日、週、月、年といった長い時間の単位も、何気なく使っています。地球の歴史や天文の話になると、私たちの感覚では理解できないような「長い時間」も出てきます。

 一方で音楽の世界では、全音符の半分の時間=長さが2分音符。2分音符の半分の長さ=時間が4分音符。つまり、秒という単位ではなく、「比率」で音符と休符の「長さの比率」を決めています。比率が決まっているだけで実は「速さ」は決まっていません。速さは通常、基準になる音符=1拍として定める音符の「時間」で決まります。たとえば、4分の3拍子の音楽ならば、基準となる1拍が「四分音符」です。その四分音符の長さを決めることで、音楽の速さ=テンポが決まります。1拍を1秒なら、1分間に60回四分音符という表記で、テンポを表します。4分音符1拍が1秒なら、16分音符のひとつ分の「時間」は?0.25秒。
普通、考えませんね。でも事実としてその時間、演奏しているのです。

 さて、今度は日常生活での時間について考えます。
好きな事をしていると、「時間を忘れる」ことがあります。
一方で、イライラしている時、たとえば病院で呼ばれるのを待っている時などは、時間が長く感じます。同じ速さで、時間が過ぎているはずなのに。
人間の感じる「時間」は案外といい加減なものなのです。
心臓の鼓動「心拍」は、運動したり驚くと速くなります。逆にゆっくりなるのは「眠っている時」です。一日が長く感じたり、一週間が短く感じたり、1年が…感じ方は、その時々で変化します。

 楽器の練習をしていて、時間を忘れることがありますか?(笑)
子供は正直ですから、飽きるとすぐに練習をやめるものです。「疲れた」「手が痛い」「足が痛い(謎)」色々理由をつけて、練習をやめようとします。親は「30分、頑張る約束でしょ!」と鞭をふるい、「頑張ったらおやつをあげるから!」と飴をだしながら。練習の内容と時間は、「必要な」という冠言葉を付けないと意味がありません。必要な練習時間は、練習したい内容によって変わります。長ければ良いというものではありません。

 コンサートの時間について、感じることがあります。
なぜ?多くのコンサートが開演から終演までが「約2時間」なのでしょうね?
開場時間は、開演時間の30分前というのがほとんど。
休憩時間は15~20分が多いですよね。
これ。誰が決めたんでしょう?考えたこと、ありませんか?
 映画は大体2時間。途中に休憩はないのが普通です。映画館でドリンクを飲みながらポップコーンを食べながら過ごす時間は「至福の時」ですがなぜ?2時間なのでしょう。
 昔なら、映画上映のフィルムの長さに決まりがありました。ニューシネマパラダイスを思い出します。映画の途中でフィルムを入れ替えるシーンがありました。
 レコード全盛だった時代、30センチLPの片面の収録時間に制限がありました。途中で音楽が切れて、裏面にひっくり返して続きを聴きました。
カセットテープには、色々な長さのテープがありました。
30分(もっと短いものもありましたが)だと、片面15分録音できました。
45分。60分。90分。120分のテープはテープの厚さが薄くて、伸びてしまったり切れてしまう事故がありました。
 さて、コンサートの時間はどうして?

 演奏する人の体力と集中力だけで、コンサートの長さを決めますか?
聴く人の体力も考えることも大切だと思います。もちろん、演奏時間や上演時間を、内容を理解した上で来場する人なら、たとえ4時間かっかる演奏会でも喜んで聴くのは理解できます。映画なら「上映時間」が必ず書かれています。
 人間の感じる「長い時間」はどのくらいなのでしょうか?
テレビ番組で考えると、15分に一度くらいコマーシャルが入ります。
その昔、野球中継をテレビで見ていてコマーシャルの間に、トイレに行った記憶があります。私だけ?ゲバゲバ90分という番組が流行したとき、90分の番組がいか珍しかったか思い出します。
 自宅ではなく、会場に出かけていくのにかかる「時間」もあります。
片道1時間かけてコンサート会場に行って、30分の演奏だとちょっと…という感覚はありますよね?満足感と「時間」のバランスは、とても微妙です。

 作品自体が長い場合、演奏者にはどうすることもできません。
作品の一部だけを演奏することは、作者に申し訳ない気持ちもあります。
ソナタやコンチェルトを全楽章、演奏するのが作曲家への敬意だとも思います。
映画やドラマの「抜粋」と近いものです。それでも楽しめる人はいます。
マーラーやブルックナーの音楽を聴くのが、好きな人と我慢できない人に分かれます。好みの問題、価値観の違いですからどちらも正しいと思います。
どちらかの考え方で「理解できない人が劣っている」とか逆に「時間の無駄だ」と公言するのは、いかがなものかと思います。激辛ラーメンの好きな人も嫌いな人もいるのですから。

 音楽は「時間」の中で存在する芸術です。もちろん「空気=空間」も必要ですが。
絵画の場合には、時間という概念がなくても美しい芸術です。音楽をマラソンのように、休みなく音を出し続けることが目的の「スポーツ」のように扱うのは間違いです。

 聴く人が時を忘れ、楽しめる「空間」が音楽です。
時間が長く感じるのは、肉体的な疲労と精神的な疲労の両面が関わっています。
 心地よい時間を演出するのが音楽会のあるべき姿だと思います。

音楽を学ぶための音楽は、音楽の本質ではないと思います。
その時間のために、練習する時間を必要とします。音楽の音符や休符に使われる時間を大切にすることから音楽を考えると、私たちが感じる「時」を大切に感じることが出来ると考えています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学校オーケストラ

 国内の中学校・高等学校での部活動オーケストラで楽器を楽しむ子供たちと、趣味で楽器を演奏する子供・大人との共通点、相違点を考えます。
上の動画はどちらも、私が20代から40代まで勤務していた私立中・高の部活動オーケストラ、定期演奏会の映像です。場所は横浜みなとみらい大ホールです。
二つの映像は実施年が一年違いますが、どちらが先か?わかる人はいないと思います。(実際に演奏した元生徒以外は)
 総勢150名という大所帯のオーケストラですが、開校当初は11名でした。20年かけてこの規模に育ちました。
 練習は週に一回の合奏。後は生徒の自主的な練習です。下校時間は中学生午後4時30分。高校生が午後5時でした。外部からの実技指導者を呼ぶことは、基本的に許されていませんでしたが、退職数年前からは数名の指導者を呼べるようになりました。
 要するに、「普通の部活動」の範囲内で活動してきた「普通の部活動」だったと断言できます。「いや。普通じゃない」「楽器は?」「演奏会の費用は?」など、様々な疑問があると思います。もちろん、それらの「壁」がありました。それを一つずつ乗り越え続けた結果の映像です。
当然ですが、こうした活動には「反対意見」が付いてきます。
部活動は学校教育の一部です。私立ならではの「制約」があります。
学校経営者や管理職の意向に逆らえば「即、くび」になります。
「部活動とは!」という概念さえ、管理職の思った通りになるのが私立です。
その中で子供たちのオーケストラを育てることは、常に管理職との闘いの日々でした。

 さて、音楽の話をします。学校で練習できる生徒たちは、朝、昼休み、放課後の中で、自分の都合のよい時間で、練習することができます。もちろん、顧問教員が校内にいることと、登校時間、下校時間の制約の中でです。
 生徒によって、練習できる時間には差があります。登下校に時間のかかる生徒、塾などに通うう生徒、ほかの部活と「兼部=掛け持ち」している生徒など、事情は様々です。週に一度の合奏だけは、「可能な限り」参加することを求めました。合奏に参加できない生徒にも、参加する権利がありました。
 ほとんどの生徒は4月に入学した時点では、楽器未経験者です。中にはピアノを習って「いる」または「いた」という生徒も、ちらほらいましたが多くの生徒は楽譜を読むのも危なっかしい、ごく普通の子供でした。
 それらの生徒がオーケストラに憧れ、または在校生の部員に勧誘されてオーケストラのメンバーになります。当然、楽器も持っていません。
 開港当初は、学校に少しずつ購入してもらった楽器で練習していました。
学校取引業者から、一番安いほうから「2番目」レベルの楽器を買いそろえました。ヴァイオリンで言えば、当初はセットで7万円程度のものでした。
やがて、部員が多くなり「過ぎて」学校の備品で賄いきれない人数の部員になるころ、開校から10年以上経っても開校時の楽器は、十分に使用できる程度の「維持管理=メンテナンス」をしていましたが、備品の数が足りません。
 そのころになると、多くの生徒が自分の楽器、つまり「親が買ってくれた楽器」を持つようになりました。当然、保護者の理解がなければ、10万円程度の楽器を購入してくれるはずはありません。ちなみに、楽器の個人購入は、入部の条件ではありません。学校の楽器だけで活動したいという生徒には、学校の楽器を使用してもらいました。

 学校以外で趣味の楽器演奏の場合、教室の楽器を「レンタル」で練習する生徒さんもいますし、それおぞれのお財布に合わせた金額で、楽器を購入する生徒さんもいます。その点で、部活動と同じです。
 練習できる時間も、人によって違うことが共通しています。
「合奏」があるヴァイオリン教室は少ないですね。
相違点はそれだけでしょうか?

 部活動の場合、新入生を教えるのは「先輩」ですから、いわば素人です。つまり、「素人が素人に素人のできる技術を教える」のですから、間違った演奏技術、練習方法で教えることがほとんどです。
 さらに悪いのは、合奏を指導する人=多くの場合顧問が「素人」である場合です。
誤解されそうなので、ここで言う「素人」には、2種類の意味を持っています。
・楽器演奏を上達させる指導の「素人」
・学校教育の目的を理解できない「素人」
です。前者の場合、どう練習すれば上達するのかを知らずに指導する人です。
後者の素人は、教育活動の範囲を超えて、やみくもに技術向上に走る人です。
どちらも、学校部活動の指導者としては、不適任です。
学校で音楽系の部活動を指導するのであれば、教諭=学校教育の専門家と、プロの演奏家=音楽指導の専門家で「ペア」を組むことで解決できます。

 学校外の「音楽教室」で教えているのが「専門家」だと思われがちですが、
実際のところ先述の「先輩」程度の人=「趣味で演奏できる人」が、生徒さんからお金をもらって教えている場合が見受けられます。
 そもそも「音楽指導者」という資格は存在しません。学校の教諭には当然、国家資格が必要です。もっと言えば「音楽家」という資格も存在しません。
これまた誤解されそうですが、音楽大学を卒業した人を音楽家と言っているわけではありません。

 ご存じの通り、ン 五嶋龍さんは「音楽大学」卒業ではありませんが、世界的な素晴らしいヴァイオリニストですから。むしろ、音楽大学を卒業していても、専門技術、ましてや指導技術の乏しい卒業生も多いのですから「音楽教室は音大卒業生が教えなければならない」とは思いません。
「教えられる技術があるかないか?」です。

 最後に、「モチベーション」について。

この動画は、先述の部活動オーケストラ定期演奏会、最後の一コマです。
引退する高校生と、それを同じ舞台で見送る後輩の中学生・高校生。
一種の卒業セレモニーですが、この生徒たちの涙は純粋な涙です。
入部したばかりの中学1年生も同じ舞台に立って先輩の後ろ姿を見ています。
客席には、この生徒たちにあこがれる「未来の部員」がたくさん見ています。
「あの舞台に立ちたい」「一緒に演奏したい」と入学試験を受ける受験生が多くなったのもこの時期です。学校は「あえて」その事実を隠しましたが(笑)
楽器をひきたいというだけの気持ちの先にある「夢」がモチベーションです。
子供であれ、高齢者であれ、自分の夢のひとつに「あんな風にヴァイオリンをひけたら」という夢があっても良いと思うのです。
 プロの演奏家を見て「あんな風に」とはなかなか思えません。
ところが、部活動だと?同じ年齢に近い人たちが「目標」になるのですから、この違いは、ものすごく大きいのです。
 音楽教室でコンクールを積極的に受けさせる先生も多いのですが、目的はこれでしょうね。生徒の「モチベーション」を維持させるための手段。もちろん、技術向上や自分の技術のレベルを知るためにもコンペディションを受けることは無意味だとは思いません。
 ちなみに、部活動内でモチベーションを高めるために私がしていた指導の一つは、「演奏したいポジションを公開オーディションで決める」という方法です。最終的なポジションは、指揮者であり顧問だった私の一存で決めていましたが、他の部員も見ている中で、自分が演奏したい「席」に、抽選で座っているたの部員に対して「挑戦」します。挑戦された側は公開のオーディションを受けるか、自ら引き下がって挑戦してきた人の席に移動することを選びます。一種の「下剋上」です。うしろに下がるための「挑戦」は認められません。これも、生徒たちにとって、「やりがい」にもなり「緊張感」にもつながる方法でした。
 どんなコンクールを受けるより、自分たちの仲間をライバルにすることが何よりも大切な緊張感だと思っていました。
 趣味で演奏するひとたちに。
まず!自分の先生の演奏を「目標」にしてください。
指導者は生徒が自分より、じょうずになること=じょうずにすることが目的なのです。生徒の立場で「先生を目指すなんて失礼」だと勘違いする人がいますが、先生を目標にしないことの方が、よほど失礼ではないでしょうか?
先生の前で「〇〇さんの演奏って、先生より素敵」!」って言えます?(笑)
先生の技を盗む。先生の演奏を真似る。先生が弾いている時に観察する。
それが最大の「モチベーション」につながると考えています。
私はレッスン中に、生徒さんと一緒に演奏することがよくあります。
この方法は「希少」らしいのですが、一緒に弾くことで生徒さんが感じられるものがたくさんあります。
百聞は一見に如かず
と言いますが、
百言は一音に如かず
だと思っています。言葉で言うより、弾いて感じさせるレッスン。
ひとりても多くの人に、長く楽器演奏を楽しんでもらいたいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏中に考えること

 動画は世界的なフルーティスト「エマニュエル・パユ」が語る素敵なお話です。今回のテーマは、他人からは見えない「演奏中に考えていること」です。

 ヴァイオリンを練習する生徒さんたち、特に大人の生徒さんが陥りやすい「本番になるとうまく演奏できない」というネガティブな思い込みがあります。
また、本番に限らず練習中に、なにを考えながら演奏すれば上達できるのか?という問題があります。
 人それぞれ、演奏中に考えていることは違います。同じ人、例えば私の場合は同じ曲を弾いている時でも、恐らく違うことを考えています。ですから「正解」を出すことは不可能ですが、多くの生徒さんに聞いていくうちに、あるパターンを見つけました。

 初めて練習する曲の場合、当然ですが楽譜を音にすることに集中します。楽譜を使わないで練習する人の場合は、音を探すことに集中します。この段階で、音色に集中している生徒さんは、ほとんどいません。仕方のないことですし、順序で言えば間違っていません。

 その次の段階で何を考えているでしょう?多くの生徒さんが「間違えないこと」を考えます。うまく演奏できない部分を繰り返し練習するのが一般的です。
その時にも「間違えない」とか「失敗しない」ことを考えています。
ここからが問題なのです。

 ひとつには、うまく弾けない原因を「考える」事を忘れがちです。
さらに、同弾きたいのか?を試すことが必要です。陥りやすいのが「繰り返していればいつか弾けるようになる」という思い込みです。確かに、繰り返す練習は必要ですが「どう弾きたい?」を探さずに繰り返しているうちに、ただ運動だけで間違えないようにする練習をしてる場合がほとんどです。
 練習で思ったように演奏できるようにすることは、言い換えれば自分が今、どう弾いていてそれをどうしたいのか?という根本がなければ、うまく弾けない原因も見つけられないのです。初めから「こう弾きたい」というレベルではない!と思う人も多いのですが、思ったように演奏できない原因を探すために、現状を分析することに集中すれば、自然に自分の弾きたい「速さ」や「音色」や「音量」を考えることになります。

 体調がすぐれない時、お医者さんに自分の病状を伝えますよね。
身体のどの辺りが、どう痛いとか。その症状から医師が原因を推測するために、さらに検査をします。そして出された「病因」を解決するための治療や処方をするのが「順序」です。病状がわからないと、治療には結び付きません。

 ヴァイオリンを演奏しながら、なにを考えていますか?何に集中していることが多いですか?無意識にただヴァイオリンを演奏し続けていないでしょうか?
本番で、過緊張にならないために自分を信じることができ、考えなくても自然に自分の弾きたい演奏ができる「理想」を持つのであれば、練習中には考えることが必要だと思います。次第に、考えなくても「思った通り」の演奏が自動的に出来るようになるプロセスが必要です。勉強をまったくしないで「私は東大にいきます」と思って受験しても受かりませんよね?偶然を待つのは間違いです。失敗するのも、うまくいくのも「偶然」で片づけるのは簡単ですが、努力する段階で「偶然」を期待するのは間違いです。

 私は練習中に、自分が思った通りの演奏をしている「イメージ」を作ることに努力しています。そのために、一音ずつの「理想」と「現実」を常にチェックします。本当はどんな風に演奏したいのか。今、どんな音で演奏していたか?どうすれば…弓の場所、圧力、速度、ビブラートなどをコントロールすれば出来るのか?を考えます。考えて「これかな?」と推測した演奏方法で繰り返します。違えば修正して、また繰り返します。そのイメージを頭に作ります。右手の動き、弓の動き、左手の動き、音の高さ、音色、音量を「ひとつのイメージ」にまとめる練習を繰り返します。一度に複数の事に集中することは不可能です。
「ひとつのイメージ」になれば、それを思い描き、再現することに集中することは可能です。

 音の高さだけに固執しない。弓の使い方掛けにも固執しない。
自分の「理想」をイメージするための長い道のりですが、結局のところ「思ったように演奏できた」と言えるのは「思っていなければできない」という事なのです。音の高さだけを、間違えないで演奏できてもダメですよね?いくら、良い音でも音の高さが外れていたら、これもダメですよね?それらを「合体」させたイメージを作るために、常に音に集中して練習することをお勧めします。
自分の演奏する「音」にすべての答えがあるのですから。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?初心者向けの曲が少ない?ヴァイオリン

 映像は、エドワード・エルガーの作曲した「6つのやさしい小品」という曲です。エルガーはイギリスの第二国家とも呼ばれる「威風堂々」や、「愛の挨拶」を作曲した人です。
 この曲は、1曲目から6曲目まで、すべてを「ファースト(第一)ポジション」で演奏できるように書かれています。と言うよりも、ファーストポジションしか演奏できない初心者が練習すRために作られていると言っても過言ではありません。初心者の…と言っても、音楽として考えると、とても素敵な音楽だと思いませんか?それぞれの曲は、数分で弾き終わる長さで、小節数から考えてもそれぞれ、長くても数十小節で終わります。
 最初の曲は、ほとんどの音符が四分音符で、臨時記号も数箇所だけで、あとの「幹音(CDEFGAHの白い鍵盤の音)だけで書かれています。
すべての曲が、それぞれに「目的」を持っているように感じます。
リズムと弓の配分、スタッカート、スラー、長調と短調など、ヴァイオリンの初心者に「技術」を意識せずに「音楽」として練習できる「楽曲」として完成しています。

 上の2曲は私たちのリサイタルで演奏されることの多い「歌」をピアノとヴィオラで演奏したものの一部です。ふるさと、瑠璃色の地球。
どちらも、素敵な旋律=メロディーと、これまた素的ピアノの和声=和音で作られています。特に、ピアノの「アレンジ」が歌を演奏する時の大切な要素になります。当たり前ですが、ヴィオラで「歌詞」は演奏できませんが、歌詞を意識して演奏しています。

 最後に、初心者ヴァイオリン奏者の、技術向上を目的にした「音楽」が少ない理由について考えます。
 練習用の「練習曲=エチュード」と「音階教本」は何種類も、販売されています。特に、左手の指を独立させて動かす「運動」を分類した練習用の楽譜、例えば「シラディック」や「セブシック」と言うタイトルの練習楽譜が主に使用されます。その中でも、ポジション練習のための「作品=巻」のように、特定の技術習得に特化した楽譜です。
 一方で、「カイザー」や「クロイツェル」「フィロリロ」など、練習用の「独自の音楽」を徐々に難易度を高くしながら練習できる「練習曲集」があります。
国内だと「新しいヴァイオリン教本」や「鈴木メソード」、「篠崎ヴァイオリン教本」などがすぐに手に入ります。ただ、収録されている音楽は、ヴァイオリンの技術向上を目的にした音楽ではなく、「演奏できるようになったら楽しい」という程度の段階で、曲が並べられています。特に巻が進むにつれ、有名な既成の協奏曲の一部や、小品がそのまま収録されているだけです。オリジナルの曲はほとんど入っていないのが現状です。

 音階の教本は「カール・フレッシュ音階教本」が、音階練習の「バイブル」ともいえる集大成です。すべての調で、ありとあらゆる「音階とアルペジオ」の楽譜が書かれています。一生かけて練習するための「経典」に近い?(笑)
簡単な音階の教本もありますが、本当の意味で音階を練習したいのなら、このカール・フレッシュを練習するしかありません。

 ヴァイオリン初心者に向けた音楽が少ない理由は、とても簡単です。
「作曲されていないのです。」
なぜ?世界中の作曲家たちが、ヴァイオリン初心者のための曲集を書かなかったのか?昔から、ヴァイオリンを教える先生、教わる生徒がいました。昔から「天才ヴァイオリニスト」と呼ばれる名手がいました。みんな最初は「初心者」でした。そしてみんな習ったのです。その時になんの曲を?どんな曲を練習したのか?記録がありません。ただ言えることは「楽譜を読む技術」は別のレッスンで身に着けて、ヴァイオリンの演奏技術だけを習うために「特定の音楽」がなくても練習できたということが言えます。
 ヴァイオリンの演奏技術は「ピッチの正確さ」と「ボウイングの技術」に集約されます。指導者によって、指導のプロセスが全く違います。ある先生は、ひたすら開放弦だけを練習させます。ある先生は、音階だけを練習させます。また違う先生は、持ちきれないほどの教本を買わせて練習させます。どれが正しいとは言えません。
私は「生徒の技術と知識、年齢と目的によって」指導方法を変えます。教本も変えます。楽譜の読めない生徒さん、読めなくても良いから演奏したい生徒さんなど様々です。その生徒さんに応じて、指導方法を変える「引き出し」を持つことが指導者の技術だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

簡単そう…が難しい

 

動画はアザラシヴィリ作曲の「ノクターン」をヴィオラで演奏したものです。
この曲の動画、ものすごくたくさんアップされています。プロと思しき方もいれば、趣味と思われる演奏まで。言い換えれば「簡単そうな」曲なんでしょうね。
確かに「譜面=ふづら」は決して難易度の高いものではありません。

 プロなら、どんな曲でも弾けるでしょ?
とっても答えにくい質問です。
確かに「その曲は弾けません」と答えて「プロ失格」と言われても反論できない一面があります。「弾けない」というレベルの問題なのです。
先述のノクターンを趣味で弾けるレベル。もちろん、趣味で演奏する人なら、自分自身が「ひけた」と思えればそれで良いのです。
一方で、お客様が支払ったお金に見合う演奏を求められるのが「プロ」だとすれば、自己満足は許されないと言えます。ただ、すべてのお客様が満足できる演奏、違う言い方をすれば「弾けている」と思われるか?「弾けていない」と感じられるか?が問題になります

こちらは、「チャールダーシュ」の演奏です。読み方は色々あります。チャルダッシュでも、チャルダーシュでも、読む国の人の発音で聞こえ方が違う「名前」に、異常なほどにこだわる人って、私は好きになれません。あ、話がそれました。
 この曲を聴くと「難しそう」に感じる人が、とってもたくさんおられます。
ある意味で「ありがたい」(笑)演奏会の最後にアンコールで演奏すると、まず間違いなくお客様に喜んで頂けます。何と言っても「派手!」ですから。
 変な言い方ですが、難しそうに聴こえる曲が、本当に難しい場合も当然あります。練習してみないと感じられない「難しさ」です

 食べ物に例えていうと、白いご飯を美味しく炊く難しさって、ありますよね?
もちろん、味へのこだわりによって個人差があります。シンプルな料理、簡単そうで誰にでもできそうな料理ほど、味の差を感じることがあります。
たまご焼き。お味噌汁。自分で作るカレー。それぞれの「家庭の味」があります。一方で、手の込んだ料理の場合=家庭では簡単に作れない料理の場合、それが美味しいのか?美味しくないのか?判断する以前に、あまり食べなれない料理の好き嫌いって、感じられないものです。高級なフランス料理店で食べれば「おいしいんだろう」(笑)と思うのは私だけでしょうか?

 プロの演奏に対して、お金を払って聞いたお客様が満足できない場合に、拍手をしなくても構わないと私は思っています。演奏の妨害をするのは「論外のマナー違反」ですけれど。
 アマチュアの演奏に対して、評論家ぶってコメントを書く人って、案外多いのに驚きます。プロが聴けば、アマチュアの演奏だとすぐに分かる演奏に対して「へたくそ」とか「へんなの」とか。書いている人が「へんなひと」です。
そういう人には、優しく言ってあげたいものです。「おまえ、ひけるのか?」と。自分が出来ないことを、わかった様な口調で語る人。はっきり言って「きらい」です。酔っ払いか!と言ってあげたくなります。

 演奏だけを聴いて、その人がじょうずに弾けているのか、弾けていないのか?を判断できるのは、その演奏者以上の技術を持った人だけのはずです。その演奏者よりじょうずに弾けない人が、なぜ?下手だとか、弾けていないとか、言えるのでしょうか?先ほど書いた「満足できる」という観点とは次元が違います。
好き嫌いの問題と、じょうず・へたの問題は、違うのです。
F1パイロット(レーサー)が、時速300キロ以上の速度で、他の車とぶつからずに走ることが出来るのは「技術」です。その技術を持っている人は、世界中で何百人もいないのです。中継を聴いていると「えっらそうに!」語る評論家がいると音声を消したくなります。フィギアスケートでも同じです。その選手にしかできない、あるいは現代の選手にしかできない技を、失敗したときに「あ~…回転が…」とか「ほざく」解説者様。あなた、できるんですよね?まさか、できないのに「あー」とか言ってませんよね?と思うのは私だけ?

 話があっちこっち飛びました←いつもだろ!
演奏が難しいのか、簡単なのかを判断できるのは、実際に出来るまで練習した人だけなのです。もちろん、できなくてもその練習の大変さを知ることが大切なのです。挑戦しないで「出来ない」とか「無理」とか「簡単そう」とか、思うなら自分でひいてみることです。そして、他人の演奏に対して「簡単そうなのに」とか「あの人の方がじょうず」とか、批判を口にする前に、自分でやってみることです。何度も書きますが「好き嫌い」はあって当然です。理由などわからなくて良いのです。プロの料理人が作った料理に、ケチをつける素人を「野暮」と言います。でも、有名なお店の高い料理でも「好きじゃない」ことは、言っても構わないと思います。作った人を傷つけない範囲で、です。
 長くなりましたが、音楽は演奏する人が楽しみ、聴く人が楽しむものです。
どちらかが、あるいは聴く人の中に「楽しめない」場合もあり得ます。それを「へただから」と切り捨てたり「「簡単(そう)な曲なのに」と思わないことです。楽しむ心を持ちましょう。批判しても、なにも生まれません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


好奇心と音楽

映像はメリーオーケストラ定期演奏会で恒例の「指揮者体験コーナー」
今回のテーマは「好奇心」です。音楽を演奏したいと思う人の多くが、好奇心旺盛な人だと感じています。プロの演奏家の中で、音楽以外に興味を持たない人も、まれに見かけます。ちょっと偏っているように感じることもあります。

 

 いろいろなことに好奇心を持つ人の特徴は、「飽きっぽい」ことかも知れません。「浅く広く」趣味を持つ人と「深く狭く」な人に大別されることがありますが、「広く深く」もあるでしょう。「狭く浅い」趣味の人の事を「趣味がない」と言うのでしょうね。ちなみに私は理想が「広く深く」で現実は「浅く広く」です。性格的なものかな?

 好奇心は動物が持つ本能だと思います。子犬や子猫は初めて見るものに好奇心を持ちます。学習するうちに「警戒心」が芽生え、好奇心よりも自制心が強くなります。好奇心が薄くなって、いつも寝てばかりの生活になる、人や動物を目にします。本人がそれで満足なら、他人が口を出すことでもありませんね。

 音楽を演奏してみたいと言う好奇心は、いつの間にか薄らいでしまうものです。実際に楽器を手にして、音が出た時の感動も、時間と共に薄らいでいきます。楽器や音楽への好奇心が、変化するのは当然のことです。音楽以外の事に、好奇心が向くのも自然なことです。それは、小さい子供を見ているとよくわかります。次から次に新しいおもちゃを欲しがる子供もいます。でもやがて飽きて使わなくなるおもちゃの方が多くなります。大人の場合はどうでしょうか?
 大人になってから、それまで関心のなかったことに、好奇心を持つこともあります。高齢になってから新しい趣味を見つける人もいます。素敵なことだと思います。

 一般に「奥が深い」と感じることがあります。
表面的な事と違う魅力や難しさを指す言葉です。好奇心の多くは「表面的な事」への関心です。実際に練習して初めて知る「難しさ」があります。それが新しい好奇心になれば、掘り下げることができますが、好奇心を失えばその時点で「おしまい」になります。ひとつの好奇心から、新しい好奇心が生まれ、それが続くことこそが「上達の道」だと思っています。

 プロの場合にも同じことが言えます。周りの人から「素晴らしい」と言われ慣れてしまい、自分の演奏への好奇心を失ってしまう人を見かけます。
 逆にコンプレックスばかりが強くなって好奇心を失い、音楽から離れる人もいます。
 仕事として何かをする人にとって、常にその仕事に対して好奇心を持てるか?が分かれ目になります。同じ仕事でも、見方を変えることが出来ないと、マンネリ化します。演奏も同じだと思います。

 ただ楽器を演奏し続けていても、何も変化しないと思います。
曲に好奇心を持ったり、自分の身体に好奇心を持ったり、季節ごとの楽器の変化に好奇心を持ったり。いくらでも「知らないこと」があります。
 自分の考えを変えられない「偏屈」な人がいます。良く言えば「一途」とも言えますが、頭の中が幼稚園児のまま、大人になったような人っていますよね。
 そういう人の多くは、知らない事への好奇心よりも自分の知っている世界観の中だけで満足しているのでしょうね。成長が止まっているとも思えます。

 音楽の持つ、本当の奥の深さは私にはまだわかりません。
どこまで掘り下げても、新しい「謎」が出てきます。違う場所から掘ってみると、さらに新しい「謎」が生まれます。答えのない禅問答を繰り返している気がします。
 それでも趣味の音楽を楽しむ生徒さんたちには、少しずつでも手応えのある「質問」を投げかけ続け、出来る喜びを感じ続けられるように心がけています。
教室を2004年に作ってから今日までに、800人以上の人たちに音楽の楽しさを伝えていますが、当時から今もなお、習い続けてくれている生徒さんにも、常に新しい好奇心を持ってもらえるように、自分自身の好奇心を掻き立てながら、音楽生活を送っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者から考えるコンサートチケットの金額

 動画は、私たち夫婦が毎年楽しみにしている「ベルリンフィル12人のチェリスト」によるコンサートの映像です。ここ数年、コロナの影響で開催されず、寂しい限りです。
 サントリーホールでのコンサートに、過去何回か聴きに行っていますが、A席で10,000円ほど。この金額が「高いのか?安いのか?」
 結論から言うと、私たちはこの演奏会の「対価」としての金額は「納得できる」と思っています。安いのか?と問われれば、経済的なゆとりのない私たちにとって「贅沢な金額」であることは事実です。それでも納得できるのは、なぜでしょうか。そして、自分自身が演奏会を開く際の「料金」について感じることを書いてみます。

 前提として、演奏を食職業=生活の糧とする場合と、ほかに生活できる収入や財力がある場合で、状況はまったく違います。
 それは演奏のうまい・へたの問題ではありません。むしろ、聴く側=料金を払う側にとっては、興味のないことです。演奏者がお金持ちでも貧乏でも、関係ないのです。一言で言ってしまえば、聴く側にとってみれば、1円でも安い方がうれしいのは当たり前の事なのです。
いくらなら?コンサートに行きたいと思うでしょう。
聴く人の「お財布事情」と「価値観=隙からい」で決まります。
誰でも聴くことの出来る金額は「無料」以外、いくらでも同じだと言えます。
それが500円でも納得のいかない演奏会もあれば、30,000円払っても満足感の得られる演奏会もあるはずです。人によって違いますよね。


 演奏する側から考えます。
演奏会を開くために、必要な「経費」があります。
・ホールの使用料金、付帯設備(ピアノや照明など)の料金は、自分の家が会場でない限り支払わなければなりません。
・広告宣伝費。これも、自分でインターネットで宣伝して、自分でチラシを作り自分で配らない限り、費用がかかります。当日のプログラムも同様です。
・ 当日のスタッフ人件費。家族だけですべての作業、受付、アナウンス、誘導などができるなら別ですが、普通は必要になります。ピアノの調律費用も不可欠です。
・その他に、録音したり撮影すれば当然費用がかさみます。
これらの必要経費を押さえれば抑えるほど、規模が小さくなり、演奏者自身の負担が増えていきます。逆に、経費にいくらかけても痛くもかゆくもない「お金持ち」なら、2,000人収容できる大ホールを借りて、ラジオや雑誌にガンガン!広告を出し、無料チケットをばらまき、来場者が20人でも構わないのかもしれません。人はそれを「金持ちの道楽」と呼びますが(笑)

 職業演奏家が演奏会で収益、つまり「黒字」を出したいと思うのは、当然のことです。赤字で演奏会を開く余裕のある演奏家は別ですが。
 多くの場合、音楽事務所がコンサートを企画し開催します。
事務所は利益を出さなければ運営できません。赤字になることがわかっている演奏会は開きません。若手で無名の演奏家のコンサートを企画する場合、当然のこととして演奏家に、チケットのノルマを求めます。簡単に言えば「演奏者がお金を集める」ことが、開催の条件になります。1枚、3,000円のチケットを100枚売ろうと思ったら、どれだけ大変なことか、想像できるでしょうか?音楽仲間がたくさんいたとしても、それぞれに演奏会を開くための負担を抱えていますから、生活にゆとりがなくて当たり前です。親戚が100人いる人は、あまり見かけません。音楽事務所は、その収益を事務所の経費と利益にします。さらに、大きな利益を得るために、事務所が「先行投資」して著名な演奏家を招くための「資金」にもします。つまりは「事務所の利益」に消えるのが、チケット代金だと言えます。

 自主公演という形で開くコンサートの場合。当然のことですが、会場費、広告宣伝費を増やすことは、赤字になるリスクを高めます。かといって、高いチケット代金を設定すると、チケットを買ってくれる人が減るリスクが高まります。
 「いくらに設定したら?」
極論すれば、会場費、広告宣伝費、当日の人件費がすべて「ゼロ」なら、チケット売り上げがすべて「利益」になります。先述した通り、聴く側にすれば、どこに、支払ったお金が消えていようが問題になりません。演奏に満足できれば良いのです。
 料金を上げれば「高すぎる」と言われる。安ければ「持ち出し」になる。
一体、演奏かはどうすれば?良いのでしょうか。

 コンサートにかかる経費の一部でも、自治体や国が負担してくれる「文化」が日本に芽生えるまで、あと100年は、かかるでしょう。もっとかかかるかも知れません。なぜ?そうなるのでしょうか。
 演奏家たちが、聴いてくださる方たちに実状を伝えないことに、原因があると思います。事務所に所属する演奏家が、声に出せないのは仕方ありません。言えば「くび」になるのですから。ただ、現役を退いた演奏家や、指導者、さらにはフリーランスの演奏家たちが、みんなで聴衆に現状を理解してもらう「努力」をしなければ、演奏家が「儲けている」ように思われても当然ではないでしょうか?
 なにも演奏会で「経費一覧」を公開しなくても(笑)、プログラムやチラシに、率直な思いを書いたり、トークで伝えることは悪いことだとは思いません。
どうして?この金額になるのか。チケットの収益は、いったいどこに使われるのか?それを、一般の方々に伝えなければ、私たち演奏家のしていることは、ただの「道楽」か「金儲け」としてしか理解されないと思うのです。
 演奏家も聴く人も、音楽を必要としていることを共感できる「文化」を育てることは、黙っていてはできません。
 多くの皆さんの、ご理解とご協力を頂きたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノ

 動画は以前、私と妻浩子のデュオリサイタル時に、ケーブルテレビ局「むさしのみたか市民テレビ」の取材を受けた際の番組です。
 今回のテーマは、ヴァイオリン演奏とピアノについてです。

 私たちのように夫婦でヴァイオリンとピアノの「デュオ」が出来るケースは多くありませんが、ヴァイオリンだけで曲が完成する音楽は、それよりずっと少ないのです。つまり、ヴァイオリンの曲の多くは、ピアノと一緒に演奏して初めて完成する音楽がほとんどだという事です。
 私自身、中学2年生の時に、師匠の門下生発表会に初めて参加させていただき、ピアノの「伴奏」とレッスンで「伴奏合わせ」をした時の感動を記憶しています。それまで、ヴァイオリンを弾くと言うのは「ひとりで弾く」ものだとしか考えていませんでした。ヴァイオリンの教本や練習曲を練習して、レッスンに持っていき「合格」すると次の曲に進む…。その繰り返しがヴァイオリンの練習でした。
 通っていた公立中学校のクラブ活動で「音楽部」に入り、ヴァイオリンを弾いて合奏する楽しさを、初めて知りました。それでもレッスンは「別物」でした。
 発表会でハイドンのヴァイオリン協奏曲第1楽章を演奏し、少ない伴奏合わせの後、銀座のヤマハホールで演奏したときの緊張感も覚えています。

 音楽高校に進み、年に2回の実技試験や、友人との遊びアンサンブル。その経験から他の人と共に音楽を作る、楽しさと難しさを体感しました。
 親友とのアンサンブルで、光栄なことに、演奏するアルバイトの機会も頂けるようになりました。先輩に声をかけて頂き、室内楽のメンバーに入れてもらって演奏したのも刺激を受ける学びの場でした。
 やがて「人間関係」が「音楽の核(コア)」であることを感じるようになりました。見ず知らずの人とでも演奏は出来ます。練習を重ねる間に、親しくなることもありますが、本当に心を通わせられる人との演奏とは、根本的に何かが違う気がし始めました。
 大学生時代、プロのオーケストラにエキストラとして参加させてもらったり、アマチュアオーケストラでのエキストラ、レコーディングスタジオでの演奏など、お仕事としてヴァイオリンを弾かせてもらえる機会が増えて「間違えず演奏できること」で、次の演奏の仕事をもらえることを知ります。
 それがいつの間にか、レッスンに通って合格し、次の曲を練習することと、大差なくなっていることに気が付きました。
それは私の「不勉強」と心構えの問題です。多くの仲間は、それぞれの演奏で新しい事を吸収していたのだと思います。

 20年間の教員生活を経て、再び演奏をを主体としてヴァイオリンを弾く生活に戻りました。その後、リハビリに多くの時間を費やしました。
 私たち夫婦の演奏で、ピアノを伴奏とは考えていません。
演奏形態として、ヴァイオリン独奏・ピアノ伴奏という「呼び方」は確かにあります。また、曲によっても、そう(伴奏)と呼ぶ曲もあり、ヴァイオリンソナタのように、それぞれが「ヴァイオリン・ピアノ」と独立して紹介される音楽もあります。どんな形式の曲であっても、その曲がヴァイオリンだけでは完成しない音楽である以上、「一緒に音楽を作る」意識が何よりも大切だと思っているから、「デュオ=2重奏」という紹介をしてもらっています。

 ヴァイオリンの楽譜には、ピアノの楽譜は書かれていません。
一方でピアノの楽譜には、大譜表の上段にヴァイオリンやヴィオラの楽譜も書かれています。つまり「スコア」を見ながらピアニストは演奏しています。
私の場合、ヴァイオリンやヴィオラの楽譜を演奏する事は出来ても、ピアノの楽譜をヴァイオリンでも、ましてやピアノでも演奏する技術がありません。一方で、ピアニストは、ヴァイオリンの楽譜を「ピアノ」で演奏することが当たり前のように出来るのです。
 私の場合は、自分のパートを弾けるように覚えるまで練習します。
その曲の「音源」がある場合は、色々な演奏を聴いて、自分の「弾かない音」を確かめます。音源がない場合、妻のピアノを聴いてそれを確かめます。
 そのうえで、改めて自分のパート(ヴァイオリンやヴィオラ)を練習しなおします。さらに、ふたりで一緒に弾きながら、修正をお互いの楽譜に加えていきます。

 信頼関係とお互いを認められる気持ちがなければ、ひとつの音楽は完成しません。
 それ以前に、ヴァイオリニストは自分以外の「楽器」と一緒に演奏することを前提にして練習することが不可欠なのです。
 自分「だけ」で弾けるだけでは「アンサンブル」は出来ません。
自分が弾きながら、ほかの人が何を弾いているのか?どんなリズムでどんな和声になっているのか?を聴きながら演奏する「余裕」を持たなければ、音楽が完成しないのです。ピアノを弾ける必要は、絶対とは思いませんが、せめて自分のパートを「暗譜」するぐらいの練習は必要な気がします。
 あくまでも、アマチュアの場合の話です。プロはその技術を身に着けているから「プロ」なのだと思います。暗譜しなくても、他の音を聴く技術や、楽譜を注視しながら音を聴く能力です。聴音、ソルフェージュなどの「トレーニング」は、演奏家を目指す人なら、絶対に必要不可欠だと思っています。それを学ばずに卒業できる「音楽学校」に大いに疑問を感じます。

 長くなりましたが、音楽を楽しむ以前に、挫折してしまう人が多いのが趣味の音楽です。特にヴァイオリンは、ひとりで練習していて「つならない」と感じて当たり前なのです。ピアノのように和音が演奏できるわけでもなく、音の高さが定まらず、高さを考えれば音色が汚くなる…うまくなった実感が持てない楽器だからこそ、ぜひ!ピアノと一緒に演奏する「感動」を味わってください。
その楽しみを得るために、楽譜を見なくても弾けるようになることを目標にするのも、モチベーションの維持につながると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの傷

 写真は1808年に制作された私のヴァイオリンの表側です。
楽器を美術品として考えるならば、直接手で触れず、温度と湿度を管理した状態で保管するのがベストです。
 ヴァイオリンは美しい美術品である前に「楽器」です。音楽を演奏するための「道具」だと言えます。演奏家にとって楽器は単なる道具でないことは紛れもない事実です。ましてや、使い捨てるような類のものではありません。
自分の寿命よりも長く使用され続け、人々を魅了する音を出すのが楽器ですから、楽器の一生の一時期を「使わせてもらっている」と考えるべきだと思っています。

 どんなに大切に扱っていても、楽器に傷をつけてしまうリスクをゼロにすることは出来ません。残念なことですが、ほとんどの部分が木で出来ている弦楽器の傷は、元通りに修復することは出来ません。目立たなくすることはできますが。
特に、楽器の表側に小さな傷をつけてしまうことが多いようです。
 弓には固い金属の部分があります。スクリュー(ねじ)と毛をとめている金具です。楽器に当たれば、間違いなく傷がつきます。ピチカートで演奏する時や、勢いよくアップでE線を弾ききった時などが、一番リスクのある瞬間です。
 また、オーケストラの中で演奏する時などに、譜面台の角に楽器が当たるだけでも、傷はつきます。
 演奏する時に着ている洋服の、左襟元のボタンなどで傷がつくこともあります。
 肩当ての足ゴムが古くなって劣化し、ゴムが剥がれて楽器に金属の足が当たって傷をつけることもあります。
 楽器をケースに入れていても、蓋側に入れた弓の留め具を閉め忘れ、移動するたびに振動で楽器の表板に、無数の傷をつけてしまう場合もあります。
同様に、ケースの中の小物が移動中にケースの中で動き回り、楽器に傷をつけることもあります。
 目も当てられないのは、金属製の消音器(金属ミュート)を付けたままケースに入れて蓋を占めて、駒を割り、表板を割ってしまう悲惨な事故も起こります。
 ケースの蓋を閉めても、ファスナーや留め具をとめ忘れたり、移動中に留め具が外れてしまえば、楽器が転がり出て…という最悪の事故も起こりえます。
 満員電車の車内で、「セミハードケース」と呼ばれるヴァイオリンケースを抱えてもって乗っていて、押し合う人の圧力でケースがつぶれた事故は実際に起こっています。

 楽器に傷をつけたことに、気が付かないでいることもあります。
ある時に楽器の傷に気が付いて「いつの間に?」と頭を痛める生徒さんもいます。演奏し終わって、楽器を丁寧に拭いていれば、多くの場合には気が付きます。楽器が松脂でベタベタになっていても、気にしない演奏者を見かけると、楽器が可哀そうになります。楽器を、自分の身体以上に小まめにチェックするのが、上達するうえで最低限の心構えです。

 大切な楽器を綺麗にしようと、研磨剤の含まれた「汚れ落とし」で拭くのは、ニスを痛めるので極力避けるべきです。柔らかい布で、力を入れずに優しく、松脂と手の汗を別の布で拭き取ることが最適です。
 傷だらけになった楽器を見ると痛々しいものです。「痛い」と声を出せない楽器だからこそ、愛情をもって扱ってほしいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

子供たちに平和と音楽を残したい

 NPO法人メリーオーケストラは「子供の健全な育成」と「音楽の普及」を目的として活動をしている団体です。
 子供と音楽と聴くと「音楽教室の話?」と思われそうですが、全く違います。
世界が平和でなければ、子供は生きていけません。
世界が平和であれば、音楽をいつくしむことができます。
子供が嫌いな人や、平和を求めない人がいたとしても、今、生きている大人は
「もとは子供」だったのです。平和だったから、今、生きていられるのです。

 音楽を戦争のために使った歴史がありました。「軍歌」です。
不幸な歴史です。日本に二度と軍歌が流れないことを祈っています。
動画で子供たちが純粋な気持ちで歌っている歌詞の中に
「世界中の 希望 乗せて この地球は まわってる」
未来を一番享受できるのは?子供です。大人の責任は、子供たちに未来を残すことです。身勝手な屁理屈を並べ、他国の人を悪く言う大人が、子供たちに明るい未来を残せるはずがありません。

 「子供のために戦うんだ!」というセリフは、綺麗に聞こえるかもしれませんが、共存する知恵を働かせることの方が大切です。
「助けあう」「支えあう」「認め合う」ことが音楽の基本です。
憎しみあい、否定しあう人が誰かと音楽を演奏しても、「軍歌」以外の音楽を演奏できるとは思いません。
子供たちに、笑顔で音楽を演奏できる環境を残すために、必要なのは
「核兵器」ではないはずです。助け合い、支えあい、認め合うことを「お花畑だ。きれいごとだ」と罵られても、私は構いません。それが出来なければ子供たちの未来がないと、私は信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

音楽家 野村謙介

日常生活と趣味の楽器演奏

趣味で楽器の演奏を楽しむ人にとっての日常生活。
楽器の演奏や指導を職業にする人の日常生活を考えます。
当然のことですが、どんな職業の人にとっても、身体的に精神的に健康であることが何よりも優先されます。そして、経済的なことや家族同士の関係も日常生活から切り離すことはできません。
 コロナ禍で収入が減少した人は、音楽家に限らず日本中にいます。
また、物価が高騰し日々の生活に困窮する人も増えています。
先行きが見通せない今、趣味どころではないという人が増えているのも事実です。
子供を持つ家庭なら、進学や進路について家族ならではの心遣いがあります。
受験を控えた子供が、趣味を我慢して頑張っている姿に協力しない家族はいません。
そうした日常生活の中で、楽器の演奏で得られるものは、なんでしょう?

 そもそも趣味は「楽しみ」です。極論すれば、いつやめても困らないのが趣味です。ただ、趣味のない生活が味気ないものに感じる人も多いと思います。
生活の為に必要な職業や、家事、育児、学業。それとは違う「息抜き」が趣味です。スポーツで体を動かす趣味もあれば、旅行や読書を趣味にする人もいます。
人それぞれの「楽しみ」があります。楽器の演奏を楽しむ人でも、色々な楽しみ方があります。
楽器を気ままに弾いて、楽しむ方もいます。
だれかと一緒に演奏する「合奏」を楽しむ方もいます。
多くの方は前者だと思いますが、ヴァイオリンはひとりで曲が完成しないことは、以前のブログに書きました。
それでも、ヴァイオリンの音を出して好きな曲を気ままに演奏するのは、楽しいものです。
職業ヴァイオリニスト(固い言い方です)は、楽しくなくても、仕事として楽器を弾くことが求められます。好きな音楽とは限りません。それが一番大きな違いです。

 日常生活の中に、楽器を演奏して楽しむ時間のゆとりが…ある人の方が少ない現代です。事実、ピアノを習っている子供の数は、減少し続けています。
音楽を習うことが、子供の情操教育になるとは限りません。
ただ、現実として楽器を習い続けている子供の「学力」が高いことは事実です。
楽器を練習するときの脳の使い方も、時間のつかいかた、集中力の維持、など様々な理由が挙げられます。頭をよくするため、東大に入れるために音楽を習わせても「無意味」ですので誤解の無いようにお願いします。
大人の場合、周囲に気を使いながらの楽器演奏になります。家族の理解と協力、さらには環境が揃わないと難しいのも現実です。
楽器を演奏することを「楽しい」と思える生活が、なによりも大切です。
 うまくならなくても、いつも同じ曲でも楽しめれば「趣味の演奏」です。
自己満足で完結できるのが「趣味」です。
ひとりでも多くの人が、演奏を楽しんでもらえる生活ができる「日常」が、戻ってくることを祈っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏と身体の動き

上の動画、ユーディー・メニューインとヤッシャ・ハイフェッツの演奏です。
私たちが学生の頃、動画などなく、レコードと書籍でこの「神」たちの演奏を学びました。特に、メニューインの演奏方法について、日本語訳の本を何度も読み返しては「はぁぁ~」と心が折れた記憶があります。ヨガの呼吸法…鼻が詰まってできなかった。それはさておき、共通するのは身体の動きと、楽器の動き。
体幹が目で見えそうなくらいの「軸」があります。楽器と身体の「位置関係」が微動だにしません。どんなパッセージでも、それは変わりません。

 こちらは、ギドン・クレーメルのブラームス。一見すると、無駄に上下に動きすぎているように感じますが、よーく見ると、楽器と身体がまるで一つの「柔らかい塊」のように動きます。ちなみに、クレーメルが口を開けて弾いている姿、見慣れない人には「あご、外れた?」とか「鼻づまり?」とか。私は学生時代、師匠に「奥歯を噛んで弾いちゃダメ」と注意され「時々、口を開けたまま弾いてみなさい」と言われました。そのまんまクレーメル(笑)上半身に力を入れず、常に楽器と共に自然に動くことができるクレーメル。すごいです!

 そしてマキシム・ヴェンゲーロフのシベリウス。
自由気ままに動いている?いーえ。彼の動きには、彼の「音楽へのこだわり」がそのまま表れている気がします。頭の角度が極端に変わるのは、ヴェンゲーロフが意図的にそうしているのか、それとも無意識なのか、私たちにはわかりません。

 極めつけ、アンネ・ゾフィー・ムターのメンデルスゾーン。
どこから見ても「肩当て」が見当たらない。
しかも、肩は「素肌」の状態。男性なら上着の鎖骨部分に、「ウレタン」を入れて高さを出せますが、女性のこのドレスで、どうやって?楽器を保持できるのか。謎なんです。身体が動いても、どんなに左手のポジションが動いても、ヴァイオリンが「浮いている」としか思えないのですが。

 まとめますが、演奏中に身体が「動く」ことを良しとしないヴァイオリニストもいます。逆に動いても良いと言う人もいます。ただ、演奏は「音」が本質なのであって、表情は本来音楽とは無関係です。その表情に魅力を感じる人もいらっしゃいます。下の動画、好きな人!ちなみに音はありませんので。

 いわゆる「ビジュアル系ヴァイオリニスト」さまです。なぜ?そこに目線?なぜ?口が半開き?なぜ?腰をくねらせる?なぜ?首を振る?
ま。好きな男性に聴かないとわかりません。


 音楽と身体は「一体」のものです。分離はできません。
演奏するために必要な動きは止める必要なないと思います。
有害な動きはとめるべきです。
多くのアマチュアヴァイオリニストが「恥ずかしいから動かない」のですが、
自然に体を動かすことは、必要な練習です。ダンスにさえ、ならなければ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

柔らかで温かい音で弾く

 以前、ヴィブラートについてのブログを書きました。
弦楽器奏者にとって、音色は言うまでもなく正解のない問題を解こうとするのに似ています。アマチュアヴァイオリニストにとってのヴィブラートは「憧れの奏法」だと思います。実際にYoutubeでバイオリンのビブラートと検索するだけで、そりゃまぁ驚くほどの動画があります。すべてを見るのは不可能です。動画をアップしている方々の「好み」や自らの経験で、アドヴァイス動画としていることはよくわかります。
 ただ、それらの方の実際の演奏がほとんどないのが残念でした。
ちょろっと(笑)弾いている方は多いのですが、自身の演奏を紹介しないのが不思議。当然のことですが、自分の演奏技術に自信満々!なヴァイオリニストなんでいないので、「練習方法や理論」と「実演」が一致しなくても仕方ないのかな?
 どんなに料理のレシピをたくさん作った人でも、その人の作った料理を食べたことのある人はほとんどいないのが現実ですが、音楽の場合は演奏を公開することで実際に近いヴィブラートを説明することは必要だと思います。

 音色を形容する言葉の中で「柔らかい」と「暖かい」という二つが私にとってとても大切なキーワードです。ほかにも「明るい」「力強い」「透明感のある」「など、その曲や弾く場所によって必要になる音色もあります。
 ヴィブラートを運動として練習するよりも、音楽の一部として考えるべきだと思っています。もっと言えば、ヴィブラートを何のために使うのかを考えなければ、単なるピッチの連続的な変化=波でしかないのです。
 聴いていて感じるものは、人によって違います。ヴァイオリン演奏にはヴィブラートが「当たり前」に思われていますが、必ずしもそうとは限らないと思います。それは声楽の世界でも言えることだと感じます。素直に心にしみる声
が好きです。


Andreas Schollの歌うシューベルトのアヴェマリア。
ヴィブラートがどうのうこうの…ではないしみわたる音楽を私は感じます。
声楽と弦楽器は、音のできる仕組みも違います。共通点も多いと思います。
好みの問題ですが、ヒステリックなヴィブラートが私は好きではありません。
柔らかく暖かく。
演奏することは「歌う事」だと信じています。
何かを伝える歌
何かを表現する歌
歌詞がなくても歌です。人間の声が持つ安らぎは、本能的なものです。
楽器で音を出すこと=演奏が歌に聞こえるように心がけることも、必要だと思います。楽器にしかできない演奏もありますが、音楽の本質は聴く人を幸せに感じさせる「音」であると考えます。
 こんな時代だからこそ、人の心に安らぎを感じさせる音楽が必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

趣味の演奏とモチベーション

 多くのアマチュア演奏家と接してきました。
1対1のレッスンだったり、アマチュアオーケストラメンバーを指導する場面だったり。自分自身が演奏技術を高めることの難しさを、演奏家になるための道を歩いてきた身として、その時々で音楽の楽しさを伝えてきたつもりです。
 そのアマチュア演奏家の中から、私と同じ演奏家への道を歩んだ人もいますが、全体で考えれば、100人に一人いるか?いないかの、ごく少人数です。
私とかかわった、多くの人が音楽を続けているのかどうかさえ、私にはわからないのが現実です。
 初めてヴァイオリンを手にする人に、専門家を目指しましょうと言うのは無茶な話です。私は「演奏を楽しむ人」を増やすことがライフワークだと思って活動しています。プロを育てることを目的にしていません。音楽大学でレッスンをする先生方は、ある程度の演奏技術を身に着けた学生に対し、さらに高いレベルに引き上げる役目を果たされています。

 初心者としてヴァイオリンを練習し、その後長くヴァイオリン演奏を趣味としていく人の「共通点」を考えることで、途中でやめてしなう人の原因を探ることになると思います。
 以前にも書きましたが、弦楽器はピアノと違い、基本的に単旋律を演奏する楽器であり、多くの場合にヴァイオリンの演奏だけで曲が完成しません。ピアノやそのほかの楽器の音と交わりあって、初めてひとつの音楽になるのが普通です。
 ひとりでヴァイオリンを練習する初心者にとって、メロティーだけを演奏することが、簡単に思えたり、とても難しく思えたりします。
 例えて言えば、カラオケで歌うことが好きな方は、おそらく「カラオケ」つまり伴奏の音楽と一緒に歌うことが好きなのだと思います。ひとりで黙々と歌の練習をする「カラオケ好き」もおられるとは思いますが、いわゆるア・カペラ=無伴奏で歌うより、カラオケの音楽と一緒に歌いたいのではないでしょうか?
 ヴァイオリンの練習は、カラオケ抜きで歌の練習だけをする時間がほとんどです。
 違う例えで言えば、演劇や映画で一人分の台本だけを読んで練習するのが、ヴァイオリンの練習に似ています。もちろん、台本には自分以外のセリフも書いてあります。音楽の場合、「スコア」にはすべての音楽が書かれています。
 台本なら、他人のセリフも読めるでしょうが、スコアを見てピアノの楽譜を音に出来る人は少ないのではありませんか?
 どんなに頑張っても、一人分の音楽だけを演奏する「ヴァイオリン」と、一人で音楽を完成できる「ピアノ」の違い。
 誰かと一緒にヴァイオリンを演奏する楽しさを知ることがなければ、ヴァイオリン演奏の楽しさを感じられなくて当たり前です。

 次に共通することを考えると「家族の理解と励まし」があることが、長く音楽を続けられる要因になっています。例外もありますが。
 子供の場合には、親のかかわり方が最も大きな要因です。
子供と一緒に、音楽に向き合える家庭の子供は大人になるまで演奏を続けています。
 大人の場合には、家族からの励ましと練習への理解の有無が大きくかかわってきます。もちろん子供と違い、自分の意志で続けられるものですが、技術の向上に行き詰った時に、応援してくれる家族がいることは大切です。
 友人でも良いのです。自分の演奏を聴いてくれる人がいることが、何よりも大きなモチベーションになります。

 この映像は今から11年前の映像です。演奏している小学校3年生の男の子、
幼稚園から私がヴァイオリンを教え始め、毎週お母さんと通ってきてくれました。この少年がその後、どんな成長を遂げていくか、ご存じの方もおられるのですが、機会があれば本人と対談したいと思っています。乞う、ご期待(笑)
 次に共通するのは「作業容認性」つまり、レッスンで言われたことに素直に応える「受容性」です。これは教える側との信頼関係でもあります。
信頼関係は生徒と弟子の両者が、共に信じあえなければ成立しません。
 レッスンで言われたことを、出来るまで疑いを持たずに頑張れる性格であることが必要です。「自分(自分の子供)には、できない」と思ってしまえば、その時点で上達は止まります。上達が止まればモチベーションも切れます。
指導者が無理難題を押し付けたとすれば、指導者の責任です。
多くの場合、指導する人は自分が出来たことを基準に、生徒にも「できるはず」と思い込みます。必ずしもそうとは限りません。それを理解して、生徒に乗り越えられる壁を与えられる指導者が必要です。
 指導者の願いは、自分を超える音楽家を育てることの「はず」です。
自分が出来ないことを、生徒が出来るようになった時に、心から喜べる指導者であるべきです。必要であれば、自分の教えられない技術を、他の指導者に習わせることが出来る指導者と、囲い込んで他の指導者に見させない「心の狭い」指導者がいるのも現実のようですが。

 最後に「音楽へのこだわり」がある人が長くアマチュア演奏家として、音楽を楽しんでいます。
 好きな音楽がない人が、演奏を楽しむことはあり得ません。
美味しいものを食べることに興味のない人が、美味しい料理を作れないのと同じです。
人間は嫌いになるのは一瞬です。好きになるのには、多くの場合時間がかかります。本当に好きなものに出会えるために、必要な時間はとても長いのです。
それまで興味のなかったことに、ある時突然、関心が沸いた経験は大人ならあるはずです。ただ、それが長く続いて本当に好きになるかどうか、その時点ではわかりません。
 カラオケ好きは、ずっとカラオケが好きです。
きっとそれば「楽しい」と知っているからです。
ヴァイオリンは楽しさを知るまで、時間がかかります。
ぜひ、長い目で音楽を楽しんでください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と平和と

 人類の愚かさの象徴「戦争」がまた、起こってしまいました。
野生の動物たちが自分より弱い生き物を捕食するのは、生きるためです。
戦争は野生のそれとは全く違う「利益」を目的としたただの殺し合いです。
日本の中にも、「ちからにはちからで」ともっともらしいことを叫ぶ人がいますが、力を使う前に「あたま」を使うのが人類なのです。力比べをする「必然」がないところに一方的に暴力をふるってくる人間が、世界中にいます。それは街のチンピラと言われる人も同じことです。チンピラから身を守るために、いつもナイフやピストルを持ち歩かなくて済むのが、日本の「治安」です。治安とは「ルール」でありそれを守ることを前提にしているから成り立ち、守らない人を「罰する」ルールが浸透しているから保たれています。
 チンピラにしても、プーチンのような権力者にしても、ルールを守れない人間が現れた時に、力で対抗しなればわが身を守れないことがあります。
日本は税金の多くを「自国を防衛するための予算」として使っています。
その金額は世界的に見てもとても高い金額です。私たち日本人は、過去に他国を侵略し戦争で負けました。その結果、二度と他国に攻め入らないことを世界に向けて誓いました。その歴史認識を忘れることは、反省をしないヤクザと同じレベルです。

 平和は力でつくるものではありません。すべての人間が、生きるために必要なルールの中で生きることしか方法はありません。色々なルールを組み合わせて世界は平和を維持できます。話し合いのできない人は、ルールを守れない人間と同じです。

 今、ロシアの作曲家の作った音楽を演奏しないという妙なことが起こっています。チャイコフスキーの作曲した「1812年」は、大昔の出来事を題材にして作られた音楽です。チャイコフスキー自身はとっくに亡くなった人です。プーチンと友達でもなければ、戦争支持者でもありません。
 音楽の中には、特別な意味を持って作られた音楽もあります。
「国王賛歌」などの音楽は、目的をもって演奏されます。
日本が戦争時に「軍歌」を歌っていました。これも特殊な音楽の一つです。
 そうではない音楽までを、色付きの眼鏡で見るような行為は、正しいとは思えません。聴く人に誤解を与えたくない気持ちは理解できます。演奏者、主催者がお客様に対して、反戦の意思とウラジミール・プーチンへの抗議を表明すればそれで良いのではないでしょうか?
 むしろ、演奏者の中にプーチンの行為を擁護するメンバーのいるオーケストラの演奏こそ、糾弾されるべきではないでしょうか?
 音楽、芸術、スポーツと政治は直接の関りはありません。ただ、無関係でもありません。政治が腐敗すると音楽やスポーツが制約を受けることは、歴史を学べば誰にでも理解できます。
 私たちは、二度と戦争を起こしてはいけないのです。
世界中にそれを伝える責任を持たされています。
それを忘れて「議論だ」と言うのは、殺人の良し悪しについて議論するのと同じです。議論する必要のないこともあるのです。
 固い話ですみませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽・自由・生活

 ごくまれに、生徒さんから進路について相談されることがあります。
教員時代、なぜ?この私が?という部署「進路指導部」の仕事をしていた時期がありました。「適材適所」ですよ(笑)それはさておき…
将来、音楽家になりたい。というより、こんな私のような仕事をしたいという、
ありがたくもあり、光栄でもあり、こっぱずかしい気持ちで話を聞くことがあります。
 多くの場合、本人の気持ちは親とすれ違います。
我が子の将来、現在を心配しない親は親ではありません。心配して当たり前です。心配だからこそ、子供の将来にも口を出したくなるのが当たり前です。
一方で、子供の立場で言えば「自分の人生なんだから好きなようにさせて欲しい」という気持ちがありながら、親に生活させてもらっている感謝の気持ちもあります。素直で優しい子ほど、親に「忖度」します。と言うより気を遣います。
その両者が完全に、意見が一致することはなくて当然だと思います。
子供と同様に、親も初心者マークを付けた「親」なのです。自分が子供だった頃の記憶、失敗したことも含め、我が子には苦労をさせたくないと願う気持ちがあります。
 我が子にとって良かれお思い、東大に進ませ、官僚になってくれても、仕事に追い詰められて、自ら命を絶つ子供。親の気持ちを察するに余りありますよね。
自分(親)が、あの時、東大を目指せ!と言わなければ…そんな悔いを持ちながら生きることになったら…。

 なぜ?親は我が子を音楽家にさせたがらないのか?
親が応援してくれる例外はたくさんあります。私もその例外の一例です。
一言で言えば、生活が不安定だからです。音楽家と言う「職業」に我が子がなって、経済的に苦しむ「かも知れない」ことを案ずるのは当然です。
 なぜ?音楽家と言う職業は、収入が不安定なのでしょうか?
国によって、大きな差があります。私は日本でしか生活した経験がありませんが、ヨーロッパでの「音楽家」と言うステイタスとは、明らかに違うのを感じています。国、自治体、市民が音楽を大切に思うか?なくても良い程度に思うか?という違いが最大の要因だと思います。

 日本国内で、純粋に自分のやりたい音楽「だけ」を職業にして、生活できる人は、どのくらいいるでしょうね?統計を見たことがありません。
一言で「音楽家」と言っても、幅が広すぎるのです。音楽に関わる仕事をしていれば、音楽家だと言えます。ホールの舞台スタッフも、プロデューサーも調律師も「音楽家」だと言えます。演奏家…となると範囲が絞られます。それでも自分の好きな音楽、たとえばクラシックだけを演奏して生活できる「音楽家」もいれば、様々な音楽を演奏しないと生活できない「音楽家」もいます。
音楽の学校で教える人も「音楽家」です。趣味で演奏できるレベルの人が自宅で誰か生徒さんを教えれば「音楽家」です。

 教えたり、演奏したり、作曲したり、サポートしたり。
その仕事の対価を誰からもらうのか?によって、音楽家の「自由度」が大きく変わります。
 私は学校と言う組織で20年間、高給をもらいながら、音楽らしき仕事をできたとは思っていません。確かに、オーケストラ部を作り育てましたが、もしかするとそれは私にとって「欺瞞」あるいは「ストレスの発散」だったのかもしれません。純粋に音楽を楽しめる心のゆとりがなかったのです。日々、会議と成績処理、授業の準備に追われて、自分が音楽家だとは、口が裂けても言いたくなかったのが本音です。私の教員時代は「生活=お金のため」の日々でした。
すべておの音楽教員がそうだとは思いません。でも、組織の一員として働いた「対価」を受け取る以上、組織の命令には従わなければいけません。当たり前のルールです。
 プロオーケストラのメンバーでも、組織の一員であることは同じです。
私は、教員時代の終わりごろには、年収1,000万円以上の給与を得ていました。
その代わり、音楽はできませんでした。

 今、個人の生徒さんにレッスンをして、楽器の販売をして、ぎりぎりの生活です。それでも、この仕事を始めた時、元気だった父が本当にうれしそうに自慢していました。お金に困って相談したときも「おう!まかせとけ!いくらいるんだ」と明るく応援してくれた父です。その父は私が教員になったときにも「応援」してくれましたが、本当は悲しくて悔しくて、たまらなかったと話してくれました。それが、親、なんですね。

 音楽を職業にして、人並みの生活ができる「国」だったら、親も我が子が音楽家になりたいと言い出した時、反対しないでしょうね。そんな日本ではないですから。残念ですがそれが現実です。
 それでも、言いたいのです。子供の夢を応援して欲しい。
子供に言いたい。親のすねをかじって生きるのが「子供」だ。親に本当の気持ちを伝えて本気で頑張って見せるしかないよ。と。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏技術の違い

 誰もが思う事。もっとうまく弾きたい!
自分よりじょうずな人の演奏は、憧れや目標であると同時に
自分がうまくないことを思い知らされる気持ちにもなります。
じょうず、へた。おおざっぱな表現なので、「演奏技術の違い」という言葉で考えてみます。

 上の動画は、ヤッシャ・ハイフェッツという20世紀を代表するヴァイオリニストの演奏動画です。1901年に生まれ、1987年に亡くなるまで、まさに「演奏技術の最高峰」であり、神のようにあがめられたと言っても過言ではない演奏家でした。
 ヴァイオリンの演奏技術が「高い」と言われるのは、どんなことが出来ることを指すのか?
様々な見方があります。代表的なものをいくつか挙げてみます。
・速く弾いても音の高さをはずさない。
・音量が豊か。
・短い音にもビブラートをかけられる。
・弓を自由にコントロールできる。
などなど、言い方はいくらでもありますが共通していることは
「出来なくなりそうなことを、簡単そうに演奏できる」
という事になります。速さにしても、音量にしても、発音の正確さにしても
ある程度の「遅さ」なら出来ると思えることでも、その限界を超えた速さや音量、正確さを可能にしている事を「演奏技術が高い」と言って差し支えないと思います。

 演奏技術が普通」ってあるのでしょうか?
つまり、誰かと演奏技術を比較するから「違い」があるわけです。
自分しかヴァイオリンを弾ける人はいない!
と思えば、世界で一番じょうずなのは?そうです。私なのです!
いやいや(笑)そんな思い込み、ありえないと言うなかれ。
世界的なスポーツのアスリートの多くが、試合の直前に「自分は世界一だ」と自己暗示をかけて本番に臨むそうです。
私自身、人の前で演奏する場に立つときは、自分の演奏技術を信じます。
たとえ、途中で失敗したとしても、今この瞬間にこの場所でヴァイオリンを弾いているのは自分だけなのだから、自分が世界で唯一のヴァイオリニストなのです。本番中に、ダメ出しをする人は、いないものですよ(笑)

 練習している時は、そうはいきません。落ち込みます。
自分の演奏技術が低すぎることに、嫌気がさすことが毎日続きます。
生徒さんから「先生でも?」と言われます。生徒さんが思うのと同じことを、恐らくヴァイオリニストは全員?思っているのではないでしょうか。
 自分より正確に、かつ美しく演奏できる人が必ずいるのではないでしょうか?
それは、自分の顔より美しい顔の人がいると思うのと同じです。なぜなら、自分の顔を自分で見られないように、自分の演奏を客席で自分が聴くことは出来ないのですから。
 と。自分を慰めてみたりしましたが。
どうすれば演奏技術は高くなるのでしょうか?どこかにその秘密はないのでしょうか?

 この動画は4歳の生徒さんが初めて人前で演奏したときのものです。
習い始めて約半年。まだ楽器と弓をきちんと持つことは難しい段階ですが、それでも一生懸命演奏しています。
 もしも大人の方が「これは、子供だから」と感じられたなら、むしろ考えを
「自分がこの4歳の子供と何が違うのか?」と考えてみてもらえればと思います。なにも知らないのが当たり前です。そして、出来ることも少ないのが子供です。先生の言っていることを理解できる言葉も少ない中で、わかったこと「だけ」をやろうとしている姿。
 私も含めて、大人になるとつまらない「プライド」を無意識に持っています。
出来ないことがあると、出来る人をわざわざ探して「自分が劣っている」と自虐します。出来なくて当たり前なのです。
 演奏技術を高めたければ、自分の出来ることを一つずつ増やすだけです。
自分のできないことを知ることです。コンプレックスを持たずに、時間をかけて、探しては出来る方法を考えて、出来るまで練習する。その繰り返しだけが唯一の方法です。
 61歳の私が今から身に着けられる演奏技術が、どれだけあるのか?誰にもわかりませんが、一つでもできれば「儲けもの」です。
70代の生徒さんが楽しみながら楽器を練習しています。
趣味に年齢制限はありません。期限もありません。テストもありません。
毎日、楽器を弾けなくても、弾いた時間だけ上達していると思うことも大切です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ピアノとヴァイオリン

 ヴァイオリンを初めて演奏する生徒さんの中で、それまでにピアノを練習した経験がある人と、そうでない人の違いについて考えます。
 一般的に、ピアノを習ったことのある人の割合は、ヴァイオリンに比べ恐らく10倍以上多いと感じます。もちろん、地域や時代によって変動しますが、ピアノは「習い事」の中でもポピュラーです。

 ヴァイオリンを演奏したいと思う人の中で、ピアノやその他の楽器を習ったことのある人と、初めての楽器がヴァイオリン…と言う人の割合は、意外かもしれませんが、6:4か、7:3程度です。つまり、半数近い生徒さんが「初めての楽器がヴァイオリン」です。年齢別に考えても大差ありません。
 ヴァイオリンは、どういうわけか?憧れの楽器=弾いてみたい楽器のトップ5?には入るようです。むしろ、ギターやフルートは個人で買って楽しんだり、中学校や高校の吹奏楽部で楽しめたりすることが大きな要因だと思います。

 そのヴァイオリンを練習する時、ピアノを弾ける人が優位なことがあるとすれば、楽譜を音にする経験があり、楽譜だけを見るとヴァイオリンの楽譜がとても「簡単」だという事です。ただ、楽譜を音楽に出来るか?という技術は、身に着けていなくてもピアノは弾けますので、弾けることと、楽譜を音に出来ることはイコールではありません。厳密に言えば、楽譜を読んでピアノを弾くことを習った人の場合の話になります。
 一方で、初めての楽器がヴァイオリンという方の場合、楽譜を音にするための技術も、持っていない場合がほとんどです。学校の授業でリコーダーを吹いたり、合唱をした時でも楽譜を音にしていた人は、ほぼ「ゼロ」です。

 ピアノを楽譜を見て上手に弾ける人なら、ヴァイオリンがすぐに弾けるようになるか?というと、答えは残念ながら「NO!」です。なぜなら、楽譜が読めたり、音の名前がわかって音の高さがわかっても、自分の出したい音の高さを、どうやったら弾けるのか?言い換えると、ヴァイオリンはどうすれば?どんな音が出せるのか?が、ピアノと比較してはるかに「わかりにくい」からです。
 さらに、ピアノは調律さえできていれば、「変な高さの音は出ない」構造です。ヴァイオリンは、開放弦を正確にチューニングしてあっても、その他の高さの音は、すべて自分の「耳=音感」で探して演奏する楽器です。むしろ、ピアノを習った経験のある人の方が、自分の出すヴァイオリンの音の高さが「気持ち悪い」と苦笑されます。
 もう一つの大きな違いが、両手の役割の違い=運動の分離が難しいことです。

 多くのそうした生徒さんが落ちる落とし穴があります。
左手で押さえる場所が違う=音の高さが違うと感じて、直そうとすると無意識に、右手の動きが止まることです。止まるまでいかなくても、非常に動きにくくなります。無理もないことです。私たちは両手を同時に使って、違う作業をすることが少ないのです。あったとしても、どちらかの手が「主役」で、もう一方の手は「補助的な役割」をする程度です。
 包丁を使っている時の、もう一方の手は「補助」ですよね?
両手でナイフとフォークを使って料理を食べている時でも、おそらくどちらかの手しか動いていないのではないでしょうか?
 音楽家同士の遊びの中に、こんなものがあります。試してみてください。

 右手で4拍子の指揮をしながら、左手で3拍子の指揮をする。
もちろん、同じ拍の長さ=テンポは同じで、同時に1拍目から指揮をスタートします。やりやすい、4拍子の図形で構いません。3拍子は単純に三角形の図形で構いません。
 せーの!
初めての人は恐らく2泊目で止まりますよね?笑
右手で4拍子の指揮を「1・2・3・4・1・2・3・4…」と繰り返すだけならできますよね?
左手で3拍子の指揮を「1・2・3・1・2・3…」と繰り返すのも、単独なら簡単ですよね?
はい。それを同時にスタートします!
仮に4拍子を口で言い続けて「1・2・3・4・1・2・3・4…」と言いながら、両手で4拍子と3拍子を同時に振ると、4拍子を3回繰り返して4巡目に入る瞬間の「1」の時に、左手の3拍子も「1」になるのです。
……………………??????
 3と4の「最小公倍数」は12です。つまり、4拍子を3回繰り返すと12泊、振ることになります。その時に3拍子は「4巡目の1拍目」になります=3拍子を4回繰り返すと12泊振ることになるからです。

 これ、電車やバスの中で、やらないでください。ついムキになってしまうので、周りの人が離れていくか、通報される危険性があります。自宅で鏡に向かって楽しんでください。

 さて、ヴァイオリンはこの「左手と右手の分離」に近いことをしながら、演奏することになります。ただ、私からすると、ピアニストが両手で同時に違う音を弾けることのほうが難しく感じています。
 右手と左手の分離と同期は、一朝一夕にできません。少なくとも、頭でどちらかの手に集中すると、もう一方の手は無意識になることが、上記の指揮の遊びで実感できると思います。
 あ。じゃんけんを両手でやるのも、むずかしいですよ。常に右手が勝つことと、常に違う形=グーかチョキかパーを変え続けて、何回?続けられますか?
 それはさておき、左手の押さえる場所=音の高さを修正する時に、意識的に(無理やりにでも)右手で全弓を使って大きくて良い音で弾き「ながら」音の高さを修正する「習慣」をつけることをお勧めします。
 もしくは、左手の練習をするときには、ピチカートで練習するのもひとつの方法です。
 右手の練習をしてから、左手の練習をする「順序」を決めることもお勧めします。なぜなら「音が出なければ、正しい音の高さにならない」からです。
 常に、右手に意識を集中し、音の高さは「耳で確かめる」ことも大切です。

 ピアノとヴァイオリンの構造の違いを理解した上で、練習法帆を考えると上達の近道になるだけでなく、ストレスの軽減につながります。
 あきらめずに!あせらずに!練習してください。
ピアノのように、どんどん弾けるようになる「上達した実感」はヴァイオリンではなかなか感じられません。ただ、練習しているうちに、無意識に出来るようになっていることに、「ふと」気付くものです。その日は必ずやってきます

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽にまつわる「うそ・ほんと「

 音楽を演奏したり教えたり、広めたりする活動をしてきた私が、常日頃、出くわす、音楽にまつわる話の中にある、間違った情報「うそ」と真実「ほんと」について。
 動画は子供たちが主役のNPO法人メリーオーケストラを紹介するものですが、この活動や下の動画、私が経営する小さな音楽教室メリーミュージックでの生徒さんたちを見て頂くと、どんな印象を持たれるでしょうか?

  おそらく「趣味の音楽って楽しそう」という率直な感想を持たれる方が多いのではないでしょうか?それは間違いなく「真実」です。
 音楽を趣味にすることは、私の知る限り最高の楽しみの一つだと信じています。それでも、中には「才能がないと上手にならない」という間違った先入観を持っている方もいらっしゃいます。また「裕福な家庭でないと音楽は習えない」という思い込みもあります。

プロの音楽家はお金持ちという嘘

 これは一番多い間違いかも知れません。世間一般で「音楽家」と言う職業は「特殊な人種」として扱われることがあります。理由は様々ですが、先ほどの「特殊な才能がある」と言う思い込みや、「楽器が高いのだからお金持ちに違いない」
さらには「テレビで見る音楽家はおしゃれで外車に乗って現れる(笑)」と言うイメージなどなど。
 確かに一部の音楽家は「お金持ち」と言って良い収入を得て裕福と言える生活をしています。それは、ほんのごく一部!ほんの一握りの人たちだけです。
多くのプロ音楽家は、そのような「有名人」とはかけ離れた生活をしています。好きで選んだ職業なので、嫌なら違う職業に転職すれば良いだけです。
ですから、私は音楽家が貧乏だからと言って「可哀そう」と同情する必要はないとも思いますが、現実を知って頂きたい気持ちはあります。さらに、国や自治体が文化芸術にお金を出したがらない!と言う「民度の低さ」が一番の問題です。

裕福な家庭じゃないと…と言う嘘

 これも、良く言われます。「きっとお父様やお母様が音楽をなさっていたのですね」とか。露骨には言われませんが、きっと裕福な家庭で育った「おぼっちゃま」「おじょうさま」ばかりだと思われていますが、これも「大嘘」です。
 例外的にそういう方もいますが、どんな世界にもいるのと同じ割合です。
私の家庭は、父が銀行員、母は専業主婦という、いたって普通のサラリーマン家庭でした。資産家の家計でもなんでもなく(笑)、社宅暮らしがほとんどでした。音楽高校でも周りの友達は、ほとんど私と同じ環境の「普通の家庭の人」でした。むしろ、厳しい経済状況で、地方から単身上京し、風呂なし・トイレなしの6畳一間のアパート暮らしの友人がたくさんいました。それが当たり前でした。

クラシックにしか興味がないと言う嘘

 クラシック音楽を専門にしているから、普段から…いいえ。
人によってはそういう方も、いるかもしれませんが、私の音楽仲間の多くは違いました。ジャズ大好きなチェリスト、なぜかジュリー(沢田研二)とクイーンとロッド・スチュワート大好きなピアニスト(私の妻、H子さん)
 なぜか、法人女性歌手(中国人か!)ようするにアイドルや、女性シンガーの歌が大好きなヴァイオリニスト(今、これを書いている人)などなど。
 クラシックも聴きます。好きですが、いつも聴いているわけではありません。
むしろ、聴いていると「分析する」聴き方をしてリラックスできないという人が多いですね。

変わった人がいるという真実(笑)

  えーっと。確かに私から見ても、やや?だいぶ?普通の人と考え方や、行動パターンが違う音楽家「も」いるのは事実です。ただし、そうでない「私を含めた」音楽家の名誉のために申し上げますが、一般常識をもって普通の日本人として行動する人がほとんどです。
 おそらく、自分の好きなことに打ち込んで、「お金より音楽」と思う音楽家ほど、どこか…その…面白い性格になるようです。ただ、悪い人はいないのです。
人に危害を加えるような人はいません。
 プロなのに、ぼろぼろのヴァイオリンケースで楽器を持ち歩く演奏家。
 オーケストラの安い給料のほとんどを、レコードを買うことにつぎ込む演奏家。
 ひたすら楽器を買い替え続け、自己満足に浸る演奏家。
 掃除機の音ををステージで鳴らし、楽器として扱う作曲家。 
ちょっと、怖いでしょうか?(笑)

音楽家は人嫌いという嘘

 ステージで怖い顔をして演奏している演奏家でも、話をしてみると案外「明るい普通の人」がほとんどです。中には、ステージ降りても怖い人もいますが。
ただ、普段一人で黙々と練習することが多いので、人と会話をするのが下手な演奏家が多いのも事実です。だから?なのか、ただ演奏してお辞儀して演奏会を終わる人には、個人的に違和感を感じています。お客様に媚びを売るわけではなく、人として接することも必要だと思っています。

音楽家は漢字を書けないという真実

 これは私だけなのかも知れません。すみません。
いや、高校時代の同期男子は全員、現代文のテストで追試を受けていたので、恐らく真実です。
 なにせ、音楽高校の入試は、一般科目にかかるウエイトが低い。というより、私のころは無いに等しかったのです。授業も単位が取れれば良い。単位は、総授業回数の3分の2出席していれば、テスト0点でも単位が取れました。
 大学でも同様でした。なので、私「と同期の男子」の一般科目学力、特に漢字能力は「中学卒程度」で、しかも字を書かない生活でしたので、それは恐ろしいものでした。
 誰とは言いませんが、同級生のヴァイオリニスト「K君」は、卒業後年賀状の宛名に「野村 嫌介 様」と書いてくれました。素敵な男です。
 私は、中学校・高校で20年間、音楽の授業を担当しましたが、音楽理論の授業で黒板に「旋律短音階」と書こうとして、せんりつ…せんりつ…
だめだ!と思い、「メロティック短音階」と板書してその場をやり過ごしたトラウマがあります。生徒たちはノートに書き写していました。懺悔します。

終わりに…

 最後までお読みいただきありがとうございました。
音楽家という生き物、少し理解していただけたでしょうか?
これから音楽家を目指す人や、若い音楽家が「みんな」こうだとは思っていませんが、少なくとも私たちは、普通の人間です。ほとんど人畜無害であり、無芸大食です。どうか、皆様に暖かい目で見て頂ければと、思っております。


ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

譜面のやさしさと演奏の難易度

 一般に長い音符が多かったり、テンポがゆっくりの音楽は演奏が簡単だと思いがちです。確かに前回のブログで書いたように、テンポの速い音楽を演奏することは初心者にとってとても大変なことです。上の動画はリサイタルでの演奏動画です。アルヴォ・ペルト作曲した「鏡の中の鏡」は聴いての通り、ヴァイオリンは常に長い音を演奏し続け、ピアノは同じリズムで淡々と演奏し続けます。
 一方でクライスラーの作曲した「コレルリの主題による変奏曲」は、16分音符の連続やトリル、重音の連続があるため、初心者にとって難易度が高く感じます。聴いていてもどちらが難しそうに感じるか?という事で言えば、クライスラーの曲の方が派手で、難しそうに聞こえるのが自然です。

 アマチュアの人が楽譜を音にする「だけ」なら、ゆっくりした曲・同じリズムが繰り返される曲のほうが演奏しやすく感じます。
 おそらくプロの演奏家にとって、どちらが難しいですか?と聞けば多くの人はアルヴォ・ペルトが難しいと答えるのではないでしょうか。
 一言で言ってしまえば「粗が出やすい」という事です。もっと言えば、演奏者の技術があらわになるとも言えます。

 音楽的な表現もさることながら、弦楽器、管楽器、声楽の場合に長い音を演奏することは基本的な演奏技術である「ロングトーン=長い音」の技術があげられます。弦楽器の場合、弓の長さいっぱいに、出来るだけゆっくり動かしながら、音の大きさと音色を均一に弾くことは、本当に難しい技術です。
 特に弓の速さと圧力の関係を、腕が伸びた状態=弓先でも、腕を曲げた状態=弓元でも同じようにコントロールすることは、至難の業です。簡単そうに思えますが、ただ音が出ればよい…のではなく、必要な音量を維持しながら、震えたり、かすれたり、つぶれたりしないように音を出し続ける集中力も必要です。
 例えていえば、刷毛を使って、看板に文字や絵を描く職人さんがいます。
下絵もなく、ガイドラインもなく、一回で書き上げていきます。あの集中力は見ていてうっとりします。
 身近な例えで言えば、筆で同じ太さのまっすぐな直線を書こうとしたら…
難しいことは
想像できますよね?それに似ています。

 速い音楽、言い換えれば短い音の連続した音楽を演奏する場合、弦楽器では右手と左手の運動の連携が最も難しい技術かも知れません。もちろん、アマチュアの人にとって…の話です。右手左手を、ある時は分離して動かし、ある時は同期させて動かすことは、慣れが必要です。以前にも書きましたが、一つの運動に集中すると他の運動は、無意識で運動することになります。両手をコントロールするためには、片方の手に集中しないことです。頭を空っぽにするのではなく、音をイメージして両手ともに「無意識」で動かせれば、分離も同期もできます。

 ぜひ、ゆっくりした音楽を丁寧に演奏する練習を繰り返してください。
もちろん、速い曲の練習も必要ですが、基本は長い音を綺麗に弾けることです。
右手一生。そう思って頑張りましょう!

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜の進む速さ

 上の映像は、ボロディン作曲のオペラ「イーゴリ公」の中の一曲「ダッタン人の踊り」から。8分の6拍子。プレスト。譜面には付点四分音符=100(一分間に100回)つまり、1小節1秒ちょっとの速さと書かれていますが、映像の冒頭部分プロオーケストラの演奏はそれより、ずっと速いテンポです。
 画像はファーストヴァイオリンのパート譜。音を聴きながら楽譜を見て、どこを弾いているか見つけられれば、あなたはかなりの上級者です。普通は絶対に見つけられません。それが普通です。はやっ!!!

 その後、メトロノームとパソコンの音で少しゆっくりした演奏と同じ楽譜。
いかがでしょうか?どこを弾いているか?お判りでしょうか?
この楽譜はファーストヴァイオリンのパート譜です。
オーケストラでは、ピッコロ・フルート・オーボエ・コールアングレ・クラリネット・ファゴットの木管楽器。ホルン・トランペット・トロンボーン・チューバの金管楽器。さらにハープ。ティンパニ・バスドラム・シンバル・タンバリンなどの打楽器。ファーストヴァイオリン・セカンドヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスの弦楽器。これらの楽器が同時に演奏することもあれば、どれかひとつだけの場合もあります。
 自分が演奏するだけの楽譜が「パート譜」です。すべての楽器の楽譜を縦に積み重ねて書いてあるのが「スコア」です。指揮者はスコアを見ながら指揮をします。スコアは時によって、1ページに数小節しか書けないこともあります。どんどん次に進む…。大変です。

 動画最後に、もっとゆっくりの演奏になります。
1分間に付点四分音符60回。1小節2秒の速さです。それでも追いかけるのは大変ですよね。ましてや、これを演奏するのですから…。
速い曲を練習するために、楽譜を読むトレーニングが必要です。
CDなどの演奏を聴きながら、楽譜を見る練習をすれば、次第に慣れていきます。それでも速くて追いつけない時は、ゆっくり聞きながら読むことをお勧めします。

 本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

楽譜・曲・演奏

上の動画は、J.S.バッハ作曲 無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番よりアダージョの冒頭部分だけを、Youtubeで拾い集めてつなぎ合わせたものです。どれがどなたの演奏かは気にしないでください(笑)
 この楽譜をバッハが手書きで書いたものから、現代のパソコンで作られたものもすべて「楽譜」と呼ばれます。
 その楽譜を演奏者が音にすることが出来るのは、当時から楽譜の約束が現代まで変わっていない=伝承されているからです。考えたらすごいことですよね。

 さて、楽譜を音にすることが出来るから昔の作曲家の書いた曲を、今演奏できるわけですが、同じ楽譜でも演奏する人の個性があります。楽譜に書いてあることの中で、最低限守らなければいけないことがあるとすれば、音符の高さと長さ、休符の長さの2種類になると思います。もちろん、強弱記号、発想記号も大切な要素です。音楽として「最低限」変えてはいけないものがあるとしたら、この2種類になると思っています。
 現実に、動画の中の演奏を聴いていると、全く同じテンポ=速さで弾いている演奏はありませんし、音符の長さも様々です。強弱に至っては本当に人それぞれです。録音されたものですから、音色や音量が違って当たり前です。それを差し引いて聞いても、演奏者の個性が感じられると思います。

 作曲者本人が自分で演奏する場合もあります。その場合、その都度違った演奏をすることもよく見受けられます。ポップスでも「あるある」な話です。
 楽譜に書いてあることは、作曲者の表現したい音楽です。ただ、それを世に出し様々な人が演奏できることになった場合、作曲者の「思い」は演奏者の解釈に委ねられます。簡単に言えば、演奏者の感性で楽譜を音にすることになります。
 演劇や映画などでも同じようなことがあります。台本、脚本があり演者がそれを表現する時、演者によって作品は大きく変わるものです。

 演奏者が楽譜を音に出来ないケースは多々あります。
それを「能力が低い」とか「努力が足りない」と切り捨てるのは簡単ですが、演奏の能力と楽譜を音にできる能力は、全く違う能力です。美空ひばりさん、小椋佳さんは楽譜を音に出来なかったそうです。それでも素晴らしい演奏者だと思います。

 曲を作る人の感性と演奏する人の感性。さらに聴く人の感性。
すべてが違うのが自然です。だからこそ、演奏する人間は、自分の感性を大切にするべきです。誰かの演奏を「まる」っと真似をするのではなく、自分の頭で考え感じた音楽を表現するための努力が必要です。
 作曲者の書いた楽譜、曲を自分なら、どう?演奏するかを考えることは、作曲した人への敬意につながると思います。
 とは言え、自分の演奏技術の中で出来ることに「限界」を先に感じてしまう人も多いのが現実です。プロの演奏を色々聴き比べたり、Youtubeでアマチュアの演奏を聴いてみても自分の「できそうなこと」がわからないのは、ごく当たり前のことです。なぜなら「出来ることとできないことの違いが判らない」のですから。上手に弾いている人の演奏を聴くと、何が?どう?自分と違うのかが言語化できないのは、知識として演奏に必要な技術をまだ知らないので仕方のないことです。
 例えていうなら、家を建てるために必要な知識と技術を知らない私たちにとって、なにから始めれば家が建つのか?わからなくて当たり前なのと似ています。
 おいしいと思う料理のレシピを知らなければ、同じ味を出すことは不可能です。さらに、レシピがわかっても失敗の経験を重ねなければ、その味を再現することは無理でしょう。音楽も同じだと思います。いくら練習方法「だけ」を知っていても、実際に失敗を重ねながら根気よく練習しなければ、目指す演奏に近づくことはできません。
 楽譜を料理の「素材」あるいは「レシピ」に例えるなら、演奏する人は料理人です。素材とレシピを基に自分で試行錯誤しながら、自分の美味しいと思う料理が出来るまで失敗を重ねて初めて、理想の味にたどり着けるのではないでしょうか。
 レトルト食品のように、簡単にプロの味を再現できる「音楽」は、録音された音楽を聴くことです。自分で料理する楽しさが、演奏する楽しさです。
 人によって好みの味が違うように、音楽にも好みがあります。
他人が美味しいと言っても自分の舌には合わないこともあります。
自分の好きな演奏を出来るのは、演奏するうえで最大の楽しみのはずです。
インスタントに出来るものではありません。だからこそ、失敗にくじけない「根気」が不可欠です。最初から諦めるなら、レトルト食品で満足する=他人の演奏を聴くことに徹するしかありません。

 個性は決して突飛なことをする事でもなく、人と違うことをする事でもありません。自分の好きな音楽を模索し続け、自分が楽しめる演奏をする事こそが個性だと思います。まずは、他人のレシピで色々試し、自分に足りない技術を探し、出来るように練習し、また違うレシピを試す…その繰り返しが、個性的な演奏に繋がり、延いては自分の演奏技術を高めることになると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリンの基礎練習?

 映像は2002年1月のメリーオーケストラ第1回定期演奏会。ふるさとを演奏する子供たちとプロの演奏家仲間です。
 今回のタイトルに基礎練習「?」とわざわざクエスチョンマークを付けたのには理由があります。Youtubeでこの言葉を検索をすると、山のように動画が見つかります。すべてを見たわけではありません。ただ、私に独自の考え方があるので、そのことについて書きます。

 たとえば、家を建てる時に基礎を作ります。
基礎だけでは人が生活することは出来ません。基礎の上に建物を作るためにあるのです。
 ヴァイオリンの基礎練習。何のために?基礎を作るのでしょう。
そもそも、ヴァイオリンの基礎とはどんな技術の事を言うのか?実は明確な定義はありません。むしろ、人によって基礎と思うことが違うのが当たり前です。
「基礎の練習をしないとうまく弾けない」とか「難しい曲を弾けるためには基礎が必要」とか。実にあいまいな言葉です。

 メリーオーケストラで演奏している子供たちは、演奏を楽しむために集まった子供たちです。決して練習するために…とか、上手になるために集まった子供たちではありません。演奏を楽しむために必要になる技術は、本当に様々ありますがざっくり言えば「弾ければ楽しめる」のです。しかも、誰かと一緒に弾くことは、ヴァイオリンという楽器の特性でもあり、ピアノと違う「合奏することを前提に作られた楽器」でもあるのです。一人で悶々(笑)と音階と練習曲と伴奏抜きのコンチェルトソロを練習しても、楽しいと思えないのが当たり前です。
 ピアノは一人で演奏を完結できる曲がほとんどです。ヴァイオリンは違います。無伴奏の曲はごく一部です。ヴァイオリン以外の楽器や何人かのヴァイオリンで一緒に演奏することが、本来のヴァイオリンの楽しみ方と言っても言い過ぎではありません。
 つまり「一緒に演奏する」ことが「建物」であり、その演奏の幅を広げるために必要になる技術が「基礎」だと思っています。

 極論すれば、一緒に演奏しながら上達できるなら、自然に基礎練習もしていることになります。事実、20年間、部活動オーケストラの練習で「基礎練習」は行いませんでした。メトロノームに合わせて合奏練習するのを「基礎」と勘違いしている団体が多いのですが、まったく効果はありません。むしろ時間の無駄です。
 合奏に参加するために、楽譜を覚えて演奏する。これ、無理だと思う人が多いのですが、皆さん小学校、中学校で合唱をした時、楽譜を読み名がら歌っていましたか?ほぼ100パーセントの子供が、自分の歌う歌詞とメロディーを「覚えて」歌っていたはずです。つまりは、覚えること自体は、それほど大変なことではないのです。むしろ、歌えない=弾けないことのほうが難しかったはずです。
 ほかのパートにつられて歌ってしまった記憶はありませんか?
楽器の演奏でも同じです。演奏できると言っても色々なレベルがあります。
どのくらい正確に、そのくらい綺麗な音で、どのくらい思ったように弾けるか?
それらを出来るようにするのが「基礎練習」です。
 どんなに音階だけが正確に弾けても、リズムがわからなかったり、音が穢かったり、音が小さすぎたり、音量を変えられなければ、合奏で他の人と一緒に演奏して満足できないはずです。
 一人でいくら上手に弾けても、他の人に合わせられなければ、合奏できません。自分以外の音を聴きながら、自分の音を聴き、ピッチや時間を合わせる技術は別の技術です。

 では合奏だけしていればうまくなるか?と言うと少し違います。
合奏するために必要な色々な技術をすべて短期間に身に着けることは無理です。
オーケストラで演奏する曲のすべての音をきちんと弾けるのは、おそらく特殊なトレーニングを受けた人です。下の動画をご覧ください。

 メリーオーケストラ第39回定期演奏会での演奏です。
この中のヴァイオリン、全員がすべての音を弾いている…
 いや?弾いていません。と言うか弾こうとはしていますが、現実には弾けているのは数名のプロだけです。「そんなこと言っちゃっていいの?」と言われそうですが、何も問題にしないのがメリーオーケストラなのです。弾けるように頑張ろう!と練習はしています。でも現実には無理です。では、この演奏は「へたくそ」でしょうか?もちろん、プロのオーケストラのような正確さはありませんし、傷だらけです。いくらプロの仲間や音大生が入ったとしても、オーケストラ全体で言えば傷はたくさんあるのです。それでも決して「へたくそ」と言い切れないと、プロのヴァイオリニストの私自身も思います。手前みそ…もありますが、本当に一生懸命演奏しようとする音、何よりもお客様の前で多くの仲間、プロの人と演奏できる「喜び」が音に出ていると思うのです。
 演奏がうまい…と言うのは、ただ間違えないだけの演奏ではありません。
それに気づくことができるのは、自分が誰かと一緒に演奏した時なのです。
評論家が偉そうに言うのは簡単です。自分が演奏を楽しんだ経験があれば、人さまの演奏に偉そうにコメントすることを職業にできないと思うのですが。

 結論。ヴァイオリン演奏技術を上達させければ、一緒に誰かと演奏することです。ひとりで練習できるようになるのは、演奏の楽しさを知ってからで十分です。基礎練習は誰かと一緒に演奏を楽しむための技術を「身に着ける」練習です。ボーイング=弓を動かす練習、音階、ポジション移動、指の独立=右手の速い運指、など。一緒に演奏を楽しむための技術なら、練習しても良いですよね?
基礎だけの音楽は、地球上に存在しません。
以上、すべて「個人の考え」でございました(笑)
気を悪くされた方、ごめんなさい。

NPO法人メリーオーケストラ創設者・理事長・指揮者
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

リズムと拍子

 上の二つの動画は、どちらも夕焼け小焼けの前奏と出だし部分です。
ちなみに、聞こえる音楽は、どちらも全く同じ音源です。
上の映像は、よく見ると4分の2拍子で、下の映像は4分の4拍子です。

 今回、テーマにしたのは楽譜を音楽にする技術の中で、音の高さを見つけるより、音符と休符の長さ=リズムの方が、はるかに難しいという話です。
 楽譜に書いてある音符を音にするために、必要な知識は?
「ドレミ」などの音の名前を読めることです。それがわかったら、次は手鹿にある楽器、リコーダーでも鍵盤ハーモニカでも、もちろんピアノでも、とにかく「ドレミ」の音の出し方がわかる楽器で、楽譜を音に出来ます。
 厳密に言えば、オクターブがあっていないこともあり得ますが、次の音に上がるか?下がるか?を間違わなければ、連続した音の高低がわかります。
 これで音楽になるでしょうか?
いいえ。なにか足りない。と言うより、音楽として全然未完成に感じるはずです。つまり、音の高さだけがわかっても、曲には聞こえないという事です。

 音符と休符の組み合わせでリズムが生まれます。
音の名前が、音の「高さ低さ」を表すもので、音符や休符の種類(たとえば、4分音符、2分音符、2分休符など)は「時間」を表すことになります。
 時間を表すと言っても、「何秒間、音を出す」「何秒間、音を出さない」という計測方法ではありません。実に難しい「相対的な時間の長さ」を表しています。
 2分音符は4分音符の「2倍、長く音を出す」事を意味します。言い換えれば、4分音符は2分音符の「2分の1の長さ、音を出す」ことです。
これ以上は細かく説明しませんが、音符を演奏する「時間=長さ」は、どれか一種類の音符を演奏する時間を決めることで、ほかのすべての音符や休符の時間が決まることになります。
 4分音符一つ分を1秒間音をだすなら、2分音符はひとつで2秒間音をだします。8分音符なら一つ分で0.5秒音を出して次の音符、または休符になります。
この相対関係で、音符と休符の時間が決まります。

 上の映像、4分の2拍子の方は、4分音符を1秒間に30回演奏できる速さ=1分間に4分音符30回の速さ、楽譜には「♩=30」で演奏しています。
 下の映像は、4分の4拍子で、4分音符を1分間に60回演奏できる速さ=1分間に4分音符60回の速さ、「♩=60」で演奏しています。
 聴感上は、全く同じ演奏です。でも明らかに、楽譜は違うのです。
上の楽譜は4分音符の長さが「長い」、下の楽譜は上に比べて4分音符の長さが「半分=2倍速い」という事になります。
 音楽を聴いただけで、音の高さがわかっても、その曲が「何分の何拍子」かは実はわからないのです。楽譜を見て初めて「あ!なるほどね」となるのです。
 聴音の試験でも必ず、これから演奏する曲を弾く前に「△△長調(または短調)、〇〇分の〇〇拍子、××小節」と先生が伝え、その楽譜を五線紙に書く用意をします。拍子がわからなければ、正確な楽譜にはなりません。

 これは「聴いた音楽の拍子」の話でしたが、逆から考えると「楽譜のリズムを音にする」のも、拍子記号の「下の数字=基準になる音符の種類」の速さ=長さを決めてから読み始めます。
 たとえば、4分の3拍子の曲であれば、拍の基準は「4分音符」です。
8分の6拍子であれば、「8分音符」が拍の基準ですが、この場合はちょっと複雑で付点4分音符が拍の基準=1拍になります。8分の3拍子も同じ付点4分音符が基準になります。
 基準になる音符の長さ=速さを決めたら、あとはその基準の音符を「1」として他の種類の音符・休符の時間を決めます。
 この技術は、ひたすら繰り返すことしか身に着ける方法がありません。
絶対音感があっても、これはトレーニングしないと理解できません。

 楽譜を音にするために、リズムを先に理解することをお勧めします。
難しそうな楽譜の場合、基準の拍をゆっくり=長くして、さらに「タイ」を取り払ってから、歌ってみましょう。休符が多い場合は、前後どちらかの音符と同じ高さの「音符」に置き換えて歌ってみると、案外簡単に歌えます。休符は意外に難しいのです。単なる「おやすみ」ではないのです。
 パソコンソフトに打ち込んで、鳴らしてみる方法が一番手っ取り早い(笑)かも知れませんが、自分の力で感覚的に音符の相対的な長さを「音にする」技術を身につける努力をしてみてください。
 必ず出来るようになります!

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

相対音感で暗譜する工夫

 

ちまたで有名な「ヴァイオリンは絶対音感がないと弾けない」という大嘘があります。もはや、差別かよ!と怒りたくなるほどのデマです。
 ヴァイオリンに限らず、歌であれそのほかの楽器であれ、絶対音感があれば演奏が楽になる面は確かにあります。
 そもそも絶対音感の意味さえ知らずに語る人がいるから困ったものです。
人間が音として聴くことのできる、空気の振動はヘルツと言う単位で表すことができます。おおざっぱに言えば、その音の高さにイタリア語なら「ドレミファソラシ」英語なら「CDEFGAB」日本語なら「はにほへといろ」と言う名前を付けたのが「音名」です。細かい説明は省きますね。
 音を聴くと音の名前で答えられるのが「絶対音感」です。
言葉を覚える幼少期に、聞こえる音と音名を繰り返し覚えさせると、どんな人でも絶対音感が身に着けられます。超能力とか天才とかとは、全く関係ありません。むしろ、絶対音感がないのが普通なのであって、特別なトレーニングをある時期にすると身に付く感覚です。大人になってから身に着けるのは、不可能ではありませんが、かなり大変な労力と時間を要します。


 絶対音感でない音感を「相対音感」と言います。
この音感はトレーニングによって、精度が高まる感覚です。
ちがう感覚でたとえると、お弁当屋さんが、決まった重さのご飯を盛り付ける作業を何百回、何千回も繰り返すうちに、測りを見なくても1グラムの誤差もなくも盛り付けられるようになる感覚に似ています。
 音感で言えば、ある音名の音(たとえばドとか、ラなど)を、ピアノや音叉などで聴いてから、その他の音の名前を応えられるようにトレーニングするのが、相対音感の制度を上げていく方法です。もちろん、同時に2つ、3つの違う高さの音がある状態=和音を聞き取るのも、同じ方法でトレーニングを繰り返せば、だれにでも 音名に置き換えることが出来るようになります。
 音楽の学校で行われる「聴音」という授業科目があります。
先生がピアノで弾く旋律や和音の連続を、限られた時間で楽譜に書くという科目です。
 同じように「ソルフェージュ=視唱」と言う科目があります。
これは、まったく聴いたことのない「新曲」を、何の楽器も使わずに、限られた時間、例えば15秒とか30秒で、「予見=声を出さずに頭の中で音にする」して歌い始めるという科目です。良い声で歌う必要はまったくありません。ただひたすら、正確な「リズム」と「音の高さ」で「止まらずに」最後まで歌い通すことをトレーニングします。これも、時間を掛ければ誰でも身に着けられる技術です。

 さて、私は相対音感しかもっていないヴァイオリニスト・ヴィオリストです。
高校と大学で、当時日本で一番聴音とソルフェージュが難しく、厳しかった学校で鍛えられました。入学試験はもちろんのこと、卒業のために必要なグレードが決まっていました。そのグレードに達しないと卒業できないという厳しいものでした。
 その私が視力をほとんど失っている今、新しい曲を楽器で演奏するために、必要不可欠な事が「暗譜」です。
先述の音楽学校で、初見で楽譜を演奏できる能力もトレーニングされましたので、車の運転が出来る視力があった当時は、楽譜を見ただけで演奏することは簡単なことでした。と言うより、それが当たり前の事でした。
 それが出来なくなった今、上の映像のように、楽譜を1小節ごとに画面いっぱいに表示されるようにすることで、楽譜を見ることが出来る視力が残っています。ありがたいことです。感謝しています。
 1小節ずつ覚えていくわけですが、ここで引っ掛かるのが「相対音感」です。

 頭の中に、楽譜をイメージすることもあります。
その時に「音名」と「音の高さ」を覚える必要があります。
「指の番号や弦を押さえる場所で覚えれば?」と思う方がおられるかと思いますが。どんな短い曲でも「音の名前」で演奏する習慣がある上に、長い曲になってさらに調も途中で変わる曲の場合、指の番号だけでは記憶することは不可能です。
 この曲「Earth」は何度も調性=調号が変わります。臨時記号の音も頻繁に出てきます。頭の中で、音名と音の高さが「ずれそうになる」状態が起こります。
つまり、それまで演奏していた調の旋律=メロディーと同じ旋律が、違う調で出てきた時、音楽の理論として「転調」を覚えないと弾けなくなります。
Gdur=ト長調から始まって、平行調のEmoll=ホ短調を通過し、Bdur=変ロ長調、Esdur=変ホ町長、さらにHdur=ロ長調を通り、やがてDesdur=変ニ長調に転調…。まだ間違ってますね(笑)
 これを間違えずに覚えないと暗譜できません。
絶対音感があれば、必要のないことなのかも知れませんが、ないものは努力で補うのです。
 さぁ!覚えるぞ!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

固定観念の弊害

 映像は、Youtubeで放映された番組です。
ゲストとしてインタビューを受けている方、調律師の江頭さんと仰る方で、
私たち夫婦との出会いは、偶然が重なった奇跡的なものでした。
 当時、私が教えていた生徒さんの地元でコンサートの依頼を受けました。
初めての会場に到着したものの、ホールには主催者がいない…
「まだ見えていないようですね」と声を掛けてきてくださったのが、調律を頼まれていた江頭さんでした。コンサート後の打ち上げでもご一緒しました。
 その後、豆腐レストラン「梅の花」でコンサートを依頼された時には、電子ピアノとPAの準備をすべてお願いしたのも江頭さん。
 その後、教室の発表会やメリーオーケストラ定期演奏会での調律を毎回お願いしています。その江頭さんを表面的にしか存じ上げていませんでした。
 昨年の秋に、調律をお願いした会場の舞台で、初めて江頭さんからお話を伺って、へぇ~!っと素直に驚きました。とは言え、特別な違和感もなく普通に受け入れられました。

 私たちは、生まれ育った環境や、時々の文化の中で生きています。
人類の歴史のすべての記録があるわけではありませんが、古代から人間は
「個体差」のある生き物でした。その差で不当に差別をしてきた史実があります。生まれながらに持っている差もあれば、成長とともに明らかになる差もあります。
 肌の色、目の色、骨格、身長、話す言葉、生まれた国などの外見的な違いで、差別をしてきた歴史があります。生まれついての違いです。四肢が多くの人と違うだけで、差別をしていたこともあります。
 見た目にわからない個体差は、もっと陰湿な差別を生みました。
私の病気(網膜色素変性症)も見た目にはわからないものです。
 大きな集団の中で、少数=マイノリティは、多数=マジョリティに対して
いつの間にか委縮した考えを持ちやすく、逆にマジョリティ側は、少数者に対し「意味のない優越感」を持ちやすいものです。

 ここ10年ほどの間に「ヘイト」という言葉をよく耳にするようになりました。
間違った使い方をする集団が政治組織にも見られます。
本来、ヘイトとは「差別を基に個人や集団を貶める」ことです。
喧嘩で相手に対して「ばかやろう」とか「あほ」と言った罵詈雑言は、度を過ごせば「名誉棄損」に当たる場合もありますが、ヘイトとは言いません。
 またその手の人たちは、マイノリティ側がマジョリティ側に対して「ヘイト」をしていると、意味不明なこともおっしゃいます。
 日本国内で、たとえば身体に障がいを持っている人は全体の約2パーセントと言われています。その人たちが、98パーセントの健常者に対して「日本から出ていけ」って、誰が考えても無理ですよね?
 一方で、少数の人たちを援助する法律を切り捨ててしまうことは、法的に可能であり、もしもそうなれば障がいを持つ人たちは、生きていくことさえできなくなります。「ヘイト」の意味を知らずに使うのは、やめて欲しいものです。

 さて、私のライフワークである、NPO法人メリーオーケストラの活動は、青少年の健全な育成と音楽の普及を目的としています。
 子供たちの考え方は、一般的に大人と比べて未熟なものです。
その子供たちに、間違った固定観念を植え付けているのは、私たち大人なのです。
 音楽を幼児や小児に教えていると、当たり前のように学習能力に差があります。それが当然ののです。同じ環境で育った「兄弟姉妹」でさえ、みんな違います。それは能力の差ではなく、個体差なのです。一卵性双生児でも、好みが違い性格も違います。
 他方で、医学的な診断で学習障害を持つ子供もたくさんいます。
程度は様々です。どこから障がいなのか、安直に線を引くことはできません。
 注意欠陥・多動性障害(ADHD)の場合も、中学・高校で20年間教諭を務めていて、幾度となく対面しました。しかし、それも判断は安直には出来ません。

 悲しいことに、私たちは自分が人より優れていると言われたり、思ったりすると気持ちが良いことを知っています。逆のことも知っています。
 自分は優れていて、「あの人・あの子供」は劣っていると思うことに抵抗感がないのも現実です。自分や自分の家族が言われると、許せないのに。
 自分の知らないことより、自分の知っていることが正しいと思いたがります。
前年に担任していた生徒が、自分の性同一性障害(GIDを親に認めてもらえず、自ら命を絶ってしまった経験があります。こんな悲劇が現実にあるのです。
 「弱いからだ」と言う人がいます。
その人がどんなに強い人か知りませんが、人の痛みを思うことのできない人間が、強いはずはありません。

 自分の知らないことの方が、たくさんあるのです。
知らないがゆえに、無意識に他人を深く傷つけていることがあります。
私の母は「認知症になったらバカになる」「認知症はダメな人間がなる」と
死ぬまで思っていました。いくら否定しても、自分が認知症であることを、自分で否定しきれず、私たちの言葉に耳を傾けず、苦しんでいました。矛盾していることをわかっていても、固定観念を変えることが出来なかったのです。

 私たちの周りには、たくさんの人がいます。
自分と他人は、すべてが違う人間だと思うべきです。
自分と同じところ、似ているところがあるかも知れません。
でも、それは目に見えることだけなのです。
他人を肯定することは、自分を否定されないことです。
「LGBT」 レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(性同一性障がい者を含む、心と出生時の性別が一致しない人)のアルファベットの頭文字を取った言葉で、「性的少数者の総称」として用いられることもあります。
 上の説明を読んで、あぁなるほど!と思ってくれる人が、一人でもいたらと思っています。
 私たちが出来ることは少ないかもしれません。
本当の意味で理解することは、本人でさえ難しいことだと思います。
それでも、「固定観念」を捨て、知識として感覚として、他人の個性を大切にすることは出来ると思っています。
 子供たちに、間違った差別を教えるのはやめましょう。
みんな、地球に生まれた同じ人類なのですから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介

憧れの記憶

 映像は、ヘンリック・シェリングが演奏するバッハ、無伴奏ソナタ第1番のフーガ。実は動画では初めて見ました。
 高校生時代、試験の課題だった無伴奏の曲。
当時、シェリングのバッハ無伴奏ソナタ・パルティータの全集を買い、
ひたすら聴いていました。私にとって、最初の憧れの演奏家だったような気がします。
 おそらく同じころに、イツァーク・パールマンの文化会館でのコンサートに、安良岡ゆう先生(同門で大先輩だったので下見をしていただいていました。)のご紹介で、プログラムにサインをしてもらった思い出があります。
 グローブのような手で、にこやかに握手をしてもらったのを忘れません。
ただ、演奏に関してはなぜか?このシェリングの演奏が好きでした。

 他の人の演奏と、どこがどう違うのか?
無理やり違いを探し出せば、きっと言語化できると思いますが、
むしろ言葉にしたくない「憧れ」なのだと思います。
 同じように、好きになれない演奏もありました。
いや、あったはずですが。
覚えていないんです(笑)
 自分が憧れる演奏や、人。自分にないものを、その演奏や人に感じるからでしょうね。でも単なる「偶像=アイドル」とは違います。演奏を通して感じる、演奏者の人柄を、自分の中で作っているという意味では、偶像なのかもしれません。プライベートをすべて知りたいとも思いませんしね。

 師匠の演奏にあこがれていなかったのか!と怒られそうですが、
以前のブログでも書いた通り、弟子は師匠以外からの「刺激」も感じるのです。
純粋培養のように、弟子を自分の手元から手放さない「指導者」がいますが、私は間違っていると思います。現実に、多くの方が色々な師匠に弟子入りしています。
 久保田先生は、海外からの指導者が来ると、レッスンを受けるように勧められました。ご自身も非常に関心をもっておられました。謙虚な姿勢が、心に残りました。

 話をシェリングの演奏に戻します。
何よりも、発音と音の処理が大好きでした。←なんだ、結局分析してる。
アタックの有無、アタックの強弱、アタックの種類
重音のコントロール。レガートの美しさ。
すべて、右手の使い方。
今、こういう演奏をする演奏家、少ない気がしています。
あぁ、もっと勉強すれば良かった!
 と思うので、60過ぎても勉強します。

ヴァイオリニスト 野村謙介
 

音楽の幅

 映像は、2013年2月17日に杜のホールで開いた、メリーオーケストラ第22回定期演奏会の一コマです。
 ギターのソロを弾いてくれているのは、私が教員時代に顧問をしていた軽音楽サークルで、当時高校生だったJIROこと小山じろう君。
 「軽音楽」って言葉、印象が悪すぎます。いかにも「軽薄」と言わんばかりの差別用語に聞こえます。「重音楽」ってあるのかよっ!(笑)と突っ込みたくなります。

 人々に愛される音楽は、時代とともに変わることもあります。
国や地域によっても違います。同じ国、同じ時代でも色々な音楽が同時に「流行」したこともありました。
 話を現代、西暦2022年2月に日本で生きている私たちに絞ってみます。
自由に好きな音楽を、気軽に聴くことが出来る環境があります。
音楽を分類することがあります。
・演奏形態
・作曲された時代
・演奏される国や地域
当然、複数の分類にまたがった、分類もできます。
 先ほど述べた「軽音楽」を調べると、
「流行歌風の音楽、ダンス音楽、ジャズ音楽などの総称。
対義語:クラシック」
 だそうです。ん?では、クラシック音楽とはなんぞや?
「直訳すると「古典音楽(こてんおんがく)」となるが、一般には西洋の伝統的な作曲技法や演奏法による芸術音楽を指す。宗教音楽、世俗音楽のどちらにも用いられる。」
となるようですが。
 案外、テキトーですよね。
自分の好きな音楽に、理屈を付ける意味はありません。
どんな音楽であれ、その人が好きな「音楽」なのです。
食べ物で言えば、和食・中華・洋食などの、おおざっぱな分類も細かい分類もあります。好きな食べ物の「属類」なんて考える必要がないのと同じです。

 クラシック音楽と言われる種類の音楽にも、大きな幅があります。
自分の好きな音楽「以外」を軽薄扱いしたり、長くてつまらない音楽と決めつけるのは、人間として愚かだと思います。これも食べ物の好みと同じです。
 音楽を分類するよりも、自分の好きな音楽を少しでも増やす方が、幸福だと思いませんか?
 メリーオーケストラでも、私と浩子のリサイタルでも、偏った音楽にならないことを大切にしています。
 聴く人の好きな音楽もあれば、聴いたことのない音楽や、嫌いと思っていた音楽をあって当たり前だと思います。
 先入観や食わず嫌いでクラシック音楽しか認めない人や、ガチガチの「クラシックおたく」の方には、不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません。

メリーオーケストラ代表・指揮 野村謙介
 


学校の序列と個性

 時は2月。私立中学校では入学試験の真っただ中。
私立中学に限らず、一般の高校や大学、音楽高校や音楽大学でも、入学試験の季節です。
 今回のテーマは、そうした学校ごとに、誰が、何の基準で付けたのか?学校ごとの序列と、実際の中身と個性について考えます。

 映像は私が20年間勤務した私立中・高の、「部活オーケストラ」の定期演奏会です。場所は、横浜みなとみらいの大ホール。2000人収容のホールが、ほぼ満席の演奏会でした。 
 常識的に考えれば、私立学校の部活動が活躍することは、生徒集めのための「最強の武器」になります。経営者はもとより、管理職も大いに応援するだろうと、誰もが思います。
 実際には、まったく違いました。
「校内の体育館で十分だ」
「たかが学芸部の発表会で、ホールを借りるなんてもってのほかだ」
管理職から言われた言葉です。嘘のようですが、真実です。
当然のことながら、その話は表には出ません。
コンサートを見た方は、さぞや理解のある学校だと思うでしょう。
実際に、このオーケストラで演奏することが目的で、受験する子供がたくさんいました。それも、表には出さないのです。
ばか
でしょう?管理職だけが、ばかだったのか?
 いいえ。管理職にゴマを擦り、媚び諂う(こびへつらう)教員しかいませんでした。みなとみらいホールで演奏できるまでの、16年間。教員たち、管理職と戦い続けました。表には出ませんが。
 学校の中で起きていることは、表に出さないことの方が多いのです。

 学校の序列は、表に出ている事だけを評価されます。
評価するのは、受験生でもなく、在校生でもなく、教員でもなく。
評価のひとつは、卒業生の「進路」です。
もう一つは、学校外の組織・団体が付ける「偏差値」です。
どちらも、実は黒い闇の中で決まっています。
 進路が闇?ありえないとお思いでしょうが、学校は卒業生の進路を公開する義務はありません。責任もありません。自分たちに都合の良い「進路」だけを発表します。
 偏差値は?多くは、塾と予備校が算出する「適当な数字」です。
これも表には出ませんが、私立学校の多くが、塾や予備校を「接待」します。
 常識的に考えれば、逆?少なくとも、塾が生徒を希望の学校に入れたいから、学校「を」接待するのでは?と思いますが、事実は違います。表には出ませんが。
 学校の評価は、本来であれば在校生とその保護者、さらに勤務する教育職員からの「真実の内部」を評価するべきです。
 学校の設備、環境は、誰の眼にも公正な「序列」があります。
音楽学校で言えば、演奏会用のホールのある学校と無い学校の差。
交通のアクセスの良さ、悪さ。
建物の新しさ。などなど、「お金のかけ方」で設備や場所が決まります。

 音楽大学の話です。
私が高校を受験したのは、1976年です。
当時、音楽の学校には「入学の難易度」が歴然とありました。
 言うまでもなく、偏差値や受験倍率ではありません。
一言で言えば、入学できる生徒の「レベル」が違っていました。
受験で演奏する曲、ひとつにしても、難易度の高い学校と低い学校がありました。合格できる演奏技術はさらに違いました。
 桐朋という音楽の学校は当時、設備・施設の面で、音楽学校で「最低」だったかも知れません。それでも、入試のレベルが他の学校と、比較にならない難しさでした。しかも、高校入学時に支払う金額は、日本で一番高い学校でした。
ボロい建物が二つあるだけ。当然、ホールもない。グランドもなく、普通科のグランドを借りて体育の授業が行われる。図書館は短大校舎にある、小さなもの。
 それが、真実の桐朋でした。

 私は当時、学校に大きな不満を感じたことや、学外で恥ずかしい思いをしたことは…
 国鉄の定期券を買うとき以外には、ありませんでした。
「桐朋女子高等学校 音楽科 (共学)」の身分証明書を出して、
武蔵小金井駅の通学定期券購入窓口で「ふざけてんのか?」とマジ切れされた記憶は、一生消えません。学校名は未だに変わりません。仕方ないのですが。
 授業料は、多くの指導者に使われていました。
本当にたくさんの実技指導者が顔を並べていました。
弦楽器の指導者(先生がた)の名簿は、驚くほどの人数と顔ぶれでした。
 高校で、一クラス30人。1学年3クラスで90人。ホームルーム教室は、地下。
クラス全員が集まるのは、週に一度だけのホームルームだけ。あとは、それぞれの履修でバラバラ。授業のない時間は、学校外でお茶をしていようが、ゲームセンターに行こうが、何も言われずお咎めなし。
下校時間は、夜9時。
こんな学校が日本にあるのか!
と、思ったのは高校の教員になってからです。当時は、高校ってそういう学校だと当たり前に思っていました。
 その学校で、日々時間さえあれば、レッスン室を取り合い、練習した。
という仲間がほとんどで←こら。
 音楽を学ぶ上で必要な科目は、基本的にすべて「必履修・必修得」が原則でした。その面だけは、異常なほどに厳しいのが、「個性」でした。
 オーケストラは当然、必修。ただし「能力別」に3つのオーケストラに分かれ、演奏会に出られるのは、一番上の「マスターオーケストラ」と、時々前プロで演奏できる、その下の「レパートリーオーケストラ」。高校と大学の新入生と、レパートリーオーケストラに上がれない、高校2・3年生、大学2~4年生の「ベーシックオーケストラ」
 そうです。高校生と大学生が同じオーケストラで演奏します。
すべてが能力別です。弥が上にも、全員の実技レベルの序列が公開されます。
 不満はありませんでした。それが当たり前だと思っていました。

 現在の桐朋は、どうやら当時と比べ「個性」がなくなってしまったようです。
それは、私立学校として致命的なことであることに、経営陣が気付けていないのでしょう。ほかの音楽学校に「ないもの・ないこと」を探すべきなのに、「あるもの」を真似して、結果的に堕落していく危機感を感じます。
 他の音楽大学も、どうやら似たり寄ったりの気がします。
何よりも、指導者が自分の「地位」にしがみつく姿を見ると、終わった感。
 白い巨塔
ご存じですよね?国立大学病院の「地位」にこだわる医師たちと、医師としての在り方にこだわる人間との、深いテーマでした。
 「私が教授で、い続けるために」他の指導者を排除する人間に、
まともな音楽を演奏できるはずがありません。猿山の猿、以下です。
音楽を学ぼうとする若者を、本当に大切に思う「音楽家」であれば、自分に足りない能力を認められるはずです。一人のヴァイオリニストが教えられるのは、一人分の技術と考え方「だけ」なのです。それだけでは、自分を超える音楽家は絶対に育たたないことを知らない、愚かな「教授」が多すぎます。
 自分は絶対だ、と思い込むのは、自分の家の中だけにして頂きたいのです。
どんなに優れた音楽家だったとしても、その人を育てたのは「絶対に一人ではない」からです。そんなことさえ、理解できない人を「教授」にするのは、大学の恥です。そのことを、学生と他の教育職員が、声にしなければ、その大学はやがて消えてなくなります。その時には、その「教授」は骨になっているのです。

 これから学校を選ぶ人へ。
ぜひ、そこで働く人に話を聞き、その学校に通う生徒や学生に話を聞いてから、学校を決めて欲しいと思います。
 学校に入ってから、しまった!と思えればまだ、やり直せますが、恐らく多くの人は、騙されたまま卒業します。
 学校は「学ぶ場所」です。遊ぶ場所ではありません。
今回も、気分を害される方がおられましたら、お許しください。
まか、そんな方はこのブログをお読みにはならないと思いますが(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

元教員のヴァイオリニスト 野村謙介

 
 
 

指導者の存在

写真は私の尊敬する師匠、故久保田良作先生が、門下生の夏合宿最終日に開かれる、コンサートのリハーサルで指揮をされている写真です。

 ヴァイオリンに限らず、楽器を演奏するために、インターネットや教則本で独学で練習する人と、誰かに教えてもらう(習う)人がいます。
 学校で習う勉強は、本来なら学校で行われるものですが、コロナの影響で自宅に居ながら勉強する時代です。独学に近いですね。
 歌舞伎や能のような伝統芸能で「独学」は聞いたことはありません。
落語の政界でも、師匠から弟子に伝承されるのが「芸」です。
 スポーツの場合、科学的な理論に基づいた練習で、人間の運動能力が向上しています。誰かに弟子入りしなくても、世界新記録を出せる選手が誕生します。

 話をヴァイオリンの演奏に絞ります。
多くの演奏家が、指導者に教えてもらいます。
 そして、優れた指導者と呼ばれる人の弟子に、優れた演奏家が育っていることも事実です。優れた指導者…って、どんな指導者でしょう?

 ヴァイオリンの演奏技術を、お弟子さん=生徒さんに教える仕事をしている立場で、自戒を込めて考えます。
 お弟子さんが目指す演奏・音楽が、はっきりしている場合と、なんとなく…という場合に分けて考えます。その時点の演奏技術や年齢は、別の問題です。
 分かりやすい例でいえば、音楽高校や音楽大学に進学する人は、少なくとも学校の入学試験に合格するという、目標を持ちます。入学後、何を目指すのか?は、時代とともに個人差が大きくなっています。昔はほとんどの生徒・学生が「音楽家になりたい」と思っていたように思いますが、この頃は、そう思う人の割合が減っているようです。
 目標を持った人が、師匠=先生に習うのは、演奏技術だけではないはずです。
演奏技術・方法・練習方法だけなら、今時インターネットで学べるでしょう。
人から人に伝承されるものは、技だけではありません。
人格、思想、性格、話し方など、日常生活の多くが師匠から弟子に伝えられます。弟子の立場で言えば、その師匠からの教えの中に、受け止めがたいものがあっても自然です。師匠が酒癖が悪かったり、レッスン中にケーキを食べていたり、レッスン中にスマホをいじり続けているのを、快く思えないのは当然です。
 中には、師匠を変える弟子もいます。理由は様々です。それがすべて悪いとは全く思いません。その人にしかわからない理由もあるはずですから。
 師匠と弟子の関係は、当たり前のことですが
師匠が弟子を大切に育てること
弟子が師匠を尊敬すること
の二つです。このどちらかが欠ければ、師弟関係は成り立ちません。「仮面師弟」です。相関関係ですから、どちらかだけの問題もあり得ます。
いくら大切に思って教えようと思っても、弟子のやる気がなければ無理です。
いくら尊敬したくても、指導技術や指導方法に問題があれば、これも無理です。

そうは言っても、順序は明らかにあります。
1.弟子が師匠を探す
2.弟子入りを申し出る
3.師匠が受け入れる
という順序が大原則です。
師匠が弟子を捜し歩く…まるで現代の音楽学校の経営者のようです(笑)
音楽学校で、師匠=指導者が優れていれば、生徒・学生は集まります。
なぜなら、先述の通り音楽学校を受験しようとする人は、「合格したい」という目標を最低限持っているからです。合格してから、その生徒がさらに高い目標を持てるような指導をする指導者がいれば、自然に受験生は増えます。

 私のように、街で(田舎ですけど、すみません)生徒さんを集め、レッスンをしたり楽器を販売して生計を立てている人間にとって、生徒さんを「探す」「集める」という仕事が必要になります。
 なぜなら、趣味で音楽を楽しみたいという人は、明確な目標を持っていないからです。言い換えれば、「いつ、やめても気にしない」人を対象に演奏を教えるのです。弟子…とも言えないかもしれません。習う側から言えば「お金を払って、趣味を楽しむ」だけなのです。
 もちろん、そうではない「お弟子さん」に出会うこともあります。
趣味であっても、音楽を楽しみたいという気持ちを持ち続けて、演奏技術を高め、演奏できる音楽の幅を広げるために、指導者の出来ること、やらなければならないことが、たくさんあります。
 専門家を目指す人を教えているなら「嫌ならやめなさい」の一言で終われます。私たちがそんなことを生徒さんに言えば、生活できなくなるのです。
 生活のために、指導者、音楽家としてのプライドを捨てるのか?と、勘違いされそうですが、全く違います。
 趣味の音楽を教え、音楽を愛好する人を増やさなければ、音楽の専門家は生活もできず、社会で不要な存在になるのです。趣味で楽器を演奏する人が増えれば、クラシックの演奏会に興味を持つ人も増えるのです。
 「音楽大学さえあれば、音楽が途絶えることはない」
と本気で思う人がいたら、言ってあげたい。
 「買う人の来ないデパートが存在できるかよ!」
少なくとも音楽は、本来楽しいものです。
ただ、人によっては不要な存在でもあります。
そんな音楽を一人でも多くの人に「楽しんでもらう」ことが、指導者の責務であり、存在する意義だと思っています。

久保田良作先生は、決して威張らない先生でした。
出来の悪い私のような弟子にも、本気でレッスンをして下さいました。
一人で演奏するための技術だけではなく、一緒に演奏する「楽しさ」を教えて下さいました。
門下生同士のつながりを大切にされました。
音楽に向き合い、ご自身も演奏活動を続けられました。
指導者として、私は久保田良作先生以上の方を存じ上げません。
自分自身が、その先生の指導を、少しでも伝承できればと願っています。
 偉大な指導者は、ふんぞり返ってレッスンしません。
ですよね?(笑)
 お気を悪くされた方、申し訳ありませんでした。

田舎街のヴァイオリン指導者 野村謙介


弦楽器の元気

写真は私が演奏させてもらっている、陳昌鉉氏が2010年に制作したヴィオラです。弦楽器の世界では、生まれたての赤ちゃんのような年齢です。
一般に弦楽器の寿命は、300年以上と言われています。
当然のことながら、生まれて(製作されて)からの管理が悪ければ、10年も経たない間に、使い物にならなくなる楽器もあります。個体の寿命が長いほど、演奏する人が増えていきます。
「中古」という概念を、使い古されて新品より程度の低いものと思い込んでいる人がたくさんいます。すべての「もの」に当てはまる言葉ではありません。
人間は生まれた次の日から「中古」なのですから。

人間は何よりも健康であることが一番です。
心と体が健康であることの有難さを、病気やケガをした時に改めて感じるものです。普段、当たり前に生活していると、小さな不満や不運をボヤきがちなのは、健康であることの有難さを忘れているからなんでしょうね。

さて、弦楽器の場合はどうでしょうか。
寿命が人間より長いことは先述した通りです。
弦楽器はすべて、人間が造り出した「道具」であり、生物ではありません。
弦楽器に使われる「木材」は元々は「生物」ですが、切り倒され削られ、加工された楽器は、すでに生命活動はできません。
人間には、再生できる部分が多くあります。皮膚や骨は傷ついても再生します。「歯」は再生しないため、自然治癒がないことは知られています。
楽器は?自分で傷ついた部分を再生…できません。
削れてしまったり、割れてしまったり、穴があいてしまった「木材」は、元通りには戻せないのです。人間が修復をしても、元の木材の状態に完全に戻すことは不可能です。
そうは言っても、楽器は演奏するための「道具」であり、使わなければ造られた意味がありません。楽器の価値は、演奏されて初めて評価されるものです。
傷がつくことも避けられません。壊れて使えなくなってしまうことも、燃えてしまうことも、可能性はゼロではありません。
そうならないように、気を付けられるのは人間だけです。

健康な弦楽器とは?
製作された時から、誰かに演奏されて手入れをされている場合でも、まったく誰にも演奏されない場合でも、楽器は少しずつ変化します。両者を比較すると、演奏したほうが大きな変化を見せます。
ニスが乾くのに、最低でも1年、長ければ2年以上かかる場合があります。
その間、楽器の音は変化します。
弦楽器に使われる「木材」は、理想的には何十年も自然乾燥させた木材を使用するそうです。伐採したばかりの木材には、多くの水分が含まれているため、乾いた音色を出さず、水分が抜ける時の変形もあることがその理由です。
ただ、現代の科学でストラディバリウスは、伐採してから数年の木材で楽器を作っていたという事が判明しました。もちろん、「当時」の「数年前」です。
それでも、ストラディバリウスの楽器は当時から、非常に高い評価を得ていたという史実があります。現代とは全く違う音色の楽器だったことだけは、間違いありませんが、「良い楽器」であったことは確かなようです。
その弦楽器が年月とともに変化する中で、人間でいう「病気」にかかることもあります。「ケガ」は楽器に傷を付けてしまうことになります。
人間なら、薬を飲んだりお医者さんに治療してもらえば、多くの病気は完治します。それは「再生能力」を持った生命に共通することです。

弦楽器の病気。
一言で言ってしまえば、「良い音が出なくなる」「音量が減る」「雑音が出る」という症状です。
始めの二つ「音色」と「音量」は、多くの場合人間の主観的な「感覚」で判断されます。つまり「なんとなく」という言葉が頭に付く病気です。
演奏者の体調で自分の楽器の「音色」「音量」がいつもと違って聞こえる場合が良くあります。演奏する場所によっても大きな違いがあります。
一方で「雑音」は、客観的に判断できます。
雑音の「音源」がどこにあるのかを、注意深く探すと大体の場合は見つけられます。

アジャスターが緩んでいたり、表板に金具が触れていたりするケース。
ペグの装飾部品が、取れかけて振動しているケース。
顎あてのアーチが、テールピースに当たっているケース。
顎あての止金具が緩んでいるケース。
重症なものとして、
糸枕(ナット)が低すぎたり、指板が反り上がったり、駒が沈んでしまって、弦が指板にあたっているケース。
楽器の表・横・裏のそれぞれの板を接合している「膠=にかわ」の接着力が、湿度や高温のために少なくなり、板同士が「剥がれる」ケース。
眼には見えない「割れ」や「ひび」が表、裏の板に出来てしまったケース。
その他にも、雑音や異音が出る原因は数々ありますが、場所を見つけることが第一です。修理は、自分でできるケースと職人さんにお願いするケースがあります。
雑音は出なくても、ネックが反って、指板が下がり表板に近づきすぎるケースは、ハイポジションで弦を押さえられなくなります。
また、調弦する度に駒は「ペグ方向=指板方向」に傾こうとします。これは、弦を緩める時=音を下げる時には、駒にかかる弦の圧力が下がり、弦を張る=音を高くするときには、駒にかかる弦の圧力が増えるために、常にペグ方向に引っ張られる動作が繰り返されるからです。駒の「傾き」は病気ではありません。これは、演奏者が毎日気を付けて観察し、もし目で見て、わかるほどに指板側に傾いてしまった時には、
・4本の弦を少しずつ下げて駒への圧力を減らし
・両手の指を駒の両側から当て、
・少しずつ、傾きをテールピース側に戻す
作業が必要です。これは、弦を張り替えた時にも必要な点検作業です。
この作業をせずに放置すると、駒が傾き、最悪の場合駒が割れたり、倒れたりします。そうなると、楽器の中にある「魂柱=こんちゅう」が倒れます。この柱は、弦の張力→駒→表板→魂柱→裏板という、接着剤を一切使わずに「減の張力」だけで、弦の振動を楽器の裏板に伝える、「弦楽器の仕組み」の中核をなしています。だから「魂」という言葉を使います。
これが倒れたままで弦を張ると、表板が割れます。楽器は二度と演奏できなくなります。

弦楽器の病気治療のほとんどは、医者である「職人さん」に委ねます。
もし、あなたや家族が病気になったとき、信頼できるお医者さんに診察、治療して欲しいと思いますよね?誰にでも命を預けた大手術をしてもらいたいという人は、いないはずです。
弦楽器の病気を治す職人さん。
正直に申し上げて、技術も考え方も「千差万別」の違いがあります。
特に、前述の「音色」「音量」の不満や違和感について、職人さんの「主観」が入ることになります。当然、演奏者自身(自分)とは違う判断をすることになります。その差が、演奏者である依頼人の「好み」「求めた結果」と違う結果になるのは、本当に不幸なことです。
良かれと思って治療をお願いしたら、前より悪くなって戻ってきたら…ぞっとしますよね。では、どうすれば良いのでしょうか?

多くの弦楽器は、製作者に治療をお願いすることが出来ません。
陳昌鉉さんも、すでに他界されています。
職人さんは、自分が作った楽器でなくても、治療=修理を行えます。
ただ、自分が作った楽器ではないので、製作者がどんな音を目指して、その楽器を製作したかはわかりません。製作者によって、好みが違うので当たり前です。
依頼する人=演奏者が、信頼できる職人さんを見つける。
これは、人間の主治医を見つけるのと同じことです。
とても難しいことです。
ちなみに私は、自分のヴァイオリンの調整・修理は、購入した当初から、私と私のヴァイオリンを知っている職人さん「ただ一人」にしかお願いしていません。誰にも調整させません。その職人さんが倒れてしまったら、私のヴァイオリンを調整修理する人は、いなくなります。その時にはまた考えるしかないのです。
あなたの楽器を治療してもらうのに、信頼できる職人さんを選ぶためには?

信頼できるヴァイオリニスト、またはヴァイオリンの先生から直接紹介してもらうことです。
その方が実際に、ご自分の楽器を調整してもらっている職人さんがいるはずです。その方が、その職人さんを紹介しなかったとしたら、理由はひとつ。
「職人さんの負担が増える」ことを心配しての判断です。
それでも紹介したほうが良いと思えば、きっとその方の信頼する職人さんを紹介してくれるはずです。
私自身、自分の楽器を治療してくれる職人さんを、すべての生徒さんに紹介していません。必要な知識と技術を持った、別の信頼できる「若手」の職人さんを紹介しています。
少なくとも、見ず知らずの楽器店に、自分の大切な楽器を「治療」に出さないことを強くお勧めします。削ってしまった楽器は、二度と元に戻らないことを忘れないでください。

最後に。
人間の病気と同じです。
神経質に考えすぎると、かえって良くない結果になることがあります。
少し音が変わった「ような気がする」からと、調整に出すのは良いことではありません。まずは自分で良く考えることです。
そして、考えても時間がたっても、その「違和感」があるなら、信頼できる方に相談してから、治療してください。
できれば最初は「セカンド・オピニオン」が必要です。
修理する前に、ほかの職人や演奏家に相談し、複数の人の「治療法」を聞いてから最終的に判断してください。
楽器は自分で、声を出せません。意思を伝えられません。
演奏する人の「身体」だと思って、健康を観察してください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト 野村謙介

Youtube再生回数の謎

多くの音楽愛好家が、音楽を「検索」するのに使うツールでもあるこのYoutubeという動画閲覧サイト。テレビやラジオと違い、自分の好きなものだけを、無料で視聴できるのがすごい!もちろん、スポンサーのコマーシャルがあってのYoutubeです。私は定額料金を支払ってこのコマーシャルを見ずに閲覧していますが、それもサイトの収入になるわけです。

ちなみに、上の動画。再生回数が「6.3万回」なんです。
は?6万③千回?誰が見るの?って思いませんか?私は思います(笑)
何度も続けて視聴しても、視聴回数にカウントされません。ですので、
私が63,000回見たわけではございませんので。


7年前に「チャールダーシュ」のタイトルでアップした、何でもない動画です。
恐らく、「チャルダッシュ」などの検索をした際に、関連の動画で偶然、表示されたりした回数が増え、再生回数が増えると、見る人の目に留まる…という連鎖かな?なんにしても、私がアップしている数百の動画(多くがメリーオーケストラの動画です)の中で、一番再生されています。

凝った映像でもないし、音もカメラの席から録音した普通のステレオ録音。
演奏は…へたッ!(笑)
みょ~に速いのは。リサイタルのアンコールに演奏していて、早く終わりたかったから…
だったと思います。その程度の記憶です。
場所は地元の杜のホール はしもと。メリーオーケストラの「本拠地」
こんなに再生されるなら、もっとちゃんと弾けば良かった(笑)

世の中に「ゆーちゅーばー」なる職業が出来て、子供たちのなりたい職業の上位になっているという現代。
私は、その類ではございません。もとより、そんな気合もありません。
音楽家の中で、ユーチューバーとしても活動している人を見かけます。
恐らくは、収入よりも「広報活動」としての効果を狙ってのことだと思います。
ただ、私が思うのは…
Youtubeを見る人の中で、どの程度の人がコンサートに来てくれるか?
もちろん、広報はしないより良いのは当たり前です。
残念なのは、演奏家が「なんちゃって」痛々しいゆーちゅーばーの真似をしている動画を見ることが増えたことです。演奏するだけなら、何も問題ないのです。
何か人々に伝えたい気持ちがあって、メッセージを伝えたり、シリーズを組んでアップするのは良いと思います。
ちなみに、多くのYoutube動画は、プロの編集者が動画を編集しています。
まるで、自分だけで撮影し、自分で編集してうように見える動画の多くが、プロの手がかかっていることを理解しないと、さらに痛い映像になります。
演奏家は演奏をアップするのは、リスクを伴います。
宣伝と同時に、批判を浴びるからです。
今は「悪い評価」は押せなくなりましたが、それでもTwitterなどで情報は拡散されます。
「〇〇って、へただよね」と言われるのを覚悟のうえでアップすることになります。
わたし?
言われても、減るお客様がいないので、へっちゃらですwww

今の時代、自分から発信しないと生きていけない時代です。
その意味で若い演奏家の人には、動画をアップする時に、
「なにが喜ばれるのか?」をリサーチする努力と、
「どんな動画が再生されるのか?」
「自分になにが出来て、何ができないのか?」
ということを、ちゃんと考えて発信してほしいと願っています。
演奏の良し悪しだけでは、広報にならないのは辛いことですが
これも時代の流れです。
みんな、がんばってください!

ヴァイオリニスト 野村謙介

ホールとピアノによる違い

上の二つの動画。
同じ曲「レイナルド・アーン作曲 クロリスに」
同じ演奏者「野村謙介Vla・野村浩子Pf」
ほぼ同じ日時(その差1か月以内)
さらに同じヴィオラ(2010年 陳昌鉉氏製作)
同じマイクセッティング(ピアノ=BLUE ( ブルー ) / Bluebird SL・ヴィオラ=sE ELECTRONICS ( エスイーエレクトロニクス ) / SE8 pair)
同じ録音機材(TASCAM タスカムDR-701D)
違うのは?
ホールとピアノです。
上の映像は代々木上原にあるMUSICASA(ムジカーザ)という定員100名ほどのサロンホール、
下の映像は相模原市緑区にある定員298名のホール、もみじホール城山。
ピアノは、上のムジカーザがベーゼンドルファーModel 200(サロングランド) 、
下の映像のもみじホール城山がベヒシュタインC.BECHSTEIN M/P192。
聴き比べてみてください。

同一プログラム・2会場でのリサイタル。すでに14年続けています。
開始当初は、地元の525名収容できる大ホールと、ムジカーザで開催していましたが、私たちには収容人数が多すぎて(笑)、このもみじホール城山に代わりました。
ホールが違うことで、音色の違い、残響時間の違い、お客様との距離の違いがあります。
当然、弾き方も変えます。

ピアノの違いは、ピアニストにとって宿命的なことです。
どちらの会場のピアノも、ドイツのメーカーで大きさもほぼ同じです。
演奏会当日に調律をお願いしているのも、同じ条件です。
それでも、まったく違う個性のピアノです。
どちらが良い悪いではなく、好みの問題です。
この演奏を生で聴き比べると、もっと!すごい違いを感じられます。

ぜひ、生の演奏会に足を運んでみてください。

ヴァイオリニスト 野村謙介

右+下=〇

はい、謎のタイトルです。
視力検査ではありません(笑)
漢字のクイズでもありません。
正解は「ヴァイオリン弾きの弓使い」のお話です。
さぁ、いってみよう!

通常弦楽器は弓の動きを「ダウン」「アップ」で表します。
日本語で言えば「上げ弓」「下げ弓」です。
確かに、ヴァイオリン・ビオラで1弦(ヴァイオリンならE線、ヴィオラならA線)を、全弓で弾けば、弓を持っている右手は、上下運動「も」します。
「も」と書いたのは、上限運動だけではないからです。
その話は、のちほど。
チェロやコントラバスのダウン・アップって、垂直方向=縦方向の上下運動ではありません。
すべてのヴァイオリン族の弦楽器に共通していることがあります。
ダウンは、演奏者から見て「右」方向に動く運動で、アップは「左」に動く運動です。ダウンじゃなくて、ライト=Right。アップじゃなくて、レフト=Left
と言わないのが不思議ですよね。←なんにでも、疑問を持つおじさんです。
つまり、演奏者から見て「左右の動き」で音が出ることになります。

では「移弦」の動きはどうでしょうか?
ヴァイオリン・ヴィオラだと、演奏者から見て「傾斜が変わる」方向に弓を傾ける運動です。たとえれば、シーソーの動きに似ています。
チェロ・コントラバスの場合は、ヴァイオリンと同じ運動に加え、演奏者を中心に考えると「水平方向に回転する」運動も加わって移弦しています。水平方向の回転運動を例えるなら、机に置いた鉛筆を、駒のように回す運動です。
今は、ヴァイオリン・ヴィオラに限った話にします。
移弦するために、駒を中心に弓の傾斜を変えます。
移弦の運動では、音は出ません。むしろ、出さずに移弦できることが必要です。
弓を持つ右手の動きで考えると、「左右に動かさずに、上下に動かす」ことで移弦できます。厳密に言えば、「ヴァイオリンの駒を中心にした回転運動」ですが、主に上下運動です。

弓の場所=元・中・先で、右手の運動相は全く違います。
弓先では大きな運動、弓元では右手の上下運動は小さくなります。

では、「音を出しながら移弦する」ときは?どんな運動になるでしょうか。
左右(ダウンアップ)の運動で音が出ます。上下の運動で移弦します。
ダウンアップでも、右手の高さが変わる1弦、2弦、3弦の場合は、さらに複雑になりますが、今はこれを除外して考えます。
タイトルに書いた「右+下」の意味、もうお分かりですね。
ダウンをしながら、下方向に動かすと「曲線運動=〇」になるという意味です。決して「折れ線」の動きではありません。
ひとつの例で言えば、ヴァイオリンでA線をダウンで弾き、スラー(弓を止めない)でE戦に移弦して弾き続けます。
この移弦する時の右手の動きは、右方向へのダウンの運動と、下方向への移弦の動きが同時に起こります。組み合わせるとも言えます。
1本の弦のダウンだけなら、演奏者の正面から見て、右手は直線運動です。
ところが、移弦をともなうと、右手は「曲線」を描くことになります。
これが、「スラーで移弦する」場合の動きです。

今度は弓を返して移弦する場合です。
実は案外気づいていない人が多いのですが、やりやすい動きと、なんとなく?やりにくい運動があります。
やりやすい運動は。
・ダウンからアップで「高い弦=右側の弦に」移弦する場合。
・アップからダウンで「低い音=左側の弦に」移弦する場合。
やりにくい運動は逆に
・ダウンからアップで「低い弦=左側の弦に」移弦する場合。
・アップからダウンで「高い音=右側の弦に」移弦する場合。
なぜでしょうか?答えは実際に右手で「時計方向=右回り」に円を描くときと、
反対方向「反時計回り=左回り」に右手で円を描くとき、どちらかがやりやすくないですか?特に速く回そうとすると、右回りのほうが簡単に感じませんか?
例えていうと、お米を研いだり、ボールの中を泡立てたりするときに、右利きの人なら恐らく「右回り」に回転しませんか?反対方向にも回せますが、なんとなく違和感がありませんか?
速く移弦しながら弓を返す場合、「低→高→低→高=ラミラミ」なら、「ダウン→アップ→ダウン→アップ」がやりやすいはずです。この「ラミラミ」を逆に「アップ→ダウン→アップ→ダウン」にすると、やりにくいはずです。
手首の運動と上腕、前腕の動きが複雑に組み合わせる移弦。
何よりも、右手の指の筋肉をリラックスるさせることが大切です。

2本の弦の移弦を連続すると?
例えば「レラレラレラ」をダウンから弓順で弾きます。
右手の動きが「∞=横向きの8の字」の形になります。
この形を連続すれば、いつまででも連続して演奏できます。
ただ、この音を逆の弓、アップから弓順で弾いてみてください。
」レラレラレラ」と音は同じでも、アップから弾くと運動がぎこちなくなりますよね?先ほどの「∞=横8の字」を逆方向に回る運動になるからです。

2本の弦を移弦するだけではなく、3本、4本の弦に連続的に移弦する場合、先ほどの「やりにくい動き」が含まれることになります。
「GDAE=ソレラミ」をダウンから弓順=一音ずつ弓を返す運動で演奏すると、
「ソレ」は弾きやすく
「レラ」はアップからで手の運動が逆で弾きにくく、
「ラミ」はダウン→アップで弾きやすい。

整理してまとめると。
移弦を伴う「ダウン→アップ」の連続した演奏は、常に右手が「回転する運動」になります。回転する方向も一定ではありません。混乱して、無意識に力んでしまい、音も汚くなりがちです。
音を出す「左右の運動」と移弦する「上下の運動」が曲の中で常に起こっていることを理解することです。
1本の弦を全弓で弾き続けている時には、「直線」の運動
移弦する時には「曲線」の運動であることを、意識することが必要です。
以前のブログでも書いた、「3次元的な観察」がここでも有意義になります。
自分を前から見た時の動き、上から見た時の動き、横から見た時の動き
これらが「同時に動いている」ことをイメージすると、練習が楽になります。
実際に自分で見ながら弾くことはできませんから、「映像を想像」することです。
頑張って綺麗な「移弦」を練習しましょう!

ヴァイオリニスト 野村謙介

「黒い楽譜」

ギョッとするテーマですが。
ヴァイオリンの楽譜は、ピアノと違いト音記号だけの「1段譜」です。
和音も少なく、どちらかという「スカスカ」なイメージですね。
オーケストラのパート譜は?というと、これが「黒い」場所が多いんです。
もっと言えば、ヴァイオリン独奏用の楽譜と比較して、圧倒的に旋律らしい部分が少ないのが特徴です。
教本やヴァイオリン小品の楽譜は、ほとんどが主旋律=メロディーです。
一方でオーケストラのパート譜は、同じリズムで同じ音を何小節も繰り返す部分や、全音符が何小節もタイでつながっていたり。
オーケストラのパート譜は、木管楽器・金管楽器・打楽器・弦楽器が同時に演奏する「オーケストラ」の一人分の台本です。主役ばかりではないのは当たり前です。

オーケストラのパートの中でも、ヴァイオリンパートは、演奏する音の数が最も多い楽器です。ヴァイオリン全員が休符になる場所は、全体の中でもほんの一部です。
オーケストラの曲は、教本などで演奏する曲と比べて長いものがほとんどです。
交響曲の中の1楽章だけでも、数ページになります。
その楽譜を初心者が練習する時に、どこから手を付けたものやら…と頭を抱えるのは当たり前です。
そこで。長年、部活動オーケストラやアマチュアオーケストラの弦楽器を教えてきた経験から、練習方法をご紹介します。

まず「曲を覚える」こと
楽譜を見てすぐに音にできるのはプロだけです。
さらに言えば、楽譜を見ながら「楽譜以外」に注意を払えるのもプロだけです。
アマチュアは、楽譜を見ながら楽譜以外のこと、例えば「ほかの楽器の音」や「指揮者の動き」や「音楽の流れ」を意識することはできません。
少なくとも、自分が演奏しようとする曲を、完全に覚えなければ、楽譜を読んでも音楽にはなりません。テンポの変わり目、主旋律などを耳で覚えることは、演奏以前にできることですし、アマチュアはここから始めるべきです。

つぎに「聴きながら楽譜を見る」こと
まだ楽器を持つ段階ではありません。もしできることなら、スコアを見ながら覚えた音楽を聴くことがベストです。スコアがないのなら、パート譜を見ながら。
オーケストラは多くの楽器が、ある時は一斉に、ある時は一部の楽器だけで演奏しながら進みます。自分の演奏する楽譜「以外の音」を聴きながら自分の演奏する音を頭の中で演奏します。この練習で、自分のパートが目立つ場所なのか、ほかの楽器を支える「影」の役割なのかを楽譜の中で見分けていきます。

つぎに「聴きながら弾く」こと
昔はテープレコーダーでしたが、いまならスマホ?
テープレコーダーの良いところは、再生しながら足の指(笑)でも
巻き戻しのボタンを押せば「キュルキュル…」と少しだけ巻き戻しができましたが、デジタルだとこれができません。アマログの便利さ!
音源をイヤホンなどで聴きながら、一緒に弾いてみます。
当然、弾けない場所だらけでしょう。それで良いのです。
狙いは、「弾けない場所を見つける」ことと「ほかの音にあわせて弾くことになれる」ことです。練習の第一歩です。

最後も「覚えるまで自分のメロディーを繰り返す」こと
プロではないので、すべての音を完全に演奏することは、どんなに時間をかけても無理なことです。むしろ、それを目指すなら違う練習をするべきです。
オーケストラで演奏を楽しむために、極論すれば「弾けない場所は弾かずに最後まで弾けること」を目指すことです。
弾けない場所を減らすことが「練習」です。
何よりも「リズム」が第一です。当然「音の高さ」も重要ですが、アンサンブルの基本はまず「リズム」です。
人と一緒に演奏する、一番の難しさは「時間を合わせる」ことです。
音の高さも、自分の音と他人の音を両方聴きながら弾くことが不可欠です。
そのためにも、まずは「正確なリズム」を理解することに専念すべきです。

話は少しそれますが、音の高さを「Y軸」に、音の長さ=時間を「X軸」にして考えることをお勧めします。
これは、ヴァイオリンの練習をする時に、いつも考えると理解しやすくなります。
ヴィブラートをこのグラフに置いてみると、とても説明しやすくなります。
細かい=速いヴィブラートは、「細かい曲線」になります。
深い=大きいヴィブラートは「縦に大きな曲線」になります。
この組み合わせで、ピッチやアンサンブルの練習が視覚化できます。
ぜひ!お試しください。

最後になりますが「黒い場所はゆっくり練習する」こと
細かい音符、16分音符が連続するとどうしても「速く弾く」と思い込みます。
弓のダウンアップの速度まで「速く」してしまい、演奏できなくなったり、
音の高さを確かめずにひたすら「運動」の練習に終始してしまいます。
ゆっくり演奏して「リズムとメロディー」を確認してから
力を抜いて「音を短く」する練習をすればよいのです。
そして、実際に演奏する速さよりも、もう少しだけ速く弾けることを目標にします。
いずれも「楽譜を見ないで弾く」ことが必須です。

弾けない場所があってもオーケストラは楽しいものです。
自分が弾けなくても、きっと誰かが弾いてくれると楽しめるのが
「アマチュア」の特権でもあります。
楽しむために努力する。
努力することで楽しみが増える。
深刻にならず、音楽を楽しんでください!

ヴァイオリニスト 野村謙介



メリーオーケストラ演奏会終了

今年で20周年、第40回の定期演奏会を無事に終えました。
回を重ねるごとに、このメリーオーケストラに参加してくれる多くのプロの演奏家たちが、「すばらしい」と称賛してくれます。
私は単純な人間なので、素直にうれしく、誇らしく思っています。

言うまでもなくメリーオーケストラは「アマチュアオーケストラ」です。
プロの演奏家が、高い技術で演奏する音楽とは、演奏技術も表現できる音楽の内容も、まったく比べられるものではありません。
むしろ私は、比べるべきではないと思っています。
プロの演奏を真似することは、アマチュアには無理なのです。
同じ楽譜を同じ編成で演奏しても、出来上がる音楽は「別のもの」なのです。
「アマチュアだから下手で良い」と言う意味ではありません。
逆に言えば「プロは、じょうずで当たり前」なのです。
アマチュアオーケストラの定義てなんでしょう?
「演奏会で入場者からお金をもらうか?」ではありません。
現実にアマチュアオーケストラの多くが入場料を徴収しています。
メリーオーケストラも過去数回、ひとり500円ほどの入場料で演奏会を開いたことがあります。結果。お客様がそれまでより、半減しました。
演奏会を開くために、ホールの使用料、賛助出演者への交通費、お手伝いの方への交通費など、メリーオーケストラの場合でも1回の演奏会で、約75万円ほどの費用がかかります。その費用を、会員と賛助会員の方たちからの「大切なお金」で支払い続けています。
NPO法人(特定非営利活動法人)だから、公的な支援があると思っている方もおられますが、違います。
また、多くのアマチュアオーケストラが演奏会で広告をプログラムに掲載して、収入を得ていますが、NPOの場合、これも基本的にできません。
「法人」ですから、メンバーは正確には「社員」です。
通常の法人社員なら「給与」をもらえますが、NPO法人の場合、社員には給与を支払ってはいけません。それでも「法人」なのです。
そんな理由もあるのだと思いますが、私が調べた範囲では、日本中に「NPO法人オーケストラ」はどうやメリーオーケストラだけのようです。

なぜ?NPO法人にしたの?
素朴な疑問ですよね。
「社会や人のために、国が定めた、何種類かの「目的」を達成するだけの業務を行い、
利益を目的としない団体」がNPO法人です。
メリーオーケストラの場合は、
「青少年の健全な育成」
「音楽の普及」
という目的のために
「月に一回の公開練習」
「年に2回の定期演奏会」
を実施し、
「会員からの月会費3,000円、賛助会費一口年間2,000円」を活動の資金とすることが「定款」で決められています。
さらに「毎年1回の定例総会を開く」「理事と幹事による役員会をおく」ことなどが決められています。「貸借対照表」も公開する義務があります。
つまりは、「目的が明確な団体である」ことを表しているオーケストラなのです。
…大したメリットはありません(笑)
ただ、メリーオーケストラの「主旨」を考えた時、これ以外の目的もなく、
これ以上の活動も無理なので、どんぴしゃ!だとも言えます。

音楽を通して、子供の成長を見守り、人の輪を広げる活動です。
そこには「技術や年齢、居住地域、しょうがいの有無」などは関係ないのです。
その上で、演奏のレベルを維持することと、お客様と一緒に音楽を楽しめることが不可欠なのです。
クラシックばかりではなく、大人が聴いて楽しい曲ばかりではなく、どんな人にでも楽しめる「コンサート」を「継続」することは、本当に難しいことです。
一人はオーケストラは出来ません。多くの演奏仲間に理解してもらって、初めてできることです。
そんな思いが、参加してくれるプロの演奏家の共感を得られるのは、プロの演奏家として、とても誇らしい事であり、光栄なことです。
「自己満足で終わらない。けれど、常に良い音楽を目指す」
音楽の「美しさ」には、プロもアマも関係ないと思います。
技術は「目指す音楽」がなければ、無意味だと思います。
メリーオーケストラの音楽は、演奏する人、お聴きになる人が、「楽しい」と思える音楽です。そんなオーケストラが日本にひとつ、あっても良いと思っています。
これからも、皆様のご理解とご協力を、心よりお願いいたします。

NPO法人メリーオーケストラ 理事長・指揮者 野村謙介

オーケストラを身近な存在に

今(2022年1月12日)から20年前、2002年1月14日(日)
小さな小さな「メリーオーケストラ」と名のついた、弦楽器による演奏集団が、初めての演奏会を開きました。
次があるのかないのか(笑)さえわからないのに、「第1回定期演奏会」と銘打って、再開発を終えたばかりの橋本駅前に、出来たばかりの「杜のホールはしもと」を会場にしました。定員520名。どう考えても大胆すぎる。

当時、私は中学・高校の教諭(いわゆる先生)として働いていました。
その学校も1985年に新設された時に、たった一人の音楽教諭として着任しましたが、誰の力も借りることが出来ない環境で、11人の部員でスタートしたオーケストラを2002年当時には150人の日本でも1・2の規模のスクールオーケストラにしていました。
地域の子供たち、自分の子供たちが演奏できるようなオーケストラを、地元で探しましたが、当然!ひとつもありませんでした。
「ないなら作る」
という安直な発想で、2001年に準備を始め「楽しい」という意味がある(だろう)と思う「メリー」という名前のオーケストラを立ち上げました。
4歳から小学校5年生までの子供たちのヴァイオリン。
ヴィオラ、チェロ、コントラバスはプロの仲間に演奏してもらいました。
子供たちが私の家や、ホールの練習室、さらには合宿で練習し、本番ではめいっぱい!ドレスアップして舞台に立ちます。
予想をはるかに上回るお客様に来場いただき、子供たちは初めての舞台で緊張しながらも、弾き終えた感動、信じられないような大きな拍手を体験しました。
ふるさと、夕焼け小焼け、赤とんぼなどを、なんとか全員で演奏し、少し難しい曲は弾ける子供たちだけで演奏しました。それでも余りに時間が短かったので、最後にプロだけの演奏も加えてコンサートを成立させました。
この演奏会が、まさか20年間、毎年2回の定期演奏会を開き続けることになることは、私も含め誰も想像していませんでした。

1回、2回の演奏会を開いてやめることなら誰にでもできることです。
継続することが、どれだけ大変なことなのかを知りました。
メンバー同士のいざこざ、指導に自ら関わってきた地元のヴァイロン指導者の
「生徒持ち逃げ」、運営自体を保護者に任せられない「信頼感欠如」など。
さらには自分自身の退職と、うつ病と闘いながらの演奏会。
それでも「NPOにしたら?」という当時のホール館長の軽い言葉を真に受け、自力で県庁に通って特定非営利活動法人(NPO)化を成し遂げました。
夏には台風、冬には大雪に見舞われたこともありましたが、演奏会は開き続けました。
メンバーの子供たちは成長とともに地域を離れるケースもありました。
それでも当時小学校5年生だった女子メンバーは、音楽高校、音楽大学と進学し、メリーオーケストラの指導者になっていました。やがてその「子」が「母」になりました。今はまだ幼く、お仕事で海外にお住まいですが、きっと帰国されたらメリーオーケストラの「2世代目メンバー」になってくれることを夢見ています。

オーケストラは器楽演奏の規模がもっとも大きな演奏形態です。
演奏に必要な「こと」「もの」「ひと」があります。
一番必要な「こと」は「絆」です。
どんなにお金があっても、人との絆がなければオーケストラは成立しません。
そして「もの」として必要なのは「ホール」です。
毎回の演奏会ごとに、ホールの抽選会に参加しています。
会場がなければ演奏会は開けないのです.
さらに必要な「もの」はずばり「お金」です。
ホールは無料では使えません。練習会場を借りるにもお金がかかります。
演奏会で参加してくれる仲間に、最低限の交通費を支払うのにもお金はいります。楽譜を作るのにも、備品を購入するのにもお金がかかります。
そして「ひと」です。
演奏する人も、聴いてくれる人も、応援してくれる人も必要なのです。
もちろん、こんな演奏に興味のない「ひと」もいます。
もっとクラシックだけやれ!という人もいます。
色々な意見を言ってくれる人も必要です。
メリーオーケストラの財産は「ひと」なのです。
今まで演奏に少しでもかかわってくれた人。
一度でも演奏会に来てくれた人。
賛助会員になってくれた人。
オーケストラ活動を20年間続けるためのエネルギーは
すべて「人」からもらいました。決して自分の力ではありません。
人の輪が広がることが、音楽を広めることです。
音楽でつながれば、人と人の「和」ができます。
争いも戦いもいらない「和」それこそが「平和」です。
メリーオーケストラを続けることが子供たちの明るい未来につながることを
ただ、願っています。

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介



14年目のリサイタル終了

今回で14回目となる、浩子とのデュオリサイタルが無事に終わりました。
14年前…2007年の冬に始まった二人だけで演奏するコンサート。
これまでに165曲の曲を演奏してきました。数えてみて自分でびっくり。
当初はヴァイオリンとピアノでの演奏でした。
2010年からヴィオラとヴァイオリンを持ち替えてのコンサートになりました。
ヴィオラは高校時代から好きでした。学校のオーケストラで初めて演奏し
「ハ音記号」に戸惑いました。
学生時代、演奏のアルバイトでヴィオラを弾く機会が多かったので、実家に仕事の依頼の電話がある時「ヴィオラの野村さんのお宅ですか?」と言われるようになり、父親に「いつからヴァイオリンをやめたんだ」と叱られた(笑)
やめていませんでしたよ!ただ、ヴィオラが好きだったのと、圧倒的にヴィオラを弾く人が少なく、オーケストラのエキストラもヴィオラが常に足りない時代でした。

メリーオーケストラの運営、指導、指揮、事務作業と、
メリーミュージックの経営とレッスン、同じく事務作業。
年に2回のメリーオーケストラの定期演奏会、年に2回のメリーミュージック生徒さんによる発表会。加えて、年末と年始のリサイタル。
このイベントのための準備が常にある中で、レッスンをしています。
どれが大切?すべてです。すべてが私のライフワークです。
教員時代と比較し、年収は100分の1以下です。これ、本当です。
NPO法人メリーオーケストラの理事長
だけど、無報酬です。
有限会社メリーミュージック代表取締役(いわゆるしゃちょー)
だけど、現在無報酬(会社に貸していたお金を返してもらいながら生活)
だけど
高給取りの教員生活には、ぜっつっつっつっつっつっつたい!戻りません。
命をかける仕事ではありません。私にとっては。ですけれど。
妻の浩子には、本当に申し訳ない気持ちです。感謝の気持ちしかありません。
その浩子と演奏する時間「だけ」は、ほかの事を考えずに好きな音楽を作ることに全力を出せます。体力も年相応です。ふたりとも、病気と共存しながら、前向きです。

いつまで、このルーティンを続けられるのかわかりません。
「ライフワーク」は「生きている限りやる」ことではなく、「生きがいとしてやる」ことだと思っています。無理をして続けても、生きがいに感じなければ意味はありません。その時には、気持ちよくすっぱり!やめるつもりです。
何が初めにできなくなるのか?わかりません。考えることもしません。
楽しいと思える瞬間があれば、つならない事務作業(ごめんなさい!)も必要だから乗り越えられます。
楽しさも苦労も、比べるものではありません。
楽しさを期待しても、苦労を心配しても、結果は変わりません。
「楽しい」と思えることのためになら、苦労は「苦しい労働」ではなく、「労働」と思えます。
音楽家ですと、ふんぞり返る(笑)より
音楽屋です!と笑って答えたいと、いつも思っています。

メリーミュージック代表・メリーオーケストラ代表 野村謙介

ヴァイオリンとピアノの指使い

大人のヴァイオリン生徒さんたちの中で、ピアノの演奏を楽しんでこられた方が多くいらっしゃいます。
楽譜はピアノに比べて、単旋律でト音記号しかなく、きわめて「簡単」です。
もちろん、それぞれの生徒さんの技術差によって、リズムを正確に演奏できるか?や、ピアノなしで旋律を歌えるか?などの違いはあります。
その差とは別に、指使いで混乱する生徒さんが多く見られます。
そこで、今回は「ヴァイオリンの指使いを考える」ことにします。

ピアノの指番号は、両手ともに親指が「1」小指が「5」ですよね。←そこまで自信がないのか(笑)
一方ヴァイオリンは、左手の指にしか番号はつけません。親指は番号なし。人差し指が「1」で小指が「4」です。「5」はありません。
ただ「0」という数字が使われます。これは左手で弦を押さえない=開放弦を表しています。


ピアノと比較して「ひとつ、ずれている」ことになります。
それだけのことでも、長年ピアノを演奏してきた人には、「3」と書いてあれば「中指」が動きます。ヴァイオリンでは「3」は「薬指」です。
違いはもうひとつ。
ピアノの左手指番号は通常であれば、
1→2→3→4
と並べば、音が「低く変わる」ことに対して、
ヴァイオリンの指番号は、通常同じポジション、同じ弦であれば
1→2→3→4
で「高く変わる」のです。
……説明が難しい(笑)
感覚的に、音が順番に高くなる「楽譜」を見た時、
ピアノの左手であれば、
5→4→3→2→1
ですよね。
ヴァイオリンでは、順番に高くなる楽譜は
1→2→3→4
もしくは
0→1→2→3→4
です。
これを視覚的に説明すると、
左手を、手のひらを「上」に向けて、右手は手のひらを「下」に向けた状態にしてみてください。
すると、左端から、左手の親指→人差し指→中指→薬指→小指 続いて右手の親指→人差し指→中指→薬指→小指となります。
この状態でピアノは?
弾けません!よね?(弾けたらごめんなさい)
ヴァイオリンは、この状態で演奏しています。
実際には、左手をさらにもう少し「左側」にひねります。左手の小指を自分に近付けて、親指を向こう側に追いやる形です。手のひらが、少し左側を向きます。
変な向きのように感じますが、実は!
この両手の指の向きをそのままで
リコーダーの仲間も
フルートも
ギターもアコーディオンも弾けます。
言い換えると、ピアノとオルガンが、両手ともに「手のひらを下に向ける」楽器なのです。
 

指番号を頭の中で、楽器ごとに変えることはきっと大変ですね。
私たちヴァイオリニストの多くが、音楽の学校で「ピアノ副科」という履修科目でピアノを少しは学びます。あくまで「副科」です。←いいわけっぽい。
私自身、高校3年終了時のピアノ副科実技試験で、スケール全調!弾けるように「させられ」ました。両手で同時に音階を何オクターブも上がって、下がって…
私には「地獄」に思えました。手が裏返りそうになったり、同じ指で何回も弾いたり…。それでも「まし」な方でした。私の同期のフルート専攻の男子(本人の名誉のために名前は伏せます。I君)は、試験官の先生から「はい。I君。F dur(ヘ長調)ね」と温情の調を指定してもらえたのに、なぜ?そこの「F(ファ)から始める?」と誰もがあっけにとられる高い「ファ」から、ゆ~っくりと一音ずつ「ファ~~~~……ソ~~~~……ラ~~~~……」と弾き始めました。審査の先生方は、全員下を向いて必死に笑いをこらえています。廊下から覗き窓ごしに覗いていた私たちは「ばか!きづけよ!おい!」と小声で怒鳴っていました。やがて、I君の右手がピアノ右端、最後の「ド」を弾き終えた瞬間!
I君「あれ?!」…気が付いた…はるか前から、鍵盤が足りなくなることは私たちでさえ気が付いていました。審査の先生方が一斉に笑いをこらえきれず、天を仰いで大爆笑。
これぞ。副科ピアノの醍醐味です! ←意味が違う
そんな私たちですから、ピアノの指使いは「考えない」ことにしています。
中には、ピアノ科と同等にピアノを弾きこなすヴァイオリン専攻の人もいました。その方たちの頭の中、きっと脳みそが二つあるんだと思います。

話がそれまくりました。
要するに←無理やりまとめにはいる
ヴァイオリンの指番号は、
向こう側が1
こっち側が4
1234で音が高くなる。
4321で音が低くなる。
ピアノと比較しないほうが感覚的に良いと思います。
頭の中で「暗算」をするのは良くありません。
それは、読み替えの際も同じです。
感覚的に「違うスイッチ」を持つことです。
さぁ!ピアを弾ける生徒さん!
いまは「ヴァイオリンを弾いている」のです。
ヴァイオリンのスイッチをいれましょう!
(注:簡単ではありません)

ヴィオラを持つとト音記号が読めなくなるヴァイオリニスト 野村謙介

ストラディバリウスの格付け

今年もお正月のテレビ番組で、面白い実験がありました。
芸能人格付け〇△
もちろん、番組ですから多少なりとも演出=やらせの部分はあって当たり前です。
ワインやダンス、ゴスペル、お肉などの「ランク付け」を芸能人がする内容です。
その中で、ほぼ毎年のように「ストラディバリウス」を当てるコーナーがあります。
カーテンの向こう側で、「プロの演奏家」と称される方々が、
「名器」と言われる楽器と、「入門用」と言われる楽器を弾き比べます。
同じ曲を、同じ演奏者が、高い楽器と安い楽器で演奏する設定。
テレビは当然のことですが、録音する機材、音の処理、テレビのスピーカーなどで生の音とは全く違う音を私たちが聞くので、楽器本体の「音量・音色」はわかりません。
スタジオで聴いている芸能人が、ほぼ全員!安い楽器を「高い楽器」と「判定」
番組的に盛り上がりました。

牛肉と鹿肉と豚肉の「赤ワイン煮込み」を食べ比べ、牛肉を当てるコーナーでも、多くの回答者が牛肉以外を「おいしい牛肉」と判定。
調理と味付けで判断が難しいのでしょうね。
ワインも同様でした。

ちなみに、私がストラディバリウスを当てられたか?
判断不能。どうしてもどちらかを選べと言われたら?
あてずっぽうで答えます(笑)
演奏技術も重要な要素(判断を間違えた原因)ではありますが、あえてその部分にはコメントしません。おそらく、誰が弾いたとしても結果は同じです。
なぜ?あたらないのでしょうか?

あてずっぽうで、やれ「低音の響きが」とか「澄んだ音色が」だとか理由をつけて「当たった!」という方はいるでしょう。単なる「まぐれ」かも知れません。
違う見方もできます。
ワインの「鑑定」を職業にしている「ソムリエ」は、味や色から年代や産地を当てられます。ただそれは「おいしい」とか「高い」を見分ける鑑定ではありません。
ヴァイオリンの鑑定を職業にする方がいます。
ヴァイオリニストではありません。さらに言えば、ヴァイオリン製作者でもありません。
多くの写真と経験から、そのヴァイオリンが本当に「ラベル通りのヴァイオリン」であるかを鑑定します。むしろ音色や音量ではなく「見て鑑定する」方法です。

ストラディバリウスの音色をいつも聴いている人でも、違うストラディバリウスの、音だけを聴いてストラディバリウスを判別することはできません。
先ほどの番組内で、ある芸能人が「違うことはわかるけれど、どちらが安い楽器かわからない」と、ずばり!正解を言っていました。
ストラディバリウスを高く評価する人がたくさんいても、聞き分けられる人がいないのが現実です。

高い値段のヴァイオリンが良い楽器ではありません。
安い値段のヴァイオリンが悪いとも言えません。
ストラディバリウスが、世界で一番良いヴァイオリンではありません。
産地や銘柄、ラベル、値段、他人の評価で物事の良しあしを判断するのは、間違っていないでしょうか?
自分の五感で感じるものを、一番尊重するべきです。
おいしいと思うものは、その人の身体にも良いものだと言われています。
「臭い」と感じる匂いは、その人にとって有害であることを脳が教えているという学説があります。
良い楽器とは、演奏する人を幸せにする楽器です。
縁のない楽器もあります。買えない楽器は、その人にとって縁がないのです。
縁がない楽器には、その人を幸せにする「力」はありません。
本当に良いヴァイオリンと、生徒さんが巡り合えることを願っています。

ヴァイオリニスト 野村謙介

2022年は?

2022年になりました。今年は寅年=ネコ年(笑)
良い一年になりますように。と近所の八幡様に浩子とぷりんと三人でお参り。


大晦日、元旦もいつも通りの練習をできる環境に感謝です。
今年のキーワードは「ボディスキャン=自己認識」
夜、寝ながら身体の色々な場所をリラックスさせる習慣をつけています。
瞑想とまではいきませんが(笑)頭の先から足の指先まで、息を吐くたびにリラックスしていきます。途中で寝てますけど…。

楽器を弾いていると、習慣的に無意識に「余計な力」が身体の色々な場所で入っています。この無駄で有害な力を、意識的にリラックスさせることを目指していきます。
健康という面でも、自分の肉体を観察することは有意義だと思います。
私は自他ともに認める「大げさマン」です(威張ることじゃない…)
ちょっと血が出ただけで、オロオロ&あわあわします。
おかげで(ちがう気がする…)今まで生きてこられました(もっと違う…)
数年前、心不全で入院して初めて自分の身体を隅々まで調べられました。
それまで、「年のせい」にしていた筋肉の疲れ、手足の「つり」も、どうやら血液の流れが悪かったことも原因のようで、ここ1・2年、まったく攣らなくなりました。


自分を認識することは、とても難しいことです。
他人を観察するよりも、はるかに。
立って演奏している時に、すべての重み=重力を感じることから始めます。
すべての重みを、足の裏で支えている意識。
足の裏に続く足首→ふくらはぎ・すね→ひざ→太もも→お尻→腰・おなか→背中・胸→肩
そこから分かれて、首→口→鼻→目→額→頭と、
上腕(二の腕)→肘(ひじ)→前腕→手首→手のひら・手の甲→それぞれの指
すべての「自分」に意識を巡らせることを繰り返し練習します。
身体を動かす時に、必要な「力」を探すことを意識しながら楽器を弾きます。
今まで生徒さんにも自分にも「脱力」の重要性を強調してきました。
脱力するためには、自分の「重さ」を意識することが最初なんだと、
今頃になって考えるようになりました。
重たく感じることができなければ、必要な力もわかりません。
今年の目標は、きっと一生の目標になるような気がします。
毎日、繰り返します。自分のために。

ヴァイオリニスト 野村謙介

61回目の大晦日

毎年大晦日に思うことですが、
今年も一年、生きてきたことを不思議に感じます。
人間、いつかは土に帰るものです。
自分が生まれてきた瞬間のことは、誰も覚えていません。
母がいて、父がいて。自分がいる。
その両親が育ててくれた記憶さえ、次第に薄くなっていきます。
幼いころの記憶で一番多いのは、病弱ですぐに高熱を出していたことです。
物心ついてから、暗いところで何も見えない自分の眼で、大人になって生活することはできないんだろうな…といつも考えていました。

ヴァイオリンという楽器に巡り合わせてくれたのも両親でした。
音楽を聴くことが好きだった両親ですが、よもや私が専門的に音楽を学ぶことになるとは夢にも思っていなかったでしょう。
小学生のころに、楽譜が小さくて読めない私に、母がスケッチブックに定規で五線を引き、楽譜を手書きで大きく書き写してくれました。
「いつか楽譜を大きくする機械ができたらすごいのにね!」と笑いながら話していた母親に感謝と尊敬の気持ちを忘れません。

中学3年生の夏から音楽高校の受験モードに入るという信じられない暴挙。
確かに必死でした。レッスンのために中学校に遅刻して登校して、学年主任の体育教師からさんざん嫌味を言われても、それどころではなかった(笑)
めでたく?希望していた以上の学校に滑り込んで入学。
どん底を味わいながら、成長し大学へ進学。
5年かけて卒業(まぁまぁ笑)し、なぜかプロの演奏家の道に進まず新設される中学校・高校の教諭の道を選びました。
後で父から聞いた話「あの時は、心底!腹が立った。なぜ音楽の道を捨てたのだと。」だそうですが、就職後も応援してくれた両親です。きっと、目の事も心配だったのでしょう。
学校で、がむしゃらにオーケストラを作り育て続け、11人の生徒で始めたオーケストラを150人に増やしました。
2~3年で辞めるつもりだった教員生活を20年間、続けたのは「生活のため」でした。その間、ヴァイオリンに向き合う時間はほぼ「ゼロ」
退職時には、管理職のパワーハラスメントで精神を病むことになりました。

生きることが一番難しい時でしたが、幸か不幸か(笑)投薬のせいで当時の記憶が「まだら」というかあまりありません。
それでも、メリーオーケストラの活動を続け、レッスンを朝から夜まで続けていたのが奇跡に感じます。

ヴァイオリンを弾く「野村謙介」をもう一度呼び起こしてくれたのが、浩子でした。ふたりで演奏することが、今まで自分を育ててくれた両親への感謝を伝えることだと感じながら。

両親が私たちふたりの演奏を最後まで聴いてくれたことが、なによりの親孝行だったのかと思っています。
音楽が人の命に直接かかわることではなくても、
生きていくこと、そのものが音楽であると思うことがあります。


うまれてきたこと
育ててもらえたこと
出逢ったこと
笑ったこと
その すべてに
ありがとう
この命に
ありがとう

これからも、一日を大切にして、生きていきます。
どうぞ末永く、お付き合いください。
野村謙介

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ヴァイオリン初心者の「壁」

多くの初心者にヴァイオリンを教え続けてきました。
自分自身がやる気のないヴァイオリン初心者から、ある時(中学3年生)を境に音楽専門の道に進み、音楽高校、音楽大学で専門教育を学びました。
その経験が、その後今に至るまでの音楽との関わりに深く関係しています。
親に「習わせられる」時代を経て、自分で練習することを覚え、上達することが日々の目標になる学生時代。そして、その後趣味で音楽を演奏する人と向き合う生活になりました。
中学校・高校の部活動オーケストラをゼロからスタートし、20年間の歳月をアマチュア音楽の世界に身を置きました。初めて楽器を手にする子供たちに、学校教育の範囲で演奏する楽しさを伝えました。
在職中にアマチュアオーケストラ「メリーオーケストラ」を立ち上げ、地元相模原で現在まで20年間、毎年2回の定期演奏会を開き続け来年1月には第40回の演奏会となります。小さな子供から高齢者まで、初心者もプロも一緒に演奏を楽しめるオーケストラとして、自分のライフワークになっています。
退職後、音楽教室を立ち上げ、楽器店経営もしながら、800名を超える方たちに楽器の演奏をレッスンして来ました。
そんな経験の中で、今回テーマにする「ヴァイオリン初心者の壁」を考えます。

ヴァイオリンを習い始める時点で、二つの項目で差があります。
1.年齢 2.それまでの楽器演奏経験


まず、年齢に関して言えば、言葉を理解できる年齢であることが必須要件です。
さらに、幼少期の場合、保護者の理解と環境、さらに音楽経験も関わります。
自発的に練習できる年齢、恐らく13歳前後から先は、自分が自由に使える時間が大きく変わります。
10代の子供でも塾や他の習い事、部活などで楽器を練習できる時間が大きく違うのが現代です。
社会に出る年齢になると、仕事や住宅環境で練習できる時間に差が出来ます。
年齢を重ね、いわゆる「高齢者」になっても楽器演奏に必要な筋力、運動神経には大きな障害はないのが現実です。「この年になって」という言葉は、実は自分に対する諦めの言葉だと思います。

次に、それまでの楽器演奏経験です。
言葉を理解できるようになって初めて楽器を習う子供は、当たり前ですが楽譜も読めない、音の名前も知らないわけです。この時から楽器を習い始めると、音の名前と音の高さを繰り返し「学習=覚える」ので、絶対音感を身に着けられます。単純に考えれば、この時期から始めれば一番良いように思いがちですが、実際には、こどもは「飽きる」のが当たり前なのです。
どんな年齢の初心者でも、最初に突き当たる壁は「飽きる」ことなのです。
楽器で音が出ることが面白いのは、ほんの「数回」のことなのです。
音が出せた面白さから、次の面白さを体感できるまでに、「飽きたからやめる」人が一番多いのが実状です。特に幼少期の子供の場合、保護者が家庭でこどもに楽器を練習することを習慣づけ、次の面白さを見つけられるまで「引っ張る」ことが出来なければ、100パーセント子供は楽器から離れます。
楽器を演奏する経験とは、このことです。
つまり、音が出せた!面白さの次にある楽しさを体感するまで「耐える」ことが最大の経験なのです。この経験こそが「楽器を習った経験」になります。
言い換えれば、楽器を習い始め、音を出せた楽しさから、次の楽しさを感じられるまで続けられれば、その次の楽しさを求めることができるので、ずっと続けられます。
ただ、環境が変わって楽器の練習が出来なくなった場合、違う楽器を習い始めることも実際には多いのです。その場合には「耐える」ことを知っていますから、すぐに飽きてやめるケースは少なくなります。

飽きる壁を乗り越えた先にある「初めてのヴァイオリン上達の壁」は?
1.音の高さを視覚的に感じにくい楽器であること。
ピアノは平面的=2次元的に「右が高い音、左が低い音」ですし、白と黒の鍵盤の並び方を「見れば」音の名前を見つけられる楽器です。
ヴァイオリンは?言うまでもないですね(笑)複雑怪奇です。
2.音と音の「幅=音程」を自分で聞き分ける技術が必要
ピアノは「ド」を弾きたければ「ド」の鍵盤を押さえれば「ド」が出ます。
そのほかの音も同じです。
ところが、ヴァイオリンは「ソ」「レ」「ラ」「ミ」に調弦=チューニングした音を基準に、そこから自分で音の高さの幅を考えながら、音の高さを探す技術が必要なのです。これを「相対音感」と言います。
良く目にするのが、ヴァイオリンの音の高さを「チューナー」で確かめていれば、いつか正しい音の高さで弾けるようになると「思い違い」をする生徒さんです。チューナーを使うのは間違っていませんが、基本は「開放弦=ソレラミ」からの音の幅を一つずつ覚えていくことです。
これを簡単に言うと「メロディー(曲)として次の音を歌えること」です。
鼻歌を歌った時、音の名前「ドレミ」を気にする人は、ほとんどいません。
むしろ、「メロディーを歌う」のが鼻歌です。その鼻歌の「最初の音」から「次の音」までの「幅」の事を音程と言います。
もし、初めの音の「名前」が「ド」だとしたら、次の音の「名前」がわかるでしょうか?
かえるのうたが~きこえてくるよ~
を鼻歌で歌ってみてください。
かえるの「か」を「ド」だとします。
かえるの「え」は?答えは「レ」です。
かえるの「る」が「ミ」です。
ドレミファミレド~ミファソラソファミ~
一つのたとえです。
ヴァイオリンの音の高さを探す方法として、「なんちゃって絶対音感」で音を探そうとする「チューナー様頼り」から、少しずつでも「音程」で音を探す練習をすることをお勧めします。
3.汚い音が出る「原因」が複数あること
これは「きれいな音で弾く」ことへのプロセスです。
むしろ、きれいな音の定義は難しすぎます。初心者が感じる「汚い音」の擬音、代表例は「ギーギー」「キーキー」「ガリガリ」です。
弓の速度、弾く場所、弓を弦に押し付ける圧力、弓と弦の角度
弓に関することだけでもこれだけ(笑)さらに
左手の指の押さえる力が足りない場合、押さえるタイミングと弓で音を出すタイミングの「ずれ」、弓で弾いている弦と左手で押さえる弦が「一致しない」など。
汚い音が出る原因が、右手にも左手にもあるのです。
それらが複数、重なっている場合もあります。
つまり、きれいな音を出すために必要な技術は、複数の運動を同時にコントロールできなければ出せないことになります。
壁だらけ(涙)です。
ただ、ひとつずつの運動を分離して練習し、「足し算」をしながら複数の運動をコントロールする練習は、特別なことではありません。

壁を乗り越えるための「練習方法」は?
・毎日の練習に最低限の「ルーティン」を作ること。
例えば、調弦を兼ねて開放弦を、全弓を使って、一定の長さ=速さ、一定の圧力=同じ大きさ・同じ音色で、1本ずつの弦を何往復ずつか弾く練習。
・ルーティンの中に、「左手と右手」を分離した練習を必ず入れること。
・曲を弾く練習は、まず「音の高さ=メロディー」をヴァイオリンを使わずに、ピアノやキーボードなどを使って「理解」し、声で歌えるようにしてからヴァイオリンを使う。
・曲の練習で「できないこと」「苦手なこと」を見つけたら、曲の練習からいったん離れ、その練習だけをする時間を「少し」作る。曲の練習と混合しないことが大切。
・曲を弾けるようになるための「複合技術」を身に着けるために、引き算をしないこと!つまり、音の高さを正しくするために「汚い音」になってしまうのが「引き算」です。練習の基本は「足し算」を繰り返すことです。
・ピアノと違い、「音の高さ」と、「音量・音色」を決めるものが「鍵盤」という一つのものではなく、左手と右手を常に同時に使わなければならないことを自覚すること。だからこそ!ストレスが大きいのです。

「あきないこと」→「あきらめないこと」が秘訣です。
がんばって!壁を乗り越えましょう!

ヴァイオリン指導者 野村謙介

演奏方法で曲の印象を変える

私たちのデュオリサイタルでは、毎回同じプログラムで、地元のホールと代々木上原ムジカーザの2会場で演奏しています。ピアノも違い、響きも違います。
何よりも、一度目の演奏からさらに納得のいく演奏を目指して、演奏方法を見直します。
コンサートの記録映像を見直して、観客の立場で聴いてみたり、お客様からのアンケートも参考にします。
演奏する時に曲のイメージがあっても、聴いてみてそれを感じられない場合もあります。その原因が、イメージの勘違いなのか、それとも演奏方法の間違いなのかを考えます。その両方の場合もあります。

特に音楽がシンプルなほど、何を表現したいのか、自分でわからなくなります。
人間の感情「喜怒哀楽」の、どれも感じない演奏になってしまう落とし穴。
いくら自分がその感情を感じて演奏しても、自分で聴いてみて何も感じない…。
ヴァイオリン・ヴィオラの演奏方法を変えると、全体として同じテンポ、同じ強弱で弾いていてもまったく違う「印象」になります。
ビブラートの速さ、深さ、弓の場所、音のアタックで音の印象が変わります。
弾き方の、「何を」「どのくらい」変えると、聴いた印象がどう変わるのか?
もちろん、聴く人によって印象はみんな違います。まず、演奏者自身が自分の演奏を聴いて、思ったように聞こえるように弾きたい!どうすれば?
その繰り返しです。
自分が「感じる」演奏をする「技術」
何度も試します。答えはなくても、探すことに意味があると思うから。

ヴァイオリニスト 野村謙介



失敗こそ成長の鍵

多くの生徒さんが経験する発表会。思うように弾けなかったり、失敗したことが後を引きずることもあります。
私自身、思い返せば発表会や、レッスン、音楽高校の入学試験、学校で行われる実技試験などで、いつも反省することばかりでした。
未だに、自分の演奏が思うように弾けないのが現実です。
生徒さんから見れば、私たちの演奏は十分なものかもしれませんが、本人にしてみれば失敗や反省が数限りなくあります。
その反省を次に活かすことが上達し、成長するための鍵になります。

まず「思ったように」弾けなかったという「思う演奏」がどれほど、濃いものだったか?自分の思い描く演奏のイメージが薄ければ、当然の事として「行き当たりばったり」の演奏になって当たり前。
例えば、今回のリサイタルで13曲の演奏した中で、すべての音に対して「思うもの」があったのか?音符の数だけ、それらの音に対する弾き方や、こだわりが本当にあっただろうか?
ひとつの音を演奏することの連続が、曲になります。
・どの弦で弾くか
・どの指でどのくらいの強さで押さえるか
・弓のどの部分から弾き始めるか
・弓の圧力と速度で決まるアタックはどのくらい付けるのか
・ビブラートはいつからかけ始め、どの速さでどの深さでかけるのか
・弾き始めから音量と音色をどう変化させるのか
ざっと考えただけで、このくらいのことを考えながら一つずつの音を弾いています。それらを練習で考え、決めたら覚えることの繰り返しです。
その繰り返しの数=練習時間が足りなければ、覚えられません。

私と浩子さんが選ぶ曲は、ジャンルにとらわれません。
好きな音楽を、どう?並べたら、お客様に楽しんでもらえるかを考えます。
料理で言う「献立」です。フルコースの料理なら、前菜から始まってデザートで終わるまでの料理を組み立てるのと同じです。
タンゴを演奏する時には、その曲に相応しい弾き方を考えます。
音色もビブラートも、それぞれの曲にあった「味つけ」をして盛り付けます。
タンゴの演奏を専門にしている方から見れば、嘘っぽく見える演奏かもしれません。それは素直に認めます。あくまでも、私たちの「思うタンゴ」です。
クラシック音楽演奏が主体のヴァイオリニストがほとんどです。
クラシックの演奏も、タンゴの演奏も、映画音楽の演奏も「本気」で取り組んでいるつもりです。
たとえて言えば、ショパンコンクールで素晴らしい演奏を評価された、角野隼人さん(=かてぃん)が、クラシックもジャズも、ストリートピアノも「本気」で取り組んでいる姿をみて「中途半端」と思う人はいないと思います。むしろ、それも演奏家の「個性」ですし、ひとつの音楽ジャンルにだけ固執することが、素晴らしい演奏家の称号だとは思います。

反省する材料に向き合うことは、楽しいことではありません。
ましてや自分が失敗した演奏を、何度も見返すことは、つらいものです。
何度も見返していると、なぜ?そこでそんなことをしたのか、わかってきます。
練習でなにが足りなかったのか。本番でなにを考えていたのか。
失敗をトラウマにしない方法は、解決する=失敗を繰り返さない方法を、自分で見つけることです。それができるまで、繰り返すうちに、自分を信じること、つまり「自信」が自然に身につくものです。
自分の能力を信じること。自分の音楽を信じること。練習してきたことを信じること。そのために、出来なかったことを見つけ出すために、自分の演奏を撮影・録音しています。
来年1月、同じプログラムで代々木上原ムジカーザのリサイタルに臨みます。
その時までにできる反省と復讐を繰り返し、自信を持てるまで練習します。

ヴァイオリニスト 野村謙介

演奏者がエンジニア

通常、リサイタルの演奏者が録音や撮影の準備、撤収を行うことは…
ないでしょうね(笑)
コンサートの記録は、主催する事務所や外部の業者が行うものです。
私と浩子のリサイタルの場合は?
主催者が私たち(笑)で、業者を頼む余裕もないのです。
「記録しなければいいじゃない?」という考えかたもごもっとも。
自分の演奏を繰り返して見て、聴いて次回の演奏を、少しでも良いものにしたいから、私にとって「記録」は欠かせません。
その他にも、生徒さんたちが私たちの演奏した曲を弾いてみたい!と思ってくれた時に、参考になることも事実です。

今回も、本番全室の夜にホールでカメラとマイクのセッティングを行います。
代々木上原ムジカーザでは、そうもいかないので当日、リハーサル前にセッティング。カメラとマイクがお客様の迷惑にならないように最大限配慮することが何よりも大事です。その条件の中で、音色や指使い、ボーイングが後から検証できる撮影と録音をするのは、なかなか難しいこと。そもそも私は録音・撮影のエンジニアではありません(笑)。
趣味のひとつが、オーディオとカメラですから多少の知識はあります。
恩師、久保田良作先生がまさしく!正真正銘のオーディオマニアでしたので、その「血統」も?
加えて、教員時代にオーケストラの録音や撮影に数多くかかわったこととや、授業で使用する音響機材にもこだわっていたので、そんなことも今、活かされています。

今回、新しくビデオカメラを入れ替え、マイクも変えての記録です。
演奏者ですので、実際に撮影や録音は「できません」から、スタートやストップの操作は会社のスタッフにお願いしています。
特に録音に使用するマイク選びは、本当に難しい!
ノイマンやゼンハイザーAKG、ショップスなどのマイクや、1本が60万円を超えるものも珍しくありません。買えません!
趣味でボーカルを録音したり、ユーチューバーが収録に使うマイクの紹介動画は、いくらでも見つかりますが、ヴァイオリンとピアノの録音についての動画は皆無です。そんな中で、情報をかき集めて買える範囲のマイクを探し当てました。
今回のリサイタルで録音してみて、その音質や性能を確認したいと思っています。なによりも、客席で聴いてくださるお客様の「聴いた音」に近い録音ができればと願っています。
さぁ、明日はリサイタル!今日は、技術エンジニア!頑張ります!

録音業者と間違えられるヴァイオリニスト 野村謙介

14回目のリサイタル

普段は毎日、自宅や駅前の教室で朝10時から、生徒さんにレッスンをする生活です。そんな中で、年末と年始に実施ているこのコンサート「デュオリサイタル」。今年で14回目となりました。

演奏家として活動するのに、資格はなにもいりません。
言ってしまえば、自分は演奏家ですと言えば、その人は演奏家です。
プロフェッショナル=専門家だからと言って、必ずしも演奏の技術が高いとは限りません。アマチュア=趣味の演奏家だから言って、演奏がプロより下手だとも限りません。
演奏技術の評価も、人それぞれに違います。
誰かが上手だと思っても、違う人は「そう?かな?」と思うことも良くあることです。
「聴く側のプロ」なんてありえません!
演奏は出来なくても、音楽を聴いて楽しむことは誰にでもできることです。
その人を「聴く専門家」というのは、専門家の意味を取り違えています。
演奏家だって、他人の音楽を聴くことがあります。すべての人が「聴く人」になれるのです。専門家なんていません。

毎回のリサイタルでお客様が書いてくださる「アンケート」を演奏後に自宅で読むのが、何よりも好きです。私たちの演奏を楽しんでくださった方の、率直な感想を読むたびに、演奏して良かった!とつくづく思います。
時々「詳しいことはわかりませんが…」や「普段、音楽はあまり聴かないので…」という言葉を書いてくださる方がいらっしゃいます。
私たちにとって、そういう方たちにこそ、演奏を楽しんで頂きたいと願っていますし、難しいことを書いてほしいとは、まったく思っていません。
「楽しかった」や「なんだかわからないけど、涙が流れた」なんて書いてあると、もう嬉しくてたまりません!

音楽を無理やりジャンル分けする必要なありません。
好きな音楽は、それが演歌だったり、ロックだったり、クラシックだったりするのが自然だと思います。それぞれの「ジャンル」に良さがあり、ひとつひとつの音楽に違った良さがあります。人それぞれに、好きな音楽があるのです。
私たちのリサイタルは、第1回から一貫して「私たちの好きな曲だけ」を演奏しています。その音楽を演奏し、私たちが楽しめなければ、演奏はしません。
私たちの演奏は、どんな演奏の「型」にも当てはまらに音楽だと思っています。
ヴァイオリンとピアノ、ヴィオラとピアノで演奏する「型」はいくらでもあります。
私たちは、「ひとりでも多くの人」の心に触れる演奏を目指しています。
クラシック「も」演奏します。映画音楽「も」、タンゴ「も」、JPOP「も」
二人で演奏します。楽譜がある曲ばかりはありません。むしろ、楽譜は私たちにとって「素材」です。そこに私たちが「味つけ」をして「盛り付けて」皆様に聴いていただきます。

回を重ねる中で、成長していきたいと願っています。
多くの生徒さんたちから「教えられた」ことがたくさんあります。
今までに演奏したことのある音楽も、見直し、作り直して演奏します。
今回のリサイタルで、みなさまに1曲だけでも楽しんで頂ければ幸いです。
会場でお会いできるのを楽しみにしています!

ヴァイオリニスト 野村謙介・ピアニスト 野村浩子

ピアノとの調和

奏の中で最大規模がオーケストラです。
一方で最小の演奏形態が「二重奏=デュオ」です。
ヴァイオリンとの組み合わせの多くは、ピアノとのデュオです。
この場合のピアノは「伴奏」ではなく独立した、一つのパートを担当する「ピアノ演奏」です。ヴァイオリン協奏曲でも、独奏ヴァイオリンとオーケストラは「対等な関係」でなければ演奏は成り立ちません。伴奏ではありません。

ヴァイオリンがピアノと演奏するとき、当たり前のことをまず考えます。
ひとつは「音色の違い」であり、もう一つは「音量の違い」です。
音色はすべての楽器で違います。特にピアノは、フェルトを圧力で固めたハンマーでピアノ線(鋼鉄の弦)を叩いて音を出す「打楽器」の仲間です。
ヴァイオリンは弓の毛で弦をこすって音を出す「擦弦楽器」です。
音色の波形が全く違います。聴感上も全く違います。
一方で音量で考えると、ピアノはヴァイオリンより大きな音を出せる楽器であると同時に、一度にたくさんの音を演奏する場合、音圧は当然大きくなります。つまり、小さな音を出すことが難しい楽器でもあります。
忘れがちですが、ピアノとヴァイオリンでは「筐体=箱」の大きさが圧倒的に違います。グランドピアノは、ピアノ線の長さ分の「筐体」があります。この大きさとヴァイオリンの大きさを比較すると、恐ろしい体積の違いになります。
音が広がりだす「音源」の面積が圧倒的に大きいピアノと、小さな音源から音を出すヴァイオリン。同時に弾けば、聴いている人の耳に届く「音」を例えると、小さなスピーカー(ヴァイオリン)とその何十倍も大きなスピーカー(ピアノ)の音を同時に聞いているのと同じです。
グランドピアノの音を聞きながらヴァイオリンを演奏する時、客席での聞こえ方を考えなます。
私と妻でありピアニストである浩子さんとのデュオの場合、私はピアニストやピアノの鍵盤を全く見なくても安心して演奏できます。それは、信頼があるからです。一方でピアニストからヴァイオリニストが見えないのは、とても不安なことのようです。圧倒的に多くの音を演奏するピアニストが、さらにヴァイオリニストの「動き」を見ることができるのは、驚きに感じます。ヴァイオリニストの息遣いは「音」で感じられても、ピアノの音が大きければ、それさえ聞こえないはずです。ピアノの楽譜は「スコア」なのでヴァイオリンパートも書かれています。その楽譜も見ながらの演奏ですから、視野の中にヴァイオリニストがあることは大切なことなんんですね。ヴァイオリニストがピアノに「合わせたい」と思えば実際には難しくありません。フォルティシモの時だけは、自分の音しか聞こえなくなる場合もありますが。

自分に合わせてほしいと思う時は、わかりやすく動けばピアニストが合わせてくれます。
すべての合奏に言えることですが、信頼関係が強ければ合奏は、さらに成熟します。そして、楽器ごとの違いと共通点によって、合わせる方法は違うことも、理解することが必要です。

機械に合わせて演奏するのではなく、人間と一緒に演奏することを楽しみたいですね!

ヴァイオリニスト 野村謙介

目指す演奏とは?

演奏する人にとって、それぞれに自分の目指す演奏が違います。
もっと言えば、趣味で楽器を弾く生徒さんの多くが、自分の目指す演奏をイメージできないのが現実です。ピンポイントで「正確な音の高さで」や「きれいなビブラート」だったり「弓が弾まないように弾きたい」などの「課題」は感じているようでも、その先にある「理想」がもやもやしている生徒さんがほとんどです。
プロの演奏を真似ることではありません。
趣味だから理想なんて考えられない…と最初から諦めるのも、どんなものかな?と思います。
結論から言ってしまえば、自分の「理想の演奏」は実際には存在しな演奏です。
誰かが演奏したものを、いくら上手に真似が出来ても、それは自分の理想の演奏ではないのです。あくまでも「真似」なのです。他人からの判断ではなく、自分自身が誰かの真似をしている意識がある限り、自分の音楽と離れていきます。
誰もが「自分にしか出来ない演奏」をしています。それが初心者であれ、プロであれ、子供でもすべての人の演奏が、その時点での「個性」です。
つまり、今の自分の演奏は、自分にとって最高の演奏でもあります。
明日、弾いた時には今日と違う演奏になります。それが「成長」です。
生き物はその生命が終わる瞬間まで成長していると私は信じています。
仮に自分の意識がなくなっても、いのちのある限り自分の周りの「生きている人」に関わっている以上、結果的に誰かを成長させていると思います。
今の自分の演奏に満足することは、成長を否定することになります。
だからと言って、明日急に何かがうまく弾けるようになるものではありません。
自分の演奏が、自分にとって、誰かほかの人にとって、「大切なもの」だと自覚することが何よりも大切です。どんなに「へたくそ」だと思っても、自分が楽器を演奏できることは、すごいことなんだ!と思わなければ、楽器なんて弾いても意味はありません。

理想。まさに創造の世界です。
人間が自分の経験した記憶の中から、自分の知らない世界を想像することです。
だからこそ、現実に今演奏している自分の演奏が「起点」であり、未来にある自分の演奏を想像することが「理想の演奏」だと思っています。
うまいとか、へたとか、誰かの評価を気にするとか、他人と比較するとか。
これらは、理想とは無関係です。自分がこれから弾こうとする「音楽」が少しでも自分自身を心地よくできる演奏であることを「目指し」練習することが、必ず自分にしかできない演奏につながり、結果的には常に自分の理想の演奏を探し続けることに繋がっていくものだと思います。
諦めたり、投げやりになったり、やめたくなったりするのが人間です。
それでも何かを探して生き続けることができれば、いつも成長し続ける「感覚」を実感できると信じています。
さぁ!めげずに(笑)頑張りましょう!

いつも迷子のヴァイオリニスト 野村謙介

コールタールの中で腕を動かす

はい。タイトルがおぞましい(笑)ですが、ヴァイオリンの演奏で最も難しい「右腕の筋肉の使い方」のお話です。
演奏の難しさを「海の深さ」に例えると面白いですよ。
一般にヴァイオリンを弾いたことのない人は、左手の指が速く動くことを「すごく難しそう」と感じます。その難しさを海の深さに例えるなら「膝まで位の浅瀬」で、楽譜を読む難しさは「足首くらいまでの波打ち際」
一方で右腕の使い方は「日本海溝並みに深い」とレッスンで話しています。

さて、弓を動かすときに、あなたはどこの筋肉に、どのくらいの力を使っていますか?
私の師匠が大昔レッスンで「コールタールの中で右手を動かすような重たさ」という表現をなさいました。当時、「なんか…臭そう」と(笑)正直に思いました。道路工事で見る、真っ黒く熱く、すごくネバネバしたあの液体の中に、右手を入れたら…いやです。
要するに、腕を動かすのに「抵抗のある状態」をイメージするという意味です。
例えば、プールの水の中で歩いたり、腕を動かすのはすごく疲れますよね?
水の抵抗で足も腕も、思うように速くは動かせないものです。
もしも、もっと粘りの強い液体の中だったり、泥の中や、砂の中だと、さらに体は動かせなくなります。
実際にはそんな経験をしたことのある人は、ほとんどいません。
現実には弓の重さは?約60グラム。卵一個分ほどの重さです。
弦と弓の毛の摩擦の大きさも、きわめて小さいものです。
のこぎりで木を切る時には、刃のギザギザが木に引っ掛かり、動かすのに力が要ります。
やすりで木を削る時にも、粗い目のやすりだと、動かすのに力がいります。
普通の紙で木をこすっても、抵抗はほとんどありません。
つまり、弓を動かすときの「抵抗値」は実際にはとても小さなものです。
それを「重たいもの、抵抗の大きいものを、動かす筋肉の使い方」で弓を動かすことが必要になります。想像力が不可欠です。
右腕の動きは、空中を「3次元的に」移動します。またわかりにくい…(笑)
真上から右腕の動きを見ると、体の正面に対して、斜め前と顔の前を、手の甲が動く映像になります。
正面から右腕の動きを見ると、G線の時は、ほぼ水平に動き、Eの時に最も大きな傾斜で右手が上下に動きます。
身体の右横から右腕の動きを見ると、弓元では顔の前辺りに右手があり、右肘が右肩とほぼ同じ高さに上がるのが基本です。これはどの弦でも共通しています。
そして、弓先に移動する時、右手は少しずつ体の前方に動きます。Gであれば右手は、弓元とほぼ同じ高さのまま、前方に出ていきます。Eの場合は、弓先で右手は右腰の前辺りまで下がり、かつ前方に押し出されています。当然、右肘も大きく詐下がりますが、体の右側面、つまり胴体よりも必ず「前」に動かすことが必要です。体の真横、最悪なのは体より後ろに右ひじが下がりながら、右腕を伸ばすと、右手の位置は「右腰よりずっと右前」に移動してしまいます。つまり、弓と弦の角度が「直角」でなくなります。
右肘は、体の前方に押し出しながらダウン。アップは逆に体の側面に来るように「引き戻す」運動をすることが重要です。

これらの運動を、重たい液体の中でしようとすると?
背中の筋肉、右胸の筋肉も使わなければ動きません。
さらに、上腕(肩から肘までの力こぶのでる太い筋肉)の筋肉も、ゆっくり力を入れ続けなければ重たいものは動かせません。右肘(ひじ)の曲げ伸ばしは、上腕の内側と外側の筋肉を使って動かしています。同じ速さで、重たいものを「動かし続ける」イメージが必要です。
肘から先の前腕を動かすときも同様に、手首の角度によって、筋肉がストレッチされます。ただ、上腕に比べると「力」は少なくて大丈夫です。
右手首と右の指は?力を入れては「ダメ」なのです。
出来るかぎり優しく、自由に動かせて、敏感にしておくことが不可欠です。
例えば、壁に向かって立って、壁を「向こう側」に強くゆっくり押そうとしたら、あなたは「指」に力をいれますか?いれませんよね?入れても無駄なことを知っているからです。
ヴァイオリンの場合、強く弓を持ってしまうと、すべてが「水の泡」です。
どんなに右腕が上手に動かせても、指に力を入れてしまうと腕全体が「硬直」するからです。
腕を振って、手首と指を「ぷらぷら」「ぶらぶら」できますよね?
では、右手で強く「ぐー」をして腕を振ったら?手首は?揺れません。
弓を「握りしめる」生徒さんがいます。これは、「うまく弾こう」とすればするほど、強くなるようです。手の力、手首の力を抜くことが大切なのです。

腕の速度が速いほど「慣性」も大きくなります。
つまり、弓をゆっくり動かすよりも、速く動かすときに必要なのは「弓を返すときの慣性を意識する」ことです。
指に力をいれずに、腕の動きを「瞬間的に逆方向に動かす」のが「弓を返す」ことです。
いったん止める時にも、「突然止める」ことが大切です。減速しながら止まる動きは「意図的に」しなければいけません。デフォルトは「突然止められること」です。電車やバスが急ブレーキで止まると、ものすごい「G」がかかって、ひどいときは人間は飛ばされます。つまり、突然止まる・止めるためには、動いている時より、大きな「エネルギー」が必要になるのです。腕を突然「ぴたっ」と止める技術は、声楽家や管楽器奏者が「音を止める」技術とそっくりです。とても難しい技術だと聞いていますし、私自身うまくてきたことがありません(笑)
動き出す時も、突然。止まる時も突然。長方形の洋館を、途中で「スパッ」と切った切り口のように聞こえれば合格です。
この「急発進・急停止」から「急発進→突然逆方向に急発進→突然逆方向に急発進」と続ける練習が、日々の最初の練習だと私は思っています。
この時の「筋肉の動き」を意識すること。常に一定の力を維持し続け、運動を平均化すること。これが「同じ速度・同じ圧力で弓を動かし音を出す」ことなのです。

長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。
「想像力」をフルに使いながら練習することを心がけて、さらに技術の向上をはかりましょう!

ヴァイオリニスト 野村謙介

音楽の形容詞

国語のお時間です(笑)
音楽の演奏を表現する時、「じょうず=うまい」とか「すごい」とか「素晴らしい」などの言葉を使いますよね。形容詞とは「物事の状態や性質が「どのようであるか」を表現する言葉です。現代日本語における形容詞は、例え「かわいい」美しい」のように終止形が「-い」で終わる語形であり、もっぱら述語」または「連体修飾語」として用いられます。」だそうです。
今回は特に「音色」と「演奏の印象」を表す言葉について考えてみます。

一般的に色とは、視覚的なことを現します。音の色とは?
実際には目に見える「色」のことで無いことは確かです。
音を色に例えて表現する、それが仮に「音色」の意味だとします。
明るい・暗い・淡い・グラデーション・暖かい・深い・濃い・薄い
などの他にも「色」を表す言葉があります。
音を表現する際に、これらの言葉を使うのは、とても面白いことだと思います。
色の表現以外にも、人間には五感と言われる感覚があります。
視覚・聴覚・嗅(きゅう)覚・味覚・触覚の五つの感覚です。
聴覚が音と深い関係なのは当然です。
嗅覚。香りや匂いを表すときに「〇〇のような香り」例えば「バラの花のような香り」とか「にんにくの香り(むしろ匂い?)」、嫌な臭いは「くさい」と表しますね。演奏を聴いて、香りを連想することは、あまり…ほとんど無いかもしれません。でも、人間の記憶の中には「香りの記憶」が強く残ることがあります。
母親の使っていた香水の香り。父親の香りは…マンダムだったり(笑)
好きな香りを想像させる「音」もあってよさそうです。
四つ目の「味覚」は、どうでしょうか?
甘い・からい・酸っぱい・にがい・しょっぱい
甘い匂いという表現がありますから、もとより味覚と嗅覚は近い感覚とも言えます。味の表現は、音色の表現と似ている面があります。
ちょうどいい甘さ
思い浮かぶと思います。ヴァイオリンの音を聴いて「心地よい」と感じる時、自分にとって「ちょうどいい塩梅(あんばい)」だという意味でもあります。
人によって、好みの甘さ加減、塩加減が違います。音色でもそうです。
ちょっと辛すぎる「音」や、甘すぎる「音」もあるように思います。
最後の「触覚」は、音の表現に持って来いです。
柔らかい・固い・暖かい・熱い・冷たい・滑らか・ざらざらした・吸いつくような・湿った・乾いた
他にも色々思いつきますが、これらの「触覚」を表す言葉の後に「音」とか「演奏」「音楽」を付けても違和感がありません。
暖かい羽根布団のような音
吸いつくように滑らかな音
固く冷たい音
いかがでしょうか?

私は自分の音や演奏を考える時に、出来るだけ想像しやすいイメージを思い浮かべます。
もっと「優しい手触りの音にしたい」とか「アツアツでガツンとした味付けにしたい」とか、「聴いていて涙が出るような演奏をしたい」など。
理想でしかありませんが、単に「大きく」とか「きれいに」「速く」ではないイメージのほうが好きです。結果として「心地よい演奏」だったり「惹きつけられる音」だったりすることを目指しながら。
生徒さんにも、わかりやすいイメージを伝えたいと心掛けています。
人間は必ずしも五感が揃っているとは限りません。
その人なりの「イメージ」があるはずです。そして、多くは自分の記憶の中にある「感覚」に頼っています。悲しかった思い出や、懐かしいと思う香りや手触り。自分の五感で感じたものを「音」「音楽」にして、人に伝えることは、とても楽しいことです。できないけれど「おいしい料理」をお客さんに食べてもらったり、良い香りの香水を作ったり、手触りの良い食器や布を作ることに似ています。
音楽が「人間の記憶を呼び起こす」芸術だと思っています。

視覚の代わりに嗅覚が強いヴァイオリニスト 野村謙介

同じヴァイオリンでコンクールを実施したら?

今回のテーマ。少し前にショパンコンクールの素晴らしい配信に寝不足になった人も多いはず(笑)。見ていて、ふと思ったことです。
ピアノのコンクールは、会場にあるピアノで「だけ」演奏し、技術を評価されます。ショパンコンクールや大きなピアノコンクールで、数台のピアノから選べることは、むしろごく稀なケースです。演奏の順番も抽選、楽器も前の人が弾いた楽器で演奏するのが、普通のピアノコンクールですよね。
楽器の違いによる「差」は審査の基準に入りません。もちろん、審査員の好みはあるでしょうが、演奏者がみんな同じ条件なら、審査には影響しません。
ある意味で「公平公正な基準」です。これは、コンクールに限った話ではありません。音楽学校の入学試験も同じです。入学してからの実技試験でも一つのピアノでみんなが演奏します。

ヴァイオリンヴィオラ、やチェロのコンクール、試験はどうでしょうか。
各自がそれぞれの楽器で演奏します。それが「当たり前」だと思われてきました。私自身も、入学試験の時、音楽高校・大学での実技試験で常に「自分の楽器」で試験に臨みました。
ピアノの試験とは大違いです。
全員が違う楽器で演奏しています。審査する人は、誰がどんな楽器を使って演奏しているかを知らされていません。仮に、自分の教え子が試験やコンクールに参加していれば、当然の事として教え子の使う楽器は知っていますが、審査には参加できなかったり、仮に不公正に高得点を付けたとしても、除外されたり、最高点・最低点を付けた一人分の審査点数を除外することが一般的です。
つまり、「楽器による違い」も審査の中に紛れ込んでいることになります。
それが「審査員の好み」という言葉で済ませてしまうのは、ピアノとは大きな違いです。むしろ、楽器の選択を参加者の「技量」にするのは間違っていると思います。弦楽器の場合、恐ろしいほどに楽器の価格に差があります。楽器と弓、あわせて数万円のものから、あわせて数億円になるものまであります。
私は以前にも書いた通り、高い楽器が良い楽器だとは思いません。むしろ否定的です。試験やコンクールであっても、それは変わらないと思います。
ただ、参加する側はそれぞれに環境が違います。
ある人は家庭が大金持ち(ストレートでごめんなさい)で、自分の好きな楽器、好きな弓を自由に選べる環境。
ある人は家庭が貧しく(ごめんなさい)数万円の楽器を買うのでさえ、日々の生活を切り詰め、必死で働いてようやく楽器が買える環境。
この二人が、同じコンクールで、同じ曲を演奏します。
価値観は人によって違いますから、それぞれの「基準」で考えるのが当たり前です。そのことには異論はありません。数万円の楽器であっても、誇りをもって演奏する人もいるはずです。どんなに高い楽器を与えられても、満足しない人もいます。それもその人の「価値観」です。これを読んで「なんでもかんでも平等主義者か!」と思われるのは不本意です。そんな意味ではありません。仲良くみんなで横一列に手をつないでゴールする「かけっこ」なんて、見たくもない人間です。人それぞれの、得手不得手や能力の差があるのが人間ですから。

コンクールや試験を、ピアノと同じように「決められた楽器」で演奏することは、弦楽器でも可能です。「急には慣れない」とか「人の弾いた楽器は弾きにくい」とか。それをピアニストはいつも!乗り越えていますが?
「普段、練習している楽器で演奏するのが弦楽器だ!」それも嘘ですよね?現に、試験やコンクールの時だけ、お高い楽器を借りて演奏する人もいますし、多くの弦楽器奏者が楽器を何度も買い替えていませんか?満足していないからですよね?ピアニストがみんな、スタインウェイやベーゼンドルファーで練習していますか?ショパンコンクールの直前に、「紙鍵盤」で練習している参加者を見ませんでしたか?
「弦楽器のコンクールや試験は、そういうものだ!」と言うご意見は単なる「慣習主義」です。本当に演奏者の技術、音楽性を比較するのが目的なら、同じ楽器で演奏するのが最善だと思いますが。
きっと、今までの弦楽器コンクールとは全く違う「比較」ができるでしょうね。
入学試験こそ!楽器の差を審査基準に入れないことが、これからの時代に必要なことだと思いますが、ダメ?ですか(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト 野村謙介

クラシックのビデオカメラ

今回のテーマ。ビデオカメラです。
現在(2021年11月末)、ビデオカメラ購入で大いに迷っております。
凝り性&機械マニアとして、ドツボに落ちています。
思い起こせば、その昔に初めての「S-VHSデッキ」が発売されたとき、予約して世界初のデッキを買いました。当時、β(ベータ)=ソニーとVHS各社の戦いは凄まじかった!
その後、8mmビデオが発売され、VGHS-Cが消え、ハイエイトが主流となり、やがて「DV=デジタルビデオテープ」が主流となりました。
それら、すべての世代の「ハンディカメラ」を使ってきました。
現在は?世の中は「4K」「8K」と騒いでいますが、現実には「2K=フルハイビジョン」がいまだに主流です。そして、記録方法も、昔はテープでしたが現在は「SDカード」の時代。

今、ビデオカメラを使う人は、非常に限られています。
なぜ?
原因の一つは、スマートフォン(i-Phoneなど)で撮影する方法が、綺麗で簡単。
さらに、デジタル一眼レフカメラで動画を撮影出来て、画質も綺麗!
じゃ、ビデオカメラなんていらない?
いーえ!(笑)スマホや一眼が向かない「撮影ジャンル」が「音楽の撮影」なんです。トホホ(涙)
スマホで長時間、例えば2時間のコンサートを録画?できなくはないですが、
電源をつなぎながら、しかも「音声」はスマホのマイク。いい方法とは言えません。
一眼レフカメラは?一部のカメラを除き、30分以上、続けて撮影できません。これは「輸出規制」のため、一眼レフカメラは動画を29分までしか連続撮影できない仕様になっていたためです。さらに、音声は?マイク端子のついている一眼レフもありますが、音声にはこだわりがありません。電源は?バッテリーをいくつも用意しないと連続撮影できません。1曲ごとに一度停止。バッテリーを気にしながら撮影?これまた、音楽撮影には不向きです。
結果!ビデオカメラが音楽撮影には最適なアイテムとなります。

現在、家電メーカーも光学メーカーも「一般家庭用ビデオカメラ」の販売に極めて後ろ向きです。理由は先述の通りです。さらに、新規に発売されるビデオカメラは、ほぼすべて「4K対応」です。何が違うの?
撮影できる「細かさ」が今までのフルハイビジョンの約4倍の細かさです。
当然、記録の「大きさ」も倍以上になります。しかも、使うセンサーが高額なため、フルハイビジョンカメラに比べ、高額になります。
しかも、数少ない「家庭用ビデオカメラ」の中には、撮影時に外部の音声を取り込むための「入口=端子」がないものが多い!私は、撮影時にマイクを4本使用しています。それらのマイクをいったん「音声専用の記録機械=昔で言うテープレコーダー)につなぎ、その機械から撮影する「カメラ」に音声を送ります。
そうすることで、あとから編集する際に、記録された「CD並みの音声」と「カメラに記録された音声」を「同期=ぴったり合わせる=映像と音を合わせる」ことができます。

現在、使っているビデオカメラはソニーのハンディカムと、キャノンの中古家庭用ビデオカメラの2台。どちらもフルハイビジョンで撮影出来ます。が!
実はソニーのカメラには恐ろしい落とし穴があります。
撮影した映像と音声を、カメラで見たり、テレビにつないだり、そのままの映像と音声をディスクにするときには、まったく問題ないのですが…
編集するために、パソコンに取り込み、ソフトで編集しようとすると、
映像と音声が、まっっっっっっったく!合いません!なぜならば!
ハンディカム「だけ」は、映像の「ビットレート=一秒間に撮影するコマ数」を常に自動的に変えて記録しています!これは、どうにもハンディカムで変更することはできないのです。編集するための方法はただ一つ!違う特殊なソフトを使って、「常に一定のビットレートのデータに変換する」しかないのです。
私が今、使用しているパソコンは現代のパソコンの中で、一番早い部類の性能ですが、それでも、この変換作業に恐ろしい時間がかかります。ただひたすら「待つ!」作業の無駄!なのです。

業務用ビデオカメラは、今でも新しいものが販売されています。
業者さんが使う「放送局仕様」のカメラ、一台約500万円。ごひゃくまんえん。
安いものでも数十万円。家庭用ビデオカメラと「桁が違う」とはこのことです。
しかも、プロのカメラマンは、「オート」は使いません。ピント、ズーム、絞りを片手を常にレンズに当てて捜査しています。当然、素人には撮影することさえ無理です。しかも、私たちの場合、演奏を撮影するのは自分ではなく、お手伝いのスタッフ。つまり「ちょう!どしろうと」であり、可能な限り「押すだけで綺麗に撮影できるカメラ」が望ましいのです。なので、業務用カメラは「除外」

家庭用=民生用と言いますが、この中で「ハイエンド機」と呼ばれるカメラがあります。各メーカー、それぞれの時代にあります。ただ、現在民生用ビデオカメラは、パナソニックとキャノン、JVCしか販売していません。キャノンはすでに「やめる気満々」です。そうなると、フルハイビジョン「だけ」をターゲットにしたビデオカメラは「中古」しかなくなります。
実際に、買ってみました。アマゾンで。2世代前のキャノンの民生用ハイエンド機。届きました。充電しようとしたら、2つ入っていいたバッテリーの一つはまったく充電できず。もう一つは、容量の半分まで。まぁ、バッテリーは消耗品ですから、これは普通に良くあることです。新品のバッテリーをアマゾンで購入。さぁ!ビデオカメラに取付!……できない。なんで?どう調べても、同じ型番のバッテリーなのに、カメラに装着できない。は?
というわけで、カメラもバッテリーも「返品=返金」しました。
中古の当たりはずれは、どんな電気製品にもあることです。

今現在、パナソニックの民生用ビデオカメラ、約7万円。もしくは、キャノンの一世代前のハイエンド機、約6万円。どっちがいい?で迷っています。
パナソニックのは4K対応。このカメラを使ってフルハイビジョンに「ダウンコンバージョン=圧縮」したほうが、普通にフルハイビジョンで撮影するより綺麗だという「情報」もあります。新品なので、はずれはない。高い。それでも、このパナソニックの4Kビデオカメラは他社のそれより、だいぶ安いのです。天下の松下電器にしては珍しい(笑)
キャノンの中古、またはずれを引くのも怖いし、嫌だし。でも安い。中古なので高いもの=程度の良いものもありますが、きりがない。
あなたな~ら ど~する~?(笑)
困った困った。

迷えるおじさん 野村謙介

自分の音量

今回のテーマは、音楽に限った話でもありませんが、自分の聞こえている音の大きさについて。
音の大きさを測る機械で「音圧」を測ると「デシベル」という単位で大きさを表すことができます。
地下鉄の車内の音。飛行機が上空を飛ぶ音。ハードロックのライブ会場の音。
誰が聞いても「大きい音」がある一方で、静かな場所にいると小さな音も、結構気になる大きさに感じます。人間は、静かな場所にいると聴覚の感度が上がります。大きな音を聞き続けると、少しでも小さく感じようと「アッテネーター」(減衰機)に似た働きを脳が行い、結果的に「一時的な難聴」になります。
弦楽器を連続して演奏した直後に、小さい音で「キーン」という耳鳴りが聞こえることがあります。しばらくすると消えます。これが「脳のアッテネーター」です。

その物理的な音圧とは別に、感覚的な音量があります。
先ほど書いたように、静かな場所で聞こえる音は大きく聞こえます。
夜、隣人のテレビの音や楽器を弾く音が「大きく聞こえる」のは、周りが静かで聞こえてくる音が「大きく感じる」からなのです。加えて「もう静かにするべき時間だ!」という怒りの感情も加わって、さらに大きく感じたりします。
音圧の問題とは別の「音の大きさ」です。

さて、音楽の世界に話を戻すと、自分の弾いている音の大きさが、他人の聞いている音の大きさと違う話は、以前のブログでも書きました。
耳元に音源があるヴァイオリン、ヴィオラという楽器は、特に自分の出している音量を客観的に判断しにくい楽器です。
たとえば、ピアノと一緒に演奏していて「自分ではちょうどいい大きさ」と思っても、離れた場所で聴いている人、ピアニストや、客席のお客様には、ヴァイオリンが小さすぎることが良くあります。
ヴァイオリンに限らず、演奏者が自分の音を、違う場所では聞けませんから誰かのアドヴァイスが必要不可欠になります。これも以前書きましたね。

とは言え、自分の音を大きくしたいと思っても、これ以上出せない!と思うことがあります。
ヴァイオリンの音を「大きくする」方法は?弦を弓の毛で強く擦り、速く動かします。音量として考えれば、これ以外の方法は「ビブラート」による残響の増加しかありません。ほんの少しですが、ビブラートによって、音圧が上がります。
音量とは別に「音色」を変えることで、よりはっきりとした、明るい音にすることで「目立たせる」方法もあります。駒に近い場所を弾くこと。弦を押さえる左手指先の、いちばん固い部分(肉の薄い部分)で指板に対し直角に強く押さえること。
この二つは、ピチカートをしてみるとより、はっきりします。
駒の近くをはじくと、固い音がします。指板の近くをはじくと柔らかい音がします。
指先の固い部分で、しっかり弦を押さえると開放弦に近い、長い余韻が残ります。柔らかく押さえてはじくと余韻がすぐに消えます。
音色を明るくすることはできますが、音量を上げることとは別です。

柔らかい音色で、今よりも大きな音を出したい!
・弦を張り替える方法
一般にナイロン弦を当たり前のように使う人が多いのですが、私はガット弦を使っています。音量が足りない!というのであれば、スチール弦を張れば?(笑)ナイロン弦よりはるかに派手な音が爆音で鳴ります。ナイロン弦であれ、ガット弦であれ良い音の出る「寿命=賞味期限」があります。私の経験では、ガット弦の寿命はナイロン弦のどれよりも「長い」ことは明らかです。ちなみに、最もスタンダードなナイロン弦である「ドミナント」の寿命は、約2週間だと思います。使い方によって差はあります。普通に毎日弾き続け、手入れもしたとしても、およそ2週間で突然、余韻の音量が瞬間的に小さくなります。
この現象はガット弦にはほとんど現れません。むしろ、ガット弦の場合の寿命は、明るさが消えこもった音になります。余韻も短くなります。
・弓の毛を張り替えてもらう
弓の毛の表面の「キューティクル=凸凹」に松脂の粉の粘度(べたべた)が付いて大きな凸凹になり、弦と摩擦を起こして音が出ます。
弓の毛のキューティクルは次第に削れて「滑らか」になります。松脂を塗ったときには音が出るが、すぐに「滑る感じがする」のは弓の毛の寿命です。さらに、弓の毛は「有機物」ですから、時間とともに劣化します。特に毛の伸縮性が減って=伸びがなくなって、固くなります。これも弓の毛の寿命です。
・楽器が鳴りやすいピッチを探す
これは、「共振現象」を上手に使う方法です。
俗にいう「音程の悪い」ヴァイオリン演奏は、共振する弦の響きがほとんどありません。
ヴァイオリンの一つの弦を弾いている時に、その弦ではない弦が共振しています。特にはっきり差がわかるのが、ヴァイオリンで言うと、G線の「ラ」「レ」D線の「ソ」「ラ」、A線の「レ」を強く長く演奏しているときに、ほかの弦の開放弦の音が「勝手に」共振しています。音量としてはわずかですが、これも音量の一部です。正確なピッチ、特にほかの開放弦が「共振する」ピッチで演奏することを心がけるのは良いことです。(ピアノの音と喧嘩することもあります)
・松脂を変える
弓の毛が新鮮であれば、松脂によっても音量は変わります。粘度の高い=粘りの強い松脂と、少ない松脂があります。松脂は本来は「液体」です。松の幹に傷をつけると流れ出る「樹液」が松脂です。それを「個体」にして、さらに、それを弓の毛の凸凹で「細かく削り」粉末状にします。粉末になった個体の松脂は、湿度と温度で「粘度の高い液体」に変化します。つまり「べたべた」な状態になります。夏の暑い季節と冬の寒い季節で、松脂を変える演奏家もおられます。私は軟弱な人間なので、年中ほぼ同じ室温の中でヴァイオリンを弾きますから変えません(笑)室温が0度になったり、45度になる部屋で練習する方は松脂以前にエアコンをお求めください。
・立ち位置と楽器の方向を考える
最終手段。というより最善の方法です。
先述の通り、ピアノやほかの楽器と一緒に演奏したり、お客様のいる「ホール」で演奏することを前提にしています。
演奏者の立つ位置によって、空間に広がる空気の振動=音の広がり方は全く違います。当たり前のことです。ホールは大体が「四角い空間」です。ドーム状になっているホールはごく稀です。教会のドーム、トンネルの中(誰が弾くか!)では丸い天井からの音の反射が「一定に近い」状態になります。だからきれいな残響が残ります。一方、四角いホールでは?当たり前ですが、音の反射が、聞く場所によって全く違います。音源(演奏者)が動けば、響きも変わります。どこに立って演奏すれば、多くのお客様に心地よく聞いてもらえるか?事前に研究してから、立ち位置を決めるべきです。ただ、自分では聞けませんから、誰かの助けが必要です。
ヴァイオリンの構え方(楽器の方向)で音の「方向性=指向性」が変わります。
どんなバイオリンでも必ず「指向性」があります。多くの音は「表板」の垂直方向上に広がります。一方で、「裏板」の音は、逆方向=左腕と床に向いて進みます。その音の指向性によって、ホール全体への音の伝わり方が変わります。
例えで言うと、ピアノと一緒に演奏する場合です。
ピアニストの座る「斜め後方」に立って、ヴァイオリンが「客席方向」に向く構え方をしたとします。
この場合、ヴァイオリンの音は、明らかにピアノの音とは分離して空間に伝わります。ピアノの蓋を全開にした場合、ピアノの音は屋根=蓋全面に反射して広く前方に広がります。一方で、蓋を半開=短い柱にした場合、ピアノの音は、狭い空間で屋根=蓋にぶつかり、瞬間的に前方(狭い範囲)に進みます。こちらのほうが、客席に「速く」音が伝わることになります。
私は、ピアノの蓋を全開にして「柱」の部分に立って、楽器が客席を向く構えで演奏します。
ピアノの「へこんだ部分」になると、ピアノの弦の響きが、すべて自分の斜め後ろから「かぶさって」来ます。この位置だと自分の音がより小さく聞こえ、不安になったり、ポジション移動の「小さい音」が聞こえなくなります。
客席で聴くと、ピアノの音とヴァイオリンの音が、ほぼ同時に、同じ方向から聞こえてくる。のがこの位置だと思っています。

音の大きさ。色々書きました。最後までお読みいただきありがとうございました。自分の音を確かめてくれる信頼できる人を探しましょう!
ヴァイオリニスト 野村謙介



大人になってヴァイオリン

ヴァイオリンは小さいときから始めないと弾けるようにならない。
この悪魔の囁きのような嘘、未だに信じている人がいるかも(笑)と思い、改めて真実を書いていきます。

小さい子供、たとえば3歳児が楽器の演奏を習い始めたとして考えます。
まず第一に、言葉による意思の疎通が難しいですね。特に、両親家族以外の人と3歳児のコミュニケーションは、全く違います。
親が我が子に楽器を教えることは、可能かもしれません。むしろ、他人から何かを習っていることを自覚できる年齢ではありません。
言葉を覚える時期ですから、見えるものの「名前」と同じ感覚で、聞こえてくる音の「名前」も覚えられます。これを反復することで、絶対音感が身に付きます。音の高さを感じる脳の働きは、成人しても変わりませんが、特定の高さの音に「ド」とから「ファ」という名前があることを記憶できるのは、言葉を覚える時期だと言われています。
この絶対音感がなければ楽器は演奏できない?
うそ!まっかなうそです。

絶対音感がある人とない人の違いは?
いわゆる「相対音感」は成人してからでも、いつからでも身に着けられます。
聞こえる音と「同じ(実際にはオクターブ違っても)高さの音」と、その音より「高い音」か「低い音」かを聞き分けることが、相対音感です。
二つの音を聞き比べて、どちらが高いか?低いか?を聞き分ける練習を繰り返せば、誰にでもこの能力は身に付きます。
自分の「声」で、聞こえている音と同じ高さの音を出せるかどうか?
これは、先ほどの「聞き分け」に加えて、自分の声の高さを自分の意識で、高くしたり低くしたりする「無意識の技術」が必要です。
自分がどうやって高い声をだしたり、低くしたりしているかを考えたことがありますか?おそらく、意識したことのない人のほうが圧倒的に多いはずです。
それでも「なんとなく」聞こえた音、あるいは「出したい高さの音」を声出せるようになっていきます。こうして、人間は「音痴」から始まって、無意識に自分の声の高さをコントロールできるように「学習」しています。

では、音痴でない人は絶対音感があるか?と言えば、違います。
絶対音感があっても、声をコントロールできなければ「音痴」です。
相対音感を使って歌を歌えるのですから、楽器の演奏ができないはずがありません。
絶対音感があれば、自分の出している音の高さが「ドレミ」に聞こえる。
相対音感の人は、「ド」とか「ミ」とかの音の高さと名前を教えてもらって、そこから次の音、たとえば「ドの次のレ」を歌っていけます。この幅と種類をたくさん増やすことが練習でできます。これで自分の出している音を「判断」できます。

ヴァイオリン演奏に絶対音感が不要であることはご理解いただけたと思います。
では、大人になると子供のころと何が?大きく変わるでしょうか?
人によって大きな違いがりますが、自分で自由に使える時間が減る人も多いですよね。とは言え、小学生ともなると大人より忙しい子供も多いのが実情です。
つまり、単純な「自由な時間」だけで考えると、子供と大人の間には、昔ほど差がないことが言えます。
子供は体と頭が柔らかい。大人は体も固くなって、物覚えも悪い。
これまた、人によって大きな違いがあります。子供でも柔軟性の少ない子、筋力の弱い子、物覚えが苦手な子がたくさんいますよね?

違うとすれば、次の点です。
・子供は考えるより、運動と「勘」で覚えます。
・大人は運動する前に、考えます。
人による差はありますが、多くの大人は自分の経験や知識をもとにして「考え」ながら行動します。
・どうすればできるか?を考えるのが大人です。
・できるまで繰り返す!が子供です。途中で飽きることも多いですが(笑)
できないと、考え込むのが大人です。えてして考えすぎて、ドツボにハマります。
次に違うのは…
・子供は少し前の事でも忘れる。
・大人は子供より長い期間、覚えている。
これは、楽器の演奏において、子供のほうが「積み重ねにくい」ことが言えます。一方で大人は、失敗した記憶も引きずりながら楽器を演奏することになりますが、積み重ねることは得意です。
この違いは、いつもと違う環境で楽器を弾いた時に大きな違いになります。
・子供は緊張しても「失敗した(する)こと」を意識しない。
・大人は緊張すると「うまく弾こう」「失敗しないようにしよう」と無意識に考える。
この違いが実はものすごく大きく表れるのが、レッスンだったり発表会だったりします。
大人は普段練習している時に「気持ちよく」弾けていても、レッスンや人前に出ると「うまくいかない」と感じます。こどもは?いつも同じです(笑)
しかも、大人の場合は「いつも」というのが基本的に「一人で演奏」しているので、自分の出している音を客観的に聞くことが出来ていないケースが多いように思います。子供の場合、多くは家族が「クチを挟み」ます。本人が気持ちよく適当に弾いていると、家族が「音が違うんじゃない?」とか「もっときれいに弾いて」とアドヴァイスします。
大人は?自分の演奏を冷静に聞くことが難しいのです。
ある人は「あぁ!へたくそ!」と落ち込み、またある人は「おぉ!わたしってじょうず!」と舞い上がります。あなたはどちら?(笑)
どちらにしても、自分の演奏を客観的に聞くトレーニングが必要です。

大人になって楽器を始める。
最高の趣味だと思います。
うまくならないストレスは「必ず」付いてくるものです。
うまくなっている実感が感じられず、やめてしまえばその時点で終わりです。
実はうまくなっているのか?を判断するのも技術です。
その技術はレッスンで先生に習うこと、あるいは誰かに聞いてもらうことによってしか体得できません。
うまく弾けるようになるために。自分の思ったように弾けるようになるために、自分の時間を好きなように使うのが趣味の音楽、趣味の楽器演奏です。
うまくなる「途中」を楽しむ気持ちで、少しずつでも積み重ねてください。
子供にはできない練習で、子供とは違う「喜び」を味わえるのが大人の特権だと私は思っています。

メリーミュージック 野村謙介


速さ・時間・距離

今回は算数のお話?
いえいえ。これは弦楽器奏者にとっては必須科目です。
ちなみに、音楽の速さや演奏時間の話とは、ちょっと違います。
違うのですが!
アマチュアのヴァイオリニストにありがちな落とし穴があります。
「音楽のテンポが速かったり、細かい音符になると、弓の速度まで速くなる」
という勘違。思い当たりませんか?
音楽のテンポをメトロノーム記号で表すことがありますよね?
四分音符=120=一分間に四分音符を120回均等な間隔で叩く速さ
一つの音符の演奏時間が「短く」なると音楽全体が「速く」なります。
ただし、ゆっくりした音楽の中でも、部分的に細かい音符が使われることも多いので、必ずしもすべての音符が短い、長い、で音楽全体の速さは表されません
つまり、一つ一つの音符の演奏時間の長さは、音楽の速さとは別の問題なのです。

さて、弦楽器を演奏する時に使う「弓」をダウン・アップと動かす運動があります。この運動の速さと、弓の量(長さ)と、音の長さについてが今回のテーマです。
小学校で習った「速度×時間=距離」という公式(ってほどのものでもない?)
時速5キロメートルの速度で1時間歩けば、5キロメートル移動する。←あってますよね?(笑)
これを、楽器の世界に置き換えると…
・弓を動かす運動の速さ
・音が出る時間
・弓の長さ(使う長さ)
になります。ここまで、大丈夫ですか?
実際にわかりやすいのは、「音を出す時間」「弓の長さ」の二つです。
弓を動かす速さを測ることを忘れがちです。速度計があるわけでもなく、動きの速さを表す単位が「秒速〇〇センチメートル」と考えて演奏する人もいないでしょうね。ましてや時速〇〇キロメートルなんてありえない。
でも、実際に演奏している時には弓を動かす速さ(ダウンとアップ)は考えることはとても重要なことです。

具体的にひとつの例をあげます。
メトロノームを「60」で鳴らします。1秒ごとに1回の音がします。
弓の毛の「すべて=全弓(ぜんきゅう)」をつかって、切れ目なく(音と音の間に無音の時間をいれないで)音を出したとします。
以前にも書きましたが、この全弓は人によって違って構いません。
鵜Dの長さによって、弓の一番先の部分まで届かなければ、腕を伸ばしきった場所と、弓の元の金属部分ギリギリまでの間を「全弓」と考えてください。
この長さの弓の毛を使って、1秒間音を出し続ける時、金一の速度で弓を動かすことが出来ているでしょうか?
動き始めが「遅すぎ」ると、全弓使えずに途中で反対方向に動かすか?
または「まずい!余る!」と思ってから速度を速くして無理やりつじつまをあわせていませんか?
「均一の速度で、1秒間に、全弓を使う」
これ、簡単そうでとっても難しい技術です。
2秒間だと簡単?はい。1秒間で弓の真ん中を通過する速度ですね。
簡単に感じるのは「ごまかせる」からなのです。
1秒間で全弓を使おうとするとかなり速い速度で腕を動かすことになります。
最少は2秒間()メトロノーム2回分)で反対方向に弓を「返す」練習から始めるのも良いでしょうね。
この弓の「速度」を感覚的につかむことが、とても重要です。
1秒に1回の速さで、弓を返す時の「弓の量=弓の長さ」が、弓の速度です。


・弓の速度を変えずに、弓の量を変えれば、音の長さが変わります。
・弓の速度を変えずに、音の長さを変えれば、弓の量が変わります。
↑これっは同じことを言い換えただけです。ですが、弓の速度を考えるのが難しいので、
・音の長さを変えずに、弓の量を変えると、弓の速度が変わる。
・弓の量を変えずに、音の長さを変えると、弓の速度が変わる。
↑これは、どちらも「弓の速度を変える」ことで「音の長さ」と「弓の量」のどちらkを「変えない」方法です。
ごちゃごちゃになった?(笑)
そうなのです。
音の長さと弓の量
この二つのことを考えると、必然的に弓の速度を考えなければ「できない」ことなのです。
先生に「もっと弓を使って弾きなさい」と指摘されたとします。
方法は二つあります。
1.音を長くして=テンポをおそくして、弓をたくさん使う方法「弓の速度は変えない方法」
2.弓の速度を速くして、音の長さは変えず=テンポは変えない方法「弓の速度を変える方法」
多くの場合、2の方法を用います。
弓の速さは、えてして無意識になりがちです。
弓の圧力と、弓の速度、弓の場所で音色が大きく変わります。
弓の速さを一度、良く観察してみることを、生徒さんにお勧めしたいと思います。

ヴァイオリニスト 野村謙介

演奏中に動くもの・止まるもの

今回のお話も演奏に関わるテーマです。
楽器を演奏する人間と楽器の関係で言えば、
・固定された楽器(鍵盤楽器や打楽器の一部)
・演奏者が保持する楽器
・チェロやコントラバスのように、一部が床に置かれ一部を演奏者が保持する楽器
に分類されます。
楽器が動かない場合、演奏者が動くことになります。チェロ・コントラバスもある意味で固定されています。
それ以外の楽器、たとえばヴァイオリンの場合は演奏者が左上半身を使い楽器を保持し、右手で弓を持ち動かします。
ヴァイオリン・ヴィオラの構え方は、人それぞれに違います。つまり、楽器の「保持方法」が違います。どの程度、体と一体化させるのか?どのくらい身体の動きと分離させるのか?が大きな違いになります。
演奏者が動けば、ヴァイオリン・弓も当然動きます。
動くと言っても、どこが動くのかによります。
上半身全体が動けば、右腕・左腕・首も動くので楽器と弓も移動します。
首から上だけ動いても、楽器と弓は動きません。
左手を動かしても右手は動きません。逆も言えます。
これは「相対」として楽器と演奏者が同じ動きをするか?しないかによっても変わります。楽器を持ち弓を持つ上半身、すべてが前後左右に動いたとしても、演奏者と楽器の「相対的な位置関係」は変わらないのです。ピアノの場合は違います。人間が動けば位置関係は変わります。

ヴァイオリン・ヴィオラを肩当てを使って演奏する人と、使用しないで演奏する人がいます。私自身は使わないとうまく楽器を安定させられません。
少なくとも、左の鎖骨(さこつ)には楽器が「乗る」はずです。
これが1点目です。
仮に左顎(あご)で顎あて部分を「押さえる」と、鎖骨に加え2点目になります。完全にこの力だけで楽器を保持すれば、楽器は弾ける?いえ、弾けません。
なぜなら、弦を「押さえる」指の下方向への力も加わるからです。弦を抑える指の力も、鎖骨と顎だけで支えようとするか?しないか?でこの顎で楽器を抑える力が大きく変わります。ちなみに鎖骨は「動きません」当たり前ですが。
肩当を使用すると、鎖骨より腕側の「腕の付け根の筋肉」に楽器を「乗せる」ことができます。つまり鎖骨に乗せるのと同じ方向の力「乗せる」だけの力です。
ヴァイオリンを演奏する時に加わる力の方向は、
1弦を押さえる下方向への力
2弓を弦に押し付ける下方向への力
3楽器本体の下方向への「重さ」
この力を支える上方向への力は、どこで生まれるのか?
1鎖骨に乗せる
2肩当てを使って体に乗せる
3左手で持つ(親指に乗せたり、親指と人差し指の付け根の骨ではさんだり、人指す指の付け根の骨に乗せたり)
顎の骨で「はさむ」力は後半の力を補助する力であって、前半の下方向への力ではありません。勘違いしやすい!

演奏中に楽器が「勝手に揺れる」と弓を安定して弦に乗せ音を出せません。
特にビブラートやポジションの移動をする際に、揺れがちです。
さらに、右腕の運動、移弦の運動、ダウンアップの運動でも楽器が動いてしまう場合もあります。
自分の意識とは無関係に楽器が揺れ動くのは、良いことではないのは誰にでもわかります。
それを「止めよう」として左半身に力を入れると、逆効果です。
楽器は演奏者の身体に「乗っている」のですから、楽器に触れているどこかが動けば、楽器は「揺れる」ものです。その揺れを吸収する「クッション」の役割も演奏者の身体を使わなければ不可能です。
指・手首・肩・首のすべてが連動しています。
独立させて運動させるためには「脱力」するしか方法はありません。
筋肉に力を入れれば入れるほど、多くの筋肉が一緒に連動して動くから、楽器が揺れるのです。

どんな構え方だろうと、共通するのは無駄な力を入れずに、各部位が自由に揺れを吸収できる「柔らかさ」を意識することだと思います。
無駄な力を抜く練習。

力を入れずに
がんばりましょう!

ヴァイオリニスト 野村謙介



弓を動かす難しさ

今回は、ヴァイオリニストが一生考え続ける(私だけ?)命題、音を出す弓を動かすことを考えます。
人間の身体には、たくさんの関節があります。自分の右手の指先から、腕の付け根までにある、関節をじっくり観察してみます。(おやじギャグではないつもり)
親指の関節が、ほかの4本の指よりも、1つ少ないことを今更驚く人、いませんか?(笑)
その親指も含めて、指先に近い関節を第1関節と呼びますが、親指だけは、その第1関節だけを曲げ伸ばしできます。そのほかの指の第1関節だけを、曲げ伸ばしできる人も見かけますが、むしろ第1関節だけは、曲げられないのが普通ですよね。指先から第1関節までの間に「骨」がありますね?当たり前ですが。
第1関節と第2関節の間にも骨があります。てのひらと指の関節があり、てのひらにも骨があります。

さて、これらの関節と骨には筋肉である「腱」があって、それぞれの指、関節を曲げ伸ばししています。
人間の生活で、主に使う手の筋肉は、内側に向かって「握る」ための筋肉です。
反対に「開く」方向の筋肉を使うことは、ほとんどありません。
指を観察すると、手の甲側(爪のある側)にはほとんど肉がありません。
一方でてのひら側には、かなり太い筋肉があります。物を掴む運動が強いのは、私たちのご先祖が猿だった証ですね。
握る力を「握力」と言います。子供のころ、学校で握力を図ったことがありませんか?ちなみに、力士の「輪島」関は握力が100キログラム以上だったとか。
でも、開く力の測定は、したことがありません。楽器を演奏する人にとって、必要なのは、握力より「早く、しなやかに、強く指を動かす」ための力です。つまり、じわーっと握る力よりも、瞬発的に「握る」「開く」という運動をでる筋力と神経伝達が必要になります。

弓に直接触れる右手の指。
親指と人差し指が「弦に圧力をかける」仕事をします。
親指と小指が「弓を持ち上げる=弓の重さより軽い圧力を弦にかける」役割です。
中指と薬指の仕事は、力というよりも、弓を安定させるための補助的な仕事をします。
「てこの原理」小学校で習いました?最近は教えていないそうですが(笑)
「支点」「力点」「作用点」なつかしいでしょ?
弓の毛と弦が触れている場所を「作用点」
親指を「支点」
人差し指を「力点」小指も逆方向の「力点」
人差し指の第2関節の「骨」で、弓の棒(スティック)を弦に向かって押し付ける力を加えます。
そして、親指は、人差し指と真逆方向の「押し上げる」方向に力を加える=支えることで、弓の毛が弦に強く押し付けられます。
この、てこの原理が理解できていないと、親指の力の方向を間違えてしまいます。
親指と中指で、弓をつまみ上げる力は演奏には不必要です。親指と中指でスティックをはさんで持つのは間違いです。

さて、指の次の関節は手首です。
手首の関節は、てのひら⇔手の甲の方向には、大きく曲げられますが、
親指側⇔小指側への方向には、小さな運動しかできませんが、この左右の運動も演奏には重要になります。
手首を意識的にゆっくり動かす時、使っている筋肉は肘から手首までの筋肉(腱)です。この筋肉の伸び縮みもストレッチ運動で大きく柔らかく動くようになります。
手首をブラブラと運動をするときには、前腕(肘から手首)を動かし、手首の関節を緩めることで、腕の動きとは逆方向に揺れます。「慣性の法則」です。
このぶらぶらと動く動きは、特殊な演奏方法をしない限り、演奏には有害な運動になります。特に、弓を速く動かすときに、慣性も大きくなりますから、手首と弓の動きをコントロールするために、「弾力」が必要になります。車で言うなら「サスペンション」と「ショックアブソーバー」(わかりにくい?)
要は適度な「粘り」が必要です。


腕を斜め前方に伸ばし(ダウン)弓先を使うときには、手首が「親指方向」と「手の甲方向」に曲がります。
この時に、親指と弓の「角度」を安直に変えないことを私の師匠は厳しく指導されました。それは、右手の小指を曲げたままで、弓先まで腕を伸ばすことになります。弓とてのひら・手の甲の位置関係(角度)を極力変えないで演奏する練習を続けました。当然、手首を左右に大きく曲げないとできません。
現代のヴァイオリニストでこの演奏法をしている人は、ごく少なくなりました。
弓先から弓中まで、さらに弓元までを速く動かした場合、指の「持ち替え」をしなくても演奏できるという、最大のメリットがあります。
現代の多くのヴァイオリニストは、弓先で親指と弓の角度を変え、さらに右手の小指を完全に伸ばしきった形で演奏しています。弓先で圧力を軽くするコントロールできる量が少ないはずです。親指と人差し指のてこの原理を「ゼロ」にしても「マイナス」にはできません。小指と親指で弓先を持ち上げる力で、より小さく薄く軽い音色を出せるはずです。

弓の中央は、右肘が直角に曲がった時の場所を言う。
と私は考えています。物理的な「弓の中央」だとしても、弓の毛の中央なのか、弓の長さの中央なのかで、場所が変わります。重さの中央である「中心」は弓元に近い場所ですから、さらに違います。腕の長さは人によって違いますから、弓元からダウンで直角になるまで動かした場所が「中央」で、そこから腕を伸ばしきった場所が「弓先」だと考えています。それ以上先を使おうとすれば、必ず無理があります。
弓中で、敵美と指が最も「自然」な形になります。ですが、この位置では、まだ親指と人差し指のてこを使わないと、弦に圧力をかけられません。
弓元。顔の前に、右手が来る場所です。この場所で演奏することが一番難しいのは案外気づいていないかも?

弓元で弓を持つ指の「真下」に弦があります。ここだけは、弓の「スティック側」にある4本の指(人差し指・中指・薬指・小指)すべてで、弦に圧力をかけることになります。むしろ、親指と人差し指のてこの原理はさようしませんから、親指は初めて「休める」位置でもあります。
手首が天井方向(てのひら側)に曲がる演奏方法「も」あります。
というのは、私はあまり弓元で手首を曲げたくない人なのです。
「だって右手の距離が近いから曲げないと」と思われがちですが、右ひじの位置を変えれば手首は曲げずに演奏できます。
弓元で右ひじが高く、やや体の側面に下がる演奏方法です。
手首以前に、体と肘の位置をやや後方に下げることで、弓と弦を直角に保ちながら、手首と指の形を変えずに演奏できます。
上腕(肩から肘までの腕)を積極的に動かす演奏方法です。当然、背中の筋肉も使います。腕全体の運動で弓元部分の演奏をすることで、指と手首の「可動範囲」を増やし自由度を増やすことができます。

連続した運動ですから、むしろ「アナログ」的なイメージのほうがわかりやすいと思います。写真と動画の違いです。すべては「動いて」音がでることです。
ただ、4本の弦・弓の位置によって、指・手首・肘の位置が変わることは事実です。練習時に、ある位置で「静止」してゆっくりと自分の身体を観察することで、間違いを修正できます。静止したときと動かしたときで違うのは、「慣性」があるか?ないか?の違いです。弓の位置に関係なく、動けば慣性が発生します。

・止まった状態からダウン
・止まった状態からアップ
・ダウンから止まる
・ダウンからアップに続く
・アップから止まる
・アップからダウンに続く
この6種類しかないのです。腕の重さと弓の重さを感じながら、慣性をコントロールする柔らかさと強さと俊敏さ。
右手が「一生もの」と言われる所以が、この複雑さにあります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト 野村謙介


ビブラートの不思議

初心者のヴァイオリンの生徒さんにとって、ビブラートは憧れの技術です。
ほとんどのヴァイオリニストがビブラートを「かけて」演奏しています。
かける?良く考えるとちょっと変な表現です。
「音程を細かく上下させて、震えるように音を響かせる奏法・唱法。」
という事になるようですが、そもそも「音程」は正、確には「インターバル」つまり、二つの音の間の幅(距離)を表す言葉。厳密には「ピッチ」であり日本語なら「音高」の事です。レッスンで「音程が悪い!」と怒られていた私にとっては、聞きなじみのある「音程」ですが(笑)
要するに、ビブラートのない「ノンビブラート」は、音の高さを変えずに同じ高さの音を伸ばすことで、ビブラートは音の高さを連続的に変える…という事になります。が!
その高さの変化が、「曲線」で「連続」して変化しないとビブラートには聞こえません。
さらに、その変化の「大きさ=深さ」と「速さ=細かさ」の組み合わせがあります。
・浅く、速い
・浅く、遅い
・深く、速い
・深く、遅い
この4種類の組み合わせがあります。
一つの音の中で、これらが変化することも十分にあります。
たとえば、ノンビブラートで始まり、浅く遅いビブラートから、深く速いビブラートに変化させることもできます。

好みの問題ですが、私はヒステリックに聞こえるビブラートが嫌いです。
具体的に言うと、常に速く深いビブラートの音は、聞いていて疲れてしまいます。
速く同じ深さでビブラートを「かけ続ける」ことは、確かに難しいことです。
できることは、すごい!とも思いますが、果たして美しいと感じるものでしょうか?
そもそもノンビブラートの音、これが原点だと思うのです。
ノンビブラートで音色のバリエーションがあってこそ、ビブラートの美しさが引き立つと思います。
ヴァイオリンのビブラートは、最終的には指の関節が柔軟で、かつ弾力的に動かせないと美しいビブラートにはならないように思います。
弦に触れているのは指先の皮膚とその下にある薄い肉と、さらにその奥にある「骨」です。
その指先に係る力は、弦を指板に押し付ける方向の力と、ビブラートで、弦とほぼ平行方向の力です。この二方向の力のバランスで音色とビブラートの滑らかさが変わります。
ビブラートのための力は、指だけを動かす力では生まれません。手のひらと指の「付け根」の柔らかさと弾力を保ちながら、手のひらを動かすことで、弦を抑える指先の角度が変わります。
手のひらを弦と平行に動かせたとしても、指は弦に対して斜めの角度ですから、結果的に指が「伸びたり縮んだり」する運動になります。
一方で、手のひらを「手首の位置を動かさず」に、倒す→起こす→倒す→起こすの運動を繰り返すと、指も弦に対して、倒れる→起きる→倒れる→起きるの運動になり、これもビブラートになります。
一般的に「腕のビブラート」「手首のビブラート」と区別されますが、
手首のビブラートを勘違いし、手首を動かす初心者を見かけます。手首を「支点」にしないと意味がありません。

色々書きましたが、ビブラートをかけることで、共振する音が増え、楽器の残響が長く、大きくなりますが、それが必ずしも常時必要なものではないと思います。人間が聞いていて、心地よく感じるビブラートは人によって違います。
ノンビブラートの音を「素材の味」
ビブラートの加わった音を「味付けした素材」
と置き換えると、素材が悪ければどんなに味をつけても、美味しくないのと同じです。
右手のボウイングと正しい弦の抑え方があってこそ、ビブラートの効果(味付け)が生きてくると思っています。

メリーミュージック 野村謙介


脳内イメージと楽器演奏

今回のお話は、アマチュアヴァイオリニストの方にとって、少しは役に立つかな?というテーマです。
ヴァイオリンは、右手で弓を使って音を出し、左手で音の高さを変えていきます。ピアノは、両手の指で鍵盤を押し下げて音を出し、音の高さも同じ指で決めています。
ヴァイオリンの演奏をするときに、右手の運動と左手の運動は、それぞれ左脳と右脳からの命令で動いていますから、ダウン・アップの運動は左脳、音の高さは右脳で考えていることになります。
そして、音楽を演奏する時には「音の強さ=長さ」と「音の高さ」の要素が楽譜に書かれています。もう一つの要素である「音色」は楽譜には書かれていません。問題はここからです。

楽譜を音にしようとするときに、ピアノであれば両方の手が音の高さと強さをコントロールするので、ある意味で右脳と左脳が「似た命令」を出していると考えられます。
弦楽器の場合、音の高さは左手の運動として考えます。音を出す運動である右手は、音の高さである「弦の種類」と、ダウン・アップの運動で「音の強さ=長さ」を考えています。
そのまったく違う運動が、ばらばらになってしまうことがアマチュアの方に多く見られる現象です。右手と左手がずれるので「合っていない」と思いがちですが、むしろ当たり前のことです。なぜなら、私たちは一つの運動に集中すると、ほかの運動は「無意識」になるからです。
自動車の運転は、右手、左手、右足、マニュアル車なら左足が」すべて違う仕事をしています。それを同時に、しかも瞬時にできるのは、一つの運動だけを考えていないからなのです。むしろ、運動ではなく視覚でとらえた情報と、体にかかる力「重力=G」を感じて、無意識に両手両足を動かしています。つまり「イメージ」を無意識に「運動」に変えているのです。

では、どうすれば?無意識に弓と左手を動かせるようになるのか?
私の結論は「音のイメージと動きのイメージを同化させる」練習だと思います。
たとえば、3・3・7拍子を創造してみてください。
ちゃ・ちゃ・ちゃ
ちゃ・ちゃ・ちゃ
ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ・
頭でこの音を想像してください。次はその音のイメージに
右手の運動を加えてイメージします。と言うより「一つのイメージ」として
ちゃ・ちゃ・ちゃという音を右手が右・左・右に動くことで出るイメージです。
運動は小さくて構いません。指先だけでも構いません。
3・3・7拍子の「音」と運動を同時にイメージできるようにします。
運動だけを、逆方向に動かすイメージもやってみます。
最初はどちらか(音か、運動か)一方に考えが偏るかもしれません。
その場合、考えていないほうは「無意識」に動いたり、リズムを間違ったりするはずです。

音と運動の両方をひとつのイメージにすることは、左手の運動でも同じことです。
音が変わる時に、左手の運動が加わります。その運動も「一つのイメージ」の中に加えます。先ほどの、3・3・7拍子に「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ」という音の高さを加えて、一つずつの音に、右手の「右・左・右・左」を繰り返して割り当ててイメージします。
実際に言いながら、楽器も弓も持たずに、この「課題」が出来た時、恐らく何も考えていないことに気づくはずです。左手に集中したら、右手が止まるでしょう?右手に集中したら、次の音の名前が出てこないでしょう?
頭の中の「脳」がイメージを運動にできることで、運動よりも音のイメージを優先して演奏できると私は考えています。
イメージ>運動
ということです。この練習は、プロの演奏家が恐らく無意識にやっています。
自分の演奏したい「音」を、運動からイメージに変えられるまで、繰り返しているはずなのです。事実、初見の時にもこのイメージがあるから、左手と右手が同時に動かせるのです。初心者は、それができません。これは「隠れた技術」であり、トレーニングによって誰でも身に着けられると私は思っています。
ぜひ!3・3・7拍子で練習してみてください!

あ・・。電車の中では、やらないほうがいいですよ。
通報されます(笑)

イメージの悪いヴァイオリニスト 野村謙介

ヴァイオリンの違い

1808年サンタ・ジュリアーナ駒部分
木曽号駒部分

今回のテーマは、ヴァイオリンによる演奏方法の違いについてです。
かれこれ、50年近く愛用し続けている私のヴァイオリンが上の写真。
そして、11月6日に長野県木曽町で演奏するヴァイオリンが下の写真です。
この二つの楽器の違い。
作られた年代が1808年と2004年。
作られた国がイタリアと日本。
何よりも、楽器の音色が全く違います。
その音色を決定づけているのが、拡大した部分。
指板・駒・テールピースの位置関係。
私のヴァイオリンは、テールピースが短い。
輸入した当時、世界的な楽器商だったメニックが付けたテールピースを未だに使っています。ちなみにペグもその時のままです。駒だけは、15年ほど前に、脚部分が少しつぶれてしまったので、櫻井樹一さんに作っていただいた駒です。
私の楽器は、どちらかと言えば室内楽に適した音色です。
コンチェルトのソロには、パワーが少し足りないとも思っていますが、今更弾けないので(笑)十分です。
方や、陳さんの作られた木曽号も、一般的な駒の位置とは、ほんの少し違います。まだ、あまり弾きこまれていないこともあって、音色の変化量が少ない気がします。加えて、私の楽器よりテンションが弱く、高音、中音、低音のまとまりが少なく、音が分散して広がりすぎる傾向があります。

左手の各音の「スポット位置」が違うのは、どんな楽器でも当たり前のことですから、その楽器の「ツボ」を探して覚えるしかありません。
何よりも、弓を当て弦を擦る「駒からの距離と圧力」を変えないと、木曽号の本来持っている音量と音色を引き出せないことを発見。
今日、朝からその場所と最適な圧力を探しました。
弓によって、音色はまるで違う楽器のように変わりますから、本番で使用する「ペカット」との組み合わせが最終到達点です。
弓がお爺さんなので(笑)、できれば練習では使いたくないのが本音ですが、そうも言っていられません。
これから何十年、何百年も弾き続けられる、陳さんのヴァイオリンの「幼少期」に巡り合ったのも運命です。
汚い音にならず、高い音の成分を増やし、輪郭のはっきりした音色で、音域のバランスを整えられる演奏方法を探します。耳元の音圧が上がるので、ピアノの音が聞こえにくくなり、ますます(笑)ピッチが不安定になりそうですが、なによりも楽器の個性を尊重して演奏したいと思います。
・タイスの瞑想曲
・G線上のアリア
・愛の挨拶
・ラベンダーの咲く庭で
・鳳仙花
ビオラに持ち替えて
・荒城の月
・アザラシヴィリのノクターン
・ハルの子守歌
・いのちの歌
・ふるさと
アンコール2曲ヴァイオリン(それ言うか?笑)
がんばって弾きます!

一途なヴァイオリニスト 野村謙介

ヴァイオリンのペグ

さてさて、今回のお話はヴァイオリンやビオラ、チェロの調弦(チューニング)をするための基本である「ペグの止め方、動かし方」についてです。
実はこの動画、弦楽器を管理する自治体の職員さんたちが、触ったことのないヴァイオリンの維持や管理をするための参考にと、撮影し編集したものです。
もちろん、初心者を含めヴァイオリンを演奏する人にとっても調弦は避けて通れない技術の「かなめ」です。調弦が自分でできなければ、正しい音を出すことは不可能に近いのですが、なかなか難しい。特に弦を張り替える時には、このペグを動かせなければできません。微調整のための「アジャスター」がテールピースに4本の弦すべてに付いている、初心者向けのヴァイオリンはあります。また多くのチェロにはすべての現にアジャスターがついています。それでも、大きな幅の調弦は、ペグを動かさなければできません。
Youtubeで「ヴァイオリンの調弦」と検索すると、たくさんの動画がありますが、残念ながらペグがなぜ?止まるのか、なぜ?止められないのかという、基本の話が見つからなかったので、今回作成しました。

そもそも、弦を張り替えるためには、弦の張り方を知らなければ無理です。
ペグにあいている小さな「穴」に弦のループやボールの付いていない側を差し込みます。あとてペグの向きが調弦しにくい向きで止まった場合に、突き抜ける弦の長さを変えることでペグの向きを変えることがあるので、ある程度長めに突き抜けさせておくことが理想です。
突き抜けさせたら次は、丸く円柱状(厳密には円錐です)のペグの「上側」に巻き付けていく方向でペグに弦を巻いていきます。この説明、むずかしい(笑)
ペグを回して弦を「張っていく」時の回転方向で言うと、
高い音であるE線とA線は「時計回りで張って(音が高くなって)いく」「反時計回りで緩んで(音が低くなって)いく」ことになります。
一方、低い音であるD線とG線は「時計回りで緩んで(音が低くなって)いく」「反時計回りで張って(音が高くなって)いく」ので、楽器に向かって左右で、弦を張る方向が「真逆」になります。
ペグを動かす前に、弦の巻き付き方を良く見れば間違えないで、張ったり緩めたりできると思います。

ペグの材質によって、湿度の変化で動きが大きく変わる素材もあります。
見分け方として、茶色や濃い茶色のペグは湿度を含みやすく、梅雨時などに重く動きにくくなり、乾燥すると止まりにくくなる特徴があります。
一方で黒檀(こくたん)の真っ黒いペグは、湿度に影響を受けにくく、本来はこの黒檀のペグとテールピースが一般的でした。ちなみに、指板はどんなヴァイオリンでも黒檀が使われています。頤当ても昔は黒檀でした。時代と共に見た目の美しさや、装飾の付けやすさなどで変化してきました。

弓で音を出しながら調弦できるようになったら、ぜひ!A線の音以外はチューナーを使わずに、A線とD線を「軽く・速く・長い」弓使いで「完全五度の響き」でD線のペグを動かして合わせるトレーニングをすることを勧めます。
D線を調弦したら、D線とG線を同時に弾いて、G線を完全五度の響きに調弦します。最後にA線とE線を同時に弾いて、E線のアジャスターでE線を合わせて完成。難しいですが、この調弦方法ができるようになるまで、ペグを左手で動かし、止められるようになるまで、力の入れ方を繰り返し練習してみましょう。

最後に、調弦を繰り返すと駒が指板側に傾く原因を。
弦を緩める時には、駒と弦の摩擦力は低く、駒は動きません。
弦を張る(高くする)ときに、駒と弦の摩擦が最も高くなるので、駒がペグ方向、つまり指板側に引っ張られることになります。
調弦の際に、あまり大きく変化させないで調弦できるようにすることで、駒の傾きを最小限に抑えることになります。
大きく下げ、大きく上げる調弦は他の弦の「張力」を変えてしまい、結果的にまた他の弦を調弦する、二度手間にもなります。少しの上げ下げでぴったりの音に調弦できるようになることも、楽器を大切に扱うことになります。

弦楽器は調弦を自分で行う楽器です。時間がかかっても、一人で調弦できるようになるまで練習してくださいね。
メリーミュージック 野村謙介

「歌」を「弾く」

いつものように、なんじゃこりゃ?なテーマです。
歌は普通、言葉をメロディーに乗せて、言葉の内容と音楽を同時に表現します。
それに対し、弾くという言葉は、楽器を演奏することを指します。楽器で言葉を完全に表現することはできません。
当たり前の違いですが、歌を楽器で演奏することも良くあります。
クラシックの音楽の中でも、原曲が歌曲だったものを、器楽で演奏する楽譜に書き直したものも多くあります。
まれに、その逆のケースもあります。
有名なところで言えば、ホルストの作曲した「惑星」という組曲の中の「ジュピター」に歌詞をつけた歌。きっと聞いたころのある人も多いでしょうね。むしろ、元々が管弦楽のための曲であることを知らない人もいますから。
どちらも私は、大いにあり!だと思っています。

さて、歌の場合には人間の声域を基準に旋律が出来ています。
多くの人が歌を歌う場合、1オクターブ程度の音域で歌えるように作られています。歌う人によって、歌いやすい高さが違うので、「キー」つまり調を変えて(移調=トランスポーズ)歌うことが一般的です。
一方で、器楽の場合には楽器よって演奏できる音域が決まっています。特に、最低音は多くの楽器で「それ以上、低い音が出せない」ことが決まっています。
例えばヴァイオリンであれば、ト音記号で下加線2本の下にある「ソ」の音が最低音です。多くの女性の声の最低音も、この「ソ」の音になります。
ヴィオラの場合、その「ソ」から下に、「ファ・ミ・レ・ド」と下がった「ド」の音が最低音です。たかが「5度」されどこの5度は、聴感上大きく違います。
当然、チェロはさらに低い音、コントラバスはもっと低い音が「最低音」です。
ピアノは、オーケストラで使用されるすべての管楽器・弦楽器の音域より広い音域を演奏することが出来ます。88個の鍵盤でそれだけの音域をカバーしています。つまり、どんな人の歌でもピアノなら、演奏することが出来ます。

話を本題に戻します。
多くの歌には「歌詞」である言葉があります。例外もあります。
ダバダバダバダバ(笑)や、ラ~ララララ~、ルル~ル~ルルル~
ラフマニノフが作曲したヴォカリーズという歌は「アアア~」だけです。本当の話です。例外はともかく、意味のある言葉を歌っている「歌」を私はよく「ヴィオラ」で演奏しています。ヴァイオリンではなく、わざわざヴィオラにする理由は?

ヴァイオリンの音色と音域は、聞く人の固定観念で、聞いた瞬間に「ヴァイオリンだ!」と思い浮かんでしまいます。それはそれで当たり前です。
一方で、聞く方が知っている歌を、楽器で演奏した場合、頭の中で「声と歌詞」の記憶と「ヴァイオリンの音色」が、溶け切らない現象が起きるように思っています。特に自分の好きな歌手の声で歌っている歌は、その歌手の「声と歌詞」が結び付いて記憶されています。違う人が歌う同じ曲に違和感が強いのは、そのせいです。楽器で弾くと、単に「言葉がない」だけではなく、音のイメージも違うのでさらに溶け切らない原因になっていると感じています。
だからと言って、ヴィオラで言葉は発音できません。でも「た」と「は」の違いは微妙に区別できます。「は」と「あ」は区別して演奏することは困難です。つまり「子音のアタック」を変えることで、少しだけ言葉に近い発音ができます。
加えて、言葉のアクセントは音の強弱ですから、楽器でも表現できます。
ただ、歌の旋律が、音の高低(イントネーション)と合っていない場合も多いのが現実です。
ほたるのひかり まどのゆき
を口ずさんでみてください。
ほたるの「た」が高くなっていますよね?
でも標準語では「ほ」を高くするのが正しいイントネーションです。
こんな例は数限りなくあります。気にしなければそれでよいのですが(笑)

私は生粋の日本人でありまして、日本語以外が苦手です(言い訳にもなっていない)
日本語以外の歌詞の歌を演奏する時には「言葉の意味」ぐらいは理解して演奏しようと心掛けていますが、間違っていることも…。すみません。
得意の日本語の歌の場合には、ヴィオラを弾きながら、言葉の子音、アクセント、意味を考えながら演奏しています。
『生きてゆくことの意味 問いかける そのたびに』
という「いのちの歌」の出だしの歌詞。
弓のアタック、圧力。左の指の圧力、ヴィブラート、意味を考えながら音を出します。
なので、歌詞を思い出せなくなると
止まります(爆笑)
いや笑ってすませられないのですが、本気で焦ります。
そんな「無駄?」なことを繰り返し練習しております。
言葉が思い浮かんでいただける演奏を目指して…

歌うヴィオリスト 野村謙介

芸術家は貧乏?

今回のテーマは、かなりシリアスです(笑)
そもそも、職業欄に「芸術家」って書ける人、いるのでしょうか?
どうやってお金を稼いでいるかによって、職業が変わります。
たとえば「音楽家」と言われる職業は?
作曲をして出版会社や放送局、音楽事務所からお金をもらえば、職業=作曲家。プロのオーケストラで所属する組織からお金をもらえば、職業=演奏家。
音楽教室で音楽を教えれば、職業=講師。
学校で音楽を教えれば、職業=教育職員(教員)
つまり、一言で音楽家と言っても様々です。
厳密に考えるともっと細かくなりますね。
それら「音楽家」を「芸術家」と称することがありますよね。

芸術家。アーティスト。聞こえは良いですが、定義があいまいすぎます。
そもそも、職業として成り立っていなくても、芸術家はいるように思います。
職業は八百屋さん。で、素晴らしい演奏をする人がいたら、この人の職業は「八百屋さん」であり、演奏は?趣味?アマチュア?でも、その演奏が多くの人を感動させるものだったら、芸術家とか音楽家、演奏家と呼ばれるでしょうね。
もっと極端な場合、収入がない人が、お金をもらわずに素晴らしい絵をかいたら、「無職」の芸術家。
芸術の定義を「人間の行為で他人を感動させるもの」だとしたら、お金とは結び付かなくても芸術は存在します。

話を具体的に絞って、音楽大学を卒業した人が演奏で人を感動させれば「芸術家」と言えるのでしょうか?対価としてお金をもらえるか?は別の問題かも知れません。逆から言えば、誰かから演奏の対価をもらったとしても、人を感動させられなければ、芸術家ではなく、職業=音楽家ですよね。
音楽大学を卒業した人が、どれだけの技術を持っていても、対価を払う人がいなければ生活のために、違う職業に就かなければならないのが現実です。それでも、その人が演奏を続け、人を感動させられれば、立派な芸術家だと思うのは間違いでしょうか。芸術家=貧乏で良いわけがありません。自分を感動させてくれる演奏をする人や、作品を作る人が貧乏で喜ぶ人はいないと思います。

日本で、芸術を作る人間が、芸術活動をしながら生活できる日は永遠にこないのでしょうか?裕福でなくても、普通の生活さえできない音楽家や芸術家ばかりの日本。自分の好きなことを続けているから貧乏でも仕方ない…とは思いません。
少なくとも、人間を感動させる絵画や音楽、演劇に対する考え方を変えていかなければ、何も変わらないと思います。
感動するか、何も感じないか。人それぞれ違うのです。
マスコミが取り上げれば「有名音楽家」と称され裕福な生活ができる日本。
若い人が本気で音楽を学んでも、生活できないと思いあきらめる。あきらめた人が「弱い」と批判される。音楽は勝負したり、競争するものではありません。
音大や美術大学で学ぶ人たちを育てられるのは、優れた師匠だけではないと思います。多くの「見る人、聞く人」の理解がなければ育たないと思います。

私たち世代の考えを「老害」と冷笑する人には、感性がありません。
若ければ何をしても許されると、勘違いする若者を見ていると情けなくなります。一方で、若者のやる気を削いでしまったのは、私たち世代の責任でもあります。
芸術を職業にできる社会を作ることは、一人の力ではできませんが、一人でも多くの人に、音楽や美術、演劇に興味を持ってもらい、それを作る人たちの「生活」にも関心を持ってもらうことが不可欠です。
著名な音楽家が自分のことだけを考えれば、次の世代の音楽家は育たないのです。
すべての世代の人たちが、真剣に考える問題だと思っています。

田舎の自営業者・場末のヴァイオリニスト・音楽普及活動家(笑) 野村謙介

自分の声(音)の聞こえ方

皆さんは、録音された自分の声を聴いて、どのように感じますか?
私は生きていて、「きらいなものトップ3」に入るほど、自分の声を聴くのが嫌いです。ちなみに、その他2つは「虫さん」と「視野検査」
拡声された自分の声も耐えられませんが、自分に聞こえる自分の声のほうが大きい場合には我慢できます。したがって「カラオケ」は生まれてから61年間で、一度だけ…教員時代の忘年会で歌わされた…しか経験がありません。
カラオケ大好きな方々は、自分の声がスピーカーから大音量で流れてくるのが、気持ちいいのでしょうか…。尊敬します。本気で。

自分が聞いている自分の声は、鼓膜から脳に伝わる空気の振動よりも、頭蓋骨を直接振動させた神童「骨伝導」を音として聞いている割合のほうが多いので、録音された自分の声、つまり空気の振動である「音」と違うのです。
自分の聞いている自分の声は、自分だけにしか聞こえない「声」です。
録音された自分の声を、みんなが聞いている…そう思うと、ぞっとするのは私だけでしょうか?(笑)みなさん、ご迷惑をおかけしております。ごめんなさい。話をしないとレッスンできないし、何より自分の声が嫌いなくせに、よくしゃべる変な人なんです、私(涙)

カラオケはしなければ良いのですが、ヴァイオリンやヴィオラを弾いている時に、自分に聞こえている自分の楽器の音は?
耳元で空気を振動させているのは、弦と表板と裏板。これは普通の音です。しかも、距離にして数センチしか離れていない場所に音源があるのは、多種ある楽器の中でもヴァイオリン・ヴィオラはかなり特殊。しかも、左耳だけ(笑)
その他の「自分の楽器の音」は、骨伝導で顎の骨と鎖骨から伝わる「振動」であり、ほかの人には聞こえていません。この骨伝導と耳元数センチの空気振動。
どう考えても、離れた場所で聞いている人が聞いている、自分の楽器の音とは違います。自分の弾いていると音を、リアルタイムに離れた場所で聴くことは不可能です。録音された音を聞くとどうなるでしょう。録音された音を、自分以外の人が聞いて「うん。こんな音だと思う」という、あいまいな音を聞くことしかできません。その音が、自分にとって好きな音なのか、いやな音なのか。どんな名ヴァイオリニストにも、幽体離脱でもしない限り判断できないことです。
声楽家ってすごいと、今更ながら思います。

自分が演奏する、自分のヴァイオリンの音を、自分で評価するためには、他人の評価がとても大切なことになります。
先ほど書いたように、録音した音は再生する機械によって、音色や音量が変わります。演奏している瞬間に、他人が聞いている自分の「音」とは違うのです。
聴く人によって主観的に「大きい音」だとか「きれいな音」「汚い音」という評価は変わります。数値として測っても、それが人間にとって聞き分けられるものであるかと言うと違います。カタログにある「数値」が自分の耳で聞き分けられる人はいないことでも証明されます。
他人の評価を素直に聞くのはつらいことでもあります。
それでも、一人でも多くの人に自分の音について、評価してもらい、一人の意見だけに左右されず、常に謙虚な気持ちと挑戦する気持ちを失わないこと。これができないと、自分の出しているヴァイオリンの音を、自分で評価することができません。
練習する時に、常に自分の音に妥協せず、否定せず、人に聞いてもらっている気持ちで練習することって、大切ですね。
さぁ。自分のヴァイオリンの音を探すために練習しよう!
カラオケできないヴァイオリニスト 野村謙介

音楽愛好家

演奏家も作曲家も聴衆も
アマチュアもプロも
子供も高齢者も
クラシックもジャズも演歌も…

音楽愛好家って素晴らしい!

音楽、好きですか?という問いに、素直に「はい」と答えられる人間でいたいと思います。当然、好きでない「音楽」もあります。練習する時に、いつも楽しいわけじゃない(私の場合)。本番で思ったように弾けなくて、情けない気持ちになることもあります。自分が好きな「音楽」って、いったいどんな存在なんでしょうね?

音楽の神ミューザの話にまで、難しくするのはやめておきます(笑)
以前のブログにも書いたように、人間の想像力と感性で、空気の振動である「音」を使って表現する、目に見えない「想像美」かな?
人それぞれに違う感性を、違う人の感性が受け止めて、新しい空想の世界を創造する連鎖。広い意味で「人とのふれあい」でもあります。
作曲することも、演奏することも聴くことも、すべて同じ音楽です。

それでも音楽が嫌いな人がいるのも、当たり前のことです。
スポーツが苦手な人もいるし、絵画を見ても楽しくない人もいます。
水や空気、食べ物と違って、音楽がなくても人間は生きていけます。
楽しみの一つとして、音楽が加わって「良かった」と思える人を増やしたいと、すそ野を広げる活動を、これからも続けていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴァイオリニスト 野村謙介

左手~鎖骨~頭

弓の毛替えを、櫻井樹一さんにしてもらって、よしっ!さらおう!
…にんじんがないとさらわない…ってのは、天井裏に置いといて(笑)
ヴィオラをさらい(練習)ながら、自分の左手親指に注目。
うん。今日のテーマは決まった!

我が恩師、久保田良作先生のレッスンを思い出します。
頭を天井に向かって持ち上げる感覚で、あごを引く。これ、メニューイン大先生の御本にも推奨されています。
肩を下げ、肘を体から離す。楽器を構えた時、弦を抑えた時に、鎖骨の周りの筋肉に無意識に力が入ってしまう。これ、ダメ。
左手の親指。久保田先生に何度も、力を抜きなさい!と叱られました。
ヴィオラを弾いていると、言い訳がましく親指で楽器の重さを支えようと、力を入れてしまいます。これも、ダメ。
左手の親指はネックに触れているだけではなく、人差し指から小指で弦を抑える「下方向への力」を支える役割もあります。久保田先生は、この力を親指ではなく、あごの骨と鎖骨で支える力を優先させることを仰っていたのでしょうね。
左手親指の「自由度」が上がると、ヴィブラートの自由度が上がります。
ポジションが上がっても同じです。

この頃の自分が演奏している動画を見ていて、頭が前傾しています。
久保田先生に怒られる(汗)
頭が前に落ちると、楽器を手で支えようとするので、左鎖骨周りに力が入ります。さらに、親指にも必要のない力が入ってしまいます。悪循環。
そうでなくても、動きの鈍い私。気を付けないと!
皆様もぜひ、左手の親指さんに敬意を払って感謝しましょう!(笑)

指がつらなくなってはしゃぐヴァイオリニスト 野村謙介

レコードから映像へ…

昭和35年、西暦1960年に生まれた「おじちゃん」にとって、音楽を伝える「媒体」の変化は、生活の変化の中でもずば抜けています。
記憶にある「最初のテレビ」は白黒ブラウン管テレビ。
子供のころに聞いていたのはラジオと「ソノシート」
ペラペラで綺麗な色の半透明の「セロファン」で出来た、直径17センチほどの「レコード」です。それを「レコードプレーヤー」に乗せて、針をおろすと、パチパチピチピチノイズの中に、音が聞こえます。エイトマン、ブーフーウー、鉄人28号、キャプテンスカーレット、宇宙少年ソラン、スーパージェッター。みんな「ソノシート」でした。
あれ?音楽レコードがない(笑)

初めて我が家に「ステレオ」という近代的な機械が来たのは、記憶では小学校6年生。ビクターの「4チャンネルステレオ」を父がどこかから買ってきて、和室の客間に鎮座していました。同時に「30センチLP」も買っていました。直径30センチ。ロングプレイの略「LP」曲の途中でB面に裏返す曲もありました。
中学生、高校生になって次第に機械に興味を持ち「オーディオ」という言葉に出会います。オープンリンリールのテープデッキ、カセットデッキ、FMチューナー、アンプ、スピーカー、何から何まで「楽しい道具」でした。好きな曲を好きな音で聴くための「オーディオ」でした。

高校生か大学生のころ「ウォークマン」が発売され、2か月以上待たされて手にしました。カセットテープの音を家の外で、自由に聞くことが出来るようになった「革命的」なオーディオでした。
その後、「CD」が発売されました。発売当時、フィリップスのCDプレーヤー1機種だけ。ディスクも3種類ほど。価格も恐ろしい値段でした。
やがて「MD」が登場します。小さな四角の薄いメディア。簡単に曲の入れ替えが出来て、編集もできました。実はMDの音は、カセットテープよりだいぶ「悪い」ものだったんですが、気にする人はいませんでした。
同じころに「DAT」デジタルテープレコーダーが発売されました。
業務用には多く使われましたが、一般にはあまり普及しませんでした。音はCDや現在のPCMレコーダーと同等です。

ここから本題(いつもながら前置きが長い!)
ショパンコンクールをライブ動画で世界中(一部の国を除き)で誰もが自由にみられる時代になりました。すごいことです。無料で。好きな時間に、好き場所で、スマホでもテレビでもパソコンでも見られて、しかも何回でも見られる。
こんな時代を誰か予想できたでしょうか?
ソノシートの時代から、たかが60年(ながい?)で劇的な変化だと思います。
音楽は「聴く」時代から「見る」時代に変わりました。
しかも「いつでも、どこでも、何度でも」です。
CDの売り上げ枚数よりも、youtubeの再生回数とチャンネル登録者数が、人気のバロメーターになりました。レンタルCDも消え、やがてDVDやブルーレイディスクも姿を消すことでしょう。小さなカード一枚に何時間分もの映像と音楽を保存できる時代に「ディスク」は、消える運命です。

さて、音楽に絞った話です。
当然「生演奏を聴く」ことでしか味わえない「音」と「空気」があります。
それ以外の「媒体」はどうなるでしょう?
先ほどから書いているように、映像と一緒に「見て聞く」時代です。
演奏する人間の収入、作品を作る人の収入も変わっていきます。
「配信からの収入」が主になります。スポンサーは多くの視聴者からの「薄くたくさん得る収入」をコマーシャルを出すスポンサーが、配信会社(youtubeなど)に支払い、そこから演奏者や作曲者に代金が払われる仕組みになります。
つまり「映像の良しあし」が演奏家と作曲家の収入を決めることになる時代です。どんなに生で演奏が良くても、映像と音声が安っぽければ、配信されても再生されないのです。つまり「評価されない」ことになります。本来、演奏や作品の素晴らしさが評価されるべきですが、現実には見る人の「端末」で再生される音楽が評価される時代になります。

母校である桐朋の一大イベント、桐朋祭で演奏された映像がyoutubeにありました。正直、お粗末な音と映像で、思わずコメントを書いてしまいました。
お祭りでの演奏とは言え、クラシックの音楽を「学生会オケ」であれ、桐朋の名前を出し、できたばかりの「売り」であるホールで演奏している動画が、小学校の学芸会レベルの映像編集とお粗末な音声。業者が編集したものと思われますが、あまりにひどい。隠し撮りならいざ知らず、音大の演奏を自らアップして「公開」する以上、大学としての評価自体が下がるといえます。
ショパンコンクールの映像と音、完全にプロの放送局の「クラシック専門担当者」の手にかかっているのがわかります。見ていて引き込まれるのは、映像と音「も」素晴らしいからです。すごい時代です。

「インターネット?ふん!」あらあら。
コロナで演奏する機会が減った中で、ファンを増やした演奏者と、ファンを失った演奏者の「差」はなんでしょう。インターネットを活用し、自ら「良い音」「魅力のある映像」を配信した演奏家が生き残ります。角野さんは「かてぃん」として、今後もユーチューバーとしてファンを増やし続けるでしょう。反田さんはすでに、有料配信の会社を設立しています。二人とも「先を見る目」を持ちながら演奏するピアニストです。
「できない」「知らない」と言い訳をしても、だれも助けてくれません。
自分で学び、発信するスキルを身に着けることが、これからの音楽家に、絶対必要な要件になります。
私たち「昭和生まれ」の人間は?
学びましょう!老い先短くても!(笑)
それが、歴史であり時代の流れなのですから。

昭和生まれのヴァイオリニスト 野村謙介


空想の世界~音楽

はい、嫌われ者(笑)謙介です。
ショパンコンクールが「ブーム」のように盛り上がっています。
昨日のファイナル、アーカイブをyoutubeで聞きながら書いています。
ヴァイオリン弾きから言うと、みんなすげぇじょうず!(笑)
人間だもの、間違って違う鍵盤触ることだってあるでしょ。
人間だもの、緊張して忘れることなんて普通でしょ。
コンクールが「間違えない」ことを第一に競うものであれば、人間の審査員はいりませんがね。カラオケ採点マシーン!で順位つきます。
もちろん、間違えなくても、もっと細かい「うまさ」ってピアノにある「らしい」。らしいと書いたのは、ヴァイオリンの演奏技術って、ピアノに比べると単純明快に分かるから。例えば、音の高さを自分で決める原始的な弦楽器。ピアノが1万点以上のパーツで音を出す仕組みなのに比べ、馬のしっぽの毛を張った「棒」BOWで音を出す弦楽器。ヴァイオリンのミスと比べて、ピアノの間違いってそんなに多いのかな?

さてさて本題です。
「ショパンの精神」とか「ポーランドの人の魂」とか。
そんな言葉を聞くと、ものすごく違和感を感じるのです。
だれかショパンに聞いたんですか?
ポーランドの人って、全員クローンですか?
まるで自分が「ショパン」という人に成り代わったような思い上がり。
ポーランド人とは!って十把一絡げ。
少なくとも音楽って、演奏者と聞く人の「空想」の世界です。
一人一人の空想や表現は、だれか他人から批判されるものではない自由なものです。
絵画でも、文学でも、映画でも同じです。
「この作品は、〇〇であり、△△と感じなければ間違い」ありえへん。
見る人は「空想の世界」が楽しいから見るんですよね。
その空想を「競い合う」って無理でしょ。
それを「解釈」って言うのであれば、それは個人の自由です。
「モーツァルトが生きた時代には」「バッハの音楽を演奏するには」
それも個人の解釈。
評論家ってお気楽&無責任な職業だと思います。
たった一人の解釈を、延々と語ってお金もらう(笑)
言ってやりたい「お前は神か」

さらに言えば、「楽譜」として作曲家が残したものは、
演奏する人間に、「この解釈を任せたぜ!」って意思表示だと思うのです。
「俺の作品に手を出すな!」って初期のパガニーニみたいな人は、楽譜を残しません。ショパンが楽譜を残した以上、演奏する人の「空想」と聞く人の「空想」を許容したことになります。楽譜に書いていないことってたくさんあります。
さらに言えば、書いたからと言って(例えばここはフォルテで)も、演奏者がピアニッシモで弾くかもしれないことは、承知の上だと思うんです。楽譜の通りに弾くこと「だけ」をコンクールだとは言えません。楽譜に書いていないことのほうが、はるかに多いからです。すべての音符に強弱記号と表現の指示をした楽譜って…ショパンの楽譜?違いますよね。演奏者の「空想」がそう、させているんですよね。

偉そうに言いやがって!
はい、ごめんんなさい(妙に素直)
最初に書いた通り、みんなすごい演奏家だと思っています。
その人の「空想の世界」に共感できるものもあれば、自分の「解釈」と違う演奏もあって当たり前。技術は?すごい!の一言です。順位なんてつけたくない!みんな、人間なのに大変だな(笑)なかには、サイボーグもいるのかも…
私は…リサイタルで弾く曲たちを、何度も弾いて、感じるものを、実験を繰り返しながら練っていく。音色。テンポ。大きさ。どれかを変えると、ちがう世界になります。自分の「好きな世界」を探して、さまよいます。聞いてくださる人が、心地良く感じてくれることや、「空想の世界」が広がってもらえることも、同時に願っています。自分の解釈と違って当たり前です。
人間の想像力。それこそが「魂」であり「心」と呼ばれるものだと思います。
決して、測れるものではありません。競うものでも、評価するものでもありません。私たちが「人間」であることの証は「空想を表現できる生き物」なのですから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


ヴァイオリニスト 野村謙介


今年のリサイタルは…

デュオリサイタル14
妻であるピアニストとのコンサートは、今回で14年目になります。
過去13回、自分たちの好きな曲を選んで、誰からも束縛されずにプログラムを決めてきました。映画音楽もあれば、バッハやモーツァルトの作品、日本の歌、歌曲など、クラシックにこだわらない選曲を今でも続けています。
「〇〇のヴァイオリンソナタを弾いてください」とリクエストを頂くこともありました。クラシックファンの方なら、ごもっとも!なリクエスト。
ソナタ全楽章を演奏する「良さ」「重要性」は当然、理解しています。
ただ、私たち自身がそうであるように、人それぞれに好きな音楽が違います。
一人でも多くの方に、生の演奏を聴いていただきたいという願いもあります。
「お子様ランチ」「定食」には、いくつもの食材、味、食感の違う「もう少し食べたいと思う量のお料理」が少しずつ食べられます。そんなコンサートが少ない気がしました。

高級「割烹」「料亭」「レストラン」より、気さくに入ることが出来る「食堂」が好きです。他人の評価より、自分の「舌」を信じたい気持ちです。
いろいろな音楽で、ヴァイオリンとヴィオラの音色の違い、スタインウェイとベーゼンドルファーの違い、コンサートホールとサロンの違いを楽しめる、「気さくなコンサート」でありたいと思っています。

今回、初めて演奏する「ラベンダーの咲く庭」「カフェ」「ナイトクラブ」「ノクターン(アザラシヴィリ)」「いのちの歌」
以前にも弾いた「アヴェマリア(ピアソラ)」「踊る人形」「ミッドナイトベル」「アダージョ・レリジオーソ(ボーム)」「ふるさと」「クロリスに」
すべてが、私たちの愛すべき音楽です。クラシックもあります。ポピュラーも映画音楽もあります。「おいしかった!」と笑顔になっていただけるように、一生懸命に料理いたします。お楽しみになさってください。

ヴァイオリニスト 野村謙介
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ヴァイオリニストのヴァイオリン

今回のテーマ。当たり前すぎて笑えますが…
プロであれアマチュアであれ、ヴァイオリンを演奏する人の「楽器」であるヴァイオリンは、演奏者の好みで選ぶものです。ピアニストがホールのピアノの中からしか楽器を選べいのに即座に対応する姿に感服します。

とは言え、現実には経済的に自分の理想の楽器を手に入れることは無理ですよね。プロのヴァイオリニストが楽器に使えるお金。日本の多くのプロヴァイオリニストの収入は、同年代のサラリーマンより、ずっと低いのが現実です。むしろ、アマチュアヴァイオリニストのほうが高い楽器を購入できる場合もあります。例外的に、ソリストとして高収入を得ていたり、財団などから貸与されたりする場合もありますが、一握りのプロの話です。


自分の楽器に愛情を注ぐことが、ヴァイオリニストの当然の姿です。
不満を持ったままの相手と一生を添い遂げたいと思う人はいないのと同じことです。仮に、自分の楽器を思うように操れないとすれば、楽器の責任ではなく、自分の能力の低さが原因なのです。では、楽器ならなんでも良いのでしょうか?

もちろん、楽器のポテンシャルはすべての楽器で違います。
まったく同じ「個性」の楽器は世界中に一つもありません。
楽器を製作する人間(職人)の魂が込められれば込められるほど、その個性は特徴的なものになります。逆に言えば、大量生産の楽器には、ほとんど個性がありません。
ストラディバリウスは最高のヴァイオリンでしょうか?
私は数回だけしか演奏したことはありません。
聞いたことは?きっと皆さんと同じくらいに、たくさんあります(笑)
で?私はストラディバリウスが世界で最高のヴァイオリンだとは思っていません。理由はたくさんありますが、現実としてストラディバリウスの音色を、ほかの制作者の作った楽器と「一度ずつ聞いて」言い当てられる確率は…
50パーセント!5割!半々!ヴァイオリニストでも制作者でも結果は変わりません。自分が使っているストラディバリを誰かが演奏したら?100パーセント正解できます。個性はあります。そして、歴史的に優れたヴァイオリニストだけがストラディバリウスの楽器を演奏してきているので、楽器が鳴ります。当たり前です。

本題はこれからです(笑)
自分にとって自分のヴァイオリンが「最愛のヴァイオリン」です。
借り物のヴァイオリンを、心の底から愛することはできません。
「かりそめの愛」また「愛人」あ。ごめんなさい。
誰かにヴァイオリンを「借りて」演奏することがあります。
ある時は、コンクールで上位に入るために、ある時はその楽器を使ったコンサートの「演奏者」として依頼されたとき。後者の場合「お仕事」として受け入れることなります。
結果がどうであれ、私は「ヴァイオリン」が可哀そうに思えてなりません。

私自身が使っているヴァイオリンは、父があちこちに借金をして買ってくれたヴァイオリンです。私が中学2年生の時でした。練習もいい加減にしかしない「サラリーマン家庭の普通の男の子」に買ってくれた父の「度胸」に今更ながら感謝しています。1808年に作られた、鑑定書のあるイタリアの作家が作ったヴァイオリン。サンタ・ジュリアーナという職人さんの楽器です。
私には十分すぎる楽器です。50年近くお付き合いしていても、時々ご機嫌を損ねて、いじけた音で「そうじゃなくて!」と私に激を飛ばします。
今まで、ほかの楽器のほうが良いと思ったことがありません。
それが、楽器との出会いだと思っています。
運命の出会いは、人とだけではありません。
ヴァイオリンを「もの」として考えるか「生き物」として考えるかの違いです。

11月にご縁があって、私のヴァイオリンとは違う楽器でコンサートを開くことになりました。「友達」になれるかどうか?その楽器の良いところを探しながら、あと1か月、練習します。終わったら12月1月のリサイタルに向けて、「ジュリアーナ」と会話します!
ヴァイオリニスト 野村謙介


演奏と年齢

偶然、YouTubeで幼いヴァイオリニストの演奏と、私の師匠世代の大先生が高齢になられてからの演奏を見て思ったこと。
演奏する人間の身体的変化と精神的変化。
肉体的な成長は20歳頃を頂点にして成長と衰えがあります。
一方、精神的な成長は14歳頃にほぼ大人と変わらなくなった後、一生成長し続けるものだと思います。
10代前半の子供が演奏する音楽と、60歳を過ぎてからの演奏。
あなたは演奏に何を期待しますか?

時代と国によって大きな違いがると思います。
ここからは私の私見です。反論もあるかと思います。
一人の人間にとって、演奏技術は20代前後が最も高くて当然。
演奏を練習し始める年齢によって習熟できる技術に差はあります。
少しでも早く練習を始めようとする傾向が、強すぎると思っています。
3歳から始めるか8歳から始めるか、14歳から始めるか。
一人の人間にそのすべてを試すことは不可能です。
結果として、その人がいつ?何歳頃に演奏に必要な技術を習得するかは、始める年齢によって差があるのはいたって当たり前です。
でも、子供が子供らしい生活をしないで育つことで、精神的な成長に不安を感じるのは老婆心でしょうか?

幼い子供にしか感じられない感性。知識や常識とは無関係に、純粋に表現される音楽に心を打たれることがあります。
一方で、大人の真似、大人が振り付けた不自然な動き、薄気味の悪い「感じている風の表情」などを見ると、嫌悪感しか感じません。むしろ、そうさせている指導者、親に対して怒りを感じます。子供が大人の真似をしたがるのは自然な行為です。しかし、大人が芸を仕込むように子供に大人の演奏の真似をさせるのは、本当に美しい正しいことなのでしょうか?私は違うと思います。
子供らしい演奏は、大人にはできません。大人の演奏家は自分の幼いころのことを正確には覚えていません。また、自分がそうした環境で仕込まれたからと言って、違う人格の子供に「仕込む」のは正しいことだとは思いません。反面教師で指導者が幼いころに練習しなかったことを「悔いて」、子供にさせるのも間違っています。
子供には子供らしい日常、友達と遊び、喧嘩をして泣いて、仲直りをして…人を思いやることを体感することで、精神的な成長があると思っています。

さて、高齢になって肉体が衰えるのは自然の摂理です。若いころにできたことができなくなったことへの不安と諦めに似た挫折感は、その人本人にしか理解できません。また、感覚的な衰えを自覚できなくなるのが一番辛い音路だと思います。私の知る限り、自分が年齢を重ねて高齢になっていくことを、明るく受け入れられる人と、なぜか悲しむ人に大別されます。私の母は自分が認知症になったことを「ダメな人間になってしまった。バカになった」と本気で嘆き泣く日々でした。いくら家族がなだめても、その感情は母の幼いころから植え付けられてしまった価値観だったのでしょう。自分が認知症であることを理解できなくなる重度に進行したころに穏やかな母の表情を見ることができたのは、子供として幸せに感じました。
自分の衰えを受け入れることは、他人からの評価を受け入れることでもあります。「先生、もう演奏会でそんな大曲を演奏:しなくても」と弟子に言われて「そうだね」と明るく笑える自分になりたいと常々思っています。すでに私は難易度の高い曲に敢えて挑戦しようとは思いません。それを「逃げている」と言われるのを承知の上で。今の自分に相応しい曲を楽しんで演奏することが幸せだからです。それでも自分なりに成長はあると思っています。単なる敗北感は感じていませんし、自分にしかできない演奏を目指す気持ちは、若いころより強く感じています。先述した、高齢になられた大先生の演奏は、聞いていて悲しく感じました。その先生のお若いころの演奏を生で聞いていた時分だからかもしれません。指も腕も明らかに動かなくなっているのに、難曲をまるで「まだ弾ける」と言わんばかりに演奏されているのは、見るのがつらく感じました。
もちろん、高齢になられたからこその「味」はありました。それを、越えてしまう悲しみでした。

世界中、日本国内にも例外と言わなければ説明できない方もいます。90歳になっても現役演奏家として素晴らしい演奏をされる巨匠たち。日頃の努力は凡人の私には想像さえできません。
幼いころに「神童」「天才」の称号を欲しいままにした演奏家が、さらに素晴らしい演奏家になっている例もたくさん見受けます。私はこの方たちも「例外」だと思います。誰でもが簡単に真似られるような人生ではないと思うからです。
同じ人間だから、やればできる。
はい。それも事実です。が、みんながみんな同じ環境、能力、感性ではないのです。少なくとも、幼い子供に音楽を押しつけるのは、大人のエゴでしかないのです。高齢なってからの演奏家としての生き方は、周りにいる人間の接し方で大きく変わります。尊敬する先生に、引導を渡すはおこがましいことです。でも、尊敬する人だからこそ、聴衆に憐みの目で見られないようにすることも、弟子の責任かなと思います。

人にはそれぞれの生き方があります。
他人に左右されるときもあります。
最後に自分が笑えて、家族も笑える人生を送ることが最高の幸せだと思っています。
今、この瞬間にすべてが満足できなくても、明日満足できるように明るく生きること。それが私の「夢」であり「生きがい」なのかと思う61歳でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

メリーミュージック代表 ヴァイオリニスト 野村謙介


ハードとソフト

固いと柔らかい
と言うお話ではなく…
多くの場面で使われる言葉ですが
「形のあるもの」をハード
「形を外見的に見ることができないもの(こと)」をソフト
というお話です。

パソコンで言うなら、コンピューター本体、ディスプレイやハードディスクなど周辺機器を「ハード」と言い、パソコンを動かすWindowsなどの「OS]や、計算ソフトやワープロをパソコンで行うための「プログラム」のことを「ソフト」と言います。
自動車で言うなら、車体、エンジン、タイヤなどが「ハード」で、電子制御システムが「ソフト」です。
音楽で言うなら?
楽器と弓、肩当や松脂などが「ハード」(ソフトケースもハードの仲間笑)
すると楽譜がソフト?ん?そうなのか?

パソコンにしても、車にしても、楽器にしても
「使うのは人間」なんです。使う人間がいかに快適に、便利に、楽に生活するための「道具」がハードとソフトなんですね。
人類の歴史は道具を使うことで進化してきました。
道具を使う高い知能を持っている生物の頂点が人類。
便利になる一方で、使う人間は進化しているのでしょうか?
楽器にスポットを当てて考えます。

ハードとしての楽器、特にクラシック音楽で使われる楽器の進化は、産業革命で金属を加工する技術の進歩とともに大きく変化しました。
ただ、ヴァイオリンについては使用する弦の種類が変わったこと以外、ほとんど進化していません。
ソフトである楽譜は、進化というより歴史を遡って作られた音楽を、現代の人間が演奏していますから、その意味では進化していないとも言えます。
では、演奏者は進化したのでしょうか?

演奏技術が大きく変わったと感じる人は少ないと思います。
チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトが作曲された当時、演奏不可能と言われた話が残っています。今や、中学生でも演奏するのですから、進化したのでしょうか?う~ん。疑問です。
演奏技術の進歩というより、低年齢化しているだけのように私は感じます。
ハード(楽器)が手軽に手に入ることも、演奏家の人口を爆発的に増やした一つの要因です。

音楽だけが特別なんでしょうか?そうとも思えません。
道具が進化しても、人間は変わっていないのですから。
単に「便利になる」ことだけを求めるハードとソフトの開発に、疑問を感じる今日この頃です。
r年収しなくちゃ!(笑)

メリーミュージック 代表 野村謙介

暗譜が不安な生徒さん

楽譜を見ないで演奏することを「暗譜」と言います。
楽譜に書かれているのは何?
拍子・調性記号・シャープなどの臨時記号・音符・休符・強弱記号・繰り返し記号・速度の記号・表現の指示・スラーやスタッカート・弓のダウンアップ・指番号などなど。
それらを、初めは一つずつ確認しながら弾く練習からスタートします。
この時点で、全盲の方は「点字楽譜」を使用されます。
クラシックと呼ばれる以外の音楽では楽譜を使わないで演奏するスタイルも実際に多くあります。楽譜を見ないでも、すべてを誰かに教わったり真似をして演奏できるようになることも事実です。

楽譜を読むことが苦手な人は世の中にたくさんいます。むしろ、読めない人の方が普通だと思います。なぜなら、日本では義務教育で楽譜を音にするための技術は教えていないのですから当然です。学校以外の場所で、ピアノやヴァイオリンを習うことで初めて楽譜を音にする人の方が多いのです。楽譜を音にするための知識、技術は、言葉を読む・書くのとほぼ同じです。世界の言語の中でも最も難しい日本語を読み書きできる人が、楽譜を音にすることは、実際にはとても簡単たことです。
むしろ、楽譜を用いないで、覚えて演奏する方が何倍も大変です。曲が長くなれば、その作業は楽譜を読んで演奏するよりも遥かに膨大な時間を要します。

2週間後の発表会を前にして「暗譜で弾くことが不安で出られない」生徒さんが今日もレッスンに来ました。私の答えは「もちろん、楽譜を見ていいよ」でした。生徒さんが子供であれ大人であれ、この不安は同じです。
もっと言えばプロでも同じです。
「自動的に手が動くけれど、それがあっているのか不安になる」と小学6年生の女の子が言いました。的を射た表現です。人間は「記憶する」ことを無意識にする場合と、意識的に記憶することの区別ができます。
ただ、後者の場合は半ば「無理やり」記憶するのですから、思い出せるか不安になるのも当然です。
テストの勉強で、英語の単語や歴史の年号を「丸暗記」したことはおそらく多くの人に「あるある」な話です。テストなら正解か不正解で、点数が決まりますが、結婚式のスピーチで原稿を読みながら話すか、記憶して話すか…。あなたなら、どうしますか?

思い出せなくなる不安。見ながら話したり弾いたりすれば安心。
原稿や楽譜を「使えない現場」もあります。
演劇の舞台、映画の中で役者さんがみんな台本を手にして読みながら芝居をしていたら?なんだか気分悪いですよね(笑)
楽譜を覚えるのではなく、音楽を覚える。
かっこよく聞こえます(爆)
最終的に音楽を覚えるまで、考えながら反復する。
反復する時間の中で、記憶だけで演奏できるようになるまで反復する。
思い出せない場所は、その前後を含めて音楽を記憶していないから思い出せない。思い出せない「箇所」を練習しても、音楽は記憶できません。
それでは運動を記憶するだけです。演奏は、「音楽を演奏する」のであって、「音を出す」単なる運動ではないからです。

暗譜で弾く不安はゼロにはできません。
でも、楽譜を見ること・読むことに集中すれば、音を聞くことへの集中力は絶対に減ります。集中するものが音なのか、楽譜なのか。
音に集中して自分の記憶した音楽を自然に動く運動にすることがアマチュアには必要だと思います。
プロは楽譜を見ながら音に集中する技術を身に着けています。
アマチュアとの一番の違いはそれです。楽譜がなければ弾けないというアマチュアの場合、楽譜があっても満足できる演奏には至らない。と言うのは私の持論です。
楽譜に書いていないことを演奏するのが「生身の演奏家」です。
楽譜を見ながら演奏できない視力の私は、これからも「暗譜するまで」頑張ります。アマチュアの皆さんも頑張ってください。

メリーミュージック 野村謙介

時代で変わる?音色へのこだわり

ヴァイオリン演奏家のはしくれとして、そして還暦を過ぎたおじさんとして、世の中が変わる中で気づくことの一つを。
現代、YouTubeなどで音楽を聴くことが簡単になりました。
特に昔の演奏家の貴重な演奏を、動画付きで安直に見られるのは、とてもありがたい進化だと思います。
表題の「音色」を書くためには、本来なら実際に演奏している人の「生の音」を聴かないと、正しいことは書けないことは前提としておきます。

現代のヴァイオリニストたちの演奏と、今から30年から60年ほど前のヴァイオリニストの「音色」は明らかに違っています。もちろん、前述の通り「録音された音の比較」でしかありませんが。
一言で私論を言ってしまえば「音色へのこだわり」が減少、または軽視される時代になった気がしています。
演奏技術は、正確に速く弾けるか?という一点が現代のヴァイオリニストの課題と評価の基準になっていることを強く感じます。当然、それ「も」重要です。軽視して良いものではありません。
演奏するすべての音、一音ずつにどれだけの音色の選択肢を持っているか。
少なくとも、一昔前のヴァイオリニストの演奏を聴くと、その人の個性、言い換えると人間性・音楽性を感じられる演奏が多かったおt思いませんか?
楽曲の解釈とも言えますが、難しい話ではなく演奏する人が、その楽曲に何を感じ、何を表現するのかというシンプルな考え方です。

聴く人と弾く人の間には、感覚の違いがあるのは人間なら当たり前のことです。
同じ演奏を聴いて、ある人は「カッコよさ」を一番に感じ、ある人は「喜び」を感じるかもしれません。音楽を身体表現のひとつである「演技」「朗読」に置き換えると分かりやすいかな?
同じ台本でも、役者さんの演技、語り方で全く違うものになります。
「うまい・へた」の違いではなく、見る人聴く人の感性の違いでもあります。

ヴァイオリンで選べる音色の選択肢。
要素を書いてしまえば、右手(弓)と左手(押さえ方・ビブラート)の組み合わせです。楽器や弓、弦を変えることで音色は変わりますが、一音ずつ変えることは不可能です。
一本の弓で音色を変える要素。圧力(方向と力)・速度・駒からの距離が挙げられます。もちろん、一つの音の中でこれらを変えることは普通にあります。
左手の要素。弦に触れる指の強さ、指の部位、ビブラート(深さ・速さ・かけ始める時間)などの要素Gああります。


音色の表現には、「硬さ・柔らかさ」「明るさ・暗さ」「動・静」が挙げられます。それらも一音の中で変えられます。それらが組み合わされるで、一概に音色と言っても、とてもたくさんの選択肢があります。

練習は「弾けるようになること」ではなく、「表現できるようになること」だと思っています。昔から言われていることですが、「間違えないで速く弾くだけ」なら、ロボットに任せればできることです。現代ならすぐにできそうですね。
音色だってロボットで表現できる。
はい(笑)
そのプログラミングが「一音ずつ」先ほどの、弓・左手の音色の要素を組み合わせて考えて、入力してい下さい。それがどれほど「人間の感性」に左右されるか考えたら、一人の人間が一曲入力する時間があれば、練習した方が楽しくないですか(笑)

間にとって再現性はとても難しいことです。機械なら同じことを繰り返すのは得意です。音色を考えて練習して、それを再現できるまで繰り返すことが「練習」だと思います


若いヴァイオリニストの皆さんへ。
ぜひ、昔のヴァイオリニストの演奏をたくさん聞き比べてみてください。
録音技術は低いですから、雑音も多いし録音方法も今とは違います。
それでも、きっと現代とは違う「繊細さ」「音色のバリエーション」を感じると思います。
ボウイングと左手の練習は、ヴァイオリニストの個性を表現する技術です。
競い合うなら、音色の多彩さと再現性を誇りに思ってほしいと願っています。
偉そうに言いながら、出来ていなくてごめんなさい。
自戒を込めて書きました。

ヴァイオリニスト 野村謙介

できた!という実感

本日のお題は、演奏を楽しむ人に共通の願いである「うまく弾きたい」という願望を叶える「秘訣」について。
「そんなもん、あるわけねぇ!」と言わないで(笑)お読み頂ければ幸いです。

練習するしかありません。以上。
って、おいおい。そうじゃなくて、練習を持続させるための秘訣です。
初心者でもプロでも、練習しなければうまくはなりません。
初心者の多くの方が「プロは練習しなくても上手に弾ける」と勘違いしています。プロの中には悲しいことに「弾けない人の気持ちが理解できない」という不幸な人もいますが、そんなプロも内心は「もっとうまくなりたい」と思っているのですから。

何かができるようになる「実感」を、最近あなたは感じましたか?
大人になればなるほど、その実感を感じない日々が多くなるのかも。
子供の頃、鉄棒で、逆上がりがなかなかできなかった思い出。
自転車の補助輪を外した時の不安。そんな記憶はありませんか?
出来るようになった瞬間の喜びは、自然に湧き上がるものです。教わるものではありません。本能に近いものなのでしょうね。

練習していると、できないことの方が強く感じます。できるようになったことを忘れて、常にできないことが目の前にあります。本当は、少しずつ出来るようになっていることに気付かない場合もあります。逆上がりのように、はっきりと「出来た!」と感じられない「小さな出来た」を見つけることが秘訣なんです。
へ?それだけ?
はい(笑) 人間は喜びを感じられないことを好きになることはありません。好きになれないことが上達することはありませんし、仮に上達しても嬉しくありません。
要するに、楽器を上手に弾きたいという気持ちが「出来ない」ことだけの連続で、やがて薄れていき、上手に弾けない、上手に弾けないからやめたい。という負の連鎖に行きついてしまいます。
自分で自分の練習の中に、小さなできた!を見つけるのは、実はとても難しいことなのです。プロだって、自分の演奏に完全に満足している人は、世界中に誰もいないと思います。傍から見れば「神のような技術」を持っている人でも、恐らく自分の「出来ない」を持っていて、日々出来るようになる為の練習をしていると思うのです。その昔、巨人軍の長嶋茂雄選手が、4番バッターになってから、それまでより何倍も練習していることをニュースで聞いて、子供ながらに「すごいな~」と思いました。
趣味で楽器を演奏している人には、当然のこととして、まだ出来ないことがたくさんあります。それを、少しずつ出来るようにしていくのは、本人の練習と「出来るようになった」ことを、先生が教えてあげることが絶対不可欠です。生徒さん自身は、出来るようになった実感がなかなか持てないのが現実です。「先生は気を使っておだててくれた」と思うかもしれません。それでも、本当に少しでも出来るようになっていることを、「しつこく」誉めることが、アマチュア育成には必要なことだと私は信じています。

楽器の演奏が上達する道は、凸凹だらけの、上り坂、下り坂、壁の連続です。そのゴールのない、長い道のりを歩く限り、必ず少しずつ出来るようになっています。それに気付けるようになることこそが、歩き続けるための秘訣だと思うのですが。
偉そうに書きながら、今も自分のリサイタルに向けた道の半ばで、めげそうになっている私です(笑)この練習の「ご褒美」はリサイタルでお客様から頂く笑顔と、拍手です。自分の師匠が天国から「右のひじ。左手の親指力を抜く」という「メモ」がヒラヒラと落ちてくるのが、怖い。
生徒の皆さんも、先生方も、音楽を楽しみましょう!

メリーミュージック 野村謙介

デュオリサイタルに向けて

今回で14回目の「野村謙介・野村浩子デュオリサイタル」
演奏する曲を二人で考えることから始まります。
まずは「好きな曲」であること。もちろん、二人とも知っている曲とは限りません。それぞれの曲を自分が演奏したら?どうなる?と想像もします。原曲(オリジナル)の演奏がある場合、色々なアーティストの演奏をたくさん聞きます。中には、あまり好みでないものも含めて、本当に多くの演奏を簡単に聞くことができる便利な時代ですね。

今回、初めて私たちの「レパートリー」に加わることになったのは、
ラベンダーの咲く庭で
いのちの歌
ノクターン
人前に初めて演奏する曲も。
カフェ
作曲家のお名前は敢えて書きません。あしからず。
他にも候補がありましたが、好きな順に選んだ結果です。
この他に、以前演奏したことのある音楽も、練り直して。
踊る人形
ミッドナイトベル

ナイトクラブ
アダージョレリジオーソ
アヴェマリア
クロリスに
ちなみに、アヴェマリアというタイトルの曲は、
シューベルト、バッハ・グノーの作曲した曲「では」ありません(笑)

私(謙介)は、いつからか(本当は高校生の頃から)ビオラの演奏が好きで、今回も陳昌鉉氏の作成されたヴィオラも演奏します。
こちらの楽器の所有者は「浩子様」であることは、私たちのリサイタルにお越しになったことのある方には、周知のこと(笑)いや。変な理由じゃないですからね。←今更焦る。
ヴァイオリンは中学生の頃に、父親が借金をして私に買ってくれた楽器です。未だに私の「唯一無二」のヴァイオリンです。ちなみに、演奏会で使用しているヴァイオリンの弓は、恩師である故、久保田良作先生がご自身の演奏会で使用されたものです。これ、自慢(笑)

ヴァイオリンとヴィオラの音色の違いは、多くの方に喜んで頂いています。演奏方法は「似て非なるもの」なので、一回のコンサートの中で、持ち替えて演奏するのは、それなりに難しい面もありますが、自分自身がどちらの楽器の音色も楽しみたいので、まったく苦に感じたことはありません。ヴァイオリンは1808年に作られた「イタリアン・オールド」で、ヴィオラは2010年に作成された「トウキョウ・モダン」(笑)です。
演奏する会場も、もみじホールは「コンサートホール」で、代々木上原ムジカーザは「サロンホール」という2会場で、同じプログラムを演奏します。この響きの違いも両方の演奏会をお聞きになると、本当に楽しみ方が変わります。さらに、ピアノも!
もみじホールは「ベヒシュタイン」で代々木上原ムジカーザでは「ベーゼンドルファー」を使用します。この違いがまた!楽しいのです。
両方の会場でお聞きになれるチケットは、一般2500円です。幼児は無料です。もみじホールだけの入場は、一般1500円、高校生以下1000円。幼児無料です。ムジカーザのチケットは共通チケットとなります。

ご存知の方も多いですが、私が楽譜を見ながら演奏できない視力になったので、すべての曲を暗譜で演奏します。あ。昔は読めましたよ、楽譜(笑)一音ずつ、音色を考えて、演奏する弓の場所や、弦、左手の指などを決めていきます。それを、一音ずつ覚えます。かなり根気のいる作業ですが、生まれつき全盲の演奏家は世の中に大勢いらっしゃいます。
クラシック演奏家で全盲の方は、点字の楽譜で覚えていくのですが、私は今のところ、辛うじて物が見えているので、点字の勉強はまだしていません。もはや「意地」かも。パソコンモニターいっぱいまで拡大した楽譜(の一部数小節)を覚えては弾く。忘れてまた画面を見て、弾く。この繰り返し。一度楽譜を覚えて、先ほどの弓の場所や、弦や指を重ねて覚えます。歌詞のある曲(歌)を演奏する場合、歌詞も覚えますが、これが!むずかしい!歌詞が思い出せずに、演奏が止まってしまうことも。歌えば思い出せるんですが、楽器を持つと「歌詞以外の情報」が頭を埋めてしまう!

と。そんなデュオリサイタル。ぜひ皆様のご来場をお待ちしております。
地元、神奈川県相模原市緑区にある「もみじホール城山」が、12月19日(日)午後2時開演。来年年明け代々木上原ムジカーザ1月8日(土)午後5時開演です。
感染予防に最大限配慮して開催いたします。皆様と会場でお会いできるのを楽しみにしております。

チケットのお申し込みや詳細は
こちらをクリックしてください。

それでは!

メリーミュージック 代表 野村謙介





BMW 116i F20 ヘッドライト修理完了

今回は、愛車「バイエル君」こと、BMWの1シリーズ、116i(後期型F20)のお話。
左ヘッドライトに水が入ることが「普通」とまで言われる車です。
今年(2021年)2月に車検を終えた時にすでに、ヘッドライトユニットの中に水が入っていましたが、車検をしてくれた工場がブロアーで水を出して乾かし、車検を通してくれました。
その後、しばらくしてから「光軸調整エラー」のメッセージが表示されました。
エンジンをかけると、ライトが「0」オフの状態なのに、左のポジションライト(スモール)がずっと付きっ放しになり、エンジンを切ってアクセサリー電源もオフにしてから、約3分間ポジションライトが付いたまま。その後自動的に消えます。

八王子市にある「原田モータース」さんを見つけ、修理を依頼しました。
ヘッドライトユニットを中古のものに交換してくれました。
外したヘッドライトユニットからは、ジャバジャバ水が出てきたとのこと。

交換が終わったものの、相変わらず「光軸調整エラー」が出たままで、ポジションライトも消えず。
改めて、数種類のコンピューターで「コーディング」しよとしてくれましたが、LAN(情報のやり取り)ができず症状変わらず。

そこで相模原のBMWディーラー「ムラウチ」に持ち込みました。
点検だけで1万数千円ぼったくられ「修理するなら改めて」とのたまう。
冗談じゃない!と見積もりを出させると「これで直るかわからない」条件付きで11万円。はぁ?

再び原田モータースさんに相談し、ネットでも調べ上げた結果、
車体からのハーネス(ケーブル)が断線しているのでは?と疑いを持ちました。ディーラーに事情と経緯を話し、原田モータースさんにパーツだけ販売してくれないかとお願いをするも「車体からのすべてのハーネスセットなら売ります」これ、数十万円。ハーネスすべて?どんだけ?
原田モータースさんが知り合いの中古輸入車を扱う仲間に片っ端から聞いてくれて、116の中古パーツを買ってくれました。

そして本日7/15、再び原田モータースさんで、中古のハーネスを取り付けると
なおった!!!!
エラー」表示も消えて、ヘッドライトも正常に!!
前回、今回と本当に長時間の作業でした。
車体フロントをジャッキアップして、左前輪を外し、タイヤカバーを外しての作業です。せめて工賃をお支払いしますというと「パーツ代5千円で」せめて工賃ぐらいもらって!「え…じゃぁ合わせて1万円」
なんて良心的で素晴らしい技術!
何より原田さんのお人柄が、寡黙で優しい。
今日、ハーネスつけ終わってすべての作業が終わった時、両手でガッツポーズ「やったーーーーー!」って本気で喜んでいた姿に職人の意地を感じました。すごいなぁ!

http://harada-ms.com/
で検索できます。行ってみると「えっ?ここ?」なのどかな場所です。
技術も料金も対応も最高です。電話でお話しすると、原田さんがいかに「シャイ」な人かわかります。
ディーラーは「新車を買うところ」であり、「直してくれるところ」ではないことを実感。BMWに限らず、この原田モータースさん。推します!
という事で、今日は「くるまのおはなし」でした。

今年の夏こそ趣味の楽器

皆様。お変わりありませんか?
梅雨入りしてから天候がころころ変わる毎日です
楽器にとって高温多湿は最大の試練です。演奏する人も息苦しいうえに、楽器が結露したり、思うような音が出ないストレスに悩まされます。

楽器の演奏に最適な季節は、日本で言えば秋・冬ですが、生活を考えると、必ずしもそうではないようですね。
インドア派、アウトドア派。それぞれに楽しみ方が違いますが、
少なくとも健康に害のあることは、誰でも避けるべきです。
運動に適した環境もあるはずです。ここ10年ほど、東京の気温は
屋外での運動は命に係わる危険さえあります。実際、熱中症で救急搬送される数、さらに死亡してしまう人が連日報道されます。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとは、まさしくこのこと。

さて、今年の夏は?涼しくて快適な真夏が来るのでしょうか?
私が子供のころは、夏休みに外で遊ぶのは当たり前でした。

麦わら帽子をかぶらされ、ランニングに半ズボンで虫を取ったり、友達と走り回ったり出来ました。
思えば道路は、舗装されていない砂利道が多く、エアコンのある家も少なかったので、打ち水をすれば涼しくなっていました。夜だって、蚊帳の中で団扇で十分寝られました。時代の違い…ですね。
ヴァイオリンの練習をするのに、扇風機を使わせてもらえましたが、あの独特な音の変化が懐かしく思い出されます。
中学生になってから我が家に「クーラー」が初めて付いたのは、私の部屋でした。1975年頃のことです。かなり贅沢でしたが、当時のクーラーは、とにかくうるさい!ヴァイオリンの練習をしていても、気になってしまうほどでした。

今年、コロナウイルスの感染拡大は止まりそうにありません。
ワクチンは万能ではありません。ニュースを見れば世界中で2度のワクチン接種を終えた人の感染拡大がわかります。もちろん、効果はあるのですが、天然痘のワクチンのように、完全に感染をゼロにはできません。インフルエンザウイルスより、コロナウイルスは変異株がすぐに拡大するのが問題ですね。
マスクの問題も大きな社会問題です。真夏に屋外で、効果の高い不織布マスクを着用すれば、熱中症になるのは当然です。だからこそ、今は外出を控えるしか、自分の身を守る方法がありません。
もちろん「できる範囲で」という事です。お仕事や家事で外出するのは避けられません。マスクをしないで外出できるようになっても、外気温が35度近くになると、屋外に出ることは大きなリスクを伴います。。
体温に近い空気の中で運動すれば、何が起こるかぐらい小学生でも知っています。サウナとは違います。サウナの中で歩き回る人、見たことありません(笑)

インドアで楽しむことを見つけましょう。テレビを見たり、本を読んだり、ゲームをしたり。そんな中に楽器の演奏を!
趣味の楽器を涼しい屋内で楽しむことは、誰にでもできますし、自分の家の中でマスクをする必要もないのですから。気分は最高!
楽器のためにも弾いてあげた方が良いのです。演奏すれば楽器も涼しい部屋で過ごせます。楽器を高温の部屋に放置すると、悲しい大事件が起こります。弦楽器の場合、接合部分の「膠(ニカワ)」が接着力を無くして、接合部分が剥がれます。また、表面のニスが柔かくなって、ケースの内張りに張り付きます。光沢がまったくなくなり、元には戻せません。外出するときなど、エアコンを付けておけないときには?
直射日光の当たらない場所で、楽器用のスタンドに立てておくのがベストです。ウクレレ用のスタンドが最高です。2500円ほどで買えます(アマゾンでも)
もったいない!というののであれば、せめてケースから楽器を出して、できるだけそーっと、駒を下にして(斜めになります)机の上やピアノの上に置いておいてください。表面のニスと接する面を極力小さくすることが楽器にとって「呼吸の出来る」状態なのです。

イベントが中止、延期を余儀なくされている今だからこそ、一人でも多くの方に音楽を楽しむきっかけになる夏になってほしいと願っています。

子供たちに明るく楽しい思い出をと願うのは普通の大人の考えです。
運動会や修学旅行の思い出を無くした子供たちを、学徒動員する政府を許すことはできません。せめて、自宅で音楽を楽しんでもらえればと願っています。どうぞ皆様もご自愛ください。

メリーミュージック代表 野村謙介

初めてのヴァイオリン

メリーミュージックは2021年でオープン17周年です
これまでに約800人を超える方に、会員になって頂きました。
感謝を込めてヴァイオリンセットをお買い上げの方に、
一ヵ月に3回のレッスンを無料!にさせて頂きます。

ヴァイオリンセットは、ルーマニア製の楽器の他に、弓とセミハードケース、肩当、松脂が含まれます。
身長145㎝以上の方なら、フルサイズのヴァイオリンがお勧めです。
消費税と一ヵ月三回分のヴァイオリン、またはピアノの無料レッスンを含めて、7万円!

小さなお子様には身長に合わせた「分数サイズセット」が6万円(消費税と無料レッスン含む)
ヴァイオリン「だけ」買って、YouTube動画で独学…
弾けるようにはなりません。現実です。
楽器の構え方、弓の持ち方、腕の動かし方、弦の押さえ方など、実際にやってみると難しさがすぐにわかります。
おもちゃやレプリカの「ヴァイオリンみたいな物」では当たり前ですが、ヴァイオリンの音は出ません。
楽器が良ければよい音が出せます。これも当たり前です。
ご用意した楽器セットは、入門用として十分なコストパフォーマンスです。
現在、子供の生徒さんのお母さんたちが、このセットでレッスンを始めています。素敵なことですね!
手頃な価格で、本物の楽器を使って一ヵ月3回のレッスンを無料で受けられるチャンスです。
しかも!ピアノのレッスンを含めても無料です。こんなキャンペーンができるのは、ヴァイオリニスト・ピアニストの夫婦が経営する音楽教室「メリーミュージック」でしか出来ません。
一人でも多くの方に、ヴァイオリンを始めて頂ければと願っています。
楽器セットがなくなり次第、終了とさせていただきます。
皆様からのお問い合わせ、お申し込みをお待ちしております。
メリーミュージック 代表 野村謙介

コロナ禍の音楽

メリーミュージックの野村謙介です。
新型コロナウイルス感染症が、世界中で人々の命と暮らしをむしばんでいます。
今回は、日本の中での音楽を取り巻く現状を、私なりに考えてみたいと思います。

大きく分けて、趣味で音楽を楽しむ人々の変化と、音楽を生活の糧にしている、いわゆる「音楽家」の現況があります。

共通していることは、感染への不安は、人それぞれに違うことです。家の外に出ることさえ、不安になる人もいれば、風邪の一種だからそこまで恐れることはない、と感じる人がいるのは当たり前のことかもしれません。
もう一つの共通点は、世界の中で感染対策が最悪の状況下で、多くの人々が生活の困窮に喘いでいることに、政治が目を向けない日本に暮らしていることです。

趣味で音楽を聴いて楽しむ人や、楽器を演奏して気分転換をしている方の中で、外出が不安な高齢者が多いのが現状です。
また、音楽を聴く楽しみをホールの閉鎖によって奪われた方が、たくさんおられます。
そうは言っても好きではない人から見れば、音楽は自宅で聴いたり自分で弾いたりできるから、大したことではないと思われるのかもしれません。価値観の問題です。

さて、一方で音楽を演奏したり、人に音楽を教えたり、ホールを運営したり、そのホールで働いて、生計を立てている人たちにとっての変化はどうでしょう。こうした人たちの、日本の人口における割合はとても少ないですし、経済効果としても大企業のような莫大なお金の動きはありません。
日本では、音楽で生計を立てている人の大部分は「フリーランス」です。
国会やニュースで、時々耳にした言葉かも知れません。
「きちんとした大きな団体と契約して、給料を貰えば良いじゃないか」
そう思われている政治家や一般の方が多いのですが、現実はそんなに甘くありません。

そもそも、日本は世界の先進国の中で、最も文化芸術に使われる国の予算が少ない「文化度の低い」国なのをご存知でしょうか。
分かりやすい例で言えば、日本には国立のオーケストラが存在しません。
地方自治体の名前が付いたオーケストラで演奏する人は「公務員」にもしてもらえません。それが現実です。

文化や芸術に関心のない国が、先進国であるはずがありません。
ビジネスとして考えれば、自動車産業のように、目に見える物を造り販売する業種と、人の心にだけしか見えない感情を残す音楽は、異次元のものです。
つまり、音楽は「物として売れない」のです。

「LGBTは生産性がない」「種の保存の観点で差別は必要」
こんなヘイトを平然と口にする政治家が、私たちの国のトップにいます。
「音楽なんてなくても困る奴はいない。違う仕事をすればいいだけ」
そんな言葉が彼らの顔に書いてある気がします。

音楽や芸術、自然や歴史的建築物は、壊すのは一瞬、元通りにすることは不可能なのです。
原発の真逆です。あれは、造るのは簡単。壊せないのですから。

コロナ禍で、音楽生活を諦めた人も多くいます。
その原因は「ウイルス」ではなく「人の無知」なのです。
音楽の演奏は、その場で消えて、聞いた人の心の中に残る「無形の存在」です。
それを造れるのは「演奏家」だけなのです。その演奏家を消してしまったら、音楽そのものがなくなることは、小学生でも理解できることなのです。

CDやYoutubeで音楽なんて聴ける。という安直な考えは、
「レトルト食品があるから生産者はいらない」と胸を張っている変わった人の仲間です。

生産者のいない食べ物は、地球にはありません。
例え、コンピューターが音楽を演奏したとしても、打ち込んでいるのは人間です。コンピューターが音楽を作っているのではないのです。

オリンピックをやらないと死んでしまう政治家が、音楽を大切にすることは、天と地が引っ繰り返っても望めません。
せめて演奏家を生存させるために、心のある方々がいらっしゃれば、少しだけお金を使っていただけないでしょうか?
音楽会でも、習い事でも構いません。
皆さんのお金を中抜きするピンハネ組織「〇〇らっく」に負けず、
私達演奏家・ホール関係者を助けてください。
ご理解を頂ければ、幸いです。

メリーミュージック 代表
野村謙介



ドミナントプロレポート

今回は、ヴァイオリンの弦を使用した「本音レポート」です。

普段、ピラストロのオリーブというガット弦を張っています。
昔から一番信頼し、馴染みのある弦です。
たまに、他の弦を使って生徒さんの相談に答えられるようにしています。
今回は、トマステーク社の出している「ドミナント・プロ」のセットを試してみました。
トマステークの「ドミナント」は現在、もっともポピュラーな弦ですね。
ナイロン弦の一種です。どんな弦にも長所と短所があるものです。
ドミナントに限らず、ナイロン弦は一般に「良い音の出る期間が短い」ことが代表的な短所です。一方でガット弦に比べて、張ってから安定するまでの期間が短いのが長所とされています。
実はそうでもありません。

事実、ドミナントのA線は安定するまで、張ってから毎日1~2時間弾いては調弦し、また弾いては調弦しを繰り返し、完全に安定するまで1週間ほどかかります。え?G線じゃないの?
実はA線の方が伸びるのに時間がかかります。
そして、張ってから2週間…どんな環境でもほとんど変わりません…で
突然、音色が変わります。開放弦で、はじいてみるとすぐにわかります。
はじいた瞬間の音量・音色が、すぐに余韻のない「ポ」という音に変わります。余韻が短くなると言っても良いですね。
当然、弓で弾いていても余韻が短くなっています。
「こもった音」になります。この状態を「弦のご臨終」と私は呼んでいます。この「お亡くなりになった音」はこの後、ず~~~~~~~~っと!
おそらく錆びて切れる直前まであまり変わりません。
つまり。
張ってから2週間から切れるまで「音は出る」状態になるわけです。
ガット弦は?
張ってから安定するまでの期間は、G→D→Aでおよそ2週間ぐらい。
そのあとは、本当に少しずつ音色が変わっていき、私の場合3か月ほどでどうしても張り替えたくなります。
つまり、弦の寿命として言えばバット弦が遥かに長い。


さて、今回試してみた「ドミナント・プロ」です。
まず第一の特徴は、
・張った翌日には演奏会で使えるほど、弦の伸びと安定が早い。
・張った直後の音量と明るい音色は、ドミナントとはけた違い。
・張ってから1週間ほどで、ギラついた音から少し柔らかい音に変化。
・張ってから3週間目頃に、明らかに余韻が減り、共振も少なくなる。
・その後はそのまま。ここで「ご臨終」
家格的には、ドミナントの1.5倍ほど。でも、ピラストロのオリーブや、ピラストロのパッシォーネに比べるとだいぶ安い。

何をもって「プロ」と名付けたのかは大いに疑問ですが、
ドミナントにないパワーと明るさは確かにあります。
好みの分かれるとことですが、今までにパッシォーネが気に入っている方にはお勧めです。ただ、寿命はパッシォーネとは比べようもありません。
演奏会のために張り替えるなら、確かにコストパフォーマンスは悪くありません。
が…これも好みの分かれるところ。ガット弦の温かさと柔らかい音色が好きならお勧めできません。
また、ペーターインフェルドのように、指がいたくなる硬さでもありません。
数あるナイロン弦の中で、コストパフォーマンスから考えても、トップクラスかな?とも感じました。
と、いうお話でした。お粗末。
メリーミュージック 代表
能村謙介

NPO法人メリーオーケストラ

皆様。いかがお過ごしでしょうか。
久しぶりの更新です。
ここしばらく、レッスンと発表会の準備の合間を見つけて(無理やり作ったとも言う)メリーオーケストラの歴史を動画で綴っていました。

2002年1月に地元の子供たちにオーケストラの楽しさを体感するために立ち上げたメリーオーケストラです。第1回の定期演奏会では「子供のための」が付いたメリーオーケストラでした。どの時の動画も含め、すべての演奏会で記録してきた動画、動画の撮れなかった回には音声だけをすべて探し出しました。

今日まで19年、何があってもやり続づけてきました。
あ。前回の第38回定期演奏会はコロナ感染拡大防止のため、やむなく延期しましたが、それ以外は本当に色々なことがあっても続けています。
世界に多くのアマチュアオーケストラがあり、その中には子供だけで演奏する「ジュニアオーケストラ」もあります。また、短期的に子供の演奏を交えた演奏会も見かけます。が…。

子供も大人も、アマチュアもプロも一緒に「楽しめるオーケストラ」が一体どのくらいあるでしょうか。
演奏者に限らず聴く人にとっても、オーケストラの演奏会に言ったことのある人の方が少ないはずです。
オーケストラが最高だとは思いません。すべてのジャンルの音楽が、すべての人にとって「なくてはならない存在」だと信じています。
その中でも一番大人数で楽器を演奏できるのが「オーケストラ」ならば、子供たちにこの活動が無意味であるはずがありません。人と触れ合い、大人と一緒に練習し、本番で大きな拍手を受ける。終わったとにお菓子を食べられる(笑)
こんな素敵な音楽活動を支えられることは、人間としてとても誇らしいことです。
一流の演奏家を育てることも大切です。
私の活動は「一般の演奏家」を育てて増やしていくことです。
20年経っても、技術は大して向上していません。私はそれで満足です。
その時々の演奏会で、感動があれば十分です。

オーケストラのホームページにすべての演奏会のポスターと、記録した映像を載せました。お時間のある時にお楽しみください。
http://www.nomuken.net/merry/

これからもNPO法人メリーオーケストラは
音楽のすそ野を広げていきます。
メリーオーケストラ理事長 野村謙介

ケーブルテレビの取材

久しぶりの投稿です。皆様、お元気でしょうか?
今日、2021年3月22日に神奈川県の緊急事態宣言は解除になりました。
が!感染者は増える一方。ワクチンは未だに届かず。
いずれまた感染爆発で私たちの生活は委縮することになるんでしょう。
そもそもが、緊急事態宣言の期間中、政治は私たちに何もしてくれていないのですから、解除になったからと喜ぶ気にもなりません。

この映像は、今年一月に代々木上原のムジカーザで開催した、私(野村謙介)と妻の浩子によるデュオリサイタル13の時のものです。
むさしのみたか市民テレビという、ケーブルテレビ局が当日取材に来られ、インタビューも含めた番組になっています。
テレビ局のカメラ、「そこまで寄る?」と思わず突っ込みたくなります。

インタビューでは、私たち二人の「楽器との出会い」「お互いに尊敬している点」「将来の希望」本当は、もう一つありまして、カットされていますが、「今まで苦しかったこと」。私たちは二人とも、「不幸自慢」が何よりも嫌いな夫婦(笑)なんです。自分の境遇を人と比べることや、持病をまるで「勲章」のように話すことが大っ嫌いなのです。
「自分は他人より不幸だ」と思うことに嫌悪感を持っています。
それが普通の方は、それで構いません。私たちの価値観なのです。
そんなお答えをインタビューでしたので、編集者がカットしたのかと思います。ありがたい(笑)

話は変わって、発表会。4月29日に実施します。
いつもの会場「もみじホール」です。入場制限は行わない予定です。
一人でも多くの生徒さんに日ごろの練習成果を発表しあって、これからの目標を見つける機会にしてもらいたいと思っています。
私たちも、生徒さんに負けじと(笑)新しいレパートリーに挑戦します。
ぜひ!会場でお楽しみください。
皆様のご健康をお祈りしています。
メリーミュージック 野村謙介

卒業シーズン

皆様。いかがお過ごしでしょうか。
世は「コロナ」一色ですね。
1月末のこの時期は入学試験と卒業試験真っ盛り。
私が中学・高校・大学時代にも大きな違いはありませんでした。
入学試験に合格して音楽の学校に入学できれば、定期的な実技試験が待っています。
その試験が終わって卒業の前に「卒業試験」が待ち構えています。
高校3年間、大学4年間に自分が身に着けた技術をすべて出し切るのが卒業試験です。
私自身、高校入学時に「びりっけつ」でスタートしました。
3年後の試験で弾く曲を選ぶ際に、同門で1学年先輩の小森谷巧先輩が前年に弾いた
「ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲」を身の程知らずで決めました。
それまで「できない」と思い込んでいた自分に区切りをつけた試験でした。
伴奏は前年小森谷先輩の伴奏をしていた、ピアニスト清水和音くん。
高校の同期生で私はB組、彼はA組。もちろん彼は高校入学当時から全国でも屈指のピアニストでした。
試験が終わり、和音くんが他の友人に「のむら、すげぇうまくなったよ。おどろいた」
何よりも自信につながる言葉でした。
卒業試験の成績でそれぞれの専攻楽器の上位者だけが出演できる「卒業演奏会」に
あとほんの0.いくつの差で出られたところまで学内での評価が上がっていたことを後で知りました。
初めて「くやしい」と感じたのがこの時でした。
大学に進み、4年目。卒業試験に選んだのは「ドボルザークのヴァイオリン協奏曲」
記憶にないのが悔しいのですが、はて?伴奏は誰にお願いしたのかな?
試験を前にして気負いは全然ありませんでした。同学年には優秀なヴァイオリン専攻の学生がいましたから。
結果を聞いたのは…
自分の恩師(久保田良作先生)から、「卒業判定会議」の直後。
「のむらくん!だめじゃない!卒業できなかったんだよ!」
…おろおろ(私)…
「のむらくん!卒演(卒業演奏会)に選ばれていたんだよ!」
…そこですか(苦笑…)
卒業できず留年したのは「音楽理論の2単位未修得」というお粗末さ。
4年次に卒業に必要な単位の計算をしていたのに、途中で「この授業単位いらない」
勝手に勘違いして放棄していたという…とほほほ(涙)
卒業できなければ卒業演奏会に出られるはずもなく。
幻の「卒演」となりました。翌年、もう実技試験はありません。当然!
卒演にでる権利なし(笑)
大学5年生になったことで、プロのオーケストラに入る予定もキャンセル。
卒業後、大学事務室前に貼ってあった「教員公募」を事務室の職員だった
鈴木さんと松本さんに教えてもらい、学生ホールの公衆電話から問い合わせの電話。
申し込み条件の「新卒・または35歳以上」には当たらないけれど、履歴書だけ送ってくださいとの返答。
だめだな、こりゃ(笑)と鈴木さん松本さん、そして自分(爆笑)
そもそも「神〇川大学って国立じゃん?」←私
「バーカ!私立だよ!」と爆笑するお二人。
その程度の勢いでしたが、結果
採用
冗談かと思いました。
で。2~3年で辞めるつもりで始めた仕事ですが
20年続け「ざるを得ない」状況になりました(涙)
おかげで一軒家を立てられる収入がありましたが、
精神を病みました。
そんな若かりし頃の思い出が未だに鮮明に残っています。
今まさに卒業試験を迎える皆さんに。

やれるだけのことをやれるのは今!
素敵な音楽家に育ってほしいと願う還暦爺なのでした。
メリーミュージック 代表 野村謙介

リサイタル終了

私と浩子先生のデュオリサイタルが終了しました。
昨年12月に地元相模原のもみじホールで
年明けに代々木上原ムジカーザで。
コロナウイルス感染拡大の中で多くのお客様が来てくださいました。
ムジカーザでの演奏風景です。
前半が

後半の映像がこちら

つたないライブ演奏ですが、お楽しみください。

愛すべき曲たち

皆様、いかがお過ごしでしょうか?
強盗(GoTo)キャンペーンでコロナ感染が拡大する今日この頃です。
感染していても無症状であれば、本人も気づきません。家族を含め他人に感染を広げていてもその意識さえ持てません。人によっては症状がひどくなり、時には死に至ります。必要な補償を国が行うのは極めて当たり前です。だって、私たちはそのために税金を納めているんですから。
今必要なのは「自粛するお金」ですよね。

さてさて、本題に戻ります。今回で13回目になるリサイタル。
プログラムは変更するかもしれませんが、私たち夫婦の好きな曲を選んで演奏します。
前半はクライスラーのプレリュードとアレグロで開演する予定です。
子供達でも演奏できる曲ですが、個人的に思い出があります。
高校生の頃、親友だったチェロのK君のご実家(札幌)に泊めてもらったことがあります。たわいのない会話にお腹が痛くなるほど笑い、お父様が料理してくれたホタテを堪能したり、二人で「汽車」に乗って登別の温泉巡りをしたり…。もちろん、楽器を持っていきましたので、二人で漫才のような伴奏ごっこ(笑)をして遊びました。その中に…
「ミシミシ」と名付けたこの曲がありました。何よりもピアノの伴奏が!カッチョイイ!素直に感じ、K君がピアノを弾いて「プレリュード」の部分だけ弾いて楽しみました。次のページの「まっくろな楽譜」を読もうともせずに。それがこの曲との出会いです。
リサイタルで以前に演奏した時が、実はその時以来初めてでした。
まっくろの暗号を読み解いて、クライスラーの演奏技術を想像もしました。
今回、そのミシミシを一音ずつ洗い直し、すべての音符にこだわりを持ちました。おそらく弾ける方から見ると「そんな指使いアホ」と思われるかもしれません。ただ、多くの方が演奏するこの曲を聴くと、なぜか違和感があったのも事実です。

2曲目、ドボルザークのスラブ舞曲第2番。これもクライスラーのアレンジによるものをベースにしながら、オーケストラで演奏するリズムを参考にしました。
過去に何回かオーケストラを指揮してこの曲を楽しみました。
大好きな曲です。これまた、たくさんの演奏動画や録音を聴きました。
重音の嵐。基本的に「なんでもかんでも重音にすりゃいい」曲は嫌いです。むしろ、単音で歌い上げる方がヴァイオリンの音色の美しさを感じられるとも思います。その思いは「コンプレックス」から生まれることでもあります。今回、自分の課題にチャレンジする内に、何かが変わってきました。そこだけ成長した?(笑)

後半は日本の歌をオリジナルアレンジでお楽しみいただきながら、ジャズのナンバーも織り交ぜて演奏します。
「歌もの」と呼んでいるのですが、原曲が歌の音楽をヴァイオリン、ヴィオラで演奏するのは思いのほか難しいもの。
引きずりまくるポルタメント←きらい!
弦楽器なんだからと開き直った速すぎるヴィヴラート←大っ嫌い!
弦楽器で歌うことの意味を深く深く考えてピアノと一体になる感動。
特に日本の歌曲は日本人にしか感じられない情景と心情があります。
それぞれの人の中にある「ふるさと」や「ゆうやけ」の心象風景。
世代を超えて、日本の美しい旋律を楽しんでもらえたらと思っています。

そして!ピアソラのグラン・タンゴ。
ロストロポーヴィチに献呈された曲。多くのチェリストが演奏しています。実はヴィオラの楽譜もピアソラが書いたそうです。
浩子姫から「この曲」と言われ、見せられた楽譜。
8ページ。暗譜…しました。A3用紙を横向きにして、横幅いっぱいに拡大コピーすると一枚のA3用紙に3段か4段がプリントできます。
それを一枚ずつ暗譜していきます。というか、それでも楽器を持ちながらでは見えないので、1小節ずつ覚えました。覚えた後で、指使い、ボーイングを新たに覚えます。少ない脳みそは悲鳴を上げましたが、騙しだまし覚えました。
とにかく、素敵な曲です。ヴァイオリンで弾けますが、ヴィオラ特有の音色がはまります。

この他にもこだわりの曲たちを愛でます。
ぜひぜひ、会場でお楽しみください!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を練る

皆様。お元気ですか?すっかり秋ですね。
今回のテーマはすべての演奏家に共通の話題かな?
音楽を演奏する時に、誰しもが突き当たる壁でもあります。
楽譜という台本が与えられ、それを演ずる役者が演奏家です。
多くの楽譜は既に誰かが演奏し、さらにその多くはCDや映像として、聞いたり見たりすることができる時代です。
録音技術が無かった頃は、簡単に演奏を聴くことも出来ませんでした。
時代の変化とともに、演奏家の練習も変わって来たんですね。


一つの楽譜でも、演奏家によってみんな演奏は違います。当たり前です。
役者が変われば演技が変わるのと同じです。
好きな演奏は10人いれば10人とも違って不思議ではありません。
素材である楽譜が同じでも演奏家によって好き嫌いが分かれます。
同じ素材でラーメンを作っても料理人が違えば違う味になるのと同じこと。
好みは演奏家自身にもあります。自分がこれから練習しようとする曲の演奏を、色々聞いていくことはとても大切な「準備」になります。
またラーメンの話でいえば(最近、地元橋本
近くのラーメン屋さんにはまっているので…)、店主が自分の好きな味を探して日本中のラーメン屋さんを食べ歩く話は良く聞きます。数ある有名無名のラーメン屋の中で、自分が好きな味や食感を探し、自分で作って試してはやり直す。
映画「タンポポ」でもそんなテーマがありました。

演奏家によって、練習方法は千差万別です。音楽の組み立て方、考え方、取り組み方、練習の仕方など、すべてが「オリジナル」なのです。
出来上がる音楽も当然「オリジナル」になります。それを個性とか音楽性とか言う言葉で表されます。極端に奇をてらい、単純に人と違うことをしようとするのは個性とは言いません。単に奇抜なだけです。逆に、奇抜に聞こえても演奏家が考え抜いて、試行錯誤を重ねたどり着いた「オリジナル」との区別は聴く側には判断しがたいものです。本当に演奏家がその解釈(曲づくり)に自信があるなら、誰の指摘も当たらないかも知れませんんが、嫌いな人が多すぎれば仕事にはなりません。ラーメンにうどんとお蕎麦を一緒に混ぜて「これが私の究極のラーメンだ」と言われてもねぇ。

何回でも試してはやり直し、また新しい方法を探して、時には前の方法を試し。時々、他人の演奏を聴いて、なるほどと膝を叩きたくなることもあります。以前は好きではなかった演奏が、急に好きになったりもします。
自分の味を探し、たどり着くラーメン(しつこい)
他人の評価を気にする前に、自分が納得できる音楽であることが必要です。それがなければ、ただの「音の羅列」でしかありません。
作曲家の意図を思い、聴衆の立場に立ち、可能な限りの方法を試す。
それ以外に自分の音楽を作る方法はないと思います。

リサイタルに向けて、自分の筋力を少なめに設定したうえで、無理のない弾き方を模索し、人の演奏に耳を傾け、自分の感性と照らし合わせ、できる範囲で挑戦する。
こんな楽しい実験はありません。
自分が楽しめる演奏になるまで、頑張りましょう!
って誰に言ってるんだろう(笑)失礼しました!
メリーミュージック 野村謙介

私たちのリサイタル

皆様。お元気ですか?
私達夫婦のデュオリサイタルにまだ、ご来場いただいていない方々にご紹介です。

多くのクラシックコンサートでは、当たり前の光景があります。
静まり返った客席で、演奏をひたすら聞き続ける。
曲を知っている人は満足そうで、知らない自分はどことなく恥ずかしい。
1曲が長く、演奏が終わったのか?続きがあるのか?良くわからない。
演奏が終わるとステージから消える演奏者との距離感。
途中で帰りたくなるような気分。
途中で寝ると周りから変な目で見られる。
こんな経験、ありませんか?

演奏の技術が素晴らしいコンサートでも、聴くのは普通の人です。
プロの演奏家やクラシックマニアだけが楽しめるコンサートに、
間違って行ってしまえば「苦痛の時間」になります。
もちろん、マニアの方にとって「好きな人だけくればいい」のがクラシックコンサートなんでしょうね。

私と浩子のリサイタルは、クラシックのコンサートに行ったことのないお客様でも、楽しみを共有できる時間を優先しています。
演奏を楽しんでいただくために、演奏者を知ってもらうことが第一だと思います。演奏者とお客様が近い関係になれることを目指しています。
初めて来られた方にも楽しんでいただける雰囲気とプログラムを考えています。
「演奏だけでいい」おいう方には申し訳ありません。
私たちのリサイタルは、普段着のコンサートです。
気楽に音楽をお楽しみいただける空間を創ります。ぜひ、ご来場ください。

メリーミュージック 野村謙介・野村浩子

暗譜?楽譜見えなくても?

皆様、いかがお過ごしですか?
今年も冬の恒例行事「デュオリサイタル」のシーズンが到来しました。
今回で13回目になります。何が変わって、何が変わらないのかな?

楽譜を見ながら演奏できなくなった事が一番変わったことの一つ。
そこで、今日は私自身の「音楽の覚え方」について。

タイトルに書いたように楽譜を見ずに演奏することを一般的に「暗譜」とし言いますね。私は40歳ごろまで、視力が矯正すれば片目で0.4か0.5ありました。自動車の運転免許も辛うじて更新できていました。
楽譜を見て演奏することも出来てました。学生時代、オーケストラで初見演奏することも出来たので、プロオーケストラでエキストラのお仕事もさせてもらっていました。言い換えれば、その位の視力がありました。

13年前の第一回リサイタル当時、楽譜を見ながら演奏しました。
暗譜もしていましたが「保険」として譜面台を立てていました。
その後、次第に網膜色素変性症が進行し、視力も下がりました。運転免許の更新も諦めました。その頃から楽譜を覚えて演奏する「暗譜」で演奏する事になりました。楽譜を読みながらヴァイオリンを弾いて、楽譜を覚えて演奏することが「暗譜」です。

生まれつき全盲の演奏家がたくさんおられます。私にとって、その方たちの「音楽の覚え方」は想像でしかありません。ある方は点字楽譜という「楽譜」を覚えて演奏されているのだと思います。指で点字楽譜を読み取っては楽器を弾いて覚え、また指で…の繰り返しなんでしょうね。すごいことだと思います。演奏だけ聞けば、その方が全盲であることなど微塵も感じさせない演奏をされていることも驚愕の一言に尽きます。

今、私が演奏会に向けて練習する時の「音楽の覚え方」ですが、
音楽を聴いて覚えきれないような複雑な曲の場合には、楽譜の数小節を拡大し、その部分だけを覚えていく方法で「暗譜」します。コピーの拡大機能を使う場合には、1曲の楽譜がA3用紙で20枚とかになることもあります。
自分が演奏している音が楽譜のどのあたりにある音なのか、覚えることはありません。昔はそれも記憶の中にありました。

この頃は、演奏したい曲の「音のられつ」を記憶しているようです。
一音ずつ、音に係わる情報を覚えていきます。
・音の高さと音名・音色と強弱・弦の種類やポジション・弓の場所など。
その情報を覚えながら無意識でもそれが連続するまで繰り返します。ある意味「無理やり覚える」方法でもあります。厳密にいえば「暗譜」ではないですね。

先ほど書いた全盲の方の音楽の覚え方とも違うのかもしれません。点字も知らないので。一番、効率の悪い覚え方かもしれません。
何よりこの病気は、人によって病気の進行速度も程度も違います。
そのことが私たちは不安を与えます。見えなくなる日が来る不安。生活できなくなる不安。今できていることが、だんだんできなくなる不安は、以前出来ていたことが出来なくなった「絶望感」にもつながります。
全盲の方に比べても何の意味もないのですが、次第に見えなくなる不安は、それなりに大きなものです。

音楽を強引に覚える作業をするのは、自分の不安との戦いでもあります。
イラついたことも正直にあります。たかが!たかがこんな短い旋律が覚えられない。間違える。楽譜が見えれば、こんな曲なんでもないのに!
そのストレスを超えなければ新しい曲は弾けません。いつか、楽譜をまったく読めなくなる日が来たら?点字楽譜を習って覚えるのかな?それもありですよね。

私は、「覚えられる範囲の曲だけ弾こう!」とわがままに思っています。点字を読めなくても、聴音と暗譜の技術を使えば頭の中に楽譜を思い描けます。学生時代、大嫌いだった聴音です(笑)が、やっていて本当に良かったと本心で思います。耳コピが楽譜を頭に作れれば、演奏できるはずです。


楽譜を覚えるのが暗譜ですから、音の情報を丸暗記するのは?
あんおん?
アンマンみたいでダメか。
今回のリサイタルで、演奏する曲たちもこうやって覚えた音楽たちです。
もし、ご興味があって「しょうがないから行ってやろう」という、心優しい方(笑)がおられましたが、ぜひ!12/20(日)相模原のもみじホール(城山文化センター)か来年1/9(土)代々木上原ムジカーザに足を運んでいただけたら本当にうれしいです!
心優しい方へのご案内ページはこちら
http://www.merry649.com/duo/
をご覧ください。皆様のご来場を心からお待ちしております。
ヴァイオリニスト 野村謙介


緊張の中の演奏は…

皆様。いかがお過ごしでしょうか?
秋の気配が深まるこの頃です。
先日、出演者とご家族、スタッフだけで発表会を実施しました。
14組の演奏に私と浩子先生も1曲演奏。微笑ましく、感動的な時間でした。
発表会を「不特定多数の人に演奏を聴かせる場」だから「しょばだいはらえ」と言ってくる、やくざまがいの組織がありますね。ひどい話です。
発表会は自分の演奏を発表する場ですが、それは不特定多数の人に聞いてもらう音楽会とは全く意味が違います。そんなことさえわからないのは、知能が低い組織なんでしょうね(笑)

そもそもアマチュアに限らず、音楽を演奏することは人間の自由な行為です。例えば家の中で一人、好きな楽器で好きな曲を弾いていたら、誰にも気兼ねなく、遠慮することもなく、当然誰からも「ちょさくけんがぁ!」と吠えられることもないですよね。それでも「外に音が漏れているかもしれなから「ちょさくけんがぁ!」爆笑です。そもそもこの「しょばだい」が著作権所有者に支払われていない事実。「一部払っている!}とか吠えてます。あほ!(笑)一部に払うなら、一部から取れ!!詐欺集団

さてさて、話を戻します。
緊張感の中で演奏することは、演奏を上達させるだけではありません。様々な場面、音楽とは無関係な生活にも影響すると思います。
緊張すれば思うように弾けないのが普通のことです。身体の筋肉が無意識に硬直し縮こまります。頭の中では冷静に感じていても、身体が思う通りに動かない!それこそが緊張です。

人間に限らず、わんこやにゃんこも緊張しますよね。知らない場所に初めて行ったとき、知らない人に近寄られたとき。
我が家の姫、ぷりん(女の子にゃんこ=トンキニーズ5歳)の例でいえば、
生徒さんが毎日のように自宅に来られるので、人が来ても緊張しないようになりました。自分に危害を加えない生き物なんだと学習したんですね。
そんなぷりんですが、いまだに地面(家の外の)を踏んだことがありません(笑)
今まで万度も、スリング(袋のような抱っこできるケージ)でお散歩に出かけましたが、そのたびに緊張しまくりです(爆笑)怖いんでしょうね。一緒に私たち夫婦がいることはわかっていても。

緊張しないようになるための唯一の方法は「学ぶこと」です。
ぷりんが学んだように、経験から学ぶしかありません。いくら暗示をかけても多少は緊張はします。
学び始めのころは、緊張したあとに「挫折感」「後悔」しか感じないものです。「二度とやらない」と思うこともあります。
それでもその緊張感の中で自分が演奏した録音や映像を何度も何度も見ることが絶対に必要です。それ自体が「学び」なのです。

音楽に限ったことでいえば、プロの中でも「ソリスト」と称される方々の演奏と、それ以外の演奏者の演奏は何か違います。一番の違いは「一人で演奏する場数の違い」とも言えます。もちろん、ソリストの練習や努力が人一番、人10倍であることは間違いありませんが。
緊張感の中で自分の思った通りの演奏ができるように、少しずつ成長していくものだと思います。生まれつきの天才演奏家なんて、過去にもこれから先も現れないと思っています。学習の成果の違いです。
緊張してうまく演奏できなかったから、二度と緊張したくないと思うのなら、それはそれで趣味の世界であり!です。
でも!上手くなりたいのなら緊張しながら演奏することに慣れるべきです。緊張するのは当たり前。緊張したら失敗するのも当たり前。その失敗を思い起こし研究し、繰り返し練習してリベンジすることの繰り返しこそが、上達の秘訣だと信じでいます。

な~んて偉そうなことを、ソリストでもない私が書いて説得力が1ミリもないのは承知の上ですが、自分がうまくなりたい気持ちだけは持っているので、皆さんと共有できればと思い、書きました。お許しください。

メリーミュージック 野村謙介

自己暗示のススメ

皆様、お元気でしょうか。野村謙介です。
教室では発表会の追い込みレッスンが続いています。
多くの生徒さんが自分の出来なかった新しいことに挑戦しています。素晴らしいことです。子供も大人もみんな立派な演奏家です。

さて、話は「自己暗示」という、ちょっと難しそうなタイトルですが(笑)
要するに「どうすれば弾けるようになるのか?」という壁にぶつかったり、もうすぐ舞台!あぁぁぁ!(笑)そんな時に役立つ方法です

「弾けない」「うまくならない」「やってもどうせ失敗する」
そんな気持ちになった経験は誰にも思い当たるはずです。私はありました。いわゆる「コンプレックス」も加わって頭の中がグルグル回る。
一体、誰と自分を比べているのかさえ考えられなくなります。比べる必要のないのに無意識に優劣を考えたり、自分自身の中でも成長していないと思いつめたり。ありませんか?

私が高校生の頃に初めて覚えた「自己暗示」という言葉ですが、アスリートたちがインタビューに答えている言葉の中にも、同じ意味のことを話していました。会場中の目が自分に向いている。失敗したら…。プレッシャーに押しつぶされそうになり、練習してきたことすら自信に思えない。
私が最初に覚えた自己暗示訓練法は「手のひらが温かい」「手のひらが温かい」「腕が重たい」「腕が重たい」「額が涼しい」「額が涼しい」これを実際に口に出して実際に手のひらが温かくなるイメージをできるだけ強く何度も何度もイメージします。何日か繰り返すうちに、本当に温かくなった「気がした」と思っていたら実際に温かった!
この実験は科学的にも実証されています。サーモグラフィで調べたら温度が高くなっています。

たただ手のひらが温かくなるだけ?それだけ?
このトレーニングをするうちに、自分の体を自分の意志でコントロールできることを「確信」します。これも自己暗示の一つです。
練習で落ち込みそうになった時、自分は下手じゃない。うまくなってきた。必ず弾けるようになる。それを自分に言い聞かせます。イメージを持つことが現実に繋がることを「手のひら」で体験していますから。

ぽジティブな考え方を出来る人とネガティブな考ええの人がいます。
おそらくどちらの人も、無意識に自己暗示にかかっています。
前者(ぽジティブ)の人は、「なんとかなる」「きっとうまくいく」という暗示を自分にかけています。後者(ネガティブ)はその真逆の自己暗示「できない」「きっと失敗する」と無意識に暗示にかかっています。
あなたはどちらですか?

性格だからと思い込んだり、どうせ気休めだからと思うより、まずは自分の無意識な思考を意識することから始めませんか?
無意識を意識するって無理?いいえ!できます!少なくても「無理だ」と思い込んでいる自分に「なんで無理って決めるの?」と問いかけてみてください。あきらめずに考えていると、ただ何となく無理なような気がするだけで、それ自体が無意識に決めていたことに気付くはずです。

大人の趣味「楽器の演奏」には、そもそも「無理」なんてありません。
比較する必要もありません。自分が好きなように弾けばいいだけです。
そして何より自分自身の演奏に耳を傾けて、いい音が出ていることを楽しみ、上手に弾いている気分になることです。なりきりましょう。
あなたにしかできない演奏です。失敗することより、上手くいくことをイメージしましょう。自己暗示は誰にでもできる最高の上達方法です。

メリーミュージック
野村謙介

おかげさまで60歳

皆様、いかがお過ごしでしょうか?秋の虫たちが美しい歌声を聞かせてくれています。

2020年9月30日、今日は水曜日。
私、野村謙介は60回目の誕生日を無事に迎えることができました。
皆様のおかげです。ありがとうございます。
私を産んでくれた母が亡くなってからまだ3か月しか経っていないことが不思議な気持ちです。頑固で偏屈だった父が亡くなってちょうど3年経ちました。

学生のころ、薄暗い場所で何も見えない自分が将来、大人になっても生活できない。仕事なんてできない。大人になりたくないと思っていました。周りにいある他の人と自分の「できることの違い」がものすごく大きく感じていました。
中学、高校と成長して両親とも毎日のように喧嘩をしました。兄とも話をするのも嫌でした。ひどい反抗期でした。
大学生になって自分のできることに、ほんの少しだけ広がりを感じました。同時に生きることへの不安は薄らぎました。友人との遊び、練習、何より大学生活を「お祭り男」として過ごしました。年に一度の文化祭に異常な情熱を感じていました。(笑)
大学卒業の延期…簡単に言えば「留年」で私の人生は大きく変わったのかもしれません。ヴァイオリンを弾いて生活する「卒業後」の予定が、中学・高校の教壇に立つことになろうとは。
大学4年の卒業試験で自分の演奏を初めて高く評価されたことを、師匠から留年と同時に激怒されながら教えられるという貴重な経験もしました。

教員になったのが25歳、長女が生まれたのが30歳。2~3年働いたらやめるつもりだった教員生活なのに、生活のためにやめられない状況になっていました。ヴァイオリンはケースを開ける時間も気力もなく、うっぷんを晴らすようにオーケストラを指導することに没頭しました。年収は高かったですね。公立中学・高校の先生方とは比較にならない高給でした。その分、ストレスも半端なく(笑)命がけの19年と8か月。
やっと学校を辞められると思っていたら、いきなり本当の地獄に落とされました。自分の音楽教室を経営し朝から夜まで休みなしで働きながら、抗うつ薬の影響で、立ちながら意識のない状態でレッスンを続けていました。そこから約3年をかけて、完全にうつ病を克服しました。

浩子との演奏活動再開が、第二の人生をスタートさせました。
高校時代のマドンナ、大学時代の憧れの片思い相手(笑)。
生きること、楽しむこと、演奏すること、人と接すること…
すべてが今までは大きく変わりました。
両親も喜んでいました。もとより父はその時もまだ「うつ病」でしたが。
両親が有料介護施設で暮らすようになり、兄との関係もいつの間にか「仲良し兄弟」に変わっていました。

これから先の人生が、今までの時間よりも短いことだけは間違いありません。「老後」とか「余生」とか考えたくもないのは、私が「死ぬことへの恐怖」が弱いからかもしれません。もちろん、一日でも今と同じように暮らしていたいと思います。それでも、もしかしたら自分の目が見えなくなる日が来るかもしれません。その日がいつなのか、誰も知りません。こないのかも知れません。考えても無意味だし、心配しても無意味なんです。だからきっと、昔の自分と違って少しはポジティブになったんなと思います。
今は、浩子とぷりんというふたりの姫のお陰で毎日を楽しませてもらっています。たまに、ぷりんに噛まれますけどww
今日この日を迎えられたのは、自分の力だとは思っていません。家族や助けてくれた、たくさんの人たちの力です。一度、失いかけた命です。人は弱いものです。瞬間的に自死を考え行動してしまいます。「自分だけはそんなことはしない」と誰もが思います。違います。本当に怖いのは「発病の瞬間」です。病気になってから苦しんで、治る前に自死をする人もいます。それより恐ろしいのは、自分がうつ病になったことを感じる前に襲う「絶望感」「死にたい」という衝動的な気持ちです。本当に突然、襲ってきます。
自死をする人を「特別な人」扱いするのは間違いです。誰にでもその可能性はあるのです。

あれ?話がそれまくった(笑)ごめんなさいww
とにかく!これからも皆さんのお力をお借りして、一日でも楽しく生きていこうと思っています。末永くお付き合いください!
よろしくお願いいたします!
野村謙介


演奏家と指導者

回のテーマも私の私見ですのでお許しください

職業として音楽を演奏する人を「演奏家」と定義してお話します。もちろん、趣味で音楽を演奏する人も「アマチュア演奏家」ですから演奏家の仲間ですね。世界中にたくさんの演奏家(職業演奏家)がいますが、その多くの方は指導者によって育てられた経験を持ています。完全に独学だけで演奏家になった人もいらっしゃることは知っていますが。ある人は幼少期からプロになるまで一人の指導者に師事し、ある人は複数の指導者に習いながらプロになります。どちらが良いとは言えません。それぞれに理由があってのことですから。

素晴らしい演奏家が素晴らしい指導者とは限りません。その逆も言えます。また、どちらの面でも素晴らしい方もいらっしゃいます。

問題は多くの方々が「演奏家の方がすごい・かっこいい」とか「音楽家として指導者は当たらない」という誤った発想です。

私は素晴らしい指導者の先生方に恵まれて育ちました。初めてヴァイオリンを手にした時に手取り足取り(足はとられてない)教えてくださった師匠。その後も、通っていた公立中学校で音楽のたのしさを教えてくださった音楽の先生、聴音とソルフェージュ・楽典を短期間で桐朋合格までたたき上げてくださった先生。ヴァイオリンの厳しさと基本の大切さを教えてくださった久保田由美子先生。不出来の弟子を最後まで優しく支えてくださった久保田良作先生。本当に素晴らしい指導者の方々に巡り合えたのは奇跡だと思います。

演奏家になりたいと思う気持ちは音楽を学ぶ者にとって共通の「夢」かも知れません。最初から指導者になろうと思う人は少ないのが普通です。だからというのではありませんが、演奏家>指導者という妙な不等式が「なんとなく」認められてしまっています。大間違いです。大嘘です。指導者が優れているから未来の演奏家が生まれます。演奏家は自分をし立ててくれた師匠は尊敬するのに、自分は指導者は目指しません。教え子にも目指させません。なぜでしょうね。やっぱり指導者は演奏家より「下手な人がなる」と思い込んでいるんでしょうか。はっきりいって「あほ!」と言ってあげたいです。

私の母校である桐朋学園大学に限ったことではないようですが、多くの指導者(先生)が母校ではない学校で教鞭をとられています。その先生を悪く言うのは間違いです。私は、学校経営者がおかしいと思います。音楽の学校は演奏家・音楽家を育てる学校です。その指導者はその学校の宝であり、なによりも学生にとって師匠なのです。その先生を大切に思う経営者なら間違いなく母校出身者を教授陣にするはずです。もちろん、人材がなければ例外もあると思います。

一方で私が勤務した私立の普通科中学・高校では卒業生から教員を採用していましたが、恐ろしい一面があります。採用するのは学校法人であり人事権は理事会にあります。が現場の長である学校長の「好きな卒業生」を採用するのが、当たり前になっていました。能力より「校長に従順である人物」が採用されます。これ、学校として間違っています。

若い演奏家の方、そして今音楽を学んでいる方、なにより、子供たちに音楽を教えている先生方。どうか!指導者に尊敬と誇りを持ってください!演奏家を目指すのも夢なら、一人でも多くの演奏家と指導者を育て上げるのも大きな夢です。演奏家より指導者が重要な世界です。日が当たって目立つのは演奏家ですが、指導者の優劣こそが音楽の世界をはぐくむ大切な「音楽」であることを伝えたくて、生意気な文章を書きました。お許し下さい。

メリーミュージック代表 野村謙介

ヴァイオリンの悩み②

皆様。いかがお過ごしですか??さて、今回は「練習のモチベーション」です。

どんなに音楽が好きでも、毎日の生活はいつも同じではありません。だからこそ、好きな音楽の練習時間と気持ちを、いかに確保するのかが、とても大きな課題になります。

もしも、あなたが音楽家を目指す人なら「そんなことを考えてないで練習しなさい!」と言い切ります(笑)でも、普通の方は「趣味」の音楽ですよね。趣味だからこそ!難しい問題なんです。

日々レッスンをしていて生徒さんの練習内容はすぐにわかるものです。今週は練習できなかったんですと、わざわざ言わなくても(笑)私たちは生徒さんの練習してきたものをチェックして、さらに次の課題を考えています。その「日々の練習」こそが、上達のポイントになります。決してレッスンで上手になるわけではありません。

さて、練習のモチベーションを維持するためにというお話

あなたが練習する本人なら、環境に左右されない方法。「なりきり練習法」をお勧めします。つまり、自分の演奏に自信を持つことです。モチベーションが下がる原因は自身の喪失から始まります。「やってもうまくならない」「どうせ下手なんだから」思い込んでしまったら、そりゃ~(笑)厳しいですよ。

もっと具体的に。まずは形から!構え方と左手・右t毛の形、演奏の仕方。あなたのあこがれる演奏家の「ものまね」をしてみることです。鏡を見たり、勝手に想像したり。子供のころ、男の子なら憧れのスーパーヒーローやスポーツ選手のマネをしてみたり、女の子なら…昔ならピンクレディーになり切ったり、憧れのアイドルの髪形をこっそり(笑)マネしてみたり、しませんでしたか?sれです。まずは、形から!

もしも、あなたのお子さんがなかなかやる気をだしてくれないなら。答えは簡単。常にほめまくること。つい、自分の子供に「だけ」厳しく当たってしまうのが親というものです。その感情をどこまで抑えられるかという親の覚悟が必要です。子供は初めは「ばよりんがひきたい!」ですから。でも、どんな子供でもぜっっっっっっっっっったいに!飽きると思ってください。多くのお子さんが初めてすぐにレッスンをやめてしまいます。「こどもがやりたがらなくなったので」とか「むいていないから」とか。いろいろな理由を保護者の方からお聞きします。事情は察します。子供が飽きることは習い始めに必ずお伝えしています。それなのに…。親が子供をほめ続けることがどれほど大切なことか。逆のことばかりになりがち。いつもおこってばかり。子供がモチベーションが下がると子供のせいにするのが間違っています。ほめ続けてください。レッスンでどんなに厳しく注意されても、子供にとって一番ほめてほしいのは親なんです!練習するたびに「上手になったね~。昨日よりうまくなってるよ」たったその言葉だけでも、子供はうれしいものです。それが子供のモチベーションにつながります。

長々と書きましたが、褒める技術が良い指導者の技術です。いつも褒めては上達しません。普段は厳しくて当たり前。時々(笑)

みなさんが長く音楽を楽しみ続けられることを何よりも願っています。

メリーミュージック代表 野村謙介

発表会について

リーミュージック生徒の皆様、野村です。突然の雷雨で外出がますます難しいこの頃ですね。

さて、第27回小さな音楽会を来月、2020/10/11(日)にもみじホールで開催いたします。

前回26回の発表会は、ネット発表会の形でしたが、今回は感染予防対策を可能な限りとりながら
いつものように会場で演奏を発表しあう音楽会にします。
感染予防の対策として…

インストール済みプラグイン

・入場者(客席に入れる方)を関係者に限定します。(一般の方は入場できません)
 出演者のご家族に限定し、受付などを設けずに実施します。
・出演者が着替えで使用していた楽屋(控室)は使用せず、普段着で演奏していただきます。
・出演者同志の席を近づけず、客席から舞台に上がるようにしますので、一人ずつの演奏の間隔を長くとります。
・約1時間に1度、15分程度の換気時間を設けます。
・伴奏の先生方やスタッフも可能な限り、舞台袖を使わずに進行します。

伴奏合わせは、10月3日(土曜日)と10月10日(土曜日)の午前10時から午後3時までの間に行います。
以下のフォームからお申し込み

と、伴奏合わせの希望日時についてご連絡ください。
http://merry649.com/happyousanka.html

参加費は一人税込み11,000円。ご家族お二人目は半額の税込み5,500円です。
一人でも多くの方のご参加を心よりお待ちしております。

(有)メリーミュージック
〒252-0143
神奈川県相模原市緑区橋本2-3-3
Tel&Fax 042-771-5649
オフィシャルサイト http://www.merry649.com

ヴァイオリンの悩み(笑)シリーズ①

皆様。ご無事でしょうか?野村謙介です。
さて、妙なタイトルでスタートしたブログ(笑)
多くの生徒さんたちと日々レッスンで思うこと、
ヴァイオリンを練習していると感じる「素朴な疑問」
もちろん、練習しなきゃ!っていう気持ちはどこかに(その程度か!ww)
私も生徒さんも持っているのですが、実際に練習していて
「なんでかなぁ」と疑問に感じることって多いですよね。
そこで今回は「肩当」について
これ、以前にも書いた記憶もありますが(調べろ!ww)
肩当に関する疑問はとっtっても多くの生徒さん共通の「悩みの種」。

実は私も肩当には大昔から(弥生時代ごろ?)いろいろな肩当を試していました。
ご存知の方も多いと思いますが、肩当ってしなくても演奏できるし、
実際世界のソリストたちにも肩当を使わずに演奏している方、多いです。
「だってあの人たちは特別だし」
はい同感(笑)
いや、肩当ては「弾きやすくするための補助具」なんです。
その補助具に、いつの間にか自分が楽器の構え方を「合わせてしまっている」ことが多いんですね。
昔から多くのヴァイオリニストや指導者の方々が、楽器の構え方について、あるいは肩当の使い方や選び方について、本や動画で発表されています。
肩当に空気を入れて膨らませるタイプや、ウレタン素材のものなどから
各種本当にたくさんの肩当が手に入ります。
自分にあった肩当を探そうと、お店やレッスンで試してみても
どうも「これだっ!」って肩当に巡り合えないでしょ?
私なりの結論。

・肩当て「なし」で楽器を持って「弾こうとしてみる」
無理に弾かなくていいんです。
その時に、どこに空間(隙間)があって、何が不安定で、
左手や左肩、あごで「どうやって楽器を持とうとしているか」を
確かめるための実験です。
・体(左肩)と楽器の裏板との隙間を、鏡で見たり、右手を差し込んでみたり、実際に確かめます。
このとき、着ている服によって、すごく感じが変わります。
夏場でほとんと肌に直接楽器が触れる「薄着」の場合と、
厚手のセーターなど冬場の服装とでは、この「隙間」が大きく変わります。
要するに、肩当て「なし」で楽器と触れる自分の体の間隔を確かめることが大切です。

私は現在、ピラストロ社が出している穴あき肩当(笑)を使っています。
「これが一番」だとは決して思いません。が、今の私の構え方を
一番無理なく補助してくれる肩当だと思っています。
スタンダードな「KUN」の肩当てで、なにか不満や疑問を感じたら、
肩当をしないでもって見てから、もう一度肩当を付けてみると、向きや高さがあっていないことも可能性として大いにあります。
自分で自分の体をチェックするわけですから、他人の意見や参考にならないかも知れません。

迷ったら、原点に戻る!

試してみてください!

ヴァイオリニスト 野村謙介

感染者を悪者にする本当の悪者

皆様。ご無事でしょうか?
今日(2020/08/12)も新型コロナ感染は広まっています。
そんな中で「感染者」をまるで悪人扱いする人がいることに
人間として恥ずかしくないのかと心が痛くなります。
病気になった人を「悪い人」「弱い人」と思い込む人間は
はっきりいって「バカ」でしかありません。
病気になりたくてなる人はいません。
ならないようにしていても、なるのが病気です。
そんな小学生でもわかることさえ、理解できない人。
まるで自分が「世界を救うスーパーヒーロー」だと思い込む人。
「イソジン吉村」うがい薬でコロナウイルスに勝てる!
ほぼ「漫画」の世界です。それが首長?笑うしかありません。
マスコミまでが「感染者が悪い」「感染者が出た〇〇××が悪い」
みなさん。おかしいと思いませんか?
生活のためにお店、コンサートを開いたら感染者が出たとします。
それを責める権利なんて誰かにありますか?
お店を閉め、コンサートをやめたらだれがお金をくれるんですか?
休んでいても会社からお金をもらえる人ばかりですか?
他人の痛みのわからない人間は、私に言わせれば「外道」です。
お友達企業からの見返りがほしくて行う「感染拡大増大トラベル」
国民がやめて!と言って、知らん顔。
自治体が市民に支援をしても、国は「ガン無視」
私たちは他人に支えられて生きています。
そんなことさえわからない「外道」は許してはいけないと思います。
みんなで弱い人を守りましょう。
感染患者は「被害者」です!

ぷりん劇場第5幕




皆様。いかがお過ごしですか?
予想通りの感染拡大、そして無策の政府です。安倍内閣は全員辞めてほしいです。
さて、世の中連休なんですね。何の為にこんな真夏に4連休?
汚金ピック…あれ?なんだっけ(笑)

大企業と政治家のための金儲けイベントなんて、1ミリも興味のない私です。
スポーツ=オリンピック?関係ないですよ。

さて、昨日自宅で浩子先生と「ぷりん劇場第5幕」を撮影しました。
自分たちでカメラやマイクや機材をすべて設置。その前に、電子ピアノの移動も。
弾き始めたら途中でやめないのが「ライブ」なので、ビデオがちゃんと録画されているか?わかりません。
今回、ピアノ鍵盤をアップにしたカメラ(一眼レフカメラ)が途中で止まっていました(涙)
「あ~つかれた」とカメラの声が(笑)
今回は、初めて弾いた「悲しみのクラウン」から始まり、グラズノフの瞑想曲、ビオラに持ち替えて
エルガーの「夜の歌」、ビオラで弾いた「夕焼け小焼け」の4曲。約35分の動画です。
お楽しみください!

メリーオーケストラ活動再開

皆様、お元気でお過ごしでしょうか?
コロナウイルス感染拡大は止まりませんね。
そんな中で「強盗(GoTo)キャンペーン」なる人殺し政策(怒)
私達庶民に今、必要なのは「休業補償」です。違いますか?
感染しているかも知れないのに日本中を旅行したら、日本中に感染が広がるのって、
小学生でもわかることですよ!
旅行業者に責任を押し付ける政府。あり得ない!
自粛「要請」して補償もせず、従わなければ「罰則」って頭おかしいでしょ?

そんな無能な政権に振り回されながら、NPO法人メリーオーケストラは、
8/2の第38回定期演奏会は来年1月31日に延期しました。苦渋の選択でした。
7/11の公開練習から、2月の練習から5か月ぶりの練習を実施しました。
杜のホールと事前に何回も電話で打ち合わせを行い、可能な限りの感染予防策をして
当日約14名の会員と講師で休憩をはさみながら、午前・午後と練習しました。
定員200名ほどの多目的室、3か所の入り口ドアを解放しそれぞれに十分すぎるほどの間隔。

科学的な感染リスクを常に最新の情報で集めることが必要です。
必要以上に神経質になると精神的に問題が起こりますよね。
イギリスの研究者が発表した「抗体減少」のデータも今後どうなるのか?気になります。
ワクチンの開発はアメリカ・ドイツがしのぎを削っています。
PCR検査を「夜の街」を標的に行う東京都ですが、間違っています。
満員電車や満員バスに朝晩乗らざるを得ない私たちは?調べようとしません。
何故?JRへの「温情」ですかね。
劇場での感染はワイドショーの「ネタ」ですが、あまりニュースに流れない
「在日米兵感染」の事実は?彼らは日本の検査規制にさえ引っ掛かりません。

私達は「自衛」するしかないようです。政府も自治体も信用できません。
自分で情報を集めて判断するしかありません。

みなさまがこれからもご無事に暮らせることをお祈りしています。
メリーミュージック代表
野村謙介

ぷりん劇場(動画)のお知らせ

皆様、ご無事でお過ごしですか?

緊急事態宣言は解除されましたが、相変わらず自粛は続いています。

一体何のための「宣言」だったんですかね(笑)

さて、そんな中で私たちの命を守るために日夜、働いてくださっている

医療従事者の皆様、介護施設、福祉施設で働く皆様、物流を支える皆様、

コンビニやスーパーで働く皆様への感謝を込めて、私(謙介)と妻(浩子)で

「ぷりん劇場」つまりはふたりだけの自宅ライブを撮影し公開しています。

第一幕が



そのおまけ(笑)に演奏したピアソラの「グラン・タンゴ」が



ぷりん劇場第二幕は



です。どうぞお時間のある時にお楽しみください!

この後も「第三幕」を撮影する予定です。

皆様のご無事と、一日も早く治療薬とワクチンが広まることを願っています。



メリーミュージック代表

野村謙介

オンラインレッスンについて


生徒の皆さんが、発表会に向けて練習してきた成果を発表する機会をLコロナでなくすのは耐えられず

ネットでの発表会に挑戦しました。

各生徒さんが、自宅や教室レッスン時に録画した映像を編集しました。

自宅で撮影された映像を送っていただき、私と浩子先生のパソコンに保存。
その映像を見て、音を聴きながら伴奏や、もう一台のヴァイオリン独奏を私たちが演奏し

録画したものをぴったり(技術不足で少しずれたのはご愛敬)合わせて編集。
それらの映像を一つに繋ぎ、アイウエオ順で生徒さんだけに限定公開しました。

普通の「生」発表会では、小さい生徒さんの待ち時間や、緊張に耐えきれない(笑)

大人の生徒さんの順番を考慮しますが、ネットなら!

なによりも、送られた映像に合わせるのは演奏技術的にも、機械の操作的にも初めての事ばかりで

少ない野村の脳みそは、沸騰寸前でした。

加えて編集作業では、ほとんど見えていない野村の目にムチを打って笑)延べ10数時間の作業でした。



多くの生徒さんが外出を控え、自宅での生活を余儀なくされている今、

心にゆとりを!というのは酷な話です。生活の不安、学業への不安、仕事の不安。

本来なら、というより世界の先進国のすべてが、国民生活を守るために政府が、お金と知恵を惜しみなく出しています。

日本は?あまりにもお粗末な「アベノマスク」すら、まともに配布できないありさまです。

首相の記者会見には、期待するものが全くなくなりました。

そんな中で、プロの演奏家たちが医療従事者の皆さんや苦しんでいる方々に向けて、

無料の動画配信を行っているのが、せめてもの救いです。

私と浩子先生も、30日近く、毎晩のように配信されているジャズピアニスト「小曽根 真」さんのライブ配信を

楽しみに見ています。心が落ち着くのがなによりもうれしい時間です。



すでに「緊急事態」という意味さえ不明になった日本です。

「ここ1~2週間が瀬戸際」と言ってから3か月。一体、その間に何をしたでしょう。

未だに、PCR検査が世界水準の100分の1しか実施されていない現状なのに

「どこかで目詰まりしている」と何か月も平然と開きなる政府。探す気もやる気もないのです。



昨日の報道で、安倍首相は海外に1700億円寄付すると、日本国民が誰もいないかのようなことを発言しています。

子供たちは、学校に行けずストレスをためて、勉強もできません。友達とも遊べません。

大人たちは、働きに出るだけで「白い目」で目られます。

国がお金を出さないために、やむなく営業を続ける店舗に「閉めろ!」と心無い張り紙がされています。

こんな日本にしてしまった責任を、安倍晋三という首相は「総理の椅子にしがみつく」ことだと思っています。



情けない政府です。

私達国民は、自分の命と家族の命をを自分で守らなければ、国に殺される時代になりました。

「音楽は、水道の蛇口からでてくるものではありません。一度止めたら、二兎で出てこなくなるのです」

後輩の指揮者、作曲家の沼尻君が訴えた言葉は、素晴らしい言葉です。政府は無視していますが。



ネット発表会、オンラインレッスン。本来ならやりたくないというのが本音です。

実際に生徒さんと顔を合わせ、笑顔を交わし、言葉を交わしながらレッスンしたいのです。

舞台に上がる緊張感と達成感、失敗したら反省。録画録音の緊張感とは違います。



生徒のみなさんのご無事を祈っています。

一日も早く、まっとうな検査が行われ、生活のための給付金が3か月分「税金から返される」日を待っています。



メリーミュージック代表>

野村謙介

オンラインレッスン開始

コロナウイルスの蔓延でレッスンに通えない方が増えました。
併せて、教室(神奈川県相模原市)から遠い生徒さんへも、オンラインレッスンをスタートしました。
ヴァイオリン、ピアノ、作曲のレッスンが対象となります。
当面、LINEでのビデオ通話レッスンとなります。
ヴァイオリンレッスンをご希望の方は、ホームページ上にある私のQRコードを
タブレット、またはスマホなどのLINEアプリを立ち上げ「友達追加」「QRコード」から
追加してください。レッスンの予約はホームページ上のカレンダーをご確認の上、
メールかフォームでご希望の日時をお伝えください。
なお、発表会は生徒さんの演奏をレッスン時、またはご自宅でビデオ撮影したものを
編集でつなぎ合わせ、限定公開予定です。締め切りは4月末とします。

ご不便をおかけしますが、皆様のご健康をお祈りしております。

メリーミュージック代表
野村謙介

小さな音楽会日程について

新型コロナタウイルス感染症が蔓延しています。
日本中の多くの公的ホールが閉館しています。
メリーミュージックの生徒さんによる「小さな音楽会」は当初4/12(日)にもみじホールで開催予定でしたが、ホール閉鎖が延期されたため
5/5(火曜祝日)にもみじホールで実施することにしました。
G.W.最中ですでに予定のある方も多いかと思いますが一人でも多くの方に、ご理解いただきご参加いただける事を願っています。

政府は「自粛」を要請しますが、働く人たちへの補償はありません。
世界の多くの国が感染拡大防止の意味も含め「行動の自粛と経済的な補償」をセットにして打ち出しています。
特に音楽業界にとってホールが閉鎖されることは、収入を絶たれれることになります。
また私のような音楽教室経営者にも何も補償はありません。
働く先生方も同じです。
なぜ?イギリス、ドイツ、ロシアで行われている生活支援のための給付が未だに行われないのか!
「検討している」というだけです。
いったん閉鎖した教室を再開することはほとんど不可能です。
感染拡大の「悪者」扱いされるライブハウスで働く人の気持ちになってください。
誰が生活をさせてくれるのでしょう。
「税金で補填は難しい」と首相は言いますが、世界の国々でできています。
税金は私たちの生命を守るために使われるために「預けて」いるものです。
それを国民の緊急事態に使わないで一体何に使うのでしょう?
一日も早く、国と自治体が私たち国民全員に必要な現金給付を行い、
同時に治療薬の開発とワクチンの開発、なによりも医療体制の拡充を行ってもらわないと、日本はイタリアやスペイン、アメリカにずっと遅れて、感染爆発が起こります。その時になって「あのとき」と後悔しても命は帰ってきません。
いろいろ書きましたが、教室はいつも通りレッスンを行っています。
疫学的な感染検査を行わい限り、感染は抑えられません。
私たちは政府のモルモットでも奴隷でもありません。
生きるために必要なことは、し続けなれば死んでしまいます。

メリーミュージック 野村謙介

新型肺炎対応


世界的な感染拡大をしているコロナウイルスによる感染拡大。
なによりも感染された方の回復をお祈りします。

総理大臣の「思い付き発言」は科学的な裏付けなどは何もありませんでした。
専門家の意見は真逆でした。さらにWH0の発表で、子供の感染リスクは極めて低く、
高齢者への対応が何よりも優先されなければなりません。
イベント中止の要請も同様です。本来、具体的な状況を示して注意喚起を行うべきです。
東京マラソンはなぜ?人が集まってしまったと喜ぶ知事が許されるのでしょう。
コンサートをキャンセルするアーティストは「自己破産覚悟」です。
その裏で政府の総理大臣、大臣、補佐官は平然とパーティーや宴会を開いたり参加しています。

PCR検査は民間の検査機関を使わせたくない感染研救助の利益を守るために今日まで制限されています。
間違いなく、これから検査が増えるにつれ、感染者が増えます。
増えるからこそ集団感染を抑えられます。その「感染者数」を低く抑えたい政権の意図は明らかです。

メリーミュージックは民間の音楽教室・楽器店です。本日の国会予算委員会で
「塾について学校同様に休業を求めている」と場当たりに答弁されました。
「倒産したら責任は政府がどう?とるのか」という質問に対し
「そうなる前に対応していただく」はぁ???
要するに「責任」とは言葉だけです。
私たちは自分の生活と健康を自営するしかない国になりました。
すべては「科学的な裏付け」と「国民の生命を守る政府」があってこそです。
両者がない現在、教室の閉鎖は行えません。ご理解をお願いいたします。
メリーミュージック代表
野村謙介

演奏会を終えて


久ぶりのの更新です。
心臓はその後、元気に鼓動してくれています。ご心配下さり、ありがとうございました。
昨年12月20日、今年1月5日の二回、私(野村謙介)と妻浩子のデュオリサイタルを行いました。
12回目のリサイタルでした。反省も新しい発見もたくさん。
そして、1月19日にはメリーオーケストラの第37回定期演奏会が行われ、304名のお客様と73名の演奏者が音楽を楽しみました。

演奏会を開くことは、簡単なこと?
会場となるホールを予約することから始まり、使用が許可されればその時点で、ホールの使用料金を支払います。
準備のための時間、後片付けのための時間にも当然、料金がかかります。
入場料を取る場合はさらに金額が高くなります。
そうした前払いの料金は、当然主催者が支払うわけですから、ある意味で「賭け」とも言えます。
演奏会当日に大雪や台風などでも日程を変更することはできません。
演奏会当日までに、演奏の練習をするのは当たり前ですが、実はそれ以外の準備が労力と時間を使います。
演奏会ポスターの作成。
当日配るプログラム印刷のための準備。
ホールとの舞台や機材の打ち合わせ。
スタッフの確保等々、考えればきりがないほどです。
それらを専門に扱う人がいる場合、例えばプロオーケストラならば事務局、
大きな音楽事務所なら演奏者以外の専門の人が担当します。
私たちの演奏会は、そんな人はいません。欲しくてもそんなお金はありません(笑)

集客力。つまりは何人のお客様が演奏会に来てくださるか。
このご時世、財布のひもは過去最高に固く締められています(涙)
演奏会に「行こうかな?」でも、日々の出費、お子さんの教育費を優先するのも当然です。
演奏会の演奏曲、独奏者はとても大切な要素です。

演奏会に足を運ぶ方は必ずしもクラシック音楽の愛好者ではありません。
一人でも多くの方に私たちの演奏をお楽しみいただくために、曲目と入場料を考えています、
NPO法人(特定非営利活動法人)が演奏会で入場料収入をを得ることは、認められています。
ただ、入場料が500円になっただけで、来場者数は半減しました。実際にあったことです。
その経験から、メリーオーケストラでは演奏会にかかるすべての費用を、会員が月々に支払う「会費」と
趣旨に同意して下さる「賛助会員」からの「賛助会費」、それだけでは足りなの為、会員が演奏会ごとに
「演奏会参加費」を支払って行っています。
広告をプログラムに載せ、広告収入を演奏会費に充てることは、NPO法人では「その他の事業」と扱われ制約があります。

リサイタルは「有限会社メリーミュージック」が行っている事業です。
こちらは音楽事務所でもあるメリーミュージックがすべての運営を行います。
入場料を頂いています。実際には、開催に必要な経費より少ない収益です。簡単に言えば「赤字」です。
それでも開く価値が私たちにはあります。自分たちの演奏技術を常に高める気持ち。
そして、そのことを生徒さんに伝えるために。
これからも、苦しい中で私たちが自主運営するこの演奏会は続けていきます。
一人でも多くの方に、私たちの演奏を楽しんでいただくために、長々と書かせていただきました。
最後までお読みいただき。ありがとうございました。

メリーオーケストラ理事長
メリーミュージック代表
野村謙介

心不全で入院~退院

2019年6月7日(金)~2019年6月22日(土)
東京医大八王子医療センターに緊急入院しました。
最終的な病名「拡張型心筋症」でした。
緊急入院当初、心不全の状態でした。
生まれて初めて、命に関わる病気にかかりました。

16日間の入院生活で多くのことを学びました。
人の優しい気持ちが、他人の命を救うこと。
生きることへのエネルギーは他人の優しさが源。
病気に気づくことは、自分の無理な生活に気づくこと。
収入のためだけに生活すれば、生きることさえ、できなくなる。
入院生活で知る、高齢者の言動に見るエゴイズム。
患者に接する、看護師や医師のスキルとチームコミュニケーション能力。

今でも心臓は通常の30~50パーセント程度の働きしかしていません。
でも、心不全の状態から完全に脱しました。
さらに言えば、ここ数年来の体調の中で、
最高に良い状態です。
つまり、数年前から私の心臓は日々、弱り身体に警告を出してたんです。
拡張型心筋症は治療法のない難病指定の病気です。
血圧を下げ、尿を出し、心臓の動きを助ける薬を飲み続け、
一日の塩分(6~8ミリグラムまで)、
一日水分摂取量を800~1000ミリリットルに抑えることで
体液の増加を抑え、心臓の負荷を減らしますt。
さらに週に3~5日、有酸素運動をすることで、
血圧維持(心臓のポンプ機能の促進)を心がけます。

「生活に気を付けること」が「生きるための必須」になりました。
今までの自分の「真逆」です。

浩子先生の介護がなければ、入院生活はできませんでした。
「夫婦だから」なんて薄っぺらいことではありません。
人間の他人への優しさが、その他人の命を救うことになります。
それは多くの友人、先輩、後輩、生徒さんからのメッセージや、
お見舞いに来てくださった人との会話からも感じました。
言葉やお見舞いでなくても、レッスンを待っていてくれる生徒さんの
優しさにも、感動して涙が出ました。

ありがとうございました。

病室のほとんどは高齢者、75~90歳の方でした。
人間のエゴイズムは高齢になり、他人の手を借りて生きるようになると
一気に表に出ます。同室にいて、何度となく怒鳴りたくなりました。
耐えましたが(笑)
家族には弱弱しく「助けてオーラ」を出しながら
掃除のスタッフには「今やるなよ!」「あっちにいけよ!」と大きな声で同じくらいのお掃除スタッフを怒鳴ります。。いや怒鳴れます。
担当医が来るとまた「私だけ助けてくださいオーラ」全開。
何人もいました。自分はかわいそうだ。他人にそう思ってほしい。
自分より下だと思う人間には、同情されたくない。関わりなくない。
人間の一番、醜い部部です。

医療センターは若い看護士や研修医が患者に接します。
それを先輩が指導とフォローをし、さら士長や教授が部下を統括します。
入院中の山場、心臓にカテーテル(細い管)を入れる検査の当日、
私の「検査予定時刻」が看護師と医師の間で混乱しました。
医師チームは前日に「明日は午後一番で行います」と私に直接伝えてくれました。
その情報が、看護士たちに伝わりませんでした。
私が新人の看護師に厳しくい言ったのは…
「連絡ミスは仕方ない。あなたたちは午前中の予定で動いている。
先生たちは午後の予定で動いている。どちらかが正しい。
あなたたちの間違った準備が、結果的に命に係わるミスになるかもしれない。
すぐに調べなおせ!」
士長が医師団に確認し、私に誠心誠意謝ってくれました。
医師と看護士のコミュニケーション不足が招いたミスでした。
これは自分の仕事に置き換えて反省しきりです。

数年間より元気に感じる今、
数年間悪くなり続けていた心臓からのメッセージに耳をふさぎ
逃げるように仕事に没頭した「天罰」でした。

出所(退院)し建物から2週間ぶりに娑婆(外の世界)に出て
帰宅し、ぷりんを抱っこし、珈琲を入れて数口、飲んで…
今日からの生き方を考える野村でした。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

メリーミュージック代表 野村謙介

電子ピアノを考える


多くの生徒さんが練習用に「電子ピアノ」を使われています。
アップライトピアノ、ブランドピアノ。どちらにしても、大きく重く、置き場に困るだけではなく
引っ越しすることになると大変ですね。値段も高い!(笑)
電子ピアノは「ピアノ」の音以外にも「オルガン」やその他の楽器の音を出すことができるものがほとんどです。
ただ、問題はピアノの音が「本物のピアノ」の音に近いのか?
そして「本物のピアノ」の鍵盤のタッチとどれだけ近いのか?

私は以前教員時代に、学校の備品でいくつもの電子ピアノやシンセサイザーを購入し使用しました。
ピアノは音楽室と体育館にしかありませんでした。例えば大きな教室で校歌の伴奏をすることもありました。
また、屋外でのスポーツ大会閉会式でも「電子ピアノ」が活躍しました。
もちろん録音しておいたテープ(今ならCD)を使うこともできましたが、実際に演奏する姿は必要でした。

さて、今どきの電子ピアノについて。
一言でいうと「すごい!」
鍵盤のタッチも限りなくピアノに近い「機種」もあり、
音色も本物のグランドピアノの音の響きにそっくりな「機種」もあります。
あえて「機種」と書いたのは、そうではない電子ピアノも多いからです。
電子ピアノは「電気製品」ですが、演奏に使う場合は「楽器」なのです。
本物の楽器にどれだけ近づけられるか?が電子ピアノの性能でもあります。
案外、見落とされがちなのが、音の出口である「スピーカー」です。

電子ピアノには大きく分けて
①本体にスピーカーが内蔵されているもの
②専用のスタンド(いわゆる足の部分など)にスピーカーが埋め込まれているもの
③外部のスピーカーにつないで音を出すもの
に分かれ、それぞれ一長一短があります。
①の場合、多くは持ち運びが楽です。ただ、音が小さく音色も満足できるものではありません。
ただ、ヘッドホンを使って聞けば十分にいい音が出ています。
②が「電子ピアノ」と一般的に呼ばれている多くのタイプです。
持ち運びは分解しないと大変です。重たいので簡単に移動は困難です。
音はというと、「スピーカーの数とアンプの出力数」で決まります。
部屋で楽しむには十分な音量と音色が出せます。
③の電子ピアノを私は使っています。
まず本体以外に「アンプ」が必要になります。
電子ピアノとケーブルでつないで、信号をアンプに送ります。
キーボード専用のアンプを使っています。
エレキギターで使用する「ギターアンプ」やエレキベースギターで使用する「ベースアンプ」
さらに、声(歌=ボーカル)を大きくするときには…

PAシステムと呼ばれる「拡声装置」を使います。アンプとスピーカー、マイクなど一式を指します。
キーボードアンプは一番、数が少ないのですがちゃんと販売製造されています。
まさにキーボードの音をきれいに大きく出すために特化したアンプです。

このアンプの大きさ(ワット数とスピーカーの大きさ・数)で音量と音色が決まります。
本物のグランドピアノの音量、音色を再現するために必要なワット数があります。
現在、使用しているキーボードアンプは、モノラルで200ワットのの出力があります。
これと電子ピアノをつないて音を出した場合、電子ピアノのマスターボリュームが
10段階なら3から4程度。アンプのボリュームは10段階の4から5程度で
グランドピアノの音量と同じか、それより若干大きな音が「ひずまずに」だせます。
つまり、コンサートで使用することも可能だということです。
録音するときは、直接録音する機会に接続できます。
つまりマイクを立てる必要がなくなり、録音された音は私の感覚では
「本物のピアノより本物に近い」音がします。
なぜなら、それが本来の電子ピアノの性能だからです。
本物のピアノはむしろ「大きな会場」で演奏して、客席に音が響き渡るために大きなグランドピアノを使います。
録音するときは、どこにマイクを何本立てるか、とても難しいことです。
私たちが普段聞くCDの音は、とても高度な技術(マイキングと言います)で録音しています。
むしろ、電子ピアノなら録音された本物のピアノの音を基にしていますから、
出す音も「録音された本物のピアノの音」なのです。

こだわりのセットは以下のものです。ご参考に。

・KORG(コルグ)Grandstage GS-1 88鍵盤
・Peavey(ピーヴィー) KB-5
ぜひ、一度メリーミュージックで体感してみてください。
野村謙介

目指すものは小さな発見から

リサイタルに向けて練習しています。
「プロなんだから当たり前でしょ」
「プロなんだから練習しなくても弾けるでしょ」
そんな声も聞こえてきそうです。
毎年のリサイタルは自分の技術を高めることが一番大きな目標です。
ヴァイオリンを習い始めて約50年。半世紀ですね。
でもその間に師匠たちが「やる気のない生徒」の私に根気よく教えて下さったことの数々。
自分なりに「これが正しい」…「のかな?」と思い込み、疑問を持たずに「ただ」弾けるようになることが練習だと思い込んでいました。

でも!

リサイタルの後に同門の先輩からいただいた「天の声」がありました。
自分の弾き方の「何が悪いのか」「どうしてこうなるのか」を
「初歩」まで立ち返り、思い切って変えています。
日頃、生徒さんの弾き方を見ながら「偉そうに」指摘しているのに
自分の「基礎」が間違っていたことを発見しました。
慣れ親しんでしみついてしまった「間違った技術」を時間をかけて矯正します。
どの位時間がかかるのか想像もできませんが、自分の目指す演奏を見つけるために、自分の音を聞きなおしています。
ヴァイオリン、ヴィオラを持ち替えながら、曲を思い出しながら。
リサイタルで未完成ながら、今までと少しでも音が変化していることを、皆さんに伝えられればと思っています。

練習が面白いと思えるようになった58歳。
遅かったけど遅すぎることなんて何もない。
久保田先生。頑張ります。

野村謙介

11回目のデュオリサイタル

今回で11回となる私(野村謙介)と妻野村浩子(先生)とのリサイタル。デュオリサイタルページ

今年は過去10回のリサイタルで演奏した多くの曲の中で、特に私たちの好きな曲を新たなアレンジや楽器を変えてみたり。もちろん、初めてお聞きただく曲もあります。

昨年のリサイタル以来、ボーイングと慣れ親しんだ左手の運動を見直して、少しでも自分の目指す音に近づける努力をしてきました。

まだまだ未完成ですが、より柔らかく透明な音をイメージしていただければ幸いです。

今回の演奏予定曲の一部です。(順不同)

「懐かしい土地の思い出」より瞑想曲(チャイコフスキー)

ロマンティックピースより(ドボルザーク)

「無言歌集より」…ヴィオラ(メンデルスゾーン)

アダージョとアレグロ…ヴィオラ(シューマン)

G線上のアリア…ヴィオラ(バッハ)

アヴェマリア…ヴィオラ(カッチーニ)

その他にも聴きなじみのある「歌」をヴィオラやヴァイオリンで演奏する予定です。

小さなお子様連れでも、障がいのある方でも一緒に音楽を楽しんでいただくコンサートですのでご了承の上お越しください。
みなさまのご来場を心よりお待ちしております。

野村謙介

夜盲症のための「夢の眼鏡」HOYA MW10 HiKARI


すでにご存知の方も多いと思いますが、私(野村謙介)は生まれつきの目の病気「網膜色素変性症」という進行性で治療法のない病気の患者です。
中途失明者の中で2番目に多いのがこの病気です。
「夜盲」という暗いところでものを見ることができない症状と、「視野狭窄」という視野が欠けていく症状が進行します。
IPS細胞や遺伝子治療で世界中の眼科医が治療方法を研究し続けていますが、治療の開始はおそらく10年以上先になります。その間に多くの患者が失明します。
夜盲に苦しむ私たちの為に眼鏡メーカー「HOYA」が何年もの歳月と様々な臨床を繰り替えしてできた「デバイス」がこのMW10です。商品名は「HiKARI」まさに光です。開発の初期からメーカーの方に患者として意見を求められ、機械好きな私が言えるいろいろなお願いも聴いてもらって完成しました。
皆さんの周りであまり見かけない、聞いたことのない病名かも知れませんが、世界に150万人以上、日本だけで3万人(実際には5万人以上いると言われています)の患者がいるのをこの機会に知っていただければ嬉しく思います。
11月1日に全国での販売がスタートし、メディアにも公開されました。
その動画が上の映像です。
スタートから5分50秒辺りから私のリサイタル時の演奏風景と、コメントがありますので、ぜひご覧になって、多くの方にこの「夢の眼鏡」の完成と病気のことをお知らせ頂けることを願っています。

第23回小さな音楽会を終えて


生徒さんによる演奏は「人に聴かせるため」のものではなく、自分の練習を振り返り課題を見つけるためのものです。いってみれば「自分のための教材つくり」です。今回も、多くの生徒さんが日頃の成果を発表しました。
今回はその記録の方法にこだわり、演奏者が聞いている音と客席で聞こえる音を同時に録音し、それを映像に合成しました。
より鮮明に録音することで「演奏の荒」が浮き彫りになりますが、CDなどと違い、ましてや先ほど書いたように「人に聞かせるためではなく自分の教材」として小さな音、繊細な音色をCDの音質で記録しました。
記念品でもありますが、むしろ「復習の材料」なのでぜひ聞き返してみてください。
アップした動画は画質も圧縮したものですし音も悪いのですが、BD(一人分・兄弟の分ならDVDで)はハイビジョン(HD)とPCM(CD音質)で記録されています。
多くのことを自分の演奏を何回も見返すことで見つけてください。
「誰がうまい」と比較しても全く無意味です。みんな環境や条件が違うのです。
自分の演奏の良い面があります。課題もあります。
それを見つけることが何よりも大切なことなのです。
ぜひお申し込みください。

発表会の記録

10月21日に実施する教室の発表会。
今回も多くの生徒さんが積極的に演奏を発表します。
アマチュアの演奏をお互いに聞きあうことが目的です。
なによりも、自分がステージで演奏する緊張感と達成感を楽しんでもらいたいと願っています。
失敗することを恐れていては楽しむことはできません。
失敗しないように練習することが、悔いを残さない演奏のための唯一の方法です。
演奏後、自分の演奏を冷静に見返すことも大切な上達方法です。
「失敗したから聞きたく(観たく)ない」という気持ちはよくわかりますが、
冷静に見返してみると、思ったよりもいい音が出せていたり、
普段うまく弾けなかったところが「お!弾けてる!」と思わず拍手したくなることもあります。

私(謙介)の師匠門下生の発表会で、師匠のこだわり「録音」がありました。
銀座ヤマハホール。師匠が録音機材をお持ちになります。
生徒一人一人に渡すためのカセットテープと、保存用のマスター録音カセット。
マイクは「ショップス」という超マニアックなステレオペアマイク。
リハーサルはマイクの微妙な高さと向きを決めるための「録音リハーサル」でした。
当時「そこまでこらなくても」と思ったのは正直な気持ちでした。
40年以上たって、今聞き返すと、師匠のこだわりの意味が伝わってきました。
「音だけ録音すればよい」のなら、スマホで十分です。
今回、ハイビジョンビデオにより「演奏者の耳で聞いた音に近い音」で録音してみます。
昔と違い、デジタルでの録音が主流なので、マイク選びも難しくなりました。
師匠の発表会で一緒に録音していたプロのレコーディング技師の方にも相談しました。
必要な機材も新たに調達し、みなさんの演奏を「精密に」録音します。
お楽しみに!

中高生の音楽部活動


この映像は2003年3月にみなとみらいホールで撮影しました。
1985年学校開設時から私が勤務し作り上げた150名の日本でも最大級のオーケストラの演奏会です。
週に一度だけの合奏。その他の日は各自の予定に合わせて自己責任で合奏までに練習。中学生の下校時間は5時30分。高校生でも6時。中高一貫の学校で、始めて楽器を手にした子供たちがその年に演奏会に出るための指導は、中2の生徒。中2は中3が教える。最終的に高校2年生が全体の責任を負います。
この映像は演奏会のアンコールとそれに弾き続く高校2年生の引退セレモニーの風景。さらにエンドロールが続きます。見ていて涙がこみあげてくるのは「演出」を超えた子供たちの素直な達成感です。それを追いかける後輩たちの涙も純粋なものです。技術レベルも「週に一度の合奏」でここまでできます。私には十分だと思います。コンクールに背中を向け、ひたすら「自分たちの演奏」をする子供たち。「歴史は守るもじゃない。全員で常に創るものだ」と教えてきました。それで十分だと思っています。
ブラック部活のように「必死に練習」するより、子供の素直な心に沿って練習することを切に願っています。

夏休みの練習

お子さんにとって待望の夏休み。
…のはずですが、今年は猛暑でそうもいかないようです。
学校のプール解放も中止。夏祭りも中止。外で遊びたくても熱中症が心配。
そんなわけで楽器の練習に時間を使って見ては?
普段できない練習も時間をかければできるようになります。
子供の上達には、なによりも時間が必要です。
エアコンの聞いた部屋で練習できるのはうらやましい!
テレビよりゲームより楽しい時間になると思います。
「自由研究」のテーマにヴァイオリン練習、ピアノ亜練習を選んでみてはいかがでしょう?
真夏に楽器の練習ができる現代です。昔は「扇風機」があればラッキーでした。
音が「ぶるるるるるるる」って震えるのが楽しかった記憶があります。
夏休みの宿題と一緒に「楽器の練習」を生活の一部にして欲しいと思います。

メリーミュージック
野村謙介

究極のアンサンブル

ベルリンフィルハーモニーオーケストラのチェロメンバーによるコンサート「ベルリンフィル12人のチェリスト」を聴きにサントリーホールへ。
2年に一度ほどの来日公演を毎回楽しみにしている私たちです。
ご存知の方も多いかと思いますが、ベルリンフィルは世界最高峰の演奏技術と長い歴史を持つオーケストラです。運営を団員自らが行うことも特筆すべきことです。現在は、サイモン・ラトルという指揮者が指揮をしています。昔はあの、カラヤンが指揮者でした。そのベルリンフィルのチェロメンバーが単独で演奏会を開くようになって40年以上経ちます。日本では1973年に初めての演奏会を行いました。
多くの動画やCDが世界に広がっていますが、オリジナルのアレンジによるクラシック、ジャズ、映画音楽、タンゴなど多彩なレパートリーを持ちます。
一人一人の演奏技術は、考えれば当たり前ですが「世界一の技術」です。
その一人一人の演奏技術を12人で一つの音楽に仕上げます。
通常、ソリストが集まってアンサンブルをした場合の演奏会が多く行われます。それはそれで素晴らしく、聴きごたえのある演奏です。
また、このベルリンフィル12人のチェリスト以外にも、世界中のオーケストラで団員によるアンサンブル演奏会が行われています。

ではこの12人の演奏の何が?私たちの心を動かすのでしょう?
とても簡単には言い尽くせませんが、あえて一言で言うなら「伝統と人間性」だと感じます。
長い歴史を持つアンサンブルです。メンバーも変わっていきます。演奏会場や時代の音楽も変わります。その中で毎年、あるいは毎日、メンバー同士のオーケストラ「チェロパート」としての活動を伝承しています。チェリストたちの演奏会も同じことです。彼らが演奏会を開き、またそのための練習をするときには「ベルリンフィルは合奏できない」つまり演奏会も練習も成り立ちません。そのことを、他のメンバーが納得したうえで彼らは演奏を継続しています。これも伝統です。そして、オーケストラメンバー、チェリスト一人一人の「人間性」が問われます。
プロのオーケストラ。しかも世界トップのオーケストラです。聴衆の期待も世界一です。その期待に応えるための「企画」は前述したとおり、自主運営だからこそできるものだと思います。メンバー全員がお互いを認めなければ絶対にこの企画は成り立たないはずです。
チェリストたちの演奏会を聴いていて思うこと。

「誰も犠牲にならず全員が主役」だと感じます。
もちろん、12人が演奏していて指揮者はいません。扇形に配置された演奏位置で、お互いが全員を見ることができる配置です。
とは言え、歴然と「トップ」がいます。全プログラムの中で、次期トップがトップの席で演奏する曲もあります。これが次世代のアンサンブルへの伝承なのです。そのトップが曲の中で「休み」になっている時間もあります。
オリジナルのアレンジは曲によって、12人全員がおそらく全員違う音を出す瞬間もあるように聞こえ、ある時は12人が4つ、6つのパートに分かれていることもあります。その時々に全員が自分の楽譜だけでなく、隣のメンバー、さらにその隣…全員が何をしているのかを把握しています。そうでなければできない演奏です。
これは想像ですが、練習の段階で12人「以外」のメンバーの助言があるはずです。「バランス」を指摘する「13人目のメンバー」です。
聴いていて「絶対!ヴァイオリニストがどこかに隠れて弾いている」と感じる瞬間、「バンドネオン奏者が隠れている」「トランペットが」「打楽器が」そんな音色の多彩さは個人の演奏技術の高さだけではなく「バランス」を完全に把握しているからできる技だと思います。
プログラムはどの曲も短く、最後のアンコールまで「飽きない」演出です。
そのすべてのプログラムが綿密に計算されたバランスで演奏されます。
時には心憎い演出もあります。うまい!だけではなく、楽しい・すごい・悲しい・不思議という人間の感情が自然に湧いてきます。
彼らの人間性が音に現れます。舞台上で、聴衆に対して礼を重んじる姿勢も感動的です。おざなりな「挨拶」はしません。世界一の演奏者なのに「おごり」がまったくありません。むしろ「謙虚さ」を感じます。すごいことです。

この演奏を聴くと、アンサンブルってなに?と改めて考えさせられます。
私の勝手な評価をさせてもらえれば
「彼らの目指す演奏は音楽の神に近づくこと」
彼らの演奏は世界無二のものです。比べるものはありません。
その演奏を生で聞くことができる幸せを感じています。

メリーミュージック 野村謙介

音楽教室ってなに?

以前も書いたことがありますが、このテーマは時代とともに変化する答えを持っています。
メリーミュージックも小さいながら音楽教室の一つです。
そこに通ってくる生徒さんの一人一人が、違った目的を持っています。
私たち「教える側」はその生徒さんの目的を達成することをお手伝いして、代金を頂いています。生徒さんは「お客様」であると言えます。

そのお客様と私たちの間にある「契約」はなんでしょうか?

音楽を楽しむために通ってくる生徒さんにとって、「楽しくないレッスン」「楽しくない練習」が必要だと私たちが考えることがあります。
一見矛盾したことのようですが、楽しむ内容によるのです。
音楽を「演奏して楽しむ」ために通われているのですから、演奏できるようにレッスンをするのですが、生徒さんが今までやったことのない練習をしてもらい、知らなかった技術と知識を学んでもらうことが、必要不可欠なのです。
その必要不可欠なことを私たちが教えていくとき、生徒さんが納得してくれないとレッスンは成り立ちません。
ほとんどの生徒さん、そしてそのご家族は、その必要性を理解してくれます。しかし…
中には「楽しいだけで十分」「難しいことはやりたくない」「そのために、お金を払っている」という気持ちを感じてしまう生徒さん、ご家族もいらっしゃるのが現実です。
「そんな生徒なんているの?」と思われるかもしれませんが。
これは、私たち教える側にはどうすることもできない「生徒さんのリクエスト」なのです。先ほど書いた通り「契約」があってレッスンをしています。
その中身はレッスン代金やレッスン時間に関することがほとんどです。
音楽教室を「私立の高校」に例えて考えてみます。
生徒自らの意思で受験し、授業内容、規則に納得して入学します。
その学校で規則に反することをしたり、授業内容についていけなければ、生徒が辞めさせられても納得しなければならない「契約」があります。
音楽教室に置き換えると、生徒さんは「弾けるようになりたくてレッスンを受ける」場合と「ただ楽器に触って音を出したいだけ」という生徒さんがいる、あるいは「それでも構わない」教室と、「弾けるようになる努力をする人だけを受け入れる」教室があると思います。
この違いはものすごく大きな差です。
つまり、私たちが何を生徒さんにレッスンをするのかという根本に関わることなのです。
「上手に弾けなくても」というのはあくまで上達のプロセスであり、生徒さんの主観と私たち教える側の評価は違います。そのギャップを埋めながら時間をかけて生徒さんの技術を向上させるのが私たちの仕事です。
一方で「楽しければいい」という生徒さんを拒まない、または「拒めない」教室の場合、私たちはなにを教えれば良いのでしょうか?極論すれば「何も教えなくても音は出せる」とすれば、生徒さんが楽器を使って音を出しているのを「聴いているだけ」でレッスン代金を受け取ることになります。

多くの音楽教室が生徒さんを募集することに躍起になります。それは経営上、当たり前のことです。私立の高校でもそうであるように。
生徒さんのどんなリクエストにも応えるのが良いのでしょうか?
契約の段階、つまり教室の方針として「上達する意思のある生徒さんだけを募集」するのが良いのでしょうか?
人、それぞれに音楽の楽しみ方は違います。聞くだけでも楽しめます。
楽器を上手に弾けなくても、音が出せるだけでも楽しめます。
「グレード」「クラス」などで、内容を区分けする教室もあります。
それでもクラスやグレードとは関係なく、上記のような「生徒さんが求めるもの」が変わることもあり得るのが事実です。レッスン当初は「音を出すだけで十分」で始めたものの、面白くなって上達を目指す方もいます。その逆に、はじめは高い目標を持っていても、途中で挫折してしまい「もう十分」と辞めてしまう生徒さんもいます。そのひとりひとりの生徒さんに、日々レッスンをするのが私たち音楽教室で教える教師です。

誰が正しいのでもなく、どれが素晴らしいとは誰にも言えません。
だからこそ、私たちは「一人でも多くの方に演奏技術を高めることで、さらに多くの楽しみを体感してもらいたい」と願うしかないのです。
時代が変わって、「お金を払ったから好きにやらせろ」という人も増えるでしょう。そうなれば、音楽教室で教える先生はいなくなってしまいます。
私たちと生徒さんの「師弟関係」があってこそ!のレッスンだと思っています。

メリーミュージック 野村謙介

音楽大学オーケストラ演奏会で

私が桐朋学園大学を卒業したのが1984年です。
「大昔の人」と言われて否定できない年齢になりました(笑)
先日、おそらく何十年ぶり(?)という位久しぶりに、音楽大学のオーケストラ演奏会を聴きに行きました。
大学の敷地の中に、立派なホールを持っている時点で驚きます。
ご存知のように私の母校「桐朋学園大学」にはホールがありません。
世界に名だたる演奏家を輩出した大学なのに、ホールがない!
私の在学していたころ、オーケストラの定期演奏会は「都市センターホール」でした。ごくまれに(数年に1度)国内に演奏旅行に行った記憶があります。
先日の定期演奏会を聴いた第一印象は、「あれ?こんな程度?」というちょっと残念なものでした。
期待過多…と言えばそれまでなんですが、演奏している学生(卒業生も多い)の個々の演奏技術が物足りないのか、それとも演奏会への意思が弱いのか?
9倍まで拡大できるウエラブルを使って見ていて、演奏者一人一人の演奏を見て確認できました。中には明らかに「音楽を理解している動き」の人もいました。一方でただ、弾いているだけの人がたくさん。これは、「見た目」の問題ですが肝心の「音」についても、管楽器・打楽器のソロは正直に言って、一般大学のオーケストラと比較してもお粗末な印象でした。ピアノコンチェルトの独奏者も、大きなミスは感じなかったものの「音大生」という印象は受けませんでした。
辛口!な感想ばかり書いてしまいましたが、ごめんなさい。
「昔はよかった」と言うつもりは毛頭ありません。
逆に「今はこんなもんだよ」と言われれば受け入れるしかありません。
老婆心で言えば、学生の音楽への情熱を感じられなかった原因を考える必要があると思いました。
「学生を一でも多く集める」
「入試のレベルを下げ、学生が入りやすくする」
「集めた学生が楽に卒業できるようにする」
「大学の知名度を上げるために知名度の高い音楽家を招く」
「校舎や施設(構内ホール)を整える」

このルーティンで学校法人は間違いなく運営できるでしょう。
ただ、学生の「質」が置き去りにされている気がします。
入試の敷居を下げることには異論はありません。
問題は、入学後「学ばなければ卒業できない」「学ばないと意味がないと感じられる」内容が伴っていない気がします。
学生それぞれの専攻によって「学ぶべきこと」は大学が決めることです。
学ぶべきことを学生に一任するのは正しいとは思えません。何が必要なのかを知らないのが学生なのですから。
そして、楽器を専攻する学生に対し卒業後「プロとして」通用する技術能力、知識を学ばせることを大学がしなければ、一般大学と何も変わらないと思うのは私だけでしょうか?
「趣味として」楽器を演奏するのであれば音楽大学で学ぶ必要はないと思うのは偏屈でしょうか?私は趣味の演奏を指導して生活しています。だからこそ、音楽大学では「専門的な指導」をしてほしいのですが。

誰でも入れて、誰でも出られる音楽大学

これが現代の音楽大学の「普通の姿」なのだとしたら、とても悲しい気持ちです。
もちろん、学生の中には本気で学び、プロを目指し、卒業後も研鑽を積んでいる人がいます。その人たちとの交流もあります。すべての音大生が「怠けている」とは言いません。「怠けていても指導しない音楽大学」に対しての意見です。
多くの音大指導者がお友達にいらっしゃるので申し訳なく思っています。
「音大は音楽を学ぶ大学」であってほしい!だけです。
メリーミュージック 野村謙介

ブラック部活に物申す

以前にも書きましたが、教室の生徒さんたちの中にも部活動に生活の大半を「拘束されている」中学生・高校生がいます。
部活動が楽しいものであることは大変喜ばしいことです。
多くの人が中学、高校時代に部活動で思い出を作り今も当時の友人と交友があります。人生の「財産」でもあります。
ただ!その部活動が「生徒の生活にまで影響する」ことには私自身、違和感があります。学校の教育活動の一部であるからということもありますが、子供の健全な成長の妨げにさえなっている場合があります。はっきり言えば「有害な活動」だと思います。程度問題です。だからこそ「どこまで」という線引きが重要なのです。そして、内容が最も大切です。
音楽家の立場から見て、多くの「音楽系部活動」の内容が「非音楽」だと感じています。私の友人、知人が専門知識と技術を持ったうえで、部活動の指導に当たっています。彼らの指導は「プロを育てる指導との違い」を知っているから、アマチュアに求めるものしか生徒に求めていないはずです。練習方法の中にはプロになるための練習と共通する一面もあります。
「どんな練習に、どのくらいの時間をかけると、どのくらいの効果があるか」を経験で知っている音楽家。そして肝心の「効果」を判断できるのが音楽家です。
「何が上手で何が下手なのか」さえわからずに、やみくもに時間をかけるだけの指導は、音楽を作れないだけではなく、生徒が間違った練習で間違った成果を体感し「これが音楽だ」と勘違いしてしまう結果を招きます。
「気持ち悪い動き」「意味のない動き」「音楽と関係のない動き」
さらには「演奏に必要のない筋肉トレーニング」「間違った演奏方法で繰り返す間違った練習」すべては、生徒の音楽的な可能性を壊します。
正しい練習方法、正しい評価があって、初めて「練習の意味」が生まれます。
ただ音を出し、悪質な練習を繰り返し、休む時間さえ奪い取る。
生徒個人の生活を無視し、生徒同士が「拘束しあう」ことさえ知らない顧問もいます。
顧問自身が「休むなら演奏会に出さない」と脅迫するどんでもない人間もいます。
保護者の皆さん、そして教員の方々。
部活の音楽はアマチュアの音楽です。
だかたと言って音楽を知らない人間が指導しても音楽は生まれません。
演奏に必要な技術を知らない人間が指導しても演奏はうまくなりません。
「部活でうまくなる」のは「うまくできる専門の指導者がいる場合」だけです。
音を出し続けることが練習ではありません。
休まずに練習してうまくなることは、絶対にありえません。
本当に楽器を上手に演奏したければ「専門の先生に習う」以外に方法はありません。
楽しいのは良いことです。しかし「休めない」部活は間違いです。
子供の時期こそ、家庭で過ごす時間、学校外で過ごす時間が大切なのです。
部活だけで学校生活を終わらせるのは、顧問の傲慢です。
その子供たちを黙ってみている大人は「無責任」です。
楽しそうだから。休むと演奏会に出られずかわいそうだから。
本当に楽しい部活は生活に支障をきたしません。
ぜひ、子供たちの部活に大人として、毅然とした態度で伝えてほしい。
「あなたの学校の部活は、本当に学校の授業のひとつなの?」
「なぜ学校が休みの日に部活があるの?」
「部活だけで学校生活を終えてもなにも後には残らないんだよ」
ぜひ、子供の為に「ブラック部活」から子供を守ってください。
一人の音楽家として心からお願いします。

新規の生徒さん

4月に入ってから新しい生徒さんの中に成人の方が多くいらっしゃいます。
初めて楽器を習う方もいらっしゃいます。
「前からやってみたかった」という理由がとても多く、ヴァイオリンへの興味は小さい時からお持ちの方が多いことを実感します。

大人になってから、あるいは長いブランクの後で再スタートする方にとって、どんな先生がどんなレッスンをするのかなぁ?と言う不安がありますよね?
習い事を大人になってから始める「勇気」に同じ大人として敬服します。
「いまさら…」とか「子供からじゃないと弾けない…」と思いつつ、教室に連絡をくださる方の決断は素晴らしいと思います。
その勇気と決断にお応えするべく、大人のレッスンは「一人一人の生徒さんの気持ちに沿って」そして「上達を実感できる内容」「理論的なレッスン」を心掛け、日常の多忙な生活に楽器を練習する「楽しみ」をプラスしていただけるように気を配っています。
音楽に年齢制限はありません。
スタート時期は上達とは関係ありません
大人にしかできない練習方法があります。
夢を実現するのが大人の楽しみです。
ぜひ、あなたも楽器を始めてみてください。
多忙な皆様に合わせ、夜9時まで、好きな日時を予約できる音楽教室は、
メリーミュージックだけです。

発表会を終えて

第22回の小さな音楽会が終わりました。
毎回のことながら、生徒さんの成長に驚かされました。
練習すればするほど、自分の演奏の「小さなミス」に気が付きます。
本番ともなれば、いつもよりも、たくさん失敗するのが当たり前です。
でも、そのミスが聞いている人に分かるようなミスなのかどうかは、別の問題です。誰が聞いても「あれ?」と思うことがあるとすれば、例えば舞台で違う方向を向いて弾いちゃった!とか、お辞儀するのを忘れちゃった!その程度です。
音を外した!とか弓を間違えた!ビブラートかけそこなった!
これ、本人と先生にしか気づかないことです。
「小さなミスに気づけたことが進歩した証」なのです。
失敗しなければ成長しないことは、いろいろな職業の方がおっしゃることです。私もそう思います。
どうすれば、自分の失敗を克服できるかを考え続けることが「練習」です。
もちろん、人の演奏を聴いて学ぶことも大切です。冷静に自分との違いを探すこと、そして真似してみることも練習方法の一つです。
なにはともあれ、演奏したみなさま、お疲れさまでした。

メリーミュージック 野村謙介

新年度スタート

桜の花びらが舞い散る4月です。
メリーミュージックの生徒さんたちにも「新学期」らしい出来事が。
幼稚園から高校生まで、多くの生徒さんが新しい年度に入りました。
中学校に入学する生徒さんが今年はとても多く、それぞれの思いを胸に新しい学校に通い始める準備を楽しんでいます。
小学生もちょっと前まで「いかにも!」だったおこちゃま(笑)が、すっかりお姉さん、お兄ちゃんになっていきます。
大人の生徒さんにとっても、新年度は何かと忙しい時期。加えて「花粉症」
お気の毒です。

子供の成長は楽器を弾いている姿からも感じられます。
本人が気づくわけでもないのですが、こんなことが。
・集中力を持続できる時間が伸びる。
・私たち「先生」の話を聴く気持ちと態度がそなわる。
・表現したいことが増えてくる。
そのほかにもたくさん!あるのですが、時にヴァイオリンの場合、「先生の真似をしたい」気持ちが芽生えます。これ、教える側にはうれしいと同時に、どきっとします(笑)
私はレッスンでできるだけ、生徒さんの横で一緒にヴァイオリンを弾くようにしています。そんなレッスン中に「じーーーーーー」っと私の左手を瞬きもせずに子供が見ていたら「びぶらーとってどうやるのかなぁ…」なのです。
その目の先で「わかりやすく」ヴィブラートをかけて子供の弾いている曲を弾きます。こどもの好奇心と観察力、集中力が一気に高くなる瞬間です。
理屈や言葉ではなく「感覚」として真似をしてみたくなるのが、一番大切です。

少し大きくなった生徒さんたちの成長は「音楽を演奏する」感情が起きてくることです。
ただ音を出す。楽譜を弾く。間違えずに弾く。ことから、「何かを感じる」音楽への変化も言葉で教えられません。
音楽を演奏することで、本当にたくさんの感覚が研ぎ澄まされ、我慢すること、達成すること、もっとうまくなることを繰り返す中で、音楽以外の能力も高められます。
「楽器を習えば勉強ができるようになる」ことはあっても
「勉強ができるから楽器が弾ける」わけではないのです。
勉強に限らず、日常生活でもメリハリのある生活が生まれます。
新しい生活に音楽を!

メリーミュージック
野村謙介

好奇心と音楽

大人になると子供のころような「好奇心」が薄れていくことが多い…むしろ好奇心が薄れいていることに気づかないことが多いかも知れません。
音楽に限ったことではありませんが、日常生活中に小さな疑問を持ったり、興味を持ったりすることが、とても大切だと思っています。
考える以前に「感じる」ことが好奇心だと思います。好奇心は考えてから感じるものではないからです。
何気ないことでも、逆に自分が本気で取り組んでいることでも、その好奇心の有無(ゆうむではなく「うむ」と読みましょう笑)が変化や成長のカギになると思います。
自分の音楽への好奇心を失うことを「飽きる」と言ってもよいでしょう。
壁に突き当たって、行き詰った時にも好奇心のアンテナを伸ばすと、新しいアプローチができたりします。

昨日は生け花…と言ってしまって良いのかわかりませんが、
花と空間の不思議な世界を体験しました。
生まれて初めて「生け花」というものを実際に感じた日でした。
私自身が好奇心がなければ、なにも感じないのはもちろんですが、
その空間を作り出している「先生」がとても素敵な方でした。
短い時間でしたが先生とお話を交わさせていただいて、不思議なくらい「若さ」を感じたのは先生の好奇心が子供のように旺盛に感じたからかもしれません。
創造力、独創性は努力の上にある「好奇心」の結晶に思えます。

そして、今日のレッスンで自作の「エレキギター」を見せてくれた中学生男子生徒。
彼もまた、好奇心の旺盛な少年です。「レゴ」少年です(笑)その少年が作ろうとするものは、純粋に「おもしろい」ものを作っています。
ヴァイオリンを作ろうと思ったら、大きくと重くなってしまうと話す彼に、私の好奇心もメラメラ(爆笑)

何かを創りたければ、そのもの以外に好奇心を持つことが大切です。
「どうなってるのかな」
「どうやるのかな}
「多分…」
そこから時間をかけて考えていけば、きっと自分の知らなかった自分の能力に出会えると思っています。

野村謙介

オーケストラで演奏する

一人で楽器を演奏するのも楽しいです。
二人で一緒に演奏するとまた、違った楽しさを感じると同時に、ひとりで弾く時と違う難しさを感じます。
さらに大人数になると、二人で弾く時とはまた違った楽しさと難しさを感じます。
オーケストラのメンバーとして演奏する経験は、とても貴重な経験です。
プロのオーケストラは「個人もプロ」です。一人で演奏出来て当たり前の人たちの集まりです。それでも難しいのです。
指揮者の要求に応えるために、個人とそれぞれの楽器やパートで合奏までに練習します。しかも限られた時間と回数の中で。その練習の成果を指揮者が評価しさらに要求を出す繰り返しです。

アマチュアオーケストラは「趣味の演奏家」の集まりです。
ひとりで楽器を弾くことも、まだ未熟なのが当たり前です。
その人がみんなで一緒に演奏することを「無理」「不可能」という人もたくさんいます。
合奏するための演奏技術は、一人で演奏する技術に加えて身に着けるものですが、ひとりで演奏する技術を身に着ける「目標」として合奏できる技術の習得を目指すことを私は「メリーオーケストラ」で実現しています。
メリーオーケストラだけではなく、過去の学校部活動指導の経験の中で実践してきました。
誤解を避けるために書きますが、現在多くの学校で行われている「毎日必ず参加しなければならない部活」とは全く違います。実際、私の部活指導は、
合奏は週に一度。全員が参加するのは合奏。その他の日は、各自の生活計画を最優先し、拘束はしない。自己責任で練習するという部活でオーケストラを指導してきました。

話を戻しますが、合奏するために必要な個人の技術を、個人が練習するときに
「なにを練習し、だれが評価するのか」が重要です。

メリーオーケストラには各楽器の指導者と指揮者(私)が常に合奏の指導を行っています。
指揮者の要求する技術を身に着けるための具体的なことを、各楽器の講師がメンバーに指導します。
どこまでできれば?
これも指揮者の指導責任です。
すべての人が違う環境で暮らしています。
技術も楽器も違います。
だからこそ、求める水準を指揮者が全員に伝えるのが合奏です。
一人一人の演奏技術を合奏に参加できる高さに引き上げるために、
厳しい言葉をはっきり伝えます。あいまいな言葉にすると人によって、とらえ方が変わってしまいます。

「練習したのに評価が低い」「できるようにならない」

その不満や不安はオーケストラで演奏する人なら、アマチュアでもプロでも感じることなのです。それを承知で指揮者は要求します。それぞれの努力を一人ずつ評価するのではなく「オーケストラとして」評価していくことが指揮者の仕事です。

自転車の補助輪を外して乗れるようになるまでの涙を覚えていますか?
転んで、倒れて、その時一緒にいてくれた家族が、もしも「もうやめていいよ」と言ってしまったら、乗れないで終わってしまったはずです。
「もっと前を見て」「怖がらないで」「力を抜いて」と言いながら、荷台を押して子供と一緒に汗を流した経験はありませんか?
「できなくてかわいそうだから同調する」だけでは、できるようにならないのです。
出来るようになった時に、子供と一緒に喜べるから「心を鬼にして」頑張らせるのが「親心」だと思います。

オーケストラは楽しいけれど難しい
難しいから楽しい
それがわかるまで、負けずに頑張ってほしいといつも願っています。

メリーオーケストラ代表
野村謙介

メリーオーケストラ定期演奏会を終えて

今年で16年。毎年2回の定期演奏会を一度も欠かさず続け、33回目の定期演奏会が2月4日に終わりました。
70名の演奏者がステージに集まり、同じ音楽を作り上げることは、楽器を演奏する中で最も規模の大きな演奏になります。
オーケストラで演奏するために必要な技術と、ひとりで楽器を演奏するために必要な技術について考えてみます。

もちろん、順序で言えば「個人の技術」→「合奏の技術」です。
一つの楽器をひとりで好き勝手に演奏するだけでも難しいものですよね。
いい音で、正しい音の高さで演奏する。
そして決められた音符と休符の長さで演奏し、音の大きさを変えられること。
それだけの事が出来るようになるのに、何年も何十年もかかります。
これが「ひとりで演奏する個人の技術」なのですが…
これをマスターしてから「一緒に演奏する=オーケストラの一員として演奏する」ことに進むとなると、ほとんどの方は途中でドロップアウトしてしまいますし、「これが出来たらオーケストラに入れる」という基準は

ありません!!

アマチュアオーケストラでオーディションを行うことに、強い疑問を感じます。
プロのオーケストラの場合、演奏しようとする曲を、プロの演奏として自分たちが決めた水準以上の技術を持った人だけを集めます。
これは正しいことだと思います。
一方でアマチュアオーケストラの場合は、メンバー個人の問題より、合奏する「演奏者」が趣味で演奏を楽しむ人の集まりなのです。
メンバー個人の技術力に差があることを認めないのは、間違っていると私は思っています。
「そうはいっても、サードポジションができなければ交響曲は弾けないだろう」と言い切る人がいますが、これもアマチュアオーケストラとして考えれば間違っています。
現にメリーオーケストラにはサードポジションでまだ弾けないヴァイオリンのメンバーが何人もいます。構わないのです。
その子供たちやメンバーだけを特別に扱っているのではありません。
「できないから出来るようにがんばる」のが趣味の世界です。
「できて当たり前」がプロの世界です。
5歳のちびっこヴァイオリニストが、9曲のプログラムすべてに「すべて」参加しました。
弾けない音もたくさんありました。それでも、最後まで楽譜を目で追いかけ、ほかのメンバーと一緒に弾ける場所の弾ける音だけを弾きました。
その子供が次回の演奏会で、もう少し多くの音を弾けます。
さらに次の演奏会、次の演奏会と経験を重ねる中で、やがてすべての音を演奏できるようになるのが「成長」なのです。
今現在、できることだけで線を引いてしまい「あなたはできるから一緒に」と弾けない人を排除するのがアマチュアオーケストラのオーディションです。82歳の元ちびっこヴァイオリニストもメリーオーケストラにいます。
その方にとって、練習に来ること、本番に出ることは体力的にとても厳しいことです。
その方が生き生きと演奏している姿に純粋に感動しました。
その方の演奏技術が問題でしょうか?その方だけを特別扱いしていません。
メリーオーケストラは全員が特別なのですから。
一緒に演奏するための技術は、一緒に演奏してみないと必要な技術、自分に足りない技術がわかりません。
だからこそ、初めてのオーケストラで学ぶことが大切なのです。
出来ないことをできるようになるまで、個人一人一人が練習して、また合奏に参加することの繰り返し。一人で練習しなければ合奏だけで弾けるようにはなりません。「アマチュアだから」という言葉はこの面では言ってはいけません。自分がオーケストラで楽しみたいのなら、合奏の前に一人で練習することが「必要」なのです。その量や内容はみんな、違います。でも、

「合奏までに練習する気持ち」を持つことが一番大切です。

メリーオーケストラ代表
野村謙介

アマチュアオーケストラのすすめ

日本中にたくさんのアマチュアオーケストラがあります。
私が立ち上げて、特定非営利活動法人(NPO法人)として認定してもらい活動を続けている「メリーオーケストラ」もアマチュアオーケストラです。

NPO法人
よく聞く言葉ですが、実はあまり実態は知られていません。
国がその団体(法人)に認めた活動を行うのがNPO法人です。
メリーオーケストラの場合は「青少年の健全な育成」と「音楽の普及」という二つの目的を達成するために「月に一度のワークショップ(公開練習)」と年に2回の「定期演奏会」さらに「施設等への訪問演奏」を行います。
その他に目的を達成するための活動が許されています。
一般のアマチュアオーケストラと違い、活動の内容、社員(メンバー)、収支や財産の提出が義務付けられています。もちろん、定例社員総会や必要にも応じて理事会も開き、その議事録も必要になります。
運営の費用は、社員(メンバー)からの会費、賛助会員(メンバーでなくてよい賛同者)からの賛助会費です。これも設立時に作成し提出し認められた「定款」に書き込まれます。演奏会の入場料をいただいても構いません。ただし、広告収入は「その他の事業」となるので課税対象となり、多すぎれば問題となります。
理事を含む役員は「役員報酬」を定款で定めれば受け取ることができます。
ただしこれは法人の課税対象となります。
また、音楽で生計を立てている人への謝礼を支払うと、これも課税対象となります。
もちろん、メンバー(社員)が報酬を受け取ることはできません。
つまりプロの演奏家たちが集まってNPO法人オーケストラを作って給料をもらって生活することは「不可能」なのです。

その手間の多さは、普通のアマチュアオーケストラと比較してかなりの量になります。
では、そこまでしてNPO法人にするメリットは?
ずばり。「団体の透明性を高め、活動に賛同してくれる方を募る。」ことです。だからと言って、助成金があるわけでもなく、優先的にホールが確保できるわけでもありません。
長い時間をかけ、多くの市民に活動の趣旨を理解してもらい、その人数を増やすことがメリーオーケストラの活動趣旨なのです。

アマチュアオーケストラですから、プロのオーケストラのような演奏は出来ませんし、もとより目指していません。
演奏技術を高めることはとても重要なことです。
ただ、何のために演奏技術を向上させるのか?という焦点が、メリーオーケストラのの場合は、先述の二つの目的なので、言い換えれば「演奏技術を高めること」が第一の目的ではないのです。
私のリサイタルと同様に、ひとりでも多くの方がコンサートで「楽しかった」と思いながら、笑顔で帰られるコンサートを目指していますので、難しい曲は避けています。
難しいというのは「聞いていてよくわからない」つまり、普段あまり音楽を聴かない方でも、親しみを持てる「難しくない」という意味です。
どんな曲でも演奏は「難しい」のです。
それはプロであれ、アマチュアであれ同じことです。
どんなに短い曲でも、どんなに楽譜の簡単な曲でも、良い演奏をしようとすれば「難しい」のです。
ましてや、趣味で演奏を楽しんでいる人にとって、楽譜が難しければ演奏を楽しむ以前に、ストレスになってしまします。
賛否両論ありますが、アマチュアオーケストラが大曲を演奏することに、私は無理を感じています。
メリーオーケストラには4歳の子供から80代の方までが会員として活動しています。
その多くのメンバーが初心者です。つまり、楽譜が難しくなればなるほど、参加できる人が減ってしまいます。
入会のためのオーディションを行うアマチュアオーケストラがたくさんあります。
技術を高め、難しい楽譜を演奏し、完成度を高め、クラシックファンの期待に応えようとするならそれも「あり」です。
演奏技術の高い人だけを集めるのなら、最終的にはプロのオーケストラが一番うまいのです。
アマチュアの割にはうまい。
という評価は私個人としては「意味がない」と思っています。
アマチュアの演奏には、他の演奏と比較する必要性がないのです。
どこそこのアマチュアオーケストラより上手に弾けるなんて話を聞くと
「何がしたいのかなあ?}と疑問に思います。

演奏者たち一人一人が音楽を楽しめること。
その演奏をコンサートで見て聞いた人たちが純粋に感動できること。
その活動を継続すること。

それが私にとってアマチュアオーケストラのあるべき姿です。
メリーオーケストラは活動を始めて16年目です。
今回の演奏会(第33回)には、私の母校である桐朋学園で学んだ人が
私を含めなんと13名。他の音楽大学を卒業した人も6名。現役の音大生が3名。みんな交通費だけで参加してくださっています。本当にありがたいことです。
その方たちと一緒に4歳のちびっこも席を並べて演奏します。
9曲のプログラムの中には、ドボルザークのチェロコンチェルトやベートーヴェンのロマンスがあるかと思えば、小学生が歌い、オーケストラが伴奏する曲があり、荒城の月があり、オペラ座の怪人があり、ビッグバンドのメドレーがあり…。
音楽のジャンルという垣根を超え、演奏技術や経歴の垣根を超え、年齢の垣根もなくし、どんな人が聞いても楽しめるコンサートを開き続けるアマチュアオーケストラ。

もうすぐ演奏会です。

メリーオーケストラ
理事長・指揮者
野村謙介

音楽大学に通う人に

音楽大学に通う若い人たちに思うことを書きます。
時代が変わっても、音楽を学ぶ気持ちに変わりはないはずです。
「プロ(職業音楽家)」を目指すのか、純粋に「音楽を学びたい」のか。
私たちの学生時代(30年以上前)にも、卒業後の進路としてプロを目指していない人も中にはいた「かも」知れません。それはそれで間違ってはいません。
音楽を学ぶことは、今も昔も音楽大学に通わなくてもできることです。
また、通いたくても経済的な理由で進学できなかった人も多いことも変わりません。
音楽大学に入学するための事前の努力は、入学後に学ぶための「土台」となります。
その土台をスタート地点とすれば、入学後の一日一日が延々と続く「学ぶ」時間です。学ぶことは「練習と授業」だけではありません。日々の生活そのものから、自分に必要な何かを学び取れる人は、人間として、音楽家として成長し続けます。

「自分はどこを目指すのか?」
せっかく努力して音楽大学に入っても、自分の目標を見つけられなければ、時間は無情なほどに早く過ぎていきます。
私自身は演奏が専門ですので「演奏家」について書きますが、おそらく作曲や音楽学でも同様のことが言えると思っています。

目指す演奏が自分の師匠にあるはずです。
レッスンで自分に演奏を教えてくださる先生(師匠)の演奏を目標にするのは当たり前のことだと私は思ってます。むしろ、そうでないなら習う意味はないと考えます。
その師匠が仮にいわゆる「演奏家」ではない場合も考えられますが、優れた演奏家が優れた指導者であるとは限らないことは言うまでもありません。
一方で優れた指導者が優れた演奏家であるとも限らないと思います。
ただ後者の場合、指導者が弟子を上手にすることが「うまい」のであって、弟子の立場から見れば、師匠の求める演奏、指導の内容を忠実に練習し、師匠の要求に応えていくことが「目標」であるわけです。
いずれの場合も、弟子が師匠から学び取ることは容易なこと、安直なものではありません。教える側からすれば「もっと!」「まだまだ!」と思ってもそれが弟子に伝わらず、歯がゆい思いをしていることも多いのです。
音楽大学で学ぶ人にとって、自分の演奏技術を認識するのは、師匠からの言葉以外には、他の学生との比較になります。もう一つ、重要なのは自分で自分の技術を評価することです。その3つのバランスが一番大切です。
師匠の言葉、他の学生との比較、自己評価。
偏りがちなのは、2番目の他の学生との比較です。成績や順位。これはとても大切な評価ポイントですが、あくまでも「その時いる人との比較」ですから、むしろ流動的な評価です。学校の中、学年の中での評価です。一喜一憂する必要はないのです。
自己評価を客観的にできるようになるための学生生活です。
自分に足りない技術と知識を常に発見しようとする姿勢は、ともすると「後ろ向き」と思いがちですが、上達したいのなら自分の欠点を長所に変える覚悟がなければ無理でしょう。
自分の長所を見つけるのは自分ではなく、師匠です。
自分の欠点は師匠からの指摘と、もう一人の自分からの指摘です。
もう一人の自分を常に持つことこそが「客観的な練習」です。
友人との競争より、もう一人の自分からの指摘に負けないことが重要です。
若いからできることをしてほしいと思います。
そしてやがて、自分が経験と年齢を重ねたときに、若い時の記憶がどれほど重要だったのかを知ることになります。後悔してもどうにもならないのが、若い時に苦労することを避けた「甘え」なのです。

若い音楽家のみなさん。
どうか夢を諦めないで大きな目標を見据えてください。
これからの音楽世界を作るのは、若い人たちなのですから。

野村謙介

デュオリサイタルを終えて



今回で10日目となった私(野村謙介)と浩子先生とのリサイタルが1月6日に無事終わりました。
12月24日のもみじホールでのリサイタルと、アンコール以外のプログラムは同じものですが、全く違った音響、雰囲気、ピアノ(ベヒシュタインとベーゼンドルファー)での演奏。両方の演奏会に来ていただいた方に、その違いを堪能していただけたと思います。

私たち、プロの演奏家が演奏する場合、アマチュアの方と違った責任があります。
それは単にお客様から入場料をいただくか否かという問題だけではありません。
アマチュアの演奏家(オーケストラを含め)が演奏をして入場料を取るのも今や当たり前の時代です。
最も大きな違いは、お客様の期待に応える責任です。
もちろんアマチュアの演奏会でもお客様は期待してきます。
ですが、プロの演奏家が開くコンサートには、違った期待があります。
そして、プロである以上、どんな状況であってもお客様を満足させる演奏技術、会場のセッティングなどが求められます。
そんな重荷を練習で克服するのがプロだと思っています。

今回の演奏会で私がつけているサングラスのようなもの、これは実はただのサングラスではありません。

HOYAという光学メーカーが開発した夜盲症(暗いところでものを見ることができない症状)の患者のための特殊な機械なのです。

MW10という商品名になりますが、まもなく国内で発売が始まります。
今回着用しているのは、その試作機です。HOYAの協力を得てステージから暗い客席のお客様の姿を見ることができました。今までには味わえなかった感動です。

演奏とは直接かかわりのないことですが、私のような目の病気(網膜色素変性症
)を持つ人でも、音楽家を目指せる時代になったことを皆様に知っていただくことも大切なことだと思っています。
また、今後街中でこの眼鏡をして白い杖を突いている人を見かけたら、
「半盲」の人なんだなと気づいてあげてください。完全に光を感じられれない人を「全盲」といいます。私は少し見えてはいるものの、白い杖を突く必要のある「視覚障害」なのですが、なかなか街中で理解してもらえません。
白い杖を突きながら、スマホや携帯を捜査している姿を見ると「このひと、偽物の障碍者もどき?」という冷たい視線を感じます。

そして、この機械が私たち夜盲症の患者にとって「補装具」として認定されるまでに皆様のご理解とお力が必要です。厚労省と自治体が障碍者の補装具としてこの機械を認めてくれないと全額を私たちが負担することになります。
貴重な税金を使って一人の患者の生活を少し改善するだけのこと…。
でもその少しのことが私たちの生きがいになるのです。
見えなかった夜の道が見える。
一緒に歩く家族の見ている夜の道、暗いお店の中、映画館、コンサート会場の客席で「同じものが見える」感動。

ぜひ、皆様のご理解をお願いいたします。

最後に、演奏会を応援してくださったすべての方々と、ご来場くださったお客様に心からお礼を申し上げます。

ありがとうございました。

野村謙介

弓の毛を張り替えること

弦楽器奏者にとって「弓の毛の張替え」は弦の借り換えと同様、いつ変えようかな¨と迷うことの一つです。
馬のしっぽの毛ですから、弾かずにいたとしても時間とともに劣化します。
人間の髪の毛を考えればよくわかりますが、カットしたり、抜け落ちた髪の毛は弾力がなくなり、細くなっていきます。馬のしっぽの毛も同じです。
古くなると、弾力がなくなり、細くなります。表面の凸凹は残っていたとしても、新しい毛の柔らかさは失われます。
使わなくても、せても1年に1度は張り替えてもらいたいと思っています。
その張り替える職人さんの「技術」は演奏家にわかりにくいものですが、
技術と経験が足りない職人さんが張り替えた場合との違いは、明らかにあります。
弓の木の弾力を見極め、すべての毛を均等な間隔(幅)で揃え、その時の乾燥や湿度と、弓の長さを考えて、緩めたときに、毛だけでなく弓の木(スティック)も完全に休める状態に長さを決める¨。
さらに、くさびを正確に削り、抜けない。でも次に張り替える時に外せる大きさにする。
なさに「職人芸」だと思います。

毛の良しあしも大切ですが、私の経験で言えば「職人の技術」の方が重要です。

私は中学生の時から「毛替えは目の前で職人さんがしてくれるもの」だと思ってきました。自分の大切な弓を目の前で触ってくれるので、なにも心配がありません。その意味で、主治医「櫻井樹一氏」は私が楽器、弓のすべてを任せられる唯一の職人さんです。

張り方の好みや、楽器調整の好み、職人さんとの相性は大切ですが、ヴァイオリンンの主治医を見つけることがなによりも大切なことです。

みなさんも、信頼できる職人さんを探しましょう。
難しければ「信頼できる師匠」に紹介してもらいましょう。

野村謙介

私の個性的な「眼」

網膜色素変性症という治療法のない眼の病気です。
進行性の病気で原因も不明。多くの場合、失明に至ります。
その進行の速さや内容は人によって大きく違います。
日本だけでも約3万人の患者がいる「難病指定」の病気です。

私の場合、3歳ごろに夜盲の症状があって両親が気付き、この病名だとわかりました。
進行が遅かったので、20代までは夜盲症状以外、日常生活に支障がなかったので車の運転も、教員生活にも困ることはありませんでした。

45歳を過ぎたころから、視野の狭窄(見えない部分がどこかきまっていません)と夜盲の症状が進みました。
10年前は普通の大きさの楽譜を見ながら演奏することもできました。
次第に楽譜が見えずらくなり、A3サイズの紙横向きに数段の楽譜を拡大し、暗譜しながら弾くようになり、今はそれも辛くなり、21インチのタブレットに楽譜をアクロバットファイルにしたものを好きなだけ(笑)大きくして、覚えては弾く、覚えては弾くの繰り返しです。

そんな生活ですから、夜、駅前教室でレッスンが終わって、外に出る時は白い杖を持っています。
白い杖を持っていると「全盲」、つまりまったく光を感じられれない人だと思われるので、電話をしようと携帯を出したりすると「にせもの?」という目で見られてしまいます。「半盲」という言葉があります。私が今そうです。見えるものもあるが、見えないものが多い。
視覚障害1種2級の手帳も持っています。でも人から見て、どのくらい見えないのかはわからないのが現実です。

ステージが暗転するときややステージ袖。
私には「真っ暗闇」の世界で、光っている電球「だけ」が見えます。
そんな病気なのです。

その夜盲の私が幼いころから「夢」だったのが「夜見えるメガネ」
魔法のような世界、あったらいいな、ドラえもんに近い夢でした。

とうとう、できました。

メディカルウエラブルというメガネの形をしたカラーで透明な有機LEDディスプレイに高感度カメラの映像を映し出す道具。

12月に発売予定でしたが、さらに改良を加えるため、来年1月に量産のモデルを手にします。その前に、最新のプロトタイプ(試作品)をリサイタルまでにお借りすることになりました。

「0.5ルクスの明るさで歩くことができる」というお話。
この明るさは「月夜で街灯のない道の明るさ」だそうです。
私には街灯がどんなにあっても「街灯」だけしか見えませんが、このウエラブルを付けると真昼のように見えます。

まだ、厚労省が「補装具」として認めてくれないので全額負担です。
開発にかかった費用、高感度カメラの価格などを考えると40万円は高くないのです。むしろ、私たちの「目」がこの値段で買えるのなら。

楽譜はどうやっても見えないのは同じですから、少しでも見える間に、少しでも多くの曲を暗譜したいと思っています。

リサイタルで演奏する16曲。頭に書き込みました。
舞台から客席の皆様の顔が見えませんでした。暗いので。
今度のリサイタルでは皆様の表情が見えます。
気持ちよくお昼寝している方の表情や、喜んで腐っている方の表情が見える。
夢のようです。
リサイタルのステージに、似つかわしくないサングラスをして登場します。
そんなヴァイオリニスト、世界で今は一人です。楽しんで下さい。

野村謙介

師匠と弟子の関係

だいぶ前にも書いた記憶がありますが、今回は時代とともに変わる師弟関係について考えます。
先生と呼ばれる職業には、幼稚園や学校の教師、お医者さんがあります。
議員を「先生」と呼ぶ人もいますが私には違和感があります。

師匠と呼ばれる人の「職業」は様々です。落語家、舞踏家、いわゆる芸人なども思いつきます。
相撲部屋の「親方」は師匠なのかな?と迷ったりします。「親代わり」という意味合いでの親方という呼称なのでしょうね。大工さんにも親方っていますね。

さて、音楽の世界で「師匠」と呼ばれる人と、その「弟子」に当たる人の関係を考えます。
本来、師匠は弟子に「頼まれて」芸や技を教え、伝えるものだと思います。
師匠が「私の弟子になってください」と頼む光景は想像しにくいですよね。
自分がヴァイオリンを学ぼうと思い、技術を向上させたいと思ったとき、
あなたなら「誰に」技術を教えてもらいたいですか?
「誰でもよい」とは思わないのではありませんか?
「あのヴァイオリニストに習いたい」と思うのが「芸の世界」だと私は思っています。もちろん、例外もあります。私もその一人です。

両親がなんの予備知識もなく「有名だから」という理由だけで、私の師匠のお宅の門をたたきました。私はその先生(師匠)のお名前も存じ上げませんでした。それが私と久保田良作先生(師匠)との出会いです。
こんなことってあるんですね。案外多いのかもしれませんが。

話を戻して、自分の意志で師匠を選べる年齢であれば、自分で師匠に弟子入りをするのが礼儀だと思います。それが「芸事の常識」だと思います。

落語の世界で弟子入りし、「内弟子」として家の用事を手伝いながら住み込みで師匠の芸を「いつか教えてもらえる日」を待つ世界があります。
とても分かりやすい「師弟関係」です。
その師弟関係にも言葉にしない「契約」があると思います。
つまり、どんな師弟関係にも、「信頼」という契約がなければ、お互いに不幸な結果につながるのです。

音楽大学で学生にレッスンをする「教員」は、大学という組織の一員です。
その大学と先生の「契約」がまず、存在します。内容は様々ですよね。
その先生が教える学生は、先生と「師弟関係」と言えるのでしょうか?
これはすべての学生と先生に言えることですが、「大学の一員」という契約と、先生と生徒という関係が「師匠と弟子」という関係か否かという問題があると私は思います。

「権利と責任」は学生にも教員にもあります。その意味では「公平」な関係です。
一方で「師弟関係」は明らかに師匠が「上の立場」なのです。そういう契約なのです。弟子は師匠に逆らえません。どうしても我慢や納得が出来なければ、「破門」されるしか方法はありません。もちろん、師匠が常識的に考えて、許されないことを弟子にしたのならそれは別の問題ですが、多くの場合は、弟子が「耐える」のが芸事の世界だと思います。

大学生に話を戻すと、学生も先生も「お互いを選ぶ」権利を持っています。多少の制約はありますが、師弟関係の場合とは違います。大学という組織が決めたルールでお互いが巡り合います。

自分の望まない先生・自分の望まない生徒に巡り合ってしまった場合を考えます。
どちらも「不幸」です。ですが、それは大学が決めたルールの中で巡り合ったことなのでどちらも諦めるしかありません。
つまり、大学の場合は「師弟関係」としてお互いの信頼関係が成り立つか否かは、後になってからしかわからないということなのです。

学校を離れ、私的な立場で師匠を探し、門下として弟子入りするならば、師匠が「もう教えることはない」というまでは、弟子であるべきだと私は信じています。
弟子の立場で「もう習うことはない」と師匠の門下を離れ、違う師匠のもとに弟子入りするのは、個人的に嫌いなのです。はっきり書いてしまいましたが、自分自身が久保田良作先生という師匠に弟子入りして以来、他の先生に習いたいと思ったことがないので、正直に書きました。気分を害されたらすみません。

現代は信頼よりも契約が優先する時代です。要するに「気持ち」よりも「紙切れ」が大切だということなのです。
心のない演奏は音楽ではありません。
音楽を習うということは技術を習うのではなく、師匠の心を覗き見る努力をすることだと私は思っています。

野村謙介

レッスンを受けましょう!

レッスンをしている立場の私が書くと営業っぽく感じますが、
私たちプロの演奏家も、元をただせば「一人の生徒」でした。
レッスンで先生に習うことと、自学自習することの違いはなんでしょう?

ネットや書籍、教本を見るだけでも、楽器の音は出せます。曲も弾けます。
ならばレッスンを受ける必要なんてないように感じますね。
動画を見てプロの演奏技術を真似することも「できそう」に思えますね。

レッスンを受けて初めてわかることがあります。

それは、自分の演奏技術の問題点を見つけてもらえることです。
プロの真似をしたくても、どうすれば出来るのかわからないだけではありません。
自分の癖を指摘してもらいながら、自分の演奏を先生に聞いてもらう、
これだけは、独学では解決できません。

生徒さんの演奏技術を見極めて、生徒さんの出したい音、弾きたい曲を確かめながら、自宅での練習方法を伝え、次のレッスンで確認し、新しい課題を生徒さんに提示するのが私たち指導者の役割です。

指導者である私たちに求められるのは、技術とレッスン経験です。

どんなに演奏技術が高い(演奏が上手な)指導者でも、指導(レッスン)の経験が浅いと生徒さんに的確なレッスンはできません。
素晴らしい演奏家が素晴らしい指導者とは限りません。
レッスンを受ける先生を選ぶことは、とても難しいことです。
自分にあった先生であるか?はレッスンを受けてみなければわかりません。
同じ先生からレッスンを受けたからと言って、だれもが同じように上手になるとも限りません。生徒さんひとりひとり、違った環境があり、個性があるからです。
「才能の差」ではありません。どんな上手な演奏家でも違った個性があるのです。生徒さんから見れば、どんなプロもうまく見え、どんな先生も上手に演奏できるように見えます。その一人一人が異なった環境で育っているのです。みんな先生に習ってきたのです。

レッスンで指摘されたことを素直に受け止め、出来る限り自分で練習しましょう。
そしてまたレッスンを受けて、自分の練習内容が良かったのか、あるいは何が不足していたのかをまた、レッスンで教えてもらうのです。

習うだけではうまくなりません。

習ったことをできるように努力し続けることが一番大切です。

レッスンを受けることで、自分の練習の成果を確かめてもらい、これからの練習の課題を教えてもらえるのが、独学とは違う点なのです。

ぜひ、レッスンを受けてみてください。
きっと、自分ができなかったことの「理由」と出来るようになるための「道順」を教えてもらえるはずです。

野村謙介

練習の成果

「頑張って練習したのに‥‥」

以前にも書きましたが、「出来るようになった感覚が少しでもなければ練習したことにならない」と私は思っています。
その続きですが、今日の練習の成果を感じて楽器をしまって、次の日に同じ場所を弾いてみたら、昨日の練習の成果を感じられないという経験はありませんか?
練習の成果を例えるなら「薄い紙の積み重ね」です。

練習のたびに感じられる成果は、間違いなく「上達の成果」なのです。
まず、そのことに自信と確信を持つことが何よりも大切です。
そうでないと、「練習してもうまくならないのは、才能がないからだ」と思い込んでしまうからです。どんな上手に弾ける人でも、自分の演奏技術に不満があるものです。それを「自分だけ下手なんだ」と思ってしまったら、だれも演奏なんてできないですよね?

どうすれば、薄い紙の積み重ねを実感できるのか?

簡単に言えば、重ねる紙の枚数を増やすこと。そして、一枚の紙の厚みを少しでも増やすことです。

繰り返さなければ身体は自然に動きません。
「勝手に動いてしまう」のとは違います。
自分の思った通りに身体を動かせるようになるまでに必要な時間(紙の枚数)は、皆さんが思っているよりもずっと、ずっと多くの時間、多くの枚数が必要なのです。
どんな技術でも、考えなくても出来るようになるまでに時間がかかることは大人なら経験で知っていますよね?失敗を重ね、それでも繰り返すしかありません。
楽器の練習でも全く同じです。すぐに出来るようになることなど、ないと思えば良いのです。すぐに出来ないから、楽器の練習は面白いのです。

子供にレッスンをするときに「簡単にできちゃうゲームってつまらないよね?」そんな話をします。難しいから面白い。それがわかるまで、時間をかけるのも大切です。難しいから、いつまでもできないから「やめる」のは簡単です。それを乗り越えることこそが「練習」であり、乗り越えて見えてくるものが「練習の成果」なのだと、私は思っています。

野村謙介

左手と右手の分離

多くの生徒さんに見受けられる現象ですが、
片方の手の力を抜くと、もう一方の手の力も抜ける。
同じことは、力を入れる時にも起こります。
例えば、弦を指板まできちんと押し付ける左手の力を入れようとすると、弓を持つ右手にも無意識に力が入ってしまい、コントロールできなくなる。
また、違う例では、左手の指の形を崩すないように意識をすると、右手の指も無意識に硬直する。
右手の力を抜くと、左指の押さえ方が弱くなる。
初めてビブラートをかけようとすると、右手が勝手にダウンアップで動いてしまう。
そんな「無意識な連動」は人間にとって、ある意味では自然な運動です。
ただ、意識しなくてもできるようになると、それぞれの運動は独立します。
お箸を右手で持ち、左手が同じように動くことはないでしょう。
車の運転をしていても、両手が同時に動くことはないはずです。

なれない運動をすると連動する。

初めてドラムセットを両手両足を使って、それぞれの手足が「違うリズム」を演奏しようとすると、すべての手足が同じ動きをしてしまうものです。
私たちの脳から出る「命令」がそれぞれの筋肉を動かします。
「動かそう」と思えば思うほど、強い命令が他の手足にも出てしまいます。
慣れてくると、強く思わなくても、片手だけ、片足だけを動かしたり、走ったり、飛び跳ねたりできるようになります。

ヴァイオリンを演奏するときに、それぞれの手、指、腕、肩、背中を意識しながら「一つの運動」をすることから始めます。

例えば、左手の形、押さえ方だけを意識して修正したければ、右手に弓を持たず、ピチカートで弦をはじく練習も有効です。
右手の動きだけを確認したければ、左手は使わず解放弦で練習することがおすすめです。

二つの運動(右手と左手)を同時に練習するとき、同時に二つのことに集中することは、

不可能です。

ただ、注意することを「短い言葉」にして次々に違うことを注意することはできます。
コンピューターの「演算速度」に近いものです。同時に二つのことを考えるのではなく、短い周期でいくつかの「注意」を繰り返す方法です。

例えば「右手」「左手」「肩」「頭」「腰」「場所」「角度」「音程」「圧力」などの単語と、集中するべき運動を関連付けます。
一つの運動に長い時間、注意が行ってしまうと、他の運動がどんどん崩れます。そうならないように、短い言葉で注意を繰り返します。
「指」という単語で左手の指の押さえ方を直そうとし、
「小指」という単語で右手の小指を丸くしているかに集中する。
この二つの単語を交互に思いながら(必要なら声に出してみるとよいでしょう)曲を弾きます。
「頭」という言葉で頭の位置、重心を修正し、
「角度」で弓の直角を確認する。この二つを繰り返すのもひとつの方法。

要するに、何も考えないでも二つ以上のことがコントロールできるようになるまで、「口うるさく注意を繰り返す」ことです。

ひとつのことだけでもできません。

必ず生徒さんは答えます。
そうです。その一つひとつの難しさを知ったうえで、同時にいくつものことを無意識に、ある時は連動させ、あるときは独立させ、動かすのが「楽器の演奏」です。だからこそ、慣れが必要です。なれるまで、何日でも、何か月でも、何年でも時間をかけて繰り返しましょう。

「右手と左手はね。男と女と一緒なんだよ。わかる?」

大学生の時、久保田良作先生にレッスン中に言われた言葉です。
「????」当時、なんのことなのか、どんなジョークなのかさえわかりませんでした。
このネタは、子供には使えず、大人の生徒さんに使えば「セクハラ」になりますので、「格言」として私の中にしまっておきます。

というわけで今回はここまで。

野村謙介

弓を操る(最終回‥肘~肩)

ボウイングについての考察。
最後は、いわゆる「腕」の使い方について。

肘から手首までの前腕、肘から肩の関節までの上腕。そして、上腕を動かす、首と背中、主に肩甲骨周りの筋肉までを「腕」と考えます。
特に腕の付け根はどこ?と生徒に聞くと「肩」と答える人が多いのですが
実は肩の周りの筋肉も腕を動かすための筋肉です。

指から始めた話ですので、手首の次は肘の関節と前腕の使い方。
前回書いたように、掌を回転させる運動は前腕の回転です。
右肘の骨を反対の左手でつかみ、右手の掌を上、下に回転させてみてください。
肘の骨が動かないようにしても、掌が回せます。掌の回転は、弓の傾斜を変えられます。どの弦を弾くか。また、弦に圧力を加える仕事もできます。弓を弦から離すこともできます。
この前腕の回転運動に加え、肘の曲げ伸ばしの運動がダウン、アップの運動の主役になります。

弓先を使うとき、肘が伸びます。同時に手首の関節を左方向に曲げることで、弦と弓の毛の直角を保つ意識を持ちます。手首を上下方向に安直に曲げないで、出来るだけ掌と弓のスティックを平行に保つことを久保田先生は指導してくださいました。小指をスティックから出来るだけ離さないためにもこの手首の運動は重唱であることは前回書きました。

肘を直角に曲げたときに、手の指の形が一番「ニュートラル」の状態に出来ます。肘から右手の4本の指(親指以外)の第2関節までが「市間の板」のようになります。

肘の高さは‥

このニュートラルの状態で、肩から肘、肘から指の第2関節までが「1枚の板」の状態になるイメージで移弦します。この運動は「上腕」を上げ下げする運動です。肘を高くしすぎると手首と掌が下がりすぎ、腕の重さを弓に転化できません。下げすぎても同じように無理な力を使わないと腕の重さを利用できません。
肘の上下は弓中央から弓元にかけての「元半弓」でも利用します。
中央から弓元に移動するにつれ、肘を「上げる(身体から離す)」
元から中央に移動するにつれ、上がった肘を「下げる(身体に近づける)」
この運動は常に均一に動かすことが重要で、動きにムラがあると弓の圧力に大きな変化が起こり、弓がバウンドする原因になります。

肘は身体(お腹・胸の全面)より、常に「前方」に維持します。
この位置が前後に動くと弓を弦に対し直角に動かすことが困難になります。
身体の真横から誰かに見てもらい、ダウン、アップで肘が前後に動いていないか確認してもらうのが一番わかりやすい練習方法です。
肘(上腕)の上下運動は背中の筋肉を意識します。大切なことは

肘(上腕)は高くしても肩は上げない!

ことです。肩を首の方向(頭の方向)に引き寄せると方の関節が上方に上がります。首の筋肉に不要な力が入るうえ、自由な運動を妨げます。

常に肩を一番下げた状態で、肘(上腕)を上下に動かす練習が必要です。

弾く弦によって、弓の傾斜が変わり、肘の高さが変わります。さらに、元半弓を使うときはそこからさらに上方に上がります。

この複雑な運動は自分の眼で確認することは不可能です。
鏡を見ても、真横からの視点、真上からの視点はありません。

弓の動きを確認するうえで、最も大切なことは「音を聞く」ことです。
直角が崩れたときの音色、肘が高すぎたり低すぎたときの音色、移弦の際の雑音がないか。ダウンからアップ、アップからダウンになる瞬間の音色。

すべては音に現れますから、その音の特徴を聞き分ける集中力が必要です。
小さい子供に教える時は、実際に指、手首、肘、上腕に手を添えてあげることが最善の方法だと思います。大人の場合、弾きながら自分の身体の各部位を意識する練習が大切です。

長々と書きました。

言葉にすると、難しいですが、実際にボウイングすることはもっと難しいものです。

久保田先生の門下は、ボウイングが美しいと私は思っています。

美しいボウイングこそ、美しい音色を出す根源だと思っています。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

メリーミュージック代表
野村謙介

弓を操る(その弐‥手首編)

前回の指に引き続き、ボウイングの考え方です。
手首の関節は、掌を真下に向けた状態で左右と上下に動かせます。
左右に動かす自由度は上下に比べて少ないものです。左右と言っても実は「弧」描く円運動です。この運動をそのままボウイングに使うと、弓も直線的には動きません。弦と弓の毛が直角に接していることが、摩擦を最大限に引き出して良い音を出す基本ですから、この円運動はある意味で要注意です。

上下の運動は、肘から手首までの部分「前腕」を水平にしたとき、
脱力すると掌の重さで掌が下がります。掌(手の甲)を水平にすると前腕と手の甲が一直線(平ら)になります。さらに曲げると掌が少し上がり前を向く形になります。

ここで手首の関節だと勘違いしていることを一つ。
掌を前腕に対して。左右に回転させる動きは、手首の関節の動きではなく、前腕の回転運動によるものです。
例えていうと、ドアのノブを左右に回すときの運動です。手首を見てみるとわかりますが、親指側と小指側に骨があり、手首だけを回転させることは物理的に無理です。つまり、掌の回転(掌を上にしたり下に向けたりする運動)は手首の運動ではありません。

久保田先生は、この手首の上下の動きについて、
「前腕と手の甲を平らにする」ことを基準にするように指導されました。
時に弓の中央部‥右ひじが直角に曲げた時の弓の位置で、手の甲と前腕が曲がっていると怒られました。
弓元に来た時の手首の曲げ方については、後ほど「肘の使い方」で詳しく書きますが、多くのヴァイオリニストが手首を曲げ、弦と弓の直角を作るのに比べ、弓中央部の時の一直線の状態を保つように指導されました。

先弓に来た時、手首を安直に曲げ(へこませ)がちです。
先弓で弓の動き、圧力を自由にコントロールするために、手首の関節の「左右の動き」を使います。

弦と弓の毛を直角に保ちながら、手の甲を弓の傾斜(E線A線D線G線)と大きく変えないこと。

弓先で掌を安直に外側(身体に対し右側)に向けてしまうと、小指がスティックから遠くに離れてしまいます。この運動は「前腕の回転」です。手首の回転ではありません。具体的に例えます。

弓中央から弓先にダウンボウする場合です。
中央で一直線だった前腕と手の甲の「面の方向」を維持し、
弓先まで直角に肘を伸ばすとき、掌は身体から少しずつ前方に離れていきます。
その際に、手の甲(掌)の弓の毛との「面」を保ったまま、肘を伸ばします。
その時に、手首を前腕に対し左側に曲げます。窮屈な感覚、引っ張られる感覚があると思います。手首の左右運動が少ないほど、窮屈に感じます。でも、小指はスティックに乗せた状態を維持できます。
手首を上下に曲げ、前腕を左側(内側)に回転させると掌は、外(右方向)に向いてしまい、小指が何もできなくなります。

文字にすると複雑ですが、上腕と手の甲をできるだけ一直線にしたまま、ダウンで弓先まで伸ばし、小指をできる限り、弓から離さないことを意識します。

手首の柔軟性は上下運動より、左右の運動範囲を大きくできるようにすることが難しいのです。

指がついている掌(手の甲)の関節、その次の第二関節を耐雷にする。
「グー」をしたとき、手の甲と指が直角に近くなりますね。
「パー」をすると、手の甲と指先までが一直線になりますね。
「ひっかくぞ!」の手の指の曲げ方。手の甲と指の第二関節までを平らにする形です。
この形を保って弓を持つイメージ。難しいですが、久保田先生はこの形を毎回のレッスンで厳しく注意してくれていました。

実際に弓を動かす「肘(前腕)」と「肩から肘(上腕)」の動きはまた、次回。

弓を操る(その壱‥指編)

ヴァイオリンの音色を大きく左右する「運弓(ボウイング)」について。

演奏者それぞれに、弓の持ち方と腕の使い方は微妙に違います。
どの方法が正しいというお話ではありません。
弦をこすって音出す弓の毛。弓の毛を支え、指で持つためのスティック(弓本体)、弓の毛と弦との摩擦を作るための松脂(ロジン)
このシンプルな要素の弓を右手の指、掌、手首、手首から肘までの腕、肘から方の関節までの上腕、腕を支える首と背中の筋肉。それらを意識することはとても難しいことです。
当然のことですが、弓に触れているのは指ですが、指だけで弓を大きく動かすことは不可能です。ですが、指の関節の柔らかさと強さのバランスはとても重要です。
恩師久保田良作先生は弓の持ち方にこだわられました。
親指を曲げることは、力のかかる方向を考えれば曲げることが理にかなっています。
親指が、「てこ」の原理の一点になります。
弓の毛と弦が触れている部分も「一点」です。
そして、弓の毛と弦の摩擦を増やすためにかける「圧力」は、人差し指が、もう一つの点となります。
実は薬指も人差し指ほどの力はありませんが、圧力をかけることができます。
毛箱に薬指の腹を付け、スティックに対して上方(親指の力の方向と同じ向き)に引き上げることで、弱い圧力をかけることができます。
小指は「丸くする」ことを久保田先生は厳しく指導してくださいました。
人によって小指をほとんど使わない演奏方法や、小指を伸ばしたままの演奏方法も見受けられます。これが「悪い」とは思いません。
小指を丸くすることの意味の一つは、力の方向性です。
簡単に言えば、人差し指が圧力をかける役割をするのに対し、小指は圧力を弱める役割をします。これが、圧力を弱める時の「一点」になります。
親指との距離が長いほど、少ない力で圧力を弱くできるのは、てこの原理です。
圧力を弱くする必要なんてあるのか?と思う生徒さんもいるでしょうが、弓の重さ(約60グラム)を少し弱くしたり、弓を持ち上げてダウンを連続したりするときに、親指より外側(スクリューのある側)に力点がなければなりません。
薬指は先ほど「圧力をかける役割の補助」ができると書きましたが、実は真逆に「圧力を弱める役割の補助」もできます。小指の補助的な仕事です。
それらの指をすべて柔軟、かつ瞬発的な運動が出来るように意識し、関節と筋肉(腱)を動かします。
弓先になれば、小指が届きにくくなります。それでも、完全に離してしまわないことを久保田先生に習いました。これも必要な技術です。
そして弓元で小指と親指で圧力と弓の方向をコントロールすることがとても大切です。

弓をダウン、アップで動かすときに指を「必要以上に動かさない」こと。

実は私は学生時代、「関節を動かしてはいけない」と思い込んでいました。
実際には、指の関節と筋肉のコントロールで、より微細な弓の速度と圧力をコントロールできることを、リハビリを始めてから感じました。
ただし必要最低限!で。
手首から始まり、背中の筋肉に至るまでの使い方については、次の機会に!

お読みいただき、ありがとうございました。
野村謙介

私にとってデュオリサイタルは‥

音楽のレッスンを受ける生徒さんにとって、楽器を弾く目的は様々です。
私(野村謙介)の演奏への思いをつづってみます。

音楽高校、音楽大学で専門家になるための基礎知識を学び、多くの仲間からの刺激を受けました。
大学生時代の演奏アルバイトも、演奏家として必要なスキルを学ぶ機会でした。
大学を卒業して、演奏家ではなく「学校の先生」として20年間、授業と会議、事務仕事と部活(オーケストラ)指導にに没頭し、ヴァイオリンを練習する時間も気力もありませんでした。
退職し、音楽を教えて楽器を販売する生活に変わりました。
20年間のブランク。自分の演奏技術を見直すゆとりは、教室を開いた当時には感じなかったのが現実です。
浩子(以後先生を省略します)と「リサイタルを開こう」と話し、自分の演奏技術を振り返ったとき、初めて楽器を練習していなかった20年という長い時間を思い知りました

それからの10年。

中学1年生から大学を卒業するまでの時間、不出来な生徒(私)に根気強く演奏の技術を惜しげなく教えてくださった久保田良作先生の声を思い続けています。
ヴァイオリンを演奏する「技術」は一人で黙々と練習することで、ある程度は習得できます。もちろん、そのレベルは練習の内容と時間で大きく変わります。
浩子と一緒に演奏することは、私にとって特別なものなのです。
先ほど書いたように、学生時代にも多くの人から演奏の刺激を受けていましたが、その刺激とは少し違う感覚です。

自分の過去と現在と未来

大げさに思われるかもしれませんが、人それぞれに今日まで生きてきた歩みがあるわけです。
人との出会いと別れ。
記憶に鮮明に残る体験。
今現在、抱えている不安。
明日、来年‥の自分。

浩子とデュオリサイタルに向けて練習するとき、楽器を練習している自分が、すべての過去につながっていることを感じます。
ヴァイオリンと心から向き合える時間が、どれほど貴重な時間であるかを感じます。
人様に聞いて頂ける演奏技術ではない‥と思い込んでしまえばそれまでです。生徒たちに自分が言っている言葉「舞台では自分が一番です」なのですが、練習の時は真逆に「へたくそ!」と自分に苛立ちます。
それでも!一緒に演奏してくれる大切な人と、自分の好きな音楽だけを練習できることは、至福の時間なのです。
演奏することに幸福感を感じられるのは、演奏家への神様からのご褒美です。
そのご褒美は浩子という「女神」が持ってきてくれたのだと思うのです。

ここまで読んで「けっ!いい年してうすきみわるっ!」と思われた方には、もうしわけございません。
最後までお読みいただき、ありがwとうございます。

メリーミュージック
野村謙介

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ある生徒さんのレッスン記録

教室にはたくさんの生徒さんが通ってくれています。
今年の9月で13期目を終え、14年目に入ったメリーミュージックです。
登録している生徒さんの数、713名。すべての生徒さんの個人カルテが保存されています。
すべての生徒さんが私たちの大切なお弟子さんです。

そんな中のおひとりを。
K君。現在高校1年生男子。1回目のレッスンは2005年11月9日金曜日11時から。当時4才でした。

おとなしく、素直な生徒というのが第一印象でした。毎週、欠かさずレッスンに通ってくるうちに、彼の個性がはっきりしてきました。
コツコツと毎日練習してくる几帳面な子供。ただ、姿勢を維持することが苦手でした。
貸し出していた分数ヴァイオリンはことごとく指板が削れるくらいに練習していました。
手に汗をかく体質で、その汗がとても酸性が強いようで弦がすぐにさびてしまうのも特徴でした。
コツコツコツコツ‥少しずつ上達し、やがて大まかな教本を終えたところで、本格的な基礎教本を使い始めました。
小学校高学年になり、毎日塾に通う日々の中、それでも毎日練習を欠かしませんでした。
受験が間近になり、一時的にレッスンをお休みしたときも、「絶対にやめませんから」というお母さんの言葉が忘れられません。
中学受験で志望校すべてに合格し、国立の中学校へ進学。すぐにレッスンが再開されました。
当時、歌うことが恥ずかしかったのか、表現が平面的でした。
練習曲集が大好き!という男子。次第に自分の考えや感情を言葉にするようになり、レッスンが一段と楽しくなってきました。
そして、とうとう私の身長を越えていまいました。(男子生徒が私より高くなると「破門」というルールがあります)
自分の好きな演奏、自分の弱い面、課題を的確に答えます。几帳面でありながら、はっきり「これは苦手」と線を引く強さもあります。
前回のレッスンで470回目でした。これもすごい数字ですが、私と彼の間に「師弟関係」がいつの間にかできていました。左手に関して言えば、もう教えることはほとんどありません。そのくらい上達してくれました。
将来はもっと数学の勉強をしたいと。音楽を趣味として、もっと上手になりたいという気持ちを持ち続けてくれています。
お母さんが毎回のレッスンに必ずついてこられます。私が師匠に「中学を卒業するまではお母さんもレッスンに来てください」と言われたことを彼とお母さんにお話ししたことも理由の一つのようです。
もちろん、彼一人でもレッスンに何の問題もありません。それでも、毎回教室でお母さんと待ち合わせをして学校からレッスンに来るK君は私の中では4歳の頃のかわいいちびっこのままです。

継続は力なり

まさに言葉通りです。どんな生徒さんにも個性があります。誰が一番‥ではなく、みんなが一番なのです。

これからも多くの生徒さんの成長を見守りたいと願っています。

野村謙介

練習の心得

「自分の好きな音で演奏できるようになりたい」
趣味として演奏を楽しむ方にも、仕事として演奏する私たちにも、共通の願いですね。
自分の好きな音が出せないという気持ちを、少し斜めから考えてみます。
そもそも「好きな音」は記憶に残っている外部から聞こえてきた音です。
自分の楽器を他の人が弾けば、全く違う音に聞こえます。
「先生が弾くと私の楽器もいい音がするんだけどなー」と幾度どなく生徒さんがおっしゃいます。

自分が楽器を構えて演奏しているときの音を冷静に聴くことが何よりも大切です。
どんな音が出ているのかを常に楽器に問いかけます。
少しだけ弾き方を変えて、また楽器の音に耳を澄まします。
楽器が「こんな音になるよ~」とあなたに答えてくれるはずです。

楽器を自分の技術でねじ伏せようとする人がたくさんいます。ちょっと楽器が可愛そうです。
力や技術で楽器より演奏する自分が「上」に立ってしまうと楽器はただの道具になってしまいます。

私たち演奏者自身の「筋肉」「関節」を自分自身がコントロールすることが一番難しいのです。

楽器を自分の身体の一部に感じるために、楽器と接する身体のどの部分もが、繊細な感覚を持っていなければ、楽器の響き、動きを感じ取ることができず、感じられなければコントロールすることもできないという、連鎖に陥ります。

楽器を構える前に、そして、音を出す前に、自分の身体の足先から頭のてっぺんまでのすべての部位を自分がコントロールできているか確かめてみましょう。

私の恩師、久保田良作先生の教えは「腰を安定させる」ことに大変厳しく、太ももに力を入れ、お尻の筋肉を内側に向かって力を入れ、つま先が少し浮くくらいのくるぶしに重心が来るように立ち、肩を下げ、あごを引き、頭を上に引っ張り上げる¨という「立ち方」にこだわったものでした。これはメニューインの指導書にも書かれていることです。

こうして立ちながら、楽器を構え、音を出すのはとても難しいことです。

音を出すことに神経が集中してしまいます。音に反応して体が硬くなります。

そうならないように、常に太ももと腹筋に力を集中することで、上半身の不要な力が抜けることが、やがて実感できるようになります。

姿勢は単にカッコよく見せるためにあるのではありません。自分の身体をコントロールするために大きな筋肉である太もも、足、おなかに力を集中し、首、上腕、手首、指の力を「必要最低限」に使うことが大切なのだと、この年になって感じるようになりました

話を戻し、自分の好きな音を感じられるようなるまでの道は、とても長いものです。言い換えれば、どんなに練習してもたどり着けない「見えない頂上」です。でも、だからと言って、諦めたらそこで終わりです。

かといってストレスだけを感じながら練習するのは意味がありません。

少しでも自分の好きな音を出すために、時間をかけて楽器と対話し続けること。

それこそが、楽器と仲良くなることの意味だと思います。

生徒の皆さんと同じように、私も日々自分の音を探し続けています。

頑張りましょう!

メリーミュージック

野村謙介

保育園コンサートの宝物


今年も保育園でのコンサートを実施しています。
先日のコンサートは60名程ほちびっこと近隣の方々に聞いて頂きました。
愛の挨拶、アニーローリー、リベルタンゴ、歌の翼に、ガブリエルのオーボエ、どんぐりコロコロ、大きな古時計、シネマパラダイス、チャルダッシュ、スペイン舞曲。1時間のコンサートを、子供たちはノリノリで楽しんでくれました。

演奏後、子供たちから写真の「手作り金メダル」を浩子先生と二人、授与されました!

何よりもうれしいプレゼントです。11月にはあと1回、12月には今年も「神奈川医療少年院」でのクリスマスコンサートが予定されています。

音楽の持つ不思議なやさしさで子供たちが安らいだひと時を過ごしてくれることがとても光栄です。

そして、12月24日のリサイタル、1月6日のリサイタルに向け、いよいよ準備の追い込みです。

野村謙介

2017弦楽器フェアに

2017fair
東京弦楽器フェア2017
元教え子君でクレモナで活動中の高橋修一くんと再会。テレビで見た窪田氏のビオラとバイオリンも味見(笑)
コメントありがとうございます!
保育園コンサートで疲れた背中の脂身(笑)追い打ちかけて背中は膏薬(ふるっ!)だらけ。
2010年の弦楽器フェアで陳さんと出会い今愛用しているビオラくんと出会い、その後縦型ケースの出品もありました。
今回、生徒さんの使う楽器のリサーチ目的と教え子君に会うために数年ぶりに行きました。
私が45年、使い続けている楽器の素晴らしさとこの楽器を迷うことなく私(の両親)に勧めた今は亡きバイオリン職人田中ひろし氏との出会いに感謝します。
自分の楽器が一番好き!と言い切れる自分に出逢えました。生徒さんに楽器店のオーナーとして紹介する立場です。結論から言えば一生のパートナーとなるバイオリンを選ぶ時、無理をしてでもオールドを手に入れるか、新作楽器から気に入った楽器を選ぶか?二つに一つだと言う結論。
オールドの信頼できる楽器は安くても一千万近い。それを考えると新作ですね。
弾き手で楽器の音色は変わるのです。自分にあった楽器を信頼できるバイオリン弾きと楽器店(職人)を見つけることができればあとは予算です。
現在で言えば150万前後が妥当な価格のようです(新作の場合)
でも高いよなー。(笑)

リサイタルチケット

12月24日(日)午後2時開演、もみじホール城山のリサイタルが近づいてきました。
クリスマスイブの午後、柔らかな音色でゆったりとしたひと時をお過ごしください。
小学生から高校生までは1000円。幼児は無料。大学生以上の方は1500円です。
難しい曲?長い曲?
いいえ。どんなお客様にも楽しんで頂けるプログラムを用意しています。
お申し込みは以下のフォームをご利用ください。

レッスンカレンダー表示について

教室のホームページに表示しています「レッスン予約状況カレンダー」の表示を少し変更しています。
「レッスン場所」「お名前の一部」「楽器名」です。
ご自分のレッスン日時や場所について、ご確認対抱けるようになりました。ぜひご活用ください。

教室ホームページ

夢の眼鏡発売ニュース


ニュースです。
「夜盲症」つまり薄暗いところでものを見ることができない病気です。
私の眼の病気「網膜色素変性症」はこの症状があります。
その苦しみから解放してくれる夢の眼鏡がついにできました。

この魔法のような眼鏡を開発し発売まで頑張ったのがHOYA
2017年12月に発売される予定です。まだ高額なうえに
医療器具として厚労省が認可してくれていないので
私たち障がい者の全額負担です。
一人でも多くの方にこの病気で苦しむ日本国内だけで
5万人以上の人のために知っていただければと思います。
YAHOOニュースでも取り上げられました。
こちらからどうぞ。

小さな音楽会終了


39組の熱演が終わりました。
幼稚園の子供から大人まで。音楽を演奏する楽しさを感じました。
誰かに聞かせることより、自分が満足する演奏を目指すアマチュア演奏家の演奏は
美術より本人の個性を感じるものです。

動画の演奏は高校生の演奏。同じ学年の二人が競い合わず、それぞれが楽しんで自分の好きな曲を好きなように弾いています。

誰でも音楽を楽しめます。それが自由であることの喜びです。

発表会に向けて

「人前で演奏する」ことが初めての生徒さんがたくさん、いらっしゃいます。

その生徒さんの中でも、大人の生徒さんの緊張は子供に比べてとても大きなものです。
初めての方に限らず、楽器を舞台で一人、演奏する経験はある意味で「不安」なものです。
不安と緊張が重なって、上手に弾ける自信がなくなるものです。
不安も緊張も、完全に失くしてしまうことはできません。むしろ普通のことです。
その不安と緊張を感じながら、どうしたら満足のいく演奏が出来るのでしょうか?

私たち演奏家が幼いころから舞台でいつも緊張せずに演奏していたわけではありません、
むしろ皆さんと同じように、舞台で「あがって」ガタガタ震えた経験を持っています。
その繰り返しをするうちに、様々なことに気が付きます。
「練習で緊張すること」
そうです。普段の練習で舞台で演奏する緊張感を持って弾くことが必要なのです。
練習で思うように弾けないのは、まだ練習が足りないから‥だけではありません。
たくさん時間をかけて練習すれば、出来るようになることは増えます。ただ、
舞台で弾いている自分をイメージしながら練習することが大切です。

さらに大人の場合、自分の演奏に満足できないので、不安がさらに強くなります。
そんな生徒さんにアドバイス。

「舞台では自分が主役。」
「聞いている人は失敗を気にしていない。」
「自分の弾けることだけ弾けばそれがすべて」

練習でうまく弾けない場所があれば、弾ける速さに遅くすればよいのです。
それでも難しければ、弾けるように楽譜を変えても良いのです。
音楽は「これが正しい」という正解はありません。
むしろ、大人の生徒さんは自分の演奏を客観的に聞けず、気持ちだけが空回りしているケースが多いのです。

私たち指導者が、正しい指導を、時間を十分にかけたとしても、
演奏する生徒さん自身が、自分の演奏に満足できるか?できないか?は
生徒さんにしか決められません。自分の演奏にだけ、集中することです。
どんなにたくさん人がいても、たとえ聴衆が一人でも、自分が満足できればそれでよいのです。

「それでもうまく弾ける気がしない!」という方へ。
舞台で演奏するのは、普段の自分とは違う人格の「別人」なのです。
自分の姿を自分の眼で見ることは人間にはできません。
自分の声を他人が聞いている状態で聞くことも人間にはできません。
自分が出している音が、どう人に聞こえているかは自分にはわかりません。
つまり、自分が「下手だ」と思っていても聞いている人が「下手だ」と思うことはないのです。
楽器を演奏する時は、主役になりきることです。おびえることはありません。

みなさんの演奏はみなさん自身のためだけにあるのです。
それがアマチュアの音楽の醍醐味なのです。

演奏することを楽しむ自分をイメージしながら練習してください。

野村謙介

恩師と40年ぶりの再会

20170902
私のページに書かせていただいている、恩師のおひとり安良岡ゆう先生と40年ぶりの再会を果たしました。

中学校3年生だった私に、ヴァイオリンで音楽を演奏することを「一から」「手取り足取り」教えてくださった恩師です。
もし、安良岡先生に出会わなければ、音楽の道に進むことはなかったはずです。今、私が使っているヴァイオリンを初めて弾いてもらったのも安良岡先生。入試のために必要な技術をすべて教えてくださったのも、音楽の作り方も、楽器の鳴らし方も、すべて習った気がします。

私が高校に入学する年に大学を卒業され、すぐにスイスに留学され、その後もヨーロッパを中心に演奏活動を続けられていたため、お会いする機会がありませんでした。

9月2日。高校生の生徒さんのレッスンを特別にしてくださったのですが、生徒より私が緊張しました。

レッスン後、自宅にお招きし昔話に花を咲かせました。
昔のまま、素敵で明るい先生。いつかまた、お会いする日までに、修行し直しです!

メリーオーケストラ定期演奏会終了


8月13日(日)NPO法人メリーオーケストラの第32回敵演奏会が終了しました。
来場者429名。演奏者約70名。客席とステージが一緒に音楽を心から楽しむ時間でした。
教室では生徒さん一人一人のレッスンを行っています。音楽を演奏する楽しさの一つが、他の人と一緒に同じ音楽を演奏することの充実感、達成会はまた違った楽しみです。
杜のホールは橋本に出来て16年。オープンの時から欠かさず年に2回の演奏会を開き続けています。

年齢制限もなく、もちろん技術レベルを問うこともありません。
オーケストラは吹奏楽より多くの楽器が同時に演奏します。
その多くの楽器と一緒に演奏することはオーケストラに入らないと体験できません。
多くの市民オーケストラが入団時にオーディションを行ったり、募集する楽器に制限があります。
メリーオーケストラでは演奏に参加できるすべての楽器の入会希望者をいつも受け入れています。
楽器を練習するのは一人一人の会員が自分で楽器を調達して行いますので、自分の楽器を持っていることが条件になりますが、全くの初心者でも教室で楽器を準備して練習する方法を学べば、あとはみんなと一緒に合奏することを目標に頑張れます。

上の動画をみると、「あんな難しい曲は弾けない!」と思われますが、絶対に大丈夫です。
これは入ってみないとご理解いただけないのですが、一人一人の演奏技術より、みんなで演奏して出てくる音が大切なのです。

ぜひ、楽器をもって次回2月4日の演奏会に向けての月一度の練習に遊びにいらしてください。練習予定は
メリーオーケストラホームページ

で来年の練習予定まで掲載されていますのでご覧ください。

メリーオーケストラ定期演奏会へ

来る8月13日(日)午後2時開演。橋本駅北口ミウィ7階、杜のホールはしもとで
NPO法人メリーオーケストラの第32回定期演奏会が開かれます。
年に2回の定期演奏会を欠かさず16年間、杜のホールで実施してきました。

今回は、ガーシュイン作曲「ラプソディインブルー」を始め、ビゼー作曲のカルメン組曲、クライスラー作曲「中国の太鼓」、現在東京で上演されているミュージカル「シカゴ」など、多彩なプログラムです。
中には「好きになった人」や「地上の星」など多くの方が聞きなじみのある曲、そして「ガブリエルのオーボエ」というモリコーネ作曲の映画音楽なども演奏します。

総勢70名ほどのアマチュア・プロ混合の大編成オーケストラです。

普段はオーケストラになじみのない方でも必ずお楽しみいただける上に、なんと

無料

赤ちゃん連れでも、もちろん小さなお子様連れでも遠慮なくお聞きいただけます。障がいのある方も大歓迎です。全席自由です。

メリーオーケストラとメリーミュージックは「兄弟」のような関係です。オーケストラのメンバーの中には、メリーミュージックの生徒さんもいれば、指導している先生もいます。「元」メリーミュージックの生徒さんもいれば、ぜ~んぜんメリーミュージックとはかかわりのない方もいます。中には生徒さんのご家族だけが参加している、なんていう人もたくさんいたり。

ヴァイオリン・・ヴィオラ・チェロ・コントラバスという弦楽器。
フルート・オーボエ・クラリネット・サックスの木管楽器。
ホルン・トランペット・トロンボーン・チューバという金管楽器
さらにはドラムセット・ティンパニ・シンバル・グロッケンシュピール・シロホンなどの打楽器

それらの楽器を小学生から80代の方まで、同じステージで演奏する姿は日本でもメリーオーケストラ以外には見られない光景です。

月に1度の練習だけで、毎年2回の定期演奏会を行うわけで、6回の練習で演奏会ということになります。初心者もプロも一緒に楽しみながら練習し演奏会を楽しんでいます。緊張はありますが、全員ができる限りの準備をしています。

どなたでも参加できます。楽器さえお持ちであればすぐにでも。
まだ、楽器がなくてもこれから始めれば来年の演奏会ではステージに一緒に演奏できるでしょう。

日本中に多くのオーケストラがある中で、私たちメリーオーケストラは「特定非営利活動法人」(NPO法人)のアマチュアオーケストラでs、これは日本にメリーオーケストラだけでした。現在はどこかで誕生しているかもしれませんが、それくらい珍しい存在でもあります。青少年の健全な育成・音楽の普及という二つの目的のためだけに活動し、活動による営利を求めません。運営はすべてガラス張りで公開されます。年に1度の総会も開き、毎年役所にすべての書類を提出します。要するに運営がとても大変なのです。

なのになぜ?この道を選んだのか。

一人でも多くの方に活動を理解していただくためです。

会員は月3千円の会費を納め、そのほかの資金は賛助会員の方々からの一口2千円の賛助会費で運営します。演奏会のときには、会員が演奏会費を支払ってホール代、印刷費、楽器運搬費用などをすべて自分たちで賄います。プログラムに広告を載せるアマチュアオーケストラが多いのですが、NPO法人ではそれができません。また、演奏会の入場料をお客様から頂くことは、定款上可能なのですが、そうすれば会場に見えるお客様が減少します。これは現実です。

プロの演奏者も実はみなさんノーギャランティで参加してくださっています。毎月の練習にはメリーミュージックの指導者が派遣されています。業務委託をしているのです。これも兄弟関係だからできることです。

真夏の一日を、涼しいホールで楽しく過ごしませんか?
みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げております。

メリーミュージック代表
メリーオーケストラ理事長・指揮者
野村謙介

小さな音楽会申込書

9月18日(月・敬老の日)午後1時から、もみじホールで行われる第21回小さな音楽会の
参加申込書が出来ました。提出は8月27日までにお願いします。
ダウンロードは

参加申込書

からどうぞ。

中学校弦楽オーケストラ指導

今年も茨城県の総和中学校ストリングオーケストラ部の指導に呼んでいただきました。

毎年恒例になっているこの出張指導は、20年中学校高校でオーケストラ指導をしていたころの経験と、その後のメリーミュージックでの指導経験を自分自身が確認するチャンスでもあります。

子供たちは、毎年入れ替わり、時には部員数が減ることも増えることもあります。
また、顧問教諭も異動することが宿命となります。私が伺い始めてから、3人目の顧問が指導の中心になっています。

そのアンサンブルは月に2度ほどのトレーナー指導と、ほぼ毎日の部活動で演奏会、ディズニーでの演奏など子供たちの発表の機会もきちんと認められています。ある意味で恵まれた環境です。

学校によっては、外部の指導者を招いてはいけない!ディズニー「なんか」で演奏することに教育的な意味はない!と言い切る三流の学校も「ありました」そんな学校は置いておいて‥

総和中学校の生徒たちに毎年違うことを伝えます。
今年は例年に比べ、伺った時期が早かったので、音の出し方、歌い方、それを表現する技術についてレクチャーしてきました。

腕の運動だけで楽器を弾いてしまう子供たちです。たった二つの音だけでも、弓が逆になると弾けないことに、本人たちが驚いていました。また、当たり前になんとなく弾いている旋律を「あたりまえでなく」弾いて見せました。その変化にも食い入るような眼で私を見ていました。

子供たちが何に向かって練習するのかをいつも問いかけます。
上手に弾くということが「間違えずに弾くこと」とは違うことを教えます。

また今年も新しい感動と課題をもらって帰ってきました。

子供の習い事を考える

私も含めて多くの大人たちが、子供の頃の「習い事」に感じていたことと、
現代の若い親世代が感じている「習い事」の間にはどうも、大きなギャップがあるようです。
今回は子供の習い事について考えてみます。

昔(今から40年ほど前)には、学校以外で子供が習うことと言えば「塾」「ピアノ」だった記憶があります。
そのほかにも、そろばんや、習字、剣道‥そのくらいしか近所には習えるところがありませんでした。そんな時代でした。

私の場合は、体が弱かったので両親が音楽「でも」と近所にヴァイオリンを教えてくれる先生を探して、親に連れられて通い始めました。当時、学校内でヴァイオリンを習っている子供は学年に一人はいませんでした。それくらい、珍しいことだったのだと思います。

決して裕福な家庭ではなかったのですが、私が習うことに両親は「やり始めたのだからやりなさい」というスタンスでした。練習嫌いな私は、毎日のように母親に「練習しなさい!」と叱られ、反抗すれば「お父さんに言うからね」‥実際、その夜には帰ってきた父親に「練習しないならやめろ!」と怒られる日々でした。それでもやめなかった私と、やめさせなかった両親。両親とも音楽に関してはまったくの未経験者でした。
昭和一桁生まれの両親ですから、時代から考えれば当然です。

子供は色々なことに興味を持ちながら育ちます。時にはスポーツに憧れ、時には友達が習っている「何か」に憧れます。興味を持つことはとても大切なことですし、とりあえずやらせてみたら‥という親の気持ちは理解できます。ただ、当時は「習い事」はそんなに簡単なことではなかったのが現実です。

さて、現代はどうでしょうか?

子供の興味は昔同様、あれもこれも面白そうに感じるのです。
さらに、探せば簡単に習える教室や先生を見つけられるのも昔と違うことです。
ダンス、スイミング、英会話‥習えることも昔とは比べ物にならないくらい多くなり
手軽に始められる時代になりました。
子供のやりたいことを応援する。

親として当然の気持ちです。現実には経済的理由や共働き、住宅環境などで、応援の気持ちだけで終わることもあります。これは昔もそうでした。

始めることは簡単。やめることも簡単な時代

多くの子供たちを教えていて感じるのは、子供本人の意思より、親の意志の弱さを感じることが増えたことです。
子育てはどんな親にとっても「初めて」の経験です。だからこそ、迷い、躊躇し、時には間違うものです。ただ、子供と親である自分が、共に育つ意識と、共に学ぶ気持ちがなければ、少なくとも習い事は実を結びません。

子供より親である自分の気持ちが優先し、無理やり習わせたり、無理やりやめさせたりする親を見ると、なんとも悲しい気持ちになります。
子供が習い事に興味を失うのは、ごく当たり前のことです。それが子供です。
始めたことを続けることの大切さと、やればできることを教えることが、子育てではないでしょうか?

どんなことでも、諦めずに頑張っていればできるようになる体験。
親が子供と一緒に学び、時には一緒に苦しみ、笑うことがどれほど大切なことなのか、親でなければ味わえない喜びだと思うのです。

すぐに出来るようになる習い事もあるかもしれません。
出来るようになった実感を感じにくい習い事もあります。音楽はその代表かもしれません。
まして、親が音楽の習い事をしたことがなければ、子供がうまくなっていることや、何に躓いているのかがわからないのは当たり前です。だからこそ、自分も子供と学び、子供を応援するのが親の務めだと思います。

習い始めて、すぐにやめてしまう親子が増えている現代。珍しいことではないのですが、教えていてとても空しい気持ちになります。

ヴァイオリンを習う、ピアノを習うのが、なにかのステイタスだと勘違いをしている親もいました。「うちの子はヴァイオリンを習っている」「だからヴァイオリンが弾ける」と子供の練習を聴くこともせず、レッスンでも無関心に携帯に没頭する親を見ると、どうして?うちの子は弾けるって言えるんだろう?と不思議に思ったこともあります。

お金を頂いてレッスンをしている私が、こんなことを書くと生徒さんが減っちゃうよ!と気を使ってくださる方もおられるでしょうが(笑)
子供たちの能力を信じて、親と一緒に音楽を楽しめる将来を見据えてレッスンをする以上
親の協力なしに子供の習い事は実を結ばないことを伝えたくて書きました。

メリーミュージック代表
野村謙介

演奏中の「集中力」

練習であっても、レッスンの時でも、発表会、演奏会でステージの上にいて演奏するときでも、「何を考えているのか?」ということがとても大切なことです。

今日はその「考え事」を考えます。
趣味で演奏している方に試してもらいたいのが「目を閉じて音を出す」体験です。

暗譜をして弾くという意味ではなく、むしろ無意識に見ている風景を消すことに目的があります。
楽譜を見なくても音は出せますよね。もちろん、楽器を構えて音を出す準備をするまでは目を開けてしっかり準備して良いのです。さぁ、音を出してみると、何かが違うはずです。

何気なく見ているもの

が、わかるはずです。楽譜や指、弓を見ないことで私たちの五感は鋭くなります。
聴覚、指先の感覚、あごや肩に伝わる振動‥いつもは見過ごしている感覚に気づくでしょうか。

音が出始めてから出終わるまで、常に集中していること。この連続が「音楽」になります。
何も考えないで、音楽に没頭し、まるで自己陶酔しているかのように見えるプロの演奏ですが、何も考えていないわけではなく、自分の出す音にすべての神経を集中しているのです。
ただ、集中するといっても、何に集中するのかが問題です。

楽譜を思い出すことに集中していては音は聞けません。
指使いやボーイングだけに気を取られ続けていても音は聞こえません。

「音を聞きながら、次にすべきことを考え、出した音に集中する」
その繰り返しです。音の中に、技術のすべてが含まれています。そんなに難しいことではありません。かすれていたり、つぶれていたり、ピッチが外れていたり、硬すぎたりといくらでも聞き取ることができます。

もう一つ大切なことは、考えるという感覚は、同時にに一つのことしか考えられないという現実です。一度に二つのことを同時に考えうることはできません。考えずに体を動かすことはできます。例えれば‥

車の運転(自転車の運転でも)を考えてみてください。
無意識にいろいろな操作を同時にしているはずですが、一つ一つを考えてはいません。
考えなくても体が動いているのです。
楽器を演奏するときも、同じように「できます」が「しない」のです。

少しでも短い時間、一瞬にあることに注意を払い、すぐに違うことに注意をむけます。
右手、左手
右手でも手、手首、肘、肩
左手は指、掌、手首、肘、肩
たくさんの「部分」がありますが、短い単語で注意する部分(体の部位)に注意が向けられます。

練習するとき、陥りやすい落とし穴。
一つのことに、こだわり過ぎることです。
例えば、左手首に注意を集中した「まま」でずっと弾き続けると、他のことは考えられないままで音を出し続けてしまうことになります。気が付いた時には、音も聞かず、左手首のことしか頭になくなっています。

音楽を感じることは、技術ではありません。感情です。
感情のない音楽は「音楽」ではない「音の羅列」にすぎません。
どんな音楽であれ、演奏する人の感情を、技術で音にするのです。
「こんな音を出したい」「こんな音色で弾きたい」「こんな音楽にしたい」
それを具体的に、どうすればできるのかが、技術ですから音を出すこと自体が「技術」なのです。
音は出せても音楽にならないのは、まず自分がどんな音を出したいのかというイメージがないからです。いくら音をつなげても、音楽にはなりません。
いくら練習しても、きれいな音が出ない‥思ったように指が動かない‥
時間をかけて、体が無意識に自分の出したい音を出せるようになるまで繰り返すしかありません。

目を閉じて、自分の音に集中できれば
きっと「目をつぶってもできる」ことの意味が分かるはずです。

お試しあれ。

メリーミュージック代表
野村謙介

ケースを選ぶポイント

ヴァイオリンケースを選ぶとき、どんなことに重点を置きますか?


私、野村謙介は「ケースマニア」を自称しております。あくまで自称ですので。


そもそも、ケースは何のために、いつ使いますか?


「楽器を持って移動するとき」「保管するとき」


雨の日、楽器をもって出かけるのは気を使います。大きな傘をさしても風が吹くとケースはびしょぬれ(涙)

雨に濡れたケースから、雨水が中に入る(染み込む)と楽器が濡れます。致命的です。

ケースそのものをカバーする「ケースカバー」が市販されています。最近の製品は、ケースを背負ってもカバーできるように作られています。ただ、



「たかい!」


一番安くて、かつ、かっこ悪い(ダメだけど)防水対策は「45リットルポリ袋」です。
もちろん、90リットルサイズでも。使い捨てるもよし。ゴミ袋として再利用するもよし。しかし、白色・黒色は街中でかなり!目立ちます。透明なものをお勧めします。


ケースカバーがない状態で、ケースが雨にぬれるとどのくらい、中に染み込むのか?

自分の楽器とケースで実験したくないですよね!わたしも当然。でも

やった人たちがいます。


実は私、ヴァイオリンケースを開発・製造・販売までしたことがありまして、その時の製造メーカーが各社のケースを新品で買い求め、ホースで水を30分かける!という過酷なテストを行いました。結果‥


どんな高いケースも中に水か染み込みます。


ただ、その量はケースによって大変な違いがありました。

どの製品が?

申し訳ありません。はっきり申せませんが。

「値段が一番高いケースがよいとは限らない」

ケースの主素材がカーボンであっても、FRPであっても、「開口部(咬合部)」「ヒンジ部」から水が入ります。ケース表面主素材が布地の場合、生地が撥水加工してあっても次第に水が染み込んでしまいます。


ファスナー(ジッパー)が防水と、うたわれていても、水が入ります。

結論。雨の日は、カバーをかけましょう。


ケース選びのポイントその2。

「堅牢性(丈夫さ)」です。


満員電車の中で、抱えて持っている楽器ケース。他の方の「じゃまなんだよっ!」という無言の圧力と視線に耐えたとしても、実際、人に押される圧力に耐えられないケースもあります。

昔のケースは木枠に布カバーをつけた構造でした。高いケースはとにかく丈夫でした。長いバス移動の際には足元に置いて足を載せていられたそうです(汚れを気にするとできません)


発泡スチロール素材のケースはあっさり潰れます。楽器を守れなければ「ケースではない」


次のポイントは「重さ」


軽くするためにはどうするか?

素材を軽くする&パーツを軽くする&余分なパーツをつけない


軽い素材は?「炭素繊維(カーボン)」です。が!

実はカーボン繊維は同じ厚さ、同じ面積だと他の樹脂素材(FRPなど)より重いのです!これホントです。


ただ、強いのです。FRPで、ある硬さ(強さ)を得るために必要な厚みを、カーボンではずーーーっと薄くて硬さが出せます。つまり


カーボンケースは本来強いケース


なのです。軽いケースと思い込むより本来丈夫なケースなのです。


重さはカタログ数値より、実際に手にしてみないと実感できません。

カタログにかけない、バランスとハンドルの形状、ケース全体の凹凸計上で重くも軽くも感じます。ケースを楽器店で選ぶとき、ぜひ、楽器・弓・小物を入れてみて、手にもって比べてください。必ず違いがあります。


色・かたち


これは好みなので、あえて触れません(笑)が、ケースを開けたときに、蓋(ふた)が完全に向こう側に開ききるタイプ(日本以外はこちらが主流)と、90度に開いたところでひもがストッパーになるタイプがあります。一長一短です。これもお好みで。

色のバリエーションが多いものと少ないものもありますね。これもお好み。





実は一番、気にしてほしいポイント


留め具の「開き、にくさ」・‥開きにくいほうがいいのです


知らない間に留め具が外れ、背中でケースのふたが開いていた!これ、私の経験です。

鍵がかかる留め具もあります。ダイヤル式なら問題ないですが、「鍵」を使って開けるタイプは、忘れたら壊すしかありません。

簡単に開けられる=あいてしまう!

ファスナー(チャック)式だったころには考えられない事故です。

カーボンなどの樹脂製ケースの場合、留め具に注目してください。


ちなみに私はヴィオラのケース(BAM)の留め具を改造して、フライトケースに使われるロータリー式に取り替えました。動画もございます。

改造ビオラケース

私の「お気に入りケース・トップ3」


第1位‥自分で開発したケース(すみなせん!生産販売終了していて入手は困難です)

第2位‥BAM社製ハイテックシリーズ


第3位‥フューメビアンカ(白川総業)


そんなところですね。あくまで、好みの問題ですが、

良いケースを持ちましょう!


メリーミュージック

野村謙介

弓を選ぶ

今回はヴァイオリンの弓について。


ヴァイオリンの音を出す仕組みを考えてみて下さい。

弦を弓の毛で「こすって」音が出ます。当たり前!と思いがちですがもう少し深く考えてみます。

弦を指ではじいて音出すピチカートをするとき、弦を横に引っ張って離した瞬間、弦は横に振動して音を出します。

強く引っ張れば大きいピチカート、弱く引っ張って離せば小さなピチカートの音がでます。


当たり前?


それでは弓の毛でこすって音を出すときには、どうでしょうか。



「どうしたら大きな音が出せる?」という問いに

「弓を速く動かす」「弓をたくさん使う」と答える生徒さん、特に中学生・高校生のオーケストラ部員が答えてくれます。


実は「強くこする」ことが正解です。


弓の毛と弦は摩擦で音が出ることは想像できますが、よく考えると少し「ん?」と思うことがありますよ。

弓でダウン(下げ弓)の状態で音を出すとき、弦は演奏者から見て右側に引っ張られ「続ける」ことになりますよね。あれ?ピチカートの話で弦が左右に振動して音が出ることは書きました。あれれれれ?


いつ、弦は左に戻り、また右に(ダウン方向)に引っ張られているのでしょう?


みなさんご承知のように、弓の毛の表面にある凸凹に、粘着質(粘り気)のある松脂の粉がつくことで、馬のしっぽの毛にある小さな凸凹が大きなネバネバした凸凹になって、弦に引っかかって音が出ます。


弓の毛に引っ掛けられて、ダウンなら右に引っ張られた弦は摩擦より大きな力で反対方向(ダウンの場合は左)に滑って戻ってまた引っ掛けられて、引っ張られて‥の繰り返しをしています。


つまり、弦の振動の上で弓の毛は常に細かく滑っていることになります。


大きな音で弾くと弦が大きく振動します。弓の毛も振動します。弓の毛を弓の両端で引っ張っている、弓の木(スティック)も振動しています。


このスティックの振動を弓を持っている右手の指で、感じられます。「え?」と思う方は、すぐに試してみてください。


弓の木は弦や、ヴァイオリン本体と違い、音を出しません。

が、弦を振動させる弓の毛を、支えるという、とても大切な仕事もしています。


ところで「良い弓」とはどんな弓でしょうか?


まれに「弓はとりあえず何でもいい」「楽器ほど重要ではない」と間違っている方がいます。

まさに「おおまちがい」なのです。弓は楽器本体とまったく同じ重要性を持っています。


弓の重さと長さには規定があります。というより、ヴァイオリンが今の形になってからも、しばらくの間、弓は形の変化がありました。現在の弓の「モデル」となったのが「トルテ」という作家の弓と「ペカット」という作家の弓です。現存する二人の作品は非常に少なく1000万円を超える価値があるともいわれます。

ヴァイオリンそのものより、修理できる部分が少なく、折れてしまうと復元は不可能で全損扱いとなります。



弓の重さの重心は、弓の木の真ん中‥ではないこともご存知ですよね?「え?」と思われたら、ご自分の弓でお試しください。真ん中よりはるかに「元」よりに重さの重心があります。


弓を持った時、軽く感じる弓と重く感じる弓があります。実際にはかりで計測すると全く同じ重さの弓でも!


それは弓の重さのバランスによるものです。先が重ければ重く感じます。先の重い弓は大きな音を出すのが楽です。弓先で大きな音を出すためには、右腕が伸びている状態で親指と人差し指で重さを加える(薬指を上に引き上げる力も少しは使えますが)ことが必要ですので、先が重たいとその点で有利です。


ただし、先が重いと素早い移弦が難しくなります。慣性の法則です。先が軽いほど、振り回されないことになります。
が、軽ければよいわけでもないのです。


そして、弓の弾力の強さがあります。「縦と横」の強さがあります。


弓を持って、左手に弓先を乗せ、弓の毛の方向に曲げようとするのが「たて」の力、

その90度方向(弦に乗せたときには前後方向)が「よこ」の力です。


一般に強い弓と言われるのは、縦方向、横方向に曲がりにくい、硬い木の弓を言います。


強い弓ほど良いでしょうか?


答えは「いいえ」なのです。


硬すぎると弓の毛の弾力と弦の弾力を、弓の木が感じられず、結果として演奏者の指への振動の伝達がなく、
「毛と弦の音」しかしなくなります。


柔らかすぎると、フォルテを出したいときに、弓中央で腰が砕けた状態になり、また横方向に弱いと音色の変化を出すことができなくなります。




「バランス」「強さ」のどちらともに演奏者の好みが大きく分かれます。

弾きやすさにも大きな違いがあります。弾く曲にもよります。


「音量が出せて、音色の変化量が大きく、扱いやすい弓」


はっきり言えばともて希少です。楽器を選ぶより難しい時代です。なぜならば


弓に使われるフェルナンブッコという種類の木が原生しているブラジルから、ワシントン条約によって、原木の形での輸出が禁止されたからです。弓の形をしていれば輸出も、日本からの輸入もできます。ブラジルで作られた弓‥ってあまり見ないですね。ありますけれど、数は少ないです。現在の弓は昔、手に入れた原木を大切に使って作られているか


代用の木


で作られています。そして「カーボンファイバー」が代用として使われる時代になりました。


残念ながら、木の振動の伝わり方までは現在のカーボン弓には求められません。


強さ、バランスは最高の弓と同じレベルのものを大量に、当たり外れなく作ることができるので

木の弓の「セカンドボウ」としてなら、大いに活用できます。また、代用の木でできた弓と同じ値段なら私はカーボンの弓をお勧めします。なぜなら、将来、自分の気に入った弓を手に出来たとき、代用の木で作られた弓は腰が抜けて使い物にならなくなっている可能性が「極めて高い」のです。カーボンは長く使えます。




いかがでしたでしょうか?

弓の重要性、少しは伝わったでしょうか?


ご質問などありましたら、お気軽にメールでお問い合わせください。


office@merry649.com


代表野村まで、どうぞ!みなさまのご感想などもお待ちしております。



メリーミュージック代表


野村謙介


趣味の楽器とプロの楽器

特にヴァイオリンは「高い」と思いますね。
もちろん、ピアノだって高いのですが、一番安いヴァイオリンと一番高いヴァイオリンの「差」が桁違いですね。

一番安いヴァイオリン、ケースまでセットで新品1万円以下で手に入ります。でも!これを「ヴァイオリン」と言えるのか?と真剣に問われれば「いいえ」と答えます。

ヴァイオリンがヴァイオリンとして認められる条件で一番大切なのは、使われている材料です。木材もニスも含め、本物のヴァイオリンというために「これを使って、こう作る」というセオリーがあります。それを無視して形と色だけ、マネをしたものは「レプリカ」と言えます。

そうはいっても、趣味で使う道具にどれだけお金を使えるでしょうか?人によって違いますが、少なくともその道具「楽器」でお金が得られるのでなければ、まさに「贅沢」かもしれません。中には、安く買って高く売って利益を得る「コレクター」と呼ばれる方もいますが、趣味で演奏する方とは楽器購入の目的が違います。

演奏して楽しみたい。でも自分が自由に使えるお金は、ここまで!でまず予算が決まります。その金額によって、手に出来る楽器を選ぶ際の選択肢が増えると考えてください。

先ほど述べたヴァイオリンとしての条件を満たしている楽器の中で、「音色」「音量」「造作の美しさ」が選ぶポイントになります。演奏技術によって出せる音色、音量は変わります。プロが演奏すると音色、音量をコントロールできます。趣味で初めて楽器を手にする方にはその技術はなくて当たり前です。ですが!

初心者だからこそ、楽器の持っている音色、音量が重要なのです。

「私にはもったいない」という言葉と「技術がないから差が出ない」という言葉。
一番良く耳にする言葉です。気持ちは理解できますが、間違っています。

趣味の方の「今の技術」を見極めて、その技術がこれから伸びていくことを計算に入れて、楽器を選定できるのは「プロ」です。つまり、純粋に楽器の良しあしだけでなく、その生徒さんの予算と技術、すべてを考えて少しでも趣味で楽しめる楽器を選ぶことが私たちプロの演奏家の仕事でもあります。

プロが使う楽器は同じヴァイオリンであっても、用途が違うと言えるでしょう。演奏するホール、地域、曲の編成など、様々な必要条件をクリアできる楽器でなければ、お客様に満足してもらえる演奏はできません。無理をしても楽器を買うのは、そうした必要に迫られてのことです。その結果として10億円を超える値段が楽器につきます。ありえないような金額ですが、これは「ビジネス」の世界の結果なので土地の値段が場所によって違うのと同じです。金額の根拠はないのです。10億円のヴァイオリンが10万円のヴァイオリンの‥えーっと1万倍?(間違っていたらごめんさない)いい音がするのか?大きい音がするのか?といえばそんなはずがありません。手間が1万倍違うわけでもありません。
「ほしいから買う」「買うために今の楽器を売る」の繰り返しも値段が上がる理由の一つです。古ければよい音が出る¨とは限りません。古ければ高い¨とも限りません。間違えてはいけません。古くてもダメなもの、さらに言えば「ヴァイオリンのレプリカ」だってあるのです。

趣味で楽器を選ぶなら、信頼できるプロの演奏家で楽器を選ぶ経験の豊富な人に選んでもらうのが最善策です。間違っても、お店で「あれ、ください」だけはやめましょう。

次回は「弓の選び方」について。

メリーミュージック代表
ヴァイオリニスト 野村謙介

趣味の楽器演奏

生徒さんが楽器を演奏することの楽しさを色々な補法で伝える仕事をしています。

趣味で楽器を演奏することは、プロの演奏家からみて、楽器演奏を楽しむ純粋さという意味でとても羨ましく思えることがあります。
なによりも演奏する方自身が自分の好きな音楽を好きな時に、好きなだけ演奏できることです。プロの場合は必ずしも自分の好きな曲だけを演奏できるとは限りません。また、聞いて頂く方から頂くお金で生活するのですから、プロである自分の演奏に満足していただけなければ生活できません。
時々生徒さんから「趣味なので上手にならなくてもいいんです」「プロを目指すわけではないので」という言葉をお聞きします。前者については、生徒さん自身の上達意欲があっての練習なので「言葉だけ」の意味だと思っていますが、もし本心でうまくならなくても良いと考えておられるならそれは間違いだと思います。プロのレベルを目指してほしいということとは全く違い、生徒さんの技術を自身が楽しめるように考えてのレッスンなのです。
後者「プロを目指すわけではない」という言葉の裏に、私たちの指導、アドヴァイスが生徒さんにとって難しく感じているときによく耳にします。
過去に学校で中学生高校生のオーケストラを指導しているときにも生徒たちが口にしていました。これは極めて当たり前のことですが、生徒さんにとってプロになるために必要な技術を習得する練習は「未知の世界」なので、もしかするとこの先生(私)がプロになるための練習を自分(生徒さん自身)に求めているのかと思ってしまうのです。
私たちはプロがプロになるための練習の厳しさを知っていることと、アマチュアの人が目指すものが違うことは、きちんと理解しています。
むしろ、学校などで指導する先生自身が音楽を趣味とするレベルである場合が殆どですので、どのくらい練習したらどの程度上達するのかを「知らない」状態で無謀な練習を生徒たちにさせていることの方が気にかかります。
話は少しそれますが「学校の部活動」で音楽を教える立場ならば、あくまて学校の授業の一部として限定することが前提です。このところ、部活指導者を教員以外に頼ることで、顧問教員の負担を軽減する¨という話題がありますが、これはどこか間違っています。
学校の活動です。生徒が主役です。生徒の日常生活を圧迫してまで活動するのは明らかに行き過ぎた活動です。私的な音楽団体やスポーツクラブなら、指導者が専門家で保護者が契約したうえで指導が行われますから学校の活動とはまったく違います。いつのまにか、混同してしまっているのです。
話を戻しますが、趣味の音楽は本来楽しいものです。練習することも楽しく感じられる指導が必要です。「上手になれば楽しい」ことを実感できることが大切です。練習しなければ上達しないので、楽しみも感じられません。レッスンで辛いのは、まったく練習ができない生徒さんに少しでも練習する楽しさと大切さを知ってもら「えない」時です。
プロを目指すのではないからこそ、自分の楽しさを実感できる練習をしてほしいと願っています。

弓の持ち方、弓の動かし方

連続の投稿になりますが、ヴァイオリンを弾いて自分の音に疑問や不満がある方は多いですよね。
難しい曲をパラパラといとも簡単に弾いているプロの演奏をまねたい気持ちはアマチュアに限らず、プロでも持つものです。
良い音を出したいといつも考え続けること。これは簡単なことではありませんが、一番大切なことです。
それでは、どうすればよい音が出せるのか?という疑問に突き当たります。
私の師匠は数多くの演奏家を育てた教育者であったと同時に素晴らしい演奏家でもいらっしゃいました。
その久保田良作先生が私たちに常におっしゃっていたことの一つが「弓の持ち方」と「右腕の動かし方」でした。
子供だった私自身、そのレッスンの中で「どうして?」という気持ちになっていたのも事実です。ただ先生のおっしゃることをできるようになるまで、ひたすら自宅で練習し、レッスンに伺い先生の判断をお聞きすることの繰り返しでした。
弓の持ち方について、少し書いてみます。
1力を余分に入れずに、形を崩さない。
2親指を掌に近づけた状態で弓に親指の指先を当てることで、小指と薬指の第1・第2関節を曲げることができ、掌に一番近い指の関節は、右手の甲と平らな状態にできる。
3可能な限り、弓先でも小指を伸ばさず、手の形を変えないことで素早く元の形に戻すことができる。
4弓の先半分は右ひじの曲げ伸ばし、元半分は右腕の上下運動を加えることで、手の方の変化を抑えることができる。
ほんの一部ですが、この4つのことを考えながら音を出すことはとても難しいことです。
常に一定の圧力と一定の速度で弓を動かし続けることが出来なければ、自分の思った音は出せません。
さらに、気が付かないうちに弓を強く持ってしまっています。特に親指は自分から見えない位置にあるため、無意識に強く持ってしまいます。そうすると、すべての指に反発する力が加わるため、弓を柔らかく持つことができません。
弓を持つ手が、車で言うならサスペンション、またはショックアブソーバーの役目を果たします。
弦と直接摩擦で擦れあう弓の毛も1本ずつはとても弱く細いのですが、演奏時に使う弓の毛の量を考えると大きな弾力性を持っています。
また、弓の木についても同じことが言えます。
アマチュアの方が「柔らかい」と評される弓の場合、弓中央部の剛性が足りない場合もあります。
また逆に「強くて多き音が出る」と言われる弓は、弾力が少なく重たい場合があります。
私の師匠は弓の張り方にも注意をされました。弱い張力、つまり張りすぎず弓の中央部の木と毛の距離を見極め、弓の木の弾力と弓の毛の弾力を感じられる、ちょうど良い張り具合を見極めることが大切なのです。
指も人差し指以外のすべての指がクッションの役目を果たすために、曲げられる状態を維持する形が大切です。
弓の持ち方を見れば、自分の同門を見つけられる¨と私は思っています。そのくらい、久保田良作先生の指導は徹底していました。私もできる限り、先生の教えを生徒さんに伝えたいと思い、日々レッスンをしています。
天国から厳しく優しい目で、「ちゃんとレッスンしなさい」と言われているようです。

美しい音を出すために

楽器で音を出すことと、音楽を演奏することはイコールではありません。
すべての楽器で演奏方法が違いますが、共通していることがあります。
そのひとつは、これから自分が出す音つまり「未来」を予想することです。
私たちが演奏する音楽も実際に音を出す楽器も、過去にさかのぼって作られたものです。
演奏技術を考える時に、大切なことはこれから自分がどんな音を出したいのかという「意識」なのです。
無意識に音を出してしまってから「音が汚い」「ピッチがおかしい」「拍とずれた」と反省していませんか?
すべての音を出す「前」が必ずあります。どんなに短い音符、休符にもその前の時間があります。
それが連続することで自分の意識した音が初めてでます。「そんなことをしていたら、どんどん遅くなる」と考える方もいるでしょうが、
遅くしないことも意識の一つです。

さらに、ヴァイオリンで美しい音を出すために必要な技術について。
私の師匠である故、久保田良作先生は「姿勢」と「手の形」についてとても熱心に私たち生徒にレッスンをしてくださいました。
すべての演奏技術は「体幹」から始まること。そして弦楽器の演奏技術の基本が「ボーイング」であることをどんな小さな生徒にも、プロになった演奏家にも同じようにレッスンをしておられました。
簡単に「こう持って、こう動かして」と文章にできるものではありません。すべての生徒の癖を含んだ個性を見極めてからの指導です。
久保田先生は幼児からプロまで、本当に多くの生徒をいつも抱えておられました。とても厳しいレッスンでしたが、楽しくもありました。
私がレッスンをさせて頂く今も、恩師久保田良作先生の御意思を伝えていきたいと思っています。

メリーオーケストラ演奏会

32thconcert
毎年の夏と冬に欠かさず定期演奏会を開き続け、15年。今回が32回目の定期演奏会となります。8月13日(日)午後2時開演、橋本駅北口ミウィ7階、杜のホールはしもと
いつものように、バラエティーに富んだプログラムです。
オーケストラと独奏ピアノによる「ラプソディー・イン・ブルー」をはじめ、多くの方がどこかで聞いたころのある曲を演奏します。
mた、毎回恒例になっている「指揮者体験コーナー」も実施します。
小さなおp子様、赤ちゃん連れでも一緒にお楽しみいただけます。障がいをお持ちの方でももちろん、大丈夫です。入場無料。当日、1時30分に開場しますので、お気軽にお越しください。皆様のご来場を心よりお待ちしております。

大人のグループレッスン

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今回の昭和生まれ割引グループレッスンは、ピアノのレッスンです。
昔、ピアノを習っていたことのあるお友達同士のお二人が浩子先生のレッスンで連弾を楽しんでいます。
大人なら誰にでも「昔やったことがある」という記憶がありますよね。
特に楽器を習ったことのある昭和世代の方はとても多いのですが、一方で仕事や家事、育児、そして介護という毎日を過ごすうちに、すっかり音楽から遠ざかってしまう方が多いのも事実です。
いまさら‥と思ってあきらめてしまうより、お友達と一緒に「楽しみ」として楽器を弾いてみましょう。昔と違った面白さが必ず実感できます。
楽器を弾くということが脳の活動にとって非常に有益であるt子は皆さんご存知の通りですが、人とのコミュニケーションも音楽を介するととても自然になります。言葉もいらず、遠慮もいらずお互いに知らなかった一面を発見できます。
ぜひ、1時間2500円で笑いと充実感に満ちたひと時をお過ごしください。
楽器はピアノでも、ヴァイオリンでも、チェロでも声楽(カラオケも)でも対応します。プロが楽しみを膨らませるレッスンをいたします。
ご予約は教室のホームページ、またはお電話042-771-5649メリーミュージックへお気軽にご連絡ください。月曜日が定休日です。

昭和生まれの方に特別価格レッスン!

平成の今、私を含め昭和生まれの「おとな」たちが、ますます元気で明るい毎日を過ごすために…
生まれは昭和 あわせて100歳 2千円!!
スペシャルサービスを始めます。まさしく「大人のための」特別割引です。
二人、または三人でのグループレッスン。楽器は二人(三人)とも同じ楽器。
二人(三人)ともに昭和生まれで、年齢の合計が100歳以上。
30分レッスンがお一人税込み2,000円。60分に延長しても2,500円という破格の代金。
ヴァイオリン、ピアノなど毎回自由な楽器を選べます。

火曜日から金曜日までの午前10時から午後5時までの時間帯限定です。
※ご注意
・当日のレッスンの変更(人数・時間・日にち・楽器の種類)はできません。
・レッスン代金は1回ごとの前払いです。予約時に人数分のお支払いをお願いいたします。
・他のコースとは違い、30日間の期間内での割引はありません。
・ヴァイオリン・ピアノのレッスンは、原宿南でも可能な場合もあります。
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レッスン空き状況が一目でわかります

教室のホームページで予約状況が、今までよりも詳細に確認できるようになりました。

こちらをクリックしてください。

楽器名(Vnはヴァイオリン、Pfはピアノ、Vcはチェロ、Vaはヴィオラ、Tpはトランペット、作曲、聴音など)

レッスン場所(駅前・原宿南)がどなたでもご覧になれます。

生徒さんがご自身のスケジュールと照らし合わせ、レッスンが可能な時間と場所がわかります。

カレンダーはレッスン時やフォーム、メールでレッスンの時間が決まるたびに入力し、すぐに表示されています。

お申込みの方法はホームページ上の
フォームからどうぞ。

なお、カレンダーには私たち講師が駅前教室と原宿南居室を移動する時間まではありませんので、ご了承ください。

ぜひ、ご活用ください。

小さな音楽会終了

2017年4月16日

38組の熱演でした。4歳のお子さんも、大人の方も、

お互いの演奏に心から拍手を送りあいました

お互いの演奏を聴きあうことを大切にしているので

自分の演奏直前まで客席でほかの人の演奏を聴き、

自分が弾き終わったら、そのまま客席に戻って次の人の演奏を聴きます。

楽屋や練習室で出番を待ち、自分の演奏だけ終わったら「はい、さようなら」という

よくあるアマチュア演奏会に私は疑問を持っています。

聴くことができない人に、自分の演奏を人に聞いてもらう資格はありません。

楽しむことと学ぶことの意味や、大人から始めても上達する真実

幼い子の上達には何よりも家庭の環境と家族の理解が不可欠であることもお話ししました。

子供も大人も、始めたばかりの人も長い期間、練習している人も

同じステージで一つのコンサートを作り上げたことを実感できたのではないかと思います。

次回は9月。敬老の日に行います。一人でも多くの方に、ご参加いただければと思っています。

小さな音楽会20のお知らせ

小さな音楽会20
4月16日(日)午後2時からもみじホール城山で教室の生徒さんによる発表会「小さな音楽会」を開催します。今回で20回目となるこの発表会、毎回、子供も大人も練習の成果を発表をします。伴奏合わせの日程も確認の上、みなさま奮ってご参加ください。

生徒さんレッスン後のお楽しみタイム


原宿南でのレッスンが終わると、にゃんこ「ぷりん」がトコトコ、2階から降りてきます。この生徒さんもヴァイオリンのレッスンが終わるとすぐに、ぷりんと和やかに遊んでくれます。ぷりんもこの男の子生徒さんが大好きなので、ご甘え放題です。床をモップのように引きずられても、お膝に乗せられても脱力!なのです。このスライドショー、お膝の上で生徒さんの顔に「さわってあげる~」と手を伸ばしているところです。もちろん、生徒さんもわかっていて、触らせてあげます。レッスン後の楽しみがあるのもメリーミュージックならではです。

デュオリサイタル9を終えて




今年も多くの方に支えられて無事にデュオリサイタルが終了しました。
私たちにとって音楽がどんなに大きな存在なのかを改めて知りました。
「良い演奏」があるとしたら、それはそれぞれの人にとって心の琴線に触れる音楽だと思います。
今回、お客様と一緒に音楽が私たちの心に溶けていくことを感じました。
演奏の技術は高いものではないと思います。私たちよりずっとずっと、演奏技術の高い方が日本中、世界中にいらっしゃいます。
精一杯の練習と準備をして一人でも多くの方の心に残る演奏をしたいと、私たちなりに努力しています。
私たちが今日まで音楽にたずさわって来られたのは、私たちの両親のおかげです。
そして、くじけそうになり、折れそうになった時、迷いあぐねたときに、背中を押してくれたのは皆様です。
演奏会に来てくださった方々からのアンケート用紙に書かれた一文字が私たちの演奏へのエネルギー源です。
聴いてくださった方の心に何かが触れたなら、とても光栄なことです。
難しい、長い曲をあえて避けている私たちのリサイタルには、音楽に興味のなかった方が「よかった」と思ってもらえればという願いがあります。
どうぞ、これからも私たちの演奏に勇気と力を与えてください。それがなんになる?のか誰にもわかりません。
でも、きっと誰かが笑顔になれるコンサートを開き続けていきたいと思います。

医療少年院でのクリスマスコンサート

今年で3年目となる神奈川医療少年院クリスマスコンサート無事終了しました。
今年も少年たちの歌声と笑顔をプレゼントされました。
医療少年院には15歳から20歳までの心に傷を持った少年たちが暮らしています。
私たちの演奏の前に教会の方の講話があります。子供たちは規律正しい背活を365日ここでしています。
お正月も少年院で過ごします。「初めてお正月を楽しみましたという子供の言葉がつらいです」と職員の方のお話をお聞きして私たちも胸が詰まります。
大人の身勝手さと社会のひずみが彼らの幸せな少年期を奪います。決して彼らが悪いのではないのです。大人が悪いのです。
11か月の生活を終えて自宅に帰る子供は全体の7割。そのほかの子供は自宅以外の「家」で保護観察を受けます。
今日のクリスマスコンサートのお話。
子供たちの中でもパニック障害をを起こすために、すぐ近くに体格の良い男性職員二名が立っていたのですが、
コンサート後に職員の方から伺うとその子供が終始、満面の笑顔だったことに驚かれたそうです。
コンサートでは私のトークを交え一時間、12曲を演奏しました。
その中で子供たちも一緒に歌ったのが、翼をください、ビリーヴ、糸。

 今、わたしの願い事が叶うならば 白い翼 つけてください

この大空に翼を広げ飛んでいきたいよ
例えば君が傷ついて 倒れそうになったときは
必ず僕が そばにいて 支えてあげるよ その肩を

なぜ 生きてゆくのかを 迷った日の跡の ささくれ
夢 追いかけ走って ころんだ跡の ささくれ
逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合せと 呼びます

どの歌も子供たちが歌うと私たちの心に深く突き刺さります。
何気なく平穏に暮らしながら、不満、愚痴を並べる自分が恥ずかしくなります。

私たちが出来ることは、この子供たちと同じ苦しみ、悲しみをほかの子供たちに与えないこと。
そのために本来ならまず、社会を作る政治家や企業のトップの人間ができることをすべきですが、
彼らにはこの少年たちのことなんて「どうでもいいこと」なのです。選挙の票にもつながらない、お金にならないことはしません。
私たち普通の大人が目を向けることが必要です。お金で買えない幸せを彼らに与えたい。そう願っています。

デュオリサイタル9もみじホール終了

12月11日(日)たくさんのお客様にご来場いただきました。
私たちの昔からの友人、生徒さんとそのご家族、メリーオーケストラのメンバー、
さらに私たちの演奏を楽しんでくださるファンの方々に演奏を楽しんで頂きました。
この日、初めて私たちのリサイタルを聴いてくださった方々から、「こんなコンサートに来たかったの!」という光栄な感想を頂きました。
私たちのファンであり、生徒さんでもあった86歳の生徒さんにもご案内を差し上げていたので楽しみにしていました。
終演後、その生徒さんが11月に骨髄性のガンでお亡くなりになったと親族の方に伺って‥
あまりのショックに言葉をなくしました。お聞きすれば9月に病気が分かり、あえて治療はせず、自然に身を委ねて87歳になる直前に他界されたそうです。
私たちの演奏をCDで毎日、一日中聴いていてくださり、「謙介先生と浩子先生に出会えて本当に幸せです!」と
お会いするたび、メールをやり取りするたびに話してくださっていた生徒さん。
私の父と同じ年に生まれ、同じ年に他界されたことも心に刺さりました。
人はいつか自然に帰るものです。私自身、今はそのことを受けれ入れています。でも、
こうして自分の身の回りから知っている人たちと、二度と笑顔を交わせなくなってなってしまうと、人との繋がりが減っていく悲しさを感じます。
音楽に知らなかった人と引き合わせてもらい、その人と永遠の別れがあることも、演奏する人間の宿命なんですね。
一期一会。演奏会で出会う、すべての方々との絆を大切にしたいと思った演奏会でした。

私たちの演奏会は

毎年、年末と年始に開いている私(野村謙介)と妻、野村浩子だけでのコンサート。
普段、生徒の皆さんとレッスンで顔を合わせ、楽器を演奏する楽しさと上達のためのアドバイスをしている私たちが、ステージで「演奏家」として音楽を演奏する姿を、一人でも多くの生徒さんに診て頂ければと思っています。
生徒の皆さんは趣味で演奏を楽しんでおられます。私たちは職業音楽家、つまりプロの演奏家としてステージで演奏し、CDを作っています。皆さんと同じなのは、音楽を楽しんでいること。違うのはおそらく演奏に対するこだわりです。もちろん、私たちが楽器の演奏技術について長い期間、専門的な教育を受けたことも基礎的に誓っていますが、演奏技術は「何を表現できるか」ということにつきると思います。一つの音を出すときにどれだけのこだわりがあるのかを、生徒の皆さんに感じて頂ければと思います。難しい曲を難しそうに弾くのはある意味で簡単です。生徒の皆さんが練習すれば弾けそうな曲をどれだけ美しく、どれだけ華やかに、どれだけ情熱的に演奏できるか。そして、私たちの演奏を越えてください。教える私たちにとって一番うれしいことは、生徒の皆さんが私たちの演奏を越えてくれることなのです。「できない」と思ったらそこで上達は止まります。「できる」と思うことがすべてなのです。12月11日(日)午後2時。1月7日(土)午後5時。同じプログラムで違うホールで演奏します。是氏、どちらかだけでも、私たちの演奏会を見に来てください。皆さんの上達の一助になると信じています。以下にデュオリサイタルについて私の書いたページの文書を添付します。
私たちの演奏は決して特定の方にだけ楽しんでいただくコンサートではありません。
コンサートなんて‥
クラシックはどうも‥
CDやパソコンで聞けるから‥
忙しくて‥
誰もが考える当たり前のことだと思います。そんな方にこそ、私たちの演奏会に足を運んでいただければと願いながら、今年で9年目の二人だけの演奏会「デュオリサイタル」を開きます。

日々の生活は時代とともに変わります。私たちは昭和30年代に生まれた「アナログ世代」です。音楽を身近で聴くのは、30センチLPレコードかFMラジオ、カセットテープでした。
コンサートに行くのは特別なことでした。もとより、ホールが少なく、コンサートも今よりずっと少なかった時代です。クラシックに限らず、洋楽や映画音楽、歌謡曲も生活の中で特別なものでした。
今はパソコンやスマートフォンで好きな時に好きな音楽を映像も一緒に楽しめます。
音質も昔のレコードに比べ、雑音が少なく、人間に聞こえない音(音とは言えませんが)まで録音されています。ですが、私は昔のレコードの音がCDより好きです。オープンリールテープデッキで録音した音が好きです。レコードの針が落ちる音、パチッというノイズも、テープデッキの回転むらも、その音楽の音部として記憶しています。音が人間らしかった気がします。
私たちが演奏会を開く理由は、ひとりでも多くの方に、生活の中に音楽を楽しむゆとりを持っていただきたいという願いがあります。
音楽会に出向くのは時間も体力もお金も使います。「不便」です。
便利ならすべてが楽しいわけではないことを私たちは今こそ、考える時ではないでしょうか。
手間をかけるから楽しい。広い場所で聞くから美しい。日常と違う時間だから楽しい。
人間が作った木の楽器を、電気を使わずにホールに響かせた音を聞く非日常をお楽しみください。
私たちの演奏会では難しく、長く、記憶に残らない音楽は演奏しません。
皆様が初めて耳にする曲でも、それが心に残ってくださることを願いながら曲を選び、すべての音にこだわりを持って、楽器で言葉を奏でます。
小さなお子様でも、今までクラシックのコンサートに縁のなかった大人の方でも、もちろん、音楽が好きな方にも楽しんで頂けて、終演後の帰り道、メロディーを口ずさみながら帰っていただければと思っています

「クラシックの演奏会はもっと格調高く荘厳でなければ」と思われる方には申し訳ありません。
「ほかの人が知らない曲を聴きたい」というマニアの方にも申し訳ありません。
「子供や障がい者が客席にいる演奏会はいやだ」という方にも申し訳ありません。
そういう普通のクラシックコンサートもたくさんあります。私たちの演奏会は違います。
会場で皆様にお会いできるのを楽しみにしています。
お申し込みは下のフォームをご利用ください。
12月11日(日)午後2時「もみじホール城山」のチケット代金は、大学生以上、おひとり1500円、小学生から高校生がおひとり1000円。幼児は無料です。
1月7日(土)午後5時「代々木上原ムジカーザ」のチケットをお求めになると、上記12月のもみじホールでの演奏会にもご入場いただけます。こちらはおひとり2500円、幼児は無料です。

チケットのお申し込みはチケット申し込みフォームからどうぞ!皆様のご来場を心からお待ちしております。

保育園コンサート2回終了

11月11日と今日17日の2回。町田市にある保育園2か所で園児それぞれ130人に音楽をお届けしてきました。
0歳児から5歳児までの子供たちは、本当に純粋に「音」を聴いて反応し、私たちの「動き」に反応します。
音楽だけ聞いてもらおうなんて都合のいい理屈は通用しません。
それぞれ10曲ほど、45分間のコンサートです。事前に曲を決める時から、子供の反応を予想します。
実際に子供たちの前に立って、紹介されこどもたちにご挨拶をするところから、子供の反応を観察します。
子供も私たちを観察しています。そのお互いの距離感が自然に近づくようにするのは、私たちの側です
どんぐりころころ、しあわせなら手をたたこう、やまのおんがくか
子供たちが歌える歌を一緒に演奏し、さらに距離感をなくします。
ハンガリー舞曲や中国の太鼓、チャールダッシュ。動きのある音楽に、子供たちが体で反応します。
白鳥、子守唄の静かな音楽で子供たちの気持ちを穏やかにします。
ただ演奏するだけならむしろ簡単です。自分が聞く側になって考えること。
言葉で言えば簡単ですが、実際に演奏しながらこちらが反応しなければ距離は開いたままです。
高齢者の施設、そして保育園とまさに人間の「生まれてから最期まで」に私と浩子先生の音楽がかかわった瞬間です。
そして来月は、リサイタル。気負わず、いつもと同じ気持ちで皆様にお会いできるのを楽しみにしています。

介護施設でのボランティアコンサート

日曜日(11月6日)に国分寺の高齢者介護施設に伺ってコンサートを開かせていただきました。
いつものことですが、ピアノや電子ピアノのない施設での演奏時には、私たちが電子ピアノを持ち込みます。
今回はこの施設で生活している方の娘さんが私たちの旧友でしたので、そのご夫婦の車(普通の大きさのセダン)で私たちも一緒に乗せていただき、現地に行きました。
50人以上の方々が嬉しそうに音楽を聴いたり、一緒に歌ったりしてあっという間の一時間でした。
今回演奏したのは15曲。音楽を演奏し続けることはしません。「ひと」として当然のことですが、挨拶に始まり、聞いてくださる方と同じ目線で会話をします。
どんなに小さなリアクションでもそれに対応し、会話にしていくことが大切な技術です。
今回一番楽しかったリアクション
「あー、なんてすばらしい日なんでしょ!ただで!こんな演奏会がきけるなんて!」
一人の方が感動して嬉しそうな大きな声で言ってくださいました。その方のすぐ近くにいた施設長の女性がおどおどしながら笑っておられました。
「そう!ただなんですよ!」って私も大きな声で返します。このキャッチボールが他の方にも伝わって会場がだんだん一つになります。
演奏を楽しむゆとりを取り戻すことも、大切なリハビリだと思います。ひとりでも多くの方に私たちが音楽で出来る恩返しをすることが、私たちの使命だと感じています。もちろん、このことに報酬があれば、もっと多くの演奏家たちが
この活動に関れるのですが、現実には国も自治体もほとんど無関心なのが実情です。まして、介護施設に予算がないのもわかります。誰かが身を切ってやらなければ、音楽の持つ不思議な力を知ってもらうことはできません。
私たちの活動を快く思わない演奏家もいます。無償で音楽を演奏することが、プロとしての生活を脅かすというのが理由です。
必要な活動に必要な予算を立ててもらえる日が来るまで、私たちは誰になんと言われても、この活動を続けます。
みなさんのお近くで演奏のリクエストがあれば、遠慮なくご連絡ください。お待ちしています。

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リサイタルへの誘い

今年で9回目となる私たちだけで演奏する演奏会「デュオリサイタル」
そのコンサートへの思いをページにまとめてみました。日々、多くの演奏会が開かれテレビでもたくさんの音楽番組が放映されている昨今、私たちの演奏会が一般のクラシックコンサートと異なっている点を文字にしました。ぜひ、ご一読ください。
野村謙介・野村浩子デュオリサイタル

デュオリサイタル9のお知らせ

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今回で9回目となる私、野村謙介と妻、野村浩子による「デュオ・リサイタル9」のお知らせです。
今年は橋本でのコンサート会場をもみじホール城山にいたしました。
先日の発表会でも使用したホールです。以前の会場だった杜のホールと比較して、客席との距離も近くより、一体感を感じられます。
チケット料金も大人1500円、小学生から高校生は1000円。幼児は無料です。
障がいをお持ちの方や、ご高齢の方でもお聴きいただけます。
演奏プログラムは前回までと同様に親しみやすく、覚えやすい曲ばかりです。
1808年製作のヴァイオリンと2010年製作のヴィオラとベヒシュタインピアノで奏でる音色を心ゆくまでお楽しみください。
チケットはメリーミュージックで販売中です。042-771-5649までお気軽にお申し込みください。

小さな音楽会BD(ブルーレイディスク)販売のお知らせ

発表会の演奏を録画したBD(ブルーレイディスク)の編集ができました。
今回、運動会等の影響で演奏順が変わっていることもあり、一部順番がプログラムと変わっています。
演奏順1番から33番までの演奏を「子供の部」として1枚に収めました。
34番から45番と最後の講師「おまけ演奏」までを「大人の部」として1枚にしました。
大人の部には小学校6年生てつおくんの演奏が含まれています。
ご注文はメールかレッスン時にお願いいたします。

発表会を終えて

今回で19回目となったメリーミュージックの生徒さんによる「小さな音楽会」が無事に閉幕しました。
午後2時から午後7時まで、ほぼ休憩もなく小さな子供も大人の生徒さんも、練習の成果を舞台で披露しあい、お互いの演奏に拍手を送りました。
「誰が上手か?」という競争ではないのです。人それぞれ、環境も好みも違うのです。だから楽しいのです。
プロを目指す人たちの発表会やコンクールとは本質が違うのです。
私たち指導者の仕事は皆さんの演奏を陰で支えることなのです。もちろん、だれでも上手に演奏したいと思うものです。だからこそ
準備が大切なのです。
今回の発表会を終えて、私たち指導者の反省が浮かび上がりました。
伴奏との合わせ時間が不足していること。
生徒さんにとっては自分の出る発表会だけが基準になりますが、私たちは過去にたくさんの発表会を経験してきています。
回を重ねるごとに生徒さんの技術が間違いなく向上し、より完成度の高い演奏発表を目指せるようになってきました。
中にはピアノ伴奏との「合わせ」が難しい曲も増えてきました。独奏する生徒さんの技術と経験が不足する部分を補うために、今後の伴奏者との合わせについて次回から方針を修正したいと思います。
とはいえ、一番大切なのは生徒さんお日頃の練習です。どの練習を発表につなげることが、演奏する楽しさを実感することにもつながります。
今回も多くの刺激を生徒さんからもらいました。そして、感動もありました。生徒の皆さん、保護者の皆様、お疲れ様でした。

敬老コンサートボランティア

<我が家から歩いて1分ほど。本当にすぐ近くにある高齢者の方々がデイサービスを受ける施設があります。
これまでに何度もコンサートに伺い、自宅にも希望される方をお招きして演奏を楽しんでいただいています。
今日は「敬老コンサート」ということでお声をかけて頂きました。
何を演奏しようかなーと、浩子先生と相談しては発表会の準備で話がいつも途中で終わってしまい、
プログラムが決まったのが、つい数日前。
私たちの親世代ですから、おおよそどんな曲が懐かしいのか、想像できますが好みは人それぞれです。
クラシック好きもいれば、演歌の大好きな方も。今日は22名のお年寄りとスタッフの皆さんに演奏を届けますが、
一人でも多くの方が「知ってる!」だったり「初めて聞いたけどきれい!」なんて感想を持ってくださるようにと曲を選びました。
1.秋桜(昔)、山口百恵さんが歌っていたあの曲

2.野ばら(ウエルナーとシューベルトの聞き比べ)

3.月の砂漠

4.紅葉(もみじ) 

5.上を向いて歩こう

6. 川の流れのように

7.オールドリフレイン

8.美しきロスマリン

9.ゴッドファーザー愛のテーマ

10.ムーンリバー

11.太陽がいっぱい

12.オーラ・リー
(ラブミーテンダー)

13.マイ・ウェイ

さて、どんなアンコールを弾こうかな。
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レッスン申し込みフォーム

教室のホームページにも作りましたが、レッスンのお申し込みをスマホやパソコンからしてくださる方に朗報です。メールソフトでのお申込みボタンに加え(現在もあります)申し込みフォーム(書式)にお名前や希望の日時を記入し送信するものを加えました。ご活用ください。

幼稚園でのコンサート

先日、埼玉県岩槻市に浩子先生と二人で「幼稚園コンサート」で行ってきました。
我が家からバスで橋本駅、JR横浜線で八王子、中央線で西国分寺、武蔵野線「むさしの号」で大宮、東武アーバンパークラインで岩槻。
乗り換え乗り換え(笑)ですが1時間30分ほどの小旅行。ヴァイオリンとヴィオラとピアノの楽譜を二人でえっさかほいさか。
ちなみに、こんな時はヴァイオリンを最小最軽量のケースに入れて、ヴィオラのケースにヴァイオリンの弓も入れて移動します。
ヴァイオリンとヴィオラが両方入る「ダブルケース」もあるのですが、私の理想のケースが世界中にありません。
仕方なくこの方法で二つの楽器を持っての移動です。
さてコンサートは…。
園児50名ほどと、卒園した小学生も聞いてくれました。
家庭的な温かさが園庭にも建物にも先生方にも感じられました。
ホールにはグランドピアノ。聞けば桐朋からの払い下げとか。素晴らしい。
子供たちをホールでお迎えして、たくさんの曲を子供たちと一緒に楽しみました。
約1時間のコンサートでしたが、子供たちに少しでも記憶として残ってくれたらうれしいですね。
アンネ・モンテッソーリの教育理念に基づいた長い歴史を持つ幼稚園での経験は、
音楽を演奏するだけの感動とは別の体験学習をさせていただきました。
帰りには大宮でタイ・ランチを楽しんで相模原に戻りました。
この先は、デイサービスでの敬老コンサート。
保育園でのコンサートなどが予定されいます。楽しみです。

メリーオーケストラ演奏会終了



305名のお客様。65口の賛助会費。今回、30回という記念演奏会もすべての方と音楽を共有できました。次回の演奏会に向け、管楽器メンバーを大募集中です。一緒に演奏を楽しみましょう!

夏の入学試験終了!祝!

音楽大学のAO入試(アドミッションズ・オフィス入試は、出願者自身の人物像を学校側の求める学生像(アドミッション・ポリシー)と照らし合わせて合否を決める入試方法である。)が
一つ終わりました。
中学3年生からヴィオラを教え始めた女の子が今日、めでたく合格しました。
本人の努力が何よりも大きな勝因です。家族の理解と協力もとても大切でした。
私と浩子先生のレッスンが毎回60~90分。実技はもちろん、楽典、聴音で入試直前までレッスンを続けました。
本人の意思を本人に自覚させ、「自己責任」をいつも考えさせてきました。
中学生、高校生にとってやってみたいことは「山ほど」あります。部活や友人との遊びも。
自分で考え、責任は自分で負うこと。簡単に聞こえてとても大変なことです。
「頑張った」というだけでは評価されません。
頑張った結果として評価されるものが出るまで頑張るのが「練習」「努力」です。
合格したとはいえ、これからの毎日が次のステップへのスタートです。
「夢は叶えるためにある」
そう、思っています。

浴衣姿レッスン

橋本駅前では昨日から七夕祭りです。生徒さん、かわいい浴衣姿でレッスンです。下駄でペダル踏めない!でもペダル使わない曲でした。2016-08-06 17.22.55

メリーオーケストラ定期演奏会へ!

来る8月14日(日)午後2時開演。橋本駅北口ミウィ7階にある杜のホールはしもとで開催されます。十条無料で小さなお子様連れでもご入場いただけます。長い曲はありません。難しい曲もありません。小さなお子様から音楽愛好家まで誰もが聞いて楽しめるコンサートです。お子様の指揮者体験コーナーもあります。夏にぴったりのこんな曲も

夏なのにこんな曲も

皆様のご来場をお待ちしております。30thconcert

夏の定番

今年も夏の定番となった、茨城県古河市立総和中学校弦楽オーケストラのホールレッスンに行ってきました。
今から20年ほど前から縁があって伺っています。毎年1回だけの指導です。
初めて呼ばれたころから、顧問の教諭も変わり、当然メンバーも毎年変わっていきます。
それでも毎年お声をかけてもらえることは本当に光栄です。
私が伺う日に合わせて野木にある立派なホールをわざわざ借りて待っていてくれます。
年ごとに部員の人数も変動しますが、弦楽器だけのアンサンブルで常に60~100名のメンバーがいます。
公立中学校の普通の部活動です。技術水準はとても高く、高校生の演奏といっても誰も疑わないレベルです。
コンクールへの仕上げ練習として私が呼ばれているのですが、私はコンクール絶対主義ではないので、優勝することより大切なことを伝えています。
演奏する喜びや、聞いてくださる方がいて、支えてくれる大人がいて、何よりもこの部活を続けてきた自分たちの知らない先生や先輩たちがいるることを伝えています。
数年前から浩子先生とのミニコンサートも練習の休憩時間や、今年のように練習の前に行っています。
子供たちが演奏するステージで私のヴァイオリン・ビオラと浩子先生のピアノで、客席に座った生徒たちに
「響き」「空間」を感じてもらうのが狙いです。私はいざ知らず、浩子先生はこの短い時間のために
相模原からラッシュの京王線にもみくちゃにされながら、片道3時間の日帰り出張で申し訳ない気持ちも¨。
それでも野木の駅には生徒の保護者が車で待っていてくれて、私たちに気を使ってくれます。生徒を陰で支える力ですね。
部活のオーケストラ。思えば自分もその顧問だった時代がありましたが、遠い昔のようです。
離れてしまえば忘れられる存在になるのです。指導者が変われば、その指導者の下で活動するのですから当たり前といえば当たり前。
ただ!
先ほども書いたように、子供たちに先人の作ってくれた環境に感謝する気持ちを伝えずに、
今の環境だけにあぐらをかいた部活指導は間違っています。
伝統は作るものです。受け継いだ責任は果たすべきです。
先人に敬意を感じないならば、解散して新しくゼロから作り直すのが礼儀です。
こう書いていると、だんだんムカついてきました(笑)のでやめます。
総和中学校の指導を終えて、今年も夏のイベントが一つ終わったなぁと思うのでした。

意欲こそ上達の秘訣

この動画で演奏しているのは高校3年生の男子生徒さん。
彼は3年ほど前に私の教室でヴァイオリンを始め、昨年の4月からピアノを始めた「ごく普通」の男子です。
おとなしく穏やかな印象の彼は、ファミリーレストランのバックヤードでアルバイトを続け、1年がかりでヴァイオリンを購入しました。高校生になるまで楽譜も読めなかったのですが、自分の好きな曲を時間をかけて覚えて練習してきます。この意欲こそ、上達の秘訣とも言えますね。習った期間や能力など、関係ありません。彼の今の夢はヴァイオリン製作者になることだそうです。私も全面的に応援していくつもりです。


いよいよ夏休み!

多くの小学生たちが今日から夏休みですね。初日から雨模様の相模原。家庭で過ごす時間が少なくなった現代だからこそ、長期の休みには家族で過ごしてほしいと思うのですが、もちろん家庭ごとに環境が違うので難しいですよね。子供にとって「学校に行かない」ことを感じられるこの夏休み、ぜひ、一生の思い出に残る夏休みにしてあげてください。例えば「ヴァイオリンがすごく上手に弾けるようになった夏休み」なんていかがですか?今までと違う生活のリズムの中に、ヴァイオリンを練習する時間を組んでみるのはどうでしょう。上達を感じられれば必ず練習したくなります。子供にとって夏休みは一年に一度、義務教育で9回経験できる貴重な機関です。部活もほどほどにして、普段できないことに打ち込ませてあげてください。

ベルリン・フィル12人のチェロ奏者演奏会に。

日曜日、サントリーホールに行ってきました。
2年前にも同じコンサートを浩子先生と二人で楽しみました。
このベルリン・フィルの12人のチェロ奏者たちは、もちろん普段は世界中を飛び回るベルリン・フィルハーモニーのメンバーとして演奏しているいわゆる「オーケストラメンバー」です。
彼らの演奏を聴いていると理屈抜きに気持ち良いのです。
うまいとか、すごいとか、そんな表現が当てはまりません。
彼らにしかできない演奏を、長い歴史を引き継ぎながら、常に新しいことに挑んでいることも音楽に現れます。
まさに「音」が私の体に溶けていく感覚です。ホールの空間に漂う音。決して大きい音でもないのですが、どんな再生装置にも作れない空気の振動を感じます。
演奏の様子はYOUTUBEなどでも楽しめますが、会場で感じる音とは別のものです。当たり前ですが…。そんな演奏をする人が世界に存在し続けることが素晴らしいと思うのです。一人では決して実現できないことなのです。素晴らしいソリストは世界中にたくさんいます。また、素晴らしいオーケストラもたくさんあります。12人という人数だからできること。常に次世代を見据えて活動するからできること。彼らにしかできないことなのかもしれませんが、その一部だけでも自分が音楽を通してできることがあると、信じながら今日もお仕事しています。

素敵な生徒さんたち

先日、体験レッスンを受けて、即入会された男性の生徒さん。
職場の仲間5人で「これから始める趣味を持とう」という話になったそうで、
今までやったことのない楽器を10月末に職場で発表しようというとても素敵な目標を作ったそうです。
しかも、自分で楽器を決めるのではなく、お互いが「君は○○で▽▽の曲を弾く」とお互いに決めあうという
なんともこれまた素敵な話。入荷した生徒さんは、昔エレキベースを弾いていたことがあるそうで、でもそれとは関係なく
「ヴァイオリンで君をのせてを弾く」ことを勝手に決められたそうです。いいですねー。
そして、体験レッスンのその日、ヴァイオリンセットをご購入。ケースは赤。これまた似合ってしまう。
明るい話題のない日本で、こんな素敵な趣味の世界を広げる人たちに拍手です。
ぜひ、皆さんの職場でもこの「これから楽器を初めて発表しよう!」という提案をしてみませんか?
格好だけで中身の伴わない「オーケストラごっこ」に満足する謎の生徒さんもいましたが、
きちんと目標設定をして楽器の演奏を本当に楽しもうとする気持ちがあれば、きっと素晴らしい演奏ができます。

もう一つ、いいお話し。
教室で作曲を習っている若い男性の生徒さん。
とても個性的な生徒さんで、複雑な事情で文字を読むこと、書くことができません。
でも、自分のスマホで打ち込んだ曲が100曲以上。その曲を、完成させたいと教室を訪れてくれました。
担当してくれている野平くん(先生)が彼の心を解きほぐしながら、熱心にレッスンしてくれ、素晴らしい才能を発揮してくれています。
趣味で吹いているオカリナがとてつもなく素敵な演奏。
ピアノで曲を作る時も、先生が2小節前からもう一度弾いてと指示すると、頭の中の楽譜をきちんと2小節前に戻して即座に弾き始められます。
これってすごい能力です。ただ楽譜を暗譜しているわけでhなく、音楽を小節単位で頭の中に並べていることになります。
でも文字は読めない。人間の能力はすごいですね。彼を見ていると「自分は何ができるんだろう」と戒められる気持ちです。
音楽家になるための教育と経験にあぐらをかいているプロ。
もっと自分の能力に謙虚にならなきゃと思うのでした。

駅前教室でのヴァイオリンレッスン予約

普段、お電話やメールで次回のヴァイオリンレッスンをご予約頂いている生徒の皆様へ、私(野村謙介)の駅前教室でいつ、レッスンが出来るか、参考にして頂けるカレンダ-をホームページに公開しました。レッスン時に予約されるとこのカレンダーに入力して予約を管理しています。その内容を「予定あり」という言葉で伏せてありますが、私が駅前でレッスンできる日時がリアルタイムで表示されています。ただし、これはあくまでも「駅前教室で村謙介のレッスン」に限定した表示ですので、例えば同じ日時に原宿南教室で浩子先生がピアノレッスンをすることも可能ですし、私自身が原宿南でヴァイオリンレッスンをすることができる場合もあります。チェロやトランペットのレッスンもこのカレンダーで「予定あり」でも、レッスン可能な場合もあります。重ねて書きますが「駅前教室で野村謙介のヴァイオリンレッスン」についての空き状況を示したカレンダーです。カレンダーの下にあるoffice@merry649.comの文字をクリック、またはタップしていただくと、皆様のメールソフトが開き宛先や必要記入事項が自動的に表示されます。チェロやピアノのレッスンのお問い合わせにもご活用ください。ホームページ

子供に音楽の楽しさを体験してもらう

私が立ち上げて15年目のメリーオーケストラは、子供の健全な育成と音楽の普及を目的としたNPO法人です。毎回の演奏会で、来場した子供の中から実際にオーケストラを指揮する体験コーナーを企画しています。生まれて初めて指揮台に立って、自分の指揮に合わせて何十人もの人が一斉に楽器を演奏する子供たち。驚きと感動が一生の思い出になってくれることを願っています。数回前の演奏会での威風堂々を子供たちが指揮する様子です。

予約カードとチケットについて(お知らせとお願い)

生徒の皆様にお知らせ致します。
2016年6月よりチケット制を改めて、レッスン予約カードで、レッスンコースと回数を確認させていただくことに致します。従来と変わらず、レッスン予約カードは必ずお持ちください。

新たなサービスを開始します。
レッスン予約カードの、最後の欄の予約が埋まった場合、次の予約カードの最初のレッスンを、30分延長するサービスです。(ただし、ヴァイオリン・ピアノ・ヴィオラのレッスン延長に限ります)
サービス開始に伴い、従来の予約カードがすべて埋まったら、一回分無料レッスンサービス(10週年記念サービス)は終了させて頂きます。ご理解とご了承をお願い致します。

子供の学習能力と音楽との関わり

最近の研究で学習能力の高い子供たちが、幼いころにどのような習い事をしていたか?統計をとって分析した報告がありました。
一般の大学生と東京大学の学生を比較してみたところ、初めての習い事に「ピアノ」と答えた人の数(割合)が、
一般の学生=1に対し東大の学生=2.つまり、同じ人数の学生を比較すると、2倍の人数の人がピアノを最初に習ったということです。
東京大学の学生が「頭がいい」と言い切るつもりではありません。受験に必要な試験科目の学習能力について、東京大学合格者の能力が高いことは事実です。
なぜ、このような結果になるのかを分析した方もいます。
ピアノに限らず、楽器の演奏を幼い時に学ぶことで、右脳と左脳が刺激され、演奏する運動と記憶する脳の活動、さらに音を聞こうとする聴覚の発達と聞き分ける脳の働きなど、
様々な要因で楽器の演奏が幼児の運動能力と学習能力を高めているのです。
私が20年間にわたる、中学高校での教員経験でも、これは間違いないことでした。
全校生徒1200名ほどの男女共学、中高一貫普通科の学校でした。その全校生徒の中で、オーケストラを部活動として楽しんでいる生徒が、150名いました。
割合にすると12.5パーセントの生徒が楽器を毎日練習していたことになります。
その生徒たちの多くは、入学時の成績は平均的な数字でした。楽器を習ったことのある生徒もいましたが、半数ほどの生徒が楽器を弾くのは初めてという生徒たちでした。
毎日、自分で計画を立て自分の楽器を好きなだけ練習できる環境だけ整えました。
最近の部活動にみられる「毎日部活に縛られる」のとは違い、「日曜日以外、好きな時に練習できる」部活でした。
土曜日だけ、全員で合奏をすることに決めて、あとは個人で計画を立て練習していました。
それらの生徒たちの成績は、学年が上がるごとに上昇していきます。中高一貫の学校でしたので、高校受験もなく、4年目で高校生になります。「成績上位者」と「特待生」のほとんど全員がオーケストラを楽しむ生徒たちでした。
楽器を演奏することが、ただ音を出すだけで終わってしまうと、ここまでの結果は出なかったと思います。
子供たちが楽譜を読み、初めての楽器の扱いを覚え、楽譜の通りに演奏できるように自ら考え、他の生徒と励ましあい、音楽的な表現を私に求められながら、
最終的に楽譜を見ないで演奏できるレベルになったところで、大きなホールの舞台で2,000人ものお客様の前で演奏会を開く。
この繰り返しが教科の学習、さらには大学受験時にも能力を発揮していたのです。
東京大学、一橋大学、京都大学。他にも卒業生の中で最も難関大学への現役合格者が、ほとんどオーケストラの生徒でした。
音楽を習う、練習することを「楽器で音を出すこと」だけで終わらせてしまうと、学習能力は高まりません。楽譜を読み、間違えないように演奏し、指導者の要求に応えながら、さらに練習を重ねること。
ぜひ、ご自分のお子さん、お孫さんの将来のためにも、音楽を真剣に学ぶ環境を整えてあげてください。
私たちはその応援をしています。

ホームページ更新

教室のホームページを更新しました。
お子さんの能力を開発する
楽器の演奏は子供の学習能力を向上させます。事実、偏差値の高い学校ほど、音楽を習っている生徒が多く、音楽活動も盛んです。マスコミでも、よく取り上げられています。
先生や両親以外の大人から「教わる」ことは、自己抑制、コミュニケーション確立など
音楽以外にも多くのことを学べます。親にとって、かけがえのない大切な子供だからこそ、子供がいま、何を習うべきなのかを考えます。スイミング、英語、塾、ダンスなど、
我が子を思えばこそ、習わせたいことが次々に目に入り気になります。私どもの教室でも、多くのお子さんが習い事でパンクしてしまい、中途半端な結果になってしまうケースを目にします。
私、野村謙介は20年間、私立中学・高校の教諭としての経験と、その後10年以上のメリーミュージックでの音楽教育で700名に及ぶ生徒指導の経験を踏まえ、皆さんのお子様の能力開発に関して自信を持っています。障がいを持つお子さんも多く指導してきました。子供の能力は無限です。親の経験はお子さんの能力とは無関係です。どんなお子さんにも、それぞれ違った性格があります。個性を見抜くことが指導者の能力です。
少子化の現代、本当に必要な学習能力が問われています。多様化する社会の価値観の中で、優しくたくましく生きてほしいと願う親の一人として、お子さんの未来を共に考えて、教育活動を行っています。単に演奏技術を身につけさせる商業ベースの教室とは、コンセプトが違います。また、私自身の経験から音楽を学ぶことで得られた、数限りない財産を皆さんのお子さんと御家族にも、体感していただきたいと思います。

大人の趣味として
大人になってから楽器を演奏したいと思っても、実際に習ってまで弾けるようになりたいと思う方は少ないのが現実です。一方で、大人のための音楽教室に通う方が増え続けているのも社会現象です。
幼いころ、弾きたくても弾けなかった楽器がありませんか?
受験や引っ越しなどで、習っていた音楽をやめてしまったことはありませんか?
中学や高校の頃に、部活動で吹奏楽に打ち込んだ経験をお持ちではありませんか?
近頃、何かに没頭する楽しみが少なくなっていませんか?
ご自分だけの時間ができても以前のような運動が難しくなっていませんか?
クラシックは縁がない、敷居が高い、難しそうだとお考えではありませんか?
ヴァイオリンは特別高級で自分には無理だと思っていませんか?
私の両親は昭和一桁の生まれです。私自身、幼いころから両親が、仕事に追われ、家事に追われる姿を見てきました。また、長いボランティア経験で高齢者の方が音楽を心から楽しまれている姿を見続けています。もちろん、高齢者でなくても、音楽の楽しみ方は人それぞれです。そして、皆さんの人生と音楽との関わり方もみんな違います。それらを知っている私たちだから、大人の方に今こそ、楽器を弾く楽しさを味わっていただきたいのです。難しいと思われていることを簡単に、わかりやすくレッスンします。皆さんが弾いてみたいと思う音楽だけを教材にします。毎日練習しなくても、毎週レッスンに行かなくても構わないのです。もう後が短いからと、口にされる生徒さんがいらっしゃいます。今日を楽しむために楽器を弾いていただきたいのです。
自分の楽しみを自分で得られるのが大人の特権だと思いませんか?
思えば叶うのが夢です。夢をいつまでも見ていたいと私自身も思うから、ぜひ、皆さんの夢を叶えるお手伝いをさせてください。
受験を考える皆さんへ

音楽高校や音楽大学への進学を考えている皆さん。
その夢を叶えるられるのは、言うまでもなく皆さんの努力だけです。
もちろん、日々の練習を確認し的確なアドヴァイスをしてくれる指導者が必要です。
現在の皆さんの技術レベルを、他の受験生と比較できる技術と能力が指導者に求められます。根拠もなく「大丈夫でしょう」「上手」と言われても困りますよね。かといって、いつもいつもレッスンで怒られてばかりで、何をどうすれば、注意されたことや自分の癖を直せるのかが、わからないこともこともありますよね。私自身、中学3年で音楽高校受験を先生に勧められた一言でやる気になって、無我夢中でレッスンに通い、練習し、勉強して合格できた一人です。やる気にさせてくれる先生に出会わなければ、今の自分はありません。受験に必要なすべての技術と能力を、まとめて考えてくれる先生に出会えていますか?学校の勉強や楽しみを先生は理解してくれていますか?実技とそれ以外の聴音や楽典のレッスンで、貴重なあなたの時間を無駄にしていませんか?
私たちの受験指導は、皆さんが夢見る、将来の音楽家像をより、現実的なものに絞りながら、スタート地点である音楽の学校への受験を支援します。
受験までに残された時間と環境で、合格できる可能性は変わります。
今、皆さんのできることを確かめ、できないことを確かめることから始まります。
そのためには、一番難しい音楽の学校のレベルを知らなければ指導はできません。
受かりやすい音楽学校だから受けるのではなく、自分の夢を実現するための学校選びでなければ、受かっても意味はありません。音楽学校とは普通科の学校と違い、学ぶことを絞り込んだ学校なのです。そこで学ぶものは、音楽家になったときに、必要になる技術と知識であり、音楽学校の友達は、みんな自分と同じ夢を持つ、ライバルでもあるのです。同じ夢を持つ友人だから、共感できることが多いのです。その環境で学ぶために、まずは今日から努力することです。私たちは、皆さんの音楽人生を応援するために、持っているすべての知識と指導技術を使います。

生徒を教える先生方へ

個人や教室で音楽を教えておられる先生方へ。
大切な生徒さんの音楽高校、音楽大学合格のために必要な、技術向上をお手伝いさせてください。私の教室は京王線・横浜線・相模線の通る、相模原市「橋本駅」の駅前にあります。桐朋学園、昭和音大、国立音大、洗足音大、東京音大などへの合格者を輩出しています。それぞれの学校で合格に必要な技術と知識を生徒に学んでもらい、生徒の夢を叶えたいという気持ちは、先生方と共有できるものだと思っております。
少子化の進む現代、音楽家を夢見て、音楽の学校に進路を絞る生徒の絶対数は減少しています。また、学校も生徒、学生の確保と授業の質の向上のため、昔と違う受験方法が一般化しています。。新たな学部、学科、コースも増えています。生徒たちとそのご家族の喜びのために、一緒に指導しませんか?私たちのサポートで、生徒さんの合格実績を上げることが、先生方の指導実績にも直結すると考えています。
聴音・ソルフェージュ・楽典・副科実技など、様々な受験科目を支援できます。
土日・祝日も夜9時までレッスンしていますし、駅ビルの隣で、楽器店も兼ねておりますので、特に弦楽器の受験生にとっては重宝される存在かと思っております。
レッスン内容、代金も一人一人の生徒さんに対応して決めてまいります。もちろん、実技担当の先生との連携が第一ですので、その点もどうぞご安心ください。特定の学校の付属教室ではなく、どこの音楽学校受験にも対応しています。いつからでも構いませんので、お気軽に日本では例のない、音楽学校受験生指導協力についてお問い合わせください。

続けていなければ上達はない。

誰でもがんばれば上手になれることを、前回書いて大変多くの生徒さんから驚きの<声を聴きました。 今度は「続けていないとうまくならないよ!」ということなんです。やめてしまったら、絶対にうまくならないのです。ひとりの生徒さんの4年間の成長を動画にしました。 教室のホームページでお楽しみください

普通の少年

音楽家や演奏家は特殊な家庭で育った特別な才能を持った人だけだと思っておられませんか?
いえいえ!そんなこと、ないのです。
もちろん、音楽家の子供や、とても裕福な家庭の子供や、特別な環境で育った音楽家もいることはいますが、むしろ少数なのです。
ましてや才能なんて関係ないのです。
要するに家族と本人の努力があれば誰でも演奏家になるチャンスと可能性があるのです。その一つの例として、私、野村謙介の生い立ちをご覧ください。メリーミュージックに通う生徒さんと比べて、なんとやる気のない少年だったのか笑)普通の男の子がプロになるまでのノンフィクションストーリーをお読みください。野村謙介55年間の足あと
 http://www.nomuken.net/nomuken.html

趣味として楽しむ音楽だからこそ

音楽を演奏する楽しさを考えてみます。
演奏を職業として生活の糧にする人のことを「プロフェッショナル」とするならば、
そうではない、すべての人たちは「アマチュア」ということになります。
生徒さんたちが間違って思い込んでいることの一つに「演奏がじょうずならプロ」という
固定観念があります。これって、みなさんはどう、思われますか?
必ずしも当たっていないのが「演奏がうまい人=プロ」「うまくない人=アマチュア}という式です。
プロは自分がうまいと思っているだけでは仕事になりません。他人の評価が基準になる場合も多いですね。
一方、アマチュアは他人の評価より、自分の満足が優先しても構わないのです。
メリーミュージックにはプロを目指す人も通っています。実際にプロの演奏家が私たちのレッスンを受けにわざわざ、いらっしゃることもあります。
ほとんどの生徒さんは「アマチュア」です。アマチュアだから上手にならなくてもよい?そうでしょうか?
アマチュアの場合、自分の演奏が上手か、上手でないかの基準はどこにあるでしょう。
多くの生徒さんが自分の演奏がうまくないと思い込んでいます。さらに言えば、練習しても全然上達しないと感じています。
自分で上達したことが分かりやすい面と、わかりにくい面が演奏にはあります。
それこそが上達の過程なのです。自分の演奏に不満があるからこそ、頑張って上達するのです。
どこまで上達できるかは、結果として練習の質と量で決まります。頂上のない、山を登るのと似ています。
自分がいま、山のどの辺りにいるのかを、その山の少し高いところまで登ってきている私たちが教えてあげるのが教師の仕事です。
生徒さんが自分の目標を見失ってしまうことは私たち教える側にとって、一番つらいことです。
趣味で音楽を楽しむことこそ、本来の音楽の楽しみだと言うプロがほとんどです。
自分の好きな速度で練習し、好きな音楽を、好きなように演奏できるのはアマチュアの特権です。
だからこそ、あきらめないで上達の自覚が「今は」持てなくても練習を続けてほしいと願っています。

我が家のぷりん姫

トンキニーズという種類のにゃんこ女の子です。名前はひらがなで「ぷりん」
我が家の家族になって1年ちょっと。一昨年11月生まれの甘えん坊です。生徒さんともすぐに仲良しになる人なつっこさで、原宿南教室にレッスンに通われる生徒さんにとって「ぷりんと遊びに来たついでにレッスン」笑になりつつあります。この動画は普段、レッスンをしている1階ではなく、プライベートな2階で、ライオン(私たちはらいよんと呼んでいます)のかわいい人形を、狩の相手にしてトンネルで遊ぶぷりん。途中から、ネジネジの輪ゴムに興味が移ったぷりん。
毎日、このお姫様に癒されている私たちです。

メリーミュージックの特徴

ほかの教室からメリーミュージック変わられた理由は?
「決まった曜日にしか先生がいない」
「先生の経験が浅く、指導力に不満があった」
「月謝制で忙しい月にも返金はない」
「先生の一方的な選曲で自分の好きな曲はダメって」
「有名な楽器店の看板だけど先生がコロコロ変わってイヤ」
「月謝のほかに運営費など不明な支払いがある」
「通っても全然上達しなくて怒られてばかり…」
「楽譜を読めるようにならない」

そんな不満をお持ちの方、一度メリーミュージックのレッスンを
試しに受けてみてください。。きっと違いをご理解頂けます。
いつからでも、一度だけでも、みなさまのご期待に応えます。

新学期

相模原市緑区原宿南の自宅教室近くに、新しい住宅が増えています。
地域の方に音楽を楽しんで頂くために、特にピアノレッスンに重点を置いた大人のピアノレッスンと
お子さんのためのピアノレッスンを充実させていこうと考えています。
大人の場合、自宅で練習できる時間を確保することがとても難しい方がほとんどです。
むしろ、レッスンの時間中に弾けるようになったという実感を持っていただけるように、
レッスン時間を長めにして、ゆっくり楽しんで頂けるように考えています。
一方、お子様のピアノは自宅で練習する習慣と、成長する過程で変化する環境に左右されずに
継続することの大切さに重きを置いて、より高いレベルの演奏技術を目標にレッスンをしていきたいと思います。
「とりあえず」ピアノを習ったという子供を今まで多く目にしてきましたが、その人たちにとって
「習っただけ」で終わってしまったピアノは本人にとって、楽しみになっていません。
弾けるようになることが楽しくなるまでは、確かに止めたいと思うことが良くあります。
それを乗り越える力は子供の場合、家族の応援にあります。違う言い方をすれば、
「どんな子供にでもプロの演奏家になる可能性がある」のです。趣味で良いから…と最初から目標を下げ、
いつでも止められるような準備を親がしてしまうのは、子供にとって果たして良い事といえるでしょうか?
少なくとも学校では習えない楽器の技術を習い続けることで、本人や家族が知らないだけの高い技術に到達できることを
私たちは身をもって体験しています。つまり、私たち演奏家のほとんど全員が「普通の子供」で特別な能力が
あるわけでもなく、特殊な環境に育ったわけでもないのです。多くの友人が塾や予備校に行く中で、私たちはピアノや
ヴァイオリンを習い続け、練習し続けてきただけなのです。その事実を考えれば、お子さんの可能性を初めから
「ここまで」としてしまっては技術を伸ばす以前に挫折してしまいます。これは、ピアノやヴァイオリンに限ったことではないのですが、
事、楽器を習うという話になると何故か「趣味で」とハードルを下げてしまいがちなのです。
私たちは趣味で音楽を楽しんでもらえるようにするために、より高い技術を身につけてもらいたいと願っています。
音大受験生を指導しながら、一方で趣味の音楽を広める活動をしています。
それぞれの生徒さんが本当に演奏を楽しんで頂けるように、今後も試行錯誤を繰り返しながら教室を運営し
自らも研鑽を積んでいきたいと願っています。

発表会終了

2016年4月9日。無事に発表会「第18回小さな音楽会」が終了しました。全35プログラムとおまけの演奏も含め、全員が一生懸命演奏しました。今回、初めて利用したもみじホールですが、ベヒシュタインのピアノが明るい音色だったのが印象的でした。次回の発表会は9月。さらに多くの生徒さんたちが演奏を披露してくれると思います。OLYMPUS DIGITAL CAMERA

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効果的な練習って?

練習してもうまくならないから練習が面白くない。
こんな経験はありませんか?
練習ってなんでしょうか?
楽器を弾く。曲を弾く。練習曲や音階を弾く。
もちろん、ただ考えているだけでは練習とは言えません。
でも、自分の出している音と演奏している音楽に集中しなければ
むやみに時間が経って効果がありません。
まず、練習の目標となる音と音楽をしっかり準備することから始めましょう。
CDを聞くのも良い準備のひとつです。生の音楽会で聞いた音を思い出すのも良いですね。
そしてその準備ができたら、自分の出している音、演奏している音楽が、
自分の出したい音なのか?演奏したい音楽になっているのか?と常に集中しましょう。
そのとき大切なことは「バランス」です。
バランスとは二つ以上のことを同時に考えるときに、どれかに偏ってしまわないようにすることです。
性格によってすぐに妥協してしまうタイプの人と、逆に固執してしまいひとつのことにのめりこんでしまう人がいあmす。
自分がどちらのタイプか、考えてみるのも冷静な練習のために必要なことです。
集中力を持続させることが練習だとも言えます。
練習=楽器を弾くことではないのです。
常に冷静に、常に自分の音を観察し、常により高い理想に向かうこと。
みなさんも自分の練習について、もう一度見直してみましょう。

音楽と共に生きること


自分の演奏を誰かに聞いていただいて、自分が「嬉しい」「良かった」と感じるときはどんな時ですか?
私たちのように音楽を職業としている人間にとって対価として演奏料を頂けることは「当たり前」でしょうか?
演奏する前の段階で契約が成り立って演奏するかしないかを決めるのですから、何も問題はありません。
アマチュアの演奏会が有料の場合、お客様が支払われたお金の多くは演奏会を開くための費用、中でも会場使用料や印刷費、楽器運搬費などに支出されます。
演奏者の中にプロの演奏者がエキストラとしていた場合、その人への報酬もここから支出されることになります。
いずれにしても演奏してくれた人に「ありがとう」という気持ちを表すのが、良い演奏を聴いた人のマナーだと思います。
一方、演奏者はプロであれアマチュアであれ「ありがとう」と思ってもらえる演奏を目指すのがマナーだと思います。
私と浩子姫が「ボランティア演奏」を医療少年院、高齢者施設、保育園、小学校支援学級などでする場合、最初の依頼の段階から「無償演奏」をこちらから提案します。
先方が演奏後に交通費として、または演奏料として当初の「無償」でなくお支払を頂いたときは、受け取らせて頂きます。
実際、医療少年院での訪問演奏はこちらは一切報酬も交通費も不要とお伝えした上で、その予算があるならば、ピアノの調律費用にしてくださいとお願いし、実際調律をされています。
それでもさらに「国庫」から演奏料が会社に振り込まれます。零細企業自転車操業なので本当にありがたく頂いています。

でも!一番嬉しいのは(ここから本題。前書き長すぎ笑)
なにより嬉しいのは、医療少年院の子供たちや先日訪問演奏した近所のデイサービスの職員、利用者の方たちから送られてくる、私たちへの手書きの感謝メッセージです。
一文字一文字に書いてくださった人の「ありがとう」という気持ちが込められています。これ以上の報酬はないですね。
アマチュアオーケストラに限った話ではないですが、演奏する人たちの、演奏に対する責任感の欠如をこのところ感じています。
なんでも弾けば聞いてくれる人が楽しんでくれると勘違いしている人が増えてしまった背景に、それを受け入れる日本人の「懐の深さ」(←これ嫌味です笑)があると思います。
もっと演奏する側の音楽への思いが感じられるコンサートが増えることを祈りながら、来月の保育園演奏に向けて準備中なのであります。

教室の入口


生徒さんが駅前教室にこられるとき、エレベータ前においてある鉛鉱表示から流れる音楽と映像が時々変わっていることにお気づきですか?今日からしばらく、この動画が流れています。

第18回小さな音楽会(発表会)申込書

18回申込書
メリーミュージック生徒の皆さんによる発表会「小さな音楽会」の申込書ができました。
参加は強制ではありません。自分の練習してきた曲を舞台に立ち、人前で演奏すること目標を作り、ほかの生徒さんの演奏を聞くことで新たな目標を見つけられます。
毎回、一人の生徒さんでピアノとヴァイオリン、ヴァイオリンとチェロ、ヴァイオリンととヴィオラなど、いくつもの楽器を発表するのも当教室の特徴です。
どんなに短い曲でも、始めたばかりの生徒さんでも大丈夫です。「まだまだ」と思う気持ちは良くわかりますが、もっと上手になりたいと思う気持ちがあるならば、勇気を出して参加しましょう。
誰が一番上手かとか、自分はあの人より下手だとか「序列」は邪魔です。みんな、一人ずつが精一杯の演奏を披露するのが発表会です。
コンクールではありませんから、お互いが聞きあい、努力を讃え合う事がメリーの発表会です。
申込用紙はこちらからアクロバットファイルでダウンロードできますし、教室にも用意してあります。
当教室の生徒さんでなくても参加可能です。内容をお読み頂き、一人でも多くの方の参加をお待ちしています。

メリーオーケストラ会員募集


第30回定期演奏会(8月14日(日)開催)に向けて毎月1度の公開練習(京王線・横浜線・相模線橋本駅北口杜のホールはしもと多目的室)を行います。会員(演奏者)と賛助会員(支援者)を随時募集しております。
今回第30回の記念演奏会となります。初めて楽器を手にする初心者が幅広い世代の仲間と一緒に鴛鴦する喜びを実感できるように、プロの演奏者の指導を受けながら練習できます。プログラムは初心者でも演奏でき、日ごろオーケストラの演奏に関心のないお客様が聞いても飽きずに楽しめる曲を、ジャンルにこだわらないで演奏します。30回の予定演奏曲には、アイネクライネナハトムジークやパッフェルベルのカノン、バッハのG線上のアリアといったクラシックから、パイレーツオブカリビアン、アナと雪の女王、君をのせてなどの映画やアニメ音楽、また津軽海峡~冬景色~、川の流れのようになどの演歌まで、これ以上ないほ多彩なプログラムを予定しています。会員(演奏者)の会費は毎月3,000円。ほかに演奏会参加費用。賛助会員は一口2,000円となっています。練習予定はホームページ

に公開していますが、すべての練習に参加できなくても問題ありません。現在も6歳の幼児から80代の方までが、毎回、和気藹々とした雰囲気の中でそれぞれの会員が精一杯、練習しています。練習は公開しておりますのでお気軽の見学にお越し下さい。子供の健全な育成と音楽の普及を目的としたNPO法人メリーオーケストラに一人でも多くの方のご参加とご協力をお願い致します。

メリーオーケストラ第29回定期演奏会

今年で設立15年目となるNPO法人メリーオーケストラ。
初心者がオーケストラのメンバーとして音楽を楽しめたら…
子供たちが大人たちと一緒に音楽を演奏することで、豊かな感受性、人間性を持つことでできたら…
そんな願いをこめて2002年1月に産声を上げました。以来、年2回に定期演奏会と毎月1回の公開練習を途絶えることなく続けてきました。私一人の力は微々たるものです。支えてくれる大人たち、それに応えて成長していく子供たちがこのオーケストラを育ててきました。
子供だけの「ジュニアオーケストラ」でもなく、演奏技術の向上だけを目的としたオーケストラでもなく。音楽という文化・芸術には国境も年齢も性別も障がいも関係ありません。音楽を聴く楽しみ、演奏する楽しみを一人でも多くの人に広めていくことが私のライフワークだと、いつからか思うようになりました。ジャンルにこだわらない、常識にしばられない、可能性を信じて今日まで
やってきました。音楽に裾野があるとしたら、それは頂点よりも広く、薄いものかもしれません。
オーケストラの演奏会に期待するものが「芸術性」であるとする考えも良くわかります。
メリーオーケストラに毎回のように足を運んでくださるお客様は、演奏する人間の成長を楽しんでくださっているように思います。
学校の部活動と違い、卒業や引退がありません。仕事や進学、家庭の事情で一時、休会したり退会したりするメンバーは、いつでもいます。
その一方で新しく入ってくる人たちもいます。第1回の定期演奏会を開いたときから、私がいつも思うことは…
やめるのは簡単。続けることが何より大切で大変。だからこそ続けることに意味があるということです。
今回の演奏会でソリストを務めてくれる依田夏希さん。彼女は第1回の定期演奏会のとき、小学校5年生でした。初々しい演奏姿が今でも同じステージにいると思い出されます。その彼女が音楽大学を卒業し、結婚した今もこうしてメリーオーケストラに関わってくれていることが何よりも嬉しく誇らしいことです。ただ上手になったからという意味ではなく、次世代の子供たちに音楽の楽しさを伝える側になって私と一緒に活動してくれる彼女に心から感謝しています。メンバーの演奏技術は決して高くありません。それでも一人ひとりがそれおぞれの環境で精一杯練習して毎月集まってきます。年に2回の演奏会ですから、演奏会が終わった翌月からすぐに、次の演奏会の練習が始まります。6回から7回の合奏練習で演奏会を迎えることになるのはとても忙しいことです。それでも、このやり方がメリーのやり方なのです。一人でも多くのメンバーが負担を感じずに続けられる方法を模索し続け、どんな壁にぶつかっても、なんとかして乗り越えてきました。これからもずっと、続けていたいから、今回の演奏会が大切なのです。
一緒に演奏してみたいという方、またこのオーケストラを応援してくださる方(賛助会員)をいつも募集しています。
年齢、技術、地域に関係なく誰でも参加できるオーケストラが「NPO法人メリーオーケストラ」です。
ぜひ、会場で一緒に音楽をお楽しみ下さい。
1月31日(日)午後4時開演(午後6時終演予定)
橋本駅北口ミウィ7階「杜のホールはしもと」
入場無料・全席自由
小さなお子様でも、障がいをお持ちのお子様でも、車椅子でのご来場も大歓迎です。
チケットや整理券、事前申込みを必要ありません。開場は午後3時30分(賛助会員の方は3時20分)
皆様のご来場を心よりお待ちしています。

29thconcert

第18回小さな音楽会のお知らせ

merry18
来る4月9日(土)疑義2時より相模原市もみじホールで教室の生徒さんたちによる発表会が行われます。今回で18回目と鳴るこの小さな音楽会は、初回からただ技術を競うのではなく、お互いの演奏を聴きあって自分の目標を見つけ、モチベーションを高めていくことを第一に考え、自分の演奏をするだけで帰ってしまうつまらない発表会ではありません。小さな子供も、練習時巻を確保できない社会人も、みんなが、「弾くこと・聴くこと」を音楽として楽しむ時間です。一般のお客様も自由にお聴きいただけます。今回、初めてもみじホールでの音楽会です。このホールにはベヒシュタインというドイツピアノの最高峰の楽器が設置されています。橋本駅からの距離がありますが、広大な無料駐車場があるので、送るまでのご来場も心配ありません。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロなど一人の生徒さんがいくtもの楽器を演奏することもメリーミュージックならではです。また、毎回ご家族での共演も数多く、家族が共通の達成感を味わえる貴重な発表の場でもあります。今からでもこの発表会に参加できます。教室で生徒さんを教えておられる先生方。生徒さんの発表の機会としておすすめいただければと思います。

作曲・編曲・ボイストレーニングコーススタート!

新年より新しく作曲・編曲のレッスンとボイストレーニングのレッスンを開始します。
講師には桐朋学園大学作曲科を卒業され多方面で活躍されている野平龍一(のひらりゅういち)
先生をお迎えしました。優しい人柄と丁寧なレッスンで有名なアーティストですが
高校時代からの私たち二人の親友です。今回、快くメリーミュージックでのレッスンを
引き受けて下さいました。レッスンは基本60分のコースで駅前教室でのレッスンとなります。
アマチュアや健康目的の方でももちろん、プロを目指す方やプロの方にもレッスンをして頂けます。
メリーミュージックの新しいコース。コーラスを楽しんでいらっしゃる方にもお奨めです!
以下、野平先生のプロフィールです。

野平龍一 (NOHIRA Ryuichi)
 
1961年千葉県生まれ。
桐朋学園大学にて作曲理論を学ぶ。在学中、池内友次郎・原博・宍
戸睦郎諸氏に師事。また、フランスグルノーブル国立音楽院での留
学中M・オルスタイン、M・メルレ諸氏に師事。大学卒業後、数々
の企業ビデオの音楽製作等を担当しつつ作曲活動を始める。
 
 代表作に交響組曲「あけぼの~栃木へのいざない」「音楽物語~大中寺」「遠州音楽物語」等。
また、八景島シーパラダイスでの音楽製作や「三鷹市民体操」等、ジャンルを超えた音楽活動に積
極的に取り組み、 ポップス、ヒュージョン、ミュージカル等で有名アーティストとの 仕事も多
数。 
 細川ふみえ氏主演による「お話しミュージカル~百万回生きた猫」を作曲し十数回にわたり全
国を回る。また、音楽プロデューサー浅倉大介氏のCDレコーディングにアドバイザーとして参加。
ミュージカル、TMR-eアリーナツアー等、TV,ラジオ等各種メディアでの活動の傍ら、声
楽の伴奏や室内楽のピアニスト、ボイストレーナーとしても活動中。2003年マロニエフルートオー
ケストラによるCD「Season’s Collection」リリース。2006年より台湾、中国へ活動の場をひろ
げ、台湾では大学(音楽学部)の客員教授を務めている。
 
 日本各地・アジア諸国での音楽会や企業への楽曲提供、大学客員教授、ディナーショー構成編
曲、ピアニスト、ゴスペル集団チーフトレーナー、音大受験対策講師、有名アーティストボイスト
レーナー等、活動の幅は多岐に渡る。
 
【主な仕事履歴】
日本テレビ制作ドラマ「ハルモニア」で演奏指導及び演奏出演。
ニッポン放送主催西川貴教主演ミュージカル「リトルショップオブホラー」に参加。
辰巳琢郎、水前寺清子、加山雄三、各氏との対談および公演での楽曲提供および演奏参加。
栃木放送マロニエ音楽堂テーマ曲、RADIO BERRY〈FM栃木〉「風のシンフォニー」テーマ曲、
同番組に度々出演。2009年米国インディアナ州エバンスビル交響楽団へ楽曲提供及び演奏。
株式会社ワミレス「出会いと感謝の集い」に4年間シリーズにわたり音楽制作担当。
渡辺エンターテインメント TokyoJamCompanyミュージカル「まりあ」音楽担当
日本及び台湾での各演奏家、各楽団への楽曲提供及び共演。
岐阜市在住小川茂子氏主宰「桐の響きを楽しむ会」楽曲提供
沖縄うたのしま音楽工房への楽曲提供
浅倉大介ディナーショー(東京ベイヒルトン)構成編曲家
台北市財団法人交流協会での演奏及び楽曲提供
台湾中壢市聖徳基督学院音楽学部客員教授
ゴスペル集団「Free Souls」チーフトレーナー
音楽大学受験対策講師
その他個人レッスン

nohira

ムジカーザでのリサイタル

第8回02.
ブログをご覧のみなさま。本年も宜しくお願い致します。
穏やかなお正月でした。今年は我が家にぷりんという新しい家族を迎えての初めてのお正月でした。
トンキニーズという種類の女の子にゃんこ。愛らしく優しく好奇心旺盛で誰にでも人懐っこく、
警戒心がほとんど感じられない猫に毎日癒されています。そのぷりんと三人で初詣にも参拝しました。
元旦から我が家ではピアノとヴァイオリン・ヴィオラの音が響いていました。9日のデュオリサイタルに向けて
仕上げの練習です。演奏者によってそれぞれですが、僕の場合は演奏会当日の本番までに自分の筋肉の緊張と
疲れを逆算して約10日前から徐々に仕上げていきます。これといって決まりはありません。むしろそれを決めてしまうと
そうでないとき…むしろいつも同じことが起こるはずが無いのです。しまった!と思ってしまうので、どうなっても大丈夫なように
気持ちを整えていきます。調子の良い・悪いも日によって様々ですから、本番直前が一番調子がよくなるようにします。
一種の自己暗示です。実際に若い頃、自己暗示のれトレーニングもしました。色々なやり方があるようです。人前で上がってしまう方や、
不安が先に立つ方は是非、試してみる価値があります。
ムジカーザという会場は収容が100名ちょっとの「サロン」です。大きなお部屋のような会場です。
指揮者の井上道義さんの私邸でもあり、音響にも優しいこだわりがあります。ピアノはスタインウェイトベーゼンドルファーが
選べます。浩子先生は毎回ベーゼンで演奏しています。12月に演奏したプログラムと同じ曲目を
12月にはスタインウェイで。ここではベーゼンドルファーで演奏します。ピアノの違い、空間の大きさの違い、
そして演奏者との距離の違い。全ての環境が眞逆です。12月にお聴き頂いたお客様には無料でこちらのコンサートをお聴きいただけます。
もちろん、こちらの会場だけでもお楽しみいただけます。当日券も少しご用意できます。
皆様のご来場を心よりお待ちしております。

メリーの年末



2015年12月。今年もリサイタルを終えてからレッスンの調整をしながら、
演奏のお届けものをしてきました。神奈川医療少年院でのクリスマスコンサート。
少年たちが今年も待っていてくれました。心に病と傷を持った純粋な子供たちに
たくさんの感動をもらい、もっと多くの事を学ばせてもらいました。
ただ楽器を弾くことが音楽ではないこと。上手に演奏しようとすることより、
歌いたい。演奏したいという「気持ち」の現れが音楽であること。
私たちが当たり前と思っていることが実はそうではないことも、学ばせてくれます。
そのボランティアクリスマスコンサートの夜、浩子先生と毎年恒例の「イルミネーションツァー」を
今年もよみうりランドで堪能しました。起伏のある園内、遊具もイルミネーションで夜空に浮かびます。
皆様もせひ!一度お出かけになってみてください。
そして、23日。私の両親がお世話になっている横浜の介護施設に、伺いクリスマスコンサートを
開かせてもらいました。80歳を越えた両親が穏やかに暮らしている姿をみると、こちらも
穏やかな気持ちになります。「介護施設」を悪いイメージ、暗いイメージで捉える方もおられますが
本人と家族が穏やかな毎日を過ごせることが一番幸せなのだと思います。「かわいそう」と
先入観で思い込むのはむしろ、思い上がりの心が無意識に働いているためだと思います。
自分に出来ることと出来ないことを冷静に考えたとき、介護の専門家に24時間、お世話してもらえる
施設に暮らせるならとても満ち足りた時間をすごせるものです。


アンコールに代えて、みんなで歌ってもらったきよしこの夜。
両親と一緒に暮らす「友人」たちの平穏なクリスマスを祈りながら帰ってきました。
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杜のホールリサイタル終了

8回
12月6日。無事に杜のホールでの演奏を終えました。高齢者の方や支援学級に通う子供とそのご家族、メリーオーケストラの賛助会員の方々、お手伝いいただいたメリーオーケストラメンバーに心からお礼を申し上げます。私たちの集客力ではこの525名収容のホールを満席にすることは残念ながらできませんでした。次回から、12月のリサイタルは会場を城山もみじホールに致します。駅からのアクセスはこの杜のホールが最高なのですが、身にあった大きさのホールに移ります。今回聞きに来てくださった方々に、またら年もお会いできるのを楽しみにしています。
1月9日の代々木上原ムジカーザでのリサイタルに向け、今回の反省も含めてさらに良い演奏ができるように頑張ります。

デュオリサイタル8受付について

前回、お知らせしましように、橋本でのコンサートには障害をお持ちのお子様とご家族、介護施設に暮らしている高齢者の方と介助の方を無料でご招待させていただいています。また、メリーオーケストラの賛助会員の皆様とそのご家族ご友人はお一人、1,000円でご入場頂けることにしています。通常のチケット代金をお支払頂けるお客様には、ムジカーザでのサロンリサイタル(1月9日土曜日・代々木上原ムジカーザ)にも同じチケットでお聴きいただけます。
受付は「一般」(チケットのお取り置きも含む)・「賛助会員」(メリーオーケストラ賛助会員)・「ご招待」の3箇所を儲けます。いずれも開場が13時30分(午後1時30分)ですので、その30分前の13時(午後1時)より受付を開始します。客席は全席自由席です。ただし、車椅子でお越しのお客様も通常のコンサートより多くいらっしゃるので、車椅子席とその周辺について、ご協力を頂くことがございます。
通常のチケット代金をお支払い頂くお客様に、不公平な印象をもたれてしまうかと思いますが、この演奏会が特別なことではなく、本来なら誰でも音楽を聴くことが出来ることをご理解いただければ幸いです。そして、今回ご招待させていただく方々がこれからは、自分たちも気後れしないで普通に音楽会を楽しもう!と思ってくだされば、どんなコンサートにでも足を運んでくださる未来につながると確信しています。
皆様に会場でお会いできるのを楽しみにしています。

デュオリサイタル8へのご理解(お願い)

私と妻の演奏会に、障害を持った子供たちと介助の必要なお年寄りを無料でご招待しています。地域の学校、高齢者支援施設に文書を出しています。
当然の事ですが、障害によっては感情が昂ぶると声を出す子供もいます。身体を動かさずにいられない子供もいます。高齢者の中には長時間、座っていられない方もいます。でも、音楽を楽しむ権利があります。それを受け入れるか排除するかは、主催者の気持ちだと思います。お客様の中には「静かに音楽を聴きたい」と思ってくださる方もいらっしゃるのはわかります。それもわかります。そういう演奏会があっても良いのです。
私の演奏会では、障害のある子供や高齢者にこそ、音楽を楽しんでもらいたいと思います。ですから、どうしてもその「声」や「動き」が気に入らないという方、理解できないという方には他の演奏会で楽しんで頂くことしかできません。お許し下さい。

第8回02.

体験レッスン増加中

涼しくなったこともあるのでしょうか?このところ、新規生徒さんの体験レッスンご予約が増加中です。3才のお子さんも含めて嬉しいことです。また、以前この教室に通われていた生徒さんのお子さんたちのレッスンも増加中です。「メリーミュージック2代目」生徒さんたちですね。
秋になると、新しいことにチャレンジしたくなる「気力」が増えます。
思い立ったら思い切って、メリーにご連絡下さい!

発表会終了

2015年9月23日。無事に40組の演奏は発表が終わりました。
今回初めて演奏した5才の男の子や、趣味で楽器の演奏を楽しんでいる大人まで
半年間の練習の成果を発表しあい、聞き合いました。
多くの音楽教室の発表会は「ただ弾くだけ」の形式で他の人の演奏は聴きもせずに
帰ってしまう人が多いのが現状です。本来の音楽会では失礼なことですし、
マナーに反することです。自分の演奏を聞いてもらう楽しさは、聞いてくれる人がいて
初めて感じられるものです。発表会という特殊な音楽会ではお互いが聴きあうことこそが
大切な刺激になるのです。演奏技術や曲の難易度に序列をつけないで聴くこと。
そして、子供の発表が終わったら家族がほめてあげること。わが子の一番のファンになること。
そんなお話をさせてもらいました。
実際、ヴァイオリンやピアノ、チェロ、フルートの演奏は難しいものです。
どんなに上手に聞こえる人の演奏でも、弾いている本人は満足していないのが普通です。
それでも、一人で家で練習するだけの繰り返しより、人の前で演奏し、同じ先生に習っている
他の生徒の演奏を聞くことが上達の鍵になると信じています。
次回は来年3月。この機会に発表会に挑戦してみませんか?
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2代目の生徒さんたち

つきほくん

教室オープンから10年という年を寝て、習っている生徒さんのお子さんたちが
教室で新たにレッスンを受けてくれています。私たちにとって一番嬉しいことです。
音楽を学ぶのは一生の楽しみです。自分が親となったとき、自分の子供に
少しでも自分の知識や技術を伝えることができれば、子供にとっても幸せなことです。
技術的なことに止まらず、毛族が共通の楽しみとして音楽を愛好することは
コミュニケーション手段としても大切なことです。
写真の生徒さんは中学生で教室でフルサイズ(大人のサイズ)のヴァイオリンを
購入し嬉しそうに背負っているものです。
人と人の出会い、人と音楽との出会い、楽器との出会い。
出会いの場としてメリーミュージックは活動しています。

メリーミュージックの考え方

久しぶりの更新です。すみません。
教室の生徒さんによる発表会の準備に追われている毎日です。
9月23日(祝日)午後2時からサンエールさがみはらで
子供の部、大人の部の発表会「小さな音楽会」を開催します。
一口に音楽教室といっても様々です。
グループレッスンで楽しさを優先したレッスンをする教室もあれば
演奏家になるための教育を優先する教室もあります。
メリーミュージックは、どんな生徒さんの希望にもこたえることが出来る
「珍しい音楽教室」だと感じています。

演奏するために必要な知識や技術を生徒さんに教えるためには
教える側が音楽家になるための教育を受け、多くの生徒さんの個性を知り、
経験を積み重ねることが絶対条件です。
どんなにステキな雰囲気のおしゃれな教室でも、先生が未熟で意味がありません。
また、厳しいだけでは生徒さんの「やる気」を無くさせてしまうこともあります。
何よりも生徒さん一人ひとりの個性を見極めて、良いところを伸ばし、直すべきところを指摘し
根気強く指導することが出来なければ良い教室だとはいえません。
先生と生徒との人間関係が壊れてしまったらレッスンになりません。
お互いが尊重し合える師弟関係を作ることは簡単なことではありません。
まして、価値観の多様化している現代で「習う」ということの意味が
昔と変わってきているのも事実です。学校や日常生活でも同じ事を感じます。
音楽が人生を豊かにする実感を得られるのは音楽と接しているからなのです。
音楽の喜びを一人でも多くの人に体感してもらうためにメリーは頑張っています。
ぜひ一度、私たちのレッスンを受けてみてください。
こんな曲が弾きたい。こんなことがしたい。
リクエストをお知らせ下さい。お応えします。

音楽が繋ぐ笑顔の輪

メリーオーケストラは今から14年前2001年1月に発足しました。
当時、教員をしていた私が地域の子供たち、初心者でも音楽を楽しめる環境がなかったので、
自分で立ち上げた小さなオーケストラでした。
毎年2回の定期演奏会を「なにがあっても」欠かさずに杜のホールで実施してきました。
その都度、参加者は変わります。それでも軸をぶらさずに時間をかけてきました。
子供たちと大人、初心者と専門家、地域も様々、そんな音楽の集団が「なかった」のです。
もとより、音楽専門家のものではありません。すべての人が等しく楽しむことが出来るのが
音楽の素晴らしさです。それは、専門家から見ても間違いの無いことです。
一部のマニアや音楽家の自己満足のための音楽はメリーオーケストラにはありません。
初めて音楽を聴く人にでも楽しめるコンサート。
初めて楽器を持った人でも一緒に練習できるオーケストラ。
親子が一緒に練習できて、プロも一緒に弾いていて。
この笑顔のために、また次の演奏会に向けて仲間を集めています。
一緒に音楽を楽しみたいと思う方。気軽にご連絡ください。

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メリーオーケストラ第28回定期演奏会のお知らせ

8月16日(日)午後2時開演。橋本駅北口ミウィ7階、杜のホールはしもと。入場無料。小さなお子様も入場可能です。
5才から大人までの会員が、音大生、プロの演奏家と一緒にステージで演奏します。今回で28回目となる演奏会。曲目はディズニーのメドレーや子供の大好きなトトロなどのアニメの音楽から、ベートーヴェンまで多彩です。開場は午後1時30分。事前のお申込みや整理券は不要です。どなたでもお楽しみいただけます。相模原市教育委員会後援です。

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子どものために

メリーオーケストラで音楽を楽しむ子どもたち。小学生たちが遊びの感覚でバイオリンを弾いています。大人と一緒に朝から夕方まで練習するメリーオーケストラ。地域、年齢、技術の枠に一切とらわれず、子供の健全な育成と音楽文化の普及を目的とするNPO法人メリーオーケストラ。子供を支える大人の役割と、音楽が人を一つにする実感をここでは当たり前に味わえます。
一人でも多くの方にこの活動にご協力頂けたらと願っています。
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プロを目指して

メリーミュージックに通ってくる多くの生徒さんは初心者です。
趣味で音楽を演奏する楽しみを感じてもらっています。
その生徒さんたちの中に、音楽家への夢を持つ生徒さんも出てきます。
ヴァイオリンであれ、ピアノであれプロの音楽家を目指すのは大変なことです。
でも、特別な才能が必要なのではありません。
小さなときから習っていれば誰でも上手になるわけではありません。
楽譜を見ているようで、実は楽譜に書かれている音符や休符ではなく
指の番号だけを見て弾いている子供もたくさんいるのが現実です。
プロの演奏家になるために、必要な練習は趣味で演奏する人が学ぶものと
少し違います。プロに求められる技術はただ単に自分の好きな音楽を
自分流に弾けば良いと言うもではないからです。
まだ、だれも演奏したことのない、出来たばかりの楽譜(音楽)を
楽譜を渡されてすぐに演奏できることもプロの必須条件です。
また、色々な作曲家の音楽を演奏できることももちろんです。
ヴァイオリンの場合、3才の子供が弾ける大きさの楽器があります。
ただ、ピアノと違い「音を出す」ことと「音の高さを決める」技術を
同時に習得する必要があるために、一人で練習してできるようにはなりません。
どうすればきれいな音が出るのか。どこを押さえれば正しいピッチの音がだせるのか。
理屈ではそれほど難しいことではありません。
ただ、どうしてきれいな音が出ないのか?今弾いている音が正しいピッチなのか?
は自分でわかるようになるまでは誰かに教わらないとできません。
自宅で練習するときに、親が教えてあげるのが最善の方法です。
親が演奏できなくても良いのです。レッスンで子供が言われたことを
自宅で子供に教えてあげるだけの事です。ピッチはチューナーを使えば
誰にでも計測できます。
さて、メリーの受験生たちはこれから、自分の進路をどうやって決めるでしょう。
私はどこの音楽学校であれ、本人の意思があれば上達できると思っています。
一番大切なのは自分が尊敬できる師匠(先生)に出会えるかどうかです。
人間同士のことなので相性もあります。限られた先生の中で自分がついていける先生に
出会い、周りからの刺激を受けながら、音楽仲間と一緒に成長するのが音楽学校です。
プロになるための技術を学び、精神を鍛え、さらに高いところへ登るための環境が
音楽学校なのです。メリーはこうした「専門家育成」の場でもあります。
誰でもやる気があればプロになれる。
そう、信じて頑張れる人だけがプロになれる。

紫陽花ツアー

今年も相模原北公園の紫陽花を楽しんできました。
今年はぷりんも一緒です。スリングと呼ばれる肩からかけるバッグのようなキャリーにおとなしく入って時々眠そうにしていたぷりん。
すれちがう猫好きな人に写真を撮られながら。
この公園、とても広く木々が自然に近く生い茂ったところもあって、観光地に旅行に行った気分です。幼稚園児の遠足とシニアの写真愛好家が楽しんでいました。
毎年、なにか変化があって嬉しいことです。

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心とからだの健康

メリーミュージック生徒さんの中で最高齢、今年85歳になられる女性が
昨日、私たちのCDをお買い上げくださいました。
昭和4年生まれ。私の父親と同い年です。
足の指が少し痛いんですけど、風邪も引かず、買い物も食事のしたくも
ぜーんぶ自分でしてるんですよー。とのお話。
どうして、そんなに気持ちもお体も元気なんですか?
と真剣にお聞きしたところ、お答えは
落ち込まないことでしょうかねー。
と明るく教えてくださいました。
ご主人を大分前になくされ、お一人で暮らしている生徒さん。
毎日、一日中私と浩子先生のCDを流しっぱなしで聴いてくださっているそうです。
野村先生と浩子先生にお会いできたおかげで本当に元気になったんです。
そういわれて「はいそうですか」とも思えず(笑)でも…
人との出会いに本心から感謝することができるからこそ、
明るく落ち込まないで生きていられるのかな?とも思いました。
自分の身に降りかかる「不幸」は人に理解されるものではありません。
それを不幸と考えず、受け入れて明るく生きることを目標にしたいですね。
病気や天災から逃げる方法はありませんから、遭遇してもそれは「偶然のできごと」です。
小さな失敗や、目の前の苦労を「大変だ」と思って落ち込むよりも
他にいいこともあるさと、好きなことを考えていれば、いつか時間はすぎていきます。
時間を大切にするって、自分らしく生きるという意味だと思います。
人それぞれ、幸せに感じること、不幸に感じることは違って当たりまえ。
だから、他人を巻き込まないで自分が好きなことをすることが一番だと思います。
親の世代の生徒さんに教えられることばかりのメリーミュージックです。

アメイジング・グレイス


人それぞれに悲しみや悩みがあります。どんなときにも笑顔でいることって、とっても難しいことですよね。なきたいときには泣くのも大切なことだと思います。
みなさまの心に蓋をしている素直な気持ちに、私たちの演奏が触れられたら演奏する喜びで私たちも嬉しくなります。天使のようなぷりんの画像を見ながら癒されて下さい。

録音技術の進歩

時代が変わり、音楽を聞いて楽しむ方法も変わってきました。
小学生の子供たちは「レコード」を知りません。カセットテープも今や懐かしいものになってしまったようです。
MDが時代の最先端だったのも懐かしい話です。
CDが主流となり、レンタルCD店もあちこちにありました。
ところがそのCDも次第に下火になってきています。
インターネットの普及で音楽も「配信」で楽しむ時代になりました。
便利になったことは間違いないのですが、音楽を聴いて楽しむというのは
必ずしも便利なだけが楽しみではないと思いませんか?
演奏を楽しむために、コンサートへ出かけることは決して便利ではありません。
人間が目の前で演奏する音を、大きな空間で楽しむことは非日常の趣味の時間ではないでしょうか?
CDの音質は素晴らしいといわれています。
空気の振動である「音」をマイクを通して電気信号に変換します。
昔、レコードが出来たばかりの頃、マイクの変わりに「ラッパ管」といわれる
筒のようなものに向かって演奏し、それを直接レコード盤に針で溝を掘って原盤を作りました。
そんな時代のレコードは雑音が多く、回転むらも多いものでした。
どんなに機械が進化しても、人間の感覚は変わっていません。
現代のCDに記録できる情報はすでに私たち人間が「音」として感じられる
空気の振動数を超えています。聞こえない空気の振動は音ではありません。
まして、スピーカーやイヤホンの性能がどんなに上がったとしても、
コンサート会場で聞く音とは全く違うものなのです。
会場には自分も含めたくさんの人がいますよね?みんな息をしていますよね?
その息だって本当は音なのです。演奏者から10メートルも離れたら演奏者の息よりも
隣の席の人の息の方が大きいでしょ?それでも音楽は聞こえてきます。
つまり、生の演奏には「雑音」が元々含まれていると思えばいいのです。
不快に思う雑音も確かにあります。が、すべての雑音を消していくと
実はものすごく気持ちの悪い、不自然極まりない音の空間になるのをご存知でしょうか?
放送局や録音スタジオの一部にある「無響室」という部屋があります。
残響をすべて消し去り、部屋の外からの音を完全に遮蔽し、空気の流れも音にならない
ゆっくりした流れにしてある特殊な部屋です。この部屋に入った瞬間、とても不気味な感覚に包まれます。
CDの録音はこうした部屋で行うこともあります。そこで電気信号に変えられれたデータを
電気で加工してイヤホンやスピーカーで聞いたときに、まるで広い部屋で聞いているような
「錯覚」を作り出すのです。雑音といわれるものは一切ありません。むしろ、演奏者の息が雑音に感じます。

私たちが録音に使っているのは、こうした特殊な部屋ではなく私たちが生活している
自宅のリビングです。厳密に言えば雑音だらけです。エアコンや照明器具の音、
時にはマイクの近くで寝ている愛娘「ぷりん」←にゃんこですの寝息も入っているかもしれません。
録音に使っている機材はデジタル記録用のものですが、その空間だけは普通の空間なのです。
デジタルの録音技術のなかで最もポピュラーなのが「パンチイン」と呼ばれる、言わば「いいとこどり」です。
失敗した音だけを何度でも弾きなおして、その音だけを入れ替える。
実は昔から用いられてきた録音方法なのですが、もはやクラシックの世界でも
当たり前になっています。聴いていてもわからないように処理できるので、いくら聞いてもわかりません(笑)
その方法を使うことで演奏者は失敗を気にせずにのびのび演奏できる…のですが
言い換えると緊張感はなくなります。私たちの録音はこの手法を使わずに「一発取り」といわれる
途中で録音を止めない方法で作っています。何度か録音しなおすことはします。
何度もやればうまくいくと思いがちですが、実は段々疲れてくると集中力が落ちて
どんどん下手になるんですね。これが(爆笑)
そんな録音風景を思い描きながら、今回のCDローズをお聞きいただけると、より一層楽しめるではないでしょうか?

お待たせしました!

FB_IMG_1432382305956てすCD第三弾「Tendernessローズ」完成しました!
サンプルもお聞き頂けるようになりました。
お申し込み、サンプルの試聴はこちらのページからどうぞ!
皆様のお申し込み、心よりお待ちしております。
発売開始は6月6日です。
申し込みページ

CD第三弾

テンダーネス文字小多くの方に優しい気持ちをお届けしている私たちのCDアルバムtenderness
皆様からのご期待にお応えできる第三弾を作ります!
収録予定曲(順不同)
☆タイスの瞑想曲
☆カヴァレリア・ルスティカーナより間奏曲
☆トロイメライ
☆パガニーニの主題によるラプソディ
☆真夏の夜の夢よりノクターン
☆アメイジング・グレイス
☆オンブラ・マイフ
☆夜の歌
今回もバイオリンとヴィオラを取り混ぜた演奏です。
まもなく予約受付開始致します!

教育と音楽

教育という職業に関わって30年ほどの年月が経ちました。
桐朋学園大学という言わば「職業音楽家育成学校」で学んだ私が
卒業後、すぐに普通科中学・高校で音楽の教員として働くことになったのは
偶然が重なってのことでした。卒業するまで多くの学友と同じく
自分「も」演奏家になるのかな?と漠然と思っていました。
そんな私が20年間という長い時間を一つの私立学校で音楽の授業だけでなく
担任をしたり、教務の仕事で成績管理をしたり、生徒指導をしたり、保護者と面談をしたり、
修学旅行の引率をしたりと、本当に音楽とは無縁に近い生活をしていました。
勤めだしたのがその学校の新設のときだったので、ただ一人の音楽教諭として
なにもない(音楽室の設計から備品の選定まで)ところから始まりました。
当然の事ながら、教諭として何の知識もない状態でスタートしながら、唯一つ
自分にしか出来ない指導があるだろうと音楽顧問としてオーケストラを編成する夢を
追い続けました。当初、10人の男子生徒(男子校だったので)を集めて始まりました。
3年間で60名の男子だけのオーケストラに育てました。今考えても信じられないような
神業です(笑)
その音楽部を150人編成のオーケストラに育てました。全校生徒1200名の学校で
150名が音楽部。石を投げれば音楽部員に当たるとまで言われました。
なぜか?本当になぜだったのか理解できませんが、ほとんどの教員、特に管理職教員から
猛烈な「野村たたき」を受け続けました。出る釘は打たれる…そう言い聞かせながら
ひたすら無視して自分の夢だけを追いました。退職する2004年までに私自身が学んだこと。
組織の恐ろしさ>教育
教える側も教わる側も、結局は周囲の人間の流れる方向に逆らえないのが学校という組織だという
悲しい事実でした。桐朋に学んだ頃、学生だった自分はそんなことを考えたこともありませんでした。
学校組織の見えない圧力が教育を阻んでいます。
事なかれ教育。付和雷同が一番。人と違うことをすればいじめられる。
教員間でのいじめは生徒同士のいじめの比較になりません。なにせ大人のすることです。
隠蔽する知識も渡世術もあります。決して表に出ないこのいじめが、こどもに伝わらないわけがありません。
音楽は自分を表現することであり、同時に他人を受け入れることでもあります。
誰かが作った音楽を演奏する時点でその作曲家の思いを受け入れることになります。
お客様の前で演奏することも同じです。一緒に演奏する仲間との信頼。友情。
教えてくれる師匠への尊敬の念。自分を慕う後輩への優しさ。ライバルでもあり
かけがえの無い友との出会い。
そんな音楽を愛する人たちの純粋な学び舎でる学校にいた時代と、学校教育の現場のギャップ。
私は今の学校教育に多くの疑問を持っています。
部活動が当たり前のように日曜日も夏休みもお盆も年末年始もなく行われる異常さ。
それを黙認する教育委員会と文科省。部活指導をしなければ怠慢だとクレームを言う保護者。
塾に通わなければ学校の勉強ができないと当たり前に思っている保護者。
先生を尊敬しようともしない子供たち。子供を管理しなければならなくなってしまった教員。
生徒を叱るだけで「体罰」と騒ぐマスコミ。こどもの学ぶ自由を奪う教科書への国家の干渉。
音楽の授業を「その他の教科だから」とどんどん減らしていく文科省。
音楽の授業で「ドレミ」さえ教えられない教員。
そんな不満をストレスに感じながら働くことに疲れ果てて、自分で音楽を教える道を選びました。
自分の責任で教え、自分の力で演奏会を開くこと。生活は貧しくても心は豊かです。
長文、最後までお読みいただきありがとうございました

楽器とお料理(2)

前回に引き続きこのテーマ。
プロの料理人が作るものと、そうでない人の作る料理の違いは
ただ単に「どちらが美味しい」という価値判断はできません。
食べる人にとって美味しいと感じる食べ物は、数値で表せるものではありません。
同じ料理を同じ人が食べたとしても、美味しいと感じるときもあれば「あれ?」と感じることもありますよね?
記憶に懐かしい味や香りは他人に表現できません。
よく言われることですが、母の作ってくれた普通の家庭料理が一番懐かしく、美味しく感じることもあります。母から子供に伝えられる味も多くは「だいたいこのくらい」の味付けだったりします。
プロの作る料理にないものは「妥協」だと思います。逆に「こだわり」があります。
その料理につけられる値段は様々です。評価も様々です。
音楽だってそうですよね。
懐かしく感じる曲があったり、思い出のある演奏があったりします。
新しい出会いを積極的に求める人もいれば、全然興味のない人もいます。
知らなかった音楽に出会う楽しさは、新しい料理に出会う楽しさと似ています。
ぜひ、一曲でも多くの音楽を「つまみぐい」「味見」してみてください。
病み付きになる音楽に出会えるかもしれません。

お楽しみ映像

たまにはお気楽な映像で癒されて下さい。
浩子先生の電子ピアノ鍵盤を歩くぷりん。そして、ぷりんの得意技「ぷりんちゃんがころんんだ」の瞬間です。


練習量を増やすこと

多くの生徒さんが通う教室ならではの指導者の悩み。
自宅での練習が上達の必須であることを生徒さんになかなか理解してもらえないことです。練習そのものが「楽器を弾くこと」だと思い込まれることも困るのですが、何よりも練習の量を増やすことでしか得られない感覚があります。
学校の部活動で毎日のように、何時間も練習することが当たり前だった記憶は多くの方にあると思います。お金を払ってまで習う音楽ですが練習しなければ上達しないのは部活と同じですね。
毎日の練習時間を確保することは大人に取ってとても難しいことです。好きだから出来るのだと思います。練習すればもっと楽しくなることを生徒さんに実感してもらえるために、どうすればいいのか?日々考えています。
練習して初めて知る世界がある
自分にも言い聞かせています。

弦の張替

ゴールデンウイーク最中、バイオリンとビオラの弦を張り替えました。ピラストロのパッシォーネというガット弦です。値段は一般的なナイロン弦であるトマステークのドミナントの2~3倍しますがそれだけの違いを感じるので愛用しています。理想的には1ヶ月から2ヶ月に一度、張り替えしたいのですがそこは我慢。張り替えた直後より弦が伸びてなじんだ頃が最高のコンディションです。皆さんも梅雨入り前に張り替えをお勧めします。OLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERA

受験生指導

メリーミュージックは音楽大学や音楽高校への進学希望者「だけ」を指導する教室ではありません。ほとんどの生徒さんは趣味として楽器を習ってくれています。
趣味の音楽と職業音楽家の音楽は基本的に同じ「音楽」です。
ただ、音楽の学校を受験するためには出来なければいけないことがたくさんあります。その多くは一般に趣味で楽器を演奏している方にとって未知の世界です。仮にわかったとしても簡単に身につけられる技術ではありません。
受験生といえど普通の中学生・高校生です。音楽が好きで小さい頃から楽器を習っていたり、学校で部活動の音楽を楽しんでいたりします。その楽しさこそ音楽の魅力でもあります。
でも…音楽学校の受験という勝ち残りゲームに勝つために、趣味の音楽を「我慢」しなければいけない現実もあります。
その選択を子供に迫るのはかわいそうだという考え方もあります。
だから大人がレールを強敷いて子供を導くべきだという人もいらっしゃいます。
私は子供に子ども自身の能力を信じさせることと、目標を達成させるために子供が出来ることを子ども自身に考えさせることを大切にしています。
選択することはとても大変なことです。でも、その選択の後の努力、目標を達成するために何かを我慢することのほうが大変なのです。
それをフォローすることが親や教師の役割だと思っています。
子ども自身が一分一秒を大切にしながら上達しようとすること。それこそが「受験勉強」なのです。
メリーの受験生たち。頑張れ!

楽器とお料理

私はレッスンや楽器の選定をするときに良く「お料理」に例えます。
人間は食べなければ生きていけないので、その意味では音楽とは違うのですが、
好き嫌いだったり、対価として支払うお金だったりを考えるとき、何気なく考えているお料理がとてもわかりやすいのです。
丁度今、教室に45万円前後の楽器が10数丁展示されています。
その楽器の中から自分の好みの楽器を選び、大切なお金を使うお客様の立場に立って考えてみます。
楽器にもお料理にも「素材」があります。そのよしあしを見分けることだけでも、経験と知識がいります。一時期問題になったスーパーのお肉やお魚などの表示偽装問題。プロが見れば見分けられる「嘘」も私たちには見分けが付かないのが現実です。同じことは楽器の素材である「木材」にも言えます。まして、楽器は木材の上にニスが塗られ色もつけられています。元の木材が本来楽器に使うべき種類の木だったのか?さえわかりません。まして、その木材がどのくらいの期間、自然乾燥され水分が抜けてよく響く状態になっているものなのか?見た目ではわかりません。
素材のよしあしを見分けられるプロが料理人であり、バイオリン製作職人です。
その素材を使うために「お金」が支払われます。そして、そこから料理や楽器製作が始まるのです。その次の段階で料理人と職人の「経験と技術」が再び発揮されます。
人の好みは千差万別ですから、すべての人が「最高」というものはありません。職人一人ひとりの好みが出ます。一人でも多くの人に「おいしい」「美しい」といわれる料理や楽器を作ろうとする人もいれば、個性を尊重する人もいます。それも好みです。
そうやって出来上がったお料理や楽器。その価格が「誰にとって妥当なのか?」なのです。
いくら素材が高級であっても、その価値は一般の人にはすぐにはわからないことは先ほど書きました。だとすると、お料理であればそれを食べる人、楽器であれば弾く人が「他のものと比較して納得できる価格」でなければ世の中で受け入れられません。
いくら職人が「この楽器を100万円で売りたい!」といってもその楽器が10万円の楽器と同じ見た目で同じ音しか出なければ誰も100万円の楽器を買いません。お料理でも同じです。
つまりは「相対価格」なのです。本来それが市場原理のはずです。
ところが今の日本は「クチコミ」「肩書き」が、それより先にあります。
確かに食べてみようと思うか思わないかは、お店の店構えや、雑誌やテレビで紹介されていた情報が気になります。「高いから美味しいんだろう」という先入観もあります。
最後は食べてみた自分の味覚、音を聞いた自分の聴覚が評価の基準なのです。
職人さんが生活していくために良い木材を購入し、長い時間をかけ、さらにこだわりのニスや部品を取り付けることで「原材料費」がかかった楽器を安く買い叩かれるのは一番つらいことでしょう。その楽器が弾く人にとって他の楽器よりも好みの音が出るものであれば同じ値段の楽器よりも売れるのです。買う側、食べる側の「純粋に好きなものを感じる心」が美味しい料理を作ってくれる料理人を増やし、素晴らしい楽器を作ってくれる職人を増やすことになるのです。kensuke01s10_top

母校(桐朋学園大学)に行ってきました

久しぶりの晴天に恵まれた昨日、仙川にある私と浩子先生が高校大学で音楽を学んだ桐朋学園に行ってきました。7月から旧館の建て直しのため取り壊し作業が始まるため、内部を見学できる残り少ない期間をさびしく思い出かけました。。世界の桐朋といわれる音楽大学。実は本当に小さな校舎が二つだけの学校に高校生と大学生が日夜音楽を学んでいます。今は調布に新しい校舎が出来、そちらも使っての授業らしいですが、私たちの時代はこの鉄筋コンクリート4階建ての二つの校舎がキャンバスのすべてでした。小澤先生が一期生ですが、その当時からこの校舎があったそうです。現在64期生が高校1年生かな?私は25期生。歴史を感じる校舎に別れを告げてきました。入試、試験、オーケストラ、桐朋祭などなど、青春の全てが詰まった校舎。耐震問題で建て直しなのですが、まだまだ使える校舎。地震国日本の宿命ですね。10408002_819369491489547_93503992719815632_n

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新聞折り込み広告を入れました。

今週の土曜日、相模原市橋本周辺の朝日新聞に折り込みチラシが入ります。メリーミュージックオープン10周年のチラシ。すべて手作り。印刷も公民館で。10年前に比べて新聞購読者が激減しているのは時代の流れ。でも考え方を変えれば、今でも新聞を取っている家庭に取り込みチラシは貴重な情報源です。アナログな生活をしている方にこそ、ヴァイオリンやピアノのアコースティックな魅力への憧れもあるのではないでしょうか。さて効果のほどは!
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新色入荷

C360_2015-04-15-15-58-53-866春にぴったりのかわいいピンクとメタリックで大人のファッションにマッチするグリーンが新たに入荷しました。大好評のケース、お求めやすい金額です

新年度スタート!

駅前教室の窓から見える景色は四季折々、遠くの山にも目の前の相原高校にも変化を感じます。
この窓から見る景色も10年目です。橋本駅周辺はその間、あまり大きな変化はありません。
レッスンに来てくださる生徒さんは、現在の会員数が660名を越ええています。
体験レッスンだけの方も含めれば1000人以上の方にヴァイオリンやピアノ、フルート、チェロ、トランペット、オーボエなどなどたくさんの楽器のレッスンをしてきました。
転勤で橋本を離れていった方もいらっしゃれば、途中で飽きてしまった方ももちろん、おられます。一方で、10年間ずっと習い続けている方もいらっしゃいます。
学習塾と違うのは「ゴールがないこと」です。
スイミングやテニススクールと違うのは「自宅で練習できること」です。
楽器の演奏は高齢者でも問題ありません。現実に、多くのプロ演奏家が80歳を超えても現役で演奏活動を行っています。「ああいう人は小さいときからやっているから特別なんだ」と勘違いされますが、人間の能力にそんな大きな違いはありません。高齢になれば誰でも肉体は老化します。自然のことです。その衰えを「経験と感覚」が補うように出来ているのです。
小さいときから音楽を習う生徒さんがたくさん教室にいらっしゃいます。
学校以外で楽器を習い、自宅で練習し続けることは、子供の個性を引き出し、音楽以外のすべての日常活動…すべてのジャンルの学習(勉強)や集中力、観察力、持続力の発達に大きな効果があります。
私自身の経験で、20年間の中学校・高等学校の教員生活と10年間メリーミュージックで
子供の発育と音楽のかかわりを肌で感じてきました。
音楽に興味を持ち続けられない集中力を持続できない子供の多くは
学校での生活にも問題が見えます。
そして、なにより「親」の問題がこどもに影響していることを強く感じます。
問題というのは「考え方」だけではなく「行動」も含んでいます。
わが子に音楽の楽しさを感じて欲しいと思うなら、
まず親が音楽の楽しさを知らなければムリです。
それは勉強でも生活でもそうですね。
新年度、これから新しく楽器を弾けるように始めよう!
はじめるなら「絶対にやめないで一生続けよう!」
飽きたらやめるなら、やらせないほうが子供のためになります。
ぜひ、人生の楽しみとして楽器を弾く楽しさを家族みんなで
楽器を演奏してみましょう!

可愛い&軽いヴァイオリンケース入荷

チェロのケースを縮小した形のヴァイオリンケースが発売されました。
重さは1.9キロと今までのケースとは比較にならないくらいの軽さです。
そして、ケースの中に肩当てをちゃんとしまえる小物入れヶあって、弓も2本入れられます。
背負ったときに背中側に取り外し可能な楽譜ケースも付いています。
価格は驚きの3万3戦円(税別)。色は今亜紀入会した紺色、赤、白のほか、ピンクと緑があります。とにかくまだ誰も持っていないのと軽くて可愛い!雨にも強い。安い。言うことなしのケースです。
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春を迎えて

日ごとに肌寒い日と汗ばむほどの暖かい日が、春の訪れを感じさせてくれます。原宿南の自宅教室玄関には沈丁花の素敵な香りが生徒の皆さんを、おで迎えしています。その下を見るとクリスマスローズがかわいい花を咲かせています。
2月に我が家の家族入りをした「ぷりん」もすくすく育ち、毎日やんちゃで甘えん坊の性格を発揮しています。
新しいことをはじめるのにぴったりのこの季節。新しい生徒さんたちも意気揚々とレッスンに通ってきてくれています。
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緑区原宿南2丁目でピアノとバイオリンレッスン


新しい料金システムになってから、本当に多くの生徒さんに喜ばれています。
「ここまでやります?」
「本当に先生、大丈夫?」
「いいんですか?こんなに安くて」
「よく考え付きましたねー」
「助かります!」
音楽教室の多くは音楽を専門に学び、演奏経験もあり、レッスンの経験も豊富な先生がレッスンをしていると思います。
ただ、その一方でアマチュア(音楽の専門教育を受けていない)人が「おこづかいかせぎ」のために、こっそりと(収入の申告も個人事業の届けもしないという意味のこっそり)近所の子供たちにワンレッスン500円(これ、現実の話です)で教えているのも現実です。
習う側からすればレッスン代金が安いに越したことはありません。それに、近所ならなおの事です。これが「悪」だとは言いません。
その先生がきちんとしたレッスンを生徒にしていれば。の話です。
もちろん、私自身、その「きちんとしたレッスン」が出来るように日々、謙虚な気持ちで自分の練習とレッスンのたびに研究と研さんを重ねているつもりです。
子供がはじめて習う楽器ならば特にその責任は重たいと思います。
学校で中学1年生の授業をしていた頃、多くの生徒がピアノやエレクトーン、ヴァイオリンを「習っていたことがある」と答えます。ところが、そのほとんどが途中でやめています。受験のためというのは理由として頷けます。でも、習っていたという生徒のなかで、楽譜の読み方も、楽器の扱い方も習っていない子供が非常に多いのです。いったい、何を教わっていたんだろう?と不思議に思うことが毎年のことでした。
音楽を愛好する子供や大人を一人でも増やすこと。
そして、音楽を学ぶことより教えることがどれほど難しいかを理解して「本当に教えられるのか?」と考えて生徒を集めること。
お小遣い稼ぎなら自分で演奏してお金を集めて欲しい。
純真な子供にいい加減なことを教え、その子供が音楽なんて面白くないと思ってしまうことへの責任を感じて欲しいと感じています。

今回の料金システムがメリーミュージックのオリジナルシステムとして、今後も新しい生徒さんに音楽の楽しさと深さを感じてもらえるように、頑張ります。

215年3月原宿南POP
年々、新しい住宅が増え続けている相模原市緑区原宿南2丁目。
静かで明るく空の広い住宅街に、赤い外壁と大屋根のスウェーデンハウスがあります。
メリーミュージックの看板が敷地内に立っています。
天井の高い1階全てがレッスン空間。グランドピアノでレッスンが受けられ生ます。
私たちのCDもこのスペースで収録しています。やわらかな音の響きは、木のぬくもりを感じます。時には(生徒さんがお望みなら)我が家の家族、仔猫の「ぷりん」がお出迎えします。
車の駐車場所も家の目の前です。初めて自家用車でお越しの方は、住所(〒252-0103 神奈川県相模原市 緑区 原宿南 2-26-1)でナビ。もしも、住所が出ない場合(ここ数年、住居表示が何回か変わっていますので)、「原宿南クリニック」で検索してみて下さい。そのクリニックの道路1本南側に見えています。御予約は駅前教室で承っています。もちろん、御希望があれば可能な限り駅前教室と、こちらの原宿南教室のどちらでもレッスンを受けていただけます。042-771-5649が駅前教室の電話番号です。
ぷりん(トンキニーズ 女の子 2014年11月生まれ)の写真です。

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2015年4月からのメリーミュージック新コース・料金システム

考えるということが何かを生み出すことになるものです。
10年間教室を運営してきた経験を謙虚に考えて、
さらに新しいことへのチャレンジをしていきます。
「レッスンを受けるほど料金が安くなる」
決して安売りではありません。生徒が一回でも多く、レッスンに通ってくれることを願って、考え抜いた結果みつけたシステムです。
今現在、通ってきて下さる生徒さんにとっては
値上げでも値下げでもない不思議なシステム。
今まで、月に3回しか来られないかなぁ?と思って
3回分のチケットを買っていた生徒さんも、4回分のチケットを
買ってみたものの使い切れなくなる不安を持っていた生徒さんも
60分レッスンを受けている生徒さんも、1回だけのレッスンを受けていた生徒さんにも、私たちにも「利益になる」新しいシステム。
「逆スライド式代金不均等払い」を可能にしました。
もちろん、自分の予定で先に予約を取ることも、その回数分代金を支払えば出来るシステム。
「今、お財布が寂しいから」ならとりあえず1回分の支払いも出来るシステム。
通うことが楽しくなるシステムを考えてたどり着いたメリーのレッスンシステムです。習えば習っただけ楽しみが増して、通った回数分、単価が下がる。そして、予約カードがいっぱいになったら、レッスン1回無料。
これは「ポイントカード」からの発想です。
チケットも新しく作りました。いよいよ、10年目のメリー始動です!
詳しくは料金ページをご覧ください

料金コース20150304

新規スタートが月謝7,000円(本体価格)!

10周年7000円コース2015年3月より、新規ご入会でピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラを習う生徒さんに大ニュース!
なんと、3回分の個人レッスンが7,000円(本体価格)でスタートできます。
もちろん、楽器のレンタルも入会金も無料です。
30分×3回分の使い方も自由です。30分+60分でも、一回分はほかの楽器(ピアノかヴァイオリン)に変更してもこの金額です。
4回目以降のレッスンについては新たに特別価格のレッスンチケットをご購入頂くことができます。
詳細はお気軽にお電話でお問い合わせください。
042-771-5649
また、3月よりピアノ以外のレッスンを毎月チケットで受けておられる生徒さんに
月一度の「ピアノ伴奏つきレッスン」を実施致します。追加料金は不要です。
伴奏付きレッスンの日程については、個別に相談させて頂きます。

「これから習ってみようかな?」という皆さん。
オープン10周年のメリーミュージックが自信を持って始める
新コース。是非、思い切ってお電話を!お待ちしています。
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