学校の序列と個性

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 時は2月。私立中学校では入学試験の真っただ中。
私立中学に限らず、一般の高校や大学、音楽高校や音楽大学でも、入学試験の季節です。
 今回のテーマは、そうした学校ごとに、誰が、何の基準で付けたのか?学校ごとの序列と、実際の中身と個性について考えます。

 映像は私が20年間勤務した私立中・高の、「部活オーケストラ」の定期演奏会です。場所は、横浜みなとみらいの大ホール。2000人収容のホールが、ほぼ満席の演奏会でした。 
 常識的に考えれば、私立学校の部活動が活躍することは、生徒集めのための「最強の武器」になります。経営者はもとより、管理職も大いに応援するだろうと、誰もが思います。
 実際には、まったく違いました。
「校内の体育館で十分だ」
「たかが学芸部の発表会で、ホールを借りるなんてもってのほかだ」
管理職から言われた言葉です。嘘のようですが、真実です。
当然のことながら、その話は表には出ません。
コンサートを見た方は、さぞや理解のある学校だと思うでしょう。
実際に、このオーケストラで演奏することが目的で、受験する子供がたくさんいました。それも、表には出さないのです。
ばか
でしょう?管理職だけが、ばかだったのか?
 いいえ。管理職にゴマを擦り、媚び諂う(こびへつらう)教員しかいませんでした。みなとみらいホールで演奏できるまでの、16年間。教員たち、管理職と戦い続けました。表には出ませんが。
 学校の中で起きていることは、表に出さないことの方が多いのです。

 学校の序列は、表に出ている事だけを評価されます。
評価するのは、受験生でもなく、在校生でもなく、教員でもなく。
評価のひとつは、卒業生の「進路」です。
もう一つは、学校外の組織・団体が付ける「偏差値」です。
どちらも、実は黒い闇の中で決まっています。
 進路が闇?ありえないとお思いでしょうが、学校は卒業生の進路を公開する義務はありません。責任もありません。自分たちに都合の良い「進路」だけを発表します。
 偏差値は?多くは、塾と予備校が算出する「適当な数字」です。
これも表には出ませんが、私立学校の多くが、塾や予備校を「接待」します。
 常識的に考えれば、逆?少なくとも、塾が生徒を希望の学校に入れたいから、学校「を」接待するのでは?と思いますが、事実は違います。表には出ませんが。
 学校の評価は、本来であれば在校生とその保護者、さらに勤務する教育職員からの「真実の内部」を評価するべきです。
 学校の設備、環境は、誰の眼にも公正な「序列」があります。
音楽学校で言えば、演奏会用のホールのある学校と無い学校の差。
交通のアクセスの良さ、悪さ。
建物の新しさ。などなど、「お金のかけ方」で設備や場所が決まります。

 音楽大学の話です。
私が高校を受験したのは、1976年です。
当時、音楽の学校には「入学の難易度」が歴然とありました。
 言うまでもなく、偏差値や受験倍率ではありません。
一言で言えば、入学できる生徒の「レベル」が違っていました。
受験で演奏する曲、ひとつにしても、難易度の高い学校と低い学校がありました。合格できる演奏技術はさらに違いました。
 桐朋という音楽の学校は当時、設備・施設の面で、音楽学校で「最低」だったかも知れません。それでも、入試のレベルが他の学校と、比較にならない難しさでした。しかも、高校入学時に支払う金額は、日本で一番高い学校でした。
ボロい建物が二つあるだけ。当然、ホールもない。グランドもなく、普通科のグランドを借りて体育の授業が行われる。図書館は短大校舎にある、小さなもの。
 それが、真実の桐朋でした。

 私は当時、学校に大きな不満を感じたことや、学外で恥ずかしい思いをしたことは…
 国鉄の定期券を買うとき以外には、ありませんでした。
「桐朋女子高等学校 音楽科 (共学)」の身分証明書を出して、
武蔵小金井駅の通学定期券購入窓口で「ふざけてんのか?」とマジ切れされた記憶は、一生消えません。学校名は未だに変わりません。仕方ないのですが。
 授業料は、多くの指導者に使われていました。
本当にたくさんの実技指導者が顔を並べていました。
弦楽器の指導者(先生がた)の名簿は、驚くほどの人数と顔ぶれでした。
 高校で、一クラス30人。1学年3クラスで90人。ホームルーム教室は、地下。
クラス全員が集まるのは、週に一度だけのホームルームだけ。あとは、それぞれの履修でバラバラ。授業のない時間は、学校外でお茶をしていようが、ゲームセンターに行こうが、何も言われずお咎めなし。
下校時間は、夜9時。
こんな学校が日本にあるのか!
と、思ったのは高校の教員になってからです。当時は、高校ってそういう学校だと当たり前に思っていました。
 その学校で、日々時間さえあれば、レッスン室を取り合い、練習した。
という仲間がほとんどで←こら。
 音楽を学ぶ上で必要な科目は、基本的にすべて「必履修・必修得」が原則でした。その面だけは、異常なほどに厳しいのが、「個性」でした。
 オーケストラは当然、必修。ただし「能力別」に3つのオーケストラに分かれ、演奏会に出られるのは、一番上の「マスターオーケストラ」と、時々前プロで演奏できる、その下の「レパートリーオーケストラ」。高校と大学の新入生と、レパートリーオーケストラに上がれない、高校2・3年生、大学2~4年生の「ベーシックオーケストラ」
 そうです。高校生と大学生が同じオーケストラで演奏します。
すべてが能力別です。弥が上にも、全員の実技レベルの序列が公開されます。
 不満はありませんでした。それが当たり前だと思っていました。

 現在の桐朋は、どうやら当時と比べ「個性」がなくなってしまったようです。
それは、私立学校として致命的なことであることに、経営陣が気付けていないのでしょう。ほかの音楽学校に「ないもの・ないこと」を探すべきなのに、「あるもの」を真似して、結果的に堕落していく危機感を感じます。
 他の音楽大学も、どうやら似たり寄ったりの気がします。
何よりも、指導者が自分の「地位」にしがみつく姿を見ると、終わった感。
 白い巨塔
ご存じですよね?国立大学病院の「地位」にこだわる医師たちと、医師としての在り方にこだわる人間との、深いテーマでした。
 「私が教授で、い続けるために」他の指導者を排除する人間に、
まともな音楽を演奏できるはずがありません。猿山の猿、以下です。
音楽を学ぼうとする若者を、本当に大切に思う「音楽家」であれば、自分に足りない能力を認められるはずです。一人のヴァイオリニストが教えられるのは、一人分の技術と考え方「だけ」なのです。それだけでは、自分を超える音楽家は絶対に育たたないことを知らない、愚かな「教授」が多すぎます。
 自分は絶対だ、と思い込むのは、自分の家の中だけにして頂きたいのです。
どんなに優れた音楽家だったとしても、その人を育てたのは「絶対に一人ではない」からです。そんなことさえ、理解できない人を「教授」にするのは、大学の恥です。そのことを、学生と他の教育職員が、声にしなければ、その大学はやがて消えてなくなります。その時には、その「教授」は骨になっているのです。

 これから学校を選ぶ人へ。
ぜひ、そこで働く人に話を聞き、その学校に通う生徒や学生に話を聞いてから、学校を決めて欲しいと思います。
 学校に入ってから、しまった!と思えればまだ、やり直せますが、恐らく多くの人は、騙されたまま卒業します。
 学校は「学ぶ場所」です。遊ぶ場所ではありません。
今回も、気分を害される方がおられましたら、お許しください。
まか、そんな方はこのブログをお読みにはならないと思いますが(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

元教員のヴァイオリニスト 野村謙介

 
 
 

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