「音」を「音楽」にする技術

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 映像は、もうすぐ再生回数が10,000回に近づいている、アンドレ・ギャニオン作曲の「めぐり逢い」を教室で演奏したときのものです。
 生徒さんがレッスンで「この曲、ひいてみたいんですけど」と楽譜を持参してくれて「めぐり逢った」曲です。

「音」と「音楽」って何が違うのでしょうか?
音を聴くことができる人にとって、音楽も「音」のひとつです。
では、すべての音が「音楽」かと言うと違いますよね。
聴こえる音の中で「音楽」に感じるのは、その音楽を知っているからでもなく、誰かに「音楽とは」と教えてもらったからでもありません。これってとっても不思議ですよね。
今回のテーマで言う「音楽」はさらに深い意味、人間が演奏する「音楽」についてです。音の高さと長さと音色や強さを機械=パソコンに入力すれば、「音楽」が再生されます。正確で間違えない音楽です。どんな速度にでも変えられます。
ただ、それは人間の演奏する音楽とどこかが違います。
 私たちが「曲」を演奏する時に、どんな音で=どんな風に演奏すれば、どんな音楽になるか=どう聴こえるか?という「実験」を繰り返します。一音ずつをただ「正しい高さ正しい長さでで綺麗な音で」演奏することだけでも、十分に難しいことです。
ただ、それだけを求めるなら機械で再生したほうがずっと「じょうず」です。
 誰かが演奏したり歌った「音楽」をコンピューターで分析し、その演奏と「ピッチ」「音の長さ」「音の強さ」がどれだけ同じにできるかを「点数化」することを競い合う「頭おかしいだろ?」と笑ってしまう番組や採点カラオケをご存知ですか?歌った本人がやったら、100点どころか50点ぐらいだったと言う笑い話もあります。真似をした人の歌や演奏を「音楽」とは言いません。それは「パソコンの真似」つなり機械以下の事をしているだけです。「じゃぁ出来るのか?」と言われたら即答します。「その努力をするくらいなら、自分の好きに演奏します」と。自分で考えて試して、また考えて試して繰り返して作るのが「音楽」です。
誰かの演奏を真似するのは「音楽の真似」でしかありません。

 生徒さんの多くが「どう演奏したらいいのかわからない」から「同じ演奏方法で演奏し続ける」という落とし穴に落ちます。
 私が良くたとえに出すのが「日本語の会話」です。
「今日は暑かったね」と言う会話の「今日は」を強く言えば、昨日まで涼しかったのにねと言う意味を感じます。「暑かったね」を強調すれば、普段なら涼しい季節に突然暑くなった時に言っているように感じますよね?

ね」を強調すれば、相手の考えを確かめようとしているように感じますよね?
ヴァイオリンの演奏で言うなら、アタックを付けるか?柔らかく弾き始めるか?そして、ビブラートを始めからかけるか?後からかけるか?ビブラートの速さは?深さは?弓の場所は?弓の圧力は?速度は?途中で変えるのか変えないのか?その音の終わりは弱くする?同じ大きさ?強くひき切る?次の音との「合間=時間」は?などなど、試すことはたくさんあります。組み合わせるのでさらに実験の種類は増えていきます。一音ごとの演奏方法は前後の音とも影響します。
 たとえば2つの音符があったとします。
一つ目の音の演奏方法を決めて、二つ目の音が「同じ高さ」の音なら完全にレガートでビブラートも止めずに演奏すると「タイ=一つの音」に聴こえてしまいます。一つ目の音の演奏方法を考え直す必要があるかも知れません。意図的にノンビブラートで演奏するのも一つの方法です。二つ目の音の最初から深めのビブラートをかければ、あとの音が少し強調されて聴こえるでしょう。二つ目の音にアタックを付ける方法もあります。一つ目の音の最期を瞬間的に弱くする方法もあります。それぞれに効果が違います。色々な方法を試すことが何よりも大切です。

 ここまで書いて「ちゃぶ台返し」をするようですが、どんなに実験をしても「正解」はありません。「なら、時間の無駄じゃん」いえいえ、とんでもありません。自分にとっての「結論」が、誰にとっても同じだとは限らないという意味です。演奏者が「こだわって演奏している」か「何も考えずに演奏しているか」は、音楽を好きな人間にはわかることです。どんなに速く正確に演奏していても「ただ演奏しているだけ」の演奏に拍手喝采をする人を見かけると、「普段、何を聴いているんだろう?」と不思議に感じます。
プロでも楽譜にかじりついて演奏している動画を見かけます。
プロだから楽譜を見ながら、極端に言えば初見でも演奏できます。
ただ、一音ずつにこだわって練習しそれをすべて楽譜に書きこめるものでしょうか?それだけ時間をかけたら、暗譜できるのがプロだと思うのです。
「考えて決めた情報=書き込みが多いからこそ、楽譜を見る」と言うプロもいて不思議ではありません。その情報を瞬時に読み取れる技術がない私には、敬服するしかありません。決して嫌味ではありません。

 同じ音色、同じ音量で演奏する練習は「譜読みの段階」だけです。
音楽にしていく作業は、その先にあります。自分にしかできない演奏は、自分で考えて試すからできるのです。なにも考えずに「無心でひく」のは、さらにその後です。人と同じ演奏はあり得ません。それこそが「音楽」だと思います。
わからない、できないと決めつけるのは「音楽からの逃げ」です。
うまいとか、へたとかの問題ではありません。音楽への「思い=愛情」がなければ、演奏しても演奏を聴いても、楽しくないはずです。
 最後までお読みいただき,ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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