いつものように、なんじゃこりゃ?なテーマです。
歌は普通、言葉をメロディーに乗せて、言葉の内容と音楽を同時に表現します。
それに対し、弾くという言葉は、楽器を演奏することを指します。楽器で言葉を完全に表現することはできません。
当たり前の違いですが、歌を楽器で演奏することも良くあります。
クラシックの音楽の中でも、原曲が歌曲だったものを、器楽で演奏する楽譜に書き直したものも多くあります。
まれに、その逆のケースもあります。
有名なところで言えば、ホルストの作曲した「惑星」という組曲の中の「ジュピター」に歌詞をつけた歌。きっと聞いたころのある人も多いでしょうね。むしろ、元々が管弦楽のための曲であることを知らない人もいますから。
どちらも私は、大いにあり!だと思っています。
さて、歌の場合には人間の声域を基準に旋律が出来ています。
多くの人が歌を歌う場合、1オクターブ程度の音域で歌えるように作られています。歌う人によって、歌いやすい高さが違うので、「キー」つまり調を変えて(移調=トランスポーズ)歌うことが一般的です。
一方で、器楽の場合には楽器よって演奏できる音域が決まっています。特に、最低音は多くの楽器で「それ以上、低い音が出せない」ことが決まっています。
例えばヴァイオリンであれば、ト音記号で下加線2本の下にある「ソ」の音が最低音です。多くの女性の声の最低音も、この「ソ」の音になります。
ヴィオラの場合、その「ソ」から下に、「ファ・ミ・レ・ド」と下がった「ド」の音が最低音です。たかが「5度」されどこの5度は、聴感上大きく違います。
当然、チェロはさらに低い音、コントラバスはもっと低い音が「最低音」です。
ピアノは、オーケストラで使用されるすべての管楽器・弦楽器の音域より広い音域を演奏することが出来ます。88個の鍵盤でそれだけの音域をカバーしています。つまり、どんな人の歌でもピアノなら、演奏することが出来ます。
話を本題に戻します。
多くの歌には「歌詞」である言葉があります。例外もあります。
ダバダバダバダバ(笑)や、ラ~ララララ~、ルル~ル~ルルル~
ラフマニノフが作曲したヴォカリーズという歌は「アアア~」だけです。本当の話です。例外はともかく、意味のある言葉を歌っている「歌」を私はよく「ヴィオラ」で演奏しています。ヴァイオリンではなく、わざわざヴィオラにする理由は?
ヴァイオリンの音色と音域は、聞く人の固定観念で、聞いた瞬間に「ヴァイオリンだ!」と思い浮かんでしまいます。それはそれで当たり前です。
一方で、聞く方が知っている歌を、楽器で演奏した場合、頭の中で「声と歌詞」の記憶と「ヴァイオリンの音色」が、溶け切らない現象が起きるように思っています。特に自分の好きな歌手の声で歌っている歌は、その歌手の「声と歌詞」が結び付いて記憶されています。違う人が歌う同じ曲に違和感が強いのは、そのせいです。楽器で弾くと、単に「言葉がない」だけではなく、音のイメージも違うのでさらに溶け切らない原因になっていると感じています。
だからと言って、ヴィオラで言葉は発音できません。でも「た」と「は」の違いは微妙に区別できます。「は」と「あ」は区別して演奏することは困難です。つまり「子音のアタック」を変えることで、少しだけ言葉に近い発音ができます。
加えて、言葉のアクセントは音の強弱ですから、楽器でも表現できます。
ただ、歌の旋律が、音の高低(イントネーション)と合っていない場合も多いのが現実です。
ほたるのひかり まどのゆき
を口ずさんでみてください。
ほたるの「た」が高くなっていますよね?
でも標準語では「ほ」を高くするのが正しいイントネーションです。
こんな例は数限りなくあります。気にしなければそれでよいのですが(笑)
私は生粋の日本人でありまして、日本語以外が苦手です(言い訳にもなっていない)
日本語以外の歌詞の歌を演奏する時には「言葉の意味」ぐらいは理解して演奏しようと心掛けていますが、間違っていることも…。すみません。
得意の日本語の歌の場合には、ヴィオラを弾きながら、言葉の子音、アクセント、意味を考えながら演奏しています。
『生きてゆくことの意味 問いかける そのたびに』
という「いのちの歌」の出だしの歌詞。
弓のアタック、圧力。左の指の圧力、ヴィブラート、意味を考えながら音を出します。
なので、歌詞を思い出せなくなると
止まります(爆笑)
いや笑ってすませられないのですが、本気で焦ります。
そんな「無駄?」なことを繰り返し練習しております。
言葉が思い浮かんでいただける演奏を目指して…
歌うヴィオリスト 野村謙介