60歳の音楽がサンダーバードでいいの?いいの。

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第40回定期演奏会の映像です。
「サンダーバード」は幼稚園時代の数少ない記憶の中で君臨しています。
「神童」の皆様方は幼稚園時代、すでに演奏家としての準備活動をされていたのでしょうけれど、凡人代表のわたくしは。トッポジージョのゴム人形の耳を噛むのが癖でした←凡人の証か?
 その時代の音楽が今でも大好きです。白黒テレビとレコードの前身「ソノシート」で聴いていた音楽には「ぶーふーうー」「エイトマン」「鉄人28号」「鉄腕アトム」「スーパージェッター」などなど。今風に言えば「アニメ音楽」←どこが今風。
 ヴァイオリンを習い、音楽高校、音楽大学で学んだ「生まれてから20年」
生活のために(生きるために)ひたすら我慢して働いた教員時代「子供のための20年」
人間らしく生きることを思い出してからの「音楽に支えられる20年」が過ぎました。その集大成が「サンダーバード」です。あれ?振出しに戻った?(笑)

 音楽に優劣は存在しないと確信しています。
人として、まっとうに生きている人にも優劣はありません。
私が「人」としてまっとうなのか?は自分で判断できません。
クラシック音楽を学びましたが、音楽よりも人に興味があります。
どんなに高名な音楽家でも、その人の素顔=考え方・生き方に関心が行きます。
その人の事を知ることで、その人の評価が変化します。
演奏家自身も変わります。若さゆえに「天狗」になっていた人の鼻がいつの間にか、普通の鼻になっていることを感じることもあります。
 逆の場合、ひたすら音楽に向き合っていたはずの人が、いつの間にか「名誉・地位」にしがみつく「哀れな高齢者=はだかのおうさま」になってしまったケースもあります。
出来ることなら、私は前者になって棺桶に入りたい人間です。もとより、地位も名誉もお金もないので安心ですが(笑)
私の死んだ後に「若いころは良い奴だったのになぁ」と思われたくないです。はい。あ?若いころに、いい奴だったかな?自信ない…。

 アマチュアオーケストラを20年間指揮して来た中で、初期に良く言われたことがあります。
「はじめは、ハイドンやモーツァルトの音楽を練習しないと、難しい曲をじょうずに演奏できるようにならないよ」という、涙がちょちょぎれるアドバイスです。私は、まったく違う計画を持っています。それは今も変わりません。
 アマチュアオーケストラは、うまくならなくても何も問題はないのです。
聴く人が「もっと」と期待するのはごもっともです。もっと、じょうずな演奏を聴きたい方は、ぜひ!プロのオーケストラの演奏をお聴きになってください。
 だんだん難しい曲を演奏する以前に、簡単な曲ってなんですか?
簡単な音楽がある!と言う自惚れこそが間違っています。
モーツァルトやハイドンが「簡単=初心者向け」なんでしょうか?だとしたら、プロのオーケストラは絶対演奏しないんですよね?バカにされるんですか?「けっ!モーツァルトのシンフォニーかよ!」って(笑)
 メリーオーケストラにとって、どんな音楽も「演奏困難」なのです。
それは私自身のヴァイオリン、ヴィオラと同じです。簡単に演奏できる音楽が、一曲もないのです。「譜面=ふづら」が簡単そうに見える曲は存在します。
それを「簡単に」演奏するのは、その演奏者が「へた」だからです。
一音だけで、聴衆を魅了するための努力は、正解もゴールもない「永遠の課題」です。

 60歳を過ぎて、これから何をしたいのか?
実は考えたことがありません。別に現実主義者でもありませんし、かと言って理想偏重主義でもないつもりです。「出来るところまでやった」と自分が思えたら、自分でピリオドを打つことができないと、生きていても苦しいだけのような気がします。無理をしないで生きることができれば、最高の人生だと思っています。上を見てもキリがない。上から目線で誰かを見たくない。自分の立ち位置を考えられる「音楽愛好家」でいたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

合唱とオーケストラ

 動画は、メリーオーケストラ第12回定期演奏会です。
地元相模原市内のアマチュア合唱団
数団体をお招きしての「合唱付き」第9じゃないけど(笑)
 私が今も音楽に関わった生活をしている「原点」が3つあります。一つ目は小学校1年生の頃に、近所の先生でヴァイオリンを習い始めた事。二つ目は、小学校5年生の時に恩師久保田良作先生のお宅の門をたたいたこと。三つめは、公立中学校で出会った、ゆるーいクラブ活動のオーケストラと、校内合唱コンクールと卒業式での合唱。もし、この中でどれかひとつが抜け落ちていたら、その先は音楽と無縁な生活になっていたはずです。

 中学校で出会った音楽の先生であり、部活動の顧問・指揮をされていた「室星先生」からの影響が今も私の活動に関わっています。
 当時新設校で、真新しい校舎でした。絨毯の敷かれた音楽室。
オーディオ大好きだった室星先生がこだわった「音響設備」どれもが驚きでした。当時、合唱部はなくオーボエやファゴット、ヴィオラ、ホルンなどの楽器の代わりに「キーボード」や「メロホン」が使われていた音楽部。その中で出会った友人、先輩、後輩と未だに交流があります。一緒に練習することも、演奏会に出ることも、卒業式で演奏することも、何もかもが「おもしろかった」3年間でした。
 そう書くと「理想的な中学校生活」に思われそうですが、顧問以外のいわゆる「担任団教員」は、人間のクズが揃っていました。
 教師たちが生徒である私を「泥棒」あつかいし、それがまったくの「濡れ衣」だと判明した後も、廊下ですれ違いざまに「おまえ、本当は盗んだんだろ」と声をかけてくる教師も
ました。
 中学3年で朝レッスンを受けるため、親が届を出して「遅刻」していたことを根に持った学年主任の体育教師は、体育祭の予行練習時、全校生徒が公邸で準備体操をしている最中、号令台の上からマイクで「こら野村!バイオリンのおけいこやって
じゃねぇぞ!」
さすがに周囲の友達がブチ切れていましたが、私は心の中で「さっさと〇ねよ」と笑っていました。卒業後数年した時、本当にその学年主任が死亡した話を聞いた時、本気で笑いました。そのくらい、傷つけられていました。「絶対に、あんな教師にならない」と思って、いつの間にか本当に教師になっていました(笑)
 合唱が「面白い」と思えたのも、室星先生の指導方法がその理由だったことを後で知りました。ビブラートをかけて歌うことより、大声で全員が歌うこと。じょうずに歌うことより、「必死に」歌うことがどれだけ歌っている本人にも、聴いている人にも感動を与えるのかを知りました。
 卒業式は、まるで音楽会のように、在校生、全校生徒、そして卒業生が式典の中で何度も歌います。「巣立ちの歌」「仰げば尊し」「大地讃頌」「蛍の光」「校歌」
 大地讃頌は卒業生が全員、号泣しながら体育館中を震わせるほどの声で歌います。在校生音楽部員のオーケストラが、どんなに大きな音で演奏してもかき消される、圧倒的なエネルギーでした。
 一緒に必死で歌うことで、それまでの3年間をすべて、美しい思い出にしてくれました。うまい・へたなんて、どーーーーでもよかったのです。

 音楽高校にありそうでない部活「音楽部」「合唱部」
桐朋にはありませんでした。同級生のチェロ専攻男子が偶然、合唱好きで話が盛り上がり、「合唱サークル」を立ち上げました。ただの「おあそび」にしかなりませんでした。
 桐朋祭最終日に行われた「クラス対抗合唱コンクール」がありましたが、盛り上がっていたのは、私だけ?(笑)
 音大を卒業し、教員になってから、オーケストラを最初に作ったのは、間違いなく室星先生の影響です。オーディオにこだわりまくったのもそうです。音楽室には、BOSEのスピーカーが4つ壁にかかり、2台のアンプで当時最先端のCDを鑑賞に使っていました。
 でも合唱部は作りませんでした。これも多分師匠の影響です。

 退職後、メリーオーケストラで、合唱団と一緒の演奏を指揮した時に、「あれ?どこかで似たようなことをやっていたような?」と思いました。自分の中学卒業式の記憶だったんですね。いつまでたっても中学生のまんま(笑)
 自分の出会った「師匠」に育てられ、今どれだけ?恩返しができているのだろうと感じます。人との出会いがなければ、今も音楽を楽しんでいなかったと思います。理屈ではなく、予測もできない「出会い」を大切にしてこれからも、音楽を楽しもうと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

悲しみと音楽

 一般的に「短調=悲しい」「長調=明るい」と言うイメージですが、ある音楽の「曲名」を表す場合、その曲の「最後の部分」が短調なのか長調なのか?何調なのか?を書き表すことが「多い」と思っていました。
実際に、上の二つの動画を聴いていただくと「シンドラーのリスト」は最初も最後も短調です。一方、クライスラーの「サラバンドとアレグレット」は出だしが短調、湖畔と最後は長調です。
さぁ、有名なベートーヴェン作曲、交響曲第5番「運命」は短調です!

 あれ?最後思いっきり「長調」だよ~?
そんな曲もありますってことです。

 短調の音楽でも、すべてが短音階=悲しい音階と短三和音=悲しい和音だけで作られているわけではありません。ところどころに、明るい長調が織り込まれています。長調の曲でも同じことが言えます。
 全体として「悲しい」音楽を聴いて、感情の中で悲しい記憶が蘇ることがあります。映画の音楽でもそうですね。
 演奏する人間が「悲しい」感情を持ちながら演奏することもあります。
長調の音楽でも、悲しい記憶が重なることもあります。
 一つの音楽がいくつかの楽章で出来ている音楽が多いことを、文学や映画で考えてみると、いわゆる「ハッピーエンド」のストーリーもあれば、悲しい結末のものもあります。音楽の場合には、終わりが短調でも長調でも曲名に付く「調」と直接結びつかないようですね。
 音楽にストーリー性を求めるのは、聴く側の自由ですからタイトルの「○○長調」「△△短調」っていらない気がします。勝手な私見です。
 音楽が人の心の琴線にふれる時、それが長調か短調なのかという事にこだわっていません。演奏する時にどうしても音階や和音を考えますが、全体を通して演奏し終わって残る「余韻」を大切にしたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

Henryk Szeryngが演奏するFritz Kreisle

 学生時代、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタやパルティータの「お手本」としてレコードが擦り切れそうになるまで聴いていたヴァイオリニスト「ヘンリック・シェリング」大先生(笑)
 今朝、ラジオを何気なく聞いていて、フリッツ・クライスラーのヴァイオリン小品を、シェリングが演奏しているのを恥ずかしながら生まれて初めて聴きました。
 バッハとクライスラー。ヴァイオリン奏者にとって「両極」とも言える作曲家です。言うまでもなく、音楽の父と称される「ヨハン・セバスティアン・バッハ」様の残された音楽と、ウィーン生まれのヴァイオリニスト「フリッツ・クライスラー」を一緒にするな!というお考えもごもっともです。
 私の愛するクライスラー様(笑)は、自分の演奏会で演奏する「自分が作曲した曲」をわざわざ!大昔の音楽家の名前を調べて本当は自分が作ったのに「〇△◇作曲」と大昔の音楽家の作品と「虚偽」のプログラムで演奏していたという「いわくつき」作曲家・ヴァイオリニストです。
 「自分が作った曲ばかりを演奏すると思われたくなかった」と言うのが「言い訳」のようですが、まぁ嘘をついたって言う意味では「アウト」です。が、他人が作った曲を「私が作った」と言う嘘に比べたら、どんなもんでしょうか(笑)
 今でこそ「ヴァイオリンの名手」と紹介されているクライスラーですが、当時クライスラーは、憧れだった「ウイーン・フィルハーモニー」のオーディションを受けて「不合格」だったというエピソードがあります。きっとクライスラー自身には、ショッキングな出来事だったはずです。
 今朝のラジオでも紹介されていた、もう一つのエピソード。
ある演奏会で、評論家が「クライスラー作曲」と書かれた曲を、ケチョンケチョンにこき下ろし、クライスラーが作曲した「けど」大昔の作曲家が書いたという「うそ」の作品を「素晴らしい!」とほめたたえた事に怒りまくったクライスラーが「それも、俺が書いたんだよ!ばーか!←と言ったかどうかは知らない」で、自分が作曲していたことを「暴露」したというお話があります。
 評論家が「実は知っていてクライスラーを挑発し言わせた」と、名探偵コンナンとして推理するのも楽しいですが、正直「けっ。さすが評論家さまだね。ざまぁ」とも思うのです。

 さて、シェリングの演奏するクライスラー作曲(…本当だろうか…)の序奏とアレグロですが、先入観もあってバッハ作曲(笑)に聴こえました。それは冗談ですが、シェリングの音楽への向き合い方かな?と思う几帳面で、羽目を外さない、良心的で節度のある演奏だと思う一方で、シェリングの「遊び心」も感じるのです。考え抜いたビブラートと指使いとボウイングでありながら、聴いていて笑顔になれる「楽しさ」があります。
 多くのヴァイオリニストが、クライスラーの作品を「アンコール作品」として演奏します。最後のデザートに最高と言う意味ではうなずけますが、「さらわなくても=練習しなくても、ひける軽い曲」と思って演奏しているように感じることが多くあります。「超絶技巧大好き」な人にとって、クライスラーの作品は「違う」はずです。ヴィニアウスキー、サラサーテ、イザイ、その他近現代作曲家の「難曲」はいくらでもあります。クライスラーの楽譜は、決して超絶技巧と呼ばれる難易度の曲ではありません。だから?アンコールに選ぶのだとしたら、クライスラーファン(完全に自称)の一人としては、腹立たしい気持ちです。
 そんなヴァイオリニストに、このシェリング大先生の演奏を聴いてほしい!決して派手な演奏ではないのに、心惹かれる「何か」を感じるはずです。力任せでもなく、ちゃらびきでもなく、深刻でもない演奏で、クライスラーの作品が輝きます。
 クライスラーがこの演奏を聴いて、どう思うかを推理するのも面白いですが、お二人とも天国で楽しく遊んでおられるでしょうから、お話は聞けません。
 これからも、クライスラーの作品を大切に演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽・文学・絵画

 演奏は村松崇継さんの「Earth」原曲はフルートとピアノで演奏する楽譜です。ヴィオラとピアノで演奏できるように、ふたりで手を加えました。
 楽譜を書く=作曲をする人がいて、演奏する人がいます。
それが同じ人の場合もあります。「自作自演」の場合です。
多くのクラシックは、残された楽譜を演奏家が「音」にします。

 先日、友人の作曲家と雑談している時、「演奏のほうが練習することがあっていいよぉ。作曲って思い浮かばないと、な~んにもできないんだもん」
そりゃそうだ!思わず笑いました。演奏家ってなにかしら、練習することがあります。演奏すべき楽譜がすでにあるのですから。一方で作曲家の友人曰く「音が降りてこない」時には、あがいても何もできないそうです。
 この会話は、モーツァルトのように多くの曲を作曲した人と、ブラームスのように時間を費やして曲を書いた人って、なにが違うのかな~という雑談から始まりました。それぞれの作曲家が、楽譜を書く時の環境や考え方が違って当たり前です。どちらが良いと言う問題ではありません。
 今回はそのことではなく、芸術のひとつである「音楽」を解剖するものです。

 音楽で使う楽譜と、文学で使う言葉(文字)を比較します。
どちらも記号の羅列です。記号事態にルールがあるから、他の人が記号を音にしたり声にしたりできるという、共通点があります。
 楽譜に使われる記号を音にしても、特定の意味は持ちません。
いっぽうで文字は、言葉として特定の物の名前や、動きを表現することができます。知らない言語の場合、言葉を聴いても、意味のない「声」にしかありません。
 楽譜に書かれた「音楽」は作者が何かを考えて書いたものです。
文学でもそれは同じです。
 楽譜=音楽からは、作者の考えていることを直接(明確)に読み取ることはできません。
 文学=言葉は、作家の考えていることを直接、読み手に伝えられます。

 文学を絵画に置き換えて考えてみます。
絵画にも色々あります。風景を描いた作品、人物を描いた作品の他にも、抽象的に「なにか」を表現した絵画もあります。
 絵画の場合、作品を「直接」見ることができます。作者の描こうとしたものを、見る人が直接感じることができます。
 楽譜の場合、楽譜=記号そのものは「音」ではないのですから、演奏(者)と言う媒介=人間が必要です。演奏者自身が感じる音楽→その演奏を聴いて感じる人の音楽が存在します。作曲家の「意図」は、演奏者の「意図」を介して、聴衆に伝わります。
文学=読む人が作者の意図を直接、感じやすい。
絵画=見る人が作者の意図を「推察」して自分なりに感じる。
音楽=演奏する人と聴く人、それぞれに作者の意図を「推察」して自分なりに感じる。
という大まかな整理をしてみました。もちろん違う考え方もできます。

楽譜と言う記号が、表現できる=伝えられる作曲家の意図は、演奏者と聴衆の「感じ方」に委ねられていると思うのです。演奏者にせよ聴衆にせよ、作曲者の「意図」を決めつける=断定することに私は違和感を感じます。作曲者自身が何を伝えたかったのか?を、他の人が推察する自由があって当たり前だと思うのです。推察するために、作曲者のことを知ることも、演奏者と聴衆の「感じ方」の参考でしかありません。
 作曲家が「降りてきた」音を楽譜に書き残し、それを演奏者が自分の解釈で「自己表現」し、聴衆がその演奏を自分の好きなように「感じる」
 それが音楽と言う芸術だと思います。絵画とも文学とも異なった「作曲家」と「演奏者」という人間を通して表現される「ふたつの芸術」がひとつになる芸術だとも言えます。自作自演の場合には、「曲と演奏」と言うふたつの芸術です。
 聴く人にすれば、作曲者と演奏者の「思い」を感じられる芸術です。
演奏することを楽しむ人にとっては、「楽譜」と言う世界共通の記号を音にすることで、自分の感情が揺り動かされることが、なによりも楽しいことではないでしょうか?自由に感じ、自由に表現することが音楽だと思います。
 自分の感性を知識や「固定概念」よりも大切にしたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

掌で紙風船を包み込む

 今日のレッスンで「両手の親指が疲れて痛い」と言うお話を大人の生徒さんから伺いました。必要以上に指に力が入りすぎているのが原因だと思われます。
弓を持つ右手、弦を押さえる左手共に、親指がその他の4本の指と「反作用=逆方向への力」が必要です。ただ、弓にしてもネック=棹にしても、固い木で出来ていますから、必要以上の力が入ってしまいがちです。
 右手も左手も、①柔らかさと、②持続的な力と③瞬発的な力が必要です。

①掌と指の柔らかさ
日常生活の中で、何かを強く握ることは思い起こせます。
たとえば、ペットボトルの蓋を開ける時や、固い瓶詰めの蓋を開けようとするとき、タオルやぞうきんを強く絞る時などです。
 一方、意識的に弱く優しく、何かを壊さないように「包み込むように」持つことのっ方が少ない気がします。
シャボン玉を手でつかむことは、なかなかできません。柔らかすぎます。
軟式テニスのボールだと、強く握っても割れないイメージがあります。
ちょうど良いイメージの「柔らかさ=弱さ」のものは…と考えたら、
紙風船が思い浮かびました。手のひらで包み込めるくらいの小さな小さな紙風船。それを、そっと手で包み込む「イメージ」を両手の指に感じながら演奏してみると、生徒さんの音色が驚くほど、クリアでソフトになりました。

②持続的な力
指の力は「曲げる力」と「伸ばす力」の両方があります。
通常の生活では、前者の力ばかりを使います。指を開く力と握る力の「バランス」を考えてゆっくり動かすトレーニングが効果的です。
 必要なのは握力ではなく、「保持する力」です。これが②の力です。

③瞬発的な力
これも「内側への動き」「外側への動き」があります。
運動の前後に「脱力」する練習が必要です。言葉で能わすと「ぴくっ」と動くイメージです。その小さくて速い運動を、右手左手の1本ずつの指で練習します。
難しいのは、力を入れた後の、脱力までの時間を短くすることです。
指の動きを」軽く」することは、脱力した状態をベースにすることが必要不可欠です。

 柔らかいビブラート、八幡会ボウイング、素早く正確な左手指とポジションの移動、右手人差し指と親指の力のバランス、右手小指と親指での圧力の減衰。
それらすべては、抵抗のない状態で動かせることが大切です。
体幹=胴体で動きを支え、風になびく草木のように、しなやかで弾力のある動きのイメージで演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と個性と自由

 今回のテーマは、音楽を演奏する人の「個性」についてです。
上の動画は、2020年に亡くなったイスラエルのヴァイオリニスト、イヴリー・ギトリスの演奏するバッハのシャコンヌと、手嶌葵の「ただいま」と言う音楽。あまりにも、かけ離れた音楽に思えますが、「個性的」と言う意味で考えると共通している一面を感じます。
 演奏に限らず、個性的であればあるほど、人々の好き嫌いがはっきり分かれます。ファッションや髪型でも同じことが言えます。
 個性的でないことを、ありきたり・平凡・普通・二番煎じなどと表現します。
演奏者に限らず、人間は本来全員が異なった個性を持っているはずです。
社会の中で「ルール」に従って生きることは、個性とは別の問題です。
組織の中でも同じ事は言えます。守るべき「普通」があります。
一方で個人が自由に考え選択できることに、個性が現れます。
音楽で考えると、作曲者が作る音楽の「個性」があります。
他人の作った旋律をそのまま真似して使えば「盗作」であり、本人の個性は1ミリもありません。ただ、和声の進行=コード進行になると、全く同じ進行が数小節続く音楽は、いくらでも存在します。これを「盗作」とは言いません。
 演奏者の個性は、どこにあるのでしょうか?

 楽譜に書かれた記号を、指示に従い音にする。
テンポが厳密に指定されていたとしても「音=音色」までは指定できません。
また、音の大きさを「デシベル」で指定した楽譜はクラシックにはありません。常に「相対的な音量の変化」で演奏しています。
音色と音量は演奏者の自由です。音符の長さ、休符の長さは指定されたテンポの範囲内であれば演奏者の自由です。
 演奏者は「個性的な演奏」と言うと、「突飛な演奏」と勘違いします。
ギトリスの演奏を多くのヴァイオリニストが真似をすれば、いずれその演奏方法が「ありきたり」になります。つまり、現代の演奏方法は、すでに誰かが考えた当時の「個性的な演奏」をみんなが真似をしているだけなのです。
 それを平凡だから駄目だとは言っていません。なぜなら、「音色」を完全に真似ることは不可能だからです。音符の長さ、音量は真似ができます。でも、音色を完全に同じにすることは、絶対に不可能なのです。

 一人一人に違った「声」がありますよね。親子、兄弟姉妹で声がそっくりなのは、声帯や骨格が似ているからです。機械で作られる音は、完全に同じ音を再生することが可能です。木製のスピーカーで再生すると、厳密には1本ずつ違います。「木材」が同じではないからです。
 ヴァイオリンは、すべての楽器が違う音を出します。
以前にも書きましたが、ストラディバリウスの楽器でさえ、すべて音色が違うと言うのは、周知の事実です。地球上に全く同じ音色のヴァイオリンは2本=2丁ありません。その時点で「個性」です。
 演奏方法によって、楽器の個性に演奏者ごとの個性が重なります。
つまりは、すべての演奏者が「似た音色」で演奏できても「同じ音色」で演奏できる確率は、天文学的に低いという事です。
 自分の楽器の音に不満を持つヴァイオリニストがたくさんいます。「隣の芝生は…」で、やれオールドが素晴らしいとか、新作はダメだとか、何の根拠もなく断言するかたがおられます。その方の耳はたぶん、すべての音色を聞き分けられる「超能力」を持った耳なのでしょうが、一般の人類にはその能力はありません。
 新作のヴァイオリンにも、300年前のヴァイオリンにもそれぞれに違う個性があるのです。それを「個体差」と呼ぶのであれば、あって当たり前なのです。
演奏者が手にしたヴァイオリンの音色に不満を持つのは、単純に好みの問題なのです。楽器の良い悪いではありません。
 自分の好みの音色のヴァイオリンを探したとします。
仮に現在演奏できるヴァイオリンが、世界中に1万本、あったとします。
そのすべてが違う音色です。その中で、自分の好きな音色の楽器を「1本」選ぶことが人間に出来るでしょうか?絶対に無理です。自分と巡り合ったヴァイオリンの中で、自分の好みの音色の楽器を選ぶことしか、出来なくて当たり前です。
 人間同士の出会いと同じです。理想の人と出会うまで…。世界中の人とお見合いしますか?(笑)

 個性から少し話がそれましたが、演奏者が演奏する音そのものがすでに「個性的」なのです。奇抜な演奏をするまでもなく、音色そのものが世界でただ一つの音です。その音が好きな人も嫌いな人もいます。演奏方法やテンポの設定、音量の考え方も、人それぞれに好みが許されるのが音楽です。
自分が好きなテンポで好きな音量で、好きな音色で演奏することが個性なのです。他人の演奏の何かを真似したとしても、それは悪い事ではありません。すでに私たちは、師匠から多くの事を盗んでいるのです。それが悪いと言うのであれば、音楽は伝承されないのです。ただ、大切なのは自分で考えることです。
 流行の服が自分に似合うか?考えないで着るように、他人の演奏をただ真似ても、自分の音楽ではありません。
自分に自信を持ちながら、信頼できる人の感想を参考にすること。
自分にしかできない演奏に誇りを持ち、他人の演奏を称えましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

公立中学校にオーケストラを

 映像は、2017年3月に野木エニスホールで収録したものです。
公立中学校の弦楽オーケストラ部との「中国の太鼓」の共演です。
15年以上前にご縁があって毎年夏に、指導に伺っている部活オーケストラの定期演奏会時に、浩子さんとの演奏を依頼され子供たちとの共演のために、友人の作曲家町田育弥君に編曲をお願いしました。
 楽譜が出来て、学校に送付して子供たちは「メトロノーム」を相手に練習。
本番当日、1時間だけの合わせで本番を迎えました。「弾き振り」でゲネプロ本番という暴挙でしたが、浩子さんのピアノにも参加してもらったことで、なんとか乗り切りました。

 公立の中学校に吹奏楽部はあっても、弦楽合奏部やオーケストラの部活はほとんどありません。高校になって、一部の公立高校にちらほら見受けられるのが現状です。地域によるの差も激しく、千葉県、長野県では盛んに弦楽器を部活動に取り入れています。
 「弦楽器は高い」という「まことしやかな嘘」がその原因だと言う人もいます。吹奏楽部で使用する楽器の総額と、入門用の量産弦楽器の総額で考えると、むしろ弦楽器の方が安いのをご存知でしょうか?
 「弦楽器は種類が多い」というでたらめな話。吹奏楽で使用する楽器の方が、酒類多いんですけど(笑)弦楽合奏「ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス」の4種類です。一方で吹奏楽では「フルート、クラリネット、アルトサキソフォン、テナーサキソフォン、トランペット、トロンボーン、ユーフォニューム、チューバ、打楽器数知れず」は最低限必要です。
 「指導が難しい」というすっとぼけた大嘘に腹が立ちます。
吹奏楽の指導なら簡単なんかいっ!(怒)
先述の通り、吹奏楽の楽器の種類が弦楽合奏より多いのに、「素人顧問でも指導できる」ってどんな根拠でしょう?ありえないですよ。
 はっきり言ってしまえば、楽器に触ったこともなく、音楽に関心もない「顧問」が「もっと練習しなさい」と掛け声をかけて、練習を休む生徒をまるで戦争中の「赤狩り」のごとく、生徒同士にスパイをさせてあぶりだす「ブラック吹奏楽」これが指導だと言うのなら、弦楽部は作らないでいただきたいですが。
 音楽を通して、子供たちが絆を感じること、演奏を通して、誰かを笑顔にする体験、音楽系の部活動の素晴らしさです。
 その素晴らしさよりも、生徒を縛り無意味なこと=本人たちは練習だと思っているに子供たちの、貴重な時間を割き拘束する。音楽ではなく「強制労働」です。それを「音楽」と呼ばないで欲しいのです。

 弦楽器の指導に必要な知識を、教員が学ぶ時間がないのなら、学校外から指導者を呼べば良いのです。運動系の部活動でも同じです。素人の「根性論」で顧問がしどうすれば生徒は身体を壊すだけです。音楽で言うなら、音楽大学を卒業したての若い演奏家や学生に顧問が立ち会って生徒の実技指導を出来るはずです。
 顧問がいない状態での部活動は、すでに学校教育活動ではありません。
外部の指導者だけで、部活指導をするのは法律的に間違っています。
弦楽器の合奏が、吹奏楽のそれと比較して何が違うのか?
少ない種類の楽器で、4つから5つのパートで演奏する「弦楽合奏」は、音色の種類がすべて同じです。吹奏楽と比較して「まとまりやすい」音色です。
 特殊な場合を除き、弦楽器は屋外で演奏できません。野球の応援には使えません。だから?吹奏楽ですか?
 弦楽器と管楽器・打楽器で「管弦楽~オーケストラ」ができます。
弦楽合奏と、数種類の管楽器だけでもオーケストラです。
「ウインド・オーケストラ」と言う名前を見るたびに、なんとなく違和感を覚えるのは私だけでしょうか?「ウインド・アンサンブル」は当然存在します。
 学校に弦楽器を導入するか?しないか?と言う話の前に、部活動とは何か?について社会が理解することが先決だと思います。
 楽器の演奏を趣味にする人が増えることで、人にやさしくできる人が増えると思っています。競う事より、助け合う事の大切さを体感できる合奏が、日本中に広まることを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

溶けあう音と浮き立つ音

 映像は、クライスラー作曲の浮く奇しきロスマリン。杜のホールで撮影した動画です。相模原市緑区橋本駅前にある客席数525名のホールです。
音楽ホールとして作られ、特に弦楽器や室内楽の演奏に適した残響時間と響きで、近隣にはあまりない私の好きなホールです。吹奏楽の演奏だと残響が長すぎるとかの理由で不評なようですが(笑)メリーオーケストラの演奏会は、このホールの誕生と共に始まり、現在も続いています。

 さて、今回はアンサンブルやコンチェルトでの話です。
1種類の楽器だけが演奏する場合と違い、いくつかの違う音色の楽器が演奏する場合、客席で聴くお客様に届く音はそれぞれの楽器の音が「混ざり合った音」で届きます。当たり前です。言ってみれば「ひとつの音」としてお客様の耳に届きます。
 音楽学校で私たちが学んだ「ハーモニー=和声聴音」という特殊な技術があります。同時に鳴っているピアノの音=和音を、限られた時間=演奏回数で五線紙に書き取ると言う能力を身に着けます。この技術は、ピアノの和音に限らず、ヴァイオリンとピアノが同時に演奏している時にそれぞれの音を「分別して聴く」能力でもあります。さらに言えば、オーケストラの指揮者は、常にこの技術を使って同時に鳴っている、10種類以上の数十人が演奏する音の中から、間違った音を聴き分ける能力が求められます。その昔、聖徳太子の「10人が同時に話す内容を聞き取れた」という話は、聖徳太子が聴音の練習をしていたからだと言う説が。ない?
 とにかく、この技術は訓練すれば誰にでも身に着けられますが、音楽を楽しんで聴くうえでは案外「邪魔」になるだけではなく、演奏する私たち自身が「溶ける音」を意識ぜずに演奏しているかも知れないことに気が付きます。

 コンチェルト=独奏楽器とオーケストラの協演の場合、独奏楽器と同じ楽器がオーケストラでも使われることがあります。
 ピアノコンチェルトは、オーケストラにピアノがないので、ピアノの音が浮き立ちます。
 ヴァイオリンコンチェルトの場合は?オーケストラに何十人ものヴァイオリン奏者がいますよね?その人たちが演奏するヴァイオリンの音と、ソリストの演奏するバイオリンの音が完全に「溶けて」しまったら、お客様にどう聴こえるでしょうか?
 ソリストと言えども、音量=音圧はオーケストラのメンバーが演奏している楽器と同じ「ヴァイオリンの音量」です。アンプで増幅して演奏しない限り(笑)
 はっきり言えば「聴きとれない」か、聴こえたとしても一つのオーケストラパートにしか聞こえないですよね?いくら指揮者の近くで、ひとり立って演奏していても、音だけで言えば「浮き上がらない」可能性が高いのは事実です。

 そこで、ソリストが用いる技法のひとつに「ビブラート」を他のヴァイオリン奏者よりも速く、大きくするという事で「浮き上がる=目立つ」音色にしたのが、現代の速いビブラートを生み出したきっかけだと思っています。
 ソリストのビブラートは確かに「速く・大きな音の変化」が圧倒的に多いのです。ただ、それをオーケストラメンバーが全員でやったら?目立たないどころか、さらに速く・大きなビブラートをソリストがするように「いたちごっこ」が始まると思うのです。その積み重ねで、現在の「高速ビブラート」がもてはやされるようになったと推察します。
 弦楽四重奏で、だれかがこの「高速ビブラート」で演奏したら、他の3人はそれに合わせてやはり「高速」にするか、練習時にだれかが、「それ…必要?」と疑問を呈するはずです。ひとりだけ「浮く」音色で演奏するのは、アンサンブルを壊します。

 ピアノとヴァイオリンが二人で演奏する場合ではどうでしょうか?
もとより、ピアノとヴァイオリンの音色は音の出る構造=原理から違います。
同じものがあるとすれば「ピッチ」と「音楽」です。
その異なった音量と音色の楽器が、まったく違うリズム=音の長さで、違う高さの音を演奏し続けるのが「二重奏」です。その音はひとつに溶け合って、会場のお客様の耳に届きます。これが録音と違うところです。録音は、それぞれの音を「別個」に録音したほうが、あとで処理=加工しやすいのです。バランスを機械的に変えたり、音色を楽器個別に変えることができるからです。
 録音ではなく「ライブ=生演奏」の音が、溶け合った音で伝わるか?水と油のように溶け合わない、耳当たりの悪い音に聴こえるか?これを演奏者が考えなければ、それぞれの演奏者の「独りよがり」になると思うのです。「私の音はこれ!」って音を聴衆は求めていないと思うのです。
 うまく溶け合った音は、料理で言うなら異なった素材の、それぞれの美味しさを溶け合わせて「ひとつの美味しさ」に仕上げるシェフの技です。
 私の好きな「香水」の世界で言えば、様々な香りの中で「甘さ」「からさ」「苦さ」のバランスを試行錯誤しながら造り出す「調香師」の技術と同じです。

 溶ける音を作り出すためには、それぞれの楽器の音量と音色の特性を、お互いが理解し「寄り添う」演奏が必要だと思うのです。ピアノの音は正しく調律されている限り「揺れない音」で、音が出た瞬間から必ず音量が減衰=弱くなる楽器です。
 一方でヴァイオリンやヴィオラは、揺れない音を出すことがまず演奏技術として難しい楽器です。さらに、発音した瞬間から、音の強さを大きくすることも、同じ大きさで保つこともできる点がピアノと大きく違います。
 音量で言えば、ピアノの音圧=デシベルは、ヴァイオリンよりはるかに大きな音が出せます。一方、弱い音の場合、ピアノで出せる一番弱い音を「速く連続して」演奏することは、物理的に不可能です。鍵盤をゆっくり押し下げる「時間」が必要だからです。16分音符のピアニッシモをピアノで演奏した場合の、ホールで聴く音量と、ヴァイオリンが同じ音符をひと弓で演奏したピアニッシモの音量は?当然、ピアノの音が大きく聴こえるはずです。
 ピアニストにヴァイオリニストが「もう少し弱く」と言う注文を出す場合、えてしてピアニストにすれば「これ以上弱くなりません!」と思っているケースが多いと思うのです。逆に、ヴァイオリニストに「もう少し大きくひいて」とピアニストがリクエストする場合に、ヴァイオリニストは「せっかく弱くしたのに!」という気持ちがどこかにあるのではないでしょうか?
 解決策は?まず、それぞれの楽器の音が空間に広がって溶けるまでのプロセスを、一緒に考えることだと思います。
 音が出る瞬間の事ばかりを、演奏者は気にしがちです。自分一人で練習している時には、それしか聴く音がないのですから当たり前です。一緒に演奏した場合に、空間に広がる音は「ひとつの音」になるわけで、うまく溶けて聴こえるかどうかが一番の問題なのです。
 もちろん、音楽の種類によって=パッセージによって、どちらかの音を「浮き立たせる」ことも必要ですし、それまでの音色と意図的に違う音色で演奏する「変化」も必要です。

 動画は アンネ=ゾフィー・ムターの演奏するモーツァルトヴァイオリンソナタです。冒頭部分の、ノンビブラートは好みの分かれる部分です。
しかし、ピアノとヴァイオリンの音色が「溶けあう」と言う意味で、これから始まる音楽が「ひとつの音になる」ことを示唆しているように感じるのです。
 音量も、音色もお互いの音がひとつに溶けるためにそれぞれが譲り合い、助け合い、認め合うことが何よりも大切な「心」です。演奏技術以前に一番重要なことです。
 技術は、演奏しようと思う音楽を、聴いてくださる人に届けるためのものです。自分だけがじょうずに聞こえるように演奏することは、技術ではなく「自己満足」です。一緒に演奏することが主になるヴァイオリンや弦楽器を演奏するなら、一緒に演奏する人を思う気持ちがなければ「独裁者」です。そうならないために、人にやさしい生き方をしたいと思うのでした。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

時に委ねる

 演奏はバッハのチェンバロ協奏曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。
音楽は時に人の心を動かします。聴く人が幸福を感じられる時間と空間を作るのが「音楽」です。演奏者自身も音楽の持つ不思議なエネルギーを感じます。
生徒さんに音楽を伝え、演奏技術を通して表現の楽しさを感じてもらう「レッスン」にも音楽の幸福感があります。

 どんな人でも、幸せな時間だけを過ごしてはいないはずです。
私の知る限り、今までそんな人にはお会いしたことがありません。
外見からは想像もできないのが、その人の歴史です。
 音楽がどんなに幸福感を与えても、それ以上の苦悩を感じる時があるのが人間です。生きる限り感じるのが感情です。感情を無くしたとき、喜びも悲しみも感じなくなって「生きている」としたら、それは既に「人」ではなく単なる「生物」だと思います。

 音楽を学ぶのにも、食事をするのにも「時間」がかかります。
秒・分・時・日・週・月・年という時間の単位よりも、私たちが感じる「長さ」の問題です。長く感じる「時間」もあれば、短く感じる「時間」もあります。
 練習してもうまくならない苛立ちのある場合に、時間が長く感じています。
「少しでも早く」何かをしたいと思うから「時間が長い」と感じるのですね。
実際の時間の長さとは関係ありません。焦っても時間は同じ速度でしか進みません。焦っていると「時間を無駄にした」とも感じます。それも勘違いです。無駄にしたのではなく「必要な時間」を「もっと短くしたい」と思っているだけです。
 何かを達成したと感じられるまでの時間は、元々必要な時間なのです。
同じことは「忘れたい」と思う出来事を「昇華=許せる」できるまでの時間にも、必要な時間があります。
 練習しても=がんばっても無理…と考えてしまうことがありますよね。
そんな思いの時には、自分に与えられた「時間」の中で、いつか出来れば満足する気持ちに切り替えたいですね。
 いつまでに?という期限のないことが、「楽しむ=幸福」なことだと思うようになりました。嫌なことは、いつやめる?と決めれば楽しくなりますよね。
楽しい区事は、いつまでもやれる!から楽しいのです。

 音楽は「時」の芸術です。演奏を聴く「時間」でもあり、作品として「時空を超える」ことでもあります。そして、人に音楽を伝えることも、次の時間=次世代に音楽を伝えることになります。誰かが演奏を伝え残さなければ、演奏技術はその人が生きている間だけの技術になります。私たちが師匠から教えて頂いた「技術・音楽」を誰かに伝えることは、責務だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介