メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

TEL.042-782-1922

※原宿南教室〒252-0103
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

45年前の自分と音楽と

上の1枚目と2枚目の写真は、高校1年生の時、クラスで江の島に「遠足」に行った時の集合写真。3名目の写真は、恐らく高校2年生?で恩師、久保田良作先生門下の発表会時に撮影したもの。寺神戸君や、吉野先輩の顔も。
それぞれの人に、歴史があるわけで長生きすると、歴史も増えます。
記憶のあるなしに関わらず、現実に体験してきたことが歴史です。
音楽高校である「桐朋女子高等学校音楽科(共学)」に間違って合格したのが15歳で今61歳。写真の当時も音楽に関わって生きていて、それ以前にも音楽との関りは「それなり」にありました。中学生当時の音楽部仲間と、今も交友しています。

 音楽の学校で学ぶことで、得られるもの。
演奏の技術、音楽の知識。それだけなら、音楽の学校に行かなくても身に着けられます。それ以外に何が得られるのか?普通科の学校・が医学と何が違うのか?
 学校での友人が「音楽仲間になることです。普通科の高校でも、音楽仲間と巡り合えます。バンド仲間や吹奏楽部仲間など。ただ、音楽科の学校だと、友人がすべて音楽を学ぶ人なので、当然音楽の仲間でもあります。
 そうは言っても当時、すべての級友、同期の生徒と仲が良かったわけでもありませんでした。1学年90人の中で、男子11人。その中でピアノ専攻5名がA組、弦楽器3人がB組、フルート1名作曲2名がC組にまとめられて(笑)いました。

 音楽の学校で知り合った当時、誰がうまい、誰それの技術は…という話も良く出ました。声を掛けられれば、誰とでもいっしょに演奏しました。
 若気の至り。なんとなく無意識のうちに、刺々しい関係にもなりました。
同じ門下生の中でも、学年で誰が一番うまい…と言う序列が常にありました。
その人間関係に耐えられる、メンタルの強さと同時に、音楽から離れた人間関係も築くことが必要でした。中には「一匹狼」で寡黙に過ごしている人もいましたが、それがすべてだったのかどうかは、本人でなければわかりません。
 音楽仲間と思えるようになったのは、実は割合最近の事のように思います。
いわゆる「現役」の世代は、友人との関係よりも仕事である音楽と向き合うことで、ほぼすべての日常が終わります。生き残りゲームの真っただ中にいるのですから当然です。
 年齢を重ねると、体に抱える「病気の歴史」も嫌ですが増えてきます。
身体が今までのようには動かせない、演奏するにしても「力で押し切る」演奏はしたくもないし、出来ません。逃げのように思われますが、他の演奏家との「距離」は昔よりも近くなった気がします。誰がうまいか?より、あいつは元気か?生きているのか?という世代なのかもしれません。
 現実に、高校・大学時代の友人、近い世代の人が何人も世を去られました。
中には、30台になる前に亡くなってしまった友人もいます。年齢が近いということは、親世代の年齢も近いわけで、介護に直面する人がほとんどの世代です。
 そんな共通の歴史観をもつ、音楽仲間が一緒に演奏できる場を作ってみたいと思っています。「○○記念オーケストラ」のような「すげぇだろ!」な存在ではなく、普段着で演奏を楽しめるオーケストラ。次世代の若者、子供たちとも一緒に演奏できる空間が、日本にあるでしょうか?当然、「プロ」とか「元プロ」という肩書=プライドを捨てて集まることが前提です。演奏を心から楽しめるのであれば、演奏技術より大切なものが感じられるはずだと信じています。
 そんなオーケストラに、メリーオーケストラがなってくれたらなぁ…と、のほほんと思うのでした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野謙介

演奏者が変わるとヴァイオリンの音が変わる謎

 映像は、ピアソラ作曲の「タンゴの歴史」からカフェとナイトクラブです。今回のテーマは、ヴァイオリンを演奏する人にとって大きな謎の一つです。購入したいヴァイオリンを選ぶとき、楽器店に行っていくつものヴァイオリンを演奏して比べますよね?
 一人の人間が違う楽器を演奏した時に感じる「違い」とは別に、ひとつのヴァイオリンを違う人が演奏した時に、楽器の音は変わるのでしょうか?結論から言うと、変わります。

 当然、楽器そのものの構造や材質が変わるわけではありません。演奏者の弾き方によって、楽器のなにが?どう変わるのでしょうか?単にじょうずな人が演奏すると良い音がする…と言うことではありません。楽器固有の「素の音」があります。人間の声で考えるなら人によって、地声が違うのと同じです。
 楽器を演奏するときに、演奏者が望む=好きな音で演奏しようとします。音の大きさ、音色の感じ方は人それぞれに違います。
同じ音を何人かの人が同時に聴いて、同じ印象を持つことはありません。ある人は高音が強いと感じ、ある人は高音が足りないと感じます。数値化しても他の楽器と比較しない限り、固有の楽器の音を表わすことは不可能なのです。
 自分の好みの音量・音色を目指してヴァイオリンを演奏すると、次第にどう演奏すると、どんな音量・音色が出せるのかを演奏者が見つけられます。その弾き方になれると、自分の好みの音で楽器が鳴ります。演奏者は「音が変わった」と感じます。それは自分の演奏の仕方が変わったのです。これが「演奏者の変化」です。

 一方で、楽器自体は何も変わらないでしょうか?短時間=数時間で木材の固さが変化することは物理的にあり得ません。弦は時間と共に変化します。温度・湿度、さらに「芯」に当たる素材の伸び方、弦表面の変化もあります。
 楽器を自分の好きな音量・音色で、長時間=数日~数年演奏し続けると、楽器の中で、特有の部分が常に大きく振動します。大きくと言っても目に見えるほどの大きさではありませんが、音自体が空気の振動ですから、その音の高さと大きさによって、楽器本体の「木」も振動します。そして、演奏の仕方によって、その振動の場所が変わります。解放弦を演奏しながら、左手で裏板をそっと触ってみると、ある部分だけが大きく振動しているのを感じます。違う高さを弾くと、違う部分が振動していることに気づきます。
 金属の場合は、「金属疲労」と言う言葉があるように、常に一定の力が加わるとやがてその部分が破断します。木材の場合は、強い力が加われば「削れる」か「割れる」ことがありますが、金属に比べて木材は柔軟性に富んでいます。固い木が乾燥すると、乾いた音になります。それがヴァイオリンの「体=共鳴箱」です。
 振動し続ける部分が、振動しやすくなるのは当然です。
つまり、演奏者の好みの音量・音色が、ヴァイオリンの「木」を振動しやすく変化させていることになります。これが「楽器の変化」です。

 ヴァイオリンに限らず、演奏方法で楽器の音量も音色も変わるはずです。その変化を起こす技術が演奏者に必要です。
ヴァイオリンで言えば、弓の張り方ひとつで音色が変わります。
弓の毛を当てる弦の場所が、数ミリ変わるだけで音色が変わります。圧力がほんの少し変わっても音色が変わります。弦の押さえ方でも音色が変わります。ピッチがほんの少し変わっただけで、音色が変わります。いつも決まったピッチで、それぞれの音の高さを演奏していると、ヴァイオリンが共振しやすくなります。
 他にも音を変える要素はたくさんありますが、つまりは演奏者の「耳」が基準であるということです。
 残念ながら、人間の耳は体調によって聞こえ方、感じ方が違います。場所が変われば聞こえ方も変わります。その不確定な「耳」に頼るしかありません。だからこそ、「技術」を安定させる必要があります。「視覚」に頼らずに「聴覚」と「触覚」に神経を集中させることで、自分の楽器の音を、自分好みの音に替えることが可能になります。頑張ろう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

生きている音楽が生演奏

 動画は、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」の「瞑想曲」です。下手な演奏ですみません。
 私たちが聴くことのできるクラシック音楽は大きく分けて「スタジオやホールで録音した音楽」と「コンサートで聴く音楽」があります。
コンサートの演奏を録音したものも、コンサート演奏の「一部」として考えてみます。。
言うまでもなく、レコーディングを目的とした演奏は、演奏者と録音技術者・プロデューサーの納得がいくまで、何度でもやり直しができます。技術的には、うまく演奏出来た部分を「つなぎ合わせる」ことも可能です。
 一方で演奏者が聴衆の前で演奏する場合は、「一発勝負」でやり直しはできません。
 あなたは、どちらの演奏が好きですか?

 仕事として演奏する立場で考えると、それがレコーディングのための演奏でも、コンサートでの演奏でも、同じお仕事です。
 違うとすれば、レコーディングの場合には、音量、音色より「正確さ」を求められます。簡単に言えば、楽譜に書いてある通りに間違えないで演奏することが必須条件です。コンサートで演奏する場合でも間違えないで演奏することは重要なことですが、音量・音色と聴いてくれている「人」をその場で満足させる「気持ち」が何よりも大切です。会場の響き、他の演奏者とのバランスを事前に確認して本番の演奏に臨むのが「生演奏」です。

 生きている人間が、生きている人の前で音楽を演奏するのが「生演奏」だと思います。機械で再生された音楽は、その意味で言えば生演奏ではありません。
 以前、マドンナのライブを見に(聴きに)当時の後楽園球場にいったことがあります。歌っている姿は、望遠鏡がなければ見えません。スクリーンに映し出されるマドンナの映像と、大音量で球場に響き渡る音楽。椅子にも座らず、立ち上がって「狂乱」するオーディエンス。その場の空気は楽しいものでした。が!
 その後、そのライブをテレビで見たときに、実はマドンナが歌っていないことを知ってしまいました。おそらく、歌以外の音も予め録音されていたものだったのだと思います。すべてのライブがそうだとは思いません。会場=球場で不満はありませんでした。
 もし、クラシックの演奏会でCDの音を再生し、演奏者は「あてぶり」で弾いた振りをしたら、どうなるでしょうか?

 演奏に「傷」が許されないとしたら、人間が演奏する必要はありません。コンピューターで作り上げたヴァイオリンの音を、実際に演奏した音と「ききわけ」できないレベルまで仕上げることは、現在でも可能です。音楽に限らず、映像の世界でも、調理の世界でも、似たようなことは既に現実になっています。
 レトルト食品、冷凍食品のおいしさは、すでにレストランやお店で食べる「以上」の場合が増えています。「人工知能=AI」が進化して、人が運転しなくても目的地まで安全に走る「自動車」がすでに存在します。音楽も、そうなるのでしょうか?

 人間が演奏しない音楽も、確かに音楽です。
それを「便利」だと感じるのも個人の価値観です。
なにも楽器の演奏が出来なくても、パソコンで曲を作ることもできます。データを打ち込んで、演奏し録音することもできます。
音楽の楽しみ方のひとつになったことは事実です。
 人間が感じる、楽器を演奏する楽しさ・難しさ・喜びがあります。
演奏をすべて機械にゆだねてしまえば、それが失われます。
 人間が演奏前に緊張するのは当たり前です。うまく演奏出来たり、出来ないこともあるのが人間です。演奏者に聴衆が、自分の理想やパーフェクトな演奏を求めるのは、どこか間違っていると思います。生きている人間が、自分の目の前で演奏していることが、どれだけ素晴らしい時間なのかを、聴く側も考える時代に入りました。「バーチャル」全盛の今だからこそ、リアルな人間の演奏に魅力を感じる時代なのです。生身の人間が演奏する音楽を、守ることができるのは実は、演奏者側ではなく「聴いて楽しむ側」が担っています。聴く人が求めなければ、演奏者は消滅します。演奏者が消滅すれば、趣味で楽器を演奏することもできなくなります。「楽器」そのものが消えるからです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

500本目の動画

 Youtubeに自分の演奏、自分が指揮をした演奏、編集した映像を、自分の半生用と生徒さんの参考にと思いアップしてきて、その数がこの動画で500本目です。
・チャンネル開設当初の「MrKabajiru」
URLは https://www.youtube.com/channel/UCli07laNGU99USxnDO9CTyA
・その後、動画数が増えたので作った「野村謙介」

URLは 
https://www.youtube.com/channel/UCK0zl04-SCFOlKBlyv_9tdg
・それでもパンクしそうだったので作ったのが「野村謙介チャンネル3」
URLは https://www.youtube.com/channel/UCMAZycdSb68eZ3DzN5GwmTg
と、いつの間にか増えた動画たちです。

 動画の中には「限定公開」と「公開」の2種類があります。人様にお聞かせできないと思った映像は「限定公開」でアップしていますが、それ以外の動画がお見せできる動画だとも思っていないわけで(汗)「じゃ、なんでアップしてるの?」と素朴な疑問。
 この考え方には賛否両論あるのですが、インターネットという誰でもが見ることのできる空間に、見られることを前提に動画をアップするのは目的があるからです。
 プロの演奏家が自分の演奏をアップする場合「広報=宣伝」が主な目的だと思います。入場料金を頂くコンサートの演奏風景を、Youtubeで「ただで見られる」と言うことに不公平感を感じるお客様もいるかも知れません。さらに言えば、その映像だけで十分満足できるかたなら、チケットを買わずに配信されるのを待っている方法もあります。 宣伝のつもりが、逆効果になるとも考えられます。
 現実に、配信に課金する=お金を払うと動画を見られる方法で、コンサートを開いているプロの演奏家も多くなりました。時代の変化です。
 ネット配信にお金を払う人にとって、無料で同じ動画が配信されたら、きっと怒りますよね?
 「投げ銭方式」で払いたい、払ってもいいという人が自由に支払うという方法もあります。そのほかに、クラウドファンディング方式でネット配信するプロも見られます。
 どんな方法であれ「お金をもらう配信」には私は踏み切れませんし、自分の演奏動画にお金を払いたいとも思わないのが現実です(笑)
 コンサートを開き、お客様と会話し、演奏を聴いていただくことが好きなのです。広告にお金をかけられません。スタッフも必要最小限です。撮影も同じです。編集作業は自分で行います。その映像を無料で公開して、演奏会に足を運んでくれる人が「増えるのか?」と言われれば、答えは残念ながら「いいえ」です。宣伝としての効果が見込める演奏家もいると思いますが。

 生の演奏とパソコンやスマホで聴くことのできる「機械音」が、どう違うのかを並べ立てても、パソコンで十分と言う人には「だからなに?」という話です。
コンサート会場に、行きたくても行けない人もたくさんいます。私も一人でコンサートに行くことは視覚障害のために出来なくなりました。高齢のかたに、招待状を送るのも不安になることがあります。その方たちが、CDやDVD、インターネットを使うことができれば「疑似コンサート」を楽しんでもらうことができます。
 コンサートならではの「良さ」を演奏する演奏家、主催する人間が本当に理解しているでしょうか?単に「音質」の問題だと片づけられることではありません。「演奏家を見られる」と言うのも今や、会場でないほうが良く見える時代ですよね。逆に自宅や、電車の中で好きな時間に、一人で音楽を楽しめるという意味では、コンサートに勝ち目はありません。
 私は先述の通り、会場でお客様の反応を見ながら、話したり演奏したりすることが好きなのです。お客様が演奏者と「相手の顔を見ながら会話する」ことは、ネット配信の場合とは明らかに違います。「ライブチャットがあるよ」と思われるかもしれませんが、演奏中にモニターを見ながら演奏しますか?演奏後に、チャットで一人ずつと「やりとり」できても握手はできません。
 人と人の「ふれあい」がコンサートでしか感じられないことではないでしょうか?お客様同士の「仲間意識や連帯感」もその一つです。休憩時間に、お客様同士が楽しそうに会話している姿を、楽屋のモニターで見ていると、とても嬉しく感じます。

 自分の演奏を公開することが、正しい行為かどうかは、人によって答えが違います。少なくとも現在は、Youtubeで誰の作曲した音楽を演奏しても著作権料を支払わなくてもアップできます。ユーチューバーとしてスポンサーからお金をもらうようになると話は別ですが。
 自分の演奏を誰かが見てくれることが「嫌だ」と思うなら、利用しなければ良いだけです。誰かが見てくれて、楽しんでくれたり、参考にしてくれることを「良し」とするなら、アップするのも楽しいと思います。
 これから、どんな演奏を記録できるのかわかりません。
自分のモチベーションを維持するためにも、コンサートを開き続け、演奏を公開できる内容になるように、頑張るのです!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまくなる気がしないヴァイオリンの演奏

なんとなく自虐的なテーマですが笑
上の動画は見ていて・聴いていて、あまり難しそうに感じない曲かも知れません。チャイコフスキーの作曲した「無言歌」をクライスラーが編曲したものです。
 私も含めてヴァイオリンを演奏する人にとって、いつまでたっても上達しない=うまくならない気がする「壁」が立ちはだかります。
 ピアノを演奏する人も同じだとは思います。どんな楽器や歌でもきっと感じるのだろうと思います。
 ヴァイオリンを演奏し、教える仕事をする立場で考えると、「気」だけではなくもっと客観的に「どうして、そう感じるのか」を言語化する必要を感じました

 ヴァイオリンを始める以前に、楽器の演奏をしたことのない生徒さんもいます。ピアノの演奏経験があるヴァイオリン初心者の生徒さんもいます。ヴァイオリンを初歩から始めて、趣味で演奏の上達を目指す人たちににとって、出来るようになったと感じる「達成感」はどんな時に感じるでしょうか?
 初めてヴァイオリンを構え、弓を自分で持って「音」が出た時の感動は、誰でも感じる「おー!ヴァイオリンだ!」という感動と音を出せたという達成感があります。
 次に何を練習してもらうべきか?生徒さんと先生によって違います。
生徒さんが小さい子供の場合には、「音を出す楽しさ」を忘れさせないように=飽きさせないようにすることを優先します。
大人の生徒さんに「正しい弓の動き・弓の場所・角度」を説明し、弓をたくさん使った練習をしてもらうことも良くあります。この練習で「出来るようになった」達成感がどれだけ得られるでしょうか?練習の必要性をどれだけ理解してもらえるでしょうか?いつまでこの練習をしてもらえば良いのでしょうか?
 言うまでもなく、弓を大きく使えるようになることは、上達のための必須条件です。だからと言って、この練習だけでモチベーションを維持するのは、かなり無理があります。頑張れても2~3日だと思います。レッスンが週に1回だとしても2回目のレッスンまで、これだけ練習するのはかなり「酷」な話です。
 では、この練習はそこそこにして、1本の弦だけを弾く練習、2本の弦を同時に弾く練習を宿題にしたらどうでしょうか?「むずかしい!」ことは感じてもらえるでしょうが、できるようになるまで続けたら、何週間、何カ月も開放弦の練習をすることになります。これまた非現実的です。
 では、左手で弦を押さえてたとえば「1」の指で出せる音を、開放弦と交互に弾く練習を課題にしたら、出来るようになった達成感はあるでしょうか?多くの生徒さんの場合、ピッチがあっていない=開放弦との音程があっていない場合でも、なんとなく押さえたり放したりする「繰り返し」になり大切を実感できません。ましてや右手の「ダウン・アップ」と「0→1→0→1」がずれないようにする技術がすぐに身に付くわけではありません。はぁ~涙

 ピアノを始めて習いレッスンを受ける生徒さんんと比べて、圧倒的に「曲」を演奏できるようになるまでの時間が長く必要なのが、ヴァイオリンです。
 曲が演奏できるようなる…と言っても、ヴァイオリンで演奏できるのは単旋律のメロディーです。それさえ、初めは曲にならない音程の不安定さで、生徒さん自身でさえ「気持ち悪い」と思う事もあります。
 少しずつピッチが正確になっても、雑音が多くきれいな音が出せない「壁」にぶり当たります。また、ダウン・アップが混乱したり、スラーがどこかに飛んだり…短い曲を止まらずに、間違えずに演奏できるようになるまでの時間が、同じ曲をピアノで止まらずに、間違えずに演奏できるようになるまでの時間の「数十倍」かかるのがヴァイオリンです。間違えないだけでも大変ですが、そこに「きれいな音=雑音を出さない」で演奏できるまで、その曲だけ練習していたら生徒さんは一人もいなくなるでしょう涙。
 その壁を越えたら、常に達成感が得られるのか?というと、それがまた難しいように思います。「音の高さ=ピッチ」の「正確さ=精度」と「判断の速さ=反応の速さ」を高めるには、耳のトレーニングが必要です。ヴァイオリンを演奏しながら「耳」のトレーニング、つまり自分の音を聴き続ける練習が不可欠で、その上達を自分で感じる「達成感」はほとんど感じられません。何カ月、何年と言う時間で少しずつ身に付く技術だからです。

 ピアノに比べ感じられる達成感が「薄い」ヴァイオリンです。
だからこそ継続できる生徒さんが少ないことも事実です。
ピアノだけで音楽が完成する曲の数は星の数ほどありますが、ヴァイオリン初心者のために作曲された曲数が少ないだけではなく、ピアノの伴奏か他の楽器と一緒に演奏しないと音楽が完成しない=音楽の一部分だけの楽譜が圧倒的に多いのも初心者の壁です。
 一緒に演奏することが前提の楽器です。少しでもヴァイオリンを演奏できるようになったら、ピアノと一緒に演奏することで大きな達成感と新しい感動を感じることができるのはヴァイオリンならではの楽しみ方です。

 プロのヴァイオリン演奏を見たり聞いたりすると、手品師か曲芸師のように指や手が速く動くことに目が行ってしまいがちです。ピアノのように和音を連続して演奏できる楽器と違い、ヴァイオリンは「見た目の難しさ」と「本当の難しさ」がまったく違う楽器です。指や弓を速く動かすことが一番難しそうに見えるから、簡単な曲なら弾けるような「錯覚」をしてしまうのも初心者に多い話です。言い換えれば、ピアノは一般の人が聴いて感じる難しさと、実際の演奏の難しさが比較的近い楽器であるのに対し、ヴァイオリンは「簡単そう」に見える・聞こえることを演奏することがとても難しい楽器です。そのことに気が付くことが第一歩です。音階を正確にきれいな音で演奏することの難しさを知ることでもあります。初心者のヴァイオリニストが演奏した曲を、プロが演奏するとまったく違って聞こえるのがヴァイオリンです。それでも、少しずつ技術を身に着けていく根気があれば、かならず上達します。
 私も自分に、そう言い聞かせて日々練習しています。プロもアマチュアもヴァイオリンの「難しさ」は変わらないのです。プロだから簡単にできる演奏技術は、存在しません。生徒さんが難しいと思うことは、先生たちでも難しいのです。
一緒に頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

聴いて楽しむ人と弾いて楽しむ人

映像は、ピアソラ作曲の「アヴェ・マリア」をヴィオラとピアノで演奏したものです。自分で弾いてい自分で聴いて楽しめる、数少ない演奏(笑)です。
1.誰かの演奏を聴いて楽しむことが好きな人。
2.誰かに演奏を聴いてもらうことが仕事であり、それが好きな人。
さらにもう一つの分類として…
3.「自分が弾いて自分が楽しむ人」
多くの場合は、プロの演奏を聴いて楽しむというケースですが、
趣味で演奏を楽しむ人「3」の人は、「1」のプロの演奏を聴いて楽しむ人でもあります。
では、「2」のプロの演奏家は誰かの演奏を聴いて楽しまない?

私の知る多くの演奏家は、自分以外の演奏を聴いて楽しむ人がほとんどです。
さらにその「2」プロの演奏家は「3」の自分で演奏して楽しむことは、ないのでしょうか?演奏会の演奏中に、自分の演奏を聴いて楽しむことは、現実にあるのでしょうか?演奏する人によって違うとは思いますが、自分の演奏が嫌いなプロが、お客様に聞いてもらうことはお客様に失礼だと思います。
 自分の作った料理がおいしいと思えない料理を、プロの料理人がお客様にだすでしょうか?ありえませんよね。
 もちろん、楽しみ方は客席で聴くのとは違います。何より演奏するための「体力」は座って静かに聴く人と同じであるはずがありません。が、音楽を聴いていること自体は変わりません。

 趣味で演奏を楽しむ人は、プロの演奏を「真似る」楽しさなのだと思っています。もちろん、真似をしなくても楽器の演奏は楽しめます。
 ヴァイオリンを演奏できるようになりたいと言う生徒さんの中で、ヴァイオリンの演奏を聴かない、あるいはほとんど聞いたことがないという生徒さんがたくさんいます。その生徒さんが、どんなヴァイオリン演奏をしたいのかを探ることから始めます。楽しみ方にルールはありませんから、ヴァイオリンの音を出すだけで楽しいと言う方がいても不思議ではありません。ただ「演奏できるように」という演奏の「イメージ」もないと、上達することは無理かもしれません。
 ヴァイオリンでどんな演奏をしたいのか、演奏技術がないのですから、うまく言語化できないのは当然です。それでも、日常の生活でヴァイオリンの演奏を聴く時間はあると思うのです。その興味、関心がなければヴァイオリンの音を出すだけで終わってしまうと思います。
 自分が食べておいしいと思う料理を、自分で作って自分で食べて楽しむのと同じです。「料理をすることが好き」という人もいます。美味しくできなくても良いのかも知れません。料理教室に通う人がなぜ?なにを習いに行くのでしょうか。料理の仕方、包丁の使い方を習うためだけに行くのではなく、自分の料理で誰かが(自分も)食べておいしいと思う料理を作る方法を学ぶ方が楽しいと思うのです。

 演奏の技術は、どんな曲をどんなふうに演奏したいのかによって全く違います。極端に言うと、一番最初の段階である楽器や弓の持ち方から学ぶべきものが違います。少し演奏できるようになった段階でも、練習する内容が違います。
子供の場合はそれがまだ白紙の状態です。だからこそ、多くの子供に対して練習のプロセスが似たものになります。将来、その子供が演奏家になりたいと思った時に後悔しない技術を身につけさせたいと思うのが指導者です。たとえ趣味であっても、初めから妥協だけを優先して練習すれば、得られるものは何もないと思うのです。演奏家を目指すのではなく、じょうずにヴァイオリンを演奏できるようにしてあげたいと家族や指導者が思うことが、何よりも大切だと思います。
「趣味でいいので」という言葉の裏側に「妥協」や「甘え」を感じてしまうことが良くあります。一方で生徒さんの中には「趣味でもちゃんと演奏できるようになりたい」と言ってくれる人もいます。うまくなりたいと思わない人に、なにを教えれば楽しんでもらえるのだろう?と頭を抱えることが多いのが、趣味の音楽を教える私たちの悩みでもあります。

 好きな音楽に出会うことと、楽器を演奏できるようになりたいと思うことは、切っても切れない関係です。たとえ、ロックやジャスを聴くのが好きな人であっても、楽器を演奏するために必要な知識と練習はただ聴いて楽しむのとは違う、新しい世界なのです。楽器を演奏することが楽しいのは、自分の好きな音楽を自分で演奏して、自分が楽しめるからです。自分で作って自分が食べる料理が、ただ必要なカロリーや栄養のことだけを考えて作るのか、それとも美味しいと思える料理を作るのかで、全く違うのと同じです。食事はしなければ生きていけませんが、音楽は聴かなくても演奏できなくても生きることができます。むしろ、楽しむことが音楽の意味だと思うのです。楽しめない音楽なら、無理に聴く必要も演奏することも時間と労力の無駄だと思います。習うのであれば、お金の無駄にもなってしまうと思います。楽しみのために覚えたり、練習することが楽しく感じるまで「続ける」ことも音楽の楽しさを感じるための「楽しみ」だと思うことが大切だと信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

東京大学に進学した生徒くんと対談

 2022年5月8日(日)午後、橋本駅前のメリーミュージック駅前教室での生徒さんとの対談です。
 現在20歳になる男子。4歳からヴァイオリンを始め、毎週母親に連れられてレッスンに通い続けた少年が、立派な青年になり今もなお、レッスンに通ってきてくれます。今回が「459回目」のレッスンでした。

 小学校4年生から塾に通いながら、並行してヴァイオリンのレッスンに通い続け、中学校は国立の「筑波大学付属駒場中学校」に進学。中学に入学後もレッスンにはお母様と通い続け、同高校に進学しても時々、指揮のレッスンを交えながらのレッスンが続きました。
 大学は東京大学に現役で合格。それからも時折レッスンを受けてくれています。彼が幼稚園の時から、成人し私より背が高い「見下ろされる」存在になったことが不思議なほどに嬉しいのです。

 教員時代、東京大学に進学した音楽部員もいました。京都大学に進学した男子部員もいました。一橋大学にAランクで絶対に合格できると言う成績の女子部員が、音楽大学の打楽器専攻に進学したこともありました。
 ただ、一人の生徒にかれこれ16年関わって来られたことは、自分が教員を辞め自分の教室を立ち上げ、地道に続けてきた「勲章」でもあります。
 すべての生徒さんが、それぞれの個性と環境の中で生きておられます。
音楽を趣味とする生徒さんに音楽の楽しさを伝える教室「メリーミュージック」に通う生徒さんの一人一人に、私の思いがあります。
 体験レッスンだけで終わってしまった方もおられます。
数カ月、数年でレッスンに来られなくなる生徒さんの中には、何も言わずに突然来られなくなった生徒さんもいらっしゃいます。私の力量不足です。
 継続は力なり
始めるのは簡単、やめるのも簡単。続けることが何よりも難しいのは、ヴァイオリンや音楽に限ったことではありません。一つのことを、やり続ける気力、根気、強さがその「ひとつ」の事以外の事にも、大きな影響を与えていることを彼と話しながら感じていました。

 成長する生徒とは、彼のように子供から大人になったという成長だけではありません。大人でも高齢者でも成長していることを私たちは実感しています。
 演奏家を目指す生徒に、レッスンをする先生たちと違い、私の教室は生徒の成長をサポートするのが仕事です。
 彼が受験勉強で練習する時間と体力を維持できない時に、彼の家族と同じように応援する気持ちを持ち続けることは、教室の経営としてマイナスなのかも知れません。その時々で壁があり、乗り越えるために誰かの協力が必要になることは、音楽でも多くの場面で起こることです。それが家族だったり、ヴァイオリンの先生だったり、塾の先生や友達だったりすると思うのです。
 成長した彼が、家族に感謝していることを自分の言葉で私に伝えられる「おとな」になったことが、ヴァイオリンの技術が上達したことよりもずっとずっと、嬉しいのです。
 これからは彼らの時代です。私たちは彼らに支えられる世代になります。それが自然の摂理です。今、彼にしてあげてきたことを振り返り、反省もありますが「ヴァイオリンを続けられた理由」に私の教室だったからと言ってくれる言葉に感謝しています。
 多くの生徒さんたち、保護者の皆様。
彼は決して特別な才能や素質を持った天才ではありません。
私が見ていたヴァイオリンで言えば、特殊な技術を持っていたわけでもありません。他の生徒さんと同じレッスンをしてきました。そのレッスンで与えられた課題を家で家族と一緒に練習し、家族が支えてきただけなのです。
 きっと勉強もそうだったのだと思います。
なにが「普通」とは言えません。でも彼は、どこにでもいる「男の子」なのです。これからの彼の成長が楽しみです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの魅力

映像は、アイザック・スターン(Isaac Stern、1920年7月21日 – 2001年9月22日)の演奏する、バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の「シャコンヌ」です。自分の好きなヴァイオリニストは、人それぞれに違います。誰が一番じょうず?と言うのは「愚問」です。個性に優劣をつけることに何も意味はありません。「演奏会の回数」「レコードの枚数」「演奏した曲数」「演奏したホール」で比較する人がいますが、それも無意味です。世界大戦や動乱の時代、国を移動することも演奏会を開くことも,レコーディングすることもままならなかった時代があり、演奏者の考え方も様々でした。

 ヴァイオリンと言う楽器は、ニコロ・アマティ(Nicolo Amati、1596年12月3日 – 1684年4月12日)の時代から大きく進化していない「原始的」な楽器の一つです。400年間、進化の止まった楽器でもあり、言い換えれば、400年前にすでに完成されていた楽器でもあります。演奏される楽曲は、400年前と現代で同じものもあります。シャコンヌを作曲したヨハン・ゼバスティアン・バッハ(: Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日 – 1750年7月28日)が、アマティの死後、生まれ変わるように誕生したのも偶然とはいえ、興味深いですね。
つまりこのシャコンヌが作曲された当時に、アマティやストラディバリウスの楽器が存在し、それらの楽器でも演奏された可能性があります。

 そのヴァイオリンという楽器の「性能」について考えます。
もちろん、弓と弦についても同様に重要なことです。
バッハが生きていた当時の録画がありません(笑)から、当時の演奏を今、聴くことは不可能です。実際に当時の「音叉」にあたる道具が残っており、それが現代演奏されている「ドレミ」と高さが違うことは間違いなさそうです。
 つまり、当時のヴァイオリンは今のヴァイオリンよりも「全体に低い音」で調弦され演奏されていたと「推察」されます。聴いたことはありませんが。
 弦の構造も今とは違ったようです。
アイザック・スターンの演奏の中で、一部を抜粋してみます。
通常の演奏方法で「重音」隣り合う2本の弦を同時に演奏し続ける=和音を伸ばすことができます。瞬間的に3本の弦を同時に弾く場合、弓の元か先「毛のテンションが強い部分」で演奏することが可能です。が…、圧力をかければ音が汚くなりがちです。無理な力は音をつぶしてしまいます。スターンの「力」が腕と指から、弓に「のしかかっている」事は想像できますが、腕の力を感じさせないのです。運動の速度は感じますが、圧力をかけている様子を感じられないのに、同時に3本の弦を「弾き続ける」部分があります。それ以外にも、4本の弦がまるで何人ものヴァイオリニストが演奏しているように、ポリフォニックに連続しています。余韻と実際に「擦っている」音の差が聞き取れない技術です。

アイザック・スターンというヴァイオリニストの演奏技術が優れていることに、疑いを持つ人はいないと思います。演奏する「音」へのこだわりは、現在第一線で活躍する若手ヴァイオリニストたちが、忘れかけていることの一つにも感じます。
 ヴァイオリンというシンプルな構造の楽器が、まるでパイプオルガンのように、オーケストラのように、歌声のように、囁くように、オペラ歌手のように多彩な音色、実際の音量よりも大きく感じる「響き」を作れる楽器であることを、思い知らせてくれるのが、この演奏です。
 たった4本の弦を、馬のしっぽの毛で擦るだけの音が、どんな大きな楽器にも聴きお取りしない音を奏でられる楽器だという事を、もう一度考えたいと思います。そして、どんな楽器にも個性があり、その個性は人の声がすべて違うのと同じ「違い」を持っていることと、楽器と対話する演奏者の「思い」がなければ、ヴァイオリンは「道具」でしかないと確信しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者はなにを演じるの?

 映像は映画「シンドラのリスト」のテーマ音楽です。
映画の音楽が必ずしも映画の内容と一致していなくても不思議ではありませんが、この曲も含めてテーマ音楽が映画の内容、ラストシーンと重なる印象になるケースが多いですね。

 さて、今回のテーマは音楽を「演奏」すると書きますが、この「演」という文字は実地に何かを行うときに使う文字です。演技、演算、演奏など。
演技と演奏の共通点を考えます。演技を演じる人を今、役者とします。
演劇、映画、テレビドラマなどで「役を演じる」人たちは、台本に書かれている「人」になりきって、見ている人をある時は笑わせ、ある時は苛立たせ、またある時は泣かせます。役者さん本来の人柄やその時の心理とは無関係に、見ている人をある意味で「騙し」ます。騙すと言うと印象が悪いのですが、「嘘の世界」をまるで「真実」に見せるのが演技です。

 一方、音楽を演奏する私たちはいったい何を?演じているのでしょうか。
言うまでもなく、作曲家の作った音楽を実地に奏でるのが「演奏」です。
では作られた音楽=楽譜と、役者さんの使う台本は違うのでしょうか?
台本の多くは「せりふ」です。そこに脚本家や演出家が動きや、感情を指示します。音だけの劇である「朗読」の場合は、動きはありません。言葉だけで台本の内容を演じることになります。
 ひとつの話の中に登場する人物が感じているであろう感情を役者が演じます。
話の展開、結末は台本を書いた原作者や脚本家によってきめられます。
役者が感じたままに演じる場合もあります。優れた役者さんに、監督が何も指示をださず役者とカメラマンに任せるという方法を黒澤明監督が使ったのは有名な話です。朗読の場合にも同じように、一人ですべての登場実物を演じきり、聴く人を魅了します。
楽器の演奏では言葉を使わずに、聴く人に音楽を伝えます。
音楽のタイトルがあったとしても、作曲者が特別な思いをもって作った音楽であっても、演奏する人と聴く人にとっては「音楽」です。
よく耳にする「音楽の解釈」と言う言葉があります。
作曲者の意図や当時の心情、作曲された時代を深く調べることで、演奏の「あるべき姿」を模索することだと思います。
 ただ、極論すれば作曲者自身が演奏しない限り、楽譜を作曲者の思った通りに演奏することは不可能です。そこには演奏者の「推察」が入るのです。
作曲された音楽のテーマや一部分だけを使って演奏する音楽を「邪道」と言う人がいます。

dougaha

動画は大好きなギタリスト「Marcin 」のパガニーニカプリース。
これを聴いて原曲と違うと言ってしまうこともできますが、もしパガニーニ本人が聴いたら「すげぇ!こっちのほうがかっけー!」と叫ぶかも知れない気がします。パガニーニ自身、ギターの演奏にも深い関心を持ち自身もギターを弾きました。ギターの奏法をヴァイオリンに持ち込んだのも、パガニーニなのですから。
 話がそれましたが、原曲の楽譜をどう?演奏するのかという演奏者の問題です。楽譜は記号です。文字も同じです。文字が「文」になり「文章」になり「作品」になるように、音符と休符が「モチーフ・テーマ」や同時に鳴ることで「和音」になり「フレーズ」になり「曲」になります。
 単語は意味を持ちます。ですが、文章になった時には違う感情を読む人、聴く人に与える場合があります。「空」と言う単語が、ストーリー=文章の中で、特別な意味を持ち、聴く人の涙を誘う事もあります。
 音楽の「ドシラ」という3つの音だけで感動する人はいないかもしれません。
それが…

 チャイコフスキーの弦楽セレナーデの冒頭部分です。
ファーストヴァイオリンの「ドシラ」がこの曲のテーマになります。
たかが「ドシラ」されど「ドシラ」です。
音楽が意味を持たない音の集まりだとしても、聴く人がなぜか?感情を揺さぶられることにこそ、演奏家は常に疑問を感じながら、試行錯誤を繰り返すべきです。「こう、書いてあるから」ではなく「こう弾くと、なにを感じる?」ことにこそこだわるべきだと思います。作曲者の意図より、自分の演奏を初めて聴く「普通の人」が何を感じてくれるのか?のほうが、ずっと大切だと思うのです。
演奏が単なる「楽器で音を出す」ことではないとするならば、私たちはその「音」で聴く人を感動させる技を磨くことが必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏家に特別な素質はいらない

 動画はクライスラーの「コレルリ・バリエーション」です。私のガラケー着信音がこれです。聴こえたらすぐに探さないと恥ずかしいから最適!(笑)
 大人の生徒さんや、生徒の保護者が自分や子供に「才能がない」とか「素質が足りない」などと言われることがあります。思わず「私に才能があると思うんですか?」と聴くと「そりゃあ、先生だから」と意味不明なお応えが帰ってきます。演奏家に必要な「素質」ってあると思いますか?

 先天的に耳の聴こえない人もいます。手の指がない人もいます。色々な個性が人間にはあります。もっと言えばたとえ一卵性双生児でも個性が違います。まったく同じ人間は、地球上に自分しかいないのです。それぞれが異なった個性を持っています。それらの個性の中で、演奏家に適した個性があるとしたら、どんな個性でしょうか?
 ・聴力がある。
 ・両腕と指がすべてある。
それさえ、「絶対条件」ではありません。右手の指がない人でもヴァイオリンを演奏しています。右手が動かなくても演奏されるピアニストもいます。ベートヴェンは晩年、踏力を失ったことは有名な話で。それでも第9を書き終えました。
 「身体的なことではなく、能力が…」とこれまた苦しい理由を考える人もいます。演奏能力の優劣を、どんな基準で比較するのでしょうか?
 以前にも書いた「低年齢で演奏技術が優れている」と「神童」とか「天才」と呼ばれますが、私はそう思いません。その人にお会いしたことがありませんが、生物としての「人間」に大きな違いがあるとは思えません。先述した通り「個性」はあります。小さく生まれる子供もいます。だからと言って、生後3日で言葉を話す子供はいないはずです。2歳で楽器の音を出すことは天才ではないことは誰でもわかります。ところが5歳で「○○作曲のコンチェルトを演奏」と言うと突然、神童扱いされます。本人だけの意志と力でそれができるわけがありません。親が「やらせた」だけです。
 ご存じの方も多いと思いますが、ひらがなを読めない幼児に先に「漢字」の読み方を教えると、教えられたすべての子供が漢字を見ただけで読み方を答えます。「図形」と「音」を覚えただけなのに。それを「天才」と言うでしょうか?
私はこの世に「天才」は未だかつて一人もいなかったし、これからも生まれないと思っています。当然、演奏家にしても同じです。どんなに神のような技術を持っていると言われる演奏家でも天才ではなく、単に努力した結果だと確信しています。

 では、努力はみんな同じでしょうか?「精一杯、努力した」と言っても人によって内容も時間も違うのです。同じものがあるとすれば、1日が24時間であり1時間が60分であり…という時間だけです。あとはすべて、人によって違うのが努力です。
 どんなに練習してもじょうずになれない。と誰もが思うものです。
それは練習の内容と時間に問題があるのであって、自分の思う「一生懸命」のどこかに間違いがあるのです。
 生徒さんに同じことを、同じ言葉で同じようにレッスンで教えても、すべての生徒さんの反応が違い、出来るようになるレベルも時間も違うのが当たり前です。その差を「素質」とか「才能」で片づけるのは逃げの気持ちだと思います。
 なぜなら、出来るようになった実感があれば「素質が足りない」とは思わないからです。他人より時間がかかったとしても、それは才能がないのではなく、自分の練習時間・内容が、他の人より少なく・効率が悪かったことが原因なのです。
 自分の練習を分析する技術を身に着けるために、本当に長い時間がかかります。常に誰かに練習を聴いてもらい、修正してもらい、自分で考えなくても練習できる環境の大人は、恐らくいないでしょう。子供の場合、多くは親がそばで口を出します。「音程が悪い」「リズム、間違ってない?」「弓が曲がってる」「姿勢が悪いよ」などなど。私の母も、私が中学3年生になるまで、自分(母親)の見える場所で練習させました。これが一番嫌でした(笑)が、それが当たり前だと思っていました。
 高校生になった私が、自室で自分の演奏に大声で「へたくそ!」「音程が悪いんだよ!」と独り言を言いながら練習するようになって、時々ドアの隙間から心配そうに部屋の中をのぞいていました(爆笑)相当、心配だったようです。「ついに…」と思ったのかもしれません。

 他人と自分の演奏技術を比較するのは、技術の向上と新しい発見のために必要なことです。他人の演奏は客観的に聴くことができます。小さなミスにも気づけます。多くの場合「自分よりじょうず」と思います。それで自信を無くすのではなく、目標にすればよいのです。その人と同じ演奏は誰にもできません。その人自身も、その時の演奏と完全に同じ演奏は出来ません。CDやYoutubeを繰り返し聴いて、自分との違いを見つけることも大切だ思います。
音を聴けば予備使い、ボウイングのほとんどすべてを聞き分けることができるようになります。音だけで指?一つの音だけでは、開放弦以外の指を言い当てることは不可能です。ただ、前後の音色と開放弦(弦の最低音)より低い音は、低い弦で演奏している(G線は別)ことを判別できますから、演奏している弦を判別することができます。スライド(短いグリッサンド)と前後の音を考えると、弦と指番号がわかるのです。

 下の動画は、パデレフスキー作曲クラスラー編曲のメロディーを、パールマン大先生が演奏されたCD(音源)から指使いを模索して書き込んだものです。
私の聴いた演奏と若干違うかも知れませんが、ご覧ください。

 動画と素質、才能は関係ありませんが「出来ない」と思い込まず、時間をかけて考えることも大切だと思います。
自分の個性は自分が一番わかりません。それでも、他の人とは違う一人の人として、親にもらった身体とDNA、さらに自分にしかない「考え方」こそが素質です。それを磨き、作られるものが才能です。才能は生まれつきのものではないのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介