演奏中に考えること

 動画は世界的なフルーティスト「エマニュエル・パユ」が語る素敵なお話です。今回のテーマは、他人からは見えない「演奏中に考えていること」です。

 ヴァイオリンを練習する生徒さんたち、特に大人の生徒さんが陥りやすい「本番になるとうまく演奏できない」というネガティブな思い込みがあります。
また、本番に限らず練習中に、なにを考えながら演奏すれば上達できるのか?という問題があります。
 人それぞれ、演奏中に考えていることは違います。同じ人、例えば私の場合は同じ曲を弾いている時でも、恐らく違うことを考えています。ですから「正解」を出すことは不可能ですが、多くの生徒さんに聞いていくうちに、あるパターンを見つけました。

 初めて練習する曲の場合、当然ですが楽譜を音にすることに集中します。楽譜を使わないで練習する人の場合は、音を探すことに集中します。この段階で、音色に集中している生徒さんは、ほとんどいません。仕方のないことですし、順序で言えば間違っていません。

 その次の段階で何を考えているでしょう?多くの生徒さんが「間違えないこと」を考えます。うまく演奏できない部分を繰り返し練習するのが一般的です。
その時にも「間違えない」とか「失敗しない」ことを考えています。
ここからが問題なのです。

 ひとつには、うまく弾けない原因を「考える」事を忘れがちです。
さらに、同弾きたいのか?を試すことが必要です。陥りやすいのが「繰り返していればいつか弾けるようになる」という思い込みです。確かに、繰り返す練習は必要ですが「どう弾きたい?」を探さずに繰り返しているうちに、ただ運動だけで間違えないようにする練習をしてる場合がほとんどです。
 練習で思ったように演奏できるようにすることは、言い換えれば自分が今、どう弾いていてそれをどうしたいのか?という根本がなければ、うまく弾けない原因も見つけられないのです。初めから「こう弾きたい」というレベルではない!と思う人も多いのですが、思ったように演奏できない原因を探すために、現状を分析することに集中すれば、自然に自分の弾きたい「速さ」や「音色」や「音量」を考えることになります。

 体調がすぐれない時、お医者さんに自分の病状を伝えますよね。
身体のどの辺りが、どう痛いとか。その症状から医師が原因を推測するために、さらに検査をします。そして出された「病因」を解決するための治療や処方をするのが「順序」です。病状がわからないと、治療には結び付きません。

 ヴァイオリンを演奏しながら、なにを考えていますか?何に集中していることが多いですか?無意識にただヴァイオリンを演奏し続けていないでしょうか?
本番で、過緊張にならないために自分を信じることができ、考えなくても自然に自分の弾きたい演奏ができる「理想」を持つのであれば、練習中には考えることが必要だと思います。次第に、考えなくても「思った通り」の演奏が自動的に出来るようになるプロセスが必要です。勉強をまったくしないで「私は東大にいきます」と思って受験しても受かりませんよね?偶然を待つのは間違いです。失敗するのも、うまくいくのも「偶然」で片づけるのは簡単ですが、努力する段階で「偶然」を期待するのは間違いです。

 私は練習中に、自分が思った通りの演奏をしている「イメージ」を作ることに努力しています。そのために、一音ずつの「理想」と「現実」を常にチェックします。本当はどんな風に演奏したいのか。今、どんな音で演奏していたか?どうすれば…弓の場所、圧力、速度、ビブラートなどをコントロールすれば出来るのか?を考えます。考えて「これかな?」と推測した演奏方法で繰り返します。違えば修正して、また繰り返します。そのイメージを頭に作ります。右手の動き、弓の動き、左手の動き、音の高さ、音色、音量を「ひとつのイメージ」にまとめる練習を繰り返します。一度に複数の事に集中することは不可能です。
「ひとつのイメージ」になれば、それを思い描き、再現することに集中することは可能です。

 音の高さだけに固執しない。弓の使い方掛けにも固執しない。
自分の「理想」をイメージするための長い道のりですが、結局のところ「思ったように演奏できた」と言えるのは「思っていなければできない」という事なのです。音の高さだけを、間違えないで演奏できてもダメですよね?いくら、良い音でも音の高さが外れていたら、これもダメですよね?それらを「合体」させたイメージを作るために、常に音に集中して練習することをお勧めします。
自分の演奏する「音」にすべての答えがあるのですから。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?初心者向けの曲が少ない?ヴァイオリン

 映像は、エドワード・エルガーの作曲した「6つのやさしい小品」という曲です。エルガーはイギリスの第二国家とも呼ばれる「威風堂々」や、「愛の挨拶」を作曲した人です。
 この曲は、1曲目から6曲目まで、すべてを「ファースト(第一)ポジション」で演奏できるように書かれています。と言うよりも、ファーストポジションしか演奏できない初心者が練習すRために作られていると言っても過言ではありません。初心者の…と言っても、音楽として考えると、とても素敵な音楽だと思いませんか?それぞれの曲は、数分で弾き終わる長さで、小節数から考えてもそれぞれ、長くても数十小節で終わります。
 最初の曲は、ほとんどの音符が四分音符で、臨時記号も数箇所だけで、あとの「幹音(CDEFGAHの白い鍵盤の音)だけで書かれています。
すべての曲が、それぞれに「目的」を持っているように感じます。
リズムと弓の配分、スタッカート、スラー、長調と短調など、ヴァイオリンの初心者に「技術」を意識せずに「音楽」として練習できる「楽曲」として完成しています。

 上の2曲は私たちのリサイタルで演奏されることの多い「歌」をピアノとヴィオラで演奏したものの一部です。ふるさと、瑠璃色の地球。
どちらも、素敵な旋律=メロディーと、これまた素的ピアノの和声=和音で作られています。特に、ピアノの「アレンジ」が歌を演奏する時の大切な要素になります。当たり前ですが、ヴィオラで「歌詞」は演奏できませんが、歌詞を意識して演奏しています。

 最後に、初心者ヴァイオリン奏者の、技術向上を目的にした「音楽」が少ない理由について考えます。
 練習用の「練習曲=エチュード」と「音階教本」は何種類も、販売されています。特に、左手の指を独立させて動かす「運動」を分類した練習用の楽譜、例えば「シラディック」や「セブシック」と言うタイトルの練習楽譜が主に使用されます。その中でも、ポジション練習のための「作品=巻」のように、特定の技術習得に特化した楽譜です。
 一方で、「カイザー」や「クロイツェル」「フィロリロ」など、練習用の「独自の音楽」を徐々に難易度を高くしながら練習できる「練習曲集」があります。
国内だと「新しいヴァイオリン教本」や「鈴木メソード」、「篠崎ヴァイオリン教本」などがすぐに手に入ります。ただ、収録されている音楽は、ヴァイオリンの技術向上を目的にした音楽ではなく、「演奏できるようになったら楽しい」という程度の段階で、曲が並べられています。特に巻が進むにつれ、有名な既成の協奏曲の一部や、小品がそのまま収録されているだけです。オリジナルの曲はほとんど入っていないのが現状です。

 音階の教本は「カール・フレッシュ音階教本」が、音階練習の「バイブル」ともいえる集大成です。すべての調で、ありとあらゆる「音階とアルペジオ」の楽譜が書かれています。一生かけて練習するための「経典」に近い?(笑)
簡単な音階の教本もありますが、本当の意味で音階を練習したいのなら、このカール・フレッシュを練習するしかありません。

 ヴァイオリン初心者に向けた音楽が少ない理由は、とても簡単です。
「作曲されていないのです。」
なぜ?世界中の作曲家たちが、ヴァイオリン初心者のための曲集を書かなかったのか?昔から、ヴァイオリンを教える先生、教わる生徒がいました。昔から「天才ヴァイオリニスト」と呼ばれる名手がいました。みんな最初は「初心者」でした。そしてみんな習ったのです。その時になんの曲を?どんな曲を練習したのか?記録がありません。ただ言えることは「楽譜を読む技術」は別のレッスンで身に着けて、ヴァイオリンの演奏技術だけを習うために「特定の音楽」がなくても練習できたということが言えます。
 ヴァイオリンの演奏技術は「ピッチの正確さ」と「ボウイングの技術」に集約されます。指導者によって、指導のプロセスが全く違います。ある先生は、ひたすら開放弦だけを練習させます。ある先生は、音階だけを練習させます。また違う先生は、持ちきれないほどの教本を買わせて練習させます。どれが正しいとは言えません。
私は「生徒の技術と知識、年齢と目的によって」指導方法を変えます。教本も変えます。楽譜の読めない生徒さん、読めなくても良いから演奏したい生徒さんなど様々です。その生徒さんに応じて、指導方法を変える「引き出し」を持つことが指導者の技術だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

簡単そう…が難しい

 

動画はアザラシヴィリ作曲の「ノクターン」をヴィオラで演奏したものです。
この曲の動画、ものすごくたくさんアップされています。プロと思しき方もいれば、趣味と思われる演奏まで。言い換えれば「簡単そうな」曲なんでしょうね。
確かに「譜面=ふづら」は決して難易度の高いものではありません。

 プロなら、どんな曲でも弾けるでしょ?
とっても答えにくい質問です。
確かに「その曲は弾けません」と答えて「プロ失格」と言われても反論できない一面があります。「弾けない」というレベルの問題なのです。
先述のノクターンを趣味で弾けるレベル。もちろん、趣味で演奏する人なら、自分自身が「ひけた」と思えればそれで良いのです。
一方で、お客様が支払ったお金に見合う演奏を求められるのが「プロ」だとすれば、自己満足は許されないと言えます。ただ、すべてのお客様が満足できる演奏、違う言い方をすれば「弾けている」と思われるか?「弾けていない」と感じられるか?が問題になります

こちらは、「チャールダーシュ」の演奏です。読み方は色々あります。チャルダッシュでも、チャルダーシュでも、読む国の人の発音で聞こえ方が違う「名前」に、異常なほどにこだわる人って、私は好きになれません。あ、話がそれました。
 この曲を聴くと「難しそう」に感じる人が、とってもたくさんおられます。
ある意味で「ありがたい」(笑)演奏会の最後にアンコールで演奏すると、まず間違いなくお客様に喜んで頂けます。何と言っても「派手!」ですから。
 変な言い方ですが、難しそうに聴こえる曲が、本当に難しい場合も当然あります。練習してみないと感じられない「難しさ」です

 食べ物に例えていうと、白いご飯を美味しく炊く難しさって、ありますよね?
もちろん、味へのこだわりによって個人差があります。シンプルな料理、簡単そうで誰にでもできそうな料理ほど、味の差を感じることがあります。
たまご焼き。お味噌汁。自分で作るカレー。それぞれの「家庭の味」があります。一方で、手の込んだ料理の場合=家庭では簡単に作れない料理の場合、それが美味しいのか?美味しくないのか?判断する以前に、あまり食べなれない料理の好き嫌いって、感じられないものです。高級なフランス料理店で食べれば「おいしいんだろう」(笑)と思うのは私だけでしょうか?

 プロの演奏に対して、お金を払って聞いたお客様が満足できない場合に、拍手をしなくても構わないと私は思っています。演奏の妨害をするのは「論外のマナー違反」ですけれど。
 アマチュアの演奏に対して、評論家ぶってコメントを書く人って、案外多いのに驚きます。プロが聴けば、アマチュアの演奏だとすぐに分かる演奏に対して「へたくそ」とか「へんなの」とか。書いている人が「へんなひと」です。
そういう人には、優しく言ってあげたいものです。「おまえ、ひけるのか?」と。自分が出来ないことを、わかった様な口調で語る人。はっきり言って「きらい」です。酔っ払いか!と言ってあげたくなります。

 演奏だけを聴いて、その人がじょうずに弾けているのか、弾けていないのか?を判断できるのは、その演奏者以上の技術を持った人だけのはずです。その演奏者よりじょうずに弾けない人が、なぜ?下手だとか、弾けていないとか、言えるのでしょうか?先ほど書いた「満足できる」という観点とは次元が違います。
好き嫌いの問題と、じょうず・へたの問題は、違うのです。
F1パイロット(レーサー)が、時速300キロ以上の速度で、他の車とぶつからずに走ることが出来るのは「技術」です。その技術を持っている人は、世界中で何百人もいないのです。中継を聴いていると「えっらそうに!」語る評論家がいると音声を消したくなります。フィギアスケートでも同じです。その選手にしかできない、あるいは現代の選手にしかできない技を、失敗したときに「あ~…回転が…」とか「ほざく」解説者様。あなた、できるんですよね?まさか、できないのに「あー」とか言ってませんよね?と思うのは私だけ?

 話があっちこっち飛びました←いつもだろ!
演奏が難しいのか、簡単なのかを判断できるのは、実際に出来るまで練習した人だけなのです。もちろん、できなくてもその練習の大変さを知ることが大切なのです。挑戦しないで「出来ない」とか「無理」とか「簡単そう」とか、思うなら自分でひいてみることです。そして、他人の演奏に対して「簡単そうなのに」とか「あの人の方がじょうず」とか、批判を口にする前に、自分でやってみることです。何度も書きますが「好き嫌い」はあって当然です。理由などわからなくて良いのです。プロの料理人が作った料理に、ケチをつける素人を「野暮」と言います。でも、有名なお店の高い料理でも「好きじゃない」ことは、言っても構わないと思います。作った人を傷つけない範囲で、です。
 長くなりましたが、音楽は演奏する人が楽しみ、聴く人が楽しむものです。
どちらかが、あるいは聴く人の中に「楽しめない」場合もあり得ます。それを「へただから」と切り捨てたり「「簡単(そう)な曲なのに」と思わないことです。楽しむ心を持ちましょう。批判しても、なにも生まれません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


好奇心と音楽

映像はメリーオーケストラ定期演奏会で恒例の「指揮者体験コーナー」
今回のテーマは「好奇心」です。音楽を演奏したいと思う人の多くが、好奇心旺盛な人だと感じています。プロの演奏家の中で、音楽以外に興味を持たない人も、まれに見かけます。ちょっと偏っているように感じることもあります。

 

 いろいろなことに好奇心を持つ人の特徴は、「飽きっぽい」ことかも知れません。「浅く広く」趣味を持つ人と「深く狭く」な人に大別されることがありますが、「広く深く」もあるでしょう。「狭く浅い」趣味の人の事を「趣味がない」と言うのでしょうね。ちなみに私は理想が「広く深く」で現実は「浅く広く」です。性格的なものかな?

 好奇心は動物が持つ本能だと思います。子犬や子猫は初めて見るものに好奇心を持ちます。学習するうちに「警戒心」が芽生え、好奇心よりも自制心が強くなります。好奇心が薄くなって、いつも寝てばかりの生活になる、人や動物を目にします。本人がそれで満足なら、他人が口を出すことでもありませんね。

 音楽を演奏してみたいと言う好奇心は、いつの間にか薄らいでしまうものです。実際に楽器を手にして、音が出た時の感動も、時間と共に薄らいでいきます。楽器や音楽への好奇心が、変化するのは当然のことです。音楽以外の事に、好奇心が向くのも自然なことです。それは、小さい子供を見ているとよくわかります。次から次に新しいおもちゃを欲しがる子供もいます。でもやがて飽きて使わなくなるおもちゃの方が多くなります。大人の場合はどうでしょうか?
 大人になってから、それまで関心のなかったことに、好奇心を持つこともあります。高齢になってから新しい趣味を見つける人もいます。素敵なことだと思います。

 一般に「奥が深い」と感じることがあります。
表面的な事と違う魅力や難しさを指す言葉です。好奇心の多くは「表面的な事」への関心です。実際に練習して初めて知る「難しさ」があります。それが新しい好奇心になれば、掘り下げることができますが、好奇心を失えばその時点で「おしまい」になります。ひとつの好奇心から、新しい好奇心が生まれ、それが続くことこそが「上達の道」だと思っています。

 プロの場合にも同じことが言えます。周りの人から「素晴らしい」と言われ慣れてしまい、自分の演奏への好奇心を失ってしまう人を見かけます。
 逆にコンプレックスばかりが強くなって好奇心を失い、音楽から離れる人もいます。
 仕事として何かをする人にとって、常にその仕事に対して好奇心を持てるか?が分かれ目になります。同じ仕事でも、見方を変えることが出来ないと、マンネリ化します。演奏も同じだと思います。

 ただ楽器を演奏し続けていても、何も変化しないと思います。
曲に好奇心を持ったり、自分の身体に好奇心を持ったり、季節ごとの楽器の変化に好奇心を持ったり。いくらでも「知らないこと」があります。
 自分の考えを変えられない「偏屈」な人がいます。良く言えば「一途」とも言えますが、頭の中が幼稚園児のまま、大人になったような人っていますよね。
 そういう人の多くは、知らない事への好奇心よりも自分の知っている世界観の中だけで満足しているのでしょうね。成長が止まっているとも思えます。

 音楽の持つ、本当の奥の深さは私にはまだわかりません。
どこまで掘り下げても、新しい「謎」が出てきます。違う場所から掘ってみると、さらに新しい「謎」が生まれます。答えのない禅問答を繰り返している気がします。
 それでも趣味の音楽を楽しむ生徒さんたちには、少しずつでも手応えのある「質問」を投げかけ続け、出来る喜びを感じ続けられるように心がけています。
教室を2004年に作ってから今日までに、800人以上の人たちに音楽の楽しさを伝えていますが、当時から今もなお、習い続けてくれている生徒さんにも、常に新しい好奇心を持ってもらえるように、自分自身の好奇心を掻き立てながら、音楽生活を送っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者から考えるコンサートチケットの金額

 動画は、私たち夫婦が毎年楽しみにしている「ベルリンフィル12人のチェリスト」によるコンサートの映像です。ここ数年、コロナの影響で開催されず、寂しい限りです。
 サントリーホールでのコンサートに、過去何回か聴きに行っていますが、A席で10,000円ほど。この金額が「高いのか?安いのか?」
 結論から言うと、私たちはこの演奏会の「対価」としての金額は「納得できる」と思っています。安いのか?と問われれば、経済的なゆとりのない私たちにとって「贅沢な金額」であることは事実です。それでも納得できるのは、なぜでしょうか。そして、自分自身が演奏会を開く際の「料金」について感じることを書いてみます。

 前提として、演奏を食職業=生活の糧とする場合と、ほかに生活できる収入や財力がある場合で、状況はまったく違います。
 それは演奏のうまい・へたの問題ではありません。むしろ、聴く側=料金を払う側にとっては、興味のないことです。演奏者がお金持ちでも貧乏でも、関係ないのです。一言で言ってしまえば、聴く側にとってみれば、1円でも安い方がうれしいのは当たり前の事なのです。
いくらなら?コンサートに行きたいと思うでしょう。
聴く人の「お財布事情」と「価値観=隙からい」で決まります。
誰でも聴くことの出来る金額は「無料」以外、いくらでも同じだと言えます。
それが500円でも納得のいかない演奏会もあれば、30,000円払っても満足感の得られる演奏会もあるはずです。人によって違いますよね。


 演奏する側から考えます。
演奏会を開くために、必要な「経費」があります。
・ホールの使用料金、付帯設備(ピアノや照明など)の料金は、自分の家が会場でない限り支払わなければなりません。
・広告宣伝費。これも、自分でインターネットで宣伝して、自分でチラシを作り自分で配らない限り、費用がかかります。当日のプログラムも同様です。
・ 当日のスタッフ人件費。家族だけですべての作業、受付、アナウンス、誘導などができるなら別ですが、普通は必要になります。ピアノの調律費用も不可欠です。
・その他に、録音したり撮影すれば当然費用がかさみます。
これらの必要経費を押さえれば抑えるほど、規模が小さくなり、演奏者自身の負担が増えていきます。逆に、経費にいくらかけても痛くもかゆくもない「お金持ち」なら、2,000人収容できる大ホールを借りて、ラジオや雑誌にガンガン!広告を出し、無料チケットをばらまき、来場者が20人でも構わないのかもしれません。人はそれを「金持ちの道楽」と呼びますが(笑)

 職業演奏家が演奏会で収益、つまり「黒字」を出したいと思うのは、当然のことです。赤字で演奏会を開く余裕のある演奏家は別ですが。
 多くの場合、音楽事務所がコンサートを企画し開催します。
事務所は利益を出さなければ運営できません。赤字になることがわかっている演奏会は開きません。若手で無名の演奏家のコンサートを企画する場合、当然のこととして演奏家に、チケットのノルマを求めます。簡単に言えば「演奏者がお金を集める」ことが、開催の条件になります。1枚、3,000円のチケットを100枚売ろうと思ったら、どれだけ大変なことか、想像できるでしょうか?音楽仲間がたくさんいたとしても、それぞれに演奏会を開くための負担を抱えていますから、生活にゆとりがなくて当たり前です。親戚が100人いる人は、あまり見かけません。音楽事務所は、その収益を事務所の経費と利益にします。さらに、大きな利益を得るために、事務所が「先行投資」して著名な演奏家を招くための「資金」にもします。つまりは「事務所の利益」に消えるのが、チケット代金だと言えます。

 自主公演という形で開くコンサートの場合。当然のことですが、会場費、広告宣伝費を増やすことは、赤字になるリスクを高めます。かといって、高いチケット代金を設定すると、チケットを買ってくれる人が減るリスクが高まります。
 「いくらに設定したら?」
極論すれば、会場費、広告宣伝費、当日の人件費がすべて「ゼロ」なら、チケット売り上げがすべて「利益」になります。先述した通り、聴く側にすれば、どこに、支払ったお金が消えていようが問題になりません。演奏に満足できれば良いのです。
 料金を上げれば「高すぎる」と言われる。安ければ「持ち出し」になる。
一体、演奏かはどうすれば?良いのでしょうか。

 コンサートにかかる経費の一部でも、自治体や国が負担してくれる「文化」が日本に芽生えるまで、あと100年は、かかるでしょう。もっとかかかるかも知れません。なぜ?そうなるのでしょうか。
 演奏家たちが、聴いてくださる方たちに実状を伝えないことに、原因があると思います。事務所に所属する演奏家が、声に出せないのは仕方ありません。言えば「くび」になるのですから。ただ、現役を退いた演奏家や、指導者、さらにはフリーランスの演奏家たちが、みんなで聴衆に現状を理解してもらう「努力」をしなければ、演奏家が「儲けている」ように思われても当然ではないでしょうか?
 なにも演奏会で「経費一覧」を公開しなくても(笑)、プログラムやチラシに、率直な思いを書いたり、トークで伝えることは悪いことだとは思いません。
どうして?この金額になるのか。チケットの収益は、いったいどこに使われるのか?それを、一般の方々に伝えなければ、私たち演奏家のしていることは、ただの「道楽」か「金儲け」としてしか理解されないと思うのです。
 演奏家も聴く人も、音楽を必要としていることを共感できる「文化」を育てることは、黙っていてはできません。
 多くの皆さんの、ご理解とご協力を頂きたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノ

 動画は以前、私と妻浩子のデュオリサイタル時に、ケーブルテレビ局「むさしのみたか市民テレビ」の取材を受けた際の番組です。
 今回のテーマは、ヴァイオリン演奏とピアノについてです。

 私たちのように夫婦でヴァイオリンとピアノの「デュオ」が出来るケースは多くありませんが、ヴァイオリンだけで曲が完成する音楽は、それよりずっと少ないのです。つまり、ヴァイオリンの曲の多くは、ピアノと一緒に演奏して初めて完成する音楽がほとんどだという事です。
 私自身、中学2年生の時に、師匠の門下生発表会に初めて参加させていただき、ピアノの「伴奏」とレッスンで「伴奏合わせ」をした時の感動を記憶しています。それまで、ヴァイオリンを弾くと言うのは「ひとりで弾く」ものだとしか考えていませんでした。ヴァイオリンの教本や練習曲を練習して、レッスンに持っていき「合格」すると次の曲に進む…。その繰り返しがヴァイオリンの練習でした。
 通っていた公立中学校のクラブ活動で「音楽部」に入り、ヴァイオリンを弾いて合奏する楽しさを、初めて知りました。それでもレッスンは「別物」でした。
 発表会でハイドンのヴァイオリン協奏曲第1楽章を演奏し、少ない伴奏合わせの後、銀座のヤマハホールで演奏したときの緊張感も覚えています。

 音楽高校に進み、年に2回の実技試験や、友人との遊びアンサンブル。その経験から他の人と共に音楽を作る、楽しさと難しさを体感しました。
 親友とのアンサンブルで、光栄なことに、演奏するアルバイトの機会も頂けるようになりました。先輩に声をかけて頂き、室内楽のメンバーに入れてもらって演奏したのも刺激を受ける学びの場でした。
 やがて「人間関係」が「音楽の核(コア)」であることを感じるようになりました。見ず知らずの人とでも演奏は出来ます。練習を重ねる間に、親しくなることもありますが、本当に心を通わせられる人との演奏とは、根本的に何かが違う気がし始めました。
 大学生時代、プロのオーケストラにエキストラとして参加させてもらったり、アマチュアオーケストラでのエキストラ、レコーディングスタジオでの演奏など、お仕事としてヴァイオリンを弾かせてもらえる機会が増えて「間違えず演奏できること」で、次の演奏の仕事をもらえることを知ります。
 それがいつの間にか、レッスンに通って合格し、次の曲を練習することと、大差なくなっていることに気が付きました。
それは私の「不勉強」と心構えの問題です。多くの仲間は、それぞれの演奏で新しい事を吸収していたのだと思います。

 20年間の教員生活を経て、再び演奏をを主体としてヴァイオリンを弾く生活に戻りました。その後、リハビリに多くの時間を費やしました。
 私たち夫婦の演奏で、ピアノを伴奏とは考えていません。
演奏形態として、ヴァイオリン独奏・ピアノ伴奏という「呼び方」は確かにあります。また、曲によっても、そう(伴奏)と呼ぶ曲もあり、ヴァイオリンソナタのように、それぞれが「ヴァイオリン・ピアノ」と独立して紹介される音楽もあります。どんな形式の曲であっても、その曲がヴァイオリンだけでは完成しない音楽である以上、「一緒に音楽を作る」意識が何よりも大切だと思っているから、「デュオ=2重奏」という紹介をしてもらっています。

 ヴァイオリンの楽譜には、ピアノの楽譜は書かれていません。
一方でピアノの楽譜には、大譜表の上段にヴァイオリンやヴィオラの楽譜も書かれています。つまり「スコア」を見ながらピアニストは演奏しています。
私の場合、ヴァイオリンやヴィオラの楽譜を演奏する事は出来ても、ピアノの楽譜をヴァイオリンでも、ましてやピアノでも演奏する技術がありません。一方で、ピアニストは、ヴァイオリンの楽譜を「ピアノ」で演奏することが当たり前のように出来るのです。
 私の場合は、自分のパートを弾けるように覚えるまで練習します。
その曲の「音源」がある場合は、色々な演奏を聴いて、自分の「弾かない音」を確かめます。音源がない場合、妻のピアノを聴いてそれを確かめます。
 そのうえで、改めて自分のパート(ヴァイオリンやヴィオラ)を練習しなおします。さらに、ふたりで一緒に弾きながら、修正をお互いの楽譜に加えていきます。

 信頼関係とお互いを認められる気持ちがなければ、ひとつの音楽は完成しません。
 それ以前に、ヴァイオリニストは自分以外の「楽器」と一緒に演奏することを前提にして練習することが不可欠なのです。
 自分「だけ」で弾けるだけでは「アンサンブル」は出来ません。
自分が弾きながら、ほかの人が何を弾いているのか?どんなリズムでどんな和声になっているのか?を聴きながら演奏する「余裕」を持たなければ、音楽が完成しないのです。ピアノを弾ける必要は、絶対とは思いませんが、せめて自分のパートを「暗譜」するぐらいの練習は必要な気がします。
 あくまでも、アマチュアの場合の話です。プロはその技術を身に着けているから「プロ」なのだと思います。暗譜しなくても、他の音を聴く技術や、楽譜を注視しながら音を聴く能力です。聴音、ソルフェージュなどの「トレーニング」は、演奏家を目指す人なら、絶対に必要不可欠だと思っています。それを学ばずに卒業できる「音楽学校」に大いに疑問を感じます。

 長くなりましたが、音楽を楽しむ以前に、挫折してしまう人が多いのが趣味の音楽です。特にヴァイオリンは、ひとりで練習していて「つならない」と感じて当たり前なのです。ピアノのように和音が演奏できるわけでもなく、音の高さが定まらず、高さを考えれば音色が汚くなる…うまくなった実感が持てない楽器だからこそ、ぜひ!ピアノと一緒に演奏する「感動」を味わってください。
その楽しみを得るために、楽譜を見なくても弾けるようになることを目標にするのも、モチベーションの維持につながると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの傷

 写真は1808年に制作された私のヴァイオリンの表側です。
楽器を美術品として考えるならば、直接手で触れず、温度と湿度を管理した状態で保管するのがベストです。
 ヴァイオリンは美しい美術品である前に「楽器」です。音楽を演奏するための「道具」だと言えます。演奏家にとって楽器は単なる道具でないことは紛れもない事実です。ましてや、使い捨てるような類のものではありません。
自分の寿命よりも長く使用され続け、人々を魅了する音を出すのが楽器ですから、楽器の一生の一時期を「使わせてもらっている」と考えるべきだと思っています。

 どんなに大切に扱っていても、楽器に傷をつけてしまうリスクをゼロにすることは出来ません。残念なことですが、ほとんどの部分が木で出来ている弦楽器の傷は、元通りに修復することは出来ません。目立たなくすることはできますが。
特に、楽器の表側に小さな傷をつけてしまうことが多いようです。
 弓には固い金属の部分があります。スクリュー(ねじ)と毛をとめている金具です。楽器に当たれば、間違いなく傷がつきます。ピチカートで演奏する時や、勢いよくアップでE線を弾ききった時などが、一番リスクのある瞬間です。
 また、オーケストラの中で演奏する時などに、譜面台の角に楽器が当たるだけでも、傷はつきます。
 演奏する時に着ている洋服の、左襟元のボタンなどで傷がつくこともあります。
 肩当ての足ゴムが古くなって劣化し、ゴムが剥がれて楽器に金属の足が当たって傷をつけることもあります。
 楽器をケースに入れていても、蓋側に入れた弓の留め具を閉め忘れ、移動するたびに振動で楽器の表板に、無数の傷をつけてしまう場合もあります。
同様に、ケースの中の小物が移動中にケースの中で動き回り、楽器に傷をつけることもあります。
 目も当てられないのは、金属製の消音器(金属ミュート)を付けたままケースに入れて蓋を占めて、駒を割り、表板を割ってしまう悲惨な事故も起こります。
 ケースの蓋を閉めても、ファスナーや留め具をとめ忘れたり、移動中に留め具が外れてしまえば、楽器が転がり出て…という最悪の事故も起こりえます。
 満員電車の車内で、「セミハードケース」と呼ばれるヴァイオリンケースを抱えてもって乗っていて、押し合う人の圧力でケースがつぶれた事故は実際に起こっています。

 楽器に傷をつけたことに、気が付かないでいることもあります。
ある時に楽器の傷に気が付いて「いつの間に?」と頭を痛める生徒さんもいます。演奏し終わって、楽器を丁寧に拭いていれば、多くの場合には気が付きます。楽器が松脂でベタベタになっていても、気にしない演奏者を見かけると、楽器が可哀そうになります。楽器を、自分の身体以上に小まめにチェックするのが、上達するうえで最低限の心構えです。

 大切な楽器を綺麗にしようと、研磨剤の含まれた「汚れ落とし」で拭くのは、ニスを痛めるので極力避けるべきです。柔らかい布で、力を入れずに優しく、松脂と手の汗を別の布で拭き取ることが最適です。
 傷だらけになった楽器を見ると痛々しいものです。「痛い」と声を出せない楽器だからこそ、愛情をもって扱ってほしいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

子供たちに平和と音楽を残したい

 NPO法人メリーオーケストラは「子供の健全な育成」と「音楽の普及」を目的として活動をしている団体です。
 子供と音楽と聴くと「音楽教室の話?」と思われそうですが、全く違います。
世界が平和でなければ、子供は生きていけません。
世界が平和であれば、音楽をいつくしむことができます。
子供が嫌いな人や、平和を求めない人がいたとしても、今、生きている大人は
「もとは子供」だったのです。平和だったから、今、生きていられるのです。

 音楽を戦争のために使った歴史がありました。「軍歌」です。
不幸な歴史です。日本に二度と軍歌が流れないことを祈っています。
動画で子供たちが純粋な気持ちで歌っている歌詞の中に
「世界中の 希望 乗せて この地球は まわってる」
未来を一番享受できるのは?子供です。大人の責任は、子供たちに未来を残すことです。身勝手な屁理屈を並べ、他国の人を悪く言う大人が、子供たちに明るい未来を残せるはずがありません。

 「子供のために戦うんだ!」というセリフは、綺麗に聞こえるかもしれませんが、共存する知恵を働かせることの方が大切です。
「助けあう」「支えあう」「認め合う」ことが音楽の基本です。
憎しみあい、否定しあう人が誰かと音楽を演奏しても、「軍歌」以外の音楽を演奏できるとは思いません。
子供たちに、笑顔で音楽を演奏できる環境を残すために、必要なのは
「核兵器」ではないはずです。助け合い、支えあい、認め合うことを「お花畑だ。きれいごとだ」と罵られても、私は構いません。それが出来なければ子供たちの未来がないと、私は信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

音楽家 野村謙介

日常生活と趣味の楽器演奏

趣味で楽器の演奏を楽しむ人にとっての日常生活。
楽器の演奏や指導を職業にする人の日常生活を考えます。
当然のことですが、どんな職業の人にとっても、身体的に精神的に健康であることが何よりも優先されます。そして、経済的なことや家族同士の関係も日常生活から切り離すことはできません。
 コロナ禍で収入が減少した人は、音楽家に限らず日本中にいます。
また、物価が高騰し日々の生活に困窮する人も増えています。
先行きが見通せない今、趣味どころではないという人が増えているのも事実です。
子供を持つ家庭なら、進学や進路について家族ならではの心遣いがあります。
受験を控えた子供が、趣味を我慢して頑張っている姿に協力しない家族はいません。
そうした日常生活の中で、楽器の演奏で得られるものは、なんでしょう?

 そもそも趣味は「楽しみ」です。極論すれば、いつやめても困らないのが趣味です。ただ、趣味のない生活が味気ないものに感じる人も多いと思います。
生活の為に必要な職業や、家事、育児、学業。それとは違う「息抜き」が趣味です。スポーツで体を動かす趣味もあれば、旅行や読書を趣味にする人もいます。
人それぞれの「楽しみ」があります。楽器の演奏を楽しむ人でも、色々な楽しみ方があります。
楽器を気ままに弾いて、楽しむ方もいます。
だれかと一緒に演奏する「合奏」を楽しむ方もいます。
多くの方は前者だと思いますが、ヴァイオリンはひとりで曲が完成しないことは、以前のブログに書きました。
それでも、ヴァイオリンの音を出して好きな曲を気ままに演奏するのは、楽しいものです。
職業ヴァイオリニスト(固い言い方です)は、楽しくなくても、仕事として楽器を弾くことが求められます。好きな音楽とは限りません。それが一番大きな違いです。

 日常生活の中に、楽器を演奏して楽しむ時間のゆとりが…ある人の方が少ない現代です。事実、ピアノを習っている子供の数は、減少し続けています。
音楽を習うことが、子供の情操教育になるとは限りません。
ただ、現実として楽器を習い続けている子供の「学力」が高いことは事実です。
楽器を練習するときの脳の使い方も、時間のつかいかた、集中力の維持、など様々な理由が挙げられます。頭をよくするため、東大に入れるために音楽を習わせても「無意味」ですので誤解の無いようにお願いします。
大人の場合、周囲に気を使いながらの楽器演奏になります。家族の理解と協力、さらには環境が揃わないと難しいのも現実です。
楽器を演奏することを「楽しい」と思える生活が、なによりも大切です。
 うまくならなくても、いつも同じ曲でも楽しめれば「趣味の演奏」です。
自己満足で完結できるのが「趣味」です。
ひとりでも多くの人が、演奏を楽しんでもらえる生活ができる「日常」が、戻ってくることを祈っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏と身体の動き

上の動画、ユーディー・メニューインとヤッシャ・ハイフェッツの演奏です。
私たちが学生の頃、動画などなく、レコードと書籍でこの「神」たちの演奏を学びました。特に、メニューインの演奏方法について、日本語訳の本を何度も読み返しては「はぁぁ~」と心が折れた記憶があります。ヨガの呼吸法…鼻が詰まってできなかった。それはさておき、共通するのは身体の動きと、楽器の動き。
体幹が目で見えそうなくらいの「軸」があります。楽器と身体の「位置関係」が微動だにしません。どんなパッセージでも、それは変わりません。

 こちらは、ギドン・クレーメルのブラームス。一見すると、無駄に上下に動きすぎているように感じますが、よーく見ると、楽器と身体がまるで一つの「柔らかい塊」のように動きます。ちなみに、クレーメルが口を開けて弾いている姿、見慣れない人には「あご、外れた?」とか「鼻づまり?」とか。私は学生時代、師匠に「奥歯を噛んで弾いちゃダメ」と注意され「時々、口を開けたまま弾いてみなさい」と言われました。そのまんまクレーメル(笑)上半身に力を入れず、常に楽器と共に自然に動くことができるクレーメル。すごいです!

 そしてマキシム・ヴェンゲーロフのシベリウス。
自由気ままに動いている?いーえ。彼の動きには、彼の「音楽へのこだわり」がそのまま表れている気がします。頭の角度が極端に変わるのは、ヴェンゲーロフが意図的にそうしているのか、それとも無意識なのか、私たちにはわかりません。

 極めつけ、アンネ・ゾフィー・ムターのメンデルスゾーン。
どこから見ても「肩当て」が見当たらない。
しかも、肩は「素肌」の状態。男性なら上着の鎖骨部分に、「ウレタン」を入れて高さを出せますが、女性のこのドレスで、どうやって?楽器を保持できるのか。謎なんです。身体が動いても、どんなに左手のポジションが動いても、ヴァイオリンが「浮いている」としか思えないのですが。

 まとめますが、演奏中に身体が「動く」ことを良しとしないヴァイオリニストもいます。逆に動いても良いと言う人もいます。ただ、演奏は「音」が本質なのであって、表情は本来音楽とは無関係です。その表情に魅力を感じる人もいらっしゃいます。下の動画、好きな人!ちなみに音はありませんので。

 いわゆる「ビジュアル系ヴァイオリニスト」さまです。なぜ?そこに目線?なぜ?口が半開き?なぜ?腰をくねらせる?なぜ?首を振る?
ま。好きな男性に聴かないとわかりません。


 音楽と身体は「一体」のものです。分離はできません。
演奏するために必要な動きは止める必要なないと思います。
有害な動きはとめるべきです。
多くのアマチュアヴァイオリニストが「恥ずかしいから動かない」のですが、
自然に体を動かすことは、必要な練習です。ダンスにさえ、ならなければ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介