ヴァイオリン演奏時の「音量」を考える

 映像は、先月木曽福島で演奏した際にコンサートを主催した教育委員会がホームビデオやスマホで「客席」から撮影・録音した映像をつなぎ合わせたものです。当然、録音用のマイクも使用せず言わば「客席で聴こえあた音」に近い状態の動画です。周囲の雑音も録音してしまいますが、会場で響く「音」を演奏者が直接聞くことは不可能です。どんなバランスで?どのくらいの音量で?お客様に聴こえているのか?知りたくても実際にその場で確認することは出来ません。だからこそ、経験をもとに「勘」で音量を決めるしかないのです。会場によって、ピアノとヴァイオリンの「聴こえ方」が違います。客席の場所によっても変わります。それらすべてに対応することは現実的に無理です。一方でレコードやCD、テレビ放送の「録音」の場合、ソリストの音を大きく録音できます。バランスを演奏の後からでも変えられるのが録音です。一昔前、ピアノとヴァイオリンの録音をするときには、ピアノを遠くに配置し、ヴァイオリンの近くにマイクを立てて録音しました。そうすることで「バランス」を作っていました。
 つまり私たちが家やスマホなどで聴く「バランス」は実際にホールで聴くバランスとはまったく違うものが殆どだと言う事です。
 考えてみれば「ヴァイオリンコンチェルト」では、ソリスト以外にヴァイオリン奏者がファースト・セカンドそれぞれに、10人以上、合計すれば20人以上のヴァイオリニストがソリストのヴァイオリンと「同時に」演奏するのです。どんなヴァイオリンであっても、通常のヴァイオリンの20倍の音量が出せるヴァイオリンは地球上に存在しません。あるとしたら「エレキヴァイオリン」です(笑)

 大ホールで編成の大きなオーケストラとソリストが共演する…収益率を考えれば集客力の高い「有名ヴァイオリニスト」であればあるほど、大人数を収容できる大ホールを選ぶのが現代のコンサートです。ただ、聴く側の立場で考えた場合、どんなに優れたヴァイオリニストの演奏でも、例えば4階席の一番後ろの席から舞台上のソリストを「オペラグラス」で見るようなコンサートが楽しいでしょうか?東京ドームや武道館での「ライブ」の際に「5千人」「2万人」の人が集まって「聴くことができる」のは音響技術=P.A.があるからです。電気的に増幅した「声」や「楽器の音」を会場中に設置したスピーカーから大音量で鳴らします。確かにテレビやヘッドホンで聞くより「大迫力」の音量です。そう上に、会場中の人と一体になれる興奮を味わえるのもライブの醍醐味です。
 クラシックのコンサートにもこの「大会場」を持ってこようとするのは、無理があると思いませんか?事実、3大テノールのコンサートや、野外に巨大なテントで屋根を作ったオーケストラのコンサートでは「マイク」を何10本も立てて収音し、ライブと同じ「音響装置」で会場や屋外で聴く人に「電気的な音」を大音量で聴かせたものもあります。
 これはクラシック演奏の概念を変えるものです。仮にマイクで収音し、ミキサーやエフェクターを通して音を増幅するのであれば、ヴァイオリニストに「音量」を求める必要がありません。クレッシェンドだろうがピアニッシモだろうが「ミキサー」が操作すれば簡単に、かつ物凄い音量変化量でお客様に音を届けられます。音色も機械で操作できます。
 バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの時代から、現代の作曲家に至るまで「アコースティック演奏」つまり、生の音で演奏を楽しむ前提で楽譜が書かれています。
 いつの間にか「録音技術」が生まれ、次第にアコースティックから「電気的な細工」をするのが当たり前の時代になっているのです。「私は生演奏しか聞かない!」と言うクラシックの演奏かは、いないはずです。若い頃に、カセットやラジオの音で勉強したのではないですか?文明を否定するのは愚かなことです。その時代の文明…録音技術や機械技術、製鉄技術の発展で、楽器も進化しています。
 とは言え、クラシックの楽譜は生身の人間が演奏した音を、楽しめる「容積=大きさ」の場所で演奏することが前提のはずです。
 500人収容のホールでも、一番後ろの席で聴く音は、楽器が出す「直接音=ダイレクト」な音ではありません。反射音です。それ以上大きなホールなら、さらに小さな音しか客席後方には伝わりません。
 ヴァイオリニストに「大音量」を求めるのは間違っていると思います。ピアノと一緒に演奏して、100人ほどのお客様で満席になる程度の「容積=大きさ」の会場で、お客様が気持ちよく音楽を聴くことができる「音量」があれば、十分だと思っています。それ以上の音量が必要なら、マイクで収音すればよいだけです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

柔らかさと安定感と力のバランス

 映像はオイストラフの演奏するブラームス、ヴァイオリンコンチェルト。音色の柔らかさと力強さが大好きです。丸々とした体形はドラえもんチック(笑)ですが、時にシリアスに時にメランコリックに、ダイナミックにも演奏できる技術。憧れます。
 今回のテーマは「柔らかさと「安定感」と「力」について、。関連のなさそうなことですが、演奏する上で身体(筋肉と関節)を動かす時に常に考えなければならないバランスです。

 ます「柔らかい物」で連想するものは?
マシュマロ・プリン・つきたてのお餅←食べ物ばっかり(笑)
 手触りとして感じるものに、ふかふかのお布団やモフモフの猫や犬の毛、泡立てた石鹸などが連想できます。その「柔らかい物」を強い力で押せば?潰れてしまいます。また、柔らかいものを動かせば?ふわふわと不安定な動きをします。
 つまり「柔らかさ」と「力強さ」「安定感」は反比例することになります。
 固いものならば、強い力に耐えることができ、安定した動きを続けることが可能です。
ならば、演奏中の「筋肉・関節」は固い状態=力を入れた状態の方が、安定感と力強さを両立できることになる気がしますよね?実際にはどうでしょうか。

  映像は男子の「床」演技。どの技をひとつとっても見ても、素人の真似できそうな技はありませんが(笑)身体の柔軟性と、スピード(瞬発力)、力技、バランス感覚など人間の肉体が持っている「運動能力」がすべて疲れている気がします。ヴァイオリンの演奏と比較すること自体、間違っている部分もありますが、テーマを考えると?同じことが楽器の演奏にも求められていることがわかります。「固い=安定」ではなく、「柔らかい=與斉」でもないことが見てわかります。
 ヴァイオリニストの中には「見た目には柔らかそう」な動きをしているのに、音が硬く美しさに欠ける演奏になっている人の演奏も見受けられます。「見た目」と「筋肉・関節柔軟性」は別物です。力にしても「表情」や「雰囲気」と無関係にか細い演奏もあります。

 楽器を演奏するために必要な柔軟性と強さは、一般的な秋力や背筋力、体前屈などでは測れないものが多くあります。むしろ、計測できない柔らかさと筋力が必要になります。
 一つの例が、指を「開く筋肉」です。握力は「握る力」ですから真逆の力です。
 また、肘を「伸ばす力」も一般のトレーニング機器ではなかなか鍛えられません。「カール」の逆の力です。外側に開く力でもあります。
 手首を横に動かす可動範囲を広げることも柔軟性の一つです。掌を下に向けて、左右に動かせる角度の大きさです。

 柔らかい動きを作り出すのは「太く柔らかい筋肉」です。同じ筋肉を瞬間的に速く動かす時にも「瞬間的に力を抜かための筋力」が必要です。
 演奏しながら身体の「どこか」が筋肉痛になることがありますよね?間違った使い方でいたいのか?正しい使い方をし始めたから痛いのか?見極めることが大切です。
 筋肉は一朝一夕には太くなりません。柔らかくもなりません。演奏補法を変えれば、今までと違う場所が筋肉痛になるものです。
身体を労わりながら、必要な「ストレッチ」と「筋力の増強」を考えた練習をしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

ヴァイオリンを「習い」「教える」

 今回のテーマは、自分を戒める気持ちを込めて書きたいと思います。
 ヴァイオリンに限ったことではありませんが、「楽器の演奏を習う」時、師匠(先生)と弟子(生徒・門下生)が存在します。誰にも習わずに、独学で演奏技術を身に着けられる人もいます。それらの人の事を「自己流」と呼びますが、実はどんな演奏かも最終的には「自己流」だと思います。師匠の弾き方を真似をしても、それは「真似」でしかありません。師匠が考えて到達した演奏方法や解釈を「真似」することを「習う」と言うのでしょうか?疑問を感じます。

 芸は盗むもの…古典芸能は「一子相伝」の部分もあります。習って身につくものではないという考え方は、ある意味で的を射ています。「教えてもらえば(習えば)師匠のように出来るようになる」と言う、弟子(生徒の)の安直な気持ちを戒める意味でも正しい事だと思います。

 ヴァイオリンを「習った」私が、今現在生徒さんに「教える」と言う事の意味を考える時に、本当に正しいことを教えているのだろうか?と言う疑問を常に考えてしまいます。
私の恩師は決して音楽を「押し売り」されませんでした。冒頭の長沼由里子さんは同門の尊敬する大先輩のおひとりです。長沼さんに限らず、私の恩師である久保田良作先生は素晴らしいヴァイオリニストでありながら、ご自身のヴァイオリン演奏を弟子に押し付けられたのを見たことがありません。レッスンでは素晴らしい声でフレーズを歌って教えて下さることが多かったのを記憶しています。もちろん、先生ご自身のヴァイオリンを手に取って「サラッと」弾いてくださることもありました。でも、決してその演奏方法を「こう弾きなさい」とは仰いませんでした。
 もっぱら指摘されるのは「形」「力」時に「姿勢」でした。発表会で演奏し終わった後の「天の声」先生からのメモにも「ひじ」「手首」「首」などの言葉が書かれていました。

 演奏の「テクニック」「解釈」も最終的には自己流になります。筋肉の付き方、骨格、柔軟性などが「全く同じ」人は一卵性双生児かクローンでなければあり得ません。
 自分が最も「演奏しやすい」方法で演奏することを「自己流」と考えるのは自然なことです。自分と違う筋力・骨格の生徒さんに、自分の演奏方法で演奏させることが「正しい」とは思いません。生徒さんができ鳴った時に「できなくて当たり前」つまり、自分とは身体の作りそのものが違う事を理解してから指導すべきです。
 習う側…生徒の立場で考えれば「出来ない」原因と「出来ているつもり」で実は出来ていないことを指摘してもらえるのが、レッスンの意味だと思います。
 出来ない原因の多くは、先述の通り「骨格・筋力」の違いと「動かし方の違い」です。以前のブログで書いた「脳からの指令」つまり考えて身体を動かす訓練は、どんな運動にも必要だと思いますが、肝心の「運動能力」はすべての人が違う身体で、違う能力を持っています。
 練習によって出来るようになることなら、教えても良いと思います。ただ、その練習で生徒さんが不必要に苦しんで、さらにストレスを感じ、最終的に楽器の演奏から離れてしまう悲しいことになるケースも見られます。
 「教えてはいけないこと」もあると思います。それは「考えることを省かせる」結果につながる内容です。例えば「音楽の解釈」もっと具体的に言えば「歌い方」「音符の長さ」「ルバート(自由に揺らす演奏)の仕方」などを安易に真似させれば、生徒は考えずにその通りに演奏するでしょう。そして「うん。これが良い」と思えば、教える側も嬉しくなってしまいます。「ネズミにチーズを一切れ与えれば?」当然、次のチーズをもらいたくなります。自分で考えることこそが「自己流」である演奏技術につながることです。
 生徒さんに教えて良い事とは?
哲学的になってしまいますが「真理」だと思っています。どんな人にも共通すること。それは科学的にも肯定されること。それが真理だと思います。人によって少しでも「意義」の違う事や、物理的に違う「筋力・骨格・柔軟性」は教える対象ではないと思います。「これがいいでしょ?」と先生に問われれば「いいえ」とは答えにくいのが生徒です。「よくなったよ」と先生に言われれば嬉しくなるのも生徒です。問題は「生徒自身で考え、行きついた演奏技術」なのかどうかです。成長の途中、上達の半ばにいる生徒にとって「藁(わら)にも縋(すが)る」気持ちになるのは自然なことです。だからこそ、教える側の責任は重たいのだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンを持ち替えて起こる混乱

 上の写真、私が13歳から50年間愛用しているヴァイオリンと、陳昌鉉さんが晩年作成された(2010年頃)木曽号というヴァイオリンです。木曽号を使っての演奏を、長野県木曽町から依頼されて今回で3年目の演奏会ですが、今回「楽器の微妙な違い」が演奏する際にどんな影響を与えるのか?について「言い訳がましく」(笑)書いてみます。

 演奏技術の中で「楽器が変わっても慣れる技術」があるのかどうか?少なくとも、私のように1丁のヴァイオリンだけで演奏活動をする人間にとって「別のヴァイオリンになれる」必然性がないのは事実です。ただ、多くのヴァイオリニストの皆さんが「買い替える」場合やスポンサーから「貸与」される場合もあります。買い替えれば、それが「自分の楽器」になるのですから、慣れることは必須条件です。またストラディヴァリの楽器を貸与されるようなソリストの場合にも「楽器に順応する」技術が必要です。そのストラディヴァリの楽器を含め「楽器ごとの微妙な違い」があります。

 演奏する上で最も問題になる違いは「ネックの太さ」「正確なピッチを出す位置=駒と上駒(ナット)の距離」「弦高=指板と弦の隙間」です。この他の違い…例えば「重さ」や「ニスの色」などの違いは演奏に関わりません。
 ゆっくりしたテンポの曲であれば、上記の違いはそれほど問題になりません。「狙う」時間があるからです。修正する時間もあります。
 一方で「速い動き=短い音符が連続する」場合にはピッチの安定性が困難になります。
 すべての楽器で「ポジション=弦を押さえる位置」で半音の幅・全音の幅が「ごく僅か」に違います。それを瞬間的に完璧に把握し続けるのが最も難しいことです。

 一つの楽器に慣れるために「必要な時間=練習」は、普段使っている楽器との「差」にもよります。違いが大きいほど、慣れるための時間が多く必要です。
 今回、11月18日に木曽福島で演奏した後、12月17日には地元でのデュリサイタルで「自分のヴァイオリン」を演奏する日程で、あまり木曽号に「入れ込む」のも無理があります。同時期に複数のヴァイオリンで演奏することは避けるべきかもしれませんが、どちらも大切な演奏の機会です。挑戦します!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と身体の「同期」と「独立・分離」

 映像は10年前のデュリサイタルで演奏した、サラサーテのツィゴイネルワイゼン。
代々木上原ムジカーザでの演奏です。
 今回のテーマは、多くの生徒さん…特に大人の生徒さんたちが頭を悩ませる内容です。

 まず音楽を演奏する時に使う身体との関係です。どんな楽器でも声楽でも「身体」のどこかを使って音楽を演奏します。コンピューターが自動的に音楽を演奏してくれる状態は「演奏」とは言いません。敢えて言うなら「機械の操作」です。
 音楽を演奏する人にとって、自分の「身体の「どこ」を「どう」動かすのか?そしてそれが「思ったように」動いているか?を常に考える必要があります。「無意識」に身体の一部を動かすこともできますが、まず!自分の意識で筋肉や関節を「思った通り」に動かせるようにする訓練が必要です。
 演奏を「運動」として捉える時に「音楽との同期」を考えることが先決です。わかりやすく言えば「音楽と身体の動きを紐づける」ことです。小さな子供が音楽に合わせて体を動かしたり、首を激しく振ったり、手を叩い理するのも「音楽に合わせて体が動く」ことの表れです。逆の例え話だと、音楽に合わせて手拍子をしている人の中で、少しずれている人が必ずいるものです。

 音楽を聴いて「感じる」もの。耳が聞こえる人なら「音=空気の振動」で、耳の聴こえない人なら「身体に感じる振動」です。
「音」と「音楽」の違いがあります。音は音楽とは限りません。車の走行音、鳥の鳴き声などを音楽とは感じません。音楽に感じるかどうか?は個人差もありますが、ほとんどの人…音楽を普段聞かない人も含めて「音楽」に感じるのは「メロディーに聴こえる音」「和音に感じる音」が聴こえた場合です。メロディーとは「音の高さとリズム」で創られます。
しかも「ランダム=不規則」に音の高さと長さ(リズム)を組み合わせた「音の連続」は音楽に感じる人はごくわずかです。
 また同じ高さの音を同じ長さで、延々と繰り返していると「何かの機会の音」に感じます。電話の「話し中」の音や、アラームの「ピピ・ピピ・ピピ・と言う音に感じます。
 和音は「異なる高さの二つ以上の音が同時になったときに響き」ですから、半音違う二つの音が同時になっていても「和音」です。

「聴きなれた和音」例えば「ドミソ」のような音の重なりを聴くと、音楽を知らない人でも、何の音か?わからなくても「安心感」「親しみ」を感じます。 

 音を音楽として感じられた後の「感覚」として、速さ・強さ・明るさを感じられます。
 速さは「音の長さ・短さ」でも感じますし「拍と拍の間隔」にも左右されます。さらに言えば「楽譜で見た目」の速さと実際の演奏で感じる「速さ」は別のものです。
 冒頭の動画「ツィゴイネルワイゼン」で後半に演奏するヴァイオリンは「速い」と関zる部分です。演奏する「テンポ」を変えれば、遅く感じます。当たり前です。

 音の大きさは「生」で聴く場合と「録音」を再生して聴く場合で全く違います。生で聴く場合も「大ホール」の後ろで聴く場合と「サロン」で目の前の演奏を聴く場合で違います、
 「明るさ」は音楽的に「長調・長音階・長三和音」として判断できる人は限られています。「なんとなく」感じるのが音楽の明るさです。本来「調性」とは無関係の「ゆったりした静かな音」は暗い…と思われがちで、「速く大きな音の音楽」は明るいと勘違いする人もいます。歌詞がある「歌」なら歌詞の内容や歌い方でも暗いと感じる人もいます。

 演奏する人が音楽に合わせて動けるか?感じた「明るさ」「強さ」を身体で表現できるか?を考えます。例えば「振付」や「ダンス」を真似事でも良いので考えることができるか?という事です。激しく速く明るい音楽を「身体全体」を使って表現するとしたら、どんな動きを想像しますか?逆に、緩やかで穏やかな暗い音楽を表現するとしたら?
 まずは「ここから」だと思います。

 自分が演奏するわけですから、自分の「頭の名K」で決めた「速さ・大きさ・明るさ」を自分の身体を動かして楽器を演奏することになります。頭の中にそれらがなければ?ただ、「音が出た」と言う結果だけが残ります。出してしまった音に「同期」することは不可能です。なぜなら「同期」するためには「予測」が不可欠だからです。次に演奏🅂る「音」の「時間」「大きさ」「明るさ=音色」を決めてから演奏することが「音楽との同期」だからです。誰かが演奏する生音楽に、完全に同期させることは物理T劇に不可能です。当たり前ですよね?予測できないからです。「聴こえた音に反応する」のでタイムラグが起きます。つまり「遅れる」か「飛び出す」ことになるのが当たり前なのです。偶然にタイミングが合うこてゃあり得ても、それは「まぐれ」です。同期とは言いません。

 最後に「独立・分離」の話を書きます。
一般に体は「同時に同じ動きをする」ものです。例えば、右手と左手で同じ「グー」「チョキ」「パー」を続けて出すことは誰でもできます。でも右手と左手で、いつも違うグー・チョキ・パーを続けることはものすごく難しいことです。
 ヴァイオリンの生徒さんの多くは「右手と左手」が一緒に動いてしまいます。例えば、弦を押さえるのと同時に「弓を返す」こてゃ出来ても、「先に弦を押さえたり離したりする」つまり、右手が止まった状態で左手の指だけを動かすことが出Kないのが普通です。
 スラーの場合は、右手を動かした状態で左手を動かすので「何とか」出来ても、移弦を交えると右手の移弦の運動とスラーが「分離」出Kません。さらに左手の動きとスラーが無意識に同期=一緒に動いてしまいます。
 私たちが日常生活の中で、左右の手足・指・声・注視するものなどを「バラバラ」に動かしている場面があります。車の運転、自転車の運転、原稿を読みながらのスピーチなどが思い浮かびます。

 運動神経と呼ばれるものにも「瞬発力」「持続力」「反応速度」などがあります。
音楽家に「運動音痴」が多いのも事実です。幼いころ個から楽器だけを演奏し、球技は「柚木を痛めるから御法度」(笑)で育った人も多いので仕方ありません。
 キャッチボール、サッカーをして遊び、縄跳びや跳び箱は小学校の体育の時間に習います。球技の場合は「予測」と「反応」が重要です。ボールが飛んでくる場所を予測し、そこにグローブやバットを出すと言う一連の運動です。
 他人の動きを「予測する」「反応する」ことが求められるスポーツの代表が、ボクシングだと思います。いくら腕力が強くても相手の動きが「読めない」ボクサーは勝てません。
 他人とシンクロするスポーツの一つが「シンクロナイズドスイミング」と「新体操」です。音楽に合わせて全員が「それぞれに」動く。音楽の「拍」を予測する能力と、身体を同期させる技術が不可欠でです。
 スポーツではありませんが「マーチングバンド」の場合にも楽器の演奏をしながら、歩幅を完全に一致させながら「歩く」「曲がる」「止まる」ことが求められます。

 楽器を演奏する時、音楽を聴いて楽しむ場合とは異なる「運動の制御」が求められます。
1.自分が作りだす「体内時計=インターナルクロック」は演奏する前から始動させます。
2.自分が作った「速さ=流れ」が決まったら、音を出す」前」から運動を開始させます。実際に指や弓を動かす運動ではなく「音を出すための予備運動」です。「力を貯める」「動きながら音を出す」「ヴィブラートをかけは踏める」なども予備運動です。
3.音を出しながら次の「運動」を感が増す。当然「今現在、出ている音を聴きながら」の運動です。
4.運動を意識して音を出す練習を繰り返すことで、意識しなくても運動を同期・分離できるようになります。習得に係る時間は様々ですが「必ず」出来るようになります。
5.演奏しようとする音楽・音と、そのために必要な予備運動と実際に音を出す運動、さらに次の音への「リレーション」を、「音色」「音量」「ピッチ」それぞれに考える習慣をつけましょう。
 大切なことは「音を出してから考え・動く」のではなく「考え・運動を開始してから音を出す」ことです。聴いている人には「突然始まる」音楽であっても、演奏者には「その前」が必ずあるのです。

 違う言い殻を擦れば「音を出す目の運動があって音を出す運動につながる」のです。
 手漕ぎボートを想像してください。ボートが進む=動くためには、オールを自分の身体より「後ろ」の水面に沈めなければ、水を「掻く」ことは出来ません。
 演奏中、常に「音」の前に予備運動があり、音を出す運動も様々な筋肉や関節を「バラバラ」あるいは「同時」に動かす技術が必要になります。常に自分が「音の前に居る」意識を持つことが大切だと思っています。

 下の演奏は、作曲者サラサーテ自身が演奏しているツィゴイネルワイゼンの雑音を消去したものです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色の融合=音楽の色彩感

 映像はメリーオーケストラの演奏するラヴェル作曲の「ボレロ」です。オーケストラは数多くの、音色の異なる楽器が「同時に演奏」されることで、音色が融合するのが特徴です。同じヴァイオリンでも少しずつ音色が違いますが、たとえばフルートとヴァイオリンは、音域的に近くても「音色」が全く違います。ファゴットとチェロも音域は近い楽器です。クラリネットとサキソフォンは「リード」で音を出すことは同じですが、楽器の材質が違い、音色は似ていますが良く聴いてみると違います。ラヴェルはオーケストレーションの魔術師だと思っています。音色の融合に関して、独特の美しさを感じます。

こちらの映像は、ピアソラの作曲した「タンゴの歴史」から「カフェ」と「ナイトクラブ」をヴァイオリンとピアノで演奏した動画です。先ほどのオーケストラと比較して「楽器の種類=音色の種類」はたった二つですが、「それもいい!」と思うのです。
 ピアノだけの演奏になれば、さらに楽器の音色は1種類になりますが、「これもいい!(笑)」のです。
 ボレロで感じる「色彩の豊富さ」は、楽器の種類が減れば当然に少なくなります。聴く人にとって「多彩な音色」を楽しめるのがオーケストラの演奏だとすれば、「単色の絵画」例えば水墨画の美しさが、ピアノ1台による演奏に感じられます。
 ピアノとヴァイオリンで演奏することの多い「ヴァイオリン小品」や「ピアノとヴァイオリンの為のソナタ」を考えると、「2色」で描かれた絵画に近いものがあります。
 ヴァイオリンとピアノの2種類の音色が溶けて、新しい一つの音色になります。
 二つの楽器の「バランス」で音色が変わります。これは実際の「色」で例えればよくわかります。赤と白の絵の具を混ぜた時を考えてみれば、「薄いピンク」もあれば「赤に近いピンク」も作れます。繊細な色の違いを楽しむことができます。
 また、演奏の仕方によってヴァイオリンの音色を明るくしたり暗くすれば、また新しい色が生まれます。
 ピアノとヴァイオリンの「音」は以前にも書いたように「波形」が違います。「打弦楽器」と「擦弦楽器」は、音を出す仕組みが違います。同じ「弦」と言っても、ピアノは「ピアノ線=鋼鉄のスチール弦」であり、ヴァイオリンは「ガット=羊の腸の周りに金属の糸を巻き付けた弦」です。ヴァイオリンのE戦は全体が金属で出来ていますし、演奏者によってはE戦以外にも「スチール弦」を使用する人もいます。好みの問題です。
 ヴァイオリンの弦をスチールにしたからピアノと音色が似るわけではありません。
 さらに厳密に言えば、ピアノは「平均律」で調律されます。ヴァイオリン「単体」で演奏したり、弦楽器・管楽器だけで演奏する時には「純正律」でチューニングします。ほんの少しの「音の高さの違い」ですが、ピアノとヴァイオリンで演奏する時に、ヴァイオリンのG線の開放弦=最低音のソを、純正律で完全5度の組み合わせにして調弦=チューニングしていくと、明らかにピアノの「G=ソ」と違う高さになります。同じことはヴィオラの最低音C=ドでも言えます。ピアノの調律を変えることは不可能ですから、ヴァイオリン・ヴィオラが必要に応じて最低音を少し高くして、ピアノに合わせた方が、聴いている人には心地よく聴こえます。もちろん、そこまで気にしていないお客様の方が多いのですが(笑)演奏者として「気になる」のも事実です。

 最後に「音量差」「音域の違い」について少しだけ触れます。オーケストラの「音量差=ダイナミックレンジ」とヴァイオリン1丁のそれは、「天と地」ほど違うのは当たり前です。そもそも、ヴァイオリンだけで10人演奏するオーケストラなら「音量の差」が最大で10倍になるのです。さらに管楽器、打楽器が加われば…。
 ピアノは「ピアノフォルテ」と言う名前がある通り、時代と共に構造が変化する中で「音量差」「音色の豊富さ」が格段に増えた楽器です。鋼鉄のフレームで30トン以上の張力に耐え、羊の毛=フェルトを2トン以上の力で圧縮したハンマーを使う事で「音量」「音色」「音域」に広がりができました。
 ヴァイオリンは300年以上前から「弦の種類」以外は大きく進化していない楽器です。
 音量・音色・音域が、ほぼ300年前と大差ないという事になります。
 言ってみれば、クラシックカーと最新のスポーツカーが同時にサーキットを走っているようなものです(笑)
 どんなに演奏者が頑張ったとしても、ピアノの性能に勝てるはずがありませんよね。
 それでも聴いていて「新しい音色」になるのが音楽の良さです。車のレースと違い、200年以上の「進化の違い」があっても、一緒に演奏出来て、自然に聴こえるのが音楽の楽しさです。
 ある音楽が作られた当時に使われていた楽器を使用して演奏する人たちが世界中に居ます。「それも」楽しいことです。それが「正しい」とも思いません。当時でも「当時の最新の楽器」を用いて演奏していたのですから。
 複数の楽器の「融合」は、二人以上の人間の「共存」でもあります。演奏者同士の「気持ち」が融合することが何よりも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

子供と大人の「緊張」

  映像は保護者の方の同意を頂いて使わせていただいた、小学校2年生の生徒さんが演奏する動画です。エルガー作曲の「6つのやさっしい小品」です。幼稚園の頃からヴァイオリンを教えているのですが、レッスンに同伴されるお母さんに「言いたい放題」の甘えん坊=反抗的な幼児(笑)のまま小学生になりました。これまでにも、多くの「絶賛反抗期中」の子供たちを見てきているうえに、自分自身も似たり寄ったりの幼少期を過ごしたので扱いには「慣れたもの」です。
 この少年(仮名A君)に限らず、子供でも日常と違う環境に遭遇したときに、普段と違う態度・言動・心理状態になるものです。「子どもは緊張しない」と言う人がいますが、私は違う気がします。例えば、言葉を話せない赤ちゃんがお母さん以外に抱っこされると、不安になって泣きだすことは誰でも知っています。話せるようになった幼児が「人見知り」するのも、ごく普通の事です。成長につれて「抑制」することを覚えます。それでも緊張や不安は感じるのが人間です。言い換えれば「日常」と「非日常」を区別する能力があるから起こる現象です。人間以外の動物にも見られることですよね。知らない人に吠える犬。知らない人が来ると物陰に隠れる猫なども、不安と緊張から自然に行動として現れます。

 音楽を演奏していて「緊張」したときに起こる現象は様々です。足が震える・膝ががくがくする・手に汗をかく・頭が真っ白になる・演奏している感覚がない・終わっても何も覚えていないなどなど。楽器の演奏に限ったことではなく、人前で話をしたり、初めての人と会話する時にも「緊張」しているはずです。ただ「慣れることで人前で話したり、初対面の人と笑顔で会話したり「コントロール」できるようになるだけです。
 どんなに慣れたことでも、環境が変われば緊張するものです。演奏に関して言えば、人前で演奏し慣れている人でも、演奏する曲によって不安を感じることもあります。また、体調によっては演奏に不安を感じることもあります。
不安は「過緊張」につながります。ある程度の緊張は、日常生活で頻繁に直面します。言ってみれば「耐性」が出来ています。

動画でヴァイオリンを演奏している、A君のレッスン時の演奏とお母様から聴いている自宅での練習、そして本番での演奏を考えてみます。
 レッスンで生徒さんの演奏を聴くと、自宅での練習内容は指導をする経験を重ねると説明がなくても想像ができるようになるものです。前回のレッスンで指摘したことを、本人がどの程度、理解していたか。それを出来るようになる「努力」をどの程度していたか。レッスンの都度、多少の違いはありますが、A君は私が指摘し課題にしたことを、70~90%程度、出来るようにしてきます。すごい事だと思います。とは言え、小学2年生の男子!なのでレッスン時の集中力にはムラがあります。大人とは大きな違いです。
 本番で演奏前に「足が震えた」とご家族に話したそうです。演奏前、演奏中の表情も普段とは別人のような「緊張」した顔でした。
 演奏は?レッスンの時に集中して弾けたときと同じ演奏が出来ていました。素晴らしい!むしろ、レッスン時に気が散っている時や、うまく出来ずにイライラして拗ねている時の演奏に比べて、はるかにきれいな音で丁寧に演奏していました。
 レッスンで間違えたことのない場所で、初めて聴く「作曲」はしていましたが(その部分は割愛しました)、その直後に立ち直りました。
 子供らしい「緊張の表れ」が動画の最後に見られます。演奏が終わり拍手が始まっている時に、ヴァイオリンを構え直しています。もしかすると…「お辞儀」と「演奏の合図」がすり替わったのかもしれません(笑)可愛らしくて思わず袖で吹き出しました。

 大人の生徒さんが過緊張で「パニック」状態になることがあります。子供は間違えても、パニックにはなることは、ほとんどありません。
 子供は「言われたことをその通り」にしようとします。お辞儀にしても、合図にしても、演奏の仕方にしても、基本的にいつもの通りに行動します。無意識に表情や言動が変わることはありますが、演奏については普段と変わりません。
 本番の時に「うまく弾こう」とか「本番だから」という特別感が演奏には現れません。
 大人の場合には?「本番」で「特別感」が演奏に多く表れます。「いつもより」落ち着こうとしたり、「いつもより」失敗しないことを考えたり、「いつもより」が良くないのです(笑)頭の中では「いつも通り」と思っていても無意識に「いつもより」が頭の中を支配します。結果、普段と違う「思考」「行動」をしてしまします。
 レッスンだけ考えれば、子供より大人の生徒さんの方が、指示やアドヴァイスを素直に受け入れてくれます。メモを取ったり、楽譜に書きこんだりするのも大人の生徒さんです。自宅で練習する時も、そのメモや書き込みを見直し、レッスン時の指示を思い出すのも大人の生徒さんです。なのに!本番では普段と違う演奏になってしまいます。

 音大生やコンクールを受ける人、あるいは人前で演奏する機会の多い人たちは「緊張」しないのか?と言えば、答えは「緊張します」なのです。どんな人間でも「初めての環境」に遭遇すれば普段とは違う感覚を感じます。犬や猫でもそうですよね?どんなに経験を重ねても「初めて」の曲や会場、お客様の前で、いつもと違う感覚になるのは当たり前です。ただ、その経験を繰り返すと、その「新しい感覚」にも「慣れる」のだと思います。
 例えば、いつも新しいお客様に対応する店員さんは、初めての人と会話をすることに慣れていきます。いつも違う場所で講演する人も同じです。私たちの日常でも、常に新しい環境に出会っていますが緊張しないのは、そのこと=新しい環境に遭遇することになれているからです。
 趣味で楽器を演奏する大人の生徒さんが、その「新しさ」になかなか慣れないのは無理もないことです。むしろ「子ども」が特別なのです。
 子供は大人よりも「新しいこと」に出会う機会が多いのです。学校や日常生活で「学ぶ」経験や知識が圧倒的に多いのです。
 子供にとって発表会で演奏することも、学校で始めて「九九(くく)」を習う事も「似たり寄ったり」なのです。
 さらに大人の生徒さんは子供に比べて「音・音楽」以外の事に気を遣いながら練習します。これは「良いこと」なのですが、本番でそれが悪い方に出てしまうケースがあります。
 例えば「指使い」を間違えないように気を付けて練習している時に、「音」が意識の外に行ってしまうケースです。スラーやヴィブラート、ポジション移動など練習の「内容・項目」は演奏する部分によって違います。音楽が「細切れ」になってしまい、一度間違えると収拾がつかなくなる原因の一つです。
 以前のブログにも書きましたが、音楽を「連続したひとつの流れ」として記憶することが大切です。 大人は年齢を重ねるほど「新しく覚える」機会が減ります。その結果「記憶したものを思い出す」ことも意識して行なうことが少なくなります。演奏は「記憶」によって行われるものです。楽譜を見ながら、情報をすぐに処理して「音」にする技術・能力は一朝一夕に身に付きません。いわゆる「初見」能力です。音楽の先=次を予測する技術も、経験で身に付けるしかありません。
 大人も子供も本来の「演奏能力」には大差ないはずです。むしろ大人の方が多くの知識と、長時間の集中ができます。楽譜を見ながら弾けばいつも通り弾ける…と思い込むのも大人です。楽譜の情報を常に読み取っていない=楽譜が役に立っていないのも大人です。
 頭が真っ白になっても、足が震えても、いつものように演奏できる「子ども」を見習うべきことがあります。「音楽を体で覚える」ことです。子供は「運指」や「ダウン・アップ」「スラー」を間違えても「音楽」を思い出して演奏します。途中で止まっても「続き」を思い出してつなげて演奏します。演奏中に客席に友達や家族を探してキョロキョロしながら演奏できます。
 九九を覚えるつもりで、1小節ずつ・1音ずつ音楽を覚えていけば、どこからでも演奏できるはずです。
 練習方法こそ「子どもに学べ」だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

職業音楽家と趣味の音楽家

 映像は「ただ憧れを知る者だけが」をヴィオラとピアノで演奏した動画です。
 今回のテーマ「職業」で音楽を演奏する人と「趣味」で音楽を演奏する人の共通点と違いについて考えます。
 一般に「プロ」と「アマチュア」と言う言葉がありますが、プロ(プロフェッショナル)を「専門家」と捉えることもできますので、敢えて「職業」と言う概念で考えてみます。

 職業として音楽を演奏することを、もっと現実的に言えば「演奏で生活をする=生計を立てる」という人になります。演奏のジャンルを問わず、演奏「だけ」で生活する人、もしくはほとんどの収入を演奏で得ている人を「職業音楽家」としてみます。団体に所属して給与を毎月もらって生活する「職業音楽家」もいれば、毎回演奏するたびに報酬を受け取る人もいます。どちらも同じ職業演奏家です。
 一方で「趣味の音楽家」は、演奏で生計を立てていない人、あるいは演奏以外に生活する収入を得ている人で「演奏をする人」と言う広い定義で考えてみます。人前で演奏する人もいます。自宅だけで演奏を楽しむ人もいます。生活するための「お金」は他の仕事で得たり、年金だったり「遺産」だったりと様々です。成人していない子供の場合でも、演奏だけで生活費をすべて稼ぐ人であれば「職業演奏家」と言えますが日本では「保護者」が法的に必要ですので現実的には「趣味の演奏家」と言うべきです。

 ここで、いくつかの項目に分けてそれぞれを比較してみます。
1.演奏技術のレベル
・職業音楽家の方が必ず上手とは言えない=趣味の演奏家の方が下手だとは言えない。
・職業演奏家は「演奏の依頼主」や「聴衆」に技術を認めてもらえないと生活できない。
・趣味の演奏家は誰の評価も必要とせずに演奏を楽しめる。
つまり職業演奏家と趣味の演奏家の「どちらがうまい」と言う定義はないのです。
 職業演奏家より技術の高い「趣味の演奏家」は世界中に数えきれないほどいるはずです。ただその人の演奏が「表に出ない」場合もあるのです。逆に職業演奏家の演奏は「誰かに聞いてもらう」ことで初めて収入を得られます。
2.演奏の「自由度」
・職業演奏家の多くは「依頼主の提示したプログラム」か「集客力の高いプログラム」で演奏することになります。
・趣味の演奏家は、自分の好きな曲を好きな時に、好きなように演奏できます。
3.演奏する喜び
・職業演奏家は自分の好きな音楽でなくても演奏する必要があります。時には「嫌でも」演奏することが求められます。
・趣味の場合、レベルは様々ですから本人の達成感も大きな差があります。ただ「好きだから演奏している」のは間違いありません。嫌なら違う趣味に乗り換えれば良いだけです(笑)
4.修得すべき技能・知識と学歴・経歴
・結論を言えば、職業でも趣味でも「肩書より実力」です。特にここ数十年、世界中で「音楽大学卒業」は職業音楽家になるための「必須要件」ではなくなりました。むしろ、多くの知識と演奏以外の見識を持った職業演奏家が年々増加しています。逆に、音楽大学を卒業して「趣味の演奏家」になるケースも増加しています。

5.音楽に関われる時間
・職業として演奏する場合には「練習・準備」と「リハーサル・演奏会」に多くの時間を必要とします。むしろ「充実した生活」とも言えます。
・趣味で演奏する場合、生活のための仕事がある人がほとんどです。家事や育児もその一つです。自分の時間を見つけることが難しく、体力的にも楽器を毎日演奏することも難しいのが現実です。中には仕事をリタイアし、のんびりとした日々を送ることのできる高齢者も「少し」いらっしゃるのも事実です。その方たちにとって「趣味の音楽」は生き甲斐にもなり得ます。

こうして比較してみると、職業として演奏家になることは「毎日演奏できる」と言う点以外では、趣味で演奏を楽しむことの方が自由に演奏を楽しむことができる喜びを感じられることになります。「プロになる!」と夢をもって練習することは素敵なことです。しかし多くの場合「挫折」によって楽器を演奏すること自体から離れてしまいます。楽器を演奏したいという「目的」がいつの間にか「音大に合格する」ことや「コンクールで優勝する」ことが目的になってしまう悲しいケースです。
 趣味と割り切って練習する人の多くが「プロのようにうまくならなくてもいい」という間違った先入観を持っています。先述のように「プロよりうまいアマチュア」は世界中に居るのです。音楽大学やコンクールは「うまくなるための条件」ではないのです!
 自分の好きな音楽を、好きなように演奏する技術を身に着けるために「長い時間」が必要です。それを「苦労」と考えるのなら楽器の演奏には向いていないかも知れません。練習そのものが「楽器を演奏する」ことでもあります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の「味つけ」「色付け」「香りづけ」

 演奏は2023年10月17日に木曽町のおもちゃ美術館でのライブ風景です。この夜、アンコールも含め12曲を響き豊かな、木の香りに包まれた会場で演奏させていただきました。
 今回のテーマは、音楽を演奏する際の「表現」を、味覚や視覚、嗅覚に置き換えて考えてみるものです。
 一般に使われる言葉に「色気」という表現があります。
単に女性・男性の「妖艶さ」「性的なアピール」以外にも、雰囲気を表す時にも使われる言葉です。行き過ぎれば「いやらしい」イメージになりますが、良い意味での「色っぽさ」は音楽にも必要な場合があるように思いま宇す。「色気」の色が何色?と言う定義はありませんよね?でも「色」と言う言葉が使われます。

 味・色・香りに「薄い(弱い)」と「濃い(強い)」という差があります。感じ方は人それぞれです。
科学的に分析した数値が同じでも、薄いと感じる人と濃いと感じる人がいます。また「無色」「無味」「無臭」という言葉もあります。これらが「悪い」とは限りません。
むしろ「純粋」「清らか」というイメージを感じる場合もあります。

 音楽の表現は「大きい・小さい」「高い・低い」などの表現が使われますが、物理的な「音圧」「周波数」よりも、感覚的な表現が音楽には多用されます。
 演奏に「味」「色」「香り」を加える…と言うのは「比喩=たとえ」ですが、聴覚以外の感覚に例えるとイメージしやすくなります。ワインのソムリエが「味」「香り」「色」を表現する時に様々な表現=比喩を使うのも同じ理由だと思います。
1.無味無色・無臭な演奏とは?
「一定の音量・音色・テンポの演奏」かも知れません。
楽譜に書かれた「音の高さ」「リズム」を一定のテンポで同じ音色で演奏した場合が該当すると思います。
2.薄い味・色・香りの演奏は?
上記1.に「少しだけ」変化を付けたもの…
と言っても、楽譜に書かれた音の高さとリズムを変えてしまえば「違う」味・色・香りになってしまいます。
薄い・少ない変化と感じるためには、繊細な感覚が必要です。音楽でも同じです。
濃い・大きな変化は、誰にでも感じられます。
「薄ければ良い」「濃ければ良い」と言うものではありません。食べる人・見る人・嗅ぐ人の好みによりますが、弱すぎれば「物足りない」と思われ、強すぎれば「刺激が強すぎる」と思われます。
 味も色も香りも「相対=比較や変化」で印象が変わります。甘いものを食べた後に、酸っぱいものを食べると刺激を強く感じます。甘いものに少しだけ「塩味」を加えると甘さを強く感じます。明るい場所から暗い映画館に入ると「暗く」感じます。香水も慣れてしまうと感じなくなってしまいます。

 味と香りの組み合わせで「錯覚」することもあります。
おなじ甘さのキャンディに「オレンジの香り」を付けると「オレンジ味」に感じ、「イチゴの香り」を付けると「入り味」に感じますが錯覚です。
 音楽の場合も同じです。聴いていて「飽きる」のは、変化がないからです。変化を少なくすることで「穏やか」にも感じます。

 薄味が好きな人もいます。淡い色彩の絵画が好きな人も、ほんのりした香りが好きな人もいます。
 濃い味つけ・原色・強い仮が好きな人もいます。
演奏にも同じことが言えます。ただ、音楽によって「変える」ことも必要だと思います。音楽=楽譜の違いは、素材・描く対象・香りをTPOによって「適した薄さ・濃さ」があるのと同じです。
 淡白な味の素材に「濃い味付け」をしてしまえば、素材の味は感じられませんよね?「空と雲」を描く時に原色だけを使って描く人はいないでしょう。学校の保護者参観に「きつい香水」を付けていくのは?嫌われますよね(笑)
どんな音楽にどんな味つけ・色付け・香りづけをするのか?は決まっていません。自分の慣性だけが頼りです。
 怖がって「無味無臭・無色透明」な演奏をするのも間違っています。
 恐れず・謙虚に音楽に自分独自の「色・味・香り」を付けることが、私にとって一番楽しい時間です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の評価と価値・価格を考える

 上の映像は「格付けチェック」でどちらが高い楽器の演奏かを当てる場面です。この番組でわかることは?結論「わかるわけない」(笑)
 そもそも、録音された音をイヤホンやスピーカーで聴くわけですから「生の音色・音量」ではありません。さらに言えば、演奏者の技量も不明です。
 今回のテーマは、楽器の「評価」を「価値」と「価格=値段」で考えてみるものです。あくまでも私の個人的な考えですが、可能な限り客観的な事実を中心にして書いていきます。

 以前にも書きましたが、どんな楽器でも演奏する人のための「道具」であることは否定できません。美術品や絵画のように「道具」としての価値とは別の観点で評価が決まるものもあります。お茶の道具、刀剣などは、本来「使用する目的」がありました。使う人の為に作られた道具に「付加価値」が付いたものが美術品として扱われます。どんな高価な茶碗でも、もとより人間が作った「物」です。壊れることもあります。使えば汚れていくものです。「使えない道具」を作る食職人いるでしょうか?もし使えなくても良いと考えて作った賭したら、道具ではなく「物」でしかありません。

 楽器は音楽を演奏するために作られます。楽器で演奏された音楽を聴いて楽しむ人にとって「道具」にどんな価値があるでしょうか?
 演奏する私たちにとっての楽器の価値は「自分の好きな音楽を表現するための道具」です。好きな音、好きな形(外観)、好きな手触りがあります。演奏者それぞれに違うはずです。
 自分の価値判断=評価の基準がない人は、「誰かが良いと言った」ものを良いと思い込みます。仮に師匠から「これが良い」と言われたとしても、次第に自分独自の「価値観」が育つのが成長です。事実ストラディヴァリも、師匠であったアマティのヴァイオリンとは違うスタイルのヴァイオリンを作りました。自分が良いと思った楽器を作った「だけ」です。
 演奏者が選ぶ=手にできる楽器は「変える楽器」「貸してもらえる楽器」という条件があります。どんなに好きな楽器に出会ったとしても、それを演奏できない人の方が絶対に多いのです。では「妥協」なのでしょうか?
私は違うと思います。巡り会った人と人生を共にすることに近いものだと思います。人との関係でも、それが続かないことは珍しいことではありませんよね。だからと言って「誰でもいい」とは思わないはずです。今、一緒にいるパートナーを「妥協の結果」と思う人がいたら(笑)かなり危機的な状態ですね。

 冒頭の動画のように「聴き比べ」をするの楽しみは、あって良いものだと思います。むしろ聴く側にとって、自分の好きな演奏・音色を比較しながら探すのは、最高の楽しみでもあります。新しい演奏に出会うたびに、自分の価値観=好みにどれだけ近い演奏なのかを味わえます。好きなラーメンを食べ歩いて探す人もお同じです。仮にいつも同じレトルトカレーを食べ続けている人が違う味のカレーを「食べたことがない」としたら?さすがに極端ですが、現実に私たちが食べたことのある「カレー」の中で一番好きな味のカレーがあるだけです。それでも満足できるのが人間です。
 地球上に現存ずるすべてのヴァイオリンを「比較することは不可能です。
恐らくすべてのヴァイオリンが違う個性を持っています。推測ですが(笑)
それらの中で自分が演奏できるヴァイオリンは「唯一無二」の存在です。
人間と同じで、自分が感じる「長所」も「短所」もあるはずです。
自分の好み、そのものが完全でない以上「完全に好みと一致するヴァイオリン」は存在しないことになります。

 自分が出会って「買うことのできるヴァイオリン」が複数あった場合を考えます。いわゆる楽器選びです。私自身、生徒さんの楽器を選ぶ作業に立ち会い、アドヴァイスをすることが頻繁にあります。(楽器店経営者でもあるので)どんなヴァイオリニストでも、自分の演奏技術でしか楽器を演奏することは出来ません。初心者であれば、解放弦を演奏するのが精いっぱいの人もいれば、自分の好きな曲を「それなりに」演奏できる人もいます。
「もっとうまく演奏できるようになりたい!」と誰もが思います。
未来の自分の演奏技術は誰にもわかりません。自分の好みが変わることも当たり前です。「未来は未定」なのです。今、現実に自分が出せる音でヴァイオリンを選ぶしかないというのが現実です。
 生徒さんに代わって私がヴァイオリンを弾き比べ、「違い」を確認してもらいますが、それはあくまで「野村謙介が演奏したら」という前提です(笑)生徒さん自身が未来に、どんな演奏をするのかは誰にもわかりません。そもそも、私の演奏方法法・出そうとする音が生徒さんの「好み」と違うことも当然にあります。その上で「違い」を聴いて、ひとつのヴァイオリンを選ぶことになります。
 楽器の「外観」で選ぶのも選択肢の一つです。ただ、パーツを変えれば明らかに楽器の音色は変わりますし、弾く心地も変わります。職人がこだわって付けたパーツもあれば、楽器店が「適当」に付けたパーツもあります(笑)
 音色と音量の「選択肢」が無限にあるのが楽器です。
いくつかの点を挙げてみます。
・4本の弦を「解放弦」で引いた時の音色と音量の「個性=バランス」
・弦を押さえて演奏した時の、解放弦との音色・音量の「差」
・弓の圧力・速度を変えて演奏した時の音色・音量の「差=幅の広さ」
難しく考えないで(笑)言ってしまえば、演奏する人の感じる「音色と音量のボキャブラリー」を見極めることです。演奏技術でボキャブラリーは増えます。ただ楽器の「個性」は変わりません。人間の声で例えるなら、トレーニングによって、高い声をきれいに出したり、ヴィブラートで変化を付けたりできても「声帯」「骨格」は取り替えられません。持って生まれた「個性」を大切にしながら、より好みの声・音を出せるように努力することはできます。

 楽器による違いに序列をつけるのは「個人の価値観」でしかありません。
他人の価値観にただ、流されてお金を払うことに疑問を感じます。
自分が良いと思ったものに「妥当な金額」と感じるお金を払うのが現代社会の基盤です。流行に流されて、自分に似合う?似合わないを考えずに洋服を選ぶ人。テレビで放送されたから「このお店の料理はおいしい」と思い込む人。「〇〇ちゃんも持ってるから買って~!」と駄々をこねるおこちゃま(笑)
 ヴァイオリンの価値は「人によって違う」のです。どんな楽器でも愛情を持って「道具」以上の存在として接するべきです。確かに楽器は道具です。だからこそ「お金で買える」のです。お金に換算できないのが「価値」です。価値は自分の評価で決めるものです。納得できなければ「自分の評価」を優先するのが正しい判断だと私は考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介