指導者と演奏家

 動画はファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした曲です。
今回のテーマは、一般の人から見える指導者とプロの演奏家との共通点・相違点と、実際に両者を経験した立場での両面から考えてみたいと思います。

 楽器の演奏技術を教えて対価を受け取る人を指導者とします。
楽器を人前で演奏し対価を受け取る人を「演奏家」としてみます。
もっと広い定義も可能ですが、音楽の専門家でない人の目線で今回の定義を決めています。
 ・指導者がいなければ演奏家は生まれないのか?
多くの場合は指導者によって演奏家が育てられますが、必ずしも誰かから指導を受けなくても演奏家になることは可能です。
 ・指導者はプロの演奏家を育てることが使命なのか?
これも結論から言えば「そうとは限らない」と思います。
音楽大学に通う学生でさえ、プロの演奏家を目指していない人がいるのは事実です。ましてや、専門家を目出していないアマチュア演奏家にこそ、指導者が必要に思っています。
 ・優れた演奏家は優れた指導者か?
応えは「いいえ」だと思います。もちろん、優れた演奏家であり優れた指導者もたくさんいます。ですがこれも、イコールの関係ではありません。そもそも、人に教えることが好きではない演奏家も多くいます。実際、教える時間がない演奏家もいます。
 ・指導者は演奏家でなくても良いのか?
演奏のできない人が演奏を指導するのは「無理」です。
今回は、演奏家の定義を「対価をもらって演奏する演奏家」としていますので、演奏家としての演奏技術があれば、指導することは可能です。
演奏技術の低い指導者もいます。自戒を込めて書きますが、指導者自身が自らの演奏技術を高める意欲、努力をしていない人であったり、「○○音大卒業」とか「△△音楽祭に参加」などの肩書にうぬぼれる指導者が、生徒を教えられるとは思いません。
 ・指導者は演奏家より「下」なのか?
おおざっぱな言い方をしましたが、様々な意味があります。
たとえば「年収」「社会的信頼」だけで比較することもできます。
また音楽家としての「プライド」は本人が考えるもので違ってきます。
 日本において、演奏家として生計を立てられる人数は、極わずかです。
毎年多くの「演奏家の卵」が音楽大学や専門の学校から誕生しています。その数を分母として考えると、演奏することで生活できる人は、数パーセントにも満たない数です。それほどに、需要と供給のバランスが悪く供給過多なのです。
プロの演奏家の一つとして「プロオーケストラ」の「正団員=社員」がいます。
プロのオーケストラで演奏している人の中で、正団員ではない「短期アルバイト=エキストラ」がたくさんいます。その人たちもプロの演奏家ですが「雇用」の形態が違います。
正団員としての「給与」だけで生活できる人は、日本ではごく一部です。
指導者にも色々なケースがあります。自宅で教えている人、音楽教室に雇われて教える人、音楽高校や音楽大学で演奏を教えている人などです。
 こちらの場合も比較される内容は様々です。ちなみに、楽器演奏を指導するための公的な資格はありません。学校で教師として働く場合でも、場合によっては教員免許がなくても、演奏技術を教えて対価を得ている人もいます。ましてや、音楽教室や自宅で指導する場合には、なんの資格がなくても指導できるのが事実です。その意味では、演奏家の場合も「公的な資格」がない点では同じです。

演奏家になれない人が指導者なのか?
答えは「違います」私は確信しています。
先述の通り、指導者には演奏家としての技術が必要不可欠だと思います。
だからと言って、指導者の演奏技術が演奏家の技術より低いとは思いませんし、そうあってはいけないと思っています。
 では、指導者を目指す人はどうすれば良いのでしょうか?何を学ぶべきなのでしょうか?

 演奏家としての技術を身に着ける練習と勉強は、演奏家を目指す人と全く変わらないはずです。それを含めて必要なものは、以下の3点だと考えています。
1.演奏家として評価される演奏技術
2.演奏技術を言語化する能力
3.人に対する適応力
演奏家でも共通の「努力」や「経験」は言うまでもありませんが、何より指導は「対面」であり限られた時間内で、自分の教えたいことを伝える能力が求められます。適応する力は、迎合することではありません。常に自分と相手との考え方や生き方、価値観の違いを擦り合わせる能力です。

 最後に現在、演奏課や指導者を目指している人と、その指導者に伝えたいことです。
師弟関係は、両思いであることが何よりも大切です。双方が互いを認め合え、信頼できる関係がなければ伝えられるものは限られています。
習う側からすれば、師匠を尊敬できること。師匠は尊敬できる存在であること。
そして、常に次の世代に伝承することを考えることです。伝承は技術だけではありません。人の生き方、考え方こそが後世に伝えられるべきです。
優れた演奏技術があっても、人として魅力のない人や、他人を受け入れないわがままな性格の人は音楽家としての素養に足りません。演奏の評価だけを評価してくれるのは、容姿だけを評価されるのと同じです。音楽は自分で作った芸術ではありません。ラーメン屋の「秘伝のスープ」とは違うのです。先人が今に伝えた音楽があるからこそ、私たちが音楽を演奏できるのです。思い上がりは捨てるべきです。一流と言われて悪い気持ちになる人はいません。ただ、本当にその人の音楽が評価されるのは、次世代、さらにその次世代に「レジェンド」として評価される人かどうか?だと思うのです。
 これからも優れた指導者を育てたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

ステージで得られるもの

動画は先日の発表会での演奏です。
演奏者と家族だけの身内の演奏会。
不特定の人に聞かせる「コンサート」ではありません。
舞台の上で演奏することを目的として、練習してきた成果を実感する時間です。
4歳のこどもから、私よりも先輩の大人まで21プログラム。
今回初参加が5名。全員がステージで客席で、音楽を満喫しました。

 人前に出て演奏をするのは、ほとんどの人にとって「非日常」です。
人前で話したりサポートするお仕事をされている人でも「楽器の演奏」はまったく違う緊張感があると思います。
 緊張感があるから、開放感を味わえます。
演奏し終えた瞬間の「やり遂げた!」という表情がすべてを物語っています。
趣味なんだから、自宅の練習だけで充分だという考え方もありますが、せっかくの趣味だからこそ、楽しみは大きいほど良いと思っています。
 好きな事にかける時間と労力は惜しくないものです。それがスポーツでも音楽でも同じことが言えます。アマチュアスポーツでも勝敗の付く協議で「負けてもいい」と思って練習する人はいないと思うのです。負けるのが嫌だから、試合をしないで、素振りと壁打ちだけで満足できる人も、心の中では「うまくなりたい」と思っているから練習するのだと思います。

 自分の演奏が自分にとって、どのくらい満足のいくものだったのかは、他人からは想像もできません。自分の演奏に厳しい人は「ダメだった」と思い込みがちです。全然ダメじゃないのに(笑)
 自分の演奏が、本気で「じょうず」と思う人なんて、いないと思うのです。
もしそう思っていたら、楽器なんて弾かないはずです。自分が出来たと思えたら、その先に目指すものが何もないからです。
 欲を持つことです。子供は「無欲」でも上達します。それこそが生き物の「学習能力」だと思うのです。厳密に言えば、無欲なのではなく、本能で生き残るための「知恵と技術」を習得しているのだと思います。
 4歳の子供の演奏に、じょうずもへたもありません。それでも本番の直前に「ドキドキしてきた」とお母さんに言ったそうです。ステージでは、客席のお母さんをキョロキョロ探し始めてから、緊張感が切れました(笑)
 大人の趣味が楽器の演奏って、素敵だと思います。
一人でも楽しめる。誰かと一緒に演奏しても楽しめる。勝ち負けもなく、自分の好きな音楽を好きなように練習できる。失敗してもケガもしないし血も出ない(笑)聴いている人が笑顔になる。いくつになっても演奏できる。
 趣味の演奏に他人が「ケチ」を付けるのは、ナンセンスです。
本人が楽しめればそれだけで「趣味」なのですから。うるさいと思うのは仕方ないですが…。暴走族より静かです。

 これから楽器を始めて煮ようかな?と思う方。ぜひ!初めの一歩を踏み出してください。出来なくて当たり前です。だから面白いのです。
お子さんに楽器を習わせたい保護者の皆様。お子さんと一緒に音楽を楽しむ気持ちを持ち続けてください。学校の勉強とは違います。受験勉強とも違います。
親と子供が「二人三脚」で音楽に向かうことが、子供の上達を支えるただ一つの方法です。子供だけで楽器の上達は出来ません。楽器を買い与えただけでは、子供は楽器を弾けません。おもちゃではありません。ゲームでもありません。一生楽しみ続けられる「技術」なのです。それを忘れないでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を振り付ける

 一つ目の動画は、中高生の演奏する「カヴァレリアルスティカーナ間奏曲」です。本来、コントラバスはオリジナル編成にありませんが指揮者(私)の一存で参加させています。子供たちの「動き」に注目して頂けると、まるで振付をしたように同じ動きをしているのが見て取れます。実際に動きを教えました(笑)単に「感情を込めたように」とか「うまそうに」という無駄な動きではないはずです。たまに見かけるアマチュアの「謎のダンス」を伴う合奏や合唱とは、意味が違います。
 音楽の流れ、重さ、拍を演奏する子供たちが「共有」するための動きと、弦楽器を演奏するうえでの身体の使い方の両面から「必要な動き」を教えたつもりです。そのことで、弓の場所や弓の速度・重さ、さらには音楽の流れを体感し他の演奏者と共有できます。

 二つ目の映像は、私と浩子さんの「クロリスに」です。
言うまでもなく、何度も何度もお互いの音を聴きながら練習し、演奏会を経験している時間を経て、合図を打ち合わせすることも、ほとんどありません。
むしろ、私の「動き」に反応して自然に音が出るのを「わざとずらす」場面があります。下の動画をご覧ください。

 お気付きでしょうか?最後の「ソ」を私がヴィオラで演奏する「合図」と「ヴィオラが音を出す時間」がずれているのを確認できるように、最後の部分だけスローにしてあります。
 ピアノには先に進んでもらい、意図的に旋律を演奏している自分のヴィオラを「遅れて」発音させています。ポピュラー音楽では良く見かける奏法です。
合図を出しながら、自分は遅れて移弦し音を出すのは、特殊な「振付」ですが、これも音楽の「スパイス」になると思います。

 ここまで凝らなくても(笑)音楽を感じて動く。動くことで演奏に必要な「速度」と「重さ」を筋肉に伝え音にする。相乗効果があります。逆に言えば、音楽と関係のない動きで、その動きによって壊される音楽もあり得ます。この点は要注意です。なんでもかんでも動けばいいわけではありません。まず、音楽を感じることです。その音楽が動く「速さ」と「重さ」を感じて、それを自分の身体の動きに置き換えることです。動かない演奏を「最高」とする演奏家もいます。以前書きました。それもその人の価値観です。
 ぜひ、音楽を感じて演奏してみてください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習と本番

 生徒さんの発表会を明後日に控え「余興」で1曲だけ演奏する私たちです。
趣味で楽器の演奏を楽しむ人たちが、ステージでお客様の前で演奏する緊張感は、私を含め多くの演奏家も経験したことです。失敗した記憶もあります。音楽の学校での実技試験の記憶も少しはありますが、緊張する演奏経験を重ねるうちに、鳴れなのか?麻痺なのか?次第にその記憶が薄らいでいるようにも思えます。だからこそ、生徒さんたちの緊張感から学ぶことも多いのです。
 練習から一回の本番に至るまでの「道程」を考えてみます。

 演奏する曲が「初めての曲」の場合は、まずその音楽を知ることから始まります。楽譜に書いてあることを音にする。誰かの演奏を聴く。作曲した人や時代などを知る。練習する以前に、音楽を知ることです。
 次に自分が楽器で演奏する段階。ここからは、以前に演奏したことがある曲を演奏する場合でも同じです。
 自分の演奏している「音」と「音楽」を常に観察する集中力が不可欠です。
落とし穴があります。「繰り返せば演奏できるようになる」という「蟻地獄」のような落とし穴です。練習であっても、本番であっても「演奏」であることは同じです。自分の演奏を冷静に観察し続けることは、一度だけの本番のために絶対に必要な練習だと思っています。

 本番での演奏は、演奏している時間と空間での出来事です。完全に同じ演奏を再現することは、神様でなければできません。どんな演奏であっても、その音楽を聴くことのできる人は、その場にいた人だけです。録音された音楽は、真実ではありません。言ってみれば写真と同じです。
 演奏の瞬間に感じるものは、聴いた人の記憶に残ります。当然、演奏している人の記憶にも残ります。練習している時に、自分の演奏に感情を持っているでしょうか?ただ「うまく弾きたい」「間違えないで弾きたい」と思ってはいないでしょうか?たとえ、それが開放弦の練習であったとしても、どんな音色・音量なのか?聴いているはずです。スケールを練習しても、曲を練習しても「演奏を記憶し振り返る」ことの繰り返しを抄訳するのは「手抜き」です。
 思ったように演奏できないパッセージがあります。
私の場合、「思っていない」ことが原因です。つまり、どう?演奏したいのかという、具体的なことが一音一音に足りない場合です。思っていないくせに「思ったように」と感じているだけです。どんなに難しい、あるいは難しそうなパッセージでも「一音だけ」演奏することはできるのです。その一音を、どう?演奏すると次の音が、どう?演奏できるのか?という「連結」ができれば二つの音を連続して演奏できます。それを繰り返せば、「絶対に」演奏できるはずなのです。

 練習に時間は必要です。本番で演奏する時間を、自分も聴いてくださる人も楽しむための時間です。もちろん、ただ時間が経てばクオリティの高い演奏が出来るようになるわけではありません。先述したように、自分の演奏を振り返りながら「試行錯誤」を繰り返すことです。違う言い方をするなら「実験」を繰り返すことです。音楽に限らず、この実験は常に行われています。身の回りでも、何気なくやっているはずです。
 自分のやり方だけに固執するのは、あまり良いことではありません。事務作業にしても掃除にしても、自分が何気なくおこなっていることが、実はとても非効率で、時間と体力を無駄にしていることもあります。
 できないと思ったことに直面したときに、それを解決する方法を「実験」するはずなのです。「マニュアル」がないと、新しいことができないと思っている人もいます。子供は、まず「やってみる」のです。だから、スマホでもなんでも大人よりずっと早く使いこなせるのです。もちろん、失敗して壊すリスクもあります。化学の実験なら「爆発」するかも知れませんね。
 音楽の実験でケガをした人はいないはずです(笑)
実験をせずにただ何となく、繰り返してもケガはしません。ただ上達した人もいないと思うのです。新しい発見をすることがなければ、進歩はないのです。
 練習は単なる時間の浪費ではなく、「発見のための時間」だと思っています。

 最後に、本番で演奏する時間から、少しずつ遡る「逆算」をしてみます。
演奏直前、最初の音を出す直前です。あなたは何を考えますか?今日の晩御飯?それとも昨日の出来事?(笑)多くの生徒さんが、この瞬間に何も考えられなくなるか、逆に考えすぎます。どちらもあまり良いことではないように思います。
 練習で最初の音の弾き方を決めておくことです。ずいぶん戻ってしまいますが(笑)最初の音をどうやって演奏するのか?決まっていれば、まずそれを考えれば良いだけです。
 もう少し遡って、自分の演奏する前の「10分」
演奏に必要な「もの」と「こと」を確認します。これだけ時間があれば、絶対に大丈夫です。慌てない、焦らない、ゆっくり動く。
 さらに遡って、家から会場に移動する時。途中で走らないことと、立ち上がる時に必ず後ろを確かめて忘れ物がないか見ること。これ、聴音の黒柳先生から伝授された「奥義」です(笑)効果絶大です。
 家から出る前に。もしも、余裕があるなら一度だけ、演奏してゆっくり片づけて、すべての持ち物を確認する「余裕」が理想です。その時にうまく演奏できなくても「今日は弾いた」という安心感が得られます。本番前にうろたえることもなくなります。
 本番数日前。ケガをしないこと。病気にならないこと。楽器を壊さないこと。疲れないように練習のペースを落とすこと。この時期に一番うまく演奏できるように、その前の数日は「へたくそ」で良いのです。人間にはバイオリズムがあります。常に最高の状態に保つことは不可能です。本番の前に自分を高め、本番で最高の「頂点」にいる計画をイメージすることです。
 あまり「ルーティン化」しないことも大切です。「おまじない」を増やせば増やすほど、不安材料になります。お守りを10個、持ち歩く人っていないですよね?(笑)それと同じです。
 練習で本番通りのことをしていれば、本番も練習も同じです。
演奏は時間の芸術。その場で演奏している自分が「主人公」です。
演奏を楽しみましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由を阻害する「思い込み」

 この動画で私が装着しているのは「暗所視支援めがね」と呼ばれる、夜盲の患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を向上させるための眼鏡です。
決して「似合わないおしゃれ」で装着しているのではございません。
普通の人にとって「少し薄暗い」明るさが、私達「網膜色素変性症」の病気を持つ人間には真っ暗闇なのです。と言いつつ、普通の人の「真っ暗闇」を体感したことがないので微妙です(笑)

 さて、今回のテーマは「自由に演奏したいけれど…」と言う演奏者共通の悩みです。そもそも音楽は、作る人、演奏する人、聴く人の自由があってこその楽しみです。制約されたり、強要される感情を持ちながら「自由」は感じられません。つまり音楽自体が、人間の自由な感情があってこその芸術だと思います。
 自分が、ある曲を演奏しようと練習しているとき、いつの間にか自分で自分に「規制」をかけていることがあります。むしろ無意識に自分の演奏にある種の「枠」を作っている場合です。
 アマチュア演奏家の場合特に「自分にはできない。」「できもしないことをしている」「アマチュアだからこの程度で満足」などの思い込みがあります。
 プロの場合にも「この作曲者の意図は」「自分の解釈がまちがっているかも」「他の演奏者は…」「好きな曲じゃないのに頼まれたから」などなど、考えすぎと思い込みがあるように感じます。

 自分の演奏技術を自己評価することは大切です。
過少・過大にならずに客観的に評価することは一番難しいことです。
誰かに指摘してもらえる環境、たとえばレッスンや友人の率直な感想は何よりも大切にするべきです。素直にその言葉を受け入れられないほどの自己評価は、やはり思い込みでしかありません。「良かったよ」と言われても信じない。「もうちょっと音量があってもよかったかも」と言われて逆切れする。どちらも自分の思い込みで自分の演奏を評価しているからです。
 評価する人が「素人」の場合と「専門家」の場合があります。素人はまさに言葉の通り、特別な音楽的知識を持たない人やマニア的な聞き方をしない人、演奏技術のない「普通の人」です。この人たちの評価が、実は一番素直です。
 一方の「専門家」の評価が、間違った思い込みによる不幸な結果をもたらします。演奏する側が「アマチュア」で評価する側が、なんの?専門家なのか?によって、演奏者の自由な音楽をぶち壊します。ひとつの例を書きます。
 全国高等学校〇〇オーケストラフェスタ」なるただの合同演奏会で、とあるプロの指揮者(私的には5流ちんぴら)が演奏した生徒たちの講評で、子供たちの演奏を「えっっっっっっっっっらそうに」上から目線で「直せ!」口調で話します。言われた子供たちの中には涙を流す子供もいます。参加者全員がいる前での事です。ありえないことです。これが「プロの指揮者」だとしたら、メトロノーム様をマエストロと崇めたほうが1億倍、素敵な音楽ができると確信します。5流様は良かれと思って話しているから悪意はないのでしょう。
ただ「無知」で「無能」過ぎます。

 演奏者がプロ(専門家)の場合、周囲からの評価はある意味で「死活問題」でもあります。悪く言われれば、次の仕事=演奏の機会がなくなるかもしれないという「恐怖」があります。特に怖がるのは、なぜか?「評論家」の評価です。
 申し訳ありませんが私は「音楽評論家」と言う職業を、害悪としか思いません。なぜなら、彼らは自分で演奏しないからです。自分自身が演奏家であり、他の演奏家の演奏について評論するとしたら、それは評論ではなく演奏者本人に直接伝えるべき「感想」です。たとえそれが「よいしょ」な内容であったとしても、他人の演奏について一般の人に読まれ、聴かれる場で「評論」するのは、思い上がりも甚だしいと思っています。
プロの演奏について評価をする自由があるのは、聴衆と「主催者=雇用主」です。聴衆=素人が何を思おうが自由です。演奏会の主催者が「だめ」と言えばそれも受け入れるしかありません。
 だからと言って、演奏者が怯えながら演奏するのは、自由を阻害されることになります。私を含め、自主公演でコンサートを開く場合、お客様の反応と自分たちの評価を「すり合わせる」ことがすべての基準になります。
 演奏会後に集めさせてもらう「アンケート」用紙に書かれたお客様の、一文字一文字、行間から私たちの演奏への「評価」を読み取ります。次の演奏会に向けて、その評価を基に練習します。喜んでもらえたプログラム、表現など人によって違う自由な感想を、より多く集めることで自分の「思い込み」を正します。
 「絶対」に良い演奏は存在しません。あくまでも「主観」の世界です。
演奏する本人が、自分の思う通りに演奏した結果、ひとりでも喜んでもらえる人がいる演奏会なら、演奏した意味があります。評価を怖がることなく、聴いてくれる人の笑顔と演奏後の拍手を糧に、練習したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

好きな曲・好きな演奏

 動画は、みなとみらい大ホールでの「アルビノーニ作曲 アダージョ」です。
1985年から教員になり、新設校にオーケストラを0から作り、開校6年目で初めて「定期演奏会」を大講堂で開いてから、学校近隣のさびれた公会堂での演奏会を学校に認めさせるために「闘争」。その後、川崎市宮前区の「宮前文化ホール」に会場を移し、さらに当時の「グリーンホール相模大野大ホール」に。そこでもお客様を収容できない。ステージに乗り切れず、生徒が転落ちたら学校は責任をとれるのか!と学校と「闘争」し、最終地点「みなとみらい大ホール」に到達して3回目の演奏会でした。前置き、長くてすみません。
 私の好きなホールをひとつだけ、と言われたら迷わずにこのホールを挙げます。響きの暖かさ、残響時間とその切れ方、舞台裏の広さ、楽屋の数、なによりもパイプオルガンの音色。すべてが私の好みです。収容人数2020人を満席にすることが開催の条件でした。全席無料、全席指定、事前予約で2020枚の予約券はすべてなくなりました。部員の家族だけではなく、一般の聴衆も多かった演奏会でした。
 その大ホールで退職するまでに、4回指揮台に立ちました。毎回、様々な曲を演奏していました。チャイコフスキーの第4番、第5番、第6番(もちろん単一楽章だけです)、シヘラザード、レ・ミゼラブルなどなど。そんな中でも、このアルビノーニのアダージョは私の好きな曲「トップ3」の一つでした。強いて言えば「1番好きな曲」です。

 高校2年生のヴァイオリンソロ、オルガンは中学を卒業し高校で桐朋の作曲科に進学していた元教え子高校2年生。演奏は「危なっかしい」ものです。傷もあります。この演奏に「ケチ」を付けるのは簡単ですが、私には「最高の演奏」に感じます。自分が好きなように音楽を作り、子供たちに「言葉」と「動き」でそれを伝えた、音楽の揺れと流れ。途中、前のめりになりすぎて、危うく指揮譜面台ごと前に倒れそうになってます(笑)なにが?どう?好きなのかを言語化するのはやめます。「やめるんかい!」と突っ込まれそうですが、実際書いても理解していただけるとも思いませんし、人それぞれ感じ方が違うのが当たり前です。

 旋律と和声。歌曲であればそこに詩が加わる音楽。
広い意味で音楽は、和声を持たなくても音楽だと思いますし、現代音楽の中でバッハやベートーヴェン時代の音楽の「和声感」とは異なる音楽も「音楽」です。
ただ、多くの人にとっての音楽と、音楽の専門家にとっての音楽が「乖離」している気がしてなりません。

 たとえば、知らない国の言語を聴いても、意味が分からないのは当然ですよね。意味が分からなくても、ゼスチャーや表情で伝わることも少しはありますが、「声」だけで伝えられるものは何もありません。
 音楽はどうでしょうか?何を伝えているのでしょうか?
絵画にも色々あります。風景、人物、抽象画など。そこに描かれているものが「なに?」なのか理解できない絵画もあります。それを「美しい」と感じる感性。理解できない人には、ただの落書きに見える作品もありますよね。
 クラシック音楽を学んだ人たちにとって(私も含め)、クラシック音楽は「聴きなれた音楽」です。作曲された時代、当時の文化や作曲者の人物像などを「学んだ」上で演奏したり聴いたりします。
 音楽は学ぶものなのでしょうか?学ばなければ、楽しめないものなのでしょうか?学べば楽しいものなのでしょうか?

 自分の好きな音、好きな曲、好きな演奏。
学ぶ必要は無いと思います。偶然に巡り合うものだと思います。探すこともありますが、「好きなものを探す」ことは、本来は不要なことです。
生きている時間に、耳に入ってきた音楽の中で「好きになる」のが自然な出会いだと思います。
 音楽に限らず、「つくる・提供する」人と「使う・受け取る」人がいます。
演奏することは、作る側。音楽を聴くのは受け取る側です。
作る側は、使う人の「喜び」のために作るのが本来の姿です。
使われない、喜ばれないものを作るのは、作る人間の「自己満足」でしかありません。
アマチュア演奏家の音楽は「自己満足」で十分なのです。なぜなら自分が楽しめればそれで良いからです。
人に喜んでもらうための演奏をして、対価としてお金を受け取る「作り手=演奏家」は、自分よりも聴いてくれる人の「喜び」のために試行錯誤と努力を重ねるべきです。自己満足で終わるのであれば、対価求めるのは「図々しい」と思います。聴いてくれる人の中に、その演奏・音楽を「好き」になってくれる人が、一人でもいてくれることを願うことを演奏する側は忘れてはいけないはずです。
 好きな演奏を演奏者自身が探します。そのひとつの「作品」が、上の動画です。
 聴いている人に伝えられるのは、演奏者自身が自分の演奏する音楽が「本当に好きなんだ」と思うことだけかもしれません。そこから先は、聴く人の感性なのです。「いい曲ですよね」「いい演奏ですよね」と、他人に自分の感性を押し売りするのは「無理」だし「うっとおしい」だけなのです。聴いてくれた人が「つまらない」「へたくそ」と感じるのは仕方のないことです。当たり前のことです。その人が悪いのではありません。感性が低いのでもありません。ただ、自分の感性と違うだけなのです。
 自分の演奏を喜んでくれる人に出会うために、コンサートを開きます。
聴く側は、自分の好きな演奏に出会える期待を持っています。
演奏する人間と聞く側の「好き」が一致する瞬間が「音楽」の本質だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

おまけの映像。みなとみらいでの最後の演奏会より、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」より第3楽章です。


(自己主張+受容)×人数=ひとつの音楽=平和

 今回のテーマ、実は生徒さんたちが発表会に向けた「伴奏合わせ」を見ていて感じることでもあります。ヴァイオリンは多くの場合に、誰かと一緒に演奏する楽器です。ピアノやギターのように、ひとりで和声と旋律を演奏することのできる楽器との最も大きな違いです。音楽=曲そのものが、ヴァイオリニストと「誰か」の演奏によって完成されます。日常の練習は、一人で黙々と自分のパートを練習します。
 演劇や映画、オペラなどの世界で言えば、自分のセリフだけ、自分の演技だけを練習することに似ています。当然、他の役者さんのセリフや動きとの「からみ」があることを前提に練習するはずです。ひとつのセリフ、「やめてください」というセリフでも、どんな心理なのか?どんな場面なのか?によって、まったく違う「やめてください」の言い方になるはずです。
 高倉健さんのように、背中だけですべての感情を表現できる役者さんもいます。「言葉は少ない方がいいと思うんです」とは高倉健さんの言葉です。尊敬します。音楽で言えば「余計なことはしないほうがいいんです」違うかな(笑)

 上の動画は、中高生のオーケストラによる「カヴァレリアルスティカーナ間奏曲」の演奏です。子供たちの多くは、楽器に触れて「数カ月」から長くて「数年」の初心者です。その子供たちが演奏しているこの演奏は、「ひとつの音楽」になっているように感じないでしょうか?プロのような演奏技術はありません。それでも何か「一体感」を感じるのです。
 思春期の子供たちです。素直に大人の言う事を聴きたくない年齢です。その子供たち同士をひとつにまとめるために私がしたことは「子供たちの敵になり、お山の大将になる」ことでした。怖がられ、嫌がられ、でも従うとなぜか達成感がある。子供たちをひとつの音楽に向かわせるために、子供たちに自己主張を求めました。こっそり演奏しようとする子供に、合奏中に一人で演奏させたりもしました。すべての子供たちが主役だと思わせました。その中でも上下関係を感じさせました。学年による指導システムを考えました。中2が中1を教えます。中2を中3が教えます。中3を高1が、高1を高2が教えます。これを何年か続けるだけで、すべての責任は高2にあることを全員に理解させられます。どんなに先輩風を吹かせたくても、中学1年生がうまく演奏できなければ高2が全員の前で叱責されます。

 こちらは私たちの演奏したエルガー作曲のカント・ポポラーレです。
先ほどのオーケストラと違い「たったふたりだけ」の合奏です。人数が2人であっても、テーマの公式は当てはまります。二人それぞれが感じて考える表現とお互いを思い受け入れる受容が、ひとつの音楽となります。夫婦だからできる?もちろん、お互いを尊敬しあうことが前提です。憎しみ合う関係で受容することはできません。人数が少ないほど、それぞれの主張が大きく表に現れます。
二人のアンサンブルはオーケストラ以上にひとつの音楽を作り上げることが難しいと思います。自分の音と相手(ほかの演奏者)の音を頭の中で合成させる技術が必要です。自分の音だけに集中しすぎても、相手の音だけを聴いていても頭の中で「ひとつの音」になりません。
 そもそも音楽に限らず、日常生活の中で私たちが聞いている「音」はいろいろな音が混ざり合っていることを忘れがちです。電車やバスの中で、誰かと話している声だけが大きく聞こえるのは「心理」の問題です。音圧、つまり音の大きさで言えば電車やバスの騒音の方がはるかに大きいのに、会話の内容が耳に最初に入ってきます。
 静かな場所で演奏すれば、小さな音でも存在感は大きなものになります。
演奏している音楽を、聴いている人の「聴こえ方」として考える場合、電車の中の話し声のように「心理」を利用することも重要です。
 得てして演奏者は自分が演奏している音楽を、聴いている人も自分と同じようにその音楽を知っているような「錯覚」に陥ります。初めて聞くときの「期待」と「安心」と「驚き」があります。音楽を一つのストーリーとして考えると理解しやすいことです。映画やドラマの「冒頭」から始まり、見る人の緊張感や不安感、安心感や悲しみを誘い出す「台本・演出・脚色と演技」が「楽曲と演奏」です。
聞く人にどんな感情を残したいのかを考えるなら、自分の演奏を初めて聴く人の立場に立ちもどって考えることが、なによりも大切な練習になると思います。

 聴きながら演奏することは「慣れ」が必要です。
頭のなかで色々な事を考えれば考えるほど、体の動きは制約されます。
肉体の反応は、ぼーっと脱力している時が一番「俊敏」なのです。動かそうとすればするほど、遅く鈍くなります。

 自分と相手の音を聴き「ひとつの音」として聴くために、ひとりで練習する時に、自分の出している音を無意識に出せるようになるまで繰り返すことが不可欠です。自分の演奏に気を取られている限り、他人の音に反応することができないからです。ひとりずつの練習は、常に相手が何をしているのかを考えながら練習しなければ、先述の「やめてください」というセリフを、どのように演技するのか?決められないのと同じです。そして、常に「初めて聴く人」の耳で自分たちの演奏を客観的に聴く練習をしたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

グリッサンドとポルタメントは色っぽい?

 今回のテーマは、ヴァイオリンの演奏技法の中で言う「グリッサンド」と「ポルタメント」についてです。
あまり難しく考えずに、直感的な言葉で書いていきますので、お読みいただければ幸いです。
 上の動画はフィビヒ作曲の「ポエム」です。
音のつなぎ目を無段階に音を変化させてつないだり、音の出だしにその音より低い音から無段階に、ずり上がるように演奏し始める演奏方法があります。
 特殊な例として、その音より高い音から始めたり、最後に高い音に跳ね上がるように演奏する場合もあります。
昔の女性アイドル、たとえば松田聖子さんの歌い方。思い起こせますか?
 ヴァイオリンの場合、音と音の間を「なめらかにつなげる」場合と、「はっきり区切る」場合があります。単にレガート=スラーなのか、弓を返すのかという問題ではなく、音の高さの「差」を埋める方法です。

 こちらはマスネー作曲のタイスの瞑想曲。多くの方が演奏し「この曲をひけるようになりたい」という生徒さんも多い曲です。
 ピアノやハープのグリッサンド奏法で出せる音は、「音階」です。厳密に言えば、1オクターブを12等分した「半音」が最小の差で、その倍の「全音」との組み合わせです。
 他方、弦楽器や声=歌トロンボーン、まれにクラリネットやサキソフォーンなどで多く用いられるグリッサンド奏法は「半音」よりもさらに細かく、無段階に音の変化をさせる奏法です。

 さて、ヴァイオリンを演奏する際に、基本はひとつずつの音の高さを明確に区切って演奏することです。言い換えれば、発音する時間から終わる時間までビブラート以外のピッチを変えない演奏です。わかりやすく言えば「オルガン」の音のように明確に音の高さが聞き取れる音です。
 ある音から次の音への「高さの差」をすべてグリッサンドで埋める場合もありますが、多くの場合は次の音の「少し前の時間」から「少し高い音」または「少し低い音」からその音に到達する方法を用います。
 「意味が分からん」と言われそうです。
下の動画の中で時々聞こえる「にょ~ん」(笑)探してみて下さい。

 いかがでしょう?聞き取れました?
ちなみにこのグリッサンドやポルタメントを加えると
「いやらしい」「ねばっこい」「いろっぽい」「あまったるい」
そんな印象を感じませんか?感じ方は人それぞれなので正解はありません。
どんな飾りや調味料でも、多すぎるとねらった美しさやおいしさを表現できず、飾りや調味料「だけ」の印象が強くなってしまいますよね?あくまで「自然」に感じる量が肝心です。
グリッサンドが多すぎると、しつこく感じ、不自然に感じます。
あくまでも「意図的に」加え、聴いていてちょっとした「アクセント」にとどめるべきです。もちろん、グリッサンドをまったく加えなくても音楽は素敵です。
必要不可欠な奏法ではありません。ただ「味つけ」として、この演奏方法を使いこなすことも大切な練習だと思います。

 下の動画はパラディスの作曲したと言われるシシリエンヌです。
色々なヴァイオリニストの演奏を聴いて、自分の好きなグリッサンドを探すのはとても楽しいことだと私は感じています。できる出来ないよりも、自分が美味しい!と思った味を自分で再現してみる「楽しさ」を感じます。最後までお読みいただき、そして最後までお聴き頂きありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

家族と音楽

 何度も夢に出演してくれる私の両親と兄です。
父を見送り、父を追う母を見送ってからずいぶん時が経ちました。
子供の頃、喧嘩にもならない年の差で思春期には「大嫌い」だった兄と、今はまるで仲良し兄弟笑)
 動画は、渋谷牧人さんの作られた「はるの子守唄」を私のヴィオラと浩子のピアノで演奏したものです。映像は、父の思い出のために以前作ったスライドショーです。

 生徒さんを教え、自分たちで演奏し、思うようにいかない生活をしながら思う事。「なぜ音楽に関わって生きているのか」という命題です。
 どんな生徒さんにも、生んでくれた親、育ててくれた親がいます。
すべての人が同じように両親と、仲睦まじく暮らしてきたとは限りません。
複雑な事情を抱えて生きてきている人たちもたくさんいます。
はたから見ただけで「幸せそう」と決めつけるのは間違いです。
人には言えない、その人の心にしまわれた「歴史」もあるのです。
両親と言う言葉を、敢えて使わせてもらうのは、私が幸せなことに、両親の間に生まれ両親に育てられた子供だからです。それがどんなに幸運だったのか、今更思うのです。

 音楽を学ぶことができ、自分で選んだ道を歩いて来られたのは、両親の愛情があったからです。困ったときに、笑って応援してくれた父がいました。父のわがままを「まったくもう」と言いながら受け入れていた母がいました。
 音楽を演奏できるのは「自分の力」と思い込んでいる人がいます。確かに本人の努力がなければ、演奏は上達しません。

すべての人が母から生まれ、今日まで生きてきました。どんな人間であっても、母親が命がけで生んでくれた「子供」なのです。
 私が音楽を演奏することを、両親は何よりも喜んでくれていたと思っています。小さいころから、そうでした。だからきっと、私は音楽に今も関わって生きているのだと思います。
 私が学校で働くことを父は望んでいませんでした。おそらく私への「期待」を裏切られたと感じたのだと思います。二つの原因があったようです。
私がヴァイオリンと言う楽器から離れて行く寂しさ。
私が演奏家になることを夢見ていたこと。
確かに教員時代、私はヴァイオリンを演奏することへの情熱を失っていました。
数年で退職するつもりだったのが、「住宅ローン」と言う足かせを自らつけてしまって、辞めるにやめられない状況で20年という時間を過ごしました。
 退職時に起きた「事件」の中に家族との断絶がありました。
両親を説き伏せる気力もなく、ただ死なないために生きていました。
 私がヴァイオリンを手にして、再び演奏を始めて浩子との最初のリサイタルに両親は揃って聴きに来てくれました。満面の笑顔で演奏後に「お小遣い」をくれた父を忘れられません。その後も、私たちのコンサートには必ず二人そろって来てくれました。両親が施設で生活するようになってからも、施設内でコンサートを開かせてもらいました。

父が亡くなり、母の認知症が進行した頃、恐らくリサイタルに来られるのが最後になると感じました。施設長自ら運転し、藤沢から代々木上原まで母を載せてきてくれました。帰りは生徒さんのご家族に施設まで私たちと一緒に、母を送っていただきました。
 母が亡くなる直前、施設に二人で伺いロビーに車いすで連れてきてもらった母に、私たちの演奏をスマホを母の耳につけて聴かせました。顔色が変わり、目に生気が戻ったように感じたのは私の思い込みかもしれません。

 人が生まれてから死ぬまでの時間の中で、人に喜んでもらえることがどれだけできるでしょうか?
 私の場合、一番多く喜んでくれたのは家族だと思います。一番怒ってくれたのも家族でした。その家族から教えられたのが「音楽」だったのかもしれません。
母は若い頃に通っていた同志社の時に覚えた讃美歌を、足踏み式オルガンで演奏できる「演奏技術」を持っていました。父は演歌が大嫌いで、藤山一郎からパバロッティに「押し」を変える「聞く専門」の人でした。兄は私との「不可侵条約」なのか、幼い頃から一切音楽に興味を持たず、スポーツ万能な戦うサラリーマンです。そんな家族の中で、私がこうして音楽に関わっていることは、結局両親の「願い」だったのかも知れません。私自身、そのことに感謝しています。
 お子さんをレッスンに通わせている「親」たちに伝えたいのです。
親が願うことです。親が子供に夢を見ることです。子供の能力を信じることです。自分の能力とは関係ありません。子供が好きな道を進むときも、親の夢は持ち続けてほしいのです。子供の人生に、一番関わるのが「家族」だからです。
 最後に、私の現在の家族である浩子「姫」とぷりん「姫」、浩子のご家族、兄の家族に、心からの感謝を伝えたいと思います。ありがとう!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

ヴァイオリン演奏と力

 動画は、ヴァイオリンの演奏とは一見、無関係のように感じますが、楽器を演奏することは「運動」を伴う事なので、とても参考になる動画です。
動画の中で「意識」と「無意識」という言葉が良く出てきます。

 ヴァイオリンを演奏する時に、私たちが必要とする運動を意識したり、無意識だったりします。指の動き手首の動き、肘の動き、肩の動き、首の動き、胸の筋肉の動き、背中の肩甲骨や筋肉の動き、前後のバランスを保つ腹筋と背筋、腰の周りの力、股関節に入れる力、膝の関節の曲げ伸ばし、足の裏の感覚。
これらは「無意識」の中でも何かしらの「仕事」をしています。

 自分の出したい音色や音量、ポジション移動やビブラートを練習する時、自分の身体なのに、「思ったように動かせないこと」があります。
音楽的な「力」を考えると、アクセントやスフォルツァード、フォルテピアノなどのように「瞬間的な力」を感じる場面と、クレッシェンドティミニュエンドのように「徐々に」力が増えたり減ったりする場面があります。
発音の瞬間のアタック、急激に弓をとめる運動、ダウンからアップ・アップからダウンに代わる瞬間の運動など、音楽で力を度外視できません。
演奏家の多くが「運動音痴」です。幼い時から手や腕にケガをすることを避けて、球技に縁のない人が多いのも現実です。武道にはもっと無縁です。
ヴァイオリニストの五嶋龍さんは、幼いころから空手を習い黒帯だそうですが、彼の演奏姿勢にはその「気」を感じることがあります。

 ヴァイオリンを演奏する時、どうしても「指」と「手首」と「腕」に気持ちが集中してしまいます。当たり前ですが、指は手のひらに、手のひらは手首に…とすべての部位が「連携」しています。足の裏から頭のてっぺんまで、どこも「離れていない」のです。ヴァイオリンと弓という「道具」を自分の身体のどこかで支えたり、動かしたり、力を加えたりします。言い換えれば、楽器と弓だけが「体から離せる」存在です。楽器や弓は人間の力がなければ、動くことも音を出すこともできません。
 自分の身体の「延長線上」に楽器と弓があります。

 ヴァイオリンを演奏するために必要な「力」は、常に「ヴァイオリンの内側」に向かってかかる力です。
 弦を押さえる左手の指の力は「ネックの中心」に向かう力です。その力の反対方向の力=支える力を、左手の親指・鎖骨・顎の骨と表皮で作ります。この「上方向」への力は、左腕を持ち上げるところから始まっています。
 左手を、ファーストポジションの位置に持っていくとき、
手前から手を伸ばしがちですが、腕を支えるのが「肩の筋肉」だけになりがちです。自然に腕を伸ばした状態で、肩を動かさずに左腕を「振り子」のように前方に持っていくことで、腕全体を背中と胸の筋肉が支えてくれます。
 ヴァイオリンを無理に持ち上げようとする力も有害です。
鎖骨に楽器を乗せる。首の皮と顎の骨を、楽器の上から「下ろす」ことで楽器は保持できるはずです。
 左肩の位置を決定するために、胸の筋肉と背中の筋肉が、どちらにも無理のない位置を探すことが大切です。前に出しすぎれば、背中の筋肉が必要以上に固くなります。肩が後ろすぎると、胸筋が伸び切り背中にも無駄な力が生まれます。ちょうどいい位置に「肩を落とす」ことです。

 右腕を上げる時にも、首の筋肉に力を入れずに、右手のこぶしが「おへそ」の前に来る辺りで止めます。右肘を「前・上方向」に動かせば、演奏する時の右ひじの位置を理解することができます。肘の高さ=体からの距離は、演奏する弦によって変わるものです。弓の元で、右ひじを上げることで「元弓のつぶれた音」を出さなくてよくなります。アップで元に近づくにつれ「窮屈な音」が出ている人は、ぜひ右ひじを「斜め後ろ・上方向」に引き上げてみてください。この時に首の筋肉に力をいれないことです。肩の関節を頭の方向に引き寄せてしまうと、肩が上がって自由がきかなくなります。「肩を下げたまま、腕を上げる」感覚を覚えることです。

 弦を弓に押し付ける「力」は、弓の重さと右手の「親指と人差し指」の逆方向への力で生まれます。親指を「上」へ、人差し指を「下」へ。この力を指だけで作る場合と、「前腕の回転=反時計回り方向へのひねり」で作る場合があります。指の力は瞬間的な運動に適しています。腕の回転運動は「大きな力の持続」に適しています。このふたつの運動で、弓の毛を弦に押し付ける力を生みます。

 腹筋と太もも、膝の関節について書きます。
女性の場合、ロングドレスで脚の開きや、膝の曲がりは見えません。男性の場合どうしても「足元を見られる」ことになります。見た目はどうでも良いのです。
パールマン大先生以外のヴァイオリニストは、足の裏ですべての「重さ」を受け止めます。女性の「ヒール」に関しては、未経験なので書けません。ごめんなさい。男性でも、少しヒールの高い靴の場合、重心が前よりになることを感じます。足の裏、全体に重さを分散し、強く「地面に押し付ける」イメージで立つことをお勧めします。膝の関節を伸ばしきると、脚は「硬い1本の棒」になってしまいます。上半身の上下・左右の運動を吸収できるのは「膝」なのです。。
太ももに力を入れ、腰を安定させて且つ「回転運動」が出来る柔軟さを持つことで、上半身の「回転方向の力」を吸収することができます。
「回転なんてしてない」と思うのですが、右腕を大きく、速く運動させる場合に、体を「ひねる」力が生まれます。前後・左右の運動が組み合わされると「回転運動」が生まれることになるからです。太ももと腰で、上半身を支えるイメージです。

 自分の身体の筋肉を「無意識」に「合理的に」使って演奏するために、一番楽な姿勢から、どうすれば「大きな力の速い運動」ができるのか?を意識して練習することが大切ですね。筋肉が疲れる演奏方法は、どこか間違っている場合がほとんどです。「思い込み」を捨てるために、常に初心に戻り、初めてヴァイオリンを構え、初めて弓を持ち、初めて音を出す「イメージ」で練習することも必要です。初心者のレッスンをしていると、いつも自分ができていないこと、忘れていることを教えられます。「初心忘るべからず」ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介