40年経って変わること・変わらないこと

 ヴィタリ作曲「シャコンヌ」です。上の動画は今年1月に演奏したもの。下の動画は40年前の演奏。

 使っているがヴァイオリンは同じです。ヴァイオリンを弾いている人間も同じです。
 ピアニストと解錠は違います。
共通して「不安定」です(涙)
音楽から感じているものは変わっていないようです。テンポや音量、歌い方は微妙に違いますが「やろうとしていること」は変わっていません。
 40年経っても「好み」は同じだという事かも知れません。もっと技術的に成長していてほしかった(笑)
 音楽を「感じる」感覚は人によって違いますが、時が経っても変化しないことを実感しました。
 ただ演奏を聴いてくれる人にとって、この二つの演奏の「違い」は明らかにあるはずです。より「好き」な演奏もあると思います。
 自分の技術が足りないと感じることがあっても「感じること」だけには誇りを持つべきですね。
 あなたはどちらの演奏がお好きですか?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の重さ・指の重さ

 写真は世界一、手触りの良い肩当て「ぷりん」(笑)
 リサイタルに向けて。地球の重力を最大限に利用しています。
 卵のLサイズ1個の重たさは約60グラム。ヴァイオリンの弓の重さも約60グラムです。この「重さ」には理由があります。弦と弓の毛の「摩擦」は、弓の重みだけでも発生します。ダウン・アップ方向に動かす運動のエネルギーは、人間の腕によって作られます。弓の60グラムの重さをうまく弦に「乗せる」ことが如何に難しいか?逆に言えば、押し付ける力を指で作ってしまうのは簡単なことです。まして、2本の弦を同時に演奏し続ける場合、圧力で2本を演奏しようとする気持ちが無意識に生まれて今いがちです。
 左手の「指」にも重さがあります。
指1本の重さを測ることは出来ませんが(笑)、弦の振動を「止める」ことさえ出来れば、必要以上の力で弦を押さえることは無意味です。
 指を「弦に落とす」イメージ。指の「速度」を重視することです。
 左手の指が「弦の上を滑り動く」映像を過去の偉大なヴァイオリニストの演奏で見られます。どんなときにも「楽器」を中心に、身体で包み込む意識をもって演奏しています。
 今度のリサイタルでその「途中経過」が発揮できることを根差しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

右腕と左手の「分離」

 映像は、ユーディ・メニューインの演奏動画。
私が学生時代にメニューインの書いた演奏技法に関する本を何度も読み返していました。当時は、カール・フレッシュの分厚い演奏技法に関する本もありましたが、両者ともに「理論的」に演奏を解析しているものでした。
当時は「意味わからん」と(笑)内容を把握していなかった気がします。
 現代の若手ヴァイオリニストたちの技法とは完全に一線を画す演奏方法です。大きく違うのは「右腕の使い方」です。もちろん、左手のテクニカルな面でも当時と今では明らかに違います。
 演奏の自由度=音色の多彩さが今とは比べ物にならないほど大きかった気がします。言い換えれば、現代のソリストたちに共通して感じられるのは
「音量」と「正確さ」を競うための技術が優先しているように感じます。
ハイフェッツやオイストラフ、シェリングやメニューインが「技術が低い」のではなく、演奏技術のベースに「音色のバリエーション」が必ずありました。ヴィブラート一つ取り上げても、パッセージや一つ一つの音単位で、速さと深さを変えていました。また、右腕に至っては、まさに「ヴァイオリンの基本はボウイング」だと思わせるものがありました。
 以前にも書いたように、ヴァイオリンは音量の「差=幅」の少ない楽器です。クラシックギターやハープ、チェンバロに比べれば、多少なりとも大きな音量差は付けられますが、ピアノなどと比較しても「音量の変化」は微細なものになります。だからこそ、音色の変化量で補う一面があります。

 今回のリサイタルに向けて、左手の「力」を必要最小限に抑えることを心掛けています。特に親指をネックに充てる力を意識しています。
右手の親指も、無意識に必要以上の力を入れていることがあります。
左手の場合、必要最小限の「運動量」で演奏することで、自由度が増し移動も速く正確になることが感じられました。一方で、左腕の運動が左手につられて小さくなってしまうことに気づきました。
 意識の中で「力を抜く」「無駄に動かない」と考えているうちに、右腕も引っ張られて(笑)運動が手先に偏ってしまう傾向があります。
 演奏し長ら「エネルギー」が欲しい時に、つい両腕に力が入ってしまう。本来は右腕おt左腕は「まったく違う役割」を持っています。当然、力の量も違います。なんとなく、両方の腕に同じ力がかかったり、力が抜けたりするのは「独立=分離」が出来ていないためです。これはピアノでも他の楽器でも同じことが言えるのだと思います。わかりやすいたとえで、ドラムの演奏動画をご覧ください。

身体のすべてが「音楽」「楽器」になるドラマーと言う演奏者を見ると、私の悩みがちっぽけ(笑)に感じます。
 技術は音楽のためにあります。考えることと感じることは、お有る意味で「同じ」またある意味では「別桃の」です。感じたことを表現し、表現したことを感じる連鎖が演奏です。
運動と感性も同じ事です。右腕と左腕が別荷動きなら、ひとつの音を出す。
考えなくても思ったように動かせるようになるまで、考え抜きたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の毛替えを考える

 写真は私が20歳の頃から愛用している「本番用の弓」です。
当時、弓に強い関心があってヴァイオリン職人で、楽器を斡旋してくれた田中さんにも相談していました。「自分の足で楽器屋を回って、良いと思った弓を持っておいで」とアドヴァイスされました。東京近郊のヴァイオリン専門店を回り、自分で「これだ」と思った弓を数日、貸し出してもらって南青山の田中工房へ。
 「この弓のどこがいいんだ?返してこい」の繰り返しを約1年間続けました。
この「勉強」は今も役に立っています。「北の狐」と隠語で呼ばれていた、東欧のヴァイオリニストたちが日本に来た際、外貨稼ぎに自分の弓を売っていた時代でした。その中の1本が、田中さんの手元に入り「これで弾いてみな」といわれててにしたのが、この弓です。都内で借りていた「有名な弓」よりはるかに安い金額で購入することができました。
 レッスンで久保田良作先生に弓を見て頂きました。「ほ~!違うものだね!」と大変気に入ってくださいました。その後、先生の演奏会や録音があるたびに「野村君、弓を貸してくれる?」と仰り、何度も演奏会で使って頂いた弓です。

 弓の毛は消耗します。馬のしっぽの毛は、表面に無数の凸凹があります。そこに松脂が「粘着質」なこぶを作り、弦との間に摩擦が起きて「音が出る」仕組みです。演奏すれば、少しずつ凸凹が小さく=薄くなります。松脂がいくら毛になじんでも、凸凹がなくなれば摩擦が長続きしなくなります。
 さらに馬のしっぽの毛は、人間の髪の毛と同じで、皮膚から離れた時から栄養が供給されず「経年劣化」します。水分と油分が抜け、細く・硬く変化します。
 加えて演奏中に何本かの毛が切れていきます。演奏の仕方や曲にもよります。
「どのくらいの頻度で張り替えればよい?」と聞かれることがあります。
諸説あり「200時間程度演奏した」と言う説や「1年ごとに」と言う説もあります。毎日演奏していると、なかなか気付きにくいのですが「摩擦が減った」感覚と「毛の弾力が減った」に注意することです。張り替える技術を持った職人さんはたくさんいます。弓の毛替えは、ヴァイオリン職人にとって「基本の技術」でもあるようですが、その技術差は明らかにあります。誰でも同じ…ではありません。
 自分の大切な弓の毛替えをしてもらう人を選ぶ「基準」について。
「目の前で毛替えしてくれる職人」かどうか?私はこれに尽きます。
実際、私の弓(写真の弓)の毛替えは、今まで数人の職人にしかお願いしていません。そのうちお二人は、私の目の前で20~30分で毛替え作業を終わらせてくれていました。作業しながらお話を聞かせてもらえる「技術」があります。
 楽器の修理の場合でも「信頼できる人」かどうか?の見極めは、目の前で作業を見せられう人か?見せない人か?ですぐに判別できます。もちろん、時間のかかる作業もあります。私の知る限り、剥がれの修理は1か所であれば、その場で終わらせられます。固定し完全に乾く間、職人さんに預けることがあっても信頼できる職人さんなら問題ありません。「作業を見せられない」と言う職人さんを信頼することは不可能です。

 弓の毛の「長さ」と「量=毛の数」と「張り方=バランスや重なりの有無」が悪ければ、演奏しにくくなります。演奏者の好みもあります。
 私は弓の毛を、可能な限り弱く張って演奏します。演奏する際の「張りの強さ」と「弓の毛の長さ」には大きな関連があります。
 強く張って演奏したい人は「毛箱」がスクリュー側に寄ります。
逆の場合、弓に巻いてある「革」と毛箱の隙間が狭くなり、毛箱が弓の中央に寄ることになります。
 結論として「毛替え」を任せられる職人さんとの出会いがなければ、安心して演奏することができないことになります。人間の身体と同じです。信頼できる医師に診察してもらわないと不安ですよね?楽器は「言葉を話せない」ので、赤ちゃんと同じです。何をされても言葉に出来ない楽器や弓だからこそ、信頼できる職人を探しましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器を動かさずに演奏する技術

 映像はヤッシャ・ハイフェッツの演奏するウィニアウフスコーのポロネーズ。
 何から何まですごいのですが、どうして楽器が動かないんだろ?と以前から疑問に思っていましたが、今自分が練習していて、「どうして楽器が動くんだろう?」と言う逆の疑問にぶち当たりました。あれ、同じか(笑)
 特に速い運動=ポジションの移動があると、無意識に楽器が揺れ動いてしまう。肩当てをしているのに、楽器と身体を一緒に動かすことは出来ても、楽器の「不用意な動生き」を止めて静止できないのは致命的。
 原因を探りつつ、なんとか楽器の動きを最小限にしたのです。今のところ、左手の親指の問題と、左腕の動き=ぽぞしょん移動のための左右の動きが、左鎖骨周りの筋肉を大きく動かしていることが原因らしいこてゃ判明しました。左腕をネックを「中心」にして回転させる運動で、左肩の骨が動き、鎖骨の前の筋肉が収縮することで楽器の揺れに繋がっています。され…どうやって、この動きを小さくすればいいのでしょう?

肩当て、なしで演奏すれば鎖骨に楽器を「乗せる」だけなので、筋肉の動きに影響されないはず。ただ、今更50年間以上「肩当て」に頼って演奏してきた自分です。できるのか?
 うーん。謎は終わらないのでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリン演奏時の「音量」を考える

 映像は、先月木曽福島で演奏した際にコンサートを主催した教育委員会がホームビデオやスマホで「客席」から撮影・録音した映像をつなぎ合わせたものです。当然、録音用のマイクも使用せず言わば「客席で聴こえあた音」に近い状態の動画です。周囲の雑音も録音してしまいますが、会場で響く「音」を演奏者が直接聞くことは不可能です。どんなバランスで?どのくらいの音量で?お客様に聴こえているのか?知りたくても実際にその場で確認することは出来ません。だからこそ、経験をもとに「勘」で音量を決めるしかないのです。会場によって、ピアノとヴァイオリンの「聴こえ方」が違います。客席の場所によっても変わります。それらすべてに対応することは現実的に無理です。一方でレコードやCD、テレビ放送の「録音」の場合、ソリストの音を大きく録音できます。バランスを演奏の後からでも変えられるのが録音です。一昔前、ピアノとヴァイオリンの録音をするときには、ピアノを遠くに配置し、ヴァイオリンの近くにマイクを立てて録音しました。そうすることで「バランス」を作っていました。
 つまり私たちが家やスマホなどで聴く「バランス」は実際にホールで聴くバランスとはまったく違うものが殆どだと言う事です。
 考えてみれば「ヴァイオリンコンチェルト」では、ソリスト以外にヴァイオリン奏者がファースト・セカンドそれぞれに、10人以上、合計すれば20人以上のヴァイオリニストがソリストのヴァイオリンと「同時に」演奏するのです。どんなヴァイオリンであっても、通常のヴァイオリンの20倍の音量が出せるヴァイオリンは地球上に存在しません。あるとしたら「エレキヴァイオリン」です(笑)

 大ホールで編成の大きなオーケストラとソリストが共演する…収益率を考えれば集客力の高い「有名ヴァイオリニスト」であればあるほど、大人数を収容できる大ホールを選ぶのが現代のコンサートです。ただ、聴く側の立場で考えた場合、どんなに優れたヴァイオリニストの演奏でも、例えば4階席の一番後ろの席から舞台上のソリストを「オペラグラス」で見るようなコンサートが楽しいでしょうか?東京ドームや武道館での「ライブ」の際に「5千人」「2万人」の人が集まって「聴くことができる」のは音響技術=P.A.があるからです。電気的に増幅した「声」や「楽器の音」を会場中に設置したスピーカーから大音量で鳴らします。確かにテレビやヘッドホンで聞くより「大迫力」の音量です。そう上に、会場中の人と一体になれる興奮を味わえるのもライブの醍醐味です。
 クラシックのコンサートにもこの「大会場」を持ってこようとするのは、無理があると思いませんか?事実、3大テノールのコンサートや、野外に巨大なテントで屋根を作ったオーケストラのコンサートでは「マイク」を何10本も立てて収音し、ライブと同じ「音響装置」で会場や屋外で聴く人に「電気的な音」を大音量で聴かせたものもあります。
 これはクラシック演奏の概念を変えるものです。仮にマイクで収音し、ミキサーやエフェクターを通して音を増幅するのであれば、ヴァイオリニストに「音量」を求める必要がありません。クレッシェンドだろうがピアニッシモだろうが「ミキサー」が操作すれば簡単に、かつ物凄い音量変化量でお客様に音を届けられます。音色も機械で操作できます。
 バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの時代から、現代の作曲家に至るまで「アコースティック演奏」つまり、生の音で演奏を楽しむ前提で楽譜が書かれています。
 いつの間にか「録音技術」が生まれ、次第にアコースティックから「電気的な細工」をするのが当たり前の時代になっているのです。「私は生演奏しか聞かない!」と言うクラシックの演奏かは、いないはずです。若い頃に、カセットやラジオの音で勉強したのではないですか?文明を否定するのは愚かなことです。その時代の文明…録音技術や機械技術、製鉄技術の発展で、楽器も進化しています。
 とは言え、クラシックの楽譜は生身の人間が演奏した音を、楽しめる「容積=大きさ」の場所で演奏することが前提のはずです。
 500人収容のホールでも、一番後ろの席で聴く音は、楽器が出す「直接音=ダイレクト」な音ではありません。反射音です。それ以上大きなホールなら、さらに小さな音しか客席後方には伝わりません。
 ヴァイオリニストに「大音量」を求めるのは間違っていると思います。ピアノと一緒に演奏して、100人ほどのお客様で満席になる程度の「容積=大きさ」の会場で、お客様が気持ちよく音楽を聴くことができる「音量」があれば、十分だと思っています。それ以上の音量が必要なら、マイクで収音すればよいだけです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

柔らかさと安定感と力のバランス

 映像はオイストラフの演奏するブラームス、ヴァイオリンコンチェルト。音色の柔らかさと力強さが大好きです。丸々とした体形はドラえもんチック(笑)ですが、時にシリアスに時にメランコリックに、ダイナミックにも演奏できる技術。憧れます。
 今回のテーマは「柔らかさと「安定感」と「力」について、。関連のなさそうなことですが、演奏する上で身体(筋肉と関節)を動かす時に常に考えなければならないバランスです。

 ます「柔らかい物」で連想するものは?
マシュマロ・プリン・つきたてのお餅←食べ物ばっかり(笑)
 手触りとして感じるものに、ふかふかのお布団やモフモフの猫や犬の毛、泡立てた石鹸などが連想できます。その「柔らかい物」を強い力で押せば?潰れてしまいます。また、柔らかいものを動かせば?ふわふわと不安定な動きをします。
 つまり「柔らかさ」と「力強さ」「安定感」は反比例することになります。
 固いものならば、強い力に耐えることができ、安定した動きを続けることが可能です。
ならば、演奏中の「筋肉・関節」は固い状態=力を入れた状態の方が、安定感と力強さを両立できることになる気がしますよね?実際にはどうでしょうか。

  映像は男子の「床」演技。どの技をひとつとっても見ても、素人の真似できそうな技はありませんが(笑)身体の柔軟性と、スピード(瞬発力)、力技、バランス感覚など人間の肉体が持っている「運動能力」がすべて疲れている気がします。ヴァイオリンの演奏と比較すること自体、間違っている部分もありますが、テーマを考えると?同じことが楽器の演奏にも求められていることがわかります。「固い=安定」ではなく、「柔らかい=與斉」でもないことが見てわかります。
 ヴァイオリニストの中には「見た目には柔らかそう」な動きをしているのに、音が硬く美しさに欠ける演奏になっている人の演奏も見受けられます。「見た目」と「筋肉・関節柔軟性」は別物です。力にしても「表情」や「雰囲気」と無関係にか細い演奏もあります。

 楽器を演奏するために必要な柔軟性と強さは、一般的な秋力や背筋力、体前屈などでは測れないものが多くあります。むしろ、計測できない柔らかさと筋力が必要になります。
 一つの例が、指を「開く筋肉」です。握力は「握る力」ですから真逆の力です。
 また、肘を「伸ばす力」も一般のトレーニング機器ではなかなか鍛えられません。「カール」の逆の力です。外側に開く力でもあります。
 手首を横に動かす可動範囲を広げることも柔軟性の一つです。掌を下に向けて、左右に動かせる角度の大きさです。

 柔らかい動きを作り出すのは「太く柔らかい筋肉」です。同じ筋肉を瞬間的に速く動かす時にも「瞬間的に力を抜かための筋力」が必要です。
 演奏しながら身体の「どこか」が筋肉痛になることがありますよね?間違った使い方でいたいのか?正しい使い方をし始めたから痛いのか?見極めることが大切です。
 筋肉は一朝一夕には太くなりません。柔らかくもなりません。演奏補法を変えれば、今までと違う場所が筋肉痛になるものです。
身体を労わりながら、必要な「ストレッチ」と「筋力の増強」を考えた練習をしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

ヴァイオリンを「習い」「教える」

 今回のテーマは、自分を戒める気持ちを込めて書きたいと思います。
 ヴァイオリンに限ったことではありませんが、「楽器の演奏を習う」時、師匠(先生)と弟子(生徒・門下生)が存在します。誰にも習わずに、独学で演奏技術を身に着けられる人もいます。それらの人の事を「自己流」と呼びますが、実はどんな演奏かも最終的には「自己流」だと思います。師匠の弾き方を真似をしても、それは「真似」でしかありません。師匠が考えて到達した演奏方法や解釈を「真似」することを「習う」と言うのでしょうか?疑問を感じます。

 芸は盗むもの…古典芸能は「一子相伝」の部分もあります。習って身につくものではないという考え方は、ある意味で的を射ています。「教えてもらえば(習えば)師匠のように出来るようになる」と言う、弟子(生徒の)の安直な気持ちを戒める意味でも正しい事だと思います。

 ヴァイオリンを「習った」私が、今現在生徒さんに「教える」と言う事の意味を考える時に、本当に正しいことを教えているのだろうか?と言う疑問を常に考えてしまいます。
私の恩師は決して音楽を「押し売り」されませんでした。冒頭の長沼由里子さんは同門の尊敬する大先輩のおひとりです。長沼さんに限らず、私の恩師である久保田良作先生は素晴らしいヴァイオリニストでありながら、ご自身のヴァイオリン演奏を弟子に押し付けられたのを見たことがありません。レッスンでは素晴らしい声でフレーズを歌って教えて下さることが多かったのを記憶しています。もちろん、先生ご自身のヴァイオリンを手に取って「サラッと」弾いてくださることもありました。でも、決してその演奏方法を「こう弾きなさい」とは仰いませんでした。
 もっぱら指摘されるのは「形」「力」時に「姿勢」でした。発表会で演奏し終わった後の「天の声」先生からのメモにも「ひじ」「手首」「首」などの言葉が書かれていました。

 演奏の「テクニック」「解釈」も最終的には自己流になります。筋肉の付き方、骨格、柔軟性などが「全く同じ」人は一卵性双生児かクローンでなければあり得ません。
 自分が最も「演奏しやすい」方法で演奏することを「自己流」と考えるのは自然なことです。自分と違う筋力・骨格の生徒さんに、自分の演奏方法で演奏させることが「正しい」とは思いません。生徒さんができ鳴った時に「できなくて当たり前」つまり、自分とは身体の作りそのものが違う事を理解してから指導すべきです。
 習う側…生徒の立場で考えれば「出来ない」原因と「出来ているつもり」で実は出来ていないことを指摘してもらえるのが、レッスンの意味だと思います。
 出来ない原因の多くは、先述の通り「骨格・筋力」の違いと「動かし方の違い」です。以前のブログで書いた「脳からの指令」つまり考えて身体を動かす訓練は、どんな運動にも必要だと思いますが、肝心の「運動能力」はすべての人が違う身体で、違う能力を持っています。
 練習によって出来るようになることなら、教えても良いと思います。ただ、その練習で生徒さんが不必要に苦しんで、さらにストレスを感じ、最終的に楽器の演奏から離れてしまう悲しいことになるケースも見られます。
 「教えてはいけないこと」もあると思います。それは「考えることを省かせる」結果につながる内容です。例えば「音楽の解釈」もっと具体的に言えば「歌い方」「音符の長さ」「ルバート(自由に揺らす演奏)の仕方」などを安易に真似させれば、生徒は考えずにその通りに演奏するでしょう。そして「うん。これが良い」と思えば、教える側も嬉しくなってしまいます。「ネズミにチーズを一切れ与えれば?」当然、次のチーズをもらいたくなります。自分で考えることこそが「自己流」である演奏技術につながることです。
 生徒さんに教えて良い事とは?
哲学的になってしまいますが「真理」だと思っています。どんな人にも共通すること。それは科学的にも肯定されること。それが真理だと思います。人によって少しでも「意義」の違う事や、物理的に違う「筋力・骨格・柔軟性」は教える対象ではないと思います。「これがいいでしょ?」と先生に問われれば「いいえ」とは答えにくいのが生徒です。「よくなったよ」と先生に言われれば嬉しくなるのも生徒です。問題は「生徒自身で考え、行きついた演奏技術」なのかどうかです。成長の途中、上達の半ばにいる生徒にとって「藁(わら)にも縋(すが)る」気持ちになるのは自然なことです。だからこそ、教える側の責任は重たいのだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンを持ち替えて起こる混乱

 上の写真、私が13歳から50年間愛用しているヴァイオリンと、陳昌鉉さんが晩年作成された(2010年頃)木曽号というヴァイオリンです。木曽号を使っての演奏を、長野県木曽町から依頼されて今回で3年目の演奏会ですが、今回「楽器の微妙な違い」が演奏する際にどんな影響を与えるのか?について「言い訳がましく」(笑)書いてみます。

 演奏技術の中で「楽器が変わっても慣れる技術」があるのかどうか?少なくとも、私のように1丁のヴァイオリンだけで演奏活動をする人間にとって「別のヴァイオリンになれる」必然性がないのは事実です。ただ、多くのヴァイオリニストの皆さんが「買い替える」場合やスポンサーから「貸与」される場合もあります。買い替えれば、それが「自分の楽器」になるのですから、慣れることは必須条件です。またストラディヴァリの楽器を貸与されるようなソリストの場合にも「楽器に順応する」技術が必要です。そのストラディヴァリの楽器を含め「楽器ごとの微妙な違い」があります。

 演奏する上で最も問題になる違いは「ネックの太さ」「正確なピッチを出す位置=駒と上駒(ナット)の距離」「弦高=指板と弦の隙間」です。この他の違い…例えば「重さ」や「ニスの色」などの違いは演奏に関わりません。
 ゆっくりしたテンポの曲であれば、上記の違いはそれほど問題になりません。「狙う」時間があるからです。修正する時間もあります。
 一方で「速い動き=短い音符が連続する」場合にはピッチの安定性が困難になります。
 すべての楽器で「ポジション=弦を押さえる位置」で半音の幅・全音の幅が「ごく僅か」に違います。それを瞬間的に完璧に把握し続けるのが最も難しいことです。

 一つの楽器に慣れるために「必要な時間=練習」は、普段使っている楽器との「差」にもよります。違いが大きいほど、慣れるための時間が多く必要です。
 今回、11月18日に木曽福島で演奏した後、12月17日には地元でのデュリサイタルで「自分のヴァイオリン」を演奏する日程で、あまり木曽号に「入れ込む」のも無理があります。同時期に複数のヴァイオリンで演奏することは避けるべきかもしれませんが、どちらも大切な演奏の機会です。挑戦します!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と身体の「同期」と「独立・分離」

 映像は10年前のデュリサイタルで演奏した、サラサーテのツィゴイネルワイゼン。
代々木上原ムジカーザでの演奏です。
 今回のテーマは、多くの生徒さん…特に大人の生徒さんたちが頭を悩ませる内容です。

 まず音楽を演奏する時に使う身体との関係です。どんな楽器でも声楽でも「身体」のどこかを使って音楽を演奏します。コンピューターが自動的に音楽を演奏してくれる状態は「演奏」とは言いません。敢えて言うなら「機械の操作」です。
 音楽を演奏する人にとって、自分の「身体の「どこ」を「どう」動かすのか?そしてそれが「思ったように」動いているか?を常に考える必要があります。「無意識」に身体の一部を動かすこともできますが、まず!自分の意識で筋肉や関節を「思った通り」に動かせるようにする訓練が必要です。
 演奏を「運動」として捉える時に「音楽との同期」を考えることが先決です。わかりやすく言えば「音楽と身体の動きを紐づける」ことです。小さな子供が音楽に合わせて体を動かしたり、首を激しく振ったり、手を叩い理するのも「音楽に合わせて体が動く」ことの表れです。逆の例え話だと、音楽に合わせて手拍子をしている人の中で、少しずれている人が必ずいるものです。

 音楽を聴いて「感じる」もの。耳が聞こえる人なら「音=空気の振動」で、耳の聴こえない人なら「身体に感じる振動」です。
「音」と「音楽」の違いがあります。音は音楽とは限りません。車の走行音、鳥の鳴き声などを音楽とは感じません。音楽に感じるかどうか?は個人差もありますが、ほとんどの人…音楽を普段聞かない人も含めて「音楽」に感じるのは「メロディーに聴こえる音」「和音に感じる音」が聴こえた場合です。メロディーとは「音の高さとリズム」で創られます。
しかも「ランダム=不規則」に音の高さと長さ(リズム)を組み合わせた「音の連続」は音楽に感じる人はごくわずかです。
 また同じ高さの音を同じ長さで、延々と繰り返していると「何かの機会の音」に感じます。電話の「話し中」の音や、アラームの「ピピ・ピピ・ピピ・と言う音に感じます。
 和音は「異なる高さの二つ以上の音が同時になったときに響き」ですから、半音違う二つの音が同時になっていても「和音」です。

「聴きなれた和音」例えば「ドミソ」のような音の重なりを聴くと、音楽を知らない人でも、何の音か?わからなくても「安心感」「親しみ」を感じます。 

 音を音楽として感じられた後の「感覚」として、速さ・強さ・明るさを感じられます。
 速さは「音の長さ・短さ」でも感じますし「拍と拍の間隔」にも左右されます。さらに言えば「楽譜で見た目」の速さと実際の演奏で感じる「速さ」は別のものです。
 冒頭の動画「ツィゴイネルワイゼン」で後半に演奏するヴァイオリンは「速い」と関zる部分です。演奏する「テンポ」を変えれば、遅く感じます。当たり前です。

 音の大きさは「生」で聴く場合と「録音」を再生して聴く場合で全く違います。生で聴く場合も「大ホール」の後ろで聴く場合と「サロン」で目の前の演奏を聴く場合で違います、
 「明るさ」は音楽的に「長調・長音階・長三和音」として判断できる人は限られています。「なんとなく」感じるのが音楽の明るさです。本来「調性」とは無関係の「ゆったりした静かな音」は暗い…と思われがちで、「速く大きな音の音楽」は明るいと勘違いする人もいます。歌詞がある「歌」なら歌詞の内容や歌い方でも暗いと感じる人もいます。

 演奏する人が音楽に合わせて動けるか?感じた「明るさ」「強さ」を身体で表現できるか?を考えます。例えば「振付」や「ダンス」を真似事でも良いので考えることができるか?という事です。激しく速く明るい音楽を「身体全体」を使って表現するとしたら、どんな動きを想像しますか?逆に、緩やかで穏やかな暗い音楽を表現するとしたら?
 まずは「ここから」だと思います。

 自分が演奏するわけですから、自分の「頭の名K」で決めた「速さ・大きさ・明るさ」を自分の身体を動かして楽器を演奏することになります。頭の中にそれらがなければ?ただ、「音が出た」と言う結果だけが残ります。出してしまった音に「同期」することは不可能です。なぜなら「同期」するためには「予測」が不可欠だからです。次に演奏🅂る「音」の「時間」「大きさ」「明るさ=音色」を決めてから演奏することが「音楽との同期」だからです。誰かが演奏する生音楽に、完全に同期させることは物理T劇に不可能です。当たり前ですよね?予測できないからです。「聴こえた音に反応する」のでタイムラグが起きます。つまり「遅れる」か「飛び出す」ことになるのが当たり前なのです。偶然にタイミングが合うこてゃあり得ても、それは「まぐれ」です。同期とは言いません。

 最後に「独立・分離」の話を書きます。
一般に体は「同時に同じ動きをする」ものです。例えば、右手と左手で同じ「グー」「チョキ」「パー」を続けて出すことは誰でもできます。でも右手と左手で、いつも違うグー・チョキ・パーを続けることはものすごく難しいことです。
 ヴァイオリンの生徒さんの多くは「右手と左手」が一緒に動いてしまいます。例えば、弦を押さえるのと同時に「弓を返す」こてゃ出来ても、「先に弦を押さえたり離したりする」つまり、右手が止まった状態で左手の指だけを動かすことが出Kないのが普通です。
 スラーの場合は、右手を動かした状態で左手を動かすので「何とか」出来ても、移弦を交えると右手の移弦の運動とスラーが「分離」出Kません。さらに左手の動きとスラーが無意識に同期=一緒に動いてしまいます。
 私たちが日常生活の中で、左右の手足・指・声・注視するものなどを「バラバラ」に動かしている場面があります。車の運転、自転車の運転、原稿を読みながらのスピーチなどが思い浮かびます。

 運動神経と呼ばれるものにも「瞬発力」「持続力」「反応速度」などがあります。
音楽家に「運動音痴」が多いのも事実です。幼いころ個から楽器だけを演奏し、球技は「柚木を痛めるから御法度」(笑)で育った人も多いので仕方ありません。
 キャッチボール、サッカーをして遊び、縄跳びや跳び箱は小学校の体育の時間に習います。球技の場合は「予測」と「反応」が重要です。ボールが飛んでくる場所を予測し、そこにグローブやバットを出すと言う一連の運動です。
 他人の動きを「予測する」「反応する」ことが求められるスポーツの代表が、ボクシングだと思います。いくら腕力が強くても相手の動きが「読めない」ボクサーは勝てません。
 他人とシンクロするスポーツの一つが「シンクロナイズドスイミング」と「新体操」です。音楽に合わせて全員が「それぞれに」動く。音楽の「拍」を予測する能力と、身体を同期させる技術が不可欠でです。
 スポーツではありませんが「マーチングバンド」の場合にも楽器の演奏をしながら、歩幅を完全に一致させながら「歩く」「曲がる」「止まる」ことが求められます。

 楽器を演奏する時、音楽を聴いて楽しむ場合とは異なる「運動の制御」が求められます。
1.自分が作りだす「体内時計=インターナルクロック」は演奏する前から始動させます。
2.自分が作った「速さ=流れ」が決まったら、音を出す」前」から運動を開始させます。実際に指や弓を動かす運動ではなく「音を出すための予備運動」です。「力を貯める」「動きながら音を出す」「ヴィブラートをかけは踏める」なども予備運動です。
3.音を出しながら次の「運動」を感が増す。当然「今現在、出ている音を聴きながら」の運動です。
4.運動を意識して音を出す練習を繰り返すことで、意識しなくても運動を同期・分離できるようになります。習得に係る時間は様々ですが「必ず」出来るようになります。
5.演奏しようとする音楽・音と、そのために必要な予備運動と実際に音を出す運動、さらに次の音への「リレーション」を、「音色」「音量」「ピッチ」それぞれに考える習慣をつけましょう。
 大切なことは「音を出してから考え・動く」のではなく「考え・運動を開始してから音を出す」ことです。聴いている人には「突然始まる」音楽であっても、演奏者には「その前」が必ずあるのです。

 違う言い殻を擦れば「音を出す目の運動があって音を出す運動につながる」のです。
 手漕ぎボートを想像してください。ボートが進む=動くためには、オールを自分の身体より「後ろ」の水面に沈めなければ、水を「掻く」ことは出来ません。
 演奏中、常に「音」の前に予備運動があり、音を出す運動も様々な筋肉や関節を「バラバラ」あるいは「同時」に動かす技術が必要になります。常に自分が「音の前に居る」意識を持つことが大切だと思っています。

 下の演奏は、作曲者サラサーテ自身が演奏しているツィゴイネルワイゼンの雑音を消去したものです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介