クラシックコンサートに期待されるもの

 演奏は、ヴィオラとピアノで演奏した、バッハのG線上のアリアです。
今回のテーマは、お客様がクラシックコンサートに期待することを考えたいと思います。演奏する側が本来、一番考えなければいけないことだと思います。

 大きく分けて二つの期待があります。
1.音楽=曲への期待。
2.演奏=演奏者への期待。
 クラシックのコンサートで演奏される曲は、多くの場合はすでに誰かがどこかで演奏している曲です。またこれもほとんどの場合、多くの演奏者が同じ音楽を演奏しています。聴く側の立場を考えると、曲名を見て「知っている」レベルが様々です。タイトルだけ聴いたことがある曲、タイトルを見ても曲が思い浮かばない音楽、一部分だけ知っている音楽など人によって大きく違います。
 第九を例にとれば、終楽章の「有名な」部分だけを知っている人は多くても、1楽章を聴いて「あ、第九だ」とわかる人は圧倒的に少ないはずです。
クラシック好きであれば話は別ですが、「曲名」だけに期待する人の場合、有名なタイトルの曲にしか「期待」しないのが現実です。
 ヴァイオリンとピアノでコンサートを開く場合、多くの人が知っている曲を選ぼうとすれば、どのコンサートもほとんどが同じ選挙区になるでしょう。
 有名どころを挙げてみます。
・ツィゴイネルワイゼン
・スプリングソナタ
・愛の挨拶
・タイスの瞑想曲
これでさえ、すでに怪しい気がしますが、さらに
・愛の喜び
・G線上のアリア
当然、いくらでも思いつきますが、タイトルを知っている曲はこの程度ではないでしょうか?
 それだけでコンサートを開くのが正しいとは思っていません。現実の問題です。

 演奏や演奏者に期待してコンサートに行く人を考えます。
・演奏者をテレビで見て演奏者に会えるのを期待する
この場合、日本では数人の演奏者に限定されるでしょうね。
・チラシの「経歴」に期待する場合
以前に書きましたが、これは案外大きいですね。
・誰かからの紹介=口コミで期待する場合
いわゆる「リピーター」から誘われていくケースです。
・チラシの写真が「かわいい」「かっこいいい」
どの程度いるのか不明ですが。関係ないとは思いません。
 知っている曲をどんな風に演奏をするのかに期待する場合と、演奏者を知っている=その人の演奏を聴いたことがあって、曲目より演奏者に期待する場合があります。

 クラシック以外のコンサート=ライブの場合だと、多くの場合はアーティストをテレビやCDで知っていて、生で聴いてい見たい、あわよくば見てみたいという「期待」です。どんな曲を演奏するのかも、大事ですがむしろ「生で聴く」ことに満足して帰るファンがほとんどです。その点がクラシックの演奏会と大きく違う気がします。一言で言えば、クラシックは「曲または演奏に期待する」ポップスは「歌手・アーティストを生で感じることに期待する」と言えます。

 演奏者自身が聴衆に演奏を期待されなければ、演奏家として生活していくことは不可能です。自分以外の人の演奏と、自分の演奏の違いを聴いてくれる人に伝える方法は、自分の演奏を一人でも多くの人に知ってもらうしかありません。
 昔はテレビかラジオしか方法はありませんでした。いまはインターネットと言うツールがあります。Youtubeは誰でもいつでも「ただ=無料」で音楽を聴いたり見たりできます。その現代にお金を払ってチケットを買い、交通費と時間をかけてまで「コンサート」に来てもらうのは、至難の業ですね。
 無料で見られる・聴くことのできる演奏と、コンサートで聴くことのできる演奏との違いを知ってもらうことが不可欠です。
録音された演奏や配信では感じられないものは「コンサートの空間」です。
・ホールの広さ=反響・残響
・演奏者との距離=直接音と反射音の融合
・ヴァイオリンとピアノ、それぞれの音の広がり方と伝わり方の違い
どんなにヘッドホンやスピーカーの性能が良くても感じられない、臨場感=リアルな空気振動がコンサートの魅力です。
会場が変われば音が変わります。同じ会場で演奏者が変われば、音楽も音色も変わります。同じ会場で同じ人が演奏しても、その時々で演奏は違います。
いつも同じ音色で再生される「機械の音」とは違う、「そのコンサートだけの音楽」こそが、生きている人の演奏=ライブです。

 クラシック音楽の演奏は、人間の奏でる音楽です。ジャズも同じです。
ロックやポップスの音楽は、ライブもスピーカーからの音で聴きます。
機械を通さないアコースティック=自然な音を楽しめるのが、クラシックコンサートです。
 一人でも多くの人に、生演奏の良さを体感してもらえるように、無料の音楽配信でクラシック音楽をもっと広めることが求められていると思っています。
ヴァイオリンのコンサートは面白いぞ!
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

趣味のある人生

 映像は2008年8月24日(日)に実施した、メリーオーケストラ第14回定期演奏会での「ビーチボーイズ メドレー」です。いつもの事ながら、演奏している人たちの「真剣さ」「ひたむきさ」「楽しさ」を感じます。「かっこよさ」とか「美しさ」「うまさ」が足りない?かも知れませんが、私にとっては前者の方が、1億倍(子供かっ!笑)大切なことだと思っています。
 今回のテーマは「趣味」についてです。

 趣味の〇△という書籍や番組、履歴書にある「趣味」の欄、お見合いで「ご趣味は?」←今時、言うのだろうか?など、普通に使う言葉ですが生活の中で、自分の趣味を考えることはあまりない気がします。
 まず、「子供の趣味」とは言いませんよね?子供が生き生きと遊んでいる姿こそ「趣味」の原点ではないでしょうか?好きなことをしている時の「純粋な楽しさ」こそが趣味だと思います。
 大人が趣味という裏側には「好きじゃなくても」やらなくてはいけないことがあります。あるいは、好きだけれど「責任」のあることも趣味とは言いません。
 失敗しても途中で投げ出したとしても、誰にも迷惑をかけないという「自分だけの責任」で楽しめるのが趣味でもあります。趣味にかける「お金」も、大人が自分で稼いだお金を使います。もちろん、家族がいる場合には「限度」がありますよね。家族に迷惑をかけない範囲のお金で、自分の好きなことをするのが趣味です。

 趣味のない人生。趣味のない生活。普段、仕事と生きることに精一杯の人にとって「趣味なんて余裕はないし、いらない」と思うかもしれません。
 確かに「お金持ちの趣味」と聞くと、悪いイメージがあります。
「豪華客船で世界一周するのが趣味」とか、「何台も車を買うのが趣味」とか聞くと思わずムカつくのが庶民です。生活に余裕のある人の特権なのでしょうか?
 私はそうは思いません。生活が苦しくても、趣味は楽しめると信じています。
お金をかける余裕がなくても、散歩が趣味だったり、ただボーっと空を見るのが趣味だったりするのは、素敵な趣味だと思うのです。その人が「心休まる」ことも立派な趣味だと思います。
 私の父は「骨董集め」が一番の趣味でした。休みの日には、ひとりで夜の明けないうちに起きて出かけ「蚤の市」に行っては、なにやら買ってきていました。それを、庭先の水道で洗う嬉しそうな父を「なにが楽しいんだ?」と怪訝な気持ちで見ていたのを覚えています。

ラグビーを見るのも趣味でした。テレビで生中継を見た後に、万度もビデオを見ながら、何度も興奮して手をたたく父を見て「大丈夫か?」と思ったこともあります。
 その父が一番嫌いで必要以上に怯えていた「病気」になってから、趣味を無くしました。骨董の事にも一切、関心を無くしました。母とふたりで施設に入居してからも、自分の部屋でただ椅子に座って、黙り込んでいるだけの日々でした。いくら誘われても、集まりにもイベントにも参加せずに、座ったままでした。
 私と浩子さんが演奏に行った時だけは、みんなと一緒に聴いていました。まるで「天照大神」になったような気がしました(笑)
 趣味を無くした人の「無表情」な顔は見ていて悲しくなるものです。
生きるために食べ、寝るだけの生活を本人が望んだとはいえ、家族としては骨董を洗っている父の姿の方が何倍も「生きている」姿に見えました。私事ですみませんでした。

 メリーオーケストラは趣味で楽器を演奏する人と、音楽を専門的に学ぶ人、さらには職業として演奏している人が、一緒に演奏して楽しむオーケストラです。
 普段、職業として演奏している方に対して「交通費」しかお支払いできないのは、音楽家として心苦しいことです。それでも「参加します」と言ってくださる人たちのやさしさに感謝すると同時に、その人が音楽を演奏することを「楽しんでいる」からこそ、交通費だけで参加してくれているのだと確信しています。
 音楽を一緒に演奏する楽しさを知っている人に、「すみわけ=分類」は不要だと思います。楽器の演奏が好き。一緒に音楽を演奏するのが楽しい。それが職業だろうと、自分だけの楽しみだろうと本質は「好きだから」という事に違いはないと思うのです。
 私自身、今までにいろいろな趣味がありました。カメラだったり車の運転だったり、バイクだったり。そして今、楽器を演奏すること、音楽を広めることが「趣味」なのかな?と自分で思う年齢になりました。出来ることだけしかしないという「無責任」なのかも知れませんが、そろそろそれも許される年齢になってきたように感じています。
 皆さんもぜひ!趣味のある生活を楽しんでください。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽ビジネスを考える

 映像は、ヴィオラとピアノで演奏した、メンデルスゾーンの「歌の翼に」
デュオリサイタル10、ムジカーザでの演奏です。ヴァイオリンで演奏できる音域の曲をこうしてヴィオラで演奏すると、違った味わいを感じます。

 今回のテーマは、クラシック音楽の演奏をビジネスとして考えるものです。
演奏することで生活するために、なにが必要でしょうか?
 当然、演奏技術は不可欠ですが、その演奏技術を誰が評価するのかという根本的な問題があります。もっと言えば、演奏技術とはなにを指している言葉なのか?と言う定義があるのでしょうか?

 一般にコンクールで優勝した、あるいは入賞した人の演奏は「演奏技術が高い」と言って間違いないと思いますが、それはそのコンクールでの演奏を評価した結果です。その演奏以外の演奏が常に高いと言う証明ではありません。
 コンクールで入賞していない人の演奏技術が「低い」とは限りません。
「評価が欲しければコンクールで入賞すればいい」と言う考え方もあります。
では、「○○音楽大学卒業」と言う肩書は、必要でしょうか?現実に何人もの優れた演奏家・音楽家は、音楽大学を卒業していません。言い換えれば、音大を出たから素晴らしい演奏家になれるわけでもありません。
 つまり「肩書」が演奏家にとって、どれだけの価値があるのか?と言うお話です。私は肩書は単なる「ブランド」だと思っています。少なくとも、演奏を聴いたことのない人の「肩書」と演奏技術は関係ないとさえ思っています。
 有名ブランドの洋服やバッグを、着たり持ったりすることに「喜び」を感じる人のように、肩書を見て演奏者の優劣を決めている、人や組織・プロダクションが多すぎると思います。
 演奏技術の評価基準は「間違えないで正確に演奏出来る」ことしかないのでしょうか?だとしたら、以前にも書いたように人間の演奏より、ロボットのほうがはるかに演奏技術は高いのですが?
 演奏の「センス」は評価不能だと思います。優劣は存在しない「好み」の問題です。だとすれば、自分の好きな「演奏家」を選ぶのは、聴く人と演奏する人の「センス」がすべてではないでしょうか?一般の人に演奏技術の優劣が判断できるものではありません。「誰かがうまいと言ったからうまいんだろう」と思っているだけです。同じことは、ヴァイオリンという楽器に「優劣」を付けたがる人たちにも言えます。「だれそれの作ったヴァイオリンは素晴らしい」「新作ヴァイオリンなど論外」と言うヴァイオリニストを良く見かけますが、本当にその方がヴァイオリンの「良し悪し」を見極めているとは到底思えません。
誰かが良いと言えば良い。有名レストランの料理をありがたがって食べる「食通」と同じです。人によって「美味しさ」の基準が違うのが人間なのに、他人が美味しいと言うから美味しいに決まっている!って、味覚音痴でしょ?(笑)
 演奏の好き嫌いこそが、普通の人の聴き方だと思っています。
演奏する人がどんな人なのか?を知っていればなおさら、その人の演奏に親近感がわくものです。演奏者の「人柄」も演奏家としての「資質=価値」だと思っています。クラシックの演奏が一般になかなか浸透しない理由の一つが「演奏を聴いても演奏家の顔や声を感じない」事にもあるのではないでしょうか?
 現実に、テレビで良く見かける「ヴァイオリンを演奏する芸人さんたち」は、顔や髪形、声や話し方、果ては「色気」で人気があるのも事実です。演奏の技術云々よりもそちらで「ファン」が増えるのは現実です。別に私たちがみんな、あの人たちのようにテレビに出る必要もないわけです。

 演奏会に来てもらいたいのなら「自分を知ってもらう」ことが必要だと思うのです。

 演奏家、音楽家はプレゼンテーションが下手な人がほとんどです。
一般企業で営業をする立場の人なら、顧客にプレゼンをして実績を作らなければ「窓際」で一生終わります。物作りをする人にしても、自分の商品をアピールできなければ、生き残れないのが現代の社会です。「音楽で勝負する」以前に、自分の演奏する音楽を「プレゼン」する努力と能力がなければ、生き残ることは出来ない時代なのです。
 誰かにコンサートを開いてもらう時代は、もう終わると確信しています。
なぜなら「中間マージン」が大きすぎるからです。演奏家が自分でプロモーションする力があれば、肩書がなくても音大卒業でなくてもお客様は集められる時代です。
 自分で自分を売り込める「自信がない」人は、生活できない時代になります。
他人の評価を待っている演奏家、肩書にすがる演奏家には見向きもされない時代が来ます。
 音楽家にとって「財産=商品」は、自分自身なのです。それを聴衆に「直接販売」するのがこれからの音楽ビジネスだと思っています。アナログで良いと思います。現にストリートピアノに人気があるのは「リアルに人が演奏している」からです。配信で生活しようとするよりも、自分の声で人を呼ぶ勇気と自信を持つことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

良い先生って便利な先生?

 映像は、恩師久保田良作先生の門下生による夏の合宿での一コマです。
私にとって「良い先生」と言う定義を考えます。
 実は今朝、偶然見かけたネットニュースに、レッスンをする「先生」についての記事がありました。その中に「それ、違うんじゃない?」と感じる部分がありました。「レッスンの予定を行く気がしなかったので直前にキャンセルしても、先生は私の時間が出来たからいいのと、レッスン代金も受け取らない【いい先生】です」と言う内容でした。皆さんは、どう感じますか?

 生徒さんと先生の間でレッスン代金の支払い・受け取りがあるなしに関わらず、人として誰かに「教えてもらう」立場で、教えてくれる人に対する「敬意」はないのでしょうか?もちろん、教える側から生徒さんへの敬意もなければなりません。少なくとも、礼儀はあって然るべきだと思います。
 先生とレッスンの時間を決めて約束をした後で「行く気がしないから」と言う理由でキャンセルが成立するのでしょうか?そしてそれを受け入れる先生が「良い先生」なのでしょうか?間違っているように思います。
 さらに言えば、どんな理由があったとしても約束を「キャンセル」するのは相手に対して「失礼=礼をなくす」な行為だと思います。理由が嘘でも本当でも、相手に対して「迷惑をおかけして申し訳ない」と言う気持ちがないのかな?と疑問に感じます。

 お互いに人間なので、失敗もするし体調が突然悪くなってレッスンが出来ない場合も起こります。実際に私もこれまでに、幾度となくその経験をしました。
生徒さんのほとんどのかたと「気持ちよく」お互いの事情を理解しあえます。
レッスン代金については「当日の変更やキャンセルはお支払い」と言う約束をあらかじめ取り交わしています。一種の契約です。

 良い先生が「便利な先生」と同じ扱いになるのが私は恐ろしい気がします。
教える先生が「それでいいよ」と思うのは自由です。それが「良い先生」だと生徒の側や一般の人が感じる「時代」なのでしょうか?
 ヒステリックな先生や、生徒が委縮してしまう先生、ただ怖いだけの先生が良い先生だとは思いません。演奏技術が高く有名な「演奏家」が良い先生だとも限りません。教える側の立場で「良い先生とは」と言うのも何か言いにくいですが(笑)皆さんは、どう思われますか?
 ご意見などお気軽にコメントくださいませ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「音」を「音楽」にする技術

 映像は、もうすぐ再生回数が10,000回に近づいている、アンドレ・ギャニオン作曲の「めぐり逢い」を教室で演奏したときのものです。
 生徒さんがレッスンで「この曲、ひいてみたいんですけど」と楽譜を持参してくれて「めぐり逢った」曲です。

「音」と「音楽」って何が違うのでしょうか?
音を聴くことができる人にとって、音楽も「音」のひとつです。
では、すべての音が「音楽」かと言うと違いますよね。
聴こえる音の中で「音楽」に感じるのは、その音楽を知っているからでもなく、誰かに「音楽とは」と教えてもらったからでもありません。これってとっても不思議ですよね。
今回のテーマで言う「音楽」はさらに深い意味、人間が演奏する「音楽」についてです。音の高さと長さと音色や強さを機械=パソコンに入力すれば、「音楽」が再生されます。正確で間違えない音楽です。どんな速度にでも変えられます。
ただ、それは人間の演奏する音楽とどこかが違います。
 私たちが「曲」を演奏する時に、どんな音で=どんな風に演奏すれば、どんな音楽になるか=どう聴こえるか?という「実験」を繰り返します。一音ずつをただ「正しい高さ正しい長さでで綺麗な音で」演奏することだけでも、十分に難しいことです。
ただ、それだけを求めるなら機械で再生したほうがずっと「じょうず」です。
 誰かが演奏したり歌った「音楽」をコンピューターで分析し、その演奏と「ピッチ」「音の長さ」「音の強さ」がどれだけ同じにできるかを「点数化」することを競い合う「頭おかしいだろ?」と笑ってしまう番組や採点カラオケをご存知ですか?歌った本人がやったら、100点どころか50点ぐらいだったと言う笑い話もあります。真似をした人の歌や演奏を「音楽」とは言いません。それは「パソコンの真似」つなり機械以下の事をしているだけです。「じゃぁ出来るのか?」と言われたら即答します。「その努力をするくらいなら、自分の好きに演奏します」と。自分で考えて試して、また考えて試して繰り返して作るのが「音楽」です。
誰かの演奏を真似するのは「音楽の真似」でしかありません。

 生徒さんの多くが「どう演奏したらいいのかわからない」から「同じ演奏方法で演奏し続ける」という落とし穴に落ちます。
 私が良くたとえに出すのが「日本語の会話」です。
「今日は暑かったね」と言う会話の「今日は」を強く言えば、昨日まで涼しかったのにねと言う意味を感じます。「暑かったね」を強調すれば、普段なら涼しい季節に突然暑くなった時に言っているように感じますよね?

ね」を強調すれば、相手の考えを確かめようとしているように感じますよね?
ヴァイオリンの演奏で言うなら、アタックを付けるか?柔らかく弾き始めるか?そして、ビブラートを始めからかけるか?後からかけるか?ビブラートの速さは?深さは?弓の場所は?弓の圧力は?速度は?途中で変えるのか変えないのか?その音の終わりは弱くする?同じ大きさ?強くひき切る?次の音との「合間=時間」は?などなど、試すことはたくさんあります。組み合わせるのでさらに実験の種類は増えていきます。一音ごとの演奏方法は前後の音とも影響します。
 たとえば2つの音符があったとします。
一つ目の音の演奏方法を決めて、二つ目の音が「同じ高さ」の音なら完全にレガートでビブラートも止めずに演奏すると「タイ=一つの音」に聴こえてしまいます。一つ目の音の演奏方法を考え直す必要があるかも知れません。意図的にノンビブラートで演奏するのも一つの方法です。二つ目の音の最初から深めのビブラートをかければ、あとの音が少し強調されて聴こえるでしょう。二つ目の音にアタックを付ける方法もあります。一つ目の音の最期を瞬間的に弱くする方法もあります。それぞれに効果が違います。色々な方法を試すことが何よりも大切です。

 ここまで書いて「ちゃぶ台返し」をするようですが、どんなに実験をしても「正解」はありません。「なら、時間の無駄じゃん」いえいえ、とんでもありません。自分にとっての「結論」が、誰にとっても同じだとは限らないという意味です。演奏者が「こだわって演奏している」か「何も考えずに演奏しているか」は、音楽を好きな人間にはわかることです。どんなに速く正確に演奏していても「ただ演奏しているだけ」の演奏に拍手喝采をする人を見かけると、「普段、何を聴いているんだろう?」と不思議に感じます。
プロでも楽譜にかじりついて演奏している動画を見かけます。
プロだから楽譜を見ながら、極端に言えば初見でも演奏できます。
ただ、一音ずつにこだわって練習しそれをすべて楽譜に書きこめるものでしょうか?それだけ時間をかけたら、暗譜できるのがプロだと思うのです。
「考えて決めた情報=書き込みが多いからこそ、楽譜を見る」と言うプロもいて不思議ではありません。その情報を瞬時に読み取れる技術がない私には、敬服するしかありません。決して嫌味ではありません。

 同じ音色、同じ音量で演奏する練習は「譜読みの段階」だけです。
音楽にしていく作業は、その先にあります。自分にしかできない演奏は、自分で考えて試すからできるのです。なにも考えずに「無心でひく」のは、さらにその後です。人と同じ演奏はあり得ません。それこそが「音楽」だと思います。
わからない、できないと決めつけるのは「音楽からの逃げ」です。
うまいとか、へたとかの問題ではありません。音楽への「思い=愛情」がなければ、演奏しても演奏を聴いても、楽しくないはずです。
 最後までお読みいただき,ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学んだ知識を身に着ける努力

 映像はヴィオラとピアノで演奏したドボルザークの「我が母の教え給いし歌」です。私の幼いころの写真やら、両親の若いころの写真など(笑)お許しください。「母が教えてくれた歌」を実際に覚えているかどうかは人それぞれですが、私の場合は…すみません、「記憶にございません」
 子供の頃から、音楽を教えてくれたのは「先生たち」でした。
両親から直接、音楽を教えてもらった記憶はないのですが、よくよく考えてみれば先生に出会えたのは「両親のおかげ」です。やる気のない少年「K」をある時は叱り、有る時は飴で釣りながらヴァイオリンを「やめさせなかった」両親から結果的に音楽を学んでいたわけです。
 反抗期、大人に対する理由もない嫌悪感と対抗心を感じる時期です。
特に「親・兄弟」への反抗は人によって違いますが、時には「人として」間違った言葉や行為に至ります。私自身、中学生のころから高校を卒業する頃まで、父にも母にも「抗って」いました。反抗する子供を見ると「いつか大人になって目覚める」と信じていますが、自分の子供を「放任」したことは今反省していますが、時すでに遅しです。

 さて、音楽をひとに習うことができるのは、どんな人でしょうか?
「お金を払えば教えてもらえる」と言う意味ではありません。
人から何かを学び取ろうと言う「気持ち」の話です。
教えてもらう、教えて頂くと言う「謙虚な気持ち」がなければ、なにも学べません。形だけ「習う」ことを学んだとは言いません。音楽に限ったことではありませんが、他人の言葉に耳を貸そうとしない人は「自分が正しい」と思いこんでいる人です。少なくとも自分の考えと違う考えに対して「誹謗」する人や、自分と違う考えの人を「排除」する人が、誰かから謙虚に「学ぶ」ことは不可能です。
 人間は年を重ねると次第に、人を見下す傾向があります。
特に回りの人が「ちやほやしてくれる」環境にいると、その「上から目線」は限りなく高い場所からの目線になります。「神」になった気持ちなのかもしれません。
 その「神のつもり」の人から、何かを学べるでしょうか?と言うより、その人に、他人になにかを「教える資格」があるとは思えません。
 本人は「教えてやる」と、いい気分でしょうけれど、すでにその人は「学ぶ心」を失っているのですから、退化し続ける哀れな人でしかありません。

 音楽を学ぶと言うことは、技術や知識を学ぶだけではありません。
練習の仕方?楽器の扱い方?それもありますが、もっと大切なことがあります。
音楽を学ぶ。それは、自分に足りない「なにか」を見つけることです。
レッスンならば先生からの言葉や、先生の演奏から自分に足りないものを考えます。
 他人の演奏を聴く時も、自分に足りないことを見つけることが大切です。
逆説すれば、自分を観察できなければ、なにも学べないという事です。
その上で「向上」しようとすることが「学ぶこと」です。
自分が出来ないことに気付けたのなら、そこから先にやることはただひとつ。
「身に着けるまで努力=練習する」ことです。
当たり前のようですが、得てして学んだ「だけ」で終わってしまうことが多いのです。出来るまで努力することから逃げてしまうのが人間の弱さです。

 学ぶことは、自分の出来ないことを見つけること=知ることです。
そして、それを出来るようになるまで練習し続けることです。
「頭=考えること」と「身体=行動すること」で生き物は成長します。
どちらが欠けても成長はしません。
学び続けて行動し続けている人から、また違う人が学ぶ連鎖が「伝承」です。
趣味であっても専門家であっても、まったく同じです。
気持ちはいつも「初心者」であり続けたいと思っています。
さぁ!今日も頑張ろう!
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

メリーオーケストラの演奏曲たち

1 アイネクライネナハトムジーク(弦楽器)
2 愛の賛歌(弦楽器)
3 赤とんぼ(弦楽器)
4 葦笛の踊り(くるみ割り人形より)
5 アダージョ(弦楽器)/アルビノーニ
6 アバセレクション(弦楽器)
7 アブデラザール組曲より(弦楽器)
8 アヴェ・ヴェルム・コルプス(弦楽器)
9 アポロ13・メドレー
10 アメリカ(弦楽器)
11 アリア(弦楽器)/ヴィラ=ロボス
12 アルルの女第2組曲
13 アレグロ(弦楽器)/ヴィヴァルディ
14 いのちの歌
15 イパネマの娘(弦楽器)
16 威風堂々第一行進曲
17 イフソービーニア(弦楽器)
18 イムジン河(合唱)
19 イムジン河
20 ヴァイオリン協奏曲第1楽章/チャイコフスキー
21 ヴァイオリン協奏曲第1番第3楽章/ブルッフ
22 ヴィオラヒーロー(弦楽器)
23 ウイリアムテル序曲
24 ウエストサイドストーリー
25 ウォークディスウェイ(弦楽器)
26 宇宙戦艦ヤマト
27 美しき青きドナウ
28 海の見える街(魔女の宅急便弦)
29 大きな古時計(弦楽器)
30 オペラ座の怪人
31 朧月夜(弦楽器)
32 おもちゃの兵隊の行進曲
33 オンブラ・マイ・フ
34 カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲(弦楽器)
35 風の谷のナウシカ(弦楽器)
36 神奈川ゆかりの歌メドレー(合唱)
37 悲しき二つの旋律より「晩春」(弦楽器)
38 悲しみのクラウン(弦楽器)
39 カノン(弦楽器)/パッヘルベル
40 ガブリエルのオーボエ(弦楽器)
41 .カプリオール組曲(弦楽器)
42 ガボット(弦楽器)/ゴセック
43 カルメン第1組曲
44 川の流れのように(弦楽器)
45 管弦楽団組曲第2番(弦楽器)
46 北の国から
47 君をのせて(弦楽器)
48 君を忘れない(弦楽器)
49 クイーン・ベスト(弦楽器)
50 グリーンスリーブス(弦楽器)
51 軽騎兵序曲
52 弦楽セレナーデより第1楽章(弦楽器)
53 弦楽セレナーデより第2楽章(弦楽器)
54 弦楽セレナーデより第4楽章(弦楽器)
55 弦楽のためのソナタ第1番第楽章(弦楽器)
56 交響曲第5番第4楽章/チャイコフスキー
57 交響曲第7番第2楽章(弦楽器)/ベートーヴェン
58 交響曲第9番「新世界より」第4楽章
59 交響曲第41番「ジュピター」より第1楽章
60 交響曲第41番「ジュピター」より第3・4楽章
61 荒城の月(弦楽器)
62 コーラスライン・メドレー
63 コンチェルト(弦楽器)
64 西城秀樹ヒットセレクション
65 サウンドオブミュージック
66 ザ・キング・オブ・ポップ(弦楽器)
67 サッチモ
68 さとうきび畑
69 さとうきび畑(弦楽器)
70 サモンザヒーロー(弦楽器)
71 さよならの向こう側(合唱)
72 サンダーバードのテーマ
73 G線上のアリア(弦楽器)
74 ジェームズボンド(弦楽器)
75 シカゴメドレー(オケ)
76 シカゴ(弦楽器)
77 島人ぬ宝(弦楽器)
78 ジャズピチカート
79 JAVA(弦楽器)
80 修道院の庭にて(弦楽器)
81 主よ、人の望みの喜びよ(弦楽器)
82 ジュラシックパーク
83 序奏とロンドカプリチオーソ
84 ジョン・ウイリアムズ・メドレー
85 シンコペーッテッドクロック
86 シンドラーのリスト(弦楽器)
87 シンプルシンフォニー(弦楽器)
88 好きになった人(弦楽器)
89 スペイン交響曲第5楽章
90 スモークオンザウォーター(弦楽器)
91 スラム・ドック・ミリオネア(弦楽器)
92 千と千尋の神隠し(弦楽器)
93 セントラルコーチスペシャル(弦楽器)
94 そり滑り
95 タイプライター
96 タイムセイグッバイ(弦楽器)
97 韃靼人の踊り
98 旅立ちの日に(合唱)
99 タンホイザー序曲
100 チェロ協奏曲第1楽章
101 地上の星(弦楽器)
102 チャーリーブラウン・クリスマス(弦楽器)
103 チャルダッシュ(弦楽器)
104 チャルダッシュ(フルオケ)
105 中国の太鼓(弦楽器)
106 調和の霊感(弦楽器)
107 追憶(弦楽器)
108 ツィゴイネルワイゼン
109 津軽海峡冬景色(弦楽器)
110 翼をください
111 テイクファイブ(弦楽器)
112 ディズニー・メドレー(弦楽器)
113 ディベルティメントニ長調(弦楽器
114 天国と地獄序曲
115 となりのトトロ(弦楽器)
116 ドラえもんの歌
117 トランペット吹きの休日
118 トランペット吹きの子守唄
119 ドントストップビリーブイン(弦楽器)
120 虹の彼方に(弦楽器)
121 ニューシネマパラダイス(弦楽器)
122 ハイランドカテドラル
123 パイレーツオブカリビアン(弦楽器)
124 花~すべての人の心に花を~(合唱)
125 花のワルツ(くるみ割り人形)より
126 ハバネラ(弦楽器)/サンサーンス
127 パラディオ(弦楽器)
128 ピアノ協奏曲第21番第2楽章/モーツアルト
129 ピアノ協奏曲第2番第3楽章/ラフマニノフ
130 ピアノソナタ第1番より(フルート)/モーツアルト
131 ピーターガン(弦楽器)
132 ビーチボーイズ・メドレー(弦楽器)
133 ピチカートポルカ(弦楽器)
134 ビッグバンド・メドレー
135 ビリーブ
136 ピンクパンサー(弦楽器)
137 フィンランディア
138 ブーレ(弦楽器)/バッハ
139 2つのヴァイオリンの為の協奏曲バッハ
140 2つのヴァイオリンの為の協奏曲(弦楽器)
141 2つの楽器のための小品集(弦楽器)/モーツアルト
142 冬(四季より)/ヴィヴァルディ
143 ブランデンブルグ協奏曲第3番第1楽章(弦楽器)
144 ブランデンブルグ協奏曲第4番第1楽章(弦楽器)
145 ブランデンブルグ協奏曲第5番第1楽章(弦楽器)
146 プリンク・プランク・プルンク(弦楽器)
147 ブルータンゴ
148 ふるさと
149 ヘアー・スプレー(弦楽器)
150 ペールギュント第1組曲(弦楽器)
151 ボーンディスウェイ(弦楽器)
152 星に願いを(弦楽器)
153 ホルベルク組曲より第1楽章(弦楽器)
154 マービンハムリッシュ・メドレー(弦楽器)
155 マイスタージンガー
156 マイフェアレディ・メドレー
157 見上げてごらん夜の星を(弦楽器)
158 ムーンリバー(弦楽器)
159 メヌエット/ボッケリーニ
160 メヌエット(弦楽器)/ベートーヴェン
161 モアナ
162 夕顔の花が咲いたよ(弦楽器)
163 夕焼け小焼け
164 ユーレイズミーアップ(弦楽器)
165 与作
166 4つのヴァイオリンの為の協奏曲(弦楽器)
167 ライトリー・ラテン(弦楽器)
168 ラ・クンパルシータ(弦楽器)
169 ラピュタ(天空の城)
170 ラプソディインブルー
171 リュートのための古風な舞曲とアリア(弦楽器)
172 ルパン三世のテーマ
173 レットイットトゴー(アナ雪弦楽器)
174 レ・ミゼラブル
175 ロマンス第2番/ベートーヴェン
176 ロンドンデリーの歌(弦楽器)
177 ワルツィングキャット
178 ワルツ(仮面舞踏会)
179 ワルツ(弦楽器)/ショスタコーヴィチ

 今日の「リスト」はNPO法人メリーオーケストラが20年間40回の定期演奏会で演奏してきた「音楽」です。延べ179曲になりました。
動画は、第1回定期演奏会でのふるさとです。
立ち上げた時から今日まで、コンセプトを変えずただひたすらに「音楽の普及」と「子供の健全な育成」を目的にして活動しています。
 何回か書いていることですが、アマチュアオーケストラは演奏を楽しむ人たちの集まりです。演奏技術や規模、演奏曲の難易度を競い合うことには、何の意味もありません。その演奏会を毎年2回開き続け、入場料無料で赤ちゃん連れでも、小さなお子様も体に障がいのある方でも音楽を聴いて楽しめるコンサートを開いています。
 演奏者の年齢も技術も様々です。当然の事かも知れませんが、さらに難易度の高い曲に挑戦したい人や、初心者と一緒に演奏することに満足できない「アマチュア演奏家」もいるのは現実です。それはそれで楽しめるなら良いのです。
 リストを見て頂くとお分かりのように、「それ、オーケストラの楽譜があるの?」という曲もたくさんあります。メリーオーケストラで演奏す為に、アレンジしています。
 正確に言えば、本来の=オリジナル編成ではなく、メリーオーケストラの編成に合わせて演奏しています。それが「間違い」だとしても、演奏できることの方が重要だと考えています。
 演奏会の動画には、曲間のMCをカットしていますが、実際には曲の説明やオーケストラのエピソードなども織り込んでお客様との一体感を感じられるようにしています。
 これからもできる限り、この活動を続けていきたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ理事長・指揮者  野村謙介

15年間の足跡

Earth 村松崇継
愛の挨拶 エルガー
愛の悲しみ クライスラー
愛のよろこび クライスラー
愛の喜びは マルティーニ
愛を奏でて(海の上のピアニスト) モリコーネ
アヴェヴェルム モーツァルト
アヴェマリア ピアソラ
アヴェマリア シューベルト
アヴェマリア グノー/バッハ
アヴェマリア カッチーニ
赤とんぼ 山田耕筰
朝の歌 エルガー
明日 アンドレ・ギャニオン
アダージョとアレグロ シューマン
アダージョ・レリジオーソ ボーム
あなたがそばに居たならば バッハ
アニーローリー スコットランド民謡
亜麻色の髪の乙女 ドビュッシー
アリオーソ バッハ
アレグロ フィオッコ
家路 ドヴォルザーク
異国より(リーダークライス) シューマン
ノクターン遺作 ショパン/クライスラー
糸 中島みゆき
いのちの歌 村松崇継
祈り ラフマニノフ
ウィーン奇想曲 クライスラー
ヴィオラ協奏曲より第2楽章 カサドシュ/J.C.バッハ
ヴォカリーズ ラフマニノフ
歌の翼に メンデルスゾーン
美しい夕暮れ ドビュッシー
美しきロスマリン クライスラー
駅 竹内まりあ
エストレリータ ポンセ
F.A.E.ソナタ スケルツォ ブラームス
オールドリフレイン クライスラー
踊る人形 クライスラー/ポルディーニ
オフェルトワール(奉献歌) エルガー
オブリビオン ピアソラ
オリビアを聴きながら 尾崎亜美
オン マイ オウン(レ ミゼラブル) シェーンベルグ
カヴァティーナ ラフ
カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲 マスカーニ
カフェ ピアソラ
悲しみのクラウン スティーヴン・ソンドハイム
彼方の光 村松崇継
ガブリエルのオーボエ モリコーネ
神の御子は今宵しも 讃美歌
枯れ葉 コズマ
カンタービレ パガニーニ
カントポポラーレ エルガー
きよしこのよる 久木山直
クッペルヴィザーワルツ シューベルト/R.シュトラウス
グランタンゴ ピアソラ
クロリスに アーン
恍惚の時 アーン
荒城の月 滝廉太郎
ゴッドファーザー愛のテーマ ニノ・ロータ
この道 山田耕筰
ガヴォット ゴセック
子守唄 ショパン
子守歌 フォーレ
コレルリの主題による変奏曲 クライスラー
サラバンドとアレグレット クライスラー
G線上のアリア バッハ
シェルブールの雨傘 映画モリコーネ
シシリエンヌ フォーレ(ピアノチェロ版)
シチリアーノ パラディス
シュピーゲル イン シュピーゲル アルヴォ・ペルト
序奏とロンドカプリチオーソ サン・サーンス
シンコペーション クライスラー
シンドラーのリスト ウィリアムス
スイートメモリーズ 大村雅朗
スケルツォ(懐かしい土地の思い出) チャイコフスキー
スペイン舞曲 ファリャ/クライスラー
スラヴ舞曲第2集第2番 ドヴォルザーク/クライスラー
千の風になって 新井 満
即興曲D899-3 シューベルト
ソナタ K.304 モーツァルト
ソナタ第一番第一楽章 ブラームス
タイスの瞑想曲 マスネー
太陽がいっぱい 映画ロータ
ただ、憧れをする者だけが チャイコフスキー
チェロソナタ第2楽章 ショパン
ツィゴイネルワイゼン サラサーテ
チャルダッシュ モンティ
中国の太鼓 クライスラー
月の光 ドビュッシー
テンポ ディ メヌエット クライスラー
トロイメライ シューマン
ナイトクラブ ピアソラ
亡き王女のためのパヴァーヌ ラヴェル
メロディー(懐かしい土地の思い出) チャイコフスキー
瞑想曲(懐かしい土地の思い出) チャイコフスキー
虹の彼方に ハロルド・アーレン
ニューシネマパラダイス モリコーネ
ノクターン チャイコフスキー
ノクターン アザラシヴィリ
白鳥 サン・サーンス
パピヨン 映画ゴールドスミス/町田育弥
遥かな友に 磯部俶
はるの子守唄 渋谷牧人
ハンガリー舞曲5番 ブラームス
Believe 町田育弥編曲
フーガ クライスラー
ふるさと 岡野貞一
プレギエラ(祈り) クライスラー
プレリュード(無伴奏パルティータno.3) バッハ
プレリュードとアレグロ クライスラー
ポエム フィビヒ
星に願いを ハーライン/久木山
菩提樹 シューベルト
マズルカ エルガー
マドリガル シモネッティ
ノクターン(真夏の世の夢) メンデルゾーン
見上げてごらん夜の星を いずみたく
ミスターロンリー レターメン
ミスティ エロル・ガーナー
ミッドナイトベル ホイベルガー/クライスラー
ムーンリヴァー 映画マンシーニ
無窮動 ボーム
無言歌 クライスラー/チャイコフスキー
無言歌 メンデルスゾーン/クライスラー
6つのやさしい小品 エルガー
めぐり逢い ギャニオン
メディテーション グラズノフ
メヌエット ベートーヴェン
メロディー パデレフスキ
もみの木 久木山編曲
椰子の実 大中寅二
ユーモレスク ドヴォルザーク
夕焼け小焼け 岡野貞一
ユーレイズミーアップ ラブランド
夢のあとに フォーレ
夜の歌 エルガー
パガニーニの主題によるラプソディー ラフマニノフ
ラブミーテンダー プールトン
ラベンダーの咲く庭で ナイジェル・ヘス
ラルゴ ヘンデル
リベルタンゴ ピアソラ
瑠璃色の地球 平井夏美
ロマンス エルガー
ロマンス ブルッフ
ロマンスOp.94-2 シューマン
ロマンティックピース1 ドヴォルザーク
ロマンティックピース2 ドヴォルザーク
ロマンティックピース3 ドヴォルザーク
ロマンティックピース4 ドヴォルザーク
ロンディーノ クライスラー/ベートーヴェン
ロンドンデリーの歌 クライスラー
我が母の教え給いし歌 ドヴォルザーク
私を泣かせて下さい ヘンデル

 上のリストは、私と浩子さんが15年間に演奏してきた「音楽」たちです。
音楽の数え方にもいくつかの方法がありますが、楽章を単独で演奏する場合も現実にあるので、それぞれを一つの音楽としてカウントしてみました。
2022年6月1日現在、153曲
多くが「小品=こもの」ですが、それぞれの音楽に個性があるのです。
中には、リサイタルで演奏した曲もあれば、ボランティアコンサートで演奏した曲もあります。さらに、何度も演奏した曲や過去に一度だけ演奏した曲もあります。
すべてを「すぐに演奏できる」わけではありませんが、思い出があります。
音楽を分類することには大きな意味を感じない私たちです。
むしろ原曲が「歌」や「他の楽器のために作られた音楽」と、「ヴァイオリンやヴィオラとピアノのために作曲された曲」という大まかな分類の方が少しは興味がありますね。
言うまでもなく、二人だけで演奏してきた音楽のリストです。
これらの他に、ピアノトリオで演奏した曲たちもありますが…
「他の人を加えないの?」と言う素朴な疑問があると思いますが、現実的に私が楽譜を読みながら演奏できなくなった今、「合わせる」ことが、他の方のご迷惑になってまで一緒に演奏することに、正直「ためらい」があります。
全盲でオーケストラの中や室内楽を演奏されるヴァイオリニストを、心から尊敬します。私が出来ない…と決めているわけではありませんが、二人だけで演奏することの楽しさだけでも、十分に満足していると言うのが本音です。
 まだまだ、新しい音楽に巡り合って私たちの「友達」になるのが楽しみです。
単純計算して「1年間に10曲」増えてきたことになりますが、それにこだわるつもりもありません(笑)
曲数にこだわりもありません。いつの間にか増えただけです。
さぁ!また暗譜だ!頑張ろう!
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

調性感と和声進行

 映像は、ショパンのノクターン第20番をヴァイオリンとピアノで演奏するようにアレンジされたものです。オリジナルであるピアノによる演奏との「好き嫌い」は当然ありますね。この曲に限らず、ピアノ曲を弦楽器や管楽器・声楽が旋律を演奏し、ピアノと演奏する場合に、「ピアニストにとってストレスだろうなぁ…「と思うことが良くあります。まぁ、それはさておいて(笑)今回のテーマは、音楽を聴いて感じる「調性=長調・短調」と「和声進行=コード進行」についてです。

 音楽理論と呼ばれる「音楽の分析方法」があります。
言葉は固いですが、私たちが日常聴いている音楽は「いつか・誰かが・どこかで」作曲した曲を演奏した音楽です。当たり前ですよね?道路に音楽が落ちているわけではありません。空から降ってくるものでもありません。その「誰か」がどうやって音楽を作ったのかな?と考えることから「音楽理論」を考えてみます。

 私たちが音楽を「作曲」しようとしたら、どんな技術や能力が必要でしょうか?
前提として、日本の義務教育で学んだ「音楽知識」のレベルで考えてみます。
まず、楽譜を書く能力・技術は必須でしょうか?答えは「いいえ」です。
現に楽譜を書くことのできない作曲家もいます。まさか!と思われるかもしれませんが、歌が歌える・何か楽器を演奏することができれば、音楽は作れませう。その「音」を楽譜に出来る人が楽譜にすることもできますが、楽譜を書くことは作曲ではありません。曲=音楽を作るのが作曲家です。ですから、五線紙におたまじゃくしを書けなくても、ドレミを知らなくても作曲はできます。これで、私もあなたも「作曲家!」

 そうは言っても、ただ適当に=無茶苦茶に鼻歌で作曲した音楽が「感動する」音楽になるかと言えば、これまた答えは「いいえ」です。なぜでしょうか?
ここからが「理論」の出番です。
不思議なことに、私たちは一つの和音や短い旋律を聴いただけで、明るく感じたり悲しく感じたりします。この原因については、いつか別の機会に考えたいと思います。原因は不明でも、実験するとほとんどの人が小名以上に「明るい」「悲しい」と言う共通した感想を持つのが、和音であれば「長三和音・短三和音」で、調整で言えば「長音階=長調・短音階=短調」という違いです。
 長三和音と短三和音の「差」は和音で鳴っている3つの音の中の「1つ」だけが「半音」違うだけなのです。たった半音ひとつ分違うだけで、なぜか?聴いている人が明るく感じたり、悲しく感じたりするのが「和音の不思議」です。
 調性で言えば、長音階を使って音楽を作れば「長調、短音階なら「短調」になるのですが、この違いも「音階の第3音=音階の主音(基準になる音)から3番目の音」が「半音」違うだけなのです。厳密に言えば、音階の第6音も「半音」違う場合が多いのですが、どちらもたった半音の差です。
 ちなみに半音は、ピアノで言えば「一番小さな音の違い=一番近い鍵盤との高さの差」のことです。ヴァイオリンや歌の場合、それより細かい「差」で、音を出すことが出来る=出てしまうのですが、ピアノやオルガンの場合は、鍵盤にないお音の高さを演奏することは不可能です。
 その高さの違いを聞きわけられなくても、「明るい」「悲しい」を感じているように思いますが、実はその違いを感じている人は、半音の違いを「聞き分けている」事に間違いないのです。でなければ、音楽の調性も和音の種類も意味をなさなくなります。聴音の技術がなくても、理論を知らなくても「聞き分ける能力」を、ほとんどの人が持っているのです。

 曲を演奏する時に、調性や和声の事を考えずに演奏することもできます。
楽譜を「音」にするだけなら、なんの感情も必要ありません。パソコンでも楽譜を音にすることができるのです。その「音=音楽」を聴いて、明るく感じたり悲しく感じたりするのが「人間」です。機械には「音」としてしか認識されていません。
 聴く人が感じる「感覚」は音楽を作る人の「意図的な感情操作=理論に基づいた作曲」によるものです。むしろそれが出来るのが「作曲家」たる所以です。
短三和音だけをずっと演奏していても、短調には聞こえますが不自然です。
また、長音階で作られた曲の中にもところどころに「短三和音」で伴奏することが普通にあります。
 演奏している人が、今演奏している部分を「長調なのか短調なのか」「なに三和音なのか」という事を考えることで、演奏の仕方が変わります。
変わって当然です。むしろ「考えないで=感じないで演奏する」のであれば、機械に演奏させた方がよほど!じょうずに演奏してくれるのです。
 ショパンの動画を聴いて、曲の最後が「長三和音」で終わっていることに気付かなければ、それまでと同じ「演奏の仕方」でひいていしまうことになります。
理論を学ぶことで、実際に演奏しなくても音楽を「分析」することができます。
音を聴かなくても、和音の種類を判別できます。その理論と感覚=感情を組み合わせて、演奏技術を考えることが「人間の演奏する音楽」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指使いとヴァイオリンの音色

 動画は長野県木曽町で開かれた演奏会より「ラベンダーの咲く庭で」を、長野県木曽町が所有する「木曽号」というヴァイオリンを使って演奏したものです。
ちなみにピアノは、恐らく戦前に作られたスタインウェイのレアなグランドピアノです。

 さて、ヴァイオリンを演奏する時に、どんな指使いで演奏するか?どのくらい考えますか?楽譜に印刷されている「指番号・弦の指定」にはとりあえず従いますか?楽譜に書かれていない場合は、「適当」でしょうか?
 多くの生徒さんが、指使いを自分で決められません。それが普通です。
プロのヴァイオリニストの場合、自分で考えて決めますが、人それぞれに好みが違います。では、指使いを変えると何がどう?変わるのでしょうか。

 指使いを考えるのが学生時代から好きでした。挙句の果て、当時「最先端」だった授業「コンピューター音楽」を履修し、年度末に提出する自作プログラムのテーマを「初心者のためのヴァイオリン指使いプログラム」にしました。
 初心者が指使いを決められない理由は、いくつかあります。
大きな理由の一つは、ファーストポジション以外の「どのポジションで演奏すればいいのかわからない」ことです。ヴァイオリンを演奏しない方に簡単に説明すると、ピアノと違ってひとつの音の高さを「違う弦で演奏できる場合」があるのです。具体的に言えば、ヴァイオリンのG線開放「G=ソ」から「Cis=ドの♯」までは、どう頑張っても(笑)G線でしか演奏できません。音が高くなればなるほど、「低い音の弦」でも演奏できるよういなります。E線で演奏できる音は、隣のA線でもさらに低いD線でも、一番低いG戦でも演奏できます。…説明がへたくそですみません。要するに「弦の選択肢がある」ということです。さらに、開放弦「0」と4本の指の中で、どの指づかいで演奏するのか?という事に、規則はありません。その点はピアノと同じです。ただピアノもそうであるように、「前後関係」と「演奏に適した指」があります。それを選ぶのがまた楽しい(笑)

 弦による音色の違いがあります。もちろん、音色の近い弦を揃えて張ることも、弦楽器奏者のこだわりです。さらに演奏技術で、音色を変えて弦ごとの音色を意図的に変えたり、似通わせたりできます。
 曲の中で演奏する「音」によって、どんな音色で演奏したいのか?を考える場合があります。もう一つは、どの指使いで演奏するのが「演奏しやすいか」を基準に考えることもあります。そのどちらを優先するか?もさらに頭を悩ませる問題です。
 たとえば、ファーストポジションだけで演奏できる部分があった場合、意図的にポジションを変えることがあります。
1.同じ弦で演奏することで、音色を変えたくない場合。
2.ポルタメントやグリッサンドを音の間に入れたい場合。
3.速いパッセージをスムーズに演奏したい場合。
他にも考えられますが多くの場合この三つで考えます。
さらに、大きな音色の違いがあります。
弦の長さを短くする=ハイポジションで演奏すると、同じ高さの音を長い弦=引くポジションで演奏した場合よりも、緊張感のある独特の音色を出すことができます。弦長が長ければ、響きはゆったりしたものになります。短ければ、鋭い音色になります。
 また、指によってビブラートの「幅と速さ」をコントロールしやすい指と、難しい指もあります。練習でその差をなくす努力はしても、わざわざ小指で長い音のビブラートをかけたいとは思いません。
 当然のことですが、すべては音楽の前後関係を中心に決めるべきです。
ひとつの音だけを演奏する音楽はありません。相対的に考える必要があります。
さらに、ホールの大きさや楽器と体のコンディションでも指使いは変えて当然だと思っています。

 演奏する曲の印象を変えるのが指使いです。極論すれば、楽器や弓を変えるよりも大きな音色の変化をもたらします。こだわりの指使いを、ぜひ!ご賞味ください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。.


ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介