出来る・出来ないは2進法。音楽は無限の創作活動。

 映像はモリコーネの「愛を奏でて」
演奏の合間のトークもカットしないでいてみました。
 今日のレッスンで「決めたことを出来るように練習しているうちに、音楽が詰まらなくなってしまった」と言うテーマで生徒さんと話しました。
 自分で考えるにしても、レッスンで先生のアドヴァイスを受けるにしても、誰かの演奏に刺激されて技術を習得しようと練習する場合でも「できるまで」練習する気持ちは大切です。
 しかし、それがいつの間にか「できるまで」と言う有限のもの…出来ないものが「だめ」でできれうば「まる」になってしまうものです。
 本来、なぜ?そうするのか?そうしたいのか?と言う「音楽の根っこ」があるはずです。ヴィブラートにしても音色にしても、弓の場所にしても…すべてが「試み」なのです。正解ではないのです。
 例えていうなら料理の「レシピ」です。
素材が楽譜です。その楽譜をどう?調理するとどんな料理になるのかを「誰かの好み」で書いたものがレシピです。そのレシピ通りに作ったとしても、自分が美味しいと思えるかどうかは別の次元の問題です。誰かほかの人が食べても、その人の味覚に合うか?合わないか?はレシピとは無関係です。
 突き詰めて言えば、音楽を「こう演奏しよう」と決めた時点と、次に演奏したときで「良い」と思うものが変わって当然なのです。ましてやおきゃ客様の反応もまったく違うものです。自分で試した「技術」「解釈」を何度も繰り返し演奏し、人に聴いてもらうことで「こう弾くとあぁ聴こえる」と言う結果の蓄積ができます。その積み重ねっこ曽我「プロの技術」だと思います。
 失敗することを恐れ、決めた通りに演奏しようとすれば、その音楽を始めて演奏したときの「感動」「喜び」「驚き」が薄れていきます。毎日、同じレトルト食品を食べているのと似た感覚です。
 失敗するリスクは「新しい発見」につながります。それこそが創作活動です。
指示通りに作る音楽は「創作」ではなく「無機質な音の連続」でしかありません。
 自分の感覚を研ぎ澄ますことが練習の目的です。出来るようになることが目的ではありません。テストで100点を取って「合格」する事とは違うのです。
 失敗を恐れずに音楽を「料理のように」楽しんでください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弓の速度をコントロールする

 映像は私の地元、相模原市橋本駅前にある「杜のホールはしもと」での演奏風景。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」の演奏です。
 このホール、残響が美しい!演奏していて気持ちのよいホールです。
さて今回のテーマは「弓の速度」です。ヴォカリーズの演奏を見て頂くとよくお分かりいただけると思いますが、弓の速度は常に一定…とは限りません。
 もちろん、基礎技術として「同じ音色」「同じ音量」でダウン・アップがそれぞれに演奏できるように練習することは、日々欠かさずに練習します。
一方で曲の中で「一音」の中でも音色や音量を変えることが音楽的に求められる場合もあります。逆に言えば、すべての「一音」を「べた塗」すれば全体が平面的なな音楽になります。音の立体感=奥行を表現するために、ヴィブラートや弓の速度・圧力をコントロールする技術が不可欠です。
 同じ長さの音符でも、意図的に弓の速さ=弓の量を変えることで、音色が大きく変わります。音の大きさをコントロールするのは、むしろ「圧力」と「音の立ち上がり」が大きく影響します。弓を速く動かせば音が大きくなると「勘違い」している人も見かけます。弓の速度を遅くすれば「詰まった音=芯のある音」に近づき、逆に速くすれば「空気の含まれた音=軽い響きの音」が出せます。圧力との組み合わせでさらに大きな変化量が生まれます。
 また、演奏する弓の「場所」も本来は音色に影響します。}弓先と弓元は「硬い音」を出すのに適しています。一方で弓中は「ソフトな音」「軽い音」を出すのに適しています。
 これらの要素を考えながら弓を決めることが大切になります。ホールの響きや曲によって弓の速さも変わります。
 ぜひ、自分の好きな曲で試してみてください!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「何年経っても…」の嘘と本当

 映像は40年前の私の演奏です。この時から今日までに、どれほど?私の演奏技術は進歩したのでしょうか?演奏は進化したのでしょうか?40年…昔なら人間の一生の時間でした。しかも、この演奏をした時に23歳という事は、立派な「おとな」だったはずです(笑)今?お爺さんになりかけております。
 さて、生徒さんの「いつまで経っても上達しない」と言う声を時々耳にします。生徒さんで40年、私に習っている人は今のところいませんが少なくとも、何カ月・何年と言ったスパンでの「いつまで経っても」なのですが。
 私自身も同じように思うことがあります。ヴァイオリンを習い始めて50年以上。音楽の学校で学び始めてからでも15歳からとして48年という年月が経ちました。人間に限らず生物は「退化」するものです。その速度も内容も
千差万別ですから一概に「何歳になったら」と言う概念はありません。私の場合でも、筋力や体力は明らかに退化していますが「気力」だけはさほど衰えていない気がします。
 いつまて…の嘘の部分。
これは人間の「欲」が基準になっている話であり、客観的な上達の内容とは寒けないという事です。他人…例えば自分のことどもに対して「いつまで経っても」と言うのも結局は自分の価値判断=欲で測っているから言えることです。
 現実には演奏の技術は少しでも練習すれば必ず上達するのです。それは紛れもない事実です。仮に楽器を演奏しない=練習しない時にでも、ふとした時に感じる感覚が自分の演奏に結び付くことも「上達」には必須のy増件です。荷物をもって「重たいなぁ」と感じることも楽器の演奏には必要な感覚です。音楽の解釈にも「重たい」と言う感覚を知ることが重要です。
 いつまで…の本当の部分
これは私の話ですが、うまく出来ないことを「いつまで経ってもできない」と思うのが人間だと思います。「いつまで経ってもできる」ことが実はたくさんあるのです。もちろん老化や病気、自粉でそれまで出来ていたことができなくなることもあります。それでも「子供の頃から今でもできること」はたくさんあるのです。
 では若いころから(40年前から下手=苦手なことはどうなのでしょうか?
私なりの結論で申し訳ありません。苦手なことがあって「当たり前」だと思うようになりました。「開き直りか!」とか「努力=練習から逃げているだけだ!」というお叱りは甘んじて受けます。ただ、現実に自分の中で、他の「できること」と比較して明らかに「できない」ことは、誰にでもあるはずなのです。
 演奏に限ったことではなく、あるレベルまでは努力で到達できても、それ以上のレベルになるために「死に物狂い」で努力しなければ到達できない人と、本人にはそれほど?努力しなくても到達できる=演奏できる人がいても、当たり前だと思います。出来る人が「天才」なのではなく、それが「個性=生物の個体差」だと思うのです。
 多くの人ができるから自分もできる…レッスンではつい、生徒さんに言ってしまいがちな言葉です。ただ現実にはできるようになるまでの「努力の時間と内容」は人によって大きな差があるのも事実です。

 時間をかけて出来るようにすることを「学習」と言います。多くの生物は学習能力を持っています。長く時間をかければ「学習内容」が常に上書きされていきます。
 一方で「好きなこと・嫌いなこと」は誰にでもあります。その原因やシステムは未だに証明されていません。出来ないことにコンプレックスを感じるのは「欲」の副産物です。欲がなければ楽になるとはいえ、生きる楽しみは「欲」そのものです。生きたいと言う欲、うまくなりたいと言う欲、それが私たちのエネルギーの源なのです。出来ないと言うストレスも、見方を変えれば「生きるために必要な壁=抵抗」なのかも知れません。出来ないことを受け入れながら、考えて出来るようにすることが「楽しみ」に感じられれば良いですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

テクニカルな曲の演奏を楽しむ

 映像はサン・サーンスさ曲「序奏とロンドカプリチオーソ」
そして、下の映像はサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」言わずと知れた「技巧的な」な曲です。私はこの手の音楽で速さと正確さを競い合うヴァイオリニストたちに「近づきたい」と思えません。負け犬の遠吠えと言われても受け入れます。技巧の裏に「音楽」がある演奏をする人を尊敬します。自分もそうありたいと思っています。

 どんな音楽であっても「機械のように」ではなく「人間らしく」演奏することが理想です。人より優れた技術を身に着けようとするより、自分の音楽を好きになれる努力をすべきです。他人と比較する自分ではなく、自分を観察する気持ちを持ち続けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

感性は鍛えられる?

 映像はデュオリサイタル10で演奏したメンデルスゾーン作曲「歌の翼に」をヴィオラとピアノで演奏したものです。
 音楽を演奏する人の「感性」は技術や知識のように増やしたり、強くしたりできるものでしょうか?それとも…
 そもそも感性と言う言葉は心理学辞典によると「美しさや快さなどの認知や評価はもとより,味覚や嗅覚のように感情を伴う感覚,質感・速度感・広がり感といった知覚的印象の認知も,感性の範疇に含まれる。感性は,感覚から感情までを含む多様な「知覚」を意味する古代ギリシア語のアイステーシスaisthesisとも関連する。」とあります。感覚も感情も完成の一部なのですね。
 感覚はトレーニングよって「敏感・精細」にできます。聴覚で言えば単に「音が聞こえる」と言う意味もあれば「音の高さを答えられる」事も聴覚の一部です。動体視力も資格の一部です。ボクシングの選手やF1パイロット、プロ野球の選手のように高速で動くものを、瞬間的に「見る」能力が求められることもあります。
 一方で「感情」は鍛えたり強くしたりできるでしょうか?
感情を抑える「理性」簡単に言えば「我慢すること」はある程度強くすることももできますが限界がありますよね(笑)「堪忍袋の緒が切れる」「我慢の限界」と言われる状態です。
 音楽は「音」を「音楽=作品」として感じることで初めて音楽になります。
自分と同じ「人間が作った作品=楽譜」を音にして、その音から「感情」や「感覚」を湧き上がらせることが「演奏」だと思います。つまり、ただ音を出すだけの段階では特定の感情…悲しい・楽しいなどや、感覚のイメージ…暖かい・冷たい・軽い・柔らかいなどのイメージは感じられず、「サウンド・ノート」ではなく「ノイズ=聞き取れる空気の神童」でしかありません。
 感性をより「敏感」に「精細」にしたいと思うのであれば、何よりも自分の記憶を呼び覚ますことです。感情の記憶は日々、無意識のうちに積み重なるものです。多くの記憶は長く覚えていられないものですが、強く印象に残った「感情の記憶」は誰にでもあるものです。私たちの年齢で「昔…」と言えば大体10年以上前の話ですが、小学生が「昔ね~…」と言うと思わず吹き出します。感情を伴う記憶が多いほど、音楽のイメージを作りやすいはずです。
 感性はずばり「その人の経験」から膨らむものだと思います。
もし、今までに一度も悲しい経験をしたことのない人がいたら「悲しい」と言う感情は理解できません。楽譜を「音楽」にする時に、ぜひ自分の記憶の扉を開いてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

知っている曲が知らない曲に 

 演奏はデュオリサイタル15で演奏した「ふるさと」
ジャズピアニスト小曽根真さんと奥様で女優さんの菅野美鈴さんがアップされていた演奏があまりに素敵だったので。耳コピさせていただいたものです。
 ふるさと…NPO法人メリーオーケストラで演奏し続けている日本の情景と日本人の心情を表した素晴らしい曲ですね。

 上の映像はメリーオーケストラ「ふるさとロングバージョン」(笑)
下の映像は毎回演奏している「ふるさとアンコールバージョン」です。

 知っている音楽を聴いた時に「あれ?どこか違う」と感じることがあります。
いわゆる「カヴァー」が流行している現代ですがこれも「知っている曲が生まれ変わる」ことの一つです。
 クラシック音楽の世界でも、珍しい事ではありません。過去に作曲された音楽を「素材」にして新たなアレンジを施し「新しい音楽」にすることは当たり前に行われています。ブラームスの「ハイドンバリエーション」のようにタイトルに表されているものもあります。フリッツ・クライスラーのようにオーケストラのための音楽をヴァイオリンとピアノで演奏する「楽譜」を書き自分で演奏していた人もたくさんいます。ハイフェッツもその一人です。
 演奏家が作曲をする…曲をゼロから作るのではなく「手を加える」事で新しい音楽になります。「盗作だ!」(笑)意味が違います。お間違いなく。
 もとより、以前にも書いた通り作曲された「楽譜」は演奏者の自由な表現と解釈によって演奏されるのが「本質」です。楽譜の通りに演奏する…楽譜に書いていないことは「してはいけない」と言う楽譜は存在しません。現実的に考えてください。楽譜のすべての音に作曲家が「音色」「ヴィブラート」「音量のデシベル」を書き込めるでしょうか?不可能です。作曲した本人が「他の人に演奏されたくない!」と考える場合もあります。パガニーニは当初、自分で作曲し自分で演奏した曲の楽譜を人に見せなかったそうです。
 逸話として有名な「神童モーツァルト」が一度聞いただけの曲を自宅でチェンバロで演奏した…この能力は「聴音+暗譜」の技術で音楽の学校で多くの人が学ぶ技術です。前述の「小曽根真さんの演奏耳コピ」はまさに「聴音書き取り」の技術です。話がそれましたが「楽譜は自由な演奏の素材」です。
 演奏する人の「こだわり」が個性になります。こだわりのない演奏は「個性のない音楽」だと感じます。音色であれ、テンポの微妙な揺れであれ、演奏する人の「考え」があって初めて音楽になるものです。
 自分の知っている曲でも演奏したとき、それは「新しい音楽」になることを意識するべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽による演奏者の「温度」

 映像はバッハ作曲の「あなたがそばいにいてくれたなら」
ゆったりしたテンポの曲ですが決して「涼しい=冷めた音楽」ではありません。
演奏する音楽によって「適温」があると思っています。
 下の映像はエルガー作曲のマズルカです。演奏当時はこれが「適温」だと感じていましたが今、聴いてみるともう少し「軽やかに」演奏したほうが良かったのかな?とも反省しています。

 一つの音楽の中で温度が変わる者もたくさんあります。
たとえば、チャイコフスキーの「メディテーション=瞑想曲」

 ぜひ!演奏する音楽の「適温」を探してみて下さい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音量と音色

 映像はデュオリサイタル12で演奏したモーツァルト作曲アヴェヴェルムコルプスです。この演奏会では手の指が何度も攣ってしまうアクシデントに見舞われました。年齢的なものと心臓の不調に気づかなかったことが原因です。
 さて音量と音色。あなたはどちらを優先しますか?
良く「ストラディバリウスの楽器は音量が豊かだ」と言われます。
実際に計測機器で測るとデシベル的には他の楽器と変わらない事実は有名です。
「高音の倍音が多い!」と言う人もいますが、これまたオシロスコープで計測すると実際には他の楽器と大差ありません。
 つまりは演奏する人の「好み」の問題でしかないのです。
明るく感じる音色は高音の成分が多い迷路です。
柔らかっく感じる音色は逆に高音の成分が少ない音です。
音量は「音圧=デシベル」で表しますが先述の通り、ヴァイオリンの音量はピアノや金管楽器に比べて小さな音です。
 音量を大きくしようと弓に圧力をかけて、弓を早く動かせば最大の音量が出せますが…そもそもヴァイオリンの音量差=ダイナミックレンジはピアノに比べて小さな差しかありません。
 音量の変化と音色の変化を「組み合わせる」ことで、実際の音圧より音量差を感じるのが人間です。明るい音と深いヴィブラートで聴覚的に大きな音に感じます。その逆をすればより小さく感じます。
 ぜひ音色をt音量を組み合わせてみてください!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの発音(アタック)をコントロールする

 映像は10年前。デュオリサイタル5で演奏したチャイコフスキー作曲の懐かしい土地の思い出より「スケルツォ」です。
 今回のテーマは弦を弓の毛でこすって音を出すヴァイオリン・ヴィオラなどの、発音について考えます、
 言葉で言えば「子音」を考えると理解できます。
例えば「あ」は発音した瞬間も伸ばした「あー」も同じです。
一方で「か」は喉の奥で[K」の子音を作り口の形を「あ」にすることで「か」に聴こえます。伸ばせば「あー」になります。
同様に「た」「だ」「ば」「ぱ」「さ」「ざ」など同じ母音でも子音が変われば発音する言葉が変わります。
 ヴァイオリンの子音は「アタック」とも呼ばれます。管楽器の場合には「タンギング」つまり舌の使い方でコントロールすることが一般的だと思います。
 発音する前の「準備」が最も大切です。
腹話術の得意な人は「ま」と言う音を唇を閉じることなく言えるようですが…
普通は唇を閉じなければ「ま」と言えません。
 ヴァイオリンの場合、弓の毛を弦にあてる=押し付ける「圧力」と、弓が動き出す「瞬間」の弓の速度でアタックが決まります。
 言い換えれば音が出た後でどんなに頑張っても「アタック」はつかないのは当たり前です。音が出る前に弓をコントロールできなければ子音をコントロールできません。
 さらに細かく言えば、右手指の柔らかさもアタックの強さをコントロールする要因です。アタックの強い「硬い音」「立ち上がりのはっきりした音」を出そうとして、指を固くしてしまう生徒さんを見かけますが逆効果です。
 指の関節を緩めることでアタックがコントロールできますのでお試しください。
 最後までお読みいただき。ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の音を決めるのは演奏者でしょ!

 映像は14年前のデュオリサイタル2で演奏したエルガーの夜の歌。ヴィオラで演奏することを念頭に書かれた曲ですがこの時はまだ陳昌鉉さんのヴィオラと出会っていないのでヴァイオリンで演奏しています。
 さて今回取り上げるテーマは、楽器の音を決めるのは演奏者という至って当たり前の話です。今更なぜそんな当たり前のことを書くのか?
 楽器や弓・弦が音を決めているのではないことを言いたいのです。
当然楽器でも弓でも弦でも松脂でも変えれば音は変わります。ただ最終的にそれらを使って「音」を出すのは演奏者なのです。どんな楽器であっても演奏者が違えば音が変わります。演奏している本人が聴こえる音だけではなく、客観的に演奏者=楽器から離れて聴いた時に明らかに「違う」ことが何故か軽視されています。楽器や弓の「違い」が大切なのではなく、演奏する人の違いこそが「音の違い」を決めているのです。
 楽器や弓を変えることは演奏者にとって「違う身体で歌う」ことになるのです。ピアニストは常にその現実を克服する技術を持っています。
会場ごとに違うピアノで演奏するのですから。
ヴァイオリンは?自分とめぐり合った楽器や弓となぜ?真剣にお付き合いしないのでしょうか?(笑)相手を変えようとするばかりで自分が変わろうとしない人を好きになれますか?ヴァイオリンや弓に「ケチ」を付けて自分の演奏技術は神棚に挙げる演奏者が多いように感じます。どんな楽器であっても、すべての演奏者にとって「最高」なんて楽器は存在しません。さらに言えば、楽器の音が気に入らないからと楽器や弓・弦のせいにする前に、自分の耳を疑う事をなぜ?しないのでしょうか。人間の「聴覚」は日々刻々と変化します。気圧でも変わります。血圧が変われば聴こえ方は全く違います。それを考えず「楽器の調子が悪い」と言うのは間違っているケースがほとんどだと思います。
 楽器を大切にすることと、楽器そのものに手を入れることは意味が違います。
楽器は自分の意志で変わることはできません。楽器に合わせるべきなのは演奏する人間です。
 ぜひ自分の楽器の音を「自分の声=声帯」だと考えてみてください。いじくりまわすよりも。声の出し方を考えるのが先だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介