父が残してくれた

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 今日、9月28日は私の父の命日です。
昭和4年に警察官だった私の祖父の長男として生まれ、3人の妹と岡山で激動の時代を生きた父。
終戦を学徒出陣の直前に迎え、京都大学経済学部から富士銀行に入社。
 母はいわゆる「良家のお嬢様」で,長女でもあった母との結婚は相当な(笑)プッシュがあったものと思われます。銀行員の定めで全国の支店に転勤。兄と私が生まれたのは渋谷区に住んでいたころの事。健康だった兄と比べ、心臓に穴が開いていたり、病弱ですぐに高熱を出したり、目の病気が見つかったりと「心配の巣窟」(笑)だった私。心臓の病気が心配で、当時の富士銀行では異例の「飛行機移動」が許され北海道の札幌に転勤。札幌支店長に当時の「最年少記録」で昇進し、今度は代々木上原の団地=社宅に引っ越し。私は幼稚園と小学校入学をこの代々木上原で過ごしました。
ちなみに当時の幼稚園「シオン幼稚園」は未だにあるようです。上原小学校もきっとありますね。
 治療法がなく、失明するまで進行する目の病「網膜色素変性症」が見つかったのがこの時期。
両親のショックは私が想像できるものではなかったはずです。当時、診察を受けていた国立小児病院の眼科医とやり取りしていた手紙が、のちに私の障碍者年金受給の「証拠」になるとはだれも思っていなかったでしょう。
 その後、両親の故郷でもある岡山県に転勤。倉敷市の田んぼのなかに建つ社宅に引っ越し。
小学校2年生の私は、父を送迎する銀行の車を不思議に見ていましたが、今思えばバブリー!(笑)
 その倉敷で母型の祖父がくれた、ひびの入った分数ヴァイオリンが私の音楽人生の始まり。
いやいや?だったのかさえ、あまり記憶になく、記憶に残っているのは「スズキメソード」の楽譜を、母が大きなスケッチブックに手書きで拡大して書いてくれていたこと。楽譜が小さくて見えなったんですね。その頃母と「いつか、楽譜を機械で大きくできるようなものが出来たらいいね~」と話していました。それ、今でいう拡大コピー(笑)夢はかなっていた。
 父は相変わらずの「企業戦士」で、毎年お正月になると銀行の店員さんたちが我が家(社宅)に大挙しました。おそらく20人くらいいた記憶。応接間は煙草とお酒の匂いで充満。
私も時々、熱燗やら母が作る料理を運ぶお手伝い。挙句、酔っ払った行員さんたちが「バイオリンひいてくれたらお年玉げるよ~!」で、否応なく弾かされた記憶あり。
 その後、一家は杉並区荻窪の社宅に引っ越します。小学校2年から4年ごろ←すでに怪しい。
荻窪小学校に通っていたころに、ヴァイオリンを習っていた記憶も「証拠」もないのです。
つまりこの時、私のヴァイオリン人生は一度終わっていたことになります。衝撃の真実。
 でもなぜか?その当時の社宅で、父が私にアップライトのピアノを買ってくれています。
なんなんだろう?私はと言えば、機械好きが目を覚まし「テープレコーダー」をねだり、父はどこからか借りてきた、巨大なオープンリールのテープレコーダーを持ち帰りました(笑)それで何か聴いたりした記憶もなく。だってマイクもスピーカーもなかったし。父も母も兄も「機械音痴」です。
 終わりかけていた音楽人生に再び火をつけたのも「父」でした。
武蔵小金井に父の念願だった「マイホーム」が建ったのは、私が小学校5年生の10月。
当時父は富士銀行の三鷹支店長。夜遅く、帰宅していました。この頃も毎年「新年会」は自宅で開かれいました(笑)が、父がどこから情報を得たのか?「久保田良作先生」という、高名な先生のご自宅に母と私が伺ったのです。何を考えていたんでしょう?この家族。私は「くぼたせんせー」を知るはずもなく、ヴァイオリンもすでに手元になく。そんな親子を久保田良作先生は「では、しばらく家内がレッスンをしましょう」と!なんてこった(笑)
 由美子先生(奥様)のレッスンは、ご自宅の2階で行われていました。
母と毎週、東中野のご自宅に通いました。楽器は先生がご紹介くださった楽器でした。
そのお部屋に、大きなスペースで「ジオラマ」があり小さな電車がたくさんおいてありました。
「こんなものを、子供みたいに喜んで買ってくるんですよ!」と由美子先生が笑いながら話してくださったのを思い出します。
 こうなると、ヴァイオリンを「やめたい」と言い出せなくなったものの(笑)、やる気もなく毎日母に「バイオリン練習しなさい!」と叱られながら、母の目の届く場所でちょろちょろ(笑)
 あまりに練習が少ないと、夜遅く帰ってくる父が「練習しないならやめろ!」と私を叱ります。
めっちゃ悔しかった記憶だけ。
 中学生になり、由美子先生から「良作先生」のレッスンになりました。
一階のレッスン室で、ひたすら「ラシドレミレドシ」と姿勢と手の形のレッスンが延々と続きました。
 中学1年生の終わりごろに「もう少し良いヴァイオリンに替えた方がいいですね」と先生からお話を頂き、父は先生の仰る通りに「田中さん」という職人さんに楽器を依頼。数週間後に田中さんから「良い楽器が輸入できたので」とお電話がありました。値段を聞いた父が何度も聞き返していました(笑)
 結局、楽器を見ることも確かめることもなく「久保端先生が大丈夫と仰るのだから」と、購入を決断した父。銀行員でも当時「楽器の購入」でお金を貸してもらえず、親戚…母方の父にお金を借りたり、趣味で集めていた骨董を売ったりして工面したようです。その楽器は今も私の「相棒」です。
 やる気の感じられない次男に、借金をしてまでヴァイオリンを買い与えた父の「心境」を考えると、ますます理解に苦しみます。まさか「これでやる気になるだろう」と思ったはずもなく。
 中学3年生になってから「くにたちでも受けてみますか?」という先生の軽い言葉に、まんまとのっかった私達家族。そもそも「くにたち」が何なのか?さえ知らない一家でした。
 そこから突然の「桐朋受験モード」に。黒柳先生に聴音・ソルフェージュ・楽典のレッスンを週に2回。千歳船橋まで明るいうちに伺って、帰りは真っ暗なので父が迎えに来てくれていました。今考えるといつの間に?(笑)
 国立を受験した日は大雪。そして桐朋の受験初日の伴奏合わせの帰りの電車で、猛烈な腹痛に立っていられなくなり母に抱えられながら帰宅。倒れこむように寝て2時間ほど死んだように眠っていたそうです。起きた私は「なに?なんかあった?」とけろっとしていました。胃痙攣。
緊張したんですね。で、すべての試験が終わって「せーせー」していた私。中学校の厳しいお達しで都立高校も受験していました。そんなある日、学校から帰ると家から母が出かけるタイミング。
「これから、国立の入学金を払ってくる」と母。「やめなよ。いいよ。桐朋、落ちてたら都立いくから」と大見栄を切った謙介(笑)その前の晩に、国立から電話があり「締め切りをすぎましたが、一日だけ待ちます」との話。それは私も知っていましたが、まさか?本当に30万円も「バクチ」に使うとは思っていませんでした。
 母がすぐに父に電話。「本当にいいのか?落ちていたら都立しかなくなるんだぞ!」と電話の向こうで父が私に。「いいよ」と絶賛反抗期中の私(笑)結局、母はそのまま、自宅にいました。
 数日後の発表で、なぜか?富士銀行調布支店から「合格しています」って電話で速報。なんで?(笑)心配でたまらなった父が、仙川に一番近い富士銀行支店「調布」に指示を出していたと推測。
なんともおおらかな時代。公私混同も甚だしい。
 そんな父との関係は「似たもの親子」なのか「反面教師」なのかわかりませんが、父が亡くなる直前まで変わりませんでした。浩子姫はずいぶんと心を痛めていましたが、親子は案外普通でした(笑)


 父親と喧嘩ばかりしていた私です。当たり前ですが、いつも本気で喧嘩できたのは「親子」だからです。私の生活を気にかけ、病気を気にかけていながら、口に出さなかった父です。
父に何かをプレゼントしても「いらん」という父でした。シャイで頑固。一番、面倒くさい人種でした。私がその父に似ていることは、自分で否定しても無駄でしょう(笑)
なんに対しても大げさな性格。言い出したら聞かない性格。人前で「いいカッコ」する見栄。
自分でも認めます。上の方から「あきらめろ。おれの子だ」と笑われている気がします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

  

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