メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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楽器・弓

楽器を替えて変わること・変わらないこと

映像は昨年(2025年1月)に演奏したサン・サーンス作曲「死の舞踏」このリサイタルで初めてヴァイオリンを新しい楽器に持ち替えました。
 それまで使っていたヴァイオリンは私が中学2年生の時に両親が私に買ってくれた楽器でした。1800年代のはじめにイタリアの職人「サンタ・ジュリアーナ」が製作したヴァイオリンで当時、フィラデルフィアの楽器商「メニック」から輸入されたばかりの楽器でした。
 初めての日本だったらしく購入した翌年の梅雨で表板も裏板も湿度と暑さに耐えられず毎週のように膠が剥がれ、その度に購入した職人さんの工房に通っては直し、また剥がれては直し…泣きたくなる思いでした。
 音楽高校の受験、大学を卒業するまでの間、常に私の「相棒」でもあり「身体の一部」でもありました。そんな楽器との別れは一昨年2024年5月。諸々の事情で弓と共に手放しました。
買い取ってもらった楽器商で手続きを終えた時、次の楽器を手にすることは全く考えていませんでした。『うそ~」と思われるかも知れませんが本当の事です。「他のヴァイオリンは持ってるんですよね?」と楽器商=職人の方に問われて「いえ。弓だけ持ってます」
「ダメです!」と一喝されました(笑)
「なにか特別に気になる楽器はありますか?」と尋ねられたので正直に「新作は難しい=不安だけどオールドはいらない」と言う事と以前に出会ったモダン楽器で印象に残っている製作者の名前を伝えました。「贋作も多くて実際本人も色々な人の名前で楽器を作っていたり危ないことは知っています」と正直にお話ししました。
「そこまでご存知なら」と「実は今、あります」と持ってきてくださったのが映像で演奏しているヴァイオリン=今現在、私が愛用しているヴァイオリンです。製作者や年代については書きません。お許しください。私がそれまで愛用していた楽器の製作年も敢えて書きません。楽器は時代を超え色々な人の手に渡ります。私が使っていたヴァイオリンも誰かの手に渡ります。そして新しく手にしたヴァイオリンも今まで少なくとも一人は誰かが演奏していた楽器です。
使う人の愛着が楽器にあります。手放せば「その先」が気になります。
また以前に使っていた人についても同様に気になるものです。
そのすべてを知ることが演奏者にとって「良い事」ばかりではないことを改めて学びました。前に使っていた人の弾き方や管理が「悪かった」と考えてしまうのは演奏者として恥ずべきことです。どんな楽器でも誰かが最初に使います。そして次の人、さらに次の人に「愛され続け」100年以上の年月、誰かの相棒として活躍するのがヴァイオリンです。楽器の調整は「楽器を壊すこと」と言う言葉もこの楽器を手にするときに職人さんが言われた言葉です。その通りだと思います。
楽器は人間の身体と違って「再生」しません。1ミリでも削れば二度と元には戻りません。作った人の楽器とは別の楽器になります。それが悪いとは言いません。楽器を調整・修理することは大切な事です。人間で言えば「健康診断」に近いものです。検査で病気や骨折が見つかって治療しますが人間には「自然治癒能力」があります。骨折は固定すればある期間で再生し完治します。ではヴァイオリンは?
 以前の楽器のように「膠がはがれる」状態では健康な音は出せません。ヴァイオリンを作る時と同じ手法で表板・裏板と横板を弱い接着力の膠=ニカワで貼り付けて決まった圧力で数日、固定して固着させて元に戻せます。ニカワの接着力が弱いのは「木材が割れるのを防ぐため」なのです。強すぎる接着剤で貼り付けると、湿度で膨張した場合と乾燥で縮んだ時の「差」を逃がす=剥がれることが出来ず、板が割れる結果になります。ここにもヴァイオリンを考えた先人たちの「知恵と技」があります。
 剥がれなら直せますが「割れ」は復元できません。木材の組織が分断してしまったものを、いくら見た目でわからない様に修理しても振動はそれまでと違う伝わり方になります。
 ましてや演奏者の好み、職人のこだわりで楽器を削ることは楽器にとって「二度と元に戻れない」状態にされることです。
「お金を払ったから自分の自由」確かに。「弾きやすいように・良い音が出るようにしただけ」なるほど。
 そのヴァイオリンを自分だけが演奏して終わらせる=燃やす・壊す覚悟があるなら、それでも構わないかも知れません。
 実際にあのストラディバリウスを大量に乾燥室に入れて、すべての楽器の表・裏の板を割ったコレクターが過去に実在しました。本人からすれば「買った自分の自由」です。
 ヴァイオリンを演奏すれば「良い影響」と「劣化」が同時に常に進行します。良い影響は木材が振動しやすくなること。特に正確なピッチで適正な圧力の弦で演奏すればなお一層、楽器はピッチが合った時に大きな振動をするようになります。ストラディバリウスがどれも良い音で演奏できるのは「常に一流の演奏者が演奏しているから」でもあります。
 一方で「劣化」は演奏するために温度と湿度の変化にさらされ、演奏者の汗・呼気で湿度をさらに吸い込み、移動のたびに振動で楽器に負担をかけ続けます。ヴァイオリンは楽器であり「演奏するために作られた」ものです。飾って鑑賞する目的で作られていません。

 ヴァイオリンを持ち替えてもうすぐ2年になります。以前の楽器と50年間お付き合いした事と比べると「序の口」です。
 この間にいくつもの演奏会場で色々な曲を演奏する事ができました。ちなみに一度も調整・修理を必要とするような事はありませんでした。日常の手入れだけで、ニカワの剥がれもなく健康な状態を維持しています。楽器自体が製作されてからまだ100年経っていない「若い楽器」であることも健康な理由の一つです。かと言って新作楽器のような「バラツキ・イレギュラーな変化」もありません。新作楽器の場合にはこれが最も不安な要因です。
 2年間演奏して感じたこと。
・自分の演奏方法を再確認できた
・楽器固有の「聴こえ方の違い」に少しずつ慣れてきた
・楽器の成長=良い影響を感じられる
一方で変わらないのは
・自分の好きな音色
・苦手な奏法(😿)
これは一生かけて試行錯誤することだと覚悟しています。
 楽器を替えれば「音が変わる」のは当たり前です。しかし、自分の求める音・理想の音は変わりません。つまり、しばらく違う楽器を弾けばその楽器で自分の好きな音を出そう!と無意識に演奏方法を変えて行きます。結果、どんな楽器を持っても「自分の好きな音」に向かって変わっていくので楽器の個体差よりも演奏する人の「好み」の音が聴く人に届くことになります。
 私は技術が足りないからか2年経っても、今のヴァイオリンで自分の理想の音を出せません。それは「楽器のせい」ではなく、自分の技術が足りないことが原因です。楽器を変えて「目先の変化」から学ぶこともたくさんあります。今まで生徒さんに本当に多くの「入門用ヴァイオリン」と呼ばれる楽器を選んできました。学校での部活オーケストラに入部して初めてヴァイオリンを購入した数だけ考えても、20年間で200本以上…もっとかな?選定しました。教室を開いてからは、手工品の楽器、新作楽器も含めてやはり200本以上の選定をしました。
 その自分が選んだ楽器は?「ちょうど今ありますよ」と提示された楽器と言う笑い話のような実話です。「本当に?他の楽器は弾かなくても?」という職人さんに「いえ結構です。とても気に入りましたから。と言うより嫌な音ではないし、他の楽器を弾いても迷うだけですから」とお答えしてその日から私の身体の一部になりました。
 楽器は「道具」です。そして必ず「寿命」があります。人間と同じように年を重ねると変化します。使い方、扱い方で楽器の音も寿命の長さも変わります。ヴァイオリンの寿命が人間より長いのは事実です。
ヴァイオリンの「生涯」の中で一時に関わるのが演奏者です。
人間のパートナーとは違います。そのことを考えて、楽器をいたわりながら自分の好きな音を出させてもらおうと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の努力と聴く人の期待

映像はサン・サーンス作曲「死の舞踏」昨年1月の演奏です。
今回のテーマは演奏者が聴衆の前で演奏するまでに練習と準備に時間と労力、お金も使って、演奏会でその演奏を聴いた人が持っていた期待に応えることの難しさを考えるものです。趣味の演奏とプロの演奏で異なる面もありますが共通する一面もあります。
「演奏する側」「聴く側」の立場で深堀りしてみたいと思います。

演奏する立場で考えるとお客様に演奏を楽しんで頂くために「おもてなし」の心、謙虚な気持ちが第一に必要です。その上で自分(自分たち)も歓びと達成感、満足感を得られます。
準備する側に「完璧」はありません。「これで良い」と言う妥協点を下げてしまうのは簡単なことです。言い訳を並べれば「仕方ない」の一言で自分を納得させられます。
演奏技術を高めたいと言う「欲望」は演奏者が誰でも持つものです。
しかし「どこまで?」と言う線を引くことは不可能です。自分が納得できるまで人前で演奏しない!と心に決めたとすれば、私なら死ぬまで人前で演奏することはないだろうと思います。最終的に到達したレベル・満足度で人前に立ち、演奏することになるのはプロもアマチュアも同じです。だからこそ少しでも努力して「良い演奏」を目指すことになります。

「聴く側の立場」で考えてみます。
演奏会に足を運びコンサートによっては「入場料・チケット代金」を支払って演奏が始まるのを待ちます。
偶然に会場の前を通りかかってコンサートを聴く…そんな確率はゼロに近いものです。多くの人は予めコンサートの日時や場所、演奏者、曲目などを知った上でコンサート会場に行きます。
良く知っている知人・友人が演奏するコンサートもあれば、情報を見て演奏する人の経歴や容姿だけで決める場合もあります。曲目に魅力があって「行こう!」と思う時もあればまったく知らない曲でも聴いてみようかな?という興味と演奏者の魅力が組み合わされてコンサートに行く場合もあります。
 つまり殆どの場合は演奏者か曲目への関心や興味が決め手になり、その先に「演奏への期待」が続くものです。もちろん演奏にまったく期待しないでわざわざ演奏会に行く場合は「お付き合い」の場合で、自分で交通費とチケット代金を払ってまで期待しないコンサートには行かないものです。
 演奏が始まって自分の予想していたよりも演奏が「気に入る」場合と「面白くない・楽しめない」場合があります。期待する内容によりますが例えば自分の好きな演奏に感じたり、初めて聴く曲に感動したり「期待を超える楽しさ・歓び・感動」があれば交通費もチケット代金も無駄になったという気持ちは感じないでしょう。
反対に「期待を下回る・裏切る」内容の演奏や曲=音楽だった場合、後味の悪い時間を終えて帰ることになります。ショックが大きければ「二度と〇〇のコンサートなんかに行くものか!」と言う怒りに似た気持ちさえ持っても不思議ではありません。

 演奏する側は「準備」が必要です。聴く側にはまったく必要のないことです。むしろ聴く人が演奏者を知らなくても、演奏する曲を聴いたことがなくても、聴いて感動したり楽しめれば良いのです。
 演奏会に期待する内容は聴く人によって違います。中には「生の演奏者を見ること」が目的で会場に行く人もいるでしょう。また「好きな曲」だからと期待してコンサートに行く人もいます。漠然と「ヴァイオリンの音が好き」だとか「クラシックが好き」と言う人もいます。
すべての聴衆の期待に完全に応えることは不可能です。「好み」が人によって違うのですから当然です。同じ演奏でも感動する人もいれば途中で寝落ちする人もいます。「早く終わって!」と思う人もいるかも知れません。それが現実です。
 演奏技術のレベルが高いのか?普通なのか?ヘタなのか?分からなくて当然です。「分かった振り」で語るオタク様にとって「分からない人」は恰好の餌食です(笑)御託を聴かされる側には迷惑でしかないことに本人は気付きませんが(笑)
 技術の有無が分からなくても、作曲者の歴史や名前を知らなくても、演奏者を知らなくても「楽しめれば価値がある」ことなのです。
コンサートはコンクールではありません。演奏者のファン・知り合いだけの「内輪のイベント」なら一般の人に公開するべきではありません。同様に演奏する曲を初めて聴く人やクラシック音楽を普段聞かない人が萎縮するコンサート=マニアのためのコンサートなら「マニア向けです。曲を知らない人は入場できません」と告知すべきです。
 誰にも何事もに「初めて」があります。初めてのクラシック音楽のコンサートで「嫌な思い」をした人がまたコンサートに行くと思いますか?「そんな人は放置すればいい」と思いあがる人に言って差し上げたい。「生まれつき音楽が好きな人間なんて地球上には誰もいませんが?」と言う事実を。すべては「偶然」の積み重ねでしかありません。
 演奏する側も、聴く側も「偶然の出逢い」なのです。聴く側の「期待」と演奏する側の「不安」が終演後に全員が「満足」「喜び」に変わるコンサートが理想です。現実にはなかなか(笑)それでも「次に期待」したり「次に向けて努力」する事が続くのは、少なからず期待に応えてくれた満足感と、それを感じられた演奏者の嬉しさがあるからだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自分の演奏を分析する

 映像は2009年12月。私の地元相模原市橋本駅前の「杜のホールはしもと」での演奏です。
浩子さんとの2回目のデュオリサイタルです。若いなぁ(笑)
 さて今回のテーマは演奏する人が「自分の演奏」について感じることやその妥当性について考えるものです。。音楽を聴いて楽しむ場合とはまったく違い、他人の演奏を聴いた時の感覚とも違うものです。当たり前ですが「自分の事」が一番客観性が低いものになります。
・練習しても上達した実感がない。
・上達しないのに練習を続けることに疑問を感じる。
そんな気持ちを持った経験は多くの人にあるのではないでしょうか?
自分よりじょうずな人の演奏を聴いて目標にして頑張るのに、いくら練習しても全然近づかない‥むしろ空回りしている気がする経験も私自身何百回となく体験しました。
すべては「自分の演奏を冷静に観察できていない」事が原因だと感じます。
自分の演奏を「自己評価」することが最も難しいことだと分かりました。
ひとつには自分自身だけが「練習のすべてを知っている」ことです。
練習は人に聴かせる目的のものではありません。自分自身のために行うものです。
他人の練習内容、時間を知ってもその本人にとってどれだけ?大変なものだったかは想像することしか出来ません。
自分の演奏に不満がある場合←私はほぼすべての演奏に不満がありますが‥まず自分の練習が足りなかった?と反省します。次にもっと!練習しよう!と決意して実際に自分の出来る限りの練習をして演奏します。結果「またダメだった=満足できない」です。上達を感じる前に「あんなに練習したのに!」と思う気持ちが大きくなります。
つまり「練習の量と質」について反省し改善する努力に終わりも到達点もないという事です。
 さらに別の要因として自分の演奏は「傷」が大きく感じることです。
演奏しながらミスに気付いても修正すること・演奏しなおすことは基本的にできません。
演奏中にはミスを気にするより「次の音」を演奏することに集中しています。演奏後に録音を聴いてみて打ちひしがれるのは私だけ?ではないようにも聞いています。
 日ごろから生徒さんにもオーケストラのメンバーにも間違えることを恐れて小さな表現になるのは間違っていることだと伝えているのに‥実際に間違っている自分の演奏は許せない!(笑)自己矛盾です。間違えない演奏が最高の演奏ではないこともブログに書いています。人間なのに間違えないのは努力の結果です。それ自体は素晴らしいことです。自分の演奏を誰かと比較しています。それは「間違えない人」との比較です。ミスをしない演奏に憧れているのは紛れもない事実です。
 ミスに感じていないミスもある。つまり今の自分のレベル=耳の精度では「あっている」と感じても、もっと微細な違いをもっと短い時間で「測定」できる耳を持った人には「ミス」として感じるはずです。事実演奏会で私が失敗しても後で「え?全然わかりませんでした」と本気で言ってくれる人がたくさんいます。「優しさ」もありますが本当に気付かなかった人もいるようです。その人の耳の精度が低いと言うより自分が「気にしすぎている」事が多いようです。

「自分の演奏をもう一人の自分が聴いているつもりで観察しなさい」
これは私の師匠が教えてくださった言葉です。門下生の発表会で演奏した後に
「どんなに高揚(興奮)しても頭のどこかに冷静さを残しなさい」と言うメモ書き=天の声を頂いたこともあります。まさに!真実です。
練習は常に「第三者的な観察」を心がけ、本番の演奏中は「真っ白にならない」ことは一番難しいことです。逆になりがちです。練習ではムキになったり観察力が足りなかったりしがちです。本番では熱くなりすぎて本来の自分が出来ることが出来なくなることがあります。
 自分の演奏を聴くことは「鏡に映った自分を見る」ことに似ています。日常生活で「人目を気にしない」人でも常識的な外観・外見は整えるでしょう。パジャマのままでごみを出す人もいれば「ばっちり!」お化粧しないと外に出ない人もいるのでは?ただ大切な人と対面する時に相手に不快感を与えないような準備をするのは「常識」の範囲だと思います。それ以上に人に見られる職業‥例えば映画やテレビのカメラで撮影される俳優さんやアナウンサー、写真のモデルさんなどにとって「鏡」を見るのは一つの仕事かも知れません。
 音楽を演奏する人が自分の演奏を聴いてチェックする・反省する・改善するのも大切な練習です。「嫌だから聴かない」人が圧倒的に多数です。趣味であっても自分が上達しようと思うなら「録音」を聴くことは上達のポイントになると思います。ましてや専門家の場合には「嫌でも聴くべき」だと思っています。自分の演奏がどう?聞こえているのかを知ることは、人にどう見られているのか?鏡で確かめるのと同じだからです。音楽はその場で消える芸術ですから「終わった演奏を聴いても仕方ない」と言うのは詭弁です。一期一会の音楽だからこそ自分の演奏を他人の演奏を聴く耳で聴いて「感じる」事も重要な事だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上達に必要な基本の「知識」「技術」「練習方法」

映像は2004年みなとみらい大ホールで演奏する中・高校生の部活動オーケストラ定期演奏会。
チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の一部です。私の作った部活オケを指揮した最後の定期演奏会でした。中学校に入学しオーケストラに入部して初めて楽器を手にした子供がほとんどです。中高一貫の私立学校で当時、オーケストラは中1~高2までの5学年の生徒が一緒に演奏していました。総勢150名にもなる大所帯。全校生徒1200名の内の150名が参加する部活オーケストラ。
 今回のテーマは部活も含めた「趣味の音楽」を楽しむ上で上達するための「知識」「技術」と「練習方法」を経験を元に考えるものです。

 まず前提として趣味で楽しむ楽器の演奏と演奏の専門家=プロを目指す人の目的は全く違う事を忘れないことです。目指す技術のレベルではなく「目的」の違いです。趣味で音楽を楽しむ人の集まりが部活オーケストラや部活吹奏楽、さらに市民オーケストラもその一つです。プロを目指す人の場合にはまず個人の演奏技術・知識を身に付けることが必須条件になります。多くの仲間と共に演奏を楽しむ「プロ」になるためにはまず個人のスキルが高くなければなりません。
 趣味だから下手でもいいか?結論は「はい」です。演奏する本人・本人たちが楽しめることが最優先であるべきです。その演奏を聴いてくれた人が「ヘタだねー」と言ったとしても気にする必要もないし、趣味の演奏をヘタだじょうずだと言う人が間違っています。演奏する本人・本人たちが「もっとうまく演奏したい」と言う希望・欲を持つ場合に初めて必要になる基本の知識・技術・練習が生まれます。指導者=部活の場合顧問がいくらレベルアップを望んだとしても、演奏する本人たちが望まないのであれば無駄な労力と時間を浪費するだけです。指導者が演奏をレベルアップしたいと考えるなら、まず本人たちが「純粋に」レベルアップを望むように誘導するべきですが「コンクールで上位を目指そう」と言う安直な餌で生徒を釣ることは絶対にやめて頂きたいと教員時代から願っています。趣味の音楽に序列を付けるのは「無意味」でしかありません。コンクールと言う餌がなければ生徒を惹きつけられないのは指導者の「指導能力」「指導経験」が足りないことを証明するだけです。「純粋に」と強調したのはその意味です。演奏する本人が何故?何を?上達させたいと思っているのかという根本的な問題をクリアする必要があります。自分の目指す演奏レベルと自分の演奏の「どこが・どう違うのか?」を知らないのが当たり前です。なんとなく…自分よりうまく聴こえる演奏に漠然と憧れている人に「がんばれ!」って言いますか?スポーツで考えればプロ野球の選手が出来ることを中学生・高校生に真似させて「強く」なれるはずがありません。そもそも指導者が「上達する道を通った経験」がないとしたら?YouTubeや本から得た情報だけで指導ができると思い込むのは「百害あって一利なし」です。間違った指導は成長の未来のある生徒の夢を破壊します。宝石の原石を叩き割るのが無知な指導者です。

生徒が自発的に上達したいと考えているなら…あるいは自分自身がそう思う演奏者なら「足りない技術・知識」を誰かに教えてもらう事です。少なくとも自分よりうまいと感じる人、できれば専門家を目指す人に必要な技術・知識を学んで身につけた人に教えてもらべきです。
 動画で演奏している中高生に音楽の授業を通して「楽典」を教えました。当然ですが部活に所属していない生徒たちにも同様に楽典の授業を中学1年から教えました。特に「音名」「音程」について覚えていて損はしません。当然変化記号=シャープ・フラット・ダブルシャープ・ダブルフラット・ナチュラルや調号の仕組みや名前についても教えました。子供たちにとって覚えることは他教科でも慣れています。覚えさえすれば定期考査で100点を取れます。事実、多くの中学生が楽典のテストで100点満点を取りました。覚える気のない生徒の点数はは一桁でしたが(笑)
 さらに指揮法の図形も授業で教えました。校内の行事で合唱コンクールがあり学級ごとに生徒指揮者、ピアノ演奏者を決め音楽の授業時以外にも担任が立ち会って練習していましたので「指揮法」は生徒たちが求めた技術でもありました。もちろん部活オーケストラで演奏している生徒たちも図形や「点」「叩き」「平均運動」などの意味を覚えました。これも合奏では大いに役に立つ知識です。

最後に趣味の演奏で有効な練習方法について。
一言で言えば「課題を見つけるための練習」をすることです。
一般には出来るようになるまで繰り返すことを練習だと思いがちですが出来ないこと=気付いていない症状を発見する事が優先です。治療は症状と原因を見つけてからするものです。病気と違って楽器の演奏に「予防」はありません。常に自分の演奏の状況を観察し、必要なら録音や録画をして自分の演奏の問題点を見つけ原因を探ることです。この場合も指導者のアドヴァイスは有効です。症状も原因も複数のことが絡み合っている場合が殆どですので「症状を分析する=もつれをほどく」作業が第一です。

例えばボウイングだけを意識して開放弦を練習すると出来ることがスケール=音階になるとできなくなる場合や曲の中で苦手な部分になると何故か?音が小さくなったり汚くなる症状です。気付くためには「観察する=聴くこと」以外に方法がありません。人に指摘されて修正するなら自分の音を聴いていなくても出来ることです。自分で自分の音を聴くのは一番疲れることです。演奏しながら聴くのですから指や腕を動かすことに意識が集中すれば「聴く=聴覚」への集中は落ちてしまします。運動する部分を「ひとつ」からスタートし「足し算」つまり運動する部位を一つずつ増やしながら聴く練習をすることが有効です。一気にすべての運動=右手・左手を動かして曲を弾けばどの運動が原因で雑音が出ているのかは判断できません。引き算しながら練習する方法もありますが、最初はひとつずつ=最初は右手だけ→左手だけでピチカート→両手で演奏のように症状が出始める原因を探すことです。
 練習できる時間は人によって異なります。楽器を使って音を出さなくても上達する練習があります。

ひとつは「頭の中で演奏する=イメージトレーニング」これは電車の中でもできます。もう一つは「楽譜と音楽を一致させる」練習です。楽譜を読む技術向上にもつながります。また色々な人の演奏を聴き比べながら楽譜を見ることで発見もあります。お茶を飲みながらできる練習です。
 技術・知識・練習は「意欲」によって内容も結果も変わります。
モチベーションを維持するのは大変に難しいことです。最大のポイントは「継続は力なり」という言葉だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの音量

映像はアンドレ・ギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
今回のテーマはヴァイオリン、ヴィオラの演奏で「音量」を考えるものです。
 前提としてヴァイオリンは管楽器や打楽器、弦楽器の中で音量が大きい楽器ではないことを考えます。確かにギターやマンドリン、リコーダーと比べれば音量=音圧はヴァイオリンの方が大きいと言えます。しかしチェロ、コントラバスと比較すればヴァイオリンは音域が高いとは言え音量で考えれば比較して小さな楽器です。筐体=ボディーの大きさ、弦の長さと太さを考えれば当然のことです。事実オーケストラにおいてヴァイオリンの人数がヴィオラ、チェロ、コントラバスより多いのは音量の問題があるからです。当然フルートやピッコロなどの木管楽器、トランペットなどの金管楽器とは比べようもなく音の小さな楽器です。
 ヴァイオリン協奏曲を考えると明らかにオーケストラとのバランスが悪い楽器とも言えます。多くのレコードやCDで独奏ヴァイオリンの音がオーケストラと対等、あるいはオーケストラ以上に大きく録音されているのは単純にマイクの位置によるものです。会場で聴いた場合のバランスとは全く違います。これはピアノとヴァイオリンの二重奏でも同じことが言えます。
ピアノの音圧はヴァイオリンより遥かに大きく、小さな音の比較ではヴァイオリンと同程度まで小さな音を演奏できる楽器です。だからこそ「ピアノフォルテ」と言う正式な名前がついたわけです。ピアノとヴァイオリンが同時に演奏し、双方が目いっぱいのフォルティッシモで演奏したとしたら、ヴァイオリンの音は完全にマスクされ会場ではピアノの音ばかりが響きます。これはヴァイオリンの楽器がストラディバリウスだろうが新作のヴァイオリンだろうが変わりありません。演奏技術の問題でもありません。構造上の違いだからです。

ヴァイオリンを練習している時にフォルテやピアノ、クレッシェンドなど音量の変化に「基準」があるでしょうか?
どんな楽器の演奏でも最小・最大の音量があります。
音が出ていない状態でも音楽の一部です。休符や音楽の始まる直前、弾き終わった直後も音楽です。実際に楽器で音を出している時の音量は常に相対的な音量の差です。人間の耳は静かな場所では敏感になります。逆に地下鉄の車内や飛行機の中、大音量のロックライブ会場では隣の人の話し声さえ聞き取れなくなります。聴く人と演奏している人で感じられる音量の差=変化が違います。感覚の違いより楽器との距離の問題が一つ。距離が離れるほど微妙な音量の違いは感じられなくなります。特に小さな音の場合には離れた場所では聴こえなくなります。
もう一つ大事なのは演奏者が「大きく(小さく)したつもり」で実際には変化がほとんどない場合です。クレッシェンドしているつもりでも聴いている人には同じ音量に感じるケースです。ヴァイオリンのように最大音量が小さい楽器は音量の変化を「感じてもらう」ことが困難です。もっと大きく!と頑張ると得てして汚い音になりがちです。
音量の変化量=聴いている人が感じる音量の変化量を大きくしたければ「小さい音」を有効に使うべきだと思います。楽器の音量を物理的に大きくする技術や弦を考えることも大切ですが「相対」を大事にすべきだと考えています。
コンサートで物理的な最大音量をさらに大きくしたいのであれば最終的に「電気の力」を借りれば良いのです。野外でのクラシックコンサートでは当然の事ですがマイクとアンプ=電気的な増幅と巨大なスピーカーを多数設置して何千人・何万人の聴衆に音を届けます。
「大音量」で演奏できることが良い演奏だと思い違いをしないことが重要だと思います。そもそも録音するなら大音量はまったく必要ありません。レコーディングの現場は音量の変化は電気的に行うのが常識です。大ホールで演奏する場合に客席の最後列でピアニッシモが聴こえないとしたら?コンサートとして成り立っていません。だからと言って曲全部をフォルテで演奏したら?ダメですよね。
 小編成のアコースティック=電気を使わない楽器の演奏・歌を大ホールで開催することに違和感を持っています。どんなに音響の良い大ホールでも音の届く限界距離があります。無理に大きな音を出そうとするよりも聴衆にピアニッシモが心地よく聴こえる環境で演奏することを考えるべきではないかと思います。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏会場を選ぶポイント

映像は代々木上原ムジカーザで2010年から2026年まで毎年デュオリサイタルを開いてきた私たちの「最初と最後」の演奏をまとめたものです。17年間にたくさんの曲を演奏し本当にたくさんのお客様と出会いました。同じホールで同じピアノを同じ調律師(名取さん)にお願いして、ほぼ同じ時期(1月初旬の土曜日)に開催し続けました。
今回のテーマは「演奏する場所」について考察するものです。

演奏には「聴衆の前で演奏する」場合と「録音や撮影のために聴衆のいない状態」の場合
があります。聴衆がいるコンサートを録画・録音した「ライブ」もありますが聴衆の有無は大きな違いになります。
スタジオで演奏し録音する場合は響きのない室内での演奏になります。
ピアノとヴァイオリンの録音を別々の時間・場所で録音する場合もあります。昔の言い方をすれば「「重ね録り」と呼ばれるものですが、多くはポピュラー音楽の録音に使われてた録音方法です。録音のための演奏なのでノイズ=周囲の雑音を極力減らし、後の編集作業のために残響時間も少ない事が求められます。演奏する人はヘッドホンを装着しメトロノームの音や先に演奏を録音した音を聴きながら演奏=録音します。慣れないと非常に演奏が難しいものです。
 聴衆を前に演奏する「コンサート」の場所は広さ=客席数、音響(残響時間など)が最も大きな違いになります。ホールや演奏場所の立地環境=交通アクセスも聴衆にとっては大きな問題になります。
 あまり大きく取り上げられませんがホールのスタッフと設備・備品は演奏者にも聴衆にも影響します。スタッフが演奏者の立場と聴衆の立場で最善の環境を作る技術と感覚を有していないと演奏が素晴らしくても良いコンサートにはならないものです。また施設や設備が演奏に不向きな場合もあります。エアコンの動作音が大きく演奏の小さい音にノイズが混在するホールもあります。客席の椅子が折り畳みのパイプ椅子で聴衆が長時間座るのが苦痛になる場合もあります。椅子のきしみ音も演奏の妨げになります。

演奏者がホールを選べる場合と、演奏を依頼され場所も予め指定されている場合があります。
後者の場合どんな会場でもその場にあった演奏を限られたリハーサル時間の中で探す技術・経験が求められます。
自分で会場を決める時に最終的に資金的な問題を優先することになります。もちろんこの費用を気にしなくても開催できる演奏者もいます。うらやましい限りですが多くの場合は会場使用料やピアノなどの使用料金、スタッフの費用などを含めたトータル費用とチケット収入の予想をシミュレーションして会場を決めることになります。
 演奏者の好みも分かれます。残響時間、客席の場所による聴こえ方の違い、演奏している音の演奏者自身の聴こえ方などです。資金的な条件の中で自分が最も演奏しやすく聴衆にも自分の理想に近い音で聴いて頂けるホールを選びます。

私たちが二人で演奏させて頂いた色々な会場の中で印象に強く残った会場「杜のホールはしもと」と「代々木上原ムジカーザ」は演奏した回数の多さもありますが残響時間、ピアノとヴァイオリン・ヴィオラのバランス、演奏者に戻ってくる音など大好きな会場です。杜のホールは525席のホールですがどこで聴いても気持ち良く楽しめる音響です。私たちの最初のリサイタルは長野県松本にある「音文」と呼ばれているホールの小ホールでした。初めて二人で演奏した緊張感もあって音響の事までは記憶に残っていませんが、その年に杜のホールで同じプログラムで演奏した時の感動は鮮明に残っています。
 野木にあるエニスホールも適度な残響とぬくもりのある響きの素敵なホールです。コンサート会場ではないのですが長野県木曽町にある「おもちゃ美術館」に併設されている体育館(実際に昔小学校の体育館だった建物を減築・改築した会場)の響きが忘れられません。

最後になりますが、演奏者にとって演奏会場は自分の演奏を聴衆に届けるための空間であることを書いておきます。自分が演奏者としての立場だけではなく、聴衆としての立場にたってホールを選ぶことです。主催者が自分でない場合、言いにくい一面はありますが演奏する以上「聴いてくださる方」への思いを第一に考えるべきです。
 演奏会場は公共の場です。多くの人が違う価値観を持って集まり共に音楽を楽しむ場です。主役は演奏者だけではありません。聴衆もスタッフも同じ目的=音楽を楽しむ時間と空間を共有する目的を達成するために必要な人です。誰が欠けても目的は達成できません。演奏者・スタッフ・聴衆が等しい関係性でなければ良い結果は得られないことを、まず演奏者自身が理解することが大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック演奏の個性ってなんだろう?

映像は昨年1月に演奏したサン・サーンス「死の舞踏」
原曲は管弦楽で演奏する曲ですがピアノとヴァイオリンで演奏するためにアレンジされたものです。

さて、今回のテーマ「クラシック演奏の個性」ですが、個性的と言う言葉には一般的ではないというイメージがあります。個性が感じられないと言えば、逆に多くの人が認めている事や珍しくないと言う意味を含んでいます。
本来すべての人はそれぞれ違った個性を持って生まれます。どんな演奏であってもすべてに個性があります。歌であれば声・歌い方に個性があります。楽器の演奏でも音色やテンポ、部分的な音量などに個性があるものです。クラシック音楽の場合「楽譜通りに演奏する」と言う特色があり、ジャズやロックのように「楽譜も違う」音楽との違いがあります。
 落語に古典と創作があるように、料理にも創作料理があります。古典落語であっても「ラーメン」でも演じる人・作る人が変われば「個性」があります。この微妙な違いこそ演奏の個性に繋がるものです。
 楽譜に書かれている音符やテンポの指示、強弱の指示に従って演奏しても他人と同じ演奏にはなりません。微妙な違いを聴き分けられる人と気付かない人がいます。単に聴いた演奏の数と時間だけの問題だと思います。違いに気付かないから鈍いとかクラシック音楽を理解していないと考えるのは間違っています。ラーメンを一度だけ=1種類だけを食べた人と、多くの店を食べ歩き様々なラーメンを食べ比べた人の違いと変わりません。
 個性が強すぎると「癖がある」「一線を越えている」と酷評されがちですが「強い個性」の基準もないはずです。元より「初演」される音楽の演奏は比較される演奏がないのですから、次に誰かが演奏するまでは「唯一無二の演奏」になります。

 楽譜を初見で演奏したものと、時間をかけて考え試行錯誤を繰り返し練習した演奏があったとします。初見の技術・能力が高い人の演奏なら多くの人は「違い」を感じないかも知れません。むしろ「え?初めて楽譜を見ただけなのに?すごい!」と初見の演奏に喝采を送るかも知れません。
「間違えないために練習する」必要のない人も現実にいます。ではその人の個性は?
初見能力は演奏の個性とは別のものです。
 演奏する人の「音楽への思い」が個性になります。思いのない演奏がどんなに正確でも聴く人には感情が伝わらないものです。音楽を聴いて感動するのは「音」「音楽」にではなく、演奏する人への共感だと思います。私は演奏する人に「座学」を進めます。楽譜を記号として音にするための読譜ではなく音楽を「感じる」ための時間を取ることです。考えることで初めて自分だけの音楽=個性が生まれると考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者のメンタルとバイタル

映像は2012年12月に開催した妻、浩子さんとの4回目のデュオリサイタルの本番(演奏会)直前のステージリハーサル風景です。会場は私の地元相模原市橋本駅前の「杜のホール はしもと」です。
客席数525名で残響時間の長い弦楽器の演奏に適した音楽専用ホールです。
今回のテーマはメンタル=精神や心とバイタル=身体の状態(心拍や血圧など)が演奏者に与える影響について考察するものです。私は心理学や脳科学、医学の専門知識はありませんが演奏者として指導者としてどちらにも深い関心があります。読んで頂く方にも共感して頂ける内容だと良いのですが。

演奏する人の健康状態は演奏に大きな影響を与えます。
精神的な健康は身体的な健康と比例して変化することがほとんどです。
何故か?心=精神の健康について多くの人がネガティブな印象を持っています。

精神を病む…と聞くとまるで不治の病にかかり「ダメ人間になった」と考える人もいます。実際には脳の働きに問題が起こった時の「思考」と「身体」が普段と違う状態になることを指しているので「盲腸になった」「中耳炎になった」のと基本的には同じ「病気の一種」なのです。
また人によって自分や家族のバイタルに神経質になり過ぎている気がすることがあります。

例えば血圧が高い…医師や論文によって危険とされる「高血圧」の数値が全く違います。どれが正しい?という判断は自分自身で行うしかありません。セカンドオピニオン=複数の医師の診断を受けることの重要性はここにもあります。
バイタルに神経質な人はメンタルに関して関心が低い人が多い気がします。むしろメンタルは「どうにもならない性格・気のせい」だと思っている人も見受けられます。ちょっとした身体の変化に気が付く観察力は大切ですが、気になって日常生活や演奏に影響が出てしまうとしたら?もったいない気がします。

人間の体調はどんなに気を付けていても崩れることがあります。ケガも含めて色々は症状で時には医師の診断や治療が必要になったり、処方される薬の効果が出ない場合も良くあります。そんな時にメンタルまで崩してしまうと過剰なストレスが原因になって違うバイタルの悪化が出ることもあり、悪循環に陥ることもあります。演奏会やレッスンに向けて準備したのに思ったように練習出来なくなったり、本番で痛みや違和感を持ったままで演奏することも経験します。そんな時に精神的な強さ・柔軟性が救いになります。
人間は脳の働きでストレスを感じると交感神経が過剰に反応し免疫力も低下します。興奮状態になるとドーパミンが分泌され痛みや疲労に鈍くなります。穏やかな精神状態の時には副交感神経が強く反応し眠気を感じます。
そうした「脳の働き」と共に人間には一定の周期で体内の細胞が代謝=入れ替わりしていますから同じメンタルとバイタルをいつも維持できるとは限りません。いわゆる「波」が誰にもあるものです。経験を重ねる間に自分の波をある程度予測して、意図的に休んで身体を休めながらピークを演奏会に持っていけるような事も可能になります。もちろん予期しないアクシデントはあるものです。弦が切れたり、楽器の剥がれが見つかったり弓に不具合が見つかったりハード面の問題でもメンタルが弱いと対応出来ません。
アスリートの中でも平常から「明るい性格」「人にやさしい人柄」「おおらかな気持ち」の人は順位や結果よりも大切な「目的」と「目標」を持っている気がします。勝つことが目的ではなく、あくまでも「一つの目標」だったり、演技や演奏を自分自身が楽しむことを何よりも大切にしている人のメンタルの強さを見習ってポジティブな考え方で暮らす習慣を持ちたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

指使い(フィンガリング)と弓付け(ボウイング)を考える

映像は14年前のデュオリサイタル4(代々木上原ムジカーザ)での演奏。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」を陳昌鉉さんの作られたヴィオラとベーゼンドルファーのピアノで演奏しています。陳昌鉉さんが客席で聴いてくださった最後のリサイタルとなってしまいました。
 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの演奏で左手の指使いと右手の弓使いについて私見をまとめたものです。

教本の多くは印刷された=指定された指使い・弦・弓使いを厳守して練習=演奏することが求められます。一方で多くの「演奏会用曲=一般の曲」では楽譜に書かれた指示(指・弦・ダウンアップ)が少なくなり出版社や編集者によっては全く違う指示が書かれている事がほとんどです。教本の指定を守って練習することで「セオリー」を覚えます。レッスンで指使いや弓使いが教本と違うと先生に注意される事も当たり前の事のようです。一つは楽譜の指示通りに演奏する技術の修得です。アンサンブルやオーケストラで演奏する場合、特に弓付けの指定は指揮者の要求やトップの指示で変更されることが多く、一人だけ弓が逆になれば見た目でもアウト!です。演奏する弦の指定がある場合も同様です。
もう一つの目的は自分で指使い・弦・弓使いを考えられるようになるためのセオリー=原則を覚える目的です。実際には曲=音楽によってセオリーが変わります。テンポ、音域、音量、リズム、作曲された時代によっても原則は違います。練習する過程で様々な指使いを練習することで「技術のボキャブラリー=引き出し」を増やす事が大切です。単に演奏しやすいだけの指使い・弓使いではなく、意図を持って決めることが出来なければ演奏できる音楽の幅も極端に狭くなります。音階教本のバイブルでもある「カールフレッシュ」の教本を練習し、分厚い教本のすべてをスラスラ演奏できる技術があれば恐らくどんな曲でも演奏可能になると言っても過言ではないと思います。昔イツァーク・パールマンが「どんな練習をすれば?」と言う質問に「私はカールフレッシュの音階だけで十分!」と答えていたのを思い出します。

少しだけ自分で考える指使いと弦、弓使いについて私のこだわりを書いておきます。
前提として演奏者の解釈=好みによって異なる事で正解はないという事を述べておきます。その上で自分の好きな指・弦・弓使いを考えて決めます。当然ですが演奏するすべての音は「1種類」の組み合わせでしか演奏できません。
左手の指=指使いで言えば
1.開放弦
2.1~4のいずれかの指で押さえる
3.自然ハーモニクスか技巧フラジオレット
の中で一つしか使えません。
弦で言えば4本の弦のどれか1本です
重音=和音の場合には上記の1から3の指使いと隣り合った2本の弦を同時に演奏しますが使用する2本弦は
1.EとA
2.AとD
3.DとG
のどれかを選びます。低い音域の場合には限定される場合もあります。
理想的には人差し指=1から小指=4までの4本の指を同じように使えることが理想ですが、人によって掌の大きさ、指の長さ、指の太さが違います。パッセージによってはポジションを移動しないと届かないケースも人によっては考えられます。トレーニングによって改善される指の動きの速さと強さ、開く距離、関節の柔らかさがあります。
演奏する弦の選択は多くの場合に自分の好みの音色と前後の音との関係で決まります。弦を変えても音色を変えない技術も練習で身に着ける必要があります。1本の弦で音域の広いパッセージを演奏する場合にはポジションのスムーズな移動と指の選択が必要になります。
グリッサンドやポルタメントを入れたいのか?入れたくないのか?も選択肢の一つで指使いも変わってきます。

次に弓使いについて。

一般にダウン(下げ弓)アップ(上げ弓)ばかりが注目されがちですが、むしろ一音ごとの発音=立ち上がり→弓の動き→音の終わりの処理が重要です。連続して音を演奏する場合「レガート=滑らかに」演奏したい場合の発音と最後の処理が重要になります。スラー記号があっても音符の上下にテヌートやスタッカート、アクセントの記号が書かれていればレガートではなく「弓の動く方向」を指定=同じ方向に動かすことを指示しています。
スラーがついていなくてもレガートで演奏する技術も必要です。一音ごとのアタックを付けずに弓を「返す」技術とアタックの強さをコントロールして演奏する技術を身に着けることが重要です。

さらにすべての音は弾き始める弓の場所と弾き終わる場所があることを常に考えることです。ダウンを弓のどこから?どこまで使って演奏するのか?が重要だという事です。ピチカート以外のすべての音は、弓の運動で音が出ます。短い音の連続=速いパッセージでも長い音の連続=ゆっくりしたパッセージでも弓の場所と速度が最も大切です。

映像にあるヴォカリーズのように原曲が歌曲の場合には、特に音の強弱と弓の物理的な長さを考えた「弓の速度と場所」が重要になります。長い音の連続する曲やレガートで演奏したい時に「音の長さ」と「弓の長さ」を考えた弓付けが必須になります。弓の運動は通常「往復運動」ですから「つじつま合わせ」が必要になります。楽譜にスラーやダウン・アップの指示がある場合、指示通りに演奏すれば「つじつまが合う」はずですが楽譜によっては頭をひねる事も多々あります。弓付けは音量と音色を決定づけるものですから、指使いと同じ重要性があることを忘れないことが重要です。

指使いや弓付けを考えるために技術の修得と共に経験を積むことが何よりも大切になります。演奏する会場の広さと残響・響きによって変更するケースもあります。大きな音量を必要とする会場の場合と、サロンのように演奏者と客席が近い場合のボウイングや共演するピアニストとのバランスでも弓付けを変えられる柔軟性と適応力は一朝一夕に体得できるものではありません。練習と違う環境で演奏することを前提に色々な組み合わせの指使い・弓使いを考える事も必要になっていきます。
冒頭に述べた通り正解のない自分だけの音楽を創ることに楽しさを感じられるように常に多様性を持った演奏を心掛けたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色を作る技術あれこれ

映像はヴィオラとピアノで演奏したアザラシヴィリ作曲のノクターン。4年前の代々木上原ムジカーザでの演奏動画です。
これまでにも演奏の音色について色々な考察をしてきました。
ヴァイオリン、ヴィオラで演奏される「音色」は演奏者によっても楽器個体によっても異なります。演奏者の技術によって音色が決まると言っても過言ではありません。同じ個体の楽器を違う演奏者が演奏すれば違う音色になります。一方で演奏者が違う個体のヴァイオリン、ヴィオラを演奏したときの「違い」は演奏者の違い程に大きなものではないと思います。ストラディバリウスを新作のヴァイオリンに持ち替えて演奏しても聴いている人が気付かなかったという実話を知っています。思い込みで新作のヴァイオリンの音がストラディバリウスだと信じ込み「やっぱりストラディバリウスはいいですねぇ!」と感動しながら話しかけてきた人に思わず笑ったと言うお話です。
楽器を操るのが演奏者です。演奏技術が高いほど「自分の好きな音色」を出せます。初心者の場合、楽器をコントロールする技術が足りないために「楽器固有の音」を自分好みの音に変えることができません。その意味で初心者ほど楽器に依存する面が大きくなります。

音色を「作る」技術には何が必要でしょうか?
まず「微妙な違いを感じる耳」です。
音の高さ・強さと比べて音色の違いは数値化出来ない話は以前にもブログで書きました。誰かの演奏を聴いて同じ音色を再現することは極めて難しいことです。一つの原因は「楽器の場所」が全く違うからです。演奏している時の耳元で鳴っている音と、何メートルも離れ空間に広がり反響音も聴くのとでは「同じ音」でもまったく違って聴こえます。もう一つの理由は「力=身体の使い方」は他人が感じられないからです。自分自身の身体でさえ今、身体のどこに?どの向きで?どのくらいの時間?どのくらいの力をかけているか?を瞬間的に判断できません。同じ音色が出るまで繰り返す間に、指・関節・筋肉をどう?使っているのか観察し続けて初めて同じ音色を再現できるようになります。
似たように聴こえる音色でも集中して聴くと倍音の含まれ方が違うことに気付き、身体の使い方を変えることで修正が可能です。
自分の音色が他人にどう?聴こえているのかをリアルタイムに自分自身の耳で確かめることは不可能です。出来れば何人かの人の「印象=感想」を参考にするのが一番現実的です。聴く人によって聴こえ方が違い、表す言葉も違います。同時に何人かの印象を聴くことでお客様が感じる印象に近いものが得られます。リハーサルがそのチャンスです。自宅で練習する時であれば同じ種類のマイクとヘッドホンで録音したものを聴き比べるのも音色を確認するのには良い方法だと思います。思っているほど=演奏しながら自分の耳で聴いている時ほど、高音が少なくこもった印象に聴こえたり逆だったり。

音色を作る弓の使い方と弦の押さえ方・ビブラートの技術。
・弓への圧力と時間
弦に弓の毛をどの方向でどの位の力で押さえるか?その力=圧力をどれだけ保持するか?
・弓を置く弦の場所
駒からの距離が短いほど高音が多い音色になります。
・弓の毛の量
弦に当たる毛の量は傾きと圧力で変えられます。毛の面と弦が平行になる傾きの時、最も強い圧力がかけられます。少ない毛の量で圧力を弱くすれば弦だけが振動し楽器本体の木を振動させない「細い音」が出せます。
・弓の速度
弦との摩擦=圧力と違い「運動の速さ」を速くすれば弦の振動を妨げず、遅くすれば弦の振動を押さえる働きがあります。音の高さによって弦の振動する速さが変わります。1本の弦で高い音=ハイポジションの場合、弦は速く振動します。弓の速度は毛の表面の凸凹と弦を「引っかく速さ」です。毛の凸凹が小さく・少なくなってしまった毛の場合、松脂で出来た凸凹だけが音を出すことになります。
・弦を押さえる指の場所
指の腹=肉球部分で押さえれば弦の振動を止め切らないので高音が少なく、こもった柔らかい音色になります。余韻はほとんどなくなります。指先の固い部分で弦を押さえれば逆に高音の多い明るい音になり余韻が長くなります。
・押さえる力の強さ
意図的に弱く押さえることで余韻を押さえた音色を作れます
・弦と指の角度=爪の向き
後述するビブラートとの関係で、真上から見た状態で弦に対して45度の角度で押さえるのが原則ですが、ビブラートの深さや速度によっては弦と平行に近い角度で指を置くと音色の変化量を増やせます。
・ビブラートの深さ
音の高さの変化量で大きく動かせば多くの種類の倍音を得られます。
浅くすれば=幅を狭くすれば一定の音色を保つことが出来ます。
・ビブラートの速さ
好みによりますが速すぎると異なった高さの倍音を消してしまい響きが窮屈な音色になります。遅すぎると倍音の余韻が消えてしま詩「波」にしか聴こえなくなります。
・ビブラートをかけ始めるタイミング
音の最初から深さ・速さを変えずにビブラートすれば短い音でもビブラートの効果が得られますが、一方で聴く人の耳に音の高さの印象が残りにくくなります。ノンビブラートの音を意図的に混在させることで音色の変化がフレーズの中に生まれます。

最後に「聴き方=楽器と耳の位置・首の力」の違いについて考えます。
音色の変化は聴き方によって感じやすくも逆に感じにくくもなります。まず楽器と耳の位置と距離が変われば音量も音色も変わって聴こえることです。表板に耳を近付ければ大きく聴こえます。耳を遠ざければ小さく聴こえます。実際に出ている音と関係なく「聴こえる」だけであり会場に聴こえる音の変化ではありません。常に一定の位置関係と距離で演奏すること=姿勢を保持することも音色の決定に不可欠な事だと思います。
また、構え方によって楽器の微妙な音色の変化に気付きにくい構え方もあると思います。首に無意識に強い力がかかっていると、高い音の聴力が下がります。突然大きな音がした時に反射的に肩が上がり、首をすくめる姿勢になるのは人間の防御反応です。首に力を入れ続けた姿勢は音色を聴き分けにくい姿勢だと言えます。
同様に息を止めた状態を続けると、徐々に筋肉が硬直し音への反応が鈍くなります。
大きい音のパッセージを連続して練習した直後には、一時的な難聴状態になっています。特に高音を強く弾き続けた後に高い音が鳴っているように感じるのは、やはり耳が防御反応している証です。
できればしばらく耳を休めてから集中して音が聴こえる状態になってから練習することをお勧めします。

音色に正解はありません。人の声が皆違うように演奏者によって好みの音色が違います。聴く人にも同じことが言えます。好きな歌手の声は理屈抜きに心地よいものです。
音楽によって、旋律や和声によって音色をコントロールするのは、会話や演劇の「台詞」に抑揚や声色を変えて読むことに似ています。
棒読みすれば、どんな素敵な文章や詩も感情のない「声」になります。音楽も同じです。楽譜には書かれていない「音にした時に感じる感情」を演奏者の考える音色で演奏することが、演奏者の個性につながると信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介