メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

TEL.042-782-1922

※原宿南教室〒252-0103
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

演奏の技術

演奏会を外食に例えると

 映像はヴィオラとピアノで演奏した「ふるさと」編曲はジャズピアニスト小曽根真さん。
YouTubeで偶然に見かけた動画から耳コピさせて頂きました。
今回のテーマは演奏会を「外食」もちろん様々な食事が出来る現代ですから、気軽に食事ができるお店も格式の高い(料金も高い)お店も外食に変わりありません。
 同様に演奏会と一言で言っても内容も金額も会場・開始時刻なども幅広いので外食と見ている一面があります。
 多くの演奏会、さらに多くの飲食店がある中で「期待」を持ちながら一つを選ぶのも楽しいものです。その期待は時に裏切られることもあり、逆に予想を超える満足感で思わず笑顔になったり「リピーター」になって同じ人の演奏会やお店に足を運ぶこともあります。
ファストフードや吉野家に新しい期待はあまり持たないものですが、普段行かないような懐石料理やフレンチのコース料理などには食べる前から楽しみがあります。
チェーン店で同じ味を同じ価格で「食事」として考えることもありますが、演奏がレトルト食品や冷凍食品のような「どこでも同じ」印象の演奏会には行きたくないですね。

 まず「費用と満足度」について。
食事の場合「料金」は店内の内装や食器と素材、手間が最も大きな要素になります。
演奏会の場合には会場の規模と立地条件で大きく変わる会場費、座席の場所(S席など)と出演者への報酬額で費用が決まります。その費用と満足度は提供される側=客・聴衆のお財布事情(笑)によりますが、少なくとも「相場」が関係することも事実です。
 次に「内容」の違いです。料理の内容や曲目を予め知った上で選ぶことが一般的です。
料理で言えば和食・中華・フレンチ・イタリアンなどの選択があります。クラシック音楽ならオーケストラ・独奏・室内楽などから選びます。
 さらに実際に出てくる料理・演奏曲ごとの「変化」も楽しみの一つです。
前菜やスープ、メインディッシュ、デザートと食べ進めながら味や食感、香り、口触りなどの変化もコース料理の楽しみです。クラシックコンサートでは?オーケストラの演奏会では多くの場合「前プロ・中プロ・メインプロ・アンコール」で構成されます。室内楽の場合にもプログラムの最後に「メイン」があり、アンコールで「締める」事が多いようです。

 演奏のプログラムとコース料理をまったく同じ観点で比較するのは無意味ですが終わった後の「満足感」と言う意味では非常によく似ていると思います。
 高級レストランと「おふくろの味」とを単純に比較するのも的外れですが、お金を払ってまで料理を食べる事とコンサートに足を運ぶ事もよく似ています。自宅や移動中に好きな音楽を選んで聴くことは、コンサートとは違った意味で楽しいものです。
 クラシックコンサートがすべて「高級レストラン」である必要はないと思います。ファストフードにも「大衆居酒屋」にも存在する意味があります。クラシックの演奏会にも「普段着で聴ける」ものがもっと増えることも大切だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なんで?うまくなりたいのか?

 動画はリサイタルのリハーサル風景。一種の「練習」でもありますが演奏会直前のリハーサルは演奏する場所=ヴァイオリンの立ち位置の確認や、会場の響きと舞台上での聴こえ方の確認と言う意味もあり「通常の練習」とはだいぶ目的が違います。
 今回のテーマはまた哲学っぽい(笑)話ですが、私も含めて「演奏者」プロでもアマチュアでも「うまくなりたい」から練習する事に違いはないと思うのですが「なんで?なんのために?」うまくなりたいと思うのかと言う素朴な疑問を考えるものです。お付き合いください。

「楽器を弾くのが好き」「歌う事が好き」と言う理由だけで演奏や歌を楽しむ人もたくさんいます。素敵な事です。理想的な姿だと思います。練習してうまくなることよりも「好き」「楽しい」事を大事にしている方に「練習したら?」と言うのは「愚問」だと思います。
じょうずに弾けなくても本人が楽しいと感じることで誰か困るでしょうか?まぁ家族なら「うるさいなぁ」ぐらいは言うかもしれませんが、それさえ乗り越えれば問題なしです。
 練習してもっと「うまくなりたい」と思うのに似ているのがスポーツで「もっと強くなりたい」と感じる気持ちかも知れません。競技種目の場合に勝敗・順位が明確にあります。ボクシングで「プロになりたい」から「世界チャンピオンになりたい」果ては「4団体統一タイトルを取りたい」まで。そしてそのタイトルを何回も防衛する「強さ」に憧れる人もいます。
 音楽の世界でも「プロになりたい」と言う夢を叶えるために小さい頃から遊びも我慢してテレビもゲームも漫画も我慢=親に禁止されるケースも…ひたすら練習して音楽学校に進み、留学して…と言う人もいます。その人たちの努力は「お金と名誉」として形になります。
もちろん「お金の為じゃない!」と言う声もありますが「プロの演奏家」と言う言葉には「職業音楽家」と言う意味が含まれます。職業である以上「対価」で生計を立てることも当然のことです。極論すれば「うまくなってお金が稼げるようになりたい」と言う「夢」でもあります。
 プロとして演奏する人はごく一部の人です。これもスポーツと同じです。テニスやスキー、サッカー、野球、スケートなどで「アマチュア・プロ」の違いで、ルールが違う場合もあります。ボクシングなら頭部を保護する「ヘッドギア」の装着義務があったり、フィギアスケートなら「バク転の禁止」など。競技スポーツの場合にはアマチュアでも「序列・順位」が明確に付けられます。
 アマチュア演奏家の場合に「序列」はスポーツと比べて明らかに合理性・客観性がありません。「日本〇〇連盟」なる団体が主催するコンクールで「金賞」を目指して日曜も祝日も犠牲にして練習する姿に恐怖しか感じません。「青少年の思い出」そんな薄っぺらい綺麗な言葉で子供の貴重な時間を奪う権利は誰にもないはずです。「ダメ金」と言われる金賞があります。「金賞だけど次のステップ=予選に進めたい金賞」がダメ金。そもそも演奏に「ダメ」が付く時点で音楽を根本的に理解していないコンクールだと感じます。
 さて通常の「健全なアマチュア演奏家」にとって目標は何でしょうか?
うまくなったと言う自覚を持てるようになる人は残念ながらほとんどいないものです。
プロでもアマチュアでも自分の演奏に対する評価が一番厳しいことは以前のブログでも書いています。「うまくなりたい」と思いながら「うまくならない」日々が延々と続けば?
「何のために練習しているのだろう?」と言う疑問に突き当たるのが自然です。無理もありません。プロのようにお金の為でもない。コンクールに出たいとも思わない。人に聴いてもらうなんてとんでもない!(笑)と考えるアマチュア演奏家が99%以上では?
 結局、うまくなりたいと思う気持ちより「好きだから」だと思うのです。
練習すれば少しでも出来なかったことが出来るようになった「気がする」だけでも楽しいものです。それで十分だと思います。実際に練習すればうまくなります。内容=考えながら練習する事の方が時間より大切なことは多くのソリストたちが言葉を残しています。
 アマチュアの演奏家を「うまい・へた」で他人と比較する事は無意味です。そもそも基準がないのですから。自分の中=自分の演奏を聴いた自分の評価がすべてで良いのです。レッスンで信頼できる先生からの指摘やアドヴァイスは有意義です。自分の気付かない課題やコツを教えてもらえれば「出来るようになる」ことが増えるのですから楽しいに違いありません。
 うまくなるよりも好きになる努力。簡単そうで一番難しいことです。
社会人が自分の職業に誇りと喜び、充実感を感じることが難しいことに似ています。働く目的が「生活のため」と割り切れているから「耐えられる」人が多いのは事実です。
趣味の演奏にまで義務感やノルマを感じたくはないのでは?だからと言って「すぐやめる」のも自分自身がちょっと情けない気がするのは私だけでしょうか?好きで始めた趣味をいつまでも好きでいるための秘訣があるとしたら「練習をやめない」「小さな上達を見つける」ことだと思います。それしかないかも知れません。
 子供は親や大人=先生の言葉を信じて練習を続けます。従順な子供ほど上達が早いので大人の期待はさらに高くなり…と言う循環もあれば「子供に才能がない」と大人が子供の可能性を一つ奪い取るケースもあります。
 大人は自分の意志で趣味を楽しみます。限られた時間、体力、予算の中で好きな事を楽しむ中に「演奏」を加えて頂ければと願っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の音「心理」と「科学的分析結果」

動画のリンクをクリックして映像をご覧ください。
https://youtu.be/zrt3lx05dlw?si=oWwAAiUrRPDj5UDc

 まず最初に書いておきたいこと。音の好みに絶対値は存在しないことです。100人のうち99人が「おいしい」と感じた時でも「おいしくない」と感じた一人の人の感覚が間違っているとは誰にも言えません。
一方で比較する対象を同じ基準で分析した結果=数値については明らかに客観的な事実です。「良い音」「弾きやすい」と言う表現はまさに「主観=感覚」を表すものです。その判断には聴く人の心理が大きく影響します。「心理的バイアス」と言う言葉があります。AIによると「心理学における「バイアス(認知バイアス)」とは、過去の経験や先入観、固定観念により、情報の解釈や意思決定が非合理的に偏る心理現象です。脳が速く処理しようとする「思考のクセ」で、無意識のうちに思い込みや偏見が生じ、判断ミスを誘発します。」とあります。
山での遭難事故の多くもこの「認知バイアス」が原因で起きています。楽器の音や歌声を聴いて先入観や固定観念で「判断の間違い」をしてもケガもしないし命にも関わりません(笑)気楽に考えても大丈夫ですね。
「世界的に高い評価の古いイタリア製の楽器」と言う言葉や、過去にその楽器を使って演奏していた著名なヴァイオリニストの名前からさらに「固定観念」が増強されることもあります。それらの情報が「認知バイアス」になります。実際に「何が?どう?他の楽器と違うのか?」と問われた使用者が「全く違う」とか「まるで生き物のように」とかすでに使用者自身も認知バイアスで正当な判断が出来なくなっているように感じます。
例えばアマティ・ストラディバリ・グヮルネリと言った職人が作ったヴァイオリンと他の職人の楽器の「違い」を事実をもとに比較すると
「それまでの製作者が作ったヴァイオリンと形や木の厚み、木材の科学的な加工に独自の方法を取り入れた」という事が言えます。
当時詳細な「レシピ」に当たる制作方法は残されていないことも共通しています。「秘伝のスープ・レシピ」と同じです。
その「新しい制作方法」によってそれまでに作られていたヴァイオリンとは音色・音量・弾き心地、さらに耐久性も大きく変わったと思われます。それも推測です。そしてその後に彼らの作ったヴァイオリンの「形・厚み」を正確に計測して作られた多くの「コピーヴァイオリン」が誕生したのは事実です。しかし肝心の「レシピ」が残っていないため木材の加工、ニスなどの「処理方法」が不明だったために「秘密」「謎」と言う枕詞が付くようになり、ますますバイアスが高まTる結果になりました。
 現代の分析技術、特に分子レベルの解析と放射線を使った解析によって「謎」だった部分が明らかになってきました。今後もさらに解析が進むことになるでしょう。
 現在、既に木材の薬品や熱、紫外線による加工・処理の跡が解析されています。得られた木材の「構造」に近くなる処理を施して現代のヴァイオリン製作者が作成したヴァイオリンの「音」がストラディバリの製作したヴァイオリンと比較した結果が動画の内容です。
「どの音が良いと思うか」と言うブラインドテストで半数以上の人が「コピー」を選びました。その結果にも大きな意味はないと思います。「良い」は「好き」と同意語であって主観=感覚だからです。
つまり「認知バイアス」の入り込めない状況で比較した結果、ストラディバリの楽器の音が「良い」と多くの人が感じられなかったと言うのは事実です。す。

一言で「謎」を説明すると今まではヴァイオリンを製作する「木材」への薬品を使った処理は想定されておらず、ましてや分析技術に限界がありました。そのため現代のヴァイオリン製作には「自然乾燥させた木材」を使用するのが一般的でした。「まさか」と思われる結果とも言えます。ストラディバリとグヮルネリでは使用した薬剤が違う事も明らかになり、ストラディバリでも製作した年代のよって異なっている事まで解析されています。「ミョウバン」「石灰」「塩」などは300年前から身近にあったものでした。「弱アルカリ性」に木材を処理することは中国の楽器に関する書物にさらに昔からの残されていたことですが、ストラディバリ、グヮルネリも同じように木材を加工し耐久性を高めていました。さらに高熱と恐らく日光に当たる=紫外線を当てる事もしていたことが分析結果から推測されています。
今回の動画では「木材腐朽菌」による処理を木材に施した楽器を使っていますがこれも「科学的根拠」に基づいた製作方法です。
「ストラディバリの楽器は神聖なものだ!」とお怒りになる方もいるでしょう。しかし既にストラディバリウスは目に見えない修復、虫食い後などによって製作当時とは「違う楽器」になっています。もちろん良い意味での経年変化と一流演奏家に演奏され続けた事による「鳴りやすい楽器」に変化し維持されている事も承知しています。
しかしいずれストラディバリウスもグヮルネリウスも使用できない状況に劣化することは避けられない事実です。その時になって「ヴァイオリンがない」と騒ぐのはあまりにもお粗末です。むしろストラディバリウスが良い変化をしたように現代のヴァイオリンを育てる努力と、少しでもストラディバリウスに近いヴァイオリンを製作しさらに変化を観察する事の方が遥かに重要だと考えます。
「新しい楽器は良い音がしない」と言う先入観・固定観念が間違った判断を引き起こしています。現代の製作者を否定してしまえば近い将来に健康なヴァイオリンが消滅することになります。
「一流の演奏家」が認知バイアスで誤った判断をすれば、その音楽を聴く人も同様に先入観を持ってしまいます。テレビ番組でストラディバリウスの音を当てるコーナーを毎年見ていますが、あれで正解するのは単なる2分の1の確率=偶然です。もしもA・Bではなく5つ選択肢があれば結果ははっきりします。五分の一に分かれるはずです。つまり5人に4人は「はずれ」になるのが正常です。なぜならテレビを見ている人はスピーカーかイヤホンで音を聴いているので「電気的に加工された音」でしか判断できないこと・さらにストラディバリウスの楽器の音を解析できる耳を持っている人は誰もいないことです。
予め演奏前に2種類の音を聴いて「正解」を知らされていて、今度はカーテンの向こうで見えないように演奏したら?恐らく7~9割の人が正解するでしょう。

 最後に「心理学的に」ヴァイオリンの音についてまとめます。
人間の耳は限られた振動数の「音」を聴いています。さらに人によって聴こえ方には違いがあります。同じ音を聴いた人でもそれぞれに「聴こえ方」が違います。それが人間の「感覚」です。
「良い」「好き」や「嫌い」と感じるのは耳の問題ではなく「脳」による判断です。主な判断基準は「記憶」によるものです。
生まれて初めて、目の前で演奏するヴァイオリンの生の音を聴いた人が「好き」とか「嫌い」とか判断するとしたら「直感」です。自分にとって心地よいか?耳障りな音か?の違いです。演奏者の技術で変わります。初めて食べたラーメンや納豆が「美味しくない」と感じれば、次に食べる前に「美味しくない」と先入観が働くのと同じことが楽器の音でも起こります。
 良いヴァイオリンとは!と言う間違った先入観を持ってしまった人が、他の人にまでその「間違い」を広めることに危機感を感じています。少なくとも高いヴァイオリンが良いヴァイオリンと言う固定観念から抜けることが必要だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございます。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「強さ」より「優しさ」に憧れる年齢

 映像はラフマニノフ作曲「祈り」と訳される曲を3年前にに演奏した動画です。
以前のブログで才能ある若い演奏家を破壊する大人のエゴイズムをテーマにしました。
また前回のブログでは演奏の評価に関する私の考えを書きましたが、今回は自分自身が年齢を重ねて自分の演奏や他の人の演奏に対する「感じ方・好み」の変化について考えるものです。

 自分と同世代の音楽仲間に囲まれて音楽を学んでいた時期(15~23歳頃)に自分の演奏や友人や後輩、先輩の演奏に何を感じながら練習していたかは正直に言ってあまり覚えていません。ただ周囲の「自分よりじょうずな人」への憧れや追いつきたいと言う思いはあったと思います。同学年の友人とアンサンブルを楽しみながら学ぶときも心のどこかで「負けたくない」と言う気持ちがあったのかも知れません。「能力主義」の学校でしたから高校1年生も大学4年生も学年に関係なく一緒に演奏し、演奏技術によって学内のオーケストラも毎年学年当初に発表された能力別の3つのオーケストラに振り分けられていました。
周りにいるすべての学生が友人でもありライバルでもありました。
 その高校大学での生活で得た多くの技術・知識・経験が卒業後にすぐ役立つ…とは限りません。多くの卒業生は「プロ」としてオーケストラに入団=就職しました。ただピアノ専攻の人や作曲専攻の卒業生は「就職」と言うよりもさらに勉強の日々が待っています。
私は卒業後、親の不安をよそに(笑)好きな事をしながら演奏のアルバイトで遊ぶお金を稼いでは日々を楽しく暮らしていました。卒業した年の5月頃?に新設される中・高校の音楽教諭公募の張り紙を学生課の事務職員に紹介されたこをが「運命の分かれ道」でした。
 翌年4月から20年間の教員生活が始まることは想像外でした。その間はヴァイオリンを真剣に練習する時間も気力もなく過ごしました。友人たちの音楽活動を「見て見ぬ振り」をする日々でした。中学生・高校生の部活オーケストラを作り指導し大きくすることに没頭していたのは、そんな「挫折感」を紛らわしたかったからかも知れません。

 2~3年で辞めるつもりだった教員生活が20年間になり退職したときには44歳という「中年のおじさん」の年齢でした。その後両親の介護や自分の家庭の問題を抱えながら自分で経営する音楽教室・楽器店とNPO法人メリーオーケストラの活動に追われながら日々を過ごしました。レッスンや楽器の販売をしながら自分の練習に打ち込む「意欲」は芽生えませんでした。
 そして大学時代にアンサンブルを一緒に学んだ浩子さんと再会し、二人でリサイタルを開く相談が決まったのが2007年です。大学を卒業して23年ぶりにリハビリをスタートしました。
 自分の演奏を学校の生徒以外の前ですること自体が嬉しくて毎日が新鮮でした。
学生の頃から好きだった曲…特に小品ばかりを20曲以上!演奏したのが1回目のリサイタル。今二人で振り返ると「頭がおかしいよね」と笑うような曲数ですが当時は「これも弾きたい・あれも弾きたい」と言うのが本心で何曲あるのか?お客様がどれだけ大変か(笑)?考えていませんでした。

 自分たちの演奏を動画や音声で記録していたのは生徒さんの参考にする目的の他に、自分の演奏を客観的に聴いて問題を見つけるためです。未だに自分の演奏に「合格」は出せません。
それでも次の演奏の機会を自分で作るのは何故なんでしょう?演奏することが「目標」になり練習する事が「日課=ライフワーク」になることの嬉しさはそれまでの人生では感じたことのないものです。
そうは言いつつも年齢を重ねると身体の自由が少しずつ削られていくことを感じます。
集中力・瞬発力・持久力が下がり筋肉が日常的に痛いなんて…若いときには想像すら出来ませんでした。毎日学校で8時間でも10時間でも個人の練習や合わせ、オーケストラ授業で楽器を弾いても一日5食食べて翌日には元通りでした。
 生まれつきの病気が進行し、楽譜を読むことが出来なくなってからも新しい曲に挑戦しています。「たかが」1ページの楽譜を覚えるのに何日、何週間かかったとしても覚えるしか演奏する方法がないので若いとき以上に「暗譜脳」だけは使っています。

 「強い」より「優しい」演奏が好きになり、自分も目指す気持ちは恐らく若いときから無意識に持っていた感覚なのだと思います。ただ若い頃には「楽譜を見てすぐに間違えずに正確に速く弾けること」が第一に求められていました。プロの演奏家としての「大前提」だったので当たり前かも知れません。ソロにしても難易度の高い曲を短期間で仕上げることが「じょうず」と言われる条件でした。むしろその基準で他人のことも評価していた気がします。
 聴く人が安らぎを感じる演奏。音楽を初めて聴いた人が「心地よい」と感じ笑顔になれる演奏。クラシックマニアが「すごい」と評価するよりも普通の人が「良かった」と言う言葉に演奏の意義を感じています。.
 速く・強く・正確に演奏するための技術のレベルはプロとしての必要条件かも知れません。
もしそうならば私はアマチュアと呼ばれても気にしません。「優しい」「美しい」「心地よい」演奏をするための技術を求めたいと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の評価ってなんだろう?

 映像はシューベルトのアヴェ・マリアをヴィオラとピアノで演奏したライブ映像。自分では課題だらけの演奏です。当たり前ですが。
 さてクラシック音楽の演奏者に対する評価には「マスコミ・評論家の評価」と「実際に聴いた人の評価」があります。YouTubeでのナレーションも影響力の大きさを考えればマスコミの評価に準ずるものだと思います。
 一般に「良い評価」が多く伝えられます。そこには「感動」「衝撃的」「涙」「絶賛」「鳴りやまない拍手」などの文字がおどります。
実際にそうだったのか?(笑)と感じるのも正直な気持ちです。
そもそも演奏のどこに?なにに?対しての評価なのでしょうか。

 コンクールは審査員が評価をして参加した演奏者の序列を決めるものです。複数の審査員がいれば評価も分かれます。それぞれのコンクールで最終的な序列の決定方法が違います。最高点と最低点を切り捨てる方法や平均値で順位を決める方法など様々あり、審査委員の人選や人数もすべて違います。「観客による投票」も順位とは別に発表されるコンクールもあります。
 一方で「普通の聴衆」=専門的な技術や知識のない人が演奏を聴いて感じる「感想・印象」があります。これも一種の「評価」であることは間違いありません。むしろ演奏会の客席に座る殆どの人は「普通の人」のはずです。
 「曲が好き」だから演奏が良かったと言う人もいます。自然なことです。作曲者を知らなくても初めて聴いた曲でも「好き」と感じることがあります。先入観を持たずに音楽を耳にした時に感じるものこそが「評価」だと私は思っています。
「この人は〇〇コンクールで」とか過去の演奏会で「感動の声が」とか言う他人の評価が先入観になります。ビジネスとして考えればこれこそが「販売促進=営業」の技術です。口コミが最大の広告であることは企業に務めた人なら誰でも知っている事です。大げさでも「大盛りに盛った話」が多少の嘘を含んでいても人が集まればビジネスが成立します。

「音楽産業」の一つにクラシック音楽に関わる人たちの「経済活動」があります。演奏会を開くためのお金も「誰かが誰かに支払う」のです。そして演奏する人の得るお金は?演奏者自身が主催者の場合ならチケットの売り上げから経費を引いて残った金額が「売上」になるわけです。
「クラシックを金勘定で考えるな!」と思われるかも知れませんが、演奏する人間が霞を食べたり段ボールを食べて暮らせるわけもなく、生活できることが前提条件です。
 話を「評価」に戻します。
「演奏する人間=演奏した音楽以外」の評価がクローズアップされているケースがあります。「年齢」「身体的な障碍」「生い立ちなどのバックボーン」「国籍」などは本来演奏とはまったく無関係です。
上記の例えから「7歳と言う幼さで視覚障碍を持ち、両親が事故で亡くなった音楽家の子供で日本人」なんて(笑)書かれていたら人の眼を弾きますよね。もちろんフィクションですが。

これは極端な例えですが「近い話」ってあるような気がします。

 純粋に演奏を評価する場合、演奏のどこに感動したのか?という捉え方ができます。
 ヴァイオリンを演奏する人が感じるヴァイオリン演奏を聴いた時の感動と、ピアノの演奏を聴いた時の感動は実はまったく違うものです。
演奏技術の評価はその楽器を演奏できる人の中でも「演奏者より高い技術のある人」が聴いた場合とそうでない場合で評価が分かれます。
 普通の聴衆=演奏家でない場合には「何がすごいのわからない」はずです。速い曲を弾いている姿を見れば「すごい」と感じます。さらに他の情報「年齢」や「容姿」など演奏とは別の要素も印象に加わります。
「簡単そうに聞こえる曲」ゆっくりしたテンポの音楽や聴いたことのある「歌」などの場合に「すごい」と言う印象は残らないものです。
もちろん専門的な技術を持った人が聴けば音色、表現の技術の高さもわかります。

 結論。「情報(他人の評価)よりも演奏を聴いた自分の印象・感想を大切にする」ことです。今はネットでのクチコミ情報や「評価・ポイント」も疑わしい時代です。大手のネット通販でも詐欺まがい、中には本当に詐欺で被害にあう人が後を絶たないのが現実です。
どんなにネットで高い評価があったとしても、実際に自分が「良い」と感じるかどうかは別の問題です。飲食店の情報と似ています。
自分が「素人だから」「よくわからないから」と言う気持ちで他人の評価を鵜呑みにするのは決して正しい事ではないと思います。
専門家や有名な演奏家が高い評価をした…と言う情報が真実かどうかは疑ってかかるのが正解だと思います。「〇〇フィルハーモニーの演奏者が絶賛し涙を流した」と言う情報のファクトチェックは誰もしていないことが殆どです。
自分の耳と感覚で好きな演奏を楽しめたならそれが一番だと思っています。私はそんな演奏を目指してこれからも精進します。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者が聴く自分の音と他の楽器の音

映像は長野県木曽町で演奏したバッハ作曲「アリオーソ」。ヴァイオリンは木曽町が所有する陳昌鉉氏が製作した楽器。ピアノはかなり古い時代のスタインウェイです。
今回のテーマはヴァイオリンを弾きながら聞こえる自分の楽器の音と一緒に演奏している「他の楽器の音」について聴こえ方・聴き方・演奏方法を考えるものです。
 楽器によって自分の演奏する音の聴こえ方に大きな違いがあります。
極端な例で言えばパイプオルガンの演奏者は設置された数多くのパイプに送り込まれる空気によって建物=演奏会場に響く音を鍵盤の前で聴きます。
ヴァイオリンの場合は音源が耳元から10センチ程の場所にあり、顎の骨や鎖骨を通しての「骨伝導=楽器の振動を直接感じるもの」もあります。
同じ弦楽器でもチェロの場合には筐体=ボディがヴァイオリンよりはるかに大きく弦も太く長く張力も強いので音量=物理的な音圧も大きくなります。耳元と言うより座っている自分の前方に音源がある事になります。
声楽の場合は音源が声帯で口の中、頭蓋骨、胸部を振動させたものすべてを耳と身体で感じることになります。
 こうした楽器ごとの聴こえ方の違いがある中で、さらにピアノやオルガンのような他声部楽器=一度に多くの音を演奏できる楽器と、管楽器や基本的な弦楽器の演奏方法で出される「短声部=旋律だけを演奏する」楽器に分類できます。
 ピアノやオルガンも他の楽器や声楽と一緒に演奏することもありますが作品の多くは1台のピアノ・オルガンで旋律も和声も演奏できる楽器です。
 管楽器や弦楽器、声楽の場合は逆に一人だけで演奏する曲は非常に少なく多くの曲は他の楽器、他の演奏者と一緒に演奏して音楽が完成されます。

 一緒に演奏する人がある曲でも「一人での練習」が必要になります。いわゆる「譜読み」の段階から始まり、指使いやボウイングを考えながら(ヴァイオリンの場合ですが)音量や音色を考えながら練習する時間です。この時に一緒に演奏する「音・音楽」を想像しながら練習することは経験と楽譜を見る技術があれば可能です。アマチュアの演奏者の場合に「自分の事で精一杯」になるためにこの練習が不足しがちです。
 実際に一緒に練習することを「あわせ」などと言いますが、二人の場合でもオーケストラの場合でも最終的な楽器の編成で練習することを指します。オーケストラの場合には指揮者がすべての楽器の音を聴くことが出来る唯一の場所=指揮台から聴きバランスなどを演奏者に指示します。演奏する位置によっては自分の楽器の音より他の楽器の音の方が大きく聴こえる場合もあります。逆にオーケストラの一番「後ろ=奥」で演奏する金管楽器がフォルテで演奏すればヴァイオリンの音はまったく聞こえないのでは?とも感じます。
 こうした「あわせ」の時に自分の楽器の音と他の楽器の音を「聴き分ける」技術が必要になります。ただ分離するなら音量も音色も違うので誰にでも出来ますが「統合=一つの音として聴く」技術が必要になります。時に二人で演奏する場合にはお互いが相手の音と自分の音を「自分の音」として考える思考が必要です。
 一人で練習して居る時には自分に聞こえる小さな音…例えば弦に指を載せた瞬間の音がピアノと一緒だと聞こえなくなることもあります。弓の速度や圧力を「ほんの少し」変えて自分に聴こえる音色の変化がピアノの音にマスクされて聞こえなくなることもあります。
音量の変化も一人で練習している時には感じていたクレッシェンドが感じられなくなることもあります。考えれば当然のことです。ピアノは同時にいくつもの鍵盤=音を演奏しています。さらに音量の変化幅もヴァイオリンよりはるかに大きな楽器です。

 ピアノの音を聴きながら自分の音を聴く。
一種の「マルチタスク」です。頭の中で同時に聞こえる2種類の楽器の音を冷静に考えながら自分の音に集中して演奏する…これ、かなり難しいことだと思います。あれ・もしかして私だけ?(笑)
 録音された自分たちの演奏を聴くとき、マイクの位置によって二人の音量のバランスがまったく違って聴こえます。それぞれの楽器に近付けたマイクで別々のトラック=チャンネルに録音しバランスを整えるのが「スタジオレコーディング」です。ライブでの録音は通常「記録」として録音することが主目的なので、お客様からの見た目で邪魔にならないことも大切な条件になります。
 と言うよりも(笑)ライブ=コンサートの場合には客席での聴こえ方が一番大切なので録音は本来の目的ではありません。演奏しながら客席で二人の音のバランスは自分では確認できません。私たちの場合には調律師の名取さんに少しでも聴いてもらいアドヴァイスをもらっています。名取さんが居ない時、さらに誰も知り合いがいない地方の会場ではお互いの音を客席で順番に聴いて「想像」するしか方法がありません。あとは経験と勘が頼りです。

 曲によってお互いの音が聞こえにくい曲もあります。ヴァイオリンの音域も関係しピアノの音の数・音域も関わります。ヴァイオリンの立ち位置でも聴こえ方が変わります。ピアノの「蓋=屋根」の開け方でも変わります。ピアニストからの「視界の中」にヴァイオリンがあるか?も関わります。
 私たちは最終的に「ホール全体に二つの楽器の音が届く」事を考えている「つもり」です。
練習の時にホールの響きを想像することは不可能です。色々な位置でヴァイオリンを弾くこともあります。ピアノの近くだったり少し離れた距離で演奏してみたり。聴こえ方がお互いに変わります。ピアノは動けませんから(笑)ヴァイオリンが動きます。
 曲によって調性=キーを変えることも多くあります。バランスよく聞こえる調、オクターブを考えて「リアレンジ」します。以前のブログでもヴァイオリンとヴィオラで同じ曲を演奏した比較、違う調性で演奏した比較もしていますのでご興味あればお読み頂ければと思います。

 一人一人の演奏者は自分の音に最大限の集中をします。当然です。
客席で演奏を楽しむ方の殆どは「ひとつの音=音楽」として聴いています。
例えるな「2種類の素材の料理」です。どちらかの主張が強すぎればどちらの素材とも美味しくなくなります。別々に食べても口内調味…口の中で一つになっても「惜しい」と感じる料理は単品よりも難しいと思います。
 別々の音色・楽器の音が違う種類の新しい音になります。曲の中で一つの音のように溶ける場面もあればどちらかの音が鮮明に浮かびあがる場面もあります。
それを確かめるのが「あわせ」だと思います。学生時代は本番の前に数回合わせればとりあえず?納得していた気がします。それで「完成」させることが出来るプロもいらっしゃいます。
私たちの場合は常に試行錯誤の繰り返しです。「これ!」と言う正解がない道を迷いながら歩くのも音楽なら楽しいものです。間違ったからと言って誰も傷つきませんから(笑)
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

コンチェルトもソナタも弾き方って同じ?

映像は私の高校3年生当時の演奏。ハチャトゥリアン作曲ヴァイオリンコンチェルト第1楽章。
今回のテーマは演奏する「曲=楽器編成」の違いで演奏方法は違うのか?同じなのか?というお話です。
 ヴァイオリンをレッスンで習う時「音階」「練習曲」「曲」の3種類を師匠に見て頂くことが多いのでは?私は中学・高校・大学と一人の師匠についていましたので他を知らないのですが…。もちろん、指導者によっても生徒のレベルによっても内容は違って当然です。
「教本」と呼ばれるものには少しずつ音階や練習のための短い曲、さらにコンチェルトや小品がばらばらと載せてあります。最初は「1巻」から始めて段々難しい曲が増えてくる。そんな教本が多いように思います。
 そもそも「コンチェルト=協奏曲」の独奏を一体、どれだけのヴァイオリニストが生涯で一度でも演奏するチャンスがあるでしょうか?ちなみに本来コンチェルトは「オーケストラ」と独奏者が一緒に演奏する楽器編成の音楽です。
 ピアノを習っていて小学生や中学生で「コンチェルト」のソロをレッスンで習うことは、ほとんどないと思います。例外的にコンクールで優勝するような子供がプロのオーケストラと共演する話は聴きますが全体の中で「1000人に一人」より少ないケースだと思います。
 音楽高校の入試、学内での実技試験でもピアノ科の課題に「コンチェルト」がないことを昔から「なんで?」と感じていました。逆にヴァイオリンの場合には入試でも学内での試験でも必ず「コンチェルト」の一部が指定され、カデンツァも含まれることが殆どです。
 その違いの最大の原因は?「ピアノには独奏曲がたくさんある」のに対しヴァイオリンは「ほぼすべての曲がピアノかオーケストラ、他の弦楽器などと演奏する」ことだと思います。
ヴァイオリンの無伴奏曲が少ないことは以前にも書きました。
 だから?ヴァイオリンの試験曲はコンチェルトって言うのも「なんだかなぁ」と感じるのは私だけでしょうか?
 コンチェルトの独奏以外にも「小品」と呼ばれるヴァイオリン独奏曲はたくさんあります。有名な作曲家で言えばフリッツ・クライスラーの作品。「ピアノとヴァイオリンの為のソナタ」以外にも多くの小品(演奏時間の長さも様々)がありますが、入試や学内の試験でそれらの曲を演奏することはほとんどありませんでした。「ソナタ」のレッスンは「実技」レッスンとは別に「室内楽レッスン」を受講してレッスンを受けました。
 生徒に何を求めているのか?は学校や指導者によって違う事は当然です。ヴァイオリンコンチェルトのソロが演奏できれば、大体の小品は演奏できますし「ソナタ」にしても技術的な面だけでを考えれば「演奏可能」です。

 本題になります。コンチェルトの独奏を演奏する場合とソナタや小品、室内楽を演奏する時の演奏は「何が?どう?違う」のでしょうか。
 これはピアノでも同じことが言えますが、コンチェルトの場合には「オーケストラ」が一緒に演奏するわけですからたくさんの弦楽器奏者、多くの種類の管楽器と打楽器が独奏者と同時に音を出すことになります。ポピュラー音楽なら歌手はマイクを通してアンプで増幅=大きくした音をスピーカーを通して客席に届けるので「音量のバランス」を歌手もバックバンドや演奏者が気にする必要はありません。どんな小さな声の歌手でもエレキギターやドラムの音、時にはオーケストラの音よりも大きな音で客席に響かせることが出来ます。
 クラシック音楽で「マイク・アンプ・スピーカー」を使うのは特殊な場合に限られます。

 上の映像はベルリンフィルが野外でのコンサートで大観衆に音楽を聴いてもらっている動画です。「生の音」はいかにベルリンフィルでも屋根もない・環境版もない場所で何千人もの人に聞こえる音にはなりません。当然マイクとアンプ・スピーカーが必要になります。

 マイクやスピーカーを使わずにオーケストラを「バック」にして演奏する場合、ピアノコンチェルトなら「フルコンサートグランドピアノ」と呼ばれるピアノを使用するのが一般的です。グランドピアノの中で最も大きく、当然響きも音量も豊かです。オーケストラが全員で演奏しても客席に十分な音量バランスで聞こえる音量があります。
 ヴァイオリンは?いくら「ストラディバリウスは音が大きい」「いやグヮルネリのヴァイオリンの方が…」とは言え(笑)物理的に音圧=デシベル面でも音色の面でもピアノのようには行きません。何故ならオーケストラにはコンチェルトでも20名以上のヴァイオリン奏者が同時に演奏しています。もしかするとその中にストラディバリウスやグヮルネリを使っている人も居て不思議ではありません。しかもオーケストラメンバーも「プロ」です。ソリストが演奏するヴァイオリン独奏を「ちゃらちゃら」っと演奏できるメンバーもたくさんいるはずです。
 そのオーケストラメンバーがいくら「遠慮」して弾いてもヴァイオリンソリストの音の方が「大きい」可能性は極めて低いはずです。放送や録音でソリストの音がオーケストラより大きく聴こえるのは以前にも書いた「電気的な処理」の結果です。
 音量でも音色でもオーケストラの音より「浮き上がって前面に聴こえる」演奏方法・演奏技術が必要になります。一言で言えば「オーケストラより目立つ音」です。

 小学生がレッスンや発表会でモーツァルトやブルッフ、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを「バリバリ」弾く姿は今時、珍しくありません。中にはシベリウス、ブラームス、チャイコフスキーのコンチェルトソロを演奏する「子供」もいます。
 では「ピアノとの二重奏」でコンチェルト独奏と同じ弾き方をする必要があるか?必然性があるか?と言うテーマになります。
 ピアノはヴァイオリンよりも大きな音量を出せる楽器です。発音の原理が全く違うので二人での演奏を聴いて「どちらの楽器の音か分からない」という事は心配する必要がありません。明らかに音色が違います。
 ヴァイオリンが「ピアノに負けないぞ!」とコンチェルトソロのように演奏する「意味」があるでしょうか?私はまったくないと考えています。
 もちろんピアニストがヴァイオリンの音に配慮して、音量と音色をコントロールしてくれたら!と言う前提条件があります。さらにヴァイオリニストもピアノの音の多さ、音域を考えた「音量と音色」を考えて演奏する技術が必要です。

 上の映像は今年1月に演奏したラフマニノフ作曲「ここは素晴らしい場所」ヴァイオリンとピアノで演奏した動画です。
 私の弾き方も浩子さんのピアノも決して「大きな音量」ではありません。かと言って「物足りない」音量だとも感じません。
 会場で「音」を聴く方にとって「ちょうどいいバランス」を考えた演奏が理想だと思っています。演奏する会場の広さ・残響の長さがすべて違います。聴く場所=座席の場所でも変わります。すべての人が「ちょうどいい」とは思えないのが現実です。好みもあります。
 少なくとも若い頃…音楽高校・音楽大学時代に実技のレッスンで私が師匠に教えて頂いた=レッスンを受けた曲で「小品」は1曲だけでした。大学5年(笑)の最後に「何か弾きなさい」と仰られて「え?え?」戸惑う私に微笑みながら「なんの曲でもいいよ」と優しくおっしゃった師匠に甘え、ヴィタリのシャコンヌを弾かせて頂いた事。
 あ!もう1曲ありました!先生!ごめんなさい!(笑)
大学2年?3年?の時にカルメンファンタジーをレッスンで教えて頂きました。
全然!弾けなかったので記憶から抹消していました。

 最後に。
曲によって演奏の仕方を変える「技術」はあります。ただ自分の理想の音を出す技術は変わりません。「コア」になる音色と・音量があり、そこからのバリエーションを作ることが「技術」です。少なくとも「ヴァイオリンコンチェルト」がヴァイオリン独奏で一番「過酷な条件」になることは事実です。だからと言ってヴァイオリンコンチェルトがヴァイオリンの魅力を最大限に表現できるものとは言えないはずです。無伴奏も、ピアノとのデュオも弦楽四重奏もそれぞれに「弾き方」を考えることがヴァイオリニストに必要な技術だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

唯一無二の演奏

 映像はカウンターテナーのアンドレアス・ショルが歌うヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」私が好きな演奏を「ひとつ」と言われたらこの演奏を選びます。
 演奏は演奏者によってすべて異なるものです。仮に同じ曲を演奏しても完全に同じ演奏をすることは他人はもちろん、本人であっても不可能なことです。演奏者がその瞬間に生きていることの証だとも言えます。録音されたもの=機械で音を鳴らしたものと違い、自然界がそうであるように「ある一瞬」は二度と存在しないのが「摂理」です。
 ショルの歌うこの演奏は私が音楽を聴いてきた中で、他のどの演奏とも違うインパクトがあります。ただ「うまい」とか「すごい」とか技術が…曲が…と言う理屈を抜きにして忘れられない音楽になっています。
 どうしたら?こんな演奏が出来るんだろう?と理屈っぽく(笑)無駄に考えてみます。

 過去のブログで「好み」と言う言葉を使ってそれぞれの演奏者が目指す音楽があり、聴く人にも好みがあることは書いています。
 自分自身がどんな演奏を理想として辿り着けない道を進んでいるのか?考えた時に、自分以外の誰かが演奏する音楽に導かれている事に気付きます。ヴァイオリンでなくてもクラシックでなくても自分の感情を激しく揺さぶる音楽。無意識のうちに自分「も」そんな演奏をしてみたい!と思っているのだと思います。
 自分の好きな演奏との出会いは偶然が重なった結果です。好きな音楽に出会おう!と探して巡り合える可能性もありますが、誰かが演奏した演奏に偶然に出会わなければ「理想」は自然に生まれないことになります。
 人との出逢いにも同じことが言えます。「運命的な出逢い」と呼ばれる出逢いもあれば、本人が気付かないだけで本当は出会っている・出会っていたという事もあり得ます。
 自分の理想を目標にして演奏する。文字にすればそれだけの事ですが実際には自分の演奏は「現実的」に課題や問題ばかりが気になって修正と試行錯誤の繰り返しです。いつの間にか理想…どころか自分が音楽を演奏しているのではなく「音を出す練習をしている」ことに気が付かないのが現実です。
 陶芸作家が自分の作った作品の中で「ダメだ」と感じた作品をその場で地面に叩きつける話はよく耳にします。自分の本意ではない作品が間違って世に出ることを何よりも「恥」と感じるからでしょう。
 音楽の場合、人前で演奏して気に入らないから「今の演奏はなかったことで。忘れてください」って言えません(笑)どんなに演奏者が不満足でも聴いてくださる人の心に残ってしまうのが音楽です。「その場限りの芸術」でもあります。
 自分の理想が聴く人にも理想の演奏だとは限りません。そもそも理想の演奏が出来るようになった!と言う演奏者が存在するのか?と言う疑問があります。私からみてショルの演奏は「神がかった演奏」に感じますが、本人がどう感じているかまったく知りません。
 では演奏は「妥協の産物」なのでしょうか?演奏者の理想には届いていない演奏を、演奏者以外が「理想」と感じる可能性もあることを考えれば「妥協」という言葉は適切ではないと思います。強いて言うなら「演奏者の本質」言い換えれば隠しようのない「人間としての資質」をさらけ出しているような気がします。
 私はアンドレアス・ショルと言う人を「何も知らない」人間です。
生まれ、生い立ち、学歴、経歴、性格などについて一切の「真実」を知りません。それで良いと思っています。評論家はまるで政治家の身体検査(笑)のように演奏家や作曲家の「履歴書」を詳細に知りたがります。演奏する上で役に立つ…と言う考え方も否定はしません。私は「人から聞いた情報」を素直に信じない天邪鬼(笑)です。ベートーヴェンが、ショパンが「どんな人だった」のかを想像するのは個人の自由です。人から聞いたり本人が残した言葉、文章が仮に本物だったとしても心の中まで知ることは不可能です。むしろ本人にとっては「やめて!」と思いたくなることかも知れません。
 例えば私が、あるいは今このブログを読んでくださっている方が誰かに「あの人は〇〇な人らしいよ」「誰かが〇〇な性格だと言っていた」と言う話を聞いて嬉しく感じますか?私は嫌です。中には血を分けた家族にさえ知られたくない「真実」があるかも知れません。
自分の演奏を聴いて「きっと野村謙介は…」と想像して頂くことは光栄なことです。しかしそれは「真実ではない」と言う事を忘れないことです。
 演奏を聴いて感動するのは、もしかしたら?演奏者を知らないからかもしれません。逆のケースもあり得ますが、先述の通りそれは想像でしかありません。つまり演奏を聴く立場の人にとっては「演奏=演奏者」なので、演奏に感動するという事は「理想の演奏者」を偶像として感じていることになります。あくまでも「聴く人にとって」の演奏者の姿です。力強い演奏を聴けば「きっとこの人は」と想像し、優しい印象の演奏をする演奏者は「きっと…」と思うのが人間です。演奏は聴く人に自分を「さらす」ことになるのです。
 演奏者のこだわり・思い・エネルギーは演奏に表れます。聴く人がそれに共感することもあれば「なにか違う」と思われることも「嫌い」と思わえることもあり得ます。それを恐れて隠そうとすれば聴く人には何も伝わらない無機質な「機械的な演奏」になります。
 自分がショルの演奏の真似をしても、誰も感動しないことは分かっています。しかし「分析」することは有意義です。
少しでも理想に近つける演奏を出来るようになりたいと練習しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器を替えて変わること・変わらないこと

映像は昨年(2025年1月)に演奏したサン・サーンス作曲「死の舞踏」このリサイタルで初めてヴァイオリンを新しい楽器に持ち替えました。
 それまで使っていたヴァイオリンは私が中学2年生の時に両親が私に買ってくれた楽器でした。1800年代のはじめにイタリアの職人「サンタ・ジュリアーナ」が製作したヴァイオリンで当時、フィラデルフィアの楽器商「メニック」から輸入されたばかりの楽器でした。
 初めての日本だったらしく購入した翌年の梅雨で表板も裏板も湿度と暑さに耐えられず毎週のように膠が剥がれ、その度に購入した職人さんの工房に通っては直し、また剥がれては直し…泣きたくなる思いでした。
 音楽高校の受験、大学を卒業するまでの間、常に私の「相棒」でもあり「身体の一部」でもありました。そんな楽器との別れは一昨年2024年5月。諸々の事情で弓と共に手放しました。
買い取ってもらった楽器商で手続きを終えた時、次の楽器を手にすることは全く考えていませんでした。『うそ~」と思われるかも知れませんが本当の事です。「他のヴァイオリンは持ってるんですよね?」と楽器商=職人の方に問われて「いえ。弓だけ持ってます」
「ダメです!」と一喝されました(笑)
「なにか特別に気になる楽器はありますか?」と尋ねられたので正直に「新作は難しい=不安だけどオールドはいらない」と言う事と以前に出会ったモダン楽器で印象に残っている製作者の名前を伝えました。「贋作も多くて実際本人も色々な人の名前で楽器を作っていたり危ないことは知っています」と正直にお話ししました。
「そこまでご存知なら」と「実は今、あります」と持ってきてくださったのが映像で演奏しているヴァイオリン=今現在、私が愛用しているヴァイオリンです。製作者や年代については書きません。お許しください。私がそれまで愛用していた楽器の製作年も敢えて書きません。楽器は時代を超え色々な人の手に渡ります。私が使っていたヴァイオリンも誰かの手に渡ります。そして新しく手にしたヴァイオリンも今まで少なくとも一人は誰かが演奏していた楽器です。
使う人の愛着が楽器にあります。手放せば「その先」が気になります。
また以前に使っていた人についても同様に気になるものです。
そのすべてを知ることが演奏者にとって「良い事」ばかりではないことを改めて学びました。前に使っていた人の弾き方や管理が「悪かった」と考えてしまうのは演奏者として恥ずべきことです。どんな楽器でも誰かが最初に使います。そして次の人、さらに次の人に「愛され続け」100年以上の年月、誰かの相棒として活躍するのがヴァイオリンです。楽器の調整は「楽器を壊すこと」と言う言葉もこの楽器を手にするときに職人さんが言われた言葉です。その通りだと思います。
楽器は人間の身体と違って「再生」しません。1ミリでも削れば二度と元には戻りません。作った人の楽器とは別の楽器になります。それが悪いとは言いません。楽器を調整・修理することは大切な事です。人間で言えば「健康診断」に近いものです。検査で病気や骨折が見つかって治療しますが人間には「自然治癒能力」があります。骨折は固定すればある期間で再生し完治します。ではヴァイオリンは?
 以前の楽器のように「膠がはがれる」状態では健康な音は出せません。ヴァイオリンを作る時と同じ手法で表板・裏板と横板を弱い接着力の膠=ニカワで貼り付けて決まった圧力で数日、固定して固着させて元に戻せます。ニカワの接着力が弱いのは「木材が割れるのを防ぐため」なのです。強すぎる接着剤で貼り付けると、湿度で膨張した場合と乾燥で縮んだ時の「差」を逃がす=剥がれることが出来ず、板が割れる結果になります。ここにもヴァイオリンを考えた先人たちの「知恵と技」があります。
 剥がれなら直せますが「割れ」は復元できません。木材の組織が分断してしまったものを、いくら見た目でわからない様に修理しても振動はそれまでと違う伝わり方になります。
 ましてや演奏者の好み、職人のこだわりで楽器を削ることは楽器にとって「二度と元に戻れない」状態にされることです。
「お金を払ったから自分の自由」確かに。「弾きやすいように・良い音が出るようにしただけ」なるほど。
 そのヴァイオリンを自分だけが演奏して終わらせる=燃やす・壊す覚悟があるなら、それでも構わないかも知れません。
 実際にあのストラディバリウスを大量に乾燥室に入れて、すべての楽器の表・裏の板を割ったコレクターが過去に実在しました。本人からすれば「買った自分の自由」です。
 ヴァイオリンを演奏すれば「良い影響」と「劣化」が同時に常に進行します。良い影響は木材が振動しやすくなること。特に正確なピッチで適正な圧力の弦で演奏すればなお一層、楽器はピッチが合った時に大きな振動をするようになります。ストラディバリウスがどれも良い音で演奏できるのは「常に一流の演奏者が演奏しているから」でもあります。
 一方で「劣化」は演奏するために温度と湿度の変化にさらされ、演奏者の汗・呼気で湿度をさらに吸い込み、移動のたびに振動で楽器に負担をかけ続けます。ヴァイオリンは楽器であり「演奏するために作られた」ものです。飾って鑑賞する目的で作られていません。

 ヴァイオリンを持ち替えてもうすぐ2年になります。以前の楽器と50年間お付き合いした事と比べると「序の口」です。
 この間にいくつもの演奏会場で色々な曲を演奏する事ができました。ちなみに一度も調整・修理を必要とするような事はありませんでした。日常の手入れだけで、ニカワの剥がれもなく健康な状態を維持しています。楽器自体が製作されてからまだ100年経っていない「若い楽器」であることも健康な理由の一つです。かと言って新作楽器のような「バラツキ・イレギュラーな変化」もありません。新作楽器の場合にはこれが最も不安な要因です。
 2年間演奏して感じたこと。
・自分の演奏方法を再確認できた
・楽器固有の「聴こえ方の違い」に少しずつ慣れてきた
・楽器の成長=良い影響を感じられる
一方で変わらないのは
・自分の好きな音色
・苦手な奏法(😿)
これは一生かけて試行錯誤することだと覚悟しています。
 楽器を替えれば「音が変わる」のは当たり前です。しかし、自分の求める音・理想の音は変わりません。つまり、しばらく違う楽器を弾けばその楽器で自分の好きな音を出そう!と無意識に演奏方法を変えて行きます。結果、どんな楽器を持っても「自分の好きな音」に向かって変わっていくので楽器の個体差よりも演奏する人の「好み」の音が聴く人に届くことになります。
 私は技術が足りないからか2年経っても、今のヴァイオリンで自分の理想の音を出せません。それは「楽器のせい」ではなく、自分の技術が足りないことが原因です。楽器を変えて「目先の変化」から学ぶこともたくさんあります。今まで生徒さんに本当に多くの「入門用ヴァイオリン」と呼ばれる楽器を選んできました。学校での部活オーケストラに入部して初めてヴァイオリンを購入した数だけ考えても、20年間で200本以上…もっとかな?選定しました。教室を開いてからは、手工品の楽器、新作楽器も含めてやはり200本以上の選定をしました。
 その自分が選んだ楽器は?「ちょうど今ありますよ」と提示された楽器と言う笑い話のような実話です。「本当に?他の楽器は弾かなくても?」という職人さんに「いえ結構です。とても気に入りましたから。と言うより嫌な音ではないし、他の楽器を弾いても迷うだけですから」とお答えしてその日から私の身体の一部になりました。
 楽器は「道具」です。そして必ず「寿命」があります。人間と同じように年を重ねると変化します。使い方、扱い方で楽器の音も寿命の長さも変わります。ヴァイオリンの寿命が人間より長いのは事実です。
ヴァイオリンの「生涯」の中で一時に関わるのが演奏者です。
人間のパートナーとは違います。そのことを考えて、楽器をいたわりながら自分の好きな音を出させてもらおうと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?音楽で感情が揺さぶられるのか?

映像はオルガンの独奏によるモーツァルト作曲の「レクイエム」の一部分です。
私たちはなぜ?音楽を聴いた時に悲しみを感じたり喜びを感じるのでしょうか?
人によっては何も感じない人も居て当然かもしれません。聴いたことのない音楽で歌詞もない音楽なのに…。
音楽理論で「長音階・短音階」「長調・短調」「長三和音・短三和音」と言う言葉を学びます。難しい話をしません(笑)要するに「明るい・暗い」の違いだと言えます。もう少し正確に言うならば「明るく=楽しく感じる」か「暗く=悲しく感じる」かの違いです。
音楽に照度=物理的な光の多さ・ルーメンなどの単位で表される数値が表現できるはずはありません。感情の話です。人間の感じる喜怒哀楽です。
人は生まれた時から自分の意志を伝える能力を持っています。言語=言葉を話せなくても乳児が泣くのは「息をする」と言う本能と共に「感情を伝える」本能です。生きるために母親からの母乳を求めるのも本能です。母乳を飲み込む行為、空腹が満たされて満足して安心して眠るのも生きるための本能です。五感の中でも「聴覚=音に対する感覚」が母親の体内で最初に感じる感覚だとも言われています。だからと言ってすべての人間が音を感じるわけではありません。生まれつき聴力のない人もいますし、後天的に聴力を失う人もいます。
 どんな音楽も「音=空気の振動」を使って演奏されます。楽譜は音ではなく文字と同じ「記号」です。音を聴いてすべてを「音楽」には感じません。詩的な比喩で「風のそよぐ音楽」とか「小鳥の歌」などと言われることも文学の世界ではありますが実際に「音楽」と定義されるものではありません。現代音楽と呼ばれるジャンルの中には例えば掃除機の音や、ガラスを引っ掻く不快な音を使って「音楽」を作った…「と」作曲家が定義する「音」もあります。
 人によって喜怒哀楽を感じる「対象」も「強さ」も違います。感受性の違い・経験の違い・性格の違いなど色々な要因が考えられます。
 音楽を生徒に教えるレッスンで「感情を込めて!」って強く言う指導者を見ると「誰の感情だよ!」っと突っ込みたくなります(笑)指導者=先生が感じているものを生徒も感じるとは限りません。「ほら、この旋律、悲しいでしょ?」とか「ここは楽しく感じるよね?」とか。おいおい…それは感情の押し売りでしょ?(笑)同じラーメンを食べて「ね!おいしいでしょ?」って一緒に居る人に同意を求める人の「センスの悪さ」ですね。

 話を音楽を聴いた時に感じる感情に戻します。
音楽の理論を例えると「文法」に似ています。文法を知らなくても会話することが出来ます。音楽の文法に「形容詞」や「現在進行形」はありません。クラシックだけに理論があるわけではありません。ロックにもジャズにも演歌にも共通の「文法」があります。それが音楽理論です。
 難しい話はここまで(笑)
中学校1年生の音楽授業を20年担当しましたが「普通の子供たち」に音楽を聴いてもらい「明るい・暗い」と言う印象を尋ねることがあります。結論を言うと音楽によって回答が大きく変わるのです。
・静かでゆっくりした曲が暗いと思い込んでいる場合
・フォルテでテンポの速い曲は明るいと思い込んでいる場合
本来「長音階・長調・最初と最後が長三和音」の音楽が明るく、逆に「短音階・短調・最初と最後が短三和音」だと暗く感じる「ことになっている」と言うのが定説です。曲全体の音量やテンポは本来は無関係なのですが、演奏を聴いて長調・短調を判別できるのは「学習の結果」です。もちろん理論を学ばなくてもたくさんの音楽を聴くことも「学習」の一部です。

 音楽を学んだ人でも「謎」に感じるのは…
なぜ短調の音楽が悲しく感じ、長調は明るく感じるのか?と言うことです。分析する技術に感覚は不要です。理論とは違うことです。
 恐らく論文などを調べれば「推論」は見つかりますが普通に考えてみれば「謎」ですね。文章=言葉の場合、読む人の経験や記憶の中にある「悲しい体験」と結びついたり連想させる言葉が多ければ悲しく感じます。一方で歌詞のない音楽で具体的な「物」「動き」「状態」を伝えることは不可能です。
 音楽を聴いて想像・連想する「物」「人」「経験」は人によって違います。一つの「曲」に長調と短調が混在する音楽が殆どです。
同じメロディーを和声を付けて長調にしたり短調にすることも可能です。
 味覚に似ていますね。「辛みの中に酸味がある」「甘味の中に塩未が加わると甘味を強く感じる」など良く耳にします。ちなみに「辛み」は「痛み」の一種で本来は味とは言わないそうですが。
 自分の感覚と「理論」でこの曲・この旋律は明るく感じるから、他人も明るく感じるとは限らないという事です。
 音楽は最終的に「人間の感覚」に頼るものです。作曲、演奏、鑑賞。すべて自由に感じ、自由に想像するものです。どんな理論があってもそれは分析の手段・結果です。文法を間違っている文章でも奥ゆかしさや新鮮さを感じる時もあります。「ゆがみ」「ひずみ」「ゆれ」が心地よく感じる場合もあります。人間の感性自体が常に変動するものです。音楽の解釈を他人に押し付ける「偉い人」にはなりたくないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介