ヴァイオリンの価値を考える

 今回の テーマは以前にも取り上げたことのあるヴァイオリンの価値」について。
動画はストラディヴァリの作った楽器をテーマにした番組。面白いです。
さて、人それぞれに「価値観」が違うのが当たり前です。ヴァイオリンの良し悪し、あるいは「妥当な金額」についても、みんな違った考えを持っています。
 一方で時代によって決まる「物価」があります。例えば、ヴァイオリンを作るための材料を「物価」として考えた場合、木材・ニスなどを購入するための「材料費」があります。そこに製作者の技術と労力が対価として加わって、最終的に「販売価格」を買い手との交渉で決めます。これは、どんな者…食品であっても車であっても同じ原理です。当然、今現在もヴァイオリンを製作する人・企業があります。その楽器一つ一つに「最初の取引価格」があり、最終的に、いわゆる「エンドユーザー」が支払う金額が交渉によって決まります。
 これはストラディヴァリのヴァイオリンでも、大量生産のヴァイオリンでも理屈は同じです。ストラディヴァリウスの一番大きな特徴は「原価が不明」であり「当初の価格が不明」であり、製作されてからすでに300年以上の年月が経っても「現役」であることです。

 さて、ヴァイオリンを演奏する人にとって「欲しい楽器」と「自分で買える楽器」が違う事は、ごく当たり前にあります。アマチュアであってもプロであっても同じです。「自分が欲しい」と思う楽器が自分にとって最高の楽器なのか?と聞かれたら、答えは「最高の楽器ってなに?」と言う根本的な疑問にぶつかります。
 少なくとも、自分が手にして演奏し、それまで演奏したどの楽器よりも「自分が好き」と感じた楽器でしかありません。世界中のすべてのヴァイオリンを演奏して選ぶことは、誰にも不可能なことです(笑)「私にとって最高の楽器!」と言っても、実はまだ自分が演奏したことのない楽器の方が何百倍、何千倍も多いのです。
 ヴァイオリンの「性能」ってなんでしょう?
車なら「馬力」「加速性能」「運動性」「空力抵抗」などで性能比較ができます。
美術品と違いヴァイオリンを「楽器=音を出す道具」として純粋に考えた場合に、この「性能差」がどんなものか?考える必要があります。
 現在の科学で結論を導けば「性能に大きな違いがない」結論になります。多くの実験が世界中でおこなれた「結果」ですから、いくら「私はストラディヴァリが一番だ!」と豪語しても「科学的なデータ」は変えられません。つまり、ストラディヴァリのヴァイオリンが「特別な性能・特別な音を出せる」楽器ではないことは、事実なのです。
 「新作のヴァイオリンはダメだ!」と言うのも科学的には「嘘」になります。現実に実験で証明されています。「私はストラディヴァリのヴァイオリンを聞きわけられる」と言う人がいますが、自分が演奏した、複数の楽器を「言い当てられる」のはアマチュアでもできることですが、他人が演奏したヴァイオリンの音の中でストラディヴァリのヴァイオリンだけを判別できる人は、恐らく誰もいません。それが「科学」です。

 自分の好きな楽器に出会うことは、パートナーと出会う「運命」に近いものがあります。先述の通り、すべてのヴァイオリンを演奏して比べられないように、世界中の人と「お見合い」することは?無理ですから(笑)偶然に出会った「楽器」を自分のパートナーのように大切に思い、扱える人ならどんなヴァイオリンでも「愛せる」はずです。ヴァイオリンの価格に「絶対」はありません。材料の原価に金額の差があることは事実です。ただ、ひとりの職人が作ったから「高い」と決めるのも、間違っていると思います。多くの人間が手をかけた方が高いものって世の中にたくさんありますよね?
 自分の好みを大切にすることです。それしかありません!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を「習う」「教える」ことの意味

 上の演奏は、今は亡き恩師「久保田良作先生」の門下生(中学生以上)と桐朋学園大学のチェリストとコントラバス奏者が加わっての「夏合宿」最終日におこなわれる「どるちえ合奏団」のコンサートです。1978年夏の軽井沢、合宿地でもあった清山プリンスホテルになるガラス張りのホール。時々、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下や浩宮殿下(現天皇陛下)が私服で聴きにいらしていたと言う夏のイベントでした。
 合宿前に東京で、主に中学生の生徒たちを集めての合奏練習も行われていました。門下生は中学生になるとこの合宿に参加することができます。高校生になると時にはヴィオラを演奏しながら参加。大学1年生まで暗黙の「必修(笑)」参加でした。お手伝いのチェロ、コントラバスにはそうそうたるメンバーが顔をそろえておられました。私の記憶しているだけでも、北本さん、秋津さん、桜庭さん、小川さん、山村さん、同期の金木君。コントラバスに大友直人さんや北本さんも来ておられました。豪華すぎ(笑)
 この弦セレはこの年のプログラムで最後の曲でした。アンコールにはいつも「夏の思い出」を演奏。前半のプログラムには中学生の初々しい「アイネク」や「ディベルティメント」。私が初めて参加した年には、ロッシーニの弦楽のためのソナタ(GDur)を演奏会の才女に演奏しました。合宿が清山プリンって(笑)あり得ない「セレブ」なお話で、当時10万円近い合宿費になってしまいこの数年後に、北軽井沢の「農園ホテル」に(笑)そこから先生がお亡くなりになる前まで、箱根仙石原のホテルへと変わっていきました。私が撮影のお手伝いで最後に「合宿」にお邪魔したときの映像があります。1985年8月20日の映像です。

 加藤知子さんも元は久保田良作先生の門下生でした。私の3学年大先輩。
さて、本題は「音楽を習う・教える」と言うテーマです。
今更私が言うまでもなく、久保田良作先生は数えきれないほどのヴァイオリニストを世界に送り出された指導者である前に、日本のトップヴァイオリニストでいらっしゃいました。毎年、上野文化会館での「ジュピタートリオ」での演奏は私にとってどんな演奏会より刺激的でした。さらに、桐朋学園大学音楽学部で弦楽器主任教授、学部長も務められると言う激務をこなしながら小学生の子供たちも数多くレッスンされておられました。

 そもそも、音楽は「教えられる」ものでしょうか?演奏技術の「一部」は教えられるものだと思います。それは表面的なもので、内容も限られています。
 「師匠・弟子」の菅駅は、親子以上の信頼関係があって初めて成立するものだと私は考えています。「先生と生徒」とはまったく異次元の関係です。師匠を心から信じることが自然にできなければ、得られるものは表面的なもの…それも怪しいと思います。「そうかな?本当かな?違う気がする」と思いながらレッスンを受けて、何か意味があるでしょうか?もちろん、師匠も人間です。神でも仏でもありません。間違いはあるはずです。その間違いを含めて、どこまで師匠の言葉を信じられるか?だと思います。

 話が「ぶっ飛び」升が(笑)、仏教の教えを説いた「釈迦」が、悟りを開き「弟子」たちにそれを解こうとしたとき、あまりに悟りが深く、当時の人間には理解不能だったことから多くの出来が「間違った解釈」をして現在、数多くの仏教が存在していると言う話があります。つまり現在の仏教は、すべて「釈迦の教え」のはずなのですが、それぞれ異なった「教え」を伝える人が生まれているという事です。

 音楽も本来、教える人の「悟り」まで行かなくても「信念」「理論」があります。それを「弟子」に伝えることは、可能なのでしょうか?理論を言語化することも、演奏家が自分の演奏をするだけならば、全く不要なことです。そんな時間があったら練習して演奏したい!と思う演奏家の気持ちも「そりゃそうだよね」(笑)
 それでも!自分が十て来た道と、師匠が伝えてくださった「であろう」理論や技術を次の世代に伝えようとする「指導者」がいます。
 指導者がいても「弟子」がいなければ?話は進みません(笑)「習いたい」と思っても弟子に慣れないケースもある一方で、弟子になる人の「絶対数」が減っている気がします。音楽大学で「習う」学生にも、先述の「先生と生徒(学生)」の信頼関係を超えられない人が増えている気がするのは老婆心でしょうか?レッスンを受ければ「うまくなる」と思う学生。うまくなる「秘訣」を直接聞きだそうとする学生。なにか間違っている気がします。
 指導する人も生活があります。生きていくために生徒・学生を選べないと言う現実t問題があります。少子化と不景気は国民の責任ではありません。「国家」の罪です。そのために、音楽科を目指す人が激減し、ますます指導者の存在すら危うくなっています。
 どんなに優れた指導者だっとしても、習いたいと思える「環境」がなければ習えないのが現代社会の定めです。「理想」と「現実」が日々乖離していきます。
このまま後、10年もしたら日本には「指導者」がいなくなる日が来ます。日本から音楽を学ぶ環境が消えることになります。悲しいことです。
 せめて「先生」が「師匠」に変化=深化することを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

思い出と紐づく音楽

 映像は今から20年ほど前、みなとみらいホールでの演奏です。当時勤務していた中学・高校部活オケの定期演奏会風景。ハープは桐朋時代の先輩にお願いしましたが、パイプオルガン演奏者も高校生。
週に1回の合奏以外「自主練習」の部活オケ。ここまで弾ければ十分かと(笑)
 さて、この音楽はエドワード・エルガー作曲「威風堂々第1行進曲」です。
イギリスの第2国歌とも呼ばれ、戴冠式で演奏される曲でもあります。イギリスの「プロムス」で聴衆が全員でこの演奏に合わせて歌う姿は、見ているだけで感動します。
 日本でも様々な「儀式」でこの曲が使われます。入学式、卒業式など学校での儀式で生徒が演奏したりすることも多い音楽です。儀式で演奏した人でなくても、儀式に「参加」した人の思い出に、この音楽が結び付いている人も多いようですね。音楽の曲名を知らなくても、この曲を聴くと思い出がよみがえる…そんな経験はありませんか?

 演奏を聴いた人の「記憶に残る」演奏に共通点があるでしょうか?
テレビCMで使われる音楽や、番組中の「ジングル」店舗で流れる「テーマ音楽」はまさに「記憶に残すための音楽」です。
また映画やドラマで使用される音楽は、見ている人の心情・感情に大きく関わります。
不安や恐怖心を「あおる」音楽もあれば、感動的な「涙を誘う」音楽もあります。
 音楽が人間の「感情の記憶」に紐づき、さらに共感する人が多ければ多いほど音楽が人々に広まり「定着」するのかも知れません。クラシック音楽は「大衆音楽」の対極にあるように思われがちですが、実際にはクラシック音楽も大衆の中に溶け込める音楽であることは事実です。むしろ、日常の生活にクラシックの音楽が広まれば演奏会に足を運ぶ人も増えるはずですよね。
 演奏会で「良い記憶」に残ってもらえる演奏をすること。これも演奏家にとって大切なことだと考えています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

作曲家の個性を考える

村松崇継作曲

 私たちが演奏する音楽を「作曲」した人がいます。歌であれば「作詞」した人も。その人が作った作品を音楽にするのが演奏者であり、その作品と演奏を楽しむのが聴衆=聴く人です。演奏する時、作曲家の思い・心情を創造することは出来ますが、あくまで演奏者の勝手な解釈や思い込みでしかありません。作曲家であれ演奏家であれ「真実の心情」を他人が理解することは不可能です。「作曲家の精神に触れた」と言う演奏家の言葉に違和感を感じています。演奏家の思いを聴衆が完全に理解してもらうことを望んで演奏しても、すべての人に理解してもらうのは無理なのと同じことです。作曲者自身が演奏しても、聴衆が自由に感じることが音楽の良さだと思っています。

 さて、そう思いながら「作曲家の個性」を考えるのは何か矛盾してい様に感じるかも知れませんが、演奏者として作品ごとに感じること・浮かぶ情景があるのは当たり前です。理論的な分析=和声の進行や旋律の特徴などを感じることもあります。言い換えれば、理論を無視して音楽を「作曲」したとすれば、それは音の「羅列」でしかなく、聴く人の感情を揺さぶる音楽にはなり得ないはずです。現代音楽の領域で、掃除機の音や「雑音」と呼ばれる音を並べる「現代音楽」があります。私には音楽として感じることは出来ないのが正直な気持ちです。
 ただ、音楽の歴史の中で「聴きなれない」という理由で評価されなかった音楽が、その後「良い作品」と言われた例は数限りなくあります。「前衛的」なのか「無作為な音の羅列」なのか?一般の人に理解不能なのは当然のことです。
 ラベルやドビュッシーの音楽を聴いて「不快」と感じる人がいても当然のことです。「良さを理解できないのは感性が足りない」とマニアぶる人こそ滑稽だと思います。絵画の世界でも同じです。ピカソの絵を見て「素晴らしい」と思う人がどれだけいるのでしょうか?料理でも伝統を重んじる料理もあれば、創作料理もあります。つまり、私たちが「なじんだ=知っている」ものは許容しやすく「初めて=知らない」ものへの拒絶や不安があるのは、生物の本能ではないでしょうか?
 猫や犬でも「初めて」のものには警戒しますよね?人間も同じです。

 村松崇継さんの作品に出合ったのは、ごく数年前の事です。いのちの歌を歌う玉置浩二さんと小野リサさん、ピアノを演奏している作曲者自身の映像を見て素直に魅了されました。それからと言うもの、村松氏の作品に出合うたびに「これ、弾いたらどうなるかな?」という好奇心が先に立ちます(笑)
 作曲の素人が偉そうに書いてはいけないのですが、村松氏の作品に共感するのは「奇をてらわないが特徴的な和声進行」と「記憶に残る旋律で跳躍が個性的」なことです。作曲者ごとの「特徴」を感じることは珍しくありません。例えば「ジョン・ウイリアムス」の映画音楽の中で、スーパーマンとスターウォーズの似ていること(笑)は有名です。でもシンドラーのリストが彼の作品と言われて「へー」と思うのも事実です。
 作品の好き・嫌いは誰にでもあります。演奏する人にも聴く人にも。演奏者が自分の好きな作品を選んでコンサートで演奏する時、聴衆が好きになってくれる…とは限りません。演奏者の作品への「愛情・思い入れ」と聴衆の「好感度」は必ずしも比例しないのが現実です。それでも!演奏したいという気持ちが演奏者にあってこそ、コンサートは成り立つものだと思います。自分が聴く側になったときのことを考えることも、演奏者の「優しさ」だと思います。曲間のMCやプログラムノートに、演奏者の「暑苦しいほどの思い入れ」があると…(笑)私は正直に「引いて」しまう人間です。と言いながら自分のコンサートはどうよ?!(涙)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴィブラートを考える

ふるさと(ヴァイオリン・ピアノ)

 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの「ヴィブラート」
多くのアマチュアヴァイオリニストが自分の好きなヴィブラートに行きつかない…思ったようにヴィブラートをを「かけられない」というお悩みを持っています。
 これまでに多くの人たちにヴァイオリンで演奏する楽しさを伝えてきた経験の中から見えてきた「できる・できない」の違いを書いてみます。
 中学・高校の部活オーケストラでヴィブラートをすぐに出来るようになる子供と、なかなか思ったようにできない子供がいます。音楽経験の長さや体格的なものとは無関係です。練習時間にも比例しません。「なんとなく」できる子供と「頑張ってもできない」こども。どこが違うのでしょう?
 なんとなくヴィブラートができる子供に共通することを考えてみます。
・観察する集中力が強い
・呑気な性格=焦らない性格
・固執しない性格=作業容認性が高い
・スポーツが苦手=筋力が強くない
こうしてみるとなんとなく「ひ弱なタイプ」(笑)です。
スポーツも勉強もバリバリにこなす!人でも「のん気」な人はヴィブラートがすぐにてきるようです。
 ヴィブラートに限らず、楽器の演奏は「運動能力」が必要不可欠です。
吹奏楽部の「間違った腹筋強化トレーニング」があるように、スポーツでも音楽でも指導者が無知な故に、無駄な時間と労力を生徒にさせて、最悪筋肉を傷める結果になります。
 ヴァイオリンの演奏に必要な「運動能力」は、前回書いた「瞬発力」と「柔軟性」です。
ちなみに私自身、異常なほどに身体が「硬い」(笑)ので参考になるかどうか不安です。

 ヴィブラートが苦手な人に見られることは?
・手の動きに集中しすぎて「音」に集中できない
・動かそうとして指・手首・前腕・肘に力を入れすぎる
・ピッチの微細で連続的な変化に反応しない
・右手の動き=ボウイングが安定していない
ヴィブラートは「波」をイメージするとわかりやすくなります。
・浅い波と大きな波
・速い(細かい)波とゆったりした(長さの長い)波
上記の組みあ合わせは4通りあります。
1.浅く遅い
2.浅く速い
3.深く遅い
4.深く速い
この4つをさらに少しずつ変化させることもできます。
演奏する「音」によって、どんなヴィブラートを選ぶのか?正解はありません。
あくまでも演奏者の「好み」です。1種類しかヴィブラートの選択肢がない場合「ノンヴィブラート・ヴィブラート」の2択になります。いくら右手で音量と音色をコントロールできても、ヴィブラートが1種類と言うのは寂しいと思います。

 腕の筋肉の緊張と弛緩=緩んだ状態は、見た目ではわかりません。実際にその人の腕や手首、掌に触れてみると非常によくわかります。また、自分の腕の緊張と弛緩も意識しにくいものです。
できれば、家族に腕を触ってもらいながらヴィブラートをしてみると、必要以上に緊張していることを教えてもらえます。
 左手を不自然な向きに「ひねる」のがヴァイオリン・ヴィオラの定めです。多くの楽器がある中で、腕の筋肉=自然な身体の位置と逆に擦る楽器はほかに見当たりません。
 左手の「手のひらを下」に向けて、手首を「縦方向=上下」にブラブラさせることは簡単にできます。
 左手の「手のひらを右」に向けて、手首を「横方向=左右」に振ることも難しくありません。むしろ、この掌の向きが人間にとって一番「自然な向き」です。
 左手の「手のひらを上」向けて、さらに「左にひねる=小指を上・親指が下」になる方向にひねるのが、ヴァイオリン・ヴィオラの構え方になります。最も不自然な向きです。上腕=二の腕に「力こぶ」が盛り上がるはずです。また前腕の「手の甲側」の筋が盛り上がり硬く緊張するはずです。この状態で「手のひらをブラブラ」させるのがヴィブラートなのです(笑)無理がありますよね~。
さらに!その左腕を「前方に伸ばす」状態にすると?「いてててて!」じゃ、ありませんか?
左ひじを曲げると楽に「ひねる」ことができます。左ひじを伸ばすと肩の筋肉まで「引っ張られる」感覚があるはずです。
 少しでも左腕と左手の緊張を和らげるために「ストレッチ」をしてみることをお勧めします。
無理やり左手の力で「ひねる」のではなく、右手で左手の掌を「ねじる」助けをしてあげましょう。
始めは左ひじを曲げて「ねじる」ことからスタートし、徐々に左ひじを伸ばしてねじることに慣れていくのが楽にストレッチする方法です。

 見た目と違うのがヴィブラートです。小さな力で、大きな運動と、大きなピッチの変化を生み出す「柔らかさと最小限の力」を見つけるために、まず「音を聴く」ことに集中しましょう。
焦ると逆効果です。力を「加えて」できたと思うのは間違いです。ゆったりした波の海でゴムボートに寝ている「イメージ」で練習してみてください。酔わない程度に(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

瞬間的な動きを身に着ける

 以前書いたブログのなかで書いた「瞬間的な動き」について。
視覚に頼って動こうとすると、反応が遅れるのが人間です。
 五感の中で「嗅覚」「味覚」は運動に関わりませんが
「触覚」「聴覚」を忘れないことです。
 さらに「速く動く」ためには「速く力を抜く」ことが不可欠です。
ヴァイオリンの演奏中に必要な「力=筋肉の動き」は、三つに分類されると思います。
1.脱力しているときの「保持する力」
2.瞬間的に力を、すぐに1.に戻る力
3.意識的に力を持続したり、徐々に変化させる力
 一番大切なのは1.の「自然体で楽器と弓を持つ」時の最小限の力を見極めることです。
 2.の力は「瞬発力」とも呼ばれます。一瞬で最大の力を入れ、直後に1.の状態に戻す技術が演奏には不可欠です。リラックスしている時に、不意に肩を叩かれたら「びくっ」とする感覚。気を抜いていて、熱いものに触った時の「あちっ」という感覚。それを意識的に行うのが「瞬間的な運動」です。
 3.は左手で弦を押さえ続ける力や、弓を動かすときの力です。徐々に力をいれたり、反対に少し実力を抜いたりすることもあります。

 瞬間的な運動を身に着けるためには、自分の体で「今、どこに、どのくらいの力が入っているか?」を観察することです。日常生活を何気なく過ごしていると、自分の筋肉の動きや力を意識していません。ヴァイオリンを演奏するとき「無意識」に有害な力=不要な力をいれていることがよくあります。
自分では意識していないので、それが「当たり前」になってしまいます。
 弓を「持つ」と思い込むと、弦の上に弓の毛が「乗っている」ことを忘れます。その逆に弓の圧力を減らす=弓の毛を弦から浮かせる運動は、右手の親指を支点にして、一番遠い「小指」が力を加えることが「てこの原理」で理解できますが、小指を「つまようじ」のように突っ張っていたり、小指を常に浮かせて演奏することは「瞬間的な運動」を阻害する原因になります。
 左手も同じように「ネックを握りしめる」癖が見受けられます。
楽器が落ちるような「不安」がいつまでも抜け切れていないことが原因です。さらに、弦を指で押さえるための「力」に反発する「力」は、上下=床と天井方向の力であるのに「左右=ネックをはさむ力」を使ってしまうこともよくあります。開放弦の時に、左手の親指と人差し指の「間」にネックが落ちる状態が、本来の「力」です。
 ヴィブラートも同じです。左腕のどこに?どのくらい?力を入れるのか?を見切ることが必要です。連続した動きなので、上記3.に近い運動ですが、1.の状態=必要最小限の自然体を見つけないと「見切る」ことは不可能です。

 反応する時間を短くする「筋肉の瞬間的な運動」を身に着けるためには、「必要最小限の力を見つける」ことからです。そこにほんの少しの力を、ほんの一瞬だけ入れて、すぐに元のリラックスした状態に戻すトレーニングが必要です。冒頭に書いたように「視覚」に頼らず、指や掌の「触覚」と、音を聴く「聴覚」を優先して練習することをお勧めします。
 見なくても=見えなくても良い音を出せるヴァイオリン奏者がたくさんいます。目を閉じて自分の音を聴いてみると、様々な問題が出てきます。ぜひ、試してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

プログラムを考える楽しさ

 今回のテーマ「プログラム」は、演奏会でお客様に聴いていただき曲を選び、演奏順を考える楽しさについてです。
 コンサートには「主催者」がいます。誰も主宰しないコンサートはあり得ません。どんなコンサートで、どんな人に楽しんで=聴いていただきたいのか?
 主催者が演奏者本人の場合もあります。演奏者とは別の人やプロダクションや団体が「企画立案」し実施する場合もあります。
 私の場合、ほとんどが前者=自分で立案し自分で演奏するコンサートですが、時に依頼を受けて演奏させて頂くことがあります。ボランティアとしてお引き受けする場合と、仕事として演奏させていただく場合があります。どちらにしても、聴いてくださる方の年齢層やコンサートの「タイトル」も含めて演奏する曲を決めます。

 クラシックを聴くために、コンサートに何度も足を運んだことのある人を「クラシック好き」と仮に呼ばせていただきます。一方でコンサートに行ったことがない方や、過去に数回言った古賀あると言う人もたくさんおられます。後者の割がが圧倒的に多いと思います。
 コンサートに「行かない」理由を考えてみます。
1.音楽に興味がない。
2.料金が高い。
3.時間がもったいない。
1.に関して言えば「音楽の種類」にもよります。ハードロックの好きな人なrあ「ライブ」には関心があって「クラシックコンサート」には関心が無いかもしれませんし、その逆のケースもあり得ます。もちろん、譜d何から音楽を聴かない…あるいは積極的には機内という人も多くおられます。
2.の前提は1.である音楽に「興味・関心はある」人か、その人に誘われてお付き合いでコンサートに行く人が該当します。無料のコンサートと有料のコンサートがあります。主催者が無料でコンサートを開く場合、つまりお客様からお金を受けたらない場合ですが通常、コンサートに係る経費があるのは当然です。お客様からの乳液が「1円もない」場合、
・スポンサーが経費を出してくれる
・主謝意者が負担する
・経費が円もかからないコンサートにする
以外に選択肢がありません。主催者が知恵気を求めるのであれば、入場無料のコンサートは考えられません。プロの演奏者が無報酬=ノーギャラで演奏する場合にも、交通費だけは支払ってもらうこともあります。ただ、会場までの往復時間。演奏会の時間。練習する時間の「対価」がないという事は、業務とは言えません。「ボランティア」を「無償」だと決めつける人がいますが、間違っています。ボランティアとは「精神」であって、有償・無償の差ではありません。
 コンサートの料金が高いと感じるか?は価値観の問題です。1,000円を安いと感じるか?高いと感じるか?は人によって違うのです。
3.の「時間」については、開催される場所と自宅からの「距離」によりますし、完済される時期や曜日、時間にもよります。聴く人によって、コンサートに行ける「時間」は違います。土日に働く人もたくさんいます。夜間に働く人がたくさんいます。それらの人が「クラシック好き」であることもあります。
コンサートに行きたくても時間の都合がつかない人も多いのが現状です。
一昔前のヨーロッパのように、夜こどもを寝かせてから夫婦でコンサートにドレスアップしていく「文化」があるのは、まさに芸術を楽しむことが「日常」であることの証だと思います。

 私と浩子さんのコンサートで演奏する「プログラム」に特徴があるように、演奏する曲を考えることは「聴く人へのおもてなし」だと思います。
 あ~締め、演奏する曲を公開して「その曲が聴きたい」と思う人がチケットを購入する場合もあります。料理に例えれば「コースのメニュー」を先に示すケースです。聴く人は好きな音楽を探して選ぶことができます。ただ、その「演奏」が耳に「合う」(笑)かどうかは別問題です。コース料理に「〇〇のプロバンス風」があったとしても、食べてみたら「期待外れ」かも知れないのと同じです。
 演奏者に期待してコンサートに行く場合もあります。「料理人に期待する」のと同じです。いわゆる「リピーター」ですね。音楽の場合には「ファン」とも言えます。
 演奏者を知らない&曲が公開されていない・公開されていも聴いたことのない曲ばかり…こなると、集客力が低くなります。どんな料理人が、どんな料理をだすのかわからないレストランで食事をするのと似ています。勇気がいりますが「当たればラッキー!」とも言えます(笑)
 私たちは「有名ではない演奏家」夫婦です。権威のあるコンクールで入賞した「音楽歴」はありません。言ってしまえば「ただ長く音楽に関わって生きている」ことは事実です。そして、二人が共感できる「優しくて心地よい音楽」を選んで演奏しています。聴いてくださった方の期待に応えるのは、とても難しいことです。完璧に…は不可能です。一人も出多くの方に「安らぎの時間」を感じて頂ければと願ってプログラムを考えています。10月の木曽おもちゃ美術館での演奏も、響きの豊かな会場で「気持ちよく」感じて頂ければ嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽福島「木曽おもちゃ美術館」で演奏します

2022年撮影「瑠璃色の地球」ヴィオラ・ピアノ

2023年10月7日(土)夕方6時30分と翌日10月8日(日)11時に、長野県木曽町に建つ「木曽おもちゃ美術館」で演奏します。
 主催は木木曽町(教育委員会)です。
おもちゃ美術館は20年前に廃校になった小学校を減築した施設。
演奏するのは「元」体育館で高い天井と木造の建物が、信じられないほど豊かで心地よい響きを、演奏者もお客様も楽しめる「ホール」です。

 演奏に適した会場…日本にある多くのホールは、実は「多目的ホール」です。
講演会や落語などを「聴く」時には、残響が少なく「聞き取りやすい」音響がホールに求められます。
 打楽器の演奏の場合「音の切れ」が求めmられます。余韻が長いと「切れの悪い」印象になります。これは吹奏楽にも言えます。
 一方で弦楽器の演奏には「余韻」があってこそ!だと私は確信しています。
伝統的な日本家屋の多くは「土壁」や「ふすま」「畳」「低い木製天井」で、基本的には「吸音材」に囲まれている状態です。狭い部屋で音が響かないことは、長屋が多かった日本では「必須条件」だったのかも知れません。
 ヨーロッパの古い家屋は「石」「レンガ」の外壁が多く、天井も高く(身長が高いせい?)日本の「吸音」とは真逆に「音を反射する」部屋がほとんどです。
 こうした文化の違いもあり、日本のホールでは残響の短いホールが圧倒的に多いのが現状です。残響時間をコントロールできるホールも昔からあります。
 電気的な残響ではなく、ホールの天井や壁面に、残響の長さを変えるための構造物を作り、演奏内容や好みに応じて「ある程度」残響時間を変えられるホールです。
 当然のことですが、同じホールでも満席の場合には残響時間が短くなります。
演奏者の「位置」でも音響は変わります。ステージで聴こえる残響と、客席で聴こえる残響時間も違います。特に「大ホール」と呼ばれる大きな会場の場合、楽器の「直接音」を楽しむことは不可能です。壁・天井で何度も反射した「間接音」をステージから遠く離れた客席で聴くことになります。

 木曽おもちゃ美術館は、昔の体育館を改装した会場ですが「木の響き」」を楽しむことができる、とても希少なホールだと思います。ピアノも当時子供たちが使っていたであろう「アップライト」ですが、そんなことは気にならないほど、癒される響きがあります。
 今回も「聴いて疲れない」「初めて聴いても懐かしい」「口ずさめる」曲を選んで演奏します。陳昌鉉さんが木曽町でヴァイオリン制作を「独学」で始めたこともあり、木曽町の名誉帳面です。陳さんが亡くなられてからも陳さんの作られたヴィオラで演奏し続けている私が、木曽町が陳さんから譲り受けたヴァイオリン「木曽号」を使って演奏します。
 詳しくは、下のチラシをご覧ください。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽は技術だけで評価する芸術じゃないよ!

今回のテーマは音楽を演奏する・音楽を聴いて楽しむすべての人たちが共通に感じる「音楽の喜び」を言語化するものです。

 演奏の「うまい・へた」を点数化したり序列化したがる人がいます。私は「人の好み」こそが重要だと考えるので、機械的に技術=テクニックを競い合ったり、序列化することに疑問を持っています。むしろ、この序列化が音楽を純粋に・率直に「好き」と感ずる気持ちを阻害している気がしなりません。少なくとも先入観をあたえる「コンクールの順位」や「他人の評価」が音楽ファンを減らしていることは間違いないと思います。
 例えて言うなら、テレビが視聴率を優先して番組を組み立てることに似ています。人によって「見たい」と思う番組は違います。当然です。すべての人が満足する番組構成は不可能です。スポンサーがあっての放送です。一人でも多くの人が「見てくれる番組」を並べたいと思うのは仕方のないことです。それが「視聴率至上主義」を生みました。ある番組…例えば「旅もの」の視聴率が高ければ真似をする。「食レポもの」の人気があれば真似をする。「芸能人コメンテーター」が当たり前になったのもその一つです。どの放送局も「似たり寄ったり」個性のない番組ばかり。若者のテレビ離れの原因は?これではないでしょうか?

 他人の評価や流行を気にする民族性や文化は、国や時代によって大きく変わります。日本で考えれば「国民的ヒット曲」が消えてからすでに何十年経ったでしょう?
「流行」は他人の評価に影響される「集団心理」と、毎日いつもどこかで耳にする「刷り込み現象」によって、流行の度合いが決まります。ファッションも音楽も「個性を大切にする」より「誰かの真似」が圧倒的に簡単です。
 現代の日本では「誰かの真似」をする人が激減しました。ただ内心では「右に倣(なら)え」というのも日本人の気質です。偉い人の言う事・この大きな人に「従っていれば無難」と言うのも日本字的な考え方です。

 演奏の技術は「自分らしい音楽を表現するため」に高めるものです。人の真似をする技術も「技術」です。清水ミチコさんや、コロッケさんのような「特殊技術」は一朝一夕に身につけられる技術ではありません。観察力が並外れていなければ「本物」と「自分」を比較できません。ただ「真似」であることは事実です。「本物」があるから「真似」ができるのであって、本物が個性的だから「真似」を見ていて面白いのです。個性のない「本物」は誰も真似しないのです。
 個性的な演奏をするための「技術」は、まさに「個性的な技術」であり誰かと比較するものではありません。自分流の演奏方法、自分にしか出来ない技術を身に着けることこそが「技術の習得・修得」だと思います。

 音楽を聴く人にとって「うまいかへたか」を判断する能力や技術・経験は必要でしょうか?コンクールの審査員なら演奏技術を「比較する能力」は不可欠です。先述の通り「好み」を点数化したり序列化することは「脱個性」極論すれば「クローン化」することに近いものです。
コンクールで「いくつの音を失敗したか?」は機械でも数値化できます。人間が審査する必要はありません。
一曲で演奏する「何千」「何万」と言う音を、一度も失敗しないで演奏すると「満点」です。何回演奏しても、満点を出す「ロボット」が世界最高の演奏者ですね(笑)

 間違えない技術より、音楽を知らない人の心をつかむ演奏の方が大切だと思います。音楽評論家の「よいしょ」がなくても「好き」「良い」と感じる演奏があります。聴く人によって違うのです。それが「音楽」です。誰かが良いと言った音楽が「良い音楽」ではないのです。
 幼い子供が「間違えない演奏」をすると「神童」「天才」と呼ばれます。確かに指導者=大人の言った通りに、すべての音を演奏する「記憶力」と「労力」には脱帽します。それが「最高の演奏家」だとは思いません。指導者の考えた「表現と技術」を「真似」している子供を「天才演奏家」と言うのはどこか間違っている気がします。
 子供の純粋な「感覚」を引き出し、素材の美しさ=子供にしか出来ない演奏に「大人の穢れ(けがれ)」を加えないことが「大人の仕事」だと信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「仕事」を音楽的に考える 

 映像は「悲しみのクラウン」2台のカメラで撮影した映像を動画編集ソフトを使って編集したものです。音声も音声加工ソフトで音色や残響を編集しています。
 さて今回のテーマは社会人として生活する人の「仕事」を音楽を演奏する作業・日常に置き換えて考えるものです。
 どんな業種であれ「仕事」は誰かのために働くことです。
対価をお金でもらう場合も、そうでない場合…例えば家事全般を日常的にこなす人にとって、家事は立派な仕事です。
 それらの仕事を行う私たちは、その仕事が好きな場合・理想に近い場合もあれば「苦手な内容」だったり「我慢して」仕事をする場合もあります。
人によって価値観も違います。体力も能力も違います。その人にあった仕事が出来ない場合も珍しくないのが現実なのです。
 私自身の場合、音楽大学で教員免許を取得し卒業後に20年、私立中学校・高等学校で「音楽の先生」として働きました。当初2~3年で辞めて演奏活動を始めるつもりでしたが「生活のため」にやめるにやめられなくなっていました。
 そんな20年間で多くの事を学べました。特に「組織の中で働く」意味を知り、さらに「仕事のスキル」がどれほど重要なものかを学びました。
 組織で働く…これは「家族」という単位であっても大企業であっても基本は同じです。自分一人だけで仕事をする場合との違いです。一緒に働いたり生活した生活宇する「他人」との共同作業が不可欠です。自分だけの価値観や好みより「集団」で求められる価値観と目的を優先させなければ社会人として生活できません。自分の得意なことであれ苦手なことであれ、組織が求める仕事をするのが組織人としての最低限の仕事です。
 スキルの重要性。これは組織であれ個人であれ、仕事をする人にとって欠かすことのできないことです。如何に仕事を正確に、円滑に、能率的に行うか?それがスキルです。この「正確性」「適応性」「能率性」のどれかが下がれば結果としてスキルは下がります。自己評価だけが許されるのは「趣味の世界」です。仕事として何かをする場合、自己評価だけで「仕事をした」とは言えないのが社会のルールです。一緒に仕事をする人に対しても、あるいは取引先・納品先・対面するお客様が納得できるスキルがなければ「仕事をした」とは言えません。

 これらの「仕事」を音楽を演奏するための「練習・本番」に置き換えてみます。演奏は「趣味」であっても「プロ」であっても同じです。
 上記の「組織」「スキル」という点で考えた場合、組織は「アンサンブル」に当てはまります。「スキル」は個人の演奏技術・能力です。
誰かと一緒に音楽を演奏することは、ピアノ以外の楽器を演奏する場合には「当たり前」の事です。ピアノと一緒に演奏する。何人かで演奏する。一人で音楽が完成するピアノが特殊な楽器だと言えます。相手に「会わせる」事は単に演奏技術だけでは事足りません。思いやりや優しさ、寛容性。言ってみれば「人間性」が重要になります。
 ピアノ一台で演奏したとしても、演奏会でスタッフやお客様への「配慮」がない人は、演奏する資格を問われます。
 演奏のスキルアップ。これは「練習」に尽きます。仕事で考えればひとつの業務が「完了」するまでのすべての作業が練習に当てはまります。
 演奏の練習は楽譜を読むことから始まり、少しずつ・一歩ずつ、自分の目指す音楽を演奏できるように時間をかけて作り上げることです。
 妥協すれば、どこまでもスキルは下がります。逆に求める気持ちがあれば、スキルは無限に上がるものです。自己評価と「聴いてくれる人の評価」が近づくことを目標にすることが練習の「成果」を確かめる方法です。
 自分で「うまくいった」「失敗した」と評価する面と、聴いてくれた人が感じた内容を並べて「考える」ことが次のスキルアップにつながります。
 仕事でのスキルアップも同じです。仕事の相手が満足してくれているか?自分の仕事に問題はないか?を両立できなければ、スキルアップは望めません。

 音楽大学で真剣に音楽を学んだ学生を、一般企業がこぞって採用するようになってからずいぶん年月が流れました。昔は「音大卒はつぶしがきかない」と言われました。むしろ音大を出て一般企業で働くことが「恥ずかしい」と感じていた時代でもありました。そのプライドが災いし、企業側は「つかえない人材」と決めつけていたのだと思います。
 現実に音大で楽器の練習スキルを身に着けた学生は、一般企業で新しい仕事、業務内容に対しても短期間でスキルアップできる「テクニック」を持っています。それは一般の大学卒業生に比べて、はるかに高いスキルです。
 仕事をしながら楽器を演奏して楽しむ「趣味の演奏家」にとって、仕事は辛いもの・演奏は楽しいもの(笑)になりがちですが、両立させることで「いいとこどり」できるはずです。仕事のスキルと楽器の練習内容は、多くの人の場合「比例」するように思います。練習のうまい人は、どんな仕事でもスキルアップが早い。当然、個人差があります。その人なりの「生き方」があるように、許されるボーダーラインの中であれば、仕事は成立します。音楽も仕事も「楽しみながらこなせる」ことが何よりも重要だと思っています。
 命を懸けて…仕事をするのは間違っています(笑)命あっての仕事ですから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介