ガット弦?ナイロン弦?

今や大変多くの種類のヴァイオリン弦が手に入ります。
ネット上のブログなどを見ていると「ガット弦は調弦が狂いやすい」とか
「安定しない」などの
ガット弦<ナイロン弦
という個人の好みを目にします。あくまでも、その人の主観的な感覚なので
理論的な話とは違っています。

経験をもとに私の見解を。

ガット弦は良い音色が長く楽しめて、音色の幅も広いが、
少し高いことと、音色のコントロールに微細な技術を必要とする。

つまり、言い換えるとナイロン弦は、弾きやすく、少し安いが、良い音の出る寿命が短く、音色の変化量が少ない。

ブログで目にする「ガット弦は安定しない」というのは、実は弦を張ってから、常に少しずつ伸びている状況が長く(私の経験では3~4か月間)
その間の調弦が、当たり前ですが毎回必要です。
楽器を出すたびに調弦をする、あるいは、曲を弾くたびに調弦をするのが
私たちプロにとっては、何も特別なことではなく、むしろ当たり前で面倒だと感じることは一度もありません。

他方、ナイロン弦は弦が伸び切るまでに約1~2週間。この期間はとても素晴らしい音色と音量を楽しめます。
最もポピュラーなナイロン弦は、トマステーク社のドミナントでしょうね。
この弦のいい音が楽しめる「賞味期間」は、ずばり2週間です。
ある日を境に、突然、弦の余韻が極端に減衰します。解放弦で弦をはじいてみると、それまでの余韻と明らかに違う音になっているのですが、
多くのアマチュアヴァイオリニストはその余韻の違いに気づきません。
そして、この賞味期間を過ぎる(弦が伸び切った状態)と、
弦が切れるまで音色が変わりません。加えて調弦もほとんど、必要なくなります。

この状態を「安定した」というのは、はっきり言ってしまいますが
「寿命が切れてしまっただけ」なのです。

ガット弦は先ほど述べたように、3~4か月間、伸び続けます。
その間の音色は、少しずつですが劣化していきます。
ただ、
ナイロン弦よりもはるかに長い期間、良い音色を楽しめます。
さらに、音色の変化量、これは以前の投稿、「弓を操る」をご参照ください。
指、手首、肘、肩、首、背中の筋肉をコントロールして、
様々な音色を楽しみたいのなら、

アマチュアの方にもガット弦をお勧めします。

最後に、「ガット弦は切れやすい」という方がいらっしゃいますが、
調弦していて切るのは「アマチュア」だからです。
ガット弦が切れやすいのではなく、調弦がうまくできないから、切ってしまう可能性が増えるだけで、ガット弦がナイロン弦より切れやすいというのは

「間違い」です。

ぜひ、一度ガット弦をお試しあれ!!

野村謙介

私の個性的な「眼」

網膜色素変性症という治療法のない眼の病気です。
進行性の病気で原因も不明。多くの場合、失明に至ります。
その進行の速さや内容は人によって大きく違います。
日本だけでも約3万人の患者がいる「難病指定」の病気です。

私の場合、3歳ごろに夜盲の症状があって両親が気付き、この病名だとわかりました。
進行が遅かったので、20代までは夜盲症状以外、日常生活に支障がなかったので車の運転も、教員生活にも困ることはありませんでした。

45歳を過ぎたころから、視野の狭窄(見えない部分がどこかきまっていません)と夜盲の症状が進みました。
10年前は普通の大きさの楽譜を見ながら演奏することもできました。
次第に楽譜が見えずらくなり、A3サイズの紙横向きに数段の楽譜を拡大し、暗譜しながら弾くようになり、今はそれも辛くなり、21インチのタブレットに楽譜をアクロバットファイルにしたものを好きなだけ(笑)大きくして、覚えては弾く、覚えては弾くの繰り返しです。

そんな生活ですから、夜、駅前教室でレッスンが終わって、外に出る時は白い杖を持っています。
白い杖を持っていると「全盲」、つまりまったく光を感じられれない人だと思われるので、電話をしようと携帯を出したりすると「にせもの?」という目で見られてしまいます。「半盲」という言葉があります。私が今そうです。見えるものもあるが、見えないものが多い。
視覚障害1種2級の手帳も持っています。でも人から見て、どのくらい見えないのかはわからないのが現実です。

ステージが暗転するときややステージ袖。
私には「真っ暗闇」の世界で、光っている電球「だけ」が見えます。
そんな病気なのです。

その夜盲の私が幼いころから「夢」だったのが「夜見えるメガネ」
魔法のような世界、あったらいいな、ドラえもんに近い夢でした。

とうとう、できました。

メディカルウエラブルというメガネの形をしたカラーで透明な有機LEDディスプレイに高感度カメラの映像を映し出す道具。

12月に発売予定でしたが、さらに改良を加えるため、来年1月に量産のモデルを手にします。その前に、最新のプロトタイプ(試作品)をリサイタルまでにお借りすることになりました。

「0.5ルクスの明るさで歩くことができる」というお話。
この明るさは「月夜で街灯のない道の明るさ」だそうです。
私には街灯がどんなにあっても「街灯」だけしか見えませんが、このウエラブルを付けると真昼のように見えます。

まだ、厚労省が「補装具」として認めてくれないので全額負担です。
開発にかかった費用、高感度カメラの価格などを考えると40万円は高くないのです。むしろ、私たちの「目」がこの値段で買えるのなら。

楽譜はどうやっても見えないのは同じですから、少しでも見える間に、少しでも多くの曲を暗譜したいと思っています。

リサイタルで演奏する16曲。頭に書き込みました。
舞台から客席の皆様の顔が見えませんでした。暗いので。
今度のリサイタルでは皆様の表情が見えます。
気持ちよくお昼寝している方の表情や、喜んで腐っている方の表情が見える。
夢のようです。
リサイタルのステージに、似つかわしくないサングラスをして登場します。
そんなヴァイオリニスト、世界で今は一人です。楽しんで下さい。

野村謙介

師匠と弟子の関係

だいぶ前にも書いた記憶がありますが、今回は時代とともに変わる師弟関係について考えます。
先生と呼ばれる職業には、幼稚園や学校の教師、お医者さんがあります。
議員を「先生」と呼ぶ人もいますが私には違和感があります。

師匠と呼ばれる人の「職業」は様々です。落語家、舞踏家、いわゆる芸人なども思いつきます。
相撲部屋の「親方」は師匠なのかな?と迷ったりします。「親代わり」という意味合いでの親方という呼称なのでしょうね。大工さんにも親方っていますね。

さて、音楽の世界で「師匠」と呼ばれる人と、その「弟子」に当たる人の関係を考えます。
本来、師匠は弟子に「頼まれて」芸や技を教え、伝えるものだと思います。
師匠が「私の弟子になってください」と頼む光景は想像しにくいですよね。
自分がヴァイオリンを学ぼうと思い、技術を向上させたいと思ったとき、
あなたなら「誰に」技術を教えてもらいたいですか?
「誰でもよい」とは思わないのではありませんか?
「あのヴァイオリニストに習いたい」と思うのが「芸の世界」だと私は思っています。もちろん、例外もあります。私もその一人です。

両親がなんの予備知識もなく「有名だから」という理由だけで、私の師匠のお宅の門をたたきました。私はその先生(師匠)のお名前も存じ上げませんでした。それが私と久保田良作先生(師匠)との出会いです。
こんなことってあるんですね。案外多いのかもしれませんが。

話を戻して、自分の意志で師匠を選べる年齢であれば、自分で師匠に弟子入りをするのが礼儀だと思います。それが「芸事の常識」だと思います。

落語の世界で弟子入りし、「内弟子」として家の用事を手伝いながら住み込みで師匠の芸を「いつか教えてもらえる日」を待つ世界があります。
とても分かりやすい「師弟関係」です。
その師弟関係にも言葉にしない「契約」があると思います。
つまり、どんな師弟関係にも、「信頼」という契約がなければ、お互いに不幸な結果につながるのです。

音楽大学で学生にレッスンをする「教員」は、大学という組織の一員です。
その大学と先生の「契約」がまず、存在します。内容は様々ですよね。
その先生が教える学生は、先生と「師弟関係」と言えるのでしょうか?
これはすべての学生と先生に言えることですが、「大学の一員」という契約と、先生と生徒という関係が「師匠と弟子」という関係か否かという問題があると私は思います。

「権利と責任」は学生にも教員にもあります。その意味では「公平」な関係です。
一方で「師弟関係」は明らかに師匠が「上の立場」なのです。そういう契約なのです。弟子は師匠に逆らえません。どうしても我慢や納得が出来なければ、「破門」されるしか方法はありません。もちろん、師匠が常識的に考えて、許されないことを弟子にしたのならそれは別の問題ですが、多くの場合は、弟子が「耐える」のが芸事の世界だと思います。

大学生に話を戻すと、学生も先生も「お互いを選ぶ」権利を持っています。多少の制約はありますが、師弟関係の場合とは違います。大学という組織が決めたルールでお互いが巡り合います。

自分の望まない先生・自分の望まない生徒に巡り合ってしまった場合を考えます。
どちらも「不幸」です。ですが、それは大学が決めたルールの中で巡り合ったことなのでどちらも諦めるしかありません。
つまり、大学の場合は「師弟関係」としてお互いの信頼関係が成り立つか否かは、後になってからしかわからないということなのです。

学校を離れ、私的な立場で師匠を探し、門下として弟子入りするならば、師匠が「もう教えることはない」というまでは、弟子であるべきだと私は信じています。
弟子の立場で「もう習うことはない」と師匠の門下を離れ、違う師匠のもとに弟子入りするのは、個人的に嫌いなのです。はっきり書いてしまいましたが、自分自身が久保田良作先生という師匠に弟子入りして以来、他の先生に習いたいと思ったことがないので、正直に書きました。気分を害されたらすみません。

現代は信頼よりも契約が優先する時代です。要するに「気持ち」よりも「紙切れ」が大切だということなのです。
心のない演奏は音楽ではありません。
音楽を習うということは技術を習うのではなく、師匠の心を覗き見る努力をすることだと私は思っています。

野村謙介

レッスンを受けましょう!

レッスンをしている立場の私が書くと営業っぽく感じますが、
私たちプロの演奏家も、元をただせば「一人の生徒」でした。
レッスンで先生に習うことと、自学自習することの違いはなんでしょう?

ネットや書籍、教本を見るだけでも、楽器の音は出せます。曲も弾けます。
ならばレッスンを受ける必要なんてないように感じますね。
動画を見てプロの演奏技術を真似することも「できそう」に思えますね。

レッスンを受けて初めてわかることがあります。

それは、自分の演奏技術の問題点を見つけてもらえることです。
プロの真似をしたくても、どうすれば出来るのかわからないだけではありません。
自分の癖を指摘してもらいながら、自分の演奏を先生に聞いてもらう、
これだけは、独学では解決できません。

生徒さんの演奏技術を見極めて、生徒さんの出したい音、弾きたい曲を確かめながら、自宅での練習方法を伝え、次のレッスンで確認し、新しい課題を生徒さんに提示するのが私たち指導者の役割です。

指導者である私たちに求められるのは、技術とレッスン経験です。

どんなに演奏技術が高い(演奏が上手な)指導者でも、指導(レッスン)の経験が浅いと生徒さんに的確なレッスンはできません。
素晴らしい演奏家が素晴らしい指導者とは限りません。
レッスンを受ける先生を選ぶことは、とても難しいことです。
自分にあった先生であるか?はレッスンを受けてみなければわかりません。
同じ先生からレッスンを受けたからと言って、だれもが同じように上手になるとも限りません。生徒さんひとりひとり、違った環境があり、個性があるからです。
「才能の差」ではありません。どんな上手な演奏家でも違った個性があるのです。生徒さんから見れば、どんなプロもうまく見え、どんな先生も上手に演奏できるように見えます。その一人一人が異なった環境で育っているのです。みんな先生に習ってきたのです。

レッスンで指摘されたことを素直に受け止め、出来る限り自分で練習しましょう。
そしてまたレッスンを受けて、自分の練習内容が良かったのか、あるいは何が不足していたのかをまた、レッスンで教えてもらうのです。

習うだけではうまくなりません。

習ったことをできるように努力し続けることが一番大切です。

レッスンを受けることで、自分の練習の成果を確かめてもらい、これからの練習の課題を教えてもらえるのが、独学とは違う点なのです。

ぜひ、レッスンを受けてみてください。
きっと、自分ができなかったことの「理由」と出来るようになるための「道順」を教えてもらえるはずです。

野村謙介

練習の成果

「頑張って練習したのに‥‥」

以前にも書きましたが、「出来るようになった感覚が少しでもなければ練習したことにならない」と私は思っています。
その続きですが、今日の練習の成果を感じて楽器をしまって、次の日に同じ場所を弾いてみたら、昨日の練習の成果を感じられないという経験はありませんか?
練習の成果を例えるなら「薄い紙の積み重ね」です。

練習のたびに感じられる成果は、間違いなく「上達の成果」なのです。
まず、そのことに自信と確信を持つことが何よりも大切です。
そうでないと、「練習してもうまくならないのは、才能がないからだ」と思い込んでしまうからです。どんな上手に弾ける人でも、自分の演奏技術に不満があるものです。それを「自分だけ下手なんだ」と思ってしまったら、だれも演奏なんてできないですよね?

どうすれば、薄い紙の積み重ねを実感できるのか?

簡単に言えば、重ねる紙の枚数を増やすこと。そして、一枚の紙の厚みを少しでも増やすことです。

繰り返さなければ身体は自然に動きません。
「勝手に動いてしまう」のとは違います。
自分の思った通りに身体を動かせるようになるまでに必要な時間(紙の枚数)は、皆さんが思っているよりもずっと、ずっと多くの時間、多くの枚数が必要なのです。
どんな技術でも、考えなくても出来るようになるまでに時間がかかることは大人なら経験で知っていますよね?失敗を重ね、それでも繰り返すしかありません。
楽器の練習でも全く同じです。すぐに出来るようになることなど、ないと思えば良いのです。すぐに出来ないから、楽器の練習は面白いのです。

子供にレッスンをするときに「簡単にできちゃうゲームってつまらないよね?」そんな話をします。難しいから面白い。それがわかるまで、時間をかけるのも大切です。難しいから、いつまでもできないから「やめる」のは簡単です。それを乗り越えることこそが「練習」であり、乗り越えて見えてくるものが「練習の成果」なのだと、私は思っています。

野村謙介

左手と右手の分離

多くの生徒さんに見受けられる現象ですが、
片方の手の力を抜くと、もう一方の手の力も抜ける。
同じことは、力を入れる時にも起こります。
例えば、弦を指板まできちんと押し付ける左手の力を入れようとすると、弓を持つ右手にも無意識に力が入ってしまい、コントロールできなくなる。
また、違う例では、左手の指の形を崩すないように意識をすると、右手の指も無意識に硬直する。
右手の力を抜くと、左指の押さえ方が弱くなる。
初めてビブラートをかけようとすると、右手が勝手にダウンアップで動いてしまう。
そんな「無意識な連動」は人間にとって、ある意味では自然な運動です。
ただ、意識しなくてもできるようになると、それぞれの運動は独立します。
お箸を右手で持ち、左手が同じように動くことはないでしょう。
車の運転をしていても、両手が同時に動くことはないはずです。

なれない運動をすると連動する。

初めてドラムセットを両手両足を使って、それぞれの手足が「違うリズム」を演奏しようとすると、すべての手足が同じ動きをしてしまうものです。
私たちの脳から出る「命令」がそれぞれの筋肉を動かします。
「動かそう」と思えば思うほど、強い命令が他の手足にも出てしまいます。
慣れてくると、強く思わなくても、片手だけ、片足だけを動かしたり、走ったり、飛び跳ねたりできるようになります。

ヴァイオリンを演奏するときに、それぞれの手、指、腕、肩、背中を意識しながら「一つの運動」をすることから始めます。

例えば、左手の形、押さえ方だけを意識して修正したければ、右手に弓を持たず、ピチカートで弦をはじく練習も有効です。
右手の動きだけを確認したければ、左手は使わず解放弦で練習することがおすすめです。

二つの運動(右手と左手)を同時に練習するとき、同時に二つのことに集中することは、

不可能です。

ただ、注意することを「短い言葉」にして次々に違うことを注意することはできます。
コンピューターの「演算速度」に近いものです。同時に二つのことを考えるのではなく、短い周期でいくつかの「注意」を繰り返す方法です。

例えば「右手」「左手」「肩」「頭」「腰」「場所」「角度」「音程」「圧力」などの単語と、集中するべき運動を関連付けます。
一つの運動に長い時間、注意が行ってしまうと、他の運動がどんどん崩れます。そうならないように、短い言葉で注意を繰り返します。
「指」という単語で左手の指の押さえ方を直そうとし、
「小指」という単語で右手の小指を丸くしているかに集中する。
この二つの単語を交互に思いながら(必要なら声に出してみるとよいでしょう)曲を弾きます。
「頭」という言葉で頭の位置、重心を修正し、
「角度」で弓の直角を確認する。この二つを繰り返すのもひとつの方法。

要するに、何も考えないでも二つ以上のことがコントロールできるようになるまで、「口うるさく注意を繰り返す」ことです。

ひとつのことだけでもできません。

必ず生徒さんは答えます。
そうです。その一つひとつの難しさを知ったうえで、同時にいくつものことを無意識に、ある時は連動させ、あるときは独立させ、動かすのが「楽器の演奏」です。だからこそ、慣れが必要です。なれるまで、何日でも、何か月でも、何年でも時間をかけて繰り返しましょう。

「右手と左手はね。男と女と一緒なんだよ。わかる?」

大学生の時、久保田良作先生にレッスン中に言われた言葉です。
「????」当時、なんのことなのか、どんなジョークなのかさえわかりませんでした。
このネタは、子供には使えず、大人の生徒さんに使えば「セクハラ」になりますので、「格言」として私の中にしまっておきます。

というわけで今回はここまで。

野村謙介

弓を操る(最終回‥肘~肩)

ボウイングについての考察。
最後は、いわゆる「腕」の使い方について。

肘から手首までの前腕、肘から肩の関節までの上腕。そして、上腕を動かす、首と背中、主に肩甲骨周りの筋肉までを「腕」と考えます。
特に腕の付け根はどこ?と生徒に聞くと「肩」と答える人が多いのですが
実は肩の周りの筋肉も腕を動かすための筋肉です。

指から始めた話ですので、手首の次は肘の関節と前腕の使い方。
前回書いたように、掌を回転させる運動は前腕の回転です。
右肘の骨を反対の左手でつかみ、右手の掌を上、下に回転させてみてください。
肘の骨が動かないようにしても、掌が回せます。掌の回転は、弓の傾斜を変えられます。どの弦を弾くか。また、弦に圧力を加える仕事もできます。弓を弦から離すこともできます。
この前腕の回転運動に加え、肘の曲げ伸ばしの運動がダウン、アップの運動の主役になります。

弓先を使うとき、肘が伸びます。同時に手首の関節を左方向に曲げることで、弦と弓の毛の直角を保つ意識を持ちます。手首を上下方向に安直に曲げないで、出来るだけ掌と弓のスティックを平行に保つことを久保田先生は指導してくださいました。小指をスティックから出来るだけ離さないためにもこの手首の運動は重唱であることは前回書きました。

肘を直角に曲げたときに、手の指の形が一番「ニュートラル」の状態に出来ます。肘から右手の4本の指(親指以外)の第2関節までが「市間の板」のようになります。

肘の高さは‥

このニュートラルの状態で、肩から肘、肘から指の第2関節までが「1枚の板」の状態になるイメージで移弦します。この運動は「上腕」を上げ下げする運動です。肘を高くしすぎると手首と掌が下がりすぎ、腕の重さを弓に転化できません。下げすぎても同じように無理な力を使わないと腕の重さを利用できません。
肘の上下は弓中央から弓元にかけての「元半弓」でも利用します。
中央から弓元に移動するにつれ、肘を「上げる(身体から離す)」
元から中央に移動するにつれ、上がった肘を「下げる(身体に近づける)」
この運動は常に均一に動かすことが重要で、動きにムラがあると弓の圧力に大きな変化が起こり、弓がバウンドする原因になります。

肘は身体(お腹・胸の全面)より、常に「前方」に維持します。
この位置が前後に動くと弓を弦に対し直角に動かすことが困難になります。
身体の真横から誰かに見てもらい、ダウン、アップで肘が前後に動いていないか確認してもらうのが一番わかりやすい練習方法です。
肘(上腕)の上下運動は背中の筋肉を意識します。大切なことは

肘(上腕)は高くしても肩は上げない!

ことです。肩を首の方向(頭の方向)に引き寄せると方の関節が上方に上がります。首の筋肉に不要な力が入るうえ、自由な運動を妨げます。

常に肩を一番下げた状態で、肘(上腕)を上下に動かす練習が必要です。

弾く弦によって、弓の傾斜が変わり、肘の高さが変わります。さらに、元半弓を使うときはそこからさらに上方に上がります。

この複雑な運動は自分の眼で確認することは不可能です。
鏡を見ても、真横からの視点、真上からの視点はありません。

弓の動きを確認するうえで、最も大切なことは「音を聞く」ことです。
直角が崩れたときの音色、肘が高すぎたり低すぎたときの音色、移弦の際の雑音がないか。ダウンからアップ、アップからダウンになる瞬間の音色。

すべては音に現れますから、その音の特徴を聞き分ける集中力が必要です。
小さい子供に教える時は、実際に指、手首、肘、上腕に手を添えてあげることが最善の方法だと思います。大人の場合、弾きながら自分の身体の各部位を意識する練習が大切です。

長々と書きました。

言葉にすると、難しいですが、実際にボウイングすることはもっと難しいものです。

久保田先生の門下は、ボウイングが美しいと私は思っています。

美しいボウイングこそ、美しい音色を出す根源だと思っています。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

メリーミュージック代表
野村謙介

弓を操る(その弐‥手首編)

前回の指に引き続き、ボウイングの考え方です。
手首の関節は、掌を真下に向けた状態で左右と上下に動かせます。
左右に動かす自由度は上下に比べて少ないものです。左右と言っても実は「弧」描く円運動です。この運動をそのままボウイングに使うと、弓も直線的には動きません。弦と弓の毛が直角に接していることが、摩擦を最大限に引き出して良い音を出す基本ですから、この円運動はある意味で要注意です。

上下の運動は、肘から手首までの部分「前腕」を水平にしたとき、
脱力すると掌の重さで掌が下がります。掌(手の甲)を水平にすると前腕と手の甲が一直線(平ら)になります。さらに曲げると掌が少し上がり前を向く形になります。

ここで手首の関節だと勘違いしていることを一つ。
掌を前腕に対して。左右に回転させる動きは、手首の関節の動きではなく、前腕の回転運動によるものです。
例えていうと、ドアのノブを左右に回すときの運動です。手首を見てみるとわかりますが、親指側と小指側に骨があり、手首だけを回転させることは物理的に無理です。つまり、掌の回転(掌を上にしたり下に向けたりする運動)は手首の運動ではありません。

久保田先生は、この手首の上下の動きについて、
「前腕と手の甲を平らにする」ことを基準にするように指導されました。
時に弓の中央部‥右ひじが直角に曲げた時の弓の位置で、手の甲と前腕が曲がっていると怒られました。
弓元に来た時の手首の曲げ方については、後ほど「肘の使い方」で詳しく書きますが、多くのヴァイオリニストが手首を曲げ、弦と弓の直角を作るのに比べ、弓中央部の時の一直線の状態を保つように指導されました。

先弓に来た時、手首を安直に曲げ(へこませ)がちです。
先弓で弓の動き、圧力を自由にコントロールするために、手首の関節の「左右の動き」を使います。

弦と弓の毛を直角に保ちながら、手の甲を弓の傾斜(E線A線D線G線)と大きく変えないこと。

弓先で掌を安直に外側(身体に対し右側)に向けてしまうと、小指がスティックから遠くに離れてしまいます。この運動は「前腕の回転」です。手首の回転ではありません。具体的に例えます。

弓中央から弓先にダウンボウする場合です。
中央で一直線だった前腕と手の甲の「面の方向」を維持し、
弓先まで直角に肘を伸ばすとき、掌は身体から少しずつ前方に離れていきます。
その際に、手の甲(掌)の弓の毛との「面」を保ったまま、肘を伸ばします。
その時に、手首を前腕に対し左側に曲げます。窮屈な感覚、引っ張られる感覚があると思います。手首の左右運動が少ないほど、窮屈に感じます。でも、小指はスティックに乗せた状態を維持できます。
手首を上下に曲げ、前腕を左側(内側)に回転させると掌は、外(右方向)に向いてしまい、小指が何もできなくなります。

文字にすると複雑ですが、上腕と手の甲をできるだけ一直線にしたまま、ダウンで弓先まで伸ばし、小指をできる限り、弓から離さないことを意識します。

手首の柔軟性は上下運動より、左右の運動範囲を大きくできるようにすることが難しいのです。

指がついている掌(手の甲)の関節、その次の第二関節を耐雷にする。
「グー」をしたとき、手の甲と指が直角に近くなりますね。
「パー」をすると、手の甲と指先までが一直線になりますね。
「ひっかくぞ!」の手の指の曲げ方。手の甲と指の第二関節までを平らにする形です。
この形を保って弓を持つイメージ。難しいですが、久保田先生はこの形を毎回のレッスンで厳しく注意してくれていました。

実際に弓を動かす「肘(前腕)」と「肩から肘(上腕)」の動きはまた、次回。

弓を操る(その壱‥指編)

ヴァイオリンの音色を大きく左右する「運弓(ボウイング)」について。

演奏者それぞれに、弓の持ち方と腕の使い方は微妙に違います。
どの方法が正しいというお話ではありません。
弦をこすって音出す弓の毛。弓の毛を支え、指で持つためのスティック(弓本体)、弓の毛と弦との摩擦を作るための松脂(ロジン)
このシンプルな要素の弓を右手の指、掌、手首、手首から肘までの腕、肘から方の関節までの上腕、腕を支える首と背中の筋肉。それらを意識することはとても難しいことです。
当然のことですが、弓に触れているのは指ですが、指だけで弓を大きく動かすことは不可能です。ですが、指の関節の柔らかさと強さのバランスはとても重要です。
恩師久保田良作先生は弓の持ち方にこだわられました。
親指を曲げることは、力のかかる方向を考えれば曲げることが理にかなっています。
親指が、「てこ」の原理の一点になります。
弓の毛と弦が触れている部分も「一点」です。
そして、弓の毛と弦の摩擦を増やすためにかける「圧力」は、人差し指が、もう一つの点となります。
実は薬指も人差し指ほどの力はありませんが、圧力をかけることができます。
毛箱に薬指の腹を付け、スティックに対して上方(親指の力の方向と同じ向き)に引き上げることで、弱い圧力をかけることができます。
小指は「丸くする」ことを久保田先生は厳しく指導してくださいました。
人によって小指をほとんど使わない演奏方法や、小指を伸ばしたままの演奏方法も見受けられます。これが「悪い」とは思いません。
小指を丸くすることの意味の一つは、力の方向性です。
簡単に言えば、人差し指が圧力をかける役割をするのに対し、小指は圧力を弱める役割をします。これが、圧力を弱める時の「一点」になります。
親指との距離が長いほど、少ない力で圧力を弱くできるのは、てこの原理です。
圧力を弱くする必要なんてあるのか?と思う生徒さんもいるでしょうが、弓の重さ(約60グラム)を少し弱くしたり、弓を持ち上げてダウンを連続したりするときに、親指より外側(スクリューのある側)に力点がなければなりません。
薬指は先ほど「圧力をかける役割の補助」ができると書きましたが、実は真逆に「圧力を弱める役割の補助」もできます。小指の補助的な仕事です。
それらの指をすべて柔軟、かつ瞬発的な運動が出来るように意識し、関節と筋肉(腱)を動かします。
弓先になれば、小指が届きにくくなります。それでも、完全に離してしまわないことを久保田先生に習いました。これも必要な技術です。
そして弓元で小指と親指で圧力と弓の方向をコントロールすることがとても大切です。

弓をダウン、アップで動かすときに指を「必要以上に動かさない」こと。

実は私は学生時代、「関節を動かしてはいけない」と思い込んでいました。
実際には、指の関節と筋肉のコントロールで、より微細な弓の速度と圧力をコントロールできることを、リハビリを始めてから感じました。
ただし必要最低限!で。
手首から始まり、背中の筋肉に至るまでの使い方については、次の機会に!

お読みいただき、ありがとうございました。
野村謙介

練習の心得

「自分の好きな音で演奏できるようになりたい」
趣味として演奏を楽しむ方にも、仕事として演奏する私たちにも、共通の願いですね。
自分の好きな音が出せないという気持ちを、少し斜めから考えてみます。
そもそも「好きな音」は記憶に残っている外部から聞こえてきた音です。
自分の楽器を他の人が弾けば、全く違う音に聞こえます。
「先生が弾くと私の楽器もいい音がするんだけどなー」と幾度どなく生徒さんがおっしゃいます。

自分が楽器を構えて演奏しているときの音を冷静に聴くことが何よりも大切です。
どんな音が出ているのかを常に楽器に問いかけます。
少しだけ弾き方を変えて、また楽器の音に耳を澄まします。
楽器が「こんな音になるよ~」とあなたに答えてくれるはずです。

楽器を自分の技術でねじ伏せようとする人がたくさんいます。ちょっと楽器が可愛そうです。
力や技術で楽器より演奏する自分が「上」に立ってしまうと楽器はただの道具になってしまいます。

私たち演奏者自身の「筋肉」「関節」を自分自身がコントロールすることが一番難しいのです。

楽器を自分の身体の一部に感じるために、楽器と接する身体のどの部分もが、繊細な感覚を持っていなければ、楽器の響き、動きを感じ取ることができず、感じられなければコントロールすることもできないという、連鎖に陥ります。

楽器を構える前に、そして、音を出す前に、自分の身体の足先から頭のてっぺんまでのすべての部位を自分がコントロールできているか確かめてみましょう。

私の恩師、久保田良作先生の教えは「腰を安定させる」ことに大変厳しく、太ももに力を入れ、お尻の筋肉を内側に向かって力を入れ、つま先が少し浮くくらいのくるぶしに重心が来るように立ち、肩を下げ、あごを引き、頭を上に引っ張り上げる¨という「立ち方」にこだわったものでした。これはメニューインの指導書にも書かれていることです。

こうして立ちながら、楽器を構え、音を出すのはとても難しいことです。

音を出すことに神経が集中してしまいます。音に反応して体が硬くなります。

そうならないように、常に太ももと腹筋に力を集中することで、上半身の不要な力が抜けることが、やがて実感できるようになります。

姿勢は単にカッコよく見せるためにあるのではありません。自分の身体をコントロールするために大きな筋肉である太もも、足、おなかに力を集中し、首、上腕、手首、指の力を「必要最低限」に使うことが大切なのだと、この年になって感じるようになりました

話を戻し、自分の好きな音を感じられるようなるまでの道は、とても長いものです。言い換えれば、どんなに練習してもたどり着けない「見えない頂上」です。でも、だからと言って、諦めたらそこで終わりです。

かといってストレスだけを感じながら練習するのは意味がありません。

少しでも自分の好きな音を出すために、時間をかけて楽器と対話し続けること。

それこそが、楽器と仲良くなることの意味だと思います。

生徒の皆さんと同じように、私も日々自分の音を探し続けています。

頑張りましょう!

メリーミュージック

野村謙介