文字を音読するように楽譜を音にする

 映像はファリャ作曲の「スペイン舞曲」をデュオリサイタルで演奏したときのものです。テンポの速い曲を演奏する際、違う言い方をすれば「速く演奏しようとする場合にうまく演奏できない!という生徒さんがたくさんおられます。
 今回の例えは、文字=文章を声に出して読むことと、楽譜を音にすることを比較して考えてみます。それが「速く弾く」ことの一助になればと思います。

 原稿を覚えてから声にすることができる場合と、原稿を読みながら話をする場合があります。前者は例えば役者さんの「せりふ」です。後者の例えは、臨時ニュースの原稿を読むアナウンサーや、披露宴でスピーチする時に忘れたり間違ったりしないように「原稿」を読む場合などです。
 覚えている言葉を、思い出しながら声にする時でも、原稿をその場で読んで声にするときでも「次に話す文や単語」を考えながら、声にしているまずです。
つまり「声にしている文字」と「読んでいる(思い出している)文字」の関係は、常に「時間差」があることになります。しかも、読んだり思い出しているのは「文字」ではなく意味のある「単語」やもう少し長い「文」のはずなのです。
一文字ずつ目で見ながら声にするのは、文字を覚えたての幼児です。

 私たちが楽譜を見て演奏したり、覚えた音楽を思い出しながら演奏する時に話を変えます。初めて見る楽譜を音にすることを「初見演奏」と言います。この能力がないとプロの演奏家として認められないのがクラシック音楽業界です。ジャズやポピュラー音楽の場合には楽譜が読めない「プロ」がいても珍しくありません。初見で演奏する練習は、ソルフェージュの練習が最も効果的です。
ソルフェージュ能力がなければ初見演奏は不可能です。
「先を読みながら演奏する」そして「止まらないで正確に読む」ことが初見の能力です。美しい声や音で演奏することよりも、まず「正確に止まらずに」演奏することを優先します。この能力は、プロのアナウンサーにも求められます。楽譜ではなく「原稿」ですが(笑)
 どれだけ先を読めるか?当然のことですが、先を読むと言うことは「記憶する」ことです。つまり短時間、多くの場合数秒から10秒程度の時間に、どれだけの楽譜=文字を頭に記憶していられるか?と言う能力です。長時間の記憶とは「脳」の使われる場所が違います。その短時間の記憶を「思い出して声=音にしながら」さらに「次の楽譜・原稿を記憶する」ことを同時に行っています。
 「できるわけがない!」と思いがちですが、日本語の文書を音読している時に、私たちが無意識に行っていることです。

 これはある情報ですが、字幕は、1秒4文字、1行16文字で2行まで。つまり1枚の字幕に収める字数は最大32文字だそうです。字幕映画や、動画の説明テロップで文字が読み切れないことって経験、ありますよね?1秒間に4文字より早く読む技術を「速読」と言います。。速読力(1万字/分以上)だそうです。え?10,000文字÷60秒=約166.667文字!一秒間に166文字読めるのが速読…特殊なトレーニングで得られる能力だそうです。通常が4文字だとそれば、40倍の文字数を呼んでいることになります。
 楽譜を見ながら演奏している時、音符の数を数えながら演奏する人はいません(笑)あなたは「どのくらい」先を読めますか?

 ピアニストの浩子さんに聞きました(笑)
「和音を見る時、漢字を読むのと同じように見ている」
つまり、重なって書かれている和音を「一つの塊」として認識しているという意味です。それができない私がピアノで和音をひこうとすると…低い音から順番に「ド…ソ…ド…ミ・ソ」(笑)この違いを「漢字」に例えると理解できます。
とは言え、和音が連続している楽譜の初見と、単音の初見では読み込める速さには多少の差はあるようです。実際、1小節くらい先を読んでいる…あまりどこまで読んでいるかの指揮はないのですが、速い曲の場合には当然「どんどん読む」ことが必要っです。
 整地すると次のようになります。
・一度=短時間に読み込める音符を増やす
・記憶できる容量=音符の数・時間を増やす
ことが重要です。その「コツ」は?
・楽譜を「かたまり」として読み込む
・予測できる音を増やす=音階(順次進行)やアルペジオなど
・臨時記号やリズムを記憶する
そして、楽譜特有の「壁」もあります。
・どの弦のどの指で弾くのかを瞬間的に判断する能力
・スラーやスタッカートを読み込めるか?
これらば「正確に弾く」に加えた情報です。文字で言うなら漢字の「読み方」を前後関係の意味を考えて「声」にする能力です。「一期一会」を「いっきいっかい」とアナウンサーが読め放送事故ですよね?(笑)

 最後に「処理速度」の話です。
私たちは、楽譜を見ながら演奏する時も、覚えたものを思い出しながら演奏する時も、常に「次に演奏する音たち」を予め考え準備する「処理」をする必要があります。音の高さ=音名だけではなく、音量や音色、弓を使う場所やダウン・アップ、使う弦と指、ビブラートなどの「情報」も同時に処理しなければなりません。「音読」に置き換えれば、アクセントや言葉の切れ目、漢字の読み方などに似ています。それらの情報を処理する時、一度にどれだけの音符=時間を予め処理できるか?が、「速く演奏する」ための必須要件になります。
 速く演奏することは「処理の速度と量を増やす」ことです。一音ずつ処理できる速度には限界があります。
 例えば、16分音符が4つずつ、4つのかたまりで書かれている曲の場合です。
・一つずつ音符を読みながら=思い出して演奏するのが一番「遅い」
・4つの音符を一度に処理できれば、速い
・かたまりを一度に2つ、あるいはそれ以上処理できればもっと速く演奏できる
演奏しながら、どこまで?先を思出せるか…にかかっています。
F1のパイロット=ドライバーは、時速300キロで走行しながら、次にいつ?どんな?カーブがあるのかを、事前に知っているから走れるのです。彼らはコースを「暗譜」しています。イメージだけでコースを走れます。眼をつむっていても、頭の中でコースを走れます。ただ、同時に走る車の動きや、雨などでイメージ通りにいかない「変化」に対応することが「処理」なのです。運動神経や動体視力が優れているのは「当然」のことだそうです。記憶力と処理速度が求められます。
 先を読みながら、今演奏している音に集中する「マルチタスク=同時並行処理」が必要なのです。だからこそ、私たちは演奏中の集中力が必要なのです。ひとつの事だけを考えることではありません。「無意識」に運動できる能力=予め思い出した内容の処理と、次に演奏する楽譜を処理する「意識」を両立させることです。
 意識と無意識の「使い分け」でもあります。頭を空っぽにして演奏できるようになるまで、意識しながら演奏することを繰り返す…それしかありません。それでも、アクシデントはあるものです。間違うのが人間です。間違えた時にでも対応できる「フェールセーフ・多重安全性」があれば、大丈夫です!
 移管をかけて、頑張りましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

知る・知らない・できる・できない

 映像は、ムターさんの演奏するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。
私も含め多くのヴァイオリンを「もっとじょうずにひきたい」と思う人にとって、じょうずな人の演奏に近づくことは、道順もわからずただ漠然とした「目的地」に向かって歩くことに似ています。どんな上手な人も、みんな違う道順で現在の「到達地点」にいるはずです。道順を真似しても同じ場所に着かないのが演奏です。でも、迷える私には「道順」だけでも知りたいと感じます。
 今回のテーマは、知識=考えることで「知る」ことと、身体と知識を使って「できる」ことにつていお案が得るものです。

 知っていることとできることの関係について、考えてみます。
演奏以外で例えると例えば「料理」もその一つです。レシピを見て材料を買って調理する…簡単そうですが、レシピがおおざっぱだと、出来上がるものに大きな差が出来ます。材料の選び方を「知る」ことができるか?調味料の種類や量を「知る」こと、調理途中の確認の仕方を「知る」、火をとめるタイミングを「知る」ことが出来なければ、レシピの意味はありません。
 違う例えで「ゲーム」を考えます。カードゲームや囲碁、将棋、テレビゲームなど多くのゲームがあります。それぞれに「必勝法」や「負けにくい方法」があります。それらを「知る」ことで強くなることが可能です。知らなければ、知っている人にいつも負けます。
 楽器の演奏に話を戻します。自分よりじょうずな人の演奏を「知る」ことと、自分の演奏との違いを「知る」ことから始まります。
 自分の演奏にすでに満足している人なら、自分以外の演奏を知る必要もありません。新しい曲を知る必要もありません。それが悪いとは思いません。
 一方で、自分以外の演奏をたくさん聴き、好きな演奏、あこがれる演奏、ひいてみたい曲を探す「楽しみ」を持つ人がいます。私もその一人です。
 あこがれる演奏を知ったからすぐにできる…と言うものではありません。当たり前です(笑)
どうやったら?あこがれる演奏が出来るようになるのかを「知る」ことが始まります。その方法こそが先述の「道順」です。つまり、道順が全員違い「この方法=道順で出来る」という正解がありません。それでも「知りたい」のです。
 まず自分の演奏の欠点を「知る」ことです。自分の演奏=音と音楽を客観的に「聴くこと」ができなければ始まりません。まずは音を聴くことです。
 音のほとんどは、自分の「技術」で作られた結果です。楽器に問題がある場合もありえます。その雑音の原因を「知る」ことも必要な知識です。弦がさびている場合、はじいた時に濁った音が出ます。E線などのアジャスターが緩んでいる場合の「雑音」、顎当てとテールピースが当たって起こる「雑音」、駒が低く指板が高すぎて弦と指板が当たって起こる「雑音」、自分の洋服のボタンが裏板にあたって起こる「雑音」などなど。雑音の原因を知ることも大切ですね。
 自分の演奏する音をどうすれば客観的に聴くことができるでしょうか?
一番手近な方法が「録音」して聴き直すことです。「録音した音は音色が変わる」のは事実ですが、ひいていて気付かない「癖」や「雑音」を、演奏した後で何度でも確かめられる「録音」は上達のために欠かせない手段だと言えます。

 できる…と言う感覚について考えます。知ることと比べ、出来ているか否かの判断はとても難しい点があります。自分の「基準」と「妥協」の問題です。
理想=憧れの演奏と自分の演奏を比較して、100パーセント完全に同じに「できる」…人はきっと誰もいません(笑)それが現実です。近づくことさえ難しいのです。だからと言って「無理」の一言で諦めるのも寂しいですよね?
 自分の演奏が少しでも良くなったと感じることを「出来るようになってきた」と認めることも上達のために必要だと思います。
 できないことを知る→それを、出来るようにする方法を知る→練習し少しでもできるようになる→まだ出来ていないことと新しくできなくなっていることがないかを知る→練習する
 常に「知る」ことと「出来るようにする」ことの繰り返しです。
その途中で陥りやすい「落とし穴」もあります。無意識に「引き算」をしてしまうことです。何かを出来るようにしようとすればするほど、その他のことへの集中力が下がります。
 具体的な例で言えば、ある音をうまく演奏「できない」から練習している時、その音に至るまでの「音」が汚くなっていたり、ピッチがくるっていることに「気付かない」状態です。また、できない内容が「ピッチ」の場合、音色や音量への集中力が「引き算」されている場合もあります。練習は常に「足し算」であるべきです。ひとつのことを練習している時に、その他のことを「犠牲」にしないことです。それを「妥協」とは言いません。妥協が必要なのは「練習内容のバランス」を考える時です。曲全体を止まらずに演奏するための「練習」と、少しでも疑問を感じた時に止まって確認する「練習」は区別しバランスを考える必要があります。それぞれに「妥協」が必要になります。特に止まらない練習では、疑問を感じても次の音に集中するため、どこで失敗したのか?覚えていられないことがほとんどですから、録音して確認することが有意義になります。止まって確認する練習には「時間をかけすぎる」場合が多く、結果的に曲全体の練習にならない危険性もあります。

 最後に「知らないことは出来ない」事を書きます。
言い換えれば、出来るようになるためには、知ることが不可欠だという事です。
 知ることを「知識」、できることを「運動」と置き換えてみます。
知識と運動を「比例するもの」として考えることが大切です。
頭でっかち…は知識ばかりのひとを言います。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…は運動だけで偶然うまく出来るのを待つ人です。
ふたつが比例していることが何よりも大切なことです。
成功することをただ祈っても無駄です。考えているだけでは出来るようになりません。自分の練習が、知識・運動のどちらかに偏っていないか?確認しながら練習するために、誰かに自分の練習をみてもらうのも良い練習方法です。ただ、練習は見られたくないのが人間です(笑)子供でもそれは同じです。親が「良かれと思って」練習中のこどもに声をかけても「わかってるよ!うるさいなー!」と言われるのは(笑)子供なりに「みられたくない」と言う気持ちがあるからです。それを理解した上で子供と接することが大切です。
 大人になればなるほど、練習に行き詰るものです。その時にアドヴァイスをくれる人こそが「師匠」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

運動を正確に再現する技術

https://youtube.com/watch?v=UJB3Hmu_Tas

 思ったように演奏できない!
間違えずに=正確に 思った速さで 思った大きさで 思った音色で
自分の身体を使って、使い慣れた楽器なのに、思ったように演奏できないと感じることは、楽器を演奏したことのある人ならきっと全員が感じたことのある「ストレス」です。
 自分が出来ないことを他の人が「できている」演奏を聴いたこともありますよね?誰もできないことなら諦めもつきます(笑)出来ている人は「簡単そうに」演奏していることも珍しくありません。その人が「すごい人」だからできる…と言うのも間違ってはいません。では「できない自分」は?なにが「できる人」と違うのでしょう?指の数?(笑)
思いつく「言い訳」を書き並べてみます。
・自分に才能がない
・手が小さい=指が短い
・楽器を練習し始めた時期が遅い
・親に音楽の才能がなかった
・楽器が悪い=良い楽器を買えない
・練習する時間が足りない
・先生の教え方が悪い
・うまい人は特殊な人間、もしくは神
 他にも色々思いつきます。すべてが「言い訳」ですが(笑)
実際に上記のいくつかに当てはまる場合も十分に考えられますが、「できる人」でも同様に当てはまっているかもしれません。知らないだけです。
 できない理由…できる人がいるのに自分にできない理由が必ずあります。
すべての「できない」に言えることではなくても、原因はいくつかに絞られます。

 ここでは「運動」に限った話をします。音楽的な表現能力や、独特な解釈など運動能力とは違う「できる・できない」話は時を改めて。
 スポーツに例えて考えてみます。
・同じ体格の人でも、100メートルを走る時間が違います。
・バスケットボールでフリースロー成功率の高い人と低い人がいます。
・野球のバッターで打率が3割を超える人と2割台の人がいます。
・ボクシングで強い人と弱い人がいます。
当たり前ですが、人それぞれに骨格も筋力も違います。育った環境も違います。
昔と今ではトレーニング方法も変わっています。同じ「人間」の運動能力の違いこそが、演奏の技術の違いに現れます。楽器を演奏する時の運動を制御=コントロールする能力を高める練習は「質と量」によって結果が大きく違います。
 スポーツの場合、練習の結果が数値化できる教具種目と、対戦する相手との「相対比較」で結果が出る種目があります。演奏の場合には、音量と音色を正確にコントロールできているか?という「自分の中での比較」と他人の演奏技術との「違い」の両面を考える必要があります。
 自分の練習方法に対して見直すことを忘れがちです。出来ないと思えば思うほど、冷静さを失いがちです。出来るようになるまでの「回数=時間」は、一回ごとの「質」で決まります。ただやみくもに運動だけを「意地」になって繰り返すのは能率が良くありません。
 ある小節で思ったように演奏できない「確率」が高い場合=正確さに欠ける場合、原因を考えることが先決です。それが「力の加減」だったり「手や指の形」だったり、「無意識の運動=癖」だったりします。「これかな?」と試しても成功する確率が劇的に増える=改善するとは限りません。
 一曲を演奏する間、あるいは一回のコンサートで演奏するすべての曲の中で「傷」になりそうな場所が複数か所、あるのが普通です。それら以外にも普段は何気なく演奏できる箇所で、思いがけない「傷」になることもあり得ます。
 そうしたアクシデントの確立を減らすためにも、演奏中に使う自分の身体を観察する練習が重要です。運動と演奏は「意思」によって関連づきます。無意識の運動は、常に不安定要素を伴い音楽も不安定になります。「行き当たりばったり」の連続は再現性がありません。偶然、傷が目立たなかったとしても演奏者自身の納得できる演奏ではないはずです。
 記録や勝敗を「競う」スポーツと違う音楽は、自分の納得できる演奏を目指し練習し、より安定した演奏を楽しむものです。自分自身との自問自答を繰り返し、焦らず客観的に完成度を高めていきたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「A」である前に、ひとりの「B人」として。

 今回のテーマ、どこかの学習塾の問題っぽい(笑)ですが、
Aに当てはまる言葉、Bに何も入れなくても「人」でも意味は通じます。
あなたならどんな言葉を入れますか?
・A=音楽家 B=社会・日本
・A=政治家
・A=大統領
などなど。色々考えられます。
 モラルは時代や国・地域によって違います。
たとえばヨーロッパでは昔、道路の真ん中を下水が流れていました。
日本の歴史の中でも、「仇討ち」が合法だった時代や、召集令状一枚でお国のために(謎)命を捨てることが美しいとされた悲しい時代もありました。
 2022年の日本に生きる私たち日本人が、最低限守るべき「モラル」があります。言い換えれば、許されない一線があります。
 「変わった人」と感じる人と、「変人・変質者」と感じる人の差はどこにあるでしょうか?この差こそがモラルハザードです。例えていうなら、誰にも迷惑をかけないコレクター=収集家は「変わった人」と言われるかもしれませんが、何も問題はありません。誰が考えても「ゴミ」にしか思えないものを拾い集めて自宅の敷地に積み上げる「ゴミや指揮」が他人に迷惑をかければ「変人」と言われても仕方ありません。
 日本の政治家で例えるなら、公務員としての責務を果たしながら自分の主義を持つ人は許されます。納税者=市民を苦しめる行動や言動は許されません。
 音楽の場合…

 「音楽家は変わった人が多い」と思われているようです(笑)
音楽家に限らず「芸術家」と呼ばれる人の中にかなりの割合で一般の人の考え方・生活スタイルと「少し」違う人もいるように感じます(笑)
ひとつの原因として、自分の好きなこと=芸術を優先している人が多いことが考えられます。経済的に貧しくても好きな事をできる「喜び」を感じる人でもあります。
 また別の要因として「●●バカ」と言われる人が多い=一般常識が欠如している人が多いのも事実かも知れません。「音楽家の常識=世間の非常識」とか。
 「音楽バカ」であっても他人に迷惑をかけない・不快な思いをさせないのであれば、何も問題はありません。ただ…残念ながら、他人への思いやりも考えられない「真正のバカ」になってしまう音楽家も中にはいるように感じます。
 自分が打ち込んできた…人生をかけてきた芸術に「誇り」を持つことは素晴らしいことですよね。ただそれは、本人だけの誇りであって他人に理解してもらえることではないことを理解できない人もいます。世間一般では「自惚れ屋・じこまん野郎」と呼ばれる人種です。周囲にいる友人も若いころなら「それ思いあがりだろ?」と釘をさしてあげますが、ある年齢を過ぎれば「放置」しますよね(笑)放置されていることに気付かないのも哀れな「裸の王様」の姿です。

 テーマにある「人として」が何よりも大切です。ひとりひとり、その考え方に差があるのは否めません。「ここまでなら許される」と感じるボーダーラインが違います。「みんなも守っていないから」と速度違反をする場合が、まさにそれです。人として「法を守る」ことについての意識には差があります。
 法には触れなくても「それって、どう?」と思う事があります。
言葉遣いと態度。これ、法律には書かれてません(笑)が、相手に不快な印象を与える「かも知れない」言葉遣いや態度を、平然としている人っていますよね?
元総理大臣にも心当たりが…。ま、それは老いて老いて←楽しい誤変換。

 音楽家の日常「あるある」
・他人との待ち合わせの約束を平気ですっぽかす奴
・他人との練習予定をキャンセルするのに見え見えの嘘をつく奴
・自分の責任にされないように巧妙に他人のせいにする奴
・相手によって言葉遣いと態度を使い分ける最低な奴
・金銭感覚の麻痺した奴
・常に自分が一番偉いと思って行動するイタイ奴
・さらってないのに人前で演奏して「ばれなきゃいい」と心でつぶやく奴
・ギャラの金額でさらう量を変える糞な奴

 え~っと。そんな音楽家にならないように気を付けましょう(笑)
少なくとも、お天道様が見ています!人の道に外れない生き方をしてこそ、「●●家」と呼ばれるに値する「人間」だと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

曲が好き?音が好き?

 映像はチェリスト宮田大さんと作曲者である村松崇継さんのピアノによる「Earth」
 今回のテーマは主に「聴く側」に立って考えるものです。もちろん、演奏する立場の人にとって、最も重要なことでもあります。

 どんな曲でも、どんな演奏でも「音=サウンド」と「曲=旋律・ハーモニー・テンポ」が統合された「音楽」が作られています。
 音だけでは音楽とは言えません。音のない音楽もありません。
私は「曲」が好きな音楽と、演奏された「音」が好きな音楽が明確に異なっています。
 前者の「曲が好き」と言うひとつの例えが、以前のブログにも登場した「お気に入り」の曲たちです。

 誰の演奏?と言うよりも曲が好きなんです(笑)聴いていてゾクゾクする感じ。これらの「好きな曲」を「好きな音」で聴くことが最高の幸せでもあります。

 次に「好きな音」について。こちらは音楽のジャンルに関わらず、自分の好きな「サウンド」とも言えます。音楽以外でも例えば、浜辺で聴く波が打ち寄せる音…木立の中で聴く枝と葉がざわめく音…焚火で木がはじける音…など、自然界にも自分の好きなサウンドはあります。心が休まる「音」です。嫌な音もありますよね?黒板を爪でひっかく音…歯医者さんのあの!音…ガラス同士がこすれあう音…バイクの排気音←私は好きですが(笑)など、生理的な「好き嫌い」でもあります。
 音楽の中で使われる「音」には、様々な楽器の音と人間の歌声が含まれている場合があります。複数の違った「音」例えば人間の声とピアノ、ヴァイオリンとピアノ、エレキギターやドラムと歌声の「混ざった音」にも、好きな音と嫌いな音があります。演奏の技術という一面もあります。特に、前述のように複数の音が混ざっている場合に「この音は嫌い」と言う音が含まれている場合も珍しくありません。
 わかりやすい例で言えば、歌手の歌声は好きだがバックのバンドの音が大きすぎて嫌い!とか、ヴァイオリンの独奏の音は好き!でも共演するオーケストラの中のチェロの音がうるさくて嫌い!などなど。

 好みの問題であることは当然のことです。人によって違います。
演奏する人が好きな曲を好きな音で「音楽」にしていることが、まず前提です。
思ったように演奏できなかったとしても、最大限の努力をして好きな「音」にするのが演奏者の仕事だと思います。曲を指定される場合もあります。特にプロの場合、主催する側から「この曲を演奏してください」と言われれば、断るのはとても難しいことです。「その曲、ひけません」と言えば「では違う演奏者にお願いするので結構です」になり、以後演奏以来は来ません。演奏者自身が嫌いな「曲」だったとしても、主催者からのオファーがあれば演奏するしかありません。断ることができるのは、「断ってもその後の仕事に困らない地位」を確立したソリストに限定されるのではないでしょうか?
 話がそれましたが、自分(たち)で選んだ好きな曲を、好きな音で演奏する努力=練習を積み重ねる過程で、その音を聴く人にどう?聴こえるか、どんな印象の音に聴こえるか?を確かめる作業が必要だと思っています。得てして、自分の好きな音を目指して練習すると、自分の好きな音を「みんなも好き」と思い込みがちです。とても危険なことだと思います。
 ラーメン屋さんを開こうとするひとが、自分の好きなラーメンを作り上げる努力をする過程で、絶対!?誰かに食べてもらって感想を求めるのではないでしょうか?どんなに自信家であっても、自分の舌だけを100パーセント信じてラーメン屋をオープンすることはあり得ないと思うのです。
 演奏者が自分(たち)の演奏を演奏会で多くのお客様に聴いてもらう前に、信頼できる複数の人の「感想」を謙虚に聞き入れて、修正することは必要なことだと思っています。仮にある人が自分の好みの真逆だったとしても、それも現実として受け入れることができなければ、ただの自己満足にしか過ぎないと思います。
 一人だけで演奏する場合と違い、複数の演奏者で演奏する場合の「音」は混ざり合ってお客様に届きます。その混ざり具合を演奏者がリアルタイムに確かめることは不可能です。録音して確かめるか、誰かに聞いてもらうしか方法はありません。バランス、客席の位置による聴こえ方の違いを確かめるには、演奏会場で確かめるしかありません。会場が変わればすべてが変わります。厳密に言ってしまえば、リハーサル時と満席になった時点での残響=響き方は全く違います。さらに空調によっても音の「流れ」が生まれます。少なくとも、リハーサル時に自分の耳で客席で聴こえる音を確かめ、自分の演奏を誰かに聞いてもらうことが必要だと思っています。

 聴く側にすれば、自分の好きな曲=プログラムの演奏会を選びます。
わざわざ嫌いな曲の演奏を聴こうとは思いません。知らない曲の場合には、期待と不安があります。
 聴いた音が自分の好みの音であれば、幸せな時間を過ごせます。自分の予想していなかった「嫌な音」だったとすれば、途中で席を立てない「苦痛」を耐える時間になってしまいます。
 演奏する人の「限界」があります。それはすべての人の好みに応えることは不可能だという事です。だからこそ、一人でも多くの自分以外の「感想」を予め聴くことが大切だと思うのです。出来れば正直な感想を言ってくれる人が理想です。「うん。きれいきれい」とか「問題ないと思う」と言われるのが普通です。
「こう弾いたらどう?」と音量のバランスを意図的に変えてみたり、立ち位置を変えてみたりすれば、「前のだと●●だな~」とか「それだとヴァイオリン頑張りすぎ」などの率直な感想をもらえるものです。そんな工夫も大切だと思います。
 演奏者と聴く人が「幸せ」な気持ちで最後まで過ごせるコンサート、
私たちの理想のコンサートです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏を自己評価すること

 映像はデュオリサイタル5、代々木上原ムジカーザでのサン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」です。
生徒さんが発表会で緊張して「失敗した」と感じる話を毎回のようにお聞きします。「今度こそは」という決意表明も「あるある」です(笑)
 そんな生徒さんたちに私がお話するのは
・緊張することは自然なことで悪い事では決してないこと。
・自分の評価の「ボーダーライン」は自分だけにしかわからない。
・失敗の記憶が強く残るもの。演奏を後で見返すと違う「良さ」もある。
・「成功」と「失敗」は相対=比率の問題。
・失敗しない演奏を目標にしてはいけないこと。
これ以外にも生徒さんの性格によっては、もっといろいろなアドヴァイスをすることも珍しくありません。要するに、一人一人が自分の演奏について「自分なりの評価」があって、多くの場合「傷」や「失敗」を減らすことにばかりに気持ちが向いてしまう事です。自分の演奏の「良さ」を見つけることを例えれば…
・草原で四つ葉のクローバーを見つける難しさ。
・壊れた部品に紛れている、使える部品を探す難しさ。
・苦手な相手の良いところを見つける難しさ。
・悪い点数のテストの答案用紙を見返して出来ている問題を見直すこと。
自分が「ダメだ」「できない」と思うこと・認めることが「上達・成長」のスタート地点です。すべてが出来ていると思い込めば、それ以上の上達や成長はないのです。
 同時に「良い部分」を見逃してしまえば、成長の妨げになります。
言い換えればできないことと、出来ていることの「違い」を見つけることが何よりも大切だと思うのです。自分の演奏に「良いところなどない!」と思う人にも共感できる私です(笑)自分の演奏の動画に自分で点数を付ければ「不合格」しかありません。それでも自分で見返すこと。他人の素晴らしい演奏と見比べること。まるで「ガマの油」ですが、上達するために必要な「試練」だと思っています。

 演奏する曲の長さ、曲数によって練習時間=量も変わります。
演奏する曲が増えると何よりも「集中力」を持続することが難しくなります。
もっと正確に言えば、演奏する瞬間=一音ごとの「イメージ=注意書き」が増えることで、頭の中の記憶と運動の記憶を呼び戻すことが難しくなっていきます。
極端に言えば「一音だけ」演奏する場合と、1曲3ページの小品を演奏する場合の「音符の数」の違いです。一音で終わる曲はありませんが、単純にページ数が増えれば演奏する音符は増えます。時間も長くなります。楽譜を見ながら演奏したとしても、瞬間的に思い出せる情報に「濃淡」が生まれる可能性が増えます。
 練習する時に「本番」のつもりで演奏する練習と、少しずつ演奏しては繰り返す練習のバランスも重要です。当然、本番では「止まらない・ひき直さない」ことを優先します。さらに傷=失敗に自分で気づいても動揺を最小限にとどめ「先に進む」ことが大切です。
 練習でも「完璧」を求め続ける練習が良いとは限りません。
一か所だけ=数小節を何時間・何日もかけて練習して、他の小節を練習しないのは間違った練習です。その「バランス」が一番難しいことです。
 違う見方をすれば「妥協」が必要になることでもあります。
妥協して、やり残したことは、時間=日数をかけて練習します。
「出来るようになった」感じ方もひとそれぞれです。
一回うまくひけて「できた」と思う人もいれば、同じ個所を数回続けてひけて「できた」と思う人もいます。さらに、その部分より前から何回でもひけて「できた」と思う人も。出来るようにする「方法」も含めて覚えても、運動が安定しないために「失敗」することもあります。
 「成功の確率」を高める練習を、効率的に行うことが重要です。
がむしゃらに、失敗する連続を繰り返して「いつか出来るようになれ!」という繰り返しても時間と体力の無駄になります。「根性」だけでは成功の確率は上がらないのです。失敗の原因を見つけて「修正」成功する感覚を覚える繰り返しが必要な練習です。

 最後に自己評価と「他人からの評価」の受け入れ方について考えます。
先述の通り、自己評価の基準は自分だけのものです。自分以外の人を評価する場合でも「自分なりの基準」でしかありません。誰かから自分の演奏を評価してもらうことは必要なことです。音大生やプロを目指す人が師匠や他の先生から「改善すべきこと」を指摘してもらえるケースもありますが、多くの場合は「良かった」主旨の評価を受けます。社交辞令・リップサービスだと思うより、自分で気づかない自分の演奏の「良い印象」を素直に受け止めることも成長には必要です。
 専門家=演奏家の評価とは別に、一般のかたの「感想」を聴くことも大切です。自分の感覚とは違う「音楽の印象」が大きな参考になることもあります。
これも「バランス」が大切で、褒められてうぬぼれてもダメ、お世辞だからと自分を責めてもダメ。常に両方があることを認めることがポイントです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 脳ら謙介

日本語と音楽

 映像はヴァイオラとピアノで演奏したドビュッシーの「美しい夕暮れ」
原曲は歌詞のある「歌曲」です。フランス語の詩と旋律と和声。
私たち日本人が使っている言語「日本語」は世界の言語の中でも最も複雑だと言われています。日本で生まれ育った私にとって、英語の方がはるかに難しく感じるのですが(笑)
 中学校で習い始めた英語。高校で第二外国語が必修だったのでドイツ語を選択。大学でもドイツ語を選択しました。外国語を学ぶことが好きなひとを心から尊敬します!中学時代「日本で暮らすのに英語がいるんかい!」と逆切れしていた記憶があります。海外に留学する友人たちの多くが、中学前に語学の学校に通っていました。「あの!●●がドイツ語?」と笑ったこともありました。
それでも彼らは外国の音大での授業や、外人の先生のレッスンをちゃんと受けて学んでいたのですから、やはり素晴らしいことだと尊敬します。

 さて、音楽は「世界共通の言語」と言われることがあります。
楽譜を記号として考えれば、どんな国で音楽を学んだ人でも、同じように楽譜を「音楽」にできます。言葉を交わせない外国の人とでも、同じ楽譜を見ながら一緒に演奏できることがその証明です。演奏しながら考えている「言語」は人それぞれに違っても、出てくる音は同じなのです。例えば音名を「ドレミ」で考えながら演奏する人もいれば、英語音名の「シーディーイー」で考えている人、ドイツ音名「ツェーデーエー」で考えている人もいます。それでも出てくる音は「同じ高さの音」ですよね。

 ルールが世界で共通のスポーツの場合はどうでしょうか?
お互いの意思疎通を専門用語でかわすことは出来ますが、その言葉がどこかの組の言葉であることがほとんどです。例えば、柔道の場合「まて!」「はじめ!」「いっぽん!」などの日本語が用いられています。
 囲碁やチェスの対戦には、言葉がなくても可能ですね。
絵画や美術品の場合、製作の過程で言葉や記号は必要なものではないかも知れません。
 世界で様々な「単位」があることは以前のブログでも書きました。
センチ・インチ・メートル・フィート・尺などの長さの単位。
グラム・ポンド・貫などの重さの単位。これも国や地域によって様々です。
 こうして考えると「楽譜」は確かに世界で共通の「記号」であることはとても希少なことかもしれません。

 音楽に文法がある…という話を音楽大学で学びました。
日本語の文法の場合、主語・述語・名詞・動詞・形容詞・副詞・助詞・仮定・命令・過去形など様々な文法がありますね。「かろかっくいいけれ」って覚えてませんか?(笑)英語やドイツ語の「文法」については、あまりに暗い過去があるので触れないことにします。申し訳ありません。
 音楽の場合、「句読点」「文節」「起承転結」など、文や文章を分析したり、実際に手紙や文章を書いたりするときに私たちが使っている「日本語」に例えて考えられます。
 日本語は英語やドイツ語と、明らかに文法が違いますよね?
つまり私たち日本人が使い慣れている「日本語」の文法は日本語特有のものなのです。それを音楽に当てはめて考えるのは、日本語で音楽を考えていることになります。

 言葉が理解できない人同士でも、自分の感情を笑顔や動作で伝えることができますよね。相手の感情を言葉ではなく表情で感じることもあります。
 音楽は「音」だけで作曲家と演奏家の「意図」を伝えます。聴く人もまた、自分の感じるものが別にあります。「言葉」のように明確に何かを示すことはできません。絵画や美術品と似ています。
演奏者が楽器で音楽を演奏する時に、歌詞のある「歌」のように聴く人に言葉を伝えられません。楽器の音だけを聴いて、伝えられることが歌よりも少ないのは事実です。しかし「言葉」も人によって感じ方が違います。時には人を傷つけるのも言葉です。日本語のように、言い方がたくさんある言語の場合には特に難しい面もあります。敬語などの使い方も難しいですよね?
相手に何かを頼まれた時の「返事」ひとつをとっても様々な言い方があります。
「うん」だけで良い場合もあれば、
「承知いたしました」だったり「あいよ!」だったり「はーい」だったり。
断る時にはもっと難しいですね。
「いや」で済む友達もあれば「大変申し訳ありませんが」と前置きをして断る場合、「お引き受けしたいのですがあいにく別の要件が決まっていて」と「嘘」をついて断る倍など様々です。
 言葉の難しさのない音楽。伝えたい「気持ち」「風景」が、聴く人の勝手な「気持ち」「風景」になったとしても、聴いた人が嫌な気持ちにはなりません。自分の好きなように「解釈」するだけです。たとえ、演奏者の思いと違っても、誰も気づかず、誰も困らず、みんなが気持ちよく演奏を楽しめます。
 演奏者が自分の感情を表情に出す場合がありますが、自然に出てしまうのは良いとして「演技」で表情をつけるアマチュア合唱団や部活吹奏楽は「いかがなものか」と思っています。
 難しい日本語・美しい日本語を日常会話に使う私たちが、音楽をより豊かな表現で伝えられるように思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌声の個性と楽器の個性

 

映像は、ヘンデル作曲「オンブラ・マイ・フ」をカウンターテノールでアンドレアス・ショルが歌っているものと、私がヴィオラで浩子さんのピアノとデュオリサイタル5(代々木上原ムジカーザ)で演奏した動画です。比べちゃダメ(笑)って憧れのショルさんの歌声ですからね。

 さて、今回のテーマですが人間の身体を楽器として演奏する「声楽=歌声」と、楽器を使って演奏する…たとえばヴィオラやヴァイオリンとを「個性」の面で考えてみるものです。
 当然ですが、まったく同じ身体の人間は「クローン」を使用しない限り「一卵性双生児」ですら存在しないはずです。見た目にまったく同じ「双子」でも発達によってその身体には違いがあります。
 それでも「声」に関して言えば、親子で声が良く似ていることは珍しくありません。私も父親・兄と声が似ているそうで、母に電話をすると「だれ?」(笑)
当時「おれおれ詐欺」がなくて良かったと痛感するほどです。母でさえ、親子兄弟3人の電話口の声を聞きわけられなかったのです。もちろんお互いに聴いている自分の声は、他人が聴く「私の声」と違うので、お互いに「私の声はふたり(私から見れば父と兄)とは全然違う!」と主張します。兄も父も(笑)同じ主張をしますが、母だけは「その言いあっている声が同じなの!」

 昔「ザ・ピーナッツ」と言う双子姉妹の歌手が歌っているのを聴いたことのある人なら、あの「そっくり!」の歌い方を思い出せると思います。考えてみると、自分に聴こえる自分と相手の声が違うはずですから、第三者が聴いてどちらの声がどう?もう一人と違うのかを指摘していたはずです。すごいことだったんだなぁと今更に思います。

 声楽家の話し声と歌う声は、まったく同じではありません。特にクラシック音楽を歌う「声楽家」の場合には、身体が出来てから自分の歌う「声」を育て作っていきます。それは「技術」と「練習」で作られる声=音です。
同じ「声域=音の高さの範囲」の歌手でも、それぞれに声に個性があります。
声楽家ではない私が感じる「個性的な声楽家」は、単にうまい!と言うだけではい「独特の個性」を感じるのです。一言で言ってしまえば、生理的な好みなのかもしれません。「それを言ったらおしまいだろ!」と怒られそうですが(笑)、誰にでも「好きな声」と「嫌いな声」ってありませんか?その好みが他人と一致しないことも感じたことがあると思います。おそらく理由はないのです。自分の好きな「声」はもしかすると両親の声に近いもの?だとしたら、私は自分の声を録音して聴くのが「なによりも嫌い!」なので、考えると混乱しますね(笑)

 パヴァロッティの歌声はどんな曲を歌っていても「あ!」とわかるのは、私だけではないはずです。では、音だけを聴いて「ハイフェッツ」と「オイストラフ」と「アイザック=スターン」の誰の演奏か?すぐに当てられる人は、かなりのマニアでは?録音の個性…ノイズ=雑音で聞き分けるのは「反則」です(笑)とは言え、まったく同じ録音状況は存在しませんから、私たちが今聴くことのできる「偉人」たちの演奏は録音状態によって変わってしまいます。
 それでも!ハイフェッツの演奏する「個性」とオイストラフの「個性」は間違いなくあるのです。どうして?それを言い切れるのか。

 ヴァイオリンと弓と弦、細かく言うなら使う松脂の種類も「すべて同じ」状態で、違う二人の演奏家が弾いた時、なにが起こるでしょうか?
「格付け」番組で高い楽器と安い楽器を当てる遊びは目にしますが、同じ楽器を二人の人が弾いて「どちらがプロでどちらがアマチュアか?」って絶対にないですよね?何故だと思います?(笑)ダンスや吹奏楽で「プロ・アマ」を当てるコーナーはあるのに、なぜか?ストラディヴァリとペカットの組み合わせで、プロ・アマを当てるコーナーがありません。演奏するプロのプライドか?(爆笑)
 テレビはともかく、間違いなく演奏者が変われば音は変わるのです。
「楽器と弓が同じなのに?」と思うのは、人間には、同じ身体の人が二人いないので、比較の方法がありませんが、もし!まったく同じ身体の人間が二人いたとして、それぞれが違った環境で育てば、好きな歌い方が違ってくるはずです。自分の好きな「歌い方=声」を出そうとするはずです。仮に話し声が同じでも、歌う声は違っても不思議ではありません。
 楽器・弓・弦を使って、演奏者が自分の好きな音を出そうとします。
その好きな音が全員違うのです。まったく同じ「好み」の人間がふたり揃う確率は天文学的(笑)に低いと思っています。
 実際、私の楽器と弓を私の自宅で、ある尊敬する先輩に、少しだけひいてもらったことがあります。「自分で聴く自分の楽器の音」は自分の声と同じです。離れた場所で聴く「私の演奏する音」は違って聞こえます。なので、先輩が演奏される「私の楽器」の音を聴くことはとても新鮮でした。
 その時、先輩が演奏し始めた時から、次第に音が変わっていくことを感じました。その原因は?
 演奏者の「出したい音」を楽器と弓を使って「探す」からです。
この探すと言う作業が演奏技術「そのもの」です。楽器と弓の「個性」を自分の演奏技術をフルに使って「探る」ことで、楽器の音が変わっていくのです。
 要するに演奏者が変われば、同じ楽器・弓でも、出てくる「音量」「音色」が違うのです。それが「演奏者と楽器の個性」なのです。

 生徒さんが楽器を選ぶとき、どんな楽器を演奏しても同じように感じるとおっしゃることがよくあります。正確に言えば「何がどう違うのか言語化できないから、好きとか嫌いと言えない」のです。その楽器を「ひきこなす」ことは、その楽器の「個性」を引き出す技術を持つ子です。
 個性のない楽器はありません。しかし、大量生産された楽器の「個性」は製作者の「こだわり」がいっさいありません。おそらく完成した大量生産のヴァイオリンを「試し演奏」することもせずに売られているものが多いと思います。
製作者のこだわりがない楽器にも個性はあります。しかしそれは「癖」と呼ばれるものに近く、良いものではない場合がほとんどです。
 一方で、製作者の魂を感じる楽器には、弾き方によって「そうじゃない!」「それ!」と言う声を感じます。楽器に問いかける「技術」に対して「違う」とか「あったりー!」というレスポンスがある楽器こそが、本物の楽器だと信じています。
 長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を3D(3次元化)する

 映像は村松崇継さんの「アース」をヴィオラで演奏した冒頭部分です。
最初の映像は演奏動画、その次に「楽譜」、その後にある謎の映像(笑)
眼の悪い私が手探りで作った「なんちゃってアニメーション」です。
精度の低さはお許しくださいませ。
 さて今回のテーマですが、音は「聴覚」で楽しむもの…ですが、演奏する立場で考える時、楽譜を読み、音にする過程で「音の高さ=音名」や「リズム」「テンポ」と言った時間の感覚、音の大きさと音色、さらには腕や指の動きをすべて「同時」に処理しています。単に「聴覚」だけを使っていないことは確かです。
同時に起こることを「時間」で考えると、ある一瞬に私たち演奏者が考えていることが複数あります。例えば「音の高さ」「音の大きさ」「音の長さ」…本来、長さは音の大きさの概念に含まれますが、音楽では「リズム・テンポ」と言うひとつのカテゴリーがあるので敢えて「長さ「」「大きさ」を別のものとして考えます。
 映像の最期の「●」が上下に動きながら、大きくなったり小さくなったりしていることが、何を表しているか?アニメーションがうまく出来ていないのでわかりにくいですが(涙)、垂直方向に「音の高さ」、●の大きさが「音の大きさ」で、その変化の様子が「時間」を表します。
 言語化することが難しいのですが←結局説明できていない(笑)
演奏する「音」が、演奏者に向かって前方から流れるように、連続的に近づきさらに次の音が近づく「連続」です。
その音の「高さ」が演奏者の「上下」だとイメージします。
大きさは近づいてくる「●」の大きさです。
さらに今回は作れませんでしたが「色」も感じることができます。
たとえば「重たいイメージ」を赤色、「冷たいイメージ」を「青色」などで色付けすることも映像として可能です。
 音が自分に近づいてくる感覚と、自分が止まっている「音」の中を進んでいく感覚は、視覚的には同じ感覚に慣れます。
 歩きながら撮影した映像は、止まっている自分に周りの景色が近づいてくる「錯覚」を利用しています。実際に自分が歩く時に見える景色は、実際には自分が動き景色は止まっていることになります。
 連続した「音」が前方から近づいてくるイメージは、次に演奏する音を予測することができます。その「音」を演奏するために必要な「高さ」や「音色」「指・腕の動き」も想像することができます。

 楽譜や映像は「2次元」の世界で表されています。ご存知のように現代の科学で「上下・左右・奥行」の三つが私たちの感じられる「次元」だとされています。「点」しかないのが「1次元」です。「線」になれば「前や後ろや左や右」があるので「2次元」です。さらに「上と下」が加わって「3次元」になります
難しいアインシュタインの相対性理論は理解できなくても、日常私たちが生活する「3次元」の世界ですが、音楽は目に見えず、触れることもできない存在です。奥行や高さ、幅と言った概念が「音」にはありません。
なのに「もっと奥行のある音で」とか「幅広いイメージで」と生徒さんに伝えることがあります。つまり「聴覚」で感じる音を「視覚」や「触覚」に置き換えることを私たちは何気なく行っているのだと思います。
 前から自分に吹いてくる「風」が身体の「どこか」に吹いてくるイメージを持ってみます。
・「弱く」「長い時間」「暖かく」「おでこ辺り」に感じる風
・「強く」「短い時間」「冷たく」「首辺り」に感じる風
この二つの違いを「音」に置き換えることもできますよね?
これが「音」を私たちの「触覚」に置き換えた場合です。
 音楽を「楽譜」や「音」だけに限定して考えるのは、私たちが持って生まれた「五感」の一部だけを使っていることになります。しかも楽譜は記号の羅列でしかありません。それを音にして、さらに音楽に作り上げていく演奏者が五感のすべてを使って、音楽を感じることは有意義だと思っています。
 わかりにくいテーマで申し訳ありませんでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介