ヴァイオリンで弾くか、ヴィオラで弾くか。

 上の映像は、私と浩子さんがヴィオラで演奏したドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」下の映像は、チェリスト長谷川陽子さんの同曲。
この曲をヴァイオリンで演奏してみよう!と思い立ちました。
…って今更(笑)、元よりクライスラーが編曲している時点でヴァイオリンで演奏するのが「先」かも。

 同じ人間(私)が同じ曲を演奏しても、違う音楽になる不思議。
しかも、11月に木曽町で開かれるコンサートでは、私のヴァイオリンではなく木曽町が所有する陳昌鉉氏製作のヴァイオリンを使って演奏する企画です。
ヴィオラはいつも愛用している陳昌鉉氏が2010年に製作された楽器です。
 同じヴァイオリン製作者の作られたヴァイオリンとヴィオラを、一人の演奏者が持ち替えながら演奏するコンサートです。ヴァイオリンとヴィオラで「大きさ」が違うのは当然ですが、ヴァイオリンにも微妙な大きさ、長さ、太さ、重さ、厚みの違いがあります。日頃使い慣れているヴァイオリンとは、かれこれ45年以上の「相棒」ですが、ヴィオラはまだ12年の「お友達」。木曽町のヴァイオリンは昨年も演奏しましたが、まだ「顔見知り」程度の関係です。

 ヴィオラとヴァイオリンを演奏できる友人、知人がたくさんおられる中で偉そうに書いて申し訳ありません。恐らく私だけではないと思うのですが、ヴィオラを手にして演奏しようとすると「ト音記号がすぐに読めない」と言う現象が起こります。正確に言えば「どの高さのド?なのか考えてしまう」のです。ヴィオラを持つと頭の中で「アルト譜表」と「ヴィオラの音=弦と場所」が、自動的にリンクします。色々な譜表が入れ替わるチェロやコントラバスを演奏する方々を心から尊敬します(笑)

 楽譜を見ないで演奏するようになってから、ヴィオラで演奏していた曲をヴァイオリンに持ち替えて演奏したり、その逆に持ち替えて演奏することが時々あります。ヴィオラで「しか」演奏したことのない曲を、ヴァイオリンの生徒さんにレッスンで伝える時、まず浩子さんに「ト音記号」の楽譜を作ってもらうことから始まります(笑)それは良いとして、楽器を持ち替えて演奏する時の「恐ろしい落とし穴」がありまして…。ヴィオラで演奏している曲を、ヴァイオリンで弾く時、音域が!(笑)ヴァイオリンの最低音「G=ソ」なのを忘れて弾いてしまう恐怖。同じ調=キーで演奏する場合に一番「恐ろしい」ことなのです。
ヴィオラの「中・高音」はヴァイオリンでも当然演奏できますが、音色がまったく違います。筐体=ボディの容積も、弦の長さ、太さも違うので、倍音も変わります。つい「ヴィオラのつもり」でヴァイオリンを弾いてしまうと「…ファ…!」になることもあるので、オクターブを考えて弾き始めることが「要=かなめ」です。
 ヴィブラートの深さ、速さもヴァイオリンとヴィオラでは変えています。
弓の圧力、速度も違います。「慣れる」ことが何よりも重要です。
母の教え給いし歌を、ヴァイオリンで演奏している動画はたくさんあります。
私にとってこの曲は今まで「ヴィオラ」で演奏する曲でしたので、どこまで?どの程度?ヴァイオリンらしく作り直すか…陳昌鉉さんのヴァイオリンにも慣れながら、さらにその3週間後のリサイタルでは、自分のヴァイオリンで違うプログラムを演奏する練習も同時進行です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

同期=シンクロと独立=分離

 映像は日本人ドラマーの「むらた たむ」さん」1992年生まれ、15歳からドラムを演奏し始めたそうです。
 いつも感じるのは、ドラムを演奏する人が「両手両足」をすべて同時に使いながら、それぞれの手足が時に「同期=シンクロ」したり、全く違う動き「独立ー=分離」したりできる能力です。しかも、その運動の速さが半端ない(笑)
マニュアルシフトの自動車を運転する時、両手両足がそれぞれに違う「役割」をして違う動きを「連携」させることはできますが、この速さ…同じ人間に思えない。

 さて凡人の私がヴァイオリンを演奏している時に、右手と左手を使います。
少なくとも足を使わなくても演奏できることは、イツァーク=パールマン大先生が実証してくださっています。たかが!二本の手!それも自分の手なのに、思うように動かせないジレンマってありませんか?わたしだけ…?
 ヴァイオリン初心者の方に多く見られる現象を列挙します。
・右手=弓と左手=指が合わない。
・移弦とダウン・アップが合わない。
・短い音がかすれる。
・重音が途中で単音になる。
・単音のはずが隣の弦の音が出てしまう。
・スピッカートをすると指と弓が合わない。
きっとどれか一つや二つや三つ(笑)思い当たるのでは。
今回は、ヴァイオリン演奏で右手と左手を、どうすれば同期できるのか?どうすれば独立できるのか?について考えます。

 推論になりますが「音」に集中することが唯一の解決方法だと思います。

具体的に説明します。そもそも、左手は「音の高さを変える」役割がほとんどです。左手指のピチカートを使うのは特殊な場合です。ヴィブラートも音の高さを連続的に変えているだけです。弦の押さえ方が弱すぎると、弓で演奏した場合、音が裏返って「かすれた音」が出るので「音色」にも影響しますが、役割の大部分は「高さの変化」です。
 一方で右手は「音を出す」役割がほとんどです。弾く弦によって「高さ」が違い、駒に近過ぎる場所を弾けば音が裏返って高い音が出ますが、役割としては「音を出す」のが右手です。

 ヴァイオリンの練習で、右手だけの練習をすることが基本の練習です。
一方で左手だけの練習は?押さえただけでも小さな音は出ますが、正確なピッチやヴィブラートなど「弓で音を出す」か「右手で弦をはじく=ピチカート」で音を出して練習することがほとんどです。つまり、左手の練習をするためには、右手も使うことになるのです。このことが、いつの間にか「右手より左手が難しい」と勘違いする原因であり、右手と左手が「ずれる」原因でもあります。
 ピアノの場合、左右10本の指が「音」を出す役割であり、発音は「指」が鍵盤に触れていることが前提です。その点でヴァイオリンの左手の役割とは明らかに違います。

 「音」を優先して考えることが同期と独立をさせることが可能になる…その説明を書きます。
 楽器を演奏すると「音」が出ます。当たり前ですが(笑)ひとつひとつの「音」は、「準備」してから発音に至ります。これも当たり前ですよね。
曲の一番最初の音であれ、スラーの途中の音であれ、新しく「音」を演奏する前に必ず準備をします。
・右手=弓で演奏する「弦」を選ぶ。
・ダウン・アップを考える。
・左手でどの弦のどこを、何の指で押さえるか準備する。
上記の順序は時々で変わります。ただこの三つを意識しなければ「無意識」で演奏することになります。無意識の「落とし穴」として、
・違う弦をひいてしまう
・ダウンとアップを間違える
・指を間違えたりピッチがはずれる
ことになります。つまり、一音ずつ準備していれば「事故」は最小限に防げるのです。それでは、運動を「同期」させたり「意図的に独立=分離」するには?
・準備する「順序」をゆっくりとスローモーションにして考える
・実際に演奏したい「速さ」にしていきながら、さらに順序を考える。
・準備した結果、発音する「音」に注目する
つまり、左手・右手のそれぞれの運動を「個別に順序だてる」練習から始め、それを連続し速度を速めながら、発音した「音」の高さ・音色・タイミング=時間・大きさを確認していくことです。ゴールは常に「音」です。
短い時間=速く連続して音を出す時に、一音ずつ準備を意識することが「できなくなる速さ」が必ずあります。ゆっくり演奏する時に「一音ずつ準備」して出せた「音」と、準備できない速さになったときの「音」が同じであれば「無意識に準備」出来ていたことになります。音が連続することは、準備が連続することなのです。その準備をスムーズに行うために必要なのが右手と左手の「同期と独立」です。

・無駄な力を抜くこと。
・連続した運動=準備をパッケージとしてイメージすること。
・ひとつの運動=片手やダウンアップや移弦など…にだけ注目しないこと。
・常に自分の身体の「静止」と「運動」を確認すること。
これが、同期させたり独立させたりするための「コツ」だと思っています。
冒頭のドラマーの動きを見ると、上の三つを感じられると思います。
スポーツや格闘技でも同じ事が言われています。自分の身体のすべての筋肉をコントロールするためには、「結果」を意識するしかないと思います。楽器の演奏なら「音」です。格闘技なら相手を倒す「技」「伝わる力の強さ」です。自然体=楽な状態で、音を確認しながら、左右の手を自由に動かす練習…時間がかかりますが、必ず出来るようになります!頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

知る・知らない・できる・できない

 映像は、ムターさんの演奏するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。
私も含め多くのヴァイオリンを「もっとじょうずにひきたい」と思う人にとって、じょうずな人の演奏に近づくことは、道順もわからずただ漠然とした「目的地」に向かって歩くことに似ています。どんな上手な人も、みんな違う道順で現在の「到達地点」にいるはずです。道順を真似しても同じ場所に着かないのが演奏です。でも、迷える私には「道順」だけでも知りたいと感じます。
 今回のテーマは、知識=考えることで「知る」ことと、身体と知識を使って「できる」ことにつていお案が得るものです。

 知っていることとできることの関係について、考えてみます。
演奏以外で例えると例えば「料理」もその一つです。レシピを見て材料を買って調理する…簡単そうですが、レシピがおおざっぱだと、出来上がるものに大きな差が出来ます。材料の選び方を「知る」ことができるか?調味料の種類や量を「知る」こと、調理途中の確認の仕方を「知る」、火をとめるタイミングを「知る」ことが出来なければ、レシピの意味はありません。
 違う例えで「ゲーム」を考えます。カードゲームや囲碁、将棋、テレビゲームなど多くのゲームがあります。それぞれに「必勝法」や「負けにくい方法」があります。それらを「知る」ことで強くなることが可能です。知らなければ、知っている人にいつも負けます。
 楽器の演奏に話を戻します。自分よりじょうずな人の演奏を「知る」ことと、自分の演奏との違いを「知る」ことから始まります。
 自分の演奏にすでに満足している人なら、自分以外の演奏を知る必要もありません。新しい曲を知る必要もありません。それが悪いとは思いません。
 一方で、自分以外の演奏をたくさん聴き、好きな演奏、あこがれる演奏、ひいてみたい曲を探す「楽しみ」を持つ人がいます。私もその一人です。
 あこがれる演奏を知ったからすぐにできる…と言うものではありません。当たり前です(笑)
どうやったら?あこがれる演奏が出来るようになるのかを「知る」ことが始まります。その方法こそが先述の「道順」です。つまり、道順が全員違い「この方法=道順で出来る」という正解がありません。それでも「知りたい」のです。
 まず自分の演奏の欠点を「知る」ことです。自分の演奏=音と音楽を客観的に「聴くこと」ができなければ始まりません。まずは音を聴くことです。
 音のほとんどは、自分の「技術」で作られた結果です。楽器に問題がある場合もありえます。その雑音の原因を「知る」ことも必要な知識です。弦がさびている場合、はじいた時に濁った音が出ます。E線などのアジャスターが緩んでいる場合の「雑音」、顎当てとテールピースが当たって起こる「雑音」、駒が低く指板が高すぎて弦と指板が当たって起こる「雑音」、自分の洋服のボタンが裏板にあたって起こる「雑音」などなど。雑音の原因を知ることも大切ですね。
 自分の演奏する音をどうすれば客観的に聴くことができるでしょうか?
一番手近な方法が「録音」して聴き直すことです。「録音した音は音色が変わる」のは事実ですが、ひいていて気付かない「癖」や「雑音」を、演奏した後で何度でも確かめられる「録音」は上達のために欠かせない手段だと言えます。

 できる…と言う感覚について考えます。知ることと比べ、出来ているか否かの判断はとても難しい点があります。自分の「基準」と「妥協」の問題です。
理想=憧れの演奏と自分の演奏を比較して、100パーセント完全に同じに「できる」…人はきっと誰もいません(笑)それが現実です。近づくことさえ難しいのです。だからと言って「無理」の一言で諦めるのも寂しいですよね?
 自分の演奏が少しでも良くなったと感じることを「出来るようになってきた」と認めることも上達のために必要だと思います。
 できないことを知る→それを、出来るようにする方法を知る→練習し少しでもできるようになる→まだ出来ていないことと新しくできなくなっていることがないかを知る→練習する
 常に「知る」ことと「出来るようにする」ことの繰り返しです。
その途中で陥りやすい「落とし穴」もあります。無意識に「引き算」をしてしまうことです。何かを出来るようにしようとすればするほど、その他のことへの集中力が下がります。
 具体的な例で言えば、ある音をうまく演奏「できない」から練習している時、その音に至るまでの「音」が汚くなっていたり、ピッチがくるっていることに「気付かない」状態です。また、できない内容が「ピッチ」の場合、音色や音量への集中力が「引き算」されている場合もあります。練習は常に「足し算」であるべきです。ひとつのことを練習している時に、その他のことを「犠牲」にしないことです。それを「妥協」とは言いません。妥協が必要なのは「練習内容のバランス」を考える時です。曲全体を止まらずに演奏するための「練習」と、少しでも疑問を感じた時に止まって確認する「練習」は区別しバランスを考える必要があります。それぞれに「妥協」が必要になります。特に止まらない練習では、疑問を感じても次の音に集中するため、どこで失敗したのか?覚えていられないことがほとんどですから、録音して確認することが有意義になります。止まって確認する練習には「時間をかけすぎる」場合が多く、結果的に曲全体の練習にならない危険性もあります。

 最後に「知らないことは出来ない」事を書きます。
言い換えれば、出来るようになるためには、知ることが不可欠だという事です。
 知ることを「知識」、できることを「運動」と置き換えてみます。
知識と運動を「比例するもの」として考えることが大切です。
頭でっかち…は知識ばかりのひとを言います。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…は運動だけで偶然うまく出来るのを待つ人です。
ふたつが比例していることが何よりも大切なことです。
成功することをただ祈っても無駄です。考えているだけでは出来るようになりません。自分の練習が、知識・運動のどちらかに偏っていないか?確認しながら練習するために、誰かに自分の練習をみてもらうのも良い練習方法です。ただ、練習は見られたくないのが人間です(笑)子供でもそれは同じです。親が「良かれと思って」練習中のこどもに声をかけても「わかってるよ!うるさいなー!」と言われるのは(笑)子供なりに「みられたくない」と言う気持ちがあるからです。それを理解した上で子供と接することが大切です。
 大人になればなるほど、練習に行き詰るものです。その時にアドヴァイスをくれる人こそが「師匠」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌声の個性と楽器の個性

 

映像は、ヘンデル作曲「オンブラ・マイ・フ」をカウンターテノールでアンドレアス・ショルが歌っているものと、私がヴィオラで浩子さんのピアノとデュオリサイタル5(代々木上原ムジカーザ)で演奏した動画です。比べちゃダメ(笑)って憧れのショルさんの歌声ですからね。

 さて、今回のテーマですが人間の身体を楽器として演奏する「声楽=歌声」と、楽器を使って演奏する…たとえばヴィオラやヴァイオリンとを「個性」の面で考えてみるものです。
 当然ですが、まったく同じ身体の人間は「クローン」を使用しない限り「一卵性双生児」ですら存在しないはずです。見た目にまったく同じ「双子」でも発達によってその身体には違いがあります。
 それでも「声」に関して言えば、親子で声が良く似ていることは珍しくありません。私も父親・兄と声が似ているそうで、母に電話をすると「だれ?」(笑)
当時「おれおれ詐欺」がなくて良かったと痛感するほどです。母でさえ、親子兄弟3人の電話口の声を聞きわけられなかったのです。もちろんお互いに聴いている自分の声は、他人が聴く「私の声」と違うので、お互いに「私の声はふたり(私から見れば父と兄)とは全然違う!」と主張します。兄も父も(笑)同じ主張をしますが、母だけは「その言いあっている声が同じなの!」

 昔「ザ・ピーナッツ」と言う双子姉妹の歌手が歌っているのを聴いたことのある人なら、あの「そっくり!」の歌い方を思い出せると思います。考えてみると、自分に聴こえる自分と相手の声が違うはずですから、第三者が聴いてどちらの声がどう?もう一人と違うのかを指摘していたはずです。すごいことだったんだなぁと今更に思います。

 声楽家の話し声と歌う声は、まったく同じではありません。特にクラシック音楽を歌う「声楽家」の場合には、身体が出来てから自分の歌う「声」を育て作っていきます。それは「技術」と「練習」で作られる声=音です。
同じ「声域=音の高さの範囲」の歌手でも、それぞれに声に個性があります。
声楽家ではない私が感じる「個性的な声楽家」は、単にうまい!と言うだけではい「独特の個性」を感じるのです。一言で言ってしまえば、生理的な好みなのかもしれません。「それを言ったらおしまいだろ!」と怒られそうですが(笑)、誰にでも「好きな声」と「嫌いな声」ってありませんか?その好みが他人と一致しないことも感じたことがあると思います。おそらく理由はないのです。自分の好きな「声」はもしかすると両親の声に近いもの?だとしたら、私は自分の声を録音して聴くのが「なによりも嫌い!」なので、考えると混乱しますね(笑)

 パヴァロッティの歌声はどんな曲を歌っていても「あ!」とわかるのは、私だけではないはずです。では、音だけを聴いて「ハイフェッツ」と「オイストラフ」と「アイザック=スターン」の誰の演奏か?すぐに当てられる人は、かなりのマニアでは?録音の個性…ノイズ=雑音で聞き分けるのは「反則」です(笑)とは言え、まったく同じ録音状況は存在しませんから、私たちが今聴くことのできる「偉人」たちの演奏は録音状態によって変わってしまいます。
 それでも!ハイフェッツの演奏する「個性」とオイストラフの「個性」は間違いなくあるのです。どうして?それを言い切れるのか。

 ヴァイオリンと弓と弦、細かく言うなら使う松脂の種類も「すべて同じ」状態で、違う二人の演奏家が弾いた時、なにが起こるでしょうか?
「格付け」番組で高い楽器と安い楽器を当てる遊びは目にしますが、同じ楽器を二人の人が弾いて「どちらがプロでどちらがアマチュアか?」って絶対にないですよね?何故だと思います?(笑)ダンスや吹奏楽で「プロ・アマ」を当てるコーナーはあるのに、なぜか?ストラディヴァリとペカットの組み合わせで、プロ・アマを当てるコーナーがありません。演奏するプロのプライドか?(爆笑)
 テレビはともかく、間違いなく演奏者が変われば音は変わるのです。
「楽器と弓が同じなのに?」と思うのは、人間には、同じ身体の人が二人いないので、比較の方法がありませんが、もし!まったく同じ身体の人間が二人いたとして、それぞれが違った環境で育てば、好きな歌い方が違ってくるはずです。自分の好きな「歌い方=声」を出そうとするはずです。仮に話し声が同じでも、歌う声は違っても不思議ではありません。
 楽器・弓・弦を使って、演奏者が自分の好きな音を出そうとします。
その好きな音が全員違うのです。まったく同じ「好み」の人間がふたり揃う確率は天文学的(笑)に低いと思っています。
 実際、私の楽器と弓を私の自宅で、ある尊敬する先輩に、少しだけひいてもらったことがあります。「自分で聴く自分の楽器の音」は自分の声と同じです。離れた場所で聴く「私の演奏する音」は違って聞こえます。なので、先輩が演奏される「私の楽器」の音を聴くことはとても新鮮でした。
 その時、先輩が演奏し始めた時から、次第に音が変わっていくことを感じました。その原因は?
 演奏者の「出したい音」を楽器と弓を使って「探す」からです。
この探すと言う作業が演奏技術「そのもの」です。楽器と弓の「個性」を自分の演奏技術をフルに使って「探る」ことで、楽器の音が変わっていくのです。
 要するに演奏者が変われば、同じ楽器・弓でも、出てくる「音量」「音色」が違うのです。それが「演奏者と楽器の個性」なのです。

 生徒さんが楽器を選ぶとき、どんな楽器を演奏しても同じように感じるとおっしゃることがよくあります。正確に言えば「何がどう違うのか言語化できないから、好きとか嫌いと言えない」のです。その楽器を「ひきこなす」ことは、その楽器の「個性」を引き出す技術を持つ子です。
 個性のない楽器はありません。しかし、大量生産された楽器の「個性」は製作者の「こだわり」がいっさいありません。おそらく完成した大量生産のヴァイオリンを「試し演奏」することもせずに売られているものが多いと思います。
製作者のこだわりがない楽器にも個性はあります。しかしそれは「癖」と呼ばれるものに近く、良いものではない場合がほとんどです。
 一方で、製作者の魂を感じる楽器には、弾き方によって「そうじゃない!」「それ!」と言う声を感じます。楽器に問いかける「技術」に対して「違う」とか「あったりー!」というレスポンスがある楽器こそが、本物の楽器だと信じています。
 長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

やわらかいもの な~に?

 今回のテーマ、なぞなぞか!(笑)
あなたは「やわらかいもの」と言われてどんなものを連想しますか?
羽毛布団?わたがし?マシュマロ?お豆腐?
では、やわらかくて、おおきいものは?
空に浮かぶ雲?ふかふかのベッド?エアーマット?そよ風?
現実の「硬さ」を数値で表す方法が何種類もあります。
1.「ショア硬さ」はダイヤモンドのついた小さなハンマーを測定物に落として、そのはね上がり高さで硬さを測定します。はね上がりの高いものほど硬いことになります。
2.「ロックウェル硬さ」
ロックウェルC硬さは、頂角120°のダイヤモンド円錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、その押し込み深さで硬さを測定します。深さの浅いものほど硬いことになります。
3.「ブリネル硬さ」
ブリネル硬さは鋼球を測定物に一定加重で押し込み、その時に出来るくぼみの大きさで硬さを測定します。くぼみが小さいほど硬いことになります。
4.「ビッカース硬さ」
ビッカース硬さは対面角136°のダイヤモンド四角錐(圧子)を測定物に一定荷重で押し込み、ブリネルと同様に出来たくぼみの大きさで硬さを測定します。これもくぼみが小さいほど硬いことになります。
う~ん。物理の授業だわ(笑)
 楽器を演奏するひとにとって、実際に「硬い・柔らかい」ものがあります。
・指の表面=皮膚の柔らかさ
・皮膚の下の「脂肪・筋肉」の柔らかさ
・さらに奥にある「骨」の硬さ
・弓のスティックの硬さ
・弓の毛の柔らかさ
・弦の表面の硬さ
・弦全体の張力の柔らかさ
・指板の硬さ
など多くの「もの」にそれぞれに硬さ・柔らかさがあります。
・柔らかいもの同士が「触れ合う」場合には?お互いが、へこみますね。
・柔らかいものが硬いものに押しあてられると?柔らかいものが、へこみます。
・硬いもの同士が押し合わされると?少しでも柔らかい方が、へこみます。
これをヴァイオリン演奏に当てはめると…
1.右手側
指(柔):弓のスティック(硬)
弓の毛(柔):弦(硬)
弦(柔):駒(硬)
2.左手側
指(柔):弦(硬)
首・顎(柔):顎当て(硬)
鎖骨(硬):楽器・肩当て(硬)
さて、問題は人間の「触覚」です。
右手指も左手指・首・肩などに触れる部分で感じる「強さ」です。
強い力で振れていても、鳴れてしまうと感覚が麻痺します。
弱い力で「触れた」触覚と、強い力で「押し付けられた」触覚の違いです。
無意識に強く握ったり、強く挟み込んでしまうことに注意が必要です。

 「硬い」「柔らかい」と言う表現は必ずしも「現実に触れるもの」以外にも使われています。映像はオイストラフの演奏するサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソです。音色の柔らかさを感じる演奏だと思います。

 音色や演奏の硬さは計測できません。単位も基準もありません。主観的なものです。それなのに何故か?この表現は頻繁に使われます。では、「音楽」の硬さと柔らかさについて考察します。
1.硬く感じる演奏
・音の立ち上がり=発音に、強いアタックが続く演奏
・高音が強く響き低音の少ない音色が続く
・ビブラートが常に速く深い
2.柔らかく感じる演奏
・アタックのコントロール=強弱がある
・低音の響きが強く、高音の倍音が適度に含まれた音
・音楽に溶けあうビブラートの速さと深さ
これらの違いをコントロールする技術は、何よりも「聴覚」と「触覚」がすべてです。もちろん、弦の種類、楽器と弓の特性によって音色は大きく変わります。
それらを「ハードウエア」と考え、技術・感覚を「ソフトウエア」と考えることもできます。言うまでもなく、使いこなすのは人間です。ハードウエアの個性を判断し理解するのも演奏する人間です。数値・種類で表すことができるのは「材質」や「弦の太さ・硬さ」など数点だけです。演奏する楽器と弓の「特色」の好みがなければ、どんな楽器で演奏しても良いことになります。「イタリアの楽器は良い」とか「古い楽器は良い」とか「鑑定書のある楽器は良い」、さらには「値段の高い楽器は良い」すべてに言えることは…
「そうとは限らない」つまり自分の好きな音が出る楽器か?を判断できないひとにとって「良い楽器」は存在しえないのです。その「耳」を鍛えることが軽んじられている気がしてなりません。とても悲しく、恐ろしい気がしています。

 最後に関節や筋肉の「柔軟性」と、音の柔らかさについて。
他人の身体の「硬さ・柔らかさ」は演奏を見ているだけでは判断できない部分がほとんどです。体操選手やフィギアスケート選手のように「身体の柔らかさ」をアピールする競技もあります。ヴァイオリン演奏で、見るからに「ぐにゃぐにゃ動く」演奏者を見かけますが、それは「柔らかい」とは違います。むしろ体幹が支えられていないから「ぐにゃぐにゃ」なケースが多く、必要な柔軟性とは異質のものです。身体には「硬い骨」もあり「強く太い筋肉」も必要なのです。その硬さを軸にして周囲に「柔らかい筋肉・関節」があるのです。
 右手指には「握らずに=ぐー!せずに」「しっかりやさしく包み込む」力が必要です。左手指にも同じ同じことが言えます。
 脱力したときの強さ…矛盾しているように聞こえますが、力を抜いた時の適度な「硬さ=弾力性」の事です。赤ちゃんの指は、触るとふにゃふにゃ(笑)です。その赤ちゃんは本能的に「つかまって自分の体重を支えられる指」を持っています。つまり「強い」のに「柔らかい」のです。理想の力でもあります。
 必要な力を「見切る」ための練習が必要なのです。
弱すぎれば安定しません。だからと言って強すぎれば硬直します。
「ちょうどよい力加減=硬さ」がそれぞれの部位にあります。
それを見つけることと、常に観察することが練習の要=かなめになります。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

力の「向き」「速さ」「大きさ」をコントロールする

 映像はユーディ=メニューインの語るヴァイオリンボウイング。
昔、日本語に訳された本を一生懸命読みました。
メニューインもカール=フレッシュの本も、とにかく理論を言語化した本に共通するのは「一回呼んでも理解できない」という共通点(笑)私だけ?
 演奏家はとかく「理屈じゃない。感覚が大事だ」と言いたがります。
感覚を言語化するのは難しいことです。とは言え、自分の技術を高めるためにも、お弟子さんに継承するためにも客観的に理解できる言葉にすることも必要です。
 力学や物理が苦手な音楽家が多いのは、多くの人が「音楽学校」で学び一般教養への関心が低かったことも原因の一つです。私もそのひとりです。(笑)

 今回は特に右手に絞って考えます。
弓に触れる「五本の指」それぞれに、力をかける方向と速さ:時間、さらに力の強さが違います。
右手首、右肘、右肩の関節につながる筋肉があります。関節を動かさなくても筋肉に力を入れること、逆に力を抜くことが可能です。腕を曲げる運動の速さ、強さを鍛える場合と、反対にゆっくりと腕を伸ばす運動=ブレーキをかけながら伸ばす運動をトレーニングする方法がスポーツ医学の世界では当たり前にあります。
 弦楽器の弓を動かす運動「ボウイング」は腕の曲げ伸ばしだけではなく、右肩を始点にした回転の運動や、筋肉の緊張と弛緩(ゆるめる)を使って、力の速度と強さをコントロールする必要があります。
 これらの「方向」「速さ=時間」「強さ」の中で、もっとも難しいのはどれでしょうか?

 初心者に限らず、人間は「無意識」に力を入れたり抜いたりしています。
緊張すると筋肉に力が入ります。リラックスすると力は抜けています。
それを意識的に行うのはとても難しいことです。特に「弛緩=筋肉を緩める」意識は日常生活で感じることがありません。逆に力が必要な時には、すぐに筋肉に力を入れられます。
 力を入れるためにかかる時間、緩めるのにかかる時間を速くすることが一番難しいことです。つまり「一瞬」で力を入れてすぐに「脱力」する運動です。
その「速さ」で筋肉にかける力の「強さ」を変えることはさらに難しいことです。
 腕の重さと弓の重さは、その人の腕と使う弓で決まり、演奏中に変わることはあり得ません。
 力の速さが早くなれば生まれる力の量は増えます。大きい力で速く動かせば、大きな動きになります。小さな力で速く動かせば小さな動きになります。
 みぎての親指と人差し指で、瞬間的に力を入れられ、すぐに脱力できれば、自由にアタックを付けることが可能です。ダウンの途中でこの運動を擦れば、弓はバウンドします。バウンドを利用してスピッカートを連続させられます。
 次に、力を「長く」かければ大きな力量になります。例えれば「全弓を使って、出来るだけ長く大きな音でひく」場合です。これは比較的わかりやすく、初心者でも身に着けられます。

 力の方向が一番重要なのは、右手の場合「指」になります。
親指の力の方向が、右手人差し指の力の方向の「真逆」になっているでしょうか?多くの生徒さんが、親指の力の向きが人差し指の力の方向に対して「90度」自分から見て「前方」に押す力になっています。その向きの反対の力は?中指を自分に向かって「引き寄せる」力になってしまっています。この「反作用」は演奏に不必要な力です。指が付かれるだけではなく、弓の毛を現に押し付ける圧力をコントロールできません。弓を親指と中指で挟んで持つ仕事をしているだけです。
 親指と人差し指の「力の向き」と「速さ」と「強さ」を意識することは、もっとも重要な技術の一つです。

 最後に右手の各関節に「弾力」を持たせるための、筋肉の使い方です。
指の関節を固めてしまえば、弓のコントロールは無可能です。小指をまっすぐにのばしたままで演奏する人は、右手小指の「弾力」を捨てていることになります。関節を曲げたり伸ばしたりする「弾力」は、力の強さで買えられます。
自動車で言う「ショックアブソ-バー」と「ダンパー」です(車好きな人に聴いてね(笑))
 言うまでもなく、右手の筋肉で一番小さい=可動範囲の狭いのが「指」です。
次が「手首」です。手首は手のひらに対して上下には大きく動かせますが、左右の可動範囲は狭いものです。少しでもこの可動範囲を広げるストレッチも必要です。さらに大きな運動は「肘」の関節です。ゆっくり伸ばす=ダウンの運動を練習することが必要です。一番大きな運動をするのが「肩」の関節です。
首とつながった筋肉、背中、脇とつながった大きな筋肉によって動かされます。
この一番大きな運動で、重心が揺れないようにする「腰」と「股関節」「膝」の関節の弾力も必要です。
 弓の運動は、右半身すべての筋肉と関節を使っておこなわれます。
意識するのは「向き「速さ」「強さ」です。デフォルト=ニュートラルの状態で、いかに無駄な力を入れず、必要な力を最小限に使って、効率よく弓を安定して動かせるか?常に、力を意識することが大切です。
 最後まで読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜には書かれていないこと

 映像は2014年のデュオリサイタル6、代々木上原ムジカーザで演奏した、ピアソラの「オブリビオン」ヴィオラとピアノによる演奏です。
 今回のテーマは「楽譜に書かれていること・書かれていないこと」につていです。
楽譜を良く見えなくなってから書くのもいかがなものかと(笑)思いましたが、お許しください。

 ヴァイオリンやピアノのレッスンで、楽譜に書かれている記号や指示を見落としたり、その指示通りに演奏していないことを先生に注意される…という経験はきっと誰にでもあることだと思います。それが「間違い」だと判断される場合と、間違いではないが「指示に従わなかった」と言う問題の場合があります。
 楽譜に書かれているのは?「音符・休符」以外にたくさんの情報があります。
・ト音記号・ハ音記号などの「音部記号」
・音部記号の右に書かれている「調性記号」
・その左に書かれている「拍子記号」
・音符の左側に書かれている「臨時記号」
・音符の上か下に書かれている「スタッカート」「テヌート」
・音符の上や下にある「アクセント」
・複数の運否を「弧=曲線」でつないだ「レガート=スラー・タイ」
・弦楽器の場合「ダウン・アップ」の記号
・指番号
・弦楽器の場合「弦」の指定
・音量や速度に関する記号(指示)
・表現方法などの記号
書き出したら終わらない(笑)
これらの「指示」の意味を理解できるための「知識」は必要です。
問題はここからです。
先述の「間違い」と判断されるのは、上記のすべて?なのかという事です。

 楽譜に書かれていることが、すべて作曲家の意図したもの=作曲家が書いた指示なのか?
と言う根本的な問題があります。言うまでもなく、現代使用される楽譜のほとんどは「印刷」されています。さらにその多くは「コンピューター」をワープロのように使って作られた楽譜です。
 大昔、楽譜は作曲家が「ペン」を使って手書きで書きました。スコアを書き上げた後、作曲家自身が「パート譜」を手書きした人もいるでしょうし、弟子や他人にお金を払って「代筆」してもらったものもあるはずです。
 人間が手書きで楽譜の一枚ずつを書いていた時代には「書き間違い」「写し間違い」があっても不思議ではありません。ちょっとしたインクの「にじみ」で音符が大きくなりすぎた…なんてざらにあったはずです。
 その時代に作曲された「楽譜」が現代に至るまでに「コンピューター」に入力されて印刷されるようになりました。一度、データ化された楽譜は写し間違えることなく、書き間違えることもなく複製されます。
 データを打ち込んだ人の楽譜
に生まれ変わります。つまり、私たちの使っている楽譜に書かれている情報は、誰かがコンピューターに打ち込んだ「楽譜」です。それは誰?(笑)
 楽譜に書かれているから「作曲家の指示」だと思い込みます。
手書きの時代でも、コンピューターの現代でも同じことです。
演奏者は「楽譜を信じる」しかないのです。作曲家自身が演奏するなら楽譜より「演奏した音」が正しい事にもなりますが、そうでない限りは楽譜を信じるしかありません。
 楽譜の通りに演奏していて「演奏不可能」な音が掛かれている場合も、極稀にありますが、売られている楽譜には少ないですね。
 ただ、様々な出版社の「同じ曲の楽譜」を見比べると、まったく違う音やリズムが掛かれていることは「ザラ」にあります。弓付け(ダウン・アップ)やスラー、指づかいに至っては「同じものはない」と言えるほどに違うのが当たり前です。ピアノの楽譜でも当たり前にあることです。
 間違いと判断されるのは?「音の高さとリズム」…それさえ、楽譜によって違う事もあるのです。装飾音に至っては「正解はない」のが「正解」です(笑)
 では、楽譜の指示は無視して練習するべきでしょうか?
ダウン・アップを間違って先生に「違う!」と言われたら「逆切れ」しましょうか?(笑)

 演奏者が自分で「もっとも良いと思う」指使い、弓使いを考えられるようになるまでには「書かれている通りに演奏する」練習を積み重ねるしかありません。
むちゃくちゃな指遣い・弓使いで、無理やり練習しても無駄な練習です。
むしろ「有害」な場合があります。レッスンで先生が支持する「音」「リズム」「指」「弓」で演奏できる技術を身に着けることが、先決です。
 そのあとで!楽譜の指示と異なった「弓」「指」で試すことができるようになります。
 音の高さやリズムを、楽譜と違う音・リズムで演奏する場合にはその根拠を説明できるだけの「演奏技術」と「知識」が必要です。そうでなければ、ただ単に「間違った」と言われるだけではなく、作曲家の意図を無視することになりかねません。

 楽譜に書かれていない情報とは?
私は楽譜の「コア」をまず考えます。装飾音やスタッカート、レガートなどをはぎ取り」音の高さと長さ(リズム)=メロディー」だけの状態にしてみます。
 その「骨格=輪郭」を練習するうちに「肉付け=色付け」をしたくなります。
少しずつ…試してはまた削り、違う色を付けてみる。
 具体的な演奏方法で言えば
・弓の場所(弓先・中央・弓元など)
・弓の圧力(アタックなど)
・弓の場所(駒の近くなど)
・弓の速さ
・ビブラートの深さ・速さ・かけ始める時間
・ポジション(使用する弦の選択)
・ひとつの音の中での「音量変化」
などです。楽譜に「フォルテ」が書いてあるから「大きく」とはずいぶん違うことがお分かりいただけるかと思います。
 最初の動画で演奏した「オブリビオン」も今演奏したら、きっと違う弓、指・音色で演奏したくなると確信しています(笑)自分では「よしっ」とその時に思ったはずなのに、あとで聴くと「ちがうなぁ」が正直なお話です。

 以前にも書きましたが、演奏家が演奏する「音楽」は作曲家の意図した音楽と違って当然です。作曲家自身が自分の作った曲=音楽を、自分の解釈だけで演奏したければ楽譜は残さないはずです。事実パガニーニはそうしていました。
 楽譜として世に出た「音楽」は演奏者の手によって「音」になります。
料理で言えば楽譜が「素材」で料理する料理人」が演奏者です。素材をどう?活かすかが演奏家の技量だと思っています。
 その演奏を聴く人が「いいなぁ=おいしいなぁ」と思ってもらえるように、研究し努力するのが演奏者=料理人です。聴く人・食べる人の好みは、全員違います。全員が「おいしい」と思う料理は存在しません。音楽も同じです。誰かが「おいしい」と言ったからおいしいと思い込んで食べるのではなく、自分にとっておいしいかどうかは「自分の感覚」がすべてです。
 楽譜を音にする「楽しさ」を感じられるようになるまで、まず楽譜の通りに演奏する練習をしましょう!「料理学校」で基礎を学ぶことは大切です。
「我流」の前に先人の考えてくれた「ひとつの方法」を出来るようにしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ音楽を楽しむ文化が根付かないの?

 映像は「鏡の中の鏡」と言う曲名の音楽です。曲名だけ聴いても想像できる光景があります。音楽自体も、メロディーが「裏返し」に映っているように感じます。

 今回のテーマは音楽家にとって、共通の「命題」かも知れません。
音楽家だけの努力で解決できる問題ではない部分も多くありますが、まずは私たち音楽に関わって生活している人間が考えることはたくさんあると思います。
 クラシックに限らず、音楽を聴くことが生活の中にない人が殆どです。
ヴァイオリンやピアノを習いに来ている生徒さんでさえ、普段は音楽を聴かない…好きな音楽も特にないという人が大多数です。「そんな人はコンサートに来ないんだから関係ない」では済まされない問題だと思います。

 演奏する人間にとって、聴いてくれる人がいなければ職業として成立しません。当たり前のことです。
 演奏家の多くは、幼いころから長い時間をかけて練習し、時には折れそうになる気持ちに耐えながら「勝ち残った」と言う自負がどこかにあるものです。そのこと自体は素晴らしい事でも、誰かに聞いてもらわなければ努力も報われません。評価を受けることさえ出来ません。

 私たちが生きるために必要な「衣食住」とは別の「趣味」があります。言ってしまえば「なくても生活できる」事、物です。
 「車」を例に考えてみます。興味・関心のない方も、ちょっと我慢して読んでください(笑)
移動手段としての「自家用車」は、人によって必要度が違います。都心の駅近くに住んでいるひとにとって必要度は低いはずです。家族の介護に必要なひともいます。高齢でも自家用車がなければ、生活が困難な場所に住んでいるひともいます。それらの「必要度」が低くても高くても「車が好き」な人とそうではない人がいます。
 運転することが好きなひと。磨き上げて眺めるのが好きなひと。カスタマイズして個性化することが好きなひと。オフロードを走るのが好きなひと。速い車にエクスタシーを感じるひと…などなど様々です。

 登山やキャンプが好きなひとも多いですよね。健康維持のためにというひとも含めて、アウトドアで何かをすることが趣味の人もたくさんいます。
テニスやスキー、野球やサッカーを趣味で楽しむひとたち。
囲碁や将棋を趣味にするひとたち。旅行や食べ歩きが好きなひとたち。
読書や美術館で静かに過ごすのが好きなひとたち、写真を撮影するのが好きなひと、お酒を飲むのが大好きなひとたち…
 趣味の世界は本当に幅広く存在します。それらを「職業」にする人もいます。
プロのスポーツ選手、プロの登山家、プロの棋士、プロカメラマン、旅行評論家、料理研究家、ソムリエ、美術品の鑑定士など「趣味」で楽しむ人とは明らかに一線を画す「専門家」でもあります。

 趣味にもブームがあるのは事実です。話題になったスポーツが流行るのは昔にもありました。古くはテレビで「赤胴鈴之助」が放送されると、剣道ブームが起こりました。「柔道一直線」で柔道ブーム、「アタックナンバーワン」と「サインはV」が放送されるとバレーボールがブームになりました。「巨人の星」で野球、「キャプテン翼」でサッカー。「のだめカンタービレ」で一瞬!(笑)オーケストラに注目が集まりました。

 今はテレビ離れが進み、映画も「大ヒット」が少なくなりました。
大衆音楽の業界で考えても、テレビ文化の影響が大きかった昭和の時代には「国民的アイドル」と言う言葉がありました。今やアイドルは「オタク」のひとたちの専門分野となりました。世代を超えてに流行する音楽も消えました。

 プロとして認められる「視覚」のある将棋を除き、ほとんどはプロの死角は明確ではありません。音楽で言えば演奏したり指導をして「報酬」を受け取れれば「プロ」と言えることになります。支払う側にしても基準のない演奏や指導にお金を払っていることになります。もっと厳密に言えば「演奏」だけで生計を立てられれば「演奏家」、「指導」だけで暮らせれば「指導者」だとも言えます。

 最後に上記の色々な「趣味」を分類してみます。
「屋外で楽しむ趣味」
・各種のスポーツ・登山・キャンプ・旅行・美術鑑賞・写真撮影…
「室内で楽しむ趣味」
・楽器の演奏・読書・カラオケ・囲碁将棋…

「ひとりでも楽しめる趣味」
・登山・キャンプ・旅行・楽器の演奏・読書・美術鑑賞・写真撮影…
「誰かと一緒に楽しむ趣味」
・各種競技スポーツ・登山・キャンプ・旅行・楽器の演奏・囲碁将棋…

「独学で楽しめる趣味」
・旅行・キャンプ・読書・囲碁将棋・写真撮影・美術鑑賞…
「習って楽しむ趣味」
・楽器の演奏・各種スポーツ・登山…

「初期の投資金額」
美術鑑賞<読書<旅行<囲碁将棋<スポーツ・登山・写真撮影・楽器の演奏

「楽しむ度に係る費用」
インドアの趣味<アウトドアの趣味

もちろん、上記には例外が多くあります。購入する用具や機材・楽器の金額はピンからキリ(笑)ですし、旅行先(近隣・海外)や方法(豪華客船・ヒッチハイク)でも違います。
 楽器の演奏に注目して考えると、
「室内で楽しめる」
「ひとりでも誰かとでも楽しめる」
「初期投資は必要(金額は様々)」
「習うための費用が必要(レベルによる)」
「子供でも高齢者でも楽しめる」
など、他の趣味と比較しても、多くの面で「誰でもいつでもどこでも長く楽しめる」趣味だと言えます。「楽器が高い」と言う先入観、さらに習うのにお金がかかり、習いに行くのが大変…がマイナスイメージですね。
 多くの人が自分の趣味にかける「お金」には寛容です(笑)
家族のことになると突然厳しくなったりもします。
高額な車・カメラ・スポーツ用品・キャンプ用品などに係る金額は、楽器より高いものも珍しくありません。
国内旅行で3拍4日…飛行機とホテル・食費だけでも、一人あたり5万円では厳しいですよね?年に2回旅行すれば単純に10万円。
それぞれの「価値観」です。一概に「高い・安い」は決められません。
 楽器の演奏を趣味にする人が増えることを願う人間のひとりとして、
1.「楽器は高い」イメージの払しょく。
2.「趣味で演奏できる音楽」をプロが浸透させる。
3.習ってひける「レベル=難易度」を明確にする。
4.合奏する「受け皿=環境」を用意する。
5.親しみと憧れを感じられる「プロの演奏家」であること。
「音楽は楽しい」ことを広め、浸透させたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンと弓を持って歩く時

 ヴァイオリンと弓をを手に持って、舞台に上がる時、あるいはホールの中で移動する時に、「楽器を守る持ち方」を教えてくれない先生が多すぎる!その先生に習った生徒が先生になって生徒に、正しい楽器の持ち方を教えられない!
 今日、レッスンに来た生徒が、通っている学校の部活オーケストラで、指導者に「どうやって、楽器を持ってステージに出るの?」と聞かれ、生徒が私が教えた「正しく楽器を保護する持ち方=上の写真」を示したところ「ずいぶん、えらそうな持ち方だね」と嫌味を言われ「間違ったアホの典型の持ち方」を指導されたと言います。下の写真がその「アホの持ち方」です。楽器と弓をぶら下げて歩く「アホの図。 

ヴァイオリン、ヴィオラと弓を持って「歩く」ことが、どれだけ危険な事か知らない人間は、ヴァイオリンなんぞ教える資格はありません!恥を知りなさい! 
 舞台に出る時に、他のメンバーが「悪気なく」楽器にぶつかったら?
ぶつかった人の責任は「ゼロ」です。ぶつかって壊れる持ち方をしていた人間の「過失」が100パーセントです。これ、保険の常識です。保険以前に「ヴァイオリン弾きの常識」です! 
 弓を「だらん」とぶら下げて歩いて、もしも自分の脚に絡んだら?折れるに決まってますよね?他人の脚にからんでも、折れます!弓は折れたら「全損」という事も知らない人間は、弓を持つ資格なし! 
 「知らなかった指導者」は、今日から生徒に正しい持ち歩き方を教えるべきです。。それが指導者の「責任」です。 現実にあった「事故」を紹介します。

 私が高校生の頃に、門下生発表会で銀座ヤマハホールで、出演前に、舞台裏で人が一人通れるほどの、幅の狭い階段を上がったところにある小さな部屋で音だしをしていました。その後、演奏の時間が近づいたので、その部屋から私は楽器と弓を持ち、階段を下りて踊り場で折り返し、さらに下りようとした、その瞬間に…
 同期の女の子が舞台で演奏を終えて、ヴァイオリンを身体の前に持つ形で、階段を上がってきていました。おそらくドレスで階段を上がりにくかったのでしょう。曲がり角で、お互いに「死角」でした。私の脚の「ヒザ」とその女の子のヴァイオリン表板が、不幸にして、まともに激突しました。その子のヴァイオリンは表板が割れ、駒も割れました。お互いに、どれだけショックだったか、想像していただけますか?いくら私が謝っても、澄む問題ではありません。その子の涙を一生、忘れることはできません。 
 もし、あの時に楽器を右手でかばって、上がってきてくれていたら…でも、それは現実に起きてしまいました。 

 私の生徒たちには、発表会で「数歩」歩くだけの時でも、正しい楽器の持ち方で歩かせます。それが習慣になり、当たり前にならなければ楽器を守れません。「えらそうな持ちか方」と言った人が、どのようなヴァイオリンをお持ちのかたか存じませんが、1万円のヴァイオリンでも右手の腕で駒の部分をかばって歩くのが「当たり前です。写真に「アホがヴァイオリンを持つ図」を2枚。正しい持ち方を一枚。その時の右腕と駒部分のアップを一枚、載せます。どうか!学校でもレッスンでも、生徒に楽器を守ることを第一に教えて下さい。私は、この持ち方を自分の楽器を手にした時に、職人さんに一度だけ言われました。それで覚えました。覚えられないなら、ヴァイオリンはやめるべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

1(単音)+1(単音)=∞(重音)

 映像は、ドボルザーク作曲、クライスラー編曲の「スラブ舞曲第2番」です。
和音の定義は「二つ以上の異なった高さの音が同時に鳴った時の響き」です。
「ドミソ」や「ドファラ」のようにきれいに響く和音に限らず、半音違う高さの音が二つの音が鳴っていれば「和音」です。同時に発音しなくても=途中から重なって二つになっても、和音です。
言い方を変えれば、同じ高さの音がいくつなっていても、和音ではありません。

 ヴァイオリンの演奏技法のひとつに、この和音を演奏する技法があります。
「重音」と言う言い方をすることがあるのですが、先述の通り「同じ高さの2音」を同時に演奏しても和音ではないので、ヴァイオリンの開放弦と同じ高さの音を「左側の弦」で、開放弦と一緒に演奏する場合「和音」ではなく「重音」と言うのがふさわしいのかな?と私は思っています。2本の弦で同じ高さの音を演奏すると、明らかに1本の時とは違った音色になります。
 さらに厳密な事を言えば、1本の弦を演奏している時にでも、他の3本の弦が共振していますから、音量の差が大きいものの、常に「和音」を演奏している事にもなります。

 さて、私も含め多くのヴァイオリンを練習する生徒さんがこの「重音」の演奏に苦労します。
ピアニストが同時に4つ、時には5つ以上の和音を連続して演奏する「超能力」は凡人のヴァイオリニスト・ヴィオリストにはありません。
 たかが!二つの音を続けて演奏するだけなのに、どうして?難しいのでしょうか?ピアニスト、管楽器奏者、指揮者にも知って頂ければ、救われる気がします笑。

・弓の毛が常に2本の弦に、同じ圧力で「触れる」傾斜と圧力を維持すること。
・左手の指が「隣の弦」に触れないように押さえること。
・2つの音の高さを聴き分ける技術と、和音の響き=音程を判断する技術。
・連続した和音の「横=旋律」と「縦=和音の音程」を同時に判断する技術。
・ピアノの「和音」とヴァイオリンのピッチを合わせること。
・指使い=同時に弾く2本の弦の選択を考えること。
・重音でのビブラートを美しく響かせる技術。
その他にも、片方の弦を鳴らし続け、もう一方の弦を「断続的に弾く」場合など、さらに難しい技術が必要になる場合もあります。

 特に私が難しいと感じるのは、2本の弦を同時に演奏したときの「和音の音色」が単音の時と、まったく違う音色になる「不安」です。
特に、一人で練習して「あっている」と思う音程=響きが、ピアノと一緒に演奏したときに「全然あっていない」と感じる落ち込み(涙)
 生徒さんの「和音のピッチ」を修正する時にも、「上の音が高い」とか「下の音を下げて」とか笑。生徒さんにしても頭がこんがらがります。
初めて重音を演奏する生徒さんの多くが、弓を強く弦に押し付けて=圧力を必要以上にかけて、2本の弦を演奏しようとします。理由は簡単です。そうすれば、多少弓の傾斜が「ずれても」かろうじて2本の弦に弓の毛が触る=音が出るからです。弓の毛は柔らかいので、曲がります。特に、弓の中央部分に近い場所は、弓の毛の張り=テンションが弱いので、すぐに曲がります。ただ、この部分は弓の毛と、弓の棒=スティックの「隙間」が最も少ないのが正しく、無理に圧力をかけられません。初心者の多くが「弓の毛を張り過ぎる」原因が、ここにもあります。張れば張るほど、弓の持つ「機能=良さ」が失われることを忘れてはいけません。弓を押し付けなくても=小さな音量でも、重音をひき続けられる技術を練習することが必須です。

・弓を張り過ぎず、2本の弦を全弓で同じ音量で演奏する練習。
・調弦を正確にする技術。
・右隣の開放弦と左側の「1」の指で完全4度を演奏する。
・右側の開放弦と同じ高さ=完全一度の音を左側の弦で探す。
・左側の開放弦と右隣「3」の指でオクターブを見つける。
・左側の弦を2、右側の弦を1で完全4度を見つける。
・左側の弦を3、右側の弦を2で完全4度を見つける。
・右開放弦と左0→1→2→3→4の重音を演奏する。

・左開放弦と右0→1→2→3→4の重音を演奏する。
上記の練習方法は、音階で重音を練習する前の段階で、「重音に慣れる」ためにお勧めする練習方法です。
ご存知のように、1度・8度、4度・5度の音程は「完全系」と呼ばれる音程=音と音の距離です。
・空気の振動数が「1:1」なら同じ高さの音=完全1度です。
・空気の振動数が「1:2」なら1オクターブ=完全8度です。
・空気の振動数が「2:3」なら完全5度=調弦の音程です。
・空気の振動数が「3:4」なら完全4度です。
それ以外の2度、3度、6度、7度の音程に関しては、何よりも「ピアノと溶ける和音」を目指して練習することをお勧めします。
厳密に言えば、ピアノと完全に同じ高さの音で演奏し続けようとするのなら、調弦の段階で、A戦以外の開放弦は「ピアノに合わせる」ことをすすめます。
特にAから一番近い開放弦「G」の開放弦を、ヴァイオリンが「完全5度」で調弦すればピアノより「低くなる」のは当たり前なのです。
 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第1楽章などで、全音符以上の長さで「G線の開放弦」を演奏する曲を、ピアノと一緒に演奏するのであれば、予め調弦の段階で、ピアノの「G」に合わせておくべきです。オーケストラと一緒に演奏するなら完全5度で調弦すべきです。

 偉そうに(笑)書き連ねましたが、実際に重音を演奏するのがへたくそな私です。もとより、絶対音感のない私が、2つの音のどちらか一方の高さを「見失う」状態になれば、両方の音が両方とも!ずれてしまうことになります。
単音で演奏している時には、その他の弦の開放弦の「共振」を聴きながら音色でピッチを判断できますが、2本の弦を演奏すると音色が変わり、その共振も変わる=少なくなるために、より正確なピッチを見つけにくくなります。
 ピアノと一緒に練習することで、少しずつ正確な「和音」に近付けるように、頑張って練習しましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介