演奏方法の「原点」に立ち戻る

 写真は恩師久保田良作先生が、箱根で行われた門下生の夏合宿で合奏を指揮されているお姿です。日本を代表する素晴らしいヴァイオリニストとして、演奏活動も続けられながら、多くの弟子たちに熱く、そして優しく「音楽」を伝えられた指導者でもありました。桐朋学園大学の弦楽器主任教授としても、多忙な日々を送られていました。レッスンを離れると、人を気遣い優しい言葉で語り掛けてくださる「憧れの人」でした。

 「久保田門下」で最も不出来の弟子だった私が、今「デュオリサイタル」を開き大学を卒業して40年近く経っても、音楽に関わっています。
演奏技術を身に着けることは、その人の生涯をかけた行為です。「すべて身に着けた」と思える日は来ないものでしょう。それでも、あきらめずに練習することが演奏家の日常だと信じています。
 練習をする中で、新しい「課題」を見つけることも演奏家にとって日常の事です。その課題に向き合いながら考えることは?
 「原点に帰る」事だと思っています。
何を持って原点と言うのか?自分が習ったヴァイオリンの演奏技術を、思い起こせる限り思い出して、師匠に言われたことを「時系列」で並べてみることです。
 その意味で、私は幸運なことに久保田良作先生に弟子入りしたのが「中学1年生」と言う年齢ですので、当時の記憶が駆るかに(笑)残っています。
 「立ち方」「左手の形」「弓の持ち方」「右腕の使い方」
教えて頂いたすべての事を記憶していない…それが「不出来な弟子」たる所以です。それでも、レッスンで注意され発表会で指摘される「課題」を素直にひたすら練習していました。「できない」と思った記憶がないのは、出来たからではなく、いつも(本当にいつも)言われることができなかったからです。要するに、出来ていないことを指摘されているので「出来るようになった」と思う前に、次の「出来ていないこと」を指摘される繰り返しだったのです。それがどれほど、素晴らしいレッスンだったのか…今更ながら久保田先生の偉大さに敬服しています。
 教えて頂いた演奏技術の中に、私が未熟だった(今もですが…)ために、本質を理解できずに、間違った「技術」として思い込んでいたもの=恐らく先生の糸とは違う事も、何点かあります。それをこの年になって「本当は?」と言う推測を交えて考え真押すこともあります。

 自分が習ったことのすべてが「原点」です。師匠に教えて頂いたことを「できるようになっていない」自分を考えれば、新しい解決策が見えてきます。
 自分にとってどんな「課題」も、習ったことを思い出して「復習」すれば必ず解決できる…できるようにはならなくても、「改善する」ことはタイ?かです。
信頼する師匠から受けた「御恩」に感謝することは、いつになっても自分の演奏技術、音楽を進化させてくれるものだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


うまくなるってどんな意味?

 映像はもう8年も前の演奏動画です。ヴィオラで演奏したシンドラーのリスト。自分の演奏を客観的に観察することは、演奏者にとって必要なことです。
自分以外の人の演奏を聴く時と何が違うのでしょうか。

 自分の演奏が何年練習しても「うまくならない」と感じるのは私だけではないと思います。多くの生徒さんが感じていることのようです。
 生徒さんより長く演奏をしている自分が、なぜ?うまくなっていく実感がないのでしょうか。練習不足もあります。練習方法に問題があることも。意欲が足りないことも。「原因」はいくらでも考えられますが、50年以上ヴァイオリンを演奏しても「この程度」と思ってしまうのが現実なのです。うまくなりたい!と思う自分と、あきらめている自分が葛藤しています。生徒さんには「あきらめないこと!」と言いながら自分が上達していないと感じる矛盾。
 そもそも「うまくなる」ってどんな事を表す言葉なのでしょうか。
「できなかったことができるようになる」うまく弾けなかった小節を、練習して演奏できるようになった…と思っても、本番でうまく弾けていないことを感じる時に感じる挫折感。練習が足りない…ことは事実です。でもね…。
 自分の演奏を昔と今と聴き比べて、どこか?なにか?うまくなったのか、考えることがあります。生徒さんの演奏ならいくらでも見つけられるのに、自分の演奏は「ダメ」なことばかり気になります。昔の演奏の「ダメ」もすぐにわかります。つまり「良くなったこと」が見つからないのです。練習している時には「これか?」「うん、きっとこれだ!」と思っているのに、あとで聴いてみると「違う」気がすることの繰り返しです。一体、自分はなにを目的に練習しているのか…うまくならないなら、練習しても意味がない。練習しないなら人前で演奏することを望んではいけない。音楽に向き合う資格がない。負のスパイラルに飲み込まれます。そんな経験、ありませんか?

 自分の演奏に満足できないから、練習をやめることは誰にでもできることです。一番、簡単に現実から逃避する方法です。
 自分がうまくなったと思える日は、最後まで来ないのが当たり前なのかもしれません。うまくない…のは、他人と比較するからなのです。自分自身の容姿に、100パーセント満足する人はいないと思います。性格にしても、健康にしても同じです。他人と比べるから満足できないのです。
 今日一日、過ごすことができた夜に「満足」することがすべてですね。
「欲」は消せません。生きるために必要なことです。本能でもあります。
欲を認めながら、自分の能力を認めることが生きること。それを、もう一度思い返して練習を繰り返していきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノの音量

 映像はデュオリサイタル10代々木上原ムジカーザで演奏した、エンニオ=モリコーネ作曲「ニューシネマパラダイス」です。私がかけているメガネは「網膜色素変性症」という私の持つ病気の症状のひとつ「暗所で見えない」ことを解決するために開発された特殊なメガネです。
 さて、今回のテーマを選んだ理由は?

 練習を含めて、ヴァイオリンとピアノで演奏する時に、それぞれの演奏者に聴こえる「自分の音」「相手の音」のバランスと、客席で聴こえる両者=ヴァイオリンとピアノの音量のバランスの違いについて。以前にも書きましたが、私の場合練習していると自分の音の大きさに不安を感じることが増えた気がしています。聴力の問題ではなく、感覚的な変化です。演奏する曲によって、ピアノもヴァイオリンも音量が変わることは当然です。特に「聴こえやすい音域」さらに「同時になるピアノの音の数」は演奏者が考える以前に、楽譜に書かれていることです。それを音にした時、客席にどう聴こえるか?までを考えて楽譜が書かれているのかどうかは、ケースバイケース。どう演奏してもヴァイオリンの音がピアノの音に「埋没=マスキング」される楽譜の場合もあります。いくら楽譜上にダイナミクス=音の大きさの指示が書いてあったとしても、ピアノが和音を連続して速く弾いた時の「ピアニッシモ」の下限=最小限の音の大きさと、ヴァイオリンが低い音で演奏した「ピアニッシモ」のバランスを取ることは、物理的に不可能です。言ってしまえば「楽譜を書いた人の責任」でもあります。
 演奏すれ側にしてみれば、自分の音と相手の音の「バランス」を常に考えながら演奏することは、思いのほかに大きな負担になります。オーケストラの場合には指揮者がバランスを「聴いて」指示し修正できます。弦楽四重奏の場合、同じ弦楽器での演奏なので、音量のバランスは比較的容易にとれます。
 ピアニストに聴こえる「バランス」とヴァイオリニストに聴こえる「バランス」は当然に違います。経験で自分と相手の音量の「バランス」を考えます。
そもそもピアノとヴァイオリンの「音色」は音の出る仕組みから違いますから、聴く人には「違う種類の音」として聴こえています。ただ同時に聴こえてくるわけで、どちらかの音が大きすぎれば、片方の音は聞き取りにくくなります。
ピアノとヴァイオリンは「音源=弦の長さと筐体の大きさ」が圧倒的に違います。さらにピアノは「和音」を演奏し続けることがほとんどなのに対し、ヴァイオリンは「単音」を長く・短く演奏する楽器です。構造も音色も違う2種類の楽器が「一つの音楽」を演奏することの難しさと同時に「組み合わせの美しさ」が生まれます。それは味覚に似ています。甘さと同時に「しょっぱさ」を加えると、より強く甘みを感じます。コーヒーは苦みと酸味のバランスで味が決まります。ピアノとヴァイオリンの「溶けた音」を楽しんで頂くための「バランス」が問題なのです。

 物理的に音圧の小さいヴァイオリンを担当する(笑)私として、ピアニストの演奏する音の中に溶け込みながら、かつ「消えない」音量と音色を手探りで探します。それはピアニストも同じ事だと思います。お互いが手探りをしながらの「バランス」なのです。ただ、それぞれの楽器が演奏する中での「変化」も必要です。音色の変化、音量の変化。ヴァイオリンは音域が高くなるほど、聴感的に大きく聴こえる楽器です。逆にヴァイオリンの最低音はピアノの音域の中で、ほぼ中央部分の「G」ですから、音域のバランス的にもピアノの和音にマスキングされ聴感的に弱く聴こえてしまいます。
 練習の段階でヴァイオリン「単独」での音色と音量の変化を考えます。
ピアノと一緒に演奏してみて、その変化が効果的な場合もあれば、消えてしまう場合もあります。ピアニストの技術以前に「楽譜」の問題の場合がほとんどです。ピアノの「和音」と「音域」を、ピアノ単独で考えた場合に最善の「楽譜=最も美しく聴こえる楽譜があります。それがヴァイオリンと一緒に演奏したときにも「最善」か?と言えば必ずしもそうではないと思います。
 ヴァイオリニストの我がまま!(笑)と言われることを覚悟のうえで書けば、ヴァイオリンとピアノの「音圧の違い」を踏まえたアレンジ=楽譜を演奏する時の自由度=バランスを考えなくても演奏できる場合と、常に「これ、ヴァイオリン聴こえてるのかな?」と不安に感じ、弓の圧力を限界まで高くし、ヴィブラートをめいっぱい(笑)かけ、弓を頻繁に返す演奏の場合があります。どちらも「楽譜通り」に演奏したとしても、お客様が感じる「音の溶け方=混ざり方」の問題です。演奏者に聴こえるバランスではないのです。
 自分の音と、相手の音のバランスはホールによっても変わりますから、神経質になってもよくないと思います。ある程度の「当てずっぽ=勘」で演奏するしかありません。ただ自分の演奏が「平坦」になってしまわないように気を付けて演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートの中で子音を作る

 映像はデュオリサイタル13。エンニオ=モリコーネ作曲「ガブリエルのオーボエ」をヴィオラとピアノで演奏したものです。演奏はともかく…素敵な曲ですね。こうした「レガート=滑らかな音のつながり」で演奏する曲の場合に、音の切れ目=発音がはっきりしない(輪郭がぼやける)音になってしまいがちです。レガートだから…と言って「ピンぼけ写真」のような印象になってしまえば、滑らかと言うよりも「もやもやした」音楽に聴こえます。
 演奏するホールの残響時間にも影響を受けますが、まずは演奏自体が「クリアな変わり目」であることが第一です。ポルタメントやグリッサンド、スライドなどで、音の変わり目を意図的に「点」ではなく「曲線」にする演奏技法もありますが、多用しすぎれば「気持ち悪い」「いやらしい」「えげつない」印象に聴こえてしまいます。
 歌の場合、特に日本語の歌詞の場合に「子音」が多く音の変わり目=言葉の切れ目を、聴く側が想像も加えながら聞き取れます。逆に子音が少ない歌の場合や、意図的に子音を弱く歌う歌手の「歌詞」は滑らかですが音の変わり目を、感じにくく、言葉の意味が聞き取れないこともあります。

 移弦を伴うレガートや、1本の弦で大きな跳躍を伴うレガートの場合には、それ以外の場合=同じ弦で2度、3度の進行との「違い」が生じます。
 同じ弦の中でのレガートでも、左手の指で弦を「強く・勢いよく」押さえることでクリアな音の変わり目を出そうとすると、固い音になりがちな上、弦を叩く指の音が大きくなりすぎる場合があります。むしろ、弓の速度・圧力を制御しながら、左手の指の力を抜いて「落とす」ことの方が柔らかくクリアな音の変わり目を作れるように思っています。
 移弦を伴うレガートの場合には、一般的な演奏方法なら「先に二つ目の音を指を押さえて移弦する」のがセオリーです。ただ、この場合に弓の毛が二つ目の弦に「触れる=音が出始める」瞬間に発音しにくくなります。音が裏返ることや、かすれることもあります。だからと言って、弓の「傾斜の変化」を速くすれば、一つ目の音との間に「ギャップ」が生まれます。レガートに聴こえなくなります。
移弦の時、弓の傾斜を変えるスピードは演奏者によって大きく違います。
例えて言えば次の弦に「静かに着地」する移弦の方法と「飛び降りる」ような速度で「着弦」する違いです。どちらにも一長一短があります。
 そこで考えられる方法が移弦する瞬間に、二つ目の音の指を「同時に抑える」方法です。弓の毛が二つ目の音を発音するタイミングと、左手の指が二つ目の音を押さえるタイミングを合わせる特殊な方法です。ずれてしまえば終わり(笑)
左手指で音の変わり目を「作る」ことで、レガートで且つクリアな移弦ができます。とっても微妙なタイミングですが、無意識に移弦するよりも何億倍も(笑)美しく移弦できると思います。お試しあれ!
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンらしい音色と音楽

 映像は、ミルシテインの演奏するショパン作曲ノクターン。
古い録音でレコードのスクラッチノイズ(パチパチという音)の中から聴こえる音色と音楽に、現代のヴァイオリニストの演奏には感じられない「暖かさ」と「柔らかさ」「深み」を感じます。録音技術の発達とともに、より微細な音も録音・再生できるようになった現代ですが、私にはこのレコードに含まれているヴァイオリンの「音色」で十分すぎるほどに、演奏者のこだわりを感じます。
コンサートで聴くヴァイオリンの音色は、演奏者が聴く自分の音とは違います。
ましてや、演奏者から10メートル以上も離れた場所で聴く音と、現代のデジタル録音したものとでは「違う楽器の音」と言えるほどの違いがあります。
 その違いはさておいて、ミルシテインの奏でる「音色」と「音楽」について、演奏する立場から考えてみたいと思います。

 音の柔らかさを表現することは、ヴァイオリンの演奏技術の中で、最も難しい技術だと思っています。「楽器と弦で決まる」と思い込んでいる人も多い現代ですが、何よりもヴァイオリニスト本人が「どんな音色でひきたいか?」と言うこだわりの強さによって変わるものです。柔らかい音色を「弱い音」とか「こもった音」と勘違いする人がいます。私たちの「触感」に置き換えて考えればわかります。
柔らかいもの…例えば羽毛布団やシフォンケーキ。
柔らかい触感と「小さい」や「輪郭のはっきりしない」ものとは違います。
私達は柔らかいものに「包み込まれる」感覚を心地よく感じます。
固いものに強く締め付けられることは、不快に感じます。
そして「暖かい」ものにも似たような交換を持ちます。熱いもの、冷たいものに長く触れていたいとは思いません。
 現実には音に温度はありません。固さもありません。ただ、聴いていてそう感じるのは「心地よさ」の表現が当てはまる音だから「柔らかい」「暖かい」と感じるのだと思います。

 では具体的にどうすれば、柔らかい・暖かい音色が出せるのでしょうか?
・弓の圧力
・弓を置く駒からの距離
・弦押さえるを指の部位
・押さえる力の強さ
・ヴィブラートの「丸さ=角の無い変化」
・ヴィブラートの速さと深さ
・ヴィブラートをかけ始めるタイミング
ざっと考えてもこれ位はあります。
演奏する弦E・A・D・Gによっても、押さえるポジションによっても条件は変わります。当然、楽器の個性もあります。それらをすべて組み合わせることで、初めて「柔らかい」と感じる音が出せると思っています。

 最後に「音楽」としての暖かさと優しさについて考えます。
ミルシテインの演奏を聴くと、一つ一つの音に対して「長さ」「大きさ」「音色」の変化を感じます。言い換えると「同じ弾き方で弾き続けない」とも言えます。これは私たちの会話に例えて考えてみます。
以前にも書きましたが、プロの「朗読」はまさに音楽と似通った「言葉の芸術」だと思います。同じ文字を棒読みしても、意味は通じます。ただ、読み手の「こだわり」と「技術」によって、同じ文字にさらに深い「意味」もしくは「感情」が生まれてきます。朗読には視覚的な要素はありません。動きや表情も使って表現する「俳優」とは別のジャンルの芸術です。
 文字=原稿には、強弱や声の「高さ」「声色」は指定されていません。それを読む人の「感性」が問われます。まさに楽譜を音楽にする演奏家と同じことです。
 一つ一つの音の「相対」つまり前後の音との違いを、音色と長さと音量を組み合わせた「変化」によって表現することで「揺らぎ」が生まれます。
楽譜に書かれてない「ゆらぎ」はともすれば「不安定」に聴こえたり「不自然」に聴こえたりします。そのギリギリの線を見切ることで、初めて個性的な演奏が生まれます。簡単に言ってしまえば「違うリズム・違う音に感じない範囲」で一音ずつを変化させることです。さらに、一つの音の中にも「ゆらぎ」があります。ヴィブラートや弓の速さ・圧力による響きの違いを長い音の中に、自然に組み入れることで、さらに深い音楽が生まれます。
 音楽を創ることが演奏者の技術です。それは演奏者の「感性」を表現することに他なりません。楽譜の通りに演奏するだけなら、機械の方が正確です。
人間が感じる「心地よさ」を追及することが、私たちに求められた役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

何気ない曲の何気ない難しさ

 もう15年も前になる初めてのデュオリサイタルで演奏した、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」よりメロディー。あまりにも多くのヴァイオリニストが演奏されているこの曲、実は自分の中で「何かが難しい」…何が難しいのかが自分でもよくわからないのですが(笑)そんなこともあって、今までにあまり演奏してこなかった曲の一つです。次回のリサイタルでリベンジ!と思い立ち、ユーチューブを聞きまくってみました。皆さん、じょうずに演奏されているのですが、自分の好みに合う演奏が見つからない。明らかに他の演奏者と違う解釈で演奏されている「ヤッシャ様」(笑)の演奏がこちらです。

 ハイフェッツ様だから許される?(笑)大好きな演奏なのですが、個性的過ぎて「猿真似」になりそうで近づけません。いや…近付けるはずもないのですが。
 曲の好みで言えば、大好きな曲の中に入るのに自分で演奏すると「どこが好きなんだよっ!」と自分に突っ込みを入れたくなるほど。
 聴くことが好きな曲と、演奏したい曲が違うのはごく普通の事です。
でも、よく考えると聴くのが好きなら「ひいてみたい」と思うのが自然な流れのはずです。弾けない…という事でもないのですが、自分の演奏が好きになれません。「それ以外の曲は満足してるのか?」と言われれば、冷や汗ものです。
 趣味の領域で「楽しむ」事と、お客様に聴いていただく立場で自分が「楽しむ」ことの違いなのかもしれません。好きだから怖くて弾けない?(笑)
ぶつぶつ言っていないで、なぜ納得できる演奏が出来ないのかを言語化してみます。

 調性はEs dur=変ホ長調。特に苦手とか嫌いとかはありません(笑)
4分の3拍子。問題なし。重音の「嵐」も吹かない。特別に出しにくい音域でもありません。むしろ「普通に弾ける」言い換えれば、弾きやすい曲でもあります。
モチーフも覚えやすく、リズムもシンプル。
 中間部の軽い動きが「苦手」なのは否めない事実です。
気持ちが先走って、冷静に弾けていないことが一番の原因と分かりました。
とにかく、一音ずつ練習しなおし!
好きな曲を、気持ちよく弾けたら最高に気持ちいいですよね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ちょっとの違いが大きな違い

 映像はバッハ=グノーのアヴェマリア。
自宅で録音したCDの音源です。
どんな演奏にも「ちょっとした」演奏者のこだわりや工夫があります。
聴いている方に気付かれないような、ほんの小さなこと…
たとえば、ある一つの音の発音=音が出る瞬間を、出来るだけ柔らかく優しい音で…

 演奏全体から考えれば、「1音」のこと、時間にすれば「0.2秒」のこと。
それらを「組み合わせ」「積み重ね」ていくことで、一曲全体が「何もしない」時と比べると、物凄く大きな違いになります。
 ちょっとしたことが、とても難しい場合もあります。また、練習している時には出来ても、通して演奏するとできなくなる場合もあります。
 その「ちょっとした」ことを、小さなこと…どうでもいいこと…と思わないことが大切です。「大きな変化」は誰にでも気が付きます。「ほんの少しずつの変化」には気付かないことがあります。気温の変化と似ています。人への「優しさ」も同じです。相手が気づかない…かも知れない「小さな心配り」です。
「やってる感」を見せるパフォーマンスの真逆の行為です。さりげないこだわり…聴いている人が「なぜか?わからない。うまく言えない」でも「いいなぁ」と思える演奏を目指したい!って言っている時点で「さりげなく無い」のか?(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

だめだこりゃ…になった時

 今月23日に長野県木曽福島で開かれるコンサートで、久しぶりに演奏することにした、ラフマニノフ作曲「パガニーニの主題によるラプソディ」
映像はマキシム=ヴェンゲロフさまによる「憧れの演奏」です。
 こんな演奏をしてみたいのですが、現実には…

 過去に自分が演奏したこの曲の動画、3本のどれを見ても「逆」なんです。
なにが?(笑)アウフタクトに感じるパッセージを「アップ」、その後の重さのある1拍目を「ダウン」という運動…これ自体は間違っていないのですが、長い音をアップで膨らませたい!となると、アウフタクトを「ダウン」にして1拍目を弓先から「アップ」にしたい!のに…体と脳が「忘れてくれない」現象が起きています(泣)
 そもそも、楽譜と音楽と動きを頭の中で一つの「イメージ」にして記憶するようになってから、特に弓のダウン・アップの優先順位は「下位」になっています。むしろ「音楽」が先頭に来ているので、運動はあまり意識せずに演奏する習慣がついてしまっています。
 意図的に、弓の動き=ダウン・アップを優先しようとすると、音楽が引き算されると言う最悪の状態になります。だめだこりゃ!…と長さんの声が聞こえます(笑)しかも、楽器が「借り物」なので思ったところに思った音がない(笑)という現実。

 自分が「できない」と思う壁に直面することは、楽器を演奏する人には避けて通れない「運命的」なことです。しかも、それまである程度「出来ている」と思っていたこと、「なんとかかんとか弾けている」と思っていた曲に対して、自分自身が「ダメ出し」をして出来ていない・ひけていないことを発見したときの悲壮感…それまで見えていなかった部屋中の「ゴミ」が一気に見えてしまって、まるで五味屋敷の中に突然いるような恐ろしさと挫折感(笑)。
 どこから?手を付けても綺麗になる気がしない・できる気がしない…その気持ちに負けない「精神力」「気力」を生み出せるのは、結局自分自身だけです。
 誰かに助けてもらったとしても、きっとまた「汚れる・できなくなる」という不安が付きまといます。自分の手でゴミを一つずつ・できないことを一つずつ拾って片づけることの繰り返しをするのが一番です。
 自分にとって「苦に感じない」ことのつもりで片づけるのが有効な方法です。
私の場合、単純作業で「いつか終わる」…例えば教員時代にテストの採点を、1学年200人分を一晩で終わらせることには、ほとんど苦痛を感じないでやっていました。今でも、発表会やメリオケの動画編集を、その日のうちに終わらせる(笑)ことにも「大変だ!嫌だ!」と感じたことはありません。嫌なことはしない主義なので(笑)人によって「苦にならない」事は違います。他人から見れば「変なの」と笑われたり驚かれたりするのが、実はその人の「特技」かも知れません。ぼーっとするのが好きなひとなら、それが一番の特技です。本を読みだしたらいつまででも読みたい人なら「読書が特技」だし、どこでも寝られる人なら、それが特技です。その特技を「できない」と思う事に利用する方法を考えます。何も考えずにいることが「特技」なら、なにも考えずに演奏してみるのが一番の解決方法です。寝るのが特技の場合には?寝ている時の「快感」を感じながら演奏してみる…のかな(笑)
 私の場合には、日常が出来ないことだらけなので「できないこと」への耐性ががある程度(笑)ついていますが、今回の「だめだこりゃ」は結構しんどいです。まずは、頭の中で音楽と「腕の動き」を一致させるイメージトレーニングと、物理的にどうすれば「長い音が弓先から始まるか」を考えて、長い音の前の音、さらにその前の音からの「連続」で、どうやっても=考えなくても、長い音が弓先から始まるように「身体に覚えさせる」繰り返ししかなさそうです。
 身体が慣れるまで、頭を使う。これが鉄則です。身体の動き=運動が、意識しなくても理想の運動になるまでは、常に運動の前に「意識」する習慣をつけます。その意識があるうちは、他の事は意識できません。なので、出来るだけ、「エアーヴァイオリン」で練習するのが私流です(笑)「ラファソラレ~」「シドレラ~」右腕を動かす…変なおじさんになるので、人のいない場所で(笑)
 壁を超える→また壁にぶつかる→壁を超える
この繰り返しを楽しめるようになりたい!ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

チェロとヴィオラ・ヴァイオリンのヴィブラートを比較する

 映像は、チャイコフスキー作曲の「ノクターン」
チェロで演奏されることの多いこの曲を次回のデュオリサイタルで「ヴァイオリンとピアノ」で演奏してみます。そこで、参考までにヴァイオリンでの演奏を探してみました。

え  

 演奏の好みは別の問題として、今回はヴィブラートの違い…特に、チェロとヴァイオリン・ヴィオラの違いについて考察してみます。
 私自身、ヴァイオリンのヴィブラートよりもチェロのヴィブラートが好きです(笑)「言い切るか!」と思われそうですが、高校時代の親友がチェリストだったこともあり、自分のヴィブラートに不満のあった(今もある笑)私が、観察の対象にしていたのが「チェロのヴィブラート」なのです。
 特徴として「動きの可動範囲が大きく速い」「波=音の高低が滑らか」であることがヴァイオリンとの違いです。演奏技術によって差はあります。ただ、多くのチェリストのヴィブラートを聴いても、やはりこの「違い」は明らかです。
 ヴィオラでチェロの「真似」をしようと足掻いてみたことがあります。
サン=サーンスの白鳥やシューベルトのアルペジオーネソナタ、他にも多数。
ただ…どう頑張ってもなにか不自然に感じます。それは「音域」の違いと「筐体=ボディーサイズ」の違いだけではなく、ヴィブラートそのものに違いがることに気が付きました。

 「逆手」と「順手」と言う言葉をご存知でしょうか?
鉄棒や「ぶら下がり健康機」を手でつかむ時の「向き」のことです。
順手は手の甲が自分の方を向き、逆手は掌=てのひらが自分の方を向きます。
二つの握り方によって、使われる筋肉が変わります。特に「懸垂」で筋肉を鍛える場合には、に切り方によって鍛えられる筋肉が違います。
 マッチョを目指さない私にとって(笑)、懸垂は出来なくても良いのですが、ヴァイオリンやヴィオラを演奏する「左手」は実は逆手になっています。
一方、チェロやコントラバスの場合、左手は「順手と逆手の中間」つまり、腕を体に沿わせて「だらん」と下げた状態の時の、手の向きになります。掌が「身体の内側」に向き、手の甲が「外側」に向きます。この状態で普段、私たちは歩行しています。日常生活の中でも、掌を下に向けて作業することは、ごく自然にできます。何かにつまずいて、前のめりになった時に「手をつく」のは「順手」です。尻もちを付いて手を付く時にも、掌を下にします。つまり、私たちの祖先に近い「猿」が両手を使って「歩く」こともあるように、掌は下に向いた状態「順手」が自然な状態なのです。進化した私たちは「両手を内側に向ける」ことも、自然な「手の向き」になりました。

 逆手「以上」に掌をひねりながら演奏する楽器は、ヴァイオリンとヴィオラしかありません。管楽器…フルートの場合でも左手が「逆手」ですが、あくまでも掌が自分の方に向く角度までで演奏できます。クラリネット、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバ、打楽器、ピアノ、ギター、ハープ…どの楽器も掌の向きは「順手」もしくは、順手に近い向きで楽器を構え演奏します。逆手であるがゆえに、ヴァイオリン・ヴィオラは、楽器の「肩」部分に左手が当たって、ハイポジションでの演奏がさらに困難になります。当然この掌の角度でヴィブラートは極めて「不自然」な動きになります。
 その点、チェロとコントラバスは、ハイポジションになっても、左手の親指を指板の上に出すことで、掌と手の甲の「向き」は変えずに弦を押さえられます。
「理にかなった弦の押さえ方」です。ヴァイオリンを最初に演奏し始めた「誰か」がいるはずなのですが、恐らく「チェロの原型」や「胡弓」「二胡」「馬頭琴」のように、弦が「縦方向」に張られているのが弦楽器の「ご先祖」だと思います。それを「首に当てて=弦を水平方向に張る向きで演奏する」という「業虚?荒わざ」を試して、「だめだこりゃ」にならず「うん!これだ!」って感じたんでしょうか?(笑)
高い音を出したくて「小さくした」のか?それとも、持ち運びを考えて「小さく」したのか?どっちにしても、チェロの構え方のままで演奏すればよかったのに…。ぶつぶつ…。

 ヴァイオリン、ヴィオラのヴィブラートは、手首と肘関節の運動でかけます。
一方でチェロ、コントラバスのヴィブラートはもっと自然に「左腕全体」を利用してかけられます。どの弦楽器も「指で弦を押さえる」事に違いはありません。
ギターのようにフレットのないヴァイオリンやチェロの場合、押さえ方を少し変えるだけで、音の高さが変わってヴィブラートがかけられます。左手「指関節の柔軟性=可動範囲の大きさ」でヴィブラートの幅が決まります。
 ヴィブラートは「自然に聴こえるための技法」だと思っています。
ただ速く動かすだけを意識したヴィブラートは、聴いていて不自然に感じます。
「痙攣ヴィブラート」「縮緬=ちりめんヴィブラート」と呼ばれる「細かいヴィブラート」」を好むヴァイオリニストもおられますが、私にはヒステリックに感じてしまいます。
 遅すぎず、深すぎないヴィブラートを理想にしています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の重さと軽さ

 映像はクライスラーの「美しきロスマリン」を代々木上原ムジカーザで演奏したときのものです。同じ曲を杜のホールはしもとで演奏した動画が下の映像です。

 テンポの違い、弾き方の違いで音楽のイメージが大きく変わることがお分かりいただけるかと思います。好みは人によって違います。今回のテーマである「音楽の重さ・軽さ」は音楽を演奏する人の「技術」に関わるお話です。

 そもそも、音楽=音には物理的な「質量=重さ」は存在しません。人間の感覚的なものです。音楽以外にも「重苦しい雰囲気」「重たい話」と言う言葉や、「軽い食感」など実際の「重さ」とは違う表現で「思い・軽い」と言う言葉を使います。音楽の場合の重さ・軽さとは?どんな感覚の時に使うのでしょうか?
「重く感じる音楽や音」
・遅い・長い音・大きい・芯のある音色
「軽く感じる音楽屋音」
・速い・短い音・大きくない・高い音
例外もあります。さらに前後との「相対=比較」でも重さは変わります。
当然、組み合わせられて、より「重く・軽く」感じるものです。
これは推論ですが、私たちが実際に感じる「重たい物・軽い物」を持った時の「感覚」と関係があるようです。
 重たい荷物を手に持って歩く時、遅くなりますよね?腕や肩、腰、背中、足にも「力」を入れます。長い時間や距離を歩くと息切れします。速く「下に置きたい」気持ちになります(笑)
 軽い荷物なら?何も持っていない時と同じ速度で歩けます。走ることもできます。もしそれまで、重たい荷物を持っていたら「軽くてらくちん!」と思うはずです。
 ところが!「重厚」と言う言葉と「軽薄」と言う言葉を考えると、どうも…重たい方が「偉いらしい」(笑)気もしますね。「重みのある言葉」とか「軽率な行動」とか。「重たいことはいいことだ」あれ?どこかで似たような歌を聞いた覚えが…(笑)重鎮…まさに偉そう過ぎて嫌われる人の事。

 音楽で重たく感じることが「良い」とは限りません。ちなみに「軽音楽」と言う表現でポピュラー音楽をまさに「軽蔑」するひとを私は「軽蔑」します(笑)
ブルースやジャズが「軽い」とは思いません。クラシックが「重たい」と言うのもただの先入観にすぎません。
 曲によって、重たく聴こえるように演奏したほうが「ふさわしい」と思える曲もあります。逆に軽く聴こえるように演奏「したい」と思う場合もあります。

 映像はフォーレの「シシリエンヌ」をデュオリサイタル12で演奏している映像と、デュオリサイタル9の演奏にぷりんの写真をつけたものです。
 一般にこの曲は、下の演奏のテンポで演奏されることが多いのですが、ゆったりしたシシリエンヌの場合「安らぎ」や「落ち着き」を感じる気がしてあえて、テンポを遅くして演奏してみました。これも好みが分かれますが「このテンポで弾かなければいけない」という音楽はあり得ません。弾く人の「自由」があります。それを聞いた人が「これもいい」と思ってくれるかも知れません。

 最後に、演奏を意図的に重くしたり、軽くしたりする技術について。
前述の通り重たく弾きたいのであれば、実際に「重たい荷物を持って歩く」時の筋肉の使い方を演奏中に感じてみることです。速くは出来ないはずです。力を抜いてしまえば荷物を落としてしまいます。常に「一定の力」を維持することが必要です。さらに坂道を上るとしたら…音楽で言えば「クレッシェンド」と「音の上行」が同時にあれば、ますます「遅く・苦しく」なるはずです。
 軽く演奏したいなら、身体の力を「外」に向かって開放するイメージで演奏してみます。楽器を「中心=コア」に感じて、楽器から外に向かって「広がる」イメージを持つと、筋肉の使い方が「外側」に向く力になります。脱力するだけでは、まだ「重さ」が残っているのが人間の身体です。重力には逆らえませんから(笑)、浮上することは出来ません。力を身体の外に「放出」する方向に力を使えば、軽くなるイメージがつかめるはずです。
 一曲の中にはもちろん、ひとつの「音」にも重さの変化が付けられます。
軽く弾き始めてから、徐々に重くできるのが弦楽器や管楽器、声楽です。
その「特徴」を最大限生かすことも、弦楽器奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介