練習の組み立て

 映像はパラティス作曲と言われている「シシリエンヌ」をデュオリサイタル11代々木上原ムジカーザで演奏したときの映像です。
 チェロで演奏されることが多いこの曲ですが、数ある「シシリエンヌ=シチリアーナ」のタイトル曲の中でも、私の好きな曲です。
 さて、今回のテーマ「練習の組み立て」は、楽器を演奏する人たち共通の「練習」についてを、練習嫌いだった私(涙)が考えるお話です

 練習と言うと、なんとなく「学校の宿題」をいやいややっているような…これ、私だけですか?「やらなきゃいけない」と言う義務感にさいなまれながら、見たいテレビを我慢して宿題をやった記憶と重なるのですが…。
 私のような練習嫌いではなくても、「練習好き」な人のことを「すごい!」って思いませんか?あ、思わない?(汗)確かに練習が好きな人って、きっとおられるんでしょうね。尊敬します。
 では、練習をしなくてもヴァイオリンは上達するのでしょうか?←いかにも練習嫌いの人間の発想
結論を言えば、練習しなければ上達はしません。経験に基づいています(涙)

 そもそも練習は何のためにするのか?と言うテーマです。
「自分が思ったように演奏できるようになるため」だと思います。
練習をしなければ、思ったようにひけないのですが、「思ったように」と言うのが肝心です。多くの初心者の場合、先生や親に言われた「課題の楽譜」を「ひく」ことが練習だと思っています。少なくとも私はそうでした(中学2年生ごろまで)
「ひいていれば練習」ではないのですが、家で「監視」している親は、とりあえずヴァイオリンの音が知れいれば、練習していると思ってくれました(笑)
「毎日30分」とか「最低1時間」とかって、練習時間の事を話す人がいますが、多くの場合「時間=練習」だと勘違いします。もちろん、これから述べる「練習」には時間が必要ですが、ただ音を出すだけの時間は、厳密には練習ではありません。

 練習の意味も仕方も、まだ知らない生徒さんに対して、「課題」を出すことが指導者の難しさです。レッスンで上手にひけたら「はなまる」を付けてあげるのは喜ばれます。
「止まらないで最後までひけるように頑張ってきてね!」や「ゆっくりで良いから間違わないようにがんばってきてね!」や「音がかすれないように気を付けて弾けるようにがんばってね!」などなど、具体的な「目標」を出すのが一般的です。悪い例で言うと「次、これをひいてきてね」ですね。これ、最悪だと思いませんか?もちろん、音大生に言うなら問題ありませんが、先述の条件「練習を知らない」生徒さんにしてみれば、なにをどう?ひくの?どうやってひくの?ってわかるはずがありません。悲しいことに、こんな指示をだすヴァイオリンの「せんせい」が街の音楽教室にたくさんいることを、生徒さんからお聞きします。

 指導者の役割は、生徒さん(お弟子さん)に対して自分の音楽を教えることではない…と言う話は前回のブログで書きました。自分の生徒が「自分の好きな演奏」を見つけるための、プロセスとテクニックをアドヴァイスすることが役目だと思っています。その二つでさえ、人によって違うのです。自分の通ってきた道=練習してきた方法が、すべての人に当てはまるとは限りません。そこにも選択肢があるのです。ただ、練習のプロセスや練習のテクニックにも「選択肢」を増やし過ぎれば、生徒は混乱します。だからこそ、生徒の状態を観察することが大切だと思っています。

 これから書くのは、私なりの練習方法です。これが絶対に正しいとも、ほかに方法がないとも考えていません。
①自分の出来ていない「課題」を見つける。
・先生に指摘されて気付く課題や、うまくひけない「音」
②その課題を乗り越えるために「原因」を見つける。
・原因は複数考えられます。
・思ってもいないこと…無意識に(勝手に)動く腕や指が原因かも。
・自分から見えない「死角」も要チェック。
③原因を取り除くためのテクニックを考える。
・医療で言えば「治療方法」を考えるのと同じ。
・すぐには直らない(治らない)のも医療と同じ。
・繰り返して弾く前に、自分の音と身体を観察すること。
・常に冷静に「考えながらひける速さ」で繰り返す。
・音と身体を観察しながら、考えなくてもひけるまで繰り返す。
 

 上記の練習方法は、初心者を含めどんなレベルの人にも共通していると思います。ここから先は、「自分の思うような」という段階の練習方法です。
①「音の高さ」「リズム」「汚い音を出さない」3つの点に絞って演奏する。
・音量や音色、ビブラートやテンポを揺らすなどを意図的に排除する。
・「音楽と演奏の骨格」を把握するためのプロセスです。
②曲全体(1楽章単位)の印象と「曲のスケッチ」を考える。
・自分で演奏せずに、楽譜を見ながらプロの演奏をいくつも聴いてみる。
②多用されるリズムと音型の「特徴」を考える。
③1小節目の最初の音から二つ目の音への「音楽」を考える。
④最初から音量や音色を決めずに、一音ずつ「行きつ戻りつ」しながら考える。
⑤いくつかの音を「かたまり=ブロック」として考える。
⑥句読点「、」と「、」を探しながら、接続詞の可能性も考える。
⑦ある程度進んだら、ヴァイオリン以外のパートから和声を考える。
⑧弓の場所、速度、圧力を考える。
⑨使用する弦と指を考える。
⑩ブロックごとのテンポ、音色、音量の違いを考える。
☆一度にたくさん=長時間練習しない!(覚えきれません)

 最後に、日々、毎回の練習を「積み上げる」テーマです。
私の場合、視力が下がり楽譜や文字を読みながら練習(演奏)できなくなったので、少しずつ覚えながら練習していく方法しかなくなりました。
以前は楽譜に書きこんだ情報も読みながら練習していましたが、今考えてみると本当にそれが良かったのか?正しい練習方法だったのか?と疑問に感じることがあります。「怪我の功名」なのか「棚から牡丹餅」なのか(笑)いずれにしても、少しずつ覚えながら練習すると、時間はかかりますが覚えていないこと=理解できていないことを、毎回確認できるので楽譜を見ながら練習するよりも、結果的に短期間で頭と体に「刷り込まれている」ように感じています。
 練習は「積み重ね」でしかありません。しかも、時によっては前回の練習でできた!と思っていたものが出来ない…積み重なっていないことが多々!しょっちゅう!あるのが当たり前です。 
 私たちの脳と肉体は「機械」や「もの」ではありません。むしろ目に見えない「イメージ」の積み重ねだと思っています。なぜ?指が速く正確に動かせるのか?という人間の素朴な疑問に対して、現代の科学と医学はまだ「答え」を持っていないのです。今言えることは、私たちは「考えたことを行動できる」と言うことです。無意識であっても、それは自分の脳から「動け」と言う命令が出ているのです。考えることで演奏が出来ます。ただし、考えただけでは演奏できません。身体の「動き」も考えて演奏することで、初めて思ったように演奏できるのです。「たましい」とか「せいしん」ではなく、物理的で科学的な「練習」が大切だと思っています。「きあいだ!」「こんじょーだ!」も無意味です。
 考えることが苦手!と威張るより(笑)、好きなことをしている時にも、自分は無意識に考えていることを知るべきです。
 感情も感覚も、私たちの肉体の持つ「能力」で引き起こされている現象です。
自分の能力を引き出すことが「練習」だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介



ヴァイオリンの音域

 映像はグラズノフ作曲の「瞑想曲」です。
今回のテーマは、ヴァイオリンが演奏できる音域を有効に使った音楽について。
以前のブログで書いたように、弦楽器(ヴァイオリン族」の中で、ヴァイオリンは最も音域の狭い楽器です。ヴィオラはヴァイオリンより完全5度低い音が出せますが、演奏技法=左手指を
抑える構えがヴァイオリンと全く同じであるうえに、ボディーサイズが大きいため、ハイポジションで演奏できる範囲が、ヴァイオリンよりも狭いため、演奏できる音域の「音程=幅」はヴァイオリンと変わりません。一般に、ヴァイオリンの音は「高い」と言う印象がありますよね。
もちろん、ヴァイオリン族の中では、最も高い音を演奏できる楽器であり、弦楽合奏でも最も高い声部を担当します。

 ヴァイオリンの為に作曲された音楽は、それぞれに音域が異なります。
最低音の高さ「G」が出てこない曲も珍しくありません。高音の場合「実用最高音」と言われるヴァイオリンで演奏出来て、音楽の中で「かろうじて使える」高温があります。1番細い弦「E線」のハイポジションで出せる高音は、同じE線の「技巧フラジオレット」と言う演奏方法でも出すことができます。瞬間的な短い高音は、主にこのフラジオレット=ハーモニクスでの技法が用いられます。
ただ、音量が小さくなってしまうという致命的な問題があります。

 グラズノフの瞑想曲を聴くと、G線から始まり短い時間でE線にまで音域が上がっていきます。オクターブで考えると、1小節目の中で1オクターブ高くなり、2小節目はその1オクターブの範囲内で演奏されます。3小節目からは、さらに1オクターブ高い音、さらに4度高いE線の「D」まで高くなります。
その後、数小節間で冒頭の音域まで下がります。

 声楽曲の旋律を楽器で演奏する場合、ほぼ1オクターブ内の音域で作曲されています。曲の途中からオクターブを上げてみたり、2コーラス目を下げてみたりすることがあります。その場合には、ヴァイオリンやヴィオラの「最低音」と曲の「最低音」を考えて、調=キーを決めています。
 曲の「雰囲気」と「音域」と、演奏する楽器の音域による「特色」を考えて演奏している動画です。

 ドビュッシー作曲の歌曲「美しい夕暮れ」をヴィオラとピアノで演奏してCDに収録したものです。音楽の持つ「淡い色彩感」「甘美な旋律」「独特な和声感」を、ヴィオラの最低音域を使いながら演奏しました。
 「カラオケ」の場合、音源自体が「デジタル化」されているため、歌う人の歌いやすい「キー」に、リモコンの「+」と「-」キーで移調することが簡単にできます。ちなみに、先ほどの「美しい夕暮れ」の演奏を、デジタル化して3度ほど高くした「実験映像」を創りましたが、音色がなんとなくおかしいですよね?

 ヴィオラのビブラートが微妙に「細かく」なっています。
絶対音感の鋭い方がお聞きになると、気持ち悪いかもしれません(笑)
音の高さを「デジタルで変更する」場合に、速さも変えることも同じテンポのままで音の高さを変えることもできます。逆に言えば、テンポを変えても音の高さを変えないのが、Youtubeの「設定」にある「速度」を変化させた場合です。
 いずれにしても、実際に歌ったり楽器で演奏する「調=キー」によって、聴いた印象が変わります。半音変えるだけで、全く違う「雰囲気と音色」になります。

 最後にヴァイオリン・ヴィオラの音域ごとの音色について簡単にまとめます。
一般的に、ヴァイオリンのE線は他の3本の弦と「弦の構造」が違います。E線は鋭く明るい音色になります。ヴィオラの場合には、基本的に同じ構造の弦を4本張ることができます。
 楽器ごとの個体差によりますが、多くの場合に一番太い弦=低い音の弦がもっとも「音量が大きく」「音色のバリエーションが豊富」です。細い弦=高い音の弦は「音が明るい=耳に大きく聴こえる音域」の音がだせます。
 それぞれの弦で、長さが変わる=押さえる位置が変わると、高さだけではなく音色が変わります。当然のことですが、一番細い弦で一番高い音が出せますが、それが「一番美しい音」とは限りません。私は、ヴァイオリンのG線が美しく響く楽器が好きです。4本の弦の音色と音量のバランスが取れている楽器も好きです。
 音域は「音の高さの違い」以外に、音色も大きく変わることが弦楽器の特徴の一つです。色々な調で演奏してみる「実験」をお勧めします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリン初心者の苦悩

 動画は、エドワード=エルガー作曲の「6つのとてもやさしい小品」です。
ヴァイオリンを習い始めた生徒さんが演奏できる曲は?
明らかにピアノのそれに比べて、曲が少ない!ほとんど無い!のが実状です。
いわゆる「教則本」は数種類あります。それもピアノと比べれば、極わずかです。なぜ?そんな事が何十年も続いているのでしょうか?
 友人の作曲家に、初心者ヴァイオリン奏者のための曲を作ってもらったこともあります。高名な作曲家の先生が作られた作品を、私の生徒に初演させてもらったこともあります。そんな経験も踏まえて、「曲が少ない理由」を考えてみます。

 ヴァイオリンを演奏したい!と思い立った時点で「何ができて、何ができないか?」を考えます。
①楽譜の「ルール」
 ・音名=ドレミを読める速さは?

 ・ドレミファソラシドの高低を歌えるか?
 ・音符の種類=四分音符・二分音符の意味がわかるか?
 ・半音と全音の意味、臨時記号の働きをわかるか?
 ・調号の意味が分かるか? など
②音の高さの違いに対する「精度」
 ・音の高低の違いを、どの制度=半音高いなど理解できるか?
③練習に集中できる時間の長さ・期間
 ・一回の練習に集中できる時間
 ・飽きずに(飽きても)頑張れる時間
およそ、上記の違いが個人で大きく違うのは、どんな楽器を始める場合でも考えられる共通点です。

 次に、ヴァイオリン(弦楽器)特有の「むずかしさ」を考えます。
①弓を使わずに、開放弦をはじいて出せる音の高さを音名で理解できない
 ・絶対音感があればできます。なければできなくて当たり前です。
②弓を使わずに、弦を押さえて「ド」の音を見つけられない。
 ・上記①と同じ理由です。ドに限りません。
③弓で「一本の弦だけ」を弾き続けられない。
 ・簡単そうですが、ほぼ全員が「視覚」に頼ります。眼をつむると色々な弦を引いてしまうのが当たり前です。
③弓を「同じ場所」で動かせない。
 ・これも上記②と同じで「ガンミしていないと」弓が暴走します。
④弓と弦の「直角」が自分から理解できない。
 ・他人から見ればわかる「直角」が自分からはわかりません。視点の問題なので当然です。
⑤弓をたくさん使えない。
 ・全弓使おうとすると、弓の位置、角度を維持できません。特に「見ていないと」大変なズレが生じます。
⑥同じ音量・音色で弓を使って音が出せない。
 ・原理を知らないのですから当然です。
⑦演奏する構えで、自分の両手に「死角=見えない場所」が多い。
 ・ピアノの場合は両手の指が見えていますが、ヴァイオリンの場合左手の手首から肘までは楽器の死角になります。右手の親指も見えません。弓を動かして右手を見ていると、楽器が視野の外に出てしまいます。

 ピアノの初心者に、楽譜に書かれている「音符」の「音名」を教えて、鍵盤で演奏させることは、なんの予備知識がなくてもできますよね?
 ヴァイオリンではどうでしょうか?
開放弦を指ではじいて出た音を、楽譜で「ここ」と教えて、音名を教えられます。
まず弓を使って演奏することは、この時点では無理です。無理ではなくても、弦が4本あって、どこをはじいたら、なんの音が出るのか「覚える」ことになるため、「ソ・レ・ラ・ミ」が最初に出てくる音名になります。「ドレミ」さえあやふやな人が、始めから「ソ」とか「ラ」って大変ですよね。
 ピアノは「鍵盤の模様」で「ド」の場所を覚えるのが一般的です。
ヴァイオリンは…そもそも、開放弦の音を合わせる「調弦=チューニング」をするための技術が何種類も必要です。
① 音の高さを判断する「相対音感=制度」
 ・チューナーを使えばなんとかクリアできます。
②ペグを動かして正しい音で「止める」技術
 ・多くの場合、これで弦を切ります(笑)
 ・回せても=動かせても、ペグをとめる技術がなければ調弦はできません。
 ・アジャスターをすべての弦につければ、ペグを動かせなくても調弦はできますが、その前にペグで調弦してもらうことが必須条件です。

 ヴァイオリンの「はじめの一歩」に何を練習するのか?すべきなのか?は、指導者によって意見が違います。これは以前のブログでも書きましたが、習う人の「目指すレベル」がどうであっても、大差はないはずです。違うとすれば、今回のブログの冒頭で書いたスタート時点での「知識・技術」です。
 楽譜を読めない人がヴァイオリンを始める時には、指導者の手助けが相当に必要です。生徒が子供の場合には、親が自宅で繰り返し教えることも必要です。
 多くの場合には、開放弦「レ」か「ラ」を一定の長さで演奏することからヴァイオリンが始まります。
 が!レッスンが週に1回だとすれば、この「ラ」だけを7日間!
耐えられますか?(笑)大人でも無理だし子供に至っては、まず100パーセント飽きます。他に弾ける音がないのか?ひいちゃいけないの?なんで?
 1本の弦だけを演奏できるようにする「目標」や、弓を長く使って一定の音量・音色で演奏できる「目標」、メトロノームに合わせて弓を返す「目標」、眼をつむっても弾けるようにする「目標」などなど、次のレッスンまでの目標を示し、その「出来具合」を次のレッスンで指導者が確認し修正するのが「野村流」です。

 教則本だけで、ヴァイオリンは演奏できるようになるでしょうか?
本人の「やる気次第」だと思います。ただ、自分の演奏方法、出している音が正しいのか?なにか間違っているのか?は自分の力だけでは判断できないことがほとんどです。特に、それまでに楽練習の経験がない人の場合には、多くの「壁」が待ち構えているのがヴァイオリン演奏でもあります。

 教則本ではなく「音楽」の幅を感じられる初心者向けの曲とは?
エルガーの作品を参考にして、まとめてみます。
①開放弦から全音の幅を「1の指の位置」にした曲を作る。
・GdurとDdurなら開放から1の指が全音になります。
・さらにGdurならば、G線D線の指の並び方が一致し、A戦とE線の指の並び方が一致します。
②曲の最初の音を「0」「1」または「2」の指から始める。
③可能な限り「1」「2」「3」「4」の順で音の数が多い方が演奏しやすい。
④順次進行を多く使うことで、全音・半音の「音程」を覚える。
⑤上行系の音型と下降系の音型をバランスよく入れる。
⑥同じ弓の動き=リズムをある程度、反復させる。
⑦1曲の長さを16小節程度に抑え、ピアノの和声進行に多彩さを持たせる。
注文は限りなくありますが、初心者のためのピアノ曲集で感じられる「多彩な音楽」を弦楽器特有の「制約」の中で作って欲しいと思っています。
 ヴァイオリンはなぜか「コンチェルト」を初心者が演奏することになっています。ピアノでは考えられないことです。もっと、ピアノとの合奏で楽しみながら上達できる「練習曲集」があれば、無理をしてコンチェルトの練習に行き詰ってドロップアウトしてしまう生徒が減るはずです。
 才能教育と呼ばれる「Sメソード」の良さもありますが、系統だっていません。音を覚え、腕と指を動かして「楽器を弾いた」楽しさだけを味わえるより、始めから、必要不可欠な「相対音感の育成」と「調性感とリズム感の養成」「ボーイングの重要性に気付かせる内容」を考えたメソードが必要だと思っています。
 作曲家諸氏の研究に期待しています。
最後までお読みいただき、、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介



直線と曲線の美しさ

  上の映像は、レイナルド=アーン作曲の「クロリスに」をヴィオラとピアノで演奏した動画です。下の写真は、その演奏に使用している、陳昌鉉さん製作のヴィオラの写真です。
 今回のお話は「直線と曲線」というなんだか「算数」か「製図」に出てきそうなテーマです。
 ちなみに、①眼に見える「線」と、②眼には見えない「音の高さの変化・音色の変化」が「変化しない状態=直線」の場合と「丸く角のない連続的な変化=曲線」の両面で考えていきます。

 まず、①の目に見える線。ご存知の通り、弦楽器は柔らかい曲線の部分と、まっすぐな直線部分との対比が美しい楽器です。
 正面・背面から見た場合、肩や腰の部分と中央のくびれの部分、F字孔の曲線がそれおぞれに異なった「R=半径」の曲線で作られていることがわかります。
 R値は例えば、道路の「カーブ」の強さにも使われます。小さい半径のカーブを曲がる時には「急カーブ」になり、高速道路などの緩やかなカーブは「半径が大きい曲線」になります。

 駒をスクロール側やテールピース側から見れば、「アーチ=曲線」になっています。もしこれが「直線」だったら…両端の2本の弦は、1本ずつ弾けますが、中川の2本の弦を引こうとすれば、4本の弦が同時になってしまいます。
 直線部分は、ネックの両側、弦、正面から見た駒、などの部分です。
弦を上=スクロール側から見れば、直線なのは当たり前…と思いがちですが、駒を通過する弦が、上駒からテールピースまで「直線」でなければなりません。駒の位置や弦を乗せる場所がずれていれば、弦の駒部分が「折れた直線」になてしまいます。
 今回の写真にはありませんが、横や上下から撮影すると、表板、裏板が非常に緩やかな曲線に削られていることがわかります。駒の部分が高く、エッジの部分が低くなっています。この隆起の大きさで迷路と音量が変わります。

 写真にある楽器の頭にあたる部分「スクロール」の曲線美は女性の「髪」を模しているという説が有力です。弦楽器製作者にとって、この部分の美しさも求められる「美術品」としての装飾でもあります。もちろん、調弦の際に左手の指を「ひっかける」場所でもあり、触らずにいることは不可能です。
 これも、写真にはありませんが、スクロール側かテールピース側から見ると、「指板」は綺麗な曲線の「丸い面」になっています。指板を横から見た場合には、直線でなければなりません。定規を当てて、隙間がある場合には、職人さんに削り直してもらう必要があります。指板は固い「黒檀」で作られていますが、長年演奏していると、指で押さえる部分が削れます。また、ネック自体が弦の張力に負けて、表板側に沿ってしまう場合もあります。その話はまた今後に。

 今度は②の目に見えない、音の話です。
音の高さが一定で「揺れない」状態を私は「直線」に例えます。面であれば「平らな面」です。
 開放弦はピッチ=音の高さが変わらない…と思い込んでいる初心者が多いのですが、実は弓の速度と圧力が変わると、ピッチも変わってしまいます。揺れる状態です。他の弦が共振すると、やはり「揺れ」が上生じます。これはピアノでも同じです。平均律で調律すると、うねりが生じるのは以前のブログでも書きましたのでご参考になさってください。
 弦楽器がビブラートをかけて演奏する場合の話です。
ピッチを連続的に「角のない曲線」で変化させることが、私は最も美しいビブラートだと思っています。曲線ではなく「ギザギザ=折れ線グラフのような線」のビブラートは好きではありません。変化の量と速度で、曲線の「R値」が変わります。浅いゆっくりしたビブラートは、「ゆるやかな曲線」になり、深く速いビブラートは「急カーブの連続」になります。演奏する場所、音によってこの[R地」を変えることが必要だと思っています。優しく聴こえる音楽には「緩やかな曲線」激しく鋭い音が欲しければ「急カーブ」にすることが一般的です。
 他方で、「音色の連続的な変化」「音量の連続奥的な変化」でも、ビブラートに似た「波」を感じます、シンセサイザーの「モジュレーションホイール」を回すと、ビブラートに似た「波」が出ますが、ピッチは変わっていないことに気付くはずです。
 「クロリスに」で、浅くゆっくりしたビブラートと、直線=ノンビブラートの「ぎりぎりの変化」を模索しました。
 例えるなら、鏡のように平らな水面に、水を一滴垂らすと「小さな波」が広がります。水面がすでに真美だっているような状態に水滴を垂らしたが愛にも、同じ波が出来るのですが、その波は前者と違い、目立たなくなります。
 つまり「直線の後に曲線が始まる」瞬間こそ、一番波を感じる時だと思います。走っている電車や車に乗ていて地震を感じるのと、静かに寝そべっていて感じる地震の「感じ方」が違う事にも似ています。
 弦楽器のビブラートで、弦を押さえる左指の「強さ」を変える人がいます。「縦のビブラート」でもあります。この効果があるのは、ハイポジションで「弦と指板に隙間が大きい」場合です。弦を押さえる圧力でピッチが変わることも事実ですが、ハイポジションであっても「弦と平行なビブラート」は必要だと思っています。
ギターのビブラートは、弦と指板の隙間=弦高がほとんどない上に、フレットでピッチが固定されるために、弦を「横方向=弦に対して直角方向」に連続的に動かしてピッチを連続的に変えます。チョーキングと呼ばれる奏法もう同じ原理です。現を横方向に「引っ張る」ことでピッチが上がることを利用しています。

 弓のスティックは曲線です。弓を弦と直角にダウン・アップする運動は直線です。移弦をする際、弓を持っている右手の動きは「弧を描く=曲線」です。
 移弦をしながら、ダウン・アップを行うときにも、右手の動きは曲線です。
弓を持つ「右手の指」も「丸く=曲線」になっていることが大切です。
弦を押さえる左手の指も、原則は「アーチ形=曲線」です。

 二音間の高さの変化をなだらかにすると「グリッサンド」となります。
弦楽器の場合は「ポルタメント=無段階の音の変化」になります。ポルタメントの、音の高さの変化を「グラフ」として考えると、実は直線的にピッチが変わっているのですが、スタートする音から変化し始めて、ゴール=到達する音の高さに至るまでが「階段」ではなく「坂道」に感じるため、なだらかな印象になります。曲線ではないのですが、音の間を「なだらか=なめらか」な印象にしたい時に使うと、音楽が柔らかいイメージになります。やりすぎると「くどい・甘ったるい・いやらしい」印象になってしまうので、要所にだけ使うほうが無難です。

 最後になりますが、曲線だけで作られる3次元の物体「球」について書いておきます。
 球体は「どこから見ても丸い」物体です。ただそれは「外輪=枠線」が曲線だという「2次元」の話につながります。つまり紙の上に「球体」を書こうとすると、影を付けけないと「〇=丸」にしか見えません。
円錐は、横から見れば「△=三角」ですし、円柱を横から見れば「□=四角」です。上や下から見る時にだけ「○=丸」になっている物体です。
 この「3次元の曲線」に似た考え方が、「音の高さ・音の強さ・音色」の一つ、あるいは組み合わせを「曲線変化」すると、さらに複雑な「曲線の集まり」が生まれるのです。
 一つの音に、ビブラートを「丸く」かけながら、音色を「無段階」に変化させ、音量の変化をなだらかに行うことができるのが「弦楽器」なのです。
 もちろん、ノンビブラートで、音色も音量も変えないこともできます。
曲線と直線の組み合わせで、円錐や円柱が出来るように、音の「3次元性」を考えることも大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「お味噌汁」な音楽

 映像は、中学生・高校生の部活動オーケストラによる、外山雄三作曲「管弦楽のためのラプソディー」です。私の教員生活、最後の定期演奏会指揮で「最後のアンコール」に選んだ曲です。
 自分が日本人であることを感じる瞬間って、ある時突然にやってくるのかもしれません。この音楽を指揮しながら、ソーラン節、炭坑節、串本節、八木節などの民謡に、なぜか?血の騒ぐような興奮を覚えました。
 演奏している楽器編成は、ハープを含む「西洋の楽器」と、締め太鼓、和太鼓(大太鼓を代用に巣買っています)などが融合されています。

 私たち日本人と外国人の「人類」としての違いは、生物学的にはほとんどないのだと思います。さらに言えば「祖先」「ご先祖」をたどれば、必ずしも日本で生まれ育った「血縁」とは限らないのは、どこの国の人でも同じです。
 生まれ育った環境に、ソーラン節や八木節が身近にあったわけではありません。お味噌汁にしても、もしかすると外国人の方が、たくさん飲んでいるかもしれません。生活自体がグローバル化している現代ですが、どこかに「DNA」を感じることがあっても不思議ではないと思います。
 日本固有の自然や風土、文化が消えていることに危機感を持っています。
親やその親が育った環境を、壊しt続けている私たちが、次の世代に残せる「文化」はあるのでしょうか?民謡にしても、郷土芸能にしても、自然の風景にしても、「なくても困らない」という理由と「新しいものが良い」と言う価値観で「死滅」させているのは私たち自身であり、お金持ちと政治家たちです。
 新しく作ったものは、いつか古くなるのです。古くからあるものの価値を知らない人間に、新しいものを作らせても、また壊して新しいものをつくrだけの繰り返しです。音楽もその一つです。
 時間をかけて育てられたものを、安直に壊す人たちに「文化」「芸術」の意味は理解できません。古いヴァイオリンに、なん10億円ものお金を使うより、一本でも多くの樹木を残し、一つでも多くの文化財を残し、少しでも海を汚さないことに、お金を使うことの方が有意義だと思っています。
 お金で買えない「時間」の価値を、もう一度考え直すべきだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

「できる人」に共通すること

 音楽に限らず、それぞれの「世界」で突出した技術や能力を持っていたり、成果を残す人がいますよね。その人たちを、ただうらやましく思ったり、自分とは違う生き物だ(笑)とスルーすることがほとんどです。
 音楽の世界で言えば「ソリスト」と呼ばれる演奏家。起業家の人たちの中で「大富豪」になる人。スポーツの世界で「レジェンド」と呼ばれる人。子供たちの「お勉強」で考えると、偏差値・難易度がずば抜けて高い「超難関校」に受かり「東大」に進む人。
 私のような「凡人」から考えると、まさに雲の上の人?たちですが、60年以上生きて、たくさんの人と出会う中で、それら「スーパー」な人たちにも出会うことがあります。その人たちの「共通点」を考えてみます。

 「上には上がいる」とも言います。客観的な比較ができる世界で言えば、「スポーツ」特に記録が数値化できる競技の場合です。陸上競技や水泳の「タイム」などはとても比較しやすいですね。一方で「音楽」の場合、誰がすごい?誰が一番うまい?と言う客観的な比較はできません。「コンクールがある!」と言う人がいますが、同じ国際コンクールで「1位=優勝」した人たちの「比較」ってできますか?ショパンコンクールで優勝した人だって、今までに何人もいますよね(笑)結局、音楽の世界では「世界記録」は存在しないのです。

 さて本題に戻ります。「できる人」に共通していることは、たくさんあるように感じます。とは言え「凡人」の私が感じることなので、本当は違っているかもしれませんがお許しください。
 ・覚えるより考えることが好きな人である。
 ・ひとつの事を極めるために、ほかの事にも打ち込む人である。
 ・他の人がやらないことを見つけるのが好きな人である。
 ・常に新しいことを見つけようとする好奇心が旺盛な人である。
 ・自分の能力を常に客観的=相対的に評価できる人である。
 ・他人と自分を同じ目線=同じ位置で考える人である。
他にも色々思いつきますが、少し「逆の場合=凡人」を考えます。
 ・覚えれば頭が良いと思い込む凡人
 ・ひとつの事だけに執着し、効率も能率も悪い凡人
 ・他人のやっていることを出来れば満足する凡人
 ・今の知識と常識から抜け出さない凡人
 ・自分の能力を冷静に見ようとしない凡人
 ・自分よりできる人ををひがみながら自分より出来ない人を探して喜ぶ凡人
いかがでしょうか?ちなみに私はすべて下の段の「凡人」です。

 例えて良いのか?自信がありませんが、私の考える「できる人たち」です。
・クラシックもジャズも音響学も作曲も動画編集も好きなんだろうなというピアニスト「Cateen」こと、角野隼人さん
・クラシックも新しいスタイルの演奏も武道もビジネスも社会活動も好きなんだろうなというヴァイオリニスト、五嶋龍さん
・演奏することも音楽を広めることも子供と過ごすのも好きなんだろうなというヴァイオリニスト、イツァーク=パールマン

・インターネットSNSを活用することでクラシック音楽を広めようとするヴァイオリニスト、レイ=チェン
・宇宙旅行もスーパーカーも子供たちに夢を与え続ける企業経営者、前澤友作氏
・ロボット「オリヒメ」で障がいのために孤独になる原因「移動・対話・役割」をテクノロジーで解決しようとする科学者「オリィ」氏

 勝手に挙げさせてもらいましたが、もちろん!ほかにもたくさんの「できる人」が世界中にいると思っています。そうでない人は「できない人」ではなく、「普通の人=凡人」だと思っています。凡人こそが人類だ!と言われればその通り!(笑)でも、私たちが思い込んでいる「できない自分」は、もしかしたらできる人たちの真似をしてみることで「できるようになる」とも思うのです。「できもしないのに」という考え方は、卑屈で私は好きではありません。
矛盾していると思われそうですが、「できているつもり」も違うと思います。
「一流の演奏家」と呼ばれる人たちの中には、悪い言葉で言えば「〇〇のひとつ覚え」に感じる演奏をする人がいます。誤解されそうですが、音楽に打ち込んでいる人のことではありません。「自分の音楽にしがみつく人」のことです。
 いろいろ書きましたが、「あきらめない」ことが私のような凡人には、何よりも大切なことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

優しい演奏は易しいか?

 演奏は、私と浩子さんのCD「Tenderness」に収録した「ハルの子守歌」
渋谷牧人さんの作品を、ヴィオラとピアノで演奏したものです。
前回のブログ「レッスン」で私が書いた「指導者のコピー」についての私見にもつながりますが、2022年の世界で一番大切なキーワードは「優しさ」ではないでしょうか。

 国際コンクールで技術を競い合う事より、もっと大切なことがあると思うのです。もっとはっきり言うなら、音楽で競いあう時代はもう終わっていると思うのです。「ソリストの〇〇さんより上手に演奏する」ことを目指すことに、私は意義を感じません。演奏家に求められているのは、聴く人の心を和ませ、穏やかな心にしてくれる演奏ではないのでしょうか?怖い顔をしながら演奏する音楽に、人は癒されないと思うのです。「癒しだけが音楽ではない」ことはわかっています。人を勇気づける音楽もあります。故郷を思い出す音楽もあります。激しい音楽もあります。ただ、どんな音楽であっても、演奏している人の「暖かさ」を感じない演奏が増えている気がしてなりません。それは、習う人の問題ではないと思います。教える側の責任です。教える立場になったとき、自分の経験で得た技術を、生徒に伝えるのは大切なことです。技術は教えられても「音楽」はその人、固有のものです。神様でも仏様でもない人間が、他人に自分の「感覚」を伝えることは不可能です。自分の表現を、生徒に「真似させる」ことは実は難しい事ではありません。教えられた生徒は「うまくなった」と勘違いします。自分の感覚で作ったものではない「形=表面」をいくら練習しても、自分の音楽にはなりません。生徒に「安直にうまくなれた」と思わせるのは、生徒に喜ばれます。「上手ね」と言われているのと同じことです。

 人間の優しさは、その人の音楽に現れると確信しています。
一方で、人間の「強さ」は他人に見せびらかすものではありませんし、「強がる」人間は自分の弱さを隠しているだけだと思います。「誰かに負けない」と言う発想は強さではありません。それは他人が自分よりも弱いことを願っているだけなのです。戦争をしたがる人は、自分では決して血を流しませんよね?それと同じです。
 CDに書いた言葉です。
強くなくても
目立たなくても
すごくなくても
優しい音が(人が)

好きだから

  他人に優しくすることは、一番難しいことだと思います。
聴いている人を「優しい気持ち」にする演奏は、自分が他人に優しくなければできないと思っています。演奏の技術にしても、人を驚かせる演奏より、人を優しくさせる音楽の方がずっと難しいと思うのです。
「北風と太陽」のお話みたいですが、今の時代に「北風」を感じる演奏よりも、「太陽」を感じる暖かい演奏が必要だと思うのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レッスンに思う

 今回のテーマは、「レッスン」について。
偶然、ある日本の音楽大学でヴァイオリンを指導するヴァイオリニストの「レッスン」の一部をYoutubeで見ました。その先生のお名前、学校名は伏せさせて頂きます。とても高名なヴァイオリニストで、習う側もコンクールで優秀な結果を出している若者でした。非常に具体的に、一音ごとの演奏方法について「指導」している場面が多く、見ていて違和感を感じたので自分の経験を踏まえて、書きたいと思います。

 ちなみに動画は、マキシム・ヴェンゲーロフのマスタークラス(公開レッスン)の映像です。私はこのレッスンに共感します。
 私の恩師、久保田良作先生は優秀なヴァイオリニストを、本当にたくさん排出された桐朋学園大学「主任教授」でもいらっしゃいました。小学生から音大生、その卒業生までをご自宅と学校でレッスンされ、多忙な先生でした。
 私はその門下生の中で「一番へた」な生徒だったと自覚しています。
自分のレッスン以外にも、前の時間の同門生徒のレッスンを見ることができました。
私が不出来だったこともあるのですが、先生は決して「こう弾きなさい」と言う内容の事はおっしゃらないレッスンでした。生徒が自分で考えて演奏することを、何よりも大切になさっていたように感じていました。
 他方、学内で他の先生の中には、具体的に「この音はこう」「この音のビブラートはこう」と言う「指導」をされていた先生もおられたようです。実際、その先生の門下生の演奏は、「先生の演奏のような演奏」だったことをを記憶しています。私はその当時、そのことに何も感じていませんでした。

 今回、Youtubeでレッスンを見ながら、指導者が「自分の演奏をそのまま教える」ことが、果たしてレッスンと言えるのだろうか?と素朴に感じました。
生徒が師匠の「真似」をしようと研究するのとは、まったく問題が違います。
指導者が自分で考えたであろう、一音ごとの「演奏方法」をそのまま弟子に事細かに教えるのは、弟子にしてみれば「ありがたい」事かも知れません。考えたり研究したり、試したりしなくても「先生の演奏方法」を先生が直接教えてくれるのですから。
 先生と弟子が一緒に演奏している演奏動画もアップされていました。
見ていて正直「不気味」でした。ビブラートの速さ、深さ、固さまでが「そっくり」で、ボーイングの荒々しさ(良く言えば強さ)まで同じでした。「クローン」を見ているようでした。弟子にしてみれば「光栄なこと」だと感じるでしょうが、本当にそれで良いのでしょうか?

 何よりも、演奏方法や音楽の解釈に「正しい」と言うものはあり得ません。人それぞれに、求めるものが違うのが当たり前です。生徒が自分の好きな演奏を考え、その実現方法を模索し、試行錯誤を繰り返すことが「無駄」だとは思わないのです。さらに厳しいことを言えば、指導者が自分の演奏を弟子に「これが正しい」と教えるのが最も大きな間違いだと思います。私はその指導者の演奏を聴いていて「押しつけがましい」印象を受けます。違う言い方をすれば「冷たく、怖い演奏」に感じます。どんな優れたソリストであっても、聴いてくれる人、一緒に演奏する人への優しさがなければ、独りよがりの演奏になります。むしろ「技術だけ」のお披露目であり、演奏者の人間性や暖かさは、どこにも感じないのです。「うまけりゃ良いんだ」という考え方もあります。人間性より演奏技術だと言われれば、そうなのかも知れません。
 ただ、自分の弟子を大切に思うのであれば、目先の「コンクール」よりもその生徒の「考える力」を大切にし、自分よりも多様性のある演奏をしてほしいと、願うのが指導者ではないでしょうか?
 生徒がうまく弾けずに、悩んでいる時に、一緒に悩んであげるのが指導者だと思います。「自分の答え」を教えてあげるのが指導者ではないと確信しています。それは生徒にとっての答えにはなりません。
 私自身が不器用で、不真面目な生徒だったから、私の生徒には私より、もっと上手になって欲しいと常々思っています。私は久保田先生の指導に、心から感謝しています。自分に足りない技術を、自分で考えることを教えて頂きました。
安直な解決方法より、自分で解決することを学べた結果、自分で考えた音楽を、自分で考えて演奏する楽しさを知りました。
 音楽に正解はありません。だからこそ、自分で考える力が必要だと思います。
生徒に教えるべきことは「自分で考えること」以外にないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

愛のある「演奏」と後味の悪い「チャラ弾き」

 今回のテーマも、きわめて個人的な「私見」ですので、お許しください。
始めに書いておくと、これから書く内容はあくまで「演奏家」に対して思う事であって、趣味の演奏者=アマチュアの人への差し出がまし意見ではありません。特に、若い演奏家、あるいは演奏家を目指す学生たちへの「はなむけ」と、街中で繰り広げられる「ストリート△〇×」に感じることです。

 演奏に愛を持っているか?
大上段から切り込みましたが、プロの演奏家として演奏する人が、持つべきものはたくさんあると考えています。「誇り=プライド」も大切です。「責任感」がなければ職業とは言えません。「技術」は自分の出来る限りの努力で身に着けるものです。何よりも「人への感謝=愛」だと私は思います。自分への愛も含め、親、師匠、作曲者、聴いてくれる人、支えてくれるスタッフなど、演奏できることへの感謝があってこそ、聴いていて「心地よい」演奏、料理で言えば「おいしい=愛情のこもった手作り料理の味」だと思います。
 下の動画は私が好きな演奏家の動画を三つだけ選ばせてもらったものです。

 今回の動画はこれだけです。「チャラ弾き」だと感じる演奏については、ご本人のプライドもありますし、あくまで私見ですので「これ!」と言う具体的な指摘は致しません。
 上の演奏は単に「すごい」だけではなく、感じるものがあります。
直接、ご本人に伺ったわけではないので想像でしかありませんが、どの演奏にも演奏者の「こだわり」を感じるのです。速く演奏するためだけに練習したとは思えません。速く演奏すること以上に、その音楽への愛情を感じます。「好きなんだろうな~」と聞いていて感じるのです。

 一方で私の考える「チャラ弾き」の定義です。
・自分の演奏する音楽を、深く考えずに演奏している。
・聴いてくれる人への「敬意」を感じない。
・その場の「受け」を優先している。
 それが演奏者の本位でない場合も当然にあることです。
聴いていて・見ていてそう、感じるという意味です。
私自身が音楽を学び、ヴァイオリンやヴィオラを演奏し、生徒さんに演奏を教える「生活」をしているから感じる面もあります。
 つまり、一般の人=演奏家でない人や、私の先輩や師匠の皆様が感じられるものは、私と違って当然だと思うのです。
 演奏を聴いて後味の悪い印象を感じる演奏が「チャラ弾き」です。
料理で言えば、明らかな「手抜き」の「レンチン」「レトルト」料理を食べ終わった後の感覚に似ています。断っておきますが、私は近頃の「冷食」大好きです。屋台のラーメン、お好み焼き、たこ焼きも大好きです。
 母の作ってくれた料理は、決して見た目の綺麗な料理ではありませんでした。
「野村家」のカレーは、両親が辛いものが大嫌いだったので「辛くないカレー」でした。今思うと、もしかするとハヤシライスに近い食べ物を「カレー」だと思って育ちました。それでも、そのカレーが大好物でした。家族への「愛」が甘いカレーを作ったのだと思います。
 料理に「インスタント」はあってしかるべきだと思います。手軽に作れて、栄養もとれるのですから、むしろ素晴らしい食べ物です。
 ではプロの演奏家に「インスタント」は許されるのでしょうか?
・楽譜をただ、何も考えずに演奏するだけ。
・ただ速いだけや音量が大きいだけの演奏。
・聴く人によって演奏のレベルを変える=わからない人だと思えば適当にごまかして演奏する・試験になると減点されないだけの演奏をする。

 聴く人がだれであっても、自分の出来る限りの演奏をするのが「プロ」だと思います。自分の演奏技術の「ひけらかし」が通用する相手としない相手がいるのは事実です。通用しないと「つまらない演奏」でも減点されない=まちがえない演奏に終始するのは、根本的に間違っています。技術は、聴いてくれる人に自分を表現するための「手段」です。自分を表現しない演奏は、音楽ではなく「音=ノイズ」です。雑音でなくても「音」でしかありません。
 ストリートピアノにも様々な演奏があります。
演奏者の「愛」や「魂」を感じる演奏もあります。
アマチュアの人が、楽しんで演奏しているYoutube動画は、ほほえましく見られます。一方で「まさか…音大生?じゃないよね…」と思われる映像を見かけると、ぞっとするのは私だけでしょうか。だれか言ってあげないのでしょうか。それ、今後の仕事に差し支えるからやめたら?と。本人の価値観ですから良いのですが、プロの演奏家として生活することを「なめて」いるとしたら、大間違いですよね。はい。老婆心でした。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器が変われば弾き方も変える

 上の二つの動画はどちらも「ラベンダーの咲く庭で」と言う映画のテーマ音楽です。演奏者は見ての通り(笑)私たち。演奏場所は、(上)代々木上原ムジカーザと(下)長野県木曽町のホールです。使用しているヴァイオリンは、(上)1808年サンタ=ジュリアーナ製作の愛用楽器、(下)2004年陳昌鉉氏の製作した「木曽号」。弓はどちらも私の愛用弓。浩子さんの演奏しているピアノは、(上)ベーゼンドルファーと(下)恐らく戦前に作られたスタインウェイ。
録音の方法が全く違うので、比較にはならないかも知れませんが、この二つのヴァイオリンを演奏した経験で「楽器による演奏の仕方の違い」を書いてみます。

 陳昌鉉さんのヴァイオリンを使って、陳さんゆかりの場所である木曽町でのコンサートを依頼されてから、この楽器で演奏に至るまでに、多くの問題がありました。まず、初めて手にした時に、およそ陳さんの作った楽器には思えない、見た目と音でした。調べた結果、アマチュアヴァイオリン奏者に貸し出した際に、その人が「指板」「駒」「魂柱」を別のものに付け替えていました。東京のヴァイオリン工房で作業した領収書がありましたので間違いありませんでした。当然、まったく違う楽器になってしまいました。駒と魂柱だけは、交換した「オリジナル」がヴァイオリンケースに無造作に入れてありましたが、指板はなし。陳さんの奥様に相談し、陳昌鉉さんが使用していた未使用の指板を頂き、信頼できる職人に依頼し、さらに陳昌鉉さんの制作した遺作ヴァイオリンを持ちこんで「復元作業」を施してもらいました。
 その後、その楽器でコンサートのための練習を開始することができました。

 陳昌鉉さんの木曽号は、新作であるにもかかわらず「枯れた音色」が特徴的な楽器です。陳昌鉉さんがご存命なら、私の「好み」に楽器を調整して頂くことも可能でしたが、それも叶わず、これ以上楽器に手を入れることも当然許されず…。出来ることと言えば、弦を選ぶことと「演奏方法を考える」ことです。
 木曽号は枯れた音色の「グヮルネリ・モデル」ですが、高音の成分が比較的少ない音色のために、「音の抜け=音の通り」に弱さがありました。
 普段、私はピラストロ社のガット弦「オリーブ」を使っていますが、音の明るさ=高音を足すには適さない弦です。同じピラストロ社のガット弦「パッシォーネ」も試しましたが、明るさは補えるものの弦の強さにヴァイオリンが負けて、音量が出し切れません。最後に選んだのが、トマステーク社の「ドミナント・プロ」でした。比較的新しく開発された弦で、テンション=張力は標準、高音の成分が多く明るい音色で、抜けの良さが特色の弦です。ただ、低音の太さが足りず、結果として音量をだすための演奏技術が必要になりました。

 まず楽器を自分の好みの音色で演奏するための「ひきかた」を楽器に問いました。弓の圧力・駒からの距離・弓の速度・ビブラートの速さと深さ・弦ごとのひき方など。そうやって、毎日少しずつ木曽号と「仲良く」なる時間を作りました。それが「正しい弾き方」かどうかは、私にはわかりませんが、少なくとも私の好きな音に近付けたことは事実です。

 映像を見比べて頂くと、指使いが違う事、ボーイング=弓のダウン・アップが違う事にも気づいていただけると思います。会場の響きも、一緒に演奏するピアノも違います。何よりもヴァイオリンが違います。指も弓も「同じ」で演奏できるはずがありません。仮に同じ指・弓で演奏すれば、もっと違う演奏になっていたはずです。
 演奏自体が満足のいくものだったか?と言われれば、いつもの事ながら反省しきりです。それでも、最善の準備と練習をして臨んだ演奏です。
ぜひ、ふたつの演奏を聴き比べて頂き、「演奏の傷の場所と回数」ではなく(涙)違いを感じて頂ければと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介