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映像は1975年(だと思います)桐朋学園大学オーケストラの定期演奏会を客席で録音したウィニアウスキー作曲、ヴァイオリンコンチェルト第1番、第1楽章です。当時中学3年生だった私が師事していた久保田良作先生門下の兄弟子…大先輩で、受験のための「下見レッスン」をしてくださっていた安良岡ゆう先生の独奏です。小柄で長い髪の見合う、明るく優しい憧れの先生でした。 ご自宅に毎週通って受験まで親身になってに指導をしてくださったおかげで桐朋に合格できました。
カセットデンスケ…知っている方は私世代です(笑)と、ソニーのステレオマイクをバッグに入れて録音しました。もちろん、独奏の安良岡先生からのご指示で録音したもので、悪意のある隠し録音ではありません。この録音を留学のためのテープに使用されるとのことでした。 音は現代の録音に比べると「回転ムラ」が感じられます。でも、演奏の「質」はしっかり伝わってくる気がします。 この翌年から、私が高校生として通い、大学を卒業するまで通った当時の桐朋。高校生と大学生、研究生、ディプロマ生、聴講生、子供のための音楽教室に通うう子供たちが、同じ建物で学びました。 当時、3階建ての旧館と4階建ての新館、新館の地下に高校生の学ぶ10の教室がありました。 オーケストラはすべての弦楽器・管楽器・打楽器の高校生と大学生が、高校・大学の枠を設けず全員が必修の「授業」でした。 高校・大学の新入生は「ベーシック・オーケストラ」で学びます。 弦楽器と管楽器がそれぞれの合奏を学び、合奏の前に「ベーシックスタディ」と呼ばれる基礎練習を学びます。裏打ちの練習、2対3で演奏する練習など。 実技試験の成績と全員が受けるオーケストラオーディションの成績で、学年が上がるときに「レパートリー・オーケストラ」の一員になれます。定期演奏会で「前プロ」を演奏することができますが、演奏旅行はありません。合宿は当時、北軽井沢の「ノスタルジック=ボロボロ」合宿所でした。 さらに学年が変わり成績が良ければ「マスター・オーケストラ」で演奏できます。金曜日の夕方に行われていました。合宿先も豪華になり、当初は志賀高原「天狗の湯」、その語習志野市の施設「ホテル・アルカディア」だった…気がします。演奏旅行があれば学生は無料で参加できました。大阪、仙台、沖縄に行った記憶があります。昔はニューヨークの国連本部で演奏したこともあったようですが、私の在学中には一度も海外演奏は行われませんでした。
どのオーケストラでも、合奏の前に「分奏」がありました。弦楽器は、ファースト・セカンド・ヴィオラ・チェロ・コントラバスがそれぞれ別の部屋で「分奏韻」と呼ばれる指揮科の学生が合奏で指揮をする先生の指示を受けて、パート別の練習を行います。実技指導の先生も立ち会われていました。 ちなみに、ファースト・セカンド・ヴィオラのどのパートになるか?は、曲ごとに変わります。先生たちが考えてパートと席順を掲示板に張り出します。学生はそれを見て初めて、自分が次になんの曲でどのパートを演奏するのか知らされます。ヴァイオリン選考の高校生・大学生は、全員ヴィオラも担当しました。ヴィオラ選考のひとは、当然ヴィオラを演奏しますが、人数が足りないのは当たり前です。ヴィオラは学校から無料で貸し出されました。そのヴィオラにもランクがあり、一番上級のものが「特室-1」などの番号がついたヴィオラ。A-1~10?、B-1~10、C-1~10、D-1~10などが、一部屋の楽器棚に保管されていました。 大きさも暑さも重さも「様々」ですが、割り当てられたヴィオラで演奏するしかありませんでした。
文藻が終わると、楽器と楽譜を持って「403」という大きな部屋に移動します。ここは入学試験、実技試験にも使われる教室で、当時の校舎では最も広い教室でした。多くの打楽器もおこ荒れていて、合奏前に平台を並べ、譜面台やチェロ用の板を並べるのも学生たちで行っていました。 合奏で指揮をされる先生は、時によって様々でした。森正先生だったり、小澤先生だったり、秋山先生だったり、小泉ひろし先生、山本七雄先生などなど。 時々、学生指揮者が演奏会の前プロを指揮することもありました。覚えているのは、デリック井上さん。 桐朋のオーケストラでは、先述の通り高校生も大学生も関係ありません。 レパートリーオーケストラに高校2年時に上がれる人もいれば、大学4年生でレパートリーオーケストラにいる人も普通にたくさんいましたので、年齢差も様々でした。年功序列はなく、完全に「能力別」でした。評価する基準や歩法に、興味はありませんでした。あれ?私だけ?(笑)
そんな当時でさえ、卒業された先輩方からは「甘っちょろくなった」と言われていたようです。創設者の斎藤先生が亡くなられた翌年からのことですから、言われても仕方のないことだったように思います。 「弦の桐朋」と呼ばれていた時代です。東京芸大や国立音大、武蔵野音大、東京音大との「違い」も報じられたた時代でした。私自身は高校入試で、国立音大付属高校と豆桐朋女子高等学校音楽科を受験しましたが、当時の入試の難易度はまさに「天と地」ほどの違いがありました。生意気に聴こえてしまうのはお許しください。一度きりの受験経験で感じた難易度の違いです。聴音のレベルは、比較に値しない差がありました。実技試験でも、国立は無伴奏でコンチェルトを演奏するのに対し、桐朋は一日だけの伴奏合わせで試験当日、伴奏の先生とコンチェルトを演奏します。 他大学との「差」は他大学のレベルを知る機会がなかったので私にはわかりません。ただ、冒頭の録音を聴いて感じるように、プロオーケストラの演奏技術と比べ、弦楽器のレベルは「学生」のレベルではないように感じます。
ヴァイオリンの「教授陣」は今考えても、ぞっ!とするほど(笑)高名な指導者の先生方が揃っていました。それぞれの先生方が、個性的な指導をされ、門下生も個性的でした。先生方同士も試験の合間に、とても和やかでした。 当然ですが、桐朋の卒業生で先生をされている方はまだ少ない時代でした。 私が入学した当時「25期生」でした。つまり、桐朋が出来て25年目に高校生になったわけですが、それまで多くの「桐朋生」を育て卒業させてきた指導者が、まだ現役だった時代だったのかも知れません。 一人の「先生」で考えると、たとえば30代で指導者になったとすれば、25年間経てば50代後半の年齢です。その間に、さらに新しい「若手指導者」が入れば、指導者の連携ができます。 私が学生だった当時、あまり若い指導者がいらっしゃらなかったように記憶しています。言い換えれば「教授陣が同世代」だったように感じます。
現代、桐朋に限らず「母校=出身大学」で教えていない先生方が、あまりに多いように感じます。それぞれの先生方の「価値観」があって当然ですが、部外者の目からすると、違和感を感じます。経営者と教授陣が「別」の考え方になることは珍しくありません。多くの大学で「経営陣の権限>教授陣の意見」です。 桐朋が仮に「全盛期」を過ぎたとすれば、全盛期には「経営=教授」に近かったのかもしれません。現実、桐朋は「お金儲けの下手な音大」でした。 学生一人に対する教授の数が多すぎる=指導者の人数が多大よりも多いことを学生としても感じていました。だからこそ、学生に対するレッスンの質と時間が担保されていたのかも知れません。人件費にほとんどの授業料を使う音大が、ホールを持てなくても当然です。ホールがなくても、素晴らしい先生がたくさんいる方が魅力ある音大だと思うのは私だけでしょうか? 箱モノより中身です。 学生を集めるための「おしゃれな学内カフェ」よりも「習いたい先生がたくさんいる」ことが大切だと思います。これからの音楽大学に不安を感じる「音大卒業生」のボヤキでした。老婆心、お許しください。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介