メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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楽器・弓

趣味のある人生

 映像は2008年8月24日(日)に実施した、メリーオーケストラ第14回定期演奏会での「ビーチボーイズ メドレー」です。いつもの事ながら、演奏している人たちの「真剣さ」「ひたむきさ」「楽しさ」を感じます。「かっこよさ」とか「美しさ」「うまさ」が足りない?かも知れませんが、私にとっては前者の方が、1億倍(子供かっ!笑)大切なことだと思っています。
 今回のテーマは「趣味」についてです。

 趣味の〇△という書籍や番組、履歴書にある「趣味」の欄、お見合いで「ご趣味は?」←今時、言うのだろうか?など、普通に使う言葉ですが生活の中で、自分の趣味を考えることはあまりない気がします。
 まず、「子供の趣味」とは言いませんよね?子供が生き生きと遊んでいる姿こそ「趣味」の原点ではないでしょうか?好きなことをしている時の「純粋な楽しさ」こそが趣味だと思います。
 大人が趣味という裏側には「好きじゃなくても」やらなくてはいけないことがあります。あるいは、好きだけれど「責任」のあることも趣味とは言いません。
 失敗しても途中で投げ出したとしても、誰にも迷惑をかけないという「自分だけの責任」で楽しめるのが趣味でもあります。趣味にかける「お金」も、大人が自分で稼いだお金を使います。もちろん、家族がいる場合には「限度」がありますよね。家族に迷惑をかけない範囲のお金で、自分の好きなことをするのが趣味です。

 趣味のない人生。趣味のない生活。普段、仕事と生きることに精一杯の人にとって「趣味なんて余裕はないし、いらない」と思うかもしれません。
 確かに「お金持ちの趣味」と聞くと、悪いイメージがあります。
「豪華客船で世界一周するのが趣味」とか、「何台も車を買うのが趣味」とか聞くと思わずムカつくのが庶民です。生活に余裕のある人の特権なのでしょうか?
 私はそうは思いません。生活が苦しくても、趣味は楽しめると信じています。
お金をかける余裕がなくても、散歩が趣味だったり、ただボーっと空を見るのが趣味だったりするのは、素敵な趣味だと思うのです。その人が「心休まる」ことも立派な趣味だと思います。
 私の父は「骨董集め」が一番の趣味でした。休みの日には、ひとりで夜の明けないうちに起きて出かけ「蚤の市」に行っては、なにやら買ってきていました。それを、庭先の水道で洗う嬉しそうな父を「なにが楽しいんだ?」と怪訝な気持ちで見ていたのを覚えています。

ラグビーを見るのも趣味でした。テレビで生中継を見た後に、万度もビデオを見ながら、何度も興奮して手をたたく父を見て「大丈夫か?」と思ったこともあります。
 その父が一番嫌いで必要以上に怯えていた「病気」になってから、趣味を無くしました。骨董の事にも一切、関心を無くしました。母とふたりで施設に入居してからも、自分の部屋でただ椅子に座って、黙り込んでいるだけの日々でした。いくら誘われても、集まりにもイベントにも参加せずに、座ったままでした。
 私と浩子さんが演奏に行った時だけは、みんなと一緒に聴いていました。まるで「天照大神」になったような気がしました(笑)
 趣味を無くした人の「無表情」な顔は見ていて悲しくなるものです。
生きるために食べ、寝るだけの生活を本人が望んだとはいえ、家族としては骨董を洗っている父の姿の方が何倍も「生きている」姿に見えました。私事ですみませんでした。

 メリーオーケストラは趣味で楽器を演奏する人と、音楽を専門的に学ぶ人、さらには職業として演奏している人が、一緒に演奏して楽しむオーケストラです。
 普段、職業として演奏している方に対して「交通費」しかお支払いできないのは、音楽家として心苦しいことです。それでも「参加します」と言ってくださる人たちのやさしさに感謝すると同時に、その人が音楽を演奏することを「楽しんでいる」からこそ、交通費だけで参加してくれているのだと確信しています。
 音楽を一緒に演奏する楽しさを知っている人に、「すみわけ=分類」は不要だと思います。楽器の演奏が好き。一緒に音楽を演奏するのが楽しい。それが職業だろうと、自分だけの楽しみだろうと本質は「好きだから」という事に違いはないと思うのです。
 私自身、今までにいろいろな趣味がありました。カメラだったり車の運転だったり、バイクだったり。そして今、楽器を演奏すること、音楽を広めることが「趣味」なのかな?と自分で思う年齢になりました。出来ることだけしかしないという「無責任」なのかも知れませんが、そろそろそれも許される年齢になってきたように感じています。
 皆さんもぜひ!趣味のある生活を楽しんでください。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽ビジネスを考える

 映像は、ヴィオラとピアノで演奏した、メンデルスゾーンの「歌の翼に」
デュオリサイタル10、ムジカーザでの演奏です。ヴァイオリンで演奏できる音域の曲をこうしてヴィオラで演奏すると、違った味わいを感じます。

 今回のテーマは、クラシック音楽の演奏をビジネスとして考えるものです。
演奏することで生活するために、なにが必要でしょうか?
 当然、演奏技術は不可欠ですが、その演奏技術を誰が評価するのかという根本的な問題があります。もっと言えば、演奏技術とはなにを指している言葉なのか?と言う定義があるのでしょうか?

 一般にコンクールで優勝した、あるいは入賞した人の演奏は「演奏技術が高い」と言って間違いないと思いますが、それはそのコンクールでの演奏を評価した結果です。その演奏以外の演奏が常に高いと言う証明ではありません。
 コンクールで入賞していない人の演奏技術が「低い」とは限りません。
「評価が欲しければコンクールで入賞すればいい」と言う考え方もあります。
では、「○○音楽大学卒業」と言う肩書は、必要でしょうか?現実に何人もの優れた演奏家・音楽家は、音楽大学を卒業していません。言い換えれば、音大を出たから素晴らしい演奏家になれるわけでもありません。
 つまり「肩書」が演奏家にとって、どれだけの価値があるのか?と言うお話です。私は肩書は単なる「ブランド」だと思っています。少なくとも、演奏を聴いたことのない人の「肩書」と演奏技術は関係ないとさえ思っています。
 有名ブランドの洋服やバッグを、着たり持ったりすることに「喜び」を感じる人のように、肩書を見て演奏者の優劣を決めている、人や組織・プロダクションが多すぎると思います。
 演奏技術の評価基準は「間違えないで正確に演奏出来る」ことしかないのでしょうか?だとしたら、以前にも書いたように人間の演奏より、ロボットのほうがはるかに演奏技術は高いのですが?
 演奏の「センス」は評価不能だと思います。優劣は存在しない「好み」の問題です。だとすれば、自分の好きな「演奏家」を選ぶのは、聴く人と演奏する人の「センス」がすべてではないでしょうか?一般の人に演奏技術の優劣が判断できるものではありません。「誰かがうまいと言ったからうまいんだろう」と思っているだけです。同じことは、ヴァイオリンという楽器に「優劣」を付けたがる人たちにも言えます。「だれそれの作ったヴァイオリンは素晴らしい」「新作ヴァイオリンなど論外」と言うヴァイオリニストを良く見かけますが、本当にその方がヴァイオリンの「良し悪し」を見極めているとは到底思えません。
誰かが良いと言えば良い。有名レストランの料理をありがたがって食べる「食通」と同じです。人によって「美味しさ」の基準が違うのが人間なのに、他人が美味しいと言うから美味しいに決まっている!って、味覚音痴でしょ?(笑)
 演奏の好き嫌いこそが、普通の人の聴き方だと思っています。
演奏する人がどんな人なのか?を知っていればなおさら、その人の演奏に親近感がわくものです。演奏者の「人柄」も演奏家としての「資質=価値」だと思っています。クラシックの演奏が一般になかなか浸透しない理由の一つが「演奏を聴いても演奏家の顔や声を感じない」事にもあるのではないでしょうか?
 現実に、テレビで良く見かける「ヴァイオリンを演奏する芸人さんたち」は、顔や髪形、声や話し方、果ては「色気」で人気があるのも事実です。演奏の技術云々よりもそちらで「ファン」が増えるのは現実です。別に私たちがみんな、あの人たちのようにテレビに出る必要もないわけです。

 演奏会に来てもらいたいのなら「自分を知ってもらう」ことが必要だと思うのです。

 演奏家、音楽家はプレゼンテーションが下手な人がほとんどです。
一般企業で営業をする立場の人なら、顧客にプレゼンをして実績を作らなければ「窓際」で一生終わります。物作りをする人にしても、自分の商品をアピールできなければ、生き残れないのが現代の社会です。「音楽で勝負する」以前に、自分の演奏する音楽を「プレゼン」する努力と能力がなければ、生き残ることは出来ない時代なのです。
 誰かにコンサートを開いてもらう時代は、もう終わると確信しています。
なぜなら「中間マージン」が大きすぎるからです。演奏家が自分でプロモーションする力があれば、肩書がなくても音大卒業でなくてもお客様は集められる時代です。
 自分で自分を売り込める「自信がない」人は、生活できない時代になります。
他人の評価を待っている演奏家、肩書にすがる演奏家には見向きもされない時代が来ます。
 音楽家にとって「財産=商品」は、自分自身なのです。それを聴衆に「直接販売」するのがこれからの音楽ビジネスだと思っています。アナログで良いと思います。現にストリートピアノに人気があるのは「リアルに人が演奏している」からです。配信で生活しようとするよりも、自分の声で人を呼ぶ勇気と自信を持つことだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽で社会貢献できるのか

 映像は、NPO法人メリーオーケストラが演奏する「レ・ミゼラブル」の音楽です。
私の調べた限り、日本国内で現在(2022年5月30日)NPO法人=特定非営利活動法人として活動しているオーケストラは、私たちのメリーオーケストラしか見当たりません。NPO法人…ニュースで耳にすることはあっても、実際にどんな活動をする団体なのか?知られていない場合がほとんどです。
 難しい定義は書きませんが、要するに国が認める社会に貢献する活動を、予め定められた事業で行う「非営利=営利を目的としない」団体です。
 ひとつの例で言えば、社員=会員は、給与を受け取れません。
オーケストラの演奏者が「社員」であれば、演奏者に給与を支払えないのです。
この時点で「なんだよ。それじゃ生活できないじゃん」とあっさり考えます。
現実にメリーオーケストラ会員=社員は、給与どころか、逆に毎月3,000円の「会費」を納めています。演奏会を開くたびに係る経費は、その会費と賛助会員からの会費年間一口2,000円、さらに会員が支払う演奏会参加費で賄います。
 経費の中には、プロの演奏家への「交通費」も含まれます。「謝礼」を支払うこともできますが、その場合は法人が法人税を支払う必要が生じます。
会場の費用、付帯設備の使用料の中で、相模原市から年間最大100,000円の助成金が受け取れる場合もあります。申し込んだ事業の中で審査され
選ばれなければ、一円も助成されません。

 オーケストラに限らず、私たち音楽家が、「演奏会を開く」ことや、「楽器の演奏方法を指導する」ことは、どんな社会的な意義があるのでしょうか?
「考えすぎだ」と思う人もいるかもしれませんが、社会で必要とされない活動で、営利を求めること=生活することは現実的に不可能です。
 音楽を聴いたり、楽器を演奏したりすることに何かしらの「価値」を作るのは、音楽家と行政の役割です。音楽家はすぐに分かりますよね?行政って何?
簡単に言ってしまえば「政治」です。国や県・市・町が音楽にどれだけの「予算」という価値を付けるかです。
 演奏の「対価」として聴衆が支払うお金があります。このサイクルだけで、演奏会は成り立っていません。「一流の演奏家なら出来るだろう」と思われますが、演奏会を開くホールの多くは「公的」つまり税金を使って作られ運営されています。民間が運営するホールもありますが、当然収益を挙げなければ=ホールが利益を出さなければ、運営できないので使用料金は莫大な金額になります。その代金に見合う「入場料」は一人10,000円近い金額で満席にしても足りないのが現実です。確かに一流の演奏家なら可能だし、富裕層なら演奏会チケットを買えます。でもそれ、社会貢献でしょうか?ブルジョアの贅沢に感じるのは私だけでしょうか。

 音楽家に対する公的な予算ってあるのでしょうか?
公務員として音楽に関わる業種は。
1.公立学校の音楽教諭
2.音楽隊(消防庁や自衛隊など)
3.音楽療法士、理学療法士
です。演奏家として働けるのは2.の音楽隊だけです。
プロのオーケストラに公的な助成があるケースもありますが、基本は民間企業です。財団法人などでも演奏家への公的な支援は非常に少ないのが現実です。
要するに、日本国内で「音楽活動」が社会的に貢献する場は、ほとんどないことになります。それは音楽家の責任ではありません。国が音楽・芸術・文化を軽視していることの証明です。

 政治が音楽で社会貢献を考えていなくても、民間や個人で社会貢献することは可能です。ひとつの例が「ボランティア・コンサート」ですが、この活動にも様々な問題や意見の相違があります。
 ボランティアだから、何もかもが無料で実施できる、と言うのは嘘です。
演奏者が自費で会場まで行ったとしても、本来は交通費がかかっています。
途中で食事を取ることになれば、食費もかかります。
大型の楽器を使用するのであれば、運搬費がかかります。
「善意」と言う綺麗な言葉で、お金が要らなくなるわけではありません。
そもそもボランティアは、行う側と受ける側の「気持ちの一致」がなければ成り立たない行為です。音楽の演奏を「望む」人たちと「提供する」演奏家の気持ちが一致しなければボランティアではありません。
 気持ちをお金=対価にすることが、日本の経済活動です。それは、すべての業種で本来行われていることです。物を作る人も、売る人も、相手が望むから職業として成り立っているのです。演奏家も本来、望まれなければ職業として成立しません。つまり「ボランティア=無料」と言う発想は間違っていることになります。
いくらならボランティア?も違います。両者の「同意」がなければ成立しないはずです。冷たい言い方ですが、ボランティア活動にも契約が必須だと思います。
後でどちらかが、嫌な気持ちにならないためにもこの契約は必須です。

「社会貢献」と言うと「営利を目的としない」と言うイメージが付きまといますが、非営利だからお金が掛からないことにはならないことを、演奏者も市民ももっと理解する必要があります。
私の考える社会貢献は、「不特定多数の人」に対して、自分の持っている技術や能力を使って喜んでもらうことだと考えています。逆に言えば、特定の人に対しての行為は「社会貢献」ではないのです。公務員は不特定多数の人のために働く人たちです。一方で多くの演奏家は、お金を払って音楽を聴いてくれる人や、お金を払って演奏技術を習う人に対して、演奏や技術を提供して生活しています。その前提が日本では、崩壊している状態です。
 多くの音楽大学を卒業した若者が、演奏活動で生活できない現状があります。
様々な要因があります。一言で言えば「供給過多」です。需要より卒業生の数が多すぎるのです。さらに、就職先であるはずの「組織」の経営が困難です。プロのオーケストラを考えた場合、黒字経営にするためには、人件費を抑えるしか方法がありません。演奏会を開けば開くほど「赤字」になる状態に音大卒業生が入り込む余地は、1ミリもありません。薄給で定年まで演奏する演奏家に、頭が下がる思いもありますが、若い人が入り込めないことも事実です。
 オーケストラを増やせば解決する問題ではありません。
むしろ逆効果です。「観客の奪い合い」を推し進めるだけです。自滅行為です。
オーケストラを「合併統合」する場合があります。多くの問題を解決する時間と忍耐が必要ですが、生き残るためには必要なことだとも思います。
はっきり書きますが「○○キネンオーケストラ」こそが、不要です。
そもそも「記念」で立ち上がったはずなのに、なぜ延々と活動しているのか私には理解できません。
 若い音楽愛好家が、社会貢献できるシステムを構築しなければ、いずれ日本の音楽大学は自然消滅すると思います。それは「種の存続」の定理だと思います。せまい社会に多くの「同種」が存在すれば、やがてその種は消滅するのです。活動の場を増やすか、新たな音楽家の排出を抑えるしか方法はあり得ません。
 その両方を同時に行うことが最も合理的です。
社会が音楽を求めているのか?と言う問いに、自信をもって「はい」と答えられるように、全体を変えていくことが、私たちの仕事だと思うのですが…。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

60歳の音楽がサンダーバードでいいの?いいの。

 映像はNPO法人メリーオーケストラ第40回定期演奏会の映像です。
「サンダーバード」は幼稚園時代の数少ない記憶の中で君臨しています。
「神童」の皆様方は幼稚園時代、すでに演奏家としての準備活動をされていたのでしょうけれど、凡人代表のわたくしは。トッポジージョのゴム人形の耳を噛むのが癖でした←凡人の証か?
 その時代の音楽が今でも大好きです。白黒テレビとレコードの前身「ソノシート」で聴いていた音楽には「ぶーふーうー」「エイトマン」「鉄人28号」「鉄腕アトム」「スーパージェッター」などなど。今風に言えば「アニメ音楽」←どこが今風。
 ヴァイオリンを習い、音楽高校、音楽大学で学んだ「生まれてから20年」
生活のために(生きるために)ひたすら我慢して働いた教員時代「子供のための20年」
人間らしく生きることを思い出してからの「音楽に支えられる20年」が過ぎました。その集大成が「サンダーバード」です。あれ?振出しに戻った?(笑)

 音楽に優劣は存在しないと確信しています。
人として、まっとうに生きている人にも優劣はありません。
私が「人」としてまっとうなのか?は自分で判断できません。
クラシック音楽を学びましたが、音楽よりも人に興味があります。
どんなに高名な音楽家でも、その人の素顔=考え方・生き方に関心が行きます。
その人の事を知ることで、その人の評価が変化します。
演奏家自身も変わります。若さゆえに「天狗」になっていた人の鼻がいつの間にか、普通の鼻になっていることを感じることもあります。
 逆の場合、ひたすら音楽に向き合っていたはずの人が、いつの間にか「名誉・地位」にしがみつく「哀れな高齢者=はだかのおうさま」になってしまったケースもあります。
出来ることなら、私は前者になって棺桶に入りたい人間です。もとより、地位も名誉もお金もないので安心ですが(笑)
私の死んだ後に「若いころは良い奴だったのになぁ」と思われたくないです。はい。あ?若いころに、いい奴だったかな?自信ない…。

 アマチュアオーケストラを20年間指揮して来た中で、初期に良く言われたことがあります。
「はじめは、ハイドンやモーツァルトの音楽を練習しないと、難しい曲をじょうずに演奏できるようにならないよ」という、涙がちょちょぎれるアドバイスです。私は、まったく違う計画を持っています。それは今も変わりません。
 アマチュアオーケストラは、うまくならなくても何も問題はないのです。
聴く人が「もっと」と期待するのはごもっともです。もっと、じょうずな演奏を聴きたい方は、ぜひ!プロのオーケストラの演奏をお聴きになってください。
 だんだん難しい曲を演奏する以前に、簡単な曲ってなんですか?
簡単な音楽がある!と言う自惚れこそが間違っています。
モーツァルトやハイドンが「簡単=初心者向け」なんでしょうか?だとしたら、プロのオーケストラは絶対演奏しないんですよね?バカにされるんですか?「けっ!モーツァルトのシンフォニーかよ!」って(笑)
 メリーオーケストラにとって、どんな音楽も「演奏困難」なのです。
それは私自身のヴァイオリン、ヴィオラと同じです。簡単に演奏できる音楽が、一曲もないのです。「譜面=ふづら」が簡単そうに見える曲は存在します。
それを「簡単に」演奏するのは、その演奏者が「へた」だからです。
一音だけで、聴衆を魅了するための努力は、正解もゴールもない「永遠の課題」です。

 60歳を過ぎて、これから何をしたいのか?
実は考えたことがありません。別に現実主義者でもありませんし、かと言って理想偏重主義でもないつもりです。「出来るところまでやった」と自分が思えたら、自分でピリオドを打つことができないと、生きていても苦しいだけのような気がします。無理をしないで生きることができれば、最高の人生だと思っています。上を見てもキリがない。上から目線で誰かを見たくない。自分の立ち位置を考えられる「音楽愛好家」でいたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者はなにを演じるの?

 映像は映画「シンドラのリスト」のテーマ音楽です。
映画の音楽が必ずしも映画の内容と一致していなくても不思議ではありませんが、この曲も含めてテーマ音楽が映画の内容、ラストシーンと重なる印象になるケースが多いですね。

 さて、今回のテーマは音楽を「演奏」すると書きますが、この「演」という文字は実地に何かを行うときに使う文字です。演技、演算、演奏など。
演技と演奏の共通点を考えます。演技を演じる人を今、役者とします。
演劇、映画、テレビドラマなどで「役を演じる」人たちは、台本に書かれている「人」になりきって、見ている人をある時は笑わせ、ある時は苛立たせ、またある時は泣かせます。役者さん本来の人柄やその時の心理とは無関係に、見ている人をある意味で「騙し」ます。騙すと言うと印象が悪いのですが、「嘘の世界」をまるで「真実」に見せるのが演技です。

 一方、音楽を演奏する私たちはいったい何を?演じているのでしょうか。
言うまでもなく、作曲家の作った音楽を実地に奏でるのが「演奏」です。
では作られた音楽=楽譜と、役者さんの使う台本は違うのでしょうか?
台本の多くは「せりふ」です。そこに脚本家や演出家が動きや、感情を指示します。音だけの劇である「朗読」の場合は、動きはありません。言葉だけで台本の内容を演じることになります。
 ひとつの話の中に登場する人物が感じているであろう感情を役者が演じます。
話の展開、結末は台本を書いた原作者や脚本家によってきめられます。
役者が感じたままに演じる場合もあります。優れた役者さんに、監督が何も指示をださず役者とカメラマンに任せるという方法を黒澤明監督が使ったのは有名な話です。朗読の場合にも同じように、一人ですべての登場実物を演じきり、聴く人を魅了します。
楽器の演奏では言葉を使わずに、聴く人に音楽を伝えます。
音楽のタイトルがあったとしても、作曲者が特別な思いをもって作った音楽であっても、演奏する人と聴く人にとっては「音楽」です。
よく耳にする「音楽の解釈」と言う言葉があります。
作曲者の意図や当時の心情、作曲された時代を深く調べることで、演奏の「あるべき姿」を模索することだと思います。
 ただ、極論すれば作曲者自身が演奏しない限り、楽譜を作曲者の思った通りに演奏することは不可能です。そこには演奏者の「推察」が入るのです。
作曲された音楽のテーマや一部分だけを使って演奏する音楽を「邪道」と言う人がいます。

dougaha

動画は大好きなギタリスト「Marcin 」のパガニーニカプリース。
これを聴いて原曲と違うと言ってしまうこともできますが、もしパガニーニ本人が聴いたら「すげぇ!こっちのほうがかっけー!」と叫ぶかも知れない気がします。パガニーニ自身、ギターの演奏にも深い関心を持ち自身もギターを弾きました。ギターの奏法をヴァイオリンに持ち込んだのも、パガニーニなのですから。
 話がそれましたが、原曲の楽譜をどう?演奏するのかという演奏者の問題です。楽譜は記号です。文字も同じです。文字が「文」になり「文章」になり「作品」になるように、音符と休符が「モチーフ・テーマ」や同時に鳴ることで「和音」になり「フレーズ」になり「曲」になります。
 単語は意味を持ちます。ですが、文章になった時には違う感情を読む人、聴く人に与える場合があります。「空」と言う単語が、ストーリー=文章の中で、特別な意味を持ち、聴く人の涙を誘う事もあります。
 音楽の「ドシラ」という3つの音だけで感動する人はいないかもしれません。
それが…

 チャイコフスキーの弦楽セレナーデの冒頭部分です。
ファーストヴァイオリンの「ドシラ」がこの曲のテーマになります。
たかが「ドシラ」されど「ドシラ」です。
音楽が意味を持たない音の集まりだとしても、聴く人がなぜか?感情を揺さぶられることにこそ、演奏家は常に疑問を感じながら、試行錯誤を繰り返すべきです。「こう、書いてあるから」ではなく「こう弾くと、なにを感じる?」ことにこそこだわるべきだと思います。作曲者の意図より、自分の演奏を初めて聴く「普通の人」が何を感じてくれるのか?のほうが、ずっと大切だと思うのです。
演奏が単なる「楽器で音を出す」ことではないとするならば、私たちはその「音」で聴く人を感動させる技を磨くことが必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の幅と演奏能力

 上の動画は「ステファン・グラッペリ」さんの素敵なJAZZヴァイオリン演奏です。聴いていて、体に降り注ぐようなヴァイオリンの軽やかで、甘い音色が大好きです。
 今回のテーマである「音楽の幅」は、音楽のジャンルだけではなく、演奏する楽器の編成、演奏方法などの「種類」でもあります。
 ヴァイオリンを使って演奏する音楽にも、様々な音楽があります。
クラシック音楽と呼ばれる音楽でも「オーケストラ」「弦楽アンサンブル」「ピアノとの二重奏」「無伴奏」他にも色々な演奏形態があります。
音楽の種類にしても、バロック時代の音楽でのヴァイオリン、ベートーヴェンやブラームスの時代の音楽、現代作曲家の作品でもヴァイオリンは使用されます。
 オリジナル作品がオーケストラのための音楽でも、ピアノとヴァイオリンで演奏できるように「アレンジ」された音楽もあります。
動画のようなヴァイオリン演奏も、その一つです。
私は音楽の学校で「クラシック音楽のヴァイオリン演奏」を学びました。
だからと言って、クラシックと呼ばれる音楽の「すべて」を学んだわけでも演奏できるわけでもありません。学校で学べるのはほんの数年間。その間に学べる音楽の幅は、ごく限られた範囲の音楽です。

 時代と共に音楽の幅は広がります。音楽の「基礎」にあたる和声や形式は変わっていない面もあります。一番大きく変化しているのが、人間の手によらない「機会による音楽演奏」です。もはや「楽器」と「電子機器」の差が混然としてしまいました。コンピューターにデータを入力すれば、どんな音色の音も、どんな高さの音も、どんんなに短い音でも、間違えずに何度でも演奏するのが「電子楽器」です。それを「楽器ではない」と言い切るのであれば、ピアノと言う楽器でさえ、ピアノが出来る以前の人たちからすれば「それは楽器ではない」と言われるのと同じことです。エレクトーンという楽器はヤマハの作る「電子楽器」です。突き詰めればコンピューターも楽器なのです。

 ヴァイオリンを人間が演奏する楽器と限定してみます。
ヴァイオリンの音は人間が演奏する音だと定義してみます。
ヴァイオリンで演奏できる音楽に、向き・不向きがあると思います。
音楽の要素の中で「旋律」だけを演奏する場合、ほとんどの曲はヴァイオリンで演奏できます。演奏できても、ヴァイオリンの持つ特性を活かせない曲。

https://youtube.com/watch?v=OWITxKjwPjQ

動画での演奏内容について、コメントするつもりはありません。
生徒さんが「次にやってみたい曲」として教えてくれた動画です。
その生徒さんが小学校の運動会で踊った曲らしく、「知っている曲をヴァイオリンで弾いている動画を見つけたから」という理由です。
 もし、クラシック音楽だけを教える先生であれば当然「却下」するケースです。「もっと他の曲を練習しなさい」と言うのでしょうね。
 趣味でヴァイオリンを演奏する人にとって、あるいはクラシック音楽になじみのない人にとって、この曲がヴァイオリンの為に作曲された音楽ではないと、気付くでしょうか?最初の動画、グラッペリの演奏はクラシック音楽ではありませんが、演奏技術も内容も素敵だと私は思います。
 実際問題、この「群青」なる曲をヴァイオリンで演奏して本人が楽しいと感じるのであれば、、思うように演奏できるようにレッスンしてあげるのが私の仕事です。クラシックではないから、ヴァイオリンのための曲ではないからという理由で「ダメ」というのは理由としてあまりに説得力に欠けると思います。

この動画は、メリーオーケストラ定期演奏会に、教員時代に顧問をしていた軽音楽同好会のメンバー「JIRO」くんがギターでゲスト出演しくれた時の演奏です。
ドラムセットとエレキギターの「サウンド」と弦楽器の音色。会場で聴くと感動モノでした。

https://youtube.com/watch?v=-Fj58b59xy8

こちらは「ガブリエルのオーボエ」という映画のテーマ曲です。
当然、オーボエで演奏するために作曲された音楽です。
それをヴィオラで演奏したのが上の動画です。下の動画はメリーオーケストラ定期演奏会にオーボエ奏者「沖響子」さんをお招きしての演奏。
メリーオーケストラの演奏技術には目をつぶってください(笑)
作曲科の「意図」した音楽とは違うかもしれませんが、初めて聴いた人にとって違和感のない演奏なのか、なんとなく変な感じがする演奏なのか?演奏技術もさることながら、旋律の「向き・不向き」はあるのかも知れません。

 最後に、演奏者がコンサートで、自分の好きな音楽「だけ」演奏する場合、お客様がそのコンサートで満足できるのか?ということも考慮するべきです。
予め当日の演奏曲をすべて、あるいは大部分公開して開催するのであれば、そのコンサートに来る人は「その曲」を楽しみに来る人でしょう。それが出来るのは「すでに誰かが演奏した音楽」だからです。もし、新作の音楽で初演だとしたら?プログラムを公開しても誰も知らない音楽ですよね?
 プログラムを公開していなくても、お客様が「どんな曲を聴けるのかな?」と期待しながら会場に向かうのも楽しいと思うのです。期待を裏切られることもあるかも知れません。でも、初めて見る映画のストーリーを知っていたら、面白さは半減しますよね(笑)
 一人でも多くのお客様が、一曲でも楽しんでもらえるプログラム=音楽の幅で、私はコンサートを企画しています。クラシック音楽が好きな人もいれば、ジャズが好きな人もいます。映画音楽が好きな人もいます。それらを、リサイタルならヴァイオリンとピアノ、もしくはヴィオラとピアノで演奏します。オーケストラでも同じです。
 「お子様ランチ」のようなプログラムかもしれません。ただ、美味しいお子様ランチは、懐石料理と同じだと思います。少しずつ、好きなものを聴ける=食べられるのも楽しいと思えるからです。
音楽に幅がある以上、演奏する私たちもその幅を知ることが必要だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指導者と演奏家

 動画はファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした曲です。
今回のテーマは、一般の人から見える指導者とプロの演奏家との共通点・相違点と、実際に両者を経験した立場での両面から考えてみたいと思います。

 楽器の演奏技術を教えて対価を受け取る人を指導者とします。
楽器を人前で演奏し対価を受け取る人を「演奏家」としてみます。
もっと広い定義も可能ですが、音楽の専門家でない人の目線で今回の定義を決めています。
 ・指導者がいなければ演奏家は生まれないのか?
多くの場合は指導者によって演奏家が育てられますが、必ずしも誰かから指導を受けなくても演奏家になることは可能です。
 ・指導者はプロの演奏家を育てることが使命なのか?
これも結論から言えば「そうとは限らない」と思います。
音楽大学に通う学生でさえ、プロの演奏家を目指していない人がいるのは事実です。ましてや、専門家を目出していないアマチュア演奏家にこそ、指導者が必要に思っています。
 ・優れた演奏家は優れた指導者か?
応えは「いいえ」だと思います。もちろん、優れた演奏家であり優れた指導者もたくさんいます。ですがこれも、イコールの関係ではありません。そもそも、人に教えることが好きではない演奏家も多くいます。実際、教える時間がない演奏家もいます。
 ・指導者は演奏家でなくても良いのか?
演奏のできない人が演奏を指導するのは「無理」です。
今回は、演奏家の定義を「対価をもらって演奏する演奏家」としていますので、演奏家としての演奏技術があれば、指導することは可能です。
演奏技術の低い指導者もいます。自戒を込めて書きますが、指導者自身が自らの演奏技術を高める意欲、努力をしていない人であったり、「○○音大卒業」とか「△△音楽祭に参加」などの肩書にうぬぼれる指導者が、生徒を教えられるとは思いません。
 ・指導者は演奏家より「下」なのか?
おおざっぱな言い方をしましたが、様々な意味があります。
たとえば「年収」「社会的信頼」だけで比較することもできます。
また音楽家としての「プライド」は本人が考えるもので違ってきます。
 日本において、演奏家として生計を立てられる人数は、極わずかです。
毎年多くの「演奏家の卵」が音楽大学や専門の学校から誕生しています。その数を分母として考えると、演奏することで生活できる人は、数パーセントにも満たない数です。それほどに、需要と供給のバランスが悪く供給過多なのです。
プロの演奏家の一つとして「プロオーケストラ」の「正団員=社員」がいます。
プロのオーケストラで演奏している人の中で、正団員ではない「短期アルバイト=エキストラ」がたくさんいます。その人たちもプロの演奏家ですが「雇用」の形態が違います。
正団員としての「給与」だけで生活できる人は、日本ではごく一部です。
指導者にも色々なケースがあります。自宅で教えている人、音楽教室に雇われて教える人、音楽高校や音楽大学で演奏を教えている人などです。
 こちらの場合も比較される内容は様々です。ちなみに、楽器演奏を指導するための公的な資格はありません。学校で教師として働く場合でも、場合によっては教員免許がなくても、演奏技術を教えて対価を得ている人もいます。ましてや、音楽教室や自宅で指導する場合には、なんの資格がなくても指導できるのが事実です。その意味では、演奏家の場合も「公的な資格」がない点では同じです。

演奏家になれない人が指導者なのか?
答えは「違います」私は確信しています。
先述の通り、指導者には演奏家としての技術が必要不可欠だと思います。
だからと言って、指導者の演奏技術が演奏家の技術より低いとは思いませんし、そうあってはいけないと思っています。
 では、指導者を目指す人はどうすれば良いのでしょうか?何を学ぶべきなのでしょうか?

 演奏家としての技術を身に着ける練習と勉強は、演奏家を目指す人と全く変わらないはずです。それを含めて必要なものは、以下の3点だと考えています。
1.演奏家として評価される演奏技術
2.演奏技術を言語化する能力
3.人に対する適応力
演奏家でも共通の「努力」や「経験」は言うまでもありませんが、何より指導は「対面」であり限られた時間内で、自分の教えたいことを伝える能力が求められます。適応する力は、迎合することではありません。常に自分と相手との考え方や生き方、価値観の違いを擦り合わせる能力です。

 最後に現在、演奏課や指導者を目指している人と、その指導者に伝えたいことです。
師弟関係は、両思いであることが何よりも大切です。双方が互いを認め合え、信頼できる関係がなければ伝えられるものは限られています。
習う側からすれば、師匠を尊敬できること。師匠は尊敬できる存在であること。
そして、常に次の世代に伝承することを考えることです。伝承は技術だけではありません。人の生き方、考え方こそが後世に伝えられるべきです。
優れた演奏技術があっても、人として魅力のない人や、他人を受け入れないわがままな性格の人は音楽家としての素養に足りません。演奏の評価だけを評価してくれるのは、容姿だけを評価されるのと同じです。音楽は自分で作った芸術ではありません。ラーメン屋の「秘伝のスープ」とは違うのです。先人が今に伝えた音楽があるからこそ、私たちが音楽を演奏できるのです。思い上がりは捨てるべきです。一流と言われて悪い気持ちになる人はいません。ただ、本当にその人の音楽が評価されるのは、次世代、さらにその次世代に「レジェンド」として評価される人かどうか?だと思うのです。
 これからも優れた指導者を育てたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

ヴァイオリンとピアノ

 動画は以前、私と妻浩子のデュオリサイタル時に、ケーブルテレビ局「むさしのみたか市民テレビ」の取材を受けた際の番組です。
 今回のテーマは、ヴァイオリン演奏とピアノについてです。

 私たちのように夫婦でヴァイオリンとピアノの「デュオ」が出来るケースは多くありませんが、ヴァイオリンだけで曲が完成する音楽は、それよりずっと少ないのです。つまり、ヴァイオリンの曲の多くは、ピアノと一緒に演奏して初めて完成する音楽がほとんどだという事です。
 私自身、中学2年生の時に、師匠の門下生発表会に初めて参加させていただき、ピアノの「伴奏」とレッスンで「伴奏合わせ」をした時の感動を記憶しています。それまで、ヴァイオリンを弾くと言うのは「ひとりで弾く」ものだとしか考えていませんでした。ヴァイオリンの教本や練習曲を練習して、レッスンに持っていき「合格」すると次の曲に進む…。その繰り返しがヴァイオリンの練習でした。
 通っていた公立中学校のクラブ活動で「音楽部」に入り、ヴァイオリンを弾いて合奏する楽しさを、初めて知りました。それでもレッスンは「別物」でした。
 発表会でハイドンのヴァイオリン協奏曲第1楽章を演奏し、少ない伴奏合わせの後、銀座のヤマハホールで演奏したときの緊張感も覚えています。

 音楽高校に進み、年に2回の実技試験や、友人との遊びアンサンブル。その経験から他の人と共に音楽を作る、楽しさと難しさを体感しました。
 親友とのアンサンブルで、光栄なことに、演奏するアルバイトの機会も頂けるようになりました。先輩に声をかけて頂き、室内楽のメンバーに入れてもらって演奏したのも刺激を受ける学びの場でした。
 やがて「人間関係」が「音楽の核(コア)」であることを感じるようになりました。見ず知らずの人とでも演奏は出来ます。練習を重ねる間に、親しくなることもありますが、本当に心を通わせられる人との演奏とは、根本的に何かが違う気がし始めました。
 大学生時代、プロのオーケストラにエキストラとして参加させてもらったり、アマチュアオーケストラでのエキストラ、レコーディングスタジオでの演奏など、お仕事としてヴァイオリンを弾かせてもらえる機会が増えて「間違えず演奏できること」で、次の演奏の仕事をもらえることを知ります。
 それがいつの間にか、レッスンに通って合格し、次の曲を練習することと、大差なくなっていることに気が付きました。
それは私の「不勉強」と心構えの問題です。多くの仲間は、それぞれの演奏で新しい事を吸収していたのだと思います。

 20年間の教員生活を経て、再び演奏をを主体としてヴァイオリンを弾く生活に戻りました。その後、リハビリに多くの時間を費やしました。
 私たち夫婦の演奏で、ピアノを伴奏とは考えていません。
演奏形態として、ヴァイオリン独奏・ピアノ伴奏という「呼び方」は確かにあります。また、曲によっても、そう(伴奏)と呼ぶ曲もあり、ヴァイオリンソナタのように、それぞれが「ヴァイオリン・ピアノ」と独立して紹介される音楽もあります。どんな形式の曲であっても、その曲がヴァイオリンだけでは完成しない音楽である以上、「一緒に音楽を作る」意識が何よりも大切だと思っているから、「デュオ=2重奏」という紹介をしてもらっています。

 ヴァイオリンの楽譜には、ピアノの楽譜は書かれていません。
一方でピアノの楽譜には、大譜表の上段にヴァイオリンやヴィオラの楽譜も書かれています。つまり「スコア」を見ながらピアニストは演奏しています。
私の場合、ヴァイオリンやヴィオラの楽譜を演奏する事は出来ても、ピアノの楽譜をヴァイオリンでも、ましてやピアノでも演奏する技術がありません。一方で、ピアニストは、ヴァイオリンの楽譜を「ピアノ」で演奏することが当たり前のように出来るのです。
 私の場合は、自分のパートを弾けるように覚えるまで練習します。
その曲の「音源」がある場合は、色々な演奏を聴いて、自分の「弾かない音」を確かめます。音源がない場合、妻のピアノを聴いてそれを確かめます。
 そのうえで、改めて自分のパート(ヴァイオリンやヴィオラ)を練習しなおします。さらに、ふたりで一緒に弾きながら、修正をお互いの楽譜に加えていきます。

 信頼関係とお互いを認められる気持ちがなければ、ひとつの音楽は完成しません。
 それ以前に、ヴァイオリニストは自分以外の「楽器」と一緒に演奏することを前提にして練習することが不可欠なのです。
 自分「だけ」で弾けるだけでは「アンサンブル」は出来ません。
自分が弾きながら、ほかの人が何を弾いているのか?どんなリズムでどんな和声になっているのか?を聴きながら演奏する「余裕」を持たなければ、音楽が完成しないのです。ピアノを弾ける必要は、絶対とは思いませんが、せめて自分のパートを「暗譜」するぐらいの練習は必要な気がします。
 あくまでも、アマチュアの場合の話です。プロはその技術を身に着けているから「プロ」なのだと思います。暗譜しなくても、他の音を聴く技術や、楽譜を注視しながら音を聴く能力です。聴音、ソルフェージュなどの「トレーニング」は、演奏家を目指す人なら、絶対に必要不可欠だと思っています。それを学ばずに卒業できる「音楽学校」に大いに疑問を感じます。

 長くなりましたが、音楽を楽しむ以前に、挫折してしまう人が多いのが趣味の音楽です。特にヴァイオリンは、ひとりで練習していて「つならない」と感じて当たり前なのです。ピアノのように和音が演奏できるわけでもなく、音の高さが定まらず、高さを考えれば音色が汚くなる…うまくなった実感が持てない楽器だからこそ、ぜひ!ピアノと一緒に演奏する「感動」を味わってください。
その楽しみを得るために、楽譜を見なくても弾けるようになることを目標にするのも、モチベーションの維持につながると思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

日常生活と趣味の楽器演奏

趣味で楽器の演奏を楽しむ人にとっての日常生活。
楽器の演奏や指導を職業にする人の日常生活を考えます。
当然のことですが、どんな職業の人にとっても、身体的に精神的に健康であることが何よりも優先されます。そして、経済的なことや家族同士の関係も日常生活から切り離すことはできません。
 コロナ禍で収入が減少した人は、音楽家に限らず日本中にいます。
また、物価が高騰し日々の生活に困窮する人も増えています。
先行きが見通せない今、趣味どころではないという人が増えているのも事実です。
子供を持つ家庭なら、進学や進路について家族ならではの心遣いがあります。
受験を控えた子供が、趣味を我慢して頑張っている姿に協力しない家族はいません。
そうした日常生活の中で、楽器の演奏で得られるものは、なんでしょう?

 そもそも趣味は「楽しみ」です。極論すれば、いつやめても困らないのが趣味です。ただ、趣味のない生活が味気ないものに感じる人も多いと思います。
生活の為に必要な職業や、家事、育児、学業。それとは違う「息抜き」が趣味です。スポーツで体を動かす趣味もあれば、旅行や読書を趣味にする人もいます。
人それぞれの「楽しみ」があります。楽器の演奏を楽しむ人でも、色々な楽しみ方があります。
楽器を気ままに弾いて、楽しむ方もいます。
だれかと一緒に演奏する「合奏」を楽しむ方もいます。
多くの方は前者だと思いますが、ヴァイオリンはひとりで曲が完成しないことは、以前のブログに書きました。
それでも、ヴァイオリンの音を出して好きな曲を気ままに演奏するのは、楽しいものです。
職業ヴァイオリニスト(固い言い方です)は、楽しくなくても、仕事として楽器を弾くことが求められます。好きな音楽とは限りません。それが一番大きな違いです。

 日常生活の中に、楽器を演奏して楽しむ時間のゆとりが…ある人の方が少ない現代です。事実、ピアノを習っている子供の数は、減少し続けています。
音楽を習うことが、子供の情操教育になるとは限りません。
ただ、現実として楽器を習い続けている子供の「学力」が高いことは事実です。
楽器を練習するときの脳の使い方も、時間のつかいかた、集中力の維持、など様々な理由が挙げられます。頭をよくするため、東大に入れるために音楽を習わせても「無意味」ですので誤解の無いようにお願いします。
大人の場合、周囲に気を使いながらの楽器演奏になります。家族の理解と協力、さらには環境が揃わないと難しいのも現実です。
楽器を演奏することを「楽しい」と思える生活が、なによりも大切です。
 うまくならなくても、いつも同じ曲でも楽しめれば「趣味の演奏」です。
自己満足で完結できるのが「趣味」です。
ひとりでも多くの人が、演奏を楽しんでもらえる生活ができる「日常」が、戻ってくることを祈っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽にまつわる「うそ・ほんと「

 音楽を演奏したり教えたり、広めたりする活動をしてきた私が、常日頃、出くわす、音楽にまつわる話の中にある、間違った情報「うそ」と真実「ほんと」について。
 動画は子供たちが主役のNPO法人メリーオーケストラを紹介するものですが、この活動や下の動画、私が経営する小さな音楽教室メリーミュージックでの生徒さんたちを見て頂くと、どんな印象を持たれるでしょうか?

  おそらく「趣味の音楽って楽しそう」という率直な感想を持たれる方が多いのではないでしょうか?それは間違いなく「真実」です。
 音楽を趣味にすることは、私の知る限り最高の楽しみの一つだと信じています。それでも、中には「才能がないと上手にならない」という間違った先入観を持っている方もいらっしゃいます。また「裕福な家庭でないと音楽は習えない」という思い込みもあります。

プロの音楽家はお金持ちという嘘

 これは一番多い間違いかも知れません。世間一般で「音楽家」と言う職業は「特殊な人種」として扱われることがあります。理由は様々ですが、先ほどの「特殊な才能がある」と言う思い込みや、「楽器が高いのだからお金持ちに違いない」
さらには「テレビで見る音楽家はおしゃれで外車に乗って現れる(笑)」と言うイメージなどなど。
 確かに一部の音楽家は「お金持ち」と言って良い収入を得て裕福と言える生活をしています。それは、ほんのごく一部!ほんの一握りの人たちだけです。
多くのプロ音楽家は、そのような「有名人」とはかけ離れた生活をしています。好きで選んだ職業なので、嫌なら違う職業に転職すれば良いだけです。
ですから、私は音楽家が貧乏だからと言って「可哀そう」と同情する必要はないとも思いますが、現実を知って頂きたい気持ちはあります。さらに、国や自治体が文化芸術にお金を出したがらない!と言う「民度の低さ」が一番の問題です。

裕福な家庭じゃないと…と言う嘘

 これも、良く言われます。「きっとお父様やお母様が音楽をなさっていたのですね」とか。露骨には言われませんが、きっと裕福な家庭で育った「おぼっちゃま」「おじょうさま」ばかりだと思われていますが、これも「大嘘」です。
 例外的にそういう方もいますが、どんな世界にもいるのと同じ割合です。
私の家庭は、父が銀行員、母は専業主婦という、いたって普通のサラリーマン家庭でした。資産家の家計でもなんでもなく(笑)、社宅暮らしがほとんどでした。音楽高校でも周りの友達は、ほとんど私と同じ環境の「普通の家庭の人」でした。むしろ、厳しい経済状況で、地方から単身上京し、風呂なし・トイレなしの6畳一間のアパート暮らしの友人がたくさんいました。それが当たり前でした。

クラシックにしか興味がないと言う嘘

 クラシック音楽を専門にしているから、普段から…いいえ。
人によってはそういう方も、いるかもしれませんが、私の音楽仲間の多くは違いました。ジャズ大好きなチェリスト、なぜかジュリー(沢田研二)とクイーンとロッド・スチュワート大好きなピアニスト(私の妻、H子さん)
 なぜか、法人女性歌手(中国人か!)ようするにアイドルや、女性シンガーの歌が大好きなヴァイオリニスト(今、これを書いている人)などなど。
 クラシックも聴きます。好きですが、いつも聴いているわけではありません。
むしろ、聴いていると「分析する」聴き方をしてリラックスできないという人が多いですね。

変わった人がいるという真実(笑)

  えーっと。確かに私から見ても、やや?だいぶ?普通の人と考え方や、行動パターンが違う音楽家「も」いるのは事実です。ただし、そうでない「私を含めた」音楽家の名誉のために申し上げますが、一般常識をもって普通の日本人として行動する人がほとんどです。
 おそらく、自分の好きなことに打ち込んで、「お金より音楽」と思う音楽家ほど、どこか…その…面白い性格になるようです。ただ、悪い人はいないのです。
人に危害を加えるような人はいません。
 プロなのに、ぼろぼろのヴァイオリンケースで楽器を持ち歩く演奏家。
 オーケストラの安い給料のほとんどを、レコードを買うことにつぎ込む演奏家。
 ひたすら楽器を買い替え続け、自己満足に浸る演奏家。
 掃除機の音ををステージで鳴らし、楽器として扱う作曲家。 
ちょっと、怖いでしょうか?(笑)

音楽家は人嫌いという嘘

 ステージで怖い顔をして演奏している演奏家でも、話をしてみると案外「明るい普通の人」がほとんどです。中には、ステージ降りても怖い人もいますが。
ただ、普段一人で黙々と練習することが多いので、人と会話をするのが下手な演奏家が多いのも事実です。だから?なのか、ただ演奏してお辞儀して演奏会を終わる人には、個人的に違和感を感じています。お客様に媚びを売るわけではなく、人として接することも必要だと思っています。

音楽家は漢字を書けないという真実

 これは私だけなのかも知れません。すみません。
いや、高校時代の同期男子は全員、現代文のテストで追試を受けていたので、恐らく真実です。
 なにせ、音楽高校の入試は、一般科目にかかるウエイトが低い。というより、私のころは無いに等しかったのです。授業も単位が取れれば良い。単位は、総授業回数の3分の2出席していれば、テスト0点でも単位が取れました。
 大学でも同様でした。なので、私「と同期の男子」の一般科目学力、特に漢字能力は「中学卒程度」で、しかも字を書かない生活でしたので、それは恐ろしいものでした。
 誰とは言いませんが、同級生のヴァイオリニスト「K君」は、卒業後年賀状の宛名に「野村 嫌介 様」と書いてくれました。素敵な男です。
 私は、中学校・高校で20年間、音楽の授業を担当しましたが、音楽理論の授業で黒板に「旋律短音階」と書こうとして、せんりつ…せんりつ…
だめだ!と思い、「メロティック短音階」と板書してその場をやり過ごしたトラウマがあります。生徒たちはノートに書き写していました。懺悔します。

終わりに…

 最後までお読みいただきありがとうございました。
音楽家という生き物、少し理解していただけたでしょうか?
これから音楽家を目指す人や、若い音楽家が「みんな」こうだとは思っていませんが、少なくとも私たちは、普通の人間です。ほとんど人畜無害であり、無芸大食です。どうか、皆様に暖かい目で見て頂ければと、思っております。


ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介