同じ音楽を感じながら

 動画はフリッツ・クライスラー作曲「シンコペーション」
ピアニストと二人で演奏することが多いバイオリンやヴィオラの音楽は、どちらかが「主役」で片一方が「脇役」ではありません。以前にも「伴奏」と言う言葉について、疑問を呈しましたが、ピアノが「伴奏する」と言う言葉の裏に、ヴァイオリンが主役と言う意味が隠されているように感じます。
 ヴァイオリンソナタの場合に「ピアノ伴奏」と言う言葉は使われません。
ところが、ヴァイオリン協奏曲のオーケストラ部分をピアノで演奏するときに「ピアノ伴奏」と言うことが多く、動画のような「小品」を演奏する場合にも時々「伴奏」と言う言葉が使われます。伴奏とは「声楽や器楽の主奏部に合わせて、他の楽器で補助的に演奏すること。」だそうです。主奏部って要するに「主旋律を演奏する人」だと思われますが、ピアノが主旋律を演奏する部分があっても「伴奏」なんでしょうか?府に堕ちません。

 オーケストラの場合、指揮者が音楽の交通整理をします。具体的には「テンポ」や「音符休符付の長さ」「強弱」「バランス」について、演奏者=オーケストラの演奏者に指示を出し、実際に指揮棒や腕を使って、音楽を表現します。
 二人で演奏する場合、人によって違いますが私たちは、その場その場で「お互いに」合わせる=寄り添うことを目指して演奏しています。練習の最初の段階は、それぞれが自分の演奏するパートを一人で練習します。その後、二人で同じ音楽を演奏するときに、お互いがどう?演奏したいのかをお互いに探り合います。
言葉で確認することもあります。「こうするかも知れないし、しないかもしれない」ということも確認します。打ち合わせをしても、私が間違って演奏した場合に、臨機応変に対応してくれることが「たまに、よく、しょっちゅう」あります。
 どんなに事前に打ち合わせをしたとしても、会場で演奏する「本番」の時には、リハーサルと違う演奏になることもあります。それはお互い様です。
 お互いを意識しなくても、相手の演奏している音楽と自分の音楽が「一致」していることが実感できれば、それが「ひとつの音楽」だと思います。

息が合うと言う言葉は、同じ速度、同じ深さで呼吸することを指していると思います。相撲の立ち合いもそうです。また、逆に相手に自分の動きを「読ませない」ことが重要な武道や、ボクシングの場合は、自分の呼吸を相手と意図的にずらすことも必要です。
呼吸を合わせるとは言っても、二人で演奏する音楽のすべての時間、完全に同期=同じ息で演奏することは、物理的に不可能です。ただ、音楽を二人で同時に演奏している「意識」は常に保っています。
 ピアニストがヴァイオリニストを「視野に入れる」のは必要なことだと思います。なぜなら、ピアニストは両手でいくつもの声部を感じながら演奏し、さらにそこにヴァイオリンの声部が加わるのですから、楽譜と同時にヴァイオリニストの弓の動きが見えることで、安心して演奏できると思うからです。ヴァイオリンは「弓が動いていなければ音は出ていない」のですから。ヴァイオリニストがピアニストの指を見ながら演奏しても、効果は薄いと思います。ましてや、両手の動きが見える位置と向きでヴァイオリニストが立てば、客席にお尻を向けて演奏することになるからです。加えて、ピアニストの出す「音」が聞こえないヴァイオリニストはいないのです。その逆はあり得ます。どんな位置にヴァイオリニストが立って演奏しても、ピアノの音は聞こえますが、ピアニストにはヴァイオリニストの、音も聞こえない、弓も見えない状態で、合わせられるはずがないのです。

 どんなジャンルの音楽でも、演奏する人たちがお互いを認め合い、必要な意見のすり合わせをして、初めて「ひとつの音楽」になると思います。
「二人」という最小単位のアンサンブルは、聴く人にとってオーケストラとは違った面白さがあると思います。もとより、気の合わない二人の演奏は、どんなに演奏技術が高くても、二つの音楽が同時に鳴っているだけの「水と油」です。
時に溶け合い、時にどちらかを浮き立たせながら、音楽が広がることこそがアンサンブルだと思います。
 どうか!伴奏と言う言葉を使わずに、それぞれの演奏者を、対等な呼び方にしてください。簡単です。「ヴァイオリン△△、ピアノ〇〇」で良いのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

部活外注に物申す

 現在、日本政府は公立小学校・中学校の特別活動である、部活動の指導を「外注」することを検討しているようですが、元中学・高校の教員、音楽部顧問として20年間、部活動を指導した経験をもとに問題点を書かせてもらいます。

 「土曜日・日曜日のスポーツ系部活動を地域のスポーツ少年団などに順次置き換え文科系部活動も学校外に移行する」
というニュースを耳にしました。その理由として「顧問教員の働き方を考えなおす」という、もっともらしい事を政府は言いますが、そもそも間違っています。
 部活動は学校の教育活動です。したがって、その指導責任と安全管理、成績管理は学校にしかありません。単に働く教員の「休日出勤」だけの問題ではありません。学校で行う学習活動を学校外の組織・団体に「丸投げ」する発想です。
もしもそれが本当に正しい事なら、学校の授業は民間の学習塾と予備校に丸投げしても問題がないことになります。
「土曜日曜だから良い」と言う問題ではありません。
当然、生徒が保護者の同意のもとに、学校が休みの時間に、なにを学ぼうが遊ぼうが、それは学校の活動ではありません。まさに問題のすり替えです。
 さらに部活顧問の労働環境が問題なのは、部活動指導に限ったことではありません。多くの人が知らないことですが、教員には「時間外手当」がありません。
長い歴史を経て、教育職員には「教員調整手当」なるものが支給されます。額はまちまちですが、月額数千円です。「教員に時間外手当はそぐわない」という理由です。当たり前のことですが、教員にも「勤務時間」があります。休憩を除き8時間が一日の勤務時間です。その勤務時間を超えて生徒の指導を行うことが、あまりにも常態化してしまったために「一律の手当て」として考えられたのがこの調整手当です。しかも、定時に勤務を終えても、補習講習、教材準備や部活指導で何時間働いても同じ手当です。労働に対する対価が不平等です。部活顧問は業務命令です。教育現場では「校務分掌」と呼ばれます。土曜、日曜に出勤した場合に「休日出勤手当」が出る学校もあります。修学旅行の引率などの場合には別の手当てが出る学校もあります。ただ、宿泊を伴う引率の場合、生徒の安全管理・健康管理は24時間勤務となります。
 私学の場合は管理職や理事が人事権を持っているため、教諭はサラリーマンと何も変わりません。公立学校の場合、教諭の立場は公務員です。校長などの「管理職」は人事権を持っていない上、数年に一度人事異動があるので、それぞれの学校では「お飾り校長」として教諭たちから相手にもされていない場合が多いのも事実です。
「モンスターペアレンツ」は未だに学校の現場を委縮させ続けています。
私学の場合は「理事会」に、公立の場合は「教育委員会」に、児童生徒の保護者たちが直接「上申」することで、学校現場の問題を解決するのであれば良いのですが、「気に入らない」から、ありもしないことをでっちあげて、嘘でも「上申」できるのが現状です。現場の教員にも生活があります。悪いことをしていなくても、児童生徒から保護者にどう伝わるのかが気になりだすと、不安になるのは当然です。
「〇〇先生は、部活顧問なのに土日に部活をさせてくれない」と保護者が文句を言います。学校は託児所ではない!慈善団体でもない!そもそも、日曜日は学校が休みなのが当たり前!だと思うのです。

 生徒が学校で過ごすべき時間は、本来「国」が定めるものです。義務教育ならなおさらのことです。社会=一般の大人が、部活動と民間の活動を区別できていないことが諸悪の根源です。文科省が何を考えているのか?想像でしかありませんが「学校で生徒を預かる」時間を増やせば、親たちから支持されることを期待しているとしか思えません。
 私自身、NPO法人の理事長として「青少年の健全な育成」「音楽の普及」を目的としたオーケストラ活動をしています。例えば、この法人で「部活動の代わりをお願いします」と言われたら?絶対に断ります。部活動は学校の教育活動です。NPOの目的が何であれ、NPOは学校ではないのです。
「施設を使う使用料を補助するから」と言ってくるのが目に見えています。
足元を見て、児童生徒の学校教育を「売り払う」政策です。
被害者は子供です。国が子供を守る気持ちがない上に、「支持者を増やす」目的で考えた「姑息な悪法」です。
子供を家庭に返せ!
親なら子供を自分の手で育てろ!
そう思うのは間違いでしょうか?
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の標題やストーリーより大切な「聴く人の想像力」

 映像は、ドビュッシーの「美しい夕暮れ」と言う歌曲をヴィオラとピアノで演奏したものです。歌ですから「言葉=詩」があります。詩を読んだ作曲家が「音楽」を付けた作品です。歌を聴いて歌っている言葉のわかる人なら、歌っている内容が同時に伝わります。一方で歌っている歌詞がわからない場合は、「詩」ではなく「声」として感じます。当たり前です。それでも「楽しめる」のは、聴く人の「自由な想像力」で音楽を楽しんでいるからです。
 作曲家の感じた「詩」の印象と違って当たり前だと思います。
歌詞があろうとなかろうと、聴く人の「想像力」があるから楽しいのではないでしょうか?

 言葉を含まない音楽を聴いて「ストーリー」を感じるものでしょうか?
予備知識として、作曲家のイメージしたストーリーを知っていたとしても、聴く人が同じストーリーが感じられるものでしょうか?演奏する人が感じるストーリー性は、演奏者によって違って当然です。その演奏を聴いた人が、さらに違ったストーリー性を感じても感じなくても、それが自然だと思うのです。
 感じる人が「感受性が高い」とは限りません。むしろ「予備知識」に無意識に引っ張られているケースもあるのではないでしょうか?
歌詞の無い「音楽」が多いクラシックです。音楽の標題も、作曲者本人がつけた曲と、のちに誰かが標題をつけた場合があります。標題を見て先入観で音楽をイメージする場合もあります。その標題が作曲者のつけたものではない場合、本来は「曲名」がなくても良いはずで、むしろ私は「有害」だとさえ思います。

 ジャズにしてもクラシックにしても、あるいは映画音楽などにしても「聞く人の想像力」が一番大切だと思っています。特に、クラシックの音楽をあまり聞かない人たちに「クラシックの音楽とは!」と言う「余計なおせっかい」こそが音楽の純粋な楽しみ方を阻害していると思っています。
クラシック「マニア」が自分の感じるものや「ストーリー」を言葉にするのは自由です。その人の感じ方なのですから。ただそれを、まだクラシック音楽を楽しめていない人たち・子供たちに「これが正しいクラシックの楽しみ方・学び方」だと思わせてしまうのは、間違っていると思います。それこそが「クラシック嫌い」を創っていると思います。頭でっかちな「予備知識」で音楽を聴くよりも、聴く人の「真っ白なキャンバス=先入観のない状態」で音楽を聴いて想像する方が何倍も大切だと思っています。
音楽は特定の「物・人・事」を表わさない芸術です。
演奏する人、聴く人の勝手な想像こそが、音楽の楽しみ方ではないでしょうか?
「好きなように感じる」ことを優先すれば、もっと音楽を聴く人・楽しむ人が増えると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

拍の速さと車窓の風景

 映像は、Youtubeで見つけた新幹線の運転席から見える風景です。
わたくし「ノリテツ」でも「てっちゃん」でもありません。悪しからず。
音楽の「拍」や「リズム」が苦手な生徒さん、さらにテンポの維持や変化に関する苦労は、プロの演奏家にも共通の悩みです。
 そこで今回は「時間と音」を「時間と風景」に置き換えて考えることで、拍やテンポについて考えてみたいと思います。

仮に、電車の車窓から見える「電柱」が一定の間隔て立っているとします。
音楽のテンポを変えずに一定の速さで演奏するとします。
電車の速度が速くなると、電柱を通過する時間がだんだん短くなります。
テンポが変わらなければ、楽譜の中で「1拍」にかかる時間、「1小節」にかかる時間は常に一定になりますが、テンポが速くなればその時間はだんだn短くなります。
つまり、「一定の時間を予測する能力」と「
下の動画はF1(フォーミュラー1)がレースコースを走っている時の映像です。酔う人は見ないほうが(笑)スタート時時速「0」から一気に200キロを超える速度までの風景と、同じような速度で走る他の車がまるで「止まっているように見える」ことにご注目ください。

いかがでしょうか?怖いですね~(笑)
速度が速くなると一定の時間に処理する情報が多くなります。
言い換えると、処理の速度を速くしないと間に合わないことになります。
さらに「常に次にやるげきことが読めている」ことが必要なのです。
F1パイロット(レーサー)は、走るコースのすべてのカーブ、直線の距離、傾斜を「完全に記憶=暗譜」して走っています。コースに出なくても、頭の中でコースを走る「イメージ」があります。そうでなければ、止まることさえできません。速いのは車の性能ですが、止まる・曲がれるのは操縦するレーサー=人間の運動能力なのです。これもすごすぎる!

 楽譜を「追いかける」速度は、どんなに速い音楽でも秒速「数センチです。
仮に秒速5センチなら、分速300センチ=3メートル、時速180メートル。
歩く速度は時速4キロ=4000メートル。楽譜を読む速度はそれほど速くない!
 他方で、1秒間に処理する音符の数で考えると、たとえば四分音符を1分間に120回演奏する速さ「♩=120」の場合、16分音符は1秒間に8つの音を演奏する=処理することになります。結構な処理速度が求められますね。すべての音符が16分音符なら、1分間に8×60=480個の音符を演奏することになります。
 ちなみに早口言葉で「なまむぎ なまごめ なまたまご」をメトロノーム120で鳴らしながら言ってみてください。それが先ほどの16分音符の速さと同じになります。楽譜を読む速さは、この処理速度によって決まります。演奏できるか?は、その処理速度に「運動」を加えることになるので、まずは読めなければ運動は出来ません。

 まとめて考えます。
1.予測する技術 
「次の拍の時間を予測する」ことが「テンポ」です。難しく聴こえますが、正確に「1秒」を感じることを練習することで時間の間隔は身に着けられます。音楽は常に「次の拍を演奏する時間」を予測しながら演奏する技術が必要なのです。
その「1拍」の時間的長さが一定の場合に初めて「リズム」が生まれます。拍の長さが不安定だとリズムは演奏している本人でさえ理解出来ません。
 次に来る=演奏する「拍」を予測する美術は、決して反射神経ではありません。

 長くなりましたが、リズムやテンポが苦手な人は、一定の時間で何かを繰り返したら、「時間を等分する」ことが苦手な人です。
ぜひ!日常生活の中から、リズムや拍を見つけてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ラから教える?ヴァイオリン「始めの一歩」

映像は正弦波=音叉の音で鳴り続ける442ヘルツのA=ラの音です。
チューナーの音より聞き取りやすいかもしれないですね。
さて、今回のお題は「初めてのヴァイオリン」を小さい子供に教える時の問題です。もちろん、大人の場合でも多くの人が音の名前「ドレミファソラシド」は知っていても、かなり怪しい(笑)ケースがほとんどです。
 中学校1年生に「ドレミファソラシドって覚えていて言える人」には、クラスのほとんど全員が手を挙げます。が、「反対からドから下がってすらすら言える人」になると激減します。「言えるぞ!」と言う人に、「ラから下がってラまですらすら言える?」あなたは、いかがでしょうか?多くの人が、「言ったことがない」のが現実です。単語として「ドレミ」や「ドシラ」は覚えていても、途中からの「並び」は言えないのが普通です。音楽家の皆さん。あなとも同じ脳みそです(笑)試しに「あかさたな…」はおしまいの「わ」まで言えますね?それでは、それを「わ」から反対に言えますか?どうぞ!
おそっ!(笑)
これが人間の脳みそです。

 さて、ヴァイオリンの「始めの一歩」は、開放弦で音を出す練習から始まることがほとんどです。左手で弦を押さえないで、出せる音は「ソ・レ・ラ・ミ」という4種類の音です。調弦してあれば、の話ですが。
 一方でピアノの「始めの一歩」では、多くの指導者が「ド」から教え始めるのではないでしょうか?両手で始めるにしても「真ん中のド」を境にして教えるのではないでしょうか?
 さらにソルフェージュの場合も、多くは「ド」から覚え始めます。
事実、子供のための音楽教室(編)のソルフェージュ1A=最初の本でも、ドから始まっています。次に「レ」さらに「ミ」と音が増えていきます。当たり前の話ですが、このドの音が「一番歌いやすい」と言う意味ではありません。子供の声の高さ、出しやすい声の高さは人によって違います。「ド」から覚える理由は、おそらく「ピアノ」を基準に考えられ始められたものと思います。

 小さい子供が、ヴァイオリンを手にして初めて開放弦の音を出せて、嬉しそうな表情をしているのを、見ているだけなら楽しいのですが(笑)
 そこから「音の名前」や「楽譜」に結びつける場合に、どうしても「ド」にたどり着くまでに長い道のりがあります。まして、ヴァイオリンの2弦=A線から練習していくと、多くの場合次に練習するのは、1の指=弦楽器では人差し指ですの「H=シ」です。そこまでは何とか出来ても、次に2の指を1の指から「離して押さえる」手の形が一般的なので「ド♯=Cis」の音になります。
「なんで?わざわざ♯で教えるの?」土木な疑問ですね。
当初、私自身は2(中指)と3(薬指)の間を開くことが難しいからだろうと思い込んでいました。ところが、実際にやってみると、1(人差し指)と2(中指)をくっつけることは、難しくないことに気付きました。さらにこの状態で、指を曲げても、別に違和感がないことにも気づきました。こうなると「はて?なぜ?ヴァイオリンは最初から1と2を開くのかな?」と言う疑問が解けなくなりました。ここからは推論です。

開放弦から始めて、1の指を「開放弦より全音高い音」が出せる場所に置かせることから始まります。そうすると、低い弦から順に「G→A」「D→E」「A→H」「E→Fis」になります。この時点でE戦で♯が付いてしまいます。
どうしても「F」を教えたければ、1の指を「下げる=上駒側に寄せる」ことを教えて、開放弦より「半音高い」位置を教えなければなりません。
1の場所を「変えること」を教えるか?それとも「開放弦より全音高い音の位置」を覚えさせるか?によって、FなのかFisなのかが決まります。これは「1の指」の問題です。

 A線の場合は1の指は通常、開放弦より全音高い「H=シ」の音を練習します。そして「2」を「1の指=H」に近付ければ半音高い「C=ド」が出せて、もう少し感覚を開いて2を押さえれば全音高い「Cis=ド♯」が出せます。
とりあえず先に進んで、「3の指」で「D=レ」の音を出すことが一般的なのですが、2の指からの「音程=距離」が半音なのか?全音なのか?によって、近づくか?離れるか?が分かれます。どちらにしても「D=レ」を教えたとします。
 すると2の指にを「C」にして、開放弦から順に演奏すると…
「AHCD=ラシドレ」と言う「短音階の最初の4音」になります。
一方で、2の指を「Cis」にすると開放弦から
「AHCisD=ラシド♯レ」と言う「長音階の最初の4音」が演奏できます。
要するに「2」の位置で「短調」か「長調」のどちらかになります。
「こら!嘘つくな!」と言う専門家のお声が聞こえそうです(笑)
はい。確かに「AHCD=ラシドレ」の前、後によっては、長調にもなります。
正解は「C dur=ハ長調」の第6音から演奏した場合「CDEFGAHC」と
「G dur=ト長調」の第2音から演奏した場合「GAHCDEFisG」が考えられます(難しい)
簡単に言えば「開放弦で出せる音から始まる=主音にする曲」を演奏しようとすると、短調か?長調か?が「2」の指の高さで決まると言う意味です。それでも難しい(笑)

 推論のまとめ。おそらく「長調の音楽から教えたい」と言う気持ちで2の指が3の指に近付く=1の指から全音分離れることが一般的になったものと思われます。もしも、ピアノと同じように「幹音=シャープやフラットのつかない音」から子供に教えたければ、それもあり!だと思います。その場合、指の位置は半音の単位で変わることになります。
 一方で、手の形=指と指の間隔を優先して教えたければ、どうしても幹音以外の音を教えることになります。
 小さい子供に「シャープってね?」と教えられるのか?そもそも近い出来るのか?と言われれば恐らく「無理」だと思います。
 ただ、音の高さを覚え、音の名前を覚える時期=絶対音感を身に着けられる限られた時期に「シャープ」という言葉まで覚えさせれば、一生の財産になることは事実です。現実に幹音だけの「絶対音感」はあり得ません。1オクターブ内の「12の音=すべての鍵盤の音」の高さを音名で答えられる=歌えることを「絶対音感」と言います。白い鍵盤の音名だけしか答えられないのは「絶対音感」とは言いません。ですから、シャープやフラットという言葉も覚えていく必要があるのです。細かいことを言えば「異名同音」が存在するのですが、どれか一つの言い方が=音名が答えられれば絶対音感があると言えます。ファのシャープとソのフラットは「同じ鍵盤=同じ高さ」の音ですから、どちらかの名前が言えれば「理解している」ことになります。

 ピアノの教本、ソルフェージュの教本、ヴァイオリンの教本を同時進行で教える場合に、ヴァイオリンだけが最初から「ラ」だとか「シ」が出てきます。
ピアノ・ソルフェージュで、ラやシが出てくるのはかなり後です。
「理想の順序」や「正しい順序」はないと思います。
結局のところ、ヴァイオリンとソルフェージュまたはピアノを「同時進行」で教えていくことが最も効率的な指導方法なのかな?と思うに至りました。
子供が「楽しみながら」音楽の基礎である「音名・音の高さ」と、楽器の演奏技術を学べるように教材を考えることが必要です。そうでなくても初心者用の教本や教材が少ないヴァイオリンです。自作も含め、複合的な「本当に新しいヴァイオリン教本1巻」が誕生することを願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

耳に優しい音色と音楽

 映像は、フォーレのベルシューズ「子守歌」です。
ヴァイオリンの音色が「こもった」感じの音なのは、演奏用のミュート=弱音器を駒の上に付けて演奏しているせいです。練習用に使う「消音器=サイレンサー」とは意味合い・目的が違います。ちなみに金属製の消音器を付けると、音圧=音の大きさがテレビの音量程度まで小さくなります。一方で演奏用のミュートは、「音色を変える」ための道具です。

 さて、同じ音楽=楽譜でも、演奏の仕方で聴く人の印象が変わることは言うまでもありませんね。同じ材料と調味料を使って、違う人が同じ料理を作っても、同じ味にならないことと良く似ています。料理で言えば、材料の切り方、火加減、手順、味付けが違います。ヴァイオリンの演奏で言えば、何がどう?違うのでしょうか?

 もちろん、楽器と弓で音色が大きく変わるのは当然です。
ヴァイオリニストは自分の好きな音色の楽器を使って演奏できます。
ピアニストはそうはいきませんね。会場のピアノで演奏することがほとんどです。また、高額なヴァイオリンの場合、演奏者が借りて演奏する場合が良くあります。自分の好きな楽器かどうかの選択ではありません。
 自分の好きな音色を出すためのテクニックとは?

 前回のブログで書いた「弓の毛の張り具合」もその一つです。そのほかに
・弓の速度

・弓の角度
・弓の圧力
・弓を乗せる位置=駒からの距離
・ビブラートの深さ
・ビブラートの速さ
・ビブラートをかけ始める時間
・弦を押さえる力と指の場所
・ピッチ=楽器の倍音
・グリッサンドやポルタメント
・余韻の残し方=音の終わりの弓の処理
他にも考えられますが、これらを複数組み合わせることで、音色が大きく変えられます。
聴いている人が「優しい音(音楽)」と感じる場合と、「激しい音・強い音」と感じる場合があります。言葉で表すのはとても難しいことですが、少し「対比」を書いてみます。
・太い音⇔細い音
・固い音⇔柔らかい音
・明るい音⇔暗い音
・鋭い音⇔丸い音
・つるつるした光沢のある音⇔ざらざらした音
・力強い音⇔繊細な音
・重たい音⇔軽い音
・輪郭のはっきりした音⇔ベールのかかったような音
いくらでも思いつきますが、上記の左右は「どちらもアリ!」だと思います。
綺麗⇔汚いと言うような比較ではありません。
敢えて書かなかったのが「音の大きさ」に関するものです。
だんだん強くなるとか、だんだん消えていくなどの表現は「音の大きさ」で「音色」とは違います。
 また同様に音の長さについても書きませんでしたが、実は音の長さは「音の強さ」の概念に含まれます。「音の三要素」は「音の強さ」「音の高さ」「音色」です。いまは「音色」の話です。

 演奏者の好みで曲の解釈が変わります。
同じ楽譜でも、違って聞こえるのが当たり前です。「良い・悪い」「正しい・間違っている」の問題ではありません。フォーレの子守歌ひとつでも、人によってまったく違うのが当然です。大好きなヴァイオリニスト、五嶋みどりさんのえんそうです。


 世界的なヴァイオリニストの演奏と比較する「図々しさ」は私にはありません。
ただ、人によって音楽の解釈が違うと言う話です。お許しください。
 ヴァイオリニストの音色へのこだわりは、楽器選び、弓選び、弦選び、松脂選びなどの「ハード」と演奏方法「ソフト」の両面があります。
聴く人には「一度だけの演奏」です。演奏者が、自分の好きな音色に迷いがあったり、最悪「こだわりがない」場合、演奏のうまい・へた以前に「無責任な演奏」を人に聞かせていることになると思います。
 自分の好きな音を探し求めて、試行錯誤を繰り返すのが弦楽器奏者です。
一生かけて、楽しんでいきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

間違いだらけ「弓の毛の張り具合」

 映像は、ファリャ作曲のスペイン舞曲をクライスラーがアレンジした作品です。だいぶ前の演奏で…若い(笑)
 今回の話題は「弓の毛」をどのくらい?張って演奏するのが良いのか?です。
多くの動画がYoutubeに上がっていますが、なにか間違っている気がしましたので、長年「弓」について考えながら演奏してきた演奏者として、考えをまとめてみます。

 高校時代まで使っていた弓は、フィンケル氏の作成した弓1本だけでした。
次第に「弓を変えたら音が変わるって本当かな?」と思うようになり、ヴァイオリン職人で私の楽器を斡旋紹介してくれた名工「田中ひろし」さんに相談しました。「自分で勉強してこい。」と一言。東京中のヴァイオリン専門店を回って、「これだ!」と感じた弓を数日間だけ貸してもらっては、表参道?南青山?の田中氏の工房に持っていきました。「おまえ、この弓のどこがいいんだ?返してこい!」の繰り返しを約1年間続けた頃、田中氏から「この弓でひいてみろ」と言われて渡された弓。それが今も私が使っている「ペカット」でした。その弓を師匠である久保田良作先生にお見せしました。「すごいね!今度の演奏会で使わせてもらっていいかな?」と実際に東京文化会館小ホールでの先生の演奏会で使用されました。その後返して頂いた際に「この弓、売ってもらえないかな?」さすがにそればかりは!とお許しいただいたのを忘れられません。
 そんな弓を使って演奏している私の「弓の毛」の張り方です。

 「弓の毛を強く張れば張るほどいい音が出る」と間違っている人がたくさんいます。また同じように「張れば張るほど、大きい音=フォルテが出せる」と間違っている人も多いのが現実です。なぜそれが間違いなのか?説明します。

 そもそも、弓の木は元来「まっすぐ」に削られたフェルナンブッコの木を、職人が熱を加えながら反りを付けて作ったものです。弓の木には弾力=しなりがあります。弓の元から先までの「しなり=強さのバランス」と「重さのバランス」が弓の命です。さらにしなりは「縦方向と横方向」のしなりがあります。
弓の毛に対して直角方向が「縦」で、弓の毛と平行方向が「横」のしなりです。
弓の一番先を左手で持って、右手でこの「縦と横」の弾力を感じる=調べることができなければ、弓の良し悪しは判断できません。しなりが弱い弓を「腰が抜けた弓」と表現します。一方で固すぎる弓は、柔らかい音色を演奏できません。
 弓の毛を張ったままで何日も放置すると、弓の腰が抜けて「ぐにゃぐにゃ」になります。この状態は先述の「左手で弓先を持って調べる」とすぐにわかります。縦にも横にも、ほんの少しの力でふらふらと曲がります。反りもほとんどなくなって、まっすぐの「棒」になってしまいます。
この状態で演奏しようとすると?当たり前ですが、弓の毛とスティック=弓の棒の部分がすぐに当たってしまいます。弓の毛を張れば張るほど、スティックは安定感を無くして、フォルテもピアノも演奏できなくなります。
 言い換えれば、張らなければ弾きにくい弓は、腰が抜けている弓です。
弓の弾力は、すべての弓で違います。弓の毛の本数が同じでも、弓の毛もやはり弾力が違います。演奏する前にその弓の「ベスト」な張り具合を見極める技術が絶対不可欠です。弓の弾力が最も大きく使えるのは「弓の毛を緩めた時=毛を張っていない時」です。弓の毛を「少しずつ張っていく」と、スティックの両端を弓の毛が、弓の元=毛箱に向かって引っ張る力が生まれ、少しずつ弓の反りが「逆方向=まっすぐにさせられる」ことになります。つまり、本来「弓の反りが少しだけ変わる」程度の張りの強さで、弓の毛はまっすぐにピンと張れているはずなのです。
 腰の抜けた弓だと、弓の毛がピンとなる前に、スティックがまっすぐになってしまいます。これでフォルテが弾けるはずもありません。
 この「ぎりぎりの弱さ」で、まず弓の中央部分と、先、元で演奏してみます。
弓のスティックを、演奏者から見て向こう側に倒しすぎれば、弓の毛が半分くらいしか弦に当たらず、当然毛のテンション=張力が半分になるので、すぐにスティックが弦に当たります。当たり前です。だからと言って弓の毛を張るのは間違いです。
 そもそも論ですが、弓の真ん中は弓の毛のテンションが弱くて当たり前です。むしろ弱いからこそ、元・先のテンションが強い部分との「違い」が出せるのです。
 弓の毛を「弦」に置き換えればすぐに理解できます。
弦の「端っこ」に当たる「上駒=ナット」近くと「駒」近くは、弦のテンション=張力が、強く=弦が固く感じますよね?つり橋の真ん中が揺れるのと同じ原理です。弦の固さ=橋の強さは本来端っこも真ん中も同じでも、駒=橋脚近くは固い=揺れないのに対して、真ん中は柔らかい=揺れることになります。弓の毛でもまったく同じです。

ちなみに「カーボン弓」は「曲がらない」と勘違いしている人もいますが、それも間違いです。曲がるように=フェルナンブッコ弓と同じように作る技術があるのです。ケースに使われるカーボンと「製造工程」が全く違うのです。
 弓の毛を張らないで、フォルテで演奏すると、初心者の場合は弓の毛とスティックと弦がすぐに「接触」してしまいます。その接触をぎりぎりで避ける「圧力」をコントロールできるのが上級者やプロの演奏技術です。

 弓の毛の張り具合は、演奏者によって好みが分かれます。
弓の中央部分でも、とにかく圧力をかけて演奏したいというヴァイオリニストはやたらと毛を強く張ります。一方で、弓の中央部分の柔らかさを使いたいヴァイオリニストは、ぎりぎりの弱さで張ります。
 少なくとも、弓へのダメージを考えるなら、私は張りすぎは避けるべきだと思います。私はペカットを使うのは、本番前の数日間と本番当日だけにしています。それまでは、違う元気な弓(私の場合フィンケル)で練習します。
 弓のスティックは、演奏していると次第に柔らかくなっていくのを感じるはずです。言い換えれば、木が疲れてきているのです。毛を強く張って長時間練習すれば、それだけスティックは疲労します。
 「弓は消耗品」という、とんでもない嘘を言う人が、たまにいます。
確かに疲労しやすい・壊れやすい「楽器」です。だからこそ労わって、大切に使わなければ、名弓と呼ばれる弓は世界からなくなってしまいます。すでに多くのペカット、トルテの弓が、折られたり、使い物にならなくされたりしています。
 弓はヴァイオリンの付属品でもありません。楽器です。
弓の扱いを知らないアマチュアが多すぎます。先日も、ある学校の部活オーケストラに入った私の生徒が、先輩に「弓の毛はいっぱいまではらないとダメなんだよ」と言われ、困って「私の先生に弓の毛は張らないほうがいいってならいました」と正直に答えたそうです。あろうことか、そう上級生は「そう?じゃ、貸して」と生徒の弓の毛を目いっぱいに張って「はい。これで大丈夫」と返されました。
実話です。これが現実なのです。恐ろしいと思います。
 私の生徒には、絶対に人に楽器も弓も触らせたり弾かせたりしないこと!
なぜなら、楽器を落としたり、ぶつけて壊しても「貸した人=持ち主の責任」なんだよと、教えました。どうしても先輩に言われたら「このヴァイオリンは私の先生に借りているものなので、貸せません」と嘘で良いから断るんだよと教えました。嘘をつかせたくはありませんが、そうするしか方法がありません。

 弓の毛の張り具合を決めるのも、演奏技術の一つです。ただ単に「適当に張りましょう」と本気で思っている人には、ぜひ弓のスクリューを90度緩めて演奏して見て欲しいと思っています。それでもまだ強すぎれば、さらに90度。
きっと音色の違いに気付けるはずです。そして、弓の反りをいつまでも保つことは、ヴァイオリン演奏者の「責任」だという事を忘れないで欲しいのです。
弓は買い替えればよい…という人は、ぜひピチカートだけで演奏してください。
弓は演奏者の「声」を出すものです。声楽家がのどを大切にするように、ヴァイオリニストは弓をもっと大切にするべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

初めての音との出逢い

 映像はThe Singers Unlimitedのア・カペラ。
高校3年生の頃に、初めてこの「音」に出逢いました。
仙川の「リセンヌ」という小さな喫茶店。マスターとお母さんがサイフォンで入れてくれるコーヒーと煙草の香りの中に、ジャズが流れていました。
いつからか、入り浸っていました。授業の無い時も、たまには…(笑)
当時、ジャズに興味の無かった私が、なぜ?このリセンヌに通い続けたのか、記憶が定かではありませんが、なにか落ち着ける場所でした。
 ある時に偶然かかっていたのがこの「The Singers Unlimited」のコーラスでした。背筋がぞくっとして、鳥肌が止まりませんでした。「なに」これ」
お聞きになってお分かりの通り、「多重録音」で作られた音楽で、実際には女性1名、男性3名のグループです。

 人間の声だけで作られる和音の響きは、楽器の和音の音色と別次元の多彩さがあります。声=歌の場合、母音によって響きが違います。また、男性の声と女性の声の「響きの違い」も明らかにあります。しかも「同じ人間の声」で多重録音されているこの音楽には独特の不思議さがあります。多くの歌手が自分の声を「重ねる」技術で録音しています。日本人の歌手で重ね録りと言えば、この音楽ですね。

 同じ人間=山下達郎さんおの声だけだと、また違った面白さもありますが少し違和感も感じますね。でも好きです。
 話が飛びましたが、和音の種類の中で「ドミソ」「ファラド」「ソシレ」と言った基本的な三和音=トライアド・コードと、「ドミソラ」や「ミファラドソ」のように、聴いていて「ん?」と感じる和音があります。
 クラシック音楽の多くは前者の和音を基準に作られています。もちろん、例外はたくさんあります。一方で、ジャズで多く使われる和音は、クラシック音楽よりもはるかに「7th」「9th」や半音意図的に下げた音を組み合わせるなどの和音が使われます。めちゃくちゃに鍵盤を抑えて出る和音…ではありません。ジャズの「規則=理論」があります。むしろ、クラシックの和声進行より、音の数が多いうえに「ベースが△の音を弾く場合」などと言った暗黙のルールも含めれば、クラシックよりはるかに理論が複雑になります。

 私自身、この音楽を初めて耳にした時、どんな和音なんだ?と聴音の耳が働きかけました。が、それが無意味だと感じました。なぜなら「美しかった」からです。楽譜にすれば「この音とこの音とこの音」で書き表せる「音」ですが、聞こえてくる「サウンド」に身をゆだねたいと感じました。
 その後、たくさんのレコードや、のちにCDを買って聴きあさりました。
クラシックの和声と違う「新鮮な響き」は未だに記憶に残り続けています。
また新しい衝撃的な「新しい音楽との出逢い」があることを楽しみにしています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック音楽は古い音楽?

 映像は、ぷりん劇場第4幕より「Mr.Lonly」をヴィオラとピアノで演奏したものです。50年ほど前にこの曲に出会いました。
 クラシックという言葉には、いくつもの定義があります。「長い年月を経たもの」と言う意味もあります。
音楽の世界で「クラシック音楽」と言われる音楽があります。それらは、現代の音楽の「土台」になった音楽でもあります。

 「クラシック音楽は嫌い」と言う人が、「ロックやポピュラー音楽は好き」と言うケースがあります。それらの人にとってのクラシック音楽のイメージは様々です。多くは「古臭い」「長い」「つまらない」などの感覚だと思います。
 演奏する姿を考えれば確かに、クラシックの演奏会とポピュラーのコンサートは明らかに違います。「見る楽しさ=見せる演出」の有無です。
 ただ、クラシックでもオペラの場合は、見る楽しさもありますが、多くの演奏会は「無心に演奏する演奏者」を「明るく照らす照明」だけですよね。

 音楽そのものの「音=サウンド」で比較してみます。
クラシック音楽とポピュラー音楽の大きな違いは?
・楽器の役割=クラシックの場合、リズム楽器という概念がありませんが、ポピュラーの場合はドラムセット、ピアノ、ベースなどが音楽のリズムを作る基本になっています。
・音量=クラシック音楽の多くは、ポピュラーよりも大きな「音量変化」が1曲の中にあります。逆に言えば、ポピュラーの場合は、1曲の音の大きさはあまり変わりません。
・演奏される楽器の種類=ポピュラーで使われる「シンセサイザー=電子楽器」は一つの楽器で多くの音色を演奏できます。しかも一人で操作・演奏できる楽器です。クラシックの場合、オーケストラではそれぞれの楽器を一人ずつの人間が演奏するので、楽器の種類を考えてバランスをとるためにさらに多くの演奏者が必要になる場合もあります。
・1曲の演奏時間=クラシックの場合、どこまでを1曲とするのかにもよりますが、明らかにポピュラー音楽よりも演奏時間は長い曲がほとんどです。ポピュラーの場合は、レコード片面に収まる演奏時間がひとつの基準になりました。また、テレビで多くの歌手を出演させるためにも「時間制限」が設定されていました。クラシックに「演奏時間」の基準がないことも、「クラシックは長い」と思われる要因だと思います。

 クラシック音楽があったから、現代の音楽が生まれてきたことは紛れもない事実です。それを否定するのは「無知」でしかありません。コードネーム一つを取って考えても、バッハの時代に築かれた「技法」に英語で名前を付けただけです。ジャズは自由な音楽です。クラシック音楽は「楽譜」に従って演奏しますが決して「不自由」な音楽ではありません。ジャズの演奏をクラシック音楽のように「楽譜」にすることができるのがその証です。どちらが優れているかと言う問題ではありません。それぞれに異なった「自由」があるのです。
 違う言い方をすると、ジャズピアニストの中には「楽譜通りに演奏するのはとても難しい」と言う人もいます。クラシックピアニストの中には「楽譜のない状態で曲を作りながら即興で演奏するのは難しい」という人もいます。両方できる人もいます。違った難しさがあるのです。どちらかを学び、極めた人には、それがわかります。

 歴史的に考えれば、現代の音楽=ポピュラーの基礎を作ったのは、クラシック音楽です。音楽が進化し変化することは、今に始まったことではありません。
クラシック音楽が「出来るまで」にも様々な音楽があったのです。
 演奏する楽器の種類が違う。1曲の長さが違う。演奏会での演出が違う。歌い方=演奏豊富尾が違う…などなど、違う点はたくさんあります。
 クラシックと言うから「古い」と言うイメージがついてまわりますが、それぞれに違った音楽である「だけ」で、古いだけではありません。古いと言うなら、ミスターロンリーはクラシックです(笑)言葉の「落とし穴」ですね。
 音楽以外にたとえるのは難しいですが、フルコースの料理で出てくる「順番」があったり、懐石料理でそれぞれに「名前」があったりします。これも一種の決まり事です。それにとらわれない料理もあります。
 モノづくりにも言えます。伝統的な手法と工程で作られるものもあれば、機械化で短時間に作られる「同じようなもの」もあります。手作業で作られる車もあれば、ロボットがほとんど作る車もあります。伝統的な踊りや歌、料理や日用品、建物がどんどん消えている現代に、悲しさを感じます。
「便利な方がいい」のは確かです。「新しい方がいい」と決めつけるのは間違いです。不便だから古いものは壊す、捨てると言うのも間違いです。
 先人の築いた「文化・芸術」を古臭いと切り捨てることは、人間のおごりです。もっと、古きよきものを大切にする「心」を持ちたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

母に贈る感謝

 2020年6月3日の早朝、私(謙介)の母が父を追って天国に旅立ちました。
あれから丸2年の月日が流れました。もう?まだ?どちらにも感じます。
穏やかに最期の時を迎えられたことが、何よりの救いでした。

 父も母も生まれは岡山県。昭和4年生まれの父と6年生まれの母。
戦後を息抜いた両親の間に、兄と私の二人兄弟。
父は決して裕福ではない家庭の長男として生まれ、3人の妹を支えるために勉強し、京都大学に進み、当時の富士銀行に就職。一方の母は、一代で会社を築いた父の長女として恵まれた環境で育ったお嬢様。
 そんな二人の間に生まれた兄は、幼いころから勉強とスポーツの出来る「優等生」で父のスパルタ教育を受けて育ちました。5つ年下の私は、生まれつき心臓に病気が見つかり、その後治療不能の目の病気と診断され、病弱な幼少期を過ごしました。
 銀行員はとにかく転勤が多く、私は東京渋谷区で生まれ、すぐに札幌の社宅に引っ越し。当時心臓が弱く、列車と船での移動は無理と診断され、銀行は特別に「飛行機」での移動を認めたそうです。3歳頃に、代々木上原の社宅に引っ越し。小学校入学は「上原小学校」その後、岡山県倉敷市の社宅に引っ越し。田んぼの中の一軒家社宅。「倉敷東小学校」へ。この頃に、ヴァイオリンを習い始め、少しずつ健康な生活が出来るようになってきた小学校2年生が終わるころに、東京都杉並区荻窪の社宅に引っ越し。「荻窪小学校に転校し小学校5年生途中まで友達と元気に遊ぶ少年になりました。その後、東京都小金井市に父が念願のマイホームを建てて引っ越し。「緑小学校」に転校しこの頃に、久保田良作先生のお宅を訪ね、図々しくも弟子入りさせて頂きました。当時は奥様の「由美子先生」にレッスンをしていただいていました。その後、「緑中学校」に入学したときから、良作先生のレッスンを受けることになりました。
 両親は、私たち兄弟が独立した後も、二人で小金井に暮らし続けましたが、父が前立腺がんの告知を受けてから、生活が激変しました。やがて母の認知症が判明し、進行していることを父は私たちに隠し続けました。
 ある年末に、父がインフルエンザを悪化させて救急車で杏林大学病院に搬送され、即入院。これがきっかけで、両親ともに施設で暮らすことを承諾。
 その後は、兄の住まいに近い有料介護施設に、ふたり隣同士の部屋で入居。
父が老衰で亡くなったときには、すでに母の認知症は父の死を覚えていられない症状でした。その後も、母は施設で暮らしましたが、幸い大きな病気にもならず、数日間の入院があった程度で平穏に暮らすことができました。
 母の認知症は、途中「ものとられ症候群」で施設の中でトラブルはあったものの、その後は、穏やかに生活できていました。亡くなる数週間前から、食事をしなくなり、水も飲まなくなり、それでも会話は出来ていました。亡くなる数日前に、施設に面会に行った時、車いすでロビーまで連れて来られた母と、何とか会話ができたのが最後の会話でした。施設の出口で手を振る母が、生きている最後の姿でした。

 母に最期の生演奏を聴かせられたのは、もうずいぶん前のリサイタルです。
両親ともに、葬儀が大嫌いでした。数人の身内だけで、ふたりを送りました。
実は上の映像は、母の通夜と告別式の際に、式場でひっそりと流していた音楽です。安らかな終焉を迎えられた両親に、今更ながら「子供孝行な親だな~」と思います。それなりに介護はきつくも感じました。ただ、それは肉親として当然の事でした。浩子にしても義理の姉にしても「家族」として本当に私たちの両親を支えてくれました。尊敬しています。家族とは…それを教えてくれました。
 音楽を演奏する息子を、誇らしげに話していた両親でした。
相変わらず兄は音楽に「縁がない」スポーツ系おじいさんですが、仲良し兄弟になってしまいました(笑)
 両親に感謝することを、両親が生きている間に出来ていなかったのは事実です。だからと言って、後悔しても仕方のないことです。自分がこの先の人生を、両親への恩返しとして、ひとりでも多くの人に、音楽と笑顔を届けて暮らすことが、両親への感謝になるのかな?と思っています。
両親が生前に、お世話になった多くの方々に、改めて俺を申し上げます。
ありがとうございました。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介