メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

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ステージで得られるもの

動画は先日の発表会での演奏です。
演奏者と家族だけの身内の演奏会。
不特定の人に聞かせる「コンサート」ではありません。
舞台の上で演奏することを目的として、練習してきた成果を実感する時間です。
4歳のこどもから、私よりも先輩の大人まで21プログラム。
今回初参加が5名。全員がステージで客席で、音楽を満喫しました。

 人前に出て演奏をするのは、ほとんどの人にとって「非日常」です。
人前で話したりサポートするお仕事をされている人でも「楽器の演奏」はまったく違う緊張感があると思います。
 緊張感があるから、開放感を味わえます。
演奏し終えた瞬間の「やり遂げた!」という表情がすべてを物語っています。
趣味なんだから、自宅の練習だけで充分だという考え方もありますが、せっかくの趣味だからこそ、楽しみは大きいほど良いと思っています。
 好きな事にかける時間と労力は惜しくないものです。それがスポーツでも音楽でも同じことが言えます。アマチュアスポーツでも勝敗の付く協議で「負けてもいい」と思って練習する人はいないと思うのです。負けるのが嫌だから、試合をしないで、素振りと壁打ちだけで満足できる人も、心の中では「うまくなりたい」と思っているから練習するのだと思います。

 自分の演奏が自分にとって、どのくらい満足のいくものだったのかは、他人からは想像もできません。自分の演奏に厳しい人は「ダメだった」と思い込みがちです。全然ダメじゃないのに(笑)
 自分の演奏が、本気で「じょうず」と思う人なんて、いないと思うのです。
もしそう思っていたら、楽器なんて弾かないはずです。自分が出来たと思えたら、その先に目指すものが何もないからです。
 欲を持つことです。子供は「無欲」でも上達します。それこそが生き物の「学習能力」だと思うのです。厳密に言えば、無欲なのではなく、本能で生き残るための「知恵と技術」を習得しているのだと思います。
 4歳の子供の演奏に、じょうずもへたもありません。それでも本番の直前に「ドキドキしてきた」とお母さんに言ったそうです。ステージでは、客席のお母さんをキョロキョロ探し始めてから、緊張感が切れました(笑)
 大人の趣味が楽器の演奏って、素敵だと思います。
一人でも楽しめる。誰かと一緒に演奏しても楽しめる。勝ち負けもなく、自分の好きな音楽を好きなように練習できる。失敗してもケガもしないし血も出ない(笑)聴いている人が笑顔になる。いくつになっても演奏できる。
 趣味の演奏に他人が「ケチ」を付けるのは、ナンセンスです。
本人が楽しめればそれだけで「趣味」なのですから。うるさいと思うのは仕方ないですが…。暴走族より静かです。

 これから楽器を始めて煮ようかな?と思う方。ぜひ!初めの一歩を踏み出してください。出来なくて当たり前です。だから面白いのです。
お子さんに楽器を習わせたい保護者の皆様。お子さんと一緒に音楽を楽しむ気持ちを持ち続けてください。学校の勉強とは違います。受験勉強とも違います。
親と子供が「二人三脚」で音楽に向かうことが、子供の上達を支えるただ一つの方法です。子供だけで楽器の上達は出来ません。楽器を買い与えただけでは、子供は楽器を弾けません。おもちゃではありません。ゲームでもありません。一生楽しみ続けられる「技術」なのです。それを忘れないでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習と本番

 生徒さんの発表会を明後日に控え「余興」で1曲だけ演奏する私たちです。
趣味で楽器の演奏を楽しむ人たちが、ステージでお客様の前で演奏する緊張感は、私を含め多くの演奏家も経験したことです。失敗した記憶もあります。音楽の学校での実技試験の記憶も少しはありますが、緊張する演奏経験を重ねるうちに、鳴れなのか?麻痺なのか?次第にその記憶が薄らいでいるようにも思えます。だからこそ、生徒さんたちの緊張感から学ぶことも多いのです。
 練習から一回の本番に至るまでの「道程」を考えてみます。

 演奏する曲が「初めての曲」の場合は、まずその音楽を知ることから始まります。楽譜に書いてあることを音にする。誰かの演奏を聴く。作曲した人や時代などを知る。練習する以前に、音楽を知ることです。
 次に自分が楽器で演奏する段階。ここからは、以前に演奏したことがある曲を演奏する場合でも同じです。
 自分の演奏している「音」と「音楽」を常に観察する集中力が不可欠です。
落とし穴があります。「繰り返せば演奏できるようになる」という「蟻地獄」のような落とし穴です。練習であっても、本番であっても「演奏」であることは同じです。自分の演奏を冷静に観察し続けることは、一度だけの本番のために絶対に必要な練習だと思っています。

 本番での演奏は、演奏している時間と空間での出来事です。完全に同じ演奏を再現することは、神様でなければできません。どんな演奏であっても、その音楽を聴くことのできる人は、その場にいた人だけです。録音された音楽は、真実ではありません。言ってみれば写真と同じです。
 演奏の瞬間に感じるものは、聴いた人の記憶に残ります。当然、演奏している人の記憶にも残ります。練習している時に、自分の演奏に感情を持っているでしょうか?ただ「うまく弾きたい」「間違えないで弾きたい」と思ってはいないでしょうか?たとえ、それが開放弦の練習であったとしても、どんな音色・音量なのか?聴いているはずです。スケールを練習しても、曲を練習しても「演奏を記憶し振り返る」ことの繰り返しを抄訳するのは「手抜き」です。
 思ったように演奏できないパッセージがあります。
私の場合、「思っていない」ことが原因です。つまり、どう?演奏したいのかという、具体的なことが一音一音に足りない場合です。思っていないくせに「思ったように」と感じているだけです。どんなに難しい、あるいは難しそうなパッセージでも「一音だけ」演奏することはできるのです。その一音を、どう?演奏すると次の音が、どう?演奏できるのか?という「連結」ができれば二つの音を連続して演奏できます。それを繰り返せば、「絶対に」演奏できるはずなのです。

 練習に時間は必要です。本番で演奏する時間を、自分も聴いてくださる人も楽しむための時間です。もちろん、ただ時間が経てばクオリティの高い演奏が出来るようになるわけではありません。先述したように、自分の演奏を振り返りながら「試行錯誤」を繰り返すことです。違う言い方をするなら「実験」を繰り返すことです。音楽に限らず、この実験は常に行われています。身の回りでも、何気なくやっているはずです。
 自分のやり方だけに固執するのは、あまり良いことではありません。事務作業にしても掃除にしても、自分が何気なくおこなっていることが、実はとても非効率で、時間と体力を無駄にしていることもあります。
 できないと思ったことに直面したときに、それを解決する方法を「実験」するはずなのです。「マニュアル」がないと、新しいことができないと思っている人もいます。子供は、まず「やってみる」のです。だから、スマホでもなんでも大人よりずっと早く使いこなせるのです。もちろん、失敗して壊すリスクもあります。化学の実験なら「爆発」するかも知れませんね。
 音楽の実験でケガをした人はいないはずです(笑)
実験をせずにただ何となく、繰り返してもケガはしません。ただ上達した人もいないと思うのです。新しい発見をすることがなければ、進歩はないのです。
 練習は単なる時間の浪費ではなく、「発見のための時間」だと思っています。

 最後に、本番で演奏する時間から、少しずつ遡る「逆算」をしてみます。
演奏直前、最初の音を出す直前です。あなたは何を考えますか?今日の晩御飯?それとも昨日の出来事?(笑)多くの生徒さんが、この瞬間に何も考えられなくなるか、逆に考えすぎます。どちらもあまり良いことではないように思います。
 練習で最初の音の弾き方を決めておくことです。ずいぶん戻ってしまいますが(笑)最初の音をどうやって演奏するのか?決まっていれば、まずそれを考えれば良いだけです。
 もう少し遡って、自分の演奏する前の「10分」
演奏に必要な「もの」と「こと」を確認します。これだけ時間があれば、絶対に大丈夫です。慌てない、焦らない、ゆっくり動く。
 さらに遡って、家から会場に移動する時。途中で走らないことと、立ち上がる時に必ず後ろを確かめて忘れ物がないか見ること。これ、聴音の黒柳先生から伝授された「奥義」です(笑)効果絶大です。
 家から出る前に。もしも、余裕があるなら一度だけ、演奏してゆっくり片づけて、すべての持ち物を確認する「余裕」が理想です。その時にうまく演奏できなくても「今日は弾いた」という安心感が得られます。本番前にうろたえることもなくなります。
 本番数日前。ケガをしないこと。病気にならないこと。楽器を壊さないこと。疲れないように練習のペースを落とすこと。この時期に一番うまく演奏できるように、その前の数日は「へたくそ」で良いのです。人間にはバイオリズムがあります。常に最高の状態に保つことは不可能です。本番の前に自分を高め、本番で最高の「頂点」にいる計画をイメージすることです。
 あまり「ルーティン化」しないことも大切です。「おまじない」を増やせば増やすほど、不安材料になります。お守りを10個、持ち歩く人っていないですよね?(笑)それと同じです。
 練習で本番通りのことをしていれば、本番も練習も同じです。
演奏は時間の芸術。その場で演奏している自分が「主人公」です。
演奏を楽しみましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

好きな曲・好きな演奏

 動画は、みなとみらい大ホールでの「アルビノーニ作曲 アダージョ」です。
1985年から教員になり、新設校にオーケストラを0から作り、開校6年目で初めて「定期演奏会」を大講堂で開いてから、学校近隣のさびれた公会堂での演奏会を学校に認めさせるために「闘争」。その後、川崎市宮前区の「宮前文化ホール」に会場を移し、さらに当時の「グリーンホール相模大野大ホール」に。そこでもお客様を収容できない。ステージに乗り切れず、生徒が転落ちたら学校は責任をとれるのか!と学校と「闘争」し、最終地点「みなとみらい大ホール」に到達して3回目の演奏会でした。前置き、長くてすみません。
 私の好きなホールをひとつだけ、と言われたら迷わずにこのホールを挙げます。響きの暖かさ、残響時間とその切れ方、舞台裏の広さ、楽屋の数、なによりもパイプオルガンの音色。すべてが私の好みです。収容人数2020人を満席にすることが開催の条件でした。全席無料、全席指定、事前予約で2020枚の予約券はすべてなくなりました。部員の家族だけではなく、一般の聴衆も多かった演奏会でした。
 その大ホールで退職するまでに、4回指揮台に立ちました。毎回、様々な曲を演奏していました。チャイコフスキーの第4番、第5番、第6番(もちろん単一楽章だけです)、シヘラザード、レ・ミゼラブルなどなど。そんな中でも、このアルビノーニのアダージョは私の好きな曲「トップ3」の一つでした。強いて言えば「1番好きな曲」です。

 高校2年生のヴァイオリンソロ、オルガンは中学を卒業し高校で桐朋の作曲科に進学していた元教え子高校2年生。演奏は「危なっかしい」ものです。傷もあります。この演奏に「ケチ」を付けるのは簡単ですが、私には「最高の演奏」に感じます。自分が好きなように音楽を作り、子供たちに「言葉」と「動き」でそれを伝えた、音楽の揺れと流れ。途中、前のめりになりすぎて、危うく指揮譜面台ごと前に倒れそうになってます(笑)なにが?どう?好きなのかを言語化するのはやめます。「やめるんかい!」と突っ込まれそうですが、実際書いても理解していただけるとも思いませんし、人それぞれ感じ方が違うのが当たり前です。

 旋律と和声。歌曲であればそこに詩が加わる音楽。
広い意味で音楽は、和声を持たなくても音楽だと思いますし、現代音楽の中でバッハやベートーヴェン時代の音楽の「和声感」とは異なる音楽も「音楽」です。
ただ、多くの人にとっての音楽と、音楽の専門家にとっての音楽が「乖離」している気がしてなりません。

 たとえば、知らない国の言語を聴いても、意味が分からないのは当然ですよね。意味が分からなくても、ゼスチャーや表情で伝わることも少しはありますが、「声」だけで伝えられるものは何もありません。
 音楽はどうでしょうか?何を伝えているのでしょうか?
絵画にも色々あります。風景、人物、抽象画など。そこに描かれているものが「なに?」なのか理解できない絵画もあります。それを「美しい」と感じる感性。理解できない人には、ただの落書きに見える作品もありますよね。
 クラシック音楽を学んだ人たちにとって(私も含め)、クラシック音楽は「聴きなれた音楽」です。作曲された時代、当時の文化や作曲者の人物像などを「学んだ」上で演奏したり聴いたりします。
 音楽は学ぶものなのでしょうか?学ばなければ、楽しめないものなのでしょうか?学べば楽しいものなのでしょうか?

 自分の好きな音、好きな曲、好きな演奏。
学ぶ必要は無いと思います。偶然に巡り合うものだと思います。探すこともありますが、「好きなものを探す」ことは、本来は不要なことです。
生きている時間に、耳に入ってきた音楽の中で「好きになる」のが自然な出会いだと思います。
 音楽に限らず、「つくる・提供する」人と「使う・受け取る」人がいます。
演奏することは、作る側。音楽を聴くのは受け取る側です。
作る側は、使う人の「喜び」のために作るのが本来の姿です。
使われない、喜ばれないものを作るのは、作る人間の「自己満足」でしかありません。
アマチュア演奏家の音楽は「自己満足」で十分なのです。なぜなら自分が楽しめればそれで良いからです。
人に喜んでもらうための演奏をして、対価としてお金を受け取る「作り手=演奏家」は、自分よりも聴いてくれる人の「喜び」のために試行錯誤と努力を重ねるべきです。自己満足で終わるのであれば、対価求めるのは「図々しい」と思います。聴いてくれる人の中に、その演奏・音楽を「好き」になってくれる人が、一人でもいてくれることを願うことを演奏する側は忘れてはいけないはずです。
 好きな演奏を演奏者自身が探します。そのひとつの「作品」が、上の動画です。
 聴いている人に伝えられるのは、演奏者自身が自分の演奏する音楽が「本当に好きなんだ」と思うことだけかもしれません。そこから先は、聴く人の感性なのです。「いい曲ですよね」「いい演奏ですよね」と、他人に自分の感性を押し売りするのは「無理」だし「うっとおしい」だけなのです。聴いてくれた人が「つまらない」「へたくそ」と感じるのは仕方のないことです。当たり前のことです。その人が悪いのではありません。感性が低いのでもありません。ただ、自分の感性と違うだけなのです。
 自分の演奏を喜んでくれる人に出会うために、コンサートを開きます。
聴く側は、自分の好きな演奏に出会える期待を持っています。
演奏する人間と聞く側の「好き」が一致する瞬間が「音楽」の本質だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

おまけの映像。みなとみらいでの最後の演奏会より、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」より第3楽章です。


家族と音楽

 何度も夢に出演してくれる私の両親と兄です。
父を見送り、父を追う母を見送ってからずいぶん時が経ちました。
子供の頃、喧嘩にもならない年の差で思春期には「大嫌い」だった兄と、今はまるで仲良し兄弟笑)
 動画は、渋谷牧人さんの作られた「はるの子守唄」を私のヴィオラと浩子のピアノで演奏したものです。映像は、父の思い出のために以前作ったスライドショーです。

 生徒さんを教え、自分たちで演奏し、思うようにいかない生活をしながら思う事。「なぜ音楽に関わって生きているのか」という命題です。
 どんな生徒さんにも、生んでくれた親、育ててくれた親がいます。
すべての人が同じように両親と、仲睦まじく暮らしてきたとは限りません。
複雑な事情を抱えて生きてきている人たちもたくさんいます。
はたから見ただけで「幸せそう」と決めつけるのは間違いです。
人には言えない、その人の心にしまわれた「歴史」もあるのです。
両親と言う言葉を、敢えて使わせてもらうのは、私が幸せなことに、両親の間に生まれ両親に育てられた子供だからです。それがどんなに幸運だったのか、今更思うのです。

 音楽を学ぶことができ、自分で選んだ道を歩いて来られたのは、両親の愛情があったからです。困ったときに、笑って応援してくれた父がいました。父のわがままを「まったくもう」と言いながら受け入れていた母がいました。
 音楽を演奏できるのは「自分の力」と思い込んでいる人がいます。確かに本人の努力がなければ、演奏は上達しません。

すべての人が母から生まれ、今日まで生きてきました。どんな人間であっても、母親が命がけで生んでくれた「子供」なのです。
 私が音楽を演奏することを、両親は何よりも喜んでくれていたと思っています。小さいころから、そうでした。だからきっと、私は音楽に今も関わって生きているのだと思います。
 私が学校で働くことを父は望んでいませんでした。おそらく私への「期待」を裏切られたと感じたのだと思います。二つの原因があったようです。
私がヴァイオリンと言う楽器から離れて行く寂しさ。
私が演奏家になることを夢見ていたこと。
確かに教員時代、私はヴァイオリンを演奏することへの情熱を失っていました。
数年で退職するつもりだったのが、「住宅ローン」と言う足かせを自らつけてしまって、辞めるにやめられない状況で20年という時間を過ごしました。
 退職時に起きた「事件」の中に家族との断絶がありました。
両親を説き伏せる気力もなく、ただ死なないために生きていました。
 私がヴァイオリンを手にして、再び演奏を始めて浩子との最初のリサイタルに両親は揃って聴きに来てくれました。満面の笑顔で演奏後に「お小遣い」をくれた父を忘れられません。その後も、私たちのコンサートには必ず二人そろって来てくれました。両親が施設で生活するようになってからも、施設内でコンサートを開かせてもらいました。

父が亡くなり、母の認知症が進行した頃、恐らくリサイタルに来られるのが最後になると感じました。施設長自ら運転し、藤沢から代々木上原まで母を載せてきてくれました。帰りは生徒さんのご家族に施設まで私たちと一緒に、母を送っていただきました。
 母が亡くなる直前、施設に二人で伺いロビーに車いすで連れてきてもらった母に、私たちの演奏をスマホを母の耳につけて聴かせました。顔色が変わり、目に生気が戻ったように感じたのは私の思い込みかもしれません。

 人が生まれてから死ぬまでの時間の中で、人に喜んでもらえることがどれだけできるでしょうか?
 私の場合、一番多く喜んでくれたのは家族だと思います。一番怒ってくれたのも家族でした。その家族から教えられたのが「音楽」だったのかもしれません。
母は若い頃に通っていた同志社の時に覚えた讃美歌を、足踏み式オルガンで演奏できる「演奏技術」を持っていました。父は演歌が大嫌いで、藤山一郎からパバロッティに「押し」を変える「聞く専門」の人でした。兄は私との「不可侵条約」なのか、幼い頃から一切音楽に興味を持たず、スポーツ万能な戦うサラリーマンです。そんな家族の中で、私がこうして音楽に関わっていることは、結局両親の「願い」だったのかも知れません。私自身、そのことに感謝しています。
 お子さんをレッスンに通わせている「親」たちに伝えたいのです。
親が願うことです。親が子供に夢を見ることです。子供の能力を信じることです。自分の能力とは関係ありません。子供が好きな道を進むときも、親の夢は持ち続けてほしいのです。子供の人生に、一番関わるのが「家族」だからです。
 最後に、私の現在の家族である浩子「姫」とぷりん「姫」、浩子のご家族、兄の家族に、心からの感謝を伝えたいと思います。ありがとう!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

自由な音楽とは?

 動画はアイザック・スターンのヴァイオリンと、ヨーヨー・マのチェロによるドッペルコンチェルトです。今回のテーマとどんな関係が?

 音楽を演奏する人にとって、知るべき「規則や定義」があります。
ひとつの例が「楽譜」です。楽譜を書き残した人の作品=曲を、音楽にするために共有するルールでもあります。「音楽を聴けばマネできる」のも事実ですが、録音する技術のなかった時代、演奏は「その場限り」で人の記憶にしか残りませんでした。かのモーツァルトが一度聞いた音楽を覚え、楽器で再現できた話。当然聞いたのは「生演奏」です。そして、そのモーツァルトが書いた楽譜のルールは今でも変わっていないことってすごいことです。楽譜という「規則」がなかったら、現在私たちが聴くことのできる音楽は誕生していなかった可能性があります。
 子守歌や民謡のように、人から人へ伝えられた音楽もあります。その過程で、少しずつ変わっていくのもこれらの音楽の特徴です。楽譜と言う「記号」で残らなかった音楽です。

 自由な音楽とは、どんな音楽でしょうか?自由な演奏とは、どんな演奏でしょう?とても大きな問題です。
ちなみにウィキペディアによると、自由の対義語は「専制」「統制」「束縛」という言葉が出てきます。日常生活の中の出来事で考えると、理解しやすいですね。おおざっぱに言うと「やりたいようにできない」のが自由でないことを指しているように感じます。自分の意志とは別に「抑制」される感覚を伴うことです。ただ、自分の意志のない人にとっては、自由も束縛も感じないことになります。やりたいことの多い人の方が、「束縛」や「不満」を感じるのではないでしょうか?

 もし、自由な音楽という定義をするなら、音楽を作る人・演奏する人が、何も制約や束縛を考慮しないで、好きなように作る・演奏する音楽。でしょうか。
そう考えると、私たちが普段演奏している音楽は、自由な音楽に限りなく近い気もします。少なくとも、自分の演奏したい音楽を「自由」に選べる段階で、束縛を感じることはありません。
 楽譜に書いてある「記号」「標語」「指示」に忠実に従うことが、自由でないと感じる場合もあります。出版社によって楽譜にかかれている記号や標語が違う場合があります。また、作曲家によって、楽譜に多くの指示を書いた人と、演奏者に任せた人がいます。楽譜と言う「規則」にどこまで従うのか?その規則に反したら、なにが起こるのか?どこまでが「自由」として許されるのか?
個人の価値観によって違うことです。ただ「統制」される音楽が美しくないとは言い切れません。なぜなら「オーケストラ」の演奏は、多くの意味で統制されているからです。練習時間の束縛、演奏するパートの指定、座る位置の指定、指揮者の要求に従うテンポや音量など、好き勝手には演奏できないのがオーケストラです。他人と協調すること、時には妥協することが「嫌」な人は、オーケストラに向いていない人だと私は思っています。いくら技術が高くても、結果的に人の「輪・和」を壊します。誰かを「手下・子分」にしたがる人もオーケストラ向きな人ではないと思うのですが(笑)もちろん、指揮者としても不適格な人だと思っています。誰とは申しません。

 レッスンの場に話を移します。
師匠から弟子への「指示」に従うのは束縛と言えるのでしょうか?
師弟関係に「信頼」が必須であることは以前にも書きました。
演奏技術、音楽の解釈などへの「指定」はあって当たり前ですが、プライベートな部分にまで制約を課すことには異論もあります。それが、弟子の将来に関わる「だろう」という思いからの事であっても、行き過ぎた介入はするべきではないと思います。結果的にその弟子が大成したとしても、挫折したとしても、師匠に弟子の将来を決定するような権利はありません。

 音楽に限らず自由の中にも「節度」が必要です。言い換えれば「最低限のルール」があるのが社会です。無人島でひとり、生きているのであればルールは自分で作ればいいのですが、家族であれ組織であれ、学校でも社会でも「ルール」の中で自由が認められています。
 人として。大人として。
他人に不快感を与えたり、危害をあたえるような「自由」は認められません。
言論の自由、個人の自由。取り違えればただの「わがまま・身勝手」な言動や行為として扱われます。
 音楽が人を不快な気持ちにさせるにすることもあります。
特に「押し付け」られる音楽、逃げられない音楽は人を不快にします。
「国民なら国歌を歌うのが当然だ」と言うのも私は疑問を感じます。
それをすべての国民や、子供たちに強制させる「法律」ってありません。
むしろ日本の最高法である憲法で保障されている「個人の思想の自由」を奪う行為です。音楽を押し付けるのも、押し付けられるのも「音楽家」として従うべきではないと信じています。

 最後に「身体の自由」についても書いておきます。
健康な人にとって、身体のどこかに「不自由」な部位がある人を「可哀そう」と思うのは、少し間違っています。私自身、眼が不自由ですが、それを自分で「可哀そう」と思ったことがありません。眼が不自由であることが「普通」なのです。身体に不自由な部位があると、不便に感じることはありますが、それも受け入れています。自由に動かせる部位があります。それを使って楽器を演奏したり、音楽を作ったりする「自由」もあります。
 何不自由なく生活している人に、不自由な生活をしている人の苦労を創造することは、とても難しいことです。完全に理解することは不可能でも、「思いやる」ことは思い上がりではありません。音楽を聴くことが出来ない障がいを持った人もたくさんいます。その人たちにとって「音楽」ってどんな意味をもつのでしょうか。振動や光で音楽を「伝える」努力をする演奏会もあります。
 私たちが楽器を演奏できることに感謝する気持ちを忘れがちです。
自由な音楽は、自由な場所にしかありません。人間が自由であることを意識しなければ、私たちの音楽は消滅してしまうと思います。
 戦争反対。平和万歳。音楽を自由に演奏できる世界でありますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

大衆音楽だって音楽

 今朝のヴァイオリンレッスンで大人の生徒さん、次にひいてみたい曲をお聴きしたら…
「先生のリサイタルで聴いた瑠璃色の地球」というお応えでした。
一昨年のリサイタルでの演奏動画です。ヴィオラとピアノで演奏しています。
もちろん、私たちが演奏する曲の中には、クラシックと呼ばれる音楽もあります。クラシックとは呼ばれない「ジャンル」の音楽も演奏します。
好みの問題を誰かと競ったり、言い争ったりするのは無意味です。
塩ラーメンが好きな人もいれば、しょうゆラーメンこそがラーメンだと主張する人もいるのですから。

 作曲家が創作し生み出された音楽は「楽譜」という形で、演奏者に委ねられます。作曲家によって、楽譜が書かれた時代によっては、本人が手書きで書いた楽譜を、「写譜」し続けて現代に残されている曲もたくさんあります。
作曲者自身が、ひとつの楽曲を異なったアレンジで楽譜にした曲もあります。
後世の人がアレンジした楽譜があります。また、現存する作曲家の曲でも、違うアレンジの楽譜が出ていることもあります。
 作曲された曲の、旋律と和声、さらに演奏の編成を変えて演奏することは、ポップスの業界で言えば「カバー」と呼ばれる演奏に近いと思います。
どこまで?原曲を変えて演奏するかは、人それぞれの価値観で違います。

 以前にも紹介した「ふるさと」です。ジャズピアニスト小曽根真さんと、奥様の菅野美鈴さんがアップされていたふるさとを「耳コピ」させて頂きピアノとヴィオラで演奏しています。和声を変え、ピアノの伴奏の音楽を原曲とは大きく変えたこのふるさと、旋律は原曲のままです。アレンジでこれだけ変わるのですね。

 いつの時代にも「現代」と「過去」があります。少なくとも未来のことは誰にも分りません。想像は出来ても実際の未来に起こることを、人間が予測することは不可能です。そして、過去に作られたもの、文化、芸術を「伝統」と言います。先人の残した「遺産」に敬意を払い守ることを軽視する人が増えています。
音楽に限らず、過去に起こった悲劇を「なかったこと」にしたり、事実を捻じ曲げる人が増えました。人間として「さもしい」人だと思います。そんな人が、これからの事を語る姿を見ると「お前は神か」と聞いてみたくなります。
 守るべきものと、変えてよいもの、変えなければいけないもの。
この三つの区別ができないと、なんでも壊したり、意味もなく固執したりします。
 美しいと思うことは、人によって違います。嫌だと思うことも人によって違います。それを許容しあうことは、生物の存続に関わることです。野生の動物は無意味に他の生き物を殺しません。自分のテリトリーを守りますが、生きるために必要なテリトリーだけです。
 音楽を創造=想像できるのは、人類だけです。その私たちが、音楽を楽しむ時に考えるべきは「守るもの」と「美しいもの」だけで良いと思います。
それ以外のことは、他人の価値観に委ねても、自分の大切なものは守られるはずなのです。他人の価値観を踏みにじるのは、愚かな行為です。認め合えば、音楽も平和も守れると思っています。
話が大きくなりすぎてすみません!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

時を体感する

 映像は、アルボ・ペルト作曲の「シュピーゲル イン シュピーゲル」日本語に訳すと「鏡の中の鏡」というタイトルの曲です。
一定の規則、「常にAで解決する」ではじめは、Aの一音下のGからA。次は一音高いBからA。FGA。CBA。GFEA、BCDA…と常に「対象」の音型で音楽が進む様子が、まさに鏡に映った鏡の映像のように感じます。

 今回のテーマ「時」は、音と同様に目で見ることは出来ません。
音楽を演奏する時、この「時」はとても重要な意味を持っています。
音符や休符の長さは、つまるところ「時間」です。聴いていて速く感じる音楽とは、短い時間演奏される音「短い音」が連続する音楽です。鏡の中の鏡で考えるなら、ピアノは一秒間に3回演奏されるほどの、一定の「長さ」の音符を弾き続けています。一方ヴァイオリンは、2秒または3秒の長さの音を連続して演奏しています。聴いている人には「ゆっくりした音楽」に感じるはずです。

 時間、時刻、時計、時空。時という漢字を含む熟語はたくさんあります。
時間を考える時に、秒、分、時間という単位の他に、日、週、月、年といった長い時間の単位も、何気なく使っています。地球の歴史や天文の話になると、私たちの感覚では理解できないような「長い時間」も出てきます。

 一方で音楽の世界では、全音符の半分の時間=長さが2分音符。2分音符の半分の長さ=時間が4分音符。つまり、秒という単位ではなく、「比率」で音符と休符の「長さの比率」を決めています。比率が決まっているだけで実は「速さ」は決まっていません。速さは通常、基準になる音符=1拍として定める音符の「時間」で決まります。たとえば、4分の3拍子の音楽ならば、基準となる1拍が「四分音符」です。その四分音符の長さを決めることで、音楽の速さ=テンポが決まります。1拍を1秒なら、1分間に60回四分音符という表記で、テンポを表します。4分音符1拍が1秒なら、16分音符のひとつ分の「時間」は?0.25秒。
普通、考えませんね。でも事実としてその時間、演奏しているのです。

 さて、今度は日常生活での時間について考えます。
好きな事をしていると、「時間を忘れる」ことがあります。
一方で、イライラしている時、たとえば病院で呼ばれるのを待っている時などは、時間が長く感じます。同じ速さで、時間が過ぎているはずなのに。
人間の感じる「時間」は案外といい加減なものなのです。
心臓の鼓動「心拍」は、運動したり驚くと速くなります。逆にゆっくりなるのは「眠っている時」です。一日が長く感じたり、一週間が短く感じたり、1年が…感じ方は、その時々で変化します。

 楽器の練習をしていて、時間を忘れることがありますか?(笑)
子供は正直ですから、飽きるとすぐに練習をやめるものです。「疲れた」「手が痛い」「足が痛い(謎)」色々理由をつけて、練習をやめようとします。親は「30分、頑張る約束でしょ!」と鞭をふるい、「頑張ったらおやつをあげるから!」と飴をだしながら。練習の内容と時間は、「必要な」という冠言葉を付けないと意味がありません。必要な練習時間は、練習したい内容によって変わります。長ければ良いというものではありません。

 コンサートの時間について、感じることがあります。
なぜ?多くのコンサートが開演から終演までが「約2時間」なのでしょうね?
開場時間は、開演時間の30分前というのがほとんど。
休憩時間は15~20分が多いですよね。
これ。誰が決めたんでしょう?考えたこと、ありませんか?
 映画は大体2時間。途中に休憩はないのが普通です。映画館でドリンクを飲みながらポップコーンを食べながら過ごす時間は「至福の時」ですがなぜ?2時間なのでしょう。
 昔なら、映画上映のフィルムの長さに決まりがありました。ニューシネマパラダイスを思い出します。映画の途中でフィルムを入れ替えるシーンがありました。
 レコード全盛だった時代、30センチLPの片面の収録時間に制限がありました。途中で音楽が切れて、裏面にひっくり返して続きを聴きました。
カセットテープには、色々な長さのテープがありました。
30分(もっと短いものもありましたが)だと、片面15分録音できました。
45分。60分。90分。120分のテープはテープの厚さが薄くて、伸びてしまったり切れてしまう事故がありました。
 さて、コンサートの時間はどうして?

 演奏する人の体力と集中力だけで、コンサートの長さを決めますか?
聴く人の体力も考えることも大切だと思います。もちろん、演奏時間や上演時間を、内容を理解した上で来場する人なら、たとえ4時間かっかる演奏会でも喜んで聴くのは理解できます。映画なら「上映時間」が必ず書かれています。
 人間の感じる「長い時間」はどのくらいなのでしょうか?
テレビ番組で考えると、15分に一度くらいコマーシャルが入ります。
その昔、野球中継をテレビで見ていてコマーシャルの間に、トイレに行った記憶があります。私だけ?ゲバゲバ90分という番組が流行したとき、90分の番組がいか珍しかったか思い出します。
 自宅ではなく、会場に出かけていくのにかかる「時間」もあります。
片道1時間かけてコンサート会場に行って、30分の演奏だとちょっと…という感覚はありますよね?満足感と「時間」のバランスは、とても微妙です。

 作品自体が長い場合、演奏者にはどうすることもできません。
作品の一部だけを演奏することは、作者に申し訳ない気持ちもあります。
ソナタやコンチェルトを全楽章、演奏するのが作曲家への敬意だとも思います。
映画やドラマの「抜粋」と近いものです。それでも楽しめる人はいます。
マーラーやブルックナーの音楽を聴くのが、好きな人と我慢できない人に分かれます。好みの問題、価値観の違いですからどちらも正しいと思います。
どちらかの考え方で「理解できない人が劣っている」とか逆に「時間の無駄だ」と公言するのは、いかがなものかと思います。激辛ラーメンの好きな人も嫌いな人もいるのですから。

 音楽は「時間」の中で存在する芸術です。もちろん「空気=空間」も必要ですが。
絵画の場合には、時間という概念がなくても美しい芸術です。音楽をマラソンのように、休みなく音を出し続けることが目的の「スポーツ」のように扱うのは間違いです。

 聴く人が時を忘れ、楽しめる「空間」が音楽です。
時間が長く感じるのは、肉体的な疲労と精神的な疲労の両面が関わっています。
 心地よい時間を演出するのが音楽会のあるべき姿だと思います。

音楽を学ぶための音楽は、音楽の本質ではないと思います。
その時間のために、練習する時間を必要とします。音楽の音符や休符に使われる時間を大切にすることから音楽を考えると、私たちが感じる「時」を大切に感じることが出来ると考えています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学校オーケストラ

 国内の中学校・高等学校での部活動オーケストラで楽器を楽しむ子供たちと、趣味で楽器を演奏する子供・大人との共通点、相違点を考えます。
上の動画はどちらも、私が20代から40代まで勤務していた私立中・高の部活動オーケストラ、定期演奏会の映像です。場所は横浜みなとみらい大ホールです。
二つの映像は実施年が一年違いますが、どちらが先か?わかる人はいないと思います。(実際に演奏した元生徒以外は)
 総勢150名という大所帯のオーケストラですが、開校当初は11名でした。20年かけてこの規模に育ちました。
 練習は週に一回の合奏。後は生徒の自主的な練習です。下校時間は中学生午後4時30分。高校生が午後5時でした。外部からの実技指導者を呼ぶことは、基本的に許されていませんでしたが、退職数年前からは数名の指導者を呼べるようになりました。
 要するに、「普通の部活動」の範囲内で活動してきた「普通の部活動」だったと断言できます。「いや。普通じゃない」「楽器は?」「演奏会の費用は?」など、様々な疑問があると思います。もちろん、それらの「壁」がありました。それを一つずつ乗り越え続けた結果の映像です。
当然ですが、こうした活動には「反対意見」が付いてきます。
部活動は学校教育の一部です。私立ならではの「制約」があります。
学校経営者や管理職の意向に逆らえば「即、くび」になります。
「部活動とは!」という概念さえ、管理職の思った通りになるのが私立です。
その中で子供たちのオーケストラを育てることは、常に管理職との闘いの日々でした。

 さて、音楽の話をします。学校で練習できる生徒たちは、朝、昼休み、放課後の中で、自分の都合のよい時間で、練習することができます。もちろん、顧問教員が校内にいることと、登校時間、下校時間の制約の中でです。
 生徒によって、練習できる時間には差があります。登下校に時間のかかる生徒、塾などに通うう生徒、ほかの部活と「兼部=掛け持ち」している生徒など、事情は様々です。週に一度の合奏だけは、「可能な限り」参加することを求めました。合奏に参加できない生徒にも、参加する権利がありました。
 ほとんどの生徒は4月に入学した時点では、楽器未経験者です。中にはピアノを習って「いる」または「いた」という生徒も、ちらほらいましたが多くの生徒は楽譜を読むのも危なっかしい、ごく普通の子供でした。
 それらの生徒がオーケストラに憧れ、または在校生の部員に勧誘されてオーケストラのメンバーになります。当然、楽器も持っていません。
 開港当初は、学校に少しずつ購入してもらった楽器で練習していました。
学校取引業者から、一番安いほうから「2番目」レベルの楽器を買いそろえました。ヴァイオリンで言えば、当初はセットで7万円程度のものでした。
やがて、部員が多くなり「過ぎて」学校の備品で賄いきれない人数の部員になるころ、開校から10年以上経っても開校時の楽器は、十分に使用できる程度の「維持管理=メンテナンス」をしていましたが、備品の数が足りません。
 そのころになると、多くの生徒が自分の楽器、つまり「親が買ってくれた楽器」を持つようになりました。当然、保護者の理解がなければ、10万円程度の楽器を購入してくれるはずはありません。ちなみに、楽器の個人購入は、入部の条件ではありません。学校の楽器だけで活動したいという生徒には、学校の楽器を使用してもらいました。

 学校以外で趣味の楽器演奏の場合、教室の楽器を「レンタル」で練習する生徒さんもいますし、それおぞれのお財布に合わせた金額で、楽器を購入する生徒さんもいます。その点で、部活動と同じです。
 練習できる時間も、人によって違うことが共通しています。
「合奏」があるヴァイオリン教室は少ないですね。
相違点はそれだけでしょうか?

 部活動の場合、新入生を教えるのは「先輩」ですから、いわば素人です。つまり、「素人が素人に素人のできる技術を教える」のですから、間違った演奏技術、練習方法で教えることがほとんどです。
 さらに悪いのは、合奏を指導する人=多くの場合顧問が「素人」である場合です。
誤解されそうなので、ここで言う「素人」には、2種類の意味を持っています。
・楽器演奏を上達させる指導の「素人」
・学校教育の目的を理解できない「素人」
です。前者の場合、どう練習すれば上達するのかを知らずに指導する人です。
後者の素人は、教育活動の範囲を超えて、やみくもに技術向上に走る人です。
どちらも、学校部活動の指導者としては、不適任です。
学校で音楽系の部活動を指導するのであれば、教諭=学校教育の専門家と、プロの演奏家=音楽指導の専門家で「ペア」を組むことで解決できます。

 学校外の「音楽教室」で教えているのが「専門家」だと思われがちですが、
実際のところ先述の「先輩」程度の人=「趣味で演奏できる人」が、生徒さんからお金をもらって教えている場合が見受けられます。
 そもそも「音楽指導者」という資格は存在しません。学校の教諭には当然、国家資格が必要です。もっと言えば「音楽家」という資格も存在しません。
これまた誤解されそうですが、音楽大学を卒業した人を音楽家と言っているわけではありません。

 ご存じの通り、ン 五嶋龍さんは「音楽大学」卒業ではありませんが、世界的な素晴らしいヴァイオリニストですから。むしろ、音楽大学を卒業していても、専門技術、ましてや指導技術の乏しい卒業生も多いのですから「音楽教室は音大卒業生が教えなければならない」とは思いません。
「教えられる技術があるかないか?」です。

 最後に、「モチベーション」について。

この動画は、先述の部活動オーケストラ定期演奏会、最後の一コマです。
引退する高校生と、それを同じ舞台で見送る後輩の中学生・高校生。
一種の卒業セレモニーですが、この生徒たちの涙は純粋な涙です。
入部したばかりの中学1年生も同じ舞台に立って先輩の後ろ姿を見ています。
客席には、この生徒たちにあこがれる「未来の部員」がたくさん見ています。
「あの舞台に立ちたい」「一緒に演奏したい」と入学試験を受ける受験生が多くなったのもこの時期です。学校は「あえて」その事実を隠しましたが(笑)
楽器をひきたいというだけの気持ちの先にある「夢」がモチベーションです。
子供であれ、高齢者であれ、自分の夢のひとつに「あんな風にヴァイオリンをひけたら」という夢があっても良いと思うのです。
 プロの演奏家を見て「あんな風に」とはなかなか思えません。
ところが、部活動だと?同じ年齢に近い人たちが「目標」になるのですから、この違いは、ものすごく大きいのです。
 音楽教室でコンクールを積極的に受けさせる先生も多いのですが、目的はこれでしょうね。生徒の「モチベーション」を維持させるための手段。もちろん、技術向上や自分の技術のレベルを知るためにもコンペディションを受けることは無意味だとは思いません。
 ちなみに、部活動内でモチベーションを高めるために私がしていた指導の一つは、「演奏したいポジションを公開オーディションで決める」という方法です。最終的なポジションは、指揮者であり顧問だった私の一存で決めていましたが、他の部員も見ている中で、自分が演奏したい「席」に、抽選で座っているたの部員に対して「挑戦」します。挑戦された側は公開のオーディションを受けるか、自ら引き下がって挑戦してきた人の席に移動することを選びます。一種の「下剋上」です。うしろに下がるための「挑戦」は認められません。これも、生徒たちにとって、「やりがい」にもなり「緊張感」にもつながる方法でした。
 どんなコンクールを受けるより、自分たちの仲間をライバルにすることが何よりも大切な緊張感だと思っていました。
 趣味で演奏するひとたちに。
まず!自分の先生の演奏を「目標」にしてください。
指導者は生徒が自分より、じょうずになること=じょうずにすることが目的なのです。生徒の立場で「先生を目指すなんて失礼」だと勘違いする人がいますが、先生を目標にしないことの方が、よほど失礼ではないでしょうか?
先生の前で「〇〇さんの演奏って、先生より素敵」!」って言えます?(笑)
先生の技を盗む。先生の演奏を真似る。先生が弾いている時に観察する。
それが最大の「モチベーション」につながると考えています。
私はレッスン中に、生徒さんと一緒に演奏することがよくあります。
この方法は「希少」らしいのですが、一緒に弾くことで生徒さんが感じられるものがたくさんあります。
百聞は一見に如かず
と言いますが、
百言は一音に如かず
だと思っています。言葉で言うより、弾いて感じさせるレッスン。
ひとりても多くの人に、長く楽器演奏を楽しんでもらいたいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

簡単そう…が難しい

 

動画はアザラシヴィリ作曲の「ノクターン」をヴィオラで演奏したものです。
この曲の動画、ものすごくたくさんアップされています。プロと思しき方もいれば、趣味と思われる演奏まで。言い換えれば「簡単そうな」曲なんでしょうね。
確かに「譜面=ふづら」は決して難易度の高いものではありません。

 プロなら、どんな曲でも弾けるでしょ?
とっても答えにくい質問です。
確かに「その曲は弾けません」と答えて「プロ失格」と言われても反論できない一面があります。「弾けない」というレベルの問題なのです。
先述のノクターンを趣味で弾けるレベル。もちろん、趣味で演奏する人なら、自分自身が「ひけた」と思えればそれで良いのです。
一方で、お客様が支払ったお金に見合う演奏を求められるのが「プロ」だとすれば、自己満足は許されないと言えます。ただ、すべてのお客様が満足できる演奏、違う言い方をすれば「弾けている」と思われるか?「弾けていない」と感じられるか?が問題になります

こちらは、「チャールダーシュ」の演奏です。読み方は色々あります。チャルダッシュでも、チャルダーシュでも、読む国の人の発音で聞こえ方が違う「名前」に、異常なほどにこだわる人って、私は好きになれません。あ、話がそれました。
 この曲を聴くと「難しそう」に感じる人が、とってもたくさんおられます。
ある意味で「ありがたい」(笑)演奏会の最後にアンコールで演奏すると、まず間違いなくお客様に喜んで頂けます。何と言っても「派手!」ですから。
 変な言い方ですが、難しそうに聴こえる曲が、本当に難しい場合も当然あります。練習してみないと感じられない「難しさ」です

 食べ物に例えていうと、白いご飯を美味しく炊く難しさって、ありますよね?
もちろん、味へのこだわりによって個人差があります。シンプルな料理、簡単そうで誰にでもできそうな料理ほど、味の差を感じることがあります。
たまご焼き。お味噌汁。自分で作るカレー。それぞれの「家庭の味」があります。一方で、手の込んだ料理の場合=家庭では簡単に作れない料理の場合、それが美味しいのか?美味しくないのか?判断する以前に、あまり食べなれない料理の好き嫌いって、感じられないものです。高級なフランス料理店で食べれば「おいしいんだろう」(笑)と思うのは私だけでしょうか?

 プロの演奏に対して、お金を払って聞いたお客様が満足できない場合に、拍手をしなくても構わないと私は思っています。演奏の妨害をするのは「論外のマナー違反」ですけれど。
 アマチュアの演奏に対して、評論家ぶってコメントを書く人って、案外多いのに驚きます。プロが聴けば、アマチュアの演奏だとすぐに分かる演奏に対して「へたくそ」とか「へんなの」とか。書いている人が「へんなひと」です。
そういう人には、優しく言ってあげたいものです。「おまえ、ひけるのか?」と。自分が出来ないことを、わかった様な口調で語る人。はっきり言って「きらい」です。酔っ払いか!と言ってあげたくなります。

 演奏だけを聴いて、その人がじょうずに弾けているのか、弾けていないのか?を判断できるのは、その演奏者以上の技術を持った人だけのはずです。その演奏者よりじょうずに弾けない人が、なぜ?下手だとか、弾けていないとか、言えるのでしょうか?先ほど書いた「満足できる」という観点とは次元が違います。
好き嫌いの問題と、じょうず・へたの問題は、違うのです。
F1パイロット(レーサー)が、時速300キロ以上の速度で、他の車とぶつからずに走ることが出来るのは「技術」です。その技術を持っている人は、世界中で何百人もいないのです。中継を聴いていると「えっらそうに!」語る評論家がいると音声を消したくなります。フィギアスケートでも同じです。その選手にしかできない、あるいは現代の選手にしかできない技を、失敗したときに「あ~…回転が…」とか「ほざく」解説者様。あなた、できるんですよね?まさか、できないのに「あー」とか言ってませんよね?と思うのは私だけ?

 話があっちこっち飛びました←いつもだろ!
演奏が難しいのか、簡単なのかを判断できるのは、実際に出来るまで練習した人だけなのです。もちろん、できなくてもその練習の大変さを知ることが大切なのです。挑戦しないで「出来ない」とか「無理」とか「簡単そう」とか、思うなら自分でひいてみることです。そして、他人の演奏に対して「簡単そうなのに」とか「あの人の方がじょうず」とか、批判を口にする前に、自分でやってみることです。何度も書きますが「好き嫌い」はあって当然です。理由などわからなくて良いのです。プロの料理人が作った料理に、ケチをつける素人を「野暮」と言います。でも、有名なお店の高い料理でも「好きじゃない」ことは、言っても構わないと思います。作った人を傷つけない範囲で、です。
 長くなりましたが、音楽は演奏する人が楽しみ、聴く人が楽しむものです。
どちらかが、あるいは聴く人の中に「楽しめない」場合もあり得ます。それを「へただから」と切り捨てたり「「簡単(そう)な曲なのに」と思わないことです。楽しむ心を持ちましょう。批判しても、なにも生まれません。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


好奇心と音楽

映像はメリーオーケストラ定期演奏会で恒例の「指揮者体験コーナー」
今回のテーマは「好奇心」です。音楽を演奏したいと思う人の多くが、好奇心旺盛な人だと感じています。プロの演奏家の中で、音楽以外に興味を持たない人も、まれに見かけます。ちょっと偏っているように感じることもあります。

 

 いろいろなことに好奇心を持つ人の特徴は、「飽きっぽい」ことかも知れません。「浅く広く」趣味を持つ人と「深く狭く」な人に大別されることがありますが、「広く深く」もあるでしょう。「狭く浅い」趣味の人の事を「趣味がない」と言うのでしょうね。ちなみに私は理想が「広く深く」で現実は「浅く広く」です。性格的なものかな?

 好奇心は動物が持つ本能だと思います。子犬や子猫は初めて見るものに好奇心を持ちます。学習するうちに「警戒心」が芽生え、好奇心よりも自制心が強くなります。好奇心が薄くなって、いつも寝てばかりの生活になる、人や動物を目にします。本人がそれで満足なら、他人が口を出すことでもありませんね。

 音楽を演奏してみたいと言う好奇心は、いつの間にか薄らいでしまうものです。実際に楽器を手にして、音が出た時の感動も、時間と共に薄らいでいきます。楽器や音楽への好奇心が、変化するのは当然のことです。音楽以外の事に、好奇心が向くのも自然なことです。それは、小さい子供を見ているとよくわかります。次から次に新しいおもちゃを欲しがる子供もいます。でもやがて飽きて使わなくなるおもちゃの方が多くなります。大人の場合はどうでしょうか?
 大人になってから、それまで関心のなかったことに、好奇心を持つこともあります。高齢になってから新しい趣味を見つける人もいます。素敵なことだと思います。

 一般に「奥が深い」と感じることがあります。
表面的な事と違う魅力や難しさを指す言葉です。好奇心の多くは「表面的な事」への関心です。実際に練習して初めて知る「難しさ」があります。それが新しい好奇心になれば、掘り下げることができますが、好奇心を失えばその時点で「おしまい」になります。ひとつの好奇心から、新しい好奇心が生まれ、それが続くことこそが「上達の道」だと思っています。

 プロの場合にも同じことが言えます。周りの人から「素晴らしい」と言われ慣れてしまい、自分の演奏への好奇心を失ってしまう人を見かけます。
 逆にコンプレックスばかりが強くなって好奇心を失い、音楽から離れる人もいます。
 仕事として何かをする人にとって、常にその仕事に対して好奇心を持てるか?が分かれ目になります。同じ仕事でも、見方を変えることが出来ないと、マンネリ化します。演奏も同じだと思います。

 ただ楽器を演奏し続けていても、何も変化しないと思います。
曲に好奇心を持ったり、自分の身体に好奇心を持ったり、季節ごとの楽器の変化に好奇心を持ったり。いくらでも「知らないこと」があります。
 自分の考えを変えられない「偏屈」な人がいます。良く言えば「一途」とも言えますが、頭の中が幼稚園児のまま、大人になったような人っていますよね。
 そういう人の多くは、知らない事への好奇心よりも自分の知っている世界観の中だけで満足しているのでしょうね。成長が止まっているとも思えます。

 音楽の持つ、本当の奥の深さは私にはまだわかりません。
どこまで掘り下げても、新しい「謎」が出てきます。違う場所から掘ってみると、さらに新しい「謎」が生まれます。答えのない禅問答を繰り返している気がします。
 それでも趣味の音楽を楽しむ生徒さんたちには、少しずつでも手応えのある「質問」を投げかけ続け、出来る喜びを感じ続けられるように心がけています。
教室を2004年に作ってから今日までに、800人以上の人たちに音楽の楽しさを伝えていますが、当時から今もなお、習い続けてくれている生徒さんにも、常に新しい好奇心を持ってもらえるように、自分自身の好奇心を掻き立てながら、音楽生活を送っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介