ビブラートの不思議

初心者のヴァイオリンの生徒さんにとって、ビブラートは憧れの技術です。
ほとんどのヴァイオリニストがビブラートを「かけて」演奏しています。
かける?良く考えるとちょっと変な表現です。
「音程を細かく上下させて、震えるように音を響かせる奏法・唱法。」
という事になるようですが、そもそも「音程」は正、確には「インターバル」つまり、二つの音の間の幅(距離)を表す言葉。厳密には「ピッチ」であり日本語なら「音高」の事です。レッスンで「音程が悪い!」と怒られていた私にとっては、聞きなじみのある「音程」ですが(笑)
要するに、ビブラートのない「ノンビブラート」は、音の高さを変えずに同じ高さの音を伸ばすことで、ビブラートは音の高さを連続的に変える…という事になります。が!
その高さの変化が、「曲線」で「連続」して変化しないとビブラートには聞こえません。
さらに、その変化の「大きさ=深さ」と「速さ=細かさ」の組み合わせがあります。
・浅く、速い
・浅く、遅い
・深く、速い
・深く、遅い
この4種類の組み合わせがあります。
一つの音の中で、これらが変化することも十分にあります。
たとえば、ノンビブラートで始まり、浅く遅いビブラートから、深く速いビブラートに変化させることもできます。

好みの問題ですが、私はヒステリックに聞こえるビブラートが嫌いです。
具体的に言うと、常に速く深いビブラートの音は、聞いていて疲れてしまいます。
速く同じ深さでビブラートを「かけ続ける」ことは、確かに難しいことです。
できることは、すごい!とも思いますが、果たして美しいと感じるものでしょうか?
そもそもノンビブラートの音、これが原点だと思うのです。
ノンビブラートで音色のバリエーションがあってこそ、ビブラートの美しさが引き立つと思います。
ヴァイオリンのビブラートは、最終的には指の関節が柔軟で、かつ弾力的に動かせないと美しいビブラートにはならないように思います。
弦に触れているのは指先の皮膚とその下にある薄い肉と、さらにその奥にある「骨」です。
その指先に係る力は、弦を指板に押し付ける方向の力と、ビブラートで、弦とほぼ平行方向の力です。この二方向の力のバランスで音色とビブラートの滑らかさが変わります。
ビブラートのための力は、指だけを動かす力では生まれません。手のひらと指の「付け根」の柔らかさと弾力を保ちながら、手のひらを動かすことで、弦を抑える指先の角度が変わります。
手のひらを弦と平行に動かせたとしても、指は弦に対して斜めの角度ですから、結果的に指が「伸びたり縮んだり」する運動になります。
一方で、手のひらを「手首の位置を動かさず」に、倒す→起こす→倒す→起こすの運動を繰り返すと、指も弦に対して、倒れる→起きる→倒れる→起きるの運動になり、これもビブラートになります。
一般的に「腕のビブラート」「手首のビブラート」と区別されますが、
手首のビブラートを勘違いし、手首を動かす初心者を見かけます。手首を「支点」にしないと意味がありません。

色々書きましたが、ビブラートをかけることで、共振する音が増え、楽器の残響が長く、大きくなりますが、それが必ずしも常時必要なものではないと思います。人間が聞いていて、心地よく感じるビブラートは人によって違います。
ノンビブラートの音を「素材の味」
ビブラートの加わった音を「味付けした素材」
と置き換えると、素材が悪ければどんなに味をつけても、美味しくないのと同じです。
右手のボウイングと正しい弦の抑え方があってこそ、ビブラートの効果(味付け)が生きてくると思っています。

メリーミュージック 野村謙介


脳内イメージと楽器演奏

今回のお話は、アマチュアヴァイオリニストの方にとって、少しは役に立つかな?というテーマです。
ヴァイオリンは、右手で弓を使って音を出し、左手で音の高さを変えていきます。ピアノは、両手の指で鍵盤を押し下げて音を出し、音の高さも同じ指で決めています。
ヴァイオリンの演奏をするときに、右手の運動と左手の運動は、それぞれ左脳と右脳からの命令で動いていますから、ダウン・アップの運動は左脳、音の高さは右脳で考えていることになります。
そして、音楽を演奏する時には「音の強さ=長さ」と「音の高さ」の要素が楽譜に書かれています。もう一つの要素である「音色」は楽譜には書かれていません。問題はここからです。

楽譜を音にしようとするときに、ピアノであれば両方の手が音の高さと強さをコントロールするので、ある意味で右脳と左脳が「似た命令」を出していると考えられます。
弦楽器の場合、音の高さは左手の運動として考えます。音を出す運動である右手は、音の高さである「弦の種類」と、ダウン・アップの運動で「音の強さ=長さ」を考えています。
そのまったく違う運動が、ばらばらになってしまうことがアマチュアの方に多く見られる現象です。右手と左手がずれるので「合っていない」と思いがちですが、むしろ当たり前のことです。なぜなら、私たちは一つの運動に集中すると、ほかの運動は「無意識」になるからです。
自動車の運転は、右手、左手、右足、マニュアル車なら左足が」すべて違う仕事をしています。それを同時に、しかも瞬時にできるのは、一つの運動だけを考えていないからなのです。むしろ、運動ではなく視覚でとらえた情報と、体にかかる力「重力=G」を感じて、無意識に両手両足を動かしています。つまり「イメージ」を無意識に「運動」に変えているのです。

では、どうすれば?無意識に弓と左手を動かせるようになるのか?
私の結論は「音のイメージと動きのイメージを同化させる」練習だと思います。
たとえば、3・3・7拍子を創造してみてください。
ちゃ・ちゃ・ちゃ
ちゃ・ちゃ・ちゃ
ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ・
頭でこの音を想像してください。次はその音のイメージに
右手の運動を加えてイメージします。と言うより「一つのイメージ」として
ちゃ・ちゃ・ちゃという音を右手が右・左・右に動くことで出るイメージです。
運動は小さくて構いません。指先だけでも構いません。
3・3・7拍子の「音」と運動を同時にイメージできるようにします。
運動だけを、逆方向に動かすイメージもやってみます。
最初はどちらか(音か、運動か)一方に考えが偏るかもしれません。
その場合、考えていないほうは「無意識」に動いたり、リズムを間違ったりするはずです。

音と運動の両方をひとつのイメージにすることは、左手の運動でも同じことです。
音が変わる時に、左手の運動が加わります。その運動も「一つのイメージ」の中に加えます。先ほどの、3・3・7拍子に「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ」という音の高さを加えて、一つずつの音に、右手の「右・左・右・左」を繰り返して割り当ててイメージします。
実際に言いながら、楽器も弓も持たずに、この「課題」が出来た時、恐らく何も考えていないことに気づくはずです。左手に集中したら、右手が止まるでしょう?右手に集中したら、次の音の名前が出てこないでしょう?
頭の中の「脳」がイメージを運動にできることで、運動よりも音のイメージを優先して演奏できると私は考えています。
イメージ>運動
ということです。この練習は、プロの演奏家が恐らく無意識にやっています。
自分の演奏したい「音」を、運動からイメージに変えられるまで、繰り返しているはずなのです。事実、初見の時にもこのイメージがあるから、左手と右手が同時に動かせるのです。初心者は、それができません。これは「隠れた技術」であり、トレーニングによって誰でも身に着けられると私は思っています。
ぜひ!3・3・7拍子で練習してみてください!

あ・・。電車の中では、やらないほうがいいですよ。
通報されます(笑)

イメージの悪いヴァイオリニスト 野村謙介

ヴァイオリンの違い

1808年サンタ・ジュリアーナ駒部分
木曽号駒部分

今回のテーマは、ヴァイオリンによる演奏方法の違いについてです。
かれこれ、50年近く愛用し続けている私のヴァイオリンが上の写真。
そして、11月6日に長野県木曽町で演奏するヴァイオリンが下の写真です。
この二つの楽器の違い。
作られた年代が1808年と2004年。
作られた国がイタリアと日本。
何よりも、楽器の音色が全く違います。
その音色を決定づけているのが、拡大した部分。
指板・駒・テールピースの位置関係。
私のヴァイオリンは、テールピースが短い。
輸入した当時、世界的な楽器商だったメニックが付けたテールピースを未だに使っています。ちなみにペグもその時のままです。駒だけは、15年ほど前に、脚部分が少しつぶれてしまったので、櫻井樹一さんに作っていただいた駒です。
私の楽器は、どちらかと言えば室内楽に適した音色です。
コンチェルトのソロには、パワーが少し足りないとも思っていますが、今更弾けないので(笑)十分です。
方や、陳さんの作られた木曽号も、一般的な駒の位置とは、ほんの少し違います。まだ、あまり弾きこまれていないこともあって、音色の変化量が少ない気がします。加えて、私の楽器よりテンションが弱く、高音、中音、低音のまとまりが少なく、音が分散して広がりすぎる傾向があります。

左手の各音の「スポット位置」が違うのは、どんな楽器でも当たり前のことですから、その楽器の「ツボ」を探して覚えるしかありません。
何よりも、弓を当て弦を擦る「駒からの距離と圧力」を変えないと、木曽号の本来持っている音量と音色を引き出せないことを発見。
今日、朝からその場所と最適な圧力を探しました。
弓によって、音色はまるで違う楽器のように変わりますから、本番で使用する「ペカット」との組み合わせが最終到達点です。
弓がお爺さんなので(笑)、できれば練習では使いたくないのが本音ですが、そうも言っていられません。
これから何十年、何百年も弾き続けられる、陳さんのヴァイオリンの「幼少期」に巡り合ったのも運命です。
汚い音にならず、高い音の成分を増やし、輪郭のはっきりした音色で、音域のバランスを整えられる演奏方法を探します。耳元の音圧が上がるので、ピアノの音が聞こえにくくなり、ますます(笑)ピッチが不安定になりそうですが、なによりも楽器の個性を尊重して演奏したいと思います。
・タイスの瞑想曲
・G線上のアリア
・愛の挨拶
・ラベンダーの咲く庭で
・鳳仙花
ビオラに持ち替えて
・荒城の月
・アザラシヴィリのノクターン
・ハルの子守歌
・いのちの歌
・ふるさと
アンコール2曲ヴァイオリン(それ言うか?笑)
がんばって弾きます!

一途なヴァイオリニスト 野村謙介

ヴァイオリンのペグ

さてさて、今回のお話はヴァイオリンやビオラ、チェロの調弦(チューニング)をするための基本である「ペグの止め方、動かし方」についてです。
実はこの動画、弦楽器を管理する自治体の職員さんたちが、触ったことのないヴァイオリンの維持や管理をするための参考にと、撮影し編集したものです。
もちろん、初心者を含めヴァイオリンを演奏する人にとっても調弦は避けて通れない技術の「かなめ」です。調弦が自分でできなければ、正しい音を出すことは不可能に近いのですが、なかなか難しい。特に弦を張り替える時には、このペグを動かせなければできません。微調整のための「アジャスター」がテールピースに4本の弦すべてに付いている、初心者向けのヴァイオリンはあります。また多くのチェロにはすべての現にアジャスターがついています。それでも、大きな幅の調弦は、ペグを動かさなければできません。
Youtubeで「ヴァイオリンの調弦」と検索すると、たくさんの動画がありますが、残念ながらペグがなぜ?止まるのか、なぜ?止められないのかという、基本の話が見つからなかったので、今回作成しました。

そもそも、弦を張り替えるためには、弦の張り方を知らなければ無理です。
ペグにあいている小さな「穴」に弦のループやボールの付いていない側を差し込みます。あとてペグの向きが調弦しにくい向きで止まった場合に、突き抜ける弦の長さを変えることでペグの向きを変えることがあるので、ある程度長めに突き抜けさせておくことが理想です。
突き抜けさせたら次は、丸く円柱状(厳密には円錐です)のペグの「上側」に巻き付けていく方向でペグに弦を巻いていきます。この説明、むずかしい(笑)
ペグを回して弦を「張っていく」時の回転方向で言うと、
高い音であるE線とA線は「時計回りで張って(音が高くなって)いく」「反時計回りで緩んで(音が低くなって)いく」ことになります。
一方、低い音であるD線とG線は「時計回りで緩んで(音が低くなって)いく」「反時計回りで張って(音が高くなって)いく」ので、楽器に向かって左右で、弦を張る方向が「真逆」になります。
ペグを動かす前に、弦の巻き付き方を良く見れば間違えないで、張ったり緩めたりできると思います。

ペグの材質によって、湿度の変化で動きが大きく変わる素材もあります。
見分け方として、茶色や濃い茶色のペグは湿度を含みやすく、梅雨時などに重く動きにくくなり、乾燥すると止まりにくくなる特徴があります。
一方で黒檀(こくたん)の真っ黒いペグは、湿度に影響を受けにくく、本来はこの黒檀のペグとテールピースが一般的でした。ちなみに、指板はどんなヴァイオリンでも黒檀が使われています。頤当ても昔は黒檀でした。時代と共に見た目の美しさや、装飾の付けやすさなどで変化してきました。

弓で音を出しながら調弦できるようになったら、ぜひ!A線の音以外はチューナーを使わずに、A線とD線を「軽く・速く・長い」弓使いで「完全五度の響き」でD線のペグを動かして合わせるトレーニングをすることを勧めます。
D線を調弦したら、D線とG線を同時に弾いて、G線を完全五度の響きに調弦します。最後にA線とE線を同時に弾いて、E線のアジャスターでE線を合わせて完成。難しいですが、この調弦方法ができるようになるまで、ペグを左手で動かし、止められるようになるまで、力の入れ方を繰り返し練習してみましょう。

最後に、調弦を繰り返すと駒が指板側に傾く原因を。
弦を緩める時には、駒と弦の摩擦力は低く、駒は動きません。
弦を張る(高くする)ときに、駒と弦の摩擦が最も高くなるので、駒がペグ方向、つまり指板側に引っ張られることになります。
調弦の際に、あまり大きく変化させないで調弦できるようにすることで、駒の傾きを最小限に抑えることになります。
大きく下げ、大きく上げる調弦は他の弦の「張力」を変えてしまい、結果的にまた他の弦を調弦する、二度手間にもなります。少しの上げ下げでぴったりの音に調弦できるようになることも、楽器を大切に扱うことになります。

弦楽器は調弦を自分で行う楽器です。時間がかかっても、一人で調弦できるようになるまで練習してくださいね。
メリーミュージック 野村謙介

「歌」を「弾く」

いつものように、なんじゃこりゃ?なテーマです。
歌は普通、言葉をメロディーに乗せて、言葉の内容と音楽を同時に表現します。
それに対し、弾くという言葉は、楽器を演奏することを指します。楽器で言葉を完全に表現することはできません。
当たり前の違いですが、歌を楽器で演奏することも良くあります。
クラシックの音楽の中でも、原曲が歌曲だったものを、器楽で演奏する楽譜に書き直したものも多くあります。
まれに、その逆のケースもあります。
有名なところで言えば、ホルストの作曲した「惑星」という組曲の中の「ジュピター」に歌詞をつけた歌。きっと聞いたころのある人も多いでしょうね。むしろ、元々が管弦楽のための曲であることを知らない人もいますから。
どちらも私は、大いにあり!だと思っています。

さて、歌の場合には人間の声域を基準に旋律が出来ています。
多くの人が歌を歌う場合、1オクターブ程度の音域で歌えるように作られています。歌う人によって、歌いやすい高さが違うので、「キー」つまり調を変えて(移調=トランスポーズ)歌うことが一般的です。
一方で、器楽の場合には楽器よって演奏できる音域が決まっています。特に、最低音は多くの楽器で「それ以上、低い音が出せない」ことが決まっています。
例えばヴァイオリンであれば、ト音記号で下加線2本の下にある「ソ」の音が最低音です。多くの女性の声の最低音も、この「ソ」の音になります。
ヴィオラの場合、その「ソ」から下に、「ファ・ミ・レ・ド」と下がった「ド」の音が最低音です。たかが「5度」されどこの5度は、聴感上大きく違います。
当然、チェロはさらに低い音、コントラバスはもっと低い音が「最低音」です。
ピアノは、オーケストラで使用されるすべての管楽器・弦楽器の音域より広い音域を演奏することが出来ます。88個の鍵盤でそれだけの音域をカバーしています。つまり、どんな人の歌でもピアノなら、演奏することが出来ます。

話を本題に戻します。
多くの歌には「歌詞」である言葉があります。例外もあります。
ダバダバダバダバ(笑)や、ラ~ララララ~、ルル~ル~ルルル~
ラフマニノフが作曲したヴォカリーズという歌は「アアア~」だけです。本当の話です。例外はともかく、意味のある言葉を歌っている「歌」を私はよく「ヴィオラ」で演奏しています。ヴァイオリンではなく、わざわざヴィオラにする理由は?

ヴァイオリンの音色と音域は、聞く人の固定観念で、聞いた瞬間に「ヴァイオリンだ!」と思い浮かんでしまいます。それはそれで当たり前です。
一方で、聞く方が知っている歌を、楽器で演奏した場合、頭の中で「声と歌詞」の記憶と「ヴァイオリンの音色」が、溶け切らない現象が起きるように思っています。特に自分の好きな歌手の声で歌っている歌は、その歌手の「声と歌詞」が結び付いて記憶されています。違う人が歌う同じ曲に違和感が強いのは、そのせいです。楽器で弾くと、単に「言葉がない」だけではなく、音のイメージも違うのでさらに溶け切らない原因になっていると感じています。
だからと言って、ヴィオラで言葉は発音できません。でも「た」と「は」の違いは微妙に区別できます。「は」と「あ」は区別して演奏することは困難です。つまり「子音のアタック」を変えることで、少しだけ言葉に近い発音ができます。
加えて、言葉のアクセントは音の強弱ですから、楽器でも表現できます。
ただ、歌の旋律が、音の高低(イントネーション)と合っていない場合も多いのが現実です。
ほたるのひかり まどのゆき
を口ずさんでみてください。
ほたるの「た」が高くなっていますよね?
でも標準語では「ほ」を高くするのが正しいイントネーションです。
こんな例は数限りなくあります。気にしなければそれでよいのですが(笑)

私は生粋の日本人でありまして、日本語以外が苦手です(言い訳にもなっていない)
日本語以外の歌詞の歌を演奏する時には「言葉の意味」ぐらいは理解して演奏しようと心掛けていますが、間違っていることも…。すみません。
得意の日本語の歌の場合には、ヴィオラを弾きながら、言葉の子音、アクセント、意味を考えながら演奏しています。
『生きてゆくことの意味 問いかける そのたびに』
という「いのちの歌」の出だしの歌詞。
弓のアタック、圧力。左の指の圧力、ヴィブラート、意味を考えながら音を出します。
なので、歌詞を思い出せなくなると
止まります(爆笑)
いや笑ってすませられないのですが、本気で焦ります。
そんな「無駄?」なことを繰り返し練習しております。
言葉が思い浮かんでいただける演奏を目指して…

歌うヴィオリスト 野村謙介

芸術家は貧乏?

今回のテーマは、かなりシリアスです(笑)
そもそも、職業欄に「芸術家」って書ける人、いるのでしょうか?
どうやってお金を稼いでいるかによって、職業が変わります。
たとえば「音楽家」と言われる職業は?
作曲をして出版会社や放送局、音楽事務所からお金をもらえば、職業=作曲家。プロのオーケストラで所属する組織からお金をもらえば、職業=演奏家。
音楽教室で音楽を教えれば、職業=講師。
学校で音楽を教えれば、職業=教育職員(教員)
つまり、一言で音楽家と言っても様々です。
厳密に考えるともっと細かくなりますね。
それら「音楽家」を「芸術家」と称することがありますよね。

芸術家。アーティスト。聞こえは良いですが、定義があいまいすぎます。
そもそも、職業として成り立っていなくても、芸術家はいるように思います。
職業は八百屋さん。で、素晴らしい演奏をする人がいたら、この人の職業は「八百屋さん」であり、演奏は?趣味?アマチュア?でも、その演奏が多くの人を感動させるものだったら、芸術家とか音楽家、演奏家と呼ばれるでしょうね。
もっと極端な場合、収入がない人が、お金をもらわずに素晴らしい絵をかいたら、「無職」の芸術家。
芸術の定義を「人間の行為で他人を感動させるもの」だとしたら、お金とは結び付かなくても芸術は存在します。

話を具体的に絞って、音楽大学を卒業した人が演奏で人を感動させれば「芸術家」と言えるのでしょうか?対価としてお金をもらえるか?は別の問題かも知れません。逆から言えば、誰かから演奏の対価をもらったとしても、人を感動させられなければ、芸術家ではなく、職業=音楽家ですよね。
音楽大学を卒業した人が、どれだけの技術を持っていても、対価を払う人がいなければ生活のために、違う職業に就かなければならないのが現実です。それでも、その人が演奏を続け、人を感動させられれば、立派な芸術家だと思うのは間違いでしょうか。芸術家=貧乏で良いわけがありません。自分を感動させてくれる演奏をする人や、作品を作る人が貧乏で喜ぶ人はいないと思います。

日本で、芸術を作る人間が、芸術活動をしながら生活できる日は永遠にこないのでしょうか?裕福でなくても、普通の生活さえできない音楽家や芸術家ばかりの日本。自分の好きなことを続けているから貧乏でも仕方ない…とは思いません。
少なくとも、人間を感動させる絵画や音楽、演劇に対する考え方を変えていかなければ、何も変わらないと思います。
感動するか、何も感じないか。人それぞれ違うのです。
マスコミが取り上げれば「有名音楽家」と称され裕福な生活ができる日本。
若い人が本気で音楽を学んでも、生活できないと思いあきらめる。あきらめた人が「弱い」と批判される。音楽は勝負したり、競争するものではありません。
音大や美術大学で学ぶ人たちを育てられるのは、優れた師匠だけではないと思います。多くの「見る人、聞く人」の理解がなければ育たないと思います。

私たち世代の考えを「老害」と冷笑する人には、感性がありません。
若ければ何をしても許されると、勘違いする若者を見ていると情けなくなります。一方で、若者のやる気を削いでしまったのは、私たち世代の責任でもあります。
芸術を職業にできる社会を作ることは、一人の力ではできませんが、一人でも多くの人に、音楽や美術、演劇に興味を持ってもらい、それを作る人たちの「生活」にも関心を持ってもらうことが不可欠です。
著名な音楽家が自分のことだけを考えれば、次の世代の音楽家は育たないのです。
すべての世代の人たちが、真剣に考える問題だと思っています。

田舎の自営業者・場末のヴァイオリニスト・音楽普及活動家(笑) 野村謙介

自分の声(音)の聞こえ方

皆さんは、録音された自分の声を聴いて、どのように感じますか?
私は生きていて、「きらいなものトップ3」に入るほど、自分の声を聴くのが嫌いです。ちなみに、その他2つは「虫さん」と「視野検査」
拡声された自分の声も耐えられませんが、自分に聞こえる自分の声のほうが大きい場合には我慢できます。したがって「カラオケ」は生まれてから61年間で、一度だけ…教員時代の忘年会で歌わされた…しか経験がありません。
カラオケ大好きな方々は、自分の声がスピーカーから大音量で流れてくるのが、気持ちいいのでしょうか…。尊敬します。本気で。

自分が聞いている自分の声は、鼓膜から脳に伝わる空気の振動よりも、頭蓋骨を直接振動させた神童「骨伝導」を音として聞いている割合のほうが多いので、録音された自分の声、つまり空気の振動である「音」と違うのです。
自分の聞いている自分の声は、自分だけにしか聞こえない「声」です。
録音された自分の声を、みんなが聞いている…そう思うと、ぞっとするのは私だけでしょうか?(笑)みなさん、ご迷惑をおかけしております。ごめんなさい。話をしないとレッスンできないし、何より自分の声が嫌いなくせに、よくしゃべる変な人なんです、私(涙)

カラオケはしなければ良いのですが、ヴァイオリンやヴィオラを弾いている時に、自分に聞こえている自分の楽器の音は?
耳元で空気を振動させているのは、弦と表板と裏板。これは普通の音です。しかも、距離にして数センチしか離れていない場所に音源があるのは、多種ある楽器の中でもヴァイオリン・ヴィオラはかなり特殊。しかも、左耳だけ(笑)
その他の「自分の楽器の音」は、骨伝導で顎の骨と鎖骨から伝わる「振動」であり、ほかの人には聞こえていません。この骨伝導と耳元数センチの空気振動。
どう考えても、離れた場所で聞いている人が聞いている、自分の楽器の音とは違います。自分の弾いていると音を、リアルタイムに離れた場所で聴くことは不可能です。録音された音を聞くとどうなるでしょう。録音された音を、自分以外の人が聞いて「うん。こんな音だと思う」という、あいまいな音を聞くことしかできません。その音が、自分にとって好きな音なのか、いやな音なのか。どんな名ヴァイオリニストにも、幽体離脱でもしない限り判断できないことです。
声楽家ってすごいと、今更ながら思います。

自分が演奏する、自分のヴァイオリンの音を、自分で評価するためには、他人の評価がとても大切なことになります。
先ほど書いたように、録音した音は再生する機械によって、音色や音量が変わります。演奏している瞬間に、他人が聞いている自分の「音」とは違うのです。
聴く人によって主観的に「大きい音」だとか「きれいな音」「汚い音」という評価は変わります。数値として測っても、それが人間にとって聞き分けられるものであるかと言うと違います。カタログにある「数値」が自分の耳で聞き分けられる人はいないことでも証明されます。
他人の評価を素直に聞くのはつらいことでもあります。
それでも、一人でも多くの人に自分の音について、評価してもらい、一人の意見だけに左右されず、常に謙虚な気持ちと挑戦する気持ちを失わないこと。これができないと、自分の出しているヴァイオリンの音を、自分で評価することができません。
練習する時に、常に自分の音に妥協せず、否定せず、人に聞いてもらっている気持ちで練習することって、大切ですね。
さぁ。自分のヴァイオリンの音を探すために練習しよう!
カラオケできないヴァイオリニスト 野村謙介

音楽愛好家

演奏家も作曲家も聴衆も
アマチュアもプロも
子供も高齢者も
クラシックもジャズも演歌も…

音楽愛好家って素晴らしい!

音楽、好きですか?という問いに、素直に「はい」と答えられる人間でいたいと思います。当然、好きでない「音楽」もあります。練習する時に、いつも楽しいわけじゃない(私の場合)。本番で思ったように弾けなくて、情けない気持ちになることもあります。自分が好きな「音楽」って、いったいどんな存在なんでしょうね?

音楽の神ミューザの話にまで、難しくするのはやめておきます(笑)
以前のブログにも書いたように、人間の想像力と感性で、空気の振動である「音」を使って表現する、目に見えない「想像美」かな?
人それぞれに違う感性を、違う人の感性が受け止めて、新しい空想の世界を創造する連鎖。広い意味で「人とのふれあい」でもあります。
作曲することも、演奏することも聴くことも、すべて同じ音楽です。

それでも音楽が嫌いな人がいるのも、当たり前のことです。
スポーツが苦手な人もいるし、絵画を見ても楽しくない人もいます。
水や空気、食べ物と違って、音楽がなくても人間は生きていけます。
楽しみの一つとして、音楽が加わって「良かった」と思える人を増やしたいと、すそ野を広げる活動を、これからも続けていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴァイオリニスト 野村謙介

左手~鎖骨~頭

弓の毛替えを、櫻井樹一さんにしてもらって、よしっ!さらおう!
…にんじんがないとさらわない…ってのは、天井裏に置いといて(笑)
ヴィオラをさらい(練習)ながら、自分の左手親指に注目。
うん。今日のテーマは決まった!

我が恩師、久保田良作先生のレッスンを思い出します。
頭を天井に向かって持ち上げる感覚で、あごを引く。これ、メニューイン大先生の御本にも推奨されています。
肩を下げ、肘を体から離す。楽器を構えた時、弦を抑えた時に、鎖骨の周りの筋肉に無意識に力が入ってしまう。これ、ダメ。
左手の親指。久保田先生に何度も、力を抜きなさい!と叱られました。
ヴィオラを弾いていると、言い訳がましく親指で楽器の重さを支えようと、力を入れてしまいます。これも、ダメ。
左手の親指はネックに触れているだけではなく、人差し指から小指で弦を抑える「下方向への力」を支える役割もあります。久保田先生は、この力を親指ではなく、あごの骨と鎖骨で支える力を優先させることを仰っていたのでしょうね。
左手親指の「自由度」が上がると、ヴィブラートの自由度が上がります。
ポジションが上がっても同じです。

この頃の自分が演奏している動画を見ていて、頭が前傾しています。
久保田先生に怒られる(汗)
頭が前に落ちると、楽器を手で支えようとするので、左鎖骨周りに力が入ります。さらに、親指にも必要のない力が入ってしまいます。悪循環。
そうでなくても、動きの鈍い私。気を付けないと!
皆様もぜひ、左手の親指さんに敬意を払って感謝しましょう!(笑)

指がつらなくなってはしゃぐヴァイオリニスト 野村謙介

レコードから映像へ…

昭和35年、西暦1960年に生まれた「おじちゃん」にとって、音楽を伝える「媒体」の変化は、生活の変化の中でもずば抜けています。
記憶にある「最初のテレビ」は白黒ブラウン管テレビ。
子供のころに聞いていたのはラジオと「ソノシート」
ペラペラで綺麗な色の半透明の「セロファン」で出来た、直径17センチほどの「レコード」です。それを「レコードプレーヤー」に乗せて、針をおろすと、パチパチピチピチノイズの中に、音が聞こえます。エイトマン、ブーフーウー、鉄人28号、キャプテンスカーレット、宇宙少年ソラン、スーパージェッター。みんな「ソノシート」でした。
あれ?音楽レコードがない(笑)

初めて我が家に「ステレオ」という近代的な機械が来たのは、記憶では小学校6年生。ビクターの「4チャンネルステレオ」を父がどこかから買ってきて、和室の客間に鎮座していました。同時に「30センチLP」も買っていました。直径30センチ。ロングプレイの略「LP」曲の途中でB面に裏返す曲もありました。
中学生、高校生になって次第に機械に興味を持ち「オーディオ」という言葉に出会います。オープンリンリールのテープデッキ、カセットデッキ、FMチューナー、アンプ、スピーカー、何から何まで「楽しい道具」でした。好きな曲を好きな音で聴くための「オーディオ」でした。

高校生か大学生のころ「ウォークマン」が発売され、2か月以上待たされて手にしました。カセットテープの音を家の外で、自由に聞くことが出来るようになった「革命的」なオーディオでした。
その後、「CD」が発売されました。発売当時、フィリップスのCDプレーヤー1機種だけ。ディスクも3種類ほど。価格も恐ろしい値段でした。
やがて「MD」が登場します。小さな四角の薄いメディア。簡単に曲の入れ替えが出来て、編集もできました。実はMDの音は、カセットテープよりだいぶ「悪い」ものだったんですが、気にする人はいませんでした。
同じころに「DAT」デジタルテープレコーダーが発売されました。
業務用には多く使われましたが、一般にはあまり普及しませんでした。音はCDや現在のPCMレコーダーと同等です。

ここから本題(いつもながら前置きが長い!)
ショパンコンクールをライブ動画で世界中(一部の国を除き)で誰もが自由にみられる時代になりました。すごいことです。無料で。好きな時間に、好き場所で、スマホでもテレビでもパソコンでも見られて、しかも何回でも見られる。
こんな時代を誰か予想できたでしょうか?
ソノシートの時代から、たかが60年(ながい?)で劇的な変化だと思います。
音楽は「聴く」時代から「見る」時代に変わりました。
しかも「いつでも、どこでも、何度でも」です。
CDの売り上げ枚数よりも、youtubeの再生回数とチャンネル登録者数が、人気のバロメーターになりました。レンタルCDも消え、やがてDVDやブルーレイディスクも姿を消すことでしょう。小さなカード一枚に何時間分もの映像と音楽を保存できる時代に「ディスク」は、消える運命です。

さて、音楽に絞った話です。
当然「生演奏を聴く」ことでしか味わえない「音」と「空気」があります。
それ以外の「媒体」はどうなるでしょう?
先ほどから書いているように、映像と一緒に「見て聞く」時代です。
演奏する人間の収入、作品を作る人の収入も変わっていきます。
「配信からの収入」が主になります。スポンサーは多くの視聴者からの「薄くたくさん得る収入」をコマーシャルを出すスポンサーが、配信会社(youtubeなど)に支払い、そこから演奏者や作曲者に代金が払われる仕組みになります。
つまり「映像の良しあし」が演奏家と作曲家の収入を決めることになる時代です。どんなに生で演奏が良くても、映像と音声が安っぽければ、配信されても再生されないのです。つまり「評価されない」ことになります。本来、演奏や作品の素晴らしさが評価されるべきですが、現実には見る人の「端末」で再生される音楽が評価される時代になります。

母校である桐朋の一大イベント、桐朋祭で演奏された映像がyoutubeにありました。正直、お粗末な音と映像で、思わずコメントを書いてしまいました。
お祭りでの演奏とは言え、クラシックの音楽を「学生会オケ」であれ、桐朋の名前を出し、できたばかりの「売り」であるホールで演奏している動画が、小学校の学芸会レベルの映像編集とお粗末な音声。業者が編集したものと思われますが、あまりにひどい。隠し撮りならいざ知らず、音大の演奏を自らアップして「公開」する以上、大学としての評価自体が下がるといえます。
ショパンコンクールの映像と音、完全にプロの放送局の「クラシック専門担当者」の手にかかっているのがわかります。見ていて引き込まれるのは、映像と音「も」素晴らしいからです。すごい時代です。

「インターネット?ふん!」あらあら。
コロナで演奏する機会が減った中で、ファンを増やした演奏者と、ファンを失った演奏者の「差」はなんでしょう。インターネットを活用し、自ら「良い音」「魅力のある映像」を配信した演奏家が生き残ります。角野さんは「かてぃん」として、今後もユーチューバーとしてファンを増やし続けるでしょう。反田さんはすでに、有料配信の会社を設立しています。二人とも「先を見る目」を持ちながら演奏するピアニストです。
「できない」「知らない」と言い訳をしても、だれも助けてくれません。
自分で学び、発信するスキルを身に着けることが、これからの音楽家に、絶対必要な要件になります。
私たち「昭和生まれ」の人間は?
学びましょう!老い先短くても!(笑)
それが、歴史であり時代の流れなのですから。

昭和生まれのヴァイオリニスト 野村謙介