メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

TEL.042-782-1922

※原宿南教室〒252-0103
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

練習と本番

 生徒さんの発表会を明後日に控え「余興」で1曲だけ演奏する私たちです。
趣味で楽器の演奏を楽しむ人たちが、ステージでお客様の前で演奏する緊張感は、私を含め多くの演奏家も経験したことです。失敗した記憶もあります。音楽の学校での実技試験の記憶も少しはありますが、緊張する演奏経験を重ねるうちに、鳴れなのか?麻痺なのか?次第にその記憶が薄らいでいるようにも思えます。だからこそ、生徒さんたちの緊張感から学ぶことも多いのです。
 練習から一回の本番に至るまでの「道程」を考えてみます。

 演奏する曲が「初めての曲」の場合は、まずその音楽を知ることから始まります。楽譜に書いてあることを音にする。誰かの演奏を聴く。作曲した人や時代などを知る。練習する以前に、音楽を知ることです。
 次に自分が楽器で演奏する段階。ここからは、以前に演奏したことがある曲を演奏する場合でも同じです。
 自分の演奏している「音」と「音楽」を常に観察する集中力が不可欠です。
落とし穴があります。「繰り返せば演奏できるようになる」という「蟻地獄」のような落とし穴です。練習であっても、本番であっても「演奏」であることは同じです。自分の演奏を冷静に観察し続けることは、一度だけの本番のために絶対に必要な練習だと思っています。

 本番での演奏は、演奏している時間と空間での出来事です。完全に同じ演奏を再現することは、神様でなければできません。どんな演奏であっても、その音楽を聴くことのできる人は、その場にいた人だけです。録音された音楽は、真実ではありません。言ってみれば写真と同じです。
 演奏の瞬間に感じるものは、聴いた人の記憶に残ります。当然、演奏している人の記憶にも残ります。練習している時に、自分の演奏に感情を持っているでしょうか?ただ「うまく弾きたい」「間違えないで弾きたい」と思ってはいないでしょうか?たとえ、それが開放弦の練習であったとしても、どんな音色・音量なのか?聴いているはずです。スケールを練習しても、曲を練習しても「演奏を記憶し振り返る」ことの繰り返しを抄訳するのは「手抜き」です。
 思ったように演奏できないパッセージがあります。
私の場合、「思っていない」ことが原因です。つまり、どう?演奏したいのかという、具体的なことが一音一音に足りない場合です。思っていないくせに「思ったように」と感じているだけです。どんなに難しい、あるいは難しそうなパッセージでも「一音だけ」演奏することはできるのです。その一音を、どう?演奏すると次の音が、どう?演奏できるのか?という「連結」ができれば二つの音を連続して演奏できます。それを繰り返せば、「絶対に」演奏できるはずなのです。

 練習に時間は必要です。本番で演奏する時間を、自分も聴いてくださる人も楽しむための時間です。もちろん、ただ時間が経てばクオリティの高い演奏が出来るようになるわけではありません。先述したように、自分の演奏を振り返りながら「試行錯誤」を繰り返すことです。違う言い方をするなら「実験」を繰り返すことです。音楽に限らず、この実験は常に行われています。身の回りでも、何気なくやっているはずです。
 自分のやり方だけに固執するのは、あまり良いことではありません。事務作業にしても掃除にしても、自分が何気なくおこなっていることが、実はとても非効率で、時間と体力を無駄にしていることもあります。
 できないと思ったことに直面したときに、それを解決する方法を「実験」するはずなのです。「マニュアル」がないと、新しいことができないと思っている人もいます。子供は、まず「やってみる」のです。だから、スマホでもなんでも大人よりずっと早く使いこなせるのです。もちろん、失敗して壊すリスクもあります。化学の実験なら「爆発」するかも知れませんね。
 音楽の実験でケガをした人はいないはずです(笑)
実験をせずにただ何となく、繰り返してもケガはしません。ただ上達した人もいないと思うのです。新しい発見をすることがなければ、進歩はないのです。
 練習は単なる時間の浪費ではなく、「発見のための時間」だと思っています。

 最後に、本番で演奏する時間から、少しずつ遡る「逆算」をしてみます。
演奏直前、最初の音を出す直前です。あなたは何を考えますか?今日の晩御飯?それとも昨日の出来事?(笑)多くの生徒さんが、この瞬間に何も考えられなくなるか、逆に考えすぎます。どちらもあまり良いことではないように思います。
 練習で最初の音の弾き方を決めておくことです。ずいぶん戻ってしまいますが(笑)最初の音をどうやって演奏するのか?決まっていれば、まずそれを考えれば良いだけです。
 もう少し遡って、自分の演奏する前の「10分」
演奏に必要な「もの」と「こと」を確認します。これだけ時間があれば、絶対に大丈夫です。慌てない、焦らない、ゆっくり動く。
 さらに遡って、家から会場に移動する時。途中で走らないことと、立ち上がる時に必ず後ろを確かめて忘れ物がないか見ること。これ、聴音の黒柳先生から伝授された「奥義」です(笑)効果絶大です。
 家から出る前に。もしも、余裕があるなら一度だけ、演奏してゆっくり片づけて、すべての持ち物を確認する「余裕」が理想です。その時にうまく演奏できなくても「今日は弾いた」という安心感が得られます。本番前にうろたえることもなくなります。
 本番数日前。ケガをしないこと。病気にならないこと。楽器を壊さないこと。疲れないように練習のペースを落とすこと。この時期に一番うまく演奏できるように、その前の数日は「へたくそ」で良いのです。人間にはバイオリズムがあります。常に最高の状態に保つことは不可能です。本番の前に自分を高め、本番で最高の「頂点」にいる計画をイメージすることです。
 あまり「ルーティン化」しないことも大切です。「おまじない」を増やせば増やすほど、不安材料になります。お守りを10個、持ち歩く人っていないですよね?(笑)それと同じです。
 練習で本番通りのことをしていれば、本番も練習も同じです。
演奏は時間の芸術。その場で演奏している自分が「主人公」です。
演奏を楽しみましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由を阻害する「思い込み」

 この動画で私が装着しているのは「暗所視支援めがね」と呼ばれる、夜盲の患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を向上させるための眼鏡です。
決して「似合わないおしゃれ」で装着しているのではございません。
普通の人にとって「少し薄暗い」明るさが、私達「網膜色素変性症」の病気を持つ人間には真っ暗闇なのです。と言いつつ、普通の人の「真っ暗闇」を体感したことがないので微妙です(笑)

 さて、今回のテーマは「自由に演奏したいけれど…」と言う演奏者共通の悩みです。そもそも音楽は、作る人、演奏する人、聴く人の自由があってこその楽しみです。制約されたり、強要される感情を持ちながら「自由」は感じられません。つまり音楽自体が、人間の自由な感情があってこその芸術だと思います。
 自分が、ある曲を演奏しようと練習しているとき、いつの間にか自分で自分に「規制」をかけていることがあります。むしろ無意識に自分の演奏にある種の「枠」を作っている場合です。
 アマチュア演奏家の場合特に「自分にはできない。」「できもしないことをしている」「アマチュアだからこの程度で満足」などの思い込みがあります。
 プロの場合にも「この作曲者の意図は」「自分の解釈がまちがっているかも」「他の演奏者は…」「好きな曲じゃないのに頼まれたから」などなど、考えすぎと思い込みがあるように感じます。

 自分の演奏技術を自己評価することは大切です。
過少・過大にならずに客観的に評価することは一番難しいことです。
誰かに指摘してもらえる環境、たとえばレッスンや友人の率直な感想は何よりも大切にするべきです。素直にその言葉を受け入れられないほどの自己評価は、やはり思い込みでしかありません。「良かったよ」と言われても信じない。「もうちょっと音量があってもよかったかも」と言われて逆切れする。どちらも自分の思い込みで自分の演奏を評価しているからです。
 評価する人が「素人」の場合と「専門家」の場合があります。素人はまさに言葉の通り、特別な音楽的知識を持たない人やマニア的な聞き方をしない人、演奏技術のない「普通の人」です。この人たちの評価が、実は一番素直です。
 一方の「専門家」の評価が、間違った思い込みによる不幸な結果をもたらします。演奏する側が「アマチュア」で評価する側が、なんの?専門家なのか?によって、演奏者の自由な音楽をぶち壊します。ひとつの例を書きます。
 全国高等学校〇〇オーケストラフェスタ」なるただの合同演奏会で、とあるプロの指揮者(私的には5流ちんぴら)が演奏した生徒たちの講評で、子供たちの演奏を「えっっっっっっっっっらそうに」上から目線で「直せ!」口調で話します。言われた子供たちの中には涙を流す子供もいます。参加者全員がいる前での事です。ありえないことです。これが「プロの指揮者」だとしたら、メトロノーム様をマエストロと崇めたほうが1億倍、素敵な音楽ができると確信します。5流様は良かれと思って話しているから悪意はないのでしょう。
ただ「無知」で「無能」過ぎます。

 演奏者がプロ(専門家)の場合、周囲からの評価はある意味で「死活問題」でもあります。悪く言われれば、次の仕事=演奏の機会がなくなるかもしれないという「恐怖」があります。特に怖がるのは、なぜか?「評論家」の評価です。
 申し訳ありませんが私は「音楽評論家」と言う職業を、害悪としか思いません。なぜなら、彼らは自分で演奏しないからです。自分自身が演奏家であり、他の演奏家の演奏について評論するとしたら、それは評論ではなく演奏者本人に直接伝えるべき「感想」です。たとえそれが「よいしょ」な内容であったとしても、他人の演奏について一般の人に読まれ、聴かれる場で「評論」するのは、思い上がりも甚だしいと思っています。
プロの演奏について評価をする自由があるのは、聴衆と「主催者=雇用主」です。聴衆=素人が何を思おうが自由です。演奏会の主催者が「だめ」と言えばそれも受け入れるしかありません。
 だからと言って、演奏者が怯えながら演奏するのは、自由を阻害されることになります。私を含め、自主公演でコンサートを開く場合、お客様の反応と自分たちの評価を「すり合わせる」ことがすべての基準になります。
 演奏会後に集めさせてもらう「アンケート」用紙に書かれたお客様の、一文字一文字、行間から私たちの演奏への「評価」を読み取ります。次の演奏会に向けて、その評価を基に練習します。喜んでもらえたプログラム、表現など人によって違う自由な感想を、より多く集めることで自分の「思い込み」を正します。
 「絶対」に良い演奏は存在しません。あくまでも「主観」の世界です。
演奏する本人が、自分の思う通りに演奏した結果、ひとりでも喜んでもらえる人がいる演奏会なら、演奏した意味があります。評価を怖がることなく、聴いてくれる人の笑顔と演奏後の拍手を糧に、練習したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

好きな曲・好きな演奏

 動画は、みなとみらい大ホールでの「アルビノーニ作曲 アダージョ」です。
1985年から教員になり、新設校にオーケストラを0から作り、開校6年目で初めて「定期演奏会」を大講堂で開いてから、学校近隣のさびれた公会堂での演奏会を学校に認めさせるために「闘争」。その後、川崎市宮前区の「宮前文化ホール」に会場を移し、さらに当時の「グリーンホール相模大野大ホール」に。そこでもお客様を収容できない。ステージに乗り切れず、生徒が転落ちたら学校は責任をとれるのか!と学校と「闘争」し、最終地点「みなとみらい大ホール」に到達して3回目の演奏会でした。前置き、長くてすみません。
 私の好きなホールをひとつだけ、と言われたら迷わずにこのホールを挙げます。響きの暖かさ、残響時間とその切れ方、舞台裏の広さ、楽屋の数、なによりもパイプオルガンの音色。すべてが私の好みです。収容人数2020人を満席にすることが開催の条件でした。全席無料、全席指定、事前予約で2020枚の予約券はすべてなくなりました。部員の家族だけではなく、一般の聴衆も多かった演奏会でした。
 その大ホールで退職するまでに、4回指揮台に立ちました。毎回、様々な曲を演奏していました。チャイコフスキーの第4番、第5番、第6番(もちろん単一楽章だけです)、シヘラザード、レ・ミゼラブルなどなど。そんな中でも、このアルビノーニのアダージョは私の好きな曲「トップ3」の一つでした。強いて言えば「1番好きな曲」です。

 高校2年生のヴァイオリンソロ、オルガンは中学を卒業し高校で桐朋の作曲科に進学していた元教え子高校2年生。演奏は「危なっかしい」ものです。傷もあります。この演奏に「ケチ」を付けるのは簡単ですが、私には「最高の演奏」に感じます。自分が好きなように音楽を作り、子供たちに「言葉」と「動き」でそれを伝えた、音楽の揺れと流れ。途中、前のめりになりすぎて、危うく指揮譜面台ごと前に倒れそうになってます(笑)なにが?どう?好きなのかを言語化するのはやめます。「やめるんかい!」と突っ込まれそうですが、実際書いても理解していただけるとも思いませんし、人それぞれ感じ方が違うのが当たり前です。

 旋律と和声。歌曲であればそこに詩が加わる音楽。
広い意味で音楽は、和声を持たなくても音楽だと思いますし、現代音楽の中でバッハやベートーヴェン時代の音楽の「和声感」とは異なる音楽も「音楽」です。
ただ、多くの人にとっての音楽と、音楽の専門家にとっての音楽が「乖離」している気がしてなりません。

 たとえば、知らない国の言語を聴いても、意味が分からないのは当然ですよね。意味が分からなくても、ゼスチャーや表情で伝わることも少しはありますが、「声」だけで伝えられるものは何もありません。
 音楽はどうでしょうか?何を伝えているのでしょうか?
絵画にも色々あります。風景、人物、抽象画など。そこに描かれているものが「なに?」なのか理解できない絵画もあります。それを「美しい」と感じる感性。理解できない人には、ただの落書きに見える作品もありますよね。
 クラシック音楽を学んだ人たちにとって(私も含め)、クラシック音楽は「聴きなれた音楽」です。作曲された時代、当時の文化や作曲者の人物像などを「学んだ」上で演奏したり聴いたりします。
 音楽は学ぶものなのでしょうか?学ばなければ、楽しめないものなのでしょうか?学べば楽しいものなのでしょうか?

 自分の好きな音、好きな曲、好きな演奏。
学ぶ必要は無いと思います。偶然に巡り合うものだと思います。探すこともありますが、「好きなものを探す」ことは、本来は不要なことです。
生きている時間に、耳に入ってきた音楽の中で「好きになる」のが自然な出会いだと思います。
 音楽に限らず、「つくる・提供する」人と「使う・受け取る」人がいます。
演奏することは、作る側。音楽を聴くのは受け取る側です。
作る側は、使う人の「喜び」のために作るのが本来の姿です。
使われない、喜ばれないものを作るのは、作る人間の「自己満足」でしかありません。
アマチュア演奏家の音楽は「自己満足」で十分なのです。なぜなら自分が楽しめればそれで良いからです。
人に喜んでもらうための演奏をして、対価としてお金を受け取る「作り手=演奏家」は、自分よりも聴いてくれる人の「喜び」のために試行錯誤と努力を重ねるべきです。自己満足で終わるのであれば、対価求めるのは「図々しい」と思います。聴いてくれる人の中に、その演奏・音楽を「好き」になってくれる人が、一人でもいてくれることを願うことを演奏する側は忘れてはいけないはずです。
 好きな演奏を演奏者自身が探します。そのひとつの「作品」が、上の動画です。
 聴いている人に伝えられるのは、演奏者自身が自分の演奏する音楽が「本当に好きなんだ」と思うことだけかもしれません。そこから先は、聴く人の感性なのです。「いい曲ですよね」「いい演奏ですよね」と、他人に自分の感性を押し売りするのは「無理」だし「うっとおしい」だけなのです。聴いてくれた人が「つまらない」「へたくそ」と感じるのは仕方のないことです。当たり前のことです。その人が悪いのではありません。感性が低いのでもありません。ただ、自分の感性と違うだけなのです。
 自分の演奏を喜んでくれる人に出会うために、コンサートを開きます。
聴く側は、自分の好きな演奏に出会える期待を持っています。
演奏する人間と聞く側の「好き」が一致する瞬間が「音楽」の本質だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

おまけの映像。みなとみらいでの最後の演奏会より、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」より第3楽章です。


グリッサンドとポルタメントは色っぽい?

 今回のテーマは、ヴァイオリンの演奏技法の中で言う「グリッサンド」と「ポルタメント」についてです。
あまり難しく考えずに、直感的な言葉で書いていきますので、お読みいただければ幸いです。
 上の動画はフィビヒ作曲の「ポエム」です。
音のつなぎ目を無段階に音を変化させてつないだり、音の出だしにその音より低い音から無段階に、ずり上がるように演奏し始める演奏方法があります。
 特殊な例として、その音より高い音から始めたり、最後に高い音に跳ね上がるように演奏する場合もあります。
昔の女性アイドル、たとえば松田聖子さんの歌い方。思い起こせますか?
 ヴァイオリンの場合、音と音の間を「なめらかにつなげる」場合と、「はっきり区切る」場合があります。単にレガート=スラーなのか、弓を返すのかという問題ではなく、音の高さの「差」を埋める方法です。

 こちらはマスネー作曲のタイスの瞑想曲。多くの方が演奏し「この曲をひけるようになりたい」という生徒さんも多い曲です。
 ピアノやハープのグリッサンド奏法で出せる音は、「音階」です。厳密に言えば、1オクターブを12等分した「半音」が最小の差で、その倍の「全音」との組み合わせです。
 他方、弦楽器や声=歌トロンボーン、まれにクラリネットやサキソフォーンなどで多く用いられるグリッサンド奏法は「半音」よりもさらに細かく、無段階に音の変化をさせる奏法です。

 さて、ヴァイオリンを演奏する際に、基本はひとつずつの音の高さを明確に区切って演奏することです。言い換えれば、発音する時間から終わる時間までビブラート以外のピッチを変えない演奏です。わかりやすく言えば「オルガン」の音のように明確に音の高さが聞き取れる音です。
 ある音から次の音への「高さの差」をすべてグリッサンドで埋める場合もありますが、多くの場合は次の音の「少し前の時間」から「少し高い音」または「少し低い音」からその音に到達する方法を用います。
 「意味が分からん」と言われそうです。
下の動画の中で時々聞こえる「にょ~ん」(笑)探してみて下さい。

 いかがでしょう?聞き取れました?
ちなみにこのグリッサンドやポルタメントを加えると
「いやらしい」「ねばっこい」「いろっぽい」「あまったるい」
そんな印象を感じませんか?感じ方は人それぞれなので正解はありません。
どんな飾りや調味料でも、多すぎるとねらった美しさやおいしさを表現できず、飾りや調味料「だけ」の印象が強くなってしまいますよね?あくまで「自然」に感じる量が肝心です。
グリッサンドが多すぎると、しつこく感じ、不自然に感じます。
あくまでも「意図的に」加え、聴いていてちょっとした「アクセント」にとどめるべきです。もちろん、グリッサンドをまったく加えなくても音楽は素敵です。
必要不可欠な奏法ではありません。ただ「味つけ」として、この演奏方法を使いこなすことも大切な練習だと思います。

 下の動画はパラディスの作曲したと言われるシシリエンヌです。
色々なヴァイオリニストの演奏を聴いて、自分の好きなグリッサンドを探すのはとても楽しいことだと私は感じています。できる出来ないよりも、自分が美味しい!と思った味を自分で再現してみる「楽しさ」を感じます。最後までお読みいただき、そして最後までお聴き頂きありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

家族と音楽

 何度も夢に出演してくれる私の両親と兄です。
父を見送り、父を追う母を見送ってからずいぶん時が経ちました。
子供の頃、喧嘩にもならない年の差で思春期には「大嫌い」だった兄と、今はまるで仲良し兄弟笑)
 動画は、渋谷牧人さんの作られた「はるの子守唄」を私のヴィオラと浩子のピアノで演奏したものです。映像は、父の思い出のために以前作ったスライドショーです。

 生徒さんを教え、自分たちで演奏し、思うようにいかない生活をしながら思う事。「なぜ音楽に関わって生きているのか」という命題です。
 どんな生徒さんにも、生んでくれた親、育ててくれた親がいます。
すべての人が同じように両親と、仲睦まじく暮らしてきたとは限りません。
複雑な事情を抱えて生きてきている人たちもたくさんいます。
はたから見ただけで「幸せそう」と決めつけるのは間違いです。
人には言えない、その人の心にしまわれた「歴史」もあるのです。
両親と言う言葉を、敢えて使わせてもらうのは、私が幸せなことに、両親の間に生まれ両親に育てられた子供だからです。それがどんなに幸運だったのか、今更思うのです。

 音楽を学ぶことができ、自分で選んだ道を歩いて来られたのは、両親の愛情があったからです。困ったときに、笑って応援してくれた父がいました。父のわがままを「まったくもう」と言いながら受け入れていた母がいました。
 音楽を演奏できるのは「自分の力」と思い込んでいる人がいます。確かに本人の努力がなければ、演奏は上達しません。

すべての人が母から生まれ、今日まで生きてきました。どんな人間であっても、母親が命がけで生んでくれた「子供」なのです。
 私が音楽を演奏することを、両親は何よりも喜んでくれていたと思っています。小さいころから、そうでした。だからきっと、私は音楽に今も関わって生きているのだと思います。
 私が学校で働くことを父は望んでいませんでした。おそらく私への「期待」を裏切られたと感じたのだと思います。二つの原因があったようです。
私がヴァイオリンと言う楽器から離れて行く寂しさ。
私が演奏家になることを夢見ていたこと。
確かに教員時代、私はヴァイオリンを演奏することへの情熱を失っていました。
数年で退職するつもりだったのが、「住宅ローン」と言う足かせを自らつけてしまって、辞めるにやめられない状況で20年という時間を過ごしました。
 退職時に起きた「事件」の中に家族との断絶がありました。
両親を説き伏せる気力もなく、ただ死なないために生きていました。
 私がヴァイオリンを手にして、再び演奏を始めて浩子との最初のリサイタルに両親は揃って聴きに来てくれました。満面の笑顔で演奏後に「お小遣い」をくれた父を忘れられません。その後も、私たちのコンサートには必ず二人そろって来てくれました。両親が施設で生活するようになってからも、施設内でコンサートを開かせてもらいました。

父が亡くなり、母の認知症が進行した頃、恐らくリサイタルに来られるのが最後になると感じました。施設長自ら運転し、藤沢から代々木上原まで母を載せてきてくれました。帰りは生徒さんのご家族に施設まで私たちと一緒に、母を送っていただきました。
 母が亡くなる直前、施設に二人で伺いロビーに車いすで連れてきてもらった母に、私たちの演奏をスマホを母の耳につけて聴かせました。顔色が変わり、目に生気が戻ったように感じたのは私の思い込みかもしれません。

 人が生まれてから死ぬまでの時間の中で、人に喜んでもらえることがどれだけできるでしょうか?
 私の場合、一番多く喜んでくれたのは家族だと思います。一番怒ってくれたのも家族でした。その家族から教えられたのが「音楽」だったのかもしれません。
母は若い頃に通っていた同志社の時に覚えた讃美歌を、足踏み式オルガンで演奏できる「演奏技術」を持っていました。父は演歌が大嫌いで、藤山一郎からパバロッティに「押し」を変える「聞く専門」の人でした。兄は私との「不可侵条約」なのか、幼い頃から一切音楽に興味を持たず、スポーツ万能な戦うサラリーマンです。そんな家族の中で、私がこうして音楽に関わっていることは、結局両親の「願い」だったのかも知れません。私自身、そのことに感謝しています。
 お子さんをレッスンに通わせている「親」たちに伝えたいのです。
親が願うことです。親が子供に夢を見ることです。子供の能力を信じることです。自分の能力とは関係ありません。子供が好きな道を進むときも、親の夢は持ち続けてほしいのです。子供の人生に、一番関わるのが「家族」だからです。
 最後に、私の現在の家族である浩子「姫」とぷりん「姫」、浩子のご家族、兄の家族に、心からの感謝を伝えたいと思います。ありがとう!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

ヴァイオリン演奏と力

 動画は、ヴァイオリンの演奏とは一見、無関係のように感じますが、楽器を演奏することは「運動」を伴う事なので、とても参考になる動画です。
動画の中で「意識」と「無意識」という言葉が良く出てきます。

 ヴァイオリンを演奏する時に、私たちが必要とする運動を意識したり、無意識だったりします。指の動き手首の動き、肘の動き、肩の動き、首の動き、胸の筋肉の動き、背中の肩甲骨や筋肉の動き、前後のバランスを保つ腹筋と背筋、腰の周りの力、股関節に入れる力、膝の関節の曲げ伸ばし、足の裏の感覚。
これらは「無意識」の中でも何かしらの「仕事」をしています。

 自分の出したい音色や音量、ポジション移動やビブラートを練習する時、自分の身体なのに、「思ったように動かせないこと」があります。
音楽的な「力」を考えると、アクセントやスフォルツァード、フォルテピアノなどのように「瞬間的な力」を感じる場面と、クレッシェンドティミニュエンドのように「徐々に」力が増えたり減ったりする場面があります。
発音の瞬間のアタック、急激に弓をとめる運動、ダウンからアップ・アップからダウンに代わる瞬間の運動など、音楽で力を度外視できません。
演奏家の多くが「運動音痴」です。幼い時から手や腕にケガをすることを避けて、球技に縁のない人が多いのも現実です。武道にはもっと無縁です。
ヴァイオリニストの五嶋龍さんは、幼いころから空手を習い黒帯だそうですが、彼の演奏姿勢にはその「気」を感じることがあります。

 ヴァイオリンを演奏する時、どうしても「指」と「手首」と「腕」に気持ちが集中してしまいます。当たり前ですが、指は手のひらに、手のひらは手首に…とすべての部位が「連携」しています。足の裏から頭のてっぺんまで、どこも「離れていない」のです。ヴァイオリンと弓という「道具」を自分の身体のどこかで支えたり、動かしたり、力を加えたりします。言い換えれば、楽器と弓だけが「体から離せる」存在です。楽器や弓は人間の力がなければ、動くことも音を出すこともできません。
 自分の身体の「延長線上」に楽器と弓があります。

 ヴァイオリンを演奏するために必要な「力」は、常に「ヴァイオリンの内側」に向かってかかる力です。
 弦を押さえる左手の指の力は「ネックの中心」に向かう力です。その力の反対方向の力=支える力を、左手の親指・鎖骨・顎の骨と表皮で作ります。この「上方向」への力は、左腕を持ち上げるところから始まっています。
 左手を、ファーストポジションの位置に持っていくとき、
手前から手を伸ばしがちですが、腕を支えるのが「肩の筋肉」だけになりがちです。自然に腕を伸ばした状態で、肩を動かさずに左腕を「振り子」のように前方に持っていくことで、腕全体を背中と胸の筋肉が支えてくれます。
 ヴァイオリンを無理に持ち上げようとする力も有害です。
鎖骨に楽器を乗せる。首の皮と顎の骨を、楽器の上から「下ろす」ことで楽器は保持できるはずです。
 左肩の位置を決定するために、胸の筋肉と背中の筋肉が、どちらにも無理のない位置を探すことが大切です。前に出しすぎれば、背中の筋肉が必要以上に固くなります。肩が後ろすぎると、胸筋が伸び切り背中にも無駄な力が生まれます。ちょうどいい位置に「肩を落とす」ことです。

 右腕を上げる時にも、首の筋肉に力を入れずに、右手のこぶしが「おへそ」の前に来る辺りで止めます。右肘を「前・上方向」に動かせば、演奏する時の右ひじの位置を理解することができます。肘の高さ=体からの距離は、演奏する弦によって変わるものです。弓の元で、右ひじを上げることで「元弓のつぶれた音」を出さなくてよくなります。アップで元に近づくにつれ「窮屈な音」が出ている人は、ぜひ右ひじを「斜め後ろ・上方向」に引き上げてみてください。この時に首の筋肉に力をいれないことです。肩の関節を頭の方向に引き寄せてしまうと、肩が上がって自由がきかなくなります。「肩を下げたまま、腕を上げる」感覚を覚えることです。

 弦を弓に押し付ける「力」は、弓の重さと右手の「親指と人差し指」の逆方向への力で生まれます。親指を「上」へ、人差し指を「下」へ。この力を指だけで作る場合と、「前腕の回転=反時計回り方向へのひねり」で作る場合があります。指の力は瞬間的な運動に適しています。腕の回転運動は「大きな力の持続」に適しています。このふたつの運動で、弓の毛を弦に押し付ける力を生みます。

 腹筋と太もも、膝の関節について書きます。
女性の場合、ロングドレスで脚の開きや、膝の曲がりは見えません。男性の場合どうしても「足元を見られる」ことになります。見た目はどうでも良いのです。
パールマン大先生以外のヴァイオリニストは、足の裏ですべての「重さ」を受け止めます。女性の「ヒール」に関しては、未経験なので書けません。ごめんなさい。男性でも、少しヒールの高い靴の場合、重心が前よりになることを感じます。足の裏、全体に重さを分散し、強く「地面に押し付ける」イメージで立つことをお勧めします。膝の関節を伸ばしきると、脚は「硬い1本の棒」になってしまいます。上半身の上下・左右の運動を吸収できるのは「膝」なのです。。
太ももに力を入れ、腰を安定させて且つ「回転運動」が出来る柔軟さを持つことで、上半身の「回転方向の力」を吸収することができます。
「回転なんてしてない」と思うのですが、右腕を大きく、速く運動させる場合に、体を「ひねる」力が生まれます。前後・左右の運動が組み合わされると「回転運動」が生まれることになるからです。太ももと腰で、上半身を支えるイメージです。

 自分の身体の筋肉を「無意識」に「合理的に」使って演奏するために、一番楽な姿勢から、どうすれば「大きな力の速い運動」ができるのか?を意識して練習することが大切ですね。筋肉が疲れる演奏方法は、どこか間違っている場合がほとんどです。「思い込み」を捨てるために、常に初心に戻り、初めてヴァイオリンを構え、初めて弓を持ち、初めて音を出す「イメージ」で練習することも必要です。初心者のレッスンをしていると、いつも自分ができていないこと、忘れていることを教えられます。「初心忘るべからず」ですね。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


演奏する場所で変わる音

 動画は同じ曲「アダージョ・レリジオーソ」を同じ時期に、同じヴァイオリンで演奏したものです。上の動画は、地元相模原市橋本駅前「杜のホールはしもと」で、客席数525名の大きなホールです。ピアノはスタインウェイ。
メリーオーケストラの定期演奏会で使用し続けているホールです。
 下の映像は代々木上原のムジカーザ。定員200名ほどのサロンホールです。ピアノはベーゼンドルファー。
 どちらも音響の素晴らしい音楽ホールです。

 練習する場所は、人それぞれ音の響きが違います。多くの場合に、天井が低く壁も迫っている普通の部屋で、家具やカーテンなどで音が吸収されます。
音は空気の振動です。音源はヴァイオリンの場合、楽器本体から発して周囲の空気を振動させます。ピアノの場合、大きな筐体=ボディと固くて長いピアノ線から周りの空気に音として伝わります。
 音源直近の音の大きさは、狭い部屋でも大きなホールでも変わりません。音源から離れれば離れるほど、空気の振動は弱くなります。そして壁や天井に「反射」してさらに大きな空間に音が広がります。演奏者本人には、音源の音と共に反射してきた音も聴くことができます。その「戻ってきた音」の大きさと音色は、演奏する場所によって大きく違います。
 一方で客席などで演奏を聴く場合、音源からの距離が遠ければ遠いほど「反射した音」の比率が高くなります。また、空間が広く反射する壁や天井が音を吸わない素材で出来ているほど長い残響=余韻が残ります。
 建物の形状、空間の形によって残響の残り方が全く違います。
天井がドーム状になっている協会などの場合、反射した音はさらに複雑に反射します。トンネルで音が響くのと似ています。壁に凹凸をつけて反射を「制御」することができます。

・オーチャードホール:1.9秒
・すみだトリフォニーホール:2.0秒
・ミューザ川崎シンフォニーホール:2.0秒
・横浜みなとみらい大ホール:2.1秒
・新国立劇場:1.4~1.6秒
・神奈川県民ホール(本館):1.3秒
・日生劇場:1.3秒(※空席時)
・神奈川芸術劇場(KAAT):1.0秒
・大阪 新歌舞伎座:0.8秒
ホールの残響時間は、目的によって大きく違います。

 客席で気持ちよく演奏を聴けるホールと、演奏していて気持ちの良いホール。
座り心地のよい「椅子」と適度な前後の空間はホールの設計の問題です。
座る位置によって、ステージの見やすさ、音の響きはまったく違います。
 一方演奏する側から考えると、ピアノの位置と向き、ヴァイオリンの立ち位置と楽器の向き。これが最も大きな要素になります。
ストラディバリウスなどの名器は「音の指向性が強い」と言う研究結果がありますが、実際にホールで演奏し客席で聴いた場合には「聴く位置」の方が大きな差になります。どんな楽器であっても「音源の位置」とステージ上から伝わる空気の振動=「音の広がる方向と強さ」を考える必要があります。
「結局、聴く人の位置で変わるんだから」と言ってしまえば、確かにその通りです。ただ、演奏者自身に戻ってくる反射音は、明らかに変わります。
ヴァイオリン奏者にとっては「ピアノと自分の音」、ピアニストにとっては「ヴァイオリンと自分の音」の聞こえ方が、変わってくるのですから「位置」と向き」は重要な要素です。

 自宅で練習したり、吸音材で囲まれたレッスン室で練習していると、ついムキになって「つぶれた音」で練習しがちです。戻ってくる音がないのですから「デッドな音」で気持ち良くないのは当たり前です。だからと言って、ピアノで言えば「ダンパーペダル」を踏みっぱなしで演奏するのは間違いですし、ヴァイオリンで言えば、ダウン・アップのたびに弓を持ち上げて「余韻」を作る癖は絶対に直すべきです。本来、楽器の音は残響の中で楽しむように作られているのです。
畳の部屋、絨毯の部屋、ふすま、土壁、低い天井、狭い部屋で「心地良い音」を望むのは無理と言うものです。だからと言って、壁も天井もない公園や河原、野原の万課で楽器を演奏練習するのは、少なくとも弦楽器では「絶対やめて!」とお伝えします。楽器を痛めるだけです。残響があるはずもありません。
と言いつつ、その昔指導していた学校の部活夏合宿で、練習する場所が足りずに弦楽器メンバーに木陰で練習させた黒歴史を懺悔します。ごめんなさい。

 最後に、日本のホールについて書きます。
多くのホールが「多目的ホール」です。音楽に特化したホールは非常に少なく、演劇や講演会、落語など残響時間を短く設計したホールの方が多いのが現実です。
吹奏楽や打楽器の演奏会などの場合、残響時間が長いと「何を演奏しているのか聞き取れない」場合もあります。和太鼓の演奏を「禁止」しているホールもあります。杜のホールはしもとも、そのひとつです。理由は「ホールの階下に図書館がある」からです。和太鼓の音圧でホールの壁、床が「躯体振動=直接振動する」して図書館にまで音が響いてしまうからです。
 反響版のないホールもあります。


 上の映像はどちらも地元「もみじホール城山」の演奏ですが、上の映像は発表会の「おまけ」で演奏した時のもので、反響版を設置していません。
下の映像に映っている反響版は、可動式・組み立て式のものです。設置するのに二人がかりで30分ほどかかります。もちろん、この効果は絶大です。舞台上の音の広がりを前方にまとめられる効果で、客席での聞こえ方がまったく違います。録音には大差ありませんが(笑)
 音楽ホールの稼働率が低く、閉館になるホールが地方に多くあります。
運営の難しさが原因ですが、使用料の高さとホールまでのアクセスの悪さ、多くは集客の難しさにあります。少しでもクラシック音楽のすそ野を広げるためにも、ホール使用料金を公的に負担したり、アクセスの悪いホールならミニバスでも良いのでコンサートに合わせて走らせるなど、自治体や行政の果たすべきことがたくさんあると思います。「箱もの行政」と叩かれないようにするためにも、運用に必要な情報を、私たち演奏家にも問うべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指・弓・毛・弦の弾力

https://youtube.com/watch?v=05qBqizvjkE

今日のテーマはヴァイオリン演奏時の「発音」に関するものです。
擦弦楽器とは、弦を弓の毛で擦って音を出す楽器の事を指します。
ギターやマンドリンのように「弦をはじく」楽器とは発音方法が違います。
弓を使って音を出す楽器は、ヴァイオリン族=ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスの他にも、胡弓などの中国伝来の楽器もあります。
弓の毛の多くは馬の尾の毛を漂白せずに使います。洗うそうですが、洗ってもおうまさんのお尻に近いしっぽの毛ですから、当然「ウンモ」笑の香りが消えないものも多いそうです。お食事中でしたらごめんなさい。
 ヴァイオリンの弓には、250本ほどの毛が張られています。
馬のしっぽの毛は顕微鏡で見ると凸凹があり、そこに松脂がついて大きな凸凹になって、弦との愛間に摩擦が起きて音が出ます。
 弓の毛、1本1本はとても細く、柔らかいものです。手で引っ張ると「ぷちっ」と切れる程度の強さです。他の動物の毛と比較して弾力性に富んでいます。
この毛を重ならないように弓に「張る」技術が職人さんの技です。
演奏している間に着れることもあります。また、経年劣化すると弾力性が下がり、毛自体も細くなります。演奏に使っていなくても、動物の毛ですから自然に劣化します。

 毛を張っている弓の木材は、フェルナンブーコというブラジルに生えるマメ科の木です。オレンジ色の木で木目はあまりはっきりしていません。古くからヴァイオリンの弓にはこのフェルナンブーコが用いられてきました。染料にも使われ、現在は数が少なく、ワシントン条約で弓の形をしたものでないと輸出できなくなっています。
 弓にするために、6角に削り熱処理で曲げて作られます。
先が細く中央部分が太く、元の部分には黒檀で出来た「毛箱=ブロック」と毛箱を引っ張り弓の毛を張るための「ネジ=スクリゅー」のための穴があけられています。重さは全体で60グラムと、生卵一個分ほどの重さです。弓先と全体のバランス、全体の弾力性、太さなどで演奏のしやすさだけでなく決定的に音色と音量を左右します。弓の木の良し悪しは、ヴァイオリン本体のそれよりも重要な一面も持っています。フランソワ・トルテ(1747 – 1835)やドミニク・ペカット (1810-1874)に代表されるフランスの名弓製作者の弓はヴァイオリン本体よりも希少価値が高いものです。

 そして「弦」です。弦はその昔、ガット=羊の腸を張っていましたが、その後、ガットの代わりに化学繊維のナイロンを使用したもの、金属を代わりに使用したものがあります。ガット弦は音質が柔らかいのが特徴です。
ナイロン弦は価格が安く、量産が容易であるメリットがあります。

金属=スチールの弦は音量が大きく安価です。それぞれに「短所」があります。
 ガット弦の短所は、ガットが伸びて安定するまでに時間がかかることです。
温度や湿度での変化でピッチが変わるのは、どの種類の弦にも言えることです。
 ナイロン弦の短所は、良い音の出る寿命が短いことです。最もポピュラーなトマステーク社製のドミナントは、焼く2週間で突然、余韻が短くなり明らかに音質が落ちます。
 スチール弦の短所はずばり「柔らかい音がでない」ことに尽きます。
どの種類の弦を選ぶのかは、演奏者の好みと演奏に求められる音量、音質さらには、「お財布事情」で変わります。ちなみにガット弦の寿命はナイロン弦よりはるかに長いので、コストパフォーマンス的には大差ありません。
 私は普段、ガット弦を使っています。唯一ガット弦を作っている「ピラストロ社」のオリーブ、またはパッシォーネを張っています。
弦には弾力性があります。固すぎる弦は押さえることにも向きません。

弦は駒の近くでテンション=張力が強く、固く明るい音が出せますが、圧力が足りないと高い裏返った音になりやすいリスクもあります。
一方で、駒から通り場所=指板に近い場所は、テンションが弱く意図的に「ソフトボーチェ=弱いかすれかかった音」を出す時に使用しますが音量が小さくなります。3本の弦を一度に演奏したい時などには、この部分を演奏することで同時に3本の現に弓の毛を当てて音を出すことが出来ます。
 演奏したい音量や音色によって、どの場所に弓を当てるか考える必要があります。

右手の指の弾力とは、指の関節の柔軟性です。当たり前ですが、骨は曲がりません。弓に触れる右手の指の各部分を、敏感にしておくことが求められます。
そして、弓を通して弓の毛と弦の「摩擦」と「弾力」を感じることが必要です。
 車で例えるなら、駒と上駒=ナットが「橋げた」で、弦が「橋=道路」で、弓の毛が「タイヤ」に当たり、指が「サスペンション」と「ハンドル」の役割を果たしています。乗り心地の良い車、高速でも路面に吸い付いて安定して曲がり、止まれる車、それが「弾力」です。

動力源は「右腕」です。それらが連動しあいながら、弦と弓の毛を「密着」させたまま動かすことで、弦が振動し駒を振動させ表板に、さらに「魂柱」を通して裏板に振動が伝わり、ボディ=箱の中で共鳴・共振して、大きくななった音=空気はf字孔から出てきます。当然表板も裏板も振動して音を出しています。

 弓の毛を強く張って演奏する人を多く見かけますが、私は必要最小限の「弱さ」を探して極力「弾力」を優先しています。強く張れば、強く圧力をかけられるので、より強い音を出しやすくなります。が、柔軟性を失うことになります。
 弓の木の「硬さ=強さ」にもよりますし、弦の種類にも、さらには駒の高さ=弦の高さによっても、弓の毛の張りは調整されるべきです。やみくもに強く張るのは、弓の弾力を失わせます。
 弓の毛の弾力と、弓の木の弾力は当然「毛<木」です。弓の毛を強く張りすぎれば、弓の木の弾力を減少させることになります。また、弓の中央部分の柔らかさを放棄することにもなります。
 そもそもなぜ?弓の木に、わざわざ反りを付けているのかを考えるべきです。
腰が抜けてしまった弓とは弓の弾力を失い、いくら毛を強く張っても、毛と木がすぐに当たってしまい、中央部分で「横方向の力」に耐えられず、ぐにゃっと曲がってしまう状態です。腰が抜けてしまうと弓は使えなくなります。弓の木を長持ちさせるために、弓の木に過剰な負荷を与えるような「強すぎる張り方」は避けるべきだと思います。

 音量を優先させたいのであれば、スチールの弦を張り、ガチガチに固い「剛弓」で弾けば良いと思います。ヴァイオリンの音量だけを求める演奏は、本来の美しい音色を求める演奏方法と矛盾しています。もちろん、弱いだけの音では、ピアノと一緒に演奏したときに「聴こえない」ことになります。
 弦と弓の毛の「密着」を考えて、あらゆる弾力性を意識しながら演奏することを心掛けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な音楽とは?

 動画はアイザック・スターンのヴァイオリンと、ヨーヨー・マのチェロによるドッペルコンチェルトです。今回のテーマとどんな関係が?

 音楽を演奏する人にとって、知るべき「規則や定義」があります。
ひとつの例が「楽譜」です。楽譜を書き残した人の作品=曲を、音楽にするために共有するルールでもあります。「音楽を聴けばマネできる」のも事実ですが、録音する技術のなかった時代、演奏は「その場限り」で人の記憶にしか残りませんでした。かのモーツァルトが一度聞いた音楽を覚え、楽器で再現できた話。当然聞いたのは「生演奏」です。そして、そのモーツァルトが書いた楽譜のルールは今でも変わっていないことってすごいことです。楽譜という「規則」がなかったら、現在私たちが聴くことのできる音楽は誕生していなかった可能性があります。
 子守歌や民謡のように、人から人へ伝えられた音楽もあります。その過程で、少しずつ変わっていくのもこれらの音楽の特徴です。楽譜と言う「記号」で残らなかった音楽です。

 自由な音楽とは、どんな音楽でしょうか?自由な演奏とは、どんな演奏でしょう?とても大きな問題です。
ちなみにウィキペディアによると、自由の対義語は「専制」「統制」「束縛」という言葉が出てきます。日常生活の中の出来事で考えると、理解しやすいですね。おおざっぱに言うと「やりたいようにできない」のが自由でないことを指しているように感じます。自分の意志とは別に「抑制」される感覚を伴うことです。ただ、自分の意志のない人にとっては、自由も束縛も感じないことになります。やりたいことの多い人の方が、「束縛」や「不満」を感じるのではないでしょうか?

 もし、自由な音楽という定義をするなら、音楽を作る人・演奏する人が、何も制約や束縛を考慮しないで、好きなように作る・演奏する音楽。でしょうか。
そう考えると、私たちが普段演奏している音楽は、自由な音楽に限りなく近い気もします。少なくとも、自分の演奏したい音楽を「自由」に選べる段階で、束縛を感じることはありません。
 楽譜に書いてある「記号」「標語」「指示」に忠実に従うことが、自由でないと感じる場合もあります。出版社によって楽譜にかかれている記号や標語が違う場合があります。また、作曲家によって、楽譜に多くの指示を書いた人と、演奏者に任せた人がいます。楽譜と言う「規則」にどこまで従うのか?その規則に反したら、なにが起こるのか?どこまでが「自由」として許されるのか?
個人の価値観によって違うことです。ただ「統制」される音楽が美しくないとは言い切れません。なぜなら「オーケストラ」の演奏は、多くの意味で統制されているからです。練習時間の束縛、演奏するパートの指定、座る位置の指定、指揮者の要求に従うテンポや音量など、好き勝手には演奏できないのがオーケストラです。他人と協調すること、時には妥協することが「嫌」な人は、オーケストラに向いていない人だと私は思っています。いくら技術が高くても、結果的に人の「輪・和」を壊します。誰かを「手下・子分」にしたがる人もオーケストラ向きな人ではないと思うのですが(笑)もちろん、指揮者としても不適格な人だと思っています。誰とは申しません。

 レッスンの場に話を移します。
師匠から弟子への「指示」に従うのは束縛と言えるのでしょうか?
師弟関係に「信頼」が必須であることは以前にも書きました。
演奏技術、音楽の解釈などへの「指定」はあって当たり前ですが、プライベートな部分にまで制約を課すことには異論もあります。それが、弟子の将来に関わる「だろう」という思いからの事であっても、行き過ぎた介入はするべきではないと思います。結果的にその弟子が大成したとしても、挫折したとしても、師匠に弟子の将来を決定するような権利はありません。

 音楽に限らず自由の中にも「節度」が必要です。言い換えれば「最低限のルール」があるのが社会です。無人島でひとり、生きているのであればルールは自分で作ればいいのですが、家族であれ組織であれ、学校でも社会でも「ルール」の中で自由が認められています。
 人として。大人として。
他人に不快感を与えたり、危害をあたえるような「自由」は認められません。
言論の自由、個人の自由。取り違えればただの「わがまま・身勝手」な言動や行為として扱われます。
 音楽が人を不快な気持ちにさせるにすることもあります。
特に「押し付け」られる音楽、逃げられない音楽は人を不快にします。
「国民なら国歌を歌うのが当然だ」と言うのも私は疑問を感じます。
それをすべての国民や、子供たちに強制させる「法律」ってありません。
むしろ日本の最高法である憲法で保障されている「個人の思想の自由」を奪う行為です。音楽を押し付けるのも、押し付けられるのも「音楽家」として従うべきではないと信じています。

 最後に「身体の自由」についても書いておきます。
健康な人にとって、身体のどこかに「不自由」な部位がある人を「可哀そう」と思うのは、少し間違っています。私自身、眼が不自由ですが、それを自分で「可哀そう」と思ったことがありません。眼が不自由であることが「普通」なのです。身体に不自由な部位があると、不便に感じることはありますが、それも受け入れています。自由に動かせる部位があります。それを使って楽器を演奏したり、音楽を作ったりする「自由」もあります。
 何不自由なく生活している人に、不自由な生活をしている人の苦労を創造することは、とても難しいことです。完全に理解することは不可能でも、「思いやる」ことは思い上がりではありません。音楽を聴くことが出来ない障がいを持った人もたくさんいます。その人たちにとって「音楽」ってどんな意味をもつのでしょうか。振動や光で音楽を「伝える」努力をする演奏会もあります。
 私たちが楽器を演奏できることに感謝する気持ちを忘れがちです。
自由な音楽は、自由な場所にしかありません。人間が自由であることを意識しなければ、私たちの音楽は消滅してしまうと思います。
 戦争反対。平和万歳。音楽を自由に演奏できる世界でありますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

大衆音楽だって音楽

 今朝のヴァイオリンレッスンで大人の生徒さん、次にひいてみたい曲をお聴きしたら…
「先生のリサイタルで聴いた瑠璃色の地球」というお応えでした。
一昨年のリサイタルでの演奏動画です。ヴィオラとピアノで演奏しています。
もちろん、私たちが演奏する曲の中には、クラシックと呼ばれる音楽もあります。クラシックとは呼ばれない「ジャンル」の音楽も演奏します。
好みの問題を誰かと競ったり、言い争ったりするのは無意味です。
塩ラーメンが好きな人もいれば、しょうゆラーメンこそがラーメンだと主張する人もいるのですから。

 作曲家が創作し生み出された音楽は「楽譜」という形で、演奏者に委ねられます。作曲家によって、楽譜が書かれた時代によっては、本人が手書きで書いた楽譜を、「写譜」し続けて現代に残されている曲もたくさんあります。
作曲者自身が、ひとつの楽曲を異なったアレンジで楽譜にした曲もあります。
後世の人がアレンジした楽譜があります。また、現存する作曲家の曲でも、違うアレンジの楽譜が出ていることもあります。
 作曲された曲の、旋律と和声、さらに演奏の編成を変えて演奏することは、ポップスの業界で言えば「カバー」と呼ばれる演奏に近いと思います。
どこまで?原曲を変えて演奏するかは、人それぞれの価値観で違います。

 以前にも紹介した「ふるさと」です。ジャズピアニスト小曽根真さんと、奥様の菅野美鈴さんがアップされていたふるさとを「耳コピ」させて頂きピアノとヴィオラで演奏しています。和声を変え、ピアノの伴奏の音楽を原曲とは大きく変えたこのふるさと、旋律は原曲のままです。アレンジでこれだけ変わるのですね。

 いつの時代にも「現代」と「過去」があります。少なくとも未来のことは誰にも分りません。想像は出来ても実際の未来に起こることを、人間が予測することは不可能です。そして、過去に作られたもの、文化、芸術を「伝統」と言います。先人の残した「遺産」に敬意を払い守ることを軽視する人が増えています。
音楽に限らず、過去に起こった悲劇を「なかったこと」にしたり、事実を捻じ曲げる人が増えました。人間として「さもしい」人だと思います。そんな人が、これからの事を語る姿を見ると「お前は神か」と聞いてみたくなります。
 守るべきものと、変えてよいもの、変えなければいけないもの。
この三つの区別ができないと、なんでも壊したり、意味もなく固執したりします。
 美しいと思うことは、人によって違います。嫌だと思うことも人によって違います。それを許容しあうことは、生物の存続に関わることです。野生の動物は無意味に他の生き物を殺しません。自分のテリトリーを守りますが、生きるために必要なテリトリーだけです。
 音楽を創造=想像できるのは、人類だけです。その私たちが、音楽を楽しむ時に考えるべきは「守るもの」と「美しいもの」だけで良いと思います。
それ以外のことは、他人の価値観に委ねても、自分の大切なものは守られるはずなのです。他人の価値観を踏みにじるのは、愚かな行為です。認め合えば、音楽も平和も守れると思っています。
話が大きくなりすぎてすみません!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介