音楽の「すそ野」を広げるのも音楽家

 映像は、メリーオーケストラのリハーサル風景です。
音楽はどんな人でも公平に得られる「楽しみ」です。ハードロックでもジャズでも演歌でもクラシックでも、音楽であることは変わりません。人それぞれに、好きな音楽があって当たり前です。音楽に関心のない人がたくさんいるのも、当たり前です。音楽が「つまらない」と思う人もいます。その理由も様々です。
 音楽を演奏して楽しむ人が、聴いてくれる人も楽しんでもらえたら、演奏する楽しさは何倍にも大きくなります。聴いてくれる人が減っていけば、いずれ演奏する人も減り続けていきます。
 クラシック音楽の演奏技術を学ぶ人にとって、目指すのは「一流の演奏家」です。少なくても「三流の演奏家」「へたくそ」と呼ばれたくて学ぶ人はいないのでは?と思います。演奏技術を高め、競争に勝ち抜き、演奏家としての「名誉と地位」を得た人が「一流の演奏家」なのでしょうか?

 演奏技術に「序列」を付けたがる人もいます。その人が思うだけなら、何も問題はありません。厳密には「○○さんが一番うまいと私は思う」と言うだけのことです。それを言葉や文字にするのも、その人の自由です。
 うまい・へたと感じるのは「個人の感性」であり、音楽を聴いて楽しいと思えるか?つまらないと思うか?も「個人の感性」です。先に述べたように、音楽は本来「楽しい」と感じられるもののはずです。技術を競い合うための物ではありません。どんなに演奏技術を高めたとしても、聴いてくれる人が「楽しそう」と思わなければ聞いてもらえないのです。

 音楽を聴くこと、演奏することに興味や関心のない人の方が多いのです。特にクラシックの演奏会、オーケストラの演奏会に行ったことのない人の方が、圧倒的に多いのが現実です。その現実を少しでも変えていくことが「音楽のすそ野を広げる」ことだと信じています。
 音楽を聴くことが楽しいと思ってもらえるために、何ができるでしょうか?
演奏会に「行ってみようかな?」と思えるコンサートを作ることです。
休日の昼間に、入場無料で子供連れでも赤ちゃんと一緒でも聴けるコンサート。
曲目の中に「タイトルを聴いたことがある」曲や「知っている」曲を含めること。
クラシックを知らなくても楽しめる「雰囲気」を感じられるプログラムにする。
これらを具現化したのが、メリーオーケストラの演奏会です。
 実施するために必要な「お金」を演奏するアマチュアメンバーの会費と演奏会参加費、さらに活動に賛同してくださる「賛助会員」からの賛助会費で賄っています。プロの演奏家には「交通費」しか支払えません。それが現実です。それでも毎回、多くのプロの演奏家が参加してくれています。
 彼らの協力がなければ、この活動は維持できません。アマチュアメンバーだけでも演奏会は開けますが、聴いてくださる人への「インパクト」がまったく違います。それこそが「演奏技術」なのです。アマチュアにはできない演奏をプロが出来るのです。その演奏を聴いた人が「楽しい」と思ってくれれば、プロの演奏会にも「行ってみようかな?」と思ってくれる信じています。
 演奏技術が高くても、演奏する場がなければ「宝の持ち腐れ」です。
未来の演奏会に、一人でも多くのお客様が聴きに行ってもらえるための活動を、誰かがしなければと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽大学は生き残れるのか?

 映像は、メリーオーケストラの演奏した「仮面舞踏会よりワルツ」です。
趣味で楽器を演奏する人と、音楽家を目指す音大生、さらに音楽大学を卒業したプロの演奏家が同じステージで音楽を楽しみ、お客様にも気軽にオーケストラの演奏を楽しんで頂いています。この空間に「プロ」「趣味」の垣根はありません。音楽は誰にとっても楽しいことを、その場の人たちが共有します

 さて、今回のテーマは以前にも少し触れた「音楽大学」についてです。
 不景気が25年間続く日本、さらにその影響で少子化がますます加速しています。そこに、コロナでさらに景気が落ち込み、ダメ押しでロシアが戦争を起こし原油や小麦の価格が激高し、一般家庭は生活苦に陥っています。
 その日本で、大学に通うための学費を「出世払い」と言う詐欺師まがいの言葉で学生に借金を負わせています。
 そんな社会情勢で、音楽大学は存続できるのでしょうか?
すでに新規学生を募集していない音楽大学も出ています。
これから、いったい幾つの音楽大学が消えていくのでしょうか?どこの音楽大学が生き残れるのでしょうか?推察します。

 学費の安さだけで考えれば、国公立大学は有利です。
もし、学費の安さだけが音楽大学の勝ちだとしたら、私立の音楽大学の高い学費でも受験し、通う学生がいることの説明がつきません。確かに、国公立大学に合格できずに「仕方なく」私立の音大に通う学生もいるのは事実です。ただ、実際には祖霊ガニの「魅力」があって私立を選ぶ「未来の音楽家」がいるのも事実です。
 音大の学費以来の「価値=魅力」はなんでしょか?

「社会が求める音楽を育てられる指導能力」に尽きろと思います。
特に大学で学生を指導する「教員」は本来、高校教員と違い「学問」を享受できる能力がなければなりません。大学を卒業して得られる学位である「学士」は単に4年間なにかを学んだというものとは違う意味を持っているはずです。
もし、大学が高校と同等の教育しかできないのであれば、それは高等専門学校「高専」です。今の音楽大学は事実上の「高専」以下の指導レベルでも「大学」と名乗っている気がします。
「学部」は何のために付けられた名称なのか?音楽学部は何を研究する場所なのか?音楽大学の必履修単位・必修得単位に音楽と無縁の科目が多すぎることに、いつ?誰が?気付くのでしょうか。

 職業として音楽を考えることさえ出来ない音大に、学生が通うはずがありません。卒業して「音楽家」になれないのは「本人=学生の力量」だから仕方ないで済ませている大学が生き残れるとは思えません。音楽家として必要な技術、能力、知識を身に着けさせることが大学の役割でなければ、ほかに何を?教えるのでしょうか。
 音大で指導している方が、演奏家・音楽家としての「技量や評価」がどうのこうのという、表面的な価値観の話ではなりません。指導者としての「資質」です。そしてそれを第一に据えた「大学経営」をする経営者が絶対に必要です。
 もとより、音楽で生計を立てることはとても難しいことです。音大を卒業して、一般大学を出た人と同じ程度の知識・技量で飯が食える…と思わせる方が間違っています。趣味で音楽を楽しむ人とは違う「技術・能力・知識」を持てなければ、音楽大学に通う意味・価値はまったくありません。
 

「レベルを上げると学生が集まらない」と言う音楽大学は、なくて構わないのです。消えて当たり前です。存在する意義がないのですから。
音楽大学のレベルは、指導者の「質」がすべてです。そしてその指導者と経営者が同じ方向を見ていない音楽大学は、遅かれ早かれ消えるでしょう。
指導者が「経営者が悪い」と言い、経営者が「指導者が悪い」と言い争う大学で、学生が音楽を学べるはずがありません。
 最期に、これからの社会が求める音楽家について書きます。
「コンクールで優勝した人」ではありません。
「音楽バカ」でもありません。
「迎合する芸人」でもありません。
音楽を知らない人が魅力を感じられる「人」であり、社会に溶け込める「人」ではないでしょうか?その人の造り出す音楽で、音楽を知らない人を幸せにできる音楽家ではないでしょうか?
 音楽は生活のエッセンスです。音楽がなくても生活はできます。音楽が加わることで、生活に潤い、ゆとり、安らぎ、リフレッシュ、笑顔が生まれる存在だと思います。クラシック音楽だから「崇高」だと勘違いするマニアは今後も生き残ると思いますが、そのごく少数の人に音楽家を支えるだけのお金もエネルギーも期待できません。高齢者でも子供でも、音楽は楽しめます。体力がなくても、病院で寝たきりになっても音楽は楽しめます。コンサートホールだけが、音楽を楽しむ場所ではないのです。
 もっと音楽を広い視野で考えるべきだと思っています。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

はじめてのボレロ

 映像は、NHK交響楽団が演奏するラヴェル作曲の「ボレロ」
これまで、なんちゃって指揮者として150名の部活オケ、神奈川県合同高校オーケストラ、清泉女子大学オーケストラ、信州大学オーケストラ、そしてメリーオーケストラで、多くの音楽と出会い、指揮をしてきました。
 そんな経験の中で、どうしても手を出せなかったのが、この「ボレロ」です。
考えてみると、それほど大きな理由はなかったはずなのに、なぜか?今日まで演奏の機会もなく、もちろん指揮も初めてです。
 ひたすら、同じテンポの3拍子。「幼稚園児でもふれるべ?」と思われそうです。スネアドラム=小太鼓が居れば、指揮者がいなくても最初から最後まで演奏できる曲ではあります。ではなぜ?

 特殊な楽器が編成に含まれているから…と言うのが「表向き」の理由でした。
通常、オーケストラで使われることの多い管楽器に加え、バスクラリネット・ピッコロ=Esクラリネット、バスファゴット・サキソフォーンなどに加え、独特の金属音が演奏できるチェレスタ、さらにハープ。演奏者がいなくても、楽器がなくても完全にオリジナル楽譜での演奏は不可能です。
 それよりも大きな一番の理由は、「私が最も好きな曲の一つだから」なのでした。私の中で「ラヴェル」は「オーケストレーション=アレンジの神様」だと勝手に思っています。ボレロに限らず、彼の書くオーケストラ楽譜には、他の作曲家にない「魔力」を感じるのです。
・異なる楽器の組み合わせかた
・楽器ごとの個性が一番魅力的に聴こえる音域の使い方
・思い切りの良い、「楽器の「き算」=無駄をそぎ落としたアレンジ
などなど、聴いていてぞくっとする「響き」が連続します。

 来年1月15日(日)に実施する、メリーオーケストラ第42回定期演奏会で、このボレロを演奏に加えます。
 会員と賛助会員からの「会費」と「参加費」、相模原市からの助成金で、一体どこまでオリジナルに近づけられるのか?まだわかりません。先述の通り、特殊管を持っておられる演奏者に、交通費だけで演奏をお願いできるのか?と言うネックがあります。もし、無理な場合はどこかを「カット」するか、代わりの楽器で演奏するかの二つに一つです。好きなだけに「切りたくない」気持ちがあります。ですが、無い袖は振れません。
 さらにこのボレロに加え、チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番、第1楽章を演奏予定です。ソリストは同期ピアニストの落合敦氏に依頼しています。彼の体調が悪くならないことを祈りつつ。
 と、心配する前に来月8月7日の演奏会が「始まらないと!」なのです。
「終わる?じゃないの?」私は、演奏会は「始まりさえすれば満足」なのです。
舞台の仕込みが終わり、リハーサルが終わり、本ベルが鳴った時には、舞台袖で「ここまで来られたら、もう大丈夫!」と言う安堵感で、全身の力が抜けます(笑)本当の事です。準備にかける時間と労力に比べれば、本番の2時間は一瞬の出来事です。
 まずは来月!そして来年!
その前に発表会とリサイタル!
●●暇なし
自転車操業
七転び八起き
●●にクチナシ←違う気がする
の清新で頑張ります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


NPO法人理事長の悩み

 映像は、NPO法人メリーオーケストラ第40回定期演奏会の時のダイジェストです。毎年2回の定期演奏会、毎月1回の公開練習を2001年から今日まで続けています。
 当初「子供のためのメリーオーケストラ」として発足した当時、私は私立学校音楽教諭として勤務していました。その後「特定非営利活動法人=NPO法人メリーオーケストラ」としての活動を始めました。NPO法人として「定款」があり、理事会や役員、総会など細かい規定があります。理事の代表である「理事長」としての仕事と、当然のことながら「指導責任者=指揮者」としての仕事、さらには「事務業務委託先メリーミュージック」の経営者としてのお仕事を掛け持ちしています。

 多くのアマチュアオーケストラの場合、技術指導はオーケストラから「委嘱」された指導者が行い、運営に必要な事務作業は、メンバーが行います。メンバーの中に「指揮者」がいる場合もあります。
 メリーオーケストラの場合、なぜ?私が「掛け持ち」しているのかと不思議に思われる方も多いと思います。
 一番大きな理由は「メンバー=会員の居住地域と年齢が広い」ことです。
もちろん、相模原市在住の会員が多いのですが、横浜市や町田市、さらに広い地域から集まってきます。年齢も幼稚園児から高齢者まで様々です。子供の場合、成長と共に進学し環境も変わります。大人の場合でも、職業も様々、家庭内での介護などの事情も変わります。そんな中で、一番変わらないのが「理事長」である私の居住地と職業なのです。さらに、多くの賛助出演者=音楽仲間との関係は、私個人からの「ご縁」でつながっているため、会員たちにそれを理解してもらうのはとても困難です。確かに一方では「会員以外の演奏者」なので、交通費をお支払いすれば良い「だけ」とも捉えられますが、私は何よりも「ご縁=絆」を大切にしていきたいと思っています。一度でも、メリーオーケストラの演奏会にご出演いただいた仲間には「ご縁」があるのです。
 私の中学時代の先輩、その先輩からのご紹介、高校・大学時代からの友人、その友人からのご紹介、教員時代の教え子、教え子の子供たちや友人などなど…。本当に音楽の「輪」が広がって今のメリーオーケストラがあります。

 私が毎日のように行なっているメリーオーケストラ絡みの仕事を簡単に箇条書きしてみます。
・毎月の練習と年に2回の演奏会の会場抽選とその資料作成
・練習時の計画と指導スタッフへの連絡
・演奏会(夏・冬)のプログラム決定
・同、賛助出演者の連絡と確定
・同、ヴァイオリンパートの振り分けと席順の決定
・同、楽譜の印刷と配布
・同、練習ごとの弓変更ページの作成
・同、タイムテーブルの作成・舞台配置決定
・同、ホールとの打ち合わせ
・同、賛助出演者への昼食の手配
以下同が延々と続きます(笑)
 自宅でパソコンに向かう作業もあれば、駅前教室で「印刷屋」になることもあれば、指揮台に立つことも時々あります。

 ここ数日、頭を悩ませていたのが次回、第42回の定期演奏会プログラム選曲です。通常、アマチュアオーケストラの選曲は会員が主体になって行いますが、私は「独断と偏見」で一人で決めています。なぜか?それが、私の仕事だと信じているからです(笑)
 メリーオーケストラにとって、選曲は一番難しい作業です。
・毎回その時々で演奏するメンバーの技術と人数が違います。会員が演奏できるか?考えます。
・過去に演奏した曲のデータをすべて見たうえで考えます。
・お客様の立場で、どんな曲を楽しみにされているか考えます。
・賛助出演者の協力を見極めて考えます。
・少ない予算の中で、会員の負担をできるだけ少なくする選曲を考えます。
・私の指揮の能力を考えます(これ、重要)
なので、結局は私が決めるしかないと思っています。
やっと、次回来年1月の演奏曲が「ほぼ」決まりました。
楽譜をすべて「PDF=アクロバットファイル」にして、契約しているサーバーに曲ごとに「アップロード」します。さらに、楽譜ダウンロード用のページ(インターネットの)を自作します。
 実は、この作業で一番「視力」が要求されます。
浩子姫は本当によく手伝ってくれますが、私のパソコン作業を横で見ていると、必ず「なにをしているのか?まったくわかりません!」と申されます。
 少しでも「手数」を減らしたいこともあり、また個人の癖もあるので、見ていて理解するのは無理だと思います。それに、それを誰かにやってもらうための時間と労力がありません。
 私の視力は明らかに落ちています。それは受け入れています。
スコアは読めないし、パソコンの画面は拡大と「ハイコントラスト」で、なんとかしのいでいます。読み上げソフトも使いまくります。それでも、考えながらの作業なので、誰かに頼めない現実があります。
 この作業が出来なくなった時に、メリーオーケストラがどうなるのか?
私にもわかりませんし、決めていません。それも受け入れる覚悟はできています。

 毎回の演奏会が「最後のメリーオーケストラ定期演奏会」になっても、私自身が悔いを残したくないという、わがままな思いがあります。
 学校を辞めたとき、オーケストラメンバーの生徒・顧問が誰一人として、最後の演奏後に声をかけてもらえませんでした。子供たちの「憤り」は理解できました。突然「辞める」と言われたのですから。ましてや中学生・高校生の子供たちです。
最後の演奏が、神奈川県の「上菅田養護学校」でのボランティアコンサートだったのも、私の教員生活の最後として、象徴的なものでした。
 養護学校の教員で、私と同じ「網膜色素変性症」の病気を持った先生から「辞められるんですか…、悲しいです…つらいです」と涙ながらに声をかけて頂いたのが何よりもうれしい思い出でした。その先生と二人で、ボランティアコンサートの実現の為に、勤めていた学校と横浜市に頭を下げ続けました。養護学校の生徒たちが毎年、楽しみに待ってくれていました。
 私が一番、大切にしていた指揮棒を、指揮者コーナーで指揮をした、養護学校の小学生に「あげるよ」と笑顔で差し出せたのも、我ながら偉い!と今更褒めてあげます。

 メリーオーケストラが多くの人にとって「楽しみ」になったことは、私の音楽人生の中で最も誇らしく、うれしいことです。
 「始めがあれば終わりがある」ことが、人間の宿命です。
オーケストラが生き物であると信じているので、いつかメリーオーケストラにも終わりがあると思います。きちんと、幕を下ろすことも私の仕事だと思っています。
 同じ嫌な思いを、二度繰り返さないためにも。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト・メリーオーケストラ理事長 野村謙介


 
 

音楽仲間

 写真は2022年7月10日(日)に撮影したものです。
最初の一枚は、NPO法人メリーオーケストラの公開練習後に撮影した写真。
下の2枚は、その後我が家で撮影した写真です。
 今回のテーマは「音楽仲間」について。

 同じ学校で苦労した友人や、同じ職場で働いた友人を「同じ釜の飯を食った仲間」という言葉で表すことがあります。学校の友人や、趣味で知り合った知人とは「一味違う」仲間です。
 音楽を一緒に練習したり、人前で演奏するための準備をした仲間は、私にとって他のどんな友人とも違う「親しみ」を感じます。
 20年間、同じ職場で働いた「同僚」の中で、一人として今交流がない現実を考えると、あの「学校」と言う場で同じ教員だった人間とは、なにも関りがなかったのに等しい関係だったことを改めて面白く感じます。私が拒絶していたのかもしれません。退職してから一度として、学校からのはがき一枚も来ませんし、教員からの年賀状も退職して18年間で「数枚」と言う恐ろしい事実!まさに、佐多氏がそこに居たことを否定しようとする人たちなのです。私もそれで構いません(笑)ですから、教員時代の「仲間」は一人もいません。

 写真に写っている音楽仲間。ちなみに私の妻も「音楽仲間」の一人です。
中学時代に同じクラブ活動で演奏した音楽仲間と、未だに交友として毎年のように私のリサイタルに来てくれたり、メリーオーケストラ出演などでお付き合いしてもらっています。かれこれ、50年近い交友関係です。
 音楽高校、音楽大学時代の友人や先輩・後輩、職員の方とも未だに親しくしてもらっています。音楽を学ぶ学校ですから、当時の友人たちは「音楽家」になるために勉強していた「学友」であり「ライバル」でもありました。なによりも、音楽という共通の「言語・行動・感動・空間」を共有した不思議な連帯感を感じます。

 音楽に限ったことではないと思いますが、自分以外の人間と、好き嫌いを通り越す「付き合い」ができる関係を持てるのは、とても貴重なことです。
 しかも「我慢」して働いたり、団体の一員=部品の一つとして何かをする「人たち」とは、共感しあえるものはありません。「酒」と「愚痴」だけが共感しあえる関係は「友人」とは言えません。「飲み仲間」と言う仲間がありますが、これは「酒を飲む趣味を共有する仲間」で、職場の愚痴を酒の力で吐き出す「吐き出し口」とは違うと思います。

 上の3枚の写真すべてに映っているのが、高校時代「隣のクラス」だったフルート奏者、I君です。高校卒業後、彼はディプロマコースに進み私は大学に進みましたが、卒業後1度、同窓会で顔を合わせて以来、5月にメリーオーケストラ指導に力を貸してくれるまでの40年ほど、対面することはありませんでした。
 彼は、留学後に日本を代表するプロオーケストラの首席奏者として、長年演奏活動を続けてきました。数年前に退団し、現在は音楽大学や音楽教室で後進の指導をしています。高校時代、同じソルフェージュのクラスだったり、学年11名の男子(女子が89名)の体育の授業の思い出だったり…。
 何よりも、高校卒業してから今日までに、本当に色々な体験をしてきたことを、お互いに語りお互いの話に共感し、60歳を過ぎても昔のままの「関係」があることがとても嬉しいのです。
 音楽を「指導する」立場になった私たちが、今でも「音楽」でつながっていられるのは、ずっと音楽に関わってきたからです。私は20年間、楽器の演奏から離れましたが、その後再び音楽を中心にした生き方に戻れたのも、中学・高校・大学時代の「音楽仲間」がいたからだと思えるのです。
 一人で粋がって(笑)生きるのもその人の自由ですが、仲間と笑って話せることが私には「宝物」です。いつまでも、彼らとの関係を保っていられることを祈りつつ…
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ビブラートとボウイングの個性

 映像は、アンアキコ=マイヤーズの演奏する、エンニオ=モリコーネ作曲「シネマパラダイスより愛のテーマ」です。
 ドイツ人の父と日本人の母を持つアンアキコ=マイヤーズ。
多くのCDがありますが、私は「ボウイングの美しさ」と「ビブラートの柔らかさと深さ」に大きな魅力を感じています。
 演奏家にとって「個性」は演奏技術の高さと同等以上に大切なものだと思っています。ヴァイオリニストの個性は、どんな要素が考えられるのでしょうか>
 音楽の解釈という点で言えば、どんな楽器の演奏者にも共通の「個性」があります。テンポや音の大きさに対する好みでもあります。
 さらに詳細な点で考えると、楽器による違いがありますが、これは演奏者の個性とは言えないと思います。ちなみに彼女は、グヮルネリ=デルジェスの楽器を終身貸与されているそうです。彼女以前には、パールマンやメニューインも使っていた楽器だそうです。楽器の個性を引き出し、演奏者の好みの音色と音量で演奏する技術がなければ、どんな楽器を演奏しても変わりませんから、演奏者の個性だと言えないこともないですね。ただ、どんな楽器を演奏できるか?は演奏者の個性とは無関係です。

 まず第一に「ボウイング=弓の使い方」の個性があります。
楽器の弦を馬のしっぽの毛で擦るだけの「運動」ではありません。弓の使い方にこそ、演奏者の個性があります。つまり「うまい・へた」ではなく、まさしくヴァイオリニストの「声」を決定づけるのが、弓の使い方です。
音量と音色を変化させる技術を、単純に考えると
「弓を弦に押し付ける圧力」
「弓と弦の速度」
「弓を当てる弦の位置」
「弓の毛の量=倒し方」
「弓に対する圧力の方向と力の分配」
「演奏する弓の場所」
になります。たくさんありますね(笑)
まず右手の5本の指それぞれに役割を持たせることが必要です。
親指の位置、柔らかさと強さ、さらに力の角度も重要です。
人差し指の位置と場所によって、親指との「反作用」が大きく変わります。
さらに圧力の方向を、弦に対して直角にする力と駒方向に引き寄せる力の割合がとても大切です。一般に弓の「圧力」は弦に対して直角方向の力だけと思われがちですが、実際には弓の毛と弦の摩擦を利用して「駒方向への力」も必要です。
 弓を倒した状態で単純に弦に直角方向だけの力を加えれば、すぐにスティックと弦が当たってしまい雑音が出ます。しかし、倒した状態で、駒方向に引き寄せる力に分配することで、より強い摩擦を弦と弓の毛に生じさせることが可能になります。
 アンアキコ=マイヤーズが演奏中の弓を見ると、かなり倒れた状態で演奏しているのがわかります。それでも、太く柔らかいフォルテが出せるのは、彼女の「力の配分」が非常に巧妙だからだと思います。
 人差し指以外の中指・薬指・小指が、弓の細かい振動やバウンドを吸収できなければ、弦と弓の毛、スティックの「勝手な動き」をコントロールできません。
 手首、前腕、肘関節、上腕、肩関節、背中と首の筋肉が「連動」しなければ、ただ大きい、ただ小さいだけの音しか出せず、さらに「弦に弓の毛が吸い付いた音」は出せません。上記の要素をすべてコントロールするテクニックがあって、初めて「自分の好きな演奏=個性」が引き出されます。

 次に、ビブラートの個性です。
一般にヴァイオリニストのビブラートは、「あっている音=正しいピッチから低い方に向かって、滑らかに連続的に変化させる」という概念があります。
 以前のブログでも書きましたが、やたらと「細かいー速い」ビブラートで演奏するヴァイオリニストが多く、私は正直好きではありません。確かに「派手・目立つ」のは「高速ビブラート」ですが(笑)
 では遅ければ良いのか?と言うとそれも違います。アマチュアヴァイオリニストのビブラートは「うわんうわん」「よいよいよいよい」と言う表現ができる遅さで、さらに不安定です。「下がって止まる⇔上がって止まる」の繰り返し=階段状の変化もビブラートとしては「未完成」です。
 変化の量=ビブラートの深さも個性です。
演奏する場所=音によって変わりますが、いつも同じ深さのビブラートしかかけられないヴァイオリニストを多く見受けます。また、深く速いビブラートを連続するためには何よりも、手首と指の関節が「柔軟」で「可動範囲が大きい」ことが求められます。下の動画はアンアキコ=マイヤーズの演奏する、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトです。ビブラートの多彩さと柔らかさ、さらに手釘と指の動きが如何に滑らかかよくわかります。

 ヴァイオリニストの個性は、単にうまい?へた?と言う比較では表せません。
むしろ聴く人の「好み」が分かれるのが個性です。
 アマチュアヴァイオリニストでも、プロのヴァイオリニストでもいえることは、自分の演奏にこだわりを持つことと、常に自分の演奏の課題を修正する「努力」を続けることだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の「引き出し」

 映像は、ピアソラの単語の歴史より「カフェ・ナイトクラブ」
タンゴに限らず、日本人には馴染みのない「海外の音楽」はたくさんあります。
ウインナーワルツも私たちが感じる「リズム感」は恐らく形だけのものです。
だからと言って、日本の「民謡」だけを演奏するわけにはいきませんよね。
 演奏する人にとって、技術や知識の一つ一つは「引き出し」だと思います。
その引き出しの数と中身が多いほど、演奏者の「ボキャブラリー=語彙」が増えるように感じます。

 一曲を演奏する時に、必要な引き出しはたくさんあります。
ヴァイオリンの場合、技術の引き出しは「右手」「左手」「身体の使い方」の分類があり、さらに「指」「手首」「関節」「筋肉」「力」「呼吸」などに細かく分かれます。それぞれにさらに細かい「仕分け」があります。
 また知識の引き出しは、「作曲家」「時代」「国や地域」「民族性」「音楽の理論」などの分類があります。さらに演奏しようとする曲と似ている音楽をどれだけ知っているかと言う「演奏した曲=レパートリー」の引き出しも必要です。
 演奏の仕方を考えるうえで、他の演奏家の演奏を知っていることも、大切な引き出しです。
 自分の演奏方法、たとえば音色の「引き出し」が一つしかなければ、どんな音楽を演奏しても、同じ音色の「べた塗り」にしかなりません。まさに「色」の種類の多さです。

 感情の引き出しも必要です。「喜怒哀楽」と言う4つの大きな引き出しの他に、怒りを感じる悲しさ、微妙な嬉しさなど、複雑な感情の引き出しがあります。音の大きさが無段階であるように、感情にも複雑で繊細な違いがあります。
 一つの音を演奏する間にも、音色・音量は変えられます。言葉にするなら「単語」にあたる音楽の「かたまり」を見つけられる技術の「引き出し」も必要です。
 人間をコンピューターに例えることは無謀なことですが、人間の記憶という面で考えれば、コンピューターにも同じ「記憶メディア・記憶容量」と言う考え方があります。
 また瞬間的に考えたり反応する速度は、コンピューターの世界では「処理速度」で表され、その速度が速いほど複雑な計算を短時間で処理できます。
 人間が手足を動かす「命令」を脳が出すことを、ロボットに置き換えると、なによりも「手足」にあたる「機械=アスチュエーターの性能がまず問題です。
そして、脳にあたる「CPU=中央演算装置」から部品に電気信号が送られます。
 速く演奏することは人間にとって難しいことですが、機械にとっては一番簡単なことの一つです。一方で、人間が無意識に行っている「なんとなく」と言う事こそが、コンピューターにとって最大の壁になります。多くの情報を基に、過去の失敗や成功の結果を「記憶」から検索し、最も良いと思われる「一つの方法」を見つけるためには、私たちが使っているような「パソコン」では不可能なのです。
 ご存知のように、将棋やチェスの「コンピューターと人間の対決」で、この頃はコンピューターが勝つことが増えてきました。これは膨大な「過去のデータ=引き出し」をものすごい速度で検索し、最善の手をコンピューターが選べるようになったからに他なりません。
 音楽をコンピューターが「選んで」演奏する時代が来るかもしれません。
感情と言う部分さえ、データ化されている時代です。「こんな音色と大きさで、こんな旋律・和声を演奏すると人間は悲しく感じる」という引き出しを、いくらでも記憶できるのがコンピューターです。しかも一度入力=記憶したデータは、人間と違いいつでも、最速の時間で呼び戻されます。
 人間の人間らしい演奏。その人にしかできない演奏。それこそが、最も大切な「引き出し」です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシックコンサートに演出は必要か?

 映像は、私の大好きなヴァイオリニスト「アンアキコ・マイヤーズ」」の演奏です。優しい音色なのに力強さを感じ、ビブラートの柔らかさにも惹かれます。
 さて、今回のテーマは「クラシックコンサートの演出」についてです。
 ポップスのライブでは演奏するアーティストの「動き」や曲間の「トーク」にもクラシックと違うこだわりが感じられます。また、舞台の照明、音響効果もクラシックとは大きく違います。もちろん、聴衆の聴き方=楽しみ方も違います。期待するものの違います。「どちらが良い」と言う比較ではありません。むしろ、クラシックのコンサートに「演出」は無くても良いのか?と言うお話です。

 「クラシックは演奏だけ聴ければ良い」と決めつけるのは簡単ですが、必ずしもそうではありません。
・プログラムが演奏前に配られる。
・演奏開始の前にベルやアナウンスがある。
・演奏が始まると客席の照明が暗くなり、舞台の照明が明るくなる。
・演奏者が出てくると、拍手が起こる。
・曲がどこで終わっているのか?わからなくても誰かが拍手してくれる。
・演奏中は、客席でじっと動かず、音をたてない。
・前半が終わると、演奏者が舞台から舞台袖に下がる際に拍手する。
・休憩になると照明が開演前の状態に戻る。
後半がお合わると、なぜか?演奏者は袖に下がるが、必ずアンコールがあることを聴衆が知っているにもかかわらず、何度も袖に下がる。
・アンコールがもうないことを、照明が戻ることで知らせる。
 もちろん、多少の違いはありますが、クラシックコンサートの多くは、およそ上記の「進行」です。これ、誰が決めたんでしょうね?なぜ?右に倣え!みたいに同じなんでしょう?違ってもいいのではないでしょうか?

 見る人、聴く人を引き付ける技は、演奏の姿と音にも含まれています。
「大道芸」「手品」など、人を驚かせたり笑わせたりする「芸=技」を極めた人たちは、ただ単に技を見せるだけではなく、言葉や音や動きを組み合わせてみている人を魅了します。舞台芸術は当然、演ずる人と裏方で舞台を支える人たちの「技=術」で人をひきつけます。落語や漫才も、歌舞伎や文楽もそうですね。
オペラやミュージカルは、まさに音楽と演技・演出の総合芸術です。

 クラシック音楽の中で、もっとも大きな編成のオーケストラから、無伴奏やピアノ独奏など「ひとり」だけで演奏するものまで、演奏形態は様々です。
 言うまでもなく「音楽を聴く」ことが主ですが、多くの場合客席からは「演奏者を見て楽しむ」一面もあります。演奏する人の「衣装」や「動き」演奏者が近ければ「表情」まで観客の興味は及びます。
 クラシック音楽で演奏者と聴衆の「衣装」は、時代や場所で変わります。
社交場としての意味のあった時代、ヨーロッパでは会場で演奏を聴く人にも「ドレスコード」がありました。男性はタキシード、燕尾服。女性はロングドレス。
当然演奏する人にも「礼装」が求められました。
 現代のクラシックコンサートを見ると、ソリストが形式にとらわれず自由な衣装で、演奏のしやすさも重視したものに変わりつつあります。それを良しとしない人もいるのも理解できます。
 音の面で考えても、音響装置=PAを使ったクラシックコンサートもあります。
屋外に巨大なテント=屋根と舞台を作って演奏するオーケストラコンサートもあります。また、屋内の会場でも広すぎたり、客席の後方で音が聞こえない場合などにも、補助的に音響=拡声装置を使うことも珍しくありません。
ヴァイオリニストがワイヤレスのピンマイクを衣装に「仕込んで」演奏することもあります。見た目には収音用のマイクがなくても、会場内のスピーカーから楽器の音が聞こえる時には、どこかにマイクがあって音が増幅されていることになります。
 照明で考えると、舞台全体を明るく照らす照明もあれば、演奏者の周辺だけを明るくする「エリア照明」も普通になりました。考えればその昔、クラシックの演奏会で「スポットライト」自体がなかった時代から続いている音楽です。
 クラシックのコンサートで「スモーク」や「ストロボ」を使うことは「まだ」ありませんが、そのうちに当たり前になるかも知れませんね。現実に、舞台上の巨大なスクリーンにプロジェクターで作曲家やソリストの画像、映像を映し出すコンサートは実施されています。

 演奏者の「音楽」を邪魔しない演出が大前提です。
ましてや、音楽より「表情=演技」「衣装=露出度」になれば、それは「コンサート」ではなく「ショー」もしくは「見世物」だとしか思えません。
自分が好きな衣装を身に着けて演奏する「演奏家」はあり得ても、「演奏より見た目」を重視するのは、演奏家ではなく「芸人」です。
 以前にも書いた「ヴァイオリンをひける芸人」は、演奏家ではなくあくまでも「芸人」です。
コンサートの演出も、音楽を気持ちよく聴くことを目的にした演出があって良いと思います。演奏時間、間のとり方、休憩時間のくつろぎ、適切な音響と照明などは、演奏者とスタッフの共同作業がなければ成り立ちません。
 最後に「撮影・録音」のために必要なセッティングは、客席で音楽を聴いている人が不快に感じないようにするのが鉄則だと思います。カメラもマイクも録画・録音には無くてはならない機器です。目的が何であっても、お客様側も演奏者側もお互いに「理解しあえるセッティング」が大切です。録音用のマイクを客席の身だたない場所に設置したのに、「邪魔だ!」とばかりに足で動かす来場者は、明らかにマナーに反しています。そんな権利はありません。
演奏者も来場者も「音楽を共感する」空間がコンサートだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

性格と音楽

 映像はメリーミュージック駅前教室で行った「ワンコインコンサート」で演奏した、カッチーニ作曲のアヴェ・マリア。ヴィオラとピアノで演奏しています。
 さて、今回のテーマは人それぞれに違う「性格」と音楽の関りについて。
自分の性格が「どんな?」と考えたこと、ありますか?
他人の性格は、行動や表情、言動から感じるものです。その本人が感じている本人の性格とは違う場合もあります。一緒にいる時間が長い人ほど、その人の性格を感じる場面があります。家族や同じ職場の人、友人など。
 自分の感じる自分の性格は、他人と比較しない限り「普通」に感じているものです。たとえば、待ち合わせの時間に「5分」遅れることが、許せない人もいれば、そのくらいなら…と思う人もいます。「え?5分ぐらい仕方ないでしょ?」と思う人は、5分でも送れるのが嫌な人と自分の違いを初めて感じます。
 性格を表す時に使われる「分類」
1.ポジティブ(楽観的)⇔ネガティブ’(悲観的)
2.のん気⇔短期
3.おおざっぱ⇔几帳面
4.外交的⇔内向的
5.行動派⇔慎重派
6.積極的⇔消極的
7.寛容⇔厳格
8.強気⇔弱気
などなど、ほかにも考えられますが色々な「性格の違い」があります。
 上記の中で、いくつかを組み合わせるともっと性格がはっきりします。
試しに、左側だけを並べると以下のような「人」になります。
ポジティブでのん気、おおざっぱで外交的、行動派で積極的で強気
なんとなく、「元気で明るい人」に感じますね。
逆に右側だけ選んで並べると…
悲観的で短気で几帳面、内向的で慎重派、消極的で厳格で弱気
この人「ネクラで付き合いにくい人」に感じませんか?
(笑)

 では、性格と音楽はどんな関係があるでしょうか?
まず「練習」の段階で性格によって、何が違うでしょう。
自分の演奏に「こだわり」が強い人は、恐らく「几帳面」で「厳格」なタイプではないですか?その上に「悲観的」と「短気」が加わると、すぐにイライラします。できるまで繰り返す人は「積極的」「寛容」な面がありますよね。
逆に、なんとなくぼんやり音楽を楽しんで練習する人は
「ポジティブ」で「のん気」「おおざっぱ」で「寛容」なタイプ。
人によって性格は様々です。自分の練習方法を冷静に観察することが、まず第一です。練習方法も人それぞれですから「正解」はありません。
 日常生活で気付かない自分の性格が、練習の効率を下げている可能性もあります。特に練習時には「短気」は禁物です。「うまくならない」と思い込むのは「悲観的」で「短気」な人が多いようです。

 
 人前で演奏する時に、あがる=過緊張になる人は「悲観的」「消極的」で「厳格」「弱気」な人が多く見られます。
 演奏に個性があるのは素晴らしいのですが「癖」に感じる演奏をする人は、
「強気」で「厳格」「内向的」な人に感じます。
 音楽を聴いていると、その人の性格を感じることがあります。
自分の演奏にこだわりを持ちながら、聴いている人を楽しませ、謙虚な気持ちを感じる演奏家と、その「逆」の演奏をする人がいるように感じます。
それが「性格」でないとしたら、ほかに原因があるでしょうか?
「うまく弾きたい」と思う気持ちの強さは性格で変わります。
他人から評価された自分の演奏を、どう受け止めるかも性格次第です。
他の演奏者と協調できるか?も性格です。他人のせいにするのも性格です。
「性格が悪い」と言う悪口があります。実際には悪いのではなく、多くの人に嫌われる性格だったり、自分の嫌いな性格のことです。
性格を変えることは、本質的には無理かもしれません。でも、音楽を演奏するのであれば、自分の性格の「欠点」「改善点」を謙虚に見つめることが必要です。
 人の性格は、「話さず」「目立たず」「人に会わない」なら誰にも知られません。音楽を演奏する「行為」は、自分の感情を人に伝えることです。性格は隠せません。だからこそ、自分の性格を考えることが大切だと思うのです。
他人に言われると腹が立つ!のであれば、自分で考えるしかないのです。
「普通」「当たり前」「それしかできない」と思い込まずに、自分を改善する気持ちを持ちたいですね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

音楽とコストパフォーマンス

 映像は「踊る人形」。デュオリサイタル14での演奏です。
25年間の長い不況が続く日本は今、国民の「貧富の差」がますます大きくなっています。大企業とお金持ちに貧しい人が収めるお金が流れ込む悪循環。
私たち音楽を仕事にする職業は、とかく「お金と縁遠い」と思われがちです。
その話は以前のブログでも書きましたが、今回は音楽=音楽家の「コスパ」について考えてみます。「芸術をなんと心得る!」とお怒りにならず(笑)最後までお読みくださいませ。

 日本で暮らす音楽家の中にも「貧富の差」はあるのが当たり前です。
それを否定する気はありません。自由に競争する社会です。「勝ち組と負け組」があるのも現実です。音楽を「商品」として考えることに抵抗があります。特にクラシック音楽は「伝統」を受け継ぐものでもあり、芸術・文化に「お金」と言う概念がそぐわないと言う考え方も理解できます。
 とは言え現実に、形のある美術作品・芸術作品には「価格」があります。
演奏に必要な楽器にも「20億円」という価格が付いています。スタインウェイのフルコンサートピアノと、国産のアップライトピアノの「価格差」も歴然としてあります。
 では目に見えない「無形」の芸術や文化に「価格」はあるのでしょうか?

 演奏したり人に演奏技術を教えたりする「職業」を考えると、サービス業と言う職種が最も近いと思います。「おいっ!」とここでもお怒りになられる方もおられますよね。では、演奏家だけは「特別な職業」で、同じように身に着けた技術で生活する「スーパーの店員さん」はサービス業ですか?それって差別だと思います。人に技術を教える人を「先生」と崇め奉る呼び方をしますが、なぜかお医者さんも「先生」で、人間のくずのような政治家も「先生」と呼ばれます。大変に光栄なことで、あの政治家と同じように呼ばれるくらいなら「くん」か「さん」で呼ばれたいと思っています。あれ?話がそれました。
 演奏やレッスンで「対価」を頂く職業でありながら、多くの演奏家や教室講師は「非正規雇用」なのが日本の現状です。「ひせいき?ってなに?」と言う演奏家が多いのも日本人、特に音楽家が如何に政治に興味関心がないかの象徴です。
 大学やオーケストラ(多くは社団法人)に「正規雇用」されている音楽家は、コストパフォーマンスについて考えないでも「給与」や手当てがもらえます。適当に手を抜いてもばれなきゃオッケー!一生懸命演奏しようが、テケトーにチャラビキしようが給与は同じで、定年まで働ける。給与が安くても、手を抜けるしバイトすりゃいいので文句も言わない音楽家、いませんか?(笑)

 私は20年間「正規雇用」の教育職員=学校の先生と言う職業に就いていました。同じ職場の教員の「能力」が違おうが「熱意」が0度と100度以上に違おうが、俸給は「年齢」で決まるので無関係。副校長は一等級、校長は徳一等級、「ヒラ教員」はみんな二等級。あとは手当が違うだけ。それが「先生」でした。
 今、自分の小さなメリーミュージックという「会社」を経営し、NPO法人メリーオーケストラの「理事長」と言う肩書ですが、なんと!どちらの法人からも、「役員報酬」を頂けない状況です。それが現実です。会社に貸していたお金を「返してもらう」ことで家のローンや生活費をひねり出すにも、もう限界です!って笑い事じゃないです。
 「じゃ、教員が良かった?」と聞かれれば、絶対に嫌です!と言うテーマも以前書いたような気がするのでストップ(笑)

 「演奏と指導の対価」について、標準的な演奏技術・時間や標準的な指導技術・時間、さらにその技術と時間に対する標準的な「価格」があるでしょうか?
 ●演奏技術が高いか低いか?標準的か?の「審査の基準」がそもそもありません。コンクールの結果は一時的なものでしかありません。
 ●レッスンの内容が標準的か?標準以上・以下?と言う基準もありません。
スマホを見続けてレッスンを終わる先生がいても、レッスン技術とは無関係とされます。
 ●演奏家・指導者の「標準的な労働時間」はありません。ましてや「準備=練習」に費やした時間と労力に対しての「評価」さえありません。当然「対価」も支払われません。

 1曲をコンサートで演奏するために、演奏者がかける時間は人によって違います。数時間で終わる人もいれば、何カ月もかける人もいます。それは聴く人には「関係ない」ことです。
 その部分だけを「演奏家の立場」で考えれば、練習=準備の時間を短くする方が「コストパフォーマンスが高い=良い」と言うことになります。
 一方、聴く人・習う人=お客様にとっての「コストパフォーマンス」は、支払ったお金に対して、演奏やレッスンの内容と時間が「納得できる」かどうかで決まります。極端に言えば、無料のコンサート、無料のレッスンであれば「全然納!納得できない!」ものでも我慢するしかありません。
 では、コンサートのチケット代金、レッスンの単価によって、コストパフォーマンスが決まるか?と言えば「人によって、まったく違う」のが現実です。

 先述の通り「基準」がありません。1時間、演奏を聴く・レッスンを受ける対価として「1,000円」が高いと思うか?安いと思うか?さえ人によって違います。
もちろん、その人が違う演奏やレッスンで、同じ「1時間=1,000円」を体験していれば、どちらのコスパが高い=良いか判断できます。条件をそろえて、比較するものがなければ、コストパフォーマンスが出せないのです。

 人によって大きく異なる「コスパ」は、比較の使用がありません。
だからと言って、生活するのに必要な「最低限の金額」は大きく変わらないのです。フリーランスや自営の音楽家が、月に1万円の収入で生活できるか?無理です。少しでも演奏の準備にかける練習=時間を少なくしてコスパを上げたい!と思っても、コンサート=お仕事がなければ、収入はゼロです。コスパ以前に、生活できません。では!コンサートのチケット代金を「無料」にすれば!会場費だけで、数万~数十万円のお金は誰が払うのでしょうか?無理です。
 路上ライブ!で生活できる人はいません。いたとしても数名です。
音楽家が生きていくための「お金=出費」が少なければ、収入が少なくても生きられます。物価がどんどん高くなり、税金がどんどん高くなる。「え?税金、あがったの?」毎日毎日払っている「消費税」って税金なんですよ(笑)ガソリンに至っては、ガソリン税に消費税がかかってますけど知ってます?
 給料「さえ」25年間、上がらない日本で「非正規雇用」「自営業者」の収入が増える?わけがありません。コンサートチケットを買える人が減りました。レッスンを受けられる人が減りました。楽器を買える人が減りました。当たり前です。国民のほとんどが「生活が苦しい」からです。私たちもその一人です。
 音楽家が生き残れるとしたら、日本の景気=消費活動を取り戻すしかないのです。原因は?はっきりしています。25年間、政治の失敗を「見てみぬふり」してきた国民が悪いのです。もちろん!今の政権を持っている「与党とその一味」が一番悪いのは言うまでもありません。でも、「野党はダメだ」「誰がやっても同じだ」「保守なら自△党だ」という間違った考えが、その政治家たちをのさばらせたのです。
 音楽家も「国民の一人」ですよ!18歳以上の「音楽家」が今すべきことは?
賢明な音楽家ならお判りでしょう。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介