音楽にまつわる「うそ・ほんと「

 音楽を演奏したり教えたり、広めたりする活動をしてきた私が、常日頃、出くわす、音楽にまつわる話の中にある、間違った情報「うそ」と真実「ほんと」について。
 動画は子供たちが主役のNPO法人メリーオーケストラを紹介するものですが、この活動や下の動画、私が経営する小さな音楽教室メリーミュージックでの生徒さんたちを見て頂くと、どんな印象を持たれるでしょうか?

  おそらく「趣味の音楽って楽しそう」という率直な感想を持たれる方が多いのではないでしょうか?それは間違いなく「真実」です。
 音楽を趣味にすることは、私の知る限り最高の楽しみの一つだと信じています。それでも、中には「才能がないと上手にならない」という間違った先入観を持っている方もいらっしゃいます。また「裕福な家庭でないと音楽は習えない」という思い込みもあります。

プロの音楽家はお金持ちという嘘

 これは一番多い間違いかも知れません。世間一般で「音楽家」と言う職業は「特殊な人種」として扱われることがあります。理由は様々ですが、先ほどの「特殊な才能がある」と言う思い込みや、「楽器が高いのだからお金持ちに違いない」
さらには「テレビで見る音楽家はおしゃれで外車に乗って現れる(笑)」と言うイメージなどなど。
 確かに一部の音楽家は「お金持ち」と言って良い収入を得て裕福と言える生活をしています。それは、ほんのごく一部!ほんの一握りの人たちだけです。
多くのプロ音楽家は、そのような「有名人」とはかけ離れた生活をしています。好きで選んだ職業なので、嫌なら違う職業に転職すれば良いだけです。
ですから、私は音楽家が貧乏だからと言って「可哀そう」と同情する必要はないとも思いますが、現実を知って頂きたい気持ちはあります。さらに、国や自治体が文化芸術にお金を出したがらない!と言う「民度の低さ」が一番の問題です。

裕福な家庭じゃないと…と言う嘘

 これも、良く言われます。「きっとお父様やお母様が音楽をなさっていたのですね」とか。露骨には言われませんが、きっと裕福な家庭で育った「おぼっちゃま」「おじょうさま」ばかりだと思われていますが、これも「大嘘」です。
 例外的にそういう方もいますが、どんな世界にもいるのと同じ割合です。
私の家庭は、父が銀行員、母は専業主婦という、いたって普通のサラリーマン家庭でした。資産家の家計でもなんでもなく(笑)、社宅暮らしがほとんどでした。音楽高校でも周りの友達は、ほとんど私と同じ環境の「普通の家庭の人」でした。むしろ、厳しい経済状況で、地方から単身上京し、風呂なし・トイレなしの6畳一間のアパート暮らしの友人がたくさんいました。それが当たり前でした。

クラシックにしか興味がないと言う嘘

 クラシック音楽を専門にしているから、普段から…いいえ。
人によってはそういう方も、いるかもしれませんが、私の音楽仲間の多くは違いました。ジャズ大好きなチェリスト、なぜかジュリー(沢田研二)とクイーンとロッド・スチュワート大好きなピアニスト(私の妻、H子さん)
 なぜか、法人女性歌手(中国人か!)ようするにアイドルや、女性シンガーの歌が大好きなヴァイオリニスト(今、これを書いている人)などなど。
 クラシックも聴きます。好きですが、いつも聴いているわけではありません。
むしろ、聴いていると「分析する」聴き方をしてリラックスできないという人が多いですね。

変わった人がいるという真実(笑)

  えーっと。確かに私から見ても、やや?だいぶ?普通の人と考え方や、行動パターンが違う音楽家「も」いるのは事実です。ただし、そうでない「私を含めた」音楽家の名誉のために申し上げますが、一般常識をもって普通の日本人として行動する人がほとんどです。
 おそらく、自分の好きなことに打ち込んで、「お金より音楽」と思う音楽家ほど、どこか…その…面白い性格になるようです。ただ、悪い人はいないのです。
人に危害を加えるような人はいません。
 プロなのに、ぼろぼろのヴァイオリンケースで楽器を持ち歩く演奏家。
 オーケストラの安い給料のほとんどを、レコードを買うことにつぎ込む演奏家。
 ひたすら楽器を買い替え続け、自己満足に浸る演奏家。
 掃除機の音ををステージで鳴らし、楽器として扱う作曲家。 
ちょっと、怖いでしょうか?(笑)

音楽家は人嫌いという嘘

 ステージで怖い顔をして演奏している演奏家でも、話をしてみると案外「明るい普通の人」がほとんどです。中には、ステージ降りても怖い人もいますが。
ただ、普段一人で黙々と練習することが多いので、人と会話をするのが下手な演奏家が多いのも事実です。だから?なのか、ただ演奏してお辞儀して演奏会を終わる人には、個人的に違和感を感じています。お客様に媚びを売るわけではなく、人として接することも必要だと思っています。

音楽家は漢字を書けないという真実

 これは私だけなのかも知れません。すみません。
いや、高校時代の同期男子は全員、現代文のテストで追試を受けていたので、恐らく真実です。
 なにせ、音楽高校の入試は、一般科目にかかるウエイトが低い。というより、私のころは無いに等しかったのです。授業も単位が取れれば良い。単位は、総授業回数の3分の2出席していれば、テスト0点でも単位が取れました。
 大学でも同様でした。なので、私「と同期の男子」の一般科目学力、特に漢字能力は「中学卒程度」で、しかも字を書かない生活でしたので、それは恐ろしいものでした。
 誰とは言いませんが、同級生のヴァイオリニスト「K君」は、卒業後年賀状の宛名に「野村 嫌介 様」と書いてくれました。素敵な男です。
 私は、中学校・高校で20年間、音楽の授業を担当しましたが、音楽理論の授業で黒板に「旋律短音階」と書こうとして、せんりつ…せんりつ…
だめだ!と思い、「メロティック短音階」と板書してその場をやり過ごしたトラウマがあります。生徒たちはノートに書き写していました。懺悔します。

終わりに…

 最後までお読みいただきありがとうございました。
音楽家という生き物、少し理解していただけたでしょうか?
これから音楽家を目指す人や、若い音楽家が「みんな」こうだとは思っていませんが、少なくとも私たちは、普通の人間です。ほとんど人畜無害であり、無芸大食です。どうか、皆様に暖かい目で見て頂ければと、思っております。


ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

譜面のやさしさと演奏の難易度

 一般に長い音符が多かったり、テンポがゆっくりの音楽は演奏が簡単だと思いがちです。確かに前回のブログで書いたように、テンポの速い音楽を演奏することは初心者にとってとても大変なことです。上の動画はリサイタルでの演奏動画です。アルヴォ・ペルト作曲した「鏡の中の鏡」は聴いての通り、ヴァイオリンは常に長い音を演奏し続け、ピアノは同じリズムで淡々と演奏し続けます。
 一方でクライスラーの作曲した「コレルリの主題による変奏曲」は、16分音符の連続やトリル、重音の連続があるため、初心者にとって難易度が高く感じます。聴いていてもどちらが難しそうに感じるか?という事で言えば、クライスラーの曲の方が派手で、難しそうに聞こえるのが自然です。

 アマチュアの人が楽譜を音にする「だけ」なら、ゆっくりした曲・同じリズムが繰り返される曲のほうが演奏しやすく感じます。
 おそらくプロの演奏家にとって、どちらが難しいですか?と聞けば多くの人はアルヴォ・ペルトが難しいと答えるのではないでしょうか。
 一言で言ってしまえば「粗が出やすい」という事です。もっと言えば、演奏者の技術があらわになるとも言えます。

 音楽的な表現もさることながら、弦楽器、管楽器、声楽の場合に長い音を演奏することは基本的な演奏技術である「ロングトーン=長い音」の技術があげられます。弦楽器の場合、弓の長さいっぱいに、出来るだけゆっくり動かしながら、音の大きさと音色を均一に弾くことは、本当に難しい技術です。
 特に弓の速さと圧力の関係を、腕が伸びた状態=弓先でも、腕を曲げた状態=弓元でも同じようにコントロールすることは、至難の業です。簡単そうに思えますが、ただ音が出ればよい…のではなく、必要な音量を維持しながら、震えたり、かすれたり、つぶれたりしないように音を出し続ける集中力も必要です。
 例えていえば、刷毛を使って、看板に文字や絵を描く職人さんがいます。
下絵もなく、ガイドラインもなく、一回で書き上げていきます。あの集中力は見ていてうっとりします。
 身近な例えで言えば、筆で同じ太さのまっすぐな直線を書こうとしたら…
難しいことは
想像できますよね?それに似ています。

 速い音楽、言い換えれば短い音の連続した音楽を演奏する場合、弦楽器では右手と左手の運動の連携が最も難しい技術かも知れません。もちろん、アマチュアの人にとって…の話です。右手左手を、ある時は分離して動かし、ある時は同期させて動かすことは、慣れが必要です。以前にも書きましたが、一つの運動に集中すると他の運動は、無意識で運動することになります。両手をコントロールするためには、片方の手に集中しないことです。頭を空っぽにするのではなく、音をイメージして両手ともに「無意識」で動かせれば、分離も同期もできます。

 ぜひ、ゆっくりした音楽を丁寧に演奏する練習を繰り返してください。
もちろん、速い曲の練習も必要ですが、基本は長い音を綺麗に弾けることです。
右手一生。そう思って頑張りましょう!

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽譜の進む速さ

 上の映像は、ボロディン作曲のオペラ「イーゴリ公」の中の一曲「ダッタン人の踊り」から。8分の6拍子。プレスト。譜面には付点四分音符=100(一分間に100回)つまり、1小節1秒ちょっとの速さと書かれていますが、映像の冒頭部分プロオーケストラの演奏はそれより、ずっと速いテンポです。
 画像はファーストヴァイオリンのパート譜。音を聴きながら楽譜を見て、どこを弾いているか見つけられれば、あなたはかなりの上級者です。普通は絶対に見つけられません。それが普通です。はやっ!!!

 その後、メトロノームとパソコンの音で少しゆっくりした演奏と同じ楽譜。
いかがでしょうか?どこを弾いているか?お判りでしょうか?
この楽譜はファーストヴァイオリンのパート譜です。
オーケストラでは、ピッコロ・フルート・オーボエ・コールアングレ・クラリネット・ファゴットの木管楽器。ホルン・トランペット・トロンボーン・チューバの金管楽器。さらにハープ。ティンパニ・バスドラム・シンバル・タンバリンなどの打楽器。ファーストヴァイオリン・セカンドヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスの弦楽器。これらの楽器が同時に演奏することもあれば、どれかひとつだけの場合もあります。
 自分が演奏するだけの楽譜が「パート譜」です。すべての楽器の楽譜を縦に積み重ねて書いてあるのが「スコア」です。指揮者はスコアを見ながら指揮をします。スコアは時によって、1ページに数小節しか書けないこともあります。どんどん次に進む…。大変です。

 動画最後に、もっとゆっくりの演奏になります。
1分間に付点四分音符60回。1小節2秒の速さです。それでも追いかけるのは大変ですよね。ましてや、これを演奏するのですから…。
速い曲を練習するために、楽譜を読むトレーニングが必要です。
CDなどの演奏を聴きながら、楽譜を見る練習をすれば、次第に慣れていきます。それでも速くて追いつけない時は、ゆっくり聞きながら読むことをお勧めします。

 本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

楽譜・曲・演奏

上の動画は、J.S.バッハ作曲 無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番よりアダージョの冒頭部分だけを、Youtubeで拾い集めてつなぎ合わせたものです。どれがどなたの演奏かは気にしないでください(笑)
 この楽譜をバッハが手書きで書いたものから、現代のパソコンで作られたものもすべて「楽譜」と呼ばれます。
 その楽譜を演奏者が音にすることが出来るのは、当時から楽譜の約束が現代まで変わっていない=伝承されているからです。考えたらすごいことですよね。

 さて、楽譜を音にすることが出来るから昔の作曲家の書いた曲を、今演奏できるわけですが、同じ楽譜でも演奏する人の個性があります。楽譜に書いてあることの中で、最低限守らなければいけないことがあるとすれば、音符の高さと長さ、休符の長さの2種類になると思います。もちろん、強弱記号、発想記号も大切な要素です。音楽として「最低限」変えてはいけないものがあるとしたら、この2種類になると思っています。
 現実に、動画の中の演奏を聴いていると、全く同じテンポ=速さで弾いている演奏はありませんし、音符の長さも様々です。強弱に至っては本当に人それぞれです。録音されたものですから、音色や音量が違って当たり前です。それを差し引いて聞いても、演奏者の個性が感じられると思います。

 作曲者本人が自分で演奏する場合もあります。その場合、その都度違った演奏をすることもよく見受けられます。ポップスでも「あるある」な話です。
 楽譜に書いてあることは、作曲者の表現したい音楽です。ただ、それを世に出し様々な人が演奏できることになった場合、作曲者の「思い」は演奏者の解釈に委ねられます。簡単に言えば、演奏者の感性で楽譜を音にすることになります。
 演劇や映画などでも同じようなことがあります。台本、脚本があり演者がそれを表現する時、演者によって作品は大きく変わるものです。

 演奏者が楽譜を音に出来ないケースは多々あります。
それを「能力が低い」とか「努力が足りない」と切り捨てるのは簡単ですが、演奏の能力と楽譜を音にできる能力は、全く違う能力です。美空ひばりさん、小椋佳さんは楽譜を音に出来なかったそうです。それでも素晴らしい演奏者だと思います。

 曲を作る人の感性と演奏する人の感性。さらに聴く人の感性。
すべてが違うのが自然です。だからこそ、演奏する人間は、自分の感性を大切にするべきです。誰かの演奏を「まる」っと真似をするのではなく、自分の頭で考え感じた音楽を表現するための努力が必要です。
 作曲者の書いた楽譜、曲を自分なら、どう?演奏するかを考えることは、作曲した人への敬意につながると思います。
 とは言え、自分の演奏技術の中で出来ることに「限界」を先に感じてしまう人も多いのが現実です。プロの演奏を色々聴き比べたり、Youtubeでアマチュアの演奏を聴いてみても自分の「できそうなこと」がわからないのは、ごく当たり前のことです。なぜなら「出来ることとできないことの違いが判らない」のですから。上手に弾いている人の演奏を聴くと、何が?どう?自分と違うのかが言語化できないのは、知識として演奏に必要な技術をまだ知らないので仕方のないことです。
 例えていうなら、家を建てるために必要な知識と技術を知らない私たちにとって、なにから始めれば家が建つのか?わからなくて当たり前なのと似ています。
 おいしいと思う料理のレシピを知らなければ、同じ味を出すことは不可能です。さらに、レシピがわかっても失敗の経験を重ねなければ、その味を再現することは無理でしょう。音楽も同じだと思います。いくら練習方法「だけ」を知っていても、実際に失敗を重ねながら根気よく練習しなければ、目指す演奏に近づくことはできません。
 楽譜を料理の「素材」あるいは「レシピ」に例えるなら、演奏する人は料理人です。素材とレシピを基に自分で試行錯誤しながら、自分の美味しいと思う料理が出来るまで失敗を重ねて初めて、理想の味にたどり着けるのではないでしょうか。
 レトルト食品のように、簡単にプロの味を再現できる「音楽」は、録音された音楽を聴くことです。自分で料理する楽しさが、演奏する楽しさです。
 人によって好みの味が違うように、音楽にも好みがあります。
他人が美味しいと言っても自分の舌には合わないこともあります。
自分の好きな演奏を出来るのは、演奏するうえで最大の楽しみのはずです。
インスタントに出来るものではありません。だからこそ、失敗にくじけない「根気」が不可欠です。最初から諦めるなら、レトルト食品で満足する=他人の演奏を聴くことに徹するしかありません。

 個性は決して突飛なことをする事でもなく、人と違うことをする事でもありません。自分の好きな音楽を模索し続け、自分が楽しめる演奏をする事こそが個性だと思います。まずは、他人のレシピで色々試し、自分に足りない技術を探し、出来るように練習し、また違うレシピを試す…その繰り返しが、個性的な演奏に繋がり、延いては自分の演奏技術を高めることになると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリンの基礎練習?

 映像は2002年1月のメリーオーケストラ第1回定期演奏会。ふるさとを演奏する子供たちとプロの演奏家仲間です。
 今回のタイトルに基礎練習「?」とわざわざクエスチョンマークを付けたのには理由があります。Youtubeでこの言葉を検索をすると、山のように動画が見つかります。すべてを見たわけではありません。ただ、私に独自の考え方があるので、そのことについて書きます。

 たとえば、家を建てる時に基礎を作ります。
基礎だけでは人が生活することは出来ません。基礎の上に建物を作るためにあるのです。
 ヴァイオリンの基礎練習。何のために?基礎を作るのでしょう。
そもそも、ヴァイオリンの基礎とはどんな技術の事を言うのか?実は明確な定義はありません。むしろ、人によって基礎と思うことが違うのが当たり前です。
「基礎の練習をしないとうまく弾けない」とか「難しい曲を弾けるためには基礎が必要」とか。実にあいまいな言葉です。

 メリーオーケストラで演奏している子供たちは、演奏を楽しむために集まった子供たちです。決して練習するために…とか、上手になるために集まった子供たちではありません。演奏を楽しむために必要になる技術は、本当に様々ありますがざっくり言えば「弾ければ楽しめる」のです。しかも、誰かと一緒に弾くことは、ヴァイオリンという楽器の特性でもあり、ピアノと違う「合奏することを前提に作られた楽器」でもあるのです。一人で悶々(笑)と音階と練習曲と伴奏抜きのコンチェルトソロを練習しても、楽しいと思えないのが当たり前です。
 ピアノは一人で演奏を完結できる曲がほとんどです。ヴァイオリンは違います。無伴奏の曲はごく一部です。ヴァイオリン以外の楽器や何人かのヴァイオリンで一緒に演奏することが、本来のヴァイオリンの楽しみ方と言っても言い過ぎではありません。
 つまり「一緒に演奏する」ことが「建物」であり、その演奏の幅を広げるために必要になる技術が「基礎」だと思っています。

 極論すれば、一緒に演奏しながら上達できるなら、自然に基礎練習もしていることになります。事実、20年間、部活動オーケストラの練習で「基礎練習」は行いませんでした。メトロノームに合わせて合奏練習するのを「基礎」と勘違いしている団体が多いのですが、まったく効果はありません。むしろ時間の無駄です。
 合奏に参加するために、楽譜を覚えて演奏する。これ、無理だと思う人が多いのですが、皆さん小学校、中学校で合唱をした時、楽譜を読み名がら歌っていましたか?ほぼ100パーセントの子供が、自分の歌う歌詞とメロディーを「覚えて」歌っていたはずです。つまりは、覚えること自体は、それほど大変なことではないのです。むしろ、歌えない=弾けないことのほうが難しかったはずです。
 ほかのパートにつられて歌ってしまった記憶はありませんか?
楽器の演奏でも同じです。演奏できると言っても色々なレベルがあります。
どのくらい正確に、そのくらい綺麗な音で、どのくらい思ったように弾けるか?
それらを出来るようにするのが「基礎練習」です。
 どんなに音階だけが正確に弾けても、リズムがわからなかったり、音が穢かったり、音が小さすぎたり、音量を変えられなければ、合奏で他の人と一緒に演奏して満足できないはずです。
 一人でいくら上手に弾けても、他の人に合わせられなければ、合奏できません。自分以外の音を聴きながら、自分の音を聴き、ピッチや時間を合わせる技術は別の技術です。

 では合奏だけしていればうまくなるか?と言うと少し違います。
合奏するために必要な色々な技術をすべて短期間に身に着けることは無理です。
オーケストラで演奏する曲のすべての音をきちんと弾けるのは、おそらく特殊なトレーニングを受けた人です。下の動画をご覧ください。

 メリーオーケストラ第39回定期演奏会での演奏です。
この中のヴァイオリン、全員がすべての音を弾いている…
 いや?弾いていません。と言うか弾こうとはしていますが、現実には弾けているのは数名のプロだけです。「そんなこと言っちゃっていいの?」と言われそうですが、何も問題にしないのがメリーオーケストラなのです。弾けるように頑張ろう!と練習はしています。でも現実には無理です。では、この演奏は「へたくそ」でしょうか?もちろん、プロのオーケストラのような正確さはありませんし、傷だらけです。いくらプロの仲間や音大生が入ったとしても、オーケストラ全体で言えば傷はたくさんあるのです。それでも決して「へたくそ」と言い切れないと、プロのヴァイオリニストの私自身も思います。手前みそ…もありますが、本当に一生懸命演奏しようとする音、何よりもお客様の前で多くの仲間、プロの人と演奏できる「喜び」が音に出ていると思うのです。
 演奏がうまい…と言うのは、ただ間違えないだけの演奏ではありません。
それに気づくことができるのは、自分が誰かと一緒に演奏した時なのです。
評論家が偉そうに言うのは簡単です。自分が演奏を楽しんだ経験があれば、人さまの演奏に偉そうにコメントすることを職業にできないと思うのですが。

 結論。ヴァイオリン演奏技術を上達させければ、一緒に誰かと演奏することです。ひとりで練習できるようになるのは、演奏の楽しさを知ってからで十分です。基礎練習は誰かと一緒に演奏を楽しむための技術を「身に着ける」練習です。ボーイング=弓を動かす練習、音階、ポジション移動、指の独立=右手の速い運指、など。一緒に演奏を楽しむための技術なら、練習しても良いですよね?
基礎だけの音楽は、地球上に存在しません。
以上、すべて「個人の考え」でございました(笑)
気を悪くされた方、ごめんなさい。

NPO法人メリーオーケストラ創設者・理事長・指揮者
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

リズムと拍子

 上の二つの動画は、どちらも夕焼け小焼けの前奏と出だし部分です。
ちなみに、聞こえる音楽は、どちらも全く同じ音源です。
上の映像は、よく見ると4分の2拍子で、下の映像は4分の4拍子です。

 今回、テーマにしたのは楽譜を音楽にする技術の中で、音の高さを見つけるより、音符と休符の長さ=リズムの方が、はるかに難しいという話です。
 楽譜に書いてある音符を音にするために、必要な知識は?
「ドレミ」などの音の名前を読めることです。それがわかったら、次は手鹿にある楽器、リコーダーでも鍵盤ハーモニカでも、もちろんピアノでも、とにかく「ドレミ」の音の出し方がわかる楽器で、楽譜を音に出来ます。
 厳密に言えば、オクターブがあっていないこともあり得ますが、次の音に上がるか?下がるか?を間違わなければ、連続した音の高低がわかります。
 これで音楽になるでしょうか?
いいえ。なにか足りない。と言うより、音楽として全然未完成に感じるはずです。つまり、音の高さだけがわかっても、曲には聞こえないという事です。

 音符と休符の組み合わせでリズムが生まれます。
音の名前が、音の「高さ低さ」を表すもので、音符や休符の種類(たとえば、4分音符、2分音符、2分休符など)は「時間」を表すことになります。
 時間を表すと言っても、「何秒間、音を出す」「何秒間、音を出さない」という計測方法ではありません。実に難しい「相対的な時間の長さ」を表しています。
 2分音符は4分音符の「2倍、長く音を出す」事を意味します。言い換えれば、4分音符は2分音符の「2分の1の長さ、音を出す」ことです。
これ以上は細かく説明しませんが、音符を演奏する「時間=長さ」は、どれか一種類の音符を演奏する時間を決めることで、ほかのすべての音符や休符の時間が決まることになります。
 4分音符一つ分を1秒間音をだすなら、2分音符はひとつで2秒間音をだします。8分音符なら一つ分で0.5秒音を出して次の音符、または休符になります。
この相対関係で、音符と休符の時間が決まります。

 上の映像、4分の2拍子の方は、4分音符を1秒間に30回演奏できる速さ=1分間に4分音符30回の速さ、楽譜には「♩=30」で演奏しています。
 下の映像は、4分の4拍子で、4分音符を1分間に60回演奏できる速さ=1分間に4分音符60回の速さ、「♩=60」で演奏しています。
 聴感上は、全く同じ演奏です。でも明らかに、楽譜は違うのです。
上の楽譜は4分音符の長さが「長い」、下の楽譜は上に比べて4分音符の長さが「半分=2倍速い」という事になります。
 音楽を聴いただけで、音の高さがわかっても、その曲が「何分の何拍子」かは実はわからないのです。楽譜を見て初めて「あ!なるほどね」となるのです。
 聴音の試験でも必ず、これから演奏する曲を弾く前に「△△長調(または短調)、〇〇分の〇〇拍子、××小節」と先生が伝え、その楽譜を五線紙に書く用意をします。拍子がわからなければ、正確な楽譜にはなりません。

 これは「聴いた音楽の拍子」の話でしたが、逆から考えると「楽譜のリズムを音にする」のも、拍子記号の「下の数字=基準になる音符の種類」の速さ=長さを決めてから読み始めます。
 たとえば、4分の3拍子の曲であれば、拍の基準は「4分音符」です。
8分の6拍子であれば、「8分音符」が拍の基準ですが、この場合はちょっと複雑で付点4分音符が拍の基準=1拍になります。8分の3拍子も同じ付点4分音符が基準になります。
 基準になる音符の長さ=速さを決めたら、あとはその基準の音符を「1」として他の種類の音符・休符の時間を決めます。
 この技術は、ひたすら繰り返すことしか身に着ける方法がありません。
絶対音感があっても、これはトレーニングしないと理解できません。

 楽譜を音にするために、リズムを先に理解することをお勧めします。
難しそうな楽譜の場合、基準の拍をゆっくり=長くして、さらに「タイ」を取り払ってから、歌ってみましょう。休符が多い場合は、前後どちらかの音符と同じ高さの「音符」に置き換えて歌ってみると、案外簡単に歌えます。休符は意外に難しいのです。単なる「おやすみ」ではないのです。
 パソコンソフトに打ち込んで、鳴らしてみる方法が一番手っ取り早い(笑)かも知れませんが、自分の力で感覚的に音符の相対的な長さを「音にする」技術を身につける努力をしてみてください。
 必ず出来るようになります!

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

相対音感で暗譜する工夫

 

ちまたで有名な「ヴァイオリンは絶対音感がないと弾けない」という大嘘があります。もはや、差別かよ!と怒りたくなるほどのデマです。
 ヴァイオリンに限らず、歌であれそのほかの楽器であれ、絶対音感があれば演奏が楽になる面は確かにあります。
 そもそも絶対音感の意味さえ知らずに語る人がいるから困ったものです。
人間が音として聴くことのできる、空気の振動はヘルツと言う単位で表すことができます。おおざっぱに言えば、その音の高さにイタリア語なら「ドレミファソラシ」英語なら「CDEFGAB」日本語なら「はにほへといろ」と言う名前を付けたのが「音名」です。細かい説明は省きますね。
 音を聴くと音の名前で答えられるのが「絶対音感」です。
言葉を覚える幼少期に、聞こえる音と音名を繰り返し覚えさせると、どんな人でも絶対音感が身に着けられます。超能力とか天才とかとは、全く関係ありません。むしろ、絶対音感がないのが普通なのであって、特別なトレーニングをある時期にすると身に付く感覚です。大人になってから身に着けるのは、不可能ではありませんが、かなり大変な労力と時間を要します。


 絶対音感でない音感を「相対音感」と言います。
この音感はトレーニングによって、精度が高まる感覚です。
ちがう感覚でたとえると、お弁当屋さんが、決まった重さのご飯を盛り付ける作業を何百回、何千回も繰り返すうちに、測りを見なくても1グラムの誤差もなくも盛り付けられるようになる感覚に似ています。
 音感で言えば、ある音名の音(たとえばドとか、ラなど)を、ピアノや音叉などで聴いてから、その他の音の名前を応えられるようにトレーニングするのが、相対音感の制度を上げていく方法です。もちろん、同時に2つ、3つの違う高さの音がある状態=和音を聞き取るのも、同じ方法でトレーニングを繰り返せば、だれにでも 音名に置き換えることが出来るようになります。
 音楽の学校で行われる「聴音」という授業科目があります。
先生がピアノで弾く旋律や和音の連続を、限られた時間で楽譜に書くという科目です。
 同じように「ソルフェージュ=視唱」と言う科目があります。
これは、まったく聴いたことのない「新曲」を、何の楽器も使わずに、限られた時間、例えば15秒とか30秒で、「予見=声を出さずに頭の中で音にする」して歌い始めるという科目です。良い声で歌う必要はまったくありません。ただひたすら、正確な「リズム」と「音の高さ」で「止まらずに」最後まで歌い通すことをトレーニングします。これも、時間を掛ければ誰でも身に着けられる技術です。

 さて、私は相対音感しかもっていないヴァイオリニスト・ヴィオリストです。
高校と大学で、当時日本で一番聴音とソルフェージュが難しく、厳しかった学校で鍛えられました。入学試験はもちろんのこと、卒業のために必要なグレードが決まっていました。そのグレードに達しないと卒業できないという厳しいものでした。
 その私が視力をほとんど失っている今、新しい曲を楽器で演奏するために、必要不可欠な事が「暗譜」です。
先述の音楽学校で、初見で楽譜を演奏できる能力もトレーニングされましたので、車の運転が出来る視力があった当時は、楽譜を見ただけで演奏することは簡単なことでした。と言うより、それが当たり前の事でした。
 それが出来なくなった今、上の映像のように、楽譜を1小節ごとに画面いっぱいに表示されるようにすることで、楽譜を見ることが出来る視力が残っています。ありがたいことです。感謝しています。
 1小節ずつ覚えていくわけですが、ここで引っ掛かるのが「相対音感」です。

 頭の中に、楽譜をイメージすることもあります。
その時に「音名」と「音の高さ」を覚える必要があります。
「指の番号や弦を押さえる場所で覚えれば?」と思う方がおられるかと思いますが。どんな短い曲でも「音の名前」で演奏する習慣がある上に、長い曲になってさらに調も途中で変わる曲の場合、指の番号だけでは記憶することは不可能です。
 この曲「Earth」は何度も調性=調号が変わります。臨時記号の音も頻繁に出てきます。頭の中で、音名と音の高さが「ずれそうになる」状態が起こります。
つまり、それまで演奏していた調の旋律=メロディーと同じ旋律が、違う調で出てきた時、音楽の理論として「転調」を覚えないと弾けなくなります。
Gdur=ト長調から始まって、平行調のEmoll=ホ短調を通過し、Bdur=変ロ長調、Esdur=変ホ町長、さらにHdur=ロ長調を通り、やがてDesdur=変ニ長調に転調…。まだ間違ってますね(笑)
 これを間違えずに覚えないと暗譜できません。
絶対音感があれば、必要のないことなのかも知れませんが、ないものは努力で補うのです。
 さぁ!覚えるぞ!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

固定観念の弊害

 映像は、Youtubeで放映された番組です。
ゲストとしてインタビューを受けている方、調律師の江頭さんと仰る方で、
私たち夫婦との出会いは、偶然が重なった奇跡的なものでした。
 当時、私が教えていた生徒さんの地元でコンサートの依頼を受けました。
初めての会場に到着したものの、ホールには主催者がいない…
「まだ見えていないようですね」と声を掛けてきてくださったのが、調律を頼まれていた江頭さんでした。コンサート後の打ち上げでもご一緒しました。
 その後、豆腐レストラン「梅の花」でコンサートを依頼された時には、電子ピアノとPAの準備をすべてお願いしたのも江頭さん。
 その後、教室の発表会やメリーオーケストラ定期演奏会での調律を毎回お願いしています。その江頭さんを表面的にしか存じ上げていませんでした。
 昨年の秋に、調律をお願いした会場の舞台で、初めて江頭さんからお話を伺って、へぇ~!っと素直に驚きました。とは言え、特別な違和感もなく普通に受け入れられました。

 私たちは、生まれ育った環境や、時々の文化の中で生きています。
人類の歴史のすべての記録があるわけではありませんが、古代から人間は
「個体差」のある生き物でした。その差で不当に差別をしてきた史実があります。生まれながらに持っている差もあれば、成長とともに明らかになる差もあります。
 肌の色、目の色、骨格、身長、話す言葉、生まれた国などの外見的な違いで、差別をしてきた歴史があります。生まれついての違いです。四肢が多くの人と違うだけで、差別をしていたこともあります。
 見た目にわからない個体差は、もっと陰湿な差別を生みました。
私の病気(網膜色素変性症)も見た目にはわからないものです。
 大きな集団の中で、少数=マイノリティは、多数=マジョリティに対して
いつの間にか委縮した考えを持ちやすく、逆にマジョリティ側は、少数者に対し「意味のない優越感」を持ちやすいものです。

 ここ10年ほどの間に「ヘイト」という言葉をよく耳にするようになりました。
間違った使い方をする集団が政治組織にも見られます。
本来、ヘイトとは「差別を基に個人や集団を貶める」ことです。
喧嘩で相手に対して「ばかやろう」とか「あほ」と言った罵詈雑言は、度を過ごせば「名誉棄損」に当たる場合もありますが、ヘイトとは言いません。
 またその手の人たちは、マイノリティ側がマジョリティ側に対して「ヘイト」をしていると、意味不明なこともおっしゃいます。
 日本国内で、たとえば身体に障がいを持っている人は全体の約2パーセントと言われています。その人たちが、98パーセントの健常者に対して「日本から出ていけ」って、誰が考えても無理ですよね?
 一方で、少数の人たちを援助する法律を切り捨ててしまうことは、法的に可能であり、もしもそうなれば障がいを持つ人たちは、生きていくことさえできなくなります。「ヘイト」の意味を知らずに使うのは、やめて欲しいものです。

 さて、私のライフワークである、NPO法人メリーオーケストラの活動は、青少年の健全な育成と音楽の普及を目的としています。
 子供たちの考え方は、一般的に大人と比べて未熟なものです。
その子供たちに、間違った固定観念を植え付けているのは、私たち大人なのです。
 音楽を幼児や小児に教えていると、当たり前のように学習能力に差があります。それが当然ののです。同じ環境で育った「兄弟姉妹」でさえ、みんな違います。それは能力の差ではなく、個体差なのです。一卵性双生児でも、好みが違い性格も違います。
 他方で、医学的な診断で学習障害を持つ子供もたくさんいます。
程度は様々です。どこから障がいなのか、安直に線を引くことはできません。
 注意欠陥・多動性障害(ADHD)の場合も、中学・高校で20年間教諭を務めていて、幾度となく対面しました。しかし、それも判断は安直には出来ません。

 悲しいことに、私たちは自分が人より優れていると言われたり、思ったりすると気持ちが良いことを知っています。逆のことも知っています。
 自分は優れていて、「あの人・あの子供」は劣っていると思うことに抵抗感がないのも現実です。自分や自分の家族が言われると、許せないのに。
 自分の知らないことより、自分の知っていることが正しいと思いたがります。
前年に担任していた生徒が、自分の性同一性障害(GIDを親に認めてもらえず、自ら命を絶ってしまった経験があります。こんな悲劇が現実にあるのです。
 「弱いからだ」と言う人がいます。
その人がどんなに強い人か知りませんが、人の痛みを思うことのできない人間が、強いはずはありません。

 自分の知らないことの方が、たくさんあるのです。
知らないがゆえに、無意識に他人を深く傷つけていることがあります。
私の母は「認知症になったらバカになる」「認知症はダメな人間がなる」と
死ぬまで思っていました。いくら否定しても、自分が認知症であることを、自分で否定しきれず、私たちの言葉に耳を傾けず、苦しんでいました。矛盾していることをわかっていても、固定観念を変えることが出来なかったのです。

 私たちの周りには、たくさんの人がいます。
自分と他人は、すべてが違う人間だと思うべきです。
自分と同じところ、似ているところがあるかも知れません。
でも、それは目に見えることだけなのです。
他人を肯定することは、自分を否定されないことです。
「LGBT」 レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(性同一性障がい者を含む、心と出生時の性別が一致しない人)のアルファベットの頭文字を取った言葉で、「性的少数者の総称」として用いられることもあります。
 上の説明を読んで、あぁなるほど!と思ってくれる人が、一人でもいたらと思っています。
 私たちが出来ることは少ないかもしれません。
本当の意味で理解することは、本人でさえ難しいことだと思います。
それでも、「固定観念」を捨て、知識として感覚として、他人の個性を大切にすることは出来ると思っています。
 子供たちに、間違った差別を教えるのはやめましょう。
みんな、地球に生まれた同じ人類なのですから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

NPO法人メリーオーケストラ理事長 野村謙介

憧れの記憶

 映像は、ヘンリック・シェリングが演奏するバッハ、無伴奏ソナタ第1番のフーガ。実は動画では初めて見ました。
 高校生時代、試験の課題だった無伴奏の曲。
当時、シェリングのバッハ無伴奏ソナタ・パルティータの全集を買い、
ひたすら聴いていました。私にとって、最初の憧れの演奏家だったような気がします。
 おそらく同じころに、イツァーク・パールマンの文化会館でのコンサートに、安良岡ゆう先生(同門で大先輩だったので下見をしていただいていました。)のご紹介で、プログラムにサインをしてもらった思い出があります。
 グローブのような手で、にこやかに握手をしてもらったのを忘れません。
ただ、演奏に関してはなぜか?このシェリングの演奏が好きでした。

 他の人の演奏と、どこがどう違うのか?
無理やり違いを探し出せば、きっと言語化できると思いますが、
むしろ言葉にしたくない「憧れ」なのだと思います。
 同じように、好きになれない演奏もありました。
いや、あったはずですが。
覚えていないんです(笑)
 自分が憧れる演奏や、人。自分にないものを、その演奏や人に感じるからでしょうね。でも単なる「偶像=アイドル」とは違います。演奏を通して感じる、演奏者の人柄を、自分の中で作っているという意味では、偶像なのかもしれません。プライベートをすべて知りたいとも思いませんしね。

 師匠の演奏にあこがれていなかったのか!と怒られそうですが、
以前のブログでも書いた通り、弟子は師匠以外からの「刺激」も感じるのです。
純粋培養のように、弟子を自分の手元から手放さない「指導者」がいますが、私は間違っていると思います。現実に、多くの方が色々な師匠に弟子入りしています。
 久保田先生は、海外からの指導者が来ると、レッスンを受けるように勧められました。ご自身も非常に関心をもっておられました。謙虚な姿勢が、心に残りました。

 話をシェリングの演奏に戻します。
何よりも、発音と音の処理が大好きでした。←なんだ、結局分析してる。
アタックの有無、アタックの強弱、アタックの種類
重音のコントロール。レガートの美しさ。
すべて、右手の使い方。
今、こういう演奏をする演奏家、少ない気がしています。
あぁ、もっと勉強すれば良かった!
 と思うので、60過ぎても勉強します。

ヴァイオリニスト 野村謙介
 

音楽の幅

 映像は、2013年2月17日に杜のホールで開いた、メリーオーケストラ第22回定期演奏会の一コマです。
 ギターのソロを弾いてくれているのは、私が教員時代に顧問をしていた軽音楽サークルで、当時高校生だったJIROこと小山じろう君。
 「軽音楽」って言葉、印象が悪すぎます。いかにも「軽薄」と言わんばかりの差別用語に聞こえます。「重音楽」ってあるのかよっ!(笑)と突っ込みたくなります。

 人々に愛される音楽は、時代とともに変わることもあります。
国や地域によっても違います。同じ国、同じ時代でも色々な音楽が同時に「流行」したこともありました。
 話を現代、西暦2022年2月に日本で生きている私たちに絞ってみます。
自由に好きな音楽を、気軽に聴くことが出来る環境があります。
音楽を分類することがあります。
・演奏形態
・作曲された時代
・演奏される国や地域
当然、複数の分類にまたがった、分類もできます。
 先ほど述べた「軽音楽」を調べると、
「流行歌風の音楽、ダンス音楽、ジャズ音楽などの総称。
対義語:クラシック」
 だそうです。ん?では、クラシック音楽とはなんぞや?
「直訳すると「古典音楽(こてんおんがく)」となるが、一般には西洋の伝統的な作曲技法や演奏法による芸術音楽を指す。宗教音楽、世俗音楽のどちらにも用いられる。」
となるようですが。
 案外、テキトーですよね。
自分の好きな音楽に、理屈を付ける意味はありません。
どんな音楽であれ、その人が好きな「音楽」なのです。
食べ物で言えば、和食・中華・洋食などの、おおざっぱな分類も細かい分類もあります。好きな食べ物の「属類」なんて考える必要がないのと同じです。

 クラシック音楽と言われる種類の音楽にも、大きな幅があります。
自分の好きな音楽「以外」を軽薄扱いしたり、長くてつまらない音楽と決めつけるのは、人間として愚かだと思います。これも食べ物の好みと同じです。
 音楽を分類するよりも、自分の好きな音楽を少しでも増やす方が、幸福だと思いませんか?
 メリーオーケストラでも、私と浩子のリサイタルでも、偏った音楽にならないことを大切にしています。
 聴く人の好きな音楽もあれば、聴いたことのない音楽や、嫌いと思っていた音楽をあって当たり前だと思います。
 先入観や食わず嫌いでクラシック音楽しか認めない人や、ガチガチの「クラシックおたく」の方には、不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません。

メリーオーケストラ代表・指揮 野村謙介