学校の序列と個性

 時は2月。私立中学校では入学試験の真っただ中。
私立中学に限らず、一般の高校や大学、音楽高校や音楽大学でも、入学試験の季節です。
 今回のテーマは、そうした学校ごとに、誰が、何の基準で付けたのか?学校ごとの序列と、実際の中身と個性について考えます。

 映像は私が20年間勤務した私立中・高の、「部活オーケストラ」の定期演奏会です。場所は、横浜みなとみらいの大ホール。2000人収容のホールが、ほぼ満席の演奏会でした。 
 常識的に考えれば、私立学校の部活動が活躍することは、生徒集めのための「最強の武器」になります。経営者はもとより、管理職も大いに応援するだろうと、誰もが思います。
 実際には、まったく違いました。
「校内の体育館で十分だ」
「たかが学芸部の発表会で、ホールを借りるなんてもってのほかだ」
管理職から言われた言葉です。嘘のようですが、真実です。
当然のことながら、その話は表には出ません。
コンサートを見た方は、さぞや理解のある学校だと思うでしょう。
実際に、このオーケストラで演奏することが目的で、受験する子供がたくさんいました。それも、表には出さないのです。
ばか
でしょう?管理職だけが、ばかだったのか?
 いいえ。管理職にゴマを擦り、媚び諂う(こびへつらう)教員しかいませんでした。みなとみらいホールで演奏できるまでの、16年間。教員たち、管理職と戦い続けました。表には出ませんが。
 学校の中で起きていることは、表に出さないことの方が多いのです。

 学校の序列は、表に出ている事だけを評価されます。
評価するのは、受験生でもなく、在校生でもなく、教員でもなく。
評価のひとつは、卒業生の「進路」です。
もう一つは、学校外の組織・団体が付ける「偏差値」です。
どちらも、実は黒い闇の中で決まっています。
 進路が闇?ありえないとお思いでしょうが、学校は卒業生の進路を公開する義務はありません。責任もありません。自分たちに都合の良い「進路」だけを発表します。
 偏差値は?多くは、塾と予備校が算出する「適当な数字」です。
これも表には出ませんが、私立学校の多くが、塾や予備校を「接待」します。
 常識的に考えれば、逆?少なくとも、塾が生徒を希望の学校に入れたいから、学校「を」接待するのでは?と思いますが、事実は違います。表には出ませんが。
 学校の評価は、本来であれば在校生とその保護者、さらに勤務する教育職員からの「真実の内部」を評価するべきです。
 学校の設備、環境は、誰の眼にも公正な「序列」があります。
音楽学校で言えば、演奏会用のホールのある学校と無い学校の差。
交通のアクセスの良さ、悪さ。
建物の新しさ。などなど、「お金のかけ方」で設備や場所が決まります。

 音楽大学の話です。
私が高校を受験したのは、1976年です。
当時、音楽の学校には「入学の難易度」が歴然とありました。
 言うまでもなく、偏差値や受験倍率ではありません。
一言で言えば、入学できる生徒の「レベル」が違っていました。
受験で演奏する曲、ひとつにしても、難易度の高い学校と低い学校がありました。合格できる演奏技術はさらに違いました。
 桐朋という音楽の学校は当時、設備・施設の面で、音楽学校で「最低」だったかも知れません。それでも、入試のレベルが他の学校と、比較にならない難しさでした。しかも、高校入学時に支払う金額は、日本で一番高い学校でした。
ボロい建物が二つあるだけ。当然、ホールもない。グランドもなく、普通科のグランドを借りて体育の授業が行われる。図書館は短大校舎にある、小さなもの。
 それが、真実の桐朋でした。

 私は当時、学校に大きな不満を感じたことや、学外で恥ずかしい思いをしたことは…
 国鉄の定期券を買うとき以外には、ありませんでした。
「桐朋女子高等学校 音楽科 (共学)」の身分証明書を出して、
武蔵小金井駅の通学定期券購入窓口で「ふざけてんのか?」とマジ切れされた記憶は、一生消えません。学校名は未だに変わりません。仕方ないのですが。
 授業料は、多くの指導者に使われていました。
本当にたくさんの実技指導者が顔を並べていました。
弦楽器の指導者(先生がた)の名簿は、驚くほどの人数と顔ぶれでした。
 高校で、一クラス30人。1学年3クラスで90人。ホームルーム教室は、地下。
クラス全員が集まるのは、週に一度だけのホームルームだけ。あとは、それぞれの履修でバラバラ。授業のない時間は、学校外でお茶をしていようが、ゲームセンターに行こうが、何も言われずお咎めなし。
下校時間は、夜9時。
こんな学校が日本にあるのか!
と、思ったのは高校の教員になってからです。当時は、高校ってそういう学校だと当たり前に思っていました。
 その学校で、日々時間さえあれば、レッスン室を取り合い、練習した。
という仲間がほとんどで←こら。
 音楽を学ぶ上で必要な科目は、基本的にすべて「必履修・必修得」が原則でした。その面だけは、異常なほどに厳しいのが、「個性」でした。
 オーケストラは当然、必修。ただし「能力別」に3つのオーケストラに分かれ、演奏会に出られるのは、一番上の「マスターオーケストラ」と、時々前プロで演奏できる、その下の「レパートリーオーケストラ」。高校と大学の新入生と、レパートリーオーケストラに上がれない、高校2・3年生、大学2~4年生の「ベーシックオーケストラ」
 そうです。高校生と大学生が同じオーケストラで演奏します。
すべてが能力別です。弥が上にも、全員の実技レベルの序列が公開されます。
 不満はありませんでした。それが当たり前だと思っていました。

 現在の桐朋は、どうやら当時と比べ「個性」がなくなってしまったようです。
それは、私立学校として致命的なことであることに、経営陣が気付けていないのでしょう。ほかの音楽学校に「ないもの・ないこと」を探すべきなのに、「あるもの」を真似して、結果的に堕落していく危機感を感じます。
 他の音楽大学も、どうやら似たり寄ったりの気がします。
何よりも、指導者が自分の「地位」にしがみつく姿を見ると、終わった感。
 白い巨塔
ご存じですよね?国立大学病院の「地位」にこだわる医師たちと、医師としての在り方にこだわる人間との、深いテーマでした。
 「私が教授で、い続けるために」他の指導者を排除する人間に、
まともな音楽を演奏できるはずがありません。猿山の猿、以下です。
音楽を学ぼうとする若者を、本当に大切に思う「音楽家」であれば、自分に足りない能力を認められるはずです。一人のヴァイオリニストが教えられるのは、一人分の技術と考え方「だけ」なのです。それだけでは、自分を超える音楽家は絶対に育たたないことを知らない、愚かな「教授」が多すぎます。
 自分は絶対だ、と思い込むのは、自分の家の中だけにして頂きたいのです。
どんなに優れた音楽家だったとしても、その人を育てたのは「絶対に一人ではない」からです。そんなことさえ、理解できない人を「教授」にするのは、大学の恥です。そのことを、学生と他の教育職員が、声にしなければ、その大学はやがて消えてなくなります。その時には、その「教授」は骨になっているのです。

 これから学校を選ぶ人へ。
ぜひ、そこで働く人に話を聞き、その学校に通う生徒や学生に話を聞いてから、学校を決めて欲しいと思います。
 学校に入ってから、しまった!と思えればまだ、やり直せますが、恐らく多くの人は、騙されたまま卒業します。
 学校は「学ぶ場所」です。遊ぶ場所ではありません。
今回も、気分を害される方がおられましたら、お許しください。
まか、そんな方はこのブログをお読みにはならないと思いますが(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

元教員のヴァイオリニスト 野村謙介

 
 
 

上達すること

 この演奏は、私が17歳、高校2年生の冬に、師匠の門下生による発表会でのライブ録音です。
 まぁ、これほど「へたくそ」な音楽高校生は当時いなかったでしょうww
今自分で聞いて、笑ってしまうほどです。
なぜ?こんな演奏を臆面もなく公開したのか。
「上達」のひとつの題材にするために、ガマの油を垂らしながらアップしました。。お聞き苦しくて、本当に申し訳ありません。

 「これでも十分うまいでしょ?」と思ってくださる方もおられるかと思います。
確かに、このチャイコフスキー作曲のヴァイオリン協奏曲は、演奏技術的にも音楽的にも、難易度の高い曲です。当時、私がこの曲にチャレンジできたのも、それなりに楽譜を音にするための基礎的な知識と技術があったからに違いありません。そうは言っても、音程も悪く、音も汚いことは救いがたく、弾けているレベルに入りません。
 この演奏の2年ほど前、中学3年生の夏に、本気でヴァイオリンの練習をし始めるまで、そもそもこんな曲を弾きたいとも、弾けるとも思いませんでした。
高校入試でヴュータン作曲のヴァイオリンコンチェルト第4番の第1楽章を「必死」に演奏して、滑り込んで合格。高校1年生の年度末実技試験の時、ラロ作曲のスペイン交響曲第1楽章に挑戦。その翌年がこのチャイコフスキーでした。

音楽を学ぶというのは、ただ楽器の演奏方法を学ぶだけではありません。
じょうずでなくても、ピアノを弾けることも必要だと思います。
聴こえた旋律、和音を楽譜に書き取る技術も必要です。
楽譜を見るだけで、頭の中で音楽にする技術も必要です。
音楽の歴史、時代ごとの文化も学ぶ必要があります。
様々な知識を学びながら、他人の演奏を観察することが、何よりも大切な学習になります。

楽譜を正確に音にする。
どんな人にとっても、難しいことだと思います。
どこまで精密なのか?によって、「できた」と言われない場合もあります。
何度でも正確に弾けるか?という壁もあります。
上達するために、何よりも「本人の意思」と「時間」が必要です。
短期間に上達する内容もありますが、多くは努力する時間に比例します。

上達に秘訣も秘密もないと思っています。
自分は上達しないと思い込んで諦めてしまったり、
他人の上達と比較しても無意味です。
上達したければ努力すれば良いだけです。
どんな人にも平等に時間は経ちます。
今できる努力を惜しむ人は、明日も努力はしないものです。
50年以上、ヴァイオリンに向き合って、未だに少しでも上達したいと思っています。
上達は、実体のないものです。
とは言え、努力の時間を積み重ねれば、どんな人でも上達します。
それを信じることが、唯一の方法だと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト 野村謙介

指導者の存在

写真は私の尊敬する師匠、故久保田良作先生が、門下生の夏合宿最終日に開かれる、コンサートのリハーサルで指揮をされている写真です。

 ヴァイオリンに限らず、楽器を演奏するために、インターネットや教則本で独学で練習する人と、誰かに教えてもらう(習う)人がいます。
 学校で習う勉強は、本来なら学校で行われるものですが、コロナの影響で自宅に居ながら勉強する時代です。独学に近いですね。
 歌舞伎や能のような伝統芸能で「独学」は聞いたことはありません。
落語の政界でも、師匠から弟子に伝承されるのが「芸」です。
 スポーツの場合、科学的な理論に基づいた練習で、人間の運動能力が向上しています。誰かに弟子入りしなくても、世界新記録を出せる選手が誕生します。

 話をヴァイオリンの演奏に絞ります。
多くの演奏家が、指導者に教えてもらいます。
 そして、優れた指導者と呼ばれる人の弟子に、優れた演奏家が育っていることも事実です。優れた指導者…って、どんな指導者でしょう?

 ヴァイオリンの演奏技術を、お弟子さん=生徒さんに教える仕事をしている立場で、自戒を込めて考えます。
 お弟子さんが目指す演奏・音楽が、はっきりしている場合と、なんとなく…という場合に分けて考えます。その時点の演奏技術や年齢は、別の問題です。
 分かりやすい例でいえば、音楽高校や音楽大学に進学する人は、少なくとも学校の入学試験に合格するという、目標を持ちます。入学後、何を目指すのか?は、時代とともに個人差が大きくなっています。昔はほとんどの生徒・学生が「音楽家になりたい」と思っていたように思いますが、この頃は、そう思う人の割合が減っているようです。
 目標を持った人が、師匠=先生に習うのは、演奏技術だけではないはずです。
演奏技術・方法・練習方法だけなら、今時インターネットで学べるでしょう。
人から人に伝承されるものは、技だけではありません。
人格、思想、性格、話し方など、日常生活の多くが師匠から弟子に伝えられます。弟子の立場で言えば、その師匠からの教えの中に、受け止めがたいものがあっても自然です。師匠が酒癖が悪かったり、レッスン中にケーキを食べていたり、レッスン中にスマホをいじり続けているのを、快く思えないのは当然です。
 中には、師匠を変える弟子もいます。理由は様々です。それがすべて悪いとは全く思いません。その人にしかわからない理由もあるはずですから。
 師匠と弟子の関係は、当たり前のことですが
師匠が弟子を大切に育てること
弟子が師匠を尊敬すること
の二つです。このどちらかが欠ければ、師弟関係は成り立ちません。「仮面師弟」です。相関関係ですから、どちらかだけの問題もあり得ます。
いくら大切に思って教えようと思っても、弟子のやる気がなければ無理です。
いくら尊敬したくても、指導技術や指導方法に問題があれば、これも無理です。

そうは言っても、順序は明らかにあります。
1.弟子が師匠を探す
2.弟子入りを申し出る
3.師匠が受け入れる
という順序が大原則です。
師匠が弟子を捜し歩く…まるで現代の音楽学校の経営者のようです(笑)
音楽学校で、師匠=指導者が優れていれば、生徒・学生は集まります。
なぜなら、先述の通り音楽学校を受験しようとする人は、「合格したい」という目標を最低限持っているからです。合格してから、その生徒がさらに高い目標を持てるような指導をする指導者がいれば、自然に受験生は増えます。

 私のように、街で(田舎ですけど、すみません)生徒さんを集め、レッスンをしたり楽器を販売して生計を立てている人間にとって、生徒さんを「探す」「集める」という仕事が必要になります。
 なぜなら、趣味で音楽を楽しみたいという人は、明確な目標を持っていないからです。言い換えれば、「いつ、やめても気にしない」人を対象に演奏を教えるのです。弟子…とも言えないかもしれません。習う側から言えば「お金を払って、趣味を楽しむ」だけなのです。
 もちろん、そうではない「お弟子さん」に出会うこともあります。
趣味であっても、音楽を楽しみたいという気持ちを持ち続けて、演奏技術を高め、演奏できる音楽の幅を広げるために、指導者の出来ること、やらなければならないことが、たくさんあります。
 専門家を目指す人を教えているなら「嫌ならやめなさい」の一言で終われます。私たちがそんなことを生徒さんに言えば、生活できなくなるのです。
 生活のために、指導者、音楽家としてのプライドを捨てるのか?と、勘違いされそうですが、全く違います。
 趣味の音楽を教え、音楽を愛好する人を増やさなければ、音楽の専門家は生活もできず、社会で不要な存在になるのです。趣味で楽器を演奏する人が増えれば、クラシックの演奏会に興味を持つ人も増えるのです。
 「音楽大学さえあれば、音楽が途絶えることはない」
と本気で思う人がいたら、言ってあげたい。
 「買う人の来ないデパートが存在できるかよ!」
少なくとも音楽は、本来楽しいものです。
ただ、人によっては不要な存在でもあります。
そんな音楽を一人でも多くの人に「楽しんでもらう」ことが、指導者の責務であり、存在する意義だと思っています。

久保田良作先生は、決して威張らない先生でした。
出来の悪い私のような弟子にも、本気でレッスンをして下さいました。
一人で演奏するための技術だけではなく、一緒に演奏する「楽しさ」を教えて下さいました。
門下生同士のつながりを大切にされました。
音楽に向き合い、ご自身も演奏活動を続けられました。
指導者として、私は久保田良作先生以上の方を存じ上げません。
自分自身が、その先生の指導を、少しでも伝承できればと願っています。
 偉大な指導者は、ふんぞり返ってレッスンしません。
ですよね?(笑)
 お気を悪くされた方、申し訳ありませんでした。

田舎街のヴァイオリン指導者 野村謙介


弦楽器の元気

写真は私が演奏させてもらっている、陳昌鉉氏が2010年に制作したヴィオラです。弦楽器の世界では、生まれたての赤ちゃんのような年齢です。
一般に弦楽器の寿命は、300年以上と言われています。
当然のことながら、生まれて(製作されて)からの管理が悪ければ、10年も経たない間に、使い物にならなくなる楽器もあります。個体の寿命が長いほど、演奏する人が増えていきます。
「中古」という概念を、使い古されて新品より程度の低いものと思い込んでいる人がたくさんいます。すべての「もの」に当てはまる言葉ではありません。
人間は生まれた次の日から「中古」なのですから。

人間は何よりも健康であることが一番です。
心と体が健康であることの有難さを、病気やケガをした時に改めて感じるものです。普段、当たり前に生活していると、小さな不満や不運をボヤきがちなのは、健康であることの有難さを忘れているからなんでしょうね。

さて、弦楽器の場合はどうでしょうか。
寿命が人間より長いことは先述した通りです。
弦楽器はすべて、人間が造り出した「道具」であり、生物ではありません。
弦楽器に使われる「木材」は元々は「生物」ですが、切り倒され削られ、加工された楽器は、すでに生命活動はできません。
人間には、再生できる部分が多くあります。皮膚や骨は傷ついても再生します。「歯」は再生しないため、自然治癒がないことは知られています。
楽器は?自分で傷ついた部分を再生…できません。
削れてしまったり、割れてしまったり、穴があいてしまった「木材」は、元通りには戻せないのです。人間が修復をしても、元の木材の状態に完全に戻すことは不可能です。
そうは言っても、楽器は演奏するための「道具」であり、使わなければ造られた意味がありません。楽器の価値は、演奏されて初めて評価されるものです。
傷がつくことも避けられません。壊れて使えなくなってしまうことも、燃えてしまうことも、可能性はゼロではありません。
そうならないように、気を付けられるのは人間だけです。

健康な弦楽器とは?
製作された時から、誰かに演奏されて手入れをされている場合でも、まったく誰にも演奏されない場合でも、楽器は少しずつ変化します。両者を比較すると、演奏したほうが大きな変化を見せます。
ニスが乾くのに、最低でも1年、長ければ2年以上かかる場合があります。
その間、楽器の音は変化します。
弦楽器に使われる「木材」は、理想的には何十年も自然乾燥させた木材を使用するそうです。伐採したばかりの木材には、多くの水分が含まれているため、乾いた音色を出さず、水分が抜ける時の変形もあることがその理由です。
ただ、現代の科学でストラディバリウスは、伐採してから数年の木材で楽器を作っていたという事が判明しました。もちろん、「当時」の「数年前」です。
それでも、ストラディバリウスの楽器は当時から、非常に高い評価を得ていたという史実があります。現代とは全く違う音色の楽器だったことだけは、間違いありませんが、「良い楽器」であったことは確かなようです。
その弦楽器が年月とともに変化する中で、人間でいう「病気」にかかることもあります。「ケガ」は楽器に傷を付けてしまうことになります。
人間なら、薬を飲んだりお医者さんに治療してもらえば、多くの病気は完治します。それは「再生能力」を持った生命に共通することです。

弦楽器の病気。
一言で言ってしまえば、「良い音が出なくなる」「音量が減る」「雑音が出る」という症状です。
始めの二つ「音色」と「音量」は、多くの場合人間の主観的な「感覚」で判断されます。つまり「なんとなく」という言葉が頭に付く病気です。
演奏者の体調で自分の楽器の「音色」「音量」がいつもと違って聞こえる場合が良くあります。演奏する場所によっても大きな違いがあります。
一方で「雑音」は、客観的に判断できます。
雑音の「音源」がどこにあるのかを、注意深く探すと大体の場合は見つけられます。

アジャスターが緩んでいたり、表板に金具が触れていたりするケース。
ペグの装飾部品が、取れかけて振動しているケース。
顎あてのアーチが、テールピースに当たっているケース。
顎あての止金具が緩んでいるケース。
重症なものとして、
糸枕(ナット)が低すぎたり、指板が反り上がったり、駒が沈んでしまって、弦が指板にあたっているケース。
楽器の表・横・裏のそれぞれの板を接合している「膠=にかわ」の接着力が、湿度や高温のために少なくなり、板同士が「剥がれる」ケース。
眼には見えない「割れ」や「ひび」が表、裏の板に出来てしまったケース。
その他にも、雑音や異音が出る原因は数々ありますが、場所を見つけることが第一です。修理は、自分でできるケースと職人さんにお願いするケースがあります。
雑音は出なくても、ネックが反って、指板が下がり表板に近づきすぎるケースは、ハイポジションで弦を押さえられなくなります。
また、調弦する度に駒は「ペグ方向=指板方向」に傾こうとします。これは、弦を緩める時=音を下げる時には、駒にかかる弦の圧力が下がり、弦を張る=音を高くするときには、駒にかかる弦の圧力が増えるために、常にペグ方向に引っ張られる動作が繰り返されるからです。駒の「傾き」は病気ではありません。これは、演奏者が毎日気を付けて観察し、もし目で見て、わかるほどに指板側に傾いてしまった時には、
・4本の弦を少しずつ下げて駒への圧力を減らし
・両手の指を駒の両側から当て、
・少しずつ、傾きをテールピース側に戻す
作業が必要です。これは、弦を張り替えた時にも必要な点検作業です。
この作業をせずに放置すると、駒が傾き、最悪の場合駒が割れたり、倒れたりします。そうなると、楽器の中にある「魂柱=こんちゅう」が倒れます。この柱は、弦の張力→駒→表板→魂柱→裏板という、接着剤を一切使わずに「減の張力」だけで、弦の振動を楽器の裏板に伝える、「弦楽器の仕組み」の中核をなしています。だから「魂」という言葉を使います。
これが倒れたままで弦を張ると、表板が割れます。楽器は二度と演奏できなくなります。

弦楽器の病気治療のほとんどは、医者である「職人さん」に委ねます。
もし、あなたや家族が病気になったとき、信頼できるお医者さんに診察、治療して欲しいと思いますよね?誰にでも命を預けた大手術をしてもらいたいという人は、いないはずです。
弦楽器の病気を治す職人さん。
正直に申し上げて、技術も考え方も「千差万別」の違いがあります。
特に、前述の「音色」「音量」の不満や違和感について、職人さんの「主観」が入ることになります。当然、演奏者自身(自分)とは違う判断をすることになります。その差が、演奏者である依頼人の「好み」「求めた結果」と違う結果になるのは、本当に不幸なことです。
良かれと思って治療をお願いしたら、前より悪くなって戻ってきたら…ぞっとしますよね。では、どうすれば良いのでしょうか?

多くの弦楽器は、製作者に治療をお願いすることが出来ません。
陳昌鉉さんも、すでに他界されています。
職人さんは、自分が作った楽器でなくても、治療=修理を行えます。
ただ、自分が作った楽器ではないので、製作者がどんな音を目指して、その楽器を製作したかはわかりません。製作者によって、好みが違うので当たり前です。
依頼する人=演奏者が、信頼できる職人さんを見つける。
これは、人間の主治医を見つけるのと同じことです。
とても難しいことです。
ちなみに私は、自分のヴァイオリンの調整・修理は、購入した当初から、私と私のヴァイオリンを知っている職人さん「ただ一人」にしかお願いしていません。誰にも調整させません。その職人さんが倒れてしまったら、私のヴァイオリンを調整修理する人は、いなくなります。その時にはまた考えるしかないのです。
あなたの楽器を治療してもらうのに、信頼できる職人さんを選ぶためには?

信頼できるヴァイオリニスト、またはヴァイオリンの先生から直接紹介してもらうことです。
その方が実際に、ご自分の楽器を調整してもらっている職人さんがいるはずです。その方が、その職人さんを紹介しなかったとしたら、理由はひとつ。
「職人さんの負担が増える」ことを心配しての判断です。
それでも紹介したほうが良いと思えば、きっとその方の信頼する職人さんを紹介してくれるはずです。
私自身、自分の楽器を治療してくれる職人さんを、すべての生徒さんに紹介していません。必要な知識と技術を持った、別の信頼できる「若手」の職人さんを紹介しています。
少なくとも、見ず知らずの楽器店に、自分の大切な楽器を「治療」に出さないことを強くお勧めします。削ってしまった楽器は、二度と元に戻らないことを忘れないでください。

最後に。
人間の病気と同じです。
神経質に考えすぎると、かえって良くない結果になることがあります。
少し音が変わった「ような気がする」からと、調整に出すのは良いことではありません。まずは自分で良く考えることです。
そして、考えても時間がたっても、その「違和感」があるなら、信頼できる方に相談してから、治療してください。
できれば最初は「セカンド・オピニオン」が必要です。
修理する前に、ほかの職人や演奏家に相談し、複数の人の「治療法」を聞いてから最終的に判断してください。
楽器は自分で、声を出せません。意思を伝えられません。
演奏する人の「身体」だと思って、健康を観察してください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト 野村謙介