空想の世界~音楽

はい、嫌われ者(笑)謙介です。
ショパンコンクールが「ブーム」のように盛り上がっています。
昨日のファイナル、アーカイブをyoutubeで聞きながら書いています。
ヴァイオリン弾きから言うと、みんなすげぇじょうず!(笑)
人間だもの、間違って違う鍵盤触ることだってあるでしょ。
人間だもの、緊張して忘れることなんて普通でしょ。
コンクールが「間違えない」ことを第一に競うものであれば、人間の審査員はいりませんがね。カラオケ採点マシーン!で順位つきます。
もちろん、間違えなくても、もっと細かい「うまさ」ってピアノにある「らしい」。らしいと書いたのは、ヴァイオリンの演奏技術って、ピアノに比べると単純明快に分かるから。例えば、音の高さを自分で決める原始的な弦楽器。ピアノが1万点以上のパーツで音を出す仕組みなのに比べ、馬のしっぽの毛を張った「棒」BOWで音を出す弦楽器。ヴァイオリンのミスと比べて、ピアノの間違いってそんなに多いのかな?

さてさて本題です。
「ショパンの精神」とか「ポーランドの人の魂」とか。
そんな言葉を聞くと、ものすごく違和感を感じるのです。
だれかショパンに聞いたんですか?
ポーランドの人って、全員クローンですか?
まるで自分が「ショパン」という人に成り代わったような思い上がり。
ポーランド人とは!って十把一絡げ。
少なくとも音楽って、演奏者と聞く人の「空想」の世界です。
一人一人の空想や表現は、だれか他人から批判されるものではない自由なものです。
絵画でも、文学でも、映画でも同じです。
「この作品は、〇〇であり、△△と感じなければ間違い」ありえへん。
見る人は「空想の世界」が楽しいから見るんですよね。
その空想を「競い合う」って無理でしょ。
それを「解釈」って言うのであれば、それは個人の自由です。
「モーツァルトが生きた時代には」「バッハの音楽を演奏するには」
それも個人の解釈。
評論家ってお気楽&無責任な職業だと思います。
たった一人の解釈を、延々と語ってお金もらう(笑)
言ってやりたい「お前は神か」

さらに言えば、「楽譜」として作曲家が残したものは、
演奏する人間に、「この解釈を任せたぜ!」って意思表示だと思うのです。
「俺の作品に手を出すな!」って初期のパガニーニみたいな人は、楽譜を残しません。ショパンが楽譜を残した以上、演奏する人の「空想」と聞く人の「空想」を許容したことになります。楽譜に書いていないことってたくさんあります。
さらに言えば、書いたからと言って(例えばここはフォルテで)も、演奏者がピアニッシモで弾くかもしれないことは、承知の上だと思うんです。楽譜の通りに弾くこと「だけ」をコンクールだとは言えません。楽譜に書いていないことのほうが、はるかに多いからです。すべての音符に強弱記号と表現の指示をした楽譜って…ショパンの楽譜?違いますよね。演奏者の「空想」がそう、させているんですよね。

偉そうに言いやがって!
はい、ごめんんなさい(妙に素直)
最初に書いた通り、みんなすごい演奏家だと思っています。
その人の「空想の世界」に共感できるものもあれば、自分の「解釈」と違う演奏もあって当たり前。技術は?すごい!の一言です。順位なんてつけたくない!みんな、人間なのに大変だな(笑)なかには、サイボーグもいるのかも…
私は…リサイタルで弾く曲たちを、何度も弾いて、感じるものを、実験を繰り返しながら練っていく。音色。テンポ。大きさ。どれかを変えると、ちがう世界になります。自分の「好きな世界」を探して、さまよいます。聞いてくださる人が、心地良く感じてくれることや、「空想の世界」が広がってもらえることも、同時に願っています。自分の解釈と違って当たり前です。
人間の想像力。それこそが「魂」であり「心」と呼ばれるものだと思います。
決して、測れるものではありません。競うものでも、評価するものでもありません。私たちが「人間」であることの証は「空想を表現できる生き物」なのですから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


ヴァイオリニスト 野村謙介


音楽を練る

皆様。お元気ですか?すっかり秋ですね。
今回のテーマはすべての演奏家に共通の話題かな?
音楽を演奏する時に、誰しもが突き当たる壁でもあります。
楽譜という台本が与えられ、それを演ずる役者が演奏家です。
多くの楽譜は既に誰かが演奏し、さらにその多くはCDや映像として、聞いたり見たりすることができる時代です。
録音技術が無かった頃は、簡単に演奏を聴くことも出来ませんでした。
時代の変化とともに、演奏家の練習も変わって来たんですね。


一つの楽譜でも、演奏家によってみんな演奏は違います。当たり前です。
役者が変われば演技が変わるのと同じです。
好きな演奏は10人いれば10人とも違って不思議ではありません。
素材である楽譜が同じでも演奏家によって好き嫌いが分かれます。
同じ素材でラーメンを作っても料理人が違えば違う味になるのと同じこと。
好みは演奏家自身にもあります。自分がこれから練習しようとする曲の演奏を、色々聞いていくことはとても大切な「準備」になります。
またラーメンの話でいえば(最近、地元橋本
近くのラーメン屋さんにはまっているので…)、店主が自分の好きな味を探して日本中のラーメン屋さんを食べ歩く話は良く聞きます。数ある有名無名のラーメン屋の中で、自分が好きな味や食感を探し、自分で作って試してはやり直す。
映画「タンポポ」でもそんなテーマがありました。

演奏家によって、練習方法は千差万別です。音楽の組み立て方、考え方、取り組み方、練習の仕方など、すべてが「オリジナル」なのです。
出来上がる音楽も当然「オリジナル」になります。それを個性とか音楽性とか言う言葉で表されます。極端に奇をてらい、単純に人と違うことをしようとするのは個性とは言いません。単に奇抜なだけです。逆に、奇抜に聞こえても演奏家が考え抜いて、試行錯誤を重ねたどり着いた「オリジナル」との区別は聴く側には判断しがたいものです。本当に演奏家がその解釈(曲づくり)に自信があるなら、誰の指摘も当たらないかも知れませんんが、嫌いな人が多すぎれば仕事にはなりません。ラーメンにうどんとお蕎麦を一緒に混ぜて「これが私の究極のラーメンだ」と言われてもねぇ。

何回でも試してはやり直し、また新しい方法を探して、時には前の方法を試し。時々、他人の演奏を聴いて、なるほどと膝を叩きたくなることもあります。以前は好きではなかった演奏が、急に好きになったりもします。
自分の味を探し、たどり着くラーメン(しつこい)
他人の評価を気にする前に、自分が納得できる音楽であることが必要です。それがなければ、ただの「音の羅列」でしかありません。
作曲家の意図を思い、聴衆の立場に立ち、可能な限りの方法を試す。
それ以外に自分の音楽を作る方法はないと思います。

リサイタルに向けて、自分の筋力を少なめに設定したうえで、無理のない弾き方を模索し、人の演奏に耳を傾け、自分の感性と照らし合わせ、できる範囲で挑戦する。
こんな楽しい実験はありません。
自分が楽しめる演奏になるまで、頑張りましょう!
って誰に言ってるんだろう(笑)失礼しました!
メリーミュージック 野村謙介

緊張の中の演奏は…

皆様。いかがお過ごしでしょうか?
秋の気配が深まるこの頃です。
先日、出演者とご家族、スタッフだけで発表会を実施しました。
14組の演奏に私と浩子先生も1曲演奏。微笑ましく、感動的な時間でした。
発表会を「不特定多数の人に演奏を聴かせる場」だから「しょばだいはらえ」と言ってくる、やくざまがいの組織がありますね。ひどい話です。
発表会は自分の演奏を発表する場ですが、それは不特定多数の人に聞いてもらう音楽会とは全く意味が違います。そんなことさえわからないのは、知能が低い組織なんでしょうね(笑)

そもそもアマチュアに限らず、音楽を演奏することは人間の自由な行為です。例えば家の中で一人、好きな楽器で好きな曲を弾いていたら、誰にも気兼ねなく、遠慮することもなく、当然誰からも「ちょさくけんがぁ!」と吠えられることもないですよね。それでも「外に音が漏れているかもしれなから「ちょさくけんがぁ!」爆笑です。そもそもこの「しょばだい」が著作権所有者に支払われていない事実。「一部払っている!}とか吠えてます。あほ!(笑)一部に払うなら、一部から取れ!!詐欺集団

さてさて、話を戻します。
緊張感の中で演奏することは、演奏を上達させるだけではありません。様々な場面、音楽とは無関係な生活にも影響すると思います。
緊張すれば思うように弾けないのが普通のことです。身体の筋肉が無意識に硬直し縮こまります。頭の中では冷静に感じていても、身体が思う通りに動かない!それこそが緊張です。

人間に限らず、わんこやにゃんこも緊張しますよね。知らない場所に初めて行ったとき、知らない人に近寄られたとき。
我が家の姫、ぷりん(女の子にゃんこ=トンキニーズ5歳)の例でいえば、
生徒さんが毎日のように自宅に来られるので、人が来ても緊張しないようになりました。自分に危害を加えない生き物なんだと学習したんですね。
そんなぷりんですが、いまだに地面(家の外の)を踏んだことがありません(笑)
今まで万度も、スリング(袋のような抱っこできるケージ)でお散歩に出かけましたが、そのたびに緊張しまくりです(爆笑)怖いんでしょうね。一緒に私たち夫婦がいることはわかっていても。

緊張しないようになるための唯一の方法は「学ぶこと」です。
ぷりんが学んだように、経験から学ぶしかありません。いくら暗示をかけても多少は緊張はします。
学び始めのころは、緊張したあとに「挫折感」「後悔」しか感じないものです。「二度とやらない」と思うこともあります。
それでもその緊張感の中で自分が演奏した録音や映像を何度も何度も見ることが絶対に必要です。それ自体が「学び」なのです。

音楽に限ったことでいえば、プロの中でも「ソリスト」と称される方々の演奏と、それ以外の演奏者の演奏は何か違います。一番の違いは「一人で演奏する場数の違い」とも言えます。もちろん、ソリストの練習や努力が人一番、人10倍であることは間違いありませんが。
緊張感の中で自分の思った通りの演奏ができるように、少しずつ成長していくものだと思います。生まれつきの天才演奏家なんて、過去にもこれから先も現れないと思っています。学習の成果の違いです。
緊張してうまく演奏できなかったから、二度と緊張したくないと思うのなら、それはそれで趣味の世界であり!です。
でも!上手くなりたいのなら緊張しながら演奏することに慣れるべきです。緊張するのは当たり前。緊張したら失敗するのも当たり前。その失敗を思い起こし研究し、繰り返し練習してリベンジすることの繰り返しこそが、上達の秘訣だと信じでいます。

な~んて偉そうなことを、ソリストでもない私が書いて説得力が1ミリもないのは承知の上ですが、自分がうまくなりたい気持ちだけは持っているので、皆さんと共有できればと思い、書きました。お許しください。

メリーミュージック 野村謙介

自己暗示のススメ

皆様、お元気でしょうか。野村謙介です。
教室では発表会の追い込みレッスンが続いています。
多くの生徒さんが自分の出来なかった新しいことに挑戦しています。素晴らしいことです。子供も大人もみんな立派な演奏家です。

さて、話は「自己暗示」という、ちょっと難しそうなタイトルですが(笑)
要するに「どうすれば弾けるようになるのか?」という壁にぶつかったり、もうすぐ舞台!あぁぁぁ!(笑)そんな時に役立つ方法です

「弾けない」「うまくならない」「やってもどうせ失敗する」
そんな気持ちになった経験は誰にも思い当たるはずです。私はありました。いわゆる「コンプレックス」も加わって頭の中がグルグル回る。
一体、誰と自分を比べているのかさえ考えられなくなります。比べる必要のないのに無意識に優劣を考えたり、自分自身の中でも成長していないと思いつめたり。ありませんか?

私が高校生の頃に初めて覚えた「自己暗示」という言葉ですが、アスリートたちがインタビューに答えている言葉の中にも、同じ意味のことを話していました。会場中の目が自分に向いている。失敗したら…。プレッシャーに押しつぶされそうになり、練習してきたことすら自信に思えない。
私が最初に覚えた自己暗示訓練法は「手のひらが温かい」「手のひらが温かい」「腕が重たい」「腕が重たい」「額が涼しい」「額が涼しい」これを実際に口に出して実際に手のひらが温かくなるイメージをできるだけ強く何度も何度もイメージします。何日か繰り返すうちに、本当に温かくなった「気がした」と思っていたら実際に温かった!
この実験は科学的にも実証されています。サーモグラフィで調べたら温度が高くなっています。

たただ手のひらが温かくなるだけ?それだけ?
このトレーニングをするうちに、自分の体を自分の意志でコントロールできることを「確信」します。これも自己暗示の一つです。
練習で落ち込みそうになった時、自分は下手じゃない。うまくなってきた。必ず弾けるようになる。それを自分に言い聞かせます。イメージを持つことが現実に繋がることを「手のひら」で体験していますから。

ぽジティブな考え方を出来る人とネガティブな考ええの人がいます。
おそらくどちらの人も、無意識に自己暗示にかかっています。
前者(ぽジティブ)の人は、「なんとかなる」「きっとうまくいく」という暗示を自分にかけています。後者(ネガティブ)はその真逆の自己暗示「できない」「きっと失敗する」と無意識に暗示にかかっています。
あなたはどちらですか?

性格だからと思い込んだり、どうせ気休めだからと思うより、まずは自分の無意識な思考を意識することから始めませんか?
無意識を意識するって無理?いいえ!できます!少なくても「無理だ」と思い込んでいる自分に「なんで無理って決めるの?」と問いかけてみてください。あきらめずに考えていると、ただ何となく無理なような気がするだけで、それ自体が無意識に決めていたことに気付くはずです。

大人の趣味「楽器の演奏」には、そもそも「無理」なんてありません。
比較する必要もありません。自分が好きなように弾けばいいだけです。
そして何より自分自身の演奏に耳を傾けて、いい音が出ていることを楽しみ、上手に弾いている気分になることです。なりきりましょう。
あなたにしかできない演奏です。失敗することより、上手くいくことをイメージしましょう。自己暗示は誰にでもできる最高の上達方法です。

メリーミュージック
野村謙介

おかげさまで60歳

皆様、いかがお過ごしでしょうか?秋の虫たちが美しい歌声を聞かせてくれています。

2020年9月30日、今日は水曜日。
私、野村謙介は60回目の誕生日を無事に迎えることができました。
皆様のおかげです。ありがとうございます。
私を産んでくれた母が亡くなってからまだ3か月しか経っていないことが不思議な気持ちです。頑固で偏屈だった父が亡くなってちょうど3年経ちました。

学生のころ、薄暗い場所で何も見えない自分が将来、大人になっても生活できない。仕事なんてできない。大人になりたくないと思っていました。周りにいある他の人と自分の「できることの違い」がものすごく大きく感じていました。
中学、高校と成長して両親とも毎日のように喧嘩をしました。兄とも話をするのも嫌でした。ひどい反抗期でした。
大学生になって自分のできることに、ほんの少しだけ広がりを感じました。同時に生きることへの不安は薄らぎました。友人との遊び、練習、何より大学生活を「お祭り男」として過ごしました。年に一度の文化祭に異常な情熱を感じていました。(笑)
大学卒業の延期…簡単に言えば「留年」で私の人生は大きく変わったのかもしれません。ヴァイオリンを弾いて生活する「卒業後」の予定が、中学・高校の教壇に立つことになろうとは。
大学4年の卒業試験で自分の演奏を初めて高く評価されたことを、師匠から留年と同時に激怒されながら教えられるという貴重な経験もしました。

教員になったのが25歳、長女が生まれたのが30歳。2~3年働いたらやめるつもりだった教員生活なのに、生活のためにやめられない状況になっていました。ヴァイオリンはケースを開ける時間も気力もなく、うっぷんを晴らすようにオーケストラを指導することに没頭しました。年収は高かったですね。公立中学・高校の先生方とは比較にならない高給でした。その分、ストレスも半端なく(笑)命がけの19年と8か月。
やっと学校を辞められると思っていたら、いきなり本当の地獄に落とされました。自分の音楽教室を経営し朝から夜まで休みなしで働きながら、抗うつ薬の影響で、立ちながら意識のない状態でレッスンを続けていました。そこから約3年をかけて、完全にうつ病を克服しました。

浩子との演奏活動再開が、第二の人生をスタートさせました。
高校時代のマドンナ、大学時代の憧れの片思い相手(笑)。
生きること、楽しむこと、演奏すること、人と接すること…
すべてが今までは大きく変わりました。
両親も喜んでいました。もとより父はその時もまだ「うつ病」でしたが。
両親が有料介護施設で暮らすようになり、兄との関係もいつの間にか「仲良し兄弟」に変わっていました。

これから先の人生が、今までの時間よりも短いことだけは間違いありません。「老後」とか「余生」とか考えたくもないのは、私が「死ぬことへの恐怖」が弱いからかもしれません。もちろん、一日でも今と同じように暮らしていたいと思います。それでも、もしかしたら自分の目が見えなくなる日が来るかもしれません。その日がいつなのか、誰も知りません。こないのかも知れません。考えても無意味だし、心配しても無意味なんです。だからきっと、昔の自分と違って少しはポジティブになったんなと思います。
今は、浩子とぷりんというふたりの姫のお陰で毎日を楽しませてもらっています。たまに、ぷりんに噛まれますけどww
今日この日を迎えられたのは、自分の力だとは思っていません。家族や助けてくれた、たくさんの人たちの力です。一度、失いかけた命です。人は弱いものです。瞬間的に自死を考え行動してしまいます。「自分だけはそんなことはしない」と誰もが思います。違います。本当に怖いのは「発病の瞬間」です。病気になってから苦しんで、治る前に自死をする人もいます。それより恐ろしいのは、自分がうつ病になったことを感じる前に襲う「絶望感」「死にたい」という衝動的な気持ちです。本当に突然、襲ってきます。
自死をする人を「特別な人」扱いするのは間違いです。誰にでもその可能性はあるのです。

あれ?話がそれまくった(笑)ごめんなさいww
とにかく!これからも皆さんのお力をお借りして、一日でも楽しく生きていこうと思っています。末永くお付き合いください!
よろしくお願いいたします!
野村謙介


演奏家と指導者

回のテーマも私の私見ですのでお許しください

職業として音楽を演奏する人を「演奏家」と定義してお話します。もちろん、趣味で音楽を演奏する人も「アマチュア演奏家」ですから演奏家の仲間ですね。世界中にたくさんの演奏家(職業演奏家)がいますが、その多くの方は指導者によって育てられた経験を持ています。完全に独学だけで演奏家になった人もいらっしゃることは知っていますが。ある人は幼少期からプロになるまで一人の指導者に師事し、ある人は複数の指導者に習いながらプロになります。どちらが良いとは言えません。それぞれに理由があってのことですから。

素晴らしい演奏家が素晴らしい指導者とは限りません。その逆も言えます。また、どちらの面でも素晴らしい方もいらっしゃいます。

問題は多くの方々が「演奏家の方がすごい・かっこいい」とか「音楽家として指導者は当たらない」という誤った発想です。

私は素晴らしい指導者の先生方に恵まれて育ちました。初めてヴァイオリンを手にした時に手取り足取り(足はとられてない)教えてくださった師匠。その後も、通っていた公立中学校で音楽のたのしさを教えてくださった音楽の先生、聴音とソルフェージュ・楽典を短期間で桐朋合格までたたき上げてくださった先生。ヴァイオリンの厳しさと基本の大切さを教えてくださった久保田由美子先生。不出来の弟子を最後まで優しく支えてくださった久保田良作先生。本当に素晴らしい指導者の方々に巡り合えたのは奇跡だと思います。

演奏家になりたいと思う気持ちは音楽を学ぶ者にとって共通の「夢」かも知れません。最初から指導者になろうと思う人は少ないのが普通です。だからというのではありませんが、演奏家>指導者という妙な不等式が「なんとなく」認められてしまっています。大間違いです。大嘘です。指導者が優れているから未来の演奏家が生まれます。演奏家は自分をし立ててくれた師匠は尊敬するのに、自分は指導者は目指しません。教え子にも目指させません。なぜでしょうね。やっぱり指導者は演奏家より「下手な人がなる」と思い込んでいるんでしょうか。はっきりいって「あほ!」と言ってあげたいです。

私の母校である桐朋学園大学に限ったことではないようですが、多くの指導者(先生)が母校ではない学校で教鞭をとられています。その先生を悪く言うのは間違いです。私は、学校経営者がおかしいと思います。音楽の学校は演奏家・音楽家を育てる学校です。その指導者はその学校の宝であり、なによりも学生にとって師匠なのです。その先生を大切に思う経営者なら間違いなく母校出身者を教授陣にするはずです。もちろん、人材がなければ例外もあると思います。

一方で私が勤務した私立の普通科中学・高校では卒業生から教員を採用していましたが、恐ろしい一面があります。採用するのは学校法人であり人事権は理事会にあります。が現場の長である学校長の「好きな卒業生」を採用するのが、当たり前になっていました。能力より「校長に従順である人物」が採用されます。これ、学校として間違っています。

若い演奏家の方、そして今音楽を学んでいる方、なにより、子供たちに音楽を教えている先生方。どうか!指導者に尊敬と誇りを持ってください!演奏家を目指すのも夢なら、一人でも多くの演奏家と指導者を育て上げるのも大きな夢です。演奏家より指導者が重要な世界です。日が当たって目立つのは演奏家ですが、指導者の優劣こそが音楽の世界をはぐくむ大切な「音楽」であることを伝えたくて、生意気な文章を書きました。お許し下さい。

メリーミュージック代表 野村謙介

感染者を悪者にする本当の悪者

皆様。ご無事でしょうか?
今日(2020/08/12)も新型コロナ感染は広まっています。
そんな中で「感染者」をまるで悪人扱いする人がいることに
人間として恥ずかしくないのかと心が痛くなります。
病気になった人を「悪い人」「弱い人」と思い込む人間は
はっきりいって「バカ」でしかありません。
病気になりたくてなる人はいません。
ならないようにしていても、なるのが病気です。
そんな小学生でもわかることさえ、理解できない人。
まるで自分が「世界を救うスーパーヒーロー」だと思い込む人。
「イソジン吉村」うがい薬でコロナウイルスに勝てる!
ほぼ「漫画」の世界です。それが首長?笑うしかありません。
マスコミまでが「感染者が悪い」「感染者が出た〇〇××が悪い」
みなさん。おかしいと思いませんか?
生活のためにお店、コンサートを開いたら感染者が出たとします。
それを責める権利なんて誰かにありますか?
お店を閉め、コンサートをやめたらだれがお金をくれるんですか?
休んでいても会社からお金をもらえる人ばかりですか?
他人の痛みのわからない人間は、私に言わせれば「外道」です。
お友達企業からの見返りがほしくて行う「感染拡大増大トラベル」
国民がやめて!と言って、知らん顔。
自治体が市民に支援をしても、国は「ガン無視」
私たちは他人に支えられて生きています。
そんなことさえわからない「外道」は許してはいけないと思います。
みんなで弱い人を守りましょう。
感染患者は「被害者」です!

心不全で入院~退院

2019年6月7日(金)~2019年6月22日(土)
東京医大八王子医療センターに緊急入院しました。
最終的な病名「拡張型心筋症」でした。
緊急入院当初、心不全の状態でした。
生まれて初めて、命に関わる病気にかかりました。

16日間の入院生活で多くのことを学びました。
人の優しい気持ちが、他人の命を救うこと。
生きることへのエネルギーは他人の優しさが源。
病気に気づくことは、自分の無理な生活に気づくこと。
収入のためだけに生活すれば、生きることさえ、できなくなる。
入院生活で知る、高齢者の言動に見るエゴイズム。
患者に接する、看護師や医師のスキルとチームコミュニケーション能力。

今でも心臓は通常の30~50パーセント程度の働きしかしていません。
でも、心不全の状態から完全に脱しました。
さらに言えば、ここ数年来の体調の中で、
最高に良い状態です。
つまり、数年前から私の心臓は日々、弱り身体に警告を出してたんです。
拡張型心筋症は治療法のない難病指定の病気です。
血圧を下げ、尿を出し、心臓の動きを助ける薬を飲み続け、
一日の塩分(6~8ミリグラムまで)、
一日水分摂取量を800~1000ミリリットルに抑えることで
体液の増加を抑え、心臓の負荷を減らしますt。
さらに週に3~5日、有酸素運動をすることで、
血圧維持(心臓のポンプ機能の促進)を心がけます。

「生活に気を付けること」が「生きるための必須」になりました。
今までの自分の「真逆」です。

浩子先生の介護がなければ、入院生活はできませんでした。
「夫婦だから」なんて薄っぺらいことではありません。
人間の他人への優しさが、その他人の命を救うことになります。
それは多くの友人、先輩、後輩、生徒さんからのメッセージや、
お見舞いに来てくださった人との会話からも感じました。
言葉やお見舞いでなくても、レッスンを待っていてくれる生徒さんの
優しさにも、感動して涙が出ました。

ありがとうございました。

病室のほとんどは高齢者、75~90歳の方でした。
人間のエゴイズムは高齢になり、他人の手を借りて生きるようになると
一気に表に出ます。同室にいて、何度となく怒鳴りたくなりました。
耐えましたが(笑)
家族には弱弱しく「助けてオーラ」を出しながら
掃除のスタッフには「今やるなよ!」「あっちにいけよ!」と大きな声で同じくらいのお掃除スタッフを怒鳴ります。。いや怒鳴れます。
担当医が来るとまた「私だけ助けてくださいオーラ」全開。
何人もいました。自分はかわいそうだ。他人にそう思ってほしい。
自分より下だと思う人間には、同情されたくない。関わりなくない。
人間の一番、醜い部部です。

医療センターは若い看護士や研修医が患者に接します。
それを先輩が指導とフォローをし、さら士長や教授が部下を統括します。
入院中の山場、心臓にカテーテル(細い管)を入れる検査の当日、
私の「検査予定時刻」が看護師と医師の間で混乱しました。
医師チームは前日に「明日は午後一番で行います」と私に直接伝えてくれました。
その情報が、看護士たちに伝わりませんでした。
私が新人の看護師に厳しくい言ったのは…
「連絡ミスは仕方ない。あなたたちは午前中の予定で動いている。
先生たちは午後の予定で動いている。どちらかが正しい。
あなたたちの間違った準備が、結果的に命に係わるミスになるかもしれない。
すぐに調べなおせ!」
士長が医師団に確認し、私に誠心誠意謝ってくれました。
医師と看護士のコミュニケーション不足が招いたミスでした。
これは自分の仕事に置き換えて反省しきりです。

数年間より元気に感じる今、
数年間悪くなり続けていた心臓からのメッセージに耳をふさぎ
逃げるように仕事に没頭した「天罰」でした。

出所(退院)し建物から2週間ぶりに娑婆(外の世界)に出て
帰宅し、ぷりんを抱っこし、珈琲を入れて数口、飲んで…
今日からの生き方を考える野村でした。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

メリーミュージック代表 野村謙介

究極のアンサンブル

ベルリンフィルハーモニーオーケストラのチェロメンバーによるコンサート「ベルリンフィル12人のチェリスト」を聴きにサントリーホールへ。
2年に一度ほどの来日公演を毎回楽しみにしている私たちです。
ご存知の方も多いかと思いますが、ベルリンフィルは世界最高峰の演奏技術と長い歴史を持つオーケストラです。運営を団員自らが行うことも特筆すべきことです。現在は、サイモン・ラトルという指揮者が指揮をしています。昔はあの、カラヤンが指揮者でした。そのベルリンフィルのチェロメンバーが単独で演奏会を開くようになって40年以上経ちます。日本では1973年に初めての演奏会を行いました。
多くの動画やCDが世界に広がっていますが、オリジナルのアレンジによるクラシック、ジャズ、映画音楽、タンゴなど多彩なレパートリーを持ちます。
一人一人の演奏技術は、考えれば当たり前ですが「世界一の技術」です。
その一人一人の演奏技術を12人で一つの音楽に仕上げます。
通常、ソリストが集まってアンサンブルをした場合の演奏会が多く行われます。それはそれで素晴らしく、聴きごたえのある演奏です。
また、このベルリンフィル12人のチェリスト以外にも、世界中のオーケストラで団員によるアンサンブル演奏会が行われています。

ではこの12人の演奏の何が?私たちの心を動かすのでしょう?
とても簡単には言い尽くせませんが、あえて一言で言うなら「伝統と人間性」だと感じます。
長い歴史を持つアンサンブルです。メンバーも変わっていきます。演奏会場や時代の音楽も変わります。その中で毎年、あるいは毎日、メンバー同士のオーケストラ「チェロパート」としての活動を伝承しています。チェリストたちの演奏会も同じことです。彼らが演奏会を開き、またそのための練習をするときには「ベルリンフィルは合奏できない」つまり演奏会も練習も成り立ちません。そのことを、他のメンバーが納得したうえで彼らは演奏を継続しています。これも伝統です。そして、オーケストラメンバー、チェリスト一人一人の「人間性」が問われます。
プロのオーケストラ。しかも世界トップのオーケストラです。聴衆の期待も世界一です。その期待に応えるための「企画」は前述したとおり、自主運営だからこそできるものだと思います。メンバー全員がお互いを認めなければ絶対にこの企画は成り立たないはずです。
チェリストたちの演奏会を聴いていて思うこと。

「誰も犠牲にならず全員が主役」だと感じます。
もちろん、12人が演奏していて指揮者はいません。扇形に配置された演奏位置で、お互いが全員を見ることができる配置です。
とは言え、歴然と「トップ」がいます。全プログラムの中で、次期トップがトップの席で演奏する曲もあります。これが次世代のアンサンブルへの伝承なのです。そのトップが曲の中で「休み」になっている時間もあります。
オリジナルのアレンジは曲によって、12人全員がおそらく全員違う音を出す瞬間もあるように聞こえ、ある時は12人が4つ、6つのパートに分かれていることもあります。その時々に全員が自分の楽譜だけでなく、隣のメンバー、さらにその隣…全員が何をしているのかを把握しています。そうでなければできない演奏です。
これは想像ですが、練習の段階で12人「以外」のメンバーの助言があるはずです。「バランス」を指摘する「13人目のメンバー」です。
聴いていて「絶対!ヴァイオリニストがどこかに隠れて弾いている」と感じる瞬間、「バンドネオン奏者が隠れている」「トランペットが」「打楽器が」そんな音色の多彩さは個人の演奏技術の高さだけではなく「バランス」を完全に把握しているからできる技だと思います。
プログラムはどの曲も短く、最後のアンコールまで「飽きない」演出です。
そのすべてのプログラムが綿密に計算されたバランスで演奏されます。
時には心憎い演出もあります。うまい!だけではなく、楽しい・すごい・悲しい・不思議という人間の感情が自然に湧いてきます。
彼らの人間性が音に現れます。舞台上で、聴衆に対して礼を重んじる姿勢も感動的です。おざなりな「挨拶」はしません。世界一の演奏者なのに「おごり」がまったくありません。むしろ「謙虚さ」を感じます。すごいことです。

この演奏を聴くと、アンサンブルってなに?と改めて考えさせられます。
私の勝手な評価をさせてもらえれば
「彼らの目指す演奏は音楽の神に近づくこと」
彼らの演奏は世界無二のものです。比べるものはありません。
その演奏を生で聞くことができる幸せを感じています。

メリーミュージック 野村謙介

音楽大学オーケストラ演奏会で

私が桐朋学園大学を卒業したのが1984年です。
「大昔の人」と言われて否定できない年齢になりました(笑)
先日、おそらく何十年ぶり(?)という位久しぶりに、音楽大学のオーケストラ演奏会を聴きに行きました。
大学の敷地の中に、立派なホールを持っている時点で驚きます。
ご存知のように私の母校「桐朋学園大学」にはホールがありません。
世界に名だたる演奏家を輩出した大学なのに、ホールがない!
私の在学していたころ、オーケストラの定期演奏会は「都市センターホール」でした。ごくまれに(数年に1度)国内に演奏旅行に行った記憶があります。
先日の定期演奏会を聴いた第一印象は、「あれ?こんな程度?」というちょっと残念なものでした。
期待過多…と言えばそれまでなんですが、演奏している学生(卒業生も多い)の個々の演奏技術が物足りないのか、それとも演奏会への意思が弱いのか?
9倍まで拡大できるウエラブルを使って見ていて、演奏者一人一人の演奏を見て確認できました。中には明らかに「音楽を理解している動き」の人もいました。一方でただ、弾いているだけの人がたくさん。これは、「見た目」の問題ですが肝心の「音」についても、管楽器・打楽器のソロは正直に言って、一般大学のオーケストラと比較してもお粗末な印象でした。ピアノコンチェルトの独奏者も、大きなミスは感じなかったものの「音大生」という印象は受けませんでした。
辛口!な感想ばかり書いてしまいましたが、ごめんなさい。
「昔はよかった」と言うつもりは毛頭ありません。
逆に「今はこんなもんだよ」と言われれば受け入れるしかありません。
老婆心で言えば、学生の音楽への情熱を感じられなかった原因を考える必要があると思いました。
「学生を一でも多く集める」
「入試のレベルを下げ、学生が入りやすくする」
「集めた学生が楽に卒業できるようにする」
「大学の知名度を上げるために知名度の高い音楽家を招く」
「校舎や施設(構内ホール)を整える」

このルーティンで学校法人は間違いなく運営できるでしょう。
ただ、学生の「質」が置き去りにされている気がします。
入試の敷居を下げることには異論はありません。
問題は、入学後「学ばなければ卒業できない」「学ばないと意味がないと感じられる」内容が伴っていない気がします。
学生それぞれの専攻によって「学ぶべきこと」は大学が決めることです。
学ぶべきことを学生に一任するのは正しいとは思えません。何が必要なのかを知らないのが学生なのですから。
そして、楽器を専攻する学生に対し卒業後「プロとして」通用する技術能力、知識を学ばせることを大学がしなければ、一般大学と何も変わらないと思うのは私だけでしょうか?
「趣味として」楽器を演奏するのであれば音楽大学で学ぶ必要はないと思うのは偏屈でしょうか?私は趣味の演奏を指導して生活しています。だからこそ、音楽大学では「専門的な指導」をしてほしいのですが。

誰でも入れて、誰でも出られる音楽大学

これが現代の音楽大学の「普通の姿」なのだとしたら、とても悲しい気持ちです。
もちろん、学生の中には本気で学び、プロを目指し、卒業後も研鑽を積んでいる人がいます。その人たちとの交流もあります。すべての音大生が「怠けている」とは言いません。「怠けていても指導しない音楽大学」に対しての意見です。
多くの音大指導者がお友達にいらっしゃるので申し訳なく思っています。
「音大は音楽を学ぶ大学」であってほしい!だけです。
メリーミュージック 野村謙介