性格と演奏の関りを考える

 映像はカッチーニ作曲「アヴェ・マリア」です。
今回のテーマは、人それぞれの「性格」と演奏技術の関りを考えるものです。
 そもそも性格は自分自身で感じるものと、他人から見た自分の性格は違うことがあります。
性格を表す言葉として、どんなものがあるでしょうね。
1.主に「良い性格」として使われる表現
・陽気・朗らか・ポジティブ・前向き・社交的・穏やか・優しい・我慢強いなど
2.「良くない性格」と感じる表現
・暗い・陰気・ネガティブ・後ろ向き・内向的・挑発的・暴力的・短気など
3.良いとも悪いともとれる表現
・呑気(のんき)・おっとり・あっさり・こだわりが強いなど
他にもたくさんの表現がありますが、生活する中で自分が感じる「感情」や「行動」でも、性格を感じることがあります。
・失敗したり思ったように出来ない時の感情と行動
・出来るようになるまでの集中力と持続力・持続時間
・他人との関りの好き嫌い
・人生観
 子供の場合には、周囲の大人が感じる「性格」があります。兄弟でも大きな違いがあります。
成長につれて自分の行動や感情を「抑制」することが増えます。社会性とも言えますが、性格によってストレスに感じる人も多いのも事実です。特に他人との関りがある場面で、他人の行動や言動が我慢できないほどの「ストレス」に感じることがあります。
 電車の中で大声で話している人を「不快」に感じる度合いは、人によって違います。
マナーを守らない人への「苛立ち」も人によって違います。極端な例えで言えば、犯罪を犯す人の「心理」は通常の人には理解できないものですよね。と言いつつ、車の運転をする人で一度もスピード違反をしたことがない人や、駐停車禁止違反をしたことがない人は「誰もいない」のが現実ではないでしょうか?他人の違反は許せないが自分の違反には甘い…と言うのも一種の性格です。

 音楽を演奏する人にも、それぞれ違った性格があります。その人の性格が演奏に表れます。恐らく練習の段階に性格の違いが大きく関わると思います。結果として人前で演奏する音楽に「人柄」や「性格」がにじみ出るのだと思います。いくらにこやかな「演技」をしても、演奏が「押しつけがましい」「独りよがり」に感じてしまう事もあります。逆に演奏中の穏やかそうな表情や動きと裏腹に、情熱的だったりエネルギッシュな演奏に驚くこともあります。
 自分の性格が無意識に音楽に出てしまう事は避けられれないことです。頭~=理性でコントロール出Kない「癖」や「好み」が自然に演奏に表れます。
1.演奏にマイナスに感じる性格
・せっかち・押しつけがましい・攻撃的・我がままなど
2.聴く人にとってプラスに感じる性格
・おおらか・繊細・優しい・情熱的
3.良くも悪くも(笑)感じられる性格
・こだわりの強さ・臨機応変=こだわりの薄さ・思い切りの良さなど
 レッスンを受ける側、教える側でお互いの性格が「合う」場合と「合わない」場合があります。
一言で言えば「相性」です。短気な指導者とのんびりした弟子の組み合わせは「不幸」です(笑)
こだわりの強い指導者に、こだわりの薄い弟子の組み合わせもお互いが無駄な時間を過ごすことになります。
 性格の一致と不一致は、人間関係の難しさの象徴です。考え方が近い人同士なら、お互いにフォローしあえます。性格の合わない人と一緒に演奏しても、ひとつの音楽にはならないものです。
 演奏する人数が多くても少なくても、結局「協調」することができる人でなければ、音楽を一緒に演奏することはお互いを否定しあう結果になります。
 演奏に向いた性格があるとしたら?
1.協調性がある
2.ポジティブな思考ができる
3.穏やかな性格
だと私は感じています。…すべて自分に足りないものでした(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽の流れ=時間と風景の流れ

 映像はチャイコフスキー作曲のピアノ曲をアレンジした「ノクターン」です。主にチェロで演奏されることが多いのですが、ヴァイオリンとピアノで演奏しました。
 シンプルな和声進行と心に残る旋律が大好きです。
今回のテーマは、音楽の流れを「時間経過」と「風景(空間)の動き」に置き換えて考えてみるものです。

 音楽を「楽譜」として考えることもできます。また「音」として考えることも大切です。


 楽譜として考える場合は「音を記号化したもの」であり、音楽はその記号を音にしたもの…と言えます。
 楽譜は「縦軸」が同時になる「音の重なり」を表します。映像に例えるなら「静止画」です。時間を「切り取った」ものでもあります。「横軸」が「音の連なり」です。左から右に順序良く「連続した音」です。
 この縦と横「2次元」の記号が演奏者によって「音楽」になるわけです。

 音楽を「音」として考える場合には、記号と違って「最低限の時間の長さ」が必要です。どんなに短い音であっても、人間が「音」として感じられるだけの時間が必要だという意味です。また人間の耳に聴こえる空気の振動が「音」ですが、聴こえやすい音と聞き取りにくい音の「高さ」と「大きさ」もあります。高すぎると聞こえにくく。低すぎる音は音の高さの違いを感じにくくなります。ピアノで演奏できる音の高さは、88鍵盤のピアノでAを440Hzにした場合、およそ27.5 から 4186Hzです。人間が音として聴こえるのが、20~20,000Hzですから、ピアノの最低音は、ほとんどの人にとって音の高さを聞きわける限界に近い低さです。最高音はまだ余裕がありますね。最高音のオクターブ高い音が、約8300Hz。さらにオクターブ高いCが約16,600Hz。音楽に使える音ではありませんが。
 話が横道にそれましたが、「音」として音楽を考える場合には「時間の経過」と共に変化する「高さ」「強さ」「音色」を感じることになります。

 ここからは、音楽を「目に見える風景」として考えてみます。先ほど「静止画」の例を出しましたが、「動画」は静止画を連続して少しずつ変化させたものです。人間が「錯覚」して「動いている」と認識しているものです。
あれ?実際に動いている「物「や「人」を見ている時にも錯覚しているのかな?物理の世界ではそれが正解です。
物体に「光」と言う波=素粒子の一つがぶつかります。それを私たちの「網膜」と「脳」が「見えた」と感じているのです。ですから厳密に言えば「物が動いているように感じる」のが「見えた」と言う感覚です。あ。また話が反れた(笑)

 小川の流れを立ち止まって見ているシーンを想像してください。自分は止まっているのに「水が動いている」ことになります。周りの風景は動きません。
 では小川にボートを浮かべて、川の流れに乗って「水と風景」を見たらどうなるでしょうか?水は止まって見えます。周りの風景が「動いているように見える」はずです。
 進行方向に向かってボートに乗っていれば?
これから自分に「近づいてくる」ものと、止まっているように見えるボートが見えます。後ろ向きにボートに乗れば?これから近づいてくるものは見えませんよね?川の水とボートは同じように止まって見えますが、風景が自分から「遠ざかっていく」連続になります。

 前者が「音楽を演奏する人」で、後者(後ろ向きにボートに乗っている人)が「音楽を聴く人=聴衆」です。
 演奏者は「これから近づいてくる」音=風景を知っています。聴衆は?「聴こえてきた音楽=風景」が過ぎ去っていくのです。どんな風景が見えてくるのか?もしかすると、この先に急流があったり、緩やかになったりすることがあるのか?演奏者は知っていますが、聴衆は過ぎていく音に驚いたり、癒されたりします。
 演奏者が後ろを向いてボートに乗ったら?(笑)
船頭さん(普通は船長さんという)が後ろを向いていたら、ボートがひっくり返りますよね?お客様は楽しむ以前に命が危ない。
 演奏者は次に「現れる風景」を大きくしたり、小さくしたりできます。明るくしたり暗くしたり、遅くしたり速くしたりできるのです。その「差」が大きいほど、聴く人は驚いたり癒されたりします。風景が「楽譜」だとしても、ボートの速さを変えることも、出発する時間を変えて明るさを変えることもできます。演奏者が自由に「演出」できることはたくさんあります。

 演奏者は何度も練習して「次の音」を間違えないようにします。それがいつの間にか「足元だけしか見ない」演奏になっていることがあります。当然ですが、次の音を飛び越えて三つ先の音を演奏することはあり得ませんよね(笑)次の音がちゃんと弾ければ「よしっ!うまくいった!」と思うのが演奏者です。それをすべての音符ごとに連続するのが「演奏」です。でも、足元だけ見てハイキングを楽しむ人はいなせんし、ボートに乗ってずーっと、船の舳先(へさき)だけ見ている人もいないと思います。安全に山道を歩くだけなら「足元だけを見て歩けば転ばないかも知れませんが、その先に「崖(がけ)」ああることに気付くのが遅れれば?恐ろしい…
 演奏する人には「先を見ながら足元を見る」ことが求められます。聴く人は「過ぎ去る風景を楽しむだけ」で良いのです。もちろん、演奏者も風景を楽しむ権利(笑)があります。自分の演出した「風景」で聴いてくれる人が喜ぶ姿が何よりも嬉しく感じられるのも「転ぶかもしれない」恐怖を乗り越えたご褒美でもあります。
 音楽は時間の芸術です。過ぎていく時間の中に生まれるのが音楽です。同じ長さの時間でも、人によって・場合によって感じ方は違います。「時が止まって感じられる」ような演奏も素敵です。逆に「早く終わって~!!と思う演奏は悲惨です。その感じ方が人によって違うのも事実です。
 時間を大切に!ですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音色×音量=個性

 映像はアン・アキコ・マイヤーズの演奏する「シンドラーのリスト」
彼女の個性的な演奏に、昔から惹かれています。グリッサンドの個性だけでなく「指使い」「弓使い」へのこだわりが「半端ない」(笑)もちろん好き嫌いの分かれる演奏であることは否めません。むしろ、自分の「こだわり」が他の人の演奏方法と違う時、多くの場合「否定されることを恐れる」のが人間です。実際、個性が強ければ強いほど「異端児」的に扱われるのも事実です。
 言い換えれば「こだわりのない演奏」が受け入れられるとも言えます。さらに言えば、演奏家が何に?こだわるのか?と言う本質的な問題があります。聴衆からすれば、そのこだわりを感じることで好き嫌いが分かれる結果になります。
 例えがあまりに庶民的ですがこだわりが強い「ラーメン屋」を考えてみます。
「〇〇系」と言われるラーメン屋さんが多数あります。お店を選ぶ側にしてみれば「選ぶ目安」として、自分の好きそうなラーメン屋さんか?と言う基準の一つにはなります。
 こだわりのないラーメン屋とは?店名で判断できるでしょうか?〇〇系と書けば「こだわり」でしょうか?違う気がします。集客力は高くなりますが、ただ〇〇系ラーメンと言うだけで、本当に自分が好きな味なのか?は判断できないはずです。
 ヴァイオリンの演奏に「個性」があるとしたら、あなたは何を第一に挙げますか?
・テンポ・音符休符の長さの設定
・強弱の設定
・音色の設定
演奏中の表情や動きは「音楽」とは無関係です。また「アレンジ」は「演奏のこだわり」ではなく「音楽のこだわり」ですのでここでは触れません。
「正確に演奏できる=失敗しない」ことを個性と呼べるか?には疑問を感じます。他の演奏家より「速く」「はずさずに」演奏できることは素晴らしい技術ですが「個性」とは違います。
 ライブ=生演奏でのこだわりと、録音物でのこだわりは違います。むしろ「音=サウンド」へのこだわりになります。その意味ではホール選びや、立ち位置も「音へのこだわり」ですが演奏のこだわりとは別次元のものです。

 ヴァイオリンの場合、音色の変化と音量の変化の「変化量=幅」が小さい楽器の一つだと思っています。
 音量の幅で考えると「ピアノフォルテ=ピアノ」に比べてはるかに少ない音量差です。
もちろん「音圧=デシベル」として物理的に比較する音量と「音色=波形」として人間が強く感じたり弱く感じる「感覚的な音量」は違うものです。わかりやすく言えば、黒板をひっかく「きー」と言う音は、音圧的に小さくても「不快」に感じ「大きく」感じます。地下鉄車内の音圧と同じ「オーケストラの音」を同じ「音の大きさ」には感じないかも知れません。
 音色の変化量で考える時、音圧で比較するのと違い「波形」と「高低」が大きく関わります。
波形は「正弦波・矩形は」で全く違った音色になります。さらに倍音の含まれ方で波形は変わります。
 倍音は言うまでもなく「音の高さ」でもあり、中心になる=大きい音が442ヘルツの「A」でも、2倍音=884Hz、3倍音=1326Hzの音の含まれる量によって変わります。
 音量とピッチの「違い」は多くの人がこだわることですが、案外「音色」にこだわる人が少ないと感じるのは私だけでしょうか?(笑)
 ヴァイオリンの音色のバリエーションを増やす技術。
・左手の押さえ方(硬い指先・柔らかい肉球(笑)・押さえる力)
・弓を弦に押し付ける圧力(摩擦力)
・弓を動かす速さ
・弓を弦に充てる位置(駒からの距離)
・弓と弦の角度
・弓の毛の量=弓の傾け方
・弓の張り具合=弓の場所による聴力(テンション)の違い
弦の種類を選ぶことは、演奏技術とは別の話です。同様に楽器による個性も技術とは違います。

 音色の個性ではありませんが「ヴィブラートの個性」も大きな個性になります。
速さと深さ=ピッチの変化量・変化の滑らかさを「音」単位で変化できるか?一辺倒=一種類のヴィブラートなのか?で大きな違いが生まれます。ヴィブラートによって「倍音」が変わり、結果的に音色が変わることは事実です。ヴァイオリンのボディー=筐体の中と、演奏していない弦の「残響・共振」現象が起こり、ヴィブラートをしない時とは、明らかに聴こえ方が変わります。

 音楽的な解釈を、テンポと音量の変化などで「言語化」するのは簡単です。比較も容易です。
ただ「音色の個性」を言語化するのは非常に難しいことです。さらに「音量・音色」の組み合わせを考えると複雑になります。特に弦楽器は管楽器や声楽と同様に、一音の中で音量や音色を「無段階」に変化させることができます。ピアノは自然な減衰とペダルによる音量の変化は可能ですが、一音のなかで音色を変化させることは構造上不可能です。(他の音との共鳴を利用することは可能です。)
 音色と音量の「組み合わせバリエーション」がヴァイオリン演奏の大きな個性となります。
右手・左手の運動を組み合わせることになります。演奏の個性を「解釈の個性」と考えることもできます。大きく違うのは「音色」の個性=違いを言語化しにくいという点です。主に音楽の解釈は、音量とテンポの設定で表現されることがほとんどです。他方、演奏の「個性」は音色の個性が際立つものだと思います。簡単に言えば「音の長さと大きさ」を真似することはできても「音色」を真似することがどれだけ難しいか?という事です。
 これからも音色の個性を大切にしたいと考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

暗譜する=演奏を記憶する技術

 映像は明日(2023/10/7)と明後日、長野県木曽町で演奏する予定曲の「一部分」です。今回は二日間で17曲を演奏する予定です。視力の低下と視野の狭窄(きょうさく=視野が消えていくこと)が進行した私には、楽譜を見ながら演奏することが困難…と言うより、無理な状態になってから数年が経ちます。当然、人前で演奏するためには「暗譜」することが必須になりますが、なぜかそれが当たり前になってから、以前の暗譜となにかが違う気がしています。
 暗譜苦手!という生徒さんがたくさんおられます。
楽譜を見ないで演奏することを「暗譜」とするなら、楽譜を見ながら問題なく演奏できるなら、暗譜しなくても(笑)と私も思うようになりました。
 私が幼い頃「暗譜して来なさい」と言われた記憶も、かすかにあります。きっと、練習が足りていなかったから先生が「もっと練習しなさい」という意味も込めて仰った?と反省しています。

 楽譜を覚えることと、演奏を覚えることの違いについて考えます。
 楽譜は「記号」です。文字も記号ですから、文字を覚えることと楽譜を覚えることは、ある意味で同じです。
 文字を覚える…例えば「いえ(家)」という文字と言葉の意味を覚える時期があります。その前の段階で「わんわん」が犬を表し「にゃんにゃん」が猫、「ぶーぶー」が車と言った具合に子供は言葉を覚えます。文字は?まだ読めない時期でも、言葉と「意味」を覚えます。
「音(言葉)と名称・行為」などを記憶する力と、記号を認識する力はどちらも「記憶」ですが、この二つは実は関連している部分と「独立」している部分があります。
 一言で言えば記号(文字・楽譜)を理解するためには、その記号=単語が表す「物・音」を記憶していることが条件になるという事です。
 例えば難しい英語の単語を覚えようとするとき「スペル」だけ覚えることもできます。その場合、単語の「発音」と「意味」は無関係に記憶することになります。
 文字の並び順=スペルを覚えることと、その「発音」「意味」を覚えることは「別」なのです。しかし、覚えた単語には通常「発音」と「意味」が紐づいていますよね?
 スペルだけ覚えるのか?発音も覚えるのか?意味や使い方も覚えるのか?で記憶する「容量」は全く違います。
 楽譜に例えるなら、音符・休符の種類と五線上の音の高さ(音名)だけを「覚える」事も、ある意味で「暗譜した」と言えます。実際に音に出来なくても「覚えた」事に違いはありません。
 その記憶した情報に「音の高さ」を付けて覚えるのが「言葉=声」と同じことになります。ただし「意味」までは覚えていなくても「音・言葉」だけは覚えたことになります。ちなみに「ダウン・アップ」「指番号」「弦」などの要素は、「音・言葉」とは違うものです。
言葉で言うなら「アクセント」が近いかも🅂レません。
「かき」が「牡蠣」なのか「柿」なのか「下記」なのか「夏季」なのか?判別する「語彙」が増えるのも記憶の一つです。音楽でも同じようなことが言えます。
 意味が分かった後に「文章」「物語」「小説」などを呼んで、人物や風景を「想像する」ことも「経験=記憶」があるからです。楽譜を音にして「感情」が起こるのはこの状態だと思います。
 さらに文字を朗読したり「台詞」として演技を伴ったりする場合には、聴く人・見る人に「人物像・ストーリー」を伝える技術が必要になります。その「話し方」は文字(原稿や台本)には書いてありません。自分で考えて時には「記憶」する必要があります。
 音楽の場合には?楽譜を音にして、音から何かを感じ、それを表現する「演奏方法」を記憶することになります。

 暗譜することを「楽譜を覚える」と狭い定義で考えるより「表現の方法を覚える」と考えるようになりました。
落語でも同じですが、たた「文章を覚えてしゃべる」だけでは聴いていて笑う人はいません。噺=はなしの中の「どこで・どのように」声で表すか?が落語です。音楽もまったく同じだと思います。音の羅列を覚えるのではなく、時系列=一音ずつの連続を「ストーリー」として、どの音を・どう弾きたいのか?を覚えることが「暗譜」だと考えると、意外に暗譜は「面白い」と感じるようになります。
ぜひ
お試しください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村健末K

楽器の個性を引き出す演奏技術

 映像は、昨年秋に長野県木曽町で演奏したときのものです。
ヴァイオリンは私が常日頃、使用しているヴァイオリンとは違う「木曽号」と呼ばれている陳昌鉉さんが木曽町に贈られた楽器です。今年も10/7・10/8と11月に同じ楽器を使って、木曽町で演奏する機会を頂きました。今回のテーマは「楽器の個性を引き出す」と言う技術について。

 すべての楽器ごとに異なった「個性」があります。特に構造がシンプルな楽器ほど、その個性は大きな違いがあります。ヴァイオリン・ヴィオラは、ほとんどの部分が「木材」です。それを膠=にかわで接着して組み立てられている単純な構造です。実際に音を発生する「弦」の素材は、大昔の「生ガット」から、ガットの周りに金属の糸を巻き付けた「ガット弦」と呼ばれる弦に進化し、さらにその後にガットの代用として「ナイロン」を使用したナイロン弦が開発されました。金属をガットの代わりに芯にした「スチール弦」も金属加工技術が発達したおかげで、現在も使用され特に「E線」はほとんどの場合、スチールの弦を使用しています。
 弦のメーカーや種類によって、それぞれ「個性」があります。
・音量が大きく音色の明るい「スチール弦」
・音色の柔らかさと明るさ・強さを兼ね備えたガット弦
・ガット弦より安価で種類の豊富なナイロン弦
それぞれに一長一短があります。「どれが良いか?」という結論は誰にも出せません。使用する用途=演奏する楽器や場所・曲・経済力(笑)で選ぶのが正解です。
 ちなみに、陳昌鉉さんはご自身が製作された楽器には「ドミナント」が一番合うと生前に何度も言っておられました。「好み」の問題です。陳さんのお気持ちを尊重し、私が演奏するときに「ドミナント・プロ」を使用しています。

 普段、自分が演奏している楽器とは違う楽器の個性・特色を見極める「観察力」と、弓の圧力や駒からの距離、弦を押さえる「スポット」を見つけ、倍音の含まれ方を聞き分ける「技術」が求められます。自分の耳で感じる「音色・音量」と客席で聞こえるそれは、明らかに違います。
 弾きなれた楽器、演奏しなれた会場ならば曲ごとに、自分で想像することが可能ですが、自分の楽器でもなく初めて演奏する会場だと不確定な要素が多くなります。
 ピアニストの場合には、楽器を選ぶことができないわけですから、ある意味では同じ条件になります。

 「木曽号」と「ドミナント・プロ」の組み合わせで、楽器と弦の持つ「個性」を良い方に引き出す練習をしています。普段の楽器との違いに戸惑うことや、自分の弾きなれた楽器と比較してしまうのは避けられませんが、お客様にすればコンサートでの「音」がすべてです。一人でも多くの方に、気にいってもらえる音色・音量に感じる演奏方法を模索します。
 低音域から中音域・高音域の「聞こえ方」のバランスを取ることがまず第一の「技術」です。4本の弦の「聞こえ方」はすべて違います。

 同じ人が・同じ会場で・同じ曲を、「違う楽器」で「弾き比べ」をすると、音楽に関心のない人でも「何かが少し違う」と感じます。その多くは「音域・4本の弦ごとのバランスの違い」です。
 言い換えれば、演奏者が楽器ごとの「特性=弦ごとのバランス」を見極めて演奏すれば、楽器ごとの「違い」を軽減することもできます。逆に違いを強調することも技術があれば可能です。
「高音が強く出る楽器」という印象を強調するのなら、低音域と中音域(G線・D線)を弱めに演奏すれば良いだけです(笑)し、その逆もできます。そんな「リクエスト」が無い場合には、聴いていて「バランス」の良い演奏を心掛けるのが正しい演奏法だと思っています。

 以前のブログで書いたことがありますが、テレビ番組「格付けチェック」で、ストラディバリウスを言い当てるコーナーがあります。予備知識=直前に回答者の前で弾き比べるなどを行わないで正解することは不可能です。過去に世界中で何度も「プロのバイオリニスト・プロの楽器製作者」が同じような実験をして「判別できない」ことは実証されています。

「良い楽器」とは聴く人が「良い音」と感じる楽器の事です。演奏する人も「聴く人」の一人です。陳昌鉉さんの楽器にも「固有の音色・特色・個性」があるわけで、ましてや演奏する人によって「音色・音量」はまったく違うものになります。プロの演奏が「うまい」と感じる人もいれば、アマチュアの演奏の方が「うまい」と感じる人もいるのが真実です。すべての人にとって「良い楽器・うまい演奏」は存在しません。楽器を作る人・演奏する人の「こだわり」が聴く人に共感してもらえることができれば、みんなが幸せに感じられる瞬間だと思います。
 誰が正しい…という問題ではないのです。個性を認め合う「心の広さ」が演奏者にも聴衆にも広がって欲しいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

慣性の法則とヴァイオリンの演奏技術

 音楽高校、音楽大学「しか」出ていない私(笑)、物理とは無縁の人生だと思っていましたが!
 ヴァイオリン・ヴィオラの演奏をしながら、自分と生徒さんの「運動」を観察し、考えることが増えました。
「考えてないで練習しなさい」はい。ごめんなさい(笑)

「慣性の法則」とは「止まっている物体は止まり続けようとし、動いている物体は動き続けようとする」状態の事を言います。止まっている電車が動き出す時に、進行方向と逆に体が「倒れそうになる」のがこの法則を体感できるものです。ある速度で走っていた車がブレーキをかけると身体が前に倒れたり、止まっている車に後ろから衝突されると、身体が「後ろ」に押し付けられて首をねんざするのも「慣性の法則」が原因です。

 ヴァイオリンの演奏で右腕と左腕に、それぞれに違った「慣性の法則」が観察できます。
1.右腕
①動き始める時・ダウン・アップをする運動
②移弦をするときの運動
2.左腕
①ポジション移動の運動
②ヴィブラートの運動
③弦を「叩く」指の運動

言うまでもなく、すべて「筋肉」を使って意図的に動かすことで生まれる「慣性」です。
上下方向=天井と床方向の運動には「重力」も関わります。楽器と弓の「質量=重さ」や右腕、左腕が下に下がろうとするのも重力です。

 演奏していて「じゃま!」に感じる慣性があります。
1.ダウン・アップ・ダウンと弓を「返す」時の慣性
2.E→A→E→Aのような「移弦を繰り返す」時の慣性
 逆に慣性を利用することが望ましいのが
手首のヴィブラート これは「腕の動き」と逆方向に動く「手首から先の動生き」を活用するものです。
 どの運動にしても先述の通り「筋肉」を使った運動です。弓を「返す」運動にしても「移弦する」運動も「時間差をつけた逆方向の運動」で慣性力を「弱める」ことが可能です。
つまり、ダウンからアップになる「前」に、弓から遠い身体の部位…例えば上腕=二の腕を「先にアップ方向に動かす」ことで、腕全体を使って逆方向に動きだす「衝撃」を緩和することが可能です。
当然、アップからダウンの場合にも「直前にダウンの運動を始める」ことで、慣性を緩やかに打ち消すことが可能になります。
 移弦の場合にも、「弓を持つ手先→手首→前腕→上腕」の動きを「ずらす」ことで、慣性を利用して移弦することが可能になります。
 文字にすると複雑になりますが(笑)、一言で言えば「慣性を利用する」運動を考えることです。
もっと言えば「力学を考える」ことです。難しい数式は覚えなくても良いと思います。
力だけで無理やりに弓や腕を動かすのは、間違っています。どんな運動にも「補足」があるのです。
それを観察し考えることで、自分の思った運動=演奏をすることに近付けると思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

「妥協・諦め」と「許容・発想の転換」の大きな違い

 映像は「アヴェ・マリア」をヴァイオリン・ヴィオラとピアノで演奏したものをつなぎ合わせてみた動画です。
 同じ音楽でもヴァイオリンで演奏した「印象」とヴィオラのそれは、大きく違うように感じますが、皆様いかがですか?

 さて今回のテーマは、音楽に限った話ではありませんが、「妥協・諦め」の行きつく先にある結果と、一見似て非なること「許容する・発想や視点を変える」ことで到達する結果の違いを考えるものです。

 私たちは出来そうにない事や困難なことに直面した時に「逃げる」という選択肢と「乗り越えようとする」選択肢のどちらかを選んでいます。自分の経験や先入観で「無理!」と思えば逃げたくなります。挑戦したことのない「壁」の場合、好奇心や達成感を優先すれば「やってみようかな?」と思います。挫折することを恐れたり、失敗して労力と時間を無駄にしたくないと思えば「やめておこう」と思います。まだ「挑戦していない」のに(笑)結論を予想しているだけですよね。 

 挑戦する前に「逃げる」ことが悪いとは限りません。色々な「結果」を考えたうえで「挑戦しないこと・諦めることを受け入れる」勇気も必要です。そのためには「視点を変えて考える」事が何よりも大切です。
 例えばオリンピックの競技種目「高飛び込み」は水面から10メートルの高さから、重力に逆らわずに(笑)水面に飛び込みます。時速60キロに近いそうです。訓練した選手でも手首の骨折や、肩の脱臼、鼓膜の破裂は日常茶飯事だそうです。そんな「高飛び込み」を素人の私たちがやったら?どうなるでしょう?「やってみないと!」って飛び込む人は?勇気があると言うより「おばかちゃん」ですよね。一つ間違えば、首の骨を折って即死です。
「どうしても!やってみたい」と思う人は技術と知識を身に着ける訓練をしてから挑戦すれば、きっとできます。
「できない」と諦めず「方法を考える」ことになります。

 練習してもできなかったり、結果が思ったように出なかったりした時「挫折感を味わいます。楽器の練習をすればこの挫折感を常に味わうことは避けられないと思います。私はそうです(笑)
 その挫折感は受け入れるしかありません。問題は「その先」です。出来ない・結果が出ない「原因」を探すことこそ「発想の転換」です。「失敗」というネガティブ=負のイメージを「出来るようにするには?」というポジティブ=前向きな発想に替えることです。

「やっても無駄」とか「どうせ変わらない」という言葉を安直に口にする人を「物分かりがいい・さばさばしている」と評価する人は「同類」です(笑)
出来る方法を考えない・考えて実行する人を見降ろして楽しむという「軽薄な人間」だと思います。
出来るかも知れない・実現する方法を考えて試す人は「思慮深い人」「賢明な人」だと私は思います。
 避けられない現実は必ずあります。
生物が「死」を迎えることもその一つです。どんなに科学が進歩した現代でも、この現実は避けられず受け入れるしかありません。辛くても苦しくても。
 避けられる「未来」もあります。それを実行するのが「知恵」です。どんな未来にするのか?したいのか?を考える「知恵」と、どうすれば?理想に近い未来に迎えるのかを考えて実行するのも「知恵」です。

 音楽を楽しむための努力は、楽しみをより「深く」「強く」「多彩に」味わうための努力です。結果を出すための努力ではなく、あくまでも「楽しむ」ために努力すべきです。努力=練習は楽しくないことがほとんどです(笑)
その先にある「楽しみ」のための労力と時間を「無駄」と考えるのは価値観の違いです。楽しみを求めないなら確かに無駄なことです。何のために?練習するのかを考えて、出来ない時には「発想を変える」ことをお勧めします。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

練習の「時間=量」と「内容=質」で到達するレベル

 今回のテーマは楽器の演奏を楽しみながら、少しでも多くの技術を身に着けたいと思う、すべての人にとって共通の問題を考えるものです。
 上の動画は、恥ずかしながら私(野村謙介)が中学2年当時の演奏から始まり、音楽高校1年・2年・3年・音楽大学1年・2年(たぶん笑)・4年・5年(突っ込み禁止笑)の演奏を抜粋してつなげた動画です。年月にして14歳から23歳までの9年間。一人の師匠に習いながらの「記録」です。

 さて、どんな年齢から始めても「時間」には変わりありません。4才からの1年間も40才からの1年間も長さは同じです。練習する時間やレッスンで習う時間も、年齢や経験には関係なく等しい「時間」です。
 毎日の事であれば「何分」「何時間」という練習時間の量があり、それを「毎日・365日」続けた場合の「時間=量」と、一日おきや一主幹に数回程度で練習を続けた場合の「時間=量」はどうでしょうか?
「年月」と言う単位で考えれば、上記のどちらも「1年練習した」「5年練習した」と言えますが、実際に楽器を練習した「総時間数」は?全く違いますよね?
「練習の頻度」つまり練習と練習の「間隔」も多筋違いがあります。毎日練習する人と、3日おきに練習する人では、総練習時間が同じでも結果は大きく違います。
「幼稚園の時から中学卒業まで」楽器を練習していた人でも、到達するレベルは大きく違う一つの原因がこの「時間」です。

 次に練習の「内容=質」の違いによる到達レベルの違いを考えます。どんな練習をするのか?と言う内容と、練習ごとに自分を「観察する力」が大きな差を生みます。
 同じ時間でも「なんとなく」練習するのと「目的と結果を確認する」練習では、全く違う到達レベルになります。
独学なのか?レッスンで習っているのか?でも大きな違いが生まれます。一見、同じように感じますが独学の場合、自分の「課題」を見つけることが非常に難しくなります。
動画や書物で「知識・情報」を得たとしても、自分が演奏して「出来ている・間違っている」ことを確認してくれる人がいる「レッスン」の効果は習ってみないと理解できません。
さらに「教えてくれる人の技術」によっても、到達レベルが変わります。演奏のレベルだけではなく「指導技術」のレベルです。優れた演奏家が優れた指導者であるとは限らないのが現実です。学校や塾で「勉強を教える」人を例えにすればよくわかります。指導技術の優れた人に教えてもらえば、効率よく学習で木「希望通りの進学先」に行ける子供が多くなります。
指導する人のいない「部活」の場合にも、ある程度の演奏技術が習得できるのは、上記「時間」の問題です。毎日、学校で好きなだけ練習できる部活の場合、レッスンで楽器を習う人よりも明らかに長時間、しかも毎日欠かさず楽器を練習できるから「ある程度」上達します。

 どんな人でも到達できるレベルがあります。
「時間」+「内容」に比例して、到達できる演奏技術レベルがあります。個人差があるのは事実ですが、それを「才能」と言うのは間違っています。多くの子供が、受験や楽器以外の興味が原因で、練習することをやめてしまいます。練習を「やめた」時のレベルが、その子供の「能力」だと思い込むのが「親」なのかも知れません。
やmないで続けていれば、到達レベルは無限に高くなります。「100点満点」「ゴール」「頂上」はありませんから、続けている限り上達する地言っても過言ではありません。
歯きり言えるのは「練習をやめれば、その先の楽しみは体感できない」と言うことです。
 ぜひ、楽器を演奏する「楽しみ」を持ち続けて欲しいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの価値を考える

 今回の テーマは以前にも取り上げたことのあるヴァイオリンの価値」について。
動画はストラディヴァリの作った楽器をテーマにした番組。面白いです。
さて、人それぞれに「価値観」が違うのが当たり前です。ヴァイオリンの良し悪し、あるいは「妥当な金額」についても、みんな違った考えを持っています。
 一方で時代によって決まる「物価」があります。例えば、ヴァイオリンを作るための材料を「物価」として考えた場合、木材・ニスなどを購入するための「材料費」があります。そこに製作者の技術と労力が対価として加わって、最終的に「販売価格」を買い手との交渉で決めます。これは、どんな者…食品であっても車であっても同じ原理です。当然、今現在もヴァイオリンを製作する人・企業があります。その楽器一つ一つに「最初の取引価格」があり、最終的に、いわゆる「エンドユーザー」が支払う金額が交渉によって決まります。
 これはストラディヴァリのヴァイオリンでも、大量生産のヴァイオリンでも理屈は同じです。ストラディヴァリウスの一番大きな特徴は「原価が不明」であり「当初の価格が不明」であり、製作されてからすでに300年以上の年月が経っても「現役」であることです。

 さて、ヴァイオリンを演奏する人にとって「欲しい楽器」と「自分で買える楽器」が違う事は、ごく当たり前にあります。アマチュアであってもプロであっても同じです。「自分が欲しい」と思う楽器が自分にとって最高の楽器なのか?と聞かれたら、答えは「最高の楽器ってなに?」と言う根本的な疑問にぶつかります。
 少なくとも、自分が手にして演奏し、それまで演奏したどの楽器よりも「自分が好き」と感じた楽器でしかありません。世界中のすべてのヴァイオリンを演奏して選ぶことは、誰にも不可能なことです(笑)「私にとって最高の楽器!」と言っても、実はまだ自分が演奏したことのない楽器の方が何百倍、何千倍も多いのです。
 ヴァイオリンの「性能」ってなんでしょう?
車なら「馬力」「加速性能」「運動性」「空力抵抗」などで性能比較ができます。
美術品と違いヴァイオリンを「楽器=音を出す道具」として純粋に考えた場合に、この「性能差」がどんなものか?考える必要があります。
 現在の科学で結論を導けば「性能に大きな違いがない」結論になります。多くの実験が世界中でおこなれた「結果」ですから、いくら「私はストラディヴァリが一番だ!」と豪語しても「科学的なデータ」は変えられません。つまり、ストラディヴァリのヴァイオリンが「特別な性能・特別な音を出せる」楽器ではないことは、事実なのです。
 「新作のヴァイオリンはダメだ!」と言うのも科学的には「嘘」になります。現実に実験で証明されています。「私はストラディヴァリのヴァイオリンを聞きわけられる」と言う人がいますが、自分が演奏した、複数の楽器を「言い当てられる」のはアマチュアでもできることですが、他人が演奏したヴァイオリンの音の中でストラディヴァリのヴァイオリンだけを判別できる人は、恐らく誰もいません。それが「科学」です。

 自分の好きな楽器に出会うことは、パートナーと出会う「運命」に近いものがあります。先述の通り、すべてのヴァイオリンを演奏して比べられないように、世界中の人と「お見合い」することは?無理ですから(笑)偶然に出会った「楽器」を自分のパートナーのように大切に思い、扱える人ならどんなヴァイオリンでも「愛せる」はずです。ヴァイオリンの価格に「絶対」はありません。材料の原価に金額の差があることは事実です。ただ、ひとりの職人が作ったから「高い」と決めるのも、間違っていると思います。多くの人間が手をかけた方が高いものって世の中にたくさんありますよね?
 自分の好みを大切にすることです。それしかありません!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を「習う」「教える」ことの意味

 上の演奏は、今は亡き恩師「久保田良作先生」の門下生(中学生以上)と桐朋学園大学のチェリストとコントラバス奏者が加わっての「夏合宿」最終日におこなわれる「どるちえ合奏団」のコンサートです。1978年夏の軽井沢、合宿地でもあった清山プリンスホテルになるガラス張りのホール。時々、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下や浩宮殿下(現天皇陛下)が私服で聴きにいらしていたと言う夏のイベントでした。
 合宿前に東京で、主に中学生の生徒たちを集めての合奏練習も行われていました。門下生は中学生になるとこの合宿に参加することができます。高校生になると時にはヴィオラを演奏しながら参加。大学1年生まで暗黙の「必修(笑)」参加でした。お手伝いのチェロ、コントラバスにはそうそうたるメンバーが顔をそろえておられました。私の記憶しているだけでも、北本さん、秋津さん、桜庭さん、小川さん、山村さん、同期の金木君。コントラバスに大友直人さんや北本さんも来ておられました。豪華すぎ(笑)
 この弦セレはこの年のプログラムで最後の曲でした。アンコールにはいつも「夏の思い出」を演奏。前半のプログラムには中学生の初々しい「アイネク」や「ディベルティメント」。私が初めて参加した年には、ロッシーニの弦楽のためのソナタ(GDur)を演奏会の才女に演奏しました。合宿が清山プリンって(笑)あり得ない「セレブ」なお話で、当時10万円近い合宿費になってしまいこの数年後に、北軽井沢の「農園ホテル」に(笑)そこから先生がお亡くなりになる前まで、箱根仙石原のホテルへと変わっていきました。私が撮影のお手伝いで最後に「合宿」にお邪魔したときの映像があります。1985年8月20日の映像です。

 加藤知子さんも元は久保田良作先生の門下生でした。私の3学年大先輩。
さて、本題は「音楽を習う・教える」と言うテーマです。
今更私が言うまでもなく、久保田良作先生は数えきれないほどのヴァイオリニストを世界に送り出された指導者である前に、日本のトップヴァイオリニストでいらっしゃいました。毎年、上野文化会館での「ジュピタートリオ」での演奏は私にとってどんな演奏会より刺激的でした。さらに、桐朋学園大学音楽学部で弦楽器主任教授、学部長も務められると言う激務をこなしながら小学生の子供たちも数多くレッスンされておられました。

 そもそも、音楽は「教えられる」ものでしょうか?演奏技術の「一部」は教えられるものだと思います。それは表面的なもので、内容も限られています。
 「師匠・弟子」の菅駅は、親子以上の信頼関係があって初めて成立するものだと私は考えています。「先生と生徒」とはまったく異次元の関係です。師匠を心から信じることが自然にできなければ、得られるものは表面的なもの…それも怪しいと思います。「そうかな?本当かな?違う気がする」と思いながらレッスンを受けて、何か意味があるでしょうか?もちろん、師匠も人間です。神でも仏でもありません。間違いはあるはずです。その間違いを含めて、どこまで師匠の言葉を信じられるか?だと思います。

 話が「ぶっ飛び」升が(笑)、仏教の教えを説いた「釈迦」が、悟りを開き「弟子」たちにそれを解こうとしたとき、あまりに悟りが深く、当時の人間には理解不能だったことから多くの出来が「間違った解釈」をして現在、数多くの仏教が存在していると言う話があります。つまり現在の仏教は、すべて「釈迦の教え」のはずなのですが、それぞれ異なった「教え」を伝える人が生まれているという事です。

 音楽も本来、教える人の「悟り」まで行かなくても「信念」「理論」があります。それを「弟子」に伝えることは、可能なのでしょうか?理論を言語化することも、演奏家が自分の演奏をするだけならば、全く不要なことです。そんな時間があったら練習して演奏したい!と思う演奏家の気持ちも「そりゃそうだよね」(笑)
 それでも!自分が十て来た道と、師匠が伝えてくださった「であろう」理論や技術を次の世代に伝えようとする「指導者」がいます。
 指導者がいても「弟子」がいなければ?話は進みません(笑)「習いたい」と思っても弟子に慣れないケースもある一方で、弟子になる人の「絶対数」が減っている気がします。音楽大学で「習う」学生にも、先述の「先生と生徒(学生)」の信頼関係を超えられない人が増えている気がするのは老婆心でしょうか?レッスンを受ければ「うまくなる」と思う学生。うまくなる「秘訣」を直接聞きだそうとする学生。なにか間違っている気がします。
 指導する人も生活があります。生きていくために生徒・学生を選べないと言う現実t問題があります。少子化と不景気は国民の責任ではありません。「国家」の罪です。そのために、音楽科を目指す人が激減し、ますます指導者の存在すら危うくなっています。
 どんなに優れた指導者だっとしても、習いたいと思える「環境」がなければ習えないのが現代社会の定めです。「理想」と「現実」が日々乖離していきます。
このまま後、10年もしたら日本には「指導者」がいなくなる日が来ます。日本から音楽を学ぶ環境が消えることになります。悲しいことです。
 せめて「先生」が「師匠」に変化=深化することを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介