演奏する場所で変わる音

 動画は同じ曲「アダージョ・レリジオーソ」を同じ時期に、同じヴァイオリンで演奏したものです。上の動画は、地元相模原市橋本駅前「杜のホールはしもと」で、客席数525名の大きなホールです。ピアノはスタインウェイ。
メリーオーケストラの定期演奏会で使用し続けているホールです。
 下の映像は代々木上原のムジカーザ。定員200名ほどのサロンホールです。ピアノはベーゼンドルファー。
 どちらも音響の素晴らしい音楽ホールです。

 練習する場所は、人それぞれ音の響きが違います。多くの場合に、天井が低く壁も迫っている普通の部屋で、家具やカーテンなどで音が吸収されます。
音は空気の振動です。音源はヴァイオリンの場合、楽器本体から発して周囲の空気を振動させます。ピアノの場合、大きな筐体=ボディと固くて長いピアノ線から周りの空気に音として伝わります。
 音源直近の音の大きさは、狭い部屋でも大きなホールでも変わりません。音源から離れれば離れるほど、空気の振動は弱くなります。そして壁や天井に「反射」してさらに大きな空間に音が広がります。演奏者本人には、音源の音と共に反射してきた音も聴くことができます。その「戻ってきた音」の大きさと音色は、演奏する場所によって大きく違います。
 一方で客席などで演奏を聴く場合、音源からの距離が遠ければ遠いほど「反射した音」の比率が高くなります。また、空間が広く反射する壁や天井が音を吸わない素材で出来ているほど長い残響=余韻が残ります。
 建物の形状、空間の形によって残響の残り方が全く違います。
天井がドーム状になっている協会などの場合、反射した音はさらに複雑に反射します。トンネルで音が響くのと似ています。壁に凹凸をつけて反射を「制御」することができます。

・オーチャードホール:1.9秒
・すみだトリフォニーホール:2.0秒
・ミューザ川崎シンフォニーホール:2.0秒
・横浜みなとみらい大ホール:2.1秒
・新国立劇場:1.4~1.6秒
・神奈川県民ホール(本館):1.3秒
・日生劇場:1.3秒(※空席時)
・神奈川芸術劇場(KAAT):1.0秒
・大阪 新歌舞伎座:0.8秒
ホールの残響時間は、目的によって大きく違います。

 客席で気持ちよく演奏を聴けるホールと、演奏していて気持ちの良いホール。
座り心地のよい「椅子」と適度な前後の空間はホールの設計の問題です。
座る位置によって、ステージの見やすさ、音の響きはまったく違います。
 一方演奏する側から考えると、ピアノの位置と向き、ヴァイオリンの立ち位置と楽器の向き。これが最も大きな要素になります。
ストラディバリウスなどの名器は「音の指向性が強い」と言う研究結果がありますが、実際にホールで演奏し客席で聴いた場合には「聴く位置」の方が大きな差になります。どんな楽器であっても「音源の位置」とステージ上から伝わる空気の振動=「音の広がる方向と強さ」を考える必要があります。
「結局、聴く人の位置で変わるんだから」と言ってしまえば、確かにその通りです。ただ、演奏者自身に戻ってくる反射音は、明らかに変わります。
ヴァイオリン奏者にとっては「ピアノと自分の音」、ピアニストにとっては「ヴァイオリンと自分の音」の聞こえ方が、変わってくるのですから「位置」と向き」は重要な要素です。

 自宅で練習したり、吸音材で囲まれたレッスン室で練習していると、ついムキになって「つぶれた音」で練習しがちです。戻ってくる音がないのですから「デッドな音」で気持ち良くないのは当たり前です。だからと言って、ピアノで言えば「ダンパーペダル」を踏みっぱなしで演奏するのは間違いですし、ヴァイオリンで言えば、ダウン・アップのたびに弓を持ち上げて「余韻」を作る癖は絶対に直すべきです。本来、楽器の音は残響の中で楽しむように作られているのです。
畳の部屋、絨毯の部屋、ふすま、土壁、低い天井、狭い部屋で「心地良い音」を望むのは無理と言うものです。だからと言って、壁も天井もない公園や河原、野原の万課で楽器を演奏練習するのは、少なくとも弦楽器では「絶対やめて!」とお伝えします。楽器を痛めるだけです。残響があるはずもありません。
と言いつつ、その昔指導していた学校の部活夏合宿で、練習する場所が足りずに弦楽器メンバーに木陰で練習させた黒歴史を懺悔します。ごめんなさい。

 最後に、日本のホールについて書きます。
多くのホールが「多目的ホール」です。音楽に特化したホールは非常に少なく、演劇や講演会、落語など残響時間を短く設計したホールの方が多いのが現実です。
吹奏楽や打楽器の演奏会などの場合、残響時間が長いと「何を演奏しているのか聞き取れない」場合もあります。和太鼓の演奏を「禁止」しているホールもあります。杜のホールはしもとも、そのひとつです。理由は「ホールの階下に図書館がある」からです。和太鼓の音圧でホールの壁、床が「躯体振動=直接振動する」して図書館にまで音が響いてしまうからです。
 反響版のないホールもあります。


 上の映像はどちらも地元「もみじホール城山」の演奏ですが、上の映像は発表会の「おまけ」で演奏した時のもので、反響版を設置していません。
下の映像に映っている反響版は、可動式・組み立て式のものです。設置するのに二人がかりで30分ほどかかります。もちろん、この効果は絶大です。舞台上の音の広がりを前方にまとめられる効果で、客席での聞こえ方がまったく違います。録音には大差ありませんが(笑)
 音楽ホールの稼働率が低く、閉館になるホールが地方に多くあります。
運営の難しさが原因ですが、使用料の高さとホールまでのアクセスの悪さ、多くは集客の難しさにあります。少しでもクラシック音楽のすそ野を広げるためにも、ホール使用料金を公的に負担したり、アクセスの悪いホールならミニバスでも良いのでコンサートに合わせて走らせるなど、自治体や行政の果たすべきことがたくさんあると思います。「箱もの行政」と叩かれないようにするためにも、運用に必要な情報を、私たち演奏家にも問うべきです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

指・弓・毛・弦の弾力

今日のテーマはヴァイオリン演奏時の「発音」に関するものです。
擦弦楽器とは、弦を弓の毛で擦って音を出す楽器の事を指します。
ギターやマンドリンのように「弦をはじく」楽器とは発音方法が違います。
弓を使って音を出す楽器は、ヴァイオリン族=ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスの他にも、胡弓などの中国伝来の楽器もあります。
弓の毛の多くは馬の尾の毛を漂白せずに使います。洗うそうですが、洗ってもおうまさんのお尻に近いしっぽの毛ですから、当然「ウンモ」笑の香りが消えないものも多いそうです。お食事中でしたらごめんなさい。
 ヴァイオリンの弓には、250本ほどの毛が張られています。
馬のしっぽの毛は顕微鏡で見ると凸凹があり、そこに松脂がついて大きな凸凹になって、弦との愛間に摩擦が起きて音が出ます。
 弓の毛、1本1本はとても細く、柔らかいものです。手で引っ張ると「ぷちっ」と切れる程度の強さです。他の動物の毛と比較して弾力性に富んでいます。
この毛を重ならないように弓に「張る」技術が職人さんの技です。
演奏している間に着れることもあります。また、経年劣化すると弾力性が下がり、毛自体も細くなります。演奏に使っていなくても、動物の毛ですから自然に劣化します。

 毛を張っている弓の木材は、フェルナンブーコというブラジルに生えるマメ科の木です。オレンジ色の木で木目はあまりはっきりしていません。古くからヴァイオリンの弓にはこのフェルナンブーコが用いられてきました。染料にも使われ、現在は数が少なく、ワシントン条約で弓の形をしたものでないと輸出できなくなっています。
 弓にするために、6角に削り熱処理で曲げて作られます。
先が細く中央部分が太く、元の部分には黒檀で出来た「毛箱=ブロック」と毛箱を引っ張り弓の毛を張るための「ネジ=スクリゅー」のための穴があけられています。重さは全体で60グラムと、生卵一個分ほどの重さです。弓先と全体のバランス、全体の弾力性、太さなどで演奏のしやすさだけでなく決定的に音色と音量を左右します。弓の木の良し悪しは、ヴァイオリン本体のそれよりも重要な一面も持っています。フランソワ・トルテ(1747 – 1835)やドミニク・ペカット (1810-1874)に代表されるフランスの名弓製作者の弓はヴァイオリン本体よりも希少価値が高いものです。

 そして「弦」です。弦はその昔、ガット=羊の腸を張っていましたが、その後、ガットの代わりに化学繊維のナイロンを使用したもの、金属を代わりに使用したものがあります。ガット弦は音質が柔らかいのが特徴です。
ナイロン弦は価格が安く、量産が容易であるメリットがあります。

金属=スチールの弦は音量が大きく安価です。それぞれに「短所」があります。
 ガット弦の短所は、ガットが伸びて安定するまでに時間がかかることです。
温度や湿度での変化でピッチが変わるのは、どの種類の弦にも言えることです。
 ナイロン弦の短所は、良い音の出る寿命が短いことです。最もポピュラーなトマステーク社製のドミナントは、焼く2週間で突然、余韻が短くなり明らかに音質が落ちます。
 スチール弦の短所はずばり「柔らかい音がでない」ことに尽きます。
どの種類の弦を選ぶのかは、演奏者の好みと演奏に求められる音量、音質さらには、「お財布事情」で変わります。ちなみにガット弦の寿命はナイロン弦よりはるかに長いので、コストパフォーマンス的には大差ありません。
 私は普段、ガット弦を使っています。唯一ガット弦を作っている「ピラストロ社」のオリーブ、またはパッシォーネを張っています。
弦には弾力性があります。固すぎる弦は押さえることにも向きません。

弦は駒の近くでテンション=張力が強く、固く明るい音が出せますが、圧力が足りないと高い裏返った音になりやすいリスクもあります。
一方で、駒から通り場所=指板に近い場所は、テンションが弱く意図的に「ソフトボーチェ=弱いかすれかかった音」を出す時に使用しますが音量が小さくなります。3本の弦を一度に演奏したい時などには、この部分を演奏することで同時に3本の現に弓の毛を当てて音を出すことが出来ます。
 演奏したい音量や音色によって、どの場所に弓を当てるか考える必要があります。

右手の指の弾力とは、指の関節の柔軟性です。当たり前ですが、骨は曲がりません。弓に触れる右手の指の各部分を、敏感にしておくことが求められます。
そして、弓を通して弓の毛と弦の「摩擦」と「弾力」を感じることが必要です。
 車で例えるなら、駒と上駒=ナットが「橋げた」で、弦が「橋=道路」で、弓の毛が「タイヤ」に当たり、指が「サスペンション」と「ハンドル」の役割を果たしています。乗り心地の良い車、高速でも路面に吸い付いて安定して曲がり、止まれる車、それが「弾力」です。

動力源は「右腕」です。それらが連動しあいながら、弦と弓の毛を「密着」させたまま動かすことで、弦が振動し駒を振動させ表板に、さらに「魂柱」を通して裏板に振動が伝わり、ボディ=箱の中で共鳴・共振して、大きくななった音=空気はf字孔から出てきます。当然表板も裏板も振動して音を出しています。

 弓の毛を強く張って演奏する人を多く見かけますが、私は必要最小限の「弱さ」を探して極力「弾力」を優先しています。強く張れば、強く圧力をかけられるので、より強い音を出しやすくなります。が、柔軟性を失うことになります。
 弓の木の「硬さ=強さ」にもよりますし、弦の種類にも、さらには駒の高さ=弦の高さによっても、弓の毛の張りは調整されるべきです。やみくもに強く張るのは、弓の弾力を失わせます。
 弓の毛の弾力と、弓の木の弾力は当然「毛<木」です。弓の毛を強く張りすぎれば、弓の木の弾力を減少させることになります。また、弓の中央部分の柔らかさを放棄することにもなります。
 そもそもなぜ?弓の木に、わざわざ反りを付けているのかを考えるべきです。
腰が抜けてしまった弓とは弓の弾力を失い、いくら毛を強く張っても、毛と木がすぐに当たってしまい、中央部分で「横方向の力」に耐えられず、ぐにゃっと曲がってしまう状態です。腰が抜けてしまうと弓は使えなくなります。弓の木を長持ちさせるために、弓の木に過剰な負荷を与えるような「強すぎる張り方」は避けるべきだと思います。

 音量を優先させたいのであれば、スチールの弦を張り、ガチガチに固い「剛弓」で弾けば良いと思います。ヴァイオリンの音量だけを求める演奏は、本来の美しい音色を求める演奏方法と矛盾しています。もちろん、弱いだけの音では、ピアノと一緒に演奏したときに「聴こえない」ことになります。
 弦と弓の毛の「密着」を考えて、あらゆる弾力性を意識しながら演奏することを心掛けたいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な音楽とは?

 動画はアイザック・スターンのヴァイオリンと、ヨーヨー・マのチェロによるドッペルコンチェルトです。今回のテーマとどんな関係が?

 音楽を演奏する人にとって、知るべき「規則や定義」があります。
ひとつの例が「楽譜」です。楽譜を書き残した人の作品=曲を、音楽にするために共有するルールでもあります。「音楽を聴けばマネできる」のも事実ですが、録音する技術のなかった時代、演奏は「その場限り」で人の記憶にしか残りませんでした。かのモーツァルトが一度聞いた音楽を覚え、楽器で再現できた話。当然聞いたのは「生演奏」です。そして、そのモーツァルトが書いた楽譜のルールは今でも変わっていないことってすごいことです。楽譜という「規則」がなかったら、現在私たちが聴くことのできる音楽は誕生していなかった可能性があります。
 子守歌や民謡のように、人から人へ伝えられた音楽もあります。その過程で、少しずつ変わっていくのもこれらの音楽の特徴です。楽譜と言う「記号」で残らなかった音楽です。

 自由な音楽とは、どんな音楽でしょうか?自由な演奏とは、どんな演奏でしょう?とても大きな問題です。
ちなみにウィキペディアによると、自由の対義語は「専制」「統制」「束縛」という言葉が出てきます。日常生活の中の出来事で考えると、理解しやすいですね。おおざっぱに言うと「やりたいようにできない」のが自由でないことを指しているように感じます。自分の意志とは別に「抑制」される感覚を伴うことです。ただ、自分の意志のない人にとっては、自由も束縛も感じないことになります。やりたいことの多い人の方が、「束縛」や「不満」を感じるのではないでしょうか?

 もし、自由な音楽という定義をするなら、音楽を作る人・演奏する人が、何も制約や束縛を考慮しないで、好きなように作る・演奏する音楽。でしょうか。
そう考えると、私たちが普段演奏している音楽は、自由な音楽に限りなく近い気もします。少なくとも、自分の演奏したい音楽を「自由」に選べる段階で、束縛を感じることはありません。
 楽譜に書いてある「記号」「標語」「指示」に忠実に従うことが、自由でないと感じる場合もあります。出版社によって楽譜にかかれている記号や標語が違う場合があります。また、作曲家によって、楽譜に多くの指示を書いた人と、演奏者に任せた人がいます。楽譜と言う「規則」にどこまで従うのか?その規則に反したら、なにが起こるのか?どこまでが「自由」として許されるのか?
個人の価値観によって違うことです。ただ「統制」される音楽が美しくないとは言い切れません。なぜなら「オーケストラ」の演奏は、多くの意味で統制されているからです。練習時間の束縛、演奏するパートの指定、座る位置の指定、指揮者の要求に従うテンポや音量など、好き勝手には演奏できないのがオーケストラです。他人と協調すること、時には妥協することが「嫌」な人は、オーケストラに向いていない人だと私は思っています。いくら技術が高くても、結果的に人の「輪・和」を壊します。誰かを「手下・子分」にしたがる人もオーケストラ向きな人ではないと思うのですが(笑)もちろん、指揮者としても不適格な人だと思っています。誰とは申しません。

 レッスンの場に話を移します。
師匠から弟子への「指示」に従うのは束縛と言えるのでしょうか?
師弟関係に「信頼」が必須であることは以前にも書きました。
演奏技術、音楽の解釈などへの「指定」はあって当たり前ですが、プライベートな部分にまで制約を課すことには異論もあります。それが、弟子の将来に関わる「だろう」という思いからの事であっても、行き過ぎた介入はするべきではないと思います。結果的にその弟子が大成したとしても、挫折したとしても、師匠に弟子の将来を決定するような権利はありません。

 音楽に限らず自由の中にも「節度」が必要です。言い換えれば「最低限のルール」があるのが社会です。無人島でひとり、生きているのであればルールは自分で作ればいいのですが、家族であれ組織であれ、学校でも社会でも「ルール」の中で自由が認められています。
 人として。大人として。
他人に不快感を与えたり、危害をあたえるような「自由」は認められません。
言論の自由、個人の自由。取り違えればただの「わがまま・身勝手」な言動や行為として扱われます。
 音楽が人を不快な気持ちにさせるにすることもあります。
特に「押し付け」られる音楽、逃げられない音楽は人を不快にします。
「国民なら国歌を歌うのが当然だ」と言うのも私は疑問を感じます。
それをすべての国民や、子供たちに強制させる「法律」ってありません。
むしろ日本の最高法である憲法で保障されている「個人の思想の自由」を奪う行為です。音楽を押し付けるのも、押し付けられるのも「音楽家」として従うべきではないと信じています。

 最後に「身体の自由」についても書いておきます。
健康な人にとって、身体のどこかに「不自由」な部位がある人を「可哀そう」と思うのは、少し間違っています。私自身、眼が不自由ですが、それを自分で「可哀そう」と思ったことがありません。眼が不自由であることが「普通」なのです。身体に不自由な部位があると、不便に感じることはありますが、それも受け入れています。自由に動かせる部位があります。それを使って楽器を演奏したり、音楽を作ったりする「自由」もあります。
 何不自由なく生活している人に、不自由な生活をしている人の苦労を創造することは、とても難しいことです。完全に理解することは不可能でも、「思いやる」ことは思い上がりではありません。音楽を聴くことが出来ない障がいを持った人もたくさんいます。その人たちにとって「音楽」ってどんな意味をもつのでしょうか。振動や光で音楽を「伝える」努力をする演奏会もあります。
 私たちが楽器を演奏できることに感謝する気持ちを忘れがちです。
自由な音楽は、自由な場所にしかありません。人間が自由であることを意識しなければ、私たちの音楽は消滅してしまうと思います。
 戦争反対。平和万歳。音楽を自由に演奏できる世界でありますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

大衆音楽だって音楽

 今朝のヴァイオリンレッスンで大人の生徒さん、次にひいてみたい曲をお聴きしたら…
「先生のリサイタルで聴いた瑠璃色の地球」というお応えでした。
一昨年のリサイタルでの演奏動画です。ヴィオラとピアノで演奏しています。
もちろん、私たちが演奏する曲の中には、クラシックと呼ばれる音楽もあります。クラシックとは呼ばれない「ジャンル」の音楽も演奏します。
好みの問題を誰かと競ったり、言い争ったりするのは無意味です。
塩ラーメンが好きな人もいれば、しょうゆラーメンこそがラーメンだと主張する人もいるのですから。

 作曲家が創作し生み出された音楽は「楽譜」という形で、演奏者に委ねられます。作曲家によって、楽譜が書かれた時代によっては、本人が手書きで書いた楽譜を、「写譜」し続けて現代に残されている曲もたくさんあります。
作曲者自身が、ひとつの楽曲を異なったアレンジで楽譜にした曲もあります。
後世の人がアレンジした楽譜があります。また、現存する作曲家の曲でも、違うアレンジの楽譜が出ていることもあります。
 作曲された曲の、旋律と和声、さらに演奏の編成を変えて演奏することは、ポップスの業界で言えば「カバー」と呼ばれる演奏に近いと思います。
どこまで?原曲を変えて演奏するかは、人それぞれの価値観で違います。

 以前にも紹介した「ふるさと」です。ジャズピアニスト小曽根真さんと、奥様の菅野美鈴さんがアップされていたふるさとを「耳コピ」させて頂きピアノとヴィオラで演奏しています。和声を変え、ピアノの伴奏の音楽を原曲とは大きく変えたこのふるさと、旋律は原曲のままです。アレンジでこれだけ変わるのですね。

 いつの時代にも「現代」と「過去」があります。少なくとも未来のことは誰にも分りません。想像は出来ても実際の未来に起こることを、人間が予測することは不可能です。そして、過去に作られたもの、文化、芸術を「伝統」と言います。先人の残した「遺産」に敬意を払い守ることを軽視する人が増えています。
音楽に限らず、過去に起こった悲劇を「なかったこと」にしたり、事実を捻じ曲げる人が増えました。人間として「さもしい」人だと思います。そんな人が、これからの事を語る姿を見ると「お前は神か」と聞いてみたくなります。
 守るべきものと、変えてよいもの、変えなければいけないもの。
この三つの区別ができないと、なんでも壊したり、意味もなく固執したりします。
 美しいと思うことは、人によって違います。嫌だと思うことも人によって違います。それを許容しあうことは、生物の存続に関わることです。野生の動物は無意味に他の生き物を殺しません。自分のテリトリーを守りますが、生きるために必要なテリトリーだけです。
 音楽を創造=想像できるのは、人類だけです。その私たちが、音楽を楽しむ時に考えるべきは「守るもの」と「美しいもの」だけで良いと思います。
それ以外のことは、他人の価値観に委ねても、自分の大切なものは守られるはずなのです。他人の価値観を踏みにじるのは、愚かな行為です。認め合えば、音楽も平和も守れると思っています。
話が大きくなりすぎてすみません!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

 

目指す演奏って?

 動画は、クロード・アシル・ドビュッシーの「美しい夕暮れ」をヴィオラとピアノでライブ演奏したものです。原曲は「歌曲」です。フランス語で歌われる音楽を、ヴィオラで演奏することは、作曲者の意図したものと違うかもしれません。
原曲が管弦楽曲で、それに歌詞をつけて歌っている音楽も多いので、「反則!」とは言われないかな?
 今回のテーマは、どこまでもゴールのない?自分ができるその時々で「最善の演奏」です。

 さて、こちらはCDに収録した同じ曲です。自宅で何度か演奏しなおして録音した「美しい夕暮れ」お聴きになって違いを感じられるでしょうか?
 どちらも自分では満足のいく演奏ではありません。「なら演奏するな!」と言われても返す言葉はありません。その時点で自分と自分たちの出来る「最大の努力」をした「最善と思われる演奏」です。聴く人によって、満足感が違うのは当然のことだと思います。

 生徒さんが一生懸命に練習して、レッスンで「合格」して喜んでくれる姿がまぶしくて、とてもうれしく思えます。どんな人でも、その時点で最高の演奏があると思っています。楽譜通りに演奏できることを目標にする段階は、誰にでもあります。ゆっくりしたテンポでなければ演奏できないレベルもあります。途中で音がかすれたり、鳴らない音があったりしても、頑張って演奏した「成果」がその時の評価であるべきです。「もっと練習すれば、もっとじょうずにひける」のは当たり前です。一気にじょうずになれる?はずがありません。
小学校卒業の学力で突然、東京大学の入試を受けても受からないのと同じです。
勉強の場合、目指す進路に合わせた積み重ねの勉強方法があります。
ヴァイオリンやピアノの場合は、どうでしょうか?

 音楽の学校に入ること、コンクールで優秀な成績をとることを「目標」にするのは正しいと思いますが「目的」ではあり得ません。むしろ、それから先の道の方がはるかに長く、険しく、楽しいのです。
 趣味で演奏する人でも、プロの演奏家でも「目指す演奏」があるはずです。
間違えないこと・速く演奏できること
誰でもが思う「目指す演奏」ですよね。
では、それ以外になにを目指して練習しますか?
「それさえできないのに」と笑わないでください。
もちろん、速く・正確に演奏できる技術は目指すべきです。
人間が演奏し人間が聴く「演奏」は本来、その演奏の時だけの「一度きり」の芸術です。録音されたものを聴くことが出来るのは、便利でありがたいことですが本質的には音楽は「時」と共に終わり、印象と言う記憶に残るだけの存在だと思います。再現性は重要ですが、いつも同じ演奏が出来ると思う方が、どこか間違っているように感じます。
 練習して「間違えないで何度でも演奏できる」ことを目標にするよりも、一音ずつにこだわり、フレーズにこだわり、ひとつの曲として伝えられるものにこだわることの方が、人間らしい音楽になると思っています。
 感情の生き物である人間が、いつも同じ感情で演奏できるはずもなく、聴く側にしてもその時々で、感じるものが違うはずです。
 正解もない、間違いもないのが自分の好きな「音色」だったり「揺れ」だったり、もしかすると「ゆがみ」だったりするのではないでしょうか?
 完璧を目指すよりも、好きな音色を探し好きなテンポを考え、好きなビブラートを考え続けることが音楽への向き合い方で良いと思います。
 演奏を間違えないだけなら、AI技術を使って機械で演奏すれば、絶対に間違えません。その場限りの芸術だからこそ、自分の好きな演奏を探す努力に時間をかける「意味」があると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

出来ない時には

 この演奏は、私たちが最初に開いたデュオリサイタルの時のブラームス作曲ヴァイオリンソナタです。20年間の教員生活を終えて、うつ病を抱えながら音楽教室を経営し、やっと病気から抜け出して、改めてヴァイオリンに向き直った当時の演奏です。この時から、すでに14年以上の年月が流れました。いま聴くと、どこかたどたどしい(笑)演奏です。二十歳の時、初めてリサイタルで演奏したのがこのブラームスでした。

 生徒さんを教えている立場で、「自分はうまく演奏できない」と言うとまるで「嘘つき」か「詐欺師」のように思われそうですが、正直に言って自分のできないことだらけなのが真実です。
 出来ないレベルが違う?人それぞれに「苦手」なことがあるように、なんでもできる「ように見える」人でも、きっとできないと思うことはあるのだと思います。隣の芝生はなんちゃら(笑)です。
 さらに深く考えれば、周囲からは出来ていると思われていることでも、本人は「出来ていない」と思っていることも多いのではないでしょうか。逆から言えば、自分が出来ていないと悩んでいることも、他の人から見えれば「本当に出来ている」と感じられているかも知れないのです。

 練習が嫌いでした。練習しても出来るようになる「実感」がなかったからだと思い起こします。親に言われて練習し、レッスンで先生に「音程!」と注意される繰り返しでしたから、練習したくない少年(元)の気持ちが理解できます。
出来ない、ひけないと思う以前に「演奏しなきゃいけない」と思ったのが、音楽高校の受験をすることになった時でした。うまくできているか?考えることすらできませんでした。師匠のレッスン以外に、兄弟子のレッスン、さらに入試でピアノ伴奏をされている先生のレッスン、さらに週に2回の聴音レッスン。
自分がなにもできないことは、最初にわかっていたつもりなのに、レッスンのたびに「できていない」ことを思い知らされました。いまも手元にある当時の聴音ノートには、涙で真っ黒になった楽譜と先生の赤い「直し」が書き込まれています。出来ないから練習する。当たり前ですね。出来るようになりたいと、自分から言い出したのですから。

 こんな特殊な例は別として、出来ないと思ったことを、出来るようにするための「コツ」はなんでしょう?こんな特殊な体験をした私の立場で考えます。
「できない」と思わないことですね。かといって、できるようになると「信じなさい」と言われてもねぇ(笑)無理でしょう。
 出来ないのではなく、「やり方が間違っている」と考えるのがコツではないでしょうか。あるいは「見方が間違っている」のかも知れません。
 自分ができないと思っていることに対して、苦手意識を持つのは当然です。
諦めたくなるのも「やってもできない」と思い込んで「やらない」からです。
つまりは「思い込み」こそが、できない理由の一つなのです。
 納豆を食べたことがなかった私は、納豆の匂いが大嫌いでした。
ある時、学食で納豆だと気づかずに食べて「しまって」以来、納豆が大好きです。
 クライスラーの「序奏とアレグロ」の2ページ目中央辺り(笑)を高校生の頃に「むり」と諦めて依頼、数十年「むり」と思い込んでいました。デュオリサイタルでプログラムに入れる決心をして楽譜を「じっくり」読み解いていくと?
クライスラーの「癖」が呑み込めて、普通に演奏できることを知りました。
 自分の力だけで家を建てるのは無理。本当にそう? 少しずつ学びながら時間をかければ、家だって建てられると思わない?と、聴音を教えて下さった恩師「黒柳先生」が何度も私に言ってくださいました。聴音なんかできないと、無言で泣いている私に優しく言ってくださいました。

 ヴァイオリンの演奏で、物理的に演奏できないことは楽譜に書いてありません。仮にそう書いてあったとすれば、作曲者が「違う意図」で書いている場合です。バッハが3つの音を「付点2分音符」の和音で書いています。物理的に無理です。
 チャイコフスキーヴァイオリンコンチェルトは、作曲当時「演奏不能」と酷評されました。いまは?中学生がコンクールで演奏しています。物理的に演奏不能なのではなく、難易度が高いだけだったのです。
 ヴァイオリンのためにかかれている楽譜は、演奏できるはずなのです。
間違った指使いの数字や、ダウン・アップの印刷間違いは良く見かけます。
ひどい例だと「A線で演奏」という指示がありながら、A戦では演奏できない低い音が書いてあったり(笑)調弦を下げろと?こんな間違いはあり得ます。
 生徒さんに良く見受けられるのが、指使いを考えられずに「演奏不能」状態に陥ってやみくれているケースです。自分で「演奏できる指使い」を考えられるようにならないと、楽譜にかかれている音をどうすれば?演奏できるのかが、わからないのは当たり前です。これは経験と知識が必要なのであって「出来ない」のではありません。

 速く演奏できないという「出来ない訴え」が生徒さんの中でトップ10に入ります。ゆっくりなら演奏できるのに、ある速さを超えると、音がかすれたりピッチが外れたりする現象です。解決する「コツ」は。自分が演奏している運動を、観察することです。
・腕や指の筋肉の緊張が、無意識に強くなったり弱くなったりしいてる場合。
・必要以上の運動を無意識にしている場合。
・右手と左手の同期が出来ていない場合。
多くのケースはこの3つの原因です。それぞれに解決する練習が考えられます。
複数の原因が重なっている場合があります。ひとつずつ原因を探していく「観察」が不可欠です。
そして、一度に複数の原因を解決しようとしないことです。
関連していても、ひとつずつの原因に対して「治療=矯正」をひとつずつ行うことが唯一の解決策です。

 「ビブラートができない」これも多いお悩みです。以前のブログで書きましたが、人によって出来るようになる期間が違います。つまり、できない原因が違うのです。実際にその生徒さんに対して、色々な問診と触診(これ、気を遣うので難しい)をして、生徒さん自身が試してみないと原因が判明しないケースがほとんどです。むしろ、偶然にビブラートが出来るようになってしまう人もいますが、なぜ?どうやって?出来ているのかを言語化できないのが特徴です。
 力が足りない場合と、力が多すぎる場合があります。本人の意識、無意識にかかわらず、ビブラートが出来る「ポイント」を見つけることがコツです。
 なによりも、音の高さを聴き続ける「聴く技術」を高めないと、ビブラートが出来ているのか?どんなビブラートになっているのか?を判別できません。そのためには「平らな音」つまりビブラートをかけずに、均一な音色・音量・ピッチの音を出す練習を「聴きながら」続けることが必要です。

 一番難しい「できない」が、「他の人のようにうまくできない」というものです。この悩み自体が「自己矛盾」していることにまず、気付かないと解決できません。
 自分の演奏を他人と比較しているのは?自分自身です。他人からの比較ではありません。自分で「勝手に思っている比較」なのです。
そもそも比較とは、比較される人やモノ以外の「人」が行うものです。
特に「うまい・へた」という主観的で正解のない比較をすること自体が間違いです。数値化できないものの比較は、あくまでも人の主観で変わるものです。
ましてや自分の演奏を自分で他人と比較するのは、愚の骨頂です。
他人からの評価は甘んじて受け入れるべきですが、自分で他人との比較で思い悩むのは無意味です。

 苦手なことを克服するという意識の中に、すでに思い込みがあるのです。
自分の身体にとって「害」になるものに対して、アレルギー反応が起こりますよね?体質の問題、たとえばアルコール分解酵素の少ない人が多いのが日本人です。その人が無理にお酒を飲めば、アルコールを分解できず苦しむことになります。医学でまだ解明されていない「拒絶反応」がたくさんあります。事実、寒暖差アレルギーや気圧による体調不良は、最近になって「症状」として認知されるようなったばかりで原因は解明されていません。ですから、本当に「できない」ことも事実あるのです。
 思い込みで出来ないと感じることは、結果的に得られる喜びや達成感を、自ら放棄していることにもなります。努力する時間、練習する労力は節約できますが、どちらを取るかはその人次第です。努力して頂上に登りたい「山愛好家」とみているだけで十分!という「平地族」の違いです。
 ぜひ!思い込みから抜け出して、新しい角度から自分の演奏を見つめなおしてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

時を体感する

 映像は、アルボ・ペルト作曲の「シュピーゲル イン シュピーゲル」日本語に訳すと「鏡の中の鏡」というタイトルの曲です。
一定の規則、「常にAで解決する」ではじめは、Aの一音下のGからA。次は一音高いBからA。FGA。CBA。GFEA、BCDA…と常に「対象」の音型で音楽が進む様子が、まさに鏡に映った鏡の映像のように感じます。

 今回のテーマ「時」は、音と同様に目で見ることは出来ません。
音楽を演奏する時、この「時」はとても重要な意味を持っています。
音符や休符の長さは、つまるところ「時間」です。聴いていて速く感じる音楽とは、短い時間演奏される音「短い音」が連続する音楽です。鏡の中の鏡で考えるなら、ピアノは一秒間に3回演奏されるほどの、一定の「長さ」の音符を弾き続けています。一方ヴァイオリンは、2秒または3秒の長さの音を連続して演奏しています。聴いている人には「ゆっくりした音楽」に感じるはずです。

 時間、時刻、時計、時空。時という漢字を含む熟語はたくさんあります。
時間を考える時に、秒、分、時間という単位の他に、日、週、月、年といった長い時間の単位も、何気なく使っています。地球の歴史や天文の話になると、私たちの感覚では理解できないような「長い時間」も出てきます。

 一方で音楽の世界では、全音符の半分の時間=長さが2分音符。2分音符の半分の長さ=時間が4分音符。つまり、秒という単位ではなく、「比率」で音符と休符の「長さの比率」を決めています。比率が決まっているだけで実は「速さ」は決まっていません。速さは通常、基準になる音符=1拍として定める音符の「時間」で決まります。たとえば、4分の3拍子の音楽ならば、基準となる1拍が「四分音符」です。その四分音符の長さを決めることで、音楽の速さ=テンポが決まります。1拍を1秒なら、1分間に60回四分音符という表記で、テンポを表します。4分音符1拍が1秒なら、16分音符のひとつ分の「時間」は?0.25秒。
普通、考えませんね。でも事実としてその時間、演奏しているのです。

 さて、今度は日常生活での時間について考えます。
好きな事をしていると、「時間を忘れる」ことがあります。
一方で、イライラしている時、たとえば病院で呼ばれるのを待っている時などは、時間が長く感じます。同じ速さで、時間が過ぎているはずなのに。
人間の感じる「時間」は案外といい加減なものなのです。
心臓の鼓動「心拍」は、運動したり驚くと速くなります。逆にゆっくりなるのは「眠っている時」です。一日が長く感じたり、一週間が短く感じたり、1年が…感じ方は、その時々で変化します。

 楽器の練習をしていて、時間を忘れることがありますか?(笑)
子供は正直ですから、飽きるとすぐに練習をやめるものです。「疲れた」「手が痛い」「足が痛い(謎)」色々理由をつけて、練習をやめようとします。親は「30分、頑張る約束でしょ!」と鞭をふるい、「頑張ったらおやつをあげるから!」と飴をだしながら。練習の内容と時間は、「必要な」という冠言葉を付けないと意味がありません。必要な練習時間は、練習したい内容によって変わります。長ければ良いというものではありません。

 コンサートの時間について、感じることがあります。
なぜ?多くのコンサートが開演から終演までが「約2時間」なのでしょうね?
開場時間は、開演時間の30分前というのがほとんど。
休憩時間は15~20分が多いですよね。
これ。誰が決めたんでしょう?考えたこと、ありませんか?
 映画は大体2時間。途中に休憩はないのが普通です。映画館でドリンクを飲みながらポップコーンを食べながら過ごす時間は「至福の時」ですがなぜ?2時間なのでしょう。
 昔なら、映画上映のフィルムの長さに決まりがありました。ニューシネマパラダイスを思い出します。映画の途中でフィルムを入れ替えるシーンがありました。
 レコード全盛だった時代、30センチLPの片面の収録時間に制限がありました。途中で音楽が切れて、裏面にひっくり返して続きを聴きました。
カセットテープには、色々な長さのテープがありました。
30分(もっと短いものもありましたが)だと、片面15分録音できました。
45分。60分。90分。120分のテープはテープの厚さが薄くて、伸びてしまったり切れてしまう事故がありました。
 さて、コンサートの時間はどうして?

 演奏する人の体力と集中力だけで、コンサートの長さを決めますか?
聴く人の体力も考えることも大切だと思います。もちろん、演奏時間や上演時間を、内容を理解した上で来場する人なら、たとえ4時間かっかる演奏会でも喜んで聴くのは理解できます。映画なら「上映時間」が必ず書かれています。
 人間の感じる「長い時間」はどのくらいなのでしょうか?
テレビ番組で考えると、15分に一度くらいコマーシャルが入ります。
その昔、野球中継をテレビで見ていてコマーシャルの間に、トイレに行った記憶があります。私だけ?ゲバゲバ90分という番組が流行したとき、90分の番組がいか珍しかったか思い出します。
 自宅ではなく、会場に出かけていくのにかかる「時間」もあります。
片道1時間かけてコンサート会場に行って、30分の演奏だとちょっと…という感覚はありますよね?満足感と「時間」のバランスは、とても微妙です。

 作品自体が長い場合、演奏者にはどうすることもできません。
作品の一部だけを演奏することは、作者に申し訳ない気持ちもあります。
ソナタやコンチェルトを全楽章、演奏するのが作曲家への敬意だとも思います。
映画やドラマの「抜粋」と近いものです。それでも楽しめる人はいます。
マーラーやブルックナーの音楽を聴くのが、好きな人と我慢できない人に分かれます。好みの問題、価値観の違いですからどちらも正しいと思います。
どちらかの考え方で「理解できない人が劣っている」とか逆に「時間の無駄だ」と公言するのは、いかがなものかと思います。激辛ラーメンの好きな人も嫌いな人もいるのですから。

 音楽は「時間」の中で存在する芸術です。もちろん「空気=空間」も必要ですが。
絵画の場合には、時間という概念がなくても美しい芸術です。音楽をマラソンのように、休みなく音を出し続けることが目的の「スポーツ」のように扱うのは間違いです。

 聴く人が時を忘れ、楽しめる「空間」が音楽です。
時間が長く感じるのは、肉体的な疲労と精神的な疲労の両面が関わっています。
 心地よい時間を演出するのが音楽会のあるべき姿だと思います。

音楽を学ぶための音楽は、音楽の本質ではないと思います。
その時間のために、練習する時間を必要とします。音楽の音符や休符に使われる時間を大切にすることから音楽を考えると、私たちが感じる「時」を大切に感じることが出来ると考えています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

学校オーケストラ

 国内の中学校・高等学校での部活動オーケストラで楽器を楽しむ子供たちと、趣味で楽器を演奏する子供・大人との共通点、相違点を考えます。
上の動画はどちらも、私が20代から40代まで勤務していた私立中・高の部活動オーケストラ、定期演奏会の映像です。場所は横浜みなとみらい大ホールです。
二つの映像は実施年が一年違いますが、どちらが先か?わかる人はいないと思います。(実際に演奏した元生徒以外は)
 総勢150名という大所帯のオーケストラですが、開校当初は11名でした。20年かけてこの規模に育ちました。
 練習は週に一回の合奏。後は生徒の自主的な練習です。下校時間は中学生午後4時30分。高校生が午後5時でした。外部からの実技指導者を呼ぶことは、基本的に許されていませんでしたが、退職数年前からは数名の指導者を呼べるようになりました。
 要するに、「普通の部活動」の範囲内で活動してきた「普通の部活動」だったと断言できます。「いや。普通じゃない」「楽器は?」「演奏会の費用は?」など、様々な疑問があると思います。もちろん、それらの「壁」がありました。それを一つずつ乗り越え続けた結果の映像です。
当然ですが、こうした活動には「反対意見」が付いてきます。
部活動は学校教育の一部です。私立ならではの「制約」があります。
学校経営者や管理職の意向に逆らえば「即、くび」になります。
「部活動とは!」という概念さえ、管理職の思った通りになるのが私立です。
その中で子供たちのオーケストラを育てることは、常に管理職との闘いの日々でした。

 さて、音楽の話をします。学校で練習できる生徒たちは、朝、昼休み、放課後の中で、自分の都合のよい時間で、練習することができます。もちろん、顧問教員が校内にいることと、登校時間、下校時間の制約の中でです。
 生徒によって、練習できる時間には差があります。登下校に時間のかかる生徒、塾などに通うう生徒、ほかの部活と「兼部=掛け持ち」している生徒など、事情は様々です。週に一度の合奏だけは、「可能な限り」参加することを求めました。合奏に参加できない生徒にも、参加する権利がありました。
 ほとんどの生徒は4月に入学した時点では、楽器未経験者です。中にはピアノを習って「いる」または「いた」という生徒も、ちらほらいましたが多くの生徒は楽譜を読むのも危なっかしい、ごく普通の子供でした。
 それらの生徒がオーケストラに憧れ、または在校生の部員に勧誘されてオーケストラのメンバーになります。当然、楽器も持っていません。
 開港当初は、学校に少しずつ購入してもらった楽器で練習していました。
学校取引業者から、一番安いほうから「2番目」レベルの楽器を買いそろえました。ヴァイオリンで言えば、当初はセットで7万円程度のものでした。
やがて、部員が多くなり「過ぎて」学校の備品で賄いきれない人数の部員になるころ、開校から10年以上経っても開校時の楽器は、十分に使用できる程度の「維持管理=メンテナンス」をしていましたが、備品の数が足りません。
 そのころになると、多くの生徒が自分の楽器、つまり「親が買ってくれた楽器」を持つようになりました。当然、保護者の理解がなければ、10万円程度の楽器を購入してくれるはずはありません。ちなみに、楽器の個人購入は、入部の条件ではありません。学校の楽器だけで活動したいという生徒には、学校の楽器を使用してもらいました。

 学校以外で趣味の楽器演奏の場合、教室の楽器を「レンタル」で練習する生徒さんもいますし、それおぞれのお財布に合わせた金額で、楽器を購入する生徒さんもいます。その点で、部活動と同じです。
 練習できる時間も、人によって違うことが共通しています。
「合奏」があるヴァイオリン教室は少ないですね。
相違点はそれだけでしょうか?

 部活動の場合、新入生を教えるのは「先輩」ですから、いわば素人です。つまり、「素人が素人に素人のできる技術を教える」のですから、間違った演奏技術、練習方法で教えることがほとんどです。
 さらに悪いのは、合奏を指導する人=多くの場合顧問が「素人」である場合です。
誤解されそうなので、ここで言う「素人」には、2種類の意味を持っています。
・楽器演奏を上達させる指導の「素人」
・学校教育の目的を理解できない「素人」
です。前者の場合、どう練習すれば上達するのかを知らずに指導する人です。
後者の素人は、教育活動の範囲を超えて、やみくもに技術向上に走る人です。
どちらも、学校部活動の指導者としては、不適任です。
学校で音楽系の部活動を指導するのであれば、教諭=学校教育の専門家と、プロの演奏家=音楽指導の専門家で「ペア」を組むことで解決できます。

 学校外の「音楽教室」で教えているのが「専門家」だと思われがちですが、
実際のところ先述の「先輩」程度の人=「趣味で演奏できる人」が、生徒さんからお金をもらって教えている場合が見受けられます。
 そもそも「音楽指導者」という資格は存在しません。学校の教諭には当然、国家資格が必要です。もっと言えば「音楽家」という資格も存在しません。
これまた誤解されそうですが、音楽大学を卒業した人を音楽家と言っているわけではありません。

 ご存じの通り、ン 五嶋龍さんは「音楽大学」卒業ではありませんが、世界的な素晴らしいヴァイオリニストですから。むしろ、音楽大学を卒業していても、専門技術、ましてや指導技術の乏しい卒業生も多いのですから「音楽教室は音大卒業生が教えなければならない」とは思いません。
「教えられる技術があるかないか?」です。

 最後に、「モチベーション」について。

この動画は、先述の部活動オーケストラ定期演奏会、最後の一コマです。
引退する高校生と、それを同じ舞台で見送る後輩の中学生・高校生。
一種の卒業セレモニーですが、この生徒たちの涙は純粋な涙です。
入部したばかりの中学1年生も同じ舞台に立って先輩の後ろ姿を見ています。
客席には、この生徒たちにあこがれる「未来の部員」がたくさん見ています。
「あの舞台に立ちたい」「一緒に演奏したい」と入学試験を受ける受験生が多くなったのもこの時期です。学校は「あえて」その事実を隠しましたが(笑)
楽器をひきたいというだけの気持ちの先にある「夢」がモチベーションです。
子供であれ、高齢者であれ、自分の夢のひとつに「あんな風にヴァイオリンをひけたら」という夢があっても良いと思うのです。
 プロの演奏家を見て「あんな風に」とはなかなか思えません。
ところが、部活動だと?同じ年齢に近い人たちが「目標」になるのですから、この違いは、ものすごく大きいのです。
 音楽教室でコンクールを積極的に受けさせる先生も多いのですが、目的はこれでしょうね。生徒の「モチベーション」を維持させるための手段。もちろん、技術向上や自分の技術のレベルを知るためにもコンペディションを受けることは無意味だとは思いません。
 ちなみに、部活動内でモチベーションを高めるために私がしていた指導の一つは、「演奏したいポジションを公開オーディションで決める」という方法です。最終的なポジションは、指揮者であり顧問だった私の一存で決めていましたが、他の部員も見ている中で、自分が演奏したい「席」に、抽選で座っているたの部員に対して「挑戦」します。挑戦された側は公開のオーディションを受けるか、自ら引き下がって挑戦してきた人の席に移動することを選びます。一種の「下剋上」です。うしろに下がるための「挑戦」は認められません。これも、生徒たちにとって、「やりがい」にもなり「緊張感」にもつながる方法でした。
 どんなコンクールを受けるより、自分たちの仲間をライバルにすることが何よりも大切な緊張感だと思っていました。
 趣味で演奏するひとたちに。
まず!自分の先生の演奏を「目標」にしてください。
指導者は生徒が自分より、じょうずになること=じょうずにすることが目的なのです。生徒の立場で「先生を目指すなんて失礼」だと勘違いする人がいますが、先生を目標にしないことの方が、よほど失礼ではないでしょうか?
先生の前で「〇〇さんの演奏って、先生より素敵」!」って言えます?(笑)
先生の技を盗む。先生の演奏を真似る。先生が弾いている時に観察する。
それが最大の「モチベーション」につながると考えています。
私はレッスン中に、生徒さんと一緒に演奏することがよくあります。
この方法は「希少」らしいのですが、一緒に弾くことで生徒さんが感じられるものがたくさんあります。
百聞は一見に如かず
と言いますが、
百言は一音に如かず
だと思っています。言葉で言うより、弾いて感じさせるレッスン。
ひとりても多くの人に、長く楽器演奏を楽しんでもらいたいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏中に考えること

 動画は世界的なフルーティスト「エマニュエル・パユ」が語る素敵なお話です。今回のテーマは、他人からは見えない「演奏中に考えていること」です。

 ヴァイオリンを練習する生徒さんたち、特に大人の生徒さんが陥りやすい「本番になるとうまく演奏できない」というネガティブな思い込みがあります。
また、本番に限らず練習中に、なにを考えながら演奏すれば上達できるのか?という問題があります。
 人それぞれ、演奏中に考えていることは違います。同じ人、例えば私の場合は同じ曲を弾いている時でも、恐らく違うことを考えています。ですから「正解」を出すことは不可能ですが、多くの生徒さんに聞いていくうちに、あるパターンを見つけました。

 初めて練習する曲の場合、当然ですが楽譜を音にすることに集中します。楽譜を使わないで練習する人の場合は、音を探すことに集中します。この段階で、音色に集中している生徒さんは、ほとんどいません。仕方のないことですし、順序で言えば間違っていません。

 その次の段階で何を考えているでしょう?多くの生徒さんが「間違えないこと」を考えます。うまく演奏できない部分を繰り返し練習するのが一般的です。
その時にも「間違えない」とか「失敗しない」ことを考えています。
ここからが問題なのです。

 ひとつには、うまく弾けない原因を「考える」事を忘れがちです。
さらに、同弾きたいのか?を試すことが必要です。陥りやすいのが「繰り返していればいつか弾けるようになる」という思い込みです。確かに、繰り返す練習は必要ですが「どう弾きたい?」を探さずに繰り返しているうちに、ただ運動だけで間違えないようにする練習をしてる場合がほとんどです。
 練習で思ったように演奏できるようにすることは、言い換えれば自分が今、どう弾いていてそれをどうしたいのか?という根本がなければ、うまく弾けない原因も見つけられないのです。初めから「こう弾きたい」というレベルではない!と思う人も多いのですが、思ったように演奏できない原因を探すために、現状を分析することに集中すれば、自然に自分の弾きたい「速さ」や「音色」や「音量」を考えることになります。

 体調がすぐれない時、お医者さんに自分の病状を伝えますよね。
身体のどの辺りが、どう痛いとか。その症状から医師が原因を推測するために、さらに検査をします。そして出された「病因」を解決するための治療や処方をするのが「順序」です。病状がわからないと、治療には結び付きません。

 ヴァイオリンを演奏しながら、なにを考えていますか?何に集中していることが多いですか?無意識にただヴァイオリンを演奏し続けていないでしょうか?
本番で、過緊張にならないために自分を信じることができ、考えなくても自然に自分の弾きたい演奏ができる「理想」を持つのであれば、練習中には考えることが必要だと思います。次第に、考えなくても「思った通り」の演奏が自動的に出来るようになるプロセスが必要です。勉強をまったくしないで「私は東大にいきます」と思って受験しても受かりませんよね?偶然を待つのは間違いです。失敗するのも、うまくいくのも「偶然」で片づけるのは簡単ですが、努力する段階で「偶然」を期待するのは間違いです。

 私は練習中に、自分が思った通りの演奏をしている「イメージ」を作ることに努力しています。そのために、一音ずつの「理想」と「現実」を常にチェックします。本当はどんな風に演奏したいのか。今、どんな音で演奏していたか?どうすれば…弓の場所、圧力、速度、ビブラートなどをコントロールすれば出来るのか?を考えます。考えて「これかな?」と推測した演奏方法で繰り返します。違えば修正して、また繰り返します。そのイメージを頭に作ります。右手の動き、弓の動き、左手の動き、音の高さ、音色、音量を「ひとつのイメージ」にまとめる練習を繰り返します。一度に複数の事に集中することは不可能です。
「ひとつのイメージ」になれば、それを思い描き、再現することに集中することは可能です。

 音の高さだけに固執しない。弓の使い方掛けにも固執しない。
自分の「理想」をイメージするための長い道のりですが、結局のところ「思ったように演奏できた」と言えるのは「思っていなければできない」という事なのです。音の高さだけを、間違えないで演奏できてもダメですよね?いくら、良い音でも音の高さが外れていたら、これもダメですよね?それらを「合体」させたイメージを作るために、常に音に集中して練習することをお勧めします。
自分の演奏する「音」にすべての答えがあるのですから。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?初心者向けの曲が少ない?ヴァイオリン

 映像は、エドワード・エルガーの作曲した「6つのやさしい小品」という曲です。エルガーはイギリスの第二国家とも呼ばれる「威風堂々」や、「愛の挨拶」を作曲した人です。
 この曲は、1曲目から6曲目まで、すべてを「ファースト(第一)ポジション」で演奏できるように書かれています。と言うよりも、ファーストポジションしか演奏できない初心者が練習すRために作られていると言っても過言ではありません。初心者の…と言っても、音楽として考えると、とても素敵な音楽だと思いませんか?それぞれの曲は、数分で弾き終わる長さで、小節数から考えてもそれぞれ、長くても数十小節で終わります。
 最初の曲は、ほとんどの音符が四分音符で、臨時記号も数箇所だけで、あとの「幹音(CDEFGAHの白い鍵盤の音)だけで書かれています。
すべての曲が、それぞれに「目的」を持っているように感じます。
リズムと弓の配分、スタッカート、スラー、長調と短調など、ヴァイオリンの初心者に「技術」を意識せずに「音楽」として練習できる「楽曲」として完成しています。

 上の2曲は私たちのリサイタルで演奏されることの多い「歌」をピアノとヴィオラで演奏したものの一部です。ふるさと、瑠璃色の地球。
どちらも、素敵な旋律=メロディーと、これまた素的ピアノの和声=和音で作られています。特に、ピアノの「アレンジ」が歌を演奏する時の大切な要素になります。当たり前ですが、ヴィオラで「歌詞」は演奏できませんが、歌詞を意識して演奏しています。

 最後に、初心者ヴァイオリン奏者の、技術向上を目的にした「音楽」が少ない理由について考えます。
 練習用の「練習曲=エチュード」と「音階教本」は何種類も、販売されています。特に、左手の指を独立させて動かす「運動」を分類した練習用の楽譜、例えば「シラディック」や「セブシック」と言うタイトルの練習楽譜が主に使用されます。その中でも、ポジション練習のための「作品=巻」のように、特定の技術習得に特化した楽譜です。
 一方で、「カイザー」や「クロイツェル」「フィロリロ」など、練習用の「独自の音楽」を徐々に難易度を高くしながら練習できる「練習曲集」があります。
国内だと「新しいヴァイオリン教本」や「鈴木メソード」、「篠崎ヴァイオリン教本」などがすぐに手に入ります。ただ、収録されている音楽は、ヴァイオリンの技術向上を目的にした音楽ではなく、「演奏できるようになったら楽しい」という程度の段階で、曲が並べられています。特に巻が進むにつれ、有名な既成の協奏曲の一部や、小品がそのまま収録されているだけです。オリジナルの曲はほとんど入っていないのが現状です。

 音階の教本は「カール・フレッシュ音階教本」が、音階練習の「バイブル」ともいえる集大成です。すべての調で、ありとあらゆる「音階とアルペジオ」の楽譜が書かれています。一生かけて練習するための「経典」に近い?(笑)
簡単な音階の教本もありますが、本当の意味で音階を練習したいのなら、このカール・フレッシュを練習するしかありません。

 ヴァイオリン初心者に向けた音楽が少ない理由は、とても簡単です。
「作曲されていないのです。」
なぜ?世界中の作曲家たちが、ヴァイオリン初心者のための曲集を書かなかったのか?昔から、ヴァイオリンを教える先生、教わる生徒がいました。昔から「天才ヴァイオリニスト」と呼ばれる名手がいました。みんな最初は「初心者」でした。そしてみんな習ったのです。その時になんの曲を?どんな曲を練習したのか?記録がありません。ただ言えることは「楽譜を読む技術」は別のレッスンで身に着けて、ヴァイオリンの演奏技術だけを習うために「特定の音楽」がなくても練習できたということが言えます。
 ヴァイオリンの演奏技術は「ピッチの正確さ」と「ボウイングの技術」に集約されます。指導者によって、指導のプロセスが全く違います。ある先生は、ひたすら開放弦だけを練習させます。ある先生は、音階だけを練習させます。また違う先生は、持ちきれないほどの教本を買わせて練習させます。どれが正しいとは言えません。
私は「生徒の技術と知識、年齢と目的によって」指導方法を変えます。教本も変えます。楽譜の読めない生徒さん、読めなくても良いから演奏したい生徒さんなど様々です。その生徒さんに応じて、指導方法を変える「引き出し」を持つことが指導者の技術だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介